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    番外  谷・根・千散策 ~「青」の時代を歩く~
    平成二十七年八月八日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2015.08.16

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     昨日まで都心では八日間連続で猛暑日を記録した。埼玉県の記録は調べていないが同じようなものだろう。毎年感じることながら、特にこの夏は異常に暑く感じられる。しかし予報ではそれも今日からは少し落ち着くようになっている。旧暦六月二十四日。立秋に入った。涼風至。戦争を思う時季である。
     今回もあんみつ姫が企画してくれた。鶯谷駅北口には十一人が集まった。あんみつ姫、ハイジ、マリー、ヨッシー、ダンディ、ドクトル、マリオ、スナフキン、ロダン、桃太郎、蜻蛉である。「二三人かと思ってました。大勢来てくれて有難うございます。」二三人はないとしても、私も精々七八人だろうかと予想していた。いつも一番早く来ている講釈師の姿が見えないのは、入院しているためだとダンディから報告された。異常な暑さである。高齢者には特に注意してもらわなければならない。
     「面白いシャツね。」姫のシャツは中村不折の「吾輩は猫である」の挿絵やロゴを飾ったものである。桃太郎の両手の甲の上は、酷い火傷をしたように皮がめくれている。「山で日焼けしたのかい?」六白七日で北アルプスを縦走した痕跡であった。「三日目からは手袋をしたんだけど、最初はしてなかったから。」その足元はサンダル履きだ。
     足りない資料をコピーするために、ロダンが目の前のローソンに入ったがなかなか出て来ない。「どうしたのかしら。私だったら諦めちゃいますよ。」マリオが偵察に行き、もう少しらしいと報告してくれたが、それからまた暫くしてやっとロダンが戻って来た。「両面印刷が難しいんですよ。」「ゼロックスなら簡単なんだけど、ローソンには入ってないんだ。」桃太郎によれば、セブンイレブンはゼロックスのコピー機を入れているらしい。
     昨日までとは変わって、薄曇りの空で気温もそれほどきつくない。この近辺は何度も歩いているが、あんみつ姫はまた新しく、行きそびれていた場所を探し出してコースを組んでくれたのが有難い。それにしてもタイトルに書かれた「青」の時代とはなんであるか、姫の言葉を採録しておく。

    谷中・根津・千駄木では、文学にあるいは絵画、俳諧などの芸術に青雲を抱いた多くの人たちが青春を過ごしました。その中には、夢の半ばで青山へ去った人たちもいます。谷中墓地のそうした「青山」です。またこの地は「青鞜」発祥の地でもあります、そこで、谷中・根津・千駄木に点在する「青」を見つけながら散策したいと思います。

     「青春」、「青山」、「青鞜」であったか。間違う人はいないだろうが、「青山」は勿論セイザンと読む。「男児志を立てて郷関を出ず、学若し成る無くんば復還らず、骨を埋むる何ぞ墳墓の地を期せん、人間到る処青山あり」であるが、私は「骨を埋むる豈墳墓の地のみならんや」と間違えて覚えていた。こうして時々は確認しないと恥をかく。
     森田健作の登場以来、「青春」という言葉はパロディとしてしか使えなくなったというのが私の認識で、三浦雅士『青春の終焉』は、既に一九七〇年代に「青春」は死滅したのだと言う。死滅してしまったとなれば聊か不憫でもあり、時には思い出してやりたくもなる。
     「谷・根・千」とは言いながら、最初は根岸から始まる。江戸以来、根岸は別荘、隠居所、妾宅などを建てるに似合いのところで、田畑の所々に雑木林が点在する地域だったろう。季語に何を選んでも「根岸の里の侘び住まい」と付ければ俳句になるという笑い話があった。入船亭扇橋が大正四年に柳家小せんの席で「梅が香や根岸の里の侘住居」と詠んで以来だという。
     言問通りを渡り、元禄四年創業の「笹の雪」の角を曲がる。講釈師からはここで昼にしようと提案がでていたのだが、最低でも二千五百円するのでは私たちのランチにはならない。「豆腐ばっかりだから飽きちゃうわよね。」「前にここで飲んだのはいつだったかな?」「大雨の寒い日だったよ。」第三回「谷中編」(平成十八年一月)を歩いた時である。「あの時は安かったですよね。」十年近く前のことだが、コースを頼まなければそんなに高くはなかった。あの時は気付かなかったが、店頭に子規句碑があった。

    水無月や根岸涼しき篠の雪  子規
    蕣に朝商ひす篠の雪  同

     「蕣」は朝顔である。「この辺は朝顔市も近いですね、毎年買いますよ」とヨッシーが言う。入谷の朝顔市は先月終わったか。「一鉢いくらぐらいですか?」「今だと二千円から二千五百円くらいかな。」
     竹台高校前の信号から斜め左に入ると根岸三平堂だ。台東区根岸二丁目十番地十二。初代三平の自宅である。「こぶ平が正蔵だもんな。」私たちは正蔵という大名跡とこぶ平とが、まだうまく結びつかない。「今日は寄りません。」開場が十一時、入館料が六百円必要なので、私はまだ入ったことがない。「子供の頃、三平が走ってるのを見たよ。」この辺りはスナフキンが育った地域だ。三平は、勿論父親の方である。
     狭い路地の先にあるのが根岸薬師寺だ。台東区根岸二丁目十九番地十。寺というより民家のような小さな建物だが、ここは輪王寺宮一品法親王の別邸「御隠殿」の跡である。今更言うまでもないが、寛永寺の一帯は上野戦争で殆ど焼失している。

     御隠殿の創建年代は明らかではないが、幕府編纂の絵図「御府内沿革図書」には、宝暦三年(一七五三)七月に「百姓地四反一畝」を買い上げ、「御隠殿前芝地」としたという記述があり、同年までには建造されていたようである。
     敷地はおよそ三千数百坪、入谷田圃の展望と老松の松の林に包まれた池をもつ優雅な庭園で、ことにここから眺める月は美しかったと言われている。
     輪王寺宮は一年の内九ヶ月は上野に常駐していたので、その時は寛永寺本坊(現、東京国立博物館内)で公務に就き、この御隠殿は休息の場として利用した。(台東区教育委員会案内より)

     「一品って何ですか?」臣下や諸王には正一位から始まる位階がある。そして親王に限って、「位」ではなく一品(イッポン)から四品までの位階が授けられたのである。「皇太子ですね?」「そうじゃないよ。」「アッ、秋篠宮のような立場ですね。」
     江戸時代には天皇の直系四世孫までと、四親王家の当主を親王とし、皇位の継承を担保したのである。四親王家とは伏見宮、有栖川宮、桂宮(現在の桂宮家とは無関係)、閑院宮であり、代々の当主である王が、天皇の猶子となって親王宣下を受けたのである。幕末最後の輪王寺宮は伏見宮邦家親王の第九子であるが、仁孝天皇の猶子となって親王宣下を受けた。直系男子だけで家を存続させるのが無理なことはハナから分かっていたのである。戦後の皇室典範の改正は、おそらく皇室の自然消滅を期待したものだろう。
     輪王寺宮一品法親王は日光山輪王寺門跡であり、東叡山寛永寺貫主であり、比叡山延暦寺天台座主である。最後の輪王寺宮は、奥羽越列藩同盟に擁立されて東武皇帝として即位したという説がある。真偽は定かではないが、交戦国として列強に認めてもらうため、独立する動きがあったのは間違いない。時代に翻弄された悲劇の親王の姿は、北の丸公園内旧近衛師団司令部前に北白川宮能久親王として騎馬姿を見ることができる。
     路地を回って、子規庵の斜向かいにある台東区立書道博物館に入る。台東区根岸二丁目十番地四。中村不折の居宅跡であり、不折が収集した甲骨文、青銅器、石経、墓誌、拓本、法帖などを収めた博物館である。入館料五百円。子規庵は十時半にならないと開かないので、時間つなぎである。入らない人は子規庵の前で待ってもらうことになった。
     記念館の二階が展示フロアになっていて、高校生らしい数人がメモを取りながら見学しているのは、部活で書道をやっている連中だろうか。甲骨文字や拓本は、私にとっては猫に小判である。全く分からないのだ。王羲之はきれいな文字だなと思う程度だからしようがない。新宿中村屋のロゴ、清酒「眞澄」の文字が不折だなんて初めて知った。「『ホトトギス』の表紙ですよ。」
     一通り見て一階に戻り、本館に入って驚いた。銅鏡、銅矛、仏像、板碑など、個人のコレクションのレベルをはるかに超えている。「中国から返せって言われるんじゃないか。」何度も通っているのに入るのは初めてだったが、実に驚くべき博物館だ。時間つなぎに入る所ではない。
     私は不折について殆ど無知であった。中村不折は画家であり書家である。慶応二年の生まれだから子規の一歳年上にあたる。明治二十七年(一八九四)極貧の時代に子規と出会い、「小日本」の挿絵担当に採用された。陸羯南の友人である浅井忠の紹介である。もともとは画家であるが、書家になったのは、子規とともに日清戦争に従軍して中国の書に興味を持ったのがきっかけだったらしい。

     子規と不折との出逢いは、不折に世に出る機会を与えたが、子規にとっても大きな出逢いとなった。これ以降不折の作品を何度となく目にすることで子規はその後の創作の概念を新たにしていった。
     「写生」の確立に向いはじめたのである。(中略)
     不折は応えた。
     「あるものを見たままに描くのでは写生になりません。見た時の感想、たとえば綺麗な花だと思ったこころを描くのが写生です。」
     子規はそれまでおぼろにしかわかっていなかった「写生」の本質を、この青年画家との会話から見出した。(伊集院静『ノボさん』)

     そして子規庵に入る前に、姫は周辺に住んだ文人たちの家の位置を地図で示してくれる。隣には子規にとっては恩人の陸羯南が住んでいた。というより、陸羯南が子規をここに住まわせたのである。「なんて読むんですか?」クガカツナンと読む。本名は実。弘前の人である。『日本新聞』を刊行し、子規に短歌欄と俳句欄を任せた。『病牀六尺』も『日本』に連載されたものだ。
     羯南は、加藤恒忠(子規の叔父)、原敬と司法省法学校の同級生で、学校当局の方針に反対して十五六人が連盟退学した仲間である。子規はその恒忠の紹介で羯南の知遇を得た。そして羯南は子規が動けなくなっても月給を支給し、公私に渡って面倒を見た。また子規没後、律は恒忠の三男忠三郎を養子として正岡家を継がせることになる。忠三郎については司馬遼太郎がいくつか文を書いている。
     羯南の没後、加藤恒忠が「東京朝日新聞」に書いた追悼文を、森銑三「陸羯南遺文」(『明治人物閑話』所収)が紹介している。加藤恒忠は外交官としてベルギー公使などを務めた人である。

     「一昨年白耳義へ手紙をよこして、自分は肺病になつたから、もう永くないと信ずる。生前に今一度逢うて、馬鹿話 がしたいと書いてあつた。幸ひに僕は先般帰朝して、生前度々逢ふことは出来たが、もう其頃は、陸はべたりと枕に就いてゐて、余り馬鹿話は出来なかつた。」
     「当時ぼくらの放逐仲間は、皆乱書生で、勉強は少しもせず、成績は悪い上に犯則は度々やつてゐるのだから、退校せらるるは無理もないのだ。然るに原、陸両人は、行状もよし、勉強はする、成績はよい。他人のために男の意地を張り、僕等と同一の処分を受けたのだから、他の学生はこれを気の毒がり、中には復校を運動した連中もあつたが、肝心の両人は、毫も未練を残さなかった。その時陸が僕にいうたことを、今に記憶してゐる。原は翩々たる才子にあらずとは思うてゐたが、かくまで正義を重んずる人とは知らなかつたと。」
     「平生、友誼に厚かりしことは、誰も知つてゐるが、僕の甥の正岡子規なども、僕が始めて西洋に行く時、一言頼んでおいたのを忘れず、十数年の間、骨肉も出来ぬ世話をしてくれた。」

     子規の跡を争った高浜虚子と河東碧梧桐も当然のことながら近くに住んだ。「虚子が住んだのは芋坂の羽二重団子の近くです。」「河東碧梧桐って何て読むんですか。」スナフキンと姫を除けば、碧梧桐のことは余り知られていないようだ。カワヒガシヘキゴトウと読む。「本名は秉五郎(ヘイゴロウ)、虚子の本名は清(キヨシ)だよ。」「なるほど、キヨシで虚子ね」とマリオが笑う。
     松山時代から子規の弟分であり、虚子とともに第二高等学校を中退して上京し、やがて子規門の双璧となる。子規没後、『日本新聞』の俳句欄を引き継いだのが碧梧桐で、『ホトトギス』の経営を継いだのが虚子である。碧梧桐が子規の六歳下、虚子が七歳下になる。
     しかしやがて二人の道は二つに分かれる。碧梧桐は求道の人であり、荻原井泉水とともに自由律や無季俳句など新傾向の運動に傾き、虚子と対立するのである。その運動の影響下に尾崎放哉や種田山頭火が生まれてくる。

    赤い椿白い椿と落ちにけり     碧梧桐
    この道に寄る外はなき枯野哉    同
    木枯や谷中の道を塔の下      同
    空をはさむ蟹死にをるや峰の雲   同
    ことしの菊の玉砕の部屋中     同
    鴨むしる肌あらはるゝ       同
    曳かれる牛が辻でずっと見廻した秋空だ  同

     最初の方はまだよいが、次第に五七五の韻律さえ無視していく。俳句を近代的な詩として再生しようとする自由律や無季句の運動は、その後も何度か生まれては消える。山本健吉の『定本現代俳句』には、碧梧桐も井泉水もその他、新傾向の俳人はひとりも採用されない。思想が違うのである。健吉にとって、俳句は詩情を盛る器ではない。そして現代俳句批評の骨格を作ったのは健吉だから、碧梧桐の名が忘れられていくのは仕方がないか。
     しかし、時代はずれるが渡邊白泉のこんな句はどうだろうか。今読んでも、というより今だからこそ古くないのではないか。

    街燈は夜霧にぬれるためにある   白泉
    憲兵の前で滑つて転んぢやつた   同
    戦争が廊下の奥に立つてゐた    同
    銃後といふ不思議な町を丘で見た  同
    夏の海水兵ひとり紛失す      同

     入館料五百円。私は三度目になるだろうか。狭い家に入ってすぐに庭に出る。子規絶筆三句の碑は以前にも見ているが、やはり書いておくべきだろう。これによって子規の忌日は糸瓜忌と呼ばれる。

    おとゝひのへちまの水も取らざりき  子規
    糸瓜咲て痰のつまりし佛かな     同
    痰一斗糸瓜の水も間にあはず     同

     以前は気づかなかったが寒川鼠骨の句碑があった。鼠骨もやはり松山のひとで、碧梧桐に二つ、虚子に一つ年下になる。戦後、空襲で焼失した子規庵の復活のために努力した人物である。

     三段に雲南北す今朝の秋  鼠骨

     しかし子規庵を私物化するものだと、正岡忠三郎に訴えられる事件もあって、世間的には不遇であったろう。晩年は中風の身でこの子規庵でひとり暮した。俳人としては大成しなかったが、門下に柴田宵曲がいる。宵曲は書誌学に明るく校正に優れ、アルス社版の子規全集の校正をほぼ一人で担当した。また三田村鳶魚の口述筆記は、ほとんどこの宵曲によるという。森銑三とは終生の友人であった。私は森銑三を尊敬しているので、森が尊敬した宵曲も当然のことながら尊敬せずにはいられない。手元には『蕉門の人々』と、以前姫にもらった『明治風物誌』がある。

     花糸瓜 子規の机を そっと撫で  ハイジ

     ハイジの句は優しい。木の上には小さな鳥の巣箱が作られている。ノウゼンカズラの脇に、咲き遅れたビヨウヤナギも残っている。二週間前にもビヨウヤナギを一緒に見たハイジが「咲遅れよね」と笑っている。

     未央柳未練残すや子規の庭  蜻蛉

     庭の外には「異形の美・変化朝顔」限定発売中として、朝顔が一鉢二千五百円で売られている。「高いじゃないか、精々千五百円だろう。」「葉っぱが珍しい。」朝顔とは思えない細長い葉のものもある。売店から女性が出てきて、子規の似顔の金太郎飴をくれる。申し訳ないので中に入って、子規門下が集まった写真を見て、阿木津英『妹・律の視点から――子規との葛藤が意味するもの』を一冊買った。律のことは余り知らなかったので良い機会だった。この本によって律の生涯を追ってみる。
     律は明治三年に生まれたから、子規の三つ下である。因みに樋口一葉は五年の生まれだ。明治十八年(一八八五)に最初の結婚をしたが二年で離縁、明治二十二年(一八八九)に二度目の結婚をしたが一年で離婚していた。

     再婚生活は一年しか持ちませんが、これは司馬遼太郎が「わたしは兄の看病をする」といって戻ってきたと書いています。果たして本当かしらと思います。離婚したあと上京までに二年という間隔がありますし、そういうようなことを誰かが聞いていたとしても、それだけが理由で、律が婚家を出てきたとはとうてい思えません。(阿木津英)

     結婚も離婚も決定権は当人ではなく親・舅にある。封建的家族制度では親子兄妹さえ身分の上下関係になる。松山で育てられた律にとっては家長である子規は絶対の存在であった。これが阿木津の考えだ。つまり家長を守り、家を守ることこそが女の務めなのだ。これが十六歳違いの平塚らいてう等の新しい女との世代の差であった。
     二十五年(一八九二)、子規が日本新聞社入社を決め、母八重と律を東京に呼び寄せた。三十五年(一九〇二)九月十九日に子規が死ぬまで、律は子規に罵倒されながらも献身的に看病を続けた。

     律ハ理屈ヅメノ女ナリ。同感同情ノ無キ木石ノ如キ女ナリ。義務的ニ病人ヲ介抱スルコトハスレドモ同情的ニ病人ヲ慰ムルコトナシ。病人ノ命ズルコトハ何ニテモスレドモ婉曲ニ諷シタルコトナドハ少シモ分ラズ。例ヘバ「団子ガ食ヒタイナ」ト病人ハ連呼スレドモ彼ハソレヲ聞キナガラ何トモ感ゼヌナリ。病人ガクヒタイトイヘバ若シ同情ノアル者ナラバ直ニ買ウテ来テ食ハシムベシ。律ニ限ツテソンナコトハ曾テ無シ。故ニ若シ食ヒタイト思フトキハ「団子ヲ買ウテ来イ」ト直接ニ命令セザルベカラズ。直接ニ命令スレバ彼ハ決シテ此命令ニ違背スルコトナカルベシ。(『仰臥漫録』九月二十日)(「。」を補った)

     病人の我儘だが子規は無茶苦茶なことを言う。子規没後一年目、共立女子職業学校に入学して裁縫を習得して、卒業後教員となる。九年継続したところでいったん辞め、京都の裁縫師匠に入門して腕を磨き、再度共立の教員になった。退職の後は子規庵で裁縫の弟子をとりながら生計をたてた。八重は昭和二年に亡くなり、律は十六年五月二十四日に亡くなった。
     それにしても子規の周りには不思議に人が集まった。それは単なる友情と言うべきではなく、虚子も碧梧桐も鼠骨も、みな子規に対してホモセクシャルな感情を抱いていたのではないかというのが、阿木津英の意見だ。
     子規が最も愛したのは虚子である。その虚子が一時俳句を離れて小説に向ったことが碧梧桐には許せなかった。子規の思いを継いで俳句一筋に向うのは碧梧桐の志であるが、そこに虚子に対するジェラシーがなかったとは言えない。鼠骨もまた子規の愛を独占するために子規庵復活に生涯を賭けたとも言えるだろう。

     子規庵を出て直ぐ東には、八二神社という小さな神社が建っていた。台東区根岸二丁目十三番地。案内板によれば、明治五年(一八七二)、加賀藩前田家がここに移住してきたとき、八坂大神、稲荷大神、菅原大神を祭神として祀ったものである。ということはここに前田家の屋敷(隠居所?)があったのだ。「八は八坂の八か。それじゃ二は何だい。」「その他の二かな。」よく分からないが、当時の前田家(五千坪)の住所が上根岸八十二番地だったというので、その八二だとの説がある。子規庵も前田家所有の土地で、元家臣用に建てられた二軒長屋の一軒である。

     加賀様を大家に持つて梅の花  子規

     ピンクのサルスベリが咲いている。ここから先は路地の両側に小さなラブホテルが密集する地域だ。「こんなに需要があるってことだね。」マリオが感慨深げに呟いている。「女性が一人で歩くのは怖いわね。」

     女ひとり歩けぬ街や百日紅  蜻蛉

     尾竹橋通りを渡って、根岸小学校のグランド沿いに行く。「昔はグランドはもっと小さかったと思うんだ。」根岸小学校はスナフキンの母校である。「俺の時は一学年十クラスだったけど、今は二クラスしかないんだ。」どこでもそうだろう。秋田市立山王中学校はどうなっているかと調べてみると、生徒数が最大だったのは昭和三十八年の二六七九人で、平成二十五年には六一〇人になっている。
     「洋食屋さんですけど」と姫が入ったのはグリルビクトリアという洋食屋である。台東区根岸三丁目十二番地十八。十一時二十五分である。私たちが入ると、カウンター席を除いて一杯になってしまう。壁面にはこれでもかというほど、有名人の写真や色紙が飾られている。はっきり言って私には煩い。有名店なのだ。三平の色紙があるのは地元だから当たり前だ。「隣にあるのは?」「武蔵丸って書いてある。」鳩山邦夫も来ている。
     ここはハンバーグがお勧めのようだ。「昨日、うちでハンバーグを食べたからな」と口走る人には、「全然違うと思います」と店主が口を挟む。家庭のハンバーグと比べられてはプライドが許さないということだろう。私はハンバーグとチキンカツのランチ(千円)にした。「今月から年金が入るからちょっと贅沢しようかな。」桃太郎は千三百円のものにしたようだ。
     ダンディに講釈師から電話が入った。自分は入院中なのに、私たちの動向が気になるらしい。「今日だって覚えてるだけでも大したもんですよ。」「電話してくるんだから、もう大丈夫だね。」いればうるさいが、いなければ気になる人である。
     ビールは中瓶(六百円)しかないのだが、ドクトルが飲みたそうなので、私と半分に分けることにした。桃太郎はもちろん一人で一本飲む。向こうのテーブルではスナフキンと姫も一本を分け合っているようだ。出てきたハンバーグ自体は、ごく普通に思えたが、黒い独特なソースが自慢なのだろうか。
     「ランチにはコーヒーか紅茶がつきます。」そういうことは最初から言ってくれてもよいのではないか。「消費税は?」「サービスです。」この言い方がよく分からない。メニューに記載された金額は税込金額なのか、それとも本体価であるが税の部分は店が負担するということなのか。
     十二時二十分、それぞれ会計を済ませて外にでる。「あれ見てくださいよ。」向かいにある二階建て三軒長屋の左端の一軒には、「財団法人台東社会教育文化会館」の名が麗々しく掲げられていておかしい。閉じられたシャッターの前に自転車が一台停めてある。床屋、お好み焼きともんじゃ焼きの店が並び、お好み焼きの店の壁には「男はつらいよ・望郷編」のポスターが貼られている。時代が止ったようなこの一角である。
     狭い路地を歩きながら、姫は「おかしいですね」を連発する。陸奥宗光の屋敷跡が探せない。「地図だとここなんですけど。」それなら、だだっ広い場所をシートで覆って工事中であった。「そうですよね、あそこですよね。」根岸三丁目七番地十五。ネットで四年前の写真を見ると、二階建て洋館で、元は三井の所有であったらしい。
     「陸奥さんの奥さんは美人ですね。」「ソウソウ、ホントに美人。」ロダンも知っているのは陸奥亮子のことである。私たちは勿論写真でしか知らないのだが、眼の大きな、実にモダンな美女である。陸奥宗光については足尾鉱毒問題も含めて評価はいろいろあるが、鹿鳴館の華と謳われた亮子の美しさについては全く異議はない。
     言問通りに出て、華学園の脇から今度はJRの上を超えて鶯谷駅の南口に出る。「あそこの蕎麦屋が有名なんだ。」「私も食べたことがあるわ。」スナフキンだけでなく、ハイジもこの辺りは地元と言ってよいひとだ。「なんていう名前ですか?」公望荘とある。台東区上野桜木一丁目十六番地六十八。もう一枚の看板には「天下御免」の文字もある。
     忍岡中学校のところから右に曲がり、柵で仕切られた博物館の敷地を左にしながらブラブラ歩く。「昔は自由に入れたんだ。よく遊んだよ。」右側は徳川家の霊廟である。厳有院(家綱)霊廟勅額門がある。
     道路側の植え込みに、花弁の周囲が白い糸がほつれたようになっているのを見て、「今頃咲いているなんて珍しいわね」と姫やハイジが声を上げる。「夜に咲いて、朝は萎むんですよ。」「たくさん咲いてるのね。」カラスウリの花だ。

     烏瓜花は朝昼取り違へ  蜻蛉

     常憲院(綱吉)霊廟勅額門。外人が写真を撮っている。「どうして西洋人がいるんですかね?」「日本人が横浜の外人墓地を観光で見るのと同じじゃないか。」そして上野中学校の角を回り込んで、国際子ども図書館の前で立ち止まる。「ここが旧帝国図書館でした。」「今問題になってる安藤忠雄の設計なんだよ。」一葉や淡島寒月や幸田露伴が通った図書館は場所が違ったのではなかったろうか。
     その隣が黒田清輝の記念館だ。「入館無料ですからね。」「黒田セイキって政治家ですか、画家ですか?」勿論画家である。ロダンは黒田清隆と混同している。と思ったが、ウィキペデイァの「黒田清輝」には、洋画家・政治家としてある。黒田清輝が政治家だったなんて私は知らない。確認してみると、養父清綱の死によって子爵を継ぎ、貴族院議員となっている。これをもって「政治家」というべきだろうか。同じ薩摩出身だが、清隆と血縁はない。私は教科書にも載っていた「湖畔」と「読書」しか知らない。
     「あそこが京成の駅だったんだよね。」平成九年(一九九七)に営業停止になった京成電鉄博物館動物園駅である。「なんだか怖い駅だったわね。」
     上野桜木の交差点で言問通りを渡ると、「愛玉子」の看板が見えた。「オーギョーチは台湾語じゃないですか?中国語だとアイギョクシですよね」と姫が呟く。確かにそうらしい。愛玉子とは、台湾北部に自生するクワ科イチジク属の蔓性植物である、とウィキペディアには書いてある。こういうものには全く無学だから引用しておこう。

     愛玉子は植物の中でもとりわけペクチンの含有量が多いため、寒天などのように加熱することなく固まる珍しい特質がある。乾燥したひとつかみの種子を布袋に入れて水の中で十分程度揉んでいると、果実をくるむペクチン質の部分が溶け出て水を吸ったゲル状に膨潤し、弾力性が出てくる。それを二時間ほど放置すれば常温で寒天状の愛玉子ゼリー(オーギョーチ)ができる。用いる水に適度のカルシウムが含まれていなければ凝固しないため、蒸留水や軟水では作れない。また油分によっても凝固が妨げられる。通常は氷水や冷蔵庫で冷やして食べる。愛玉子ゼリーそのものには際立った味や強い甘みがなく、一般的にはレモンシロップなど甘みのあるシロップをかけて提供される。台湾の夏の風物詩で、屋台やデザート店、レストランなど幅広い場所で食べることが出来る。

     上野から谷中に入ったことになる。交番を過ぎてY字路の左が多宝院だ。真言宗智山派。江東区谷中六丁目二番地三十五。境内に入る植え込みの陰に合掌型青面金剛が立っているので観察する。その間に姫は墓地の中を進んで行った。立原道造の墓があるのだ。と言っても個人の墓石があるのではない。「立原家之墓」が新旧二つあるのだ。「どっちかな?」「道造が死んだのは昭和十四年三月十九日だ。」スナフキンがスマホを検索してすぐに分かる。「こっちだ。」横面に三人の名と没年月日を刻んだ墓石の左端、「温」の下にその日付があった。温恭院紫雲道範清信士である。
     姫はこのために線香も持参していたが、マッチではなかなか火がつかない。「蜻蛉のライターでお願いします。」そして火のついた線香を両方の墓石に供える。こういう心掛けは見習うべきですね。立原道造についてはもう何度も書いてきたので、余り言うことはない。ダンディとハイジは浦和別所沼のヒヤシンスハウスのことを話している。
     「シロヤマブキだと思うのよ。」ハイジが教えてくれたのが黒い実だ。葉がシワシワでシソの葉のようにも見え、四弁のガクに黒い実が生っているのである。「普通に黄色いヤマブキは実が生らないでしょう。」七重八重花は咲けどもの歌があるからね。しかし調べてみると、実のならないのは八重であり、五弁花のヤマブキには実が生る。
     交番から西に入った所が感応寺だ。ここには渋江抽斎の墓があり、以前ロダン企画のコースで門前を通り過ぎ、気になってその一週間後に再訪したところだ。確か大きな墓石だったような気がしたのだが、なかなか見つからない。「ありませんか?」あった。記憶通り大きな墓碑が立っている。篆額には「抽斎渋江君墓碣銘」とある。「墓碑銘」と読んでしまったが、「墓碣銘」が正しい。碑文は長文の漢文で簡単には読めない。撰者は海保漁村、書は小島成斎。鷗外『渋江抽斎』から、鷗外がこの人物にどうして親近感を持ったのか記した部分を引くことにする。

     抽斎澀江道純は経史子集や医籍を渉猟して考証の書を著したばかりでなく、古武鑑や古江戸図をも蒐集して、其考証の迹を手記して置いたのである。上野の図書館にある江戸鑑図目録は即ち古武鑑古江戸図の訪古志である。惟経史子集は世の重要視する所であるから、経籍訪古志は一の徐承祖を得て公刊せられ、古武鑑や古江戸図は、わたくし共の如き微力な好事家が偶一顧するに過ぎないから、其目録は僅に存して人が識らずにゐるのである。わたくし共はそれが帝国図書館の保護を受けてゐるのを、せめてもの僥倖としなくてはならない。
     わたくしは又かう云ふ事を思った。抽斎は医者であつた。そして官吏であつた。そして経書や諸子のやうな哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のやうな文芸方面の書をも読んだ。其迹が頗るわたくしと相似てゐる。只その相殊なる所は、古今時を異にして、生の相及ばざるのみである。いや。さうではない。今一つ大きい差別がある。それは抽斎が哲学文芸に於いて、考証家として樹立することを得るだけの地位に達してゐたのに、わたくしは雑駁なるヂレツタンチスムの境界を脱することが出来ない、わたくしは抽斎に視て忸怩たらざることを得ない。
     抽斎は曾てわたくしと同じ道を歩いた人である。しかし其健脚はわたくしの比ではなかつた。迥にわたくしに優つた済勝の具を有してゐた。抽斎はわたくしのためには畏敬すべき人である。
     然るに奇とすべきは、其人が康衢通逵をばかり歩いてゐずに、往々径に由つて行くことをもしたと云ふ事である。抽斎は宋槧の経子を討めたばかりでなく、古い武鑑や江戸図をも翫んだ。若し抽斎がわたくしのコンタンポランであつたなら、二人の袖は横町の溝板の上で摩れ合った筈である。こゝに此人とわたくしとの間になじみが生ずる。わたくしは抽斎を親愛することが出来るのである。

     姫は自性院の前で足を止める。台東区谷中六丁目二番地八。ここは『愛染かつら』で有名な寺だ。本尊が愛染明王で、境内に大きなカツラの木があった。川口松太郎がそれをヒントに小説を書いたのである。「前に来たことがあるね。」講釈師がいれば「花も嵐も踏み越えて行くが男の生きる道」と歌ったことだろう。
     善光寺坂から不忍通りに出ると根津だ。上野台と本郷向ヶ丘台の間の谷に位置し、幕末に田圃の中に根津遊郭が出来たことに始まる町だ。不忍通りのやや東に並行して、藍染川が流れていて、これが台東区谷中と文京区根津および文京区千駄木との境界をなしていた。
     「まだ赤札堂があるんだな。懐かしいよ。」通りを渡って根津小学校裏から異人坂を上る。左側がコンクリートの壁になっている坂で、坂上に明治のお雇い外国人教師の宿舎があったことに由来すると説明されている。坂の上は向ヶ丘弥生町である。
     「正面に見えるのが東大だよね。」この近くで土器が見つかった。V字形に曲がるコンクリート壁の古い手すりの柱に、浅野侯爵家が造営したという表示板が埋め込んであった。「こんなところにあるんですよ、最初気づきませんでしたよ。」「昭和六年二月工事竣成・浅野侯爵家・建設工事監督 青木清太郎・工事請負人 篠原丑蔵」である。
     谷田田圃の低湿地を埋め立てて不忍通りを作る時、浅野家の土も持ってきたという。その浅野家がこんなところにあった。浅野家がやったのは坂道の拡幅とコンクリートの護岸工事だったろう。住所表示は文京区弥生二丁目十四番地。

     底紅や 片目の猫住む 異人坂  ハイジ 

     どう言う訳か、谷中からこの辺は猫の多い地域である。坂を上って少し回り込むとサトウハチロー旧居跡だ。文京区弥生二丁目六番地。ハチローが昭和十二年から四十八年まで住んだ家の跡である。「音楽の教科書にあった『小さい秋見つけた』でサトウハチローの名前を覚えましたよ。」ロダンの世代だとそう言うことになるだろうか。私は昭和三十七年(一九六二)に放送されたNHKテレビの「みんなの歌」で知った。あの番組は好きでよく見ていたのである。
     しかし、この歌だけでハチローを繊細な詩人と思えば間違ってしまう。父の紅緑が女優と同棲したことに反発して、早稲田中学一年で退学して立教中学に入り直したものの退学する。こうして早稲田と立教の間で何度も転入学を繰り返し、留置所入りして勘当された不良少年であった。小笠原諸島父島の感化院入りを命ぜられたときは、紅緑の弟子の福士幸次郎が同行して共同生活を送った。
     父の紅緑は弘前出身で陸羯南の遠縁にあたり、その伝手で日本新聞社に入り、子規に勧められて俳句を始めた。熱血的な少年小説で名を挙げたが、その私生活は乱脈だった。息子四人は手におえない不良になり、ハチローだけは詩人として成功したが、三人は生活無能力で破滅的な死を迎えたという。残ったハチロー、佐藤愛子、大垣肇の三人とも母が違う。
     ハチローは童謡作家として活躍したが、流行歌も『リンゴの唄』『麗人の唄』『二人は若い』『長崎の鐘』ほか非常に多い。フォーク・クルセダーズの『悲しくてやりきれない』がハチローの詞だとは知らなかった。碑文には「此の世の中で唯一つのもの そは母の子守唄」とある。ハチローには母を歌う詩が多い。父への反発が殊更母への思いに繋がったのだろうか。
     この裏辺りに弘田瀧太郎も住んでいた。根津小学校に戻って不忍通の手前の小さな公園で小休止をとる。ベンチに座ると煎餅、飴が配られる。

     もう一度不忍通りに入ると、「すぐ済みますから」と姫は京佃煮の野村に入って行く。文京区根津一丁目二十二番地十二。姫はすぐに済んだが、ドクトルは時間がかかっている。ドクトルを待っていると、中から「皆さんお茶でも」と声がかかったが、姫には時間というものがある。謹んで遠慮し、歩き始める。
     「この左が根津神社だよね。」「裏門になるね。」そこからすぐ日本医大があり、郁文館のところには漱石が『猫』を書いた家がある。日本医大の辺りから北に観潮楼に登る道があった筈だが、今でもあるのかどうか。団子坂下から団子坂を上る。「団子坂は、明治時代には菊人形で有名だった。」「菊人形?」漱石の『三四郎』にも出てくる。今よりももっと急な坂だった。

     坂の上から見ると、坂は曲がっている。刀の切っ先のようである。幅はむろん狭い。右側の二階建が左側の高い小屋の前を半分さえぎっている。そのうしろにはまた高い幟が何本となく立ててある。人は急に谷底へ落ち込むように思われる。その落ち込むものが、はい上がるものと入り乱れて、道いっぱいにふさがっているから、谷の底にあたる所は幅をつくして異様に動く。見ていると目が疲れるほど不規則にうごめいている。広田先生はこの坂の上に立って、
     「これはたいへんだ」と、さも帰りたそうである。四人はあとから先生を押すようにして、谷へはいった。その谷が途中からだらだらと向こうへ回り込む所に、右にも左にも、大きな葭簀掛の小屋を、狭い両側から高く構えたので、空さえ存外窮屈にみえる。往来は暗くなるまで込み合っている。そのなかで木戸番ができるだけ大きな声を出す。「人間から出る声じゃない。菊人形から出る声だ」と広田先生が評した。それほど彼らの声は尋常を離れている。
     一行は左の小屋へはいった。曾我の討入がある。五郎も十郎も頼朝もみな平等に菊の着物を着ている。ただし顔や手足はことごとく木彫りである。その次は雪が降っている。若い女が癪を起こしている。これも人形の心に、菊をいちめんにはわせて、花と葉が平に隙間なく衣装の恰好となるように作ったものである。

     この後、人混みに気分の悪くなった美禰子と三四郎は二人で坂を下る。団子坂と三崎坂の谷間になったところには藍染川が流れていた。その石橋(枇杷橋)を渡って左に折れ、十間ほど歩いて行き止まりになり、もう一度戻って土手に腰を下ろした。

     「迷える子(ストレイ・シープ)――わかって?」
     三四郎はこういう場合になると挨拶に困る男である。咄嗟の機が過ぎて、頭が冷やかに働きだした時、過去を顧みて、ああ言えばよかった、こうすればよかったと後悔する。といって、この後悔を予期して、むりに応急の返事を、さもしぜんらしく得意に吐き散らすほどに軽薄ではなかった。だからただ黙っている。そうして黙っていることがいかにも半間であると自覚している。
     迷える子(ストレイ・シープ)という言葉はわかったようでもある。またわからないようでもある。わかるわからないはこの言葉の意味よりも、むしろこの言葉を使った女の意味である。三四郎はいたずらに女の顔をながめて黙っていた。すると女は急にまじめになった。
     「私そんなに生意気に見えますか」

     美禰子は三四郎を翻弄しているのである。  坂の頂上に来ると森鷗外記念館だ。文京区千駄木一丁目二十三番地四。新しくなってから初めて来たが、ずいぶん変わってしまった。「今日は入りません。何度も来てますからね。」言うまでもないが、ここが観潮楼の跡である。三十歳の明治二十五年(一八九二)一月から、大正十一年(一九二二)七月九日に没するまで鴎外が住んだ。その時の住所表示は本郷区駒込千駄木町二十二番地である。
     その少し先の右側NTTのビルの前に、「青鞜社発祥の地」の案内が立っていた。文京区千駄木五丁目三番地十一。旧町名は本郷区駒込千駄木林町九番地である。青鞜社は生田長江の勧めで明治四十四年(一九一一)六月一日に結成され、物集和子の部屋を事務所とした。発起人は平塚明子(はるこ)二十五歳、木内錠子(二十四歳)、物集和子(二十三歳)、保持研子(二十六歳)、中野初子(二十五歳)の五人だった。
     この年一月十八日に大逆事件被告全二十四人に死刑判決が下され、二十四日に十一人、二十五日に一人(菅野スガ)の処刑が執行された。荷風はドレフュス事件を思い、ゾラのような行動が出来ないのなら戯作に沈潜するしかない決意した。啄木は『時代閉塞の現状』を書く。それと関係することではないが漱石は博士号を受けないと宣言した。十月には清国武昌で清軍が蜂起し辛亥革命が勃発する。明治天皇の死を翌年にして、時代が大きく変わろうとしていた。明治文学から大正文学への転換点である。
     物集和子は姉芳子(大倉燁子)とともに二葉亭四迷の教えを受けたこともある。明子の同級生だったから、本来は芳子が参加する筈だったが、外交官との結婚が決まって和子に代わったのである。父高見は明治三十二年(一八九九)に文学博士となったものの、上田万年との確執で帝国大学を追われ、この当時は在野の研究者として私財を投じて広文庫の編纂にあたっていた。家計は必ずしも楽ではなかった筈だ。
     創刊号はこの年の九月に出され、巻頭詩を与謝野晶子が書き、明子は初めて「らいてう」の名で「原始、女性は太陽であった」を書いた。「創刊号の表紙の絵は長沼智恵子さんでした。」エジプト風かギリシア風か、横を向いた女神像である。
     明子は三年前の四十一年三月に森田米松(草平)と塩原で心中未遂事件を起こし、一躍センセーションを巻き起こしていた。そもそも草平は郷里に妻子をもちながら、この時点で大家の娘と関係していたから、糾弾されるべきは草平の方である。しかし世間の目は新しい女に厳しかった。三月二十五日の『東京朝日新聞』は明子について「本郷区曙町十三番地会計検査院第四課長平塚定二郎二女明子(二十三)」と住所氏名を明らかにし、こう書いた。

     生来非常に勝気の性質にて容貌も美しく、又幼時より学校の成績も人にすぐれ一昨年女子大学家政科卒業後は、津田梅子女史の英語塾にて専ら英文学を研究し居り、又家人に秘してひそかに禅学をも修め居たりき、平素より結婚問題には更に耳を傾けず、自分は生涯独身にて文学上の著作にふける志なりと揚言したるも、今回の家出は情夫森田文学士と久しき間意気投合の結果情死を約したるに相違なく、其の証拠は両人が途中より友人に宛て発したる数通の書信によつて明らかなり。

     日本女子大学はそのため卒業生名簿から明子の名を削除した(復活するのは平成四年である)。ところで、草平が住んでいたのは本郷丸山福山町の、樋口一葉が死んだ家であった。ちょうど北海道から再上京して蓋平館に落ち着いたばかりの啄木が、事件の二週間後に草平と会って、意気消沈しているようだと日記に書いた。
     漱石は明治四十一年に「朝日新聞」に連載した『三四郎』で、明子をモデルに美禰子を造形し、草平は四十二年に事件の顛末を『煤煙』に書いた。関川夏央・谷口ジロー『坊ちゃんの時代』で、谷口ジローが描く草平は実に醜男で、美しい明子に翻弄されてオロオロするばかりだ。草平が生田長江に誘われて閨秀文学会の講師をしていたとき、聴講生として明子が来たことから付き合いが始まったのである。同じ時に青山(山川)菊栄も聴講生として参加していた。
     「伊藤野枝が『青鞜』に関係してたんですか。」野枝は明治四十五年、十七歳で『青鞜』の編集委員に加わった。同じ年には十九歳の尾竹一枝(紅吉)と二十四歳の神近市子も参加している。紅吉は五色の酒事件や吉原登楼事件で新聞を賑わせたが、らいてうに恋していた。大正三年(一九一四)らいてうが奥村博史と同棲を始めたので初期の同志は去っていき、十一月号から野枝が編集権を握った。『青鞜』の論題は女性問題から社会問題へと大きく転換するのだが、しかし野枝も大正五年(一九一六)には大杉栄のもとに走って、『青鞜』は実質的に終わるのである。五年間の命だった。
     発起人のその後を確認しておこうか。木内錠子はフランス語を学び劇作家を志したが、大正八年に三十三歳で病没した。保持研子は小野東と結婚、昭和二十二年に六十三歳で死没。物集和子は藤岡一枝の筆名で「おきみ」などの小説を発表。昭和五十四年、特別養護老人ホームさつき荘で九十歳で死没。中野初子は遠藤亀之助と結婚し、水原秋櫻子門に入って俳人となる。昭和五十八年、九十七歳で死没。平塚らいてうは、戦後は世界平和と原水爆禁止運動にかかわり、昭和四十六年に死んだ。
     「伊藤野枝って言ったら辻潤だよな。」野枝が上野高女の生徒時代、辻潤が英語教師として勤めていた。野枝は卒業後、郷里で結婚したものの翌日に出奔し辻の元に走る。そして辻一(まこと)と流二を生む。ダダイスト辻潤もまた実に不思議な人物で、上野高女退職後は一切定職に就かなかった。
     しかしその野枝の前に大杉栄が現れるのだ。大杉栄と妻の堀保子、神近市子、野枝の泥沼のような関係は、大正五年(一九一六)十一月九日に市子が大杉を刺した「日蔭茶屋事件」で終わり、野枝は生まれたばかりの流二を連れて大杉と一緒になった。しかし乳飲み子を育てることができず、流二は千葉の漁師の若松家に養子に出された。
     女たちの青春は火のようであった。そして日本の社会もまた青春期にあったと言えるだろう。

     凌霄花命を燃やす女たち  蜻蛉

     辻まことの名前が出たので余計なことを思い出した。まことと、武林無想庵の娘イヴォンヌ、山本露葉の息子夏彦も、若き日にじゃれあうような不思議な三角関係を繰り広げていた。無想庵はイヴォンヌと夏彦が一緒になればよいと考えていたようだが、イヴォンヌは結局まことを選ぶ。イヴォンヌというがハーフではなく、無想庵と中平文子との間に生まれた娘である。
     無想庵は辻潤とも山本露葉とも親しかった。数年振りに露葉を訪ねたところ、露葉は既に亡くなり息子の夏彦だけがいた。友達の子は友達だとの理由で十五歳の夏彦をフランスに伴って三年間滞在する。ちょうど辻潤もまことを連れて滞仏中だったから、まことと夏彦とイヴォンヌは知り合うのである。
     こんなことを知っているのは山本夏彦『無想庵物語』を読んだからである。大蔵経を全巻暗誦する程の驚異的な博識をもちながら、アモラルで破天荒で作家として大成しなかった無想庵の生涯を追った伝記であり、一方では夏彦の自伝にもなっている。中平文子もまた火のような女と呼ぶに相応しく、無想庵は翻弄され続ける。
     一般には小言好きな保守派のコラムニストとして知られる山本夏彦が、若い頃二度も自殺を図ったなんて、この本を読むまで知らなかった。その夏彦は根岸の生まれだった。
     そして狭い路地に入ると満足稲荷だ。文京区千駄木五丁目二番地八。「名前が良いので寄ってみました。」

     江戸時代、当地は上野寛永寺領内、輪王寺の御薪林で、東山と呼ばれていた。明和四年(一七六七)正月、御薪林の住民が京都伏見稲荷本宮より、宮司羽倉摂津守信郷から御神体を授かり、当地に勧請鎮座したのがこの社のおこりである。

     文禄年間(一九五二~一五九六)秀吉が伏見桃山城に伏見稲荷を勧請してから幸運に恵まれ、「満足、満足」と呼んだというのである。高村光雲作の神輿もあるらしい。狭い境内にはブランコも設置されている。神社と言うよりも、近所の子供たちの遊び場であろう。
     そして通りにでると、ここは屋敷町だった。大きな家が立ち並んでいる。黒板塀に囲まれた島薗家は外から眺めるだけだが、昭和七年に島薗順雄の家として建てられた洋風建築である。父の島薗順次郎は昭和五年に、脚気がビタミンB1不足だとの説を発表した人物である。
     旧安田楠雄邸は、防空壕の見学ができるというので、子供連れも含めて来客で賑わっている。文京区千駄木五丁目二十番地十八。

     大正七年、豊島園の開園者として知られる藤田好三郎がこの地を取得し、邸宅を建設した。大正十二年、安田財閥の創始者安田善次郎の娘婿善四郎が購入し、昭和十二年に長男楠雄が相続した。
     建物は、伝統的な和風建築の書院造や数寄屋造を継承しながらも、内部に洋風の応接間を設けるなど、和洋折衷のスタイルも取り入れた造りである。
     平成七年楠雄氏他界の後、遺族から財団法人日本ナショナルトラストに寄贈され、歴史的建造物として修復管理されている。(文京区)

     中に入るためには靴を脱ぎ、荷物も預けなければならない。「裸足の方は靴下をお貸しします。」畳を傷つけないためだろう。桃太郎は靴下を借りる。姫がガイドを頼んでいるので、その案内に従っていく。式台は一枚ケヤキで造られている。「この玄関は当主や重要なお客様が来た時だけ使います。」その脇には通常出入りの内玄関もある。実に広大な屋敷である。「迷子になっちゃうね。」
     「藤田さんは男爵ですか?」「違うと思います。」藤田好三郎は樺太製紙(後の王子製紙)専務だった人物で、普請道楽とも呼ばれたらしい。自身の静養地として数年かけて三万六千坪以上の土地を購入して整備したのが豊島園となった。安田家は関東大震災で日本橋小網町の家を焼失して、ここを購入したのである。
     ダンディの言う藤田男爵とは藤田組の藤田傳三郎のことだった。名前も似ているが全くの別人である。台所、風呂場などを見学して漸く防空壕に到着した。
     防空壕は家の中に地下室を掘ったものである。「みなさん、防空壕の経験者だと思います。」経験者は三人しかいない。「うちは庭に掘った。」「それは大邸宅ですね。」畳を上げて地下を開け、その前にビニールシートを敷いてある。「五人づつでお願いします。」サンダルに履き替えて地下に下りると、そんなに広くない。上下左右コンクリートで覆われていて、突き当りの壁には梯子が取り付けられている。家に戻れないときは、ここを登って外に出る仕掛けだ。
     防空壕から出て玄関に戻ろうとしたとき、「これだけ見ていってください」と声をかけられた。見せられたのは空襲の範囲を示した地図で、周囲が殆ど焼けた中で、この屋敷の部分だけが奇跡的に被害を免れているのである。「この着物の柄も見てください。」戦時中、男物には戦闘機の絵柄の着物が作られていたのは初めて知った。「姫が呼んでいるよ。」それでは急がなければならない。
     次は宮本百合子ゆかりの地である。今は路地になって、両側の家の塀として残っているのが、かつての中條精一郎家の門の痕跡である。ということは、この路地を含めて両側が中條家の屋敷だったということなのだろう。現在の住所で千駄木五丁目二十番地と二十一番地である。私は百合子がプロレタリア派になる前の『伸子』を読んだだけで余り親しくはない。

     旧姓中条ユリ(一八九九〜一九五一)は明治二十三年(一八九九)小石川原町(現、千石二丁目)で生まれた。父は建築家で、札幌農学校の設計のため札幌に赴任した。そのため三歳までその地で過ごし、後に上京し、一家はこの奥の地である旧駒込林町二十一番に住んだ。
     駒込小学校、誠之小学校、お茶の水女学校から、日本女子大(英文予科)に進んだ。女子大 一年の時、毎年行っていた父方の郷里である郡山市郊外の農村を舞台にした小説『貧しき人々の群』を書き、天才少女と謳われた。女子大は一学期で退学し、作家生活に入った。
     大正七年(一九一八)アメリカに留学し、留学中結婚したが、帰国後離婚した。その経緯を描いた『伸子』は代表作となった。昭和二年(一九二七)ソ連に旅し、帰国後、日本プロレタリア作家同盟に加入した。昭和七年(一九三二)に再婚し、昭和十二年(一九三七)中条ユリから宮本百合子に姓名を変えた。戦後、『播州平野』など多くの小説、評論、随筆を発表し、昭和二十六年(一九五一)実家である千駄木のこの地で没した。
     このあずき色の門柱は実家、中条家の入り口の名残である。
                 平成十三年三月     文京区教育委員会

     「誠之小学校は母校だよ。」ドクトルが本郷で生まれたことは以前にも聞いていた。備後福山藩阿部氏の丸山中屋敷に開設した学校で、藩校「誠之館」に由来する。平塚らいてうも、鷗外の三男・森類も同窓である。
     ところで、ここに記された説明は聊かもどかしい。肝心なことが抜けているのである。裕福な家庭に育った百合子が、最初の離婚後に野上弥生子の紹介で湯浅芳子に会ったのが転機となった。『伸子』に「素子」として登場するのが芳子である。そして二十九歳の芳子と二十六歳の百合子の同性愛による共同生活が始まり、やがてともにソ連やヨーロッパを回って、社会主義思想を徹底させた。昭和五年に日本プロレタリア作家同盟に加入し、昭和六年に共産党に入党し、翌年、九歳下の宮本顕治のもとに走る。顕治は昭和四年に二十歳で『敗北の文学』を書いて颯爽とデビューした若き文芸批評家である。百合子はこの『敗北の文学』で顕治に恋したのかも知れない。百合子は裸足で顕治の元に走った。「夫」であった芳子が警戒して百合子の靴を隠しておいたからだ。ここにもまた火のような女がいた。
     翌八年に、顕治はスパイ査問事件の殺人容疑で検挙され、七年後の裁判で無期懲役の判決を受けた。検挙から昭和二十年十月にGHQの指令で釈放されるまで、獄中十二年非転向の経歴は戦後の顕治の勲章となって、日本共産党議長に登りつめることになる。

       その隣に行けば光太郎・智恵子旧居跡がある。文京区千駄木五丁目二十二番地八。私は光雲の旧居と勘違いしてて風景が違うと思ったが、光雲の家はこの裏になるのではないか。光雲が新婚夫婦のために建てたモダンなアトリエで、明治四十五年から昭和二十年の空襲で焼けるまで、光太郎が住んだ家である。
     「智恵子さんのお見舞いには、ここから都電に乗って行ったのかしら。」「たぶんそうだと思う。」品川のゼームズ坂まで歩いてはいけないだろう。

     炎天に 智恵子の声が こだまする  ハイジ

     ここまでに名前が挙がった人物を生年順で並べるとこんな風になる。最年長の原敬から最年少のイヴォンヌまで六十四年の差がある。時代をスライドさせて、仮に原敬を昭和元年にずらしてみれば、私は山頭火、長江の位置にあり、姫とマリーはらいてうや智恵子の位置にくる。そして立原道造や山本夏彦は子供の世代だ。上も下も同時代に生きていることが分かるのである。

    安政三年(一八五六)  原敬(一九二一没)
    安政四年(一八五七)  陸羯南(一九〇七没)
    安政六年(一八五九)  加藤恒忠(一九二三没)
    文久二年(一八六二)  森鷗外(一九二二没)
    元治元年(一八六四)  二葉亭四迷(一九〇九没)
    慶応二年(一八六六)  中村不折(一九四三没)
    慶応三年(一八六七)  正岡子規(一九〇二没)・夏目漱石(一九一六没)。
    ほかに尾崎紅葉・幸田露伴・宮武外骨・南方熊楠・斎藤緑雨がいる。
    明治三年(一八七〇)  正岡律(一九四一没)
    明治五年(一八七二)  樋口一葉(一八九六没)
    明治六年(一八七三)  河東碧梧桐(一九三七没)
    明治七年(一八七四)  高浜虚子(一九五九没)・佐藤紅緑(一九四九没)
    明治八年(一八七五)  寒川鼠骨(一九五四没)
    明治十二年(一八八一) 山本露葉(一九二八没)
    明治十三年(一八八〇) 武林無想庵(一九六二没)
    明治十五年(一八八二) 種田山頭火(一九四〇没)・生田長江(一九三六没)
    明治十六年(一八八三) 森田草平(一九四九没)・高村光太郎(一九五六没)
    明治十七年(一八八四) 荻原井泉水(一九七六没)・辻潤(一九四四没)
    明治十八年(一八八五) 大杉栄(一九二三没)・尾崎放哉(一九二六没)・
    保持(小野)研子(一九四七没)
    明治十九年(一八八六) 平塚らいてう(一九七一没)・中野(遠藤)初子(一九八三没)・
    高村智恵子(一九三八没)・石川啄木(一九一二没)
    明治二十年(一八八七) 木内錠子(一九一九没)
    明治二十一年(一八八八)神近市子(一九八一没)・物集和子(一九七九没)・
    中平文子(一九六六没)
    明治二十三年(一八九〇)山川菊栄(一九八〇没)
    明治二十八年(一八九五)伊藤野枝(一九二三没)・森銑三(一九八五没)
    明治二十九年(一八九六)湯浅芳子(一九九〇没)
    明治三十年(一八九七) 柴田宵曲(一九六六没)
    明治三十二年(一八九九)宮本百合子(一九五一没)
    明治三十五年(一九〇二)正岡忠三郎(一九七六没)
    明治三十六年(一九〇三)サトウハチロー(一九七三没)
    明治四十一年(一九〇八)宮本顕治(二〇〇七没)
    大正二年(一九一三)  辻まこと(一九七五没)・渡邊白泉(一九六九没)
    大正三年(一九一四)  立原道造(一九三九没)
    大正四年(一九一五)  山本夏彦(二〇〇二没)
    大正九年(一九二〇)  武林イヴォンヌ(一九六五没)

     団子坂の方に戻り、途中で左に曲がると須藤公園だ。文京区千駄木三丁目四番地。加賀前田の支藩である大聖寺藩十万石の下屋敷で、維新後は品川弥二郎が住んだ。明治二十二年(一八八九)に須藤吉左衛門が買い取り、昭和八年(一九三三)に公園用地として東京市に寄付したものである。この須藤吉左衛門については、どんな人物か調べがつかない。
     本郷台地の突端の高低差のある地形で、下が庭園になっているのだ。石段を降りると、朱塗りの欄干の橋から小さな滝が見える。橋の突当りは弁天堂だ。池には鯉とカメが泳いでいる。「ショウジョウトンボです。」蝉の声が聞こえる。風が心地よく吹いてくる。

     秋立つや本郷台地に風を聞き  蜻蛉

     午後は日差しも強くなったが、今回はペットボトル一本分を消費するにとどまった。二週間前には四本も飲んだのだから、やはり暑さの質が違ってきたのである。
     今日のコースはこれで終わり、千駄木駅まで戻る。ちょうど四時で、お茶でも飲もうかと姫が入った店は満員だった。仕方がないので千駄木駅で解散となる。一万七千歩、およそ十キロか。飲まなければいけないひとは西日暮里に出て和民で軽く飲んで二千五百円。まだ明るいので五人はもう一軒行って二千五百円。今日は結構金を使ってしまった。

    蜻蛉