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    番外 大山道を歩く 其の五(すずかけ台駅から海老名駅まで)
    平成二十四年二月十一日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2012.02.18

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     旧暦一月二十日。次第にスタート地点が遠くなってきて、『カーネーション』が始まる前に出なければならない。NHK朝の連続ドラマを毎日見るなんていうことが私の人生に訪れるとは思わなかったが、この番組は面白いのです。鶴ヶ島を七時五十一分に出発し、和光市で副都心線に乗り換えて渋谷に着く。いつも田園都市線にはまごつくのだが、今日は不思議なことに簡単にホームに出た。各駅停車をやり過ごし、九時ちょうどに出る急行を待っているとダンディがやって来た。
     「おかしかったですね、最高ですよ。」前回の里山ワンダリングをロダンが半日で早退した時、宗匠が「奥さんから外出許可の半日券しか貰えなかったのだろう」と言ったことである。「半日券なんて、実に適切で上手い評言でしたね。」
     すずかけ台には九時三十四分に到着した。前の車両からロダン、ドクトル、あんみつ姫、カズちゃんが降りているのが見え、階段のところで追いついた。「講釈師はもう来てるんでしょうね。」「絶対早いんだから。」案の定、改札の外にはマスクを着けた講釈師が待ち構えていた。
     その講釈師はアルバム二冊を抱えている。「これだよ。」見たければ見ろという風に、笑いもせずに渡してくれる。面白くもなさそうな顔をしているのは、嬉しいときか自慢したいときだ。自作のプラモデルを写真に撮ったものだった。戦闘機なら私だって子供の頃に二つ三つ作ったことはある。しかしこの写真を見るとそのレベルではない。「これは食パンを練って石膏で固めて、これはフィルムを蝋燭の火で溶かしてさ。」発泡スチロールで藪を作り、糸をセメダインに漬けて垂れ下がった電線を表現するなど、戦場の舞台効果を実に細かく工夫していて、細工が素人離れしているのである。「この人形だって、三体を分解して組み合わせたんだ。」『コンバット』の世界だろうか。自慢するだけのことはある。「これは一式陸攻(と言っていたような気がする)ですよね。」ロダンはプラモデル少年だったらしい。
     「こんなに作ったら部屋に置けないでしょう。」ロダンの家も我が家同様に狭いことが分かった。「店が貸してくれって言うんだよ。」専門店が展示用に借りて行く程なのだ。こんなことは誰も知らなかったが、手先も器用なひとであった。「口だけじゃないんだね。」「こういうのを口八丁手八丁って言うんですね。」
     「ロダンは、今日は一日券を貰ってきたんですか」とダンディが笑う。「今日はね、四分の三ですよ。」どうやら反省会には出られないという意味らしい。そのロダンと桃太郎とカズちゃんがマスクを着けている。
     あんみつ姫、小町・中将夫妻、若旦那夫妻、カズちゃん、マリー、ヨッシー、講釈師、ダンディ、ドクトル、スナフキン、碁聖、桃太郎、チイさん、ロダン。「何人ですか。」「十六人。」しかしロダンが数を数えて、「十七人いますよ」と言う。おかしいな、数え間違いじゃないか。「やっぱり十七人いる」とスナフキンも言うなら私が間違っているか。出欠票を確認して原因が分かった。「誰だった。」「俺。」自分にチェックを入れていなかったのである。「自分が作る出欠票なんだから、あらかじめ自分のところは○にしておけばいいだろう。」「これを使うのは自分が出席するときだけなんだから。」正しい意見である。私がそれに気付かなかったのが不思議だ。

     空気は冷たいが、風が余りなくて手袋をしなくても済む(実は忘れてきた)。冬晴れの空が青い。駅を出てすぐ国道二四六号の歩道橋に立った所で、「これですよ」と姫が注意を促す。「見てください、標高九十三・八六メートルなんです。高いですよね。」路面に標識が埋め込んであるのだ。もうひとつ「日本橋より三十二・四キロ」の標識もある。橋の上からは大山の姿がくっきりと見える。「まだ遠いな。」「ホントに登れるのかしら。」
     歩道橋を渡り、国道の脇を行き左の路地に入って回り込むと、裏の空き地に小さな祠が建っていた。元文五年(一七四〇)に建てられた地蔵堂で、国道拡幅のために百メートルほど移動させられたものという。
     「またこじ開けちゃうんですか。」碁聖はよほどあれが気にいったらしい。「祠を見ると開けたくなってウズウズしちゃうんだね。もう病気みたいなもんですね」と笑っている。確かに祠の扉を開けてしまう人間は余りいないだろう。これだって閂を外せば開けられるが、今日は格子の隙間から中の地蔵が見えるから開けなくても良い。
     地蔵は岡部初子さんが奉納したばかりの涎掛けと頭巾を被っている。足元に置かれたビニール袋に赤い布が見えるのは、交換用の涎掛けが詰めてあるのだろうか。「ゴミ袋かと思っちゃうわよね。」若女将の言う通りだ。
     町田市辻の交差点で交差しているのは、町田街道または神奈川道とも呼ばれたシルクロードである。横浜から八王子を経て上州を結ぶルートはいくつもある筈で、その一つになるのだろう。この辺から旧街道は二四六から逸れて行く。少し先の東名入口の交差点で国道十六号線を渡る。「アッ、遅れていますよ。」小町と桃太郎が信号で取り残されてしまった。今日はいつもより距離が長く、疲れた人を救出するために、桃太郎は後衛に位置しているのである。
     仕方がないので方向だけを指差して国道を右に行く。家具のニトリの先で左に入ると小高い塚が現れた。中腹には表面を削って「一里塚・鶴間」と彫った石が立っているが、字体からみてそれほど古いものではない。一里塚、あるいは通称大塚と言うのだが、一般的な街道沿いの一里塚とは随分違う。
     「西ヶ原の一里塚とはかなり違いますね。」ロダンが不思議に思うのも当然だ。少なくとも、徳川幕府が全国の街道に設置させた一里塚の形式ではない。本当に「一里塚」だとしたら、歴史的にはかなり珍しいものではないか。もっと宣伝してもよさそうなものだが、案内板もなく、町田市の観光案内を見ても何の説明もないのが気になるのだ。違うのではないか。溶岩は使っていないから富士塚ではなさそうだし、あるいは円墳でもあろうか。念のために『町田市史』(昭和四十九年)を開いてみた。

    大ケ谷戸バス停前の東北隅には文久三年(一八六三)の造立銘を刻む庚申塔がある。これより先一キロ余りの部分は最近まで広々とした畑の中をゆく平坦な道で鶴間原を貫く中世の道の面影を残していたが、現在は大住宅群の造成工事や東急田園都市線の建設工事が進められつつあり、古道は押し寄せる都市化の波に洗われて変貌寸前の状態にある。ただ途中の、道の右側に鶴間の大塚と呼ぶ高さ四メートル径十メートルほどの円墳状の塚があり、頂に小祠を祀り数本の樹木が生い茂っているのが僅かに古道の風情を偲ばせる。

     町田市内をいくつも通る鎌倉古道の様子を記した中の記事である。「鶴間の大塚」の存在は記されていても、「一里塚」なんていう記載はどこにもない。これによって推測すれば、昭和四十九年以降のある時点で、誰かが「一里塚・鶴間」の石碑を建てたのではないだろうか。どういう意図があったのかは分からない。頂上には御岳神社の石祠が立っているが、これは明治になって火難盗難除けのために祀ったものというから、江戸時代にこんなものはない。
     姫とチイさんは十六号の角に待機している。一通り見終わって下に降りたところで、漸く小町と桃太郎も到着した。しかし到着したと思うとすぐに、塚には上らずにすぐに元に戻ることになってしまった。「お父さんと一緒に歩いていれば良かったのに。」「そうそう、若旦那夫妻なんか、いつもラブラブで絶対に離れないからね。」「ラブラブなんて、そんな。」口ではそう言いながら、若女将とお揃いの帽子を被って若旦那はニコニコしている。小町と中将だって仲は良いのだから、もう少し「ラブラブ」になった方が良い。
     旧道に戻り、バス停前の一角で姫が立ち止った。刈り揃えられた松や椿を植えた小さな庭のようになっていて、大ケ谷戸(おおがやと)庚申塔が立っている。『町田市史』の記述とは逆に歩いて来た訳だ。写真を撮る私たちを、バスを待っている男が不審そうに眺めている。
     墓石型の文字庚申で、台座正面に鶴間と記されているのが分かったが、裏面の文字は全く判読できなかった。さっきの『町田市史』によって文久三年と分かれば、確かにそのようにも見える。
     「注連縄が張られてるのは珍しいんじゃありませんか。」ロダンと同じで私も初めて見る。上十センチ程の辺りに細い縄が結ばれ、幣が下げられているのだ。しかし庚申塔に注連縄は似合わない。この地域の人が庚申塔を神と考えているのなら、それは石神信仰に由来するのだろうか。両脇に割に新しい小振りの石燈籠が置かれているのも不思議な構図だ。
     日枝神社には寄らずもう少し行けば、右側に圓成寺(浄土真宗本願寺派)があった。町田市鶴間一二一〇番地。縁起によれば天正年間(一五七三~一五九二)、北條氏綱の家臣山中修理亮が遁世して開創したと伝えられる。一向宗だから本尊は恵心僧都作と伝える阿弥陀仏だが、聖徳太子立像(室町時代後期の寄木造)が町田市の指定有形文化財となっている。私たちは見なかったが、こんな風であるらしい。

    聖徳太子像のなかで、髪を美豆良に結い、袍衣の上に袈裟をまとい、手に柄香炉を持って立つ童形の像容は、太子十六才時の姿をあらわし、一般に「太子孝養像」といわれる。本像は、いくつかの材を合わせて彫成した「寄木造」の像であり、眼には水晶を嵌入し(玉眼)、全身に彩色を施す。
    太子孝養像が流行し始めた鎌倉時代の諸作にくらべると、本像はやや法量が小さく、また小ぶりな目鼻立ちの顔貌表現や鎬立った賑やかな衣文表現などから考えても、製作は室町時代に下がるかと思われる。ただし、定型化したポーズとはいえバランスよくまとめられたその彫法などに作者の技量が偲ばれ、当市周辺に所在する室町彫刻のなかでも優品をいってよいだろう。(説明版より)

     「親鸞と聖徳太子ってどういう関係なんだい。」「私も知りたいよ。」ドクトルと小町が口を揃えて言う。浄土真宗本願寺派は、つまり西本願寺の系統になるが、これは親鸞だということは知っているらしい。親鸞は聖徳太子を厚く信仰したのである。「フーン、そうなの。」私たちが習った学校歴史では十七条憲法位しか思いつかないが、聖徳太子は日本仏教思想史上、最大のアイドルであり、死後すぐに神格化された。それに関連して、法隆寺は聖徳太子一族の怨霊を鎮護するために建てられたという梅原猛説が生まれるのだが、少なくとも歴史に関して私は梅原の議論を信用していない。
     八世紀末の景戒『日本霊異記』の「聖徳皇太子の異(くす)しき表(しるし)を示したまひし縁」に、例の(日本書紀にある)片岡飢人伝説が記されている。後にこの乞食は達磨の化身であったという説が生まれ、聖徳太子自身が天台智顗の師の南嶽慧思の生まれ変わりだともされる。
     古代から中世にかけて、聖徳太子というのは未来を予測する万能の神格として尊崇されていたのである。中世の非農耕民が太子信仰を持っていたのは、井上鋭夫『山の民・川の民』に詳しい。江戸時代には主に大工などの職人の間に太子信仰が広がった。
     建久二年(一一九一)十九歳の親鸞は、南河内磯長の聖徳太子廟に三日間参籠して夢告を得た。

    我三尊化塵沙界 日域大乗相応地
    諦聴諦聴我教令 汝命根応十余歳
    命終速入清浄土 善信善信真菩薩

     お前の命は残り十余年、そこで浄土に入るであろうというお告げであった。あと十年で死ぬと言うのだろうか。

    此告命を得たまへども、深秘して口外なし。唯正全房ばかり、其記文を書たまふを見る。然るに汝命根応十余歳の文意さとし難く思召けり。範宴いま十九歳なれば、今年までの寿限と云ことにや、又今より十余歳との義にや、猶予ましますも断なり。其後二十九歳に至て、浄土真門に入たまふ上にて、当初の告令に十余歳に至て清浄国土に入んとは、今此時を示されけるよと、日来の義蒙を晴たまひけり。(『親鸞聖人正統伝』)

     親鸞が京都で法然と出会い阿弥陀信仰に入るのは、その十年後のことだった。つまり夢に告げられた十余年後に浄土に入るとはこのことだったのである。
     「オナガだよ。」民家の庭木の枝にオナガが二羽飛び込んできたのだ。

      枯れ枝に跳躍したり尾長鳥  蜻蛉

     いつの間にか住所表示が横浜市になった。「横浜っていっても、一番外れだぜ。」横浜市瀬谷区である。それを聞いてロダンがマンホールの蓋を確認している。五貫目町の交差点の脇に、半円形のスペースを作って立つのが五貫目道祖神である。本来はこの場所にあったのではなく、国道拡幅のために移されたものだ。元はここから三百メートルほど西、境川の鶴間橋際に祀られていた。
     ところで五貫目という地名は、江戸時代初期に村の年貢高が五貫目と定められたことに因るという。貫髙制は、軍備増強のために銭を大量に必要とした戦国大名が、年貢の銭納を定めたことに始まる。しかし戦国末期には銭不足による鐚銭の横行もあって石高制への移行が進んだ。最終的には太閤検地によって、ごく一部を除いて石高制に統一された筈ではなかったろうか。米だけでなく畑や山林、海浜地方では塩の生産高まで米に換算して、村の総生産量としての石高を決めたのである。
     もし江戸初期までこの辺に貫髙制が残っていたとすれば、私の常識は覆されてしまう。また貫髙と石高とをどう換算すれば良いのかは、地域によって異なり、そもそも思想が違うのだから一律には出来ないが、仮に一貫を五石とすれば、五貫目村は二十五石相当と言うことになる。
     五貫目町内会の説明によれば、この道祖神は安政三年丙辰八月に建てられた二代目である。「神」の文字は分かるが、その上はまるで判読できない。左側面の「天下泰平 五穀成就」ははっきり分かる。埼玉で見る石仏よりはるかに風化が激しいのは、何か気候風土に関係しているだろうか。
     現在も五貫目町内会では一月十四日にこの道祖神を前にして左義長の行事を行っているという。私は民俗的な行事に全く疎くて知らなかったが、左義長(どんど焼き)は道祖神の祭りとして行われることが多いらしい。チイさんに、秋田で二三日後に火祭りの行事があるんじゃないかと訊かれても知らなかった。おそらくそれもどんど焼の類に違いない。秋田県を最北限として、鹿児島県まで日本全国で行われる行事のようだ。

     左義長(さぎちょう、三毬杖)とは、小正月に行われる火祭りの行事。地方によって呼び方が異なる(後述)。日本全国で広く見られる習俗である。」
     民俗学的な見地からは、門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされる。お盆にも火を燃やす習俗があるが、こちらは先祖の霊を迎えたり、そののち送り出す民間習俗が仏教と混合したものと考えられている。
     とんど、どんど、どんど焼き、とんど(歳徳)焼き、どんと焼きとも言われるが、歳徳神を祭る慣わしが主体であった地域ではそう呼ばれ、出雲方面の風習が発祥であろうと考えられている。(ウィキペディア「左義長」)

     歳徳神というのも初めて知った。「としとくじん」、または「とんどさん」と呼ばれるらしい。ウィキペディアによれば、陰陽道で、その年の福徳を司る神である。年徳、歳神、正月さまなどとも言う。また櫛稲田姫ともされているというからややこしい。
     これが道祖神と習合するのはどういうことなのか。道祖神も実はややこしくて、塞の神、岐の神であり、男女和合の神でもある。猿田彦とも習合するが、おそらく石神(しゃくじ)が発展したものだ。日本人の土俗の信仰は実に多層的、多面的で難しい。
     鶴間橋で境川を渡る。川からこちらが相模国下鶴間宿ということになる。横浜市はあっという間に過ぎてしまって、ここから大和市に入った。さっきの道祖神がこの辺に立っていたのなら、やはり境界を守る塞の神として祀られていたのだ。
     宿場の東の外れの交差点角に建つのが鶴間山観音寺(高野山真言宗)だ。大和市下鶴間二二四〇番地。智山派、豊山派の新義はしょっちゅう目にしても、古義真言宗の寺には滅多にお目にかからない。御室派の寺院を一度見ただけだ。境内には大きなイチョウが立ち、聖徳太子を祀る太子堂(六角堂)がある。山門脇の石柱には武相卯歳観音札所一番とある。卯年の四月だけ開帳するらしい。「ウサギの人は誰。」ダンディの質問に中将と私が手を挙げた。中将はダンディや講釈師と同学年の筈だが、そうすると早生まれだったのか。
     相洲鶴間村宿の道標には、「是より東江戸十里」、「是より西大山七里」とある。その道標が立つのは大山阿夫利神社御分霊社の入口だが、神社自体には何の案内板もない。大和市下鶴間二一七〇番地。道路から入った所に斜めに朱塗りの明神鳥居が建ち、その奥に小さな拝殿が建っている。珍しいのは狛犬が大理石(あるいは模造大理石か)で彫られているのと、左右両方が「阿」形であることだ。拝殿の右脇には金運長命・大国主大神、出世・太閤豊臣秀吉公霊を祀る小さな社も建っている。秀吉の霊を祀るなら豊国大明神だろうが、その神名はない。なんだかヤケに俗っぽい神社だ。地図で確認すると、ここは大黒天開運神社と記されているので、大国主の方が元々の祭神だったのだろうか。
     神社の左隣は民家の広い庭になっている。境内と一続きなので、「御分霊社」もこの家の所有になるものかも知れない。大きなみかんが鈴なりになった木の横には、新田義貞が剣を押し戴く像が立っている。「稲村ケ崎とじゃ場所が違い過ぎますよ」とダンディやドクトルが笑うが、この家は義貞の子孫と言っているらしいのだ。「元新田氏の歴史と其の由来」碑にはこう書いてある。

    南朝の忠臣元新田氏の高下宗家は相州下鶴間村の旧家であった。元弘三年、「西暦一三三三年」鎌倉攻めを行った新田義貞公の流れを汲む当地の豪族であった。現在の観音寺より歴史は古く、観音寺は当家の先祖が土地を寄進して開基したと当家に伝えられている。

     碑文の全体はもっと長くて、意味の取りにくい文章が書かれてある。一方では「南朝忠臣新田氏縁の家」の碑も立っていて、こちらには「当家は鶴間村最古を誇る。鎌倉時代以前よりこの地に処住する」とあるのが不思議だ。新田義貞の流れを汲むなら、南北朝以後のことでなければならず、「鎌倉時代以前よりこの地に」という言葉と明かに食い違う。論理を整合させた上で説明して貰いたい。はっきり言って胡散臭いのだ。
     入口を挟んで分霊社と逆の道路際には、上州を出てから鎌倉に至る義貞の進軍行程を描く大きな地図が掲げられている。太平記によるのだろうが、ほぼ一直線に南下してきたことが分かる。上州新田郡のことなら中将が詳しそうだ。近所には寺の山門のような門構えの家があり、ほかにも大きな家が多い。
     下鶴間ふるさと館で見学がてら休憩を取る。大和市下鶴間二三五九番地五号。塀の外は高札場になっていて、太政官布告が三枚掲示されている。徒党強訴逃散の禁、切支丹禁制の確認の二枚は慶応四年、火付け強盗贋金作りの禁は明治三年のものである。「これって本物かい。」勿論レプリカである。ただ城下町や宿場にこうしたものを復元するのは悪いことではない。
     「あそこでも見たじゃない。」固有名詞がなかなか出てこないところに、「佐倉ですか」とロダンが助けてくれた。この三枚セットの高札は、佐倉で見たのと同じではなかろうか。しかし記憶は違っていた。確認してみると、佐倉のものは「人たるもの五倫の道を正しくすべき事」というやつだった。
     ふるさと館は下鶴間宿の雑貨商小倉家の母屋だ。一九九三年に解体し、保管していた材料で復元して二〇〇六年に完成したのである。茅葺の屋根を銅板で覆っているのは、おそらく消防法の規制のためだろう。入館は無料だ。
     土間に入ると部屋は田の字型に区切られていて、右の十二畳程の部屋が店になっていたようだ。展示箱(箪笥の抽斗)には、征露丸、救心、毒掃丸、ワカモトなど懐かしい、そして今でも目にする薬の箱や瓶が展示されている。昭和になっても商売をしていたということになる。
     「セイロガンってこういう字だったんですか。」ロダンもスナフキンも知らなかったようだが、日露戦争に際して売り出されたものである。そして征露丸(正露丸)が単なる下痢止め剤だとしか思っていなかった私は認識を改めなければいけない。

     戸塚機知三等軍医正は、一九〇三年にクレオソート剤がチフス菌に対する著明な抑制効果を持つことを発見する(これに関しては異説もあり、正露丸の元祖だと主張している大幸薬品は、陸軍よりも一年早い一九〇二年に、大阪の薬商である中島佐一が忠勇征露丸を開発して販売を開始したと主張している)。
     ドイツ医学に傾倒していた森林太郎ら陸軍の軍医たちは、チフス以上に多くの将兵を失う原因となった脚気もまた、未知の微生物による感染症であろうという仮説を持っていた。そのため、強力な殺菌力を持つクレオソートは脚気に対しても有効であるに違いないと考えて、日露戦争に赴く将兵にこれを大量に配付し、連日服用させることとした。ちなみに、明治三四年の陸軍医学雑誌ではクレオソート丸と記載されていたが、明治三七、三八年の陸軍医学雑誌に「征露丸」という記載が現れる。その後、日露戦争後にはクレオソート丸に戻るまで四年間だけ「征露丸」という学術名称として広く軍医の間で使用された。「征露」という言葉はロシアを征伐するという意味で、その当時の流行語でもあった。(ウィキペディア「正露丸」より)

     それにしても、正露丸で脚気を防ぐなんてね。海軍は試験的に麦飯やパンを導入して脚気改善効果を示したが、そもそも病気の原因を明らかにすることができず、学術的に説明ができなかった。ヨーロッパ系の医学者は感染症を主張した。鷗外(及びその上司の石黒忠悳)は麦飯への変更も拒否し、白米食に固執した。陸海軍や医学界が原因もつかめずに堂々巡りの議論している間、日露戦争では脚気で病死した兵が三万人近くに及んだ。説明がつかなくても臨床的に効果があったのだから、陸軍も麦飯に変更していれば犠牲者は減っただろう。
     脚気の原因がビタミンB欠乏によるということが漸く確定したのは、大正十三年のことだった。ビタミンの発見というのも、そんなに古いことではなかったのですね。
     「子供の頃虫歯に詰めたよ」とスナフキンは言う。要するに殺菌剤なのだ。そして私はこれがラッパのマークの大幸薬品の登録商標だと思っていたが、実は正露丸は一般名称であるという判決が最高裁で確定されている。
     我が家の常備薬でもある。「これが常備薬かい」とスナフキンが驚いて、「胃腸にはエビオスがいいよ。ビール酵母だから」と言う。父も食卓には常に大きなエビオスの瓶を置いていた。子供の頃に勧められ、仕方なくボリボリ噛むと実に不味かった。「そう言えば最近、ヨーチンって見なくなったよな。」赤チン(マーキュロ)も見ないのではないか。「赤チンはあるよ。」
     南側の板の間は古そうだが、何枚かはやや新しそうに見える。掃除していた係員に「この床板も当時のものですか」と訊くと、「そこだけ三枚ほど取り換えたんですよ、色を見ると少し新しいでしょう」と教えてくれる。解体した際、床板の裏に文字や絵が記されているのが発見されたのである。
     その床板が飾られている。教えられなければ分からないが、船のような絵も見える。説明によれば、伊豆の石田利三良、安政三年という文字、三本マストの黒船などが判明するらしい。安政三年(一八五六)、小倉家の建築に当たった伊豆の大工利三良が、故郷で見た黒船の絵を床板の裏に描いて職人連中に説明したのではないかと推測されている。
     トイレに行って戻ってくると、皆は南に面した日当たりのよい縁側に座り込んで、なにやら紫色の紐のようなものを口にくわえている。新しい菓子であろうか。不思議に思っていると、チイさんが残っている包みを開いてくれた。これはムラサキイモを乾燥させたものだった。「固いから舐めるようにしてください。」合成着色料かとも思えるほど、実に鮮やかな紫色で、懐かしい、かすかに甘さが感じられる鄙びた干し芋だ。

      縁側で干芋つまみお茶話し  千意
      干芋の色紫や春隣   蜻蛉

     チイさんは余程暑いのか、ジャンバーも脱いでシャツだけの姿になっている。毛糸の帽子を丸めて頭にチョコンと載せているのがおかしい。休憩も終えて出発する。
     長い黒板塀が続く由緒ありそうな家は、長谷川彦八という豪農(組頭)の家である。「こういう塀は昔ありましたね。水戸にもあった。」彦八は代々襲名する名のようで、明治期の自由党員で県議会議員にも同じ名前が出てくる。
     文化十三年(一八一六)三月十八日、この家に伊能忠敬測量隊が泊ったという記録もあるらしい。最後の測量であり、忠敬は二年後の文化十五年四月十三日に死んだ。

    兎来伝書して長谷川彦八といふ豪農の家に行。門塀巨大、書を伝ふ。其家、賓客屏列、飲膳甚盛也。宿ヲ不乞。(「渡邊崋山『游相日記』」

     渡邊崋山は、田原十三代藩主三宅康明の異母弟三宅友信の依頼によって、早川村に住むという友信の生母「お銀様」の消息を尋ねる途中だった。兎来はこの日長津田で崋山が立ち寄った家の主人、萬屋藤七の俳号である。その紹介状を伝えたが、客が多すぎたので泊ることを諦めた。
     お銀は相模国髙座郡早川村佐藤幾右衛門の娘で、十一代藩主の側室として友信を産んだ翌年、母親の急死に伴って実家に戻り、そのまま音信が絶えていたのである。康明が嗣子なくして死んだため、藩主後継として崋山は友信を推したが、重臣たちは藩財政窮乏を救うため、持参金つきの養子を迎えることに決定した。そして姫路藩酒井氏の六男を迎えたのが十四代藩主三宅康直である。友信は隠居したものの前藩主待遇の「巣鴨の老公」と呼ばれ、田原藩洋学の後援者として八十一歳の長寿を全うした晩年になって『崋山先生略伝』を著している。
     「そこは寄りません。だって石段が高すぎて。」石段には下鶴間不動尊の赤い幟が並んでいる。下の斜面には、おそらく上がなくなってしまった「不動尊」の石碑が建っている。下四分の一程が剥離してしまって、「尊」の文字が欠けている。
     「あっ、そうか。」ロダンが声をあげた。「あそこに日の丸が掲げられているのは、今日が建国記念日だからなんですね。」そうだったか。私は全く気付いていなかった。「紀元節ですよ」と戦前の人は当然のように断言する。
     石垣の上に長い格子塀を載せた三階建の家もある。鶴林寺の参道石段も「登りませんよ」の声で素通りする。「そうだよ、こんな石段、登れる筈がないよ。みんな若いんだから」と講釈師は意味が分からない言葉を呟いている。姫は昼食休憩の時間を気にしているのだろう。
     道路脇の朱塗りの祠の二体の地蔵尊は、真っ赤な布に包まれていて、花が供えられている。「いまでもこうして、新しいお花を供えて祀られているんです。素晴らしいですね。」クリスチャンであっても、こうした民間信仰には理解がある。その脇には「常夜灯」の石碑が残っている。電柱の脇には古い道標が立っているが、「左先□」と読めるだけだ。
     駐車場に「渡辺崋山とまんじゅう屋」の案内板が建っている。長谷川彦八方に泊れなかった崋山は、結局ここに泊ることになったのである。

      角屋伊兵衛、俗にまんちうやといふ家に宿す。四百三十二銭。
    鶴間、武相の堺川を高坐川と云。即、相の高坐郡なれはなり。
    鶴間といふ所二あり。一を上とし、二を下とす。下は赤坂の達路、驛・々、わつかに廿軒はかりあるぬらん。左り右いより松竹覆ひしけり。いといとよはなれたる所なり、まんちう屋のあるし婦夫□萩□という村に婚姻ありて、行ておらねは、湯なとの用意もなし。膳まつかるへしとて、其父なる翁、孫なるむめはかりなり□□いさよくは、御とまりあれやいふ。酒を命し、よし。飯うまし。(『游相日記』)

     下鶴間宿は大山街道と八王子街道が交差する要衝の地で、かなり賑わっていたというが、崋山の記録では、僅かに二十軒ばかりの寂しい宿場である。ところで、この『游相日記』は『日本庶民生活史料集成』(三一書房)第三巻に収録されている。本文は二段組十八ページ程の小さなもので、旅中のメモとスケッチが楽しい。ただ、きちんと推敲したものではないから、仮名遣いも間違っていたりする。
     崋山は弟子の高木悟庵を伴い、天保二年(一八三一)九月二十日に藩邸(麹町か巣鴨か)を出た。雨が降ってきたため蓑笠を十一銭三分で買い、青山に到って二百三十銭で飯を食った。道玄坂で七十文の煙管を買ったりしながらその日は荏田宿に止まった。宿賃四百六十文。銭と文が混在しているが、同じとみてよいと思う。
     鶴間のまんじゅう屋に泊ったのは二十一日のことである。十一里を二日、一日に二十キロ強だから当時としてはかなりゆっくりしたペースだと思ってはいけない。初日は荏田まで七里、およそ二十八キロをスケッチしながら歩いているのである。この日は、前夜の飲み過ぎもあって昼ごろ起き出し、しかも長津田の兎来の家で連句を楽しんだりしていたのでこんな風になってしまった。
     「崋山は徳川幕府に殺されましたね。」ダンディは幕府を批判する材料を見つけて口を切る。最終的には自殺である。「それでも幕府が殺した。」幕府というより鳥居耀蔵である。「鳥居耀蔵ってあの妖怪の」とロダンが確認しながらメモをとっているのに、私は「火ヘンかな」なんて好い加減なことを言ってしまった。林述斎の実子で根っからの洋学嫌いであり、水野忠邦のもとで蛮社の獄をでっち上げた張本人だ。家探しの挙句、崋山が発表する気もない「慎機論」を見つけて幕政批判と見做した。
     弟子の椿椿山、師である松崎慊堂の必死の奔走もあって死罪は免れたものの、崋山は国元の田原(渥美半島)で蟄居生活を余儀なくされた。慊堂は、古来より政治誹謗の罪というものはないし、公にする意思のない反古によって罪を問われるなら、犯罪者にならない人間は誰もいないと建白したのである。当代随一の碩学の言が水野忠邦を動かしたと言われている。
     しかし江戸で生まれて育った崋山にとって、国元とはいえ田原は見知らぬ土地に等しい。それに、貧しい家から家老職まで登り詰め、洋学派としても画家としても名高い崋山を妬む連中は多かった。貧窮と、藩主にまで影響するような悪意ある風説が重なったことで、天保十二年十月十一日自刃した。享年四十九。それから九年後、高野長英も捕り方に襲われて殺された。

     道端にはまた朱塗りの小さな地蔵堂があり、ここにも花が供えられている。どんなに小さな地蔵でも、きちんと祠を作って祀っているのはこの辺りの特徴だ。また立派な門構えの家が建つ。
     日枝神社の鳥居を潜ると、愛想のない空き地のような参道の正面に小さな拝殿があるだけだ。「氏子がいなくなったんですよ。」境内奥にある笠付きの石塔(庚申塔だろう)は正面に直径十センチ程の穴がいくつも穿たれていて、もとは何があったのは分からなくなっている。塔自体もかなり風化しているが、これが自然にできた窪みとは考えられない。「これは越谷にもある、あの平田学派の仕業じゃないかな。」「そうかも知れませんね。」
     以前に姫に教えられていたのだが、廃仏毀釈に際して、忍藩領を中心に平田篤胤門人による改刻塞神塔というものが出現した。青面金剛などを削り落し、その上に「塞神」の文字を彫りなおしたものである。これは改刻ではないが、明らかに表面の像が分からないように窪みをつけたとしか思えない。但しその脇には小さな青面金剛像も立っている。
     「ごはんですよ。」姫の言葉がおかしい。鶴間二丁目交差点を左に曲がるとバーミヤンとくら寿司が並んでいた。「予約してないので、入れなければ分散しても」と姫は言っていたが、バーミヤンは空いていた。ちょうど十二時になるところだ。桃太郎はバーミヤンに入るのは初めてだと言っているし、若女将は、そもそもファミリーレストランなるものに来たのは、先月のジョナサン以来二度目だと言う。私もこの店に入るのは十年ぶり位かも知れない。安さが取り柄のスカイラーク系中華料理屋である。姫が中華料理を選択するのは珍しい。
     麻婆豆腐に餃子と半チャーハンをセットにして八百八十円。他のものだとどうしても円単位の端数が出てしまう。私は胃腸が本調子ではないのだが、大丈夫だろうか。食べてみれば大丈夫だった。小町も私と同じものを頼んだようだった。「美味しかったよね。」まあまあだろう。隣のテーブルにもチャーハンが出てくるのに、ロダンのチャーハンがなかなか出てこない。やきもきしながら、それでもクレームも付けずにじっと耐えているロダンに、漸くチャーハンがもたらされたのは随分経ってからだ。「大変遅くなりました。」同じチャーハンでもセットの種類によって順序が違ったようだ。
     ゆっくり休憩をとって午後の部が始まる。少し暑くなったので、一枚脱いでバッグに放り込んだ。女性陣の大半もジャンバーを腰に巻いて歩いている。
     小田急線を越えて行くと、西鶴間六丁目のあたりから、左の奥に雑木林が広がるのが見えてきた。泉の森という広大な公園になっているらしい。歩道脇の大きな自然石に「矢倉沢往還」を説明するパネルが嵌め込まれている。矢倉沢往還(大山街道)自体は既に全員が承知しているが、石の説明がちょっと面白かった。

    この石は、全国の「大和」という市町村で構成している「まはろば連邦」の加盟国である山梨県大和村より産出されている甲州鞍馬石です。

     さっきロダンが、大和という地名は勝手に名乗ってもよいのだろうか、大和国の登録商標ではないだろうかと悩んでいたのだが、「まはろば連邦」は全国十二の市町村で構成していた。しかし山梨県大和村が甲州市になったように、平成の大合併で多くが消滅したため、この連邦も自然になくなってしまったようだ。奈良県大和郡山市も大和高田市も参加していなかったようだ。
     ただ、大和を名乗るからといって「まはろば連邦」と言うのは余りにも安易ではあるまいか。「倭は 國のまほろば たたなづく 青垣 山隱れる 倭しうるはし」はやはり大和国でなければならないだろう。
     斎場入口の脇にある西鶴寺は、道路からすぐに本堂に上る石段が続いている。「珍しいよね。」おそらく道路拡幅で境内を提供したものではないだろうか。旧道から少し離れて二四六が平行して走っている。大和市西鶴間八丁目十番地九号。暫くはただ歩くだけで見るべきものはない。やがて旧道は二四六で分断されてしまって、右に迂回する。中央分離帯を壁で仕切っているので、どうしてもまっすぐ進むわけにはいかないのだ。
     国道の向かい側にはホワイトハウスなんていうおかしな建物が見える。次の信号を渡って国道を突っ切ればまた旧道に戻る。さがみの駅に続く道には大山街道を解説する新しい石柱が何本も見える。
     相鉄線さがみの駅でトイレ休憩をとる。この電車にはまだ乗ったことがない。「便利なんだよ。小田急と横浜方面との連絡だから、結構混むんだ。」横浜駅と海老名駅とを結ぶ路線である。住所は海老名市東柏ケ谷になった。
     トイレを済ませて駅前で休憩していると、ヨッシーが小さなアイスクリームがいくつも入る箱を開け出した。「よく溶けなったね」と感心するひとは観察が足りない。今そこの店で買って来たのである。「一つじゃ味が分からないな」と声を上げるのは勿論いつものひとである。「どうぞ、残ってますからね。」ヨッシーは、あらかじめ講釈師の気持ちを推定して、人数分よりも多めに買っていたらしい。「そうかい、いいのかな。」口調とは裏腹に手が早い。「やっと味が分かってきた。美味かったよ。」

     大塚本町交差点の辺りはかつての大塚宿になるらしい。付近に塚があったので大塚と呼ばれたというが、その塚は今はない。やや登りの尾根道を行くと、湘南かしわ台病院の左に大山が見えた。朝よりも随分近づいた印象だ。「あの電柱が邪魔だけど」と言いながら碁聖がカメラを構える。

      電柱が遮る雪の阿夫利山  蜻蛉

     赤坂バス停脇の大きなイチョウの横に不動明王座像が立っている。口をへの字に結んでいるが、マンガのような丸顔で、小さな目も丸く、やんちゃ坊主のような顔だ。不動様のようにはまるで見えない。この像もかなり古いもので、台石と明王の間は砂利混じりのコンクリートで補修されているのだが、修復の仕方が粗雑だ。台石の方も剥落が激しい。石はこんな風に剥がれ落ちるものなのだろうか。「砂岩だよな」「そうですね」とドクトルとロダンが鑑定する。脇には「右 国分厚木  左 大塚原町田」の道標も立つ。
     細い道が分かれて行く所に「崋山ゆかりの道」の説明がある。崋山はこの古道から入って小園村に至り「お銀様」にめぐり合うことになる。
     望地交差点で県道と合流する。標識を指さしながら、姫は「大山を望む地、あるいは芒地が語源とも言われています」と説明する。ただ「モウチ」ならば、「芒」を「モウ」とは読まないのではないか。海老名市のホームページでは、別のおそらく学問的には何の根拠もない昔話を紹介している。

     ある日のこと国分寺のお坊さんと連れ立って国分のうえんでえ(上の台)に上られた。そこに立てば望地が手に取るように見下ろされるからだった。
     お二人はじいっと土地のようすを見つめておられたが、やがて開山さんは一地点を指さして『あそこにしたいものだがどうでしょう』と申された。そこは大山街道が南坂を下り切って目久尻川に突き当たり、北方へ曲がる一角だった。
     国分寺のお坊さんもうなずかれながら、『あなたのお寺であるから、あなたのよいと思われた所でよいでしょう。私も賛成です』と申され、なお続いて『ところで村の名前のことだが、あなたが選び望んだ土地だからこれからあの村を望地と呼んだらどうだろう』と言われた。これが望地の名のはじまりだ。
     http://www.city.ebina.kanagawa.jp/www/contents/1026585141221/index.html

     「菜の花が咲いてます。」姫の声で目久尻川を見ると、確かに川岸の枯草の間に黄色い一画があった。メクジリというのも面白い名前だ。

    一説には、この川が座間市栗原にあった寒川神社の御厨(みくりや)のあたりから流れてくるために下流で「御厨尻川」と呼び、それが転じて「目久尻川」となったという。一方、海老名の伝承によると、昔この川に河童が住み着いて悪さをしていたため、地元の人々はこの河童を捕らえて目を穿り(くじり=抉り)取ってしまった、という出来事から、この川は「目穿川」と呼ばれるようになり(ウィキペディア「目久尻川」より)

     橋を渡ると、かつての石橋(宝暦七年)の大きな石が置かれている。関東大震災で落ちてしまったものを昭和五十二年に引き上げたという。そのそばには大きな史跡逆川碑が立っている。
     逆川は大化の改新の頃に、灌漑と運送のために掘削されたというから実に古い。およそ二・五キロの人口の川である。案内の地図を参照しながら景色を確認すると、集落の向こうにやや登っていく細い道が逆川の跡ではないかと思われる。ドクトル、桃太郎、ロダンは、この地形と人工の川の関係について「どうやって水を上げたのかな」などと議論が喧しい。それよりも、大化の改新の頃に、それだけの大工事を実現できた権力の存在を考える方が歴史的だ。それに今日は気付かなかったが、この辺りには条里制の跡が残ると言われる。

     逆川跡は、人工の水路といわれ、市立杉本小学校の辺りから、目久尻川の水を取り入れ、伊勢山の南側を回って、国分の台地を経て国分尼寺の小谷戸から海老名耕地に流れていました。
     後に現在の相模鉄道の手前で西に流路が変更され、これが新掘と呼ばれるようになりました。
     発掘調査により平安時代以前に作られ、船着場と推定されるような遺構も確認されていることから、運河跡ではないかともいわれています。
     国分付近では南から北へ、目久尻川流域での低地から台地上へ流れていることから逆川と呼ばれるようになったとされています。
     http://www.city.ebina.kanagawa.jp/www/contents/1155273181075/index.html

     酒屋で姫はスナフキンお薦めの「いづみ橋」という酒を買った。「自分で飲むのかな。」「旦那さんへのお土産じゃないの。」正解は二番であった。「私は日本酒はお猪口一杯しか飲めませんよ。旦那様に買ったんです。」泉橋酒造は安政四年創業の海老名の酒屋である。「これが美味いんだよ」とスナフキンが力説する。「桃太郎は買わないのかな。」「だって地元ですからね。いつでも買えますよ。」
     「相模國分寺址保存指定地・従是西百十間 北百四十間 内務省」という細長い標柱が建っているが、これは移設したものだろう。文字庚申塔、南無阿弥陀仏塔、青面金剛塔が並んでいる。「国分寺跡はあっちの方です。」この辺りは桃太郎の地元だから詳しいのである。「それじゃ行きましょうよ。」
     海老名市消防団第一分団の器具置場のシャッターには、七重の塔が描かれている。ここが大山街道と藤沢街道とが交差する地点で、高札場があったらしい。国分寺跡はだだっ広い公園になっていた。七重の塔跡は一・五メートルほど高くしてコンクリートで固め、表面には柱の跡が示されている。
     「桃太郎のマンションはどこ。」「あそこに見えますよ。ちょっと高いマンションの隣、三角屋根の向う。」彼はここから五キロほどを自転車で通勤しているらしい。
     「国分寺って平安時代でしたか。」「天平ですよね。」「聖武天皇。」天平十三年(七四一)、各国に国分寺国分尼寺建立の詔が発せられた。
     天平と言えば仏教文化の花開いた時代を思い浮かべるが、実は凶作と飢饉が相次ぎ、危機的な状況に見舞われていた時代でもあった。天平元年(七二九)には長屋王が謀叛の疑いを掛けられて自殺した。九年には天然痘が大流行し、十二年には藤原広嗣が反乱を起こした。諸国には浮浪人があふれ、行基はそれを組織化することで無視できない力を得た。聖武天皇としては仏教にすがるしか手立てがなかったに違いない。十五年には大仏建立の詔が発せられる。
     この間、三世一身法が養老七年(七二三)に制定され、やがて天平十五年の墾田永年私財法につながって行く。これによって国土の開発は進んだが、実は律令制の根幹である公地公民制が崩壊する兆しでもあった。
     私は相模国の国分寺が海老名にあったなんてまるで知らなかった。国分寺があったからには、国府もここだったのだろうと単純に思っていると、それは違うらしい。

    相模国府の所在地はどこにあったのでしょうか。文献では十二世紀中頃までは大住(おおすみ)郡に、以後は余綾(よろぎ)郡に移転したことが明らかにされています。しかし、考古学的には未だに国庁(国衙の中心施設)は発見されていませんので、多くの見解が発表されてきました。近年までの主流の考え方が、海老名市にある国分寺の関係から海老名市→平塚市→大磯町と三遷した説です。一方、小田原の千代廃寺との関係から小田原市→平塚市→大磯町の説もあります。大住国府が平塚以外に所在したとする説も幾つかありましたが、昭和五十九年の四之宮下郷遺跡群の調査成果によりほぼ確定されるようになりました。同様に、初期国府に関しても新たな資料が平塚で発見されました。「国厨」の墨書土器は少なくとも大住国府が奈良時代後半まで遡ることができるものですので、新たに平塚市→大磯町の見解が再浮上してきました。http://www.gregorius.jp/presentation/page_30.html

     国府と国分寺が近くになくてもよいのは、武蔵国府中と国分寺の位置関係をみて当然知っているべきであった。
     路地の向かいが温故館だ。海老名市国分南一丁目六番地三十六号。旧海老名村役場を利用した歴史資料館である。
     一階には新石器時代の出土物から近世までに史料が展示されている。ドクトルとロダンは石器の鑑定に忙しい。国分寺の模型もある。学芸員は話し好きで、この辺りは相模の国の中心地だと誇らしげに語る。
     秋葉山古墳群というのは三世紀末のものだと言うので驚いた。「それは古い。」「卑弥呼のちょっと後の時代になります。」私の知識では、古墳時代は早いもので四世紀に始まり、最も流行ったのが五、六世紀頃である。三世紀に既にこの東国に古墳群が造られていたと言うのか。

    新しい発掘調査の成果や最新の年代測定法の導入などにより、古墳時代の始まりが三世紀の前半にまで遡る可能性が最近の研究で指摘されています。(「史跡秋葉山古墳群」海老足教育委員会)

     最近ではそんなことになっていたのか。西暦二六六年に壱(台)与が晋に朝貢した記事を境に、中国の史書から倭関連の記事が見られなくなった時である。古代史における空白の世紀であって、その時代に、古墳を造るだけの政治権力が東国に存在したのか。四世紀前半の前方後円墳もあるらしい。
     学芸員のオジサンは「ちょっと離れてますけど、お銀様のお墓があります」なんて話もしてくれる。「あの出会いの場面は感動的ですよね。」「ほろっとしますね。」これを聞いていた姫が「読んだんですか」と訊く。ついでだから、その辺を書いておこうか。
     崋山はなかなか尋ね当てることができない。「野を過、田圃の間を平行」して歩き、早川村の幾右衛門の消息を尋ねると、酒に酔っ払って川で死んだと答えられる。家は今はないんじゃないか。娘が小園にいるらしいよ。更に行って尋ねる。幾右衛門は八十近くになるが健在で、娘は清蔵と言う百姓の妻になっている筈だ。しかし、「朝夕の煙細う立つはかりのものにして、御殿様のいたり玉ふ所にはあらず」と言われる。幾右衛門が生きていることは確かなようだ。更に行き、幾右衛門か清蔵の家はないかと尋ねて、清蔵の家が近くにあると教えられた。
     漸く辿り着いた清蔵の家の前で、その子供だと教えられた童の顔を見ると、心なしかお銀様の面影があるように思われた。そして家に入ると老女が出て来た。この時崋山渡邊登は三十九歳。お銀が宿下がりをしたのは二十五年前だから、頼りになるのは十四歳の記憶だけだった。

    かしらに手拭をいたゝきて老さらほひたる女の、いつれよりにや、とおそるおそる問ふ。われこゝろに思ふやう、児共等は尋ぬる人に似たれと、此の女杜、姑にてもあるへし。されとも指を屈すれば二十年あまり、むかしのかたちにて、あらんやうもなければ、顔打まもり、とみこう見するに、耳の下に大きやかなる疣あり、これなん、まきるへくもなき尋ぬる人なめりと、さて我、童なりし時、御身にいと憐にあつかりたる者なり、いさゝか其恩を報んために、厚木迄いたるを、道を迂してこゝ迄は尋ねいたれり。」
    御身の名は何と申やといえは、我名は町とよへり。むかしの名は何といふやといえは、町とことふ。さあれは間違ひたらんやと、いと面目もなきやうに、こころにうたかいしか、いつれにしても、たた疣こそ証なりと、お銀と申せし事もありやといえは、又おとろきたる体にて、むかし江都にありし時は左もよひし事あり、さあれは、君は麹町より入来玉ふやと、はじめにかはりたる顔にて、まつ奥の方に入玉えといえと、皆板敷にて畳なし。花筵持出てひき、これに坐を設け、さて、かしらなる手拭を取すつれは、まかうへくもあらぬ其人となり、たゝなみたにむせひて、たかひに問答うることもなくて時移す。さて、我は何と申名に候や、御覚候かといふ。されは御前には、上田ますみ様にても候や。さにあらず、これは十五六年もさきに、よの外の人になりたり。さすれば渡邊登様にて候へし。」

     父親の幾右衛門(七十八歳)も壮健な姿を見せ、感涙にむせぶ。蕎麦掻を食い(崋山は二杯、悟庵は一杯)、濁り酒は喉を通らない。お銀様は心づくしのもてなしとして吸い物、豆腐、卵を出してくれるが、はっきり言って「味よろしからず」。梅干しはうまかった。粟餅も一つ食べた。どうやらこの村では米は食わないと見える。
     話は尽きないが、これでは農業の妨げになると腰を上げると、近隣の村人総出で村境まで見送りに来た。その日は厚木の萬年屋平兵衛方に泊り、送って来た清吉(お銀の長子)に酒肴を与えて帰した。近隣の趣味人が集まって来て宴会をしていると、夜遅くなってお銀様の夫の清藏が「あえきあえきて走り」挨拶にやって来た。これも一緒に酒を飲んで酔っ払った。

     崋山のことを書き過ぎた。大山街道を歩いた文人は他にもいるだろうに、他の連中は記録を残していないのだろうか。崋山のことしか説明されていない。それにしても生涯を通しての貧窮と晩年の悲劇とを思えば、この頃は崋山の生涯で短くても最も幸福な時期であったに違いない。
     二階は生活民具の展示場になっている。「これはさ、うどんを作るんだよ。」「製麺器ですか。パスタだと分かるけど日本にもあったんですね。」アルマイトの弁当箱を見れば、高校時代の弁当を思い出す。「ドカベンってありましてね。」
     和文タイプライターを見て、姫は「私もやりましたよ」と懐かしそうな顔をする。「印刷屋でさ、女の子が一所懸命やってたよ。」契約書がワープロ作成文書でも良くなったのは、昭和六十年頃ではないだろうか。二十四ピンのプリンターが出来たお蔭だったと思う。その頃ようやく会社にパソコンが入ったのだが、CPUは二五六バイト、ハードディスクなんかなくて、八インチのフロッピーディスクを使っていた。それ以来パソコンを使わない仕事は考えられなくなったが、これで和文タイプという一つの職業が滅亡した。
     英文タイプライターも展示されている。妻も英文タイプを持っていた。ポータブルの癖にやたらに重いもので、アルバイトでこれを使っていた妻は、持ち上げようとして腰を痛めた。私やマリーは足踏みミシンで昔の母親の姿を思い出したが、チイさんは『カーネーション』を連想する。ソファに座りこんでいる小町が「蜻蛉ちゃん、これなら食べられるでしょう」と一口サイズのチーズをくれた。
     「国分寺の鐘楼も是非見てください」という声を後に館を出た。五百メートル程の所に国分寺があるらしいのだが、姫の計画では行く積りがない。ふと見ると、さっきの七重の塔跡地のところでチイさんが店を広げている。大きな夏ミカンを切り分けているのだ。「二人でひとつですよ。」サクサクして爽やかな甘みが広がる。八代産の晩白柚(ばんぺいゆ)で、これはザボンの一種である。晩(晩生)・白(果肉が白っぽい)・柚(中国語で丸い柑橘という意味)の意味だという。以前にも聞いたことがあったかも知れない。
     「ブンタンじゃないの」と訊く若女将に、「あれはボンタンでしょう」と言いながらダンディが辞書を引く。文旦と書くのは私も知っている。「そうか、どっちでも良いらしいですね。」標準和名ザボンである。つまり同じ仲間だ。
     「一切れじゃ味が分からないな。」「あれ、さっきも四つも食べたのに。」「ひと聞きの悪いこと言うなよ、四つじゃないよ、五つだよ。」結局これももう一切れせしめてしまった。

      古寺跡や朱欒切り分く冬の午後  蜻蛉

     二三百メートル歩くと、ほとんどいつ枯死してもおかしくないような大きな欅が立っている。「県央にさすが海老名の大欅」(海老名郷土かるた)。高さ五メートル程の所で幹の中心部はなくなって、枝の間を竹の簾のようなもので覆っている。今は冬だから葉が落ちているが、これでもちゃんと葉が茂るらしいから不思議だ。
     説明版には樹齢は書かれていないが(推定樹齢五百年以上らしい)、船を繋いだ杭が芽を出して伸びたとされている。樹齢五百年以上とすれば、江戸開府以前まで逆川は運河として活躍していたことになる。
     民家の庭に一本の梅が咲いている。若女将が身を乗り出して見ていると、柵が傾いてしまい、慌てて離れる。

      身を寄せて柵傾ける梅の花  蜻蛉

     駅前で七重の塔のレプリカ(三分の一)を眺め、小田急線の改札口で解散する。「次回はここで集合ですから間違えないようにお願いします。」小田急線、JR相模線、相鉄線の三つが乗り入れているから分かり難いかも知れない。
     「今日は二万六千歩、十六キロですね」とヨッシーが万歩計を確認した。そんなに歩いたか。姫の計画では十三キロ程度だったが、直線距離でそうならば、見学コースを加えればその程度になるかも知れない。町田市、横浜市、大和市、海老名市と四つの市を歩いた。
     スナフキンが連れて行ってくれたのは相鉄線脇のビナ横丁二番館の一階一番奥にある「なか屋」である。本来は四時半から開店するのだが、無理を言って開けて貰った。マスターしかいないから、つまみは時間がかかるかも知れないと言うが、それでも良い。店に入ったのは四時をちょっと過ぎたばかりだ。
     チェーン店ではなく昔ながらの大衆酒場である。「あれ欲しい。」姫はレトロなポスターが気に入った。「あそこの一角は三丁目の夕日の世界ですね。」取り敢えずビールを飲んでいる内に、すぐに四時半になり、他の客も入って来た。
     芋焼酎が出て来たので瓶を取ろうとして手が滑った。ビールのジョッキが割れ、今きたばかりの焼酎ボトルも栓が外れて零れてしまった。ボケたのではない。手が滑ったのである。(と言い訳をしなければならない)。「ビールが勿体なかったわね。」ビールはほとんど残っていなかった。焼酎が勿体ない。後始末をしてくれる姉さんに、「ゴメンね」と言うばかりだ。「いずみ橋」も少し飲む。
     「さくら水産よりはちょっと高いかも知れない」とスナフキンは言っていたが、会計をして見ると一人二千五百円はむしろ安いではないか。これはスナフキンが持っていた小切手と称するポイントのお蔭でもあった。桃太郎はすっかり出来上がってなんだか目が座っている。いつもと違って歩いて帰れるのだから、緊張が緩んでいるのだろう。
     今日はカラオケはなし。町田で横浜線に乗り換えようと降りて行ったスナフキンが慌てて車内に戻って来た。「横浜線が止まってるんだよ。」飲み始めた頃には、山手線が人身事故で止まっているという情報もあった。この頃こういうことが多すぎる。そのスナフキンも登戸で降り(南武線に乗り換えるため)、碁聖は下北沢で降り(井の頭線へ)、姫とドクトルは代々木上原で降りて(千代田線へ)行った。私は新宿駅でトイレに入るため、ダンディ、ヨッシー、チイさんと別れた。

    蜻蛉