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    番外篇 町田散策(武相荘と自由民権資料館)

      平成三十年八月四日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2018.08.21

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     七月二十三日に青梅で最高気温が四十度を超え都内初の記録となった。同日には熊谷市が四十一・一度と観測史上最高気温を更新した。世界的に見ればカリフォルニア州デスバレーでは五十二度というとんでもない気温を記録している。極地の温度も上がり北極圏では巨大な氷山が崩落した。
     二十八日の土曜日には台風が直撃し大荒れになる予報だったため、近郊散歩の会は中止を決めた。十年以上に及ぶ里山ワンダリングでも、台風で中止したのは二回程ではなかったろうか。幸い埼玉県内は大したことはなかったが、この台風は関東から西日本を縦断して九州に至るという、実に不思議コースを辿った。
     台風の後も三十五度を超える気温が続き、「猛暑」、「酷暑」、「命に危険が及ぶ暑さ」は珍しくはなくなった。熱中症の死者も百人を超えた。既に何かの分水嶺を越えて異様な世界に突入してしまったように思える。
     この暑さをきっかけに、二〇二〇年の東京オリンピックに合わせてサマータイムを導入しようとする動きがある。アホではないか。マラソンは別にして、一日中、何らかの競技は開催しているのだ。要するにオリンピックは口実で、勤務時間が終わってもまだ明るい時間帯に、できるだけ金を使わせようという発想は丸見えである。国民は睡眠不足になるだろう。サマータイムは鬱を発症させるという研究結果もある。
     この国に何らかの希望はあるのだろうか。政界、官界、スポーツ界の不義、不正、腐敗はもとより、ネット上に頻々と溢れ出す差別的言辞の横行を見れば、反知性主義と歴史修正主義は国民の精神の劣化を招いていると思わざるを得ない。岸田文雄の総裁選不出馬表明によって、安倍晋三の総裁継続も圧倒的多数で決定するだろう。思えば平成の三十年間は、日本崩壊への一本道だった。その時代だからこそ、皮肉にも今上天皇の憲法遵守に全身全霊を傾ける誠実が光るのである。

     旧暦六月二十三日、大暑の末候「大雨時行(たいうときどきふる)。」今日もあんみつ姫の企画である。この暑さだからコースは短く、室内の見学を中心にしてくれたのは有難い。集合は小田急線鶴川駅。この駅に来るのは三度目だろうか。あんみつ姫、ハイジ、ヨッシー、ダンディ、スナフキン、ロダン、蜻蛉の七人が集まった。
     「桃太郎はどうしたんだろう?一番近いのに。」ロダンが電話をかけると在宅していた。「今日は何がある日でしたかって言ってます。」通常は第二土曜日だから変則なのだが、来週はお盆にかかるので第一週と決まっている。その電話を姫が引き取り、長い電話が終わった。「三時頃に町田に来るそうです。」
     駅北口から右に出て、鶴川駅東口から鶴川街道(一三九号線・真光寺長津田線)を北上する。「この石碑は何でしょうか?」「土被りナントカって読める。」街道の東に沿って川が流れているので、何かの災害の記録かも知れない。
     鶴川二小入口交差点から左に曲がる角に武相荘駐車場の看板が立っているが、ここでは曲らない。もう少し先のユニクロの角を左に曲がって坂道を上れば武相荘だ。駅から二十分というところか。ここは白洲次郎、正子夫妻の旧宅である。町田市能ヶ谷七丁目三番二号。

     私たちは、〔太平洋戦争開戦の〕二年ほど前から、東京の郊外に田圃と畑のついた農家を探していた。食料は目に見えて少くなっており、戦争がはじまれば食べものを確保しておくのが一番必要なことだと思っていたのである。(中略)
     ある日の帰り途に、こんもりした山懐にいかにも住みよさそうな農家を発見した。駅からもそんなに遠くはない。あんなところがいいな、住んでみたいなあと、ひとり言のように呟くと、おまわりさんは私の帰ったあとで、直ちに交渉してくれた。
     それは咄嗟の思いつきにすぎなかったが、縁というのは不思議なもので、話はトントン拍子にきまり、翌月からもう修理にかかることとなった。
     その家には年老いた夫婦が、奥の暗い六畳間に、息をひそめるようにして住んでいた。息子さんはどこか遠くへ出稼ぎに行っているとかで、ぜんぜん構って貰えなかったらしい。そんな哀れな人たちを、追い出すようなことはしてくれるなと、おまわりさんにはくれぐれも頼んでおいたが、彼らはむしろ喜んでおり、せめて電車の見えるところに住みたいと、快くゆずって貰えたのは倖せなことであった。(武相荘の沿革『白洲正子自伝』よりhttps://buaiso.com/about_buaiso/roots.html)

     林の中に入ると少し涼しい。白い花は百合の類かと思ったが、姫によれば夏水仙だ。赤い花は何だろう(後で武相荘のHPを見るとモミジアオイというものだった)。階段を上った所に受付がある。ここから先は飲食禁止なので、受付前に水分を補給する。ベンチには灰皿もおかれている。「それじゃ入ります。」入館料は千五十円だ。

     父・白洲次郎は、昭和十八年(一九四三)に鶴川に引越して来ました当時より、すまいに「武相荘」と名付け悦にいっておりました。武相荘とは、武蔵と相模の境にあるこの地に因んで、また彼独特の一捻りしたいという気持から無愛想をかけて名づけたようです。
     近衛内閣の司法大臣をつとめられた風見章氏に「武相荘」と書いて頂き額装して居間に掛けておりました。(中略)
     六十年近く一度も引越しもせず、幸か不幸か生来のよりよくする以外現状を変えたくない、前だけ見て暮したいという母親の性格のせいか武相荘は、それを取りまく環境を含めほとんど変っておりません。
     このたび色々な方々の御力添えによって、過ぎ去っていった時代を皆様にも偲んで頂きたく、旧白洲邸武相荘をオープン(二〇〇一年十月)致しました。(牧山桂子「旧白洲邸武相荘オープンにあたって」)

     武蔵と相模にまたがるこの地域を武相あるいは相武と呼ぶ。「武蔵国と相模国との国境はどこですか?蜻蛉なら知ってるんじゃないかな。」国境は分水嶺に沿っていた筈だが詳しくは知らない。「横浜はほとんど武蔵国でしょう。」「一部は相模ですよ。」

    現在の東京都と神奈川県の都県境にもなっている境川上流部では同川に沿ってあるが、町田市最南部以降は主に東京湾と相模湾の分水嶺に沿って神奈川県内を二分している。また、横浜市は一部を除き旧武蔵国にあたる。(ウィキペディア「相武」より)

     北西の境川の部分はほぼ東京都と神奈川の境界そのままだが、横浜市の内、瀬谷区、泉区、戸塚区、栄区のほぼ全域、そして港南区の西半分が相模国で、その他が武蔵国である。川崎も武蔵国だから、神奈川県ができるときに武蔵国から分離したのだ。
     白洲次郎の名が一般に知られるようになったのはNHKのお蔭であろう。NHKはなぜか次郎が好きで、何度もドラマ化した。平成八年(一九九六)の「憲法はまだか」、平成十八年(二〇〇六)の「その時歴史が動いた・マッカーサーを叱った男」、平成二十一年(二〇〇九)ドラマスペシャル「白洲次郎」などだ。演じた俳優はいずれも美男で、自動車を乗り回しオックスブリッジ風の英語を使いこなしてGHQと対等に渡り合う姿が描かれる。カッコイイのである。
     次郎は明治三十五年(一九〇二)兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に生まれ、旧制第一神戸中学校を卒業後、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに聴講生として留学したが、卒業していないので正規の学歴は旧制中学卒業になる。帰国後は『ジャパン・アドバタイザー』の記者、セール・フレイザー商会、日本食糧工業(後の日本水産)などに勤めた。海外に赴くことが多く、当時駐イギリス特命全権大使だった吉田茂の知遇を受けた。これが戦後の活躍の基礎となる。
     しかし、次郎については余りにも過大評価されているのではないか。取り上げられる局面のいずれもカッコイイが、吉田茂の意図を忠実に実行しただけである。次郎がいなくても結果に大きな違いが出たとは思えない。また一生豪勢に暮らしたその資金はどこから出たのか、東北電力はじめ一般には知られていない裏(利権)がある筈だ。
     それにサンフランシスコ講和条約は日米安保条約とセットで締結され、それが現在に至る日本の「国体」(白井聡)、「対米従属とねじれ」(加藤典洋)を決定づけたことを忘れてならない。手放しで吉田茂や白洲次郎の「功績」を讃えるわけにはいかないのだ。

     占領については(中略)当初、その期間は数年間と言う見方が優勢でした。というのも、「外国を支配して植民地化することを当初から意図した戦争の場合は別として、近代の大国間の戦争の後始末」としての占領は、それまでは長く続かないのが一般的だったからです。いずれそれが終了して、再び日本が完全な独立国家に戻ることは誰の目にも当然と考えられていました。外国軍基地の存在がなかば常態化し、それが七〇年も続くとは、このとき、まだ誰一人考えていませんでした。(加藤典洋『戦後入門』)

     加藤も白井も、日本は独立国ではない、アメリカの占領下にあると言っているのだ。
     長屋門には次郎の乗っていた自動車が展示されている。次郎が中学生時代に乗り回していたものと同型式で、ペイジ・グレンブルックと言う。ヨッシーは詳しそうだが、私は自動車には全く趣味がないので何が良いのか分らない。それにしても中学生が車を乗り回していたのである。「お金持ちの坊ちゃんなんですよ。」

      白洲家は元禄時代から歴代、儒者役として三田藩九鬼氏に仕えた家柄。祖父・退蔵は維新後、三田県大参事、正金銀行副頭取、岐阜県大書記官を歴任、福沢諭吉とも親交が厚かった。文平はハーヴァードを卒業後、ドイツのボンに学んだ折、正子の父・樺山愛輔(あいすけ)と面識を得た。綿貿易商「白洲商店」を興して巨万の富を築く一方、家に大工を住まわせるほどの建築道楽だった。
    (武相荘「年譜」https://buaiso.com/about_buaiso/biography.html)

     神戸一中時代にはこの車を乗り回し、イギリス留学時代には一九二四年製「ベントレー三リッター」、一九二四年製「ブガッティ三五」でヨーロッパ中を駆け巡った。白洲商店は昭和三年(一九二八)の昭和恐慌で倒産し、それを機に次郎は留学を切り上げて帰国するのだが、財産は残っていたらしい。
     スーツはサヴィルロウの「ヘンリー・プール」、シャツは「ターンブル&アッサー」のオーダーメイド。帽子は「ロック帽子店」のソフト、雨の日は「ブリッグ」の絹傘をさした。こう書いていてもまるで分らない。徹底した本物志向ということなのだろうが、ダンディズムを貫くためには金がかかるのである。
     イチジクの実が生っている。レストラン・カフェは、日曜大工が趣味だった次郎が工作室として使っていた建物だ。十一時開店だが私たちが入るわけではない。念のためにランチ・メニューを覗いてみると、海老カレー二千百円、次郎の親子丼二千百円、松花堂弁当二千五百円、次郎のクラブハウスサンドウィッチ千六百円、豚肉のソテー・ジンジャーソース千八百円、オムライス千六百円等。二千百円の親子丼なんてまるで想像もつかないが、「次郎の」と名付けられているのだから、普段食べていたものだろう。
     靴を脱ぎ、用意されている靴袋に入れて母屋に入る。こういう所で用意されている靴袋はコンビニのビニール袋のようなものが多いのだが、ここは布製のバッグである。千五十円の入館料を取るだけある。私は貧乏人根性が抜けないから、金のことばかり気にかかる。
     囲炉裏を切った板の間の部屋には皿、小鉢、グラス等様々な器が並べられている。おそらく正子が鑑定した骨董も混じっているのだろう。正子の書斎は和室で、木製の本棚はかなり歪みが来ている。父の本棚もそうだったが、昔のものは本の重さで木組みが緩むのだ。それにしてもその膨大な著書の数からすれば、意外に本の量は少ないような気がする。他の部屋にもあるのだろうか。
     「次郎さんの書斎はどこにあるのかしら?」「二階かな?」二階には上がれないが、係員によれば次郎の書斎はない。「暇なときは大工仕事とかしてたんだよ。」「ゴルフとかね。」「本を読むっていうイメージがないですよね。」正子の『西行』を読んで、「分らん」と言ったという伝説がある。和室には正子の着物が広げられている。
     次郎の遺書がある。正子と三人の子に宛てたもので、「葬式無用」「戒名無用」の二行だけを書き流したものだ。次郎の遺言として名高いが、但しこれには中江兆民と言う先人がいる。兆民は、宗教に基づく葬式は無用、医学発展のために遺体は解剖せよと遺言した。その通り葬式は行われず、代わりに友人門弟たちが告別式を行った。これが告別式の最初であり、つまり宗教色を一切排除したものだ。そして青山墓地にある墓も、「兆民中江先生痙骨之標」とあるだけだ。ロダンの案内で一度そこを訪れたが、母と妻の小さな墓石と並ぶ質素なものだった。
     ショップに入ると、当然のことながらガラスや陶磁器が並んでいる。「こんなお皿が二千円ですよ。」「買っても使えないんですよね。」正子の著書も並んでいる。「『風の男 白洲次郎』、これ読みましたよ」とロダンが言う。私は読んでいない。
     「『鶴川日記』がないな?あれが面白いんだよ。」スナフキンは単行本を持っているが文庫本にもなっているという。「売り切れたんじゃないの?」調べてみるとPHP文芸文庫で出たが現在品切れ重版未定だ。
     「白洲正子の本は一冊も読んでないんだ。」「エーッ、俺はかなり読んだよ。」スナフキンなら相当読んでいるだろうと想像はつく。十四巻プラス別巻の全集になる程その著書は多い。「俺が読んでないのは、たぶん貧乏人の僻みだと思う。」

    父・樺山愛輔、母・常子(つねこ)の次女として東京市麹町区(現・千代田区)永田町に生まれる。樺山家の屋敷はジョサイア・コンドル設計の洋館で、黒田清輝の「湖畔」「読書」がそれぞれ客間と食堂を飾っていた。父・愛輔は実業家・貴族院議員。アメリカのアーマスト大学、ドイツのボン大学に学ぶ。帰国後は国際文化人として多くの企業や団体で活躍した。父方の祖父・資紀(すけのり)は薩摩藩出身の伯爵で、海軍軍人、政治家。西南戦争では涙を呑んで西郷軍と戦った。警視総監、海軍大臣等を歴任し、武勇伝と「蛮勇演説」でならした。母方の祖父・川村純義(すみよし)も同じく薩摩藩出身の伯爵。海軍省設立にあたり海軍大輔に任じられ、後には宮中顧問官、枢密顧問官に列せられた。明治天皇の信任厚く、皇孫の養育掛(かかり)を命じられ、他界する直前まで後の昭和天皇、秩父宮を訓育した。その功あって、死去にさいして大将に任じられている。
    (武相荘「年譜」https://buaiso.com/about_buaiso/biography.html)

     伯爵家に生まれ女でありながら幼い頃から能楽の修練を積み、更に河上徹太郎の縁で青山二郎、小林秀雄の薫陶を受けたなんて、悔しいような人生ではないか。本人にも相当な才能があったのだろう(何しろ一冊も読んでいないから評価のしようがない)。こういう人生に嫉妬しない人は幸せだ。
     ただ私は青山二郎の骨董の世界は全く知らない。高校時代に小林秀雄に圧倒された私の二十代は、小林からいかに脱出するかもがいていた時期で、小林の影響下にある(と思われた)正子なんかは手に取る気にもなれなかった。一切の論証を抜きにしてホンモノかニセモノかと断言してケムに巻くのが小林流で、林達夫と大岡昇平が私を助けてくれた。
     PLAY FASTのTシャツも売っている。次郎が軽井沢ゴルフ倶楽部理事長時代、このTシャツを着てグリーンを回ったらしい。
     散策路に入ると竹林の中に石塔が見える。裏山への上り口には「鈴鹿峠」の石標柱が建っている。「どうして鈴鹿峠が?」「鈴鹿峠は三重の方ですよね。」謎である。この山全体が武相荘の敷地だからかなり広い。「昔は遠くまで見渡せたでしょうね。」今は山のすぐそこまで住宅地になっているが、かつては畑が広がっていただろう。

     十一時ちょっと過ぎ、駐車場側から外に出る。五七号線(相模原大蔵線)に入るとすぐに店が見つかった。「町屋カフェ太郎茶屋鎌倉」町田市大蔵町三七七番地一。「なんで鎌倉なんだ?」十一時半。

    太郎茶屋鎌倉は、兵庫県姫路市に総本店を構える手作りの甘味と和の空間がテーマのカフェです。 日本が誇る世界文化遺産「姫路城」で結婚生活を送った千姫が、第二の故郷と呼んだ鎌倉。そこは甘味の都と呼ばれていました。
     (「コンセプト」http://kamakuracafe.th33.com/concept)

     全国展開をするチェーン店であった。わらび餅をメインとする甘味屋が片手間に食事も出すということだろうか。揚げ出し鶏ランチ九百四十円、ビールは五百四十円。ロダン、ヨッシー、ダンディはスパゲッティを注文し、残り五人が揚げ出し鶏を選ぶ。
     姫のビールは半分ロダンが分担した。鶏の揚げ出しはちょっと油っぽいように思われた。それに添えてカボチャの天麩羅がついている。更に小鉢にカボチャの煮物とはなんだか重複しているではないか。ここに入る前に、カボチャは甘いから余り好きではないと、スナフキン、姫に話していたばかりだったが、出されたものを残すことはしない。「さっぱりしたものが欲しかったわね」とハイジも呟く。
     「民権資料館は一時に解説をお願いしているので、それまでゆっくりしましょう。」事前に問い合わせると、午後から講演会の準備で忙しく対応できないかも知れないと言われたが、一昨日に大丈夫との回答があったと言う。
     勘定は私がまとめた。「うちは円単位の端数は出ないんですけど。」五円玉と一円玉を見てレジの女性は不審な顔をするが、誰かが小銭で十円分を出していたのだ。改めて数えてもらうとぴったり合った。十二時半「ゆっくり歩きましょうね。」

     大蔵交差点で都道一八号線(府中町田線・鎌倉街道)に分岐し、少し行くと公明党のポスターを貼る民家の脇に堅牢地神。町田市野津田町綾部。「初めて見ましたけど。」実は何度か見ている筈だ。地神は大地を司る神である。神道では天神地祇の地祇に当たるのだが、堅牢地神となると仏教で天部の神になる。右側面には地蔵尊、左側面に青面金剛と彫られ、同じ集落で庚申講、地蔵講、地神講(社日講)が一緒になっていることが分る。こういうものは珍しい。嘉永六年(一八五三)。地神塔は特に町田市内に多く見られるものらしい。

    多摩地区で地神塔は五十九基を数えるが、その分布は、町田市の四十八基、八王子市の六基、府中と多摩市が各二基、檜原村に一基となっている。つまり八割以上が町田市内にあるのでから、多摩の地神塔は、町田市を中心に建ったと言っても過言ではない。
    このことを裏付ける貴重な資料が町田市金井西田にあったからである。今日では風化破損して判読さえ不可能であるが、六〇数年前以前にはわずかながら窮知しえた。それは西田にあった地神塔の側面に、地神信仰について延命院の修験者が碑文を書いて残したとみられる。この修験者がこの地域で、地神信仰を布教して、信者を集め各所に碑を造立したものと推定できる「延命院は、原町田六丁目 浄運寺前に昔あった天満山延命院で、町田市の草分けといわれる武藤氏所蔵寛永十四年の古文書の中にでているという」
    地神塔は地・堅牢地神・堅牢地祇・堅牢地天などの異名がある。神名の意味は、堅牢とは地が堅牢で不壊(こわれぬ)でありことを神と名づけたともいわれている。五穀豊穣や福徳の祈願のために祀ったり、あるいは葬所を造るなどのときに、土地を鎮め、さわりのないように祀ったりする。
    総じて文字塔で天下泰平・国土安穏・五穀豊穣などとかかれている。(東京都町田市相原町大戸「野仏の説明」)http://ooto-info.jp/spot/ooto-commentary/index1.html

     その先に町田市立自由民権資料館があった。町田市野津田町八九七番地。今の企画展示は、「明治一五〇年『五日市憲法草案』発見五〇年記念 二〇一八年度第一回特別展『五日市憲法草案』と多摩の自由民権」である。
     入口を入ったところに中島信行の書「自由所棲是吾郷」が掲げられている。中島は土佐の郷士出身で自由党副総理となり、第一回帝国議会で初代衆議院議長に選ばれた。後妻に湘煙岸田俊子を迎えている。岸田湘煙は男女平等を主題に政治演説を行った初めて女性として知られる。
     壁には『オッペケペー』の川上音二郎のポスターも貼られている。解説してくれるのは学芸員の小林氏だ。最初に資料の入った封筒が配られた。「町田で自由民権が盛んだったのは、養蚕が発達して裕福だったことが影響しています。」「絹の道に沿って運動が盛んになった?八王子や秩父も。」「結果論としてはそうですが。」三多摩の自由民権運動は豪農によって担われたから、「豪農民権」とも呼ばれる。
     その領袖ともいうべき人物が石阪昌孝である。石阪昌孝は美那子、公歴の父であり、神奈川県会初代議長を務め国会開設後は衆議院議員に四期当選する。後に群馬県知事にもなった。ただし足尾鉱毒事件が起こって一年で非職となる。民権運動で資産を使い果たし、晩年は失意のうちに過ごした。
     「北村透谷がここに関係してるなんて知りませんでした。」姫は下見の時にそれを知ったらしい。透谷北村門太郎は石阪家に出入りしているうちに美那子と熱烈な恋愛をして結婚する。透谷は明治元年、美那子は慶応元年生まれだから三歳年上である。しかも当時美那子には平野友輔という婚約者がいた。平野は東大医学部別科を卒業した医師で、また三多摩の有力な民権家であり、昌孝の信頼も厚かった。
     美那子との婚約を解消した後、平野は第二回衆議院議員選挙運動に奔走していた。品川弥次郎の徹底的な選挙干渉によって多数の死者を出した時である。その最中に安田鐙(藤子)と出会って熱烈な恋愛をした。藤子は慈恵の看護婦教育所(ヤマチャンの案内で行きましたね)を卒業した派出看護婦で、結婚後の明治二十九年(一八六九)には平野鐙名義で『看病の心得』を出版する程の知的女性であった。これは看護婦自らの手になる最初の看護の本である。
     明治三十五年には第七回衆議院議員選挙で神奈川県から立候補して当選し議員を一期勤めた。その後はキリスト者の医師として、地域の名士として藤沢で生涯を送った。学校や青年団の総会などで訓話を求められると、必ずリンカーンを取り上げ、自由・平等・人類愛を強調したと言う。そして男女平等、女権拡張を主張し続けた。

     友輔は、次女の恒子の出産のときから、妻を出産のたびごとに必ず東京の病院に入院させることにした。産前、産後の余暇をゆっくりとってやり、妻を家庭から解放して、休養させることを考えた。当時のかれの家は大所帯で、家事は容易なことではなかったのだが、かれはよくその負担を引き受け、育児や給食などにもかいがいしく働き、その身辺の細かい報告を妻に書送って、彼女をなぐさめ、はげました。(色川大吉『明治人 その青春群像』)

     明治人として非常に珍しい。自由民権の本質を生きた人と言えるのではないだろうか。次女の恒子が児童福祉と女性保護に力を尽くしたのは両親の影響であろう。後に横浜女子短期大学となる横浜保姆学院を設立した。恒子の晩年、当時の神奈川県知事長洲一二は「神奈川のお母さん」と呼んだ。平野友輔の名は余り知られていないと思うので、色川の本から紹介してみた。

     「恋愛」という観念を日本に普及したのは透谷だと言えるだろう。「恋愛は人世の秘鑰なり、恋愛ありて後人世あり、恋愛を抽き去りたらむには人生何の色味かあらむ」(『厭世詩家と女性』)の一文は島崎藤村等に衝撃を与えた。それまでの日本に「色恋沙汰」はあっても「恋愛」はなかったからだ。島崎藤村『春』は「文学界」に集った若者たち(平田禿木、戸川秋骨、馬場孤蝶など樋口一葉の読者にはお馴染みの人たち)を描き、その中で藤村は岸本捨吉、透谷は青木駿一の名で登場する。
     尤も透谷の一歳年上で、江戸文明に浸りきっていた斎藤緑雨にとって、透谷や、それに影響された文学界の連中の主張する恋愛至上主義は粋ではなく、青臭く全くの野暮であった。そんなものは単なる小児病だと冷笑した。
     石阪家に出入りしていたのは透谷が自由民権運動に加わっていたからだが、親友の大矢正夫に大阪事件への参加、具体的には資金獲得のための強盗に誘われ、煩悶した挙句運動から脱落する。

     大矢正夫はそのころ八王子に近い山村の小学校教師をしていた。娘たちに人気のあるまじめな好青年であった。
     ところが軍資金をあつめるために、かれは強盗という非常手段をとるように磯山から命令されて煩悶していた。
     「大功は細瑾をかえりみず」というが、これはあきらかに破廉恥罪ではないか。
     かれはいくども悩んだすえ、それを試みたがせいこうしない。ついに、自分の生まれた村である高座郡座間入谷村の戸長役場を襲撃することを決意し、その計画をひそかに親友の北村透谷にうちあけた。
     大矢は心中の苦痛をこらえて助力を求めた。
     北村は恐怖におちいった。
     数昼夜の苦しみのすえ、かれは大矢たちのまえに変わりはてた姿となってあらわれた。髪をそり落とし、杖をひいて、ただ、同志のまえに許しを乞うたのである。
     それからの北村は敗残者としての意識にうちのめされ、重い神経症におちいり、「幾多の苦獄を経歴し」、暗澹たる青春をたどっていった。(色川大吉『明治人 その青春群像』)

     色川のこの文章は、歴史家としては感情移入が強過ぎるが、透谷の精神がこの事件によって大きな衝撃を受けたのは間違いない。民権運動は過激化し、松方デフレによる農村と都市下層民の疲弊は、明治十七年になると武相困民党事件、秩父困民党事件を発生させた。秩父事件に比べて武相困民党のことは余り知られていないだろうがそれに触れていると終わらなくなってしまう。
     大阪事件を簡単に言えば、民権運動が政府に弾圧されていく中で、閉塞状況を打開するために金玉均と結んで朝鮮に革命を起こそうと、明治十八年(一八八五)に大井憲太郎が計画した事件である。計画は未然に察知されて失敗に終わるのだが、国内での閉塞状況を朝鮮によって解決しようとする発想自体、「民権」が実は「国権」にすり替わっていく証明であった。
     この事件では特に三多摩の自由党員の多くが逮捕された。昌孝も逮捕され、息子の石阪公歴はアメリカに亡命する。海外から自由民権を支援しようと日本政府攻撃の新聞を発行したりするがうまくいかない。西部開拓も失敗し、失意のうちに七十歳を過ぎた太平洋戦争中、日本人収容所で寂しく死んだ。
     国会開設が予定されている中、民権運動は何故激化したか。

     それは、自由民権運動がすでに確立した制度の内部で国民の権利を拡張しようとする運動ではなく、制度そのものを確立する主体たろうとする運動であったからだ。政府によって与えられた舞台としての国会で民衆の意見を主張するのではなく、民衆が自らの意見を主張し、法を制定する部隊を自らの主導でつくりだすことを、それは目指していた。(中略)
     民権を高らかに謳う数々の「私擬憲法」がつくられるのも国会期成同盟の結成を契機としてであるが、それらが物語るのは、この時期には革命がある意味でまだ続いていたということである。
     なぜなら、西南戦争によって、革命による暴力の独占のプロセスこそ一応の終わりを迎えたこのの、自由民権運動が打ち立てようとしたのは、政治学・法学で言うところの、「「憲法制定権力」(制憲権力)にほかならないからである。憲法は権力運用の規則であり、権力の制約である。したがって、その憲法を生み出す力で割る制憲権力は、無制限の権力(=革命権力)であり、主権そのものである。(白井聡『国体論』)

     「革命」ならば、国家が民権運動を弾圧するのは当然であった。そして明治二十二年(一八八九)の帝国憲法公布、二十三年(一八九〇)の第一回衆議院選挙を経て自由民権運動は終息する。ほぼ十年の命であった。
     「美那子さんはスゴイんです。透谷の死後、娘を透谷の実家に預けてアメリカに留学します。」透谷が縊死したのは明治二十七年のことだった。明治三十二年に美那子は渡米し、インディアナ州のユニオン・クリスティアン・カレッジ、後オハイオ州立ファンアンス・カレッジに入学して明治三十九年六に月卒業。明治四十年一月に帰国し、豊島師範学校、品川高等女学校で約六年間英語教師を勤めた。昭和三年からは透谷の詩の英訳をはじめる。昭和十七年七十六歳で死没。ただの資産家のお嬢さんではなかった。
     「新選組との関係は?」ロダンは不思議なことを訊くものだ。時代が違うではないかと思ったが、実は関係はあった。多摩郡小野路村の小島鹿之助は新選組の支援者として名高いが、その鹿之助と石阪昌孝は安政四年(一八五七)に義兄弟の契りを結んでいる。小島が自邸内に造った天然理心流道場には多摩の若者が集まっていたのだ。だから当然近藤、土方とも面識があり、金銭的な援助もしていた。
     これが多摩の民権運動の母体になったと言えなくもない。幕末の争乱以降、多摩の豪農たちの間では政治的な活動や発言は、格別珍しいものではなかった。明治以後、小島は石阪等の自由民権運動の支援者にもなる。
     国会開設前の当時の神奈川県会議員の名が掲示されている。「県議会と言っても県庁から降りてくる予算案を審議するだけ。それに否決しても県令がこうだと言えばそれまでなんですよ。」「立候補制でないから、なりたくないのに当選してしまう人がいたり。」こういうことは初めて知った。
     「早矢仕有的がいる。」私が指摘するとスナフキンは苦笑いする。早矢仕有的は丸善の創業者である。美濃国武儀郡笹賀村(現山県市)に生まれ、医師として坪井信道に学んだ後慶応義塾で福沢諭吉の圧倒的な影響を受け貿易に関心を持った。横浜に丸屋商社を開いたのがその商売の初めである。横浜正金銀行創設者の一人でもある。一説にハヤシライスの考案者と言うが諸説ある。
     「この資料館は村野常右衛門の文武館『凌霜館』の跡地です。」「アーッ、そうなんですか。」この名前を知っているのは、二十代から三十代前半の私は色川大吉の本を片っ端から読んでいたからだ。

     話によるとその建物は、広さ二十坪以上の道場を持つ建物で、民権家たちの謀議にも使われたという。うしろに井戸があり、絶えず竹刀などを担いだ和歌もあのたちが出入りし、この凌霜館に宿泊していたという。村野はここに青年子弟を集めて、もっぱら剣術を奨励していたが、それだけではなく師範学校出身の篠原という講師を招いて、政治学習をもあわせ行っていた。いま、「凌霜館出席人名帳」という文書が残っているが、それを見ると、出席者は、村野常右衛門、石阪公歴、村野栄吉など、野津田の青年が主であったらしい。
     凌霜館において、村野が愛読していたJ・S・ミルの『経済学』やH・スペンサーの『社会学原理』・『社会平権論』・『哲学原理』、ルソーの『民約論』、ベンサムの『利学正宗』などが回覧され、討論されたであろうし、村野がかつて受けた儒学の教養が青年たちにも分け与えられたであろう。(色川大吉『流転の民権家 村野常右衛門伝』)

     村野常右衛門(五代)は野津田村(町田市域)戸長であり、明治十四年(一八八一)十一月、石阪昌孝等とともに「融貫社」を起こした。融貫社は武相の民権家を統合する政治結社である。大阪事件の際には逃亡後自首し禁固一年の刑を受ける。第六回から第十三回総選挙で連続八回衆議院議員に当選、立憲政友会幹事長として第一次護憲運動では桂内閣倒閣運動を指揮した。
     「この地域はもとは神奈川県でした。」北多摩、南多摩、西多摩の三多摩が東京府に移管されたのはどういう理由だったか。「大きく分けて三つあると思います。一つは当時東京でコレラが流行し、水源を東京府が管理する必要があったこと。二つは自由民権運動が盛んで加奈が県が手を焼いたこと、三つ目に青梅街道や甲武鉄道が整備されて東京都の距離感が縮まったこと、ですね。」
     政府が移管案を国会に提出したのは明治二十六年(一八九三)二月のことである。実はコレラはその七年前のことだった。玉川上水にコレラ患者の汚物を流したという噂が流されたのだが、七年前の事件を持ち出すのはあまり説得的ではない。自由党潰しが本命であろう。三多摩の豪農の間でも利害が分れたのである。
     知らなかったこともいくつかあって、小林さんの解説はなかなか良かった。「五日市憲法も見て行ってください。」勿論目当てはそれである。「ただ完全に独自のものではなく、嚶鳴社のものを採用しています。」沼間守一の嚶鳴社には元老院職員や官吏が多く参加しており、各国の憲法にも通暁していたらしい。そして金子堅太郎、河津祐之・沼間守一・島田三郎・末広重恭・田口卯吉等が全国に先駆けて憲法草案を起草し、各地の民権結社へ叩き台として提供したのである。

     別室に、五日市憲法草案の全文二十四枚が展示されているのはなかなかお目にかかれない壮挙である。配られた資料にも全文の翻刻と現代語訳が載っていた。
     起草は千葉卓三郎(自称タクロン・チーバー)である。仙台藩士の子に生まれ、藩校養賢堂で大槻磐渓(玄沢の子、如電・文彦の父)に漢学を学んだ。明治になってハリストス正教会で受洗し、各地を放浪した後、五日市町の勧能学校の教員となる。仙台藩の先輩で五歳年上の永沼織之丞が学校の初代校長を勤めていた縁であろう。ここで地元の山林地主深澤権八の五日市学芸講談会に参加して私擬憲法を起草した。明治十四年(一八八一)、卓三郎二十九歳、権八二十歳。その後卓三郎は結核が悪化して、明治十六年(一八八三)三十一歳で死んだ。権八もまた二十三年(一八九〇)二十九歳で死ぬ。
     当時の同志である利光鶴松(小田急電鉄創始者)の手記には、深澤家には当時日本で翻訳された書籍の七~八割の蔵書があり、誰でも自由に閲覧できたと書かれている。中でもルソー『民約論』、ミル『自由論』、スペンサー『社会平等論』などが、憲法草案作成に当たって重要な参考書になっただろう。勿論、嚶鳴社の憲法草案も土蔵から発見されている。

     深沢家は江戸時代に千人同心を務めており、有力な山林所有者だった。さらに権八の祖父・清水茂平が筏師の総元締の家から嫁を迎え、筏師の元締として莫大な財をなした。その財力を活かし、深沢父子は商用で上京した際に書籍を買い集めていた。それらの書籍は深沢家の土蔵に収められ、私設図書館の様相を呈していた。深沢家の土蔵からは五日市憲法と共に蔵書約二百冊、千葉卓三郎や深沢権八のメモや目録に残された書籍約百七十冊の合計約三百七十冊の著作が発見されている。内容は宗教、歴史、医学、芸術、小説など多岐に渡っていて、特に政治、法律関係の書籍は全体の三割以上を占めている。当時の主要な雑誌、新聞(『東京横浜毎日新聞』、『東京日日新聞』など)も集められていた。千葉卓三郎や「五日市学芸談講談会」の会員はこれらの蔵書を図書館のように自由に利用できた。(ウィキペディア「深沢権八」より)

     「この写真に写ってるのが色川大吉じゃないか?」「そうか?」スナフキンは疑わしそうだが、おかっぱの髪型が似ているように見える。昭和四十三年(一九六八)、東京経済大学の色川がゼミ生とともに五日市の深澤家の土蔵からこれを発見した時の写真である。私が高校時代のことだから、当時の日本史の教科書には当然反映されていない。当時は土佐の植木枝盛によるものしか知られていなかったのではないか。色川は利光の手記を読み、深澤家には必ずある筈だと確信して土蔵を探索したのである。
     最初にこの草案手にしたのは当時ゼミの四年生だった新井勝紘で、今年四月に『五日市憲法』(岩波新書)を出している(但し未読)。

     同年八月二十七日、ゼミで五日市町の深沢家土蔵を調査。二階に上がった新井さんは、小さな竹製の箱を発見、中の風呂敷包みを開くと、一番下に、二十四枚つづりの和紙があった。題名は「日本帝国憲法」。
     「私は当時、大日本帝国憲法を書き写したんだな、『大』という字が虫に食われるか書き忘れたかしたんだな、と思っていた。今思えば恥ずかしい。目次を見ただけで、これが大日本帝国憲法じゃないと分からなければいけなかった」
     目次には「国民権理(権利)」とあった。大日本帝国憲法に「臣民」(君主に支配される人民)はあるが「国民」はない。(『東京新聞』二〇一五年六月一日「あきる野五日市憲法に庶民の思い 草案発見時ゼミ生 新井元教授講演」)
     https://blogs.yahoo.co.jp/sayuri2525maria/35756379.html

     明治十三年十一月の第二回国会期成同盟大会で、翌年の第三回大会に各自憲法草案を持ち寄ることが決議された。これを受けて全国各地の自由民権結社が私擬憲法を作成したもので、五日市憲法はその中の一つである。しかし結局これらが議論されることはなく、第三回大会は自由党結成大会となった。
     平成二十五年十月の誕生日に際し、皇后がこのことに触れているのは驚くべきことだ。

     五月の憲法記念日をはさみ、今年は憲法をめぐり、例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら、かつて、あきる野市の五日市を訪れた時、郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治二十二年)に先立ち、地域の小学校の教員、地主や農民が、寄り合い、討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務、法の下の平等、更に言論の自由、信教の自由など、二〇四条が書かれており、地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも四〇数か所で作られていたと聞きましたが、近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た十九世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。(宮内庁「皇后陛下お誕生日に際し宮内記者会の質問に対する文書ご回答」http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h25sk.html)

     この言葉の根源には、安倍晋三に代表される勢力への嫌悪と深い危惧があるだろう。今上天皇の「象徴天皇」としての役割への真摯な思いとともに、この夫妻は史上最も知的で傑出した天皇夫妻ではないか。天皇制と言う反民主的な制度の頂点に立つ二人が、戦後民主主義と平和主義の最大の擁護者であるという皮肉。
     建物の裏には繭乾燥倉が建っていた。年間を通して糸取りをするためには繭を乾燥させることが必須であり、絹の道に沿った養蚕農家の庭先には、この乾燥倉が立ち並んでいたという。「これは初めて見ましたね。」「凌霜館跡」の石碑が建っている。もう一度、村野常右衛門に戻ってみる。

     村野常右衛門は三多摩では屈指の急進的民権家であった。そのかれが、やがて三多摩壮士を率い、中央政界に乗りだし、政友会の名幹事長とうたわれ、天皇制国家と癒着し、片方で政党内閣を樹立することに苦心しながら、他方で大日本国粋会の会長として、目ざめた労働者や農民と対立し、国権主義者らの物騒な行動をはげましたりした。そして晩年には、自分は貴族院議員を自任して移民として米州大陸におもむき、長男廉一とともにその血に骨をうずめる覚悟をきめていたという。この一見矛盾したように見える流転の行動の奥に、村野にとっては少しも矛盾ではない精神構造があるという所にこそ私は魅力をおぼえる。
     こうした傾向は、大井憲太郎の生涯にも巨きな思想的混沌としてはらまれていた。大井ほどではなくとも自由民権家の多くには大なり小なりこの種の行動の矛盾、内面の複合、思想の転換がみとめられる。いやこの傾向は日本近代思想史の巨きな潮流のひとつといってさしつかえのないものであろう。(色川『流転の民権家』)

     つまり自由民権運動は民権と国権が未分化のまま、混沌としていたのである。これと同じことを、松本三之介が次のように要約している。

     まずその一般的な特徴を指摘するならば、それは自由民権運動と呼ばれてはいるけれども、自由民権と言う言葉からしばしば連想されるような、市民的な自由や権利の観念を中心としリベラル・デモクラシーとしての性格を中心とするものでは必ずしもなかった。むしろリベラル・デモクラシーよりはナショナル・デモクラシーと言うほうがふさわしいほどに、ナショナリスティックな色彩を濃厚に示していた。(松本三之介『明治精神の構造』)

     松本が挙げるその特徴の第一は「国家の対外的独立についての強い願望」であり、第二に「国家権力との一体性の意識」、第三に「国民的連帯への指向」であった。明治前半期と言う時代的制約の中に生まれた自由民権運動をどう批判的に継承していくべきか、これは歴史修正主義と闘うために必要なことだろう。

     橋で川を渡ると斜めに通る一八号線(鎌倉街道)に合流する。暑い。薬師池公園に入ったのは二時二十分だ。町田市野津田町三二七〇番地。

     一九八二年に「新東京百景」、一九九八年には「東京都指定名勝」に指定されています。さらに、二〇〇七年に「日本の歴史公園百選」に選定された町田市を代表する公園です。園内中心部には池があり、梅、椿、桜、花しょうぶ、大賀ハス、新緑・紅葉等、四季折々の彩が訪れる人々を楽しませてくれます。
     園内には萬葉集に詠まれている七十種の草花のほか二百六十種の山野草が植栽されておりそれらをまじかに楽しめる「萬葉草花苑」や野津田薬師といわれ薬師如来様が祀られ長く親しまれる薬師堂があります。
     江戸時代の古民家二棟(旧永井家住宅と旧荻野家住宅)が移築されており、町田市フォトサロンでは展示室において多彩なミュージアム活動が展開されています。また、園内には市制施行四十周年記念モニュメント「自由民権の像」も建立されています。(町田市「町田薬師池公園 四季彩の杜」)
     https://www.city.machida.tokyo.jp/bunka/park/shisetu/machidayakusiikekouen-shikisaino.html

     元は水田用水池だったらしい。北条氏照の印判により、天正五年から十五年にかけて、野津田の武藤半六郎の手で開かれたという。元は福王寺溜池と呼んだが、池の西側の山に福王寺の薬師堂があり、そのために薬師池と呼ばれるようになった。
     蓮池が広がるが、この時間だとはなは余りない。大賀ハスだという。「水道があれば頭に被りたいな。」「あるらしいよ。」東屋の前に水道があった。まずロダンが水を頭に被り、私もそれに続く。気持ちいい。東屋には風が通り抜けて心地よい。「やっぱり緑は偉大ですよね。」ここで少し休憩をとる。今日は私も飴を持ってきた。妻が買ってきた「塩梅あめ」である。
     太鼓橋は途中で踊り場のような部分をもって少しずれて向こうに行く。「あれはなんですかね?」行けの中に小さな小屋があるのだ。「鳥の家ですね。」
     梅林を通って旧永井家住宅を見る。十七世紀末の建造と推定されているからかなり古い。

     永井家は多摩丘陵で代々農家を営んでいた。この建物は、現在の位置の北方約三・三キロメートルのところにあったが、多摩ニュータウンの建設にともない町田市に寄贈され、昭和五十年(一九七五)にこの薬師池公園に移築された。
     建築年代については資料を欠くが、構造手法からみて一七世紀末ごろと推定される。
     桁行一五・〇メートル、梁間八・八メートル、寄棟造、茅葺で、正面に土庇、土間側面に突起部を設け、屋根を葺き下ろしている。
     平面は広間型三間取りで下手を土間とし、床上にはヒロマ、デイ、ヘヤが配されている。デイは板敷、ヒロマとヘヤは竹簀子で、天井は三室とも簀子天井となっている。ヒロマ正面は袖壁付の格子窓(しし窓)となっており、ヒロマ、ヘヤ境には押板が設けられている。側回りは開口部が少なく、閉鎖的である。
     この住宅は都内では最古に属するもので、広間型三間取りの平面、四方下屋造の構造、しし窓や押板など、神奈川県の古民家と類似点をもち、その分布を知るうえで重要な遺例である。

     禅寺丸柿が一本立っている。川崎市麻生区柿生の原産で、日本最古の甘柿であるとは以前あの辺を歩いて知った。もう一軒、荻野家住宅もあるが、今日はそこまで歩く気力がない。
     水車を見ながら階段を上る。「結構キツイね。」「すぐそこなんですけどね。」鎌倉街道に戻るとバスが通り過ぎて行った。「行ったばっかりじゃないの?」「次は十分後です。」バス停の側は日陰がない。「この道は混むんだよ。」土曜日のせいか、それほどでもないようだ。「桃太郎が町田駅に着いたそうです。」
     バスは定刻通りにやって来た。最初はすいていたバスも次第に乗客が増えてくる。二十分程走って町田駅前に近づくと道幅が狭くなってきた。「ビール冷えてます」の貼り紙が見えた。「冷えてるってさ。」
     終点である。三時半。今日の歩数は一万二千歩と決まった。七キロ程度か。予定通りだが疲労感が強い。なお本日の東京の最高気温は三十四・一度だった。「桃太郎は?」バスターミナルにいるらしい。ハイジ、ダンディ、ヨッシーとはここで別れる。少し待ってやって来た桃太郎はサンダル履きで、つい近所に散歩に来たような感じだ。「家からどのくらいかかった?」「三十分かな。」
     駅前の小さな広場(カリヨン広場)では盆踊りを開催している。スナフキンお薦めの店はまだ開いていないので、さっきの貼り紙の店に入る。ビールが旨い。ここは焼き鳥の店であったらしい。「手羽先の唐揚げはどう?」滅多に食わないものだがこの店のお薦めなら注文するのもいいだろう。大辛、中辛、甘辛とあるが大辛は食えないと思う。カラオケのリモコンのような注文機械は、姫が操ってもうまく動いてくれない。中辛と甘辛を一皿づつ頼む。一皿に五本。
     ビールの後はホッピーだ。それにしても先日から不思議に思っているのだが、ホッピーのビンには黒とも白とも書いていない。外見だけでどうやって区別できるのだろう。
     適当に飲んで終わっても外はまだ明るい。ロダンは帰って行き、四人は久し振りにカラオケに行く。ビッグエコー。桃太郎の各種カードと私の会員カードを並べて、会員カードが一番お得であると鑑定された。
     ちあきなおみ『秘恋』を初めて歌ってみたが声がまるで出ない。私は老いた。菅原洋一『芽生えてそして』、ロス・インディオス『涙と雨に濡れて』、西郷輝彦『恋人をさがそう』、森進一『命かれても』、舟木一夫『初恋』。この選曲はどういう脈絡になっているか。二時間歌ってお開き。

     八月八日、翁長雄志沖縄県知事が死んだ。膵臓癌であった。心から哀悼の意を表したい。戦後七十三年経ってなお、日本はアメリカの属国であることは沖縄に集中的に表れているが、本土に住む私たちの多くはそれを理解しない。白井聡『国体論』に言う、戦後の「アメリカの日本」と言う国体の継続である。元自民党員の翁長はその現実から遂に民権に舵を切った。
     また白井聡『国体論』は今上天皇の生前退位表明の「お言葉」に対して次のように言う。

    ・・・・・・応答せねばならないと感じたのは、先にも述べた通り、「お言葉」を読み上げたあの常のごとく穏やかな姿には、同時に烈しさが滲み出ていたからである。
     それは、闘う人間の烈しさだ。「この人は何かと闘っており、その闘いには義がある」――そう確信した時、不条理と闘うすべての人に対して筆者が抱く敬意から、黙って通り過ぎることはできないと感じた。

     天皇は何に対して闘っているのか。それは安倍晋三に代表される改憲勢力に対してである。それにしても随分久し振りに「義」という言葉を眼にした。これと同じ文脈で、翁長知事の闘いに「義」があると私は考える。しかし不義、不正に塗れたこの国で「義」が勝利を得ることはできるのか。

    蜻蛉