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    番外 夏休みが待ち遠しかった頃 昭和散歩
    (蒲田・久が原・池上・馬込界隈)

    平成二十九年八月五日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2017.08.13

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     旧暦六月十四日、大暑の末候「大雨時行(たいうときどきふる)」。台風の影響もあって各地で豪雨が頻発し、関東は蒸し暑い日が続いている。駅まで歩くと頭から汗が噴き出してくる。
     集合はJR蒲田駅だ。昔なら池袋から品川に出て京浜東北線に乗り換えるのが常道だったが、副都心線の開通以来思いもよらない経路が使えるようになった。鶴ヶ島発七時五十四分の元町・中華街行きに乗る。和光市までは東上線各駅停車だが、和光市から渋谷までは副都心線の急行、渋谷からは東横線の特急に変身する。
     九時二分に自由が丘に着き、ホームの向かい側で待っている各駅停車に乗り換えて多摩川には九時七分着。今日初めての路線乗り換えは九時十四分発の東急多摩川線蒲田行きで、多摩川線というのに初めて乗った。多摩川・蒲田間全長五・九キロの短い路線だ。九時二十五分に終点の蒲田に到着する。
     所要時間一時間三十一分で八百五十四円なり。池袋からJRを使う従来の経路だと九百三円だから、安くて時間も数分遅いだけなのだ。集まったのは、あんみつ姫、ヨッシー、ダンディ、スナフキン、ロダン、桃太郎、蜻蛉の七人である。
     何故か姫の先導を待たずに皆はエスカレーターで西口に下りてしまい、「違います、東口なんです」と姫が追っかけてくる。エスカレーターに戻って東口に出る。「こっちは京急の駅のある方だろ。」「この辺で飲みましたよね。」飲んだ記憶だけはある。
     姫が向かったのは、ニッセイ・アロマ・スクエアと並ぶ大田区民ホール「アプリコ」である。大田区蒲田五丁目三十七番三号。松竹蒲田撮影所の跡地で、それを記念して地下一階ホールに撮影所のジオラマが展示されているのだ。
     松竹橋の親柱が展示されている。撮影所正門前の逆川(さかさがわ)に架かっていた橋である。逆川は六郷用水南堀から分水して多摩川線沿いに流れ、旧松竹蒲田撮影所の前を通って呑川に注いでいた。『キネマの天地』撮影時には親柱の本物がなかったからレプリカを使い、ここにも最初はそのレプリカを置いていた。
     その後、鎌倉在住の人から寄贈申し出があったのである。「個人で、こんなものを所有してたんですかね。」「思い入れがあったんじゃないかな。」撮影所が廃止された時に持ち出したものだろう。蒲田撮影所は大正九年(一九二〇)六月にオープンし、昭和十一年(一九三六)十一月に大船に移転するまで十六年間稼動した。昭和モダンの時代である。しかし大谷竹次郎の英断で映画進出を決めた松竹も最初は試行錯誤の連続だった。

     ・・・・しかし撮影所とはいっても、新開地の町裏の、畑を踏みならしたような原っぱで、まだステージ一つあるではなし、シナリオ一つ、満足な形のものはなかった。田口桜村のもたらしたアメリカン・システムの最大の功績はディレクター・システム(監督本位)の採用だったが、その撮影監督は、幾人か出来たようでも、さえ、どこから何を手がけてよいのか、模糊とし、面喰うことが多く、何よりも困ったのはフィルム処理の方法であった。(田中純一郎『日本映画発達史』)

     それでもアメリカ直輸入のステージを作ったのは大資本の松竹の力である。小山内薫(俳優学校校長)の演技指導や、技術としてのカット割りの発見などによって次第に恰好がついてくる。第一作は川田芳子主演の『島の女』(木村錦花演出、ヘンリー小谷撮影)であった。そして最初のヒット作は栗島すみ子主演『虞美人草』(ヘンリー小谷監督・撮影)であり、これ以後、小山内薫が外され、野村芳亭撮影所長の下で蒲田調が出来上がってくる。
     ジオラマを見ると、九千坪の敷地には大きなステージが三つ、その他に本館や俳優部屋など、幾つかの建物が分散している。二組の野外撮影が行われている。「小津組かな。」「それじゃ向こうは成瀬組か。」「高峰秀子がいるんじゃないか。」この時代の映画界に最も詳しいのはスナフキンだ。
     「幹部俳優部屋と大幹部俳優部屋があるね。」階級差が歴然としているのである。「その他は大部屋ですね。」女優では大幹部には栗島すみ子や川田芳子が並び、昭和十年には田中絹代が大幹部に昇格する。
     戦前の映画界のことは田中純一郎『日本映画発達史』の他に竹中労『日本映画縦断』シリーズや『聞書アラカン一代――鞍馬天狗のおじさんは』(傑作です)、マキノ雅弘『映画渡世』で読んだ程度で全くbookishな知識だから、小津安二郎や成瀬巳喜男の映画を見ているスナフキンには到底敵わない。私は東映ヤクザ映画ばかり観ていて、「母物」や日常市民生活中心の松竹蒲田調も大船調も全く縁がなかった。
     大船への移転の理由はトーキー化への対応のためだった。蒲田にある群小の工場群が出す騒音がトーキーには邪魔だったのである。大船競馬場跡地を中心に九万坪を購入し(内、二万坪は大船町の寄付)、三万坪は撮影所用地に、残り六万坪は田園都市として一般に売り出した。
     トーキーが商業ベースに乗るまでは幾つかの実験がなされたが、日本映画の最初の本格的トーキーは昭和六年(一九三一)五所平之助監督『マダムと女房』だとされる。小津安二郎は当初、トーキーには否定的だったが、大手会社は昭和十年(一九三五)には完全にトーキーに移行する。

     ところで、つかこうへい作『蒲田行進曲』は、蒲田撮影所の所歌をタイトルにしているが、実は舞台になっているのは東映太秦撮影所だった。松竹と角川映画の共同企画で映画化(風間杜夫、松坂慶子、平田満)された時には東映の撮影所で深作欣二監督によって撮影された。深作の本領は実録ヤクザ映画である。松竹蒲田とは殆ど縁のない映画になった。
     これに激怒したのが松竹のプロデューサー野村芳太郎(芳亭の子)である。蒲田の映画が何故東映で作られなければならないのか。そこで蒲田撮影所を舞台に、山田洋次監督『キネマの天地』を作らせた。時代設定は撮影所が大船に移転する直前の昭和九年(一九三四)頃である。新人女優(有森也美)は田中絹代をモデルにしたというが、その時点で田中絹代は既に大女優であった。

    虹の都 光の港 キネマの天地
    花の姿 春の匂い あふるる処
    カメラの眼に映る かりそめの 恋にさえ
    青春もゆる 生命はおどる キネマの天地
    (堀内敬三作詞、ルドルフ・フリムル作曲『蒲田行進曲』)

     「大船撮影所の跡地は鎌倉女子大学になった。」大船もなくなっていたのは知らなかった。「大船からどこに移転したのかな。」「そこまで追求しなかったな。」京都撮影所に行ったのである。私は京都の撮影所といえば東映の太秦しか知らなかった。調べて見ると大船撮影所は平成十二年(二〇〇〇)六月に閉鎖されていた。
     『男はつらいよ』シリーズ最終作『寅次郎ハイビスカスの花 特別編』が公開されたのが平成九年(一九九七)十一月、その前から松竹の経営は悪化していた。『釣りバカ日誌』は練馬の東映東京撮影所で作成されたと言う。
     「今度、轟夕起子のシリーズを見ようと思ってるんだ。」スナフキンは古い日本映画を見続けている。「宮本武蔵のお通さんだ。」宝塚のスターだった轟を、稲垣浩と片岡千恵蔵が口説き落とした。日活との契約金は二万円と言う。私が知っているのは母親役になってからのことだから、絶世の美女だった頃の轟夕起子は知らないが、松竹ではなく日活系だ。
     雨の中で涙を流すシーンで、監督のマキノ雅弘(当時は正博)は油を使おうと言い出した。誰かが持ってきた油を塗って撮影は終了したが、それが元になって一時失明の危機に陥った。一説には機械油だったとも言うがマキノは否定している。

     轟夕起子が扮する侍の娘が捕われの身となった父親を追う――と、「寄るな!」と捕方に突き放されるシーンがあった。しかも、雨のシーンなのだが、どうも、娘が街角を曲って、父を見て走り出すところが、宝塚少女歌劇のような芝居に見えて迫力がないので、雨を降らさずに、二、三回私自身が走って見せたりして、やっとまあ、どうにかいけると思って本番にしました。
     突き放されて、どうしようもなく立ちすくむ娘の顔のアップを撮ることになったが、雨が降っているので、涙が流れているのか雨に濡れているのか区別がつかない。仕方なく、私はオリーブ油で彼女の左眼のふちに涙を書いた。こうすれば、雨をはねつけて、うまく涙のように見える。(マキノ雅弘『映画渡世・天の巻』)

     とにかく自分の責任だから雅弘は献身的に看護し、新しい眼医者も紹介して目は治った。その縁で二人は結婚する。但し十年で離婚し、夕起子は昭和四十二年(一九六七)四十九歳で死んだ。

     駅に戻って多摩川線に乗り、下丸子まで行くことになる。「今朝はこの電車で来たんだよ。」スナフキンもロダンも、なぜ私がこの路線に関係するのかなかなか理解してくれない。「川越の方は随分便利になったんですよ。埼玉県東部が一番不便かも知れないわ。」
     次は矢口渡駅。「歌謡曲にありませんでしたか?」「あれは矢切の渡し。ちあきなおみだよ。」「江戸川ですね。」「ここは古戦場ですよね。」太平記の古戦場だった筈だが、詳しいことは頭に入っていない。実は新田義興に因むのだが、新田義興を知っている人がどれだけいるだろう。新田義貞の次男である。観応の擾乱に乗じて一時鎌倉を占拠したが、武蔵野合戦を経てすぐに追われた。観応の擾乱とは、足利尊氏・高師直対直義(尊氏の弟)、高師直の死後は尊氏対直義、直義死後は尊氏対直冬(尊氏の実子で直義の養子)が争った闘いで、南朝とも絡んで情勢は転々と変化し、いつの間にか敵味方が入れ替わる。実にややこしい戦争であった(先月、中公新書で亀田俊和『観応の擾乱』が出版された)。
     足利尊氏の死後、義興は鎌倉を奪還するために再度挙兵したものの、ここで謀殺されたのである。船で渡ろうとした時、罠に嵌められた。

     義興公は父義貞公の遺志を継がれ新田一族を率いて吉野朝(南朝)の興復に尽力され、延元二年十二月(一三三七年)北畠顕家卿と共に鎌倉を攻略、翌三年美濃国青野原に於て足利軍勢を撃破されました。正平七年(一三五二年)には宗良親王を奉じて、弟義宗・従弟脇屋義治と共に足利尊氏・基氏を再度鎌倉に攻め、之を陥して暫く関八州に号令されました。
     その後、武蔵野合戦を始め各地に奮戦され、一時、鎌倉を出て越後に下り待機養兵されましたが、武蔵・上野の豪族等に擁立されて再び東国に入られました。この事を聞知した足利基氏・畠山国清は大いに恐れをなし、夜討・奇襲を企てるが、常に失敗しました。そこで、国清は竹沢右京亮・江戸遠江守らに命じて卑怯な計略をめぐらしました。
     竹沢は公家の少将局という身分の高い女房を自分の養女にして、義興公に側女として献じて味方を装い、江戸遠江守は所領の橘樹郡稲毛荘を没収されたので、いっしょに鎌倉で戦おうと誘い出しました。
     正平十三年(一三五八年)十月十日、江戸氏の案内で多摩川の矢口の渡から舟に乗り出すと、舟が中流にさしかかる頃、江戸・竹沢らにいいふくめられていた渡し守は、櫓を川中に落とし、これを拾うと見せかけて川に飛び込み、あらかじめ穴を開けておいた舟底の栓を抜き逃げました。
     舟はだんだんと沈みかけ、ときの声とともに、川の両岸より江戸・竹沢らの伏兵に矢を射かけられ、あざむかれたことを察し、義興公は自ら腹を掻き切り、家臣らは互いに刺しちがえたり、泳いで向こう岸の敵陣に切り込み、主従十四名は、矢口の渡で壮烈なる最後を遂げられました。(新田神社「由緒」より)

     その次が武蔵新田駅。「シンデンと読むアホがいる」と大声で言う人がいるが、これをニッタと読むかシンデンと読むかは単に知識の問題に過ぎない。普通はシンデンと読むだろう。義興の怨霊を祀った新田神社に因むので、ムサシニッタと読む。矢口の渡しの故事、新田神社の由来を知って初めてニッタと読む理由が分るのだが、それを知らずに単に地名の読みを知っていても何の自慢にもならない。
     そして下丸子に着いた。初めて降りる駅だ。環八の藤森稲荷交差点に、六郷用水から下丸子への分水口跡があった。「よく見つけたね。」「この道がそうなんだろう。」いかにも暗渠のような形だ。環八を渡る。藤森稲荷には寄らない。ぬめり坂。

     『大森区史』は「鵜の木に用水を渡ってうっそうとした樹下を登るなだらかな坂がある。なだらかな坂ではあるが、ぬめって上れなかった。付近の豪家に美しい娘があった。人々の難渋を貴の毒に思い、自ら望んでその坂に生き埋めとなった。以来その坂の通行は容易となり、大いに付近は繁盛したという」と記している。

     「ぬめるって何ですかね。のめる?」「違うような気がするよ。」岩波国語辞典によれば、「濡れてぬるぬると滑る」である。漢字で書けば「滑る」だった。「ぬめり」という言葉がある以上、その動詞形に思い至らなかったのは私の感度も鈍い。常に水が湧き出していたのだろうか。
     分岐の角に庚申塔が立っている。駒形石に浮き彫りした合掌型青面金剛で、上部の日月、武器もはっきりしている。金剛は岩の上に立ち、下には三猿。「天邪鬼がいないんですね。」最初からいないのだと思う。延宝五年(一六七七)荏原郡六郷在鵜の木村の人によって造立された。
     左前に道標が立ち、正面には「池上本門寺大森・矢口新田神社川崎方面」、右側は良く読めないが「東?久が原五反田方面」、左側に「峯御嶽神社奥沢・大岡山 洗足池方面」とある。道標の裏から垂れ下がった草を除けると、「昭和のくらし博物館」を案内する看板が出現した。二つ先の角を曲がればよい。

     そしてすぐに「昭和のくらし博物館」が見えた。大田区南久が原二丁目二十六番十九号。木造二階建ての母屋にモルタル塗りの建物がくっついている。全くの民家である。地図を見ると、多摩川線の下丸子駅と、池上線の久が原駅とのほぼ中間になる。入館料は五百円。今の特別展示は「パンと昭和展」、「小泉家に残る戦争展」、「戦前のモダン団扇絵見本帖展」だ。「盥だ。」玄関脇に立てかけてある。「洗濯板。俺は赤ん坊のおむつをこれで洗った。」
     姫は予め学芸員の解説を頼んでくれていた。小泉和子が個人として運営する博物館で、学芸員はひとりしかいないようだ。小泉和子(昭和八年生まれ)は元京都女子大学教授で、生活史の研究者である。「この母屋は昭和二十六年(一九五一)に建築技師だった小泉孝によって建てられました。」私が生まれた年である。
     前年に設立された住宅金融公庫の融資を受けた公庫融資住宅で、二階建て延べ床面積は融資上限の十八坪である。両親と女ばかり四人の子どもがこの家に住んだが、昭和五十七年(一九八二)に小泉孝が病没、妻も高齢化して家は無人となった。ごく初期の公庫融資住宅で現存しているものが少ないこと、家具も残っていることから、長女の和子が博物館として残すことを決意して、平成十一年(一九九九)に「昭和のくらし博物館」として開館した。平成十四年(二〇〇二)に国の登録有形文化財に登録された。
     「それでは母屋の二階から見てください。」階段は踏み面の幅が狭く急で滑りやすい。子供部屋は女の子の部屋である。四畳半を高校二年から三歳までの娘四人で使ったと言う。長押にはおもちゃのグランドピアノが五台が並べられ、鴨居にはダッコちゃんがしがみつき、反対側には雑誌の付録の双六が三枚貼られている。窓の脇の壁には丸型のメンコ(秋田ではパッチと言った)が十数枚。ただ、私の持っていたものと比べると時代的には新しい。
     「スーパージェッターですよ。」これがアニメ化されたのは昭和四十年(一九六五)である。アトムのマンガ自体は古いがアニメ化されるのは昭和四十一年(一九六六)だ。まして『巨人の星』の花形満は論外である。つまりこれらは昭和四十年代のものだった。この家の末娘だって私より三歳年上なのだから、恐らく資料として後に買い集めたものだろう。
     私が持っていたのでは、東映時代劇俳優(中村錦之助、東千代之介、市川右太衛門、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、月形龍之介)、力士(栃錦、若乃花、千代の山)、野球選手(赤バットの川上哲治、青バットの大下弘)が多かった。武者絵もあったような気がする。
     しかし私のパッチは従兄が富山の薬箱に溜めこんでいたのを譲り受けたものだから、年代的には三四年ずれている。考えてみれば、自分でメンコを買うなんてことはなかった。
     机の抽斗を引けば、キャラメルやチョコレートのパッケージが几帳面に保管されている。見たことのないものもある。「グリコには、おもちゃが付いてましたよね。」「それがあったから、もっと大きいと思ってたんだ。」一粒三百メートルだ。森永キャラメルにミッキーマウスのキャラクターが描かれているのは見たことがない。「ラクダキャラメルって記憶があるような気がする。」「そうですか、私は知りません。」
     隣の部屋は、かつては下宿部屋として使われていた。狭い家に下宿人を置くのはローン返済のためである。この部屋では戦争展をしている。千人針の縫い目には虱がたかって困ったと言われる。鼻緒製作機なんていうものがあるが、余りにチャチで実用にならなかったと小泉和子は回想する。「乾パンは今でもありますよね。」「防災用品でね。」
     「パン焼き器は知ってますか?」これを知っているのはヨッシーとダンディだけだろう。箱型のものと煙突がついた円形の鍋とあって、ハコ型のもののそばに置かれた雑誌は、自宅で自作を勧める農林省食糧研究所員の記事が開かれている。小泉和子によれば、蒸しパンのようなものが出来上がる。そう言われてみると、母親が蒸しパンのようなものを作っていた記憶があるが、こんな鍋はなかったと思う。戦時中の『主婦の友』も数冊置いてある。
     戦時中、ヨッシーは朝鮮の京城にいた。戦争が終わって引揚げて来たのは小学校一年生の時である。苦労した筈だ。スナフキンの両親も引揚者で苦労したらしい。私の伯父夫婦も満州から引揚げて来る際、赤ん坊を死なせた。講釈師は空襲で神田の家を失った。皆、大変な苦労をしてきたのである。
     玄関脇の書斎兼応接室の机には、コンパスが並べてある。建築技師だった主人の持ち物だろう。玄関脇に応接室を作るのが流行だったのだ。
     一階に降りると、庭に面した狭い廊下にミシンが置いてある。昔の家には必ずミシンがあった。茶の間のちゃぶ台にはスイトンの椀が用意されている。夏の時期は必ずこれを作ると言う。「蝿帳はうちじゃ今でも使ってるよ。」それは珍しい。ネットで検索すると、卓上キッチン・パラソルなんて名前になっている。
     壁際にはアルミのトレイに載せられた給食が二種類置かれている。脱脂粉乳とコッペパン、マーガリンは必須だが、おかずは時代によって変わってくる。一つは串カツにフルーツサラダがついている。「串カツなんか記憶にないよ。」昭和四十一年のものを復元したと書いてある。「おでんはあったね。」おでんでコッペパンを食うのである。学校給食は児童の飢えを救ったが、伝統的な味覚は破壊した。
     戦後の学校給食も、全国同時に始まったのではないから、地域によって思い出も変わるだろう。最も早いのは東京・神奈川・千葉で、昭和二十一年十二月二十四日に始まった。二十二年一月、全国都市の小学生三百万人が対象になるが、これがどの地域を言うのか分らない。昭和二十年の全国の小学生の数は千八十九万人、二十五年では千百十八万人である。要するにまだ全国の四分の一でしかない。そしてまだ完全給食の実施ではないようだ。完全給食とは主食、おかず、牛乳のセットである。
     二十五年七月、米国寄贈の小麦粉により八大都市の小学校児童に対して初めて完全給食が実施される。但し講和条約の締結によって、ガリオア資金が打ち切られ、一時は給食の維持が困難になった。二十七年には小麦粉に対する半額国庫補助が始まり、ユニセフが脱脂粉乳を寄贈し、学校給食会も脱脂粉乳の輸入を始めた。結局、全国の全ての小学校で完全給食が実施されるのは二十六年から二十七年にかけてのことになる。
     壁に貼られているのは戦後の給食風景の写真だ。「これって、私の出た小学校ですよ。」写真は水戸市立三の丸小学校だった。「昭和三十年だと兄貴がいるかもしれない。」ロダンが感激する。貧しかった日本に給食を齎したのはアメリカであり、それは有難いことだったが、アメリカだって善意でやってくれたのではない。そこには小麦の輸出戦略があったのである。

    昭和時代は日本人の生活が大きく変わった時代ですが、パンが主食にならぶものとなったこともその一つでしょう。パンは幕末から日本に入り、明治時代にはあんパンが開発され、日本人にも親しまれてきましたが、戦前まではおやつの域を出ていませんでした。それがすっかり代わったのは戦後のことです。最初は食糧難の日本にアメリカからの援助物資として小麦とミルク(粉乳)がはいってきて、学校給食に使われましたが、そうした地ならしの上に、余剰小麦を日本に買わせようという官民挙げての「アメリカ小麦戦略」が押し寄せて、パンにミルク、肉類を中心とする洋風の食生活に転換していったのです。いまではすっかりパンが日本の食生活に定着して、確実に米と並ぶ主食としての位置を占めたといえます。
    民族の主食が代わるということは、じつに大変なことです。米からパンへの道筋を戦後の歴史の中で見てみようとしたのがこの「パンと昭和」展です。
    昭和のくらし博物館 館長 小泉和子

     ララ物資は無償で総額推定四百億円に上ったと言われる。ガリオア資金、エロア資金は総額十八億ドルに上り、昭和二十三年(一九四八)一月、米国は突然その返還を日本政府に求めた。単なる善意ではなかったのだ。様々な交渉の後、昭和三十六年(一九六一)に、四億九千万ドルを十五年返済することで決着した。一ドル三百六十円として、返済額は千七百六十四億円になる。
     増築した新館の一階は、夏休みの自由課題を片付けるためにやって来た小学生と母親が占領している。子供は抽斗からひっぱりだしたケンダマや独楽を弄んでいるが既に飽きてしまったようだ。私たちが部屋に入ると、母親が慌ててしまわせた。ここで冷えたドクダミ茶を戴く。美味い。母親が一所懸命ノートをしている隣で子供はゲーム機に手を伸ばして叱られている。夏休みの自由課題は、結局母親のノスタルジーで作られるのだ。
     外でタバコを吸って戻ると、小学生は庭で竹馬に挑戦している。初めてのようで、重心が後ろに下がって上手く乗れない。竹を前方に倒すように、重心を前に傾けなければいけないのだが、初めてでは無理と言うものか。「やってみようか」と言い出しそうで危険だ。竹馬に飽きれば井戸の手押しポンプに挑戦する。

     竹馬やいろはにほへとちりぢりに  万太郎

     門の脇の小さな小屋で出版物と団扇絵を展示している。ここで『昭和のくらし博物館』(一七二八円)を買った。姫は『少女たちの昭和』や『パンと昭和』などを持っているらしい。いずれも小泉和子の著書である。
     「昭和も遠くなりにけりだね。」中村草田男が「降る雪や明治は遠くなりにけり」と詠嘆したのは昭和六年(一九三一)だから、明治が終わって二十年である。昭和が終わって既に二十九年、来年には平成も終わるのだから、私たちにも昭和が遠くなったと慨嘆する権利はあるだろう。
     「昭和と言っても、戦前、戦中、戦後とあるからな。」そして戦後も、東京オリンピック前後、七〇年前後と区切れば大きく三つに分けられるだろう。今の回顧趣味の対象は殆んどそのオリンピック前後、つまり『三丁目の夕日』の時代に限定されているように思われる。しかしあの頃の日本は総体的にはまだ貧しく、生活は不便だった。生活に最も関わることを言えば、トイレが水洗ではないのだから、どんなに懐かしくてもあの時代に戻ることはできない。
     それなら七〇年代はどうだったか。コンビニもファミレスもその頃に登場した。家の内部だって似たようなものだろう。現在と、目に見える風景にそれ程大きな違いはない。しかしそれでも平成時代はその頃とも大きく異なっている。それは人の意識ではないかと私には思える。
     私が初めてパソコンに触れたのが昭和六十年(一九八五)だった。CPUメモリは六四〇キロバイト、ハードディスクはなく記憶装置は八インチのフロッピーディスクという、今では玩具としか見られない代物だ。それが今ではメガバイトからギガ、テラの時代になった。そして何よりもインターネットとスマホである。四六時中スマホを手放させない人の精神構造は、私には理解できないのだ。
     別の面で言えば、平成三年(一九九一)の大学設置基準大綱化によって、一般教養(人文・社会・自然)科目は必須ではなくなり、費用的にも大学設立は簡単になった。その挙句が大学の増加であり私立大学は六百校を越え、大学進学率も五十パーセントを越えた。多くの大学は研究機関であることをやめ、教育(特に就職に役に立つため)に専念するようになった。つまり「大学」と言うものの概念が変わったのである。教養系の教員は駆逐され、学生は本を読まず、知的なものへの関心、学芸への敬愛は殆んどなくなった。
     これが平成の生んだ「成果」である。来年以降の十八歳人口の減少を考えれば、二十年後に現在の大学が全て生き残るためには、進学率が六十パーセントを越えなければならない。その時、それでもまだ「大学」と言い張るのだろうか。

     蝉時雨昭和は遠くなりにけり  蜻蛉

     「えッ、そんなところを通るのかい。」姫は民家の間を抜けていく。「畑の形そのままに家を建てたんだ。」「区画整理をしていないんですね。」池上線を超えると住所表示は久が原になる。何も目印になるようなもののない住宅地の中を、姫は平然と進んでいく。暑い。緩やかな起伏が続き、汗が流れ落ちてくる。
     十分程歩いたところで、「静かにして下さいね」と姫が念を押しながら一軒の木造家屋を指差す。「国の登録重要文化財です。」大田区久が原六丁目六番四号。

     東京城南地区に開発された郊外住宅地に建つ。木造二階建、入母屋造、桟瓦葺で、外壁は下見板を高く張り純和風の構えとする。室内は洋間の応接室,食堂以外は和室とするが、居間中心型の整然とした平面を持つ。丁寧なつくりで、昭和初期和風住宅の好例を示す。(文化遺産オンライン「三橋家住宅主屋」)
     http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/141221

     門に回って表札を確認すると「TG」とだけあった。レンガ壁の住宅の前にはピンクと赤紫のムクゲが咲いている。「一本の木から、珍しい」と言ったが実は二本の木であった。久崎橋で呑川に出て川沿いに行く。第二京浜を渡る。
     いつの間にか住所表示は池上に変わり、少し行けば姫が推薦する古民家カフェがあった。「古民家カフェ蓮月」。大田区池上二丁目二十番十一号。「看板も出てないから分らないよね。」入口に暖簾がかかっていて、辛うじて何かの店らしいと見当は付く。十二時だ。くらしの博物館から三十分歩いたことになる。それにしても暑い。

     昭和初期に建てられた蓮月は、古くから池上本門寺の参拝客に親しまれてきました。一階はそば屋、二階は旅籠や結婚式などの宴会場として使われていた時代もあったそうです。近年まで、そば屋「蓮月庵」として営業しており、地域の人々に愛されました。  ところが二〇一四年、蓮月庵のご主人が高齢のため引退。惜しまれつつも閉店してしまいます。
     蓮月の保存が危ぶまれる事態となりました。なんとか蓮月を残せないものか? 蓮月の維持を願う人々が集い、アイデアを出しあい、さまざまな活用方法を検討しました。
     最終的に、蓮月をカフェにすることが決定。多くの方々の協力のもと、建物の改修や掃除をすすめ、古民家・蓮月の再生計画がスタートしました。
     そして、二〇一五年秋。ついに「古民家カフェ 蓮月」として復活を遂げました。一階は落ち着ける空間のカフェとして、二階は純和風の座敷をレンタルスペースとして、また来ていただけるようになりました。(「蓮月物語」http://rengetsu.net/)

     入れなければジョナサンにと言っていた姫の懸念は全くの杞憂で、中はかなり広く問題なく入れた。ハイジも好きそうな店だが、残念ながら参加していない。古民家というより、蕎麦屋である。
     入口を入ると、その上の壁に「停止価格」という額装された品書きが掲示されている。筆頭(一番高い)は茶蕎麦七十銭で、最安値の盛り蕎麦が十五銭。酒は四十銭と八十銭、ビールは六十銭。白米一升が五十銭の時代だからビールを飲むのは金持ちである。まして一級酒の八十銭は論外だろう。
     ところで「停止価格」とは何か。店の女の子もうまく答えられない。調べてみると、昭和十四年(一九三九)十月に施行された価格等統制令によるものであった。国家総動員法に基づき、昭和十四年九月十八日の価格を上限とし、これを越えることが禁じられた。これが「停止価格」である。国家総動員法を確認してみた。

     第一条 本法ニ於テ国家総動員トハ戦時(戦争ニ準ズベキ事変ノ場合ヲ含ム以下之ニ同ジ)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ
     第二条 本法ニ於テ総動員物資トハ左ニ掲グルモノヲ謂フ
      一 兵器、艦艇、弾薬其ノ他ノ軍用物資
      二 国家総動員上必要ナル被服、食糧、飲料及飼料
      三 国家総動員上必要ナル医薬品、医療機械器具其ノ他ノ衛生用物資及家畜衛生用物資
      四 国家総動員上必要ナル船舶、航空機、車両、馬其ノ他ノ輸送用物資
      五 国家総動員上必要ナル通信用物資
      六 国家総動員上必要ナル土木建築用物資及照明用物資
      七 国家総動員上必要ナル燃料及電力
      八 前各号ニ掲グルモノノ生産、修理、配給又ハ保存ニ要スル原料、材料、機械器具、装置其ノ他ノ物資
      九 前各号ニ掲グルモノヲ除クノ外勅令ヲ以テ指定スル国家総動員上必要ナル物資

     具体的な統制内容は法には盛り込まれず、賃金統制令、国民徴用令、地代家賃統制令、会社経理統制令、銀行等資金運用令、株式価格統制令などの勅令によった。価格等統制令はこうである。

     昭和十四年九月十八日(以下指定期日ト称ス)ニ於ケル額ヲ超エテ之ヲ契約シ、支払ヒ又ハ受領スルコトヲ得ズ

     この規定に拘らず、国家が価格を定めるようになると、それが公定価格(マル公)と呼ばれた。
     ランチメニューは、厚切り照り豚丼(千百九十円)、温玉そぼろ丼(九百九十円)、蓮月豆カレー(九百九十円)、唐揚げプレート(千九十円)の四種である。「ガッツリ系です」と姫が言っていたのは間違いではなかった。私は温玉そぼろ丼にしたが、カレー(ひよこ豆のキーマカレー)を選んだ人が多い。それに生ビールが五百八十円。セットにすると百円引きになる。ソフトドリンクではなくビールもセットに数えてくれるのは珍しいのではないか。ヨッシーはノンアルコールにした。「色は同じですよ。」ビールは美味かった。泡がきめ細かく適度な量で、いつもの居酒屋では出せない注ぎ方だ。

     古民家や昼のビールの一口目  蜻蛉

     「あれ、もうこんな時間ですか。」しかし柱時計は単なる飾りで時間は止まっている。「ゼンマイで巻きましたよ。」穴が二つあって、右と左と交互に均等に巻いたのではなかったろうか。こんな機械物は簡単に修理できる筈で、きちんと動かしておけば良いと思う。但し、飲食店に時計を置くものではないというのは、四十年も前、小料理屋「網代木」開店の日にお姐さんに教えて貰った。時計を置くと客が時間を気にして早く帰ってしまうというのである。(開店祝に何が良いかを訊いた時の話だったが、さて、私たちは何を持っていったのだったか。タダ酒を飲んだだけだったか。)
     圧倒的に女子客が多いのは最近の古民家流行のせいである。私たちは『三丁目の夕日』世代であり、最初のテレビっ子、最初のマンガ世代でもある。高度成長の恩恵を受けたのも私たちが一番だろう。既に未来はないから懐古的になっても良いが、若い世代がレトロスペクティブに惹かれるのは、未来に何の展望も見出せず、精神が後ろを向いているからではないか。
     子供連れの家族いるが、小さい子供ではこのメニューで食えるものはないのではないかと心配になるが、メニューを確認すると、お子様カレーセットというのもあった。その中でサラリーマン風の男が一人で入って来たのは珍しい。
     食べ終わってから二階を見学する。座敷が二部屋(襖で仕切ってある)あって、そのうちの一部屋は客が入っているので、隣の部屋を覗いてみた。違い棚のある床の間、磨りガラスは手作りのようだ。襖を取り外せば結婚披露宴もできる。玄関を出て外から回り込むと、裏は手入れがされていない草だらけの庭であるが、そこに置かれたテーブルに灰皿があった。

     十二時三十五分に出発する。店を出て通りの突き当りは本町稲荷だ。「この辺はお寺が多いですね。」池上本門寺の塔頭であろう。「右側の奥が本門寺です。」随分前に、力道山や幸田露伴・文親子の墓を見た。「梅園公園もよさそうですよ。」
     第二京浜に出て歩道を歩く。午前中は薄曇だったが、日差しが出てくると遮るものがないので暑さが増してくる。街路樹がないのだ。一キロ近く歩いたろうか。トマソンという会社があった。大田区南馬込五丁目十九番三号。「ふるさと再生 日本の昔ばなし」と表示してある。アニメーションの制作会社なのだ。平成二十四年(二〇一二)に始まったもので、柄本明と、松金よね子だというから、私たちが知っている、常田富士雄と市原悦子ナレーションの『まんが日本むかしばなし』とは違う。
     「お水がなくなってしまった。」「そこに自販機がある。」「すぐ、安い自販機があるんじゃないの?」姫が自販機で水を買い、トマソンの角を右に曲がると一本百円の自販機があったのがおかしい。「ほら、やっぱり。」「最近この手の自販機が増えたよね。」この路地は南坂だ。坂名の由来は、馬込の氏神である八幡神社から見て南にあるためだ。
     「どこかで休憩したいな。」かつて鉄人と呼ばれた人が音を上げる。「もう少しです。」八幡神社を通り過ぎ、小学校の前で姫は立ち止まる。「これです。」馬込小学校に面した普通の民家に時計台が設置されているのだ。大田区南馬込一丁目三十五番付近。「不思議な光景だね。」「国の登録重要文化財です。」大田区にはこの重要文化財と言うのが多い。
     馬込小学校旧校舎の一部を移築したもので、時計台は小学校のシンボルだった。玄関も明治十八年建築のものだと言う。「それじゃ、八幡様で休憩しましょう。」馬込八幡神社。大田区南馬込五丁目二番十一号。建久四年(一一九三)創建で、旧馬込村の総鎮守である。
     隣の長円寺(真言宗智山派)との間はコンクリート塀で仕切られているが、ちょうどその真ん中にケヤキが立っていて、その分だけは塀が切られて、幹を挟むようになっている。「こっちはブリキで塞いであるよ。」こちらから伸びた根が寺の方に入り込んでいるので、根の部分だけ穴を開けて塞いである。そうまでしなくても良いではないか。「仲が悪いんだよ。」
     十分程休んで歩き出す。今度は大田区立郷土博物館だ。大田区南馬込五丁目中一番十三号。建物の外壁の埋め込みには埴輪がいくつも立っている。
     展示室は「馬込文士村」、「昔の道具・海苔養殖・大田の物づくり、地中の歴史」、「水をめぐるふるさとの暮らし」に分けられている。文士村は以前歩いた。「最初は誰が住み始めたんだい?」「尾崎士郎じゃなかったかな。」尾崎の誘いで後に田端から室生犀星が移って来る筈だ。
     しかし私の記憶は正確ではなかった。既に明治末期には日夏耿之介、小林古径、川端龍子、伊東深水、片山広子、真野紀太郎、長谷川潔等が集まり住んでいた。尾崎士郎・宇野千代夫妻が越してきたのは大正十二年(一九二三)だから後発組だが、盛んに仲間を誘ったのは間違いではなかった。関東大震災で東京市内が壊滅的打撃を受け、郊外の農村が住宅地に変貌する時期でもあり、芥川の自殺によって田端にいる必要を失った室生犀星、三好達治等の田端組も移転してくる。犀星が来れば萩原朔太郎もやって来る。
     片山廣子の名前を知っているだろうか。松村みね子の名でアイルランド文学を翻訳した。「芥川が最後に愛した人なんだ。」大正十三年夏、二人は軽井沢で出合った。片山家の別荘が、旅館つるやのすぐ近くだった。廣子は既に夫を亡くしていて、芥川の十四歳年上である。芥川が小穴隆一に宛てた手紙には「もう一度廿五歳になったように興奮している」と書き、犀星に宛てては「何やらわからぬ愁心のみ」とある。明らかに芥川は廣子に恋をした。
     廣子は「わたくしたちはおつきあいができないものでしょうか。ひどくあきあきした時におめにかかってつまらないおしゃべりができないものでしょうか」と芥川に宛てて書いた。堀辰雄『聖家族』には細木夫人として登場する。その隣が村岡花子の写真だ。村岡花子に翻訳を勧めたのは片山廣子である。
     「ダンスも流行ったんですよね。」馬込村でのダンス流行は萩原朔太郎の一家を崩壊させた。萩原稲子が洋服を着るようになったのは宇野千代の影響である。洋服にしなければダンスも始めなかったかも知れない。

     暮れ方になると、毎日のように二階にお客様が集まり、ダンスをはじめたのもこのころのことだった。
     ・・・・・いきいきとブラウスを着替えたり、髪型を新しく変えたりして、母はダンスに熱中した。
     宇野さん、佐藤惣之助、衣巻省三夫妻、着物に角帯の広津和郎氏などが見えた。礼子ちゃんの家から借りたポータブルで、「赤い翼」や、「アラビアの唄」や、ハイカラな軽音楽を鳴らして、ざらざらと、父の書斎の畳で踊るのだった。(室生さんと三好さんは、ダンスにはけっして見えなかった)。・・・・
     ダンスをするようになってからの母は、今までより、もっと子供のことをかまってくれなくなった。そしてほとんど一日中鏡の前に坐ってばかりいた。ダンスのない日には、父が書斎から降りて来て飲みに行ってしまうと、申し訳ばかりの夕食を急いですませて、鏡台を部屋の真中に出し、母は化粧に取り掛かるのだった。
     ・・・・母は二十九歳だった。(萩原葉子『父・萩原朔太郎』)

     稲子はダンスにやってくる学生と一緒になって家を出る。その少し前、朔太郎は二人が公園でキスしているのを目撃した。原因は勿論ダンスではない。ダンスを始める前でさえ、『君恋し』のレコードを聴きながら、「ああ、この歌を聞きながら死んでしまいたい・・・・」と呟くような(そしてそれを娘に聞かれても構わない)生活であった。姑と小姑が一致して嫁を苛め抜く家である。そして母に去られた一家は前橋の朔太郎の実家に移転し、葉子はそこで我儘で意地の悪い祖母との生活に苦しむことになる。
     大田区が麦藁帽子の発祥の地だとは知らなかった。「麦藁なんてどこにでもあるだろうに。」「稲はダメなんだよ。」江戸時代から大森村は麦藁の産地だった。漁業と海苔の他には見るべき産業のない村だったのだ。明治十年(一八七七)第一回国内勧業博覧会に大森村の島田十郎兵衛が麦藁帽子を出品して高い評価を得たのが始まりだと言う。
     土器は見なくても良い。ざっと回ってすぐに下に下りる。おそらく学芸員の実習生だと思う連中がぞろぞろと歩いている。「実習にしても多すぎるんじゃないか。」ホームページを見ると、ちょうど八月一日から十日まで、十人の実習生を受け入れていた。

     住宅地の緩やかな坂を上り降りし、三十分程歩いたところで姫が立ち止まった。「今もお住まいですから静かにしてくださいね。」白いコンクリート塀に「三島由紀夫」のプレートが残されている。そして現在の居住者の表札もある。結婚した娘(演出家)が住んでいて、表札にあるのはその夫の姓である。夫は外交官だ。正確な住所は調べれば分るが、大田区南馬込四丁目とだけ書いておく。「意外に小さいんじゃないか?」「そうでもないですよ、奥が広いから。」
     「あの時、私は高校二年でした。アニサンは大学生でしょう?」「私は中学生ですよ。」今の年齢差があの時と同じなら当然そうなる。私は大学一年だった。スナフキンも同じだろう。あの頃、私はある事件によって精神が内向し、それから復帰するまで十年近くかかった。青春と言う病であるが、私の場合それが長過ぎた。
     「三島の本を何冊か読んだけどよく分らないんだよね。」「こけ威しなんだよ。」その言葉に姫が笑う。華麗に見えても言葉が人工的で浮ついている。それは川端康成にも感じることで、私は二人の文学に感心したことがない。
     あの事件の後、『豊穣の海』全四巻を読んでは見たが、精神の荒廃しか感じられなかった。思想に殉じた、あるいは芸術に殉じたという評者もいるが、そこに見られるのは肥大化した自意識への自己陶酔しかない。私たちの高校の同期会が「横の会」を名乗るのは、三島の「楯の会」へのアンチでもある。
     「あの年はいろんなことがあったんだ。」スナフキンの言う通り、昭和四十五年(一九七〇)は色々なことがあり過ぎた。高橋和巳の死もこの年だったと言ったのは私の勘違いで、翌年五月のことだった。
     世界史的には一九六八年が重要だが、一九七〇年はその影響を直接引き受けた年である。革命への期待は既になかった。私たちの世代は「三無主義」(無気力・無関心・無責任)と呼ばれた。年表を確認しておきたい。
     一月七日、全国都道府県平均十一パーセントの減反政策が始まった。八郎潟を干拓してできた大潟村は三年前に入植を開始したばかりだった。戦後農政の大転換であり、日本に「農政」はなかったことを暴露した。
     二月一日、チクロ入り粉末ジュースの発売が禁止され、ワタナベのジュースの素はなくなった。二月三日、渋谷のコインロッカーに嬰児死体発見。これによって十年後に村上龍が『コインロッカー・ベイビーズ』を書く。二月十九日、成田空港反対同盟が「第一次強制測量阻止闘争」に取り組んだ。三月十四日には大阪万博が開幕したが私には全く関係なかった。三月二十二日、中山律子が第一回全日本女子プロボウリング選手権大会で優勝した。空前のボウリングブームであるが、私は殆んど関係しなかった。
     三月二十四日、力石徹(『明日のジョー』で、矢吹ジョーのライバル)の葬儀が寺山修司の主催で執り行われた。三月三十一日、共産主義者同盟赤軍派による日航機よど号ハイジャック。犯人は「われわれは明日のジョーである」と声明を出した。『明日のジョー』は高森朝雄の名義だが、それが梶原一騎だと言うのは誰もが知っていた。新左翼と言っても、そのメンタリティは梶原一騎とそれ程の差があった訳ではない。(勿論、ちばてつやの絵が素晴らしかったことはある)。同日、八幡製鉄と富士製鉄が合併して新日本製鉄が誕生。
     高校の卒業式の翌日からタバコは大っぴらに吸えるようになった。その日、担任教師の家に五六人が集まると、香川京子に似た奥さんがジョニ黒(当時は一万円を越えていた)を振舞ってくれた。当時は水割りという飲み方がないから、脇にチェイサーを置いてショットグラスで飲むのである。そして四月には上京して大学に入る。この年の大学・短大進学率は男子二十五パーセント、女子二十三・五パーセントであった。
     四月八日、大阪の地下鉄工事現場でガス爆発が起こった。死者七十八人、重軽傷三百十一人は炭鉱事故を除いて最悪であった。四月十日、ポール・マッカートニーがビートルズ脱退を発表、年末には解散が決定する。この頃、百円ライターが発売されたが(Bicだったか?)、どこでもマッチはただで貰える時代だから、誰も買わなかったのではないか。私は右手だけで箱を開けてマッチを取り出し、そのまま火をつける練習を繰り返していた。
     五月一日、米軍が一年半ぶりに北爆を再開した(ベトナム戦争真っ只中である)。五月二十五日、プロ野球八百長問題で西鉄の与田、益田、池永の三投手が永久追放された。六月、チェコスロバキアのドプチェク前第一書記が共産党を除名され、プラハの春が事実上終わった。高校三年の時の学園祭に向けて、社会部の広報誌に「チェコに思う」なんて言う文章を書いたのが恥ずかしい。今残っていないのは幸いだ。六月二十三日、日米安保条約は自動継続された。
     七月一日、国立にスカイラーク一号店が開店した。七月十四日の閣議は日本の呼称をニッポンに統一することに決定した。八月二日、都内初の歩行者天国が実施された。私は、こんなものを「天国」と呼ばせる国の感覚に怒りを感じていた。十月一日、国鉄がディスカバー・ジャパンのキャンペーンを開始した。翌年の小柳ルミ子『私の城下町』を伴奏に、日本の地方都市は一律に観光地化を目指すことになる。十一月十四日、ウーマンリブ第一回大会。十一月十五日、沖縄で戦後初の国政選挙が行われた。
     そして十一月二十五日が三島事件である。三島由紀夫、森田必勝が自決した。十二月十八日、京浜安保共闘の三人が上赤塚交番を襲撃した。京浜安保共闘(日本共産党革命左派神奈川県委員会)は後の連合赤軍の母体の一つである。
     この頃「不幸の手紙」が流行した。光化学スモッグが問題になり、スモン病はキノホルム服用が原因と明らかになった。
     『イージーライダー』、『いちご白書』、『明日に向かって撃て』。『いちご白書』だけはリアルタイムで観ていない。『昭和残侠伝・死んで貰います』、『緋牡丹博徒・お竜参上』、『男はつらいよ 望郷編』。池袋文芸坐では深夜映画が真っ盛りだった。若松孝二監督五本立て(この頃はパット・カラーと揶揄されたピンク映画)、東映やくざ映画五本立て(六〇年代後半からのやくざ映画が殆ど見られた)等。ロマンポルノは翌年になる。夏を過ぎると、授業をさぼって雀荘に入り浸ることが多くなった。
     漫画は山上たつひこ『光る風』、佐々木守・水島新司『男どアホウ甲子園』、手塚治虫『きりひと讃歌』、『火の鳥 復活編』、バロン吉元『柔侠伝』、真崎・守『連作・はみだし野郎の挽歌』、林静一『赤色エレジー』、小池一夫・小島剛夕『子連れ狼』、モンキーパンチ『ルバン三世』。ロダンの愛する『男おいどん』は翌年からだ。「少年マガジン」、「少年サンデー」、「漫画アクション」、「ビッグコミック」は毎週買わなければならず、「ガロ」と「COM」は時々買った。
     米川正夫個人訳『ドストエフスキー全集』(河出書房新社)が前年から刊行を始めていたが、私は根気がないので八冊買っただけで全巻は揃えられなかった。(高校時代に文庫本を買った作品は後回しにしていると、結局買わなかったのである。)筑摩書房の『太宰治全集』も最終的に二冊の欠巻のままだ。未来社が埴谷雄高の著書を膨大に刊行し続けていて、翌年から作品集(河出書房新社)の刊行が始まる。広瀬正『マイナス・ゼロ』はタイムマシンものではあるが、昭和戦前への哀惜が滲み出ていた。
     皆川おさむ『黒猫のタンゴ』がヒットチャート一位になる時代である。日本人は何を考えていたのだろうか。私にとっては何と言っても藤圭子であり、前年の『新宿の女』に始まり、この年は『圭子の夢は夜開く』が圧倒的だった。北原ミレイ『ざんげの値打ちもない』は阿久悠の最初のヒットではなかったか。阿久悠は上村一夫のマンガの原作者だとばかり思っていた。そう言えば上村のマンガは「コマ割演歌」とも呼ばれていた。上村は後に『同棲時代』で一世を風靡するが、これは林静一『赤色エレジー』のメロドラマ化であった。
     クールファイブ『噂の女』、ヒデとロザンナ『愛は傷つきやすく』、由紀さおり『手紙』、菅原洋一『今日でお別れ』、渚ゆう子『京都の恋』、ベッツィ&クリス『白い色は恋人の色』、辺見まり『経験』。
     CMでは南利明のオリエンタル・スナックカレー「ハヤシもあるでよ」、チャールズ・ブロンソンの丹頂「ウーム、マンダム」。私はこの年から十年間、テレビを持たない生活をするので、これ以後のことは余り分らない。ベルボトムのジーンズ、ミニスカート、ロングブーツ、ミディ、マキシコート。パンティストッキングは前年からこの年にかけて広く普及した。パンタロンは翌年になるか。
     セブンイレブン(一九七三年)もカップヌードル(一九七一年)もカラオケもなかった。

     「ここが龍子の自宅兼アトリエでした。」三島邸から七八分のところだ。広大な敷地で龍子公園になっているが、午前十時、十一時、午後二時だけ、係員の案内でなければ入れない。それにしても豪邸ではないか。画家はこんなに儲かる商売だったろうか。その向かいが川端龍子記念館になる。大田区中央四丁目二番一号。龍子が文化勲章受賞と喜寿の記念に自分で建てた記念館である。
     入館料は大人二百円だが、六十五歳以上は無料だ。免許証を提示して「六十六歳」と叫ぶ。「六十四歳。」「それは言わなくて良いよ」とスナフキンが笑う。お金を払う人は年齢を申告する必要がない。「今、山種美術館でやってるから、大した作品は残ってないんじゃないか」とスナフキンは言っていた。私は龍子について殆ど知るところがないが、中に入って驚いた。スゴイのである。
     「逆説・生々流転」は横の長さ二十八メートルにもなる。南洋の海辺での平和な生活がやがて自然の猛威によって破壊される。最後にはシャベルカーが登場するから復興するのだろう。昭和三十三年、伊豆を襲った狩野川台風に想を得たと言う。横山大観に「生々流転」があり、見比べると全く違う。それが「逆説」の意味だった。これを見ただけでも良かった。
     今年は龍子没後五十年である。明治十八年(一八八五)和歌山市に生まれ、明治二十八年(一八九五)家族と共に上京した。明治三十七年(一九〇四)に白馬会洋画研究所に入り、ついで太平洋画研究所で洋画を学んだ。明治年間は挿絵画家として活躍している。大正二年(一九一三)渡米したことがきっかけで、翌年の帰国後に日本画に転向した。大正三年(一九一四)Ni再興された日本美術院を舞台に作品を発表するが、やがて脱会し、昭和四年(一九二九)青龍社を結成する。ちまちました部屋の中で鑑賞するのではなく、展覧会場で見るべきだと主張し、そのスケールで「昭和の狩野永徳」と呼ばれた。
     「弟の茅舎の俳句もいいんだよ。」茅舎も絵を志していたが脊椎カリエスを病んで断念し、俳句に専念して四十三歳で死んだ。

    金剛の露ひとつぶや石の上
    一枚の餅のごとくに雪残る
    ぜんまいののの字ばかりの寂光土
    咳き込めば我火の玉のごとくなり
    咳き止めば我ぬけがらのごとくなり
    約束の寒の土筆を煮て下さい
    寒の野につくしつみますおんすがた
    寒のつくしたうべて風雅菩薩かな

     茅舎は七月に死んだが、病室に訪れた藤原二水夫人に「寒の土筆」をせがんだ。冗談の積りだったろうが、夫人はどこかでそれを見つけてきた。

     環七を過ぎ池上通りに入って暫く行くと、左の熊野神社参道の入り口に「新井宿義民六人衆霊地参道」の黒い大きな標柱を見つけた。「まだ早いから寄って見ようよ。」「ダンディとヨッシーは先に行っちゃったよ。」どうしようか。後続が遅いので振り返った二人も戻ってきたので良かった。熊野神社の参道かと思ったら、突き当たったのは善慶寺だった。大田区山王三丁目二十二番十六号。墓地のほぼ中央に霊廟が建っている。
     延宝七年(一六七九)、間宮藤八郎という村人が義民六人の骨を壷に入れ、自分の父母の墓という名目で埋葬したと言う伝承が残されていた。
     昭和四十七年(一九七二)道路拡張のために移設する必要があり、大田区の文化財関係者など多数の前で発掘したところ、六人の位牌と遺骨を納めた甕が出てきた。また墓石の正面には藤八郎の父母の名を刻んでいたが、その裏には六人の法名が彫られていたことは分っていた。現在はそれを表に出して建ててある。
     大森山王はかつて新井宿であり、旗本木原氏の領であった。寛文元年(一六六一)、木原兵三郎重弘は年貢の増徴を図り、畦道や入会地まで課税対象にした。延宝元年(一六七三)の旱魃、翌延宝二年(一六七四)の六郷川氾濫などで疲弊した村方は、「十九ヶ条の訴状」 を差し出して年貢減免を願い出たが黙殺された。翌延宝三年(一六七五)にも訴えたが効果はない。
     そして、酒井権左衛門、間宮太郎兵衛、間宮新五郎、鈴木大炊之助、平林十郎左衛門、酒井善四郎の六人は越訴を決めた。延宝四年の十二月に江戸表へ赴き機会を窺っていたが、密告があって木原氏の役人に捕らえられ、延宝五年(一六七七)一月十一日、斬首に処せられた。佐倉惣五郎の例が典型だが、幕藩体制下では事の成否に関わらず、越訴は厳罰に処せられた。計画をした時点で、六人は死を覚悟していたことになる。
     墓地の脇から熊野神社への階段が続いている。ヨッシー、スナフキンと三人で登ってみた。「なんだか声が聞こえるな。」登りきれば、境内で二十人ほどの男女がバーベキューをしているのだ。子供もいる。普通、こうした神社の境内でバーベキューはしない。氏子の人間だろうか。それならば、通りかかる人にはビールを一杯どうぞと勧めるのが常識ではなかろうか。礼儀を知らない連中だ。

     山王熊野神社の創建年代は不詳ですが、平将門の乱の鎮圧に下向した藤原恒望に従った熊野五郎武通が当社に戦勝を祈願したと伝えられます。元和年間(一六一五~一六二四)にこの地域新井宿村の地頭木原木工允が日光造営の棟梁を務めた際にその余材で当社の社殿を造営したといいます。(「猫のあしあと」山王熊野神社の概要)
     http://www.tesshow.jp/ota/shrine_sanno_kumano.html

     商店街が長く続く。狭い歩道を自転車がひっきりなしに通っていく。「どこまで続くんだと思いますよ。」漸く大森駅に着いて解散する。反省会は蒲田ですることにした。京浜東北線で一駅南に下ることになる。
     金時ビルの前の看板に「飲み放題八八〇円」と書かれている。店の名前は「きざみ」、知らない店だが入ってみよう。二階に上がると、和民と向かい合っている。「ワタミの方は飲み放題千二百円だってさ。」店の前立ち止まっていると中から店員が出てきた。「何人様ですか?」「五人。」これで今日は「きざみ」に決まった。
     取り敢えずトイレで着替えを済ませる。飲み放題にビールは含まれていなかった。「ビールを入れるとどうなる?」「三百円追加となります。」ビール一杯三百円だと思えば安い。「結局ワタミと変わらないな。」たぶん小さな字で書いていたのだろうが、保険の約款と同じで誰も読まないのだ。「お料理はお一人様二品でお願いします。」まあ良いだろう。
     最初のビールはやはり格別だ。焼酎はお湯割り。桃太郎は日本酒、姫はビールを継続する。日本酒個室居酒屋という名のチェーンであり、本来は日本酒の種類を楽しむ店なのかも知れない。二時間飲めば、支払額はいつもと殆ど変らない。
     「カラオケに行きましょう。」今日は桃太郎が積極的だ。前金で払って部屋に入り、ドリンクも現金交換と言う珍しい店だ。桃太郎もロダンも絶好調である。私は何を歌ったか覚えていないが、昭和の歌であることは間違いない。「じゃ、最後にみんなで歌おうぜ。」するとロダンが『美しい十代』を選んだ。「これ、皆で歌うのか。仕方がないか。」桃太郎はこの歌を知らなかった。マイクを渡すと、朗々と全く違うメロディを歌うから私がマイクを奪う。

    蜻蛉