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    番外 佐倉そぞろ歩き編
    平成二十三年八月六日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2011.8.13

    原稿は縦書きになっております。
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     七月上旬の連日三十五度を超える猛暑が嘘のように、台風六号の後は戻り梅雨のような不安定な陽気が暫く続いていた。新潟福島には記録的な豪雨が襲った。放射能の行方は相変わらず朦朧として結末が見えず、妄言虚説が横行する。牛は汚染され、古米買占めに走る者がでる。野菜にも被害が及べば食うべきものはなくなってしまう。更に大臣が国会で号泣するという実に無残なものまで見せつけられては、この国には何か怪異なものが跋扈していると決まった。
     ここ二三日は再び夏が戻って来た塩梅で、今日は久しぶりに三十五度程にもなりそうだ。旧暦七月七日、七夕である。いかにも夏らしい雲が浮かび、湿度はかなり高く体中から不快な汗が噴き出てくる。また猛暑が戻って来る気配だ。
     日暮里を八時五十分に出る特急を目指してきたのだが少し早過ぎ、お蔭で三十五分発佐倉行き快速電車に間に合った。快速とは言うものの津田沼から各駅停車になるのは、東上線の急行が川越から各駅停車になるのと同じ具合だ。途中でスナフキンから電話が入り、一本乗り過ごしたので少し遅れると言う。
     津田沼から先は少し懐かしい。勝田台駅からは十五分も歩けば義父母が住んでいる団地に着く。まだ若かった妻が育った町であり、私も結婚してすぐ三年ほど(昭和五十五年から五十八年まで)、公団の賃貸住宅に住んだことがあって、ここで長男が生まれた。ただ当時の私は全くの出不精で、近辺にも余り出かけたことがなく佐倉に来るのも初めてのことになる。
     ユーカリが丘(こういう地名はなんとかならないかね)から臼井の間に大震災の影響が残り、一部徐行区間がある。五ヶ月経ってまだ地盤の補強が完了しないらしい。屋根の上に青いシートをかけた家も所々に見られる。
     京成佐倉に着いたのは九時四十分だ。十一万石の城下町佐倉の中心で快速の終着点だからもう少し大きい駅を想像していたのに、トイレは上りホームの途中にあるだけというのは淋しい。階段を上ると、改札の向うに小町と中将の姿が見えた。取り敢えず手だけ振ってトイレに降りた。トイレには赤いシャツにホワイトジーンズの先客がいる。八十歳になったとはとても思えない若々しい格好の碁聖だ。「同じ電車でしたか。」「そうです、快速でした。」
     小町と中将は一番早く着いていたようだ。「三時間かかったよ。大宮から京浜東北で日暮里に出てね。」「リーダーはまだですか。」「もう来てるわよ。」四十二分には、私が乗る積りだった特急でダンディやロダン、マリーたちがやって来た。十時前に着くのはこれが最後だから、これでスナフキンを除いて全員だろうか。講釈師はどこにいたのだろう、いきなりおかしな所から現れた。たぶん真先に来てどこかに潜んでいたに違いない。ヨッシーも早めに来て近隣を探索していたようだ。
     そこに画伯が「JRの駅に行っちゃった」と汗を拭きながらやって来た。「ちょうどバスがあったから良かった。」「今日も間違えたのか。行田でも間違えるし。」講釈師は行田には参加していない筈だが、どうして知っているのだろう。「画伯はJRが好きなんだね」とダンディが笑う。後はスナフキンだけかと言っている所に、十時を少しだけ過ぎてやって来た。意外に早かった。
     「アッ、そう言えばトミーも来るって言ってたんだけど。」「そうですね、メールでご連絡戴いてましたよね。」姫も心配そうな顔をする。どうしたのだろう。何の気なしに横を見ると、そのトミーがすぐそばにいた。サングラスで鼻の下に鬚を伸ばしているから全く気付かなかった。
     「声を掛けてくれれば良いのに。」「蜻蛉さんだって、サングラスだから気付かなかった。」彼はダンディたちと同じ特急で来ていたのだった。「ほぼ二時間かかりましたよ。」私はもうちょっとかかった。
     これで全員が揃った。リーダーのあんみつ姫、中将、小町、碁聖、画伯、ダンディ、ヨッシー、講釈師、トミー、スナフキン、ロダン、マリー、蜻蛉。十三名である。講釈師の連絡網に繋がる女性陣は誰も来ていない。「ウン、遠いからさ。」宗匠は所用、チイさんは東北の祭りを見に行っている筈だ。ドクトルはどうしたのだろう、暑さに参っていなければ良いが。

     南口に出て駅入口の交差点を左に曲がり、やや上り加減の道を歩いているとすぐに汗が噴き出てくる。十分程で最初の目的地である千葉県立佐倉高等学校に着いた。佐倉市鍋山町十八番地。門を入って正面に建つのが明治の欧風建築の校舎だ。明治四十三年(一九一〇)、追手門前から現在地への移転に伴い、久野節(みさお)の設計によって建てられた。国の登録有形文化財に指定されている。薄いピンク色の壁に濃い枠取りがしてある。建築様式をうまく説明する知識がないので、建物の概要は下記の解説に頼ってしまう。

    木造二階建の学校建築。正面ポーチに桜のレリーフを飾り、ドームを掲げた双塔、丸窓付の屋根窓、大棟の換気塔をスティック・スタイルでまとめる。建物端部にはハンマー・ビームの妻飾りがつく。外壁は柱形なしのドイツ下見板張。
    http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=151485

     窓は上下に上げ下げする形だ。玄関脇に受付の小さな窓口があるのも懐かしい。かつての本館だが、現在は主に管理棟として使用されている。そう言えば、似たような雰囲気の建物を栃木で見た記憶があったね。記録をひっくり返すと、栃木県立栃木高校の記念館だ。あそこは明治二十九年の建築だからここより古い。
     いずれにしても、こういう木造校舎がきちんと残されているのが嬉しい。空襲にも会わなかったのだろう。佐倉の空襲に関してはこんな記事を見つけた。

    一九四五年一〇月時点での千葉県における空襲被害調査によれば、佐倉警察署管内では、死者三四名、傷者四四名があったとされる(攻略)(樋口雄彦「歴史系総合誌『歴博』 162号」)http://www.rekihaku.ac.jp/publication/rekihaku/162witness.html

     空襲はあって、確かに被害者は出たにしても東京のような大きな被害はない。米軍は銚子沖の空母から東京を襲った帰り道、行き掛けの駄賃に余った爆弾を佐倉に捨てていくという程度の感覚だったのだろう。
     佐倉高校の起源は、寛政四年(一七九二)佐倉藩の藩校として堀田正順によって設置された学問所である。高等学校の歴史を寛政四年の藩校から始めるというのは実に珍しい。しかし調べてみるともっと古い起源を主張している学校があった。身延山高等学校は弘治二年(一五五六)の僧侶養成機関「善学院」が始めだし、山形県立米沢興譲館高等学校は、元和四年(一六一八)設立の藩学問所「禅林文庫」に始まるとしている。
     学問所は文化二年(一八〇五)には温故堂、天保七年(一八三六)に成徳書院と改称された。廃藩置県後は千葉県初の旧制中学校となる鹿山精舎(私立)に引き継がれ、明治二十一年(一八八八)佐倉輯成学校となり、明治三十二年(一八九九)千葉県に移管されて旧制千葉県立佐倉中学校となった。その間にも名称は何度も変更されていて、その変遷を全部辿れば次のようになる。
     佐倉藩学問所、温故堂、成徳書院、成徳館、開智館、博文堂、佐倉県立成徳館、印旛県立成徳館、鹿山中学校(鹿山精舎)、 佐倉英学校、佐倉輯成学校、佐倉尋常中学校、千葉県佐倉中学校、千葉県立佐倉中学校、千葉県立佐倉高等学校、千葉県立佐倉第一高等学校、千葉県立佐倉高等学校。これだけ変わってしまうと覚えるのも大変だが、お蔭で佐倉県とか印旛県というのもあったことが分かる。
     また地域交流施設には「鹿山文庫」が置かれている。日本最初の蘭和辞典『ハルマ和解』(寛政八年刊)をはじめ、藩校開設以来収集した和漢洋書一万点を収める。高校にこうした貴重な文庫があるのは全国的にも珍しいだろう。
     「長嶋が出たのはこの学校ですか。」「違うよ、あれは佐倉一高だからね、全然違う。」ダンディの疑問に講釈師が断言した。「そうでしょう、こんなに立派な県立高校を出たとは思えない。」それなら佐倉一高と言う学校がもう一つあるのだろうか。しかしスナフキンと地図を見比べてもそれらしきものは見つからない。「なくなってしまったんじゃないか、吸収合併とかで。」しかし結局、講釈師もダンディも間違っていた。
     昭和二十五年から三十六年までの間、現在の佐倉高等学校は「佐倉第一高等学校」と称していたのだ。長嶋が佐倉第一高等学校に入学したのは昭和二十六年だからちょうどその期間にあたる。確かにこの立派な高校を卒業していたのだ。地域交流施設の中には、長嶋茂雄の写真コーナーもあるらしい。
     記念館の正面に取り付けられた木彫りの桜に「高」を彫った校章を見て、ロダンが「佐倉と桜って洒落の積りかな」と首を捻る。詳しいことは分からないが、佐倉市の市章は桜の花であり、市の木も桜だ。やはり洒落というか語呂合わせなのだろうね。「高」の文字が違うのではないかという小町の意見も出ていたが、彫刻の仕方で字体は若干変わることがある。許容範囲だろう。「鹿山文庫も見て行きたいんですけど、時間がなくなってしまうので割愛します。」

     更に十分程歩くと、蘭学通りとの交差点に佐倉順天堂記念館が見えてきた。佐倉市本町八十一番地。冠木門の中の左手の芝生には佐藤泰然の胸像を中心に、歴代の先学のレリーフを刻んだ石碑が立っている。
     ダンディはこの記念館を楽しみにしていた。姫は今回調べるまで佐倉順天堂の存在を知らなかったらしい。私は佐倉にあることだけは知っていたが、詳しいことは分かっていない。西の適塾に対して(あるいは長崎の蘭学に対して)東の順天堂と呼ばれる程、当時最先端の洋学の中心的な存在だった。
     三館共通入場券が五百二十円になる。三館というのは、ここと旧堀田邸、武家屋敷である。玄関にはボランティアが「手薬煉引いて」という雰囲気で待ち構えている。こういう人たちは喋りたくてしょうがないのだから、時間に余裕のある時は良いが今日のような時には、ちょっと煩わしく感じてしまう。「十五分しかありませんから、適当に自分たちで見学します」と姫が言うのだが、そんなことで引き下がるボランティアではない。オジサンは引き下がったが、もう一人の女性は余りにも初歩的なことから全部説明し尽くさなければ満足しない勢いだ。私は最初五分だけ聞いて、あとは勝手に見て廻ることにした。
     要所にはさっき迎えてくれたオジサンが立っていて、私たちが立ち止ると説明を始める。「これを見てください、『石州津和野 森静泰』とあるでしょう。」これは説明されなければ見逃していたかも知れない。やはり適切な説明は受けるべきである。全国からこの地にやって来た門弟名簿だ。そうか、石見国津和野の森静泰(後に静男)なら鷗外の父親ではないか。鷗外の伝記は承知していても、父親が順天堂で学んだことまでは知らなかった。
     「全国から来ているんですね。会津、荘内からも来てますよ。秋田の人はいますか。」姫の言葉で探してみたが秋田の人間はいない。秋田人は学問が嫌いだったのだろうか。しかし八代藩主佐竹義敦(曙山)は秋田蘭画を創設したし、九代義和は藩校明徳館を創設するなど、決して学芸に無関心ではなかった筈だ。平田篤胤の国学が盛んになって、蘭学、洋学へ向かわせなかったものだろうか。

     大工道具のような手術器具はドラマ『Jin―仁』で見たものとそっくりだ。と言うより、あのドラマの仁友堂はこの順天堂をモデルにしていたのだから当り前なのだ。私は、あれはドラマの中だけの道具で、実際にこんな鑿のようなものや鋸で手術していたなんて、思いもよらなかった。鋸で足を切断する絵も掲示されている。そして当然のようにドラマのポスターが掲示されていて、綾瀬はるかちゃんの顔も見える。私はドラマを見て時々泣きました。ついでに余計なことを言ってしまうが、はるかちゃんは、バラエティ番組には出ないで欲しいネ。あの凛々と堪える姿が全く変わってしまうから。
     「療治定」という手術の料金表も掲げられている。門弟による出産手術は二百疋、但し難産の場合には五百疋から始まって、舌の腫瘍手術、乳癌摘出手術、手足切断手術、卵巣水腫開腹手術、帝王切開、白内障手術など、順天堂は特に外科手術において最高水準を誇っていた。
     「料金も明快ですね。」一疋は十文である。すると通常の出産では二貫文。一両を六貫文とすればその三分の一か。米価を基準にして一両七万円ならば二万三千円、一文十円として計算すればちょうど二万円だ。
     「麻酔を使わなかったんですね。」日本独自の麻酔薬は華岡青洲が開発しているが、その薬は副作用が酷過ぎて余りにも危険だったから泰然は使わなかった。エーテル麻酔によって日本で初めて全身麻酔手術を行ったのは、安政二年(一八五五)杉田成卿(梅里・杉田玄白の孫)であるらしい。また文久元年(一八六一)、伊東玄朴(シーボルトの弟子)がオランダ海軍軍医ポンペから入手したクロロフォルムを使用して下肢切断手術を行った。麻酔が実際に使われるようになるのはそれ以降のことになるのだろう。(「日本麻酔の歴史」より)http://www011.upp.so-net.ne.jp/konita/rekisi2.html
     三千坪の敷地に診療所、学問所、寄宿舎などを抱えていた。「当時の総合大学ですね」と説明員が自慢する。「こんな地方都市に、どうしてこんな立派なものがあったんでしょうか。」トミーは不思議らしい。老中首座堀田正睦が「蘭癖」と呼ばれるほど蘭学を奨励した藩主で、天保十四年(一八四三)、江戸で和田塾を開いていた佐藤泰然を招聘したのだ。佐藤泰然は足立長雋、高野長英に学び、長崎留学の後に江戸で塾を開いていた。和田は母方の姓である。
     実子は、長男惣三郎(山村)、次男良順(松本)、三男四男は早世、五男董(林)と全て他家へ養子に出し、門弟の山口尚中(舜海)を養嗣子として順天堂を継がせた。「政治家に教えてあげたい」と姫が呟く。実子が無能だったわけではないのは、松本良順を見れば分かるだろう。司馬遼太郎『胡蝶の夢』でお馴染みだからダンディは良く知っているし、講釈師も近藤勇や沖田総司との関連で詳しい。維新後は初代陸軍軍医総監になっている。長男惣三郎の消息は良く分からないが、林董は外務大臣、逓信大臣を歴任して伯爵になったから、凡庸ではなかっただろう。
     尚中は明治政府から大学大博士を任ぜられ大学東校(東京大学医学部の前身)の初代校長に就任した。教授陣にも順天堂出身者が多く、東大医学部は順天堂によって作られたと言ってよい。大学退官後は下谷練塀町で順天堂医院を開き、これが後に順天堂大学に発展する。
     そして高和進(明治政府の公式旅券第一号を得てドイツ・ベルリン大学へ留学・卒業。東洋人として初の医学博士)を養嗣子に迎えて跡を継がせた。進は陸軍軍医総監となる。一方、もう一人の養子岡本大道には舜海の号を与え、佐倉順天堂を継がせた。
     そしてその進もまた河合達次郎を養嗣子とした。達次郎は東京医専(東京医大)初代校長になる。順天堂は実に四代に渡ってこうした相続方法を続けてきたのだった。また尚中ン娘で進と結婚した志津は、後に女子美術学校の経営に携わることになる。そのために初期の女子美の理事長は順天堂主が兼務していた。
     実に良い場所に来た。ここを見ただけでも佐倉に来た甲斐がある。ついでだから綾瀬はるかちゃんを詠みこんで見る。

     蘭学に思ひは遥か汗拭ひ  蜻蛉

     ここからは蘭学通りを西に向かう。途中、妙経寺の門前の掲示板で「我日本の柱とならむ」の文字を見つけて、ロダンが一所懸命読んでいる。「坂本竜馬とかそんな人の言葉かと思ってた。」この寺は日蓮宗で、問題の発言は勿論日蓮のものだ。

    詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず(「開目抄」)
    (http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1010827255)

     「開目抄」は日蓮が佐渡に流罪になっていたときに記したものだ。私はどうも日蓮とは肌が合わないようで、このエキセントリックな情熱にはついていけない。「今日はお寺には寄りません。時間がなくなってしまいますから」と姫が宣言した。
     その先を左に曲がれば「佐倉ゆうゆうの里」の広々とした敷地に入る。公園のような広さを持つ介護付き有料老人ホームだが、ここが目的ではない。「こんなところ、我々じゃ入れないよ」と中将が笑う。
     調べてみると料金表が見つかった。一番狭い二十二・三平米の1Kに一人で入る場合、入居一時金は二千二百九十万円必要だ。それに管理費、食費などで毎月最低十三万円ほどはかかるのだ。なるほど私は絶対に入れない。
     「地図だとグルッと回り込むんですが、こっちの方が近いんですよ。」姫はそのまま敷地の中を真っすぐ歩く。やがて冠木門が見えて来た。旧堀田邸である。佐倉市鏑木町二七四番地。ここでもボランティが待ち構えているが姫が案内を断った。「各自で適当に見てください。集合はこの玄関前にします。」
     最後の佐倉藩主堀田正倫が明治二十三年(一八九〇)に建てて住んだ邸宅である。六畳の玄関を入ると八畳に床の間付きの応接間と六畳の間、四畳半の中の口がある。そこから畳廊下にそって右に行けば家丁詰所(七畳半)、家従詰所(八畳)、家令詰所(八畳)を経て漸く台所に至り、次の間、役女詰所(八畳)、寝の間(八畳)、居間(床の間付き八畳)がある。湯殿は当然のことながら単なる板の間で、水道なんか勿論ない。
     居間から渡り廊下でつながった書斎棟は立ち入りが出来ない。「国の重要文化財になってしまったから」と説明員が別の子連れの客に言っているのが聞こえる。年に何回かだけ公開しているようだ。母親は熱心に聞いているが子供は飽きてしまって、廊下に座り込んでいる。
     家令詰所から直角に伸びた渡り廊下から客座敷に入る。十二畳の客間に十畳の次の間が繋がり、縁側と畳の小間がついている。この部屋がドラマ『Jin―仁』で薩摩屋敷の場面として使われたらしい。坂本竜馬(内野聖陽)が胡坐をかいて談判をしている写真が掲げられていた。「その座布団に座ると庭が見えないんですよ。」姫は下見のときに座布団に座って、坂本竜馬の気分になっていたらしい。縁側に立てば広い庭が見える。
     浴衣に角帯の恰幅の良いボランティアが登場した。私は最初、ここには宿泊施設があってその泊まり客かと勘違いしてしまった。水戸斉昭や堀田正睦のことを話し始めるものだから、ロダンと話がはずんでいる。
     畳に据えられた甲冑を見れば講釈師が喜ぶ。「ほら、もう小札(サネ)とか縅糸がないだろう。鉄砲の時代になったからなんだ。」縁側から左手の奥に行くと化粧の間、湯殿へと繋がっていた。
     建物を出て庭に回ると広く、ここは丘陵になっているのが分かる。かつては三万坪、現在ではその三分の一に削減されてはいるが、それでも広い。百日紅が綺麗に咲いている。
     赤い斑点のある百合が綺麗だ。「鹿の子百合だね」と中将が教えてくれる。下を向いた花弁は羽を広げるように上に反り返って、雄蕊がぶら下がる格好だ。「なるほど、花弁と萼が違うね」とロダンは呟いているが、私にはやはり区別が難しかった。(先月の里山ワンダリングに参加していない人には何のことか分からないだろう。六弁に見える百合の花は、三枚が花弁、三枚が萼である。)

     庭園に羽根を広げて鹿の子百合  蜻蛉

     もう一度蘭学通りに戻る。少し遅れた私たち数人を、突き当たった質屋の前でロダンが待っていてくれた。「質屋に御用でしたか。」「質屋なんか、学生時代にドイライヤーを買った位しか記憶がないですよ。」私も似たようなものだ。質屋のウィンドウに安いラジオが展示されていたので買ったことがあった。「そうだよね、今ならリサイクルショップがあるけどさ」と小町も相槌を打つ。
     「蘭学通り商店街」と書かれていても商店街らしき風情はなく、城下町あるいは昔ながらの古い街道のような道だ。古めかしい二階建ての家が多く残っている。金物屋、煙草屋、畳屋、染物屋がある。普通にはこんな商売はもう単独でやっていくことは出来ないと思うのだが、佐倉ではまだ成り立っているらしい。「間之町」と御影石に白く彫った道標が立っている。
     クランク状に曲がる道は城下町特有だ。「岩槻でもこんな道があったろう」と講釈師が注意を促す。白壁の正面に格子を嵌め込んだ上に、「肴町山車飾」の看板を取り付けている家がある。格子の中に飾られているのがその山車飾りなのだろう。彫刻を施した欄間をいくつかに切り離して壁に埋め込んでいるようだ。家は特に商売をやっているようでもない。
     山車が出る祭りは佐倉藩総鎮守の麻賀多神社の祭礼である。鏑木町の若衆によって麻賀多神社の御輿渡御が行われ、六町(横町・上町・二番町・仲町・肴町・弥勤町)がそれぞれ趣向を凝らした山車人形を引き回すらしい。横町は「石橋」、上町は「日本武尊」、二番町は「玉の井」、仲町は」、肴町は「竹生島」、弥勒町は「八幡太郎義家」と決まっているようだ。
     この辺は新町である。街灯の柱には、歴代佐倉藩主の名を大書した幟(旗指物)が取り付けられている。最初に見たのは「二十代藩主・堀田正倫」である。正倫は最後の藩主だから、ここから先に行くに従って時代を遡ることになるのだろう。
     高札場を模した場所で写真を撮っていると、「そこは何の関係もありませんよ」と姫から声がかかる。それでも写してしまったのだから見てみると、佐倉市民憲章と慶応四年三月の太政官布告(勿論レプリカ)が並べて掲げられている。布告(定)はこうなっている。

    一 人たるもの五倫の道を正しくすべき事
    一 鰥寡孤独癈疾のものを憫むべき事
    一 人を殺し家を焼き財を盗む等の悪業あるまじく事

     鰥寡(かんか)なんて知らなければ読めない。「五榜の掲示」のうちの一つである。ここにあるのは最低限の道徳遵守を謳ったもので、このほかに、徒党・強訴・逃散の禁止(一揆の禁)、切支丹・邪宗門厳禁、万国公法履行(外国人加害の禁)、郷村脱走禁止(浮浪の禁)の四つを含めて、慶応四年三月十五日に明治政府が初めて出した五つの禁制である。

     炎天や明治の布告に立ち止り  蜻蛉

     明治創業の小川園本店(お茶)は、蔵の一階部分が店舗になっている。そのホームページによれば、佐倉の茶は廃藩置県後の旧佐倉藩士授産事業として始められたものだ。佐倉藩では旧士族授産事業葉がかなりうまく進行したようだ。普通には士族の商法は失敗すると決まっているが、佐倉の場合は早くから洋学に触れて進取の気象があったものだろうか。
     「旧駿河屋」の暖簾を掛けた店は、まちづくり情報発信・町並み交流センターとして活動をしているようだ。

    敷地(二百坪)は、幕末に桂小五郎(木戸孝允)が宿泊した旅籠「油屋」跡地で、現在は明治中頃からの呉服商「駿河屋」(今井商店)時代のもの。純和風庭園も含め明治期の典型的な商家の趣を今に伝えています。
    http://www.sakura-lab.net/region/sakura/ichiruzuka/

     店先には目玉の大きな座敷童子のような少女が座っている。「あれはなんだい。」「佐倉のマスコットかね。」「ふりむけばカムロちゃん」というマンガの主人公で、年齢四百歳の妖怪である。「こうほう佐倉」に連載中である。
     「あれが図書館だぜ。」佐倉市立佐倉図書館は昔の郵便局のような二階建ての建物で、はっきり言って貧弱である。佐倉市新町一八九番地一号。「こんなのか。」現役の図書館員であるスナフキンは呆れた声を出す。佐倉市立図書館は地区図書館が三館、分館が一つ、図書室が二つで構成されていて、中央図書館というのはないらしい。蔵書の中身までは分からないが、少なくとも建物は貧弱だ。郵便局のようだと思った私の感覚は正しかった。

    佐倉図書館は、昭和五八年に現在地である旧佐倉郵便局庁舎に移転し、現在に至ります。建物は狭小であり、築後五〇年程度が経過しているため老朽化は著しく、またバリアフリーな構造でもありません。
    前計画における佐倉図書館は、現施設の改修として位置づけられていましたが、今回の計画においては、場所の移転並びに新改築を含めて検討していきます。(平成十七年・第二次佐倉市図書館整備基本計画より)
    http://www.city.sakura.lg.jp/070513000_shakaikyoiku/100kikaku/102plan/libra.pdf

     建物が貧弱なのは佐倉市も認識している。しかし、この移転新築計画が進んでいるのかどうかは不明だ。
     市立美術館のエントランスは旧川崎銀行佐倉支店の建物だ。佐倉市新町二一〇番地。かつては図書館がこの中にあったこともあるらしい。外壁工事中らしく足場が組んである。「川崎財閥は茨城のひとです」とダンディが言う。私はこういう方面にはまるで疎い。ロダンは当然知っているようだ。

    東京川崎財閥は、男爵川崎八右衛門によって設立された関東の財閥。単に「川崎財閥」と呼ばれることもあるが、同じく「川崎財閥」と呼ばれる神戸川崎財閥とは無関係。創業者の名前から「川崎八右衛門財閥」とも、財閥の性格から「川崎金融財閥」とも呼ばれる。
    水戸藩御用商人から、一八七五年東京に進出し川崎組を設立。一八七六年安田善次郎と共に東京・日本橋小舟町に第三国立銀行(現在のみずほ銀行)を開業。一八八一年東京・日本橋檜物町(現在の三菱UFJ信託銀行日本橋営業部の地)に単独で川崎銀行を設立。この川崎銀行を中核企業として、保険、貿易、鉱業などに進出。
    財閥本社の定徳会は戦後の財閥解体で一旦解散したが、現在は不動産会社「川崎定徳株式会社」として東京港区、新宿区を中心に事業を展開している。(ウィキペディア「東京川崎財閥」より)

     美術館本体は近代的な建物だが、エントランス部分だけ川崎銀行の建物を残している。大正七年(一九一八)、矢部又吉の設計により、川崎銀行佐倉支店として建設されたものである。当時の銀行建築として流行した様式のようだ。

    腰下を石積、柱形とともに外壁を煉瓦タイル張り、屋根に半円の屋根窓と飾破風を設ける。内部は数次の改装で当時の様子は窺えない。ルネッサンス様式を基調とし、柱形上部、入口庇,飾破風など上部装飾のデザインにバロックの様式が採用されている。
    http://www.chiba-muse.or.jp/SCIENCE/kenzo/pages/300.html

     入口脇に置かれたオブジェを見に行ったダンディが、「浅井忠でした」と教えてくれる。浅井忠も佐倉藩士の子である。
     「さっきもあったろう」とスナフキンが声を出す。百メートルもない間隔で書店が三軒営業していた。村山書店、ヨコテ書房、光明堂書店である。地場の個人経営の書店がどんどん消滅している時代にこういう光景は珍しい。長く続いて欲しいと思う。
     寛政年間創業の看板を掲げる三谷屋呉服店は蔵造りの店構えだ。明治十七年に建てられた店らしい。蔵六餅本舗木村屋(明治十五年創業)も同じように蔵を利用した店になっている。佐倉の城下町は由緒ある建物の保存状態が良い。しかし中には、もう人が住んではいそうもない家、逆に廃屋のようであっても磨りガラス越しに洗剤が見えたりして生活の片鱗が見える家もある。

     「向うに見える山が目的地です。ここでちょっと休憩しましょう。」成田街道(二九六号)に出たところで姫から塩飴が配られた。「腹減ってきちゃったよ、いつになったら食えるんだい。」「あれ、さっきは被爆者の思いを実感するために、飯は食わないって言ってたのに。」
     「今日は八月六日ですね。」「そうなんですよ、黙祷しなくっちゃ。」ダンディが無理やり姫のトートバッグを奪い取って肩にかける。「私は徹底的に世之介をやるんです」と、自慢しているのかヤケになっているのか分からない。
     この街道の東側が武家町になる。「ここが道路とお城を区切る橋です。」「それならこの川は三途の川か。」川ではなく堀である。土塁の跡を示す辺りには土が崩落して根っこがむき出しになった木が生えている。説明板によれば、佐倉城は石垣を作らず、土塁で築いた城だったようだ。空堀の跡もちゃんと分かる。
     「佐倉連隊跡案内図」を見れば講釈師の血が騒ぐ。「二二六の時はさ、佐倉連隊が鎮圧に出動したんだ。甲府の連隊と一緒に。あの時の反乱軍に柳家小さんがいたのは有名だろう。」

    佐倉城は土井利勝が、徳川家康の命により、元和三年(一六一七)完成以後延享三年(一七四六)以来堀田氏の所領したものであるが、明治六年ごろ(一八一三)建造物はすべて取りこわされた。同七年歩兵第二連隊がおかれた。
    後、明治四二年第一師団歩兵第五七連隊となり、以来昭和二十年(一九四五)八月一五日まで、千葉県一円を徴兵区と定められ、名実共に房総健児練武乃地であった。
    この間、西南、日清、日露、欧洲大戦、関東大震災、日支事変、大東亜戦争と数多く乃国難におもむき常に師団最強の部隊として郷土の信頼にこたえた。
    本連隊乃主力は、昭和十一年乃二.二六事件以来満洲に移駐し、同十九年七月まで、孫呉において、ソ満国境の警備に当たったが、同年十一月フィリッピン乃レイテ島に転進し、宮内連隊長の下、物量を誇る米軍と五十日にわたり激戦し玉砕した。
    こ乃内第三大隊はグアム島において奮戦した。(佐倉兵営跡碑)

     なぜか小町がそれに対抗して「高崎にも連隊があった」と自慢を始めた。高崎に置かれたのは東部軍管区所属の「第十五連隊(東部第三十八部隊)」だった。「小学校は元の兵舎だったもの。」ロダンも首を捻る。「歩兵第二連隊って、水戸にいませんでしたか。」これはロダン自身が調べた結果、明治四二年(一九〇八)に五十七連隊と交代して、佐倉から水戸に移転したと分かった。
     「第二連隊はその後ペリリュー島で玉砕しました。」そして、高崎の第十五連隊も水戸の第二連隊と同じ運命を辿った。私はその島の名を知らなかった。大岡昇平『レイテ戦記』、亀井宏『ガダルカナル』、高木俊朗『インパール』は読んでいても、何しろ戦線が広すぎて全てを理解するのは難しい。

    ペリリューの戦いとは、太平洋戦争中の一九四四年(昭和十九)九月十五日から十一月二十五日にかけペリリュー島(現在のパラオ共和国)で行われた日本軍守備隊(守備隊長・中川州男 大佐)とアメリカ軍(師団長・ウィリアム・リュパータス少将)の陸上戦闘をいう。(ウィキペディア「ペリリューの戦い」より)

     ペリリュー島守備隊は朝鮮人労働者を含めて約一万二千人。捕虜となったもの二百二名、他はすべて戦死したと思われたが、戦後になって昭和二十二年四月、洞窟に逃げ隠れていた三十四人が米軍に投降した。
     「磨崖仏があるんです。ひとりじゃ見られなくて。」姫の言う通り、歴博のゲートのところに「古園石仏大日如来」と記された磨崖仏があった。「俺は大分で見たよ。」講釈師は実に様々な場所に出没している。崖をそのまま運んで来られる筈はないので、これは大分県臼杵の石仏のレプリカであった。

    古園石仏大日如来像に代表される臼杵石仏(磨崖仏)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫刻されたと言われています。その数は、六十余体にもおよび、このうち五十九体が国宝となりました。
    石仏群は四群に分かれ、地名によって、ホキ石仏第一群(堂ヶ迫石仏)、同第二群、山王山石仏、古園石仏と名づけられました。http://www.city.usuki.oita.jp/sekibutsu/

     「どうして、こんなところにレプリカがあるんでしょうか。」訊かれても分からない。ただ、歴博は日本の歴史民俗考古学に関するもの全てを対象とする博物館だから、貴重なものはそれを実感させるためにレプリカを造るのは有りうることだ。
     レプリカだって重要な学習史料である。珍しい板碑や石仏などが、寺院にしまいこまれてなかなか見られないことがある。そんなときに、模造でも良いから、実物大で元あった場所においてくれるとどんなに良いだろう。貴重な(特に国宝級のような)史料、資料は全国各地で厳重に保存されているから、精巧なレプリカを展示するというのは歴博の方針である。
     愛宕坂は腹が減った足には少しきつい上り坂だ。「あそこに衛兵がいたんだよ。」確かに衛兵所跡の案内板が立っている。「講釈師は誰何されたでしょう。」「誰でも入れるよ。」「喋り過ぎる兵隊はダメじゃないかな。」

       まず昼飯を食わなければならない。入口を入って階段を下りる。「知ってるんですか」とロダンが驚くが、初めて来た私が知る筈がない。何となくこっちの方だろうと階段を下りただけだった。ミュージアムショップを抜けてレストランに入ると、既に客が一杯入っている。十二時を過ぎているから仕方がないか。取り敢えず四人だけが席に着き、後は暫く待たなければならないと覚悟を決めてタバコを吸って戻ると、すぐに呼ばれて席に着くことが出来た。
     おろし豚カツ定食にはアイスコーヒーがついて千二百円。ロダンが注文したジャジャ麺はミートソースのスパゲティみたいだ。姫はチャーハンにしている。ヨッシーのざるそばには赤い飯がついている。酢飯だったそうだ。私の飯も赤いが酢は入っていない。これが古代米なのだろうか。メニューを見ると、古代カレー、縄文ハヤシ、黒米のおむすびセットなど、古代米を使ったものが多い。
     ダンディがキリマンジェロのTシャツを自慢して見せに来る。「一時に出ます」とリーダーが言っているのに、すぐにみんなは出る準備を始める。「エーッ、まだ十分あるのに。」姫が嘆く。とにかく講釈師は急ぎたいのだ。

     「シルバー料金はありませんね」とダンディが確認し、入館料四百二十円を払って博物館に入る。小町は「紅板締め」の企画展示に入りたいようだが、その場合には八百三十円必要になる。歴博と呼んでいるが、正式には国立歴史民俗博物館である。

    「歴博」の愛称で親しまれている国立歴史民俗博物館は、昭和五十八年三月に開館しました。本館は日本の歴史と文化について総合的に研究・展示する歴史民俗博物館で、千葉県佐倉市 にある佐倉城址の一角、約十三万平方メートルの敷地に延べ床面積約三万五千平方メートルの壮大な規模を有する歴史の殿堂です。原始・古代から近代に至るまでの歴史と日本人の民俗世界をテーマに、実物資料に加えて精密な複製品や学問的に裏付けられた復元模型などを積極的に取り入れ日本の歴史と文化についてだれもが容易に理解を深められるよう展示されています。(HPより)

     二時に集合と決め、自由に見学することになった。第一展示室は原始・古代(旧石器時代から奈良時代まで)だ。大きな部屋がいくつも続いていて、どこから見始めれば良いのかも良く分からない。縄文土器を見ていると、「縄文人より古い港川人のことを知ってますか」とダンディが声を掛けてくる。私は知らなかった。大体、原始古代は弱いのである。「知らない、そうですか」とダンディが笑う。「科学博物館にはあるのに、ここにはそれに関するものはないようですね。」
     悔しいので調べてみると、これは「縄文人より古い」というよりも概念が違うのだ。「縄文」は文化的歴史的概念だが、港川人というのは人類学の範疇であり、展示するとすれば民族学博物館に相応しいだろう。

    一九六七年、沖縄県島尻郡具志頭村港川(現在の八重瀬町字長毛)の海岸に近い石切場で骨が発見された。
    この人骨は、約一万七千年から八千年頃ものだと推定されている。
    身長は男性で約一五三~一五五センチ、女性で約一四四センチ。全体的に小柄で腕は細めで胴長なのに対して手は大きく、下半身がしっかりとしていたとされている。また、顎ががっしりしていて、硬いものも食べていたとされている。
    沖縄県立博物館・美術館に「港川人復元像」が所蔵されている。また、八重瀬町立具志頭歴史民族資料館には、常設展示の一つとして港川人コーナーがあり、全身骨格のレプリカやこれまでの研究成果が紹介されている。(ウィキペディア「港川人」より)

     縄文時代が約一万六千年前から始まるとすれば、それより古い後期旧石器時代人である。国立科学博物館が顔立ちの復元図を作成した。

    新たな復元図は、そうした研究を総合したものだ。科博の海部陽介研究主幹は「港川人は本土の縄文人とは異なる集団だったようだ。港川人は5万~1万年前の東南アジアやオーストラリアに広く分布していた集団から由来した可能性が高い」と語った。
    http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201006280113.html

     ウィキペディアによれば、これまで確認された旧人は次の通りだ。浜北人(静岡県浜北市)は下層出土の脛の骨が一万八千年前とされる。港川人は上述の通り。山下町洞人(那覇市山下町)は三万二千年前の子供の脛の骨。
     逆に、かつて旧石器時代人と思われていて、最新の研究成果で地位を失ったものもある。葛生人(直良信夫主張)は骨八点のうち四点が動物骨、二点が四百年前のものと結論づけられた。三ケ日人は九千年前の縄文早期と判明した。牛川人は人類とは認められず。明石人(直良信夫発見)は戦争で焼失してしまって石膏模型しかない状態で、多くの研究者が新しい骨だと主張している。
     ダンディは邪馬台国論争や弥生時代の命名などに因んで、東大日本史の罵倒を始めた。確かに古代史分野において、かつては東大系と京大系で縄張り意識のようなものがあったのは事実だと思われる。邪馬台国の位置について京大系研究者は近畿説を採り、それに対抗するように東大系は主に九州説を主張した。しかし私は古代史に関してほとんど無学で、論評は控えなければならない。
     ダンディが罵倒する井上光貞だって、高校生の私は中央公論社『日本の歴史』シリーズ第一巻に感激したのである。今思えば、私が史学科なんていう何の役にも立たない学科を選んだのには、幾分かはその影響があったのではないか。
     銅鐸の現物も初めて見た。史学科出身の癖に今まで写真で見るだけで、もう少し薄っぺらいものかと思っていたのだから無学も程がある。銅剣も綺麗なものだ。
     「鎧が木でできてるじゃないか。あんなもので防げたのかな。」講釈師はこういうものが好きだ。甲冑が出現するのは戦争が発生したからだ。自然採集主体の縄文時代には基本的に戦争は起きなかった。弥生時代、米の栽培と共に日本列島に戦争というものが発生したのだ。「たぶん、ぶんなぐるっていうのが主体でしょう。」「弓矢があっても板の鎧出防げるよな。」
     多賀城の石碑。「去京一千五百里、去蝦夷国界一百二十里、去常陸国界四百十二里、去下野国界二百七十四里、去靺鞨国界三千里。」なるほど勉強になる。「靺鞨国界三千里」なんて誰も測った訳ではないだろう。白髪三千丈の類ではないか。

     第二展示室が中世(平安時代から安土桃山時代)だ。「安土桃山時代っていう呼称はおかしいですよ。」ダンディが急に難しい議論を始めた。桃山という呼び方は元禄期以後のことらしく、秀吉の時代には伏見城と呼んでいた。それに政権中枢の場所を示すなら安土大坂時代と言わなければならないと言うのである。安土桃山時代も、最近では織豊時代、織豊政権時代と呼ぶ方が歴史学的には一般的かも知れない。時代のイメージが一番分かりやすい呼び方で良い。
     時代区分論やその呼称については、日本史学会でも六〇年代から七〇年代にかけて大論争があったもので、それには硬直化したマルクス史観からの脱却の問題も絡んでいた。簡単に素人が言うのは難しい。
     平安時代からを「中世」としているのも、今更ながら新鮮だった。私の高校時代の教科書では、中世は鎌倉時代から始まることになっていた筈だ。これはかつて中世を封建制度の時代と規定したマルクス史観に引き摺られた概念で、機械的に日本史に当て嵌めてはどうにもうまく説明がつかない。鎌倉時代と江戸時代と、日本には二種類の封建体制が存在したからだ。六〇年代末頃から、社会制度としての荘園を中心に考える見方が生まれてきた。七〇年代には、平安中期以後を中世と考えていたように思う。
     しかし考えてみれば、三世一身の法(養老七年だから奈良時代である)によって、古代律令制の根幹である班田収受体制が崩壊して荘園体制へと移っていく。そして荘園体制の息の根を完全に止めたのが織豊政権による楽市楽座や検地だと見れば、平安から織豊までを荘園体制の時代、つまり中世とする時代区分についても理解できる。

     百万塔陀羅尼は凸版印刷博物館でオリジナルを見ている。「あそこは良かったですよね、また行きたいな。」碁聖は印刷博物館には随分感心したようだ。阿弥陀一尊種子の板碑(複製)が二基並んでいて、「これがキリークだ」とマリーに教えたが、意味が分かったかどうか。梵字一字で仏を表したものを種子(しゅじ)と呼ぶ。キリークは阿弥陀如来を表す梵字のことだ。
     「菅浦文書」を見たのも私には懐かしい。湖北近江国菅浦は早い段階で惣を形成して戦国時代を乗り切った。そこに残された膨大な中世文書は、中世惣村の歴史を語る貴重なものだ。活字本として刊行されていて、藤木久志ゼミでは毎回そのコピーを一通づつ読んでいたから、ここに展示されているものも記憶がある。乙名(おとな)、中乙名の名前で惣の掟を書いている。実際に一週間ほど菅浦に泊りこんで遊んだことも学生時代の数少ない旅行の思い出だ。
     正長の土一揆で崖の花崗岩に彫られた文字は、やはり教科書の写真でみるのとはずいぶんイメージが違う。実物は奈良市柳生にある崖だから、勿論精巧なレプリカだ。石は縦横三メートル程の大きなもので、その右下を四角く削り取り、稚拙な文字を彫っている。「正長元年ヨリサキ者カンへ四カンカウニヲ井メアルヘカラス」正長元年より先(以降)は、神戸四箇郷に負目(負債)あるべからず。「神戸四箇郷」とは大柳生庄、小柳生庄、坂原庄、邑地庄の四庄を指す。徳政を勝ち取った勝利宣言だったが、公家の側からは恐ろしげに記録された。

    正長元年九月 日、一天下の土民蜂起す。徳政と号し、酒屋、土倉、寺院等を破却せしめ、雑物等恣に之を取り、借銭等悉く之を破る。官領、之を成敗す。凡そ亡国の基、之に過ぐべからず。日本開白以来、土民の蜂起之初めなり。(「大乗院日記目録」)

     こんな風に見ているといくら時間があっても足りない。今日は一時間限定だからそろそろ戻らなければならない。第三展示室(近世)の中の特別展示「妖怪変化の時空」をさっと眺めて玄関ホールに戻った。妖怪についてもちゃんと見ておきたいところだが、この辺は小松和彦を読めば大体分かる筈だ。第四(民俗)、第五(近代)、第六(現代)展示室まであるのだが、今日はとても回れるものではない。いつか、きちんと時間を取って来るべき場所である。日本史をきちんと勉強し直さなければいけない気分にさせられた。
     エントランスホールのソファにみんなが集まったところで、ダンディが水羊羹を配りだした。更に楊枝まで配るので、女性係員が飛んで来て「申し訳ありませんが、ここでは」と言いかける。「大丈夫です。配っているだけですから」と言うと安心して引き下がってくれた。確かに誤解されやすい雰囲気であった。
     水羊羹は外に出て日陰で食べることになったらしい。しかしロータリーの真ん中に座り込んで食べ始めるのはいかがなものだろう。すぐに駐車場の守衛がやって来る。「危ないですからね。食べ終わったらすぐに移動してくさい。」
     「お汁粉みたいになっちゃったよ。」貰って食べた癖に文句を垂れるのは言わずと知れた講釈師だ。「蜻蛉は食べないのか。」勿論食べない。それにしてもこれだけの数の水羊羹を持ってきたのは重かったろう。

     羊羹も汁粉に変る酷暑かな  蜻蛉

     城址公園の中を通って外へ向かう。これは広い城跡だ。佐倉藩十一万石の城というのはこれほどのものだったかと感心してしまう。これに比べると、久保田佐竹藩二十万石の城跡(千秋公園)はもう少し狭い。この半分程かも知れない。歴史民俗博物館と合わせて、ここは一日しっかりと見るべき場所である。それを認識しただけでも良かった。
     白い花はヤブミョウガ。写真を取っているとスナフキンが手帳を取り出した。「どうしたのだ」と小町が笑う。「折角写真撮ってもメモしてないと忘れちゃうからさ。」正しい態度である。
     堀田正睦とハリスの像が並んでいる。「この殿さまは少し小さくないかい。」「でも当時の日本人だったらこんなもの。」しかし隣のハリスもやはりそれほど大きくはない。「縮尺ですよ。」姫の声に「やっぱりね」と声がかかるが、姫は適当に口にしただけだった。
     やはりこれは等身大の像であった。ハリスは身長百七十二センチで私とほぼ同じだ。アメリカ人としては小さい方だろう。堀田正睦の方は調べても良く分からない。ただハリスが等身大なら、こちらも等身大と考えて良いのではないだろうか。ざっと百五十センチほどか。ただ裃姿で痩せているから、まだ子供時代の像だったかもしれない。と言うのは、福地桜痴の次のような証言があるからだ。条約勅許を得るために京都に出張した正睦の姿である。

    その上に備中守は識見はずいぶんありし閣老なりしかど、身体肥満にして容貌閑雅ならざるに、着慣れざる衣冠と、物慣れざる廷礼に拘束せられて、まず閣老たるの威望を損し、次にはこの人平素弁才に長ぜずして、きわめて訥弁の性なりければ公卿の得意なる舌長に敵し難くして、第一着の論弁において、脆くも立ち会いに後れを取られたり。(福地桜痴『幕末政治家』)

     備中守とは堀田正睦のことだ。川路聖謨、岩瀬忠震の言を入れて条約締結を決心したのは、佐藤泰然を招いて順天堂を開かせるほど開明的だったからだ。当時の大名としては充分に識見がある人物だったと言って良い。但しそもそも幕府の法理論としては、勅許を求める必要は全くなかったのである。構わずに押し切ってしまえば良かったのではないか。これ以後、あらゆることが朝廷の許可を必要とするようになったのが、幕府にとって惜しまれる。
     「くらしの植物苑」では朝顔の展示をしているが、今日は寄る訳にはいかない。大手門跡を過ぎれば、城址公園もここまでということだろう。蝉がひっきりなしに鳴いている。

      したたるや佐倉の街に蝉しぐれ  午角

     市民体育館の前には千葉県佐倉集成学校の碑が立つ。明治維新前には成徳書院と称し、これが現在の佐倉高校の前身であるのは最初の方で書いた通りだ。「集成」は旧字体で「輯成」と書く。出典は孟子の「孔子之謂輯大成、輯大成也者、金聲而玉振之也」だという。
     すぐそばに立っている像は西村勝三だ。「誰ですか、それは。」説明文を読んでみる。

    勝三は初め佐野藩の禄を喰んだが、安政三年(一八五六)脱藩し、その後武士も捨てて、佐野の豪商正田利右衛門と横浜に出て貿易に従事した。
    やがて明治二年(一八六九)大村益次郎から製靴をすすめられ、弟の綾部平輔と製革製靴事業創始を決意して断髪した。断髪令に先立つこと二年であり、この決意に感動して、高見順は「日本の靴」を著したほどである。
    勝三翁の創業は「伊勢勝製靴場」といったが、その後「桜組」と改称、更に大同合併して皮革は「日本皮革株式会社」、靴は「日本製靴株式会社」として今日の大をなす源となった。
    翁は又、正田利右衛門から製鉛法の研究を託され、それが耐火煉瓦の研究となり、明治八年「伊勢勝白煉瓦製造所」に結実し、之が後「品川白煉瓦株式会社」となり、今日の盛業を見るに至った。
    本碑及び像周辺の煉瓦は、特に寄贈された同社製の耐火煉瓦である。
    翁は又、ガス・ガラス・靴下・洋服等々の事業も手がけ、夫々の業界の先達と仰がれている。

     「なんだ、靴屋さんでしたか。」ダンディの反応は素っ気ない。靴屋ねエ。実はこの人物には品川でもお目にかかっていたのを姫の言葉で思い出した。もし関心があれば、第十二回「東海道品川宿・大森貝塚編」(平成十九年八月)を読み返して貰いたい。品川の東海禅寺から少し歩き京浜東北線の下を潜ったところに、官営品川硝子製造所跡の碑が建っている。明治十八年に西村勝三に払い下げられ、品川硝子会社となったものだ。そこで西村勝三の名を見ているのである。明治期の企業家を代表するひとりである。墓は東海寺墓地にある。
     済生堂浜野病院跡の看板が立つ。「知ってますか。」「知りません。」「済生会と関係あるだろうか。」「違うんじゃないですか。」説明を読んでいたダンディが、「何だ、国会議員ですよ、たいしたことないな」と断定する。今や国会議員の地位は塵芥より低い。

    順天堂を開いた佐藤尚中に師事して医学を学び、東京医学校(現在の東京大学医学部)を卒業。(中略)西南の役では、浜野など佐倉順天堂関係者が軍医団の統率と現地での治療に大きな役割を果たした。一八八三年(明治一六)には招かれて鹿児島県立医学校の校長に就任、さらに一八九〇年(明治二三)には衆議院議員となる。浜野昇は医師出身の国会議員として、第一期帝国議会にコッホ肺病療法(結核予防法の前身)を通過せしめ、北里柴三郎と共に日本医師会および結核予防会の設立に貢献した。

     明治二十三年という時代に結核予防を主張しているのは、なかなかのものではないだろうか。田中正造が足尾鉱毒問題で鉱業停止を要求するのは二十四年の第二議会以降である。それより早い。但し法が成立したからと言って、即座に結核がなくなるわけではない。樋口一葉は明治二十九年、斎藤緑雨は明治三十七年、石川啄木は明治四十五年に結核で死んだ。なによりも太平洋戦争が終わるまで結核罹患者数は上昇し続けているのだ。
     江戸時代にも結核がなかった訳ではないのは労咳という病名で分かる。こんなことを言えば講釈師はすぐに沖田総司の名前を口にする。明治以後急激に蔓延したのは、資本の原始蓄積過程に伴う劣悪な労働条件と極貧層の拡大、軍隊内の兵営生活によるところが大きい。この環境がなくならない限り結核撲滅は難しく、結核が漸く減っていくのは戦後になってからなのだ。そして結核が死の病でなくなったのはストレプトマイシンのお蔭である。父は入営即日帰郷を命ぜられた結核患者だったが、ストマイのお蔭で死なずに済んだと言っていた。(しかし、そもそも徴兵検査で発見されなかったのがおかしい。)

       「アレッ、児玉源太郎ですよ。」児玉源太郎旧居跡には皆が驚いた。佐倉連隊の歩兵第二連隊長だった時代があったのだ。彼がいなければ日露戦争はどうなっていたか分からないというのがダンディの主張だ。私は司馬遼太郎の良い読者ではないので、あまり良く知らない。梅棹忠夫、司馬遼太郎、小松左京と並べて見て、文明を大掴みに一筆書きで描くのは関西人の優れた特徴だと思うけれど、私は歴史のもっと細かな襞のようなものに拘ってしまう。
     百日紅の巨木に花が満開に咲いている。「大きいね」と歓声が上がる。「百日紅はあんまり大きくしないんですが、あれは大きいですね」と姫も驚いている。実に立派な木です。

     百日紅仰ぎ見れども脚重し  午角

     画伯はかなり疲れて来たらしい。しかしこれからまだ武家屋敷を見なければならない。麻賀多神社の前を通り過ぎるので、ここには寄らないようだ。姫の案内文には入っていなかっただろうか。「安産祈願って書いてるからな。関係ないんだよ」とスナフキンが納得したようだ。
     旧河原家は家の中に入れないから、外周をひと廻りしてすぐに出発する。「武家屋敷って、どう言う特徴があるんでしょうか」とトミーが訊いてくる。私にも分からないが、門があって全ての部屋に畳が敷いてあるのも特徴ではないだろうか。
     パンフレットによれば、玄関を入ると十畳の座敷、四畳の次の間、六畳の居間、四畳の仲の間、四畳半の茶の間、それに板敷きの八畳ほどの納戸がつく。台所は当然土間になる。今日見ることになる三つの住宅の中では最も広い。佐倉藩でも三百石以上の上士が住んだと言われている。
     右手の暗闇坂を見下ろしながらまっすぐに進む。金曜日に「チイ散歩」を見ていると、二三年前の再放送ではあったがチイさんはこの辺を歩いて、高校生と遣り取りをしていた。「宮崎の飫肥でも武家屋敷を見ました」とトミーが言い、スナフキンは「大舘だったか、あの辺にもあったよな」と訊いてくる。大舘ではなく角館だ。「俺はさ、特攻隊の町でも見たよ」というのは講釈師だ。「知覧ですか。」「そう、知覧だよ。」みなさん色々なところに行っている。
     但馬家では中に上がり込む。「私は縁側でいいよ」と画伯は靴を脱ぐのも面倒臭そうだ。六畳の茶の間、七畳の居間、十二畳の座敷、その他に六畳の仲の間、板敷きの納戸がある。「藤沢周平の世界だわね。」「そうですね、こんな感じです。」百石取りの家だ。裏庭には茶や柚子、柿が植えられている。

     茅葺に甲冑もあり蝉時雨  蜻蛉

     庭の裏から回れば隣が武居家だ。これは移築したものである。「屋根がおかしいぜ。」スナフキンが指さすのは、茅葺屋根であるべきものが銅板で覆われているからだ。火災防止のために覆ったのではないか。念のために確認しておく。

    佐倉市では平成八年度にこの住宅を移築復原しました。この復原にあたって、本来ならば草葺屋根という旧状に戻すべきでしたが、火災防止のために不燃材である銅板葺屋根としています。
    http://www.geocities.jp/sakura_hiking/1_spot/buke_yashiki/spot.html 

     玄関三畳、六畳の座敷に八畳の居間、畳敷きはこれだけだ。「2DKだね」と言うトミーの言葉が的を得ている。ここに住んだ田島伝左衛門は九十石取りだった。藩によって石高と家格の関係は変わるが、間取りを見る限り、佐倉藩の九十石取りはかなり貧しかったのではあるまいか。これでは下女を置くこともできない。
     禄高九十石と言えば、九十石の米が収穫できる土地を与えられると言う意味だ。五公五民なら四十五石、四公六民なら三十六石が実際に手にすることのできる米の量になる。平均して手取り四十石としてみよう。武士はこのコメを換金して生活するのである。
     江戸時代の金の価値というのは難しくて悩んでしまうのだが、試しに計算してみよう。米の値段は安政の頃には急騰するのだが、江戸期を通じて大雑把に平均を取って仮に一両で一石とすれば、四十石の米の値段は四十両になる。米価を基準とした一両の価値は七万円程度と考えられるから、田島伝左衛門の年収は二百八十万円になる。
     大卒新入社員とほぼ同じとみて良いが、勿論、電化製品や車を買う必要はないし、今のように娯楽に金を使うこともない。庭である程度の野菜は作っていただろうから、実感としてどの程度だったかは俄かに判定できない。
     それに比較するものによって計算は随分違ってくる。下女の給金が享保の頃で一年に二両程度、幕末になっても二両二分である。下女の給金の二十倍ならば、現在の人件費で考えて年収二千万円を超えると言うこともできる。しかしこれは、人間の労働力が極端に安く見積もられていた時代のせいだ。
     ついでだから、この二両二分でどれだけの暮らしができたか考えてみる。下女の生活だから小判なんか見たこともない。一両六貫文として銭に換算すれば一万五千文になる。女一人が年間に食う米の量を一日三合として一年でざっと一石。一石まとめて買える訳はないから、一升(天保の頃で百五十文)づつ百回に分けたとして、それだけで一万五千文になってしまう。おかずは買えない。つまり、二両二分というのはその程度の価値である。(一石一両の計算と随分開きがある。これは米を売る場合と買う場合の違い、まとめ買いと小口買いとの差であろう。)
     ただし下女の場合は三食付き住み込みの給金だから、仮に年老いた母に仕送りする感心な娘であれば、その母親が米を食うだけでなくなってしまうのである。ほかには何も買えない。

     余計な道草を食ってしまった。佐藤尚中が開いた佐倉養生所跡には赤御影石の立派な碑が建っている。

    この養生所は、万延元年(一八六〇)にオランダの軍医ポンペや幕府の医官松本良順らが中心として長崎に設立した「長崎療養所」をモデルにしたものと考えられます。この養生所では、十二俵半取以下の小給の佐倉藩士や領内町在の窮民の収容治療と調薬が無料で行われました。また、藩で使う薬はすべてこの養生所で公的に調薬されました。

     正面が麻賀多神社だ。なんだ、やっぱり入るのか。「ロダン、安産祈願って書いてあるぞ、生まれるのかい」と講釈師が不思議な声を投げつける。「そんな、今更。」何故かロダンがうろたえてしまうのがおかしい。「怪しい、余所にいるんじゃないのか。」「家庭の平和を乱すような発言はしないで下さい。」
     麻賀多の名前は難しい。由緒にはこう書いてある

    鎮座している千葉県は古来、麻の産地であり「総国・ふさのくに」の総は麻を表しております。その中にある印旛地方は下総国成立以前は印旛国であり、朝廷より国造が派遣されておりました。その国造に多一族の伊都許利命が就任したとの記録が先代舊事本紀に記載されております。その国造が代々祀ってきたのが当社であり、「麻の国で多氏が賀す神の社」と訓読みすることが出来ます。鎮座地の「佐倉 」という地名も「麻の倉」が転じてと言われており、佐倉地方が古代物流の中心的地位を占めていたことが判ります。

     念のためにウィキペディアも見てみると、「よき麻の生いたる土地というところより総国と称したという(『古語拾遺』)」とあるので、麻に関係するのは間違いないようだ。しかし、それなら千葉県全域に「麻」の文字を名乗る神社があっても良さそうではないか。生憎そんな神社は発見できない。
     これとは別に、ウィキペディア「麻賀多神社」によれば、伊都許利命が杉の木の下から七つの玉を掘り出し、祭神の稚日霊命と和久産巣日神を併せて祀り、玉に因んでこの二神を「真賀多真(勾玉)の大神」と呼んだと言う。玉が出たかどうかは別にして、「勾玉」の方が「麻の国で多氏が賀す神社」よりは本当らしい。稚日霊命も和久産巣日神も同じ神であり、五穀豊穣を掌るものである。
     そして麻賀多神社の総社は成田市台方にある。ただし同じ成田市の船形にある麻賀多神社には、伊都許利の墳墓と伝えられる方墳が残っているらしい。とすれば、そちらの方が本家本元だと思われる。成田市船形の方の由緒はこうなっている。

     創祀年代は不詳。社伝によると、日本武尊東征の折、大木の虚に鏡をかけ、根本に七つの玉を埋めて伊勢神宮に祈願。応神天皇の御代、伊都許利命が、印旛国造として当地に来たおりに、夢の告げにより、稚日霊命の霊示をうけ、大木の根本から玉を掘り出して霊代として、麻賀多神を奉斎したのが創祀。
     後、推古天皇十六年(六〇八)に、伊都許利命八世の孫・広鋤手黒彦が、稷山(台方)に社殿を造営した。よって、当社(船形)は、麻賀多神社の奥宮(あるいは元社)にあたり、台方の麻賀多神社を大宮という。
     http://www.genbu.net/data/simofusa/makata2_title.htm

     「香取秀真おいたちの地」碑がある。ロダンも姫も香取秀真を知らない。「ホツマと読むんですか」とロダンが驚いたが、「なるほど、尾崎秀実のホツですね」とすぐに納得する。「どう言う人ですか。」「エートね、ポプラ。」ここ二三年固有名詞が浮かび難くなっている。「なんですか。」「谷中。じゃなくて田端。」「文士村ですか。」「そう、田端文士村に住んでた。」芥川龍之介の近所に住んでいた。ポプラと言ったのは、小杉未睡を中心として画家が集まったポプラ倶楽部のことを連想したのだ。
     秀真は五歳でこの宮司郡司秀綱の養子になった。ウィキペディアの説明を引用すれば、「日本における美術の工芸家として初の文化勲章を叙勲。東京美術学校(現在の東京藝術大学)教授、芸術院会員。帝室博物館技芸員、国宝保存会常務委員、文化財審議会専門委員などを歴任」した人物だ。歌碑もあるがまるで読めないので調べる。

     たけ高き ますらをふりの ちゝのみの ちゝをし思ほゆ ふるさとハ遠し

     歌は子規門だと言うが、子規のようではない。ついでに佐倉出身の著名人を探してみた。浅井忠、依田学海、津田仙(梅子の父)、伊東忠太、明六社の西村茂樹(勝三の兄)と数えていると、学芸に関して世に知られる人材を輩出している。浅井忠はさっきの美術館のところで触れた。津田仙は農学者、キリスト者として知っている人がいるだろう。伊藤忠太は築地本願寺の建築でお馴染みだろう。妖怪が好きな人物で、青空文庫で『妖怪研究』という文章を読むことが出来る。
     西村茂樹は『明六雑誌』第一号に、西周のローマ字論を批判捕捉して、「開化の度に因りて改文字を発すべきの論」なるものを発表した。批判というより西の説を補強する論説で、日本語ローマ字表記論は、この辺りから始まっていた。(姫に岩波文庫『明六雑誌』を貰ったお蔭でこんなことが分かる。)
     依田学海は知らない人が多いかも知れない。明治期の劇評家として名高い。私は森銑三や内田魯庵の文章で知った。幸田露伴が学海に処女作『露団々』の序文を頼んだ。そういう依頼をしてくる人間は多かったから、どうせ山出しの書生だろうと適当にあしらって露伴を帰したが、読んでみて学海は驚いた。

    和漢の稗史野乗を何万巻となく読破した翁ではあるが、これほど我を忘れて夢中になった例は余り多くなかったので、さしもの翁も我を折って作者を見縊って冷遇した前非を悔い、早速詫び手紙を書こうと思うと、山出しの芋掘書生を扱う了簡でドコの誰とも訊いて置かなかったので住居も姓氏も解らなかった。いよいよ済まぬ事をしたと、朝飯もソコソコに俥を飛ばして紹介者の淡嶋寒月を訪い、近来破天荒の大傑作であると口を極めて激賞して、この恐ろしい作者は如何なる人物かと訊いて、初めて幸田露伴というマダ青年の秀才の初めての試みであると解った。
    翁は漢学者に似気ない開けた人で、才能を認めると年齢を忘れて少しも先輩ぶらずに対等に遇したから、さらぬだに初対面の無礼を悔いていたから早速寒月と同道して露伴を訪問した。老人、君の如き異才を見るの明がなくして意外の失礼をしたと心から深く詫びつつ、さてこの傑作をお世話したいが出版先に御希望があるかと懇切に談合して、直ぐその足で金港堂へ原稿を持って来た。(内田魯庵『露伴の出世咄』)

     学海が若い妾を連れて向島に遊んでいるのを仲間に見られ、照れてしまったというのは、何で読んだ話だったか。森銑三『明治人物夜話』、内田魯庵『思い出す人々』、巌谷大四『東京文壇事始』を覗いてみたが、いずれも学海の事を書いているのに、このエピソードがない。やっと思いついて山口昌男『敗者の精神史』を開くとあった。とすれば、時間的に私が学海を知ったのは山口のこの本が最初だったかも知れない。
     本殿裏の大銀杏を塀越しに見ていると、すぐそばに、直径三四センチほどの細い木のために、塀の屋根を切り落としているのをロダンが発見した。「大銀杏より、こっちの方が価値があると思う。」

     後は駅に戻るだけだ。そば処「房州屋」の裏の蔵は大谷石で造られているらしいが、屋根をブルーシートで覆っている。地震の影響だろうか。「大谷石って弱いだろう。」「工作はしやすいんだけどね。」
     午前中に通り過ぎた蔵六餅本舗に戻って来た。佐倉市新町二二二番地一号。「入ろうぜ」講釈師が先導して店に入る。「それじゃ何か買わなくちゃいけなくなってしまう」なんて言いながらみんなが入った途端、講釈師はすぐに出てきてしまう。「早く行こうぜ。」
     蔵六は亀である。六を蔵す。手足と首と尾を合わせて六つ、これを甲羅の中に隠すのでそう呼ばれる。なんでも堀田家には昔から表面に亀甲紋のある石が家宝として伝わっていたということだ。蔵六餅はそれに因んだ菓子である。もともとは銀座木村屋の二号店として、佐倉連隊にパンを売った店だという。
     「まだ出てこないのか。遅いよな。」姫とスナフキンが最後になった。何を買ったかは分からない。店のHPを見れば、最中蔵六餅は餡に求肥を仕込んだもので、十個千五百二十二円。栗蔵六というのは、求肥ではなく栗を入れてあり六個で千三百三十円である。「旦那様に一個あげて、私は五つ食べる」と姫が言っているからには、栗のほうだったか。この他に、青梅一個を包み込んで焼いた「梅のかほり」という焼き菓子があり、この三種類がこの店の銘菓である。

     炎天や銘菓に迷ふ城下町  蜻蛉

     三時半になった。もうまっすぐ日暮里に向かってビールを飲みたい気分だが、「ここに入ろうぜ」という講釈師の声には従わなければならない。駅前の喫茶店に入る。ロダンがダンディ、小町の万歩計を参照しながら出した歩行距離は十一キロだ。初めて歩いた佐倉は歴史の濃い町だった。
     メニューを見るとビールが五百円だ。これから日暮里まで一時間以上とみれば、この辺でビールを飲んでもバチは当たらないだろう。五人がビールを注文したが、「今日は生ビールはなくて、瓶になります」と言う。瓶でも何の問題もない。しかしすぐに出てくるかと思った瓶ビールはなかなか出てこない。そのうち女将さんが外に出て行ったようだ。「買いに行ったんじゃないか。」スナフキンが推理したのは間違っていなかったようだ。やがて戻ってきて出されたのは大瓶である。あと十五分ほどで飲み干すには大瓶はちょっときつい。
     それを見ていた小町が蒟蒻の燻製なるものを分けてくれた。不思議なもので、私は初めてお目にかかる。一見するとビーフジャーキーのようでもある。最初の食感はゴムを噛むようで食い千切るのが難しい。噛んでいるうちに繊維質の歯触りと香りで、やはり蒟蒻だと分かる。蒟蒻を脱水させたものだから食物繊維の塊である。ビールのつまみとしてはなかなか良い。下仁田の名産だろうか。それにしても蒟蒻を脱水させようという発想はどこから来たのだろう。

     蒟蒻の燻製噛むで呑むビール  蜻蛉

     四時二十一分発の特急では少し散らばったが全員が座ることができた。なんだか眠くなってくる。日暮里に到着して、中将小町夫妻は「夕焼けだんだん」で総菜を買うと別れて行った。
     日暮里のさくら水産はもう何度目だろう。トミーはさくら水産に来るのが初めてのようだ。ロダンが注文を取りまとめるのを見て、「慣れてるな」と感心している。私たちは「さくら水産友の会」とでも言うべきで、店から何かポイントをもらっても良いくらいだ。「もういつまでも若手ですから」とロダンが愚痴をこぼす。
     いつものように飲みかつ喋り二時間ほどで店を出た。ダンディは入谷の「金太郎」に行かねばならない。カラオケに行くのは姫、碁聖、画伯、ロダン、マリー、蜻蛉の六人だ。私はなんだか疲れてしまったようで、「疲れてるね」と画伯に指摘される。

     伸びる声夏の夜更けに唄う歌  午角

     疲れてしまった私の声はまるで伸びていかない。画伯の言う「伸びる声」は碁聖の低音と姫の高音だった。ロダンと私は、久保浩『霧の中の少女』とか安達明『女学生』なんて、ちょっとどうかと思われるものを歌ってしまう。「それって、いつ頃の歌なの。」舟木一夫や西郷輝彦に代表される青春歌謡というものがあった時代だ。それにしても二歳違いのロダンと歌謡曲に関する嗜好が全く同じというのも不思議なことである。サバを読んではいないか。碁聖はマリーに「歌のセンズがいい」なんてお世辞を言っている。ロダンは相変わらず時間も考えずに破れかぶれで選曲するから、四曲ほど無駄に入れたことになった。

    眞人