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    番外 大山道を歩く 其の七(愛甲石田から伊勢原まで)
    平成二十四年六月十六日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2012.06.24

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     関東も六月九日(土)に梅雨入りした。平年より一日遅く、昨年よりは十三日遅い。去年は余程異常だったということだ。梅雨明けは七月二十一日頃と予想され、一ヶ月以上は鬱陶しい日が続くことになる。ただ昨日一昨日は晴れ間が見えた。一日ずれてくれれば良かったのに、今日は予報通り雨である。あんみつ姫は「雨降山の威力には勝てません」なんて言うだろうが、梅雨のせいだけでなく、原因ははっきりしている。
     新宿の小田急線ホームに降りるとチイさんがいた。「今日は何人集まりますかね。」宗匠は東洋大学でインド哲学か仏教を受講中、ロダンと碁聖は順調に回復に向かっているようだが、まだリハビリ中で参加は無理だ。昨日受信したメールで、ダンディが五月に頭を怪我して体調を崩していたというのには驚いた。気絶したというのはただ事ではない。充分回復するまできちんと静養してほしい。
     今日の雨は一日中降る筈だから女性陣はまず来ないだろうね。本庄の夫婦もこんな日に出て来るのは難しいだろう。「五六人ってところかな」とチイさんが予想する。「もしかしたら若いのがひとり来るかも知れない。」
     新宿を八時五十一分に出る藤沢行きに乗り、相模大野で小田原行き急行に乗り換えて、愛甲石田には九時四十八分に着いた。改札を出るとダンディと姫、それに中将小町夫妻がいる。予想が外れた。「ダンディは無理しちゃダメですよ。」「反省会は失礼するけど、昼間は大丈夫ですよ。」本庄のご夫妻はよく来てくれた。「向うは降ってなかったのよ。」今日の雨は関東南部が中心だっただろうか。
     「アラッ、若い人が。」姫の声で横を見ると、笑顔で頭を下げているのはオサムちゃんだった。先週二三年振りに仕事で一緒になって、この会の話をすると興味を持ってくれたので誘っておいたのだ。若手の勧誘は大分以前からの課題である。
     「エーッと、彼はオサムちゃんです。」「年齢はおいくつですか。」「フォーティフォーです。」「若いわねエ。」桃太郎も到着したので、一度で覚えられる筈はないだろうが、他のメンバーを紹介しておく。「こちらは五十代、そちらは六十代。」「違いますよ、七十代です。」どうしてこんな間違いをしたのか分からない。
     「マリーは来ないんですか。」知らない。「スナフキンはどうしたのよ、来ないのかい。」念のために携帯電話を取り出すとスナフキンからメールが来ていた。車が少し遅れているらしい。
     その彼も二三分遅れただけで到着した。「昨夜は午前様になっちゃたよ」と顔を顰めて聞き慣れた愚痴を口にしながら、オサムの顔を見て吃驚している。会社は違うが何度か一緒に仕事をしている筈だ。これで今日の参加者は九人に決まった。あんみつ姫、ダンディ、中将、小町、チイさん、スナフキン、桃太郎、オサム、蜻蛉である。この頃は講釈師も雨が降ると顔を出さなくなった。
     「この雨の中、集まって戴いて有難うございます。やっぱり雨降山の威力には敵いませんね。」思った通りの台詞だ。「原因は違うんじゃないの。」「そんなことありません、大山の神様は女が嫌いなんですよ。」
     前回は南口から駅に入ったが、今日は北口から出てすぐ国道二四六号に入る。「この辺はお店がいっぱいあるんですけどね。まさか今からお昼にするわけには行きません。」花屋食堂、海老名食堂ホルモン部なんていう店がある。姫の下見では適当な所に昼食をとる店がない。従って今日は珍しく弁当持参の指令が出された。「でも食べる場所があるかどうか。最悪の場合は東海大学病院にしようかと思います。」
     最初のうち雨は殆ど無視できるほどだったのに、すぐに傘が必要になった。小町の真っ赤なポンチョが可愛い。商店が途切れた頃、歩道橋の信号にある「道了尊入口」の表示が気になった。道了尊とは何だろう。

    大雄山最乗寺の守護道了大薩埵は、修験道の満位の行者相模房道了尊者として世に知られる。
    尊者はさきに聖護院門跡覚増法親王につかえ幾多の霊験を現され、大和の金峰山、奈良大峰山、熊野三山に修行。三井寺園城寺勧学の座にあった時、大雄山開創に当り空を飛んで、了庵禅師のもとに参じ、土木の業に従事、約一年にしてこの大事業を完遂した。その力量は一人にして五百人に及び霊験は極めて多い。
    應永十八年三月二七日、了庵禅師七十五才にしてご遷化。道了大薩埵は「以後山中にあって大雄山を護り多くの人々を利済する」と五大誓願文を唱えて姿を変え、火焔を背負い右手に拄杖左手に綱を持ち白狐の背に立って、天地鳴動して山中に身をかくされた。以後諸願成就の道了大薩埵と称され絶大な尊崇をあつめ、十一面観世音菩薩の御化身であるとの御信仰をいよいよ深くしている。
    (曹洞宗大雄山最乗寺http://www.daiyuuzan.or.jp/history/index.htmlより)

     この記事では「道了大薩埵」と呼んでいる。例えば金剛のように堅固な菩提心を持つ菩薩を金剛薩埵と称することもあり、「薩埵」が菩提薩埵(菩薩)の略とすれば大菩薩の意味である。また漢訳すれば、菩提は覚、薩埵は有情で、覚有情となる。
     それで余計なことを思い出してしまった。柳勘太郎(バロン吉元『昭和柔侠伝』の主人公)の背に「覚有情」の刺青が彫られていたのを、ロダンなら覚えているんじゃないか。馬賊の間で育った勘太郎に、師は「六道の凡夫の中において、自身を軽んじ、他人を重んじ、悪をもって己に向け、 善をもって他に与えんと念う者有り。」なんて説教した。菩薩と言うより、覚有情と言ってみる方が、なんだか心に沁みてくる気がする。因みに『柔侠伝』に始まる親子四代の物語は昭和マンガの名作です。日本近代史を描いた傑作と言っても良い。この一作でバロン吉元は歴史に名を残した。
     どうも脱線だらけで本筋からすぐに離れてしまう。そもそも「道了尊」のことにしてからが脱線なのだが、もうちょっとだけ辛抱して貰おう。別に道了大権現とも呼ばれた。師の了庵没後には天狗の姿になって消えていったと言うから、役行者のような修験道の怪人である。
     道了が協力して建てられた大雄山最乗寺(曹洞宗)は南足柄市大雄町にある。開創は応永元年(一三九四)だから足利義満の最晩年か、義持の時代である。了庵慧明は相模国大住郡糟屋の庄に生まれた。つまりこの地元の人である。ここからやや北の方、東名高速脇に「高森道了尊」という庵があって、了庵慧明と道了が住んでいたとされるので、この標識はそこに至る道筋ということだった。
     禅と修験とは余り似合いそうもないと思ったのは私の無知のせいであり、曹洞宗は実は山岳修験とかなり縁の深い宗派だった。道元が宋から帰国する際に、白山権現が碧巌録の写本を助けたという伝承から、永平寺は白山権現を守護神としている。本筋を離れた変なところで意外な知識を得た。

     誰も関心を持たないのに、かなり寄り道してしまった。最初の目的は交差点の右にある浄心寺だ。「寺があれば必ず寄るからね」とオサムに説明していると、「そうそう、神社仏閣巡りみたいなもんですから」と桃太郎も口を合せる。「若者には余り面白くはないかも知れないナ。」「そんなことないですよ。」そう言えば私が生態系保護協会の「ふるさと歩道」に初めて参加したのは十五六年前だから、今の彼とそれほど違わない。あの頃は宗匠やロダン、桃太郎もまだ四十歳代前半だったのだと思えば、なんだか茫洋としてくる。
     ここは浄土宗、栖岩山寶珠院と号す。伊勢原市石田二九九番。茅葺の小さな山門が雨に濡れて美しい。天正二年(一五七四)周貞が住職となり、その後、寛永二年(一六二五)年に岩崎外記が堂社を建立した。このため周貞を開山、岩崎外記を開基とする。
     「岩崎外記には日蓮伝説があるんだよ。」そう言っても、誰も日蓮には関心を示さない。小町は全く関係のない三菱の岩崎のことを喋り始める。私だって別に日蓮が好きな訳ではないが、折角予習してきたし、話し始めた都合というものもある。日蓮が相模川を渡れずに難渋したとき、海老名市河原口で岩崎外記という渡し守りが無銭で対岸まで渡したという伝承があるのだ(市川智蓮『日蓮聖人の歩まれた道』より)。単なる渡し守が「岩崎」という姓を持っていたとは考えにくく、岩崎氏は在地領主だっただろう。勿論日蓮時代ならば十三世紀で、この寺を開基した人物とは時代が違う。当主の名は代々襲名するのだろう。境内には岩崎何某の寄進した石造物がいくつもあるから、今でもこの辺りの大地主であるに違いない。
     大きな木に白い小さな花が咲いている。中心の雄蕊の辺りは黄色くて、花弁の白が可憐だ。「これ、なんですかね。」桃太郎が訊いてくるので「ナツツバキ」と答えて、「最近すごいじゃないですか」と尊敬されてしまった。実はさっき姫に教えて貰ったばかりだ。「なーんだ。そうか。」ちょっと勿体なかった。もう少し尊敬されていても良かったネ。木肌がサルスベリのようにツルツルしている。

     茅葺に降り頻く雨や夏椿  蜻蛉

     すぐに二四六号から逸れて小田急線に添って行く。左手の小田急線の向う側に、緑に覆われた小さな丘が見えるのが小金塚古墳だ。しかし姫は踏切を渡ろうともせずに真っすぐ進んでいく。「寄らないの。」「誰か古墳の好きな人がいましたか。」特に好きという人はいないだろうね。「ですから寄りません。雨も降ってますからネ。」
     私も古墳は苦手だけれど、この辺りの歴史を考える上では重要だと思われるのでメモしておきたい。畿内原理主義者のダンディは東国のことなんか気にもしないだろうが、東北の人間としては、文献に現れない東国古代のありかたには関心がある。
     伊勢原市高森一〇九三。東西径四十七十メートル、南北径四十九メートル、高さ六・二メートルの円墳は神奈川県内最大規模である。四世紀末の築造と推定され、一九八四年の調査で幅約十メートル、深さ一メートルの周溝が確認された。関東最古の朝顔型埴輪(現存高八十センチ)というものが出土したらしい。

    同古墳の北側には、愛甲大塚古墳(石田車塚古墳)、地頭山古墳、ホウダイ山古墳と前期の前方後円墳が点在しています。小金塚古墳は墳形こそ円墳ですが、これらの古墳と同時に、当地域の歴代首長墓の一端を構成していると考えられます。(伊勢原市教育委員会「小金塚古墳」http://sgkohun.world.coocan.jp/kanagawa/isehara/kogane.htmlより)

     四世紀末というのはかなり早い時期で、まだヤマト王権の支配は及んでいないだろう。頂上には小金神社がある筈だ。祭神は金山彦。鉱山が近くにあったか、金属精錬に関係する集団がいた可能性がある。
     この辺からは古い街道を思わせる道が続き、道端の笹に隠れるように自然石に「道祖神」と彫られたものが立っている。小金塚バス停のところに建つ角柱の道標には、「東 厚木町ニ至ル」の文字が残っている。しかし他の側面は石の表面が剥離していて何も分からない。たぶん砂岩なのだろう。石というものは意外に脆い。姫の案内では、この辺りは船着き場と呼ばれていたそうだ。しかし海があったからというのはどうだろうか。海があったのは相当古い時代のことで、その頃の「船着き場」という呼び名が残っているとは信じ難い。それよりも歌川がこの辺りまで曲流していたと考えた方が自然のような気がする。
     ここで小田急線から離れて道なりに歩いて行く。「アレッ、これ紫陽花ですよね。」桃太郎の言葉で横を見ると、珍しい紫陽花が咲いていた。ガクアジサイの一種だろうが、周りの装飾花だけ見れば赤紫のツツジのような形をしている。こんな紫陽花は初めて見た。
     「この辺にある筈なんですが、見えませんか。」地蔵がある筈だがまだ見えて来ない。暫くして「ありました、これです」と姫が立ち止まった。成瀬小学校の向かい辺りに、割に新しい三体の地蔵を赤いトタン屋根が守っている。屋根を支える柱に稚児柱がくっついている。六地蔵ではなく三体だけというのも珍しい。「これが白金地蔵です。」白金はこの辺りの地名だ。さっきの小金塚古墳もそうだが、金属に関係していたとしか思えない。
     万延元年(一八六〇)、子宝に恵まれなかった茂田半左ヱ門が、子育て地蔵として建立したと伝わる。茂田氏の名前は、高森神社(伊勢原市高森二四四八番地)の沿革に「現覆殿は弘化二年(一八四五)八月妻木主計頭、笹子条作、茂田与左ヱ門並に総村中にて改築したものである」と書かれているので、この辺りの名主格の家であったろう。
     しかし地蔵は万延元年のものとはとても思えず、説明を読んで納得した。平成八年の台風で倒壊したため再建したものであった。修復するのではなく、全く新しく作り直した地蔵だ。
     成瀬小学校の塀に沿って道なりに行くと川に出た。歌川である。

    (歌川は)伊勢原市東富岡の丘陵地帯から平塚市大島で渋田川に合流するまでの延長六・二キロ、流域面積九・九一平方キロの河川。広町橋より下流五・五キロが二級河川に指定されています。渋田川との合流点には笠張川も合流していますが、この河川は玉川の旧流路です。昭和十六年に水害で大きな被害を出した玉川は、厚木市七沢から同市酒井にかけて新しい川が開削される以前は、ここを流れていました。(「平塚土木事務所の管理する河川」http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/p7841.html)

     川の手前の左手の広い低地には、遠目で見ると何やら白いお札を一面に敷き詰めたような、不思議な細工が施してある。「あれは何だい。」「水抜きしてるんじゃないですか。この辺りは湿地帯だったんですよ。」桃太郎はこの辺の地理に明るいのか。そう言われれば似たようなものをどこかで見たことがあった。
     橋を渡ると、道路向かいの古びた工場前のゴタゴタと看板が立ち並ぶ中に、動物のような形のおかしな物体が置かれている。「なんだろう。」看板には、ラクダロボットを百億円で売るなんてバカなことが書いてあるが、背中にバケツを逆さまに載せたようで首はない。その脇に立つ看板もなんだかおかしい。

    当所は伊勢原市より委嘱されたUR都市再生機構の無謀な工事により地盤の沈下とともに工場も五度以上傾き十年前に断腸の思いで廃業しました。現在廃業補償金一円の支払をお願いしております。

     補償金一円と言うのだから本気で怒っているとは思えない。ただ青筋立てて正義を振りかざすより、冗談めかして抗議するという姿勢は面白い。宅地造成工事の実態は分からないが、湿地帯であったということが原因ではないだろうか。地盤改良のため水を抜いたのが影響したのかも知れない。
     左の道端には双体道祖神が祀られている。一畳ほどのスペースをコンクリートで固め、古い石祠や道祖神など集めた真中に、新しく彫られた道祖神を置いているのだ。前回愛甲を歩いた時にもいくつか見たが、この辺りの人は双体道祖神に格別の嗜好があるとしか思えない。やや茶色がかった石の中心部を丸く刳り抜いて、その中に浮き彫りにしたものだ。表情は若く、互いに肩を抱き、もう片方の手は結び合っている。
     道祖神は新しいが、川を渡って宿場に入る手前の角という場所は、道祖神(つまり境界の守護神)が祀られるにふさわしい場所である。
     ただ正体が分からないものがある。五輪塔の出来そこないのミニチュアのようなもので、前回から良く見るのだが、これは何だろうか。前に見たときは、破損した不細工な五輪塔かしらと無理に自分を納得させていたのだが、実は気になっていた。四角の屋根(笠)の上に円盤と球形に近い石を載せ、屋根の下は丸い石になっている。五輪塔だとすれば、水火風空だけで地輪のない恰好だが、たぶん違うだろう。笠の部分に水平に筋が何本も引かれていて、火輪にそんなものが彫られている五輪塔なんて見たことがない。宝塔の一種だろうか。頭の部分二つだけになった黒い石もいくつか転がっていて、これにも何度もお目にかかった。
     どうやらこれは「ごろ石」と呼ばれるもので、五輪塔や宝篋印塔がばらばらになったものを言うらしい。(http://www.0462.net/blog/mamekozo/index.html?page=2112を参照)。水平に筋が入っているのは宝篋印塔の笠の部分だろう。黒いのは五輪塔の風輪空輪か、あるいは相輪の部分か。これらが単体そのまま道祖神であり、またいくつか積み重ねたものを多重塔道祖神とも呼ぶようだ。
     このことから、道祖神信仰はまさに石神信仰であるということが分かる。ごろ石とは五輪石の訛りだろうか。黒くなった石はドンド焼きで焼かれたものかも知れない。また伊勢原では、「ごろ石」ではなく「サイノカミサン(塞の神様)の石」と呼ぶという指摘もある。
     (http://twitpic.com/372z0q参照)。

     県道二二号線(横浜伊勢原線)を超えると道は突き当たって、丁字路を直角に右折する。この道の曲がり具合が「糟屋宿枡形」と呼ばれるらしい。「糟屋宿下宿」のバス停があるので、ここから糟屋宿が始まったことになる。
     糟屋宿は江戸から十五里、人馬継立てが行われた宿場である。古代から海老名(相模国府があったと推定される)に通じる足柄道の要衝である。そして私は初めて知ったのだが、中世には扇谷上杉氏の根拠地であった。上杉定正の根拠地はてっきり鎌倉だとばかり思っていたのに、遅くとも定正の父の上杉持朝の時代には鎌倉から離れてこの糟屋を根拠地にしていたようだ。大山街道を歩いているお蔭で、いい加減だった知識が少しずつ修正されるのはとても有難い。

    一四八〇年、持朝の子定正の頃には、鎌倉は「旧栖の地、扇谷」となり、遅くともこの年以前には鎌倉から本拠を糟屋荘に移したようである。糟屋荘は、一二世紀中頃に成立したが、一三五一年、上杉藤氏(藤成の子顕定が扇谷家の養子に)か、その関係者が糟屋荘の政所を務めたことが知られるので、以後扇谷氏の所領となるようである。
    糟屋荘には、荘園の政所、後には相模守護所(実際には守護代)がおかれた。糟屋は上・下糟屋にわかれ、上糟屋(上粕谷)は荘園内の北西、大山に近いところに位置し、下糟屋は、現在の国道二四六号線に並行する東西道(後の矢倉沢往還)沿いにあたる。特に下糟屋には式内社の高部屋社があり、一四世紀末には、この神社は惣社八幡宮といわれるようになり、荘園の中心的な場所となった。
    (http://8317.teacup.com/mwa/bbs/453

     右に曲がると、両脇に民家が並ぶ参道である。その途中に不動明王を載せた石塔がある。「これって、不動明王ですよね。」背中の火炎光背は殆ど欠けてしまって、剣を持つ筈の腕も折れているから、これだけで断定するのは危険な気もするが、三軒茶屋駅前の道標と同じ形だと思えば間違いないだろう。かなり風化が激しくて、不動の鎮座する台も、まるで溶岩のようにデコボコに変形している。台石の真中に大きく記された「大般若経六万」、右端の「天下泰平五穀豊(穣)」だけが判読できた。(穣)は欠けている。道標ではなさそうだ。
     参道の突き当りが千秋山普済寺だ。臨済宗建長寺派。伊勢原市下糟屋二三二七。上杉氏が開基したと伝えられる。最盛期には多くの塔頭があったらしいが、今ではそんなものは何も見えない。
     高さ六メートル(本来は七メートル)の石造多宝塔は途中で折れてしまって、左脇にブルーシートを敷いて傘や相輪の部分が置かれている。去年の震災に因るのだろうか。かつては大山を背景に聳え立っていたらしい。「勿体ないですね。修復できないんでしょうか。」オサムはこんなものには関心がないかと思っていたが、そうでもないようだ。もちろんちゃんと復元して欲しい。
     この多宝塔は徳川幕府の蝦夷地対策に由来するものだ。相模国糟屋になぜ蝦夷対策が関係するのか。文化八年(一八一一)、幕府は北方防御の鎮めとアイヌ撫民のため、蝦夷地に三つの官寺を建てた。有珠の善光寺(芝増上寺末寺)・様似の等澍院(東叡山寛永寺末寺)・厚岸の国泰寺(臨済宗南禅寺派)である。この中の厚岸の国泰寺が問題なのだ。

     石造多宝塔は、天保九年(一八三八)に、高部屋神社の神宮寺第十四代住職である文道玄宗により建てられました。
     文道禅師は江戸幕府の命を受け、蝦夷国泰寺の第五代住職として赴任し、七年の任期を勤め上げ、神宮寺に戻りこの石塔を建立しました。
     明治元年の神仏分離令により神宮寺が廃寺となり、石造多宝塔は地元の人々の手により普済寺に移設されました。
     屋根の四隅には風鐸を付けた痕があり、塔身をくり抜いた中には石造の釈迦如来坐像が置かれています。
     台座の正面には「多宝塔」と彫られ、台石の上段には銘文(めいぶん)が刻まれています。中・下段には「松前家諸士庶人一統名簿」が彫られており、多宝塔建立のために寄進した約七百名の名前やクナシリや子モロ(根室)、箱舘(函館)など蝦夷地の様々な地名をみることができます。
     http://www.city.isehara.kanagawa.jp/bunkazai/shitei/shi_shitei/sekizoutahoutou.html

     蝦夷に官寺があったことも知らなかったし、そもそも江戸時代に「官寺」が建立されたなんて思いもしなかった。それにしてもまた無知を曝け出さなければならないが、蝦夷地はずっと松前藩領だと私が思っていたのも間違いであった。寛政十一年(一七九九)には東蝦夷が天領となり、文化四年(一八〇七)には全蝦夷地が天領化されていた。これは勿論ロシア対策のためである。
     この頃のロシアの動きを見てみると、文化三年九月にロシア船が樺太大泊に侵攻してきた。文化四年四月には択捉島を襲撃し、五月には再び樺太大泊を侵した。六月、利尻島に侵入し幕府船を炎上させる。北方領土問題は急を告げていたのである。この辺りの事情は綱淵謙錠『狄』で読んでいた筈なのに、すっかり忘れている。松前藩に戻されるのは文政四年(一八二一)で、その後安政二年(一八五五)には再び上知されて天領となった。蝦夷三官寺が建立されたのは最初の天領の時代である。
     「岩松が立派だね。」中将の言葉で、大きな岩にへばり付くように生えているのが、岩松というものだと知った。ウィキペディアには「イワヒバ」の項で登場して、「別名をイワマツという」と書いてある。岩の上に生えるというのが面妖である。
     準備の良いひとたちは、本堂の前でリュックを開き、オーバーパンツやスパッツを取り出して装着する。「私もどうして持って来なかったんだろう」と姫が嘆く。「折角持ってるのにネ。」私は最初からそんなものは持っていない。今日はジーンズの裾がドロドロになりそうだ。
     「オサムさんはしっかりした靴を履いてますね。」「アウトドアです。」「それってなんだい。飲んだくれている姿しか思い浮かばない。」「バーベキューですよ。」バーベキューがアウトドアか。それにしても、スナフキンのように合羽も着こんでしまっては暑すぎないだろうか。

     南に行くと渋田川に出る。橋を渡って少し行った左手が大慈寺だ。法雨山。伊勢原市下糟屋三六二。太田道灌の菩提寺の一つとされている。道灌の叔父で建長寺長老だった周厳淑悦禅師が、鎌倉にあった大慈寺を移して供養塔を建てたことに始まると伝えられている。道灌が鎌倉から移したのだという説もある。山門前に「太田道灌公菩提寺」と記された石柱が立っている。
     道灌の画像を所持しているようだが見ることは出来ない。墓地の入口には随分古い六地蔵が並び、その中央には座像の無縁塔が建っている。古びた具合から見て、江戸時代ならその初期、あるいはもっと古くて戦国時代のものかも知れない。
     さっきの道を戻り、道灌橋を渡って渋田川沿いに遊歩道を歩く。「晴れてたら素敵な場所なんですけどね。」川沿いに遊歩道を行くと、「大田道灌公墳墓之地」の石柱が立っている。いわゆる首塚だ。「晴れていればとても良いところなんです。」姫は本当に残念そうに何度も同じことを口にする。墓地は新しい玉垣で区切られていて、ベンチも置かれて静かな良い雰囲気のところだ。ここで弁当が食べられれば良かったが、この雨では仕方がない。「次に行く高部屋神社で弁当にしましょう。」
     蒸し暑い。体中が汗まみれになってきた。上宿の信号を左に曲がると高部屋神社だ。伊勢原市下糟屋二二〇三。鳥居の手前の斜面に「猿田彦大神」の石碑が立っていた。垂加神道は猿田彦を庚申塔の神としたから、これも庚申塔の一種であろう。
     境内に入ると、拝殿前の狛犬が一頭しかいないのが残念だ。向かって右は台座だけ残っているのである。拝殿の茅葺の屋根は普通に見る茅葺とは違って、向背の唐破風の所だけ、下の甍が露出するように切り取ってある。江戸時代の建物で、唐破風には浦島太郎と乙姫の彫刻が施されているらしいが、よく見えなかった。神紋は三つ巴。拝殿の後ろに回ってみたダンディが、「本殿が独立してありますよ」と教えてくれる。
     十一時半だが、なんだか無暗に腹が減ってしまった。拝殿の裏の屋根の下、本殿との間のコンクリートにシートを敷いて弁当を広げる。スナフキンは一人離れ、階段の所で合羽を脱いで半袖シャツになっている。
     チイさんがリュックを開いてエシャロットを出してくれた。私はエシャレットと言うのかと思っていたが、これが根本的な違いだと言うことを知らない。「高級品ですよ。」「自家栽培ですか。」「そうです。」チイさんは小さな容器に味噌まで持ってきた。「二三本づつ取って下さい。」私も最初は二本だけにしたが、美味いものだから、回った後もまだ残っているのをもう三本貰ってしまった。「辛くないわね。」「この間、新潟に人に貰ったのはもっと辛かった」と小町が言う。「美味しい。ビールが飲みたくなっちゃう。」姫は暫くアルコールを口にしていないらしい。
     「これって、ラッキョウの一種ですか。」桃太郎の質問に、「ラッキョウそのもの。土を盛って茎を白くするの。球が大きくならないうちに収穫する」とチイさんは答える。「それじゃラッキョウの若者か。」しかしダンディはすぐに電子辞書を調べて、「ラッキョウとエシャロットは別のものですよ」と断言する。厳密なひとなのだ。念のためにウィキペディアを引いてみようか。

    日本では、生食用に軟白栽培されたラッキョウ (Allium chinense) が、「エシャレット」の商品名で販売されていることが多い。この一年物の早獲りラッキョウに「エシャレット」という商品名を命名したのは東京築地の青果卸業者であり、名付け親はその理由として「『根ラッキョウ』の商品名では売れないと思ったのでお洒落な商品名を付けた」と語っている。

     私は「根ラッキョウ」という言い方が好きだが、それでは売れないらしい。ダンディが言うのはフランス料理で使うエシャロットであり、それなら私は喰ったことがない。チイさんが言うのは、正確にはエシャレットなのだろう。これまで私が食べたのは恐らく全てエシャレットだったと思われる。私はフランス料理なんか食わないから、今食べたのが旨いと思う。「お土産用に四つ作って来たけどね。」「それじゃ後でジャンケンしましょう。」小さな赤い大根も出てくる。「こっちの方が辛いね。」
     小町からは奈良漬が回されてきた。「自家製ですか。」「そうよ。」私は基本的に奈良漬を食わない人間だが、これは三切れも食べてしまった。小町は漬物が上手なのだ。姫は歌舞伎揚という煎餅を出してくれた。
     コンクリートに足を延ばして座っていると腰がくたびれる。食べ終わって境内の方に行きかけると、「トイレはなさそうだな」と、スナフキンが追いかけて来た。実は私も探していたのだ。「その辺の隅でやっちゃおうぜ。」罰当たりの二人は、「その辺」で適当に済ませてしまった。よくぞ男に生まれけり。
     高部屋神社は延喜式内社で、四世紀末の創建と由緒に書かれているが、信じなくて良い。ただ、「神社」としてでなくても、神社発生以前の原始的古代的な祭祀の中心であったと考えるのは自然だ。大住郡高部屋村の村社であり、祭神は神倭伊波礼彦命(神武天皇)、誉田別命 ( 応神天皇 )、三筒男命 (住吉三神 ) 、大鷦鶺命 、息気長足姫命、磐之姫命と大勢並んでいる。大体こういうのは、主な祭神を後ろから数えると良いことが多い。
     神武、応神、住吉神と並べれば、三番目にある住吉神が元々の祭神である。それが鎌倉時代以降の八幡信仰の隆盛に伴って、応神天皇を祭神とする八幡神社に代わった。大鷦鶺命(応神の子である仁徳天皇)、 息気長足姫命 (応神の母である 神功皇后 )、磐之姫命(仁徳の后)はその序でというか、応神の関係者として持ち出したものかと思われる。つまり中世から江戸時代にかけては八幡社として信仰を集めていたのであり、神武を祭神としたのは明治の国家神道である。
     「神社に鐘があるのは珍しいよ」と小町が声を上げる。神仏習合の名残で、廃仏毀釈以前には神宮寺があったのである。梵鐘は神奈川県指定重要文化財だ。説明によれば、至徳三年(一三八六)十二月、河内守国宗によって作られ、平秀憲によって奉納された。相州大住郡糟屋庄総社八幡宮鴻鐘銘とある。細かな部分がよく分からないから、「いせはら文化財サイト」のお世話になってしまおう。

    この銅鐘は、鐘を吊下げる部分である竜頭が竜の頭部を左右に見開く形状をしており、額にくっきりと立つ二本の角、引き締まった目鼻、渦巻き状の鬣や眉の先端、嘴状に尖った唇など全体的に均整が取れ、物部姓鋳物師の意匠がみられます。
    竜頭の下に横帯のように入る上帯には雲文、下側に横帯状に入る下帯には唐草文(からくさもん)が刻まれています。
    鐘の最下端にあり外側に張り出す部分を駒爪といい、ここが斜めに出る形は物部姓鋳物師の特徴の一つです。
    銘文は鐘ができた後に刻む陰刻により「糟屋庄惣社の八幡宮の釣鐘」で願主が平秀憲、制作者は河内守國宗であることが力強く刻まれています。
    平秀憲については現在のところ不明ですが、河内守を名乗る工人については清原氏であることが最近の研究でわかってきています。この清原氏は中世の相模国・武蔵国を中心に活躍した相模鋳物師の物部氏の後継者的存在にあたります。
    http://www.city.isehara.kanagawa.jp/bunkazai/shitei/ken_shitei/takabeya_dosho.htm

     清原氏、物部氏と出てくると、谷川健一『白鳥伝説』を思い浮かべないだろうか。物部氏はヤマト国家に追われて東遷し続けた氏族である。「相模鋳物師」の物部とは初めて知った。ただ物部氏は、いわゆる「超古代史」なんていうトンデモ本の主人公になってしまうから注意しなければならない。
     今では二四六号で分断されてしまっているが、北側の丸山城址公園を含めた一帯が、『新編武蔵風土記稿』では、大住郡糟屋荘の地頭だった糟屋有季の居館跡とされている。糟屋有季は比企朝宗に属し、義経の郎党佐藤忠信、堀景光を捕らえる功績があった。また正治二年(一二〇〇)梶原景時の変では、景時の朋友・安房判官代隆重を捕らえるなど、武勇に優れた人物だったようだ。しかし建仁三年(一二〇三)の比企能員の変に際して、比企一族と共に討ち死にし、糟屋氏は滅んだ。しかし発掘調査が進んだ結果、新しい事実がわかってきた。

    検出された遺構は、建物址、井戸址、堀、土塁、地下式坑などで、かわらけや陶器などの年代から、十五~十六世紀に城として機能していたことが確認されました。この時代はまさに太田道灌が活躍していた時代にあたり、道灌の主君にあたる上杉定正に関連する城(館)の可能性が非常に高いと考えられます。(伊勢原市教育委員会『発掘調査現地見学会資料・下糟屋・丸山遺跡』より)

     つまり鎌倉時代初期に糟屋氏が滅んだ後、室町時代には上杉氏が館を構えた可能性が高いと言うのである。扇谷定正の糟屋の館なら、太田道灌が殺されたのはここだったということだ。但し上杉館の場所はもう少し西の方、産業能率大学(伊勢原市上粕屋一五七三)の辺りではないかとの説もある。姫は「伊勢原とは言われてますけど、ちゃんとした場所は分からないんじゃないでしょうか」と冷静なことを言う。
     下糟屋の信号で二四六を突っ切る。東海大学病院を回り込むと、交差点に三階建の大きな薬局「望星薬局」がやけに目立つ。「東海大の薬局でしょう。ずいぶん大きいね。」東海大学とは別に独立した株式会社であるが、実質的には専ら東海大学と関係していることは間違いない。
     そのまま細い農道のような道を真っすぐ行くと、渋田川に架かる市米橋の傍らに咳止め地蔵の祠があった。「咳の出る人はお参りしなくちゃだめですよ。」そう言いながらダンディは「私は六十五年間、風邪をひいたことがないから咳には縁がありません」と自慢する。最後に風邪をひいたのが小学生の頃だというのだから敵わない。
     「可愛いお地蔵さまですよ。」小さな祠の中を覗いてみると、六角柱の白い台石に「地蔵大菩薩」と彫られ、合掌する地蔵の座像が蓮華台に鎮座している。石は砂岩のようだ。ドラエモンのような顔で、頭には赤い頭巾を載せ、涎掛けを巻いているのが「可愛い」と言えば可愛い。享保八年(一七二三)再建のものと言う。
     堰止めして新田開発を行ったもので、本来は堰止め地蔵なのだろうが、咳止めに転化したのである。橋は「せきど橋」とも呼ばれていた。「語呂合わせみたいなもんだな。」民間信仰に語呂合わせが多いのは、今まで何度もお目にかかっている。石神(シャクジ)が杓子、シャモジに転じたりするのもお馴染だ。
     葡萄畑にはもう小さな実が生っている。「あれは梅だよな。」梨もある。果樹園の中に入ってしまったらしい。県道に入った辺りで、「あの辺の丘は不思議だな」とスナフキンが指差した。右手の方は、確かに平地にポコンと盛り上がったような形の丘になっている。「古墳かも知れないね。この辺りは古墳がかなりあった筈だから。」これは小金塚のところで確認しておいたことだ。
     姫は左手の細い山道のような未舗装の道に入っていく。「下見のとき、本当にこの道でいいのか不安でしたよ。」女性一人ではあまり歩きたくなさそうな道だ。所々泥濘を避けて歩かなければならない。ダンディは大丈夫だろうか。振り返るとチイさんがダンディの後ろについて、転んでも大丈夫なように構えている。
       「この札があって安心しました。」かなり歩いて、やっと人家が見えて来た頃、道端の木の標柱に、大山街道の案内札が貼ってあった。赤地に「大山街道」と書き、下の部分には長い木刀を担ぐ男が描かれているお馴染みのものだ。この札をよく見かけたのは川崎辺を歩いていた頃だから、なんだか懐かしい気分になってくる。「もっと手前に貼ればいいじゃないか」とスナフキンが言う。この道に入る所に貼っておいてくれれば不安に思うこともない。
     ここは峰岸団地だ。随分不便なところに団地を造ったものだ。最寄り駅は伊勢原だろうが、車かバスを利用しなければならないし、商店らしいものの影も見えない。運転の出来ない人は住んではいけない。
     「あれが東名の防音壁ですよ」と桃太郎が注意を促す。前方を東名高速が横切っている。「防音と言っても音は聞こえますね。」オサムが変なことを言う。「そりゃ、多少はしますよ。」
     東名高速を潜ったすぐ左手に「東〆引の道標」と呼ばれる双体道祖神が建っている。かなり古いもので、舟形石の表面右側の男の像は割合くっきり残っているが、左に寄り添う女像はかなり磨滅している。台石には「右 いゝやまみち 左 ひなたみち 七五三引村 明和九年(一七七二)」とある。「ひなたみち」は日向薬師、「いゝやまみち」は飯山権現へ至る道である。
     かつては「七五三辻」と呼ばれた地点で、現在の住所表示では伊勢原市上糟屋六八〇番地一になる。七五三と書いて「〆」と読むのはなかなか難しい。その理由を『大辞林』で調べてみる。

    しめなわ【(注連)縄/標縄/(七五三)縄】
    境界を示し出入りを禁止することを示すために張りまわす縄。特に、神事において神聖な場所を画するために用いたり、また新年に門口に魔除けのために張ったりする。わら縄を左縒りにない、わらの尻を三・五・七筋と順にはみ出させて垂らし、間に紙の四手(しで)を下げる。しめ。

     道祖神の両側には、例のごろ石を四段に積み上げた多重塔道祖神(と仮にしておく)が置かれている。この辺の道路際にはホタルブクロがずいぶん目につく。「ここにもあった。多いですね。」「白いのや紫っぽいのや、いろいろあるね。」一度にこんなにホタルブクロを見るのは珍しい。「この辺の流行りでしょうか」と姫も笑う。
     泥濘道を抜け出たところに、「三所石橋造立供養塔」が建つ。供養塔といっても単に細長い石の柱だ。三所とは千石堰用水に架かる三つの石橋で、この台久保、石倉、川上にかかっていたという。目の前の小川に架けた橋では大したものとは思えないし、そんなものを供養するという意味がよく分からない。
     脇に木の標柱が建っていて、左石倉、右大山とある。大山はもうすぐだ。道路脇を流れる細い用水路は三面コンクリートで固められているのが惜しい。やや上り加減の道を行くと、所々で、用水の中に段差が設けられて、そこだけ大きく飛沫を上げて川が流れている。「ここで発電できるんじゃないでしょうかね」なんて、オサムちゃんと中将が笑いあっている。
     その用水路の中にカーブミラーが立っているのがおかしい。道路に建てられないほど道が狭いということか。
     交差点を右折するとすぐ左が洞昌院だ。曹洞宗、蟠龍山と号す。伊勢原市糟屋一一六〇。ここに太田道灌の墓があるのだ。奥に入っていくと、自然石の碑があった。私の眼では「太田」の文字しか判読できないが、これは自害石とよばれているものらしい。

     いそがずばぬれざらましを旅人の後より晴るゝ野路のむら雨

     詠み人不詳の歌で、一説に道灌が山吹の歌への返歌として詠んだとも伝えられる。道灌の解説には必ず山吹の花のことを書かなければいけないらしい。それを見て「山吹の里はどこにあったんでしょうか」と桃太郎が首を捻る。越生に「山吹の里」があり、早稲田の面影橋の袂にも山吹伝説を記していた。あるいはどちらでもなく、実際にはそんな出来事はなかったに違いない。そもそも、歌道に明るかった道灌である、いくら若年のころとは言え、山吹の暗喩が分からなかった筈はない。宗匠の案内で大久保周辺を歩いた時(第六回)、西向天神隣の大聖院に女主人公「紅皿」の碑を見たのも思い出した。
     この解説を書いた洞昌院二十七代当主安達久雄氏も、山吹のエピソードは史実ではないと断定しているようだ。

      ・・・・道灌の非業の死をいたんで、花が咲いても実とならぬ山吹をえらんで、道灌への思慕の情を託したものであろうか。

     句碑の前でチイさんが首を捻っているので、取り敢えず文字だけは読んでみた。「さ」の変体仮名が読み難かったが何とか読めた。

      雲もなほさだめある世のしぐれ哉  心敬

     チイさんは「意味が分からない」と悩んでしまう。それでは解読を試みようか。空を流れる雲にさえ定め(運命)というものがある。それがこの世というものであり、抗うことはできないのだな。時雨の中で道灌に思いを馳せていると、あの謀殺もやはり運命であったと諦めるしかないのかという気持ちになってくる。それにしても口惜しいことであった。解説に「生前交遊深かった太田道灌公」とあるので、こんな風に読んでみた。

    京都十住心院の心敬僧都は応永十三年紀州に生まれ、東福寺の正徹に和歌を学び、当代第一流の連歌師であった。応仁元年の春関東に下向したが、間もなく起った応仁の大乱のため、再び京都の地を踏むことなく関東を流浪し相模大山の麓に幽居し、文明七年四月十二日没した。享年七十歳。心敬の文脈はその弟子宗祇を経て芭蕉に受け継がれる。生前交遊深かった太田道灌公の暮域にその業績をしのび、五百回忌を記念して句碑を建立した。揮毫は川戸飛鴻氏にお願いし、大津清氏の心からなる協力を得た。
     昭和四十八年四月吉辰
    洞昌院現住 大逸 謹誌

     しかし私のこんな読みは全くの誤読であった。心敬は道灌より十一年も早く死んでいるのだから、こんな感慨を抱く訳がない。大山に隠棲して、ついに都に帰ることを得なかった心敬の心の鬱屈を表現したものと思えば、帰りたくても帰れないわが身の上を運命と諦めたということであろう。
     そして正しくは「雲も」ではなく「雲は」のようで、この句には本歌がある。二条院讃岐「世にふるはくるしき物をまきのやに やすくも過ぐる初時雨哉」。定家に傾倒した正徹から心敬、宗祇と続けば、新古今の流れを汲む中世日本文学史の大きな一本の筋になる。和歌、連歌、俳諧に至るまで、日本文学史は藤原定家の圧倒的な影響下にあったのである。
     正式な墓は、玉垣を巡らし屋根つきの祠に安置する宝篋印塔の方だ。北条早雲が建立したと伝えられる。祠の両脇を守っていた筈の大木は地面から四五十センチ程の高さで枯れてしまって、頭に円錐形のトタン屋根を被せてある。ゆっくり見ておきたいところなのに、尾籠で恐縮だが便意を催してしまいトイレに急ぐ。
     道灌謀殺の原因は山内顕定と扇谷定正との上杉氏内部の対立であった。山内顕定にとっては、扇谷の隆盛は偏に道灌の力に因るのであり、なんとか抹殺したい。一方で扇谷定正にとっては、家臣の道灌の力が大きくなり過ぎたことが疑心暗鬼を抱かせた。
     講釈師がいないから、たまには講談調にやってみるか。と言っても私が出来る訳ではない。田中優子監修『江戸の懐古』からの引用だ。

       道灌櫛風沐雨の苦を冒して、東戦西伐の労を事とすること数年、武相まず服し、両総また定まる。これより道灌の威風、大いに振るうとともに扇谷上杉の勢力、とみに加わりて、その声望遠く山内上杉の上にあり。 
     顕定は小人なり、匹夫なり、庶族たる定正の勢威、我が右に出ずるを見て、その胸中自から媢嫉の念なきこと能わず。
     両雄ならび立たずとは、道灌のつとに予言せるところ、今やようやく事実となりて、顕れ来らんとする。道灌の炯眼、早くもこれを看破し、文明十八年(一四八六)、江戸、川越の両城を修す、その意もとより顕定に備えんと欲するにあり。
     顕定、道灌のつねに先手に出ずるを見て、心に怖るるところあり、道灌を斃すにあらずんば、扇谷を制すること能わざるを知り、道灌の両城を修するを奇貨とし、定正の侍臣に結びて、道灌の叛意あることを讒す。

     定正は事実糾明のために道灌を糟屋の館に呼び寄せる。ここでもまた顕定の謀略が功を奏した。

    「彼の逆意、今は疑うべからず、またなんの糾明にかおよばん、疾く成敗せよや。」
     と罵り、道灌誅戮のこと、たちまち決す、されども道灌は智勇の士、迂闊に手を下すべからず。
     まず道灌を召して、酒を強い、浴を勧め、その浴室より出ずるところを曽我兵庫突然白刃を揮うて躍り出で、一刀サッと突き貫く、道灌一声、
     「ウーム、当家滅亡」
     と叫んで、呼吸たちまち絶ゆ、享年五十有五、屍骸は秋山洞昌院に葬り、謚して大慈寺殿心円道灌と曰う。

     「当家滅亡」とは、自分が死んだら扇谷上杉は滅ぶというのである。この筋書きでは定正というのは暗愚としか思えないが、人格はともかく武将としての能力はあったと評価もされている。この後、古河公方を巻き込んで山内・扇谷両家の抗争は続き、最終的には北条氏の台頭によって両家共に滅んでいく。
     一説に、道灌は糟屋館からここまで逃げてきたと言われている。しかし山門の扉が閉ざされていたため逃げきれず、ここで止めを刺された。この事件以後、この寺では山門の扉を閉ざさないことになったと言うのである。
     「あの紫陽花が綺麗ですよ。」ダンディが指差したのは真っ青な紫陽花だ。確かに美しい。今日はあちこちで紫陽花を見た。真っ白な花もなかなか良かった。寺を出るときに姫が後ろを振り返った。「そこの赤い花がザクロです。知ってますよね。」姫はそう言うが私は知らない。桃太郎もスナフキンも知らなかった。私はボケ(木瓜)だろうかなんて思っていたのだから実に無学だ。なんとなく花の形が似ていませんか。
     「紅一点の語源になった花ですよ。」オット、それは重要な指摘ではないか。「万緑叢中紅一点」だから、私はてっきり草原の風景をイメージしていた。緑一色の草原に真っ赤な花を見つけたのである。私は五十年間も全く違うように信じていたのだろうか。試しにウィキペディアで「紅一点」を引いてみた。

    「万緑叢中紅一点」の略。中国の王安石が作った詞にある言葉で、「緑の草むらの中に一つだけ赤いザクロが咲いている」ということを指していた

     なるほど確かに柘榴のことらしい。しかし、「緑の草むらの中に一つだけ赤いザクロが咲いている」というのは何となく気にかかる。柘榴は樹木である。草原に一本だけ柘榴の木が立っているのだろうか。
     デジタル大辞泉にも「王安石『詠柘榴』の『万緑叢中紅一点』から」とあるので、信じるしかないか。納得した積りで念のために原典を確認してみたいと思って調べてみると、ややこしいことになった。実は原典は確認されていないらしいのだ。

    中国の「書言故事 花木篇」にそのような記述があることから流布しているようだが、これは王安石の作ではないという説もあり、原詩も確認されていない。「紅一点」の出典とされる詩句にも、「万緑叢中紅一点」「濃緑万枝紅一点」「万緑枝頭紅一点」の三種あり。
    王安石の詩では、「濃緑万枝紅一点 動人春色不須多」という一説を含む詩文が確認できる。なお、この詩は「全宋詩」(埼大図ほか)に収録されており、《全宋詩検索系統》のWebサイトでも全文を見ることができる。(レファレンス共同データベース・埼玉県立久喜図書館の調査)
    http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000026819

     王安石は「万緑叢中紅一点」とは書いていないということだ。「濃緑万枝紅一点」なら林の中であろう。そこに柘榴があっても問題ない。新緑の林の中に柘榴の木があり、その中でたった一輪の赤い花が咲いたということだ。「動人春色不須多」は人を動かすのに春めいたものは多く要らない、たった一つで充分だということではないか。初めて開いた一輪の赤い花、それが春の訪れを告げたと考えたい。飽くまでも柘榴のことであるとすれば、こう考えるしかないのではないか。それが何故「万緑叢中」と言い換えられたのだろう。謎である。あるいは「叢」に林の意味があるのかどうか。
     境内を出てバス停の時刻表示を見ると、昼間の時間は二三時間に一本しかないようだ。まさかこのバスに乗るのではないだろうね。
     街道に戻ると、山王原公民館の隣が七人塚になっている。伊勢原市上粕屋一三四五。道灌の家臣七人を祀った塚であり、公民館の筋向いの山口家が道灌の家臣の末裔と伝えられている。

     一四八六年(文明一八年)糟屋の上杉館で、太田道灌が上杉定正のだまし討ちに会って非業の最期を遂げたとき、九人の家臣が道灌の首をもって洞昌院へ駆けこみました。上杉勢が道灌の首を取り返しに来たけれども、九人は断固として拒否し、そこで腹を切ろうとしました。そのとき、道灌遭難の一部始終を後世に伝えるために、二人の家臣は生き残ることになりました。その二人の家臣の一人の子孫が山口義幸氏であり、もう一人の家臣の子孫も山口氏です。両家とも「七人塚」の近くに住み、代々「七人塚」の墓守をしてきました。(http://blog.doukan.jp/article/54451042.htmlより)

     しかし古墳ではないかという説もある。道灌を謀殺するとき、家臣を逃がす筈がないと思うのが自然だろう。公民館との境に建つ地蔵の頭が、なんだか卵を横にしたような形でおかしい。「後でつけたんじゃないか。」触ってみるとそうらしい。頭が落ちてしまって、こんなノッペラボウの石をくっつけたに違いない。
     右手には産業能率大学のキャンパスが広がっているのが見える。先にも触れたように、上杉館跡の候補地のひとつだ。余計なことだが、産能大のこのキャンパスを「湘南キャンパス」と称するのは如何なものであろう。

     昭和四〇年代後半に産業能率大学建設に伴い発掘調査が行われ、大溝や敷石などの遺構と中国製の陶磁器が出土したことにより、道灌の主君上杉定正の館跡として考えられています。しかし、堀跡と考えられている場所は自然地形の川の跡であり、また下糟屋の丸山城で大規模な堀跡、土塁などが見つかっていることから謎が深まっています。(「平成一九年度文化財ウォーク」
     http://www.city.isehara.kanagawa.jp/bunkazai/joho/h19_jigyou/PDF/doukanwalkS.pdf)

     また、「いせはら文化財サイト」によれば、こうである。

    なお、『伊勢原市史 通史編 先史・古代・中世』では、「道灌殺害時より、少し時代の下った戦国期には、上粕屋一帯は「秋山郷」と呼ばれており、「糟屋」の地名で呼ばれたのは、下糟屋地域一帯に過ぎなかった」と記述されています。
    http://www.city.isehara.kanagawa.jp/bunkazai/shitei/shi_shitei/uesugiyakata.html

     これは、産業能率大学ある辺りは糟屋とは呼ばれていなかったということだろう。上杉館は糟屋館とも呼ばれたのだから、糟屋を名乗れないこの場所を上杉館とするのは無理があるのではなかろうか。
     ビヨウヤナギが咲いている。「これはなんですか」と桃太郎が訊くのが不思議だ。もう何度も見ているじゃないか。「蜻蛉さんの好きな花だものね。」長い雄蕊の先に水滴がたまっている。

     白玉や蕊に溢るる美央柳  蜻蛉

     「入りますか。」神社があるからには勿論入ってみなければならない。上粕屋神社。伊勢原市上粕屋一三三四。

    上粕屋神社由緒
    本神社の勧請年月日は詳らかではないが、大同弘仁の頃近江の国の日吉神を当所に移し勧請したと伝える。風土記によれば、天平年中に僧良弁の勧請なりと言う。 元禄四年辛未社殿を再建し、山王権現と称した。

     特に何ということもない神社だった。これが山王権現なので、この辺りの地名が山王なのだろう。祭神はやたらに多い。大山咋神、大穴牟遅神、若山咋命、伊弉諾命、速玉男命、事解男命、伊弉冊命、菊理比売命、泉道守命、日本武尊、天穂日命、大己貴命、少彦名命、事代主命、三穂津姫命と並んでいる。
     大山咋神は比叡山の地主神であり、大穴牟遅神は本来三輪山の神で比叡山に勧請したものだ。山王権現を名乗れなくなったのは、毎度お馴染み廃仏毀釈のためである。
     神社を出ると、細い用水路の脇に石造物が三つ並んでいる。右にあるのは「上大山道」と読めた。傍らに「大山道と仙石堰用水路」という説明板が立っている。これによれば、右側面には「下り 戸田道 厚木道」、左側面には「寛政十一年未年六月 當村念仏講中」、裏面に「右田村道 左むら道」とあるらしい。三つ並ぶ石仏の真中は享保六年の青面金剛と三猿の庚申塔、左が「道祖神」である。
     畑の端にも文字庚申塔が建っている。「奉造立庚申供養」と読める。説明板を読めば正徳四年のもので、道標にもなっているようだ。小町が大きく溜息をついている。疲れたのだろうか。畑の脇には昔懐かしいような小川が流れる。ピンクの紫陽花もなかなか綺麗だ。
     「あれが大山ですよ。」雲に霞んでいるが、ずいぶん近くなった。いよいよ次回はあそこに登るのだ。

     しとしとと 降りしきる雨 大山へ 傘一列の 旅人たちと  千意

     石倉橋のバス亭に着くとちょうどバスがやってきた。「疲れてしまった人もいるようですから、これに乗ります。」当初の計画では石倉神社、比々多神社(子易明神)にも行く筈で、ちょっと惜しかったが仕方がない。
     「これでどの位歩きましたか。」オサムの質問に、「七八キロですね」と姫が答えている。次回は十月になるが、いよいよ最終回となって頂上まで登るのである。宿坊での宴会が待っている。

     二十分程で伊勢原駅に着いた。取り敢えず昼に保留していたエシャロットが配られた。ジャンケンをするまでもなく、ダンディが一番に手を伸ばし、女性二人に分けると残りはひとつだ。それなら一人淋しい桃太郎に進呈するのが順当だ。
     まだ二時前だ。さてどうする。中将小町夫妻は小田原に出て湘南新宿ラインを利用すると行って逆方向に別れていった。「本厚木に二十四時間営業のお店がありましたよね。」前回四月に桃太郎が連れて行ってくれた磯丸水産のことだ。
     まだ酒を飲んではいけないダンディと別れて、六人が本厚木で電車を降りる。スナフキンが駅ビルの中に入るのについて行くと「さくら水産」があった。「あるじゃないの。」しかし、ちょうどランチタイムが二時に終わったところで、夜の部は四時まで待たねばならない。それでは仕方がないね。
     スナフキンが先に立って駅を出る。「方向が逆じゃないですか」と桃太郎が心配したが、すぐに磯丸水産があった。駅の南北に同じ店があり、前回入ったのは別の店であった。時刻は二時をちょっと過ぎたところで、五時まではランチタイムで安いのである。
     取り敢えずのビールで乾杯したところで、チイさんが歌手デビューの顛末を報告する。ずいぶん立派なパンフレットに、ちゃんと名前が印刷されているのがエライ。「どこに。」「アッ、これだな。曲名ですぐ分かった。」チイさんは六百人の観衆を前にして「五番街のマリー」を歌った。「頭が真っ白になっちゃって」と言うけれど、こんなものは経験を積めばよいのである。すぐに慣れる。
     「こんな雨の日にホントに歩くのかって、女房に不思議がられましたよ。」初参加のオサムは笑う。普通の人たちはあまり雨の中は歩かないだろう。しかし雨で中止するなら大山街道はほとんど歩けない。雨天「結構」は姫の基本方針である。
     テーブルの両端に網を載せたガスコンロが置いてあるのは、焼き物をするのだな。ホルモンなんかもあるかも知れない。今日は桃太郎がいるから注文は彼に任せておけば面倒がない。最初にイカとトウモロコシが出てきた。「エッ、ここで焼くの。みんな知ってたんですか。」知らなかったのは姫だけである。「今朝の獲れ立てです。」
     イカが焼き上がりそうになったところで、女の子が挟みでリング状に切ってくれる。「上手ですね。」姫に褒められて、「わたし、まだ二回目なんです」と応えるのがおかしい。「難しそうだね、滑るんじゃないか」と私が言った途端に滑った。「あと二三分で食べ頃です。」
     アスパラガスもシイタケも長芋も焼く。長芋を焼いて食うのは初めての経験だ。それにしても暑い。「お湯割りを飲んでるしね。」オサムはウーロンハイ一本槍だ。
     姫は久しぶりにアルコールを口にするようで、結構酔っている。ランチタイムのお陰で生ビール中ジョッキ一杯二百七十円である。姫は三杯飲んだ。「アレッ、口が回らない」なんて少し滑舌もおかしくなってきた。私たちは焼酎にするが、ボトルはないから一杯ずつ頼むのが面倒だ。「でも自分で作らなくてもいいからね。」
     鍋奉行ならぬ網焼き奉行がいないから、すぐに黒焦げになってしまって忙しい。厚揚げは網にくっついて、そこに火が昇ってくる。「早く食ってガスを止めようぜ。」今の季節には余り向かないのではないだろうか。
     一人二千六百円也はランチタイムのお陰である。四時過ぎに店を出ると雨は止んでいた。「まだ早いですから、みなさんもう一軒行って下さい。私は帰りますが。」姫は明日の協会イベントの準備をしなければならないらしい。しかし昨夜は午前様だったスナフキンも、飲むのは三連続だというオサムも、なんだか疲れているようなチイさんも何も言わないから、このまま粛々と帰ることになる。
     但し桃太郎は酔った勢いで浅草の「金太郎」を目指す。「当然今日は泊まりだね。」「ちゃんと帰って来ますよ。」まず無理だろう。

     次回(第四十一回)江戸歩きは七月十四日、桃太郎企画の「神田川編第二部」である。

    蜻蛉