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    番外 大山街道を歩く編 其の二(三軒茶屋~高津)
    平成二十三年六月十一日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2011.6.19

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     朝から雨が降っているが、予報では午後には止むことになっているので、傘は折り畳みにした。川越市駅で慣れない副都心線に乗り換えたものだから、渋谷駅では少し迷ってしまった。それでなくても渋谷は私にはあまり分かりやすくない駅だ。
     第二回目の今日は、前回の到達点三軒茶屋駅からの出発だ。集まったのは、リーダーのあんみつ姫、小野中将、本庄小町、ロダン、碁聖、スナフキン、マリー、ダンディ、講釈師、ヨッシー、蜻蛉の十一人だ。中将と小町は湘南新宿ラインで渋谷に来たそうだから、乗り換えは大変だったろう。渋谷駅と言ってもほとんど一駅近く離れているのだからね。
     「雨のせいかな、少ないね。」ドクトルも桃太郎もハイジもカズちゃんもいない。宗匠はまた何かを勉強しているのだろうか。「私がどんなに晴れ女でも、やっぱり雨降山の威力には勝てません。でも午後には絶対晴れにしてみせます。」
     「暦の上じゃ今日が入梅なんだよ。」講釈師も本当のことを言うことがある。旧暦五月十日。雑節で入梅である。しかし今年は先月の二十七日に既に梅雨に入ってしまった。雑節とは、五節句、二十四節気以外に季節の移り変わりの目安となる日のことで、節分・彼岸・社日・八十八夜・入梅・半夏生・土用・二百十日・二百二十日がある。社日(シャニチ)とは初めて聞く言葉だ。ウィキペディアによれば、産土神を祀る日で春分または秋分に最も近い戊の日である。
     お馴染みになった大山道標からは、世田谷通りを行く旧道(登戸道)と、玉川通りを行く新道(二子道)とに分かれる。旧道の方は平成二十一年九月の番外編「サザエさん一行世田谷を歩く編」で、ボロ市通りや世田谷代官屋敷を見ているし、第十七回「豪徳寺・三軒茶屋・駒場編」でも松陰神社、豪徳寺に立ち寄っている。だから姫の選んだのは新道である。文化文政の頃に開通したと言われる。

     三軒茶屋(田中屋・信楽・角屋)を表す紙芝居のような(立体写真)案内を見てから歩き始めたが、玉川通りは人が一杯で傘をさしていると歩き難い。中里通りへ逸れて国道と別れると少しほっとする。小さな飲み屋が散在する商店街だ。
     「あれ見ろよ。」「なんだ、すごいね。」細長い三角の角地に間口は僅かに半間、奥行き二間、奥の幅も二間もないような小さな店が建っているのだ。「飲み屋だろうね。」屋根の上には「酒処じゅんこ」の看板があった。こんな三坪もないような小さな店でじゅんこさんが頑張っている。演歌の舞台になりそうな店ではないか。
     「おかしいですね、その辺に曲がり角はありませんか。」リーダーは最初から道が分からなくなってしまったらしい。「変ですよね」と言いながら先に行く。最後尾から歩いて行くと右手に小さな神社が見えた。伊勢丸稲荷大明神である。姫の案内文では、最初に立ち寄ることになっていたのではないか。しかし姫はどんどん先に行ってしまうので、私とスナフキンだけが境内を覗いていると、姫が引き返してきた。「この辺にある筈なんですよ。」「ここじゃないの。」「アッ、そうでした。」世田谷区上馬一丁目。

     稲荷神ビルに埋もれる五月雨  蜻蛉

     稲荷の癖に稲荷鳥居(台輪鳥居)ではなく、石造りの神明鳥居になっているのは、「伊勢丸」の名前と関係があるのだろうか。狭い境内の奥には、三段のコンクリートの台座に真っ赤に塗られた小さな祠が載せられている。台座の上には狐ではなく、二十センチほどの狛犬(唐獅子型)が置かれているのだが、なんだか置物のようで不思議な感じがする。触ってみると、ただ置いてあるだけで簡単に動く。石で出来た少し大型の文鎮と言ってもよいだろうか。こんなものだと盗まれてしまいはせぬかと心配になる。
     ブロック塀の脇には「大山道」と黒く書かれた丸石が据えてある。文字の感じや石の具合から判断すると割に新しいものだろう。

    徳川幕府の始頃より上馬弐百拾八番地赤松群生の間に稲荷の小祠ありき。廣尾祥雲寺の所有地故祥雲寺稲荷と俗称し中馬引澤村民持ちにて天下泰平五穀豊穣子孫長久を信仰功徳の標幟とす。中馬引澤は即ち今三軒茶屋部落也。當社の起源は他の村民持稲荷と同様戦国末頃より家祖を祀れる内官が部落持に推移せる也。(後略)

     何度か移転を繰り返して現在地に至ったものらしい。ここで、「上馬」「中馬引澤村」の地名が出てきたので調べてみた。私は世田谷の辺りはとんと不案内で、位置関係も良く分かっていない。もともとこの辺りは「馬引澤村」であり、そこに上下を付けて上馬、下馬と略して現在の地名になった。中馬の大部分は上馬に吸収されてしまったようだ。
     『江戸名所図会』では「馬牽沢」と表記されている。伝説によれば、源頼朝が奥州藤原氏を討伐に向かう途中、蛇崩川沿いの沢地で乗馬が深みに落ちて死んでしまった。このため頼朝は「馬を引いて渡れ」と命じたと言い、これが馬引澤の地名由来になっている。こんなことは信じなくてもよいが、川が蛇行する湿地帯だったろうと想像する。また「駒沢」の地名もこれに由来していて、「馬引澤」から「引」を外し、「馬」を「駒」に変えたのである。
     目の前の、五叉路か七叉路かちょっと迷う道が蛇崩川緑道だった。ジャクズレガワと読む。右手はマンションと民家の間の狭い道で、左は道路に沿った歩道になっている。蛇崩川は馬事公苑付近を源流として、中目黒付近で目黒川に合流する。ほぼ全域が暗渠化されてしまった川だ。
     大山道の旧道(登戸道)はこの川を避けるために北側の尾根道を通ったらしいが、橋を造って近道ができたのだ。姫の案内では、蛇崩川の由来は「砂利が崩れる」という意味である。砂利混じりの土地を川が蛇行して崩れやすい地形だった。あるいは崖が崩れて大蛇が出てきたなんていう話もある。
     明薬通りを越えた辺りからは、所々に、木刀を担いだ男を描いた大山街道の赤いシールが貼られている。木刀は冗談で担いでいるわけではなく、石尊権現に奉納する「納め太刀」である。「大山石尊大権現大天狗子天狗所願成就」の銘を入れる。

    大山の特殊信仰 当社古来からの特殊信仰に「納太刀」の慣習があり、昔源頼朝公が在国の霊社として崇敬の誠を捧げられて、毎年一度佩刀を当社の大前に供え、武運長久、諸災祓除の祈祷を修せられ、之を護身の太刀とせられたのに始まったもので爾来これにならって、一般の人々にこの慣習が伝わり、毎年登拝の折には木太刀を納めて、社頭に於て家運隆昌、諸災祓除の祈祷を受ける様になり、その木太刀を拝受して自家の神棚に奉斉し朝夕神徳を仰いでその翌年登拝の際新旧を交納し、専ら諸願成就報賽の至誠を捧げたのである。http://www.geocities.jp/engisiki02/sagami/bun/sag160304-01.html

     街路灯にはヴェルディのフラッグに中里通り商店街と書かれたペナントが飾られている。私はサッカーに詳しくないので、何故こんなところにあるのか分からない。
     「あれ見てよ。」店構えは新しくても、看板だけがやけに古い店が目に付いた。金色の文字がやや錆びてしまった看板が、新しい建物と不思議な調和をなしている。和菓子の玉川屋だ。創業六十余年というから戦後すぐから続いているのだ。あんみつ姫は気付かなかったようで幸いだった。私は勿論食べないが、お勧めは「紫陽花」(こし餡を求肥で包み、錦玉の花びらを一枚一枚あしらいました)、「牡丹」・「清流」(抹茶と胡麻の二つの風味の練切の石を、錦玉の川底に沈めました。水面には鮎がたわむれる夏らしいお菓子です)になっている。(http://www.wagashi.or.jp/tokyo_link/shop/2205.htmより)

     五月雨や眼閉ざして菓子屋過ぐ  蜻蛉

     姫が立ち止ったのは、道路脇の空き地に置かれている小さな祠だ。「こうしてちゃんと大事にしているんですよ」と姫は言うが、御神輿が直接地面に置かれたような格好だから、なんだか捨てられているようにも見えてしまう。前面はガラスになっていて、曇った中を覗くと小さな狐が並んでいるようだ。コンクリートブロック一枚を敷いているとは言え、地面に直接置いているのとほとんど同じだから曇るのは当たり前だ。私は罰当たりにも留め金を外して、そのガラスを押し上げて内部を覗きこみ、写真まで撮ってしまった。小さな神棚の前に、人形のようなキツネが何匹も置かれている。つまり稲荷なので、花も供えてあるから世話する人がいるに違いない。しかし鳥居も作らず、ただ小さな祠を地面に置いているのはどうしたものだろうか。
     「銭湯がありますよ。」唐破風の構えの堂々たる建物だ。マンション脇に地蔵尊が祀られているのを見ながら進むと、やがて玉川通りに合流する。
     「GLARSA駒沢大学」のプレートをはめ込んだビルがある。更にしばらく行くと環七通りの角に今度は「Aden駒沢大学」という建物が建っている。「駒沢大学の学生寮でしょうか。」「民間マンションじゃないの。」「それだったら大学が名前の使用を許す筈ないよ。」女子学生らしいのが一人入って行ったので入口を覗いてみると、(こういう仕業は怪しまれるからやらない方が良い)郵便受けが見えるだけだ。実は大学には何の関係もない。駒沢大学駅から徒歩五分を売り物にする賃貸マンションであった。

     梅雨空にマンション覗く不埒者  蜻蛉

     環七の交差点を過ぎると曹洞宗八幡山宗圓寺に着く。世田谷区上馬三丁目六番八号。

    開基は心覚宗円大庵主北条左近太郎入道成願で、文保元年(一三一七)十月二十三日寂した。当時は若宮八幡宮の別当寺であった。本尊は釈迦如来坐像、創立当時は小さな草庵であったが、寛永十年(一六三三)喜山正存和尚が中興した。
    境内に木像の「しょうづかの婆様」の小堂がある。江戸時代初期の頃からまつられたもので、疫病よけに霊験あらたかであるといわれている。(案内板より)

     北条左近太郎は、この辺り一円の地頭であったようだ。徳治三年(一三〇八)には駒留八幡神社を勧請している。案内板にある「若宮八幡宮」とはそれのことだろう。山号の「八幡山」はそれに由来するに違いない。ところで、さっき馬引澤地名の由来を書いたが、その話の主人公は頼朝ではなく北条左近太郎だったという説もあるようだ。
     入口には「旭小学校発祥之地」の石碑が建つ。世田谷区立旭小学校の沿革を見ると、明治十三年の創立だから、その時はこの境内に始まったのだろう。
     山門を潜ると左脇に大小二つの堂が並んでいる。「しょうづかの婆様」はどちらだろう。「こっちの大きい方らしいです」と姫がガイドブックを見ながら確認する。しかし格子を覗きこんでも、磨りガラスの中に婆さんの像は一向に見えない。開帳する時以外は見せない積りなのだろう。
     「しょうづかの婆様」とは奪衣婆のことだ。奪衣婆と言えば三途の川の婆であるが、それがショウヅカと呼ばれるにはどういう訳があるのか。「三途の川」は地蔵十王経の「葬頭河(ソウヅカ)」の訛りとされる説がある。これによれば本来は葬頭河の婆であり、ソウヅガからショウヅカへと転訛したのである。職業(と言うだろうか)からすれば奪衣婆であり、棲み家によって「しょうづかの婆」と呼ばれると理解すればよいだろうか。
     しかし一方「三途の川」は、地獄・餓鬼・畜生道を「三途」(三悪道)と言うことから来たという説もあり、これは葬頭河説とは別の考え方になる。仏教と言うか、道教や神道と習合した中世日本の民間信仰は実に分かり難い。
     明暦四年(一六五八)の銘が辛うじて判読できる庚申塔は、三猿の上の部分には文字が彫られているだけだから講釈師の登場する余地がない。摩耗が激しくて文字はまるで読めないが、三猿だけの庚申塔というのは今まで見たことがなかった(と思う)。しかし、実は特に珍しいものではないと分かった。様式的には、青面金剛像が普及する前の段階のもので、山王信仰による猿が三猿に変化して庚申信仰の対象とされたものであるらしい。

    そこで、ではなぜ三猿は庚申の礼拝対象とされたのかといえば、それは三尸との関係にほかならない。つまり、人の悪事を天帝に告げる三尸を三猿になぞらえ、その報告を喰いとめようという意図によって着想された習俗である。『東海道名所記』には「猿をば人にたとえ、三尸虫になぞらえて庚申の神としたと申す人もあると述べ『真俗仏事編』には「三猿は此三尸虫を形ル乎」とある。
     三猿が庚申の礼拝対象とされたのは、このような理由によるものである。ともあれ、庚申の日に三猿を礼拝すれば三尸の害は除かれ、長生が得られるという発想により、三猿と庚申は結びつき礼拝対象となり、三猿型庚申塔が造立されるようになったのである。
     しかし、やがてこの三猿も、青面金剛が庚申の正本尊とされてくると、その明王の足の下で従者のようになり、その図柄が全国的に普及するのである。(小花波平六「庚申信仰礼拝対象の変遷」(『庚申信仰』所収)

     たまたま図書館からこの本を借りていたところだったので、こんなことを知るのである。その他にも青面金剛以前には、北斗七星や阿弥陀仏、観音菩薩なども庚申の神として祀られた。帝釈天が祀られるのは、三尸の報告を受けて判定する天帝を帝釈天と解釈したものだし、猿田彦が祀られるのは道祖神との習合と山崎闇斎の垂加神道の影響だ。
     そして鶏が描かれる理由も今頃になって漸く分かった。十二支で申の次に来るのが酉である。つまり申の日から酉の日まで眠らずに過ごすことを意味していたのだ。
     狭い境内なのに高さ五十センチほどの可愛らしい石像が飛び飛びに置かれている。「七福神じゃないか。」講釈師の言葉で見直してみれば確かにそうだ。恵比寿、毘沙門、大黒、布袋が確認できた。
     雨は止まず、傘をさして人を避けながら黙々と歩いていると話も余り弾まない。先導する姫は駒沢大学の大学会館の所から左に曲がって脇道に入る。「少し静かな道を歩きたいですからね。」
     しかしその道は駒沢交差点ですぐに玉川通りに合流する。信号を渡って今度は右側を行く。コンクリートブロックで壁を作りトタン屋根を載せた祠には、焼け爛れたような庚申塔が二基並び、上からは庚申尊と書かれた赤い提灯が二つ下がっている。この焦げ方は空襲によるものだろうか。右の庚申塔は青面金剛の姿がまるで残らず、ただ一本の棒のように見えるまで変形してしまっていて、左の方はおぼろげながら形が判明する。
     脇には「庚申様」の標柱が建っていて、「これって珍しいんじゃないでしょうか。私は見たことがない」と碁聖が不思議そうに言う。私も実際には初めて見るが、青面金剛が庚申様、あるいは庚申さんと呼ばれたことは知っていた。「だけど、こんな所にわざわざ書かなくても良いじゃないですか」とダンディが笑う。

     新町一丁目の手前で右に曲がり、住宅の間の細い道に入って行くと駒沢緑石公園に突き当たる。この雨の中、公園の中を散策するのではなく、入口前の空き地のトイレで休憩するのが姫の目論見であった。二人ほどがトイレに向かったところに、ちょうど来合わせた男性が「そこを左に出たところに地区会館があって、トイレが借りられますよ」と親切に教えてくれた。
     しかし、教えてくれた通りに空き地を出てしまうとそんなものは見当たらない。ロダンがずいぶん先の方まで偵察に出たところで、後方から「バック、バック」の声がかかった。
     出て左ではなく、地区会館はすぐ右にあったのである。世田谷区駒沢三丁目十三番五号。新しく綺麗な建物だ。事務室では男女の係員が二人で暇そうにしている。「世田谷もこの辺だと、こんなに綺麗な会館がある。烏山の方はないんですよ。」北烏山の住人である碁聖が女性の係員にこぼしていると、「烏山にもありますよ」と答えられた。「だって、こんなに綺麗じゃないもん。」
     ズボンがびっしょり濡れてしまったスナフキンはスパッツを装着する。「私もお父さんも持ってきたけどね。」小町が「街中を歩くのにそんなものつけちゃ、怒られちゃうと思ってさ」と笑う。「今頃つけても手遅れだけどね。」
     暫く休憩して会館を出ると、入り口に「品川用水路跡」の石柱が立っているのに気付いた。品川用水と言うのは玉川用水から分水して品川まで、七里半ほどの水路である。但し今ではほとんどが埋め立てられてしまっている。
     寛文三年(一六六三)、玉川上水から仙川へ通されていた水路を新川宿から分水し、戸越上水として通したのが品川用水の前身にあたる。品川領戸越・蛇窪両村入会地にある抱屋敷の泉池用水として、熊本藩主細川綱利の弟、若狭守利重が開削したものだ。ところが何故か、細川家は寛文六年に戸越上水を廃止した。そして寛文九年、幕府が費用を出して旧戸越上水の堀浚いと第一次拡張工事を行う。これに伴って彦根藩世田谷領では、世田谷村一ヶ所・用賀村二ヶ所、弦巻村一ヶ所の分水口を設置した。これが品川用水である。
     ところが流路に当たる村々では(特に世田谷地区がそうだったようだが)、ひそかにこの用水から分水して我が田に水を引くものが絶えず、品川宿との間で紛争が頻々と起きたらしい。

     大通りに出ると、通りの反対側の店先に人が大勢並んでいるのが目についた。「なんだろうか。」「あんなに並んでるよ。」「魚屋だ。」看板を見ると「鮮魚神田屋」だ。世田谷区新町二丁目一番十一号。創業七十一年の店である。ちょうど仕入れのトラックが到着したばかりのようで、店の脇で大量の発泡スチロールの箱を下している最中だ。

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     信号でそちら側の通りに渡って少し行くと、「藁草履があるよ」とスナフキンが注意を促す。店先に藁草履が並べてあったのだ。ここは三田精米店、世田谷区新町二丁目二番十七号。籠には「秋山郷わらぞうり」の紙がクリップで留められている。子供用四百五十円、大人用五百円、特大は五百五十円だ。「今どき藁草履なんか買う人がいるんだろうか。」主人に訊くと「いるんですよ。今はたいていフローリングだから、部屋の中で履く」と答えてくれた。「ただ、藁がなかなか手に入らなくてね。」
     店先には「つれづれ通信」という手作りの新聞が掲示され、「写真で見る地震の爪痕」として写真が数葉載せられている。地震で被害を受けた長野県栄村に対する支援らしい。この店では、「栄村自慢品ネットワーク」として、わらぞうり・猫つぐら(大・中・小)・円座・木工品(年輪ベンチ・テーブル・丸太イス)・山内和紙各種・きのこセット・山菜各種を扱っている。(http://home.catv.ne.jp/dd/mita/より)
     報道は東北ばかりに集中しているが、あの地震で長野県も相当な被害を蒙ったのだ。
     私とスナフキンが最後尾でこんなことに気を取られているうちに、先頭を行く姫は左手のビルの間に入っていく。その奥にはなかなか風格のある、唐破風のある山門が見えた。曹洞宗善養院である。山号は家岳山。世田谷区新町二丁目五番十二号。豪徳寺の末寺で、世田谷二十番観世音霊場だ。
     本堂を見ると、賽銭箱のところに子供がじっと立って、私たちの方を怪訝な顔で見つめている。「あれじゃ入れ難いよな。」信心深いスナフキンでも、賽銭を放り込むのに躊躇した。境内左手には諸仏を彫った舟形石碑がきれいに並べられてある。如意輪観音らしいものが四基、ほかに聖観音や地蔵も確認できた。磨滅して読みにくいが、■■信士などと彫られているのがいくつか見えたから、無縁になった墓を集めたのだろう。
     東電世田谷前のとんかつ屋「しんわ」は、店から電柱に電線を繋ぎ、そこに歩道を塞ぐように提灯を下げている。遠目で見て何かの祭りがあるのかと勘違いしてしまったが、アサヒビールの提灯だ。マンションの前庭に泰山木の白い花が綺麗に開いている。
     久富稲荷神社の参道は長い。歩道に面した入口には赤いゲートが建てられ「鎮守の氏神・久富稲荷神社」と書かれているが、そのすぐ後ろの一の鳥居の額には、ただ「稲荷神社」とある。「寄っているとお昼が遅くなってしまいますから。」「よくこれだけの参道を残してありますね。」二百五十メートルあるらしい。「伏見稲荷みたいに鳥居を一杯並べればよかったのに。」稲荷の総本家は京都伏見稲荷だからと、今日もダンディの上方自慢が始まる。「バイク乗り入れ禁止」の札が貼ってあるのに、参道の奥を眺めると朱の鳥居が二本立つ間をバイクが一台通っているのが見える。
     駄菓子屋の格子窓からは、懐かしそうな雰囲気の(実は私はあまり買ったことはないのだが)商品が並んでいるのが見える。クッピー・ラムネ、さくらんぼ餅、野球盤ガムなどの怪しげな菓子の他に、鼻ヒゲ眼鏡の面、ドカチン双六なんていうものが所狭しと置かれていた。
     やがて「さくら新町サザエさん通り」の看板が見えた。亀屋万年堂がある。「王さんだよ。」「なんですか、それ。」「知らないのか、王貞治の亀屋万年堂じゃないか。」
     三井住友銀行の角に立つ案内表示を見れば、左に行くと長谷川町子美術館あることが分かる。サザエさん、カツオ、ワカメちゃんの顔があちこちに見られる。
     「ゲゲゲの鬼太郎通りよりいいな。」スナフキンの言葉に、「それって島根の方でしたか」とロダンが尋ねている。そうか、去年の十月の番外「深大寺編」にロダンは参加していなかったのだ。スナフキンが言うのは調布のことだろう。深大寺巡りをしたときに鬼太郎やねずみ男、猫娘なんかを見ている。それにしても日本人はなぜこれほどサザエさんが好きなのだろう。
     道の反対側には桜神宮があるが、姫は「行きません」と言うので一応概要だけでも記録しておこう。教派神道十三派のひとつ、神習教の本営である。世田谷区新町三丁目二十一番三号。
     神習教は、平田篤胤の復古神道に影響を受けた幕末維新期の新宗教だ。創始者は大中臣氏六十五代の後裔、伊勢神宮の筆頭祢宜であった芳村正秉である。明治十五年に許可されて、教派神道十三派(当初は十四派)に数えられた。大中臣氏は、藤原鎌足の甥である意美麻呂に始まる。藤原不比等の子孫以外は藤原の名乗りを許されず、旧姓の中臣氏を名乗っていたが、意美麻呂の息子清麻呂が神護景雲三年(七六九)に大中臣朝臣を賜姓され、以後続いている一族である。

     社殿は明治十六年東京市神田に創建。明治後期には「病気治し」「火伏せ」の神徳があると多数の人が参詣しました。また外務省の紹介により多くの外国人が訪れ、鎮火式(火渡り)や探湯式(熱湯を浴びる)の神事に参加しています。
     大正八年に「西の方角へ直ちに移転せよ」との神託により現在地である世田谷に移転しました。神田界隈の関東大震災による被害は大きなものでしたが、この移転により災害から免れることができました。また、第二次大戦時も無事戦災から免れ、「災難よけ」でも崇敬を受けております。http://www.sakura.jingu.net/sakura_k.html

     今日の昼飯はその斜向かいのロイヤルホストだ。十二時十五分ほど前で、十一人が一緒の席に座れた。私はメカジキのグリル膳、税込千三百四十四円にした。姫とマリー、小町も同じものを選び、更にコーヒーやミルクティを追加した。ヨッシーはロイヤルビーフシチュー膳にコーヒー、碁聖はなんだかむずかしそうな名前のスパゲティにコーヒーをつけた。スナフキンはパーコ麺(これは何だろうか)。ダンディ、講釈師、中将はハンバーグ(色々種類があって、どれだかわからない)にライス、コーヒーなどのセット、ロダンはビーフジャワカレーにアイスコーヒー。コーヒーを頼まない貧乏人は私とスナフキンに決まった。
     今日は講釈師のハンバーグが最後になった。「良かった、ビッケじゃなくて」と姫が安心する。メカジキは悪くなかった。次第に客が増えてきた。客が混んでくると、ホールで働いている女の子二人だけでは大変だ。
     頼んでもいないアイスコーヒーが出てきたのは、ホットと数を間違えていたのである。その交換が済んだと思えばもう一度ホットコーヒーを持ってくる。混乱している。
     タバコは入口近くに隔離された喫煙室で吸わなければならない。食い終わってそこに入っていくと、若い主婦が二人大きな声で喋りながらタバコを吸っていた。若い主婦は余りタバコを吸わない方が良い。
     ゆっくり休憩して、いざ会計しようと伝票を見ると、自分がいくら払えばよいかがすぐには分からない。ライスとコーヒーをセットにしたAセットを料理に追加する人、飲み物を単独で注文する人などがいて、しかも伝票には品ごとに合計金額が記されるだけで単価が分からない。メニューはとっくに下げられているし、これでは事前にまとめるのは無理とわかった。昼の混雑時に銘々が精算するのは店にとっては迷惑だろうとは思うが、この伝票ではしかたがない。
     「一括でお支払いできませんか。」男性店員の顔がイラついているのが分かるが、どうやって計算しろというのだ。全員の会計が済むまで男は仏頂面を崩さなかった。「私なんかさ、割り算はできるでしょうって言われちゃったわよ」と小町が口を膨らます。私は「足し算してくれれば」と言われた。小町は割り算が出来ると思われ、私は足し算もできないのかと思われた。算数の能力において小町と私には明らかに差があると見たのである。それは冗談だが、接客業の店員が言うことではない。

     足し算も出来ぬ男に梅雨の空  蜻蛉

     雨は上がったのに、姫がポンチョを着込んでいるのがおかしいと小町が笑う。「だって、こうして乾かさないとしまえないんですよ。」なるほどそういう考えもある。道路の向こう側の家の屋根の形が面白い。「茅葺屋根をトタンで覆ったんだろう。」そういう屋根がもう一軒見える。この形の屋根は川越街道白子宿から脚折の途中に二三軒見たが、いずれも豪農であった。
     左に曲がれば用賀神社だ。世田谷区用賀二丁目十六番二十六号。かつては神明社あるいは天祖神社と称したと言う通り、一の鳥居、二の鳥居とも石造の神明鳥居の形式だ。拝殿脇の石碑には祭神として、真中に天照大神、右に応神天皇、左に菅原道真と記されている。都合が良いから無学なマリーに「天照大神は伊勢神宮、応神天皇は八幡、菅原道真は天神様だ」と教えていると、「集まっていて便利だね」という返事が返ってくる。確かに合祀の理由はそれである。本殿裏の片隅には稲荷もある。
     創建年代は不明だが、古くからこの集落の鎮守だったのだろう。ヨッシーは作法正しく(と思う)二礼二拍一礼している。
     神楽殿は拝殿に向かって右に建っている。裏に回ると白い紫陽花が綺麗だ。まだ開ききっていない部分は薄く黄緑がかって、その色が清楚だ。

     紫陽花の真白き花のその緑  蜻蛉

     しかし葉は虫食いだらけだ。「紫陽花の葉を食う虫って何だろう。」ヨッシーが首を捻っている。虫愛ずる姫に聞けば即座に解答がでるだろうが、そこまでして毛虫を知らなくても良い。
     用賀追分は北側を通っていた旧道と交わる地点だ。用賀四丁目交差点を過ぎた辺りの鎌田酒店の前で立ち止まる。街道沿いに昔から繁盛していたような、二階建ての店構えだ。「入りませんよ。」「だけどちょっと覗くだけでも。」今日は桃太郎がいないから、酒を買う人はいない。「桃太郎がいなくったって、買いたければ買えばいいじゃないか。」創業以来百五十年を数える老舗である。大きな額の看板には、月桂冠と祝砲の菰樽が金色に輝くレリーフになって輝いている。
     またちょっと雨が降ってきたようだ。脇に曲がれば真言宗智山派・瑜伽山真福寺だ。世田谷区用賀四丁目十四番四号。この山号に注目しなければならない。瑜伽(ユガ)は言うまでもなくヨーガであり、真言密教にとり入れられた。鎌倉時代初期、ここに瑜伽の修験道場が開かれたことで、これが地名の用賀になった。(おお、そうであったか。)道場は後に真福寺の所有になる。但しこの寺は昭和二十年代までは実相山と名乗っていた。それならば、戦後のヨガ流行に乗って山号を変えたのであろうか。
     有名な(と言っても私は初めて知るのだが)赤門は工事中の足場で覆われていて、潜ると中が真っ赤に塗られているのが分かる。  左手には庚申堂と太子堂がちょっと間をおいて並んで立っている。青面金剛の左手は(六臂あるからややこしいが)、何かを(動物かなにか)ぶら下げているような格好をしている。三猿はいない。磨滅してしまって間違えているかもしれないが、何かの動物のようだと私が思ったのは、あるいは「ショケラ」と呼ばれるものだろうか。窪徳忠によれば、これは半裸の女人である。しかしこの女人像をショケラとは呼ばないと言う小花波平六の説もあって、呼び方について真偽の判定はできない。青面金剛が半裸の女人の髪をつかむ姿はそれほど珍しいものではないらしいが、今の段階では私にはよく分からないので、取り敢えず下記だけ記録しておきたい。

     庚申塔に彫られた青面金剛(剣人型)が髪を持ってぶら下げている人物を石仏仲間では「ショケラ」と呼んでいる。石仏の本のショケラの説明では、「餓鬼とも言われ、また乳房をあらわにした半裸の絶世の美女とも言われる。」とあるが、どの本にもそれ以上のことは書かれておらず、ショケラの語源の説明もされていない。すでにショケラの語源も素性も分からなくなってしまったらしい。
     ショケラ(商羯羅天)は大自在天すなわちヒンズー教のシヴァ神のことである。(日本の石仏No75)http://tokyo.cool.ne.jp/y_ohata/sekibutu/aomen/dai2pou.htmより。

     窪徳忠氏は「庚申信仰の研究」において、「この呪言と伝承は、日華の庚申信仰の関係を考える上で、重要な意義と価値を持つ」としたが、学会の大勢としては「全国で福井の三例しかなかった」「江戸でショケラと呼ばれた証拠はない」として「証拠不十分」の扱いを受けているようである。
     この学会の意見は、「女人がショケラと呼ばれたという確証がないから、女人=ショケラを論理の出発点にしてはいけない」という意味に過ぎなかったものが、「仏典のショケラと庚申のショケラとは何の関係もない」という結論が出たかのように誤解されて一人歩きし、これまでショケラの謎の解明を遅らせていた気がする。
     (日本の石仏No93)http://tokyo.cool.ne.jp/y_ohata/sekibutu/aomen/dai4pou.htm

     説明板を挟んで右側の堂にいる太子像には、右に「聖徳太子」、左に「庚申講中」の文字が見える。庚申講中として太子像を造るのは珍しくないだろうか。少なくとも私は初めて見た。庚申塔については、まだまだ知らないことが多すぎる。
     聖徳太子信仰は大工や鍛冶等の職人の間で広まったもので、どちらかと言えば農村に多い庚申信仰とはちょっと肌合いが違うのではないだろうか。二つの堂の間に、「庚申堂・太子堂由来」の碑が建っている。

    武州荏原郡用賀村字向ノ高橋重太郎・鈴木長兵衛ノ両世話人ハ、講中廿五名ト共ニ弘化四年(一八四七)秋、地区街道ノ安全ト村民除災獲福ノ為庚申像ヲ、又嘉永年間(一八四八~一八五四)職方ノ守本尊トシテ聖徳太子像ヲ建立(現用賀町一の二三三)シタリ。此度ソノ境内地ヲ消防署拡張用地トシテ提供ノタメ、講中総会議決を得テ其堂ヲ真福寺境内ニ移転スルモノナリ。
    昭和三十九年十月二十五日

     句読点を補ってみた。読み間違えている個所もあるかも知れない。昭和三十九年の時点で、総会議決を必要とするような庚申講中が存在していることに驚いてしまう。
     「太子堂って前にも行きましたよね。」小田急線太子堂駅近くの太子堂(円泉寺)には確かに行っている。あの墓地の裏手の、まだ貧しかったころの林芙美子が住んでいた小さな長屋も見た。「あそこと、こことどういう関係があるんですかね。」整理してみると、ロダンの疑問は「太子堂」というのは固有名詞なのか一般名詞なのかというものであったらしい。それならば一般名詞であると言わなければならない。今も書いたように、職人の間では聖徳太子信仰が根強く広まっていて、太子像を造り、祠を建てて祀ることはよくあることだった。そのために、全国各地に太子堂というのは存在する。
     なお井上鋭夫『山の民・川の民』によれば、山や川を生活の根拠とする漂泊民の間に太子信仰が根強く見られる。川の民をタイシと呼ぶ地方もあった。
     観音堂の前の石碑は、上部が欠けてしまって「国第三拾九番」とだけ読める。新四国多摩川八十八箇所霊場の第三十九番である。他にも多摩川三十四観音霊場、多摩四国八十八箇所霊場など、似たような霊場を看板にするのはいくつもあって、江戸の庶民の物見遊山に寺院の商魂が乗ってできたのだろう。昭和になってから作られたものも多い。
     姫の案内によれば、この寺は博打の寺銭で寺院経営をしていた「ユニーク(?)な寺」だったと言う。しかし寺院が博奕場を経営した(あるいは黙認して場所代を得た)のは普通のことで、特にユニークというわけではない。博奕の場所代(ショバ代)を「テラ銭」と言うのがその証拠だ。網野善彦の言う「無縁」や「公界」の遥かな名残でもあろうが、町奉行の支配が及ばない寺院や神社は一種の無法地帯でもあった。
     寺を出て用賀商店街に戻れば、「父の日ビール交換会」という用賀商店街振興組合によるポスターが目に入った。「これはなんだい。」この文言だけでは理解できない。「なんだスタンプだよ。」要するに商店街のスタンプを集めて、四冊でビール六缶に枝豆と交換してくれるのである。
     「スタンプ集めるより、ビール買った方が安いじゃないか。」「でも、生活用品をこの商店街で買っている人だったら、すぐに集まりますよ。」酒飲みのオヤジと主婦では感覚が違ってしまう。

     漸く雨は止んだ。首都高速の下が田中橋だ。高速に沿って水が流れているが三面護岸の川だから風情は何もない。これが等々力渓谷を形成した谷沢川の末路であった。
     その橋を渡って行くと、二股になった角地に立つのが延命地蔵の堂だ。「長生きしたい方はどうぞ拝んでください。」「七十過ぎたらもういらない。」「五十代の人だけ拝めば良い。」それならば本日の対象者は三人である。
     鉄格子から覗きこむと、面長の、なんとなくキリッとしたところのないお地蔵さんであった。光背の一部が欠けたのを修復してある。安永六年(一七七七)、用賀村の女念仏講中によって建てられたものと言う。この「念仏講中」と言うのも、日待ち月待ちと同じく庚申信仰に密接な関係を持っている筈だ。と言うよりも、集落の中で民間信仰によって結束を固めている集団に念仏を持ちこんだのが、一向宗拡大の大きな要因だっただろう。
     地蔵は追分の道標の役割も果たしていた。ここから右の道をたどれば瀬田玉川神社、治太夫橋へと続く旧大山街道になる。「でも向うは余り見るところはありませんから。」だから私たちは左を行く。「俺は向うに行きたいな。あっちに行くと、ナマ脚の姉ちゃんがいるかも知れない」と不謹慎な想像をするのは誰でも知っているひとである。
     そんなことには構わずに行けば、すぐに「亰西学校・伊藤博文書」と彫られた赤御影石の碑の前で姫が立ち止まる。裏面には「京西学校発祥之地」とある。表と裏で「京」の字体が違うのも面白い。明治十二年(一八七九)、東京府荏原郡公立京西学校が創立されたのである。「東京の西にできた学校」として、当時の内務卿伊藤博文が命名した。現在の世田谷区立京西小学校の前身である。因みにこの明治十二年は安重根が生まれた年でもあった。三十年後、安重根はハルビン駅で伊藤博文を射殺する。
     「アッ、フラだよ、フラ。」講釈師が声を上げる。向かいのマンションを見れば、その一階で確かにフラダンスのような踊りをやっている。こういうことには目敏い人だ。二階の歯医者の看板だけが大きく目立ったが、その下にHula Studioと書かれている。「じゃ、サヨナラ。俺はあれに参加してくるから。」

     瀬田の交差点を過ぎるには歩道橋を上らなければならない。ところで瀬田の地名は多摩川を挟んで世田谷区瀬田と川崎市高津区瀬田に存在する。かつては同一の集落だったものが、多摩川の流路の変更によって分断されたとみるべきだろう。
     瀬田交番のところから左斜めに入って行くと、静かな住宅地になってきた。歩道の両側に街路樹が並び、緑が覆いかぶさるようだ。雨上がりの新緑が噎せるようでもある。
     「なに、あれは。」オットセイが立っているような像がある。なんだろうか。タイトルは「偶」である。「タマちゃんだよ」とフラダンスに行ってしまった筈の講釈師が声を出す。「多摩川のタマちゃん。」「そう言えばそんなものもあったような」と碁聖も納得する。あれはアザラシであったか。十年ほど前のあの事件(?)では良い年をした大人も夢中になっていたようだったが、私にはまるで理解できなかった。こんなところに像まで立つのである。日本人という奴はつくづく不思議な民族である。
     「樹庭跡地の碑」には、二つのことが記されている。左は「国分寺崖線の緑の保存」である。

    この地は「樹庭」と名付けられた数多くの緑の大樹が鬱蒼と茂る、国分寺崖線上の優れた風致と景観の場所であった。「パークコート瀬田」の建設にあたり、瀬田地区を中心とする多数の住民から緑保存の強い要請が行われ、この地にあった七十本の樹木が残された。今後、これらの樹木が繁茂し、国分寺崖線の景観と、瀬田の良好な風致環境が守り続けられることを願い、この碑を置く。

     国分寺崖線と言えば、ロダンからは一言なくてはならない。説明を促したが、立川面と武蔵野面を分ける崖線というだけで、詳細は語らない。碑の右側に書かれているのは「 瀬田遺跡の跡地」である。

    瀬田一・二丁目の地区には、先土器、縄文、古墳、古代にわたる著名な瀬田遺跡が広がっている。この地で平成八年に世田谷教育委員会が行った発掘調査では、関東ローム層から一~五万年前の先土器時代の遺跡が八層にわたり確認され、千百六十二点の石器類が出土した。これだけ重層の文化層発見は、武蔵野台地でも貴重なものである。
    この地に瀬田の貴重な歴史が存在したことを後世に伝えるため、この碑を置く。

     次は浄土宗獅子山行善寺。世田谷区瀬田一丁目十二番二十三号。永禄年間の建立。「玉川八景」の一に数えられた。静かな境内で、灰皿を設置した休憩所が設けてある。ここで暫く休憩する間に、ダンディがイタリア土産のクッキーやチョコレートを配ってくれる。私の分は当然ない。「可哀想だから蜻蛉には塩飴をあげるよ。」小町から塩飴を貰って口に放り込む。「熱汗飴」というもので、それほど塩味が効いているわけではないがグレープフルーツ味で旨い。「今度は梅干しも持ってくるからね。」小町はやさしい人である。(物をくれる人は皆優しい。)

     本寺の開基は長崎伊予守重光(法明・行善)、開山は法蓮社印誉上人伝光和尚であり、永禄年間に建立された。本尊は阿弥陀如来で、寺宝には玉川出現楠薬師があった。
     この地は展望にめぐまれ、江戸時代から玉川八景として有名であり、将軍も遊覧の折、しばしば立ち寄った。
          二子渡舟        太田子徳
        玉くしけ二子のわたり明ぬやと 見しや鵜舟の篝也けり

     ここにも、伊勢丸稲荷にあったのと同じ小さな持ち運び可能な狛犬が置かれている。大山街道の流行りものだろうか。境内を出ると塀際にトクサが見事に育てられている。最初私は細い竹かと思ってしまったが、口に出さなくて良かった。「昔の人はこれで爪を磨いたんだ。」行善寺坂を下る途中、左に上る坂には行火坂の標柱が立つ。そこを上ると報徳寺があるそうだが、「特に何もありませんから」と姫が断言するので、そちらには行かずに真っすぐ坂を下る。「本当は坂道を上りたくないんじゃないの。」「違います。」
     下りきったところが丸子川(六郷用水)で、小さな橋は調布橋だ。ここで姫が小泉治(次)太夫について説明してくれる。多摩川の水を多摩郡和泉村の辺りで取水し、川崎、六郷方面へ引いた。家康の命で治太夫が開削したので、治太夫堀とも言われた。

     天正十八年(一五九〇)徳川家康が江戸近郊の新田開発を計画した際、小泉次大夫は多摩川から農業用水を引く用水路敷設を進言して採用され、以降稲毛・川崎領(現在の神奈川県川崎市)に移り住み用水奉行を務める。
     慶長 二年(一五九七)、二ヶ領用水、六郷用水の建設に着手。多摩川右岸・小杉(現在の川崎市中原区小杉陣屋町)と左岸・狛江(現在の狛江市)に陣屋を設け、工事を指揮監督する。両用水路の敷設は難工事となり、安房国小湊の日蓮宗妙本寺より僧日純を招来、小泉陣屋(後に武蔵小杉陣屋)の裏手に妙泉寺(現在の川崎市中原区小杉陣屋町)を建立し事業完遂を祈念する。なお妙泉寺は用水完成後に移設されるが、小杉陣屋町の妙泉寺跡には現在は観音堂が建てられている。
     慶長十六年(一六一一)、二ヶ領用水、六郷用水が完成。これら二つの堀は「四ヶ領用水」「次大夫堀」とも呼ばれた。(ウィキペディア「小泉次太夫」より抄出)

     ガイドブック等によれば調布橋道標がある筈だが、付近にはそれらしきものは見当たらない。ロダンと一緒にうろうろしてみたが、やはり発見出来なかった。「そうなんですよ、下見の時にも探したんですけどね。」後で調べると、どうやら橋から左折して五十メートルほど離れた場所にあったらしい。水量は少ないが割に綺麗な水だ。
     二子玉川駅前に出ると「アッ、サーティワンがある」と姫が声を上げた。一階のアイスクリーム屋の前に大勢の人が並んでいるのだ。私が理解できない光景のひとつだ。たかが食い物に、どれだけの時間をかけて並ぶのか。しかし姫は悔しそうにそれを見つめている。
     碁聖や講釈師は、二子玉川駅前が随分変わったと驚いているが、初めて来た私は、そういう変化というものがまるで分からない。構内の地下でトイレ休憩を取って出発だ。

     「ここだよ、玉川電車が通っていたのは。」線路の跡は土手のように高くなって雑草が茂り、切通しのように道路で分断された壁面には(つまりかつてのガード下になるのだろう)古びた赤レンガが残る。「いいですね。」ダンディには廃線跡を訪ねる趣味もあった。
     そこを横切っていけば、今度は鉄道マニアが喜びそうな店があった。「玉電でしょうか。」「違うよ、デゴイチじゃないですか。」ダンディとヨッシーが嬉しそうに店内を覗きこむ。店先の壁に貼り付けてあるのはD51のプレートで、踏切の警報機に、「月火定休」なんて札をかけてある。
     土手に突き当たると左に歩いて、マンションの一角にある「二子の渡し跡」の標柱を見る。これは特に見なくても良い標柱だった。渡し場は、多摩川の流れの変化に寄って変わったのである。

     江戸時代、幕府は多摩川を江戸防衛の最前線と位置づけていたため、長い間架橋を制限していた。そのため、古来よりこの地を通っていた大山街道は、近年まで渡し船「二子の渡し」が結んでいた。この渡し船は、人を渡す船はもちろん、馬や荷車を渡す大型の船も用意されていた。江戸時代中期から、橋ができる一九二五年(大正十四年)まで、二子村と瀬田村(現在の世田谷区瀬田)が村の仕事として行っていた。
     架橋が幕府によって制限されていた多摩川には各所に渡し船があったが、かつては農民の江戸との交流に多く利用されていた。農民は多摩川沿いや多摩丘陵で穫れた野菜や炭などの物産を江戸へ運び、その折に契約している地域や家を訪ねて下肥を集め、運んで帰ったという。
     また、特に二子の渡しは街道筋であるため、それら農民に加えて行商人や、特に江戸中期以降盛んになった大山詣での人々などにとっても大切な足として機能していた。
     一方、かつて暴れ川とも呼ばれた多摩川の水かさによっては、人々は両岸で何日も足止めされる場合も少なくなかったという。そのため、渡し場の周りには茶屋や食事処、宿屋などが集まり、二子・溝口宿は街道沿いの宿場町として発展した。「二子新地」はこの当時の賑わいを今に残す名といえよう。
     多摩川はその流路を度々変えたため、二子の渡しもその場所が度々変わったと言われる。かつては二子神社・兵庫島付近に渡し場があったとも言われているが、明治以降は現在二子橋が架けられている場所よりも少し下流(野川合流点付近)の瀬田地先が渡し場跡であった。(ウィキペディア「二子橋」より)

     日差しが強くなってきて暑い。汗が出てきた。帽子をかぶっていると頭に汗が溜まる。丁度良いから帽子はバッグにしまいこみ、さっきしまった傘をさして乾かしながら歩く。小町の帽子は汗でびっしょり濡れている。「雨じゃないよ。汗なのよ。」中将のベストの背中もやはり汗のせいだろう。背中一面が濡れている。「厚着しすぎですよ。」「そうか、Tシャツだけでいいんだよね。」
     もう一度逆戻りして東急のガードを潜り、二子橋を渡る。もう雨は止んでいるのに傘をさして歩いている人が多い。傘を乾かそうとしているのだろうか。「向こうに見えるのが兵庫島です」と姫の説明が入る。

    二子の渡し場の対岸、野川と多摩川の合流する所に兵庫島公園が在ります。室町初期の南北朝騒乱期に南朝方の新田義貞の遺児義興は義貞の死後武蔵国内でゲリラ戦を展開していました、北朝方の畠山国清は武蔵七党の江戸遠江守と竹沢右京亮に義興の暗殺を命じ遠江守と右京亮は義興方にねがえると見せかけて此処より九キロ川下の矢口の渡し場へ義興を誘い出し船上で義興を謀殺します。時に義興の家臣由良兵庫助は刀で首をかき切り川に落ちて死にその死体が此処へ流れ着いた事から兵庫島と呼ばれるようになったそうです。http://hya34.sakura.ne.jp/musasinannbu/nakamiti,kawawa,eta,futago/nakamiti,kawawa,eta,futagohtml.html

     その説明はおかしいとダンディが笑う。「だって矢口の渡しから、どうやって死体が上流まで流れてくるんですか。おかしいですよ。」もしかしたら満潮に従って逆流したかもしれないが、ウィキペディア「兵庫島公園」もダンディと同じ疑問を感じていて、矢口の渡しではなく、稲城市の「矢野口の渡し」ではないかという説を挙げている。取り敢えず、『太平記』を見てみよう。

    「大勢にて御通り候はば、人の見とがめたてまつる事もこそ候へ」とて、兵衛佐の郎従どもをば、かねて皆抜け抜けに鎌倉へ遣はしたり。世良田右馬助・井弾正忠・大島周防守・土肥三郎左衛門・市川五郎・由良兵庫助・同じき真左衛門尉・南瀬口六郎、わづかに十三人をうち連れて、さらに他人をばまじえず、のみを差したる船にこみ乗つて、矢口の渡りに押し出だす。これを三途の大河とは思ひ寄らぬぞあはれなる。(巻第三十三「新田左兵衛佐義興自害の事」)

     『新潮日本古典集成』版を見ている限りでは、確かに「矢口の渡」と書いてある。義興と十三人の家来の首はすぐに水底から探し出されて実検された。但し、その後の兵庫助の死体については、この巻には何も書かれていない。
     渡りきった川崎側の橋詰には、旧二子橋の親柱が二本立っている。「濁らないんんだ。」「ふたこはし」と書かれている。フタゴではなかった。「地名由来にもいくつか説があります」と姫が言う。

    二子に残る昔話では、病に苦しむ老人を心やさいしい二人の兄弟が親切に看病した、しかし程なく亡くなってしまい老人の残した荷物の中から大金が出てきた。
    二人は役所に届けたのだが日ごろの善行と正直な行為に感心し褒章としてその金を兄弟に与えた。
    兄弟はその金で《渡船場》を設け、人々のために働いた。これが二子の渡しの始まりで、人々はこの話を後々に伝える為に《二子村》と名づけたという。http://ooyamakaido.com/modules/xwords/entry.php?entryID=8&categoryID=4

     これは先ず信じなくてよい説話である。古墳が二つ並んであったのを二子塚と呼んだのが由来だと言う説があり、こちらの方がもっともらしい。また姫が調べてくれたところでは、多摩川を挟んで世田谷側と瓜二つの双子集落を作っているからという説もあるらしい。これならば、さっき、「瀬田」のところで書いたように、もともと一つの集落だったものが、多摩川の流路変更で分断された可能性もある。
     この辺は二子新地、「新地」と言えばかつての三業地である。姫の調べでは最盛期に芸者百六十人を数えたと言う。
     川崎に入ると街路灯の柱に大山街道の表示が取り付けられている。「川崎の方が一所懸命じゃないか。」高津区では大山街道活性化推進協議会を作り、毎年二月に「大山街道フェスタ」という催しを行っていて、既に今年二月には第八回を数えている。二月に実施するのは商店街の都合だ。

    それは溝口神社と溝口緑地を担う特に溝口の商人事情です。一月は正月明けでの仕事や一息時期、三月に入りますと夏の高津区民祭などの準備が入り若手(高津青年会議)がそろそろ忙しくなる時期、それが七月末の区民祭終わりまで、八月は夏期休暇やお盆と花火、九月はお祭り、十月に入ると宗隆寺や他のお寺(十数個所訪問)のお会式時期、十一月に入れば商人達は年末商戦で師走まで多忙、抜けているのは二月だけ。http://www.mmjp.or.jp/mzkodrsk/working/index-oy.html

     「旧大山街道二子の渡し入口」と書かれた木柱を曲がると公園のような場所に出る。実は二子神社の境内なのだが、まるで神社の雰囲気ではない。岡本太郎の例によって意味不明なオブジェが空にそびえている。コンクリートで二メートル程の山を作り、その上に載せたのは白鳥でも象ったつもりなのだろうか。岡本かの子を顕彰する文学碑がある。

    岡本かの子は明治二十二年三月一日誕生し多摩河畔二子の郷家にて成長せり。祖先代代武蔵相模に栄えし旧家の血脈と多摩川の清流とはかの子の生命に深く愛染し作品のうちに多様なる姿をもつて表現されたり。かの子は若くして和歌を学び長じて仏道を修めあるひは東西の藝文にひろく接して昭和十四年二月十八日眠去の日まで華麗なる命を燃えあがらせつつ幽玄にしてまた絢爛たる文学の道を辿れり。ここに川崎市有志ならびに友人知己その業績を讃へ故人をしのびてかの子文学碑を建立す。
    昭和三十七年十一月一日
    亀井勝一郎文
    川端康成 書

     「華麗なる命を燃え上がらせ」とか「幽玄にして絢爛たる文学の道」なんて空虚な言葉を撒き散らしたのは亀井勝一郎で、それを川端康成が書いたのである。字体は、「小学校の書道みたい」「丁寧に書いてあるね」と声が上がるように、几帳面なものだ。
     しかし、この亀井の文章は悪文であろう。そう言えば昔の高校の教科書には必ず亀井の人生論が載っていたが、マルクス主義から転向して日本浪漫派を結成した批評家を、私は当時から評価していなかったなと思い出した。
     白鳥(と勝手に決めて)に向かう階段を上って見ると、青いタイルの壁に岡本太郎の追悼句が嵌めこまれていた。

     この誇りを亡き一平とともにかの子に捧ぐ 太郎

     下を眺めると、ロダンと小町は疲れたようにベンチに座り込んでいる。講釈師は滑り台を滑り下り、ブランコに座って「いーのちーみじかし、恋せよ乙女」なんて嘯き、すっかり志村喬になりきってしまった。吉井勇作詞・中山晋平作曲『ゴンドラの唄』、元歌は勿論松井須磨子である。私は「乙女」と記憶していたが、詩を見ると表記は「少女」であった。

     ふらここや恋せよ少女と呟きつ  蜻蛉

     私はかの子のものを読んだことがなかった。仕方がないので、昨日『鶴は病みき』を読んでみたが、余り感心しなかった。末尾で取ってつけたように芥川への同情を書きつけているものの、全編に流れるのは芥川への揶揄でしかない。勿論私だって芥川の精神が脆弱であったとは思う。しかしプロレタリア文学勃興に直面して芥川がどれだけの悩みを抱いていたか、そういうことへの同情がまるで感じられないのだ。かの子については、ウィキペディアから要約してみる。

     二十一歳の時、和田英作の媒酌によって結婚、京橋の岡本家の家人には受け入れられず二人だけの居を構える。翌年、長男太郎を出産。赤坂区青山のアトリエ付き二階屋に転居する。
     その後一平の放蕩や強い個性の衝突による夫婦間の問題、さらに兄晶川の死去などで衝撃を受ける。一平は絶望するかの子に歌集『かろきねたみ』を刊行させた。しかし翌年母が死去、さらに一平の放蕩も再燃し家計も苦しくなり、その中で長女を出産するが神経衰弱に陥り、精神科に入院することになる。
     翌年退院すると、一平は非を悔い家庭を顧みるようになるが、長女が死去。かの子は一平の了解のもと、かの子の崇拝者であった学生の堀切茂雄(早稲田大学生)と同棲するようになり、次男を出産するが間もなく死去してしまう。
     かの子と一平は宗教に救いを求めるが、キリスト教には救われなかった。その後『歎異抄』によって生きる方向を暗示され、仏教に関するエッセイを発表するようになり、仏教研究家としても知られるようになった。
     一九二九年(昭和四)、十二月から一家をあげてヨーロッパへ外遊。太郎は絵の勉強のためパリに残り、かの子らはロンドン、ベルリンなどに半年ずつ滞在し、一九三二年(昭和七)、アメリカ経由で帰国。帰国後は小説に取り組むつもりだったが、世間はかの子に仏教を語ることを求め、仏教に関するラジオ放送、講演、執筆を依頼され、『観音経を語る』、『仏教読本』などを刊行した。
     かの子が小説に専心したのは晩年の数年間だった。一九三六年(昭和十一)、芥川龍之介をモデルにした『鶴は病みき』で作家的出発を果たす。『母子叙情』、『老妓抄』、『生々流転』などが代表作となった。一九三九年(昭和十四)、脳溢血で倒れ自宅で療養していたが、二月に入って病勢が急変、二月十八日、四十九歳で死去。

     「裏から入ってきちゃったんですよね。」広場が主体で、神社はその片隅に在るような恰好の、その神明鳥居を潜って境内を出ると、脇に「大山燈籠」を説明した案内板が立っていた。
     「二子大通り商和会」と名付けられた商店街を歩いていると、小町がお婆さんにつかまってしまって、お婆さんの大きな声が聞こえてくる。どこから来たのか、何をしているのか、メンバーは何人かなど詮索がやかましく、小町はそれに一所懸命応対している。こういうことは苦手な人の筈なのだ。「リーダーは男のひとかい。」「今日は女性なの。」「それは偉いね。」暇なおばあさんなのだ。
     光明寺(真宗大谷派)に入る。我が家の宗旨と同じだとマリーに教えても「そうだったの」という返事しか返って来ない。「下見の時には見ていません。一人でお墓の中を歩くのは怖いし。」大貫姓の墓石ばかりが目立つ墓所だ。地元の大地主だから親族が多いのだろう。その本家に違いないからたぶん一番良い場所にあるんじゃないかと思っていると、すぐに中央辺りに「大貫宗家塋域」を見つけた。やたらに大きな五輪塔がその宗家のものらしいが、その左後ろに「文学士大貫雪之助の墓」があった。
     問題の雪之助(晶川)は、大貫寅吉の次男として生まれ、文学の道で嘱望されたと言う。谷崎潤一郎と共に第二次『新思潮』の同人となったものの、見るべき作品も残さずに二十四歳で亡くなった。姫が調べたところでは、床屋の剃刀で切られた傷からの感染が原因だったらしい。「生きていたら立派な作家になっていたでしょうね。」そうだろうか。
     満二十四歳の夭折を考えれば、見るべき作品を残さなかったのも仕方がないだろうか。しかし樋口一葉が亡くなったのは同じく二十四歳である。立原道造や富永太郎も同じ二十四歳で亡くなった。富永は生前まるで世に知られることはなかったが、小林秀雄や中原中也の読者にはお馴染みで、それに加えて大岡昇平が全集を編集したこともあって、日本文学史にその名を残している。北村透谷二十五歳、石川啄木二十六歳を比べてもよい。
     雪之助に本当に才能があったとすれば、友人である谷崎潤一郎がそれを顕彰しなかった筈はないと思うがどうだろうか。私たちが日本文学史で大貫雪之助の名前を見るのは、かの子の兄ということだけによるのである。
     歩き出すとすぐそばには「大貫総本家」の墓も見つかった。どういう一族なのだろう。「更科、藪蕎麦みたいですね。」姫もおかしいと笑っている。「宗家」「総本家」とくれば、「元祖」「家元」も作って欲しい。
     街道沿いの飯島商店には、直径一メートル程の巨大な釜が置かれ、NHK大河ドラマ 『黄金の日々』 で石川五右衛門の釜茹でシーンに使われたものだとの説明が書かれている。「浜の真砂は尽きるともって言ったんだ。」世に盗人の種は尽きまじ。講釈師のオハコである。ところが「お湯じゃなくて、油で煮られたんですよ」と姫が言うので驚いた。私は知らなかった。
     「油がもったいない」とダンディは変なことに気づいてしまったが、当時の人も同じように感じたようだ。

    圧搾技術が発達しておらず、植物油が貴重品だった当時の日本においては、非常に「贅沢」な処刑方法といえ、京都の町衆は驚きあきれたという。(ウィキペディア「釜茹で」)

     高津市立図書館前の公園には、独歩の顕彰碑が建っている。中央に大きく「国木田獨歩にささぐ」と彫り、右に「昭和九年夏 島崎藤村」、左に「歴遊の地を記念して」とある。亀屋主人鈴木久吉が発案して旧亀屋跡に建てられ、平成十四年にここに移された。

    多摩川の二子の渡しをわたって少しばかり行くと溝口という宿場がある。その中ほどに亀屋という旅人宿がある。ちょうど三月の初めのころであった、この日は大空かき曇り北風強く吹いて、さなきだにさびしいこの町が一段と物さびしい陰鬱な寒そうな光景を呈していた。昨日降った雪がまだ残っていて高低定まらぬ茅屋根の南の軒先からは雨滴が風に吹かれて舞うて落ちている。草鞋の足痕にたまった泥水にすら寒そうな漣が立っている。日が暮れると間もなく大概の店は戸を閉めてしまった。闇い一筋町がひっそりとしてしまった。旅人宿だけに亀屋の店の障子には燈火が明く射していたが、今宵は客もあまりないと見えて内もひっそりとして、おりおり雁頸の太そうな煙管で火鉢の縁をたたく音がするばかりである。(国木田独歩『忘れえぬ人々』)

     なんだか裏寂びれた場末の雰囲気ではないか。主人公はこの宿で、自作で未完の「忘れえぬ人々」を材料にして文学好きらしい男(秋山)と語り明かす。しかし、数年後にその「忘れえぬ人々」の末尾に書き足されるのは、冒頭に一瞬だけ登場した無愛想な亀屋の主人だったのである。これが独歩碑のある理由だ。

    大津は故あって東北のある地方に住まっていた。溝口の旅宿で初めてあった秋山との交際は全く絶えた。ちょうど、大津が溝口に泊まった時の時候であったが、雨の降る晩のこと。大津は独り机に向かって瞑想に沈んでいた。机の上には二年前秋山に示した原稿と同じの『忘れ得ぬ人々』が置いてあって、その最後に書き加えてあったのは『亀屋の主人』であった。『秋山』ではなかった。

     この「秋山」が、あるいは雪之助ではなかったろうかと想像してみるのも面白い。そして独歩にとっては、雪之助は「忘れえぬ人」ではなかったと私は勝手に独断してしまう。
     かの子の歌碑は石自体が波打った模様の上に、文字が薄いから誰も読めない。説明を見れば彼女の筆跡から文字を選んで彫ったものらしい。読めなかった歌はこうである。

     うつらうつらわが夢むらく遠かたの水晶山にふる桜花

     動詞「夢む」に接尾語「らく」がつくか。「惜しむらく」、「疑ふらく」、「望むらく」、「恋ふらく」などの用例は見つけたが、手持ちの辞書では「夢むらく」の用例は見当たらないし、私は感心しない。
     そろそろ駅に向かおうとすると、ヨッシーの姿が見えなくなっている。さっきまでいた筈だが。「どうしたんだろう。」「図書館で本を借りてたりして。」「もう除名だな。」相変わらずやかましい限りだが、そのヨッシーはちゃんと約束通り、公園の入り口付近で待っていたのである。
     「駄目だよ、ちゃんと統一行動しなくちゃ。」いつものように講釈師が騒ぎたてる。「そうだよな、スナフキン。」ここで何故スナフキンが登場するのか。午前中、スパッツを付けていて遅れてしまったらしいのだ。「アレッ、女湯に傘を忘れちゃったひとがいましたよね」と、今日はスナフキンも反論する。講釈師の今日の傘はあの時のもので、朝から自慢していたのだった。「あの時は、ちゃんと待っていたのに。」「別に待っててくれって頼んでないもん。」一年以上経っても、講釈師女湯傘忘却事件は歴史にちゃんと残っているのである。
     これで今日のコースは終了し、高津駅に向かう。ロダンと小町の万歩計を参照して、本日の歩行距離は九・五キロと計算した。姫の予定でも九キロ程度だったようだから、そんなに狂ってもいないだろう。
     駅前の喫茶店での第一次反省会は、先に座っていた客が気を使って(私たちを見て恐れをなしたか)席を立ってくれたおかげで、全員がひと固まりで座ることができた。申し訳ないことである。
     次回八月は、真夏のさ中に歩くのは辛いと判断し、姫の計画では佐倉で歴史民俗博物館や武家屋敷を見る。だから「大山街道を歩く 其の三」は十月にずれ込むことになった。「頂上に辿り着くのはいつになりますか。」ヨッシーの質問に「来年十月の予定です」と答が返る。
     本当の反省会は渋谷の「三平酒寮」にした。五時少し前だが店は開いている。今日はヨッシーも参加して八人になった。ロダンの愛妻物語がとめどもなく続き、笑いが絶えない。一人二千五百円也。その後は恒例のように、カラオケ「ビッグエコー」に五人が突入する。

    眞人