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    番外 大山街道を歩く 其の三 (高津駅~江田駅まで)
    平成二十三年十月八日(土)快晴

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2011.10.15

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     あちらこちらで金木犀が甘い香りを漂わせている。朝晩と昼とで寒暖の差が激しくて着る物に悩む。念のため薄手のジャンバーをバッグに入れて来た。旧暦九月十二日。秋晴れである。
     集合は、前回のゴール東急田園都市線の高津駅だ。数年前にはひとつ先の溝口まで通勤していて乗り慣れた電車だが、川越市から渋谷までは滅多に乗らない副都心線を利用したので、渋谷駅の乗り換えでちょっとまごついてしまった。
     トイレで同じ電車だったらしい宗匠と出会い、改札を出ると既に画伯と講釈師が待っている。相変わらず早いことだ。高津駅の改札は一つとばかり思っていたが、ここは西口で、構内を通して向う側に東出口が見える。「前回は、この喫茶店でお茶飲んだろう。だからここで良いんだよ。」講釈師は相変わらず記憶力の冴えを誇っている。
     本庄小町からメールが入った。大宮駅でトラブルがあり、田園都市線に乗ったところだと言う。「少し遅れます」なんて書いているが、充分間に合う時間だ。そこにリーダーが到着し、「皆さん早過ぎますよ。今日こそは一番乗りだと思ってたのに」と頬を膨らませる。ロダンが念のために東口の方に回って待機してくれた。
     定刻十時までに集まったのはリーダーのあんみつ姫、画伯、宗匠、中将小町夫妻、ロダン、チイさん、桃太郎、碁聖、スナフキン、ドクトル、講釈師、若旦那夫妻、チロリン、マリー、蜻蛉の十七人だ。

     駅前から府中街道に出てすぐに大山街道と交わる高津交差点に来た。「こっちに行くんですか。」街路灯に「大山街道」の標識が取り付けてあるから間違う気遣いはない。二子からこの辺りでは大山街道の目印が多い。「久しぶりに晴れましたね」と姫が画伯に笑いかけている。歩くには絶好の日和だが、今日は私たちのような格好の連中は他に見当たらない。三連休の初日で、人はもっと遠方まで遊びに行ったのだろう。
     「古いお店が一杯並んでいますから、よく見て下さいね。」角に建つのは嘉永年間(一八四八~五四)創業の田中屋という秤店だ。高津区溝口三丁目十四番一号。江戸時代に川崎で唯一認められた秤屋だと説明に書かれている。江戸時代には、秤は秤座によって統制された。精度統一のため勝手に売ることも修理することも許されない。万治年間(一六五八~一六六〇)以後、全国の秤座を支配したのは守随氏で、その後裔は現在も株式会社守随本店として産業用の秤を製造販売している。

    秤座は定制の秤を販売するほかに、従来の古秤の検定権も保持していた。検定を通過しないものは没収され、善良なものは守随の印を押捺してこれを保証した。この際に秤座は印賃として一挺ごとに金一分を徴収することを許可されたが、のちに古秤の検定は廃止されて古秤の隠匿や偽秤も禁じられた。人々は秤座製作の新秤を使用しなければならず、また秤の破損した時も補修することは許されず、必ず秤座に依頼して修繕しなければならないと定められた。このため秤座と守随氏の利益は莫大なものになった。(ウィキペデイア「秤座」)

     簡単に秤と言っても実に幅広い。ここ有限会社田中屋の営業品目は以下の通りだ。圧力計製造、圧力自動調節装置製造、医療用計測器製造、医療用検査機器製造、温度計製造、計器、計測器レンタル・リース、計量器、工業用試験機、照度計製造、騒音計製造、測量機械器具製造、測量機器、体温計製造、体積計製造、茶卸・販売、はかり製造、巻尺製造、ものさし製造、理化学機械器具。この中で茶の卸売販売というのが不思議だ。
     駐車場を挟んだ隣には、明和年間(一七六四~七二)創業の灰吹屋という薬屋がある。高津区溝口三丁目九番三号。「薬屋」というよりドラグストアで、ここを本店として神奈川県内に七店を展開している。店舗に隣接しているのは、おそらく明治の頃のものと思われる二階建ての蔵だ。一階のシャッターには、格子戸と大きな暖簾、そして三度笠に大きな風呂敷包みを背負った旅人の姿が描かれている。二階の白壁は観音開きの分厚い窓が二つ開いていて、壁の厚さが分かる。

     明和嘉永街道行けば秋髙し  蜻蛉

     狭い道で車がひっきりなしに通る。碁聖は身軽に車の間を縫って向う側に渡り、カメラを構えている。大山街道ふるさと館の入口前には古い道標が立つ。「高幡不動尊道・南川崎道」と彫られていて、元からここにあったのではない。大山道と府中道の交差する地点(今の府中街道からもう少し西寄り)にあったものを移したのである。説明によれば文政十二年(一八二九)に建てられた。正面の「是より北 高幡不動尊道 南川崎道」は読めたが、他の面はよくわからない。説明によれば左側面には「西大山道 文政己丑年三月吉日」、右側面に「東青山道」、裏面には「北登戸エ一リ大丸エ二リ高幡エ二リ日野エ十町余八王子エ二リ 願主江戸 大田氏」とあるらしい。ここはかつての高津村役場があったところで、溝口市街の中心部に当たる。
     ふるさと館に入ってすぐに驚かされるのは、長さ三メートル、幅十五センチほどもある、やたらに大きな木刀だ。目立ちたがりの江戸人が競って大きな太刀を作り、何人もの男が担いで石尊大権現に奉納したのである。

     秋日和出を待つごとく納太刀  閑舟

     一階のホールには、薬箪笥、長火鉢などの生活用品が展示されている。「長火鉢は昔、家にあったな。」碁聖が言うと、「うちには今もあるよ」と小町が応じている。川漁で使う竹製モジリの前では、チイさんや画伯、講釈師が「なかなか獲れないんだよ」と、釣りの話題で賑わっている。
     益子焼の浜田庄司がここで生まれた。「人間国宝です」と姫に言われても、私は全く疎いので、それがどの程度の価値なのかもよく分かっていない。日本最初の「人間国宝」なのですね。辞書的な知識を得ておこう。

     神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市)溝ノ口の母の実家で生まれる。東京府立一中(現東京都立日比谷高等学校)を経て、一九一三年、東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科に入学、板谷波山に師事し窯業の基礎科学面を学ぶ。一九一六年同学校を卒業後は、学校が二年先輩の河井寛次郎と共に京都市立陶芸試験場にて主に釉薬の研究を行う。またこの頃柳宗悦、富本憲吉やバーナード・リーチの知遇を得る。
     一九二〇年、イギリスに帰国するリーチに同行、共同してコーンウォール州セント・アイヴスに築窯する。一九二三年にはロンドンで個展を開催、成功する。
     一九二四年帰国、しばらくは沖縄・壷屋窯などで学び、一九三〇年からは、それまでも深い関心を寄せていた益子焼の産地、栃木県益子町で作陶を開始する。
     殆ど手轆轤のみを使用するシンプルな造形と、釉薬の流描による大胆な模様を得意とした。戦後、一九五五年二月十五日には第一回の重要無形文化財「民芸陶器」保持者(人間国宝)に認定。また一九六四年に紫綬褒章、一九六八年には文化勲章を受章する。
     柳宗悦の流れをうけて民芸運動に熱心であり、一九六一年の柳の没後は日本民藝館の第二代館長にも就任する。また一九七七年には自ら蒐集した日本国内外の民芸品を展示する益子参考館を開館。一九七八年益子にて没。享年八十三。(ウィキペディア「浜田庄司」より)

     私は焼き物や民芸運動には全く疎い。ひねこびた物を見つけてきて喜んでいるようで、どうもその感覚が分からない。道具は機能的であればあるほど良いのではないか。シンプルなほど良い。スロープを上がって二階に行ってみたが何もない。「なんだ、これだけか。」講釈師が悪態を吐く。
     ふるさと館の隣の大和屋というケーキ屋が、浜田庄司の育った家である。とにかく古い店が多い。向かいにある岩崎酒店も見事な蔵造りの店だ。斜め前の丸屋は溝口の名主で宿場の問屋役を務めていた。
     お茶の村田園の店先には「口上」と書かれた立て札が立てられ、江戸期にはこんにゃくを製造販売していたと書かれている。「こんな所で蒟蒻なの。」先月上州を歩いてきた私たちには不思議なことだ。それが明治になって醤油製造販売に転身し、さらにお茶の専門店になった。なんだか首尾一貫しない家ではないか。高津区溝口三丁目十二番七号。
     大石橋の親柱は石灯篭を模した形で、二ケ領用水と記されている。二ケ領とは橘樹郡の稲毛領(川崎市北部)と川崎領(川崎市南部)をさす。

    川崎市を流れる二ヶ領用水は、小泉次大夫によって一五九七年から十四年の歳月を費やし一六一一年に完成された神奈川最古で最大の農業用水です。その後農業用、飲料水、そして工業用水として利用されました。
    約四百年も前に造られた全長約三十二キロにも及ぶこの水路は、現在では宿河原の取水口から平間浄水場あたりまでしか残ってなく、さらに都市整備などによりその様相は激変してしまいましたが、その流れは今も変わらず流れています。
    http://www.kanagawa-magazine.com/aruku/05005/aru05005.html

     小泉次大夫の名前は、前回、丸子川(六郷用水)開削のところでも聞いている。この用水によって稲毛領三十七村、川崎領二十三村の新田開発が進み、「稲毛米」と呼ばれる上質な米を産した。
     今日は行かないが、もう少し上流(北西)まで歩けば、久地堰・分量樋(円筒分水)を見ることができるそうだ。「興味のある方は是非、こんど歩いてみてください。」中野島と宿川原から引いた水が合流したあと、そこで溝口、小杉、根方、川崎堀の四つに分水したのである。
     天保年間創業の稲毛屋金物店にも古い土蔵が隣接している。高津区溝口二丁目十六番十三号。「あの看板が邪魔ね。」大きなブリキの看板が壁に取り付けられているのだ。稲毛屋と言えば、新宿富久町の善慶寺で宗匠に教えてもらった平秩東作の屋号でもあった。余計なことを言うと、あの頃は平秩東作が何者なのかまるで知識がなかったが、その後、森銑三『平秩東作の生涯』、『平秩東作の歌戯帳』、『平秩東作雑話』を読んでかなりのことを知った。
     鈴木時計店にも口上書きが立てられ、明治三十三年創業、川崎で最も古い時計屋だと自慢している。これだけ歴史のある店が並び、しかもそれぞれが今でもちゃんと営業している商店街は、全国的に見ても珍しいのではないか。
     街道から右にちょっと入ったところが溝口神社だ。高津区溝口二丁目二十五番一号。
     七五三の幟が立てられていて、「七五三って今頃だったかな」とスナフキンが不思議そうな顔をする。私も、もう少し寒くなってからの行事と思っていた。念のためにウィキペディアを開いてみると、やはり本来は十一月十五日の行事である。

    天和元年(一六八一)十一月十五日、館林城主、徳川徳松の健康を祈って始まったとされる説が有力である。
    旧暦の十五日はかつては二十八宿の鬼宿日(鬼が出歩かない日)に当たり、何事をするにも吉であるとされた。また、旧暦の十一月は収穫を終えてその実りを神に感謝する月であり、その月の満月の日である十五日に、氏神への収穫の感謝を兼ねて子供の成長を感謝し、加護を祈るようになった。明治改暦以降は新暦の十一月十五日に行われるようになった。現在では十一月十五日にこだわらずに、十一月中のいずれかの土日・祝日に行なうことも多くなっている。北海道等、寒冷地では十一月十五日前後の時期は寒くなっていることから、一か月早めて十月十五日に行なう場合が多い。(ウィキペディア「七五三」より)

     ここでは北海道、寒冷地の風を取り入れているらしい。
     更に「勝海舟自筆のおおのぼり」があるとの説明板が設置されている。幟自体は隠してあるのだろう。神社と海舟との間にどういう関係があるのか分からないが、「一郷咸蒙明神之霊 萬家奉祝太平和」と書かれてあるという。こんな短いものもまともに読めず調べなくてはならない。「一郷ことごとく明神の霊を蒙り」と読むのであった。私が読めなかったのは、「蒙」を「こうむる」ではなく「蒙昧」と思い込んでしまったからだ。無学も甚だしい。「御免蒙る」という句を思いつかなければならない。「咸」はことごとく、全てという字である。後段は「万家、太平の和を祝い奉る」か。
     ところで私は姫の資料にある説明が気になる。「もとは皇室と対立していた赤城大明神を祀っていたが、村社の資格を得るために、天照大神に祭神を変え」とある。神社で「皇室と対立」するなんていうものがあるのだろうか。典拠は何か、訊き忘れてしまった。
     赤城大明神はもちろん赤城山の神だ。延喜式内社で上野国二宮である。ただし、前橋市三夜沢町、前橋市富士見町の赤城神社、前橋市二之宮町の二宮赤城神社の三社が本家争いをしている。これを論社と呼ぶ。ウィキペデディアによれば群馬県内に百十八社、全国では三百三十四社を数えた。
     山岳信仰が神道仏教と習合して大明神と称していたのは、中世以来の神仏習合のごく普通の形だ。私たちが目指す大山石尊大権現、あるいはこの近辺だと高尾山薬王院の飯縄権現なども、山岳信仰と習合した神であるのは言うまでもない。明治以降、「明神」や「権現」の名称が禁止され神宮寺や別当寺と分離されたのも、習合系の神社一般に起こった災難であり、何もここだけがそうだったのではない。但し、前橋市富士見町赤城山の赤城神社では、今でも(あるいは戦後からか)祭神を赤城大明神としている。それが「皇室と対立」するとはどう言う訳があるだろう。もしかしたらと想像するだけだが、明治維新に当たって佐幕派に組みしたのかも知れない。
     因みに、一昨年の六月に飯能の竹寺(天王山八王寺)で精進料理を食べた人は覚えているだろうか。あの寺は全国的にも珍しい、神仏分離を経験せずに今も牛頭天王を祀る寺(及び神社)であった。
     「村社」が出て来たついでに、明治の社格制度もちょっとメモしておこう。典拠はいつものようにウィキペディアである。明治四年(一八七一)、に太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」によって定められ、昭和二十一年の神道令で廃止された。
     まず神祇官が祀る官幣社、地方官が祀る国幣社がある。官幣社は天皇家に関係する神社、各国の一の宮がほぼ国幣社に相当する。この間に格の差はほとんどないが、官幣社には宮内省から、国幣社には国庫から共進金と言う名目で補助金が与えられた。この下に、府県社、郷社、村社と格付けして、それぞれ地方公共団体から共進金を与えられる。
     全国の神社を国家で統制して格付けしたのだが、それ以外に格付けされない神社が、昭和十三年の調査で、全国の神社のおよそ半数の六万五百社にものぼった。これらの神社は要するに補助金が貰えないのだ。それに小さなものは合祀令によって廃社されるものもあった。だから溝口神社の場合は、生き残りを賭けて村社の格を得るため、お先走って祭神まで変えてしまったということではないだろうか。
     参道の一画に松尾大明神の石碑が立っているのを見つけて、「酒造りの神様です。皆さん、拝まなければいけません」と姫が笑う。松尾大明神と言うのも私は初めて聞く名前だ。知らないことが多すぎる。

    酒の神様として有名な神社。松尾大社は京都最古の神社で、秦一族の氏神であった。秦一族は、四世紀から六世紀ごろ韓半島から大挙して渡来、瀬戸内海を東上、畿内、山城葛野郡に入植し、長岡京、平安京の造営に貢献した渡来系の集団である。飛鳥時代の大宝元年(七〇一)、秦忌寸都理がこの地一帯に住んでいた民が神として崇めていた松尾山頂の磐座を麓へ勧請し、一族の氏神として社殿を建立、秦氏が神職を受け継いできたのが起りとされている。その後、奈良時代の天平二年(七三〇)朝廷から大社の号が勅許され、平安時代には皇城鎮護の神として東の「賀茂の厳神」、西の「松尾の猛霊」と称された。中世(一般的に鎌倉・室町時代)以降は秦氏の技術に由来する醸造祖神として崇敬を集めた。酒の神様を奉った神社というのは、全国にもいくつか存在するが、ここ京都では松尾大社や梅宮大社、北野天満宮といった神社が酒にかかわる神社として有名である。中でも松尾大社は、京都最古の神社でもあり、日本第一醸造之神として全国的にも非常に有名な神社となっている。
    (「松尾大社」http://inoues.net/family/seinan_yama2.htmlより)

     水神宮の石宮があるのは二ヶ領用水との関係だろうか。と思ったのは、資料を良く読んでいない勘違いであった。昭和六年に簡易水道が完成するまでは、二ヶ領用水際と久本に親井戸を掘って、井戸組合を作って水を管理していた。水神宮はこの井戸組合によって祀られたものだった。水神宮の正面を覆う白い石蓋には、トグロを巻いた蛇のような模様が浮き出ている。
     参道が尽きたところに「下乗」札の貼られた柵があり、ロダンが「おかしいな。下馬ではないんですか」と悩み始める。上州小幡で「下馬」の碑を見た後遺症だろう。あれだって下乗碑と呼ぶのが正しい。馬でも駕籠でも、とにかく乗り物から降りなければいけないということだ。

     「ほら、これだよ。」講釈師が私を呼ぶのは、手水舎の水鉢を支える「がまんさま」を見せるためだ。目黒区八雲の八雲氷川神社で初めてお目にかかったものと同じだ。講釈師が「がまん」と言っているのを私と宗匠は信用せず、ネットを検索してようやく納得した。「信用しなくちゃダメだ。ホントにこの連中は疑り深い。俺は嘘言ったことなんかないだろう。」嘘はいくらでも吐くが、不思議に深い知識を披露することがあるので油断ができない。この「がまんさま」は、両耳の上が少し盛り上がった形をしている。唐子の髪型ではないだろうか。服装も中国の道士風だ。姫も唐子かも知れないと推測している。水鉢の右側面には嘉永六癸丑年四月吉辰の年紀が刻まれている。
     七五三の親子連れが数組お参りをしている。拝殿に貼られたポスターを見ると、九月中旬から十二月初旬まで受け付けている。正面に置かれた丸い大きな鏡を見て、疑問を持った宗匠が(最初に疑問を感じたのは桃太郎だったようだが)、年配の(宗匠は「昔の」と言う)巫女に訊いた。宗匠の学習意欲は偉い。「鏡に映して澄み切った心で神様に向かい合うためです。」それなら講釈師に教えなければいけない。
     「ダメだよ、俺が鏡に向かうと角が生えちゃうんだよ。」こういうところが独特である。「鏡よ鏡、鏡さん、世界で一番美しいのは、だよ。」それでは白雪姫の悪い王妃になってしまう。「鏡に向かうと本心が映し出されるんだ。」

     拝殿の鏡へ浄む秋の空  閑舟

     拝殿の横に回ると、本殿はブロックを積み重ねたような石造りだ。これも宗匠がさっきの巫女に尋ねると、関東大震災後に防火のために石造りにしたと言う。
     神社を出ると、こんもりした丘が見え、「あの山が七面山です」と姫が教えてくれる。かつて赤城大明神の神宮寺であった宗隆寺だが、今日は寄らない。「七面山って、山梨の方にあったよね。」小町が小さな声で訊いてくる。身延山久遠寺の奥の院に当たる七面山は法華信仰の山である。これで宗隆寺は日蓮宗であることが分かる。だから街道沿いには御会式のポスターが飾られているのだ。毎年十月二十一日には万燈お練りでかなり賑わうと言う。
     日蓮入滅は弘安五年(一二八二)十月十三日である。普通であれば十三日の当日に行うのではないかと素人は考えるが、大石寺の解釈では「弘安五年十月十三日」を西暦に換算すると十月二十一日になるらしい。それとは違って池上本門寺では十三日を中心に行うという。
     信号を越えるとすぐに交差点の脇に栄橋の親柱石が立っている。「さかえはし」であり、「ばし」と濁らない。川は流れていない。ここが溝口宿の外れだ。

    この角型で細長い石造物は欄干の親柱で、橋の名は字の通り「さかえはし」。
    その名は平瀬川と根方掘(二ヶ領用水)が交差したこの場所にあった。ここが溝口村上宿と下作延村片町の境にあったことから「境橋」、あるいは古代から中盤にかけ、このあたりに馬上からの検見(見積り)で税などが免除された田畑があったと伝えられていることから「馬上免橋」とも呼ばれてきた。
    また、明治二十一年の溝口村の「地誌」には「栄橋」とある。これは溝口村と周辺の村々の繁栄を祈願して命名されたものであろう。(後略)(案内板による)

     この辺りに独歩が宿泊して『忘れえぬ人々』を書いた亀屋があったようだ。南武線の踏切を渡って溝口駅前にやってきた。「この辺は目を瞑っても歩けるでしょう」と碁聖が言うが、通勤していた当時はただ家と会社を往復するだけで、何も知らない。「お酒はどこで飲んでたんですか。」溝口で飲んだことなんか一二度しかないんじゃないか。むしろスナフキンの方が詳しい筈だが、彼がこの辺りを徘徊していたのは三十年も前のことだから、「まるで変わってしまったよ」と言う。碁聖も昔はよく大井町線で来ていたらしい。
     「巧匠不留跡」碑は浜田庄司生誕地だ。「さっきのケーキ屋は何だっけ。」「あれはお祖父さんの家です。そこで育ったんですね。」ここは母方の実家である太田医院の跡地である。
     「なんて読むんだろうか。」どうやら禅語のようで、「巧匠跡を留めず」と読む。細工や努力の跡を見せないということか。但し横にある説明板には、碑の意味は「陶匠は跡を留めず」と書かれている。何故「巧」を「陶」に変えるのか、下手な小細工をする。駒場の日本民芸館にも柳宗悦の「巧匠不留跡」の書が展示されているらしい。とすれば、民芸運動のスローガンでもあろうか。
     そのそばには小さな祠に祀られた箱型の庚申塔がある。片町の庚申塔と呼ばれる。高津区下作延三〇九先。「いるかい。」「いるよ、ほら、これが俺だよ。」しかし青面金剛に踏みつけられている筈の邪鬼は、正面に花を活けた牛乳瓶が邪魔になって良く見えない。瓶をどけてやっと確認できた。
     右側面に「西大山」の文字が見え、道標として建てられたことが分かる。私には見えなかったが、全部で「東江戸道 西大山至 南加奈川至 文化三年寅(一八〇六)」と彫られている筈だ。この辺は道が錯綜していて、溝口、久本、下作延の三村の境になっていたらしい。庚申塔がサエの神(塞の神、道祖神)の役目も担っていた典型的な例だ。ドクトルが一所懸命カメラを構えている。そしてこれが事件の発端だった。

     大山道庚申塚が迷い道  午角

     信号を渡って狭い坂道に入ると、道路の舗装の表面に青い小石が混じっていることに姫が注意を促す。「これが大山街道の目印なんですよ。」郵便局前を過ぎ、上り坂を暫く行くと三叉路に出る。その青い石は右側の道に続いているが、「あれは新道です。こちらの左の坂が旧道になります」と姫が言う。分岐点には「ねもじり坂」の標柱が立つ。ねもじりとは何か。姫の調べでは、坂の麓がねじれているからという説がある。麓がねじれるというのはどういう地形なのだろうか。
     坂の案内板によれば、昔はもっと急な坂道で、別名「はらへり坂」と呼ばれた難所であった。青い石を敷いた新道は、この急坂を迂回するように造られたのだ。

    江戸から明治にかけて行われ、大山街道沿いでもみられた「鮎かつぎ」。相模川上流でとれた鮎を江戸に運ぶためのものでした。夕方とれた鮎を一晩がかりで江戸の魚河岸に運んだ鮎かつぎ人夫。彼等がその道中で唄ったのが「鮎かつぎ唄」です。
    鮎は瀬に棲む 蝉や木に止まる 人は情(なさけ)の下に住む
    溝口の亀屋は、鮎かつぎ人夫の留め場になっていました。厚木方面からきた人夫は、ねもじり坂の上にくるとこの唄をうたって留め場に合図を送ったといわれます。街道筋の村人は、この唄で朝の支度にとりかかったという話です。(「大山街道用語辞典」)
    http://ooyamakaido.com/modules/xwords/entry.php?entryID=66&categoryID=8

     この青い石は何だろう。「色が目に優しいんだ」と講釈師が言う。こういうことはドクトルに聞けば分かるだろうか。「アレッ、ドクトルがいない。」「小町もいないよ。」どうしたのだろう。庚申塔では確かにいた。写真に夢中になって信号で離れてしまったか。「私が見てきます」とロダンが道を戻り、碁聖もそれに続いて行く。フットワークの軽いひとだ。

     道をしへ探しあぐねてはぐれ鳥  閑舟

     姫も途中まで降りていったが、暫くして携帯電話を耳にしながら、「出会えたそうです」と戻ってきた。一安心だ。やがてドクトルと小町が現れた。ドクトルが写真を撮っている内にはぐれてしまい、信号から駅の方に行ってしまったのだ。「電話したのにさ。」小町は中将と私に電話を入れていたのに、中将も私もまるで気付かなかった。確かに着信履歴にある。申し訳ないことをした。「携帯電話も役に立たないじゃないの」と、携帯電話を持たない宗匠が私を責める。
     実はこういう事件は過去にもあった。中野ではチイさん置き去り事件が発生した。それに誰も話題にしないが、私も待乳山聖天で置き去りにされたことがある。もっと酷いのは、両国回向院で六人が置き去りにされたことだ。参加者十五人中の六人、つまり四割が足りなくても平気なリーダーは講釈師であった。
     「ひだるいって言葉知っていますか。」いきなりロダンが言い出したが、誰も知らない。「聞いたことがないわね。」東京人の若女将は全く聞いたことがない。私は聞いたことがあるような気もするが覚えていない。「水戸の方じゃよく言います。」それなら水戸の方言ではないか。しかし宗匠が広辞苑を引いて正解を出した。空腹の意味である。「それじゃ、ひもじいと同じですね。」はらへり坂からの連想だったか。
     「饑い」と書く。「飢」の本字であるから意味は明瞭で、飢餓の状態である。大槻文彦『言海』では「乾怠シ(ひだるし)ノ義カ」とある。由緒正しい日本語であった。しかし、三省堂『大辞林』には「現代語では西日本を中心とする言い方で共通語としてはあまり用いられない」とある。今日は西日本出身のダンディとヨッシーがいないから、分かる人間がいなかったのだ。
     由緒正しい日本語が一部地方で残っている例は秋田弁にもあって、「うたてし」という形容詞を使う。勿論秋田弁相応に訛って「うだでなや」なんて言う。情けないとか詰らないとかいう意味だが関東では聞いたことがない。
     「福島では疲れたことをコワイって言います。」姫が福島出身だったのを忘れていた。秋田では「コエー」「コエカッタ」などと使う。これは東北から北海道にかけてよく使われる筈で、「強い」だろう。硬い飯を「おこわ(御強)」、「こわめし(強飯)」というように、筋肉が硬くなる、つまりコワバル状態を指すと思われる。
     坂道は結構長い。坂道が苦手な姫が黙々と先頭を進んでいく。チイさんは五円玉を拾って喜んだ。

     坂道でご縁を拾ふ秋日和  蜻蛉

     途中でさっき分かれた青石の道が合流し、三百メートル程で坂を上り詰めると笹の原子育て地蔵がある。高津区末長二百三十五番。新築の立派なお堂の左前の小さな祠の中に地蔵が立っている。高さ百二十九センチ。赤い着物をまとわせている。錫杖がやたらに太くて、その先端の環の部分は地蔵の顔と同じ位になっているものだから、講釈師と顔を見合わせてしまった。石工の技術が拙いのではないだろうか。

     街道を行けば地蔵の赤ずきん  午角

     お堂の右側には、如意輪観音を載せた秩父・西国・坂東供養塔が建つ。地蔵堂があるということは、本来見るべき地蔵はこの堂の中にいる筈なのに、私はてっきり手前の小さな祠の地蔵が主人公かと思ってしまった。主人公の(つまりお堂にいる)地蔵は、四国八十八ヶ所巡りで子を授かった夫婦によって建立されたものであり、都筑橘樹酉年地蔵の第十八番札所として、毎酉年になると開帳される。私たちが見ているのは昭和十九年の空襲犠牲者を弔うために建立されたものだったようだ。
     「西 荏田方面  東 二子橋方面」の道標。荏田は都筑郡荏田村である。矢倉沢往還(大山街道)の人馬継立場として栄えたところだ。小さな屋根つきの庚申塔がある。

     梶ケ谷交差点の歩道橋で国道二四六号を渡ると、一瞬方向が分からなくなってしまう。この辺まで来ると、大山街道の目印はまるでない。結局大山街道に熱心だったのは高津区の商店街であり、住宅地になれば頑張る意欲もないのだ。
     住宅地に入り込むと、正面にこんもりした小さな山が見える。民家の裏庭のような場所だが、これが宮崎大塚と呼ばれるものだ。いったん通りすぎて右の曲がり角から回り込むと石段がある。幅五十センチほどの狭い石段を登ると、頂上のツツジの植え込みの中に「馬絹大塚供養塔」が建つ。裏に回れば「昭和四十五年九月吉祥日 馬絹有志建之」の文字だ。
     馬絹は地名である。マギヌと読むらしい。宮前区馬絹。径二十五メートル、高さ五・五メートルの円墳(あるいは方墳か不明)と推定される。供養塔の意味は分からない。近くには国道二四六を挟んで七世紀後半と推定される馬絹古墳があって、そちらのほうはちゃんと発掘調査も済んでいるようだ。
     なにしろ、ここは個人の敷地内のため発掘調査もされていない。戦争中には陸軍東部六十二部隊の高射砲が置かれていたと言う。今と違って周りは畑が広がるばかりだったから見晴らしは良かっただろうが、さて、その高射砲は何を狙ったのか。大砲を操るのはかなりの重労働であり、それなりの広さが必要な筈だ。この小さな墳丘に大砲を据え付けるのに、どうやって運搬したのだろう。仮に運び上げることが出来たとしても、演習の度に砲弾も一緒に運び上げなければならず、兵隊だって相応する人数が必要だ。もしそんなことをしていたとすれば、日本陸軍はアホである。

    ここに置かれた連隊には時代に翻弄された歴史がある。昭和十一年二月二十六日、陸軍青年将校による反乱、所謂二・二六事件が勃発した。事件を起こした連隊を含む師団は満州に飛ばされることになったが、一部の者は残された。やがて、その残された赤坂・麻布の留守隊は解散し、近衛第二師団の指揮下の補充隊となって、川崎市宮崎に移ることになった。通称東部六十二部隊である。昭和十五年九月一日地域の住民に対し、この付近一帯を軍用地にするから一年の間に撤去するよう命令が下った。当時誰も反対はできなかった。
    http://www.toranomon.gr.jp/sitemanage/contents/attach/113/2006_08.pdf

     供養塔の由来を説明するものはなく、謎のままだ。もしかしたら東部六十二部隊の関係者によるものかも知れない。「見終わったひとは交代してください。」頂上も樹木に覆われて狭いから、全員が一度に見ることが出来ない。山にはボケ、カリンの大きな実がなっている。

     木瓜の実に日射し溢れる古墳かな  蜻蛉

     坂道は庚申坂と呼ばれる。小さな児童公園で一休みしている間に、チイさんから小さなサツマイモが配られる。勿論私は戴かないが、こんな小さな品種があるのだろうか。「もう時期が終りで、無理やり掘ってきたの。」そろそろ私もひだるくなってきた。
     宮前平の駅に近づくと、坂の下には八幡坂の標柱が建つ。「八幡神社はご飯の後に寄ります。」駅前から二百メートル程も歩いて漸く「藍屋」に到着する。宮前区小台二丁目一番一号。十二時を二十分も過ぎていて、店内のレジ前で待っている客が大勢いるが、姫の予約のおかげで私たちは平気で席につくことができた。
     スカイラーク系の藍屋は「高い」というイメージがあったが、それほどでもなかった。定食のご飯は、白米、雑穀米、きのこ飯、ちりめん山椒飯の中から選ぶ。私とチイさんは鯖の塩焼き定食で白米を選んで九百五十円。碁聖とロダンはうどん定食で雑穀米の八百五十円、画伯はカキフライ定食に雑穀米(九百五十円)を選び、講釈師は本日最も高価な(千円を超える)天重を頼んだ。
     隣のテーブルの若旦那夫妻、チロリン、マリーには、散らし寿司が運ばれてきた。その他の人のテーブルは見えないので、宗匠と小町のカキフライ以外、誰が何を食べたか分からない。「ワッ、大きいね。」運ばれてきた鯖の大きさに驚いてしまう。我が家で食う鯖の二尾にも相当しそうな厚みだ。
     「それでは伝票はここにおかせて戴きます。おひとりずつお支払いになるときは、レジにお申し付けください。」オーッ!何ということだろう。その言葉に全員が感動する。どうしたって、ロイヤルホスト桜新町店を思い出さない訳にはいかない。
     ご飯のお代りは自由で、向こうの席では宗匠や桃太郎がお代りをしているようだ。しかし飯はそんなに食えるものではない。ご飯一杯で充分に満腹した。珍しく碁聖がうどんもご飯も残さずに食べた。「食べきりましたよ。普段はこんなに食べないんだけど。」これは美味かったということかも知れない。
     個別の支払い可と言われても、この店の伝票表示は分かりやすく、しかも端数が出たのは、セットを止めて単品にした講釈師だけだから、テーブルでまとめることができる。ちゃんとしたシステムがあれば、こうして協力できるのである。「それにしてもロイヤルホストはね。」ただひとりの店員の杜撰な対応のために、ロイヤルホスト伝説は長く語り継がれることになる。

     桃太郎は一足早く店を出て、さっき通った薬局で歯磨きを買っているらしい。百円特売のチラシが貼られていたのだ。しかし小町と中将は、本庄近辺では百円もしないと言っている。後で訊くと海老名では三百円以上すると言うから、これから歯磨きは本庄で買うことを薦めたい。歯磨きは本庄に限ります。しかし薬局の前で見回しても姿が見えず、スナフキンが店内を探索に行ったものの、暫くして首を捻りながら「いないよ」と戻って来た。
     信号の前に灰吹屋宮前平店を宗匠が見つけた。明和創業の薬屋は頑張っている。行方不明の桃太郎は八幡神社の前で待っていた。宮前区平二丁目十五番二号。左の石柱には八幡神社、右の柱には小台稲荷神社とあるが、石段途中の鳥居の額には八幡神社だけが記載されている。ビルの間の石段を八段、二メートル程上がった左側に庚申塔がある。駒形の板碑の色が茶色いのは砂岩だろうか。正徳四年(一七一四)の銘を持ち、合掌する両手の背後の四本の手には、弓矢、宝珠、剣を持っているのがはっきりわかる。日月、二鳥も見える保存状態のよい綺麗な庚申塔だ。左端には「武州稲毛領」や「稲毛村」の文字が辛うじて判読できる。
     石段(百四段あるらしい)を登り切れば、拝殿が二つ並んでいる。八幡神社と小台稲荷神社だ。姫の解説では、石段の真ん中を境に土橋村と馬絹村の間に位置しており、両村のご神体二つを八幡神社に納めてあるらしい。
     「膝がガクガクしちゃったわ。」大山詣りの先達を勤める姫が、こんな階段で悲鳴を上げてはいけない。来年は頂上まで行くのである。「私は下で待ってるもん。皆さんで登って下さい。」そんなことは言わないで、ちゃんと全員でお参りするのだ。

     田園都市線の高架を潜って竹林の脇を通る。この辺りから小台坂という長い登り坂になる。道の両側はマンションが林立している。こんな坂道では生活するのも容易ではない。途中で小町の息が荒くなってきた。中将のリュックを見ると、ステッキが二本顔を覗かせている。「杖突けばいいよ。」「そうね、お父さん、杖出して。」杖を突けば楽になるはずだ。小町の息も少し落ち着いてきた。
     たまたま売り出し中のマンションを過ぎ、「参考までに」とスナフキンがわざわざ戻ってパンフレットを貰って来た。百平米で「六千九百万円より」とある。つまり最低価格が六千九百万円である。こんな町が人気の場所だというのが私には不思議だ。田園都市線は何かあるとすぐに止まってしまう路線である。それに加えてこの坂道だ。この高額なマンションは誰が買えるだろうと考えると、山道をものともしない桃太郎しかいない。謹んでパンフレットを進呈した。
     小台公園という桜の名所には寄らない。この辺りの坂の頂上は標高七十四メートルほどになり、坂下からは四十メートルも上った勘定になる。やっと下りになると、途中で「HAKURAKU」というアパートを姫が指さす。伯楽である。街道で馬医者をしていたところだという。坂下で二四六に出る。この辺は有馬という地名のようだ。さっきの馬絹も含めて、古代の牧に関係しているだろうか。
     道路脇にひっそりと立つ阿弥陀堂には、元禄元年の銘を持つ阿弥陀如来立像と、その左に小さな地蔵が並んで立っている。阿弥陀堂だから阿弥陀如来だと判断しただけで、名前を聞かなければ如来の種別なんか私には判別できない。
     道の向こう側のファミリーマート八百国商店は大正時代の立場だった。しかし、大正時代に「立場」という制度が残っていたものかどうか。
     鷺沼二丁目辺りで国道を左に逸れて少し行けば、またゆるい上り坂になってくる。馬頭観音は剥落が激しくて文字はよく分からない。「右王禅寺道 左大山道 文化二年」と刻まれているそうだ。もとは有馬さくら公園近くに立っていたものらしい。
     道が曲がりくねって分かり難いのは、宅地開発の影響だろう。ズタズタにされた街道を探し当てるのは容易ではない。もう一度住宅地に入って行くと、「玄関の向きが道に向かって斜めになっています」と姫が注意する。本来の街道がその玄関側を通っていた可能性があるらしい。
     大きな赤御影石に「川崎考古学研究所」と彫りつけた家がある。「前もって連絡すれば、収蔵品を見せてくれます。連絡先も知ってますから。」姫の言葉に応じるひとはいない。「この中で考古学に関心のある人は。」「誰もいないと思う。」「ロダンはどうですか。石が好きだし。」「イヤー。」講釈師が「考古学はチイさんが興味あるってさ」と言いだし、「ドキッ(土器)とすること言わないでください」とチイさんが口を尖らせて即答する。「いいねえ、座布団二枚」とロダンが喜ぶ。
     それにしても奇特な人だ。紹介する文章を見つけたので記録しておきたい。

    川崎の遺跡発掘を語る上で特筆すべき人が、先にも触れた「持田春吉」氏で、民間の考古研究者にして日本考古学協会の会員でもある。もともと農業だった持田氏は、ご自身の畑から土器のかけらが多数出てくるのに興味を抱いていた。昭和三十年代から四十年代にかけて多摩丘陵地域では、東急田園都市線の延長工事等に伴う大がかりな宅地造成が始まっており、持田氏の住む川崎市宮前区の有馬、鷺沼周辺でも開発に伴う発掘調査が頻繁に行われるようになった。氏は、そういった発掘調査に参加しつつ考古学への見識を深め考古学研究の世界へ入っていったそうである。そして、鷺沼遺跡の発掘を振り出しに研究を重ね、遂には昭和五十四(一九七九)年に自費でこの「川崎考古学研究所」を立ち上げたというから凄い人だ。同研究所には縄文前期の諸磯期の土器を中心に、弥生中期の宮の台式土器群や環状石斧など多数の優品が保管されており、事前に連絡すれば無料で見学させて貰えるそうだが、「そこまではちょっと」という身としては、心から敬意を払いつつも、当然の如く前を通り過ぎるのだった。
    http://www.ac.cyberhome.ne.jp/~sanpoing-world/ohyama-kaido-3.html

     私も「心から敬意を払いつつ」通り過ぎる。「マンホールの蓋に注意してください。」この辺りで川崎市から横浜市に入り込むとマンホールの蓋のデザインが変わってくるらしい。坂道を登りながらロダンは車を避けて車道に出ては、「花の模様ですよ。何が違うんだろう」と首を捻っている。同じものを見ても違いは分からない。
     そして確かにデザインが変わった。さっきまでは何かの花をデザインした形だったが、「YOKOHAMA」「OSUI」になったのである。「ローマ字で汚水って書くなよな。」スナフキンが呆れたように笑う。「どうせなら英語で書いたほうがいいんじゃないか。」英語で汚水を何というのか私は知らない。
     この辺りは「あゆみが丘」である。いつものことで言う方も飽きてしまうが、造成した宅地にこんなおかしな地名を付けるのは感心しない。歴史が断絶してしまう。地図を見れば、ここから東の方には「すみれが丘」なんていうのもある。
     「あゆみちゃん、遅くなってごめんね。」いきなり講釈師がおかしな顔付きで歌い出した。美樹克彦『花は遅かった』(星野哲郎作詞、米山正夫作曲)の積りなら、「あゆみちゃん」ではなく「かおるちゃん」である。どういう連想なのだろう。違うと言っているのに、「あゆみちゃん、遅くなってごめんね」を止めようとしない。あゆみが丘と『花は遅かった』の間には何の関係もないではないか。
     そうだったか、やっと気がついた。私もつくづく感度が鈍い。それにしても何とややこしい表現をする人だろう。ねもじり坂で遅れた小町に結構きついことを言ってしまったのを、講釈師は後悔しているのだ。面と向かって謝るのは照れ臭くて、そっぽを向きながら歌にかこつけている。それが「あゆみちゃん、ごめんね」であった。実に面倒臭い人で、感情表現はもう少し単純なほうが良い。これが天邪鬼たる所以だ。
     そこにロダンが「目方誠のデビュー曲はなんでしたか」と割って入って、無茶苦茶な質問を投げて来る。確か二三カ月前からロダンは同じことを何度も訊いていた。美樹克彦の本名(及び旧芸名)だが、私が知っているのは改名してからの『回転禁止の青春さ』(星野哲郎作詞、北原じゅん作曲)で、それ以前は知らない。そもそもまるで売れなかったから改名した筈で、知っている人間は誰もいないだろう。仕方がないから調べてみると、区立四谷第一中学時代にビクターから出した『トランジスター・シスター』がデビュー曲である。フレディ・キャノンの同名曲のカバーであるとだけ分かったが、知ったからと言って歌える訳もない。
     それにしてもほぼ毎回のように歌謡曲の話題が出てくるが、こんなことが大山街道や江戸歩きとどう関係してくるのか、私にはさっぱり分からない。

     やがて大きな造園業者の庭に出た。皆川造園である。横浜市都筑区中川七丁目十四番九号。「ここじゃないか。大山歩きでカエルの置物を交換したのは。」講釈師の言うことを即座に理解するためには、全てのテレビ番組を真剣に見て記憶していなければならない。ウド鈴木や梅宮アンナたちが、三人で交代しながら六日間で大山街道を歩き継ぐ番組があった。テレビ東京の「街道歩き旅」というスペシャル番組である。ダンディが教えてくれたのではなかったかしら。期待していたのだが、ウドはほとんど前に進まずにやたらにモノを喰い、何かを物々交換するだけで終わってしまったから、バカバカしくて余り真剣には見ていなかった。「私もガッカリしちゃって」と姫も言う。講釈師が言うようなこともあったかも知れない。「皆川造園で思い出したよ。」この番組では、六日間では山頂に到達できず(大山の中腹で日没)、結局一日延ばして登頂した。(こういうこともネットで検索すると分かる。)
     この皆川家も、かつて立場が置かれたところである。立場は宿場の中間で人馬の引き継ぎ、休憩をするところだ。広い敷地の間を街道が通っている。
     「この辺からの下り坂が、血流れ坂、うとう坂って呼ばれたそうです。」高台を降りたところが牢場谷で、処刑された罪人の血が流れた坂というのは、たぶん俗説だ。舗装されてしまって土の色は分からないが、雨で流される土の色を血に譬えたのではないだろうか。
     「うとう」は善知鳥ではないだろうね。私は能ではなく山東京伝の『善知鳥安方忠義伝』で、これを「うとう」と読むのを知った。「疎う」だろうか。しかしネットを検索している内、こんな記事を見つけた。

    昔は峠の北側が急傾斜で、掘割状であったことから地形による空洞(うとう)からきたという説が有力です。
    ウト・ウツ・ウド・ウトウ・ウドウなど同系統の峠は全国各地にあり、宇土・宇藤・烏頭・宇頭・有問・有道・有藤・有東・宇塔・宇道・鵜頭・鵜取・善知鳥・謡・宇都・鵜渡・宇止・有度・鵜戸・宇津・凹道・穴・洞・凹などと表記されています。
    これら「ウトウ系」の地名は、空洞状地形、凹状地形をあらわすものであり、峠名の場合も、その頂上付近の峠道の両側が切り立っていて、切通しの形状を呈する凹道、峡道である場合が多いようです。有名なところでは葡萄峠や宇津ノ谷峠が「ウトウ系」峠に該当するといえるでしょう。http://homepage3.nifty.com/tougepal/utou.htm

     確かに両側が高くなっていて、坂の所だけが窪んでいると言えなくもない。前方が一気に開かれたように急な坂道になっている。そこに、この辺の住人らしい腰の曲がったお婆さんが、男に手をひかれて坂を上ってくる。年をとってこんな場所に住むのは辛い。

     横浜市営地下鉄の高架を潜ってなおも坂を下る。「地下鉄の高架って不思議。」団地の建物には、「調整池」の文字が記されている。山林を崩して団地を建て道路を舗装すれば、行き所の無くなった水はどこかで溜めなければいけないのである。
     団地前の公園のベンチで休憩する。但し小さなベンチが二つしかないから、女性陣優先で座ってもらう。姫やチロリンからから煎餅とクッキー、マリーからは秋田土産の豆煎餅が配られる。「しとぎ豆がき」と言う。

    厳寒のころ秋田では、たくさんの餅を搗いて、のし餅にし、軒先で「干し餅」を作る習慣がございます。焼いたり揚げたりして、おやつや保存食としても重宝がられました。一乃穂の『しとぎ豆がき』は、黒豆の入った餅をからりと焼き上げました。羽州「鄙の里」の素朴な風味をお楽しみください。
    http://www.rakuten.ne.jp/gold/hosomichi/list_ken/akita/ak-0001/index.html

     「なんだ、何も言わなかったから、ただの豆煎餅かと思った。」「私もそうです。」私は今日初めて喰ったが、特別に美味いというものではない。「しとぎって何。」私も知らない。調べてみると、「粢」と書く。水に浸して柔らかくした生の米をついて粉にし、それを水でこねて餅にしたものだ。秋田県南地方で昔から作られたらしい。昔の菓子である。
     少し行けば左手が不動滝だ。崖の中腹に不動像が置かれ、その台座の下から樋で水を流して、小さな池に落としている。湧水だと思う(信じる)。ご丁寧にアルミのコップもぶら下げられていて、講釈師が飲んで「まろやかな味だ」と断定する。それなら私も飲んでみようか。「やめたほうがいいんじゃないの。お腹弱いんでしょう。」それでもちょっと飲んでしまった。雨乞い、喘息、風邪に霊験がある。「冷たいかい。」「ぬるい。」スナフキンと桃太郎も飲んでいるが、崖を少し回りこめば、「近代生活の向上に伴い体質の弱体化もありますので、お持ち帰りになって一回わかしてからご利用ください」と書いてある。生水は危険らしい。失敗だったか。(その後、お腹は何ともない)
     狭い石段の上には不動堂があるというので登ってみる。正式には老馬鍛冶山不動堂と言う。この時何も思わなかったのは私もつくづく感度が鈍い。(とにかく気付くのが遅いのが私の欠点である)この作文を書きながらやっと気がついた。「老馬」は、さっき血流れ坂の話題を出した時の「牢場谷」と同じことを言っているに違いない。これも馬に関係する地名だ。
     頂上はちょっとした広場になっていて、正面に小さな不動堂があり、左手の奥には稲荷が祀られている。それはそれでよいのだが、稲荷の祠を乗せた台座に「招福狐之墓」の石柱が建っているのがおかしい。墓の土台の上に、墓石ではなく祠を載せたような作りだ。鳥居の両側でそれぞれ珠と巻物を銜えた狐は、凶悪と言っても良い面相をしている。
     そこから降りる階段の方がさっきより広くて緩やかだ。「こっちの方が楽ですって」と若女将が若旦那に呼びかけるが、若旦那はさっきの階段を降りて行った。「ホントに頑固なんだから。」「ロダンだったらすぐに謝ってしまうよ。」「そんな他人の家庭のことに触れないで下さいよ。モウ。」

     早渕川に出て川沿いを歩く。この川は横浜市青葉区美しが丘西に発して南東に流れ、横浜市都筑区、港北区を経て港北区綱島西で鶴見川に合流する。かつては農業用水として使われ、この辺りには水車も置かれていたらしい。
     小さな滝になった辺りには結構な数の鯉が泳いでいる。「画伯、カルがいるよ」と講釈師が呼ぶ。「カルガモかい。」そんなに珍しくはないだろうが、せっかく望遠レンズ付きのカメラを持ってきた画伯だから、少しは鳥を撮影しなければならない。「今日はホントに鳥が見えないんだよね」とずっとぼやいていたのだ。

     漸くにカルガモを撮る秋の川  蜻蛉

     土手にはオギが咲いている。「ススキとは違うのね。」これは宗匠が詳しかった筈だ。「一本、すっと立っているからね。」姫も「ススキは根株なんですよ」と宗匠の説を補強する。実は私は初めて知った。一番簡単な解説を見つけた。

    ススキは根茎が短いので、根元から多数の茎が伸びますが、オギは横に伸びた根茎から一本ずつ、ほぼ平行して立つことが多いので、普通は遠くからでも外観で区別がつきますhttp://w2222.nsk.ne.jp/~mizuaoi/36susukitoogi.htm

     三面護岸のコンクリートに、危険水域だとか避難勧告水域だとかを示す、真新しい水位表示が取り付けられている。先月の台風で慌てて作ったものではないだろうか。
     鍛冶橋を渡って左に行く。小さなお堂には鍵が掛けられているが、罰当たりな私と講釈師は鍵を回して観音扉を開き、庚申塔を見学させてもらう。こういうことをするのは私たちの他には余りいないだろうね。邪鬼の表情がはっきりして、金剛の左手は合掌するショケラ(だと思う)をぶら下げている。握った拳の下から頭が出ているので髪の毛を掴んでいるのだろう。
     寛政五年(一七九三)、荏田村下宿の婦人たちによって建立された。この辺りは荏田宿の入り口で、向かいには一里塚の榎が立っていた。「いわれ(由来)」と書かれた説明を読めば、荏田宿は江戸を発った旅人の一日目の宿場であった。江戸から七里、およそ二十八キロか。江戸人にとって一日の旅程としてはそれほどきついものではなかっただろうが、これを三回に分けて歩いている私たちは驚くばかりだ。
     宿場の面影はほとんど残っていない住宅地だ。明治二十七年の大火で、上中下の宿場は全滅したのである。大きな蔵を持つ家を見ながら行くと、「渡辺崋山が荏田宿に泊っています」と姫が声を出す。この家がそうだろうか。天保二年(一八三一)の『游相日記』に、荏田宿の升屋(枡屋)に泊った記録があるそうだ。
     右側の民家(小泉家)の庭の中に石灯籠が立っている。横浜市青葉区荏田町三〇五番一号。宿場の面影を残す、ただひとつの遺跡ではないだろうか。若旦那は鉄柵があるから上手く撮れないと悩んでいるが、その間からカメラを差し出せば写すことができる。中台には横書きで「秋葉山」、竿には「常夜灯」、台座に「中宿」とある。文久元年(一八六一)、秋葉神社を勧請して建てられ、秋葉講の案内宿になったと言う。

     秋の日や柵越しに撮る常夜燈  蜻蛉

     「秋葉講」というのもあったのですね。知らなかった。遠州大登山秋葉寺に火防せを祈願するので、火事の多い江戸人にとっては重大な行事だっただろう。

    秋葉権現は秋葉山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神である。秋葉三尺坊大権現とも呼ばれる。観音菩薩を本地仏とし、七十五の眷属を従える。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、遠州大登山秋葉寺から勧請された全国の秋葉社、秋葉宮で祀られた。(ウィキペディア「秋葉権現」より)

     これが火防せの神として信仰されたのは何故なのかは分からない。神仏分離、廃仏毀釈で秋葉権現が廃されたため、現在の秋葉神社は火之迦具土大神を祭神とする。
     荏田交差点で二四六を超えて上宿に入る。「あのセブンイレブンが高札場のあった場所です。」説明も何も残されていない。
     布引橋(ぬのひきはし)を渡る。「ヌノヒキバシではありません。ダンディがいたら怒られちゃう。」右手には広大な敷地を持つ家が並ぶ。その奥の右手には樹木の生い茂った小山が見える。荏田城址だ。

    荏田城の歴史についてはほとんど不明である。『新編武蔵国風土記稿』では、源義経の配下に荏田源三という名がみられることから、この荏田氏の居城であったと推測しているが確証はない。また、田中祥彦氏は『多摩丘陵の古城址』のなかで、南東三キロほどのところにある茅ヶ崎城と同時に、上杉氏によって改修を加えられたものではないかとしているが、こちらも推測の域を出ない。後北条氏進出後の『小田原衆所領役帳』には、会禰采女助の所領として「小机荏田」が挙げられている。ここから、『日本城郭大系』では荏田城が小机城の支城であったと考察している。荏田城は、茅ヶ崎城同様史料に全く現れない城です。麓で鎌倉古道と大山街道が交差するため、交通の要衝を押さえる目的で築かれたものと考えられます。城は田園都市線荏田駅の北東、東名高速と国道二四六号に挟まれた台地の先端にあります。本郭・副郭の二郭からなる小規模な城ですが、深い堀や土塁が良好に残されています。現在、城のある山は麓の民家の私有地で、副郭外側の堀は堀底道となっていて歩けますが、それ以外は「私有地につき立入禁止」の看板がそこかしこに立てられていて自由には入れません。
    http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.eda.htm

     中世の城跡が好きな人たちがいる。「深い堀や土塁が良好に残されている」のなら、垂涎の的だろう。私自身は掘割や縄張り跡などを見ても余り感動しない(そもそも分からない)が、こういう史跡は行政が買うなり借りるなりして、きちんと整備して欲しい。ただ筍を採るだけの山では勿体ない。
     城址のある高台と街道との間を小黒谷と呼んだらしい。姫の調査では、江田源三広基が義経から拝領した名馬「小黒」を繋いだことに由来すると言う。但し『義経記』では江田源三を信濃の住人としていて、系譜の分からない人物である。
     国道二四六の脇の細い道で、「こちらに来てください」という声で金網の内側に入り込む。「金網の外側のつもりだったんですけど」と姫が苦笑いする。金網で仕切ってあるからには私有地なのだろう。雑草の生えた空き地と藪の境の辺に、ポツンと庚申塔が一基、さびしげに立っているのである。今日は、小さくてもちゃんと祠に祀られたものばかりを見てきた。こんな風に放置されたように立っていると、なんだか気の毒になってしまう。青面金剛とだけはわかっても、他のことは分からない。姫の資料では寛保年間のものだ。「旧大山街道 荏田宿 小黒谷 庚申供養塔 建立 寛保二(一七四二)年壬戌十一月五日」と記されているらしい。
     藪の上からはカラスウリの赤い実がいくつも垂れ下がる。「この道が一番街道らしくて良いね。」画伯が安心したように言う。

     カラスウリ 音符のように 篠竹と  千意

     道の真ん中で蝶が休んでいるのを見つけて、ロダンや宗匠が声を上げる。相当弱っているようで、飛び立つ力がなく、羽根をひらひらさせているだけだ。「ツマグロヒョウモン。そのメスだね」と私はさりげなく口にする。プロみたいで恰好良いだろう。「なんで、そんなこと知ってるの。」実は先日の上州小幡で、前翅の端が黒いのが雌であると古道マニアに教えて貰ったばかりだ。ひとは学習したことを記憶しなければならない。

     晩秋や地にへばりつく豹紋蝶  蜻蛉

     「ライオンの紋がある蝶はいないんですかね。」桃太郎が不思議なことを言い出した。そもそもライオンに紋があるか。「ピューマはどうでしょう。チーターは。」どうしても猛獣の体に文様を作って、蝶に着せてみたいらしい。
     東名高速の高架を潜ると、右手に十メートル程引っこんで、三体の地蔵をおさめた地蔵堂があった。地蔵のセットで三体一組というのはたぶんないから、おそらく散らばっていたものをここに集めたのだろう。地蔵三体はそれぞれ色も違うし、台座の石は明らかに地蔵とは別の時代に作られたと思われる。その台座が道標になっていたそうだが、何かの文字の痕跡は見えても、判読できない。「左大山道」と彫られているそうだ。
     その先が東急田園都市線江田駅になる。「荏」が当用漢字になかったため、駅名を付けるときに「江」と決めたと言うからいい加減なものである。
     「荏はどう読むんだい。」ドクトルが首をひねる。「ジンでしょうね。」「そうじゃないよ、訓読みでどうだい。」エゴマだったような気がしたが自信がないのでやめにした。『廣漢和辞典』によれば、音読みは「ジン」、「ニン」。訓はない。第一の意味はやはりエゴマであった。菜種油が普及するまでは、油と言えばエゴマの油であったと言うから、野生のものがあちこちで生えていたのだろう。その他に、大豆、やわらかい、ながびく形容、だんだん、等の意味がある。
     江田駅に着いたのは三時頃で、リーダーの計画より早かった。喫茶店を探そうと、講釈師はコンビニの店員に聞き込み調査をしているが、その前に桃太郎はいち早く探検に出かけていた。講釈師が「分かったよ、そこを右に曲がるんだ」と言いながら店を出てきたときには、ずっと先の方で桃太郎が店を発見していた。
     私はまるで関心を持たず、店の名前を覚えていなかったが、宗匠がちゃんと記憶していて調べてくれた。店名はCarlsberg、デンマークのビール醸造会社及びそのブランド名である。世界第四位のビール会社らしい。客は誰もいなくて貸し切り状態になった。アイスコーヒー三百八十円。ビールをテーマにしている店だから、画伯、桃太郎、スナフキン、姫は五百円のビールを飲んでいる。

     大山はいずこにあるや道はるか  午角

     画伯もかなり疲れたのだろう。多摩丘陵を横切って、上り下りの多い行程だから草臥れた。腰がやや重くなっている。「コルセットはしてないの。私はしているよ。」小町に言われたが、コルセットは二三日でやめてしまった。ズボンがきつくなるのである。
     ここでロダン、宗匠、小町が万歩計を確認し合った結果、本日の歩行距離は十二キロと決まった。第一回から累計でおよそ三十キロ、全コースの三分の一を超えたことになる。次回(十二月)は、すずかけ台まで十・五キロの予定だ。残り六回である。
     反省会はどこでするか。渋谷だろうと思っていたが、それでは南武線を利用するスナフキンと桃太郎が気の毒だと、乗り換えに便利な溝口に決まった。「さくら水産はないけどね。」「別にさくら水産に義理はないしさ。」「そうそう、ポイントもないんだもの。」
     中将小町夫妻はあざみ野から横浜に出て、湘南新宿ラインを使うと言う。「渋谷駅を通るよりよっぽど便利だからね。」若旦那夫妻は渋谷で少し遊んで行くそうだ。元気なことだ。
     「どこに行く。」「何でもあるだろう。」スナフキンと言い合いながら溝口駅を出ると、「あそこが安いぞ」とスナフキンが指さした。「にじゅうまる」という店だ。私も一度入ったことがある。
     タッチパネルの端末で注文するスタイルの店で、これで人件費を安く上げるのは新宿でもお目にかかった。アルバイトらしい店員が、全員が会員にならなければ会員割引はないと言う。そんな面倒なことはできない、それじゃ普通でいいよ。暫くして戻ってきたその若者が、「会員はおひとりでよろしいです」と言う。店長に言われたのだろう。それならばと、桃太郎が会員になった。チェーン店が海老名にもあるので、無駄にはならない筈だ。二時間飲んでひとり三千円也。
     碁聖、姫、マリー、チイさん、スナフキン、ロダン、蜻蛉はカラオケを探す。たまたま目に付いた「カラオケの鉄人」という店は初めてだ。会員カードを作ると安くなるらしいので、とりあえず名字だけで作成した。七時から九時まで、私はなんだか疲れてしまった。碁聖の声は相変わらず元気だ。ところがロダンが無茶苦茶に選曲している内に、折角碁聖が歌っている曲のキーが変わってしまった。「俺、何もしてない。」「押したんでしょう。」
     廊下に貼り出してあるチラシで、六十歳以上はシルバー料金になると分かった。会計をするときに「シルバーです」と叫ぶと、「はい、本日は二十パーセント引きになります」と即答される。私も「シルバー」と呼ばれる年齢になったのである。二時間でひとり千八百円。

    眞人