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    番外 大山道を歩く 其の四(江田駅からすずかけ台駅)
    平成二十三年十二月十日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2011.12.17

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     旧暦十一月十六日、快晴である。大山街道編も四回目となり、スタート地点がだんだん遠くなってくる。七時四十分頃に家を出ると思った以上に空気が冷たい。空き地の雑草の上を霜が一面白く覆って、日の光で輝いている。霜月とは本当に良く言ったものだと思う。
     いつものローソンでタバコを買うと、「今日は寒いですから気をつけて行って下さい」と言われる。昨日は「今日はお休みですか」と訊かれた。ここは、レジに到達する前に煙草を用意してくれるから、面倒がなくて良い店である。

      煙草持つ指先白き霜光る  蜻蛉

     土曜日のこの時間で東上線は結構混んでいるが、川越市駅で座れた。姫が作ってくれた資料の予習ができると思ったのに、最初の部分を眺めているうちに眠くなってしまって、ほとんど読めずに終わった。昨夜はカラオケの誘いを振り切って十二時前には帰宅したのに、日本酒を飲み過ぎたかも知れない。久しぶりに刺身、ダダミ(白子)、トンブリや鉈漬けが旨かったせいもある。門前仲町の秋田料理の店で飲んでいたのです。(八千円も取られて懐が淋しい。)
     渋谷駅で田園都市線に行くのにちょっと迷った。以前通勤で利用していた時はこんなに遠かったとは思えないし、改札口の位置が変わったのだろうか。どうも渋谷駅は簡単に私を通してくれない。トイレの入り口で、ちょうど出て来た講釈師と顔を合わせた。「おはよう、先に行っているよ。」彼はちょうど急行に間に合ったらしいが、私の方は各駅停車が二本続くタイミングになってしまった。渋谷から江田までは、急行を使って途中で乗り換えれば二十五分、ずっと各駅停車で行くと三十四分かかる。
     江田駅では改札口からちょっと外れた所でダンディ、チロリン、講釈師が待っていた。「向こうは寒いからさ。」今日のコースは西口方面から出発するのだが、確かにここの方が日当たりが良くて暖かい。日向と日陰とでは体感温度がまるで違う。
     ダンディは「今日は帽子のことを訊いてくれる人がいない」とぼやく。いつもは宗匠がきちんと確認して記録しているのに、今日は所用で休んでいるからだ。私は気配りというものを知らないので、なかなか気付かない。「ちゃんと書いておいてよ。チベットのヤクの革だから。」形はカウボーイハットのようなものだ。「ヤクって、牛の仲間かな。」そう言いながらダンディがすぐに広辞苑を引けば、偶蹄目ウシ科ウシ属と出てくる。
     定刻までに集まったのは、リーダーあんみつ姫、チロリン、クルリン、本庄小町、中将、ロダン、チイさん、桃太郎、碁聖、スナフキン、ダンディ、講釈師、蜻蛉の十三人だ。特に中将と小町は遠路遥々と御苦労さまである。「高崎線が少し遅れちゃって」と言うが、ちゃんと時間前には着いたから良かった。
     かなり高度差のある丘陵地帯に新興住宅地が広がっている。一戸建ての家の玄関は全て路面から階段を登った所にある。水害対策のような造りだが、道路から北側の奥に離れれば離れる程、遥か上の方まで階段は長く伸びている。「こんなに登るんだぜ。」「引越しも大変だ。」ここに住んでいる人は、永久に引越しなんかしないんじゃないか。「宅配便の配達だって大変だよ。」新聞少年は毎朝苦労するだろう。蓮田の豪農は、こんな石段を登ってまで一戸建ての家に住みたいひとを笑う。

      高台の豪邸目指し百段を  千意

     これが個人の家かと驚くような豪宕な家もある。ちょっと歩いただけだが、商店らしき影もない。これでは老人は住み難かろう。私はこの辺りに全く地理感がなく、どこを歩いているのか分からないまま、リーダーに先導される通りについて行くだけだ。
     ゆるい坂道を上り、最初に着いたのは市ヶ尾地蔵堂だ。横浜市青葉区市ケ尾町一六二八番十二号。「市ヶ尾」は戦国時代には「市郷」と書かれたとも言う。市が形成されていたのかと思うのはごく単純な発想だが、あるいは「イチ」には険しい地形の意味もあり、谷戸と尾根が入り組んでいる地形を指すのかも知れない。この後、上り下りを散々繰り返すことになるのだが、この時点ではまだ私はそれに気付いていない。
     町内会館の隣のちょっとした高台に地蔵堂が建ち、入口の石段の下には地蔵などの石仏が十体ほど並んでいる。皆は地蔵堂を目指してすぐに十七八段の石段を登って行くが、まずこの石仏群を見なければならない。
     中央の一番大きな地蔵には正徳元年(一七一一)の年号が読み取れた。左端に位置する、かなり風化して表情が分からなくなったものは青面金剛の庚申塔だ。「大山みち」「江戸みち」と彫ってあり、道標を兼ねて猿田坂にあったものだと推定されている。新しい地蔵もある。地蔵に赤い涎掛けはお馴染だが、青面金剛や如意輪観音にまでこれが着けられていると、なんだかおかしな気分になってくる。
     そもそも地蔵と涎掛けにはどんな関係があるのか気になった。いくつか検索してみると、どうやら、賽ノ河原で迷う子供を地蔵に探して貰うためのものなのだ。地蔵に我が子を見分けて貰うために、母親が子供の体臭の沁み込んだ涎掛けを地蔵に託すのである。そうと分かれば、庚申塔や如意輪観音に涎掛けが似合わないのは当たり前のことだった。
     宝形造りの堂は、小さいながらなかなか立派なものだ。前庭のカエデや松が綺麗に刈り込まれ、ツワブキやサザンカも咲いている。
     江戸時代には定期的に念仏講がもたれていたのだろうが、現在では毎年十一月三十日に「十夜法要」として、本尊の地蔵尊が開帳され、念仏が唱えられる。これが横浜市の無形文化財に指定されている。
     本来は旧暦十月十日の夜から十五日の朝まで続けられる法要である。永享の頃(一四二九~一四四一)、平貞国が始めたという伝説がある。後、明応四年(一四九五)、鎌倉光明寺(浄土宗)の第九世観誉祐崇上人が、勅許を得て法要を行うようになったのが、浄土宗における十夜法要の始まりと言う。

    四十センチ位の鉦を木枠に吊りさげ、鉦二枚を撞木で、太鼓にあわせて、叩きながら、独特の節回しで、ゆっくり一音ずつ長く伸ばして、「南無阿弥陀仏」のお念仏を唱えます。これを双盤念仏と言います。このお念仏に合わせて、ご本尊の御戸帳が開閉されます。http://www.01.246.ne.jp/~hata/main/menu/iroiromp/saijiki/jizoudo1.html

     双盤というのを初めて聞いた。念仏を唱えるときの伴奏楽器のことで、太鼓と鉦を言うのである。御詠歌もそうだし、ひとは音楽によって法悦無我の境地に入るものらしい。我が家の宗旨は真宗(大谷派)だが、こんなものは見たことがない。同じ念仏でも浄土宗とはかなり違うものだ。

    双盤念仏の由来については、文治二年(一一八〇)の秋、京都大原の勝林院で天台宗の僧、顕真と法然上人が問答を行い、「南無阿弥陀仏と唱える事によって極楽往生する事ができる」と説かれた法然上人が勝利して、この勝利を歓んだ弟子や信者達が鉦や太鼓を打ち鳴らして褒め称える行為(勝鬨念仏)が伝わったものと云われています。http://www.rinku.zaq.ne.jp/zuihouji/page009.html

     「あれだよ、見えるだろう。」皆が集まっている縁側下の置き石に立つと、西の空には丹沢系の山並みの奥に真っ白い富士山が頂上を覗かせ、その左側にきれいな三角形の山が見える。あれが私たちの向かう大山だった。「どこなのよ。」チロリンとクルリンはなかなか見つけられない。「その電信柱の方向だよ。まっすぐに。あれだよ。」「あんなに遠いの。」「本当に登れるかしら。」チロリン、クルリン、小町は石尊権現に対面することができるだろうか。「最後は桃太郎とスナフキンにお任せしちゃいます」とリーダーの姫は涼しい顔をしている。

      サザンカの彼方におわす大山よ  千意
      石蕗や大山見ゆと背を伸ばし   蜻蛉

     それにしても空は真っ青で雲ひとつない。「きれいに晴れましたね。」「私は晴れ女ですからね。」「私だって晴れ男だし。」「駄目だよ、天気のこと言っちゃ。悩んでしまう奴がいるからさ。」私がいくら理路整然と説き明かしても、依然として原始的な心的遺制から抜けきれない人たちだ。私はちっとも悩まない。
     地蔵堂下交差点の次の角を左(南西)に下る坂道が猿田坂だ。歩き始めた頃の新興住宅地とは変わって竹藪があり屋敷内の樹木も多く、いかにも旧道らしい面影のある道になった。坂の名の由来は、この坂にさっき見た青面金剛の庚申塔が置かれていたことによるらしい。「猿田」は勿論猿田彦に由来する筈で、庚申信仰と習合するのは猿と申の類想によるのだから実に単純だ。猿田彦を祭神とする庚申塔なら、西巣鴨の庚申塚(都電荒川線の駅名になっている)が有名だろう。
     また猿田彦は、アメノウズメと問答を交わしてからニニギの先導をしたことで、道標の神になり、道祖神とも習合する。余計なことを付け加えると、ウズメはこれによって猿田彦の妻になって猴女と呼ばれ、やたらに裸になりたがる女神だから、遊芸女の祖となるのである。
     「猿」は「去る」に通じるので花嫁行列は通らなかったと言う。今更ながら、民俗信仰には音の類似、語呂合わせや漢字の書き換えによるものが意外に多いと分かる。前回の里山ワンダリングで見た越谷の「おしゃもじ様」も、しゃもじは杓子、そしてシャグジ(石神)の転訛だと推測される。レヴィ・ブリュル『未開社会の思惟』の言う、原始的心性における「融即」の範疇に入るだろうか。
     途中に入定塚というものがあったらしいが分からなかった。入定は言うまでもなく断食による自殺、即身仏で、これを容認した時代というのも不思議なものだ。命より大事なものはないと考える時代と、命よりも大事なものがあると考える時代の違いである。結局、人の行動規範は時代のイデオロギーによって決定される。
     地蔵堂で十夜法要を始めた統誉上人が、流行病に罹って外界との接触を断つために(あるいは自分が身代りになるために)籠った場所だ。穴の中からは三日三晩、鉦を叩く音が聞こえた。地蔵堂の境内にその統誉上人の墓があったようだが気付かなかった。宝暦元年(一七五一)と記されているらしい。
     入定塚はあちこちに残っている。江戸期には富士信仰による入定の例もあり、その代表は食行身禄(伊藤伊兵衛)になるだろう。身禄の場合は、六月十三日に富士七合目の岩窪で断食(但し一日に雪一椀を摂る)に入り、七月十三日(十七日とも)に没したらしいから、一ヶ月も続けたことになる。
     坂を降り切った交差点の脇に立つ二階家が、旅籠「綿屋」である。右側の壁は改修してあるが、左側を見ると土壁が残る。明治十五年頃の建物だ。客を真綿で包むように暖かくもてなすというのが屋号の由来と言うのだが、「真綿で首を絞める」と言う言葉もあって、なんだかおかしい。明治の末まで営業していた。
     ここは大山道と日野往還との交差点に当たり、他にも石橋屋、小石橋屋という旅籠があった。日野往還はおそらく鎌倉古道のひとつで、幕末から明治にかけては絹の道でもあった。多摩の方では「よこやまの道」とも呼ばれたと言うので、それなら里山ワンダリングで黒川を歩いた時にお目にかかっている。

     交差点を突っ切ってそのまま行くと、「今渡ったのが川間橋です」と姫が後ろを指差す。鶴見川を越えたのだ。「鶴見川はもっと上流を見ましたね。」ダンディの言葉で、確かにそうだったと思いだしたが、さて、それはどこで見たのだったか。本当に記憶が薄れてしまって悔しいが、記録をひっくり返すと、里山ワンダリングで鶴川から多摩丘陵を歩いた時のことだった。
     この辺りでは谷本川と呼ばれたと言う。川間吉兵衛が私財を投じて架けた橋で、つまり私営の橋だから三文の渡し賃を取った。但し武士からは徴収しないのが定法である。
     二股に分かれたところが大難の辻と呼ばれる。大雨で医薬神社の辺りの崖が崩れると、土砂がここまで押し寄せて来たからだと言う。神社からは、地図で見ると四五百メートルほどだろうか。それにしてもアップダウンの多い地域だ。
     「こんな所だと田圃は作れないよな。」坂道の多い高台では精々畑を作る程度で、その他には林が広がっていただろう。田園都市線と言い青葉台なんて言うと高級住宅地のイメージだが、住みやすい場所ではない。「二四六も無茶苦茶渋滞するんだよ。仕事にならない。」この辺りはスナフキンのかつての営業テリトリーであった。
     柿の木台交差点にある田中屋マートも歴史のある店だった。元は(いつの頃なのか不明である)中山半次郎が住んでいた。博打で没落した半次郎の倅の辰五郎が再興したのが、雑貨屋「田中屋」である。「中山」でなく「田中」としたのは、辰五郎が修業を積んだ家から暖簾を分けてもらったからだ。徳川家光のマムシ被害を治したと伝えるマムシ治療薬が置かれたという話もある。家光がマムシに噛まれたというのは、どんな史実によるのだろうか。
     「大きな屋敷だね。」姫が立ち止ったのは、おそらくかつての名主だったのではないかと思われる広い屋敷地だ。門からすぐに、母屋と離れに通じるように道が二股に分かれて、その二股の付け根にちょっとした塚が出来ている。その真中に、幹の中心部が大きく空洞になって、外側がめくれたような太い木が立つ。「よく生きてるな、すごいじゃないか。」五メートルほどの高さで枝は切り揃えられているが、緑の葉がちゃんとついている。これが樹齢六百年と推定される一里榎であった。幹の空洞は明治三年の火災によるものだ。昭和四十七年の区画整理で一里塚が取り払われたとき、この家に移植されたという。根元に大きな鬼瓦が置かれている。
     「あの白い花はなんだろうか。」庭の奥の方の高い木に、白い花が一面に咲いているのだ。他人の地所だから中に入って確認するわけにはいかない。「サザンカだよ。サザンカ、サザンカ咲いた道、焚火だ焚火だ落葉焚き。」講釈師なら『さざんかの宿』だと思い込んでいた私は、ちょっと認識を改めなければならない。しかしそれは違うんじゃないか。あんなに大きなサザンカなんか見たことがない。「違います。ヒイラギでしょう。」姫の言葉で決着した。

      鬼瓦花柊を見上げたり  蜻蛉

     やがておかしなものに出くわした。パブスナック「マロン」と隣の工場らしき家の木や壁に、四合瓶サイズの青いビンが大量に吊るされているのである。「何だ、これは。」飾り付けてある積りなのだろう。「よく飲んだもんだね。」スナックだから酒瓶はいくらでもあるに違いない。ウィスキーかワインの瓶なのだが、こういうものを無暗に吊るす趣味というものは何だろう。
     「そっちからだと横入りになるんですけどね」と姫が困ったような顔をする。講釈師がどんどん歩いて行くので、医薬神社には正面ではなく脇から入ることになった。青葉区柿の木台二十八番二号。もとは安土桃山時代に創建された真言宗の医王山薬師院東光寺で、それが明治の廃仏毀釈の流行に乗って小さな境内社だった神様を持ちだし、神社として生き延びることを選んだ。山号と院号の頭を繋げて神社の名前にしたのである。
     小さな祠には右端から順に、ピンクの布を巻いた双体道祖神、地神塔(右側面には「大山道」とある)、大師座像(私は地蔵かと思った。台座正面に「右大山道」)、それから正体不明の石仏二体が並んでいる。姫の案内文によれば五輪塔がある筈で、それならばこの正体不明の石が、まるで形は違ってしまっているが五輪塔のなれの果てかも知れない。
     「初めて見ましたよ、地神塔って。これはジシントウでいいんですかね。」ロダンと同じで水神はよく見るが、地神というのは初めて見る。表面右上の文字「天下泰平」、左上の「五穀豊穣」が辛うじて読めた。

    地神信仰は古くからあるようですが、「地神塔」の造立という形をとるようになったのはある時期に限定され、かつまた、特定の地域のみで全国に普遍的なものではないようです。(中略)地神塔には「堅牢地神」と刻まれた塔が多く見られます。「堅牢」はインド語の発音を写しただけで意味はないそうですが、「堅固な大地」を表す上ではベストマッチな当て字と思われます。
    http://www.geocities.jp/loveisibotoke/Part2_TisintouSuisintou.html

     神道では、天神七代(クニノトコタチからイザナギ、イザナミまで)に対して、アマテラス、アメノオシホミ、ニニギ、ヒコホホデミ、ウガヤフキアエズの五人を「地神」としている。また、天神地祇の「地祇」の意味であるなら、天孫族に征服された国津神ということになる。更に密教になると、「堅牢地神」が大地を司る。
     たぶん元々は大地の恵みを祈り、収穫に感謝する大地信仰だったのではあるまいか。大地の神に対する信仰は世界中に見られる、最も原始的で普遍的なものだ。ヨーロッパでは地母神信仰はマリア信仰と習合したし、日本では産土神と言った方が近いのだろうか。
     江戸歩きの本編だけでも三十七回、それに里山ワンダリングを加えれば、東京と埼玉に関してはかなりの場所を歩いているのに、これを見た記憶がない。やはり地域的に偏っているのだろう。たまたま伊勢原や海老名に地神講という風習が残っているのが分かった。下記は「いせはら文化財サイト」三月の歳時記「地神講」から引用した。

    春分と秋分に最も近い戊(つちのえ)の日を社日(しゃにち)といい、この日に大地を守護する土地の神様を祭る地神講が行われます。
    春の地神講は作物の育成を祈り、秋の地神講は収穫のお礼詣りをするものです。
    地神講は、床の間に堅牢地神(地天)と弁財天(弁天)の掛け軸をかけ、煮しめと白飯を供えてお祭りをしました。
    この日は、土地を掘り起こしてはいけないとされているため、農家にとっては休日となりました。http://www.city.isehara.kanagawa.jp/bunkazai/saijiki/3/3jijinkou.htm

     「谷本氏合葬墓銘」の大きな石碑も建っていて、ここが本来は寺院であったことが分かる。谷本川の地名に由来する一族であろう。正面に回れば小さな本殿があって、いつもながら信心深い桃太郎はきちんと拝む。
     今度はちゃんと鳥居を潜って外に出た。坂道を上って行くと左にミニゴルフ場が見えてきた。「あんなに狭いのに九ホールあるのか。」「アイアンが上手くなるよ。」私はゴルフを知らないので、講釈師の言葉の意味が理解できない。
     上り坂になるとどうしても先頭と最後尾の間隔が開いてくる。「今日は誰を泣かそうかな。」また講釈師が不穏な言動をする。少し暑くなってきた。かなり急な坂を上ると左には「青柿」という料亭があった。私たちがこんなところで昼飯を食うはずがないが、こんな不便な場所に料亭があって商売が成り立つのだろうか。それに青い柿では余り美味そうにも思えない。
     住宅地の坂道を下りて行き、藤ヶ丘地区センターでトイレ休憩をとる。青葉区藤が丘一丁目十四番九十五号。前庭の一本の木に、思いがけず薄紅色の桜が咲いている。説明によればヒマラヤザクラというものだ。蕾も多いから、これから最盛期を迎えるのだろう。女性がひとり、いろんな角度から一所懸命写真を撮っている。日本の十月桜と比べると、花が大ぶりで艶やかなような気がする。
     ヒマラヤ原産と考えられ、海抜千二百メートルから二千メートル程の高地に咲く花のようだ。高地に適した花を日本に移植して大丈夫なのだろうか。かなりの手間暇を掛けなればいけないような気がする。
     館内には小さな図書室と学習コーナーが設置され、数人の高校生が勉強をしている。リサイクル本のコーナーに乱歩の『探偵小説四十年』(光文社文庫・上下巻)を見つけて、一瞬手が出そうになったがやめた。受付と書かれた事務スペースでは、女性三人が暇そうにお茶を飲んでいる。
     神奈川県喫煙者虐待条例によって、公共施設の館内は勿論、敷地内ではタバコは吸えない。仕方がないので歩道に出ることにした。車を止めて出てきた男もタバコを取り出し、なんという意味もないが、お互いに目を見詰め合ってしまった。
     玄関に戻ると、早く出てきた小町にチイさんが干し柿を渡しているところだった。「約束だったからね。」三田では食べられなかった桃太郎も、今日はやっとありついて笑顔になっている。「ホント、美味しい。」やがて出てくる順番に次々に配っていると、最後になって講釈師の分がなくなった。「チイさん、次回から参加しなくていいからな。」真剣な顔をするとちょっと怖い。
     「お昼は予約ができなかったので早めに入りたいと思います。ここからは少し急いでくださいね。」姫が目指すのは青葉台駅前のジョナサンだ。「ジョナサンは予約ができないんです。」店によって違うのだろうか。実は私は昨日、一月のコースの下見を兼ねて足立区竹の塚のジョナサンに予約を入れてきた。「そうなんですか。足立区だからでしょうね。」姫の言葉の意味は謎である。

     「和菓子屋さんがあるんですよ。」坂を下りて突き当たったところに菓子匠「若野」藤ケ丘店があった。青葉区もえぎ野六丁目二十九番。もえぎ野というのも当然新しい地名で、本来は上谷本町、下谷本町の一部である。つまりこの辺りは谷戸に当たるのだろう。あるいは、鶴見川を谷本川とも呼んだというので、それに因む地名かも知れない。
     「有名な和菓子屋さんなんです。寄ってみますか。」皆の意見を聴いているようだが、姫が最初からここに立ち寄る意思があったのは明白である。明らかに計画的な犯行と見做さざるを得ない。皆を急がせた最大の理由はここにあった。
     「何が有名なの。」不思議そうな顔をするチロリンに「ほらその看板に書いてあるよ」と指差した。神奈川県指定銘菓の店であり、全国菓子大博覧会大臣栄誉賞受賞の店である。と言っても私はこの方面には全く無学だから、どの程度の権威を持つ賞なのかは分からない。横濱どら焼き、横濱寺家ふるさともなか、横濱ポテト、カフェオーレ大福なんていうのがお勧めである。「大山街道を歩くひとは必ず寄ってくれるってさ。」そう店の人が言っていたらしい。
     ロダンは愛妻にアリバイを証明する土産ができた。スナフキンはいつも必ず何か買う。自分から吹聴するロダンの陰に隠れて話題にはならないが、酒飲みの彼が甘いものを食う筈がないので、実はかなりの愛妻家だったことが分かる。買わなかったのはチロリンと私だけで、最後まで店で粘っていたのは姫である。
     近くにジョナサン(藤ヶ丘店)があったが、姫の予定はここではない。「青葉台まで行きますから。」ビバホーム、ヤマダ電気を横目で睨みながら歩き、田園都市線を左に見て青葉台東急スクウェアに出た。「ここにもレストランがあるんじゃないかな。」「高いですよ。」
     「都会ですね。」青葉台駅前の環状四号線は確かに都会である。「住人のグレードが高そうな町だ。」ダンディの判断はどこから来たか分からない。「たまに都会に出てくると楽しいでしょう」なんてロダンが言うが、毎日、里山のような道を歩いて通勤していると、人混みは疲れる。

     そして漸くジョナサン青葉台店に着いた。青葉区榎が丘一丁目十二番。まだ十二時少し前で、運よく四人がけの席が並んで確保できた。「皆さんの協力のお蔭で早めに入ることができました。」和菓子を買っても間に合ったのである。
     私はスナフキン、小町・中将夫妻と同じテーブルについた。「これがいいね、面倒臭くないから。」ハンバーグのランチセットにドリンクバーをつけると税込ちょうど千円で、四人が同じものにした。これなら会計の手間が要らない。平日のサービスランチはないが、それでもこの値段ならばお手頃であろう。
     「皆さんライスでよろしいですか。」この店では「ライス」と言えば白米のことであり、健康志向で雑穀米を選びたければ「雑穀米」と申告しなければならない。スナフキンはそれを頼んだが、私は昨日雑穀米を食ったので今日は白米にする。中将も白米、小町はパンを選んだ。
     小町は「久しぶりにハンバーグ食べたけど、美味しかったよ」と言っている。コーヒーと野菜ジュースを飲んで私も満足した。誰からも不満は出なかったようだから、来月の昼飯をジョナサンにしたのは正解だった。勘定が分かりやすいのも良い。「十二時二十五分に出ます」とリーダーが言っているのに、店を出たのはいつものように少し早めになった。

     街道脇には薄原が広がる。そして住宅地の坂道を下る。「次は宝篋印塔を見るんですが、下見の時には墓地の中を捜してません。だって、怖かったんだもの。」小高くなった所は元寿光院(廃寺)の墓地である。青葉区田奈町一丁目五番付近。
     「宝篋印塔ならすぐ分かるだろう。」「それじゃ見つけてくださいね。」中に入ってみると、江戸期のものらしい墓石が犇めくように並んでいるが、それらしきものは見えない。「どんな形なんだい。」「もともとは経文を納めた塔の形なんだよ。」墓石を避けながら狭い通路を一番奥まで行ったところで漸く見つかった。「これだよ、あった。」二基の宝篋印塔が立っていた。「これは何だい。」「五輪塔だよ。」宝篋印塔の間にある風化してボロボロになった五輪塔は、一つは空輪が、もう一つは風輪と空輪がなくなっている。「見つかったよ。」「そっちですか。」どんな形なのか、私にはうまく説明できないので、ウィキペディア「宝篋印塔」のお世話になる。

     最上部の棒状の部分は相輪と呼ばれる。相輪は、頂上に宝珠をのせ、その下に請花(うけばな)、九輪(宝輪)、伏鉢などと呼ばれる部分がある。相輪は宝篋印塔以外にも、宝塔、多宝塔、層塔などにも見られるもので、単なる飾りではなく、釈迦の遺骨を祀る「ストゥーパ」の原型を残した部分である。相輪の下には笠があり、この笠の四隅には隅飾(すみかざり)と呼ばれる突起がある。笠の下の方形の部分は、塔身、さらにその下の方形部分は基礎と呼ばれる。

     この宝篋印塔は元亀四年(一五七三)、恩田村に居住していた糟屋清印が、糟屋道印とその妻妙永の十三回忌に法華経千部を読んで弔い建立したとされる。銘文に記されているらしいがとても読めない。この糟屋という姓は糟屋豊後守の名で小田原北条氏の家臣に見えるらしい。

    豊後守の父母が道印と妙永ではないかと言われています。岡野房恒という長津田村の初代領主の妻が豊後守の娘だということですから、清印は豊後守の可能性もありますね。http://www.hirotarian.ne.jp/backno/2101-rekisi.html

     戦国時代にこれだけの宝篋印塔を建立したからには、在地領主とみて間違いないだろう。それほど風化もせず、きれいな形で残っている。入ってきた入り口とは別のところから墓地を出ようとすると、不思議な墓石群の固まる一画に出会った。「これは何ですか、不思議ですね。」墓石は現代のものと同じ角柱で、表面には「心天寶」、その下に二行になって「地徳皇行」「清徳皇行」とある。この一画にある墓石は大概この文字を刻んでいるのだ。「何でしょうかね。」「皇の字を使うのは高貴のひとでしょうか。」初めて見るので何とも言えないが、高貴のひとがこんなにいる筈がない。何か新興宗教の雰囲気が匂ってくる。ロダンも「絶対、新興宗教ですよ」と力を込める。そして分かった。これは丸山教信者の墓であった。

    丸山教では、諡と称し報恩録や霊璽(百日まで)に、男性なら全て、「心天寳 清徳皇行」女性なら、「心天寳 地徳皇行」と書きます。
    諡は人の死後に、その徳をたたえて贈る称号ですが、これは前にも申し上げた通り、親神様からご先祖様をとおして伝えられたいのちはすべて平等、ひとしの心であるとの教えによるからであります。人間の社会には、貧富の差を始めさまざまな差別的なことがありますが、親神様から授けられたいのちにおいての尊さ、生きた尊さの比重は本来比べようがなく、まったくの無分別、平等であることを示しています。
    心天寳は、宇宙の法をあらわし、親神様の無分別の愛、ひとしのを心を意味しています。そしてそのはたらきが陰陽にあらわれ、清徳皇行、地徳皇行、即ち父性的あるいは母性的なはたらきの性質(魂)を授かって生まれてきて、この世を生きぬいた人ということです。http://maruyamakyo.or.jp/q-a.html

     丸山教は幕末、武蔵国橘樹郡登戸村の伊藤六郎兵衛によって創唱された富士講の一派だ。明治八年には富士一山講と合併して、富士一山講丸山教会と名乗ったものの、やがて分離して一山講は扶桑教に、丸山教会は神道丸山教会本院となった。初期には食行身禄の世直し思想の影響を強く受けたが、他の新宗教と同じように明治政府の弾圧にあって変質せざるを得なくなる。丸山教の場合には、報徳社運動と接近することで生き延びた。報徳社の実践道徳は明治政府の国家意思に適うもので、世直し思想とは正反対のものなのだが、存続のためには手段を選んではいられない。

     ここから二四六号に出る坂道は、宝篋印塔に因んで石塔坂と呼ばれる。すぐに国道二四六に出ると、その角の駐車場の隅にブロックで小さく囲われている石仏があった。左下に斜めに切断されて修復した跡が残っている。姫の案内では(そして、いろいろなサイトを見ても)これは「道祖神」と言うことになる。文化五年、「上り 江戸道」「下り 大山道」の文字が判読できる。
     道祖神ならば、双体のもの、男根型、自然石あるいは文字だけのものは見たことがある。しかし角柱に浮き彫りにされた像は、頭の上の盛り上がった部分が磨り減っているが、元々は馬の顔だったのではないか。像の下には「供養塔」の文字が彫られていて、道祖神にこの文字は似合わないような気がする。馬頭観音ではないかしら。勿論、道祖神や馬頭観音に関する知識はそれ程ないので、これが道祖神だときちんと説明してくれるものが見つかれば有難い。
     ここから暫くは国道を行くことになる。二四六号は、この辺では厚木街道と呼ばれる。スナフキンの言う通り下り車線が渋滞していて、車があまり動いていかない。恩田川大橋で恩田川を渡る。この川は鶴見川の支流で町田市から横浜市へ流れる。姫が道路脇の空き地で立ち止まった。季節外れの紫陽花が淡い色の花をつけていたのだ。「綺麗だから寄ってみました。」

      色淡く街道に咲く返り花  蜻蛉

     片町の信号から国道と離れて右側の旧道に入ると、その分岐点に長津田地区まちづくりの会による「旧大山街道」の標柱が立っている。久しぶりに、こうした標柱を見た。
     少し行って片町の地蔵堂に着いた。小屋掛けして三体の地蔵を安置してあり、真ん中の地蔵の台石に「向テ右かな川 左みぞノ口」とある。「どこに書いてるんだい。」「ここですよ、縦書きで。一行目が向テ右、二行目にかな川。」三体の地蔵の左端には前掛で隠した台石の上に、石皿に載せた小さな石人形も置かれている。その前掛をめくり上げれば、真中に彫られた「奉造立地蔵菩薩」、左側の「享保二十」が読めた。
     ここに加藤外記の碑があったが、米軍の大型トラックによって破壊されたということだ。長津田から恩田につながる道を開いた人物だが、無許可で行ったために処刑されたと言う。ただその話だけで、時代はいつ頃のことなのか、加藤外記がどんな人物なのかはさっぱり分からない。道を開削するならば、名主クラスの豪農だったろうと想像するばかりだ。
     同じような話は目黒の権之助坂にもあって、急峻な行人坂を迂回する新道を無許可で開削したため、権之助は処刑されたという説がある。
     ただ、この手の話が実際にあったのかどうか、私には疑問だ。典拠をきちんと示して説明するものにお目にかかったことがないのだ。道を新規に開削するのは大事業である。途中で行政が気付かない筈がないし、無許可がいけないならば、見つけた時点で中止させるのが当り前ではないか。しかし大体において、工事が完成した後に処刑されることになっているのが不思議だ。
     江戸時代は上水の確保、治水工事、道路の拡張、新田開発など、インフラ整備には充分力を入れた時代だ。恩賞を与えこそすれ、処罰する理由はないように思われる。

    この加藤外記は謎の多い人物で、「田奈の郷土史」には、文禄三年(一五九四)の検地の際に苗字帯刀を許されていた七名(長津田七氏)の内の一人で、闕所の罪に問われて、どこかに追放されてしまったとの事。その理由、年代などは不明。
    http://dogsv.com/~tama/tama/new/nagatuda/4.html

     これによれば、加藤外記は処刑ではなく闕所追放されたことになる。
     「あれは何だろう。」スナフキンと一緒に道路の反対側の石碑を見に行くと、道路改修碑であった。すぐに戻って皆に合流して歩き始めると、鋪道にはおよそ三十センチ四方のプレートが埋め込まれているのに気づく。「住撰夕照」少し離れて「長坂夜雨」、長津田十景である。住撰も長坂もこの辺の地名なのだろう。
     更に行けば、玉石を敷いて石仏らしきものを並べている場所に来た。下宿の石造物群と呼ばれる。緑区長津田町五丁目。ここから長津田下宿が始まる。
     長津田は矢倉沢往還と神奈川道との結節点の宿場として賑わった。江戸から九里、荏田宿から二里。下宿、中宿、上宿と並ぶ。天保十四年に百五十三戸、慶応三年に百七十六戸九百二十六人。ちなみに長津田の地名は、「長い谷津(ヤツ、ヤチ)の田」に由来するようだ。湿地帯であろう。
     元々、四五年前までは道路の反対側(北側)に古ぼけた石造群が残っていたのである。「下宿の石造物群」を検索すると、当時の写真を載せたものを見ることができる。なかなか風情のあるものだが、傷みが激しくて、道路を渡ったこの場所に復元したものらしい。道路の反対側ではあっても、石像や祠の配置は変わっていない。文化十四年の常夜燈は、宝珠と一番下の台石だけが元のものを利用しているだけで、残りは全て真新しい石になっている。残念だが仕方がない。そのほかにも地神塔や馬頭観音が並び、左端には新しい小さな祠も建っている。
     高さ五十センチ程の祠の扉は格子戸で、中を覗くと庚申塔らしいものが見えたが、下の方に邪鬼の顔が二人見えるのが不思議だ。格子からカメラのレンズを差し込んでもよく写せない。この扉は開けられないか。
     開いた。「蜻蛉さん、また開けましたね」と碁聖が笑う。前回、荏田下宿のお堂は講釈師と私が一緒に開けたのであって、私だけが犯人だったのではない。右の扉を開けて、左は内部から留め金を回せば開くのである。「みなさん、開きましたよ。」碁聖が声を掛けると、すぐに講釈師が寄ってきた。「あっ、俺が二人いるじゃないか。」

      抉じ開けて石仏拝む冬日向  蜻蛉

     元禄六年の銘はあってもレプリカだろうが、実に珍しい意匠をしている。上方に日月を配置し、髪を逆立てた青面金剛が立つのは定法通りだが、その両足は二体の邪鬼の頭を踏んでいる。講釈師が「俺が二人いる」と驚くほどだから、これは珍しいものだと判断できるだろう。その下には、三猿が斜めに並び、左には鶏が遊ぶ。そして両脇にはこれも珍しく童子が二人立っている。これは誰だろうか。
     勝手に推測するのだが、もしかしたら無学な石工が、髪を逆立てた青面金剛を不動明王と勘違いしたのではあるまいか。不動明王なら矜羯羅童子と制吒迦童子がつき従っていておかしくない。そして、たまたま童子二人を添えてしまったため、バランスの上からもそれに合わせて邪鬼も二人にしたのではないか。
     この新しい庚申塔の後ろには、同じ大きさの古びた石碑が隠すように置かれている。おそらくオリジナルのものが置かれていると思われる。その右には小型の文字庚申も並んでいる。しかし、こんな風に扉を抉じ開けて観察しようなんていう人間は余りいないだろうね。ハッキリ言えばバチ当たりである。
     石仏群から少し西に寄った舗道には、さっきの長津田十景のパネルが十枚揃って嵌め込んである。大林晩鐘、御野立落雁、大石観桜、王子秋月、高尾暮雪、天王鶯林、下宿晴嵐、長坂夜雨、長月飛蛍、住撰夕照。こういう「西湖十景」を下手に模倣したようなものはすぐにダンディが批判する筈なのに、今日は何も言わない。声が余り聞こえないからちょっと疲れているかも知れない。

     道路標示は「御幸通り」になった。「天皇が通ったんだよ。陸軍の演習があったんだ。」こういうことは中将が詳しい。大正十年の陸軍大演習で、当時の皇太子(昭和天皇)が演習を統監するために通ったのである。演習が行われた場所は御野立所と呼ばれている。
     長津田駅南口入口の信号を左折して坂を下ると慈雲山大林寺に着く。緑区長津田六丁目六番二十四号。曹洞宗である。新しい立派な仁王門が高く聳える。「ここで記念写真を撮りましょうか。」ちょうど中学生らしい野球少年が通りかかったのを幸い、碁聖が拉致して姫のカメラを手渡した。仁王門をバックに並ぶと、少年ははにかみながらシャッターを押す。「有難う。」「どうもね。」高齢者軍団の声に怯えたか、少年は帽子を取り、深々と頭を下げて去って行った。
     なんという初々しさ、清々しさ。最近こんな少年に出会ったことがない。「野球やってるからじゃないか。」それは違うね。野球をやっている不良はいくらでもいる。そもそもスポーツと人格には何の関係もない。オリンピック二連覇を果たしながら、未成年の教え子に酒を飲ました挙句ややこしいことをして、「合意の上だ」なんてバカな弁解をしている柔道家もいる。「あの少年は親の躾がいいんですよ。」ダンディの一言で決まった。
     木彫りの金剛力士も立派なものだ。「金をかけてるよね。」「よっぽど檀家がいいんだね。」貧乏人はこんなことしか思いつかない。元亀元年(一五七〇)、開基は小田原北条氏に仕えていた岡野越中守江雪入道と伝えられる。
     仁王門を潜ると、内側には四天王が並んでいた。「何でしたかね、毘沙門天に多聞天に。」こういうことにロダンが悩む。「毘沙門天と多聞天は同じだよ。」四天王なら簡単ではないか。「あと、増長天と広目天と。」はてもう一人は誰だったか。その簡単な筈のことが思い出せない。「思いがけない時に出てくるんですよね。」やはり後で思い出した。持国天だ。四天王とは、須弥山頂上の忉利天に住む帝釈天に仕え、八部衆を支配する護法神である。
     境内右手には十三仏が並んでいる。と思ったが、数えてみると八体しかいない。そうか、これは十二支の守護神を表す八体仏であった。子は千手観世音菩薩、丑・寅は虚空蔵菩薩、卯は文殊菩薩、辰・巳は普賢菩薩、午は勢至菩薩、未・申は大日如来、酉は不動明王、戌・亥は阿弥陀如来である。どうしてそうなるのか、私にはまるで分かっていない。
     本堂左手前には、閻魔の両脇に内輪と棒を持った小鬼、前で土下座する死者の石像がある。閻魔は良く見かけるが、平身低頭するものまで揃っているのは珍しい。「ロダンが愛妻に謝っているんだよ。」アリバイを証明しないと地獄に落ちる。「そうじゃなくて、講釈師の嘘八百の罪なんじゃないの。」「舌を抜かれますよ。」考えることは誰も同じだ。梵鐘はさっきの「長津田十景」に登場する。
     墓地に入って引田天功の墓を熱心に見ていたダンディが「森繁だよ」と声を上げた。大きな墓碑の脇に、「神技心魂を燃やして衆に遊ぶ 鬼才 その旅の短きを哀しむ 森繁久弥」という碑が立っていた。
     「そんなに早く死んだんだったかな。」墓碑には「大魔術師天功」とあって、その経歴を記している。昭和九年に生まれて五十四年に亡くなっているから、僅か四十五歳である。これは意外だった。
     「日大工学部を出てますね。」墓碑を読んでいたダンディが指摘する。「エンジニアでしたか。やっぱりね」工学部と奇術が深く関係しているのかどうかは分からないが、「大脱出」と銘打った大掛かりな仕掛けは、やはり工学部出身者でなければ出来ないことだったろうか。脱出の際に煙を吸い込んで肺を痛めて早死にしたという噂がある。
     「今の天功は娘でしょう。」「違うよ、弟子じゃないか。」二代目引田天功、プリンセス・テンコーは、朝風まりと名乗るタレントであった。これもなんだか怪しげな女だ。
     旗本岡野家歴代の墓所はかなり広い。「旗本でこれだけ立派なお墓は見たことがない。」この寺の開基、岡野融成江雪は北条氏滅亡後秀吉の御伽衆となり、やがて家康に仕えた。長男の房恒が長津田・栗木に五百石を与えられ陣屋を構えた。後、甲斐・八代、上総・香取にそれぞれ五百石の加増を受けて合計千五百石となった。かなり立派な宝篋印塔がいくつも並んでいるので、「これも宝篋印塔だよ」とスナフキンに教える。
     江戸期を通じて一貫して長津田を支配した家だから、大山街道を歩いて見るべきなのは、引田天功ではなくこちらの方なのである。岡野家由来を記す大きな石をスナフキンが読み始めた。「光って良く読めないよな」と言いながら、ずいぶん熱心だ。「上野の彰義隊にもいたんだよ。」なるほど末尾に近くそう書いてあるのが分かった。旗本だから当然か。明治になって当主は医者となり、台湾で病死したようだ。裏面に回れば家系図が記されている。 山門を出ると、「雲が変だよ」という声が上がった。真っ青な空に、広い帯のような薄らとした雲がまっすぐに続いている。それを境に空が分断されているようにも見えるから、やや不気味である。
     「板碑はありましたか。」ロダンに言われるまでまるで忘れていた。嘉元元年(一三〇三)の大板碑があるらしいのだ。「たぶん、お寺の中にしまってあるんじゃないか。」見逃した私の悔し紛れの解釈だ。

     「あれは名古屋が本拠なんだよ。」スナフキンが言うのはコメダ珈琲である。私は知らなかったが、関東に進出してチェーン展開をしているらしい。「駐車場があるだけがメリットだ。」その角を曲がると、マンションの陰に隠れるように、小さな稲荷が建っている。「下見のときには探すのに苦労しました。」朱塗りの鳥居と小さな祠があるだけで、狐もいないし、何の説明も書かれていないのだが、これがお七稲荷と呼ばれるものだ。緑区長津田六丁目四番。
     少し先にある幼稚園の辺り一帯に岡野家の陣屋があったらしい。そして、岡野家三代目の平兵衛房勝が、八百屋お七の事件の時に盗賊追捕役であった。その後岡野家には不幸が続き、菩提寺の大林寺も度々火災にあった。それをお七の祟りと判断して稲荷を祀ったと言うのである。また別の説によれば、お七処刑の際に馬の手綱を引いたのが岡野家の家臣の柳田氏で、その家の一角に祀ったとも言われる。しかし市中引き廻しの際、馬の手綱を引くのは非人の役目ではないだろうか。この点に疑問が残る。
     ダンディはお七のファンである。「お墓も見たよね。」白山の圓城寺だったかな。鈴が森では火炙り台も見た。しかし私に言わせれば、元禄の少女は単なる白痴(これは「差別語」ということになっている)である。
     もう一度長津田駅南口入口の交差点から左に曲がる。「あのお蕎麦屋さんが目印なんです。」その上州屋の向かいから、かなりきつい坂を上らなければならない。「雪が降ったら車は通れないね。」中将の言葉に小町はものも言わず、息をぜいぜいさせながらついてくる。
     登りきると、左手の少し奥まった所に長津田上宿常夜燈が建っている。石垣を組み、その上に玉垣を巡らしてきちんと保存されていて、下宿のものとはずいぶん待遇が違う。天保十四年(一八四三)、上宿講中によって建てられたものだ。宝珠の部分だけは新しいもので修復してあるようだ。竿には「秋葉山」とある。「火伏せの神様ですね。」総高は二百四十センチ。
     玉垣の石段の脇にはまた地神塔があって、こちらは「地神尊」と彫られている。ここは大石神社である。

    当社の由緒については詳ではない。
    たヾ新編武蔵風土記に載る所によると、元長津田村大石権現社を称し在原業平朝臣をまつったものとつたえられている。(略)
    御神体はだ円形の自然石で、文字等の刻込は全くなく現在本殿に四角な台石に、下部をはめ込んで立ててある。
    台石の上に現れている部分の高さは一・三五米、中央部の一番広い所の幅一・一〇米、上部は漸次細くなりて突起となる。正面から見ると円味をおびいかにも均衡の取れた、形のよい石を田奈郷土誌にも記されている。
    古老又曰く、業平朝臣は此の地で、その討手か、又賊かに取りかこまれ、周囲から火を放された。火勢ようやく、衰えたあとには、人影更になく、某所に残されたものは大きな丸石たヾ一個、以上が神石にまつわる伝説である。従ってその真疑については問う所ではない。 大石神社奉賛会

     火を放たれるのは野火止の地名由来伝説にもあって、そちらの方では「武蔵野は今日はなやきそ若草の つまもこもれり我もこもれり」の歌で火が消えたことになっている。 「在原業平は美男だったんですよね。」「かきつばたは何だったかな」とダンディが首を捻る。

    「かきつばたといふ五文字を、句の上に据ゑて、旅の心をよめ」といひければよめる。
       からごろも着つつなれにしつましあれば はるばるきぬる旅をしぞ思ふ
    とよめりければ、みな人、餉の上に涙落して、ほとひにけり。(『伊勢物語』第九段)

     高校生の私はこういうものの面白さが理解できなかった。単なる語呂合わせじゃないか、それに干飯が涙で「ほとびにけり」なんて、なんと大げさな表現だろうと思っていたのだから近代自然主義に毒されていたのだ。丸谷才一のお蔭で漸く新古今の世界が多少なりとも分かって来たばかりだ。
     「お姫様を奪って逃げたんですよね。高子でしたか。」姫はそっちの方を思い出す。「たかいこ、だったと思うよ。」藤原長良の娘で清和天皇の女御となり二条の后と呼ばれた。高子と書いて「たかいこ」と読む。「鬼に食べられちゃうんです。つゆと答へて消えなましものを。」これはちょっといいところなので、長めに引いておこう。

    むかし、男ありけり。女の、え得まじかりけるを、年を経てよばわたりけるを、辛うじて盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ河を率て行きければ、草の上に置きたりける露を、「かれは何ぞ」となむ男に問ひける。
    行く先遠く、夜も更けにければ、鬼あるところとも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥におし入れて、男、弓・やなぐひを負ひて、戸口にをり。
    「はや夜も明けなむ」と思ひつつゐたりけるに、鬼、はや一口に食ひてけり。「あなや」と言ひけれど、神鳴る騒ぎに、え聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば、率て来し女もなし。足ずりをして泣けども、かひなし。
    白玉か何ぞと人の問ひし時 つゆと答へて消えなましものを(『伊勢物語』第六段)

     つゆと答へて消えなましものを。こういうのを読むと、日本語はなかなか良いじゃないかと思う。しかし業平のことは府会の説で、これも元はおそらく石に対する信仰の地だったに違いない。石神ならまさにシャグジである。
     手水鉢は文政十二年、狛犬の台石には嘉永六年の銘がある。「このお堂にはさ、悪者が隠れているみたいじゃないか。」なるほど講釈師が隠れていそうな場所だ。堂の前で雨宿りをしている娘を中から窺っているのである。「アレーッ、何をなさる。」「フッフッフ、お主もワルじゃのう。」「それって水戸黄門じゃないの。」
     今度は坂ではなく石段を降りる。「愛宕山ほどじゃないね。」あれと比べてはこの神社が可哀想だ。「間垣平九郎を思い出しましたよ」と笑うダンディに、「私も思い出したところでした」とロダンが苦笑いする。愛宕山なら必ずロダンを話題にしなければならないのが、私たちの決めごとである。

     右手の方に広がる森は森村学園だ。「ずいぶん広いじゃないか。」敷地は八万平方メートルもあり、ここに幼稚園、初等部、中高等部がある。「有名な学校なんですか。」「有名ですよ。」スナフキンは詳しい。「私は学校が嫌いだったから、全然分からないの。」六代目森村市左衛門の創立になる。私はこの方面のことには疎くて、森村財閥が何であるかも知らなかった。TOTO、日本碍子、共立マテリアル等を含む、セラミック系企業グループとしては世界最大級らしい。
     右には竹林が残り、左は藪になっている山道のような旧道を下る。今日のコースで最も旧街道らしい道ではないだろうか。「サルトリイバラですよ。」赤い実が生っているのである。坂を下り終えた辺りで、ロダンは道路脇に埋められた何かの標識を見詰めている。「方角を表すんですか。」「そうです。」
     「休憩しましょうか。」環境霊園と称する霊園である。緑区長津田町四二一二番地。管理棟に行けばトイレがあるだろう。数人がそちらに行っている間に駐車場の縁石に腰を下ろして一服する。上り下りの連続で、腰がやや重く感じられて来たのだ。しかしトイレに行った筈の連中はすぐに戻ってきた。トイレはあるが「民間の施設だから」という理由で断られたというのである。苟くも宗教法人を名乗る施設ではないか。人の難儀を見ながらすげなく追い払うのは、言語道断である。コンビニだってトイレを貸してくれるぞ。「予約してきたよ、日当たりの良い場所で。」こういう不人情な霊園を予約してはいけない。
     「蜻蛉にね、絶対食べさせようと思ってさ。」小町がリュックから何かを取り出して、新しい箱を開封する。チョコレートではないか。「甘くないんだよ。苦いよ。」それ程言うのなら仕方がない。特別に食べてやろう。確かに甘くはない。「甘くはないけどね。」「その顔、おかしい。」歯に噛んだ触感が駄目である。ニチャニチャするのだ。クルリンは優しくて、「口直しに」と煎餅を出してくれる。有難い。お茶を飲んで煎餅を食えば復活する。
     チイさんがまた大きな柚子を配ってくれる。「チイさん、あなたはエライよ。」干し柿では仏頂面をしていた講釈師が喜んでいる。それにしても大きな柚子だ。
     やがて二四六号に合流する。左の藪下にフィールドアスレチックが見えるが、営業しているようではない。「トムソーヤ冒険の森」という看板も汚れたままだ。「廃業してしまったようですね。」つくし野信号の少し手前に、かつてはドライブスルーのマクドナルドがあったのが、今では廃屋になっている。この辺りは商売に向かない土地かも知れない。
     姫の目的は陸軍殉難碑である。その通り抜けの脇道の裏が旧道らしい。「下見のときは暗くて行けなかったんです。」「山賊が出てくるからさ。」「だって怖いんだもの。」「今日のメンバーには約一名の山賊がいますね。」「行きたいですか。」ここまで来ているのだから行かないと言うことはない。「探してくださいね。」
     しかし旧道というよりも山道と呼んだ方がよく、どんどん国道からは逸れて行く。左側は鉄条網が張られ、再開発計画の看板が立っている。「おかしいですね、こんな遠い筈はないんです。」本当にあるのだろうか。二三百メートル程行ったところで、「駄目ですね、戻りましょう」と姫が決断した。それが正解だった。さっきの元マクドナルドに戻ると、今の林道に入る角に、こっそり隠れるように碑が立っていた。「こんなところにあったんですか。」
     大きな石が三つに割れて、それをセメントで補修してある。「至誠不滅」。裏に書かれた謂れを読むと、小川勝美陸軍輜重兵曹長の追悼碑だった。割れて補修した部分が読めないので間違っているかもしれないが、陸軍自動車学校の生徒を引率していて事故にあったのである。身を挺して四人を救ったものの、当人は死んだ。戦友有志がそれを悼んで、昭和十四年に碑を建てたのであった。
     これもそうだが、今日あちこちで見た石仏にも割れて修復した跡があった。この地域はかなり大がかりな区画整理が行われている。その工事がかなり乱暴だったのではないかと思わせる。
     後は、すずかけ台駅に行くだけだが、この辺りの旧道が「馬の背」と呼ばれる尾根だったようだ。確かに、両側が深く切り立った場所で、すずかけ台の駅が、右側ほぼ真下に見える。やや雲がかかってきたが、大山が良く見える。「さっきの地蔵堂より近づきましたよ。」近くなったとは言いながら、それでもまだ遥か先のようにも見える。
     東京工業大学の看板を見て回りこむと駅に着いた。宗匠が欠席でロダンも万歩計のカウントを忘れていたから、姫の申告に合わせて十一キロ弱としておく。これで全行程の半分近く、四十キロほどを歩いた計算になる。
     計画では四時に到着する筈だから、少し早めに着いたことになり、姫がとりあえず解散の宣言をする。次回二月は、いよいよ桃太郎のお膝元である海老名まで、およそ十三キロの行程が予定されている。
     「江戸歩きの次回は決まったんですか。」そうだった。それを説明しなければならない。次回、一月十四日は足立区を歩く。集合は東武伊勢崎線の竹ノ塚駅だ。そして昼食はジョナサン竹の塚店に予約をいれているから、もう講釈師に文句を言われることはないだろう。
     ところで、このすずかけ台駅は東京都町田市に属している。折角横浜市を西南に歩いてきて、何故東京に戻らなければならないのか、私には良く理解できていない。改めて地図を確認すると、町田市は半島のように横浜市に突き出ているのである。

     三時半。まだ飲むには早いが、この辺りに喫茶店なんかないんじゃないか。「そこのコンビニで訊いてくるよ。」しかし講釈師は仏頂面をして戻って来た。「この辺には喫茶店はないんだってさ。」それでも、向かいの雑居ビルにはカフェレストランの看板があるではないか。姫が偵察に行き、十三人がお茶を飲むだけで良いと答えをもらった。「洒落たお店ですよ。」
     カフェダイニング「In The Mood」である。名前の付け方を見れば、かなりの趣味人がやっているようで、もう少し広ければピアノをおいても良さそうな雰囲気だ。月に一回はジャズのライブをやるらしい。売りはベトナムコーヒーだと言うので、ダンディとチイさんがそれを注文した。私も話のタネにと思ったが、コンデンスミルクが入っているというのでやめる。
     普通のブレンドは早く出てきたが、肝心のベトナムコーヒーは時間がかかる。「どういうものだい。」みんな興味津々で、チイさんの前に出されたものを見つめている。まずカップにコンデンスミルクを入れる。そこに、粉を入れたカセットを載せて、お湯を注ぐ。カセットのそこには細かな穴があいており、これでドリップするのだ。充分蒸されるまで、カップには蓋をしておかなければならない。そのために小さな砂時計を使う。
     「できました。よくかき混ぜて下さい。ミルクが沈殿してますから。」チイさんがスプーンでかき混ぜると、次第に白くなってきた。「その位ですね。」マスターによれば、かつてベトナムでは牛乳がなかなか輸入できなかった。そこで粉末のコンデンスミルクを利用したのだろうという。しかしかなり甘いだろう。姫は紅茶を頼んで、「久しぶりに美味しい紅茶を戴いたわ」と喜んでいる。今日はケーキを我慢している。
     四時、もうそろそろ良いだろう。スナフキンがこの後、立川で予定が入っているというので、反省会は溝の口に決めた。「六時だけど、多少遅れたっていいんだから。」その口振りでは結構遅くなっても大丈夫なのだろう。前回十月にも入った「二重丸」という店である。
     端末で注文ができるシステムなのに、宗匠がいないと誰も端末を触らない。その都度、店員を呼んで頼む方がはるかに簡単で早い。今日は芋焼酎だ。途中で早めに出ていく筈のスナフキンも結局最後までいて、六時半に解散する。桃太郎はこれから入谷の金太郎に行くと言う。当然、今夜は浅草のホテルに泊まることになるのだろう。もしかしたらダンディも付き合ったかも知れない。
     碁聖、姫、チイさん、ロダン、蜻蛉は一番近い「カラオケの鉄人」に向かう。前回来た時に会員カードを作っておいたから、多少の割引がある筈だ。歌を習っているチイさんは実に丁寧に歌い、姫は相変わらず澄んだ高音を聞かせる。碁聖の低音もいつもの通りだ。それなのに、私は声が嗄れて声量も衰えた。「珍しいですね、風邪ですか」と姫は訊いてくれるが、私はもう歌も歌えなくなってしまったかも知れない。
     会計をする段になって財布を出していると、「もしかして六十歳以上の方ですか」と店員が訊いてくる。そう言えば前回も同じだったと、やっと思い出した。「勿論シルバーです。」既に酔いが回っている私は、靴屋で貰ったシルバー会員のカードを見せてしまった。こんなカードは全く何の役にも立たないのだが、顔で判断してくれたらしい。「それなら割引になりますから、おひとり様二千五百円です。」エライ。

     飲んだ後の鶴ヶ島までの道程は遠い。だから溝の口に勤務している間も、あまり飲んだことがない。幸い池袋で始発の東上線に座れて助かった。漸く鶴ヶ島に辿り着いて駅を出ると、数人の若者が空を見上げているのに気付いた。中には携帯電話のカメラを、ほぼ真上の空に向けている者もいる。そうだ、今日は皆既月蝕と言っていた。月齢十四・九日。満月であるが、遠近乱視でおまけに酔いの回っている目で見ても、確かに欠けている。私の眼では左半分が欠けて、その辺りに箒で掃いたような跡が見えた。月蝕を見たのも初めてのことである。

      月蝕や首の疲るる年の暮  蜻蛉

     団地に着いた時も、ほぼ真上の空にちゃんと見える。しかしその話をしても、妻はまるで関心を示さない。「フーン、そう。だって、部屋の中からは見えないんでしょ。」確かにベランダからでは方角が違う。「寒いからね。」共通の興味関心と言うものがない夫婦なのだ。ロダンは家族全員で見ていたと言うからまるで違う。
     皆既になるまでは見ていないが、隊長や姫はちゃんとそれを確認したようだ。皆既となれば真っ暗になるのかと思えば、そうではなく、赤くなるらしい。姫の証言ではオレンジ色の月に黒い煤がついたような様子だったと言う。

    皆既月食中の月は、赤銅色ともいわれ、赤っぽい色をしています。月が地球の影に入っても完全な真っ黒にはなりません。その理由は、太陽光が地球の大気によって屈折や散乱され、うっすらと月面を照らすためです。赤くなるのは、朝焼けや夕焼けの原理と同じように波長の長い赤い光のほうが大気中を通過しやすいためです。
    http://www.astroarts.co.jp/special/20111210lunar_eclipse/index-j.shtml

     二十四日の里山ワンダリングには参加できないので、私にとってはこれが今年の歩き納めとなった。震災に始まり暗いニュースばかり多い年だったが、ここに来て碁聖が嬉しい結果を出してくれた。
     大山街道には全く関係ないが、NHKBSで朝の七時十五分から始まる「カシャッと一句!フォト575」という番組がある。そこで、碁聖が「殿堂入り」の名誉に輝いた。十二月十四日の朝のことだった。
     写真に川柳(あるいは雑俳)を添えたものを肴にして、十五分の間に四五人の評者が様々な感想を喋って最高の作品(殿堂入り)を選ぶ番組である。氾濫するお笑い番組とは違って上質のユーモアが漂うので、出勤前に時々見ていて、膝を叩いて感嘆する時もある。司会は伊集院光、メンバーは時々交代し、この週は審査委員長がやくみつる、紹介者を哲学者黒崎政男と川柳作家やすみりえが担当していた。
     碁聖はライオンの家族の写真を撮った。母ライオンが父ライオンの首に顔を押し付けていて、足元の子ライオンがそれを見上げている。サファリパークでの光景だろうか。これにどういう句を付けるか。

      ねえあなた たまには外で食べたいわ   ゴロ

     これは何か。これによって、単なる動物の家族のイメージが一変してしまうのだ。気が向かず「俺は家にいたいな」と思っている父親に母が強要しているようにも見えてくるし、子は「家では母親の力が強いのだな」と納得しながら見詰めているようにも思えてくる。まるで我家のようではないか。そうとしか見えなくなってしまう。あるいは、もしかしたら、檻の中で毎日与えられる肉ではなく、たまには外で人を食ってみたいということではないかと、一瞬思ってしまうようなブラックな味もする。天才ではあるまいか。
     今回の放送では他の作品もかなりレベルは高かったように思うが、碁聖の作品が見事「殿堂入り」を果たした。目出度いことであった。

    蜻蛉


    (追記)  長津田下宿で祠をこじ開けて見た青面金剛について、石工が無学で青面金剛と不動明王とを間違えたのではないかなんて、愚かな事を書いてしまったので訂正しなければならない。ちょっと調べれば済むのに無精をするからこういうことになる。全く無学を恥じるばかりです。

    一身四手。左辺上手把三股叉。下手把棒。右辺上手掌拈一輪。下手拈羂索。其身青色。面大張口。狗牙上出。眼赤如血。而有三眼。頂戴髑髏。頭髪聳堅如火焔色。頂纏大蛇。
    両膊各有倒懸一龍。龍頭相向。其像腰纏二大赤蛇。
    両脚腕上亦大赤蛇。所把棒上亦纏大蛇。虎皮縵胯。髑髏瓔珞。像両脚下安各一鬼。
    其像左右両辺各当作一青衣童子。髪髻両角手執香炉。
    其像右辺作二薬叉。一赤一黄執刀執索。其像左辺作二薬叉。一白一黒執銷執叉。
    形像並皆甚可怖畏。手足並作薬叉手足其爪長利。(『陀羅尼集経』第九 大青面金剛咒法)

     『陀羅尼集経(ダラニジッキョウ)』は唐代のインド人阿地瞿多(アジクタ)による漢訳で、奈良時代に伝わった。陀羅尼は雑密の呪文のことで、様々な仏尊の功徳とその姿が記されている。ここに書かれているのが青面金剛像の「儀軌」である。
     一身四手で髑髏、大蛇、龍を体に纏わりつかせ、眼は血の如く赤い。これによれば、金剛の両足はそれぞれ鬼を踏み、左右に童子を作り、更に薬叉(夜叉とも言う)を四体伴うことになっている。邪鬼が二人、童子が二人付き添っているのは不思議でも何でもないことであった。むしろ「大青面金剛咒法」に詳しい人物が関与していたと考えなければならない。
     ただ、二体の邪鬼や四体の薬叉が石に刻まれるのはやはり珍しい。それに乏しい経験ながら、これまで見たものは六臂が圧倒的で、「一身四手」とも違っている。この「儀軌」の通りに作られた庚申塔があれば、それは非常に稀であると言ってよい。

    伝尸を駆除する青面金剛は、伝尸と三尸の関連から庚申信仰にとりいれられ、礼拝本尊に加えられる。江戸時代には広く各地に普及し、庚申の本尊として定着する。青面金剛の像容は『陀羅尼集経』に説かれているけれども、現在各地でみられる刻像は、儀軌に示された二童子・四薬叉を伴なう二鬼上に立つ三眼四臂像とは異なっている。(中略)
    刻像塔に青面金剛が登場するのは、承応年間以降である。承応二年(一六五三)には、神奈川県高座郡寒川町下大曲の四手の青面金剛刻像塔が現れる。寛文年間からは各地で造像され、元禄以降には広い地域にわたり、しかも量的にも一段と増加して庚申の主尊としての王座を占める。他の主尊を引放して刻像塔を独占し、青面金剛の最盛期を迎える。(「庚申塔物語」http://hoko.s101.xrea.com/koshinto/howto06.html)

     これによれば、刻像塔以前に「青面金剛」の文字を刻んだ塔としては、鹿児島県指宿市に天文十四年(一五四五)のものが見られると言うので、青面金剛が庚申信仰に取り入れられたのは戦国時代末期のことだと考えられる。
     『大辞林』によれば「伝尸」は肺結核の古称で、様々な悪病を除去する神だったと思われ、そもそも庚申信仰とは何の関係もない。たまたま「三尸」と混同して、庚申信仰の主尊となったものだろうか。

    中世も室町時代には庚申信仰は天台系の修験にむすびついて、申待供養碑や山王二十一社種子(梵字)曼荼羅板碑になったが、近世にはいると真言系の修験と結合して青面金剛になった。これはさきに述べたように、両部神道(伊勢神道)の金剛神が、雑密経典『陀羅尼集経』(九)の「大青面金剛呪法」と習合して、現在の青面金剛になったものと推定される。
    青面金剛像は石像にしても画像にしても、いろいろの変形があるばかりでなく、その脇侍(二童子・四薬叉・鬼)や猿、鶏なども、かならずしも同一でない。これは密教と修験道と日本人の庶民信仰が混在しているからなので、(後略)(五来重『石の宗教』)

     結局、様々な要素が習合混淆した結果、つまり日本で成長した神であり、必ずしも儀軌に拘ってはいないということなのだ。