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    番外 蕨宿  平成二十四年十二月八日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2012.12.28

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     旧暦十月二十五日。晴れ。南浦和駅十時集合。改札はひとつしかないが、案内には東口とあったので、階段を降りて行ったが誰もいない。一服してもう一度改札に戻ると、もう大分集まっている。「あれっ、欠席じゃなかったの。」そうか、参加できないと申告していたのをすっかり忘れていた。二日から四日まで、二泊三日で伊勢神宮(外宮・内宮)、熊野三山(速玉、那智、本宮)、高野山奥之院を回っていたので、週末には疲労が重なっている筈だと思っていたのだ。疲労は余りないが、ちょっと腰に違和感があるのは、長時間バスに乗っていたせいかも知れない。
     「ロダンは軟弱ですね。」武蔵浦和からひと駅電車に乗ってきたロダンに、「私は歩いてきたのに」とダンディが自慢している。そこにクルリンが西口の方から現れた。「西口って連絡貰ったから。」
     「もう誰も覚えてないよ」と講釈師が口を尖らすのは、今回は、姫が「浦和倶楽部」第三回目として召集したからだ。第二回があったのはもう何年前になるだろう。私だってすっかり忘れていた。そもそも「浦和倶楽部」に草加や川越の人間が参加して良いかどうかも分からないが、企画者本人も越谷の住人である以上、誰が参加しても構わない。
     「予想外に大勢参加して戴いて有難うございます。」十月に大山歩きが終わり、来年二月からは日光例幣使街道が予定されていて、その繋ぎの回である。たぶん、その延長で参加した人が多いだろう。私としてはも江戸歩きの番外編と位置付けることにする。
     姫、ダンディ、ヨッシー、講釈師、中将、ドクトル、スナフキン、ロダン、シノッチ、マルちゃん、クルリン、カズちゃん、マリー、蜻蛉の十四人が集まった。シノッチとカズちゃんがマスクをしているのは風邪だろうか。寒暖の差が激しくて乾燥しいているから大事にして欲しい。
     珍しく中将がひとりなのが不思議だ。「ちょっと足を挫いてしまったんだよね。」小町は大丈夫だろうか。長引かなければ良いのだが。「あとでハイジが合流しますからね。」イトはんもご近所のようだが、「メールの連絡がつきませんからね」ということで、今回は顔を見せていない。
     西口から歩き始めると丸広が建っている。「埼玉のスーパーかい。」東京の人間には余り知られていないだろうが、埼玉の百貨店である。その角を左に曲がると、やや下りの道の途中の高台が神社だ。「正面から入りますからね。」右に曲がると、十五六段ほどの石段の上に朱塗りの両部鳥居が立っていた。大谷場氷川神社だ。さいたま市南区南本町一丁目九番一号。地元では雉子の氷川様と呼ばれる。そこにハイジが現れた。「ゴメンナサイネ、十時に駅に行くのは間に合わなかったの。」

    創立年代は不詳。大谷場の鎮守社。大谷場の地はかつては一面の畑地が広がっており、この杜には古くからキジが住みついていたという。かつてはやしろに足を踏み入れればキジが飛び出してきたために氏子の間で「キジは氷川神のお使い」とされ「キジの氷川様」と称され崇敬されてきた。
    当社は江戸初期に社殿焼失の古記録がある。現在、覆殿の中にある本殿は寛文六年(一六六六)の造営とされる三間社流れ見世棚造。当初は三間の神座に「男体」「女体」「簸王子」が祀られていたとされる。(「由緒」)

     大谷場は、現在は南浦和駅の東北方面、浦和競馬場を含んだ辺りの字名として残っているが、明治二十二年に周辺の村と合併して浦和町ができるまで、この辺一帯が北足立郡大谷場村であった。つまり京浜東北線によって村が分断されたのだ。また川口市には小谷場がある。また大谷場の東隣は太田窪だから、谷、窪と呼ばれる低地である。面影は残されていないが、かつては一面に水田や畑が広がる地域だった。
     この神社のウリは、狛犬の代わりに鎮座している雉子だ。右の阿形は番い、左の吽形は小さな子を四羽保護している。「こっちから見ると可愛いぜ。」スナフキンが似合わないことを言う。
     この石像はどう見ても明治以前のものとは思えない、比較的新しいものだ。しかしキジを神使とするのは珍しい。「浦和の調神社はウサギですね。」あれは調(つき)の読みから月待ち信仰に関連付けてウサギを配したものだ。ウサギが珍しいので、こちらもそれに対抗して珍しいものを誂えたのではないか。昔から境内に雉子が出没したからだと説明されているが、そんな神社は全国にいくらでもあるだろう。
     狛犬、稲荷の狐、日吉神社の猿の他に、八幡の鳩、鹿島や春日の鹿、熊野の八咫烏、天満宮の牛、弁財天の蛇、秩父三峰の狼なんかは良く知られている。珍しいものでは隅田川神社の亀、寄居町風布の姥宮(とめみや)神社の蛙を見たことがある。
     因みに、こういう狛犬以外の動物を「狛狼」とか「狛兎」なんて言う人がいるが(ネット上でよく見かけるのだ)、それは間違いである。「狛」は「高麗」であり、朝鮮半島を経由して齎された想像上の犬(及び獅子)を呼ぶ。それ以外の動物にコマを付けて呼ぶのはあり得ない。
     「本殿は寛文六年の造営とされる三間社流見世棚造」と説明はされているが、覆殿の中に入っているから見ることができない。
     推定樹齢百年のユリノキの前に立つと、ダンディお得意の大正天皇に纏わる講釈が始まった。古いメンバーはもう何度も聞いているが、シノッチやクルリンは初めて聞くように感心している。私が天皇を擁護することは滅多にないのだが、ここでちょっと大正天皇の名誉回復を試みてみようか。
     ユリノキを英語ではTulip treeと呼ぶが、学名はLiriodendron tulipiferaである。ギリシャ語のleirion(百合)+dendron(樹木)に由来し、単純に和訳すればユリノキ属チューリップの木となる筈だ。大正天皇はこの学名を知っていた可能性がある。と言うのは眉唾である。
     大正天皇命名説の出所は小石川植物園で、明治二十三年十一月三十日、当時皇太子であった大正天皇が行幸した際に命名したとされているのだ。この年、皇太子は満十一歳である。学名を知っていたとは思えないが、子供らしい直感でユリノキと言ったとしても許される範囲であろう。知能に障害があった(と噂される)大正天皇だが、そのことの例としてユリノキを持ち出すのはちょっと違うような気がする。偶然それが学名にも通じていたから、お付きの植物学者たちも納得したのではあるまいか。
     このユリノキは日清戦争凱旋記念に植えられたと伝わっている。案内板が作成された平成十年の時点で、幹回り三一五センチ、樹高二一・八メートルが目視で確認された。
     さいたま市文化センター(市立南浦和図書館を併設)でトイレを借りる。さいたま市南区根岸一丁目七番一号。
     南に歩き始めると、大きな駐車場を持つ銭湯が現れた。「みなとの湯」さいたま市南区根岸二丁目一七番一八号。「講釈師が好きなのよね。」それにしても間口の広い銭湯だ。一階部分は駐車場になっているようで、風呂は二階になるのだろう。この地区で「みなと」の意味は分からない。「こんな住宅地に銭湯は珍しい。」「普通の銭湯を変えたんだろう。」なるほど、ここはスーパー銭湯と称していて、三十種類の湯と四つのサウナを設置しているのだ。
     辻五反田で中山道(一七号)と合流する。少し先で一七号から外れると、すぐに小さな公園があり、その道路脇に「辻一里塚の跡」と刻まれた石碑があった。脇には弁才天の小さな石祠がおかれている。外環道路を見上げる位置で、昭和六十二年に建てられたものだ。さいたま市南区辻七丁目四。
     ここが旧街道になるわけだ。「中山道がここを通っているなんて知らなかったわ。」地元のハイジも知らなかったのに、ダンディは知っていた。「中山道は随分昔に歩いたことがあるから。」弁天が祀られているのは、湿地帯で通行に難が多かったためだと説明されている。さっきの大谷場でも触れたが、荒川まで低湿地が続いていて頻繁に洪水が起きていた。
     「日本橋から何里かな。」「そういうのは蜻蛉が調べてくれるでしょう。」「ダメだよ、自分で調べるっていう意識がないと。」講釈師がことさらに難しい顔をする。「ただついて歩いていればいいもんじゃない。勉強しようとしないやつは除名だな。」ここは日本橋から五里に当たる。一里目は本郷追分、次いで板橋平尾、志村、戸田と続く。この中では志村坂上の一里塚だけが昔の姿を残している。
     公園の隅の塀に「この付近にみだりに  をすてると法律により  されます。浦和市長・浦和警察署長・浦和西警察署長」のプレートが打ちつけられていた。「なんだい、何を捨てるとダメなんだ。」「何をされるのかな。」後から消したようでもなく、その空白は綺麗な生地の色そのままである。謎だ。
     ここから旧街道は一七号線にほぼ並行していく。「中山道蕨宿」の木の標柱の脇に「境橋のいわれ」という立て札を立てたのは「一六会」である。「一天地六、博打の会じゃないか。」講釈師はまた面白いことを言う。ついでだから、一天地六、南三北四、東五西二なんていうのも書いておこうか。サイコロの六面は天地東西南北を象徴する。
     私は質屋の業界かと思ってしまった。「一六銀行ですよね。」脇を流れるのは確かに農業用水路だが、用水の上は蓋がしてある。

    この橋は、蕨宿と辻村との境を流れる見沼用水分流の笹目用水に架かっており、そこから境橋と名付けられた。

     一丁ほど行くと「中山道蕨宿一六橋」の標柱が立っていて、ここで「一六」の意味が分かった。蕨市錦町六丁目。中世には六斎市として、毎月一日と六日に市が立ったので一六橋と名付けられたのである。博打も質屋も何の関係もなかった。しかし「一六会」がそれとどう関係しているかは分からない。
     水はひどく汚れて澱んでいる。道路の反対側で暗渠になっているが、ここから直角に曲がってさっきの境橋の方に繋がっているのだろう。「だから澱むんですね」とヨッシーも頷いている。
     大谷石で造ったような蔵を持つ家が現れた。柱には森永牛乳の古い木製の箱が取り付けられている。街道の面影を残す黒壁の二階家が数軒見える。
     「ちょっと早めですがお昼にします。」姫が連れて行ってくれたのは、旧街道と一七号とが斜めに交差する所にたつ華屋与兵衛蕨店である。蕨市北町三丁目五番七号。「洋食の店でしたか」とダンディが珍しくおかしな質問をし、「和食ですよ」とロダンが答えている。華屋与兵衛は江戸両国の寿司屋であり、握り寿司を考案したと伝えられている。その名を貰っているのだから和食に決まっている。しかし、このチェーンは江戸の華屋とは全く関係がない。
     因みに、両国回向院前の華屋の与兵衛鮨、深川安宅六間堀の「松がすし」(握り寿司と押し寿司)、日本橋人形町の「毛抜鮓」(笹の葉で巻く押し寿司)を「江戸三鮨」と言う。そして握り寿司を考案したのは松が寿司だという説もある。与兵衛は文政七年(一八二四)、松がすし(松のすし)は文政一三年(一八三〇)の創業だが、それに対して毛抜鮓は元禄一五年(一七〇二)と百年も古い。つまり寿司の古い形を残していたのだろう。
     「華屋って、前にも入りましたよね。」カズちゃんの記憶も正しい。たぶん、寄居の華屋ではなかったろうか。十一時半はまだ客の入る時間ではないからまるで空いている。私はロースカツ定食九百二十四円にランチドリンク百五円にした。ランチドリンクは数種類あるが、コーヒーだけはお代わりができる。
     ダンディは牡蛎鍋が食いたいと言っていたのに、「ダメだ。昼に鍋なんか」と講釈師が叱るので、同じカキフライにした。「やっぱり牡蠣鍋がたべたかったな。」講釈師とロダンのドリンクはリンゴジュースである。それを見てダンディが「お上品だね」と囃す。講釈師は昔、クリームソーダばかり飲んでいたじゃないか。
     それほど混んでもいないのに料理がなかなか出てこないのは、この昼時にスタッフの数を抑えてあるからだ。しかし今日は土曜なのだから、もう少し手当てしても良いのではないか。料理が運ばれてきたのは三十分も経ってからだった。ダンディは女性陣の食べている御膳を眺め、姫から茶碗蒸しを貰って喜んでいる。
     「埼京線はどっちの方角だろう。この店は電車の中から右に見えるか左だったか」とダンディとロダンが議論しているのに、私は全く違うことを口走ってしまった。「だってまだ線路を渡ってないだろう、だから向うだよ。」ロダンが困ったような顔をしたのは当然だ。この時、私の頭に浮かんでいるのは京浜東北線の線路のことであり、埼京線とは違うのである。頭脳がかなり疲労している。これは老化であろうか。
     コーヒーのお代わりも時間がかかる。結局、当初の姫の予想通り、一時間もこの店にいることになった。

     華屋と向かい合う角の交番(北町交番)が、蔵造りのような白い壁に瓦屋根を葺いた珍しい形だ。宿場町のイメージに合わせ、警察も色々考えるのである。旧街道の方には宿場の入り口を示す柱が立ち、開宿四百年の幟がはためいている。
     しかし私たちはそちらには行かず、ちょっと北側の街道裏の道に入っていく。屋根付きの真新しい門の真正面に幅三十センチ、長さ三メートル程の板が立てかけられているのが不思議だ。「台車なんかで荷物を運ぶときに使うんだよ」と講釈師が言う。確かに、下の部分に蝶番が、上部には滑車に紐が結び付けられている。道路側に引き下ろせるようになっているのだが、しかしこれは台車のためではなかった。

     江戸の昔、蕨宿の周りには用水と防備を兼ねた構え堀が巡らされていた。この堀に面した家々には小さな跳ね橋が設けられていて、早朝下ろされ、夕刻になるといっせいに跳ね上げられた。 宿場の出入り口である上下の木戸も同じ時刻に閉じられるので、夜の蕨宿は隔絶された小さな空間となっていた。 跳ね橋は、北町の一角に一つのみであるが、今日まで残されている(徳丸家の跳ね橋)。(ウィキペディア「蕨宿」より)

     これは蕨宿にただ一つ残ったものを、徳丸氏が復元したのである。隣家の火事によって一度は取り外したものを、去年の九月に門を新しくしたときに復元した。たとえ元のままではなくても、こういうものが蕨宿にあったことを教えてくれるのはとても有難い。全国的にも珍しいものだ。勿論、現在では堀は暗渠になっていて実際上の必要性は全くない。むしろ生活上は不便かもしれないのだけれど。
     次は金亀山極楽寺三学院(真言宗智山派)だ。蕨市北町三丁目二番四号。広い駐車場の正面は長屋門で、駐車場の右端に仁王門が立つ。

    三学院は、京都の新義真言宗智山派総本山智積院の末寺で、金亀山(こんきさん)極楽寺三学院という。創立年代は不明ですが、本尊の木造十一面観音菩薩立像が平安時代後期の作であることや、他に現存する資料から中世以前の創建と考えられている。
    天正一九年(一五九一)には、徳川家康より、寺領二〇石を寄進する旨の朱印状が授与されており、以後徳川歴代将軍からも同様の朱印状が与えられている。 また、三学院は、足立坂東三十三観音霊場の二十番、北足立八十八霊場の三十番にあたる札所としても知られている。また、江戸時代には「関東七ヶ寺」の一つとして僧侶の教育機関であった。
    初めは中山道の三学院入口角にあったが、明治元年、明治天皇の氷川神社行幸の折りに、参道の中ほどへ移され、さらに昭和二三年、現在の仁王門前に安置された。

     新義真言宗の関東七ヶ寺は、三学院(蕨市)、錫杖寺(川口市)、三宝寺(練馬区)、宝仙寺(中野区)、総持寺(足立区)、明星院(桶川市)、一乗院(熊谷市)。そう言えば練馬の三宝寺も立派な寺だった。
     蕨にこんなに立派な寺があるのは知らなかった。境内に入ってまず目につくのは三重塔だ。江戸時代のものではなく、もっと新しいものだがなかなか素敵だ。鐘楼、本堂も良い。総じてこの境内の建物は戦後になってから建てられたように見える。蕨も昭和二十年には三回も空襲にあっているから、そのせいだろうか。
     手水舎には首を長く伸ばした金の亀がいる。玄武と言う方が正しいか。「純金でしょうかね。」「純金だったら、講釈師が黙っていませんよ。」「そうだね」とヨッシーが笑う。例のふるさと創生とか言って一億円の補助金がばらまかれた時、吉川市では金のナマズを造って、すぐに髭が盗まれてしまったことがある。あれも講釈師が関係していたに違いないと私は睨んでいる。本堂の隣の方に小さな洋館が建っているのもおかしい。
     「三学って何でしょうかね。」ロダンが疑問に思わなければ、調べようという気にもならなかったから有難い。儒仏と他に何だろうかと考えたのは私の無学である。哲学堂公園にある三学亭を連想したのだ。あれは神儒仏の代表者である平田篤胤、林羅山、釈凝念の石額を祀ってあった。しかしここで言う三学とは仏教の戒、定、慧のことである。

    仏教を修行するに際して必ず学ぶべき最も基本の修行法。すなわち戒学(かいがく)、定学(じようがく)、慧学(えがく)をいう。戒は禁制の意味で、身心の悪い行を抑制すること、定は心の動きを静め、精神を統一すること、慧は理性により道理をありのままに悟ることである。これらの三つは互いに不即不離の関係にあり、仏道修行にとってどれが最も大切か、大切でないかという区別はなく、また、その一つは必ず他の二つを伴って完成されるものである。 (『世界大百科事典』)

     これを三蔵に当て嵌めると、それぞれ律経論に相当する。三蔵とは、仏教経典を三種類に分類して纏めたもので、これらをインドや西域からもたらして漢訳した僧侶は、一切に通暁していると尊敬され三蔵法師と呼ばれた。だから夏目雅子だけでなく、鳩摩羅什や、真諦、不空金剛も三蔵法師であった。
     仏舎利殿金亀舎利塔は六角堂(八角?)で壁の模様が中国風だ。ここに、その三蔵法師の遺骨が納められていると言うのだ。玄奘三蔵の遺骨が今も本当に残っているものかどうかの判断はしない。

     孫悟空、西遊記で尊崇され、親しまれている玄奘三藏法師は、今から千二百前中国唐の太宗の時長安の王華宮で遷化されました。その後、度々の戦乱のため、その霊骨は数回移されたので、その後長い間埋骨の場所すらまったく不明とされて居りました。ところが昭和一七年当時南京に駐屯していた、高森部隊が整地作業の際石棺を発見しました。
     中から三百余点の宝石、文献、霊骨が現れ更に調査研究したところ、正しく三藏法師の霊骨と副葬品であることが確認されたので高森部隊はこれらのすべて、中国国民政府に引渡しました。
     国民政府は戦乱中ではありましたが、霊骨を最高の禮を盡してお迎えすると共に間もなく非常な苦労をして当時数百億円という巨費を投じて南京城外の玄武山上に大陸式霊骨塔を、建立したのであります。・・・・
     玄武山上の霊骨塔落慶式の後国民政府は偉大なる世界の覚者玄奘三藏法師の霊骨の一部を日本に分贈する旨の申出が日本政府にあり日本佛教連合会の代表として、前三学院住職第三十世倉持秀峰和尚が、三藏法師の頂骨を日本国に捧持し丁重に慰霊法要を営みました。・・・・偉大なる世界の覚者玄奘三藏法師の霊骨は先師の遺訓を守り、金亀舎利塔内の水晶の壺の中に安置佛舎利殿に奉安され奉仕の遺徳の顕彰に努めることになりました。

     日本佛教連合会の代表として遺骨を受け取った倉持秀峰和尚は、智山派総本山智積院の第五十七世である。日本へ渡った頭骨は当初芝増上寺に安置されたものの、空襲を避けて一時三学院に移され、更に岩槻の慈恩寺へ移された。
     しかし戦後になって、これは汪兆銘の南京政府からの寄贈であり、返還しなければならないのではないかとの議論が起った。何しろ、蒋介石と対立して傀儡政権とされていた南京政府である。それでも蒋介石からは返還不要との回答を得て、漸く正式に慈恩寺に奉安された。それでは慈恩寺のホームページも見ておこう。

    戦時中に中国政府から贈られた霊骨ではありますが、戦時下の事で、このままで良いのか・・という問題が提起されました。
    この頃、慈恩寺に寄宿しておられた仏教連合会顧問の水野梅悟氏が新中国の蒋介石主席と親交もあり、主席の意向をお伺いすることになりました。
    昭和二十一年十二月、霊骨奉安三周年記念法要の際、蒋介石主席の意向が伝えられました。
    「霊骨は返還に及ばないこと、むしろ日中提携は文化の交流にあり、日本における三蔵法師の遺徳の顕彰は誠によろこばしいことであり、しかも、奉安の地が法師と何等かの因縁の地であるからは、この地を顕彰の場と定めては」との意向であり、こうして正式に慈恩寺の地に霊骨塔建設が決定したのであります。(http://www.jionji.com/sanzou.htm)

     その慈恩寺(天台宗)には、十三重の石塔「玄奘塔」が建てられている。更に台湾の玄奘寺(昭和三〇年)と奈良の薬師寺(昭和五六年)からも分骨の依頼を受け、日本仏教連合会の協議を経て慈眼寺から分骨された。ただ三学院は一時的な避難場所であって、正式に分骨を受けたものではないようにも見える。不思議なことだ。

     小春日や三蔵眠る蕨宿  蜻蛉

     こんなことを探している内、偶然、発見者の遺族の証言を発見した。このひとは薬師寺に行って思い出したのである。

     私事で申し訳ないが、その時、昔、わたしの父がお酒を飲んで酔ってくるとよく「戦時中、南京で三蔵法師のお骨を見つけた」という話をしていたのを思い出した。・・・・
     父の話だと「高森部隊」というのは存在せず、正式には「支那派遣軍総司令部栄一六二五部隊(第50兵站警備隊)」の「高森小隊」のことだという。昭和十七年のこと、父はちょうど初年兵で、軍事訓練中に南京の紫金山の山頂で、同年兵が見つけ「何だろう」言っていたところ、父が「玄奘と書かれてあるから、あの三蔵法師のことだ」と言ったら、高森小隊長が「俺が預かっておく」と持っていってしまったとのこと。父はその後、南京捕虜収容所勤務となり、その後どうなったかは知らないという。「あの三蔵法師のお骨はどこへ行ったのか」と気にかけていた父に、薬師寺にある玄奘三蔵院のお骨のことを話したら、大変喜んでいた。「戦時中の日本はひどいことをした」といつも話していた父には予想外の吉報であったようだ。(野尻昌彦http://www2.gol.com/users/nojiri/buddhism.html)

     姫に連れられて墓所の方に回る。「宝篋印塔があるんですよ。」かなり古い形の五輪塔や位牌型の墓石がぎっしりと並ぶ一角は、蕨宿関連墓石群として集められたものである。そこから続いて阿弥陀堂の裏手に回ると、姫の言う宝篋印塔が建っていた。かなり背が高いから目立つ。宝永二年(一七〇五)のものだ。「もう一つ向こうにも。」こっちは寛政九年(一七九七)のものだ。
     そこに並んで建つ木食観正塔(文政四年)というのは不思議な形だ。

    この石塔は木食観正上人(一七五四~一八二九)の蕨宿来訪を記念し、文政四年(一八二一)に三学院の住職らが中心となり、蕨宿など三宿二十七箇村二百九十八人の人々により造立されたものである。高さが約一・九メートルあり、蕨宿の石工稲垣金兵衛が製作した大型の石造物です。
    地上に四段の基壇を重ね、二段の基礎及び蓮台脚と蓮台を載せ鏡型の塔身が置かれています。

     鏡型の塔身というのは、一番上に載せられた厚さ十センチ、直径三十センチほどの円盤のことだ。表面に彫られた種子は大日如来を表す「アーク」であるらしい。私は木食観正を知らず、観正塔という塔だと思ってしまった。

    木食観正という僧侶がいました。木食とは米穀を断ち木の実を食べて修行することで、そのような僧を木食上人と呼びます。木食観正は、宝暦四年(一七五四)に淡路国に生まれました。寛政九年(一七九七)から文化七年(一八一〇)まで、日本廻国修行の旅に出て、文政元年(一八一八)からは、関東地方で盛んに布教活動を行いました。木食観正は加持祈祷の行をもって、雨乞い、火伏せ、病気平癒、大漁祈願などの、庶民の現世利益の要求に応える精力的な活動をして、多くの信奉者を集めました。その信奉者が木食観正の名を刻んだ石碑を建立しました。http://tama-kosatsu.at.webry.info/200912/article_5.html

     ところで木食が固有名詞でないのは勿論のことだ。元々は即身成仏のために、五穀を断ち火食肉食も断って、木の実だけを口にしたことから始まった筈だ。やがて木食戒を受け、日本回国修行をする僧侶を木食上人と呼ぶことになる。ウィキペディア「木食」から主な人物を拾ってみるとこんな風になる。最も有名なのは円空だろう。
     行勝(一一三〇年~一二一七年、木喰上人)、木食応其(一五三六年~一六〇八年)、弾誓(一五五二年~一六一三年)、快元(一五七三年~一六二四年頃、大峯山寺を再興)、円空(一六三二年~一六九五年)、木食恵昌、木食養阿(?~一七六三年、恵昌の弟子)、木食明満(一七一八年~一八一〇年、造仏聖、五行、行道)、木食白道(一七五五年~一八二六年、造仏聖・明満の弟子)、徳本(一七五八年~一八一八年)。
     ここに観正は出てこなかった。ほぼ同じ時期の木食なら、徳本行者の方が有名ではないだろうか。観正より四歳若く、十一年早く死んでいる、紀州のひとで、木魚と鉦を激しく叩きながら念仏を唱え、特に一橋家の尊崇を受けたことが有名だ。徳本の書いた南無阿弥陀仏の六字名号碑は独特な書体で、それをどこかで見たことがあるのだが思い出せない。
     出口に一番近いところには大きな「伴門五郎之碑」が立つ。「誰でしょうかね。」誰も蕨の偉人を知らない。碑は割に新しいが、徳川恒孝書とあるからかなりの有名人ではないだろうか。裏面を見れば彰義隊であった。

    伴門五郎貞懿(さだよし)(一八三九年~一八六八年)は、蕨宿の名主岡田平左衛門の三男に生まれました。叔父の伴経三郎貞栄の跡をつぎ、柳剛流剣術家岡田十内に入門しました。幕府に仕えて徒士隊に入り、文久三年(一八六三年)将軍家茂の上洛、慶応元年(一八六五年)長州征伐に従軍し、翌年陸軍調役になりました。彰義隊の結成当初からこれに加わり、のちに彰義隊頭取に就任しました。三〇歳のとき上野戦争で戦死しました。三學院に「伴門五郎の碑」が建っています。墓は谷中の全生庵にあります。(蕨史跡探訪会)http://www.geocities.jp/warabidora/history/jinbutsu.html

     この記述の中で、「のちに彰義隊頭取に就任しました」というのは、ちょっとおかしい。彰義隊結成当時の幹部は、頭取に渋沢成一郎、副頭取に天野八郎、幹事に本多敏五郎、伴門五郎、須永於兎之輔の布陣である。上野戦争前に方針の違いによって渋沢が去って振武軍を結成し、実際には天野が頭取の任についたのではないか。そして門五郎は上野戦争当日(慶応四年五月十五日)に戦死したから、頭取に就任する暇はなかった筈だ。
     仁王門から境内を出ると、向かい側に広々とした地蔵堂があり、天井には釣り灯篭がいくつもぶら下がっている。六地蔵は寛文から元禄期に作られたもので、もとは三学院総門の前にあったという。舟型光背を持つ目疾地蔵(万治五年)の眼が赤いのは、味噌を塗ると効験があるからだ。高さ二・四メートルの子育て地蔵(元禄七年)もいる。

     旧街道に出るとマンホールの蓋が眼についた。「武州中山道蕨宿」に描かれているのは三度笠、合羽の人物だが、河童のようにも見える。道はますます旧街道の趣が深くなってきた。新しくても、古い形を残したように建てられた家も並んでいる。鋪道には中山道六十九宿の各宿場の浮世絵がパネルにして埋め込まれている。柏原宿、関ヶ原宿、赤坂宿。
     横に入る道の角に「地蔵の小道」の石柱を見つけた。ずっと向こうに門が見え、その向こうにはさっき見た仁王門がかすかに見える。つまり、あの門が総門で、その前に六地蔵が立っていたのだろう。「鈴木薬局」と一行一字縦書き(右から横書きと言う人もいるが)の板看板を掲げた二階家がある。
     中山道武州蕨宿。浦和宿一里十四町、板橋宿二里十町。日本橋から四里二十八町となる。蕨宿の規模は、天保十四年(一八四三)の調べで、四町からなる町並み十町、宿内人口二千二百二十三人(男千百三十八人、女千八十五人)。家数四百三十軒で、この中に本陣二軒、脇本陣一軒、旅籠二十三軒が含まれる。板橋宿の二千四百四十八人、五百七十三軒にほぼ相当する規模だから意外に大きい。そして浦和宿は蕨宿のほぼ半分の規模だった。どうしても現在の浦和と蕨を比較してしまいがちだが、江戸時代には蕨の方が浦和より栄えていたのである。
     角に建つ船橋屋で、中将が和菓子を買うと店内に入って行った。蕨市中央五丁目一七番二〇号。「いいわよ、先に行ってて。ワラビ神社でしょ。私知ってるから。」マルちゃんが中将を待ってくれることになったにで先に行く。彼女は戸田の人だから、この辺にはしょっちゅう来ているらしい。そして彼女の説では、蕨で一番うまい和菓子屋がこの船橋屋である。創業は大正九年、「中山道蕨宿公式サイト」によれば、お勧めは「わらびくん」である。

    蕨市のマスコットである「ワラビー」をキャラクターにした「わらびくん」を筆頭に、皮が緑色をした「よもぎ」入りの柏餅など新規商品開発に取り組んでいます。
    http://www.warabijuku.com/shop/%E8%88%B9%E6%A9%8B%E5%B1%8B%E8%8F%93%E5%AD%90%E5%8F%B8/

     中将が何を買ったかは分からない。小町への証拠品かと思ったが、実は都内に住む娘さんへの土産であった。今日はこの後、娘さんの家に向かうようだ。
     ここから東に入る。市役所を過ぎた先に和楽備神社があった。和楽備神社なんていい加減な名前だと思ったが、やはり本来は八幡社である。明治末年の神社合祀によって名前を変えたのだ。

     当社の創建は明らかではないが、社伝によれば、室町時代に蕨を所領とした足利将軍家の一族、渋川氏が蕨城を築き、その守り神として八幡大神を奉斎したのがはじまりであるという。ところで、「渋川直頼譲状写」(加上家文書)には、観応三年(一三五二)渋川直頼から嫡子金王丸に譲られた所領の内に「武蔵国蕨郷上下」が記載されている。また、「鎌倉大草紙」には、長禄元年(一四五七)渋川義鏡は、曽祖父義行が蕨を居城としていた関係で、室町幕府から関東下向を命じられたとある。さらに、当社の旧御神体「僧形八幡立像」には、天正一一年(一五八三)の墨書銘があり、創建の年代をうかがい知ることができる。江戸時代には「蕨八幡」、「上の宮」と呼ばれ、「中の宮」(氷川社)、「下の宮」(氷川社)と共に蕨宿三鎮守として、重きをなした。三学院末成就院が別当として祭祀を掌った。
     明治六年村社に列し、明治四四年(一九一一)十二月十五日町内の十八社を合祀して「和樂備神社」と改称する。岡田健次郎町長の草案をもとに東宮侍講文学博士本居豊頴先生が命名したという。また、合祀に伴い埼玉県菖蒲町出身の林学博士本多静六先生に設計を依頼し、境内整備が行われ、大正の末に現在の風致の原形が完成する。(由緒)

     万葉仮名ではワラビは和良妣と書くという説を見かけたが、ラを楽、ビを備と書く例もある。ところで、蕨市のワラビの由来は良く分かっていないようだ。

    蕨という名前は歴史が古く地名の由来は文献にも残されていないが、諸説伝わっているうちの主に二つの説が有力とされている。
    源義経が立ちのぼる煙を見て「藁火村」と名付けた、在原業平が藁をたいてもてなしをうけたところから「藁火」と命名したという「藁火」説。
    僧慈鎮(じちん)の「武蔵野の草葉にまさるさわらびをげにむらさきの塵かとぞみる」の歌をもって名付けた、近隣の戸田市や川口市にもある地名の青木、笹目、美女木などの植物にならって命名したという「蕨」説。(ウィキペディア)

     僧慈鎮の名を見て分からなかったのは恥ずかしいが、慈円のことだった。天台座主に四度も就き、『愚管抄』を著した人物で、武蔵国に来た事なんかはない筈だ。その歌を以て、この蕨のことだと判断したのはどういう理由だろうか。私が植物学に無学な人間なのは誰でも知っているが、蕨がこんな低地に多く自生するものなのだろうか。
     小さな石造の太鼓橋を渡る。社殿は平成八年の火事で焼けたため、再建されたものだ。享和元年の宝篋印塔とされているのは、私のイメージにあるものとは違う。相輪がなくなっているから、ちょっと変わった石燈籠にしか見えない。
     狛犬は左右両方とも口を開けている。髪型が独特で、右の方は首に何かをぶら下げていて珍しいが、これは台湾製のものだった。日清、日露の戦役記念碑が目立つ中で、乃木将軍の像があるのは何故だろう。そもそも乃木稀典は、その拙劣な戦術で大量の戦死者を出した責任者ではないか。
     小さな天神社(江戸時代初期)と稲荷社(江戸中期)が並んで建っている。この稲荷社はかつての八幡社の本殿であったという。屋根を見て、これが一間社流造だとスナフキンに教えた。最近覚えたばかりなので言い触らしたい。これが三つ横に並ぶと三間社になる。
     「オモカネって書いてるわよ。」建築祖神碑は「八意思兼命」である。マリーの言うように、説明には「ヤゴコロオモカネノミコト」とルビを振っているが、普通は「オモイカネノミコト」と読むのではないか。思い(思慮)を兼ね備えるという名であり、オモカネでは何のことか分からない。アマテラスが岩戸に隠れた時、外に出すための知恵を八百万の神に授けたのである。何故か大工・建築の神、また天気の神ともされている。
     木遣塚もある。木遣唄は鳶や火消しが愛好したもので、これは蕨鳶消防組合結成三十年を記念して建てられた。
     神社の裏は公園になっていて、植え込みの中に裸体の女の像が建っていた。「ずいぶんふっくらとした像だね。」太っていると言った方がよい。「成年式発祥の地記念像」である。「成年式と成人式と違うのかい。」ドクトルの疑問には次の説明を読めば良い。

     蕨市は、全国で始めて成人式を行なった町。昭和二一年(一九四六)十一月二二日、敗戦のため虚脱状態にあった若者たちを励まそうと、蕨町青年団が中心となり、「成年式」の名称で、現在の市立北小学校で行なわれました。 
                   昭和二三年(一九四八)には、「成人の日」として国民の祝日になりましたが、現在でも蕨市では、「成年式」の名称で二〇歳の祝典を実施しています。(蕨市)

     私は成人式には全く関心がなく、自分の時にも行かなかった。今の成人式は呉服屋と美容院のためにある。それに現在の若者全般の知的レベルを考えれば、二十歳成人というのも考え直すべきではなかろうか。昔、山根一眞が人生ゴムバンド説を唱えたことがある。寿命の延長に伴って、かつての時期に相当する年齢は相対的に後ろに下がると言うもので、なるほどと思わせた。仮に寿命六十年の時代の二十歳を、寿命八十年に当て嵌めて比例計算すれば、二十六・六歳に相当することになる。
     それはともあれ、実は宮崎県東臼杵郡諸塚村にも成人式発祥の地の碑が建っているらしい。参考までにこれも併記しておきたい。

     昭和二十年八月、日本は第二次世界大戦に敗れ、満二〇才の男子を対象に実施されていた徴兵制度も廃止された。国民は未曾有の敗戦により希望を失い、道徳は廃れ、郷土の将来を背負うべき若者から成人としての自覚が喪失されつつあった。これを憂えた先輩たちは郷土の復興を願い諸塚村文化会を結成して教育に力を注いだ。
     当初は昭和二一年から男子二〇才、女子一八才の男女を対象に、約一〇日間の宿泊訓練(成人講座)を行い、最終日を成人祭と称して証書を授与したのが成人式の始まりで、第一回は昭和二二年四月三日である。二年後の昭和二四年には国でも成人の日が制定された。
     http://hamadayori.com/hass-col/culture/SeijinSiki.htm

     これをみると、蕨市のほうが半年早く始めたことになる。ただ、こうした動きは各地にあったのではないだろうか。ニュートンのリンゴの木もある。
     ここは中世の蕨城址でもあるが、その形跡はほとんど残っていない。かなり大きな「蕨城址碑」の後ろ(神社との境界)が堀だったのだろう。この碑文は諸橋轍次によるものだった。
     長禄年間(一四五七~一四六〇)、渋川義行によって築城されたと言う。しかし、ここは全くの平城である。「戦国時代にこんな平城が役にたったんでしょうかね」とロダンが首を捻っている。「城というより館だろうね」とは言ってみたが、確かに不審だ。周囲が泥田や堀だったとしても、戦闘を想定しているとはとても思えない。
     渋川氏は足利将軍家に最も近い一門だった。足利泰氏の子の義顕が上野国渋川を領して渋川氏を名乗ったのが初めである。義行の父は渋川直頼、母は高師直の娘。伯母に将軍足利義詮の公室渋川幸子がいる。まず名門の御曹司と言ってよいが、九州探題に任命されながら南朝勢力の抵抗にあって、一度も九州に足を踏み入れることなく探題を更迭された。都へ戻って剃髪し、二十八歳で死んだ。武将として何の取り柄もない人物だったと思われる。
     案の定、この城は後に簡単に滅ぼされる。但し滅ぼしたのが北条氏綱だったり、関東管領上杉氏だったりして、史料に混乱がある。
     もう一度船橋屋の角に戻り、旧街道を南に少し行くとすぐに本陣跡に着く。蕨宿には本陣が二軒、岡田加兵衛家と岡田五郎兵衛家とが向かい合うように建っていた。その加兵衛家の敷地の一部が蕨市立歴史民俗資料館になっているのだ。蕨市中央五丁目一七番二二号。
     街道に面した敷地の一部が切り込まれて、黒塗りの柱と梁の間を漆喰壁で覆っている。その入口に中山道蕨宿の古い道標が立つ。「大佛次郎のお兄さんですよ」と姫が言うのは、細長い石に彫られた句碑である。

     行く春や旧本陣のお宿帳  野尻抱影

     「天文学者でしたか」と姫が訊いてくるが、英文学者であり、星に関わる神話や民俗の蒐集家と言った方がよいだろう。私は講談社学術文庫で『星の神話・伝説』を読んだことがある。どちらかといえば子供向けのものだ。
     天保期にここに宿泊した諸大名の一覧表が壁に掲げられている。これが抱影の言う「お宿帳」だろう。尾張大納言、紀伊大納言から始まる大名一覧、公家僧侶四人の後ろに「姫君」が並び、末尾には和宮の名も記される。
     「和宮の偽物だけどね。」ダンディは有吉佐和子の説を固く信じているが、私は疑う根拠を持っていない。少なくとも現時点での歴史学界で、替玉説を信じる研究者はいない。
     増上寺の遺骨発掘調査によれば、身長一四三センチ、体重三四キロ。反っ歯と内股が特徴で、上流階級女性独特の体躯だったとされている。歯が悪いのは固い物を食わなかったためだ。特に替玉説を補強する証拠は見つかっていない。異常があったとすれば左手首の欠損だが、骨がかなり脆かったことも確認されている。『和宮様御留』は、ジンギスカン・義経説と同じように、歴史を種にしたミステリーとして読めばよい。
     「明治元年天皇氷川神社に行幸の砌」という大きな銅版の絵も飾られていた。明治天皇は明治元年(一八六八)九月二十日に京都を発し、十月十三日に江戸城に到着した。江戸城は即日、東京城と改称された。十月二十八日、関東の神社では初めて大宮の氷川神社に行幸している。氷川神社を武蔵国の鎮守として重視した表れだ。氷川神社に所蔵される「氷川神社行幸絵巻」には、鳳輦を中心に供の人々、鉄砲隊、鼓笛隊など総勢五百四十名の壮大な行列が描かれていると言う。
     格子にガラスを嵌め込んだ引き戸を開けて暖簾を分けて中に入ると、蕨市がこの資料館に力を入れているのがよく分る。これだけのものを無料で開放しているのはエライ。
     蕨宿のジオラマがある。商家の店先や旅籠、本陣の一室を再現したものがある。江戸末期から明治時代の蕨が織物業の盛んな土地だったことも初めて知る。蕨の織物は、秩父銘仙等とは違って木綿糸を織ったもので、普段着や作業着として用いられた。
     文政九年、塚越村の高橋新五郎(五代目)が、従来のイザリバタ(地機)より効率のよい高機を使って青縞を織り、江戸に売り始めた。これが産業としてのはじまりのようだ。しかし、横浜開港によってイギリス製の綿糸が輸入され始めると、地場の綿産業は破壊的な影響を受けた。

     江戸時代の末、横浜が開港され、文久元年我国にはじめて英国製綿糸が渡来しました。塚越の高橋新五郎(六代目)は、これを入手し「塚越二タ子」を織り出しました。世間では珍しい織物と評判を呼び、販路を拡大しました。
     明治二十年代後半に「塚越二タ子」を改良した「双子織」が開発され、明治三十六年に大阪で開催された第五回内国勧業博覧会に出品して好評を博しました。こうして蕨の街は国内はもとより樺太にまでその名知られるようになりました。
     しかし、手織りから力織機への転換に遅れをとり、他産地にその販路を奪われ、昭和に入ると急速に衰退し、幻の織物になってしまいました。(中山道蕨宿商店街振興組合)
     http://www.warabi.ne.jp/~shukuba/orijinaru.htm

     随分綺麗な青面金剛がいた。手にする武器の形が明瞭で、邪鬼も三猿もくっきりとしていて、こんなに綺麗なのは珍しいと思っていると、「ハリボテだよ」と講釈師が言い出した。「ホラ、叩いてみな。」コツコツ叩いてみると確かに音が違う。レプリカであった。
     ここでロダンは半日券を使い果たした。「何だ、まだいたのか。早く帰れよ。」相変わらずである。「残念ですが、ここで失礼します。」ロダンは頻りに後ろを振り返りながら淋しく去って行った。

     山茶花や振り返り行く宿場町  蜻蛉

     ここから更に南に向かう。「各種漬物卸・小売 鯨井商店」の建物は古い。低い二階を持つ建物だ。次の角にはウナギの今井がある。玄関脇に小さな古い木の板が立てかけられ、こんな文句が書かれている。

    当店は中山道が整備された江戸時代初期(一六〇四頃)土橋(現蕨市中央二丁目)からこの場所に移り・・・・

     さっきの資料館から三百メートル程行けば市立歴史民俗博物館分館がある。分館と言っても民家と庭をそのまま利用したものだ。蕨市中央五丁目一九番三号。
     蕨市長を二期八年務めた金子吉衛氏の自宅であるが、明治時代には織物の買継商をしていた家である。買継商とは機織り業者と呉服問屋とを仲介する業者である。実はさっきの跳ね橋をもつ徳丸家もこの商いをしていた。(今で織物関係の会社を経営しているようだ)。木造平屋寄棟造り。

     明治二二年(一八八九)に蕨宿と塚越村が合併して蕨町となり、四年後の明治二六年(一八九三)には蕨宿もできて、駅前通り(現・蕨駅西口駅前通り)には次第に買継や織物業に関係した店が軒を連ねるようになりました。毎月六回の四と九の市日には織物の取引のため、東京から問屋が買いにきたり、蕨や近くの村々から機屋が織物を持ってきたり、織物に必要な物を買いととのえたりと、まちは大変にぎやかでした。(「織物のまち・蕨」蕨市歴史民俗資料館)

     明治から戦前、昭和と三回に亘って増築されていて、旧街道に面した所は明治二十年に建てられたものだ。それが店舗の部分で、帳場の隅には電話ボックスが造りつけになっている。家の中でもこうしてボックスを設えたのだ。昔の電話機もそのまま設置されている。隣の部屋には機織り機が二台。外は庭になっていて、多種多様な樹木が植えられている。庭を含めて五百坪の敷地というからかなり広い。

     ここで街道から離れて東の住宅地に入っていく。中央小学校の校舎に面した幅広い鋪道には何かの青いオブジェが埋まっている。柱には「クータンひろば」とある。なんだこれは。「クジラじゃないか。」
     「また質屋の看板が出てきた。」スナフキンの言葉で電信柱をみると、確かに「七幸」という質屋の看板だらけだ。これだけ大量の看板を設置するのだから、質屋は儲かっているのだろうか。質屋は昔とは様態が全く違ってしまったようだ。おそらく貴金属、宝飾品を専門に扱っているのだろう。
     やがて姫は一軒の家の前で立ち止まった。「普通のお宅ですから静かにしてくださいね」本当に普通のお宅の庭に青面金剛の庚申塔が建っていた。蕨市南町四丁目十番。「板倉家の庚申塔」であり、川口の善光寺への道標にもなっていたものだ。さっき資料館でレプリカを見た、その実物である。
     最後は河鍋暁斎記念美術館だ。蕨市南町四丁目三六番四号。「谷中でカエルのお墓を見ましたよね。」姫の言葉で思い出した。普段は入館料三百円だが、特別展を開催しているので五百円になる。
     それにしても、なぜ蕨にあるのだろうか。それは学芸員の明瞭な説明で良く分った。暁斎自身は一八八九年四月二十六日、鴬谷の笹の雪横丁で死んだ。孫の代には赤羽に住んでいたが、昭和十九年に強制疎開で蕨に移転して、そのまま住みついたのである。そして曾孫の河鍋楠美がその自宅を改装して美術館としたものだ。
     私はずっと「ぎょうさい」と呼んでいたが、「狂斎から暁斎に改名したので、キョウサイが正しい読み方です」と言われた。確かにウィキペディアその他を見ても、すべて「きょうさい」と読んでいる。
     ジョサイア・コンドルが暁斎に師事したのも初めて知ることだ。というより、私は暁斎についてまともに知っていることが少ない。コンドルは暁斎の姿と日本画の技法を詳しく記して海外に紹介した。岩波文庫の『河鍋暁斎』として、今でも読むことができる。また読まなければいけない本が生じてしまった。
     「暁斎の下絵の魅力展~ミクロとマクロの世界~」という企画が珍しい。何故下絵なのかというのも、説明によって初めて理解する。油絵の世界とは全く違うのだ。これについては、武蔵野美術大学が要領の良い説明をしてくれているので参照したい。

    大下図(おおしたず)は、本画制作に入る前に、描こうとするものを本画とは別に原寸大の画面にあたりなどで練る図をいいます。「大下絵」、「草稿」ともいいます。
    日本画制作における大下図は、写生(デッサン)や小下図で練ったものを、本画とは別の支持体に構成や細部における関連性などを確認するものです。日本画の素材は、修正が難しいため、あらかじめ制作手順を考え、進行の問題を予測するために大下図を描きます。写生や小下図と違い、スケールが異なれば画面の見え方や印象も変化し、単に拡大コピーしただけでは造形的に物足りない部分が出てきます。そういった作業や修正の場のものでもあります。薄い和紙やトレーシングペーパーを用いてデッサンなどを写し画面上で移動させることで、構図や配置などの検討する工夫もあります。
    http://zokeifile.musabi.ac.jp/document.php?search_key=%91%E5%89%BA%90%7D

     確かに実物を見ると、紙を貼ったり胡粉で塗りつぶしたりして修正してある。これに彩色しても本画にはならず、画稿が最終決定したら、これを見ながら改めて描き写すのである。また、この下絵があれば、本人でなくても同じ絵が描けるのが日本画の特徴で、娘が描いたものもある。
     「郭子儀図」は、紙本墨画の下絵と絹本着色のものが比べられる。また暁斎の「太田道灌 山吹の里 下絵」に基づいて、娘の暁雲が絹本着色を描いたものがある。
     別館に入れば、特別企画の「暁斎VS国周 版下絵の魅力」展である。「版下絵は、板木に裏返して糊づけします。彫って墨版ができ上る訳ですから、錦絵が完成していれば、版下絵は消滅してしまうものなのです。では、なぜ残ったのでしょう。」
     彫られなかったといいうことだ。説明によれば、「二十四孝」のシリーズなんか、明治の文明開化になっては売れないからだろうということだ。豊原国周の方は「花鳥美人競」のシリーズだから、売れても良いと思うのだが。
     ミュージアムショップが隣接しているので、最後にここを見て終わりだ。こういう所に入ると姫が夢中になって長くなるのはいつものことだ。ドクトルは年賀状を買おうと思ったが、一枚五百円と知って諦めて、本を買った。
     マルちゃんは、ここから歩いて自宅まで帰ると言うので別れた。ここは蕨市の南端で戸田市との境界だ。われわれは西川口駅を目指す。
     駅が近づいてくると、怪しげな店構えが目立つようになってきた。「普通の飲み屋がないな。」「駅に行けばあるだろう。」四十年も前には、この辺はトルコや風俗産業に属する店が犇めく地域で、日が落ちれば良家の子女が歩けるような場所ではなかった。ストリップ劇場も、西船橋のOS劇場に並んで首都圏では有名だった。一応、ウィキペディアの証言を引いておこう。

    京浜東北線西川口駅周辺は全国的にも知名度の高い風俗街の一つであった。川口オートレース場の最寄駅であり、かつては戸田競艇場の最寄り駅でもあったことから、その帰りの客を当てにした風俗店が細々と営業しているに過ぎなかったが、再開発に伴う赤羽のピンクサロン店の大規模な摘発により、それらの店舗が西川口へ移動。二〇〇〇年前後からご当地流のサービスがスポーツ新聞、夕刊紙等で取り上げられることが増えるなど評判となり、連休などに他地方から風俗目当てで来る人までいたといわれている。検索エンジンで「西川口」と検索すると風俗関係のサイトが上位に並び、雑誌などでも多数、風俗街として紹介されることが多く、無店舗経営やマンション風俗なども入れると埼玉県下随一であった。全盛期は吉原に匹敵する関東有数の規模を誇っていた。「西川口風俗店」を目指して全国から多くの観光客も訪れていた。(「西川口流」)

     私が知っているのは最盛期に入る前の西川口であったか。しかし違法風俗店の摘発が徹底的に行われ、二〇〇六年には大半の店が閉鎖された。現在では西川口再生事業が活発に行われているらしい。しかし、最近また風俗店復活の気配もあるとも言う。
     幸い、駅前に出ると「鍛冶屋文蔵」があった。生ビールが一杯百九十円の文句に惹かれてそこに決めた。姫、ダンディ、ヨッシー、ドクトル、スナフキン、蜻蛉。ここは焼鳥がメインの居酒屋だが、今日は焼き鳥が食えないひとがいないのだ。焼酎はスナフキンと私とで大半を飲んでしまったから、なんだか酔ってしまった。帰りに南浦和から武蔵野線に乗ったのに、武蔵浦和でスナフキンを連れて電車から降りてしまったのは、そのせいである。

    蜻蛉