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    番外 大山街道を歩く 其の六(海老名駅から愛甲石田駅まで)
    平成二十四年四月十四日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2012.04.21

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     昨日までは暖かな日が続き桜も満開に咲き誇っていたのに、今日は雨で気温も一気に下がった。このところ、土曜日になると不思議に天候が崩れることが多い。前日との気温差が激しくて体が戸惑ってしまう。
     今日はかつての愛甲郡の範囲を歩くことになる。吉田東伍『大日本地名辞書』によれば、鮎川(アユカワ)が転じてアイコウになった。鮎川は相模川の古称で、鮎が獲れたのである。愛川町も同じ由来だろう。郡内は下野国那須郡烏山藩大久保家の飛び地、小田原藩の分家が独立した荻野山中藩大久保家、天領、旗本領が分割していた。
     集合は海老名駅だ。小田急線と相模鉄道、JR相模線の三つの路線の乗換え駅になっている。私はこの辺の鉄道事情に疎くて、相模鉄道と相模線の区別も知らなかった。相模鉄道(相鉄)本線は海老名と横浜を結ぶ。JR相模線は茅ヶ崎から相模川に沿って北に向かい橋本に至る。かつては相模鉄道の路線だったが東海道本線と中央本線を結ぶ線として国有化され、現在のJRに引き継がれた。鶴ヶ島からは東武東上線、山手線、小田急線を乗り継いで片道千五百三十円。自宅からほぼ二時間の距離である。
     電車を降りたところでドクトルと会い改札口を出た。既に姫、ダンディ、ヨッシー、桃太郎、スナフキンがいる。挨拶をした途端、重大事件が発生したことを知らされた。「昨夜、携帯にメールしたんですけど。」気付かなかった。あんみつ姫が体調を壊してしまって歩けないと言うのだ。「ものすごく痛いの。」痛みを抱えてここまで来てくれたのは、メールを使わない参加者に資料を持参するためだ。私がぼんやりしていたため、申し訳ないことをした。気付いていれば、そんなものは私が印刷してきた。このところ姫は明かに忙しすぎだったから、少し休養しろというサインではないか。
     ロダンはまだリハビリ中で、宗匠はギックリ腰になり、碁聖も急に体調を崩して入院した。みんなどうしてしまったのだろう。早く治ってくれることを祈るばかりだ。
     昨夜のうちにメールを確認して姫と連絡を取ったスナフキンが、姫に代わってリーダーを担当する。スナフキンはお彼岸のときに、姫、碁聖、マリーと一緒に下見をしてくれていた。それに営業時代のテリトリーだから、土地勘はある筈だ。
     講釈師も引っ越し準備で忙しくて来ていない。チイさんは元気だろうか。天候のせいもあってか、女性陣は誰もやって来ない。こんな日に歩こうというのは余程の物好きであるには違いない。今日はスナフキン、ダンディ、ヨッシー、ドクトル、桃太郎、蜻蛉の六人だけの些か淋しい会になった。「それじゃお大事に。」人数を確認し終わるまで待って姫は帰って行った。このためだけに往復四時間近くかけてきてくれたのだ。一日も早い快癒を祈る。
     スナフキンと桃太郎は上下セットのレインスーツで完全武装の態勢をとっている。「私も持ってるけど、街歩きに大袈裟だって妻に言われてしまった」と言うダンディは薄手のジャンバーだ。ドクトルの白いジャンバーも余り暖かそうには見えない。私はクリーニングに出す積りで妻が紙袋に詰め込んでいた冬のジャンバーを引っ張り出してきた。撥水機能がまるでないから、雨がひどければビショビショになってしまうかも知れない。

     「市立図書館の前は通るかい。」「厚木のか。」「海老名市立図書館の筈だよ。」「それじゃすぐそこだ。」賑やかではない方の西口に降りると図書館の建物がすぐ近くに見える。今回はかなり予習をしてきたので、見るべきものを見逃さないようにしたい。「どこにあるのかな。」しかし図書館を回り込んでも目的のものは一向に見えない。「じゃ、いいです。」「何があるんですか。」市立図書館(海老名市上郷四七四番地四)前に「いちおおなわ」の表示がある筈なのだ。「それなら市役所のところですよ。ここじゃない。」海老名の住人の桃太郎に断言されては諦めるしかない。
     「いちおおなわ」とは何か、どういう字を書くのかとダンディに質問を受けたので、予習してきたことを記録しておく。海老名耕地の条里制の痕跡である。私が参考にした記事も載せておこう。

    海老名市立図書館の前には古代条里制の東西の基準線である一大縄(いちおおなわ)があります。(http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hykkaidouipponoooyamakaidougaiyouban.htm)

     東西南北各六町(約六百五十メートル)で区切った方形を単位にして、それを「里(り)」と呼ぶ。また横列を「条」、縦列を「里」とも呼ぶ。縦横が東西南北のどの方角になるのか、よく分からない。地割をする基準となるのが一大縄である。ここから距離を測り始めたということだろう。この辺りには一大縄から五大縄までの地名が残っていて、海老名かるたに、「口分田条里のもとの一大縄」とある。こういう整然とした区画は新しく開墾した土地でなければできない。班田収受と連動する。
     一町(六十歩)約百九メートル四方を基準単位とし、更に一町の十分の一を段(タン)と言う。計算すれば一段は一一八八平米となり、近代の一反(九九一平米)よりやや広い。口分田は六歳以上の男女を対象に、男子で二段、女子はその三分の二を与えられた。理論上では一段で一石の収穫があって人ひとりが養える筈だが、地味によって当然収穫高は違っていたし、水田だけでなく陸田もあった。
     現在、普通の田んぼでコメが一反当たり八俵(四百八十キログラム)収穫できるとする。コメ一石が百五十キログラムなら、石高に直せば三石二斗となる。奈良時代に比べて収穫量は三・二倍に増えたと考えられる。
     私が高校で習った頃には、この制度は大化の改新詔「班田収受法」によるもので、大化年間(七世紀半ば)に始まったと言われていたんじゃなかったろうか。最近の古代史研究では始まりはもっと遅くなり、条里制が全国に広まったのは天平から養老にかけて(七世紀末から八世紀前半)ということらしい。
     私は養老七年の三世一身の法が、律令制の根幹である公地公民制を揺るがす大事件だったと思い込んでいた。これは全く想像力が欠けている。そもそも口分田をちゃんと給付するためには大規模な開墾が必要であり、それが実現できていない段階でうまく機能していた筈がない。そして開墾を奨励するためには土地私有を認めざるを得ないのは分かり切った話だ。三世一身の法が発布されるほど開墾が進まなければ、口分田も給付できない。つまり公地公民制は、最初から矛盾を抱えていたのである。

     県道の四〇号線の右手には田圃が広がっている。道端の草を見つけて、「これって、トウダイグサでしょうね」と桃太郎が声を掛けてきた。「ネコノメソウとは違うかな。」私の大雑把な観察力ではこの二つの区別が難しいのだが、確かにネコノメソウとはちょっと違う。「トウダイグサです。」やはり桃太郎の主張に間違いなさそうだ。こんな街中でトウダイグサを見るのは珍しい。
     JR相模線の踏切を、四両編成の電車が横浜方面に走って行った。「意外にちゃんとした列車ですね。」ダンディは余程ひどいものと思っていたのだろうか。「単線だと思っていた。」「単線ですよ。」「だけどもう一本あるよ。」「こちらは貨物専用です」と桃太郎が教えてくれる。
     踏切を渡ると河原口交差点に出た。今日のコースには入っていないが、ここから二三百メートル程北に行けば有鹿神社がある筈だ。重要な神社らしいので一応書き留めておく。

    有鹿神社は相模国の最古の神社であり、しかも、海老名の誕生と発展を物語る総産土神である。
    最古の神社 はるか遠い昔、相模湾の海底の隆起により、有鹿郷を中心とする大地が出現し、やがて、そこに人々の農耕生活か始まった。その豊穣と安全を祈り、水引祭が起こリ、有鹿神社はご創建されるに至った。(由緒)

     県道はこの先から直角に南へ曲がって行く。本来の旧道はそこを曲がらずに、「七曲り」と呼ばれる道を辿って相模川の渡しに出る。そちらに行けば、海老名氏一族の霊堂や伊能忠敬測量隊渡河地などがあるらしい。しかし私たちは県道を通って橋を目指す。あゆみ橋(元、相模橋の場所)は工事中で、南隣に架かる相模大橋を渡らなければならない。相模川は海老名市と厚木市の境を流れる。

    山梨県では、桂川、河口近くの下流では、馬入川と呼ばれている。古くは、鮎川と呼ばれた。山梨県南都留郡山中湖村、富士五湖の一つでもある山中湖を水源とする。富士山北麓の水を集めながらまず北西に流れ、富士吉田市で北東に折れる。都留市を経て大月市で流路を東に変える。相模湖と津久井湖(ともに相模原市)という二つのダム湖を経て、ゆるやかに進路を変え、厚木市からは南にまっすぐ下り、神奈川県中部を貫き平塚市・茅ヶ崎市の境付近で相模湾に注ぐ。(ウィキペディア「相模川」より)

     橋の上を歩くと急に風が強くなって、傘が反転して骨が一本曲がってしまった。ドクトルの傘も骨が折れた。ダンディとヨッシーは傘を閉じていたし、桃太郎は最初から合羽のフードを被っていて傘をさす積りもないから被害がない。スナフキンのビニール傘はこの時は無事だったが、後で同じように骨が折れた。風の強い時に傘をさしてはいけない。
     橋を渡って、北に四百メートル程行ったところに「厚木村渡船場跡」の説明板が立っている(厚木市東町八番)。もう少し上流では小鮎川と中津川が相模川に合流する。厚木側の渡し場は中州にあり、舟待ちのための仮小屋でお茶や団子が売られていた。人を乗せる舟が四艘と、馬や荷車専用の舟が一艘あったと言う。

    この地は、矢倉沢往還や藤沢道が相模川を渡る渡船場で、 常時五艘の舟が備えられ、旅人などに利用されていました。江戸時代に刊行された「新編相模国風土記稿」の記述によると、冬の渇水期には土橋が設けられていました。
     この渡船の厚木側の権利は、厚木の名主溝呂木家がもっていましたが、これは、徳川家康から与えられたものと伝えられています。
     天保二年(一八三一)九月、矢倉沢往還を通って厚木を訪れた渡辺崋山は、「厚木六勝」図を残していますが、その一つ「仮屋喚渡(かりやのかんと)」は、この場所を描いたものです。
     明治四一年(一九〇八)、相模橋の開通によって、この渡船は廃止され、その役目を終えました。
      平成三年三月      厚木市教育委員会

     厚木側の権利を持っていた溝呂木の名前は古い。文明八年(一四七六)から十二年(一四八〇)にかけて戦われた長尾景春の乱のときに、景春の被官の溝呂木正重の名が見える。厚木の在地領主であり、その溝呂木城は厚木市内にあったと推定されているが、正確な場所は特定できていない。名主の溝呂木家はその裔になるのだろう。
     「川音にさからう月の風さむし」という句碑があるが、作者の名前が読めない。裏に回って確認すると色々書いてはいるのだが、この雨風の中で濡れた碑の文字を読む気にもなれない。臼田亜郎門下の足立某であることだけ書いておこう。隣には大きくて立派な渡邊崋山来遊記念碑が建っている。

      渡邊崋山来遊記念碑
    渡邊崋山は天保二年九月廿二日から数日當地に滞留しその繁盛に驚き厚木の盛んなること都とことならず家のつくりさまは江戸にかわれども女男の風俗かわる事なしと遊相日記にしるしている 崋山三十九歳のときである このおり彼は邑内の風雅を愛する人たちを集めて歓談し需めに應じて厚木六勝を描いた 雨降晴雪 假屋喚渡 相河清流 菅廟驟雨 熊林暁鴉 桐堤賞月がそれで崋山来遊から百三十年 ことの忘れ去られるを慮り大略を記してのちに傳える

    厚木市長 石井忠重識  武藤實書   

     崋山はお銀様に会った夜、厚木の「萬年屋」に泊った。夜遅くなって、お銀様の夫の清藏が尋ねて来たのは前回も触れた通りだ。

    相模川ヲワタル。此川大凡三四丁モアリヌラン。清流巴ヲナシテ下ル。香魚甚多。厚木ニ到。(渡邊崋山『游相日記』)

     崋山も香魚、つまり鮎を食ったかも知れない。厚木宿は江戸から十三里。相模川を渡った所が上宿、そこから南へ中宿、下宿と続く。普通は京都に近い方を「上」、江戸に近い方を「下」と呼ぶものだが、ここでは逆になっているのが面白い。矢倉沢往還(大山街道)と、南北に八王子平塚道、西から信州荻野甲州道が合流し、また相模川を往来する千石船の舟運もあって、矢倉沢往還で最も栄えた宿駅だった。天保の頃には三宿合わせて三百三十戸を数えたと言われる。

    厚木ノ盛ナル、都トコトナラズ 家ノツクリシサマハ江戸ニカワレド、女男ノ風俗カワル事ナシ。(『游相日記』)

     幕末の厚木宿の写真を見ると、道の中央を排水溝が通っているようだ。萬年屋に呼ばれた「風雅を愛する人たち」の中に斎藤鐘助がいた。能筆家で号を利鐘、撫松と称して、「厚木六勝」を選定した人物だ。その揮毫を崋山に願って、翌日医師の唐沢蘭斉とともに現地を案内した。蘭斉は前日の宴会で娘に三味線を弾かせていた。求めに応じて崋山が描いた「厚木六勝」図は斎藤鐘助が所持していたが、いつの間にか紛失してしまった。今日はその場所をいくつか辿ることになるのだが、記念碑には絵は一切描かれていない。
     ここからは県道六〇一号線(酒井金田線)を南下する。「あれが名物なんだ」とスナフキンが指差したのは「とん漬け」の看板を出す店だ。「とんって何だい。」「豚じゃないかな。」「豚の味噌漬けですよ。」波多野商店。厚木市東町六丁目一六番。

     当地荻野村にあった山中藩で、ある時人寄せがありまして、そのとき客が意外にも多かったので料理が不足したことがございました。困った揚句近くの山からとれたシシの肉に味噌をぬり、当時の武士は四ッ足の肉を食することをきらいましたので、何の肉かわからないよう味噌のまゝ焼き、それを食膳に供したところ、意外にも好評を博したと古老の語り草にございます。
     さて明治開化と共に当地の豚は外人客に供するため、いちはやく横浜に送られ、相模豚として評判を高めてまいりました。当店初代は高座郡海老名村に生まれ、早くから豚の改良に苦心してまいりましたが、大正の初め厚木に豚肉店を出すにおよび前述の語り草にならい、特産の豚肉を特殊加工による味噌で漬けこみ、とん漬として売り出したのが始めでございます。(波多野商店http://www.tonduke.jp/yurai.html

     「江戸時代にも豚を食べたんでしょうか。」一橋慶喜が豚肉好きで「豚一」と呼ばれたのは有名な話だ。ももんじ屋では猪肉を食わせたから、獣の肉もそれほど珍しいものではない。「当時の武士は四ッ足の肉を食することをきらいました」というのは誤解である。大っぴらにはできなかったかも知れないが、薬喰いと称して獣肉を食う習慣は庶民の間にも広がっていた。味噌を塗って焼いただけで「四ツ足」ではないと思う武士がいたとすれば、それは余りにも無知だと言わざるを得ない。知っていて食ったのであろう。
     ここで私は「彦根の井伊家じゃ豚の味噌漬けを作って将軍に献上してました」なんてダンディに好い加減な情報を伝えてしまった。井伊家で作ったのは豚ではなく牛の味噌漬けである。江戸初期の頃から琉球渡来の黒豚を飼育していたのは薩摩藩で、肉を将軍や御三家に献上していた。水戸斉昭、一橋慶喜親子は、薩摩から齎された豚肉を好んで食べたと言われている。
     しかし豚の味噌漬けがこの辺の名物とは知らなかった。「上方では豚はあまり食べませんね。」上方から西にかけては牛食文化であり、東国は豚食文化であろう。私も秋田で育った頃には牛肉を食った覚えがない。「そんなことないでしょう、東北だって米沢牛だとかいろいろあるじゃないですか。」あんなものはごく新しいものではないか。私が子供の頃は、すき焼きと言えば豚肉であった。「肉かやき」とも言った。
     「また同じような絵が描いてあるね。」商店街の所々で、閉ざされたままのシャッターに描かれているのは厚木宿賑わいの風景である。「街おこしだよ。だけど、この時間にシャッターが下りているのが問題なんだ。」
     相模大橋からまっすぐ西に向かうメインストリートを、東町郵便局前の交差点で超えると、郵便局の隣が厚木神社だ。厚木市厚木町三丁目八番。

    由緒 円融天皇天延年間(九七三~九七五)藤原伊尹の勧請と伝え、当時郷内の田村掘にあったが、後現社地に遷す。那須与市別当寺を置く。中古旧藩主の崇敬厚く、明治元年牛頭天王の称を改め厚木神社とす。

     かつては牛頭天王社であった。明治五年(一八七二)に厚木神社と名前を変えたのは、毎度お馴染み神仏分離令のためである。「やっぱりね。厚木神社なんて薄っぺらな名前だと思った」とダンディが笑う。付近は天王森と呼ばれていて、町も天王町だった。狛犬の前には「あつぎお天王様の地」という標柱が立っている。
     但し由緒に書かれている「天延年間藤原伊尹の勧請」というのは誤伝だと思われる。伊尹は右大臣藤原師輔の長男で、円融天皇即位によって外戚として摂政太政大臣に登りつめたものの、摂政就任の翌年、天禄三年(九七二)四十九歳で死んだ。つまり天延年間には既に生存していない。
     社殿は修理中で、屋根の赤銅がむき出しになっている。ブルーシートのぶら下がる拝殿前で傘を閉じた。「この神社は何を願えばいいのかい。」ドクトルの言葉に、「十円ばっかりじゃ、大したことは叶いませんよ」とスナフキンが笑う。「それじゃ、雨が止むようにっていうのはどうですか。」「この雨は、もう誰が雨男、雨女とか言うのじゃありませんね。雨降山の威力でしょう」とダンディが断定した。境内には水神宮や厚木稲荷神社もある。
     「ここは烏山藩陣屋跡だよね。」「向こうに碑があるよ」とスナフキンが先に向かって行った。ダンディとドクトルがここの位置が呑み込めないというので、印刷してきた地図で「ここですよ」と示していると、「何をしてらっしゃるの」と声が掛った。リュックを背負った背の低い婦人である。綺麗にお化粧していて年齢は不詳だ。
     「私はね、毎日十円玉を持ってお参りに来るの。」誰も聞いてはいないのに話が止まらない。「私は一人で毎日歩くのよ、一日に六千歩、いえ一万歩は歩くの。」二四六の沿線に住んでいると言う。「皆さんはどういう集まりなの、いいわねエ、大勢で。」大山街道を歩いているのだと説明すると、「私は一度登ったわよ」とすぐに反応する。「でも二度は行けないわね。高尾山にも登ったわ。」話は止まらないので、そろそろ面倒になってきた。向こうの方でスナフキンが不審な顔をしているので、あとはヨッシーに任せてその場から逃げ出した。
     「何してたんだ。」「孤独な老人と人生について語り合っていた。」神社北側の川を見下ろす位置に「史跡烏山藩厚木役所跡」碑が建っている。跡地はマンションになってしまったが、ここに愛甲郡役所、厚木市役所などが昭和四十六年まで建っていたから、まさに厚木の中心地である。「烏山って世田谷のかな。」千歳烏山は碁聖の住む町だけれど、勿論そこではない。下野国那須郡にあった。
     烏山藩は関ヶ原以降、成田氏、松下氏、堀氏、板倉氏、那須氏、永井氏、稲垣氏と藩主が短期間でめまぐるしく交代した。漸く安定するのは享保十年(一七二五)近江から大久保常春(二万石)が入ってからのことだ。常春の老中昇進に伴って一万石の加増を受け、相州鎌倉郡、高座郡、大住郡、愛甲郡の一部を飛び地として領したのである。その初期は分からないが、幕末に至って大久保藩の苛斂誅求はただ事ではない。

    政事甚苛刻、人情皆怨怒ヲフクム。近、糖粃乾鰯ノ儈十家ヲ定メ、ウンシャウヲ取、又ヨウキンヲ令シ、民ノ膏腴ヲ奪ヒ一挙二千両ヲ出スモ唯厚木ノミ、亦其ノ盛ヲ可知也(『游相日記』)

     崋山が立ち寄ったのは天保二年で、それより九年前の文政五年(一八二二)には、烏山藩は溝呂木孫右衛門・高部源兵衛・清水儀右衛門ら十七人の厚木村有力商人に対し二千両の御用金を申し渡していた。その苛酷もさることながら、「一挙二千両」を捻出できた厚木の財力に崋山は驚いた。こんなことが出来るのは「唯厚木ノミ」である。
     そしてこれだけでは終わらない。それ以後も烏山藩の苛酷な御用金調達は続いている。伊従保美「厚木の大名・御用金」(http://www.kawara-ban.com/daimyouNO17.html)によれば、天保十一年(一八四〇)には、溝呂木九左衛門に対して藩主直々に千両の調達を依頼した。安政五年(一八五八)には溝呂木九左衛門と高部源兵衛へは金千五百両ずつ課され、天然理心流師範高部太吉は五十両、斎藤鐘輔も五両を上納した。
     しかし苛斂誅求とは裏腹に、これとは全く違う記事がある。

    『下野国烏山藩相模国所領』に引用される「烏山城址由来」(烏山町教育委員会)には、「歴代の城主は、いずれも名君で、書をよくし、詩を詠み仁政をしき、一般領民から、したわれていた。なかでも五代忠成は文化人で、詩は安達文中に師事し、書をよくした」と書かれている。また、『烏山町史』は忠成について、「書を能くし、特に草書に巧みであった。当時、諸侯中の三筆に数えられ」、「物事に淡白な性格で、名利栄達の念薄く、文人墨客に交わり、文学・書画に親しみ、興いずれば自作の詩歌を染筆して、側近の家臣や領民に与えることを楽しんだという」と述べ、「勝忠成」と署名し、美陽または采霞と号したと詳しく述べている。
    文人・忠成の事跡は、所領のあった相模国にも残っている。半原(愛川町)の染谷家には「勝忠成」書の掛軸が所蔵されている(『下野国烏山藩相模国所領』)。市内岡田にも大久保氏の所領があった。旧村社三島神社本殿に掲げられている扁額は忠成の書で、「三島大明神」の社号を書している。(厚木の大名「五代藩主大久保忠成」
    http://www.kawara-ban.com/daimyouNO18.html)

     ちょうどこれに書かれている五代忠成の時代である。「仁政をしき、一般領民から、したわれていた」という評価はどこから来たのだろう。烏山町教育委員会の判断は甘いと言わなければならない。あるいは那須の本藩では仁政を敷いた積りで良い気になっていたが、殿様が知らない内情は火の車で、そのツケを全て厚木に回したということではないか。とすれば、烏山藩にとって厚木は収奪すべき植民地であった。どの藩でも財政問題では一様に苦しんでいたのである。中には藩政全体を有力商人にアウトソーシングする藩まであった時代だ。「仁政」なんていうものはあり得ない。
     ところで、萬年屋には酒井村の駿河屋彦八もやってきた。何か言いたいことはないかと何度も問う崋山に彦八は言う。小さな藩で財政が苦しいから無茶苦茶な取り立てをする。いっそ殿様を変えてしまえば良い。

    厚木商売ノ盛ナル如此。サスレハ、今ノ殿様ニテハ慈仁ノ心、毫分も無之、隙ヲ窺、収斂ヲ行フ。殿様ヲ取カヘタランコソヨカルヘシと思フ也。(『游相日記』)

     唐沢蘭斉もまた口を合せて公然と藩政批判を口にする。少し前なら、こんなことを口にしただけで即刻捕縛されただろう。既に封建体制は崩れかかっている。そしてそれだけのことを公言できる厚木商人の財力による自信は相当なものだ。崋山もまた後に小藩の家老職を務める身であれば、この言葉は相当耳に痛かったに違いない。そんなことを言うのは犬畜生にも劣るとたしなめたものの、その彦八を「性素朴、小児ノ如シ。不義ヲ悪(ム)ニ至テ己レ、死ストモ不止。」と評した。『游相日記』には「侠客駿河屋彦八」のスケッチが残されている。

     陣屋跡碑の横には「あゝ九月一日」という大きな関東大震災慰霊碑が並んでいる。道路を挟んで右手には忠魂碑も建っている。
     さっきの道に戻って歩きだした時、うっかり通り過ぎてしまいそうになった。「アッ、これじゃないか。」駐車場前の歩道に「渡邊崋山滞留の地」碑が建っていた。側面には「天保二年九月二十二日より二十四日に至る 旅籠萬年屋古郡平兵衛屋敷跡」とある。
     この道を真っすぐ南に下るのが大山街道(矢倉沢往還)だ。小田急線の高架を潜って暫く行った辺りでスナフキンが立ち止り、「この先にはあまり飯屋がないんですよ」と言いだした。時計を見れば十一時半だ。「いいんじゃないですか、適当なところで食べましょう。」こういう時には少ない人数が却って便利だ。「そこに蕎麦屋もありますが。」「ラーメンがいいね。蕎麦は当たり外れがあるけど、ラーメンは安心だからね。」ダンディの意見ですぐ目の前にあるラーメン屋に入った。「麺や食堂」である。厚木市幸町九番六号。
     ドアを開けた途端「ちょっとお待ち戴くことになります」と言われて、別の店にしようとスナフキンはさっさと歩き出した。それを見て店員が慌てて出てきた。「大丈夫です、すぐに空きますから。」待つほどもなくすぐにダンディ、ヨッシー、桃太郎が呼ばれて席に着いた。残った三人が外で待っている間に、母子連れらしい客も来て待ち始めた。五分程待ってドクトル、スナフキン、私も案内されて座席に着いた。先客が出たばかりでまだ片付けられていないテーブルには、お猪口が三つ残されている。酒を飲んだのだろうか。
     ダンディと桃太郎はビールを注文している。「どうする。」「だけど寒いからね」と私は言ってみた。昼から酒を飲むなんて私は信じられないが、「三人で一本位いいだろう」と言うスナフキンの意見に負けた。三人とも味玉ラーメン(七百八十円)にして、ビール中瓶一本と餃子一皿を頼んだ。「アジタマって何のことかな」とドクトルが不思議そうに呟くのがおかしい。「味付け玉子ですよ。」細くて真っ直ぐな麺が折り畳んだように綺麗に盛られている。
     私たちの後ろに並んでいた親子は車できたらしい。駐車場の位置を確認している。後から入ってくる客も大半はこの味玉ラーメンを注文しているから、この店一番のメニューなのだ。食べ終わると小さな猪口が出された。「黒烏龍茶です。」独特な香りで味が濃い。これが猪口の正体だったが、こんな僅かの烏龍茶が何かのためになるのだろうか。
     店の外にはまた客が並び始めているで、急かされる気分になって店を出る。三人で割り勘にすると一人千七十円。「だから、蕎麦屋の方がゆっくりできると思ったんだよ。」行列を作って入るラーメン屋のようだった。後で調べてみると「食べログ」で二〇〇九年から三年連続で神奈川県のベストラーメンに選ばれたと言う。それが、どの程度権威があるのか、私には分からない。
     すぐそばには別のラーメン屋「本丸亭」もあった。「ここは何年か前に塩ラーメンで全国優勝したんだ。」スナフキンによればこの店の方が有名なのだ。そういう大会があるのか。「だけど、ここには誰も並んでいませんぜ。」「優勝して傲慢になったんだな、一杯千二百円もするから客が少なくなったんじゃないか。」これは限定食らしいが、たかがラーメンにそんな金は払いたくないな。「タンメン」の看板を出す店もある。「ここはラーメン街道でしょうか。」しかしそれから先にラーメン屋は出現しなかった。
     旭町三丁目の信号を右に曲がれば本厚木の駅に出るが、そのまま真っすぐに行くと百メートル程で最勝寺に着く。厚木市旭日町三丁目五番六号。門扉は閉ざされている。「下見のときは開いてたんだよ。」通用口はどうだろう。閂を回すと開いた。「いいのかな。」「大丈夫だよ。」勝手に判断して中に入った。境内には子を抱いた真黒な地蔵座像が鎮座している。丈六よりは小さい。
     開創時期は不明だが、この寺は上杉謙信が再建したと言う曹洞宗の寺である。本堂の左脇にある枝垂れ桜が美しい。「姫の案内にも書いているように、この寺には不思議な話が伝えられています。」こういう話は余り信じなくても良い。昔、旅の僧が阿弥陀仏を背負って厚木に来た。閻魔堂で一夜を過ごし、翌朝、仏像を背負い旅立とうとしたが、どうしても仏像を動かすことができない。仏像をそこに安置して拝んだところ村は疫病から救われた。そこで閻魔堂の隣に寺を建立したのが最勝寺の始まりだと言うのだ。
     閻魔堂は六角堂で、格子の隙間から閻魔が見える。「ここなら、ガラスがないから良く見えますよ」とヨッシーが教えてくれたので、そこからカメラを差し込む。黒い閻魔の右に小さな白い座像が見えるのは奪衣婆だろう。左にいるのは地蔵のようだ。

     「アレッ、宝安寺はどうしたかな。」スナフキンが慌てたような声をあげた。「まだ行っていないよね。」姫が作ってくれた案内を引っ張り出して見ると、この寺の前に宝安寺に行かなければならなかった。折角地図に印をつけて来たのに、傘を持っていると手にするのが邪魔で、ポケットにしまいこんでいたから忘れていた。かなり湿気を帯びてしまった地図を取り出して確認すると、確かに宝安寺はもっと北にある。「もっと手前でしたね。」ヨッシーもちゃんと地図に印をつけてきていて、一緒に見比べて道を戻ることにした。
     「小田急線の線路脇ですよね。」「昼飯のことに神経が集中して見過ごしてしまった。」リーダーの責務を任されたスナフキンだが、この調子ではどうも心許ない。「下見しただけで安心しちゃったんだよ。」講釈師がいたらどんなに罵倒されただろう。
     さっきの「麺や食堂」を見ながら小田急の高架の手前まで戻り、仲町バス停の辺りで左に曲がると墓地の入り口に出た。しかし扉は閉ざされていて、閂には南京錠がつけられていて開けられない。「思い出したよ。下見のときはここから入った。お彼岸だったからだな。」仕方がないので回り込むことにしたが、結果的には逆から回ったからずいぶん大回りになってしまった。仲町バス停のすぐ南の道を入れば良かったのである。
     宝安寺(臨済宗建長寺派)。厚木市幸町十番十九号。山門前には、「寺院墓地 好評分譲中」の幟がたっている。門を潜った所にアカバナ三椏が咲いているが、雨に打たれたせいか勢いがない。「これはベニズオウかな。」今日の桃太郎はとりわけ花に関心を示してくる。確かに紅蘇芳だと私も思う。赤紫の色が鮮やかだ。
     大きな塔のようなアンテナが設置されているのは何だろう。「ハムだな。住職の趣味だろう。」ハムのアンテナというのはこんなに大きなものなのか。寺の境内にハムは似合わないような気がするが、それは偏見だろう。災害時などに威力を発揮するとすれば、寺院として大きな貢献を果たすために設置しているのかも知れない。

     姫の案内によれば、黒田黙耳(一八五二~一八八八)の墓がある筈だ。「黒田黙耳というのは有名な人なのかい。」ドクトルが訊いてくる。私も予習するまで知らなかった。スナフキンも「俺も知らなかった」と応える。愛甲郡役所主席書記官として人望があり、政治結社兼学習会である相愛社の会長を務めた人物である。神奈川県(当時は八王子も含んだ)は自由民権運動が盛んな土地で、その中でも愛甲郡は中心地のひとつを占めていた。「三多摩も神奈川だったんだ。無理やり分割されたんだな」とスナフキンが言う。民権運動の力を削ぐために、三多摩地区を神奈川県から分割したと言うことだろうか。
     「墓は確認してるかい。」「下見のときは墓参りの人で一杯だったから、それどころじゃなかった。」仕方がないので墓地に入ってみると、入り口付近にすぐ見つかった。細長い簡素な墓石で「黒田黙耳君之墓」と刻まれ、白い百合が供えられていた。隣には蓮華台に半跏の地蔵(?)を載せた何かの供養塔も建ち、同じ百合が供えられていた。「関係あるのかな。」分からない。台座に三文字彫られているうち、一番下の「塔」しか読めない。刻字ははっきりしているのだが、無学だからこの字体が読めないのである。

    当時、神奈川県下には、他の地域と同じように、自由党私設の教育機関がいたるところにつくられていた。(私設でなく公立学校を自由党が占拠し私物化していた五日市勧農学校や荻野谷中学校などの例まである。)(中略)これらは例外なく豪農党員が私財をもって開き、率先してみちびき、維持していたものである。その内容は、ミル、スペンサーの訳書の購読、時事の討論会などと共にかならずといっていいほど、儒学の学習と剣術の稽古を伴うものであった。(色川大吉『明治精神史』)

     三多摩の自由民権運動に関する私の知識は、ほとんどこの色川大吉に負っている。神奈川県下には百を超える学習会があり、黒田の相愛社も同じような活動をしていたに違いない。色川大吉『自由民権』にも相愛社の名が出てくるから、有力な結社だったのだろう。こうした運動の中から各種の私擬憲法草案が生み出されていく。三多摩地区では千葉卓三郎の「五日市憲法草案」が有名だ。

    相愛社の結成については、「東京横浜毎日新聞」明治一五年二月三日号の関連記事によると、「九月に入ると小宮の周辺でも、郡役所主席書記の黒田黙耳らが中心となって、政社結成の準備を始めました。こうして翌一五年一月には、社則も決まり旧暦正月の二月一日を期して、厚木町で盛大な創立懇親会を開くことができた」とあります。そして、その後の相愛社は、明治一六年三月頃、小宮、難波ら九名の自由党入党により活動を停止してしまうのです。しかし、大阪事件が起こった明治一八年、再び養蚕伝習結社としてその名が登場しました。
    http://www.city.atsugi.kanagawa.jp/shiminbenri/kosodatekyoiku/bunkazai/tenji/kako/p004451_d/fil/0082_016050_1.pdf

     この記事にもあるように、十八年に「養蚕伝習社」になったのは大阪事件の影響であろう。大井憲太郎をはじめとして大部分が大阪で逮捕されたので「大阪事件」と呼ばれるが、舞台の実質は三多摩、相模にあった。旧神奈川自由党員が数多く参加していて、黒田も連座して逮捕された。予審で免訴となったものの、政府の弾圧を逃れるためには、政治活動から離れて実業訓練へと衣替えせざるを得なくなったと思われる。
     大阪事件は神奈川県の民権運動と深く関わっているので、ついでだから復習してみた。明治十七年には群馬事件、加波山事件、秩父事件、武相困民党事件などが相次いで起こり、自由党解党決議がなされて運動は閉塞状況に陥っていた。明治十八年(一八八五)、馬城大井憲太郎を中心に旧自由党の一部が参加して、朝鮮進出による打開策が企てられた。朝鮮では壬午軍乱(一八八二)、甲申政変(一八八四)によって閔妃の事大党が権力を握り、親日派勢力が後退していた。大井の計画は、金玉均の独立党を支援し朝鮮に立憲体制を築こうというものだ。しかし朝鮮独立は単なる名目に過ぎず、実質は朝鮮に日本の国威を押しつけ、その勢いに乗って国内改革をも図ろうとしたのである。その発想は西郷隆盛の征韓論、福沢諭吉の脱亜論に繋がっている。さまざまな思想潮流が混淆していた「民権」運動が、次第に「国権」運動へと傾いていくのが明らかに分かる。
     爆弾を製造し、資金調達のため強盗も行われたが、計画は杜撰で実行前に百三十九人が逮捕された。この時、満十八歳に満たない北村透谷もまた危うい地点に立っていた。因みに透谷は明治元年(一八六八)の生れだから、漱石、子規、露伴、紅葉、緑雨、熊楠、外骨より一つ下になる。

     明治十八年には、親友大矢正夫が国内革命の機会を作るための、大井憲太郎らの朝鮮革命計画に加盟して、透谷に資金強奪の非常手段に加わるよう求めたが、透谷は応じなかった。透谷は川口村の秋山方に、頭を剃り杖をひく姿となって大矢をたずね、漂泊の旅に出るからと、盟友たちと行を共にしないことの了解を求めた。透谷はこのあと煩悶し、神経症におちいり、大阪事件が発覚したこの年の暮まで不安を同様のなかに日を送った。(色川大吉『明治精神史』)

     荻野山中学校の教員だった蒼海大矢正夫は透谷の五歳上である。透谷に断られた後、八月に高座郡栗原村の豪農大矢弥一方を襲って失敗した。九月には、二度に亘って厚木の愛甲郡役所の公金を狙って未遂に終わった。そして最後に座間入谷村の戸長役場を襲撃して宿直の小使いを縛り、五百円を奪った。しかしその金は全て、それを預かった長坂某によって使いこまれてしまったから、何のために強盗まで仕出かしたのか分からない。
     明治二十二年に透谷はこの事件をモチーフとして『楚囚之詩』を作って自費出版した。と書いてきて思い出したので、久し振りに『透谷選集』を引っ張り出してみた。

    曽つて誤って法を破り
      政治の罪人として捕らはれたり、
    余と生死を誓ひし壮士等の
      数多あるうちに余は其首領なり、
      中に、余が最愛の
      まだ蕾の花なる少女も、
      国の為とて諸共に
      この花婿も花嫁も。(北村透谷『楚囚之詩』 第一)

     大矢は国事犯に強盗罪も加算されたため、憲法発布の特赦に二年遅れて出獄する。出獄した大矢を、透谷は八王子川口村の竜子秋山国三郎のもとに誘った。もともと、大矢が寄宿していて透谷を紹介した家である。透谷はこの家を「幻境」「希望(ホープ)の故郷」と呼んだ。

     幸にして大坂の事ありてより消息絶えて久しき蒼海も、獄を出でゝ近里に棲めば、書を飛ばして三個同遊せんことを慫むるに、来月まで待つべしとの来書なり。我は一日を千秋と数へて今日まで待ちつるものを、今更に閑暇を得ながら行くべきところに行かぬは、あさはかな心の虫の焦つを抑へかねて、一書を急飛し、飄然家を出でゝ彼幻境に向ひたるは去月二十七日。(北村透谷『三日幻境』明治二十五年)

     しかし大矢は姿を現さず、透谷は夜を徹して秋山と語り合う。秋山国三郎は当時六十五歳、透谷より四十歳も年上の人物である。川口村の豪農に生まれて天然理心流の免許皆伝を受け、若い頃には放浪生活を送って江戸で義太夫語りの寄席に出たともいう。この頃には悠々自適で俳句を作り、民権運動を支援していた。自由党の若い壮士の間ではヤットーの爺と呼ばれていた。

     この過去の七年、我が為には一種の牢獄にてありしなり。我は友を持つこと多からざりしに、その友は国事の罪をもつて我を離れ、我も亦孤煢為すところを失ひて、浮世の迷巷に踏み迷ひけり。(中略)修道の一念甚だ危ふく、あはや餓鬼道に迷ひ入らんとせし事もあり、天地の間に生まれたるこの身を訝りて、自殺を企てし事も幾回なりしか、是等の事、今や我が日頃無口の唇頭を洩れて、この老知己に対する懺悔となり、刻のうつるも知らで語りき。(『三日幻境』)

     翌日、透谷は秋山と連れだって高雄山(高尾?)に登り、次の日に大矢の家を訪ね、三人で百草園で遊んだ。それから三年、明治二十八年十月、大矢は朝鮮に渡って三浦梧楼の閔妃殺害クーデター(乙未事変)に参加することになる。透谷は既に前年五月十六日に二十五歳六ケ月の命を絶っていた。

     かつてはひたむきに朝鮮に自由民権の革命を起こそうとした純熱の青年は、いつのまにやら日本の侵略政策の一尖兵に変化していたのである。彼としては彼なりの理由があったのであろうが、そもそも大井憲太郎のアジア連帯革命の思想そのものが、アジアにおける日本の盟主思想と背中合わせの危険な要素を持っていたのである。
     彼は大義のために強盗をした。しかしこの行為は、意外に彼の全人生に深い傷を与えたように思われる。
     そして大矢は、その後株屋の用心棒となったり、政友会の院外団になったりしたあと、昭和三年、六十五歳で死んだ。(山田風太郎『明治波濤歌』)

     三多摩自由党の領袖、石坂昌孝も大阪事件に連座して逮捕された。野津田村(町田市)の資産家で、いわゆる「豪農民権」の代表的な人物だ。神奈川県議会議長を務め、国会開設後は衆議院議員になる。これも透谷に関係が深い。と言うより、透谷は石坂昌孝と知り合ったことで、親友と更に妻も得ることになったのだ。
     透谷と同年齢の親友で、昌孝の長男である石坂公歴は、事件への連座を恐れてアメリカに渡った。亡命に近い。日本政府を批判する新聞を発行し、西部開拓を志したが全て上手くいかない。労務者としてアメリカ各地を放浪した揚句、晩年には失明し、昭和十九年に日本人強制収容所で死んだ。
     透谷、大矢正夫、石坂公歴の三人にこのような結果を齎したのは、青春期に否応なく出会ってしまった自由民権運動であった。関心のあるひとは山田風太郎の『明治波濤歌』を読んで欲しい。風太郎もこの小説を書くに当たって色川大吉の研究に負ったと明記している。私が司馬遼太郎より風太郎に肩入れするのは、その歴史感覚にある。偉人や英雄ではなく、時代に翻弄され傷ついた人間だけが風太郎の主人公にはなれる。
     透谷の妻になる美那子は公歴の姉であり、透谷の三歳上になる。婚約者があったにもかかわらず、透谷の熱狂的な愛を受け入れて結婚した。透谷の自殺後、一人娘の英子を透谷の父方に預け、単身渡米する。やがてオハイオ州立ファンアンス・カレッジを明治三九年六月に卒業し明治四〇年一月に帰国した。豊島師範学校、品川高等女学校で約六年間英語教師を勤めた後、昭和三年一月から透谷の詩の英訳を始める。昭和一七年、七六歳で死没。石坂家は民権運動にいれあげた挙句、既に没落していた。

     大山街道とは直接関係のないことなのに、随分長くなってしまった。もう一度同じ道を戻り、さっきの最勝寺も過ぎて真っすぐ行くと熊野神社に着く。厚木市旭日町三丁目十四番。厚木村の総鎮守だったが、社殿は小さく、悪く言えば小屋のようなものでしかない。鍵がかかっていて社務所もない。
     寛元年間(一二四三~一二四七)に熊野山領だったことから熊野信仰の拠点になり、古くから「熊野の森」と呼ばれた。「渡邊崋山『厚木六勝図』熊林暁鴉」の標柱が立っている。「これは何て読むんだい。」「アケガラスでしょう。ユウリンギョウアかな。」その前に石碑が置かれているのは崋山の絵ではなく、都々逸だった。

     熊林ノ暁鴉
        橿家甘人
     たまの逢瀬も夜が短くて にくい熊野の明ケ鴉

     ちょっとがっかりした。崋山を記念するのか「厚木六勝」を顕彰するのか、目的ははっきりしないが、それがこの都々逸とどう関係するのか。同じことを歌うなら、高杉晋作の作と言われる「三千世界の鴉を殺し 主と朝寝がしてみたい」の方が上だろう。
     境内のイチョウは樹齢四百五十年と説明されている。「乳が垂れてるだろう。」講釈師が言いそうなことを、今日はスナフキンが言う。根元の周りが三メートルと書かれているが、それよりも大きそうだ。「ここで分かれているのかな。」根元で二本の幹がつながっているように見える。上の方の中心部は黒くなっている。「雷が落ちたんじゃないかな。」四百五十年という樹齢は、計算すると桶狭間の戦い(一五六〇年)の頃だと思えば、どれだけ古いか分かる。かつては鬱蒼とした森が広がっていたのだろうが、周りは住宅地になっていて面影は全く残っていない。
     百メートル程行った辺りで、「ここで鰻を食べたんだよ」とスナフキンが言い出した。小さなビルに鰻屋が入っていて、下見のとき姫が食べようと主張したらしい。「ビックリしちゃったよ。」姫や碁聖が体調を崩したのは、その鰻が悪かったのではあるまいか。そもそも姫は脂っこいものが苦手の筈だし、碁聖だって昼飯には蕎麦かせいぜいパスタを食うひとである。
     その先を右に入ると智音寺だ。厚木市旭町二丁目。しかし赤い幟には智音神社と書かれ、寺の本堂だったと思える正面の建物にも「智音神社」の額が掲げられている。「神社ですか、鳥居もないのに。」ところが境内の左側は「知恩寺墓地」になっている。建物の造作も寺そのものだ。ここは寺なのか神社なのか。「不思議ですね」とダンディが首を捻っている。
     天正年間(一五七三~九二)開基の真言宗の古刹だが、明治の廃仏毀釈で廃寺となった。元々牛頭天王社(現厚木神社)の別当寺であった。しかし墓地がある以上、法要はしなければならないだろう。「地元の人が世話をしてるんでしょうね。」あるいは、必要な時だけ、近隣の寺に頼んでいるのだろうか。厚木市内には真言宗の寺が七ツはあるようだから、なんとかなるか。そのうち、智山派(真義)が一ヶ寺、六ヶ寺が高野山真言宗(古義)である。埼玉や東京ではこの比率は逆になりそうだ。
     鬼子母神堂の中を覗き込むと、小さな鬼子母神像の前に白角水割の缶が供えられていた。これは珍しい。余程白角水割が好きな人が供えたのであろうか。
     ここに那須与一の伝説がある。屋島の合戦の後、鎌倉に引き上げた頃に眼病を病んだ与一が、天王の森薬師如来の加護で治癒した。そのお礼にこの寺を創建したと伝えられる。境内の右側にその供養塔があるという記事を見ていたのだが、それらしきものは見当たらない。「そんな伝説は信じられないな。釈迦の骨とかキリストの聖杯とか、そんなのを持つところは山ほどある。それと同じじゃないかな。」私もダンディの意見に全く賛成だ。鎌倉でも那須でも良いが、わざわざこんな所に来なくても良いだろう。
     またかつて、この辺りには厚木氏の館があったとされる。但し遺構もなく真偽は分からない。

    智音寺境内一帯が厚木氏の館跡であったと伝えられる。厚木氏は、平良文の子忠輔にはじまるとされる。永享十二年(一四四〇)の結城合戦で、厚木掃部助なる人物が足利春王丸・安王丸方に与して討たれ、その首を小田讃岐守に取られたことが『鎌倉大草子』や『永享記』に記されている。その後の厚木氏については、詳細は不明である。
    (http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.atsugi.htm)

     姫が下見のときに頼んでおいたと言うので、公民館でトイレ休憩をとることにした。スナフキンが事務室の窓を叩いて了解を取ろうとすると、係員のおじさんは顔をあげようともせず受付簿を出して書き込もうとする。「トイレを借りるお願いをしていました。」「施設を利用するとかじゃないんですね。」漸く理解してくれた。
     「あそこの食堂を予約しようと思ったんだ。」右側に「みつふじ食堂」の看板が見えた。「だけど、うちじゃそんなことはしていないって、バアサンに言われたんだ。」予約出来なくて幸いだった。「そうだよな、十五六人で予約して実際には六人だなんて、怒られちゃう。」
     左にソニーの大きな建物(厚木テクノロジーセンター)が建つところが五叉路の交差点になっている。この旭町四丁目交差点で六〇一号と別れて左斜め前方に延びるのが旧道だ。スナフキンはすぐに信号を渡ろうとするが、ちょっと待って欲しい。「だけど、あそこに何かあるよ。」「そうだ、忘れてた。」今日はスナフキンと私と二人一組で漸く一人前になるようだ。旧道に入る交差点手前の右側の角に「きりんど橋」の案内がある。厚木用水を渡る橋が桐辺橋(きりべばし)と呼ばれ、それが聖代橋(きりんどばし)に変わったという。キリベからキリンドへというのは不思議な変化だ。それに「聖代」と書いてなぜ「きりんと」と読むのかも分からない。
     崋山の「桐堤賞月」(六勝図)の錆びた標柱が立ち、脇には例の橿家甘人の都々逸碑が建っている。「桐を植へたるきりべの堤 四季を通じて月がよい」。これも感心しない。この甘人とは何者であろうか。「ここに川が流れてたんでしょうね。」「こっちでしょう。」右手の方の桜並木になっている細道が元の川筋だったと思われる。ヒマラヤ杉には「ヒマラヤシーダー」の説明が付けられている。「おかしいですね、なんでわざわざシーダーなんて。」ダンディは不思議に思う。
     信号を渡って、ミニストップの前を通る旧道に入る。「道が狭いから一列縦隊でお願いします。」歩道のない道の左側を一列に並んで行くと、結構自動車の往来が激しい。「晴れていれば、この辺から大山が良く見えるんですよ。」地図を確認すると大山はここからほぼ真西に当たるが、生憎の雨では望めない。
     「これなんだよ。下見のときも見過ごすところだった。」民家のブロック塀の際に小さな石柱が立っている。「どうということないけどな。」確かに「どうということもない。」南無馬頭観世音と彫られているようだ。
     やがて祭囃子が聞こえてきた。岡田三嶋神社だ。厚木市岡田四丁目十九番。祭提灯が掲げられた入口を入ると、左の本殿ではなにやら忙しそうにひとが動いている。狭い境内の右手には露店がいくつか並んで、ジャガイモのバター焼きや、焼き鳥の匂いが漂ってくる。正面には舞台が設置され、夕方には何かのショーが行われるらしい。

     三島神社は岡田村の鎮守、祭神は事代主神である。岡田村は近世後期には上岡田・下岡田村の二村に分かれていたが、もとは一村であった(『新編相模風土記稿』)。戦時中に供出された鐘は、元禄四年(一六九一)村内の細野久左衛門が奉納したもので、雨乞い祈願のため伊豆国三嶋神社(静岡県三島市)を勧請したという創建由緒が刻まれていた。例祭は四月第三日曜日(古くは九月二九日)である。
     境内には近隣に所在した石祠が祀られている。(あつぎの文化財獨案内板)

     神社に梵鐘があるのは珍しいが、これも神仏混淆の名残である。狭い境内は祭りの準備で混雑していて落ち着かない。出発しようかと言っているとヨッシーの姿が見えない。どうしたのだろう。やがて戻ってきたヨッシーが、「道祖神があるって書いてあったから見てきました」と言う。確かに姫の案内文にあったのに私はすっかり忘れている。「あの裏です」と教えられて拝殿の裏に回ると、欅の大木の根元に、扇形に二段に設えた舞台のような場所がある。
     双体道祖神が舞台の中央奥にたち、その両側に五輪塔(完全なものはない)や良く分からない石祠などが二十個ほども並んでいるである。男女抱擁の形をした道祖神は、石を丸く窪ませた中に浮き彫りにした現代的なデザインで、平成か、遡っても昭和に造られたものだと思われるが、どう言う趣旨なのだろうか。
     その隣には坊西稲荷の小さな石祠が、石垣で組んだ新しい台座に載せられている。稲荷の説明を読むと、享和三年に岡田坊西地区に建立されたもので、厚木インター建設による区画整理で、行き場を失ってこの地に移されたものだ。ただ、この場所はどうなのだろう。拝殿の奥で、余程興味がない限り普通の人は入り込まない。邪魔者扱いされているのだろうか。

     リーダーを待たせてしまったが、それでは出発しよう。少し行けば目の前には東名高速が左右に伸びている。その手前の脇道を右に曲がると永昌寺だ。厚木市岡田四丁目二十九番十四号。曹洞宗の小さな寺で見るべきものは何もない。農家の前庭のような境内の左側は東名高速下の駐車場となっている。

    山号は岡田山、宗派は曹洞宗で功雲寺(相模原市津久井町)の末寺である。縁起によると、当初は観音堂で、貞応二年(一二二三)に補陀絡院、元徳元年(一三二九)に桂林寺、永正一七年(一五二〇)に永昌寺に改称したという。本尊の正観音は鰻観音と呼ばれ、これは村内の鰻堀と呼ばれる堀に郡集する鰻は、本尊を礼拝しているように見えることから名付けられたという(あつぎの文化財獨案内板より)。

     厚木は鰻の名所であったか。それならば姫が鰻を食ったのもやむを得ない。もう一度さっきのところまで戻り、東名高速の下を潜ると、今度はちゃんとした山門を持つ立派な寺に着いた。長徳寺。浄土真宗東本願寺派、寿永山慈雲院と号す。厚木木市岡田五丁目三番二十三号。宝治年中(一二四七~一二四九)の創立は厚木市内で最も古く、規模も大きい。
     宝治年中と言えば、鎌倉では宝治合戦が起きた時代だ。北条氏は有力御家人を根絶やしにすべく、様々な謀略を駆使していた。宝治元年(一二四七)六月五日、挑発に乗った三浦氏との間で武力衝突が起こり、三浦一族とその与党が滅ぼされた。また同じ宝治元年は、七十五歳の親鸞が『教行信証』を完成させた頃で、それを考えればこの寺の創建は随分早い。これより先、越後配流を許されて三年後の健保二年(一二一四)から二十年ほどの間、親鸞は東国で布教活動をしていた。

    中郡相川村岡田に在り 宝治年中創立 開山浄光和尚 初め真言宗たりしが寛喜元年、住僧某、親鸞上人に帰依して現宗に改む(本堂前に置かれた説明板による)

     寛喜元年は一二二九年であり、ちょうど親鸞の東国布教期に当たっている。それは良いのだが、それと、宝治年中(一二四七~一二四九)の創立との順序が合わない。これをどう解決すべきかと考えていて思い当ったことがある。確か初期の親鸞教徒は寺を持たず、念仏道場と称したのではなかっただろうか。それなら納得できるのだ。上の文を歴史的文脈に従って修正してみよう。真言宗の僧侶だった某が寛喜元年に親鸞に帰依して念仏道場を始めた。それから二十年ほど経った宝治年中に、浄光和尚が寺を建てた。これなら問題ないだろう。
     天正年中、北条氏直が寺田十石を寄付し、慶安二年八月には徳川家光より寺領十石の朱印を与えられた。七条法印作と伝えられる旧本尊の阿弥陀如来像や、室町初期の作という聖徳太子立像などがあるそうだ。
     山門を入ると広い池の周囲に築山を巡らし、綺麗に刈り揃えた樹木が植えられた日本庭園が広がっている。しかし私の目当てはこれではない。駿河屋彦八の墓がある筈なのだ。スナフキンは知らないと言うので墓地の方に行ってみると、本堂裏手の入り口脇の芝生に黒御影石の碑が建っていた。

     法名 釋常諦(俗名 酒井彦八 八十二才)
     天保二年(一八三一)九月厚木を訪れた三州田原藩士渡辺崋山の記した遊相日記に記載された酒井村在住の侠客駿河屋彦八家の墓石二基は多年の風雨にさらされ朽ち果てたため刻字を判読できず止むを得ずこの地に墓石の存在せしことを記すに止めた
     平成八年
     壽永山長徳寺第二十五世 釋了信

     「侠客ですか」とヨッシーが感心する。「その頃に藩政を批判するなんて大変なことだったでしょうね。」それが侠客たる所以でもあるだろう。スナフキンは、こういうものを建てて彦八を記念した住職に感心する。「下見のときに会ったけど、なかなかの住職だったよ。」
     次は報徳寺だ。浄土真宗本願寺派、知恩山高栄院。厚木市岡田五丁目四番十二号。「何があるんだい。」姫の案内文には何の記述もない。ただ親鸞の立像があるだけだ。一応、由緒だけでも記録しておこう。

    開基は、栃木県野木町にある浄土真宗本願寺派「法得寺」に生まれた教信坊であります。教信坊は、栃木県より聖徳太子像を背負い、現在の地(神奈川県厚木市)にたどり着き、念仏の道場を建てたと伝えられています。現在でも、その聖徳太子像は寺の寺宝 として大切に受け継がれています。(報徳寺縁起)

     更に南下する。「きらく山口屋」という菓子屋を見て、「姫がここに寄りたがっていた」とスナフキンが言う。厚木市岡田五丁目六番十六号。いちご大福とかいちごロールとかが名物の、創作和菓子の店である。そしてスナフキンによれば、この辺りには山口という家が多いらしい。
     民家の塀際に、苔むした小さな石柱と、五輪塔らしいものと小さな石祠が並んでいる。「五輪塔らしい」と書いたのは、一つの石から削り出した形のようで、普通に見るものとはちょっと形が違っているからだ。「これって、さっきの馬頭観音と同じ形ですよね」と言う桃太郎の意見に従えば、真っ白に苔むしたものは馬頭観音かも知れない。
     小さな川を越えると「リバーサイド前」という信号にでくわした。「リバーサイドね。」「こんなところで。」どうやら住宅公団(現UR)が建てた厚木リバーサイドという団地に由来するようだ。この川はもう少し南で相模川に注いでいる。
     右の脇道に入ると法雲寺だ。浄土宗、来迎山勝長院。厚木市酒井二四七一。紫木蓮がもうじき開きそうになっている。天正の頃(一五九〇年代)、山角伯耆守次郎右衛門勝長の開基とされる。山角氏は元北条家臣で、江戸時代には旗本として酒井村、長沼村、平塚八幡村の一部合わせて千二百石を領した。墓地にはその山角氏の墓があるらしいが、誰も関心を示さないから行かない。雨に加えて時折風が強く吹く中で、六人だけではなかなか気勢が上がらない。
     少し戻ったところにあるのが酒井寅薬師だ。小さな堂の脇には、頂部はおそらく不動明王だと思われる道標が置かれている。もとは酒井バス停付近にあったものらしい。

    平安時代、境川の洪水で悪病が流行した。全国行脚中の恵心僧都という高僧がこれを聞き、流木に薬師像を彫り、悪病退散を祈願し、村民を救ったという。本尊の不動明王像は神奈川県の重要文化財になっている。今は、法雲寺に移されている。

     恵心僧都と言えば『往生要集』を著した源信のことだろうが、源信が「全国行脚」したなんて話は聞いたことがない。弘法大師伝説と同工異曲で、浄土信仰を広めた人物だから浄土宗の寺に関係がない訳ではない。
     「今日はお寺ばっかりですね。」「どれも同じようで飽きちゃうよ。」小さな寺が多く、しかも見るべきものが余りないので、私も少々飽きてきた所だった。
     岡田の交差点に戻って今度は県道を西に向かう。ここからは六〇四号になったようだ。「これはタマガワ。あの多摩川じゃないよ、ギョクの方。」

    神奈川県厚木市の伊勢原市との境界付近に源を発し東へ流れる。厚木市の南部を流れ、厚木市戸田付近で相模川に合流する。上流域では比較的汚染が進んでおらず、ウグイやヤマベまれに鮎の稚魚もみられる。
    元来、花水川(金目川)の支流として南へ流れ、神奈川県平塚市に至っていたが、度々氾濫を起こし河川域に水害をもたらしていたため、河川改修によって現在の流路に変わり、相模川水系の支流の一つとなった。(ウィキペディア「玉川」)

     玉川を渡る橋は新宿橋だ。「しんしゅく、濁りませんね。」ダンディのいつもの言葉だ。前方に小さな小屋のようなものが見えた。「今度の目的はあれじゃないか。」「そうだよ。なんだか、家から持ってきたようなものばっかりだよ。」スナフキンの言葉が不思議だ。庚申塔や石仏を集めているのではないのか。
     橋を渡りきるとすぐ向かい側に、ブロック塀に青い切妻屋根を載せた小さな祠が建っている。スナフキンが言う意味が分かった。真中には新しい双体道祖神が置かれていて、本来はこのために作られた祠だと思われる。しかしその周りに置かれているのがおかしなものばかりだ。黒塗りの恵比寿大黒、白い布袋、茶色の唐獅子、赤銅色の七福神、イエスを抱いた真っ白なマリア像。スナフキンの言うように家で不要になった飾り物を持ってきたとしか思えない。右後ろの方には、ロシアの人形のようなものも見える。道祖神の裏を覗くと、五輪塔、馬頭観音、何かの石祠が隠すように無造作に積み重ねられていて、ゴミ捨て場になってしまったようだ。
     抱き合って接吻している道祖神は、三嶋神社のものと形は違うがやはり古いものではない。新しく造られたものではないだろうか。厚木の人は双体道祖神に格別の趣味を持っているらしい。わざわざ新しく作って、それを納める祠まで設置するのである。たまたまゴミ捨て場のようになってしまったのは気の毒な話だ。
     片平の信号で小田原厚木道路の高架下を潜ると、道は左に大きく回り込むようになっている。「ここから少し上るんだ。」右手の坂道を上ったところが曹洞宗大厳寺だ。厚木市愛甲八九七。山門を入ると右側には六地蔵が並んでいる。左手には丘の斜面を利用して新しい墓地が作られているようだ。無縁墓を集めた万霊供養塔はコンクリートで丁寧に固められている。
     「住職が親切だった」とスナフキンが思い出した。「碁聖がトイレを借りたんだよ。」外にトイレはなく、本堂を上がって借りたというのである。姫の案内文には何もコメントはないが、本堂内部の写真が掲載されている。「あの時はお彼岸で、ここも開いてたんだ。」今日は本堂の戸は開かない。「隣の寺とはつながっていないんだ。仲が悪いんじゃないか。」

     高台で隣接しているのに直接行く道はない。いったん下に降りて隣の坂を上ると円光寺だ。厚木市愛甲一一二五。「下見のときは場所だけ確認して寄ってないんだ。そのあと、伊勢原からバスでケーブルカーの下まで行って、宿坊を何軒か見たんだよ。」そして、「東學坊」という宿坊を予約してくれている。
     ここには愛甲三郎の墓と伝えられるものがある筈で、私は期待していた。竜宮門のような造りの門の左の壁には、「僧兵武術道」と稚拙に書かれた細長い看板が掲げられている。これは何だろう。正面の「円光寺」の文字も、三枚の正方形の板に分けて書かれているのだが、お世辞にも上手い字とは言えない。下手でも味のある字というのはあるが、そういうものでもない。三つ葉葵の紋を飾った竜宮門が虚仮威しのように見える。
     「愛甲三郎って書いてますよ。確かプロ野球に愛甲っていなかったかな。」ダンディが言う。野球には詳しくないが、甲子園で活躍してプロに行ったのがいた筈だ。「末裔かな。」門の下の壁に愛甲三郎の絵を描いた板が取り付けられていた。

    愛甲三郎李隆の歴史(成年不詳~一二一三)
    愛甲三郎李隆は、愛甲庄を領した武将である。愛甲庄は厚木市愛甲を中心とした荘園で、その荘域は七沢・小野・愛名・船子・岡田(厚木市)を含む玉川流域に広がっていた。
    愛甲三郎は、平安時代末期武蔵国におこった武士団武蔵七党の一つである横山党の流れをくむ。   父は山口李兼。三郎李隆は愛甲庄を領したことから、愛甲氏を名乗るようになった。

     「字が違いますね。一本足りない。」おかしなことに気付いてしまった。三郎李隆とあるのがおかしい。「李隆」ではなく、「季隆」でなければならない。「すえ」と読むのであって、李(すもも)と間違える筈がない。父の「山口李兼」も「季兼」の間違いだ。看板もそうだが、無学な者の所業としか思えない。なんだか不安になってきた。

    愛甲三郎季隆は武蔵七党の一つである横山氏の一族とされ、愛甲の地を所領するにあたり、愛甲姓を称したという。また、愛甲三郎季隆は弓の名手として有名で、幕府軍と畠山重忠が戦った『二俣川の戦い』では畠山重忠を弓にて倒すなどその武勇ぶりが『吾妻鏡』等に散見できる。のち、愛甲三郎季隆は建暦三年(一二一三)に起きた和田義盛の乱にて他の横山党同様、和田氏側について敗北。戦死したとされている。http://www2u.biglobe.ne.jp/~ture/aikoujoukanagawa.html

     「何だい、これは。」本堂前の香炉が不気味で、最初はわざわざゴミを置いているのかと思った位だ。その中心には山形の覆いを被せて数頭の小さな唐獅子を置き、白い石を敷き詰めた周りにも金剛力士や地蔵などのミニチュアを無造作に置いている。真鍮の花入れの下半分にはビニールテープを巻いてある。何をやっているのだろうか。子供が勝手に作ったようなものである。「さっきの道祖神のところに置かれたミニチュアは、この寺から持っていったんじゃないか。」充分に考えられる。
     姫の案内文に、「織田無道氏が先代の住職」と書かれてあるのを見つけて、それがおかしいとヨッシーが笑う。テレビで何度か見かけたことがあるが、怪しげな坊主だった。確かに先代住職に間違いない。宗教法人の乗っ取りを図って(本人は否定したようだが)、公正証書原本不実記載、同行使の罪で二〇〇二年に懲役二年六ケ月、執行猶予四年の有罪判決を受けている。そのために、この寺から去ったのだろうか。
     織田無道から辿って行くと、山門に掲げられていた「僧兵武術道」の意味が分かった。二〇〇七年に織田無道が格闘技イベントを主宰した際、僧兵に伝えられたとする武術を披露したらしい。下記の記事を見つけた。

     圓光寺第四十九代住職・織田無道氏がプロデュースした格闘技イベント「無道Spirit」旗揚げ興行が一六日、東京・代々木第ニ体育館で開催された。(中略)さらに「僧兵武術道スペシャルショー」では、中国・少林寺拳法をルーツに持ち、日本の僧侶らが自警のための手段として学んでいたという“僧兵武術”が披露された。初めに百杖と呼ばれる長い杖を手にした僧侶同士が戦い、続いて剣を持った三人の忍者との立ち回りを華麗に演じて見せた。
     http://blog.livedoor.jp/mamibu217/archives/51072845.html

     本来の寺院とは全く関係のない、金儲けのためのものである。織田無道自身の口上も見つけた。

     武術ということで格闘技戦を新しい方法論にて僧兵の〈習い〉を展開させ、又、観戦している方々にも古来の僧兵を知ってもらいたいという一石二鳥にと思っております。この〈習い〉とはそれぞれの家においても大事なことなので、皆さんにもその辺も考えてもらいたいものであります。幅広い展開としてドラマなどにも全く新しい切り口で入っていければと思っています。僧兵同士の戦いも又面白いと思われます。
     http://mudou-spirit.cgi-system.com/cgi/sohei.cgi?data0=D&data1=&data2=0&data3=&drt=1&no=01

     分裂症の文章である。要するに、面白いからテレビで使ってくれと言っているのだ。もうひとつ怪しいものがある。上の「愛甲三郎李隆の歴史」と一緒にもう一枚取り付けられている板には、「西嶺山円光禅寺 宗派 円光寺派(本山)」とある。この「円光寺派(本山)」というのが謎である。
     本来は臨済宗建長寺派の寺院である。建長寺から破門されたのではないか。そもそも織田無道なんていう破戒坊主を住職とした寺である。勝手に「本山」を名乗ってもおかしくない。どうも織田無道のせいで、円光寺にまつわるもの全てが怪しく感じられてしまう。現在の住職がどういう人物か知らないが、少なくとも今見ている寺の姿で判断する限り、正常な感覚を持っているとは思えない。スナフキンが大厳寺で言っていた「仲が悪いんじゃないか」という感想は正しいだろう。まともな人間が付き合いたい寺ではなさそうだ。檀家が気の毒になる。
     愛甲氏の居館について厚木市観光協会では、ここから一キロほど離れた上愛甲公民館付近(厚木市愛甲二九八)であるという説を採用している。明治の頃には東西南北に空堀があったらしい。また愛甲三郎の墓とされる五輪塔は、宝積寺(愛甲二八七二)にもある。円光寺とどちらが正しいか、あるいはどちらも違うのか、まだ決着はついていないようだ。

     なんとなく不信感だけが残って、肝心の愛甲三郎の墓という宝篋印塔も見ずに寺を出た。あとは駅に向かうだけだ。
     「そこの豆腐屋は、大厳寺お勧めなんだよ。」下見のとき、碁聖がこの豆腐屋で冷奴を注文して当惑されたそうだ。「カウンターはあるけどね。お菓子を食べる場所だと思うんだよ。」まさか冷奴を注文されるとは、店の人も想像もしなかったようだ。富塚豆腐店。慶応元年、相模国愛甲郡南毛利愛甲に「すみや」作次郎が創業したという老舗である。厚木市愛甲一一五二。

    おからや豆腐を加工した惣菜、ドーナツやチーズケーキなどのお菓子、『神奈川フードバトルinあつぎ』で優勝(08年)準優勝(09年)した「豆腐でんがく」も店頭にてお召し上がりいただけます。

     豆腐をわざわざ菓子にしなくても良いではないかと思うのは、頑迷固陋の私のいつもの感想だ。この店には、他にも「愛甲三郎豆腐詰め合わせ」なんていうものまである。
     交差点の信号には「宿愛甲」とあるから、この辺りが愛甲宿の中心だったのだろう。「宿」と言っても厚木のような大きなものではない。立て場に木賃宿、染物屋、饅頭屋があったとされていて、つまり店は二軒しかなかったということか。
     横断歩道脇にかなり風化の激しい笠塔婆型の庚申塔らしいものが立っている。石の一部はかなり剥離していて、庚申塔だと断定する材料は実は何もない。側面の「右大山」の文字が分かるだけだ。「すぐ剥がれてしまいそうだよ」と言いながら触ってみると、笠の先が本当に剥がれて取れた。「アッ、何やってんだよ。」このことは内緒にして欲しい。
     愛甲石田駅南口に着いたが、そもそも愛甲石田という地名があるわけではない。駅の住所は厚木市愛甲一〇三九で、ごく一部が伊勢原市石田に引っ掛かっている。

     小田原線が開通する際の駅設置予定地は、現在の駅所在地よりも一キロほど伊勢原寄りの中郡成瀬村高森(現在の伊勢原市高森付近)であった。しかし、地主の反対を受けたことから、現在地よりも少し西側の成瀬村石田(国道二四六号から高森道了尊への道が分かれる付近)へ計画を変更した。ここで愛甲郡南毛利村(現在の厚木市愛甲付近)から駅誘致があったため、さらに東側に計画を変更しようとしたところ、全く石田に鉄道駅がなくなることには石田側が難色を示した。このため、南毛利村と成瀬村の境界付近に駅を設置することとし、駅名も南毛利村愛甲と成瀬村石田の双方の地名を合わせることになった。(ウィキペディア「愛甲石田駅」より)

     ここで二時五十分。スナフキンの万歩計では二万歩を数えた。十二キロほどになっただろう。人数が少ないから早く歩いたこともある。雨は一日降りやまず、時折強い風が吹きつけたから、少し疲れた。講釈師もロダンもいないと掛け合い漫才も聞かれず、余り気勢が上がらない一日であった。ジャンバーはびっしょり濡れ、靴下も冷たくなってきた。
     反省会はどこでするか。「先日の海老名の店はどうですか。」「あそこは無理やり開けてもらったからね。今日は無理でしょう。」この近辺では一番繁栄しているというので本厚木に決まったものの、スナフキンは上野で中学の同窓会があるため、反省出来ない。
     本厚木の駅前は賑やかだ。灯りがついているので庄屋の階段を上ると、まだやっていない。灯りは隣のカラオケ屋のものだった。それならと桃太郎が連れて行ってくれたのは、磯丸海鮮センターという居酒屋だ。三時を過ぎたばかりだというのに店は混み合っていて、十人ほどが宴会をしている隣の狭い席に案内された。「この店は二十四時間やってますからね。」今はランチタイムメニューで、生ビールが二百九十円だ。「これは安い」とダンディが喜ぶ。注文を取りに来た娘に、ランチタイムはいつまでかと訊くと、五時までと言う。料理の種類数は少ないが、多少は安くなっているような気がする。焼酎ボトルはないのでグラスで注文する。
     五時過ぎに終わってひとり二千百円。「さくら水産より安い」と声が上がったが、ランチタイムのお蔭であった。桃太郎はこの時間に海老名の自宅に帰る訳には行かず、もう一軒行きますからと別れて行った。残された四人はカラオケにも行かず、静かに小田急線に乗るばかりだ。

    蜻蛉