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    日光街道歩き 其の一   平成二十五年二月九日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2013.02.16

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     旧暦十二月二十九日。この十二月は小の月だったようで大晦日に当たり、明日からは旧正月に入る。新聞では、中国旧正月の爆竹と大気汚染とが大きく取り上げられている。
     そして今日から姫の新しい企画が始まった。将軍の日光社参のコースに合わせ、大手門から御成道、日光街道、例幣使街道を辿って日光東照宮までおよそ三十五里、百四十キロを歩こうという壮大な企画である。大山街道のほぼ倍の距離で、一回に十キロとすれば十四回、年に五回として三年かかる勘定になる。こうしていつも新しい企画を考えてくれるのはとても有難い。私なんか年に一回担当する江戸歩きの企画を考えるだけも四苦八苦している。「エーッ、そうですか。行きたい所はまだまだ一杯ありますよ。」この好奇心は若さだけではないね。
     東京駅丸の内北口に集まったのは、姫、カズちゃん、ハイジ、マリー、若旦那、碁聖、ダンディ、講釈師、ヨッシー、ドクトル、トミー、スナフキン、千意さん、ロダン、蜻蛉の十五人である。ロダンは今日も半日券しか貰っていない。私も二時から横の会に出席しなければならず、半日券を使わせて貰うことにした。「半日券流行りだな。」半日ではないが、ドクトルとスナフキンも夕方から飲み会があると言う。ロダンが「私も昨日は飲みすぎちゃいました」とスナフキンに笑いながら言うのは、いつもスナフキンがこの台詞で登場するからだ。「皆さん、御忙しくていいですね。」
     「これ配ってよ。」講釈師がコピーの束をロダンに渡した。わざわざ資料を作ってくれたのだ。それは有難いのだが、元は何なのか記しておいてくれるともっと良い。出所が分からないと引用しにくいのだ。
     「最初の秀忠の時はまだ御成道が整備されてなくてさ、草加を通って行ったんだ。」これが草加の住人の自慢の種である。御成道といえば、将軍が寛永寺に参拝する道であった。それを通って上野から浅草に出て日光道中を辿った訳だ。
     日光御成街道が整備されてからは、四月十七日の家康の命日に合わせてこんな行程を辿った。四月十三日に江戸を立ち本郷追分から御成街道に入る。岩淵、川口、鳩ケ谷、大門を経て岩槻で一泊。十四日は幸手で日光道中に合流し古河で泊る。十五日は野木、間々田、小山、新田、小金井、石橋、雀宮を経て宇都宮に泊まる。十六日は今市を経て日光に至って宿泊する。三泊四日で行くのだから一日に三十五キロ歩く計算になる。そして十七日の法要を執り行って日光に連泊する。往復で八泊九日の旅である。「全部、駕籠に乗ったんじゃないんだ。本郷の加賀屋敷の前は馬に乗った。」
     将軍(世子、大御所を含む)の日光社参は元和三年(一六一七)の秀忠に始まり、天保一四年(一八四三)の家慶まで十九回行われた。「たった、十九回しかないんだな。」私は歴代将軍が全て行っているのかと思っていたが、全然違う。秀忠四回、家光十回が群を抜き、四代家綱の二回までで計十六回。それから六十五年の空白の後に吉宗(八代将軍)が実施し、家治(十代将軍)、家慶(十二代将軍)がそれぞれ一回行った。
     将軍の日光社参は莫大な金がかかるのである。家光が死んだ時にはおよそ四百万両あった蓄えを家綱時代に食い潰し、以来幕府財政は年々逼迫の一途を辿っていたから簡単にはできなかった。どの程度の費用がかかったか。安永五年(一七七六)、家綱が社参した時の記録が残っている。

     世相万般に該博な知識を有した肥前平戸藩主松浦静山の記録するところによれば、安永の日光社参に幕府は次のような莫大な経費を投入したという。
     安永五申年四月、日光御参詣、御供人数、御入用金、御扶持方、
    一、金十八万両          御入用金
    一、金四万両           被下金
    一、十万三千人扶持        御賄御扶持方
    一、二十三万八百三十人      人足
    一、三十万五千疋         馬疋
    一、三百五十三万四百四十人扶持  御供上下御扶持方
    一、雑兵六十二万三千九百人
     (阿部昭『享保の日光社参における公儀御用の編成』)

     関ヶ原の戦いで家康が動員した東軍の兵力が八万人とすれば、その規模を遥かに超える。社参と言うより、これはひとつの大軍事行動である。この時は、先頭が日光に着いたのに最後尾はまだ江戸にいたとも言われる。先に上げた日程は将軍のものだから、先頭グループは前日夜中から出発しなければならなかった。
     幕府の直轄領(御料、御料所)をざっと四百万石とする(これとは別に旗本領、知行所が三百万石ある)。四公六民で幕府取り分は百六十万石、一石一両で計算して年間収入は百六十万両となる。これと日光社参の費用が占める割合を比べると驚くべき比率になる。
     家治の安永五年(一七七六)は田沼時代の真っ最中に当る。この中には事前の準備や、将軍以下大名旗本がほとんどいなくなる江戸警護にかかる費用も含まれているだろう。四月の中旬なら農繁期である。人足や馬疋は関八州から徴発されたが、村方の困難は言うまでもない。
     姫はこの大行事を完遂しようと言うのである。「日光街道が順風満帆であるように祈念して。」千意さんが姫に蓮田の酒を手渡した。「神亀、これ美味しいんですよね」と姫が喜ぶ。私は知らなかったが有名な酒らしい。「流石、気配りの千意さんね。」

     駅を出て真っすぐお堀に向かう。「前に三菱ビルを見たのはどっちの道でしたか。」「もっと向こうだよ。」あの時は、丸の内南口を出発したのだからね。東京銀行協会ビルヂングの赤煉瓦をみると、「みんな、ハリボテになっちゃうのよね」とハイジが笑う。ここを右に曲がり日比谷通りに入る。
     大手町の信号から大手門を眺め、枡形門について姫の説明が始まる。枡形に区切った区画の正面に入口の狭い高麗門を置く。枡形に入ると右か左に大きな櫓門を置く。これで、敵がそのまま真っすぐに進めないようにし、櫓門から攻撃する仕組みになっている訳だ。
     外堀通りを真っすぐ北に歩くと冷たい風が吹き付ける。寒い。「ビル風でしょうかね。」首都高速を潜ると、神田橋の交差点からは本郷通りになる。この辺りに来ると風もやや落ち着いたから、やはり若旦那の言うようにビル風だったようだ。
     内神田一丁目と神田美土代町の境に、「千代田区町名由来板・美土代町」が立っていた。これで美土代町の由来を読むと、明治五年になって付けられたものと書かれているので、それなら江戸時代にはない町名だ。ないのは当り前で、美土代は神田と全く同じ意味だ。既に神田の地名がある以上重複するのである。
     「そうか。苗代って言うな」とトミーも気がついた。「苗代」は「苗」を育てる「田」である。また田を掻きまわすことを代掻き(しろかき)と言う。ここから「代(しろ)」は「田」と同じ意味だと分かる。「みと」は御戸、御処あるいは神戸の意味であろう。

    神田と号くることは、伝へいふ、往古諸国、伊勢大神宮へ新稲を奉るゆゑに、国中その稲を植うるの地ありて、これを神田(かんだ)あるひは神田(みとしろ)・御田(みた)と唱へしなり。(『江戸名所図会』)

     同じ意味で御戸代、御田などと書く地方もあり、慶應義塾のある三田も御田の転訛と考えられる。神に納める田には不輸の特権が与えられた。中世以来、関東にも伊勢神宮の支配が及んでいたから、租を免れるために伊勢神宮へ寄進したのだろう。
     小川町の交差点で靖国通りを右に曲がる。「本当は真っすぐ行けば早いんですが、当時はまだ聖橋はありません。ですから昌平橋を渡って聖堂の脇を通ります。」聖橋は関東大震災復興事業として架けられた橋だ。本来は筋違橋を渡ったものだが、昌平橋と万世橋の間にあった橋が今はない。一番近いのが昌平橋になる。因みに筋違は「スジカイ」と読む。上野寛永寺へ向かう御成道と中山道とが交差する位置にあった。ここに見附門があり、橋はその門の附属施設である。

    筋違橋 須田町より下谷への出口にして、神田川に架す。御門ありて、このところにも御高札を建てらる。この前の大路を八ツ小路の辻と字す。昌平橋は、これより西の方に並ぶ。(『江戸名所図会』)

     八ツ小路というのは、橋の前の広場から八方向へ道が伸びていたからだ。筋違、昌平橋、駿河台、小川町、連雀町、日本橋通り、小柳町(須田町)、柳原の方向である。
     「それじゃ、あそこで甘酒を飲もうぜ。」「今日は神田明神には寄りません。」姫の予定では岩淵の小山酒造まで行くことになっているから、かなりの距離だ。今日は寄り道している暇はないだろう。
     淡路町の交差点辺りには淡路町一丁目の解説板が設置されている。寛永の頃、現在の聖橋南詰から神田川に沿って東に行く辺りに鈴木淡路守の屋敷があった。それに因んでその坂が淡路坂と呼ばれ、やがて町名になった。ここを左折して外堀通りに入る。淡路町二丁目交差点で信号を渡り、道路の向こう側に出る。
     「アッ、AKBですね。」千意さんが声をあげたのは、トミーのジャンバーの胸に48と大きくワッペンが縫われているのに気付いたからだ。まさかトミーがAKBのファンだとは思いもよらなかった。「違います。生まれた年ですよ。」ところで私はトミーの鼻ヒゲを見るとスーパーマリオを連想してしまう。次回からは勝手にマリオに改名してしまおう。
     この頃みんな御洒落になってきて、帽子や服装に凝ってきた。「私は今日は変えてきた」という千意さんは別の帽子だが、ヨッシーに倣ったのかスナフキンはハンチングが定番になったようだ。「私も今日はちゃんと帽子をかぶってきましたよ。この間は散々言われちゃったから。」帽子はダンディのトレードマークである。ロダンの帽子も探検隊みたいだ。帽子をかぶらない碁聖は寒くないだろうか。ドクトルは会社にでも行くようなコートを着込んでいて、姫に「荷風みたい」と笑われている。夕方の飲み会に合わせた格好をしているのだろう。
     昌平橋の上に立って下を眺めると、神田川にはユリカモメが何羽も浮かび、私たちに驚いたものか、一斉に羽ばたいた。「可愛いですね、都鳥。」「これなむ都鳥。」

     京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡し守に問ひければ、「これなむ都鳥。」と言ふを聞きて、
      名にし負はば  いざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
     と詠めりければ、舟こぞりて泣きにけり。(『伊勢物語』)

     珍しくもなんともない鳥だから、私たちは泣く筈もない。どこだったか、橋の袂で弁当を広げていると、ユリカモメが大挙して押し寄せ、私たちの弁当を覗き込んでいたことがある。人見知りをしない鳥である。昌平橋については下記を見て貰おう。

    湯島の地に聖堂御造営ありしより、魯の昌平郷に比して号けられしとなり。初めは相生橋、あたらし橋、また芋洗橋とも号したるよしいへり。太田姫稲荷の祠は、この地淡路坂の上にあり。旧名を一口(いもあらい)稲荷と称す。(『江戸名所図会』)

     ここから川沿いに相生坂を西に向かう。相生の名は、神田川を挟んで南側の淡路坂に相対するからだと言う。「ビリヤード場がありましたよね」とロダンが思い出し、「そこだよ。日本で最初に台を作ったんだ」と講釈師が答える。私も覚えがある。
     ビリヤード場と小さな町工場が一体になったような建物は淡路亭だ。千代田区外神田二丁目一番七。ビリヤード業界では東の淡路亭、西の日勝亭(大阪)と並び称される老舗のようだ。日勝亭のHPをみると、「当社は、明治一九年の創業で、日本で初めて撞球台の製造と販売に乗り出しました。」とある。淡路亭の方はいつから始めたのか分からない。しかし別の説もある。

     日本初の国産撞球台は明治一〇年、吉野商店によって製造されました。明治一五年までは年間生産台数一~二台で、一六年にやっと年間生産台数が三台に達し、吉野商店ではこれを祝い宴を催したそうです。
     この国産台は当然外国の台のコピーで、クッションのゴムはビリヤード用に製造された物ではなく、蒸気機関用のパッキングを切り伸ばした物を継ぎ合わせてクッションに使用していました。クッション用のゴムを輸入するようになったのは明治二三年以降のことでした。(「撞球歴史館」http://www.soretama.com/hist1877.htm)

     この業界は今でも生き残っているのだろうか。私が学生の頃には四つ玉が主流で、私も四五回やってみたことはあるが上達の見込みが全くないのですぐに諦めた。その後、アメリカ映画の影響でポケット式が流行したのは知っているが、今はほとんどメディアに登場しない。たぶん、素人が手を出すには難しすぎて普及しないのだ。「バブルの頃にプールバーっていうのがあった。」

     ここから聖堂の東側を上る坂が昌平坂だ。千代田区と文京区の境になる。尤もかつてはこの周辺の三つの坂が昌平坂と呼ばれたようで、ここはその一つになる。
     「昌平高校ってどこかにあったよな。」スナフキンはどうしても学校のことが気になるようだ。これは職業病の一種であろう。「浦和にあるよ。」私はまた好い加減なことを言ってしまった。正しくは杉戸町である。昔は福岡の東和大学の附属高校だった。今調べてみると、二〇〇七年に東和大学(福田学園)から独立している。この年に東和大学は学生募集を停止し、二〇一一年に閉校したのだ。同時に福田学園は純真学園と名を改め、純真学園大学(保健医療学部)を設立した。スクラップ&ビルドの珍しい例だ。同じ法人が羽生に埼玉純真短期大学を経営している。しかし、こんなことは余計なことで、湯島の昌平黌とは何の関係もない。
     石垣の上の練塀が尽き、本郷通りに入る右の角に公衆トイレがあった。トイレから戻ると、皆は既に本郷通りを歩いている。向かい側に神田明神の甘酒屋「天野屋」が見えた。店の前のベンチに若いアベックが座って甘酒を飲んでいる。
     聖堂の北西の角にある公園で休憩だ。十時五十分。どこにも寄らずにここまで歩いたのも珍しい。「喫煙所がありますからね。」姫は優しい。私のためにここで休憩をとってくれたのだ。「向うの隅っこですよ。」公園の隅のトイレに近いところに灰皿が設置されていた。慌てずにここで用を足せば良かった。
     「屋根にいるのはなんでしたっけ。」塀越しに聖堂の屋根が見えるのだが、姫に言われても思い出せない。調べた記憶だけは残っているのだが。「宗匠に教えてもらったんですけどね。」その時点では確かに覚えた気になっているのに、時間がたつと全く忘れているのが悔しい。シャチホコのように置かれているのが鬼犾頭(きぎんとう)、豹のような動物が鬼龍子(きりゅうし)であった。
     「ホラ、凍ってますよ。寒い筈だ。」トミーの言葉で地面をみると確かに白い部分が残っている。千意さんから乾燥芋が配られるのは、もう何度目になるだろう。二三ヶ月続いたんじゃないか。「これが最後です。」

     干し芋の口で潤びる余寒かな   蜻蛉

     「この辺りは医大が多いんだ。」東京医科歯科大学、順天堂大学。東京ガーデンプレスの前に「済生学舎と野口英世」という顕彰碑が建っていた。湯島一丁目七番地。これは初めて見たような気がする。
     当時の済生学舎は現在の日本医科大学の前身であり、当時は医術開業試験のための予備校であった。当初、本郷二丁目に創設されたが火災で焼失し、明治十五年、創立者長谷川泰の自宅のあったこの地に移転したのである。「野口英世は金にだらしなかったんだよな。」「啄木と同じですね。」講釈師とダンディが笑う。啄木のだらしなさを私が言い過ぎたかも知れない。
     明治二十九年(一八九六)九月、十九歳の野口清作は猪苗代高等小学校の小林先生に十円の餞別を貰い、四十円の金を持って上京した。医術開業試験の前期試験(筆記)に合格したものの、放蕩のために僅か二ヶ月で金は全くなくなった。まだ後期試験が残っている。
     少し前の明治二十五年に樋口一葉は『うもれ木』の原稿料十一円七十五銭を受け取った。六円の借金を返済し、五円七十五銭で母子三人が一ヶ月暮らした。四十円あれば、苦学生なら一年近く食い継がなければならない。
     高山歯科医学院の千脇守之助に泣きつき、校長には秘密で寄宿舎に泊りこみ、学費を援助して貰ってドイツ語の夜学に通った。後期試験は臨床試験だから実習が必要で、そのためまた千脇から月額十五円を貰って済生学舎に入った。そして翌三十年には目出度く医術開業試験に合格したのだから、学力に関しては全く言うことがない。
     三十三年(一九〇〇)のアメリカ留学に当たって、婚約の持参金として三百円を受け取って渡航費用とする筈が、出発前に横浜の料亭で開かれた送別会で使い果たし、千脇に泣きついた。千脇は自分で高利貸しから借金してくれたから、清作は無事に渡米することが出来た。この婚約は数年後に当然破棄され、持参金の三百円はまたもや千脇が返済してくれた。我孫子には千脇守之助の顕彰碑が建っている。
     前年、横浜海港検疫医としての清作の月俸は三十五円であった。その八カ月分以上の金を一晩で使い果たしたのである。同じ明治三十三年には漱石がイギリスに留学した。この時の年間手当ては千八百円、留守家族へは三百円支給された。つまり、三百円というのは、留守家族が一年間暮らせる金額である。
     ついでに済生学舎についても調べておこう。創立者の長谷川泰は佐倉の順天堂で佐藤尚中に、幕府西洋医学所で松本順に学び、戊辰戦争では長岡藩軍医として河合継之助の最期を看取った。維新後、医師の絶対的不足を解消するため、開業医の速成を目指して済生学舎を設立した。

     済生学舎は、フーフェランドの「医戒」にある言葉「済生救民」を実践しようとした師佐藤尚中の精神を長谷川が受け継いで開校したもので、その教育は、ドイツの一九世紀の「自由教育―学ぶ者の自由、教える者の自由」を導入し、「済生救民」の思想を建学の精神とした。長谷川泰の演説は情熱的で学生達に学問に対する使命感を充分に与えた。「済生救民」とは貧しくして、その上病気で苦しんでいる人々を救うのが医師の最も大切な道であるという意味で、長谷川泰は「患者に対し済恤の心を持って診察して下さい」と書き残しており、自ら「貧しい人々を無料で入院させてほしい」という願書を年に百二十通以上東京府知事宛に書き送り、その思想を実践している。(ウィキペディア「長谷川泰」より)

     右手の角にサッカーミュージアムの看板が見えた。「カラスがいるよ。」「八咫烏だね。」私はサッカーと八咫烏との関係がよく呑み込めていない。講釈師は八咫烏が好きだ。
     熊野に行った時のガイドは、八咫烏は神武東征の案内をした熊野の三つの氏族を象徴すると説明していた。しかし三足烏(サンソクウ)は中国神話や朝鮮神話にも登場する太陽を象徴する鳥である。エジプトやギリシアでも太陽と烏の組み合わせが見られるというので、人類が普遍的に考えたものか、あるいは西から伝播されたのかもしれない。太陽黒点を黒い烏に見立てたとの説があるが、はっきりしない。足を三本にしたのは、陽数(奇数)によるものらしい。
     「旧本郷」の地名説明板を見る。「どうして本郷なんだい。」そんなに慌てなくても読めばちゃんと書いてある。もともと湯島の一部(というより、その真ん中)に当たっていて、湯島本郷と称したのが初めである。この辺りがもう本郷に入っているのか。「すぐそこが本郷三丁目の駅だ。」すぐに左の角に「かねやす」が見えた。「今日は休みかな。」シャッターが下されている。

     本郷もかねやすまでは江戸のうち

     ここまでが江戸の防火対策として瓦屋根が許されていた。春日通りを越えると、姫は通りの向こう側を指さす。「あそこに説明があるんですよ。」たしかに案内板は見えたが、ここからでは読める訳がない。「江戸追放された人が後ろを振り返る。家族が見送る。そんな場所でした。」菊坂に入る辺りまでやや下り、そこからやや上りになっていたらしいが、現在では「坂」があったような傾斜は殆ど感じられない。学士会館より南が見送り坂、赤門までが見返り坂と呼ばれたらしい。「それじゃ講釈師、サヨナラ、元気でね。」
     追放刑を軽いものから順に挙げてみる。「門前払」(奉行所の門前から追い放つ)は刑とも言えない。「所払」(居住の町から追放)は隣の町に行けばよい。「江戸払い」は、時代によって江戸の範囲は拡大しているから注意が必要だが、品川、板橋、千住、四谷、本所深川の大木戸の外へ追放される。
     板橋はもっと北になるから、ここはちゃんと江戸の内に入るのだが、大名屋敷ばかりで民家が稀な土地だったからかも知れない。
     更に「江戸十里四方追放」、「軽追放」(江戸十里四方、京、大坂、東海道筋、日光、日光道中および現住国と犯罪地から追放)、「中追放」(武蔵、山城、大和、摂津、和泉、肥前、東海道筋、木曽路筋、下野、日光道中、甲斐、駿河および現住国と犯罪地から追放)、「重追放」(関八州、山城、大和、摂津、和泉、肥前、東海道筋、木曽路筋、甲斐、駿河及び現住国と犯罪地から追放)と続き、最高刑は「遠島」となる。
     「追放」とは言うものの、それは居住禁止であって立ち入り禁止ではない。旅の途中であれば良い。旅の途中であることを示すために、草鞋履きであれば毎日江戸を通行しようが問題はないのである。
     雷電為衛門という史上最強と謳われた大関がいる。赤坂報土寺の釣鐘鋳造で江戸追放の刑を受けて四谷大木戸の外、内藤新宿に住まいした。追放の後も江戸相撲会所頭取として、草鞋履きで江戸市中を平気で歩いた。これは飯嶋和一の小説『雷電本紀』による。赤坂の報土寺で築地塀と雷電の墓を見ましたね。

     「ここ随分新しくなっちゃったな。」右手の東大キャンパスの建物の煉瓦がやけに綺麗なのだ。「長い間、工事中だったんじゃないでしょうか。」ロダンの言葉で思い出した。「学士会館があったよ。」調べてみると、東大の再開発のため、学士会分館は平成二十二年三月に閉館して撤去されたのである。そもそもGHQによって神田錦町の学士会館が接収されたため、東大からここを借りうけて分館としていたものだった。
     「レストランがあるじゃないか。」ここは伊藤国際学術研究センターという建物で、椿山荘のフレンチ・レストランが入っているのだ。「ランチが、千五百円だぜ。」我々の入る店ではなさそうだ。
     赤門の前では家族連れが記念撮影をしていた。写真の邪魔をしないようにその脇を通り、赤門を潜る。「それじゃいつもの食堂に行きましょう。」「御用達だね。」正門前をうっかり真っすぐ進んでしまい、「こっちだよ」と声をかけられてしまった。十一時半。「十二時半にここに集合してください。」ここというのは、安田講堂前の芝生から地下の中央食堂に降りていく階段の前だ。
     私はA定食にした。先月スナフキンが食べていた肉じゃがの定食である。コロッケと白身魚のフライが付いている。二時から飲み会があるのに、こんなに食べて酒が飲めるだろうか。ダンディはやはり大盛りの麺だ。
     食べ終わって喫煙所を探して彷徨っていると、構内を探検中のロダンとすれ違った。「タバコを吸うのも大変ですね。」この間の場所は工事中で立ち入りが出来ないようになっていた。仕方がない。我慢しよう。
     集合場所に戻ると、ヨッシーがチョコレートを配っている。そこのコンビニで買って来たようだ。「蜻蛉さんにはこれを」とくれた袋には「なとり」の御つまみセットが入っている。有難いことだ。千意さんもそうだが、なんと良い人ばかりだろう。「よき友、三つあり。一つには、物くるゝ友。」と兼好法師も言っている。

     物くるゝ人の嬉しき春隣   蜻蛉

     朝よりは大分暖かくなってきて、手袋をしなくても冷たくない。姫は赤門まで戻ろうとするが、そのまま真っすぐ正門から出ればよい。「追分には一里塚の説明があるよ。」「どこですか。」「あの酒屋のところ。」「行きますか。」別に無理しなくて良いと思ったが、ロダンは気付かなかったと言うし、他のメンバーからも希望が出た。「ちょっと待ってて下さいね」と姫は地図を確認する。次に向かう予定の正行寺は「道路の向こう側ですよ」とヨッシーも教えてくれたので、姫は信号を渡った。角の酒屋を中山道側に回り込むと、立て札型の案内板が設置されているのだ。

     追分一里塚跡 
     ・・・・ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。一八世紀中頃まで、榎が植えられていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影をとどめるものはない。分かれ道にあるので、追分一里塚とも呼ばれてきた。
     ここにある高崎屋は、江戸時代から続く酒店で、両替商も兼ね「現金安売り」で繁昌した。
     平成七年三月     文京区教育委員会

     日光御成街道は正式にはここから始まる。岩淵宿、川口宿、鳩ヶ谷宿、大門宿、岩槻宿、そして幸手宿まで。そこで日光街道と合流する。岩槻までは岩槻街道とも呼ばれる。
     「この酒屋の親父はさ、頼むと帳面を見せてくれるよ。」講釈師はそういうことをしたことがあるらしい。「どこの大名がどれだけ酒を買ったか分るんだ。」創業は宝暦年間(一七五一~六四)と推定される高崎屋だ。長谷川雪旦『高崎屋絵図』(天保一三年)をみると、築山の庭園をもつ実に広大な家屋敷で、敷地は農学部の一部にも達している。天保の改革の贅沢禁止令にあって屋敷を縮小しなければならず、盛時の姿を子孫に伝えるために絵を残したと言われている。長谷川雪旦は『江戸名所図会』の挿絵で名を挙げた画家である。
     「森川宿ですね。」ダンディの言う通り、本郷六丁目辺りが森川宿とも呼ばれたのは、森川金右衛門(二千二百石)屋敷があったことに因む。森川金右衛門は御先手組頭である。御先手組は戦時であれば先鋒を務める番方(武官)で、町奉行(文官)とは異なる。時代によって編成は異なるようだが、弓八組、鉄砲十組がおかれた。それぞれ組頭(若年寄支配・役高千五百石)の下に与力(二百石)が五から十騎、同心(三十俵二人扶持)が三十人から五十人配属された(『世界大百科事典』より)。なお、火付盗賊改方の長官は、御先手組頭の一人が兼務することが多く、長谷川平蔵宣以も先手組弓頭で火付盗賊改方を加役されている。
     その先手組頭の屋敷が置かれたということは、特に重要な地点と考えられていた筈だ。ここは「宿」と言っても人馬継立場であって泊まるところではない。高崎屋はその問屋場を兼ねていたと思われる。
     「高崎屋じゃ馬も貸したらしいよ」と講釈師も知識を披露する。「貸した」のではなく、問屋には一定数の人足と馬は必ず用意しておかなければならない。幕府公用旅行者、参勤交代の大名の荷物運搬、飛脚などを取り扱うのである。
     この本郷追分には八百屋太郎兵衛(『近世江都著聞集』)の青物屋もあった。あのお七の父親である。と言っても、八百屋お七は伝説やフィクションに埋もれていて、実際の伝記ははっきりしない。父親の名も八百屋八兵衛(『好色五人女』)、八百屋久兵衛(『武江年表』)の表記がある。
     この追分の西から南にかけて白山通りの辺りまでが西片町である。「阿部氏の屋敷がありましたよ。」阿部氏は老中を四人輩出した備後福山藩十万石の主である。雑司ケ谷墓地に一族の墓所がある。この辺りは明治から昭和にかけて、阿部氏自身の手で住宅地が開発され、学者文人が多く住んだ。文京区立誠之小学校は、阿部藩邸内にあった誠之館の名を継いだものである。版籍奉還後に阿部氏が土地を寄付して造られた学校である。

     改築工事中の建物は文京区立第六中学校だ。文京区向丘一丁目二番一五。「ドクトルの母校ですね。」「そうだよ。だけど我々の頃は間借りしてたんだ。」第六中学は昭和二十二年に誠之小学校の中に開設されたようだ。校舎に苦労したのだろう、昭和二十七年には東京学芸大学附属追分小学校に間借りした。この時、誠之分校と指ケ谷分校と併せて三校体制をとっていて、それが解消して、この校舎を全面的に使用できるようになったのは昭和三十六年のことである。追分小学校が募集を停止し、在校生は竹早小学校に移されたのである。
     建物自体はもっと古く、昭和八年に東京私立追分尋常小学校と東京市本郷高等小学校の校舎として建てられて物だと言う。昭和八年の建物が漸く今になって改築しているのである。よく我慢したものだ。工事は平成二十二年に始まり、二十六年に完成予定となっている。
     「この辺りはナンバースクールが多かったわよね。」ハイジは詳しそうだ。「多かったって、全部だよ。」調べてみた。文京区立中学校でナンバーが残っているのは、第一、三、六、八、九、十である。第二と四は統合して本郷台、五と七も統合して音羽になった。十一は文林、十二は茗台と名を変えた。そうだろうね。一桁ならまだしも、十一中とか十二中なんて何だか印象が薄れてしまう。そして、あの小沢一郎が第六中学の卒業生であった。ドクトルとは少し時期がずれているかも知れない。
     文京学院大学。文京区向丘一丁目一九番一。「ここは結構頑張ってるよな。」そうなのか。「東上線沿線にもキャンパスがある。」大正十三年に、島田依史子が島田裁縫伝習所を開設したことに始まる大学である。それが外国語学部、経営学部、保険医療学部、人間学部にそれぞれ大学院を持つ大きな大学になった。
     スナフキンが「頑張っている」という意味はよく分からないが、大学が公表している定員充足率は一〇一・八パーセントだから、取り敢えず状況は悪くない。日本私立学校振興・共済事業団の調査で、私立大学五七七校中、四十五・八パーセントが定員割れ状態と言うから、確かに頑張っている方だ。ついでに言うと、短大では三三〇校中、二三〇校(六九・七パーセント)が定員割れを起こしている。もう短大は商売にならないのである。この文京学院も平成二十五年度から短大の募集を停止し、大学の定員増をする。
     田中真紀子に言われるまでもなく、平成三年の大学設置基準の大幅緩和によって文科省は無駄な大学を造り続けてきた。平成二年に三七二校だった私立大学は平成一二年には六〇五校になった。数字だけの計算で言えば、この増加した部分が定員を満たしていないということになるだろう。
     定員を満たしている大学でも、本来大学に入るべきではない学生を無理やり合格させて、却って四苦八苦する状態は続いている。今の大学教育の最大のテーマが「学習支援」であるとは、事情を知らない人には驚かれるだろう。支援されなければ学習できないとは、既に大学生ではない。
     そして「出来ない」学生のことばかりが話題になるが、大学が増えたことは大学教員の数も限度を越して増えたことを意味している。マスメディアは大学教員を敵にしたくないから言わないが、本来大学教員としての能力を持たない教員も増加しているのである。

     正行寺。文京区向丘一丁目一三番六。浄土宗。「とうがらし地蔵です。」説明を読むと、元禄一五年(一七〇二)僧の覚宝院が、人びとの諸願成就と咳の病を癒すため、自ら座禅姿の石像を刻み寺に安置した。覚宝院は「とうがらし酒」が好きだったので、人びとは唐辛子を供え諸願成就を願ったと言うのである。
     「とうがらし酒」なんて初めて知った。それよりも自分の座像を作って庶人に拝ませるなんて、なんと大胆不敵な発想だろう。小さな小屋のようなお堂が地蔵堂で、開き戸のガラスを覗き込んでもよく見えない。カメラを窓ガラスに接してみた。「この方が見えますね。」白い衣に、赤い正ちゃん帽に赤いマフラーを巻きつけている。胸には小さな座像を抱いているが、正体は分からない。手前に唐辛子の袋が供えられている。トウガラシが咳に効くとは初耳だが、身体は温まりそうだ。小屋の脇の一本の夏ミカンの木には大きな実が生っている。
     後で気づいたのが、この正行寺の手前の西善寺には近藤重蔵の墓がある。機会があれば見ておきたいと思いながら、いつも忘れてしまう。近藤重蔵は先覚者である。最上徳内とともに千島択捉を探検し、「大日本恵土呂府」の木柱を建てた。晩年、長男が町民を殺害したことに連座して近江大溝藩に預けられ、文政十二年(一八二九)に死んだ。享年五十九。遺骸は塩漬けにされて江戸まで運ばれ、検視の後にここに葬られた。近藤について司馬遼太郎はこう書いている。

     生涯、私利をおもわなかった。ひたすら公に終始した。その公は近代国民国家のそれに通じていたが、幕藩体制の公とは食いちがっていたといえる。(『本郷界隈』)

     「あんまり品の良くない布袋様がいるんです。」もう一度道路を東側に渡ったところに、浄心寺(浄土宗)がある。文京区向丘二丁目一七番四号。なるほど、確かに上品ではない大きな布袋像が立っている。赤い衣の前を大きくはだけて、白い巨大な腹を突き出した像だ。「私が言うんじゃありません。あちこちのブログでそう書いてるんです。」本来は大きな頭陀袋に全てのものを入れている筈だが、左手に金の玉、右手に軍配を握っている。
     布袋の割には立派そうな寺院である。元は妻恋坂に創建されたが、天和二年(一六八三)の大火(火元は目黒行人坂・大円寺。お七火事と呼ばれる)に遭って現在地に移転した。「春日のお局さん御愛祈のお地蔵さん」というのも立っている。元々この辺りに麟祥院の花畑(農地)があったと言う。足元の蓮華台には小さな如意輪観音が赤い涎掛けを垂らして座っている。「中には入りませんよ。出発します。」
     「緒方洪庵のお墓に行きたいですか。」行きたい。この辺は明暦の大火や天和のお七火事によって神田界隈から移転してきた寺が多く寺町を形成している。旧駒込肴町、旧駒込浅嘉町。
     本駒込一丁目を右斜めに入ると、駒本小学校のすぐ隣に高林寺の参道があり、ここに説明があった。文京区向丘二丁目三七番五。この寺もかつては神田川沿いにあって「御茶の水」と呼ばれる井戸があった。説明の中にある「適塾」を見つけて、ダンディは「大阪大学の前身です」と断言する。「阪大医学部は今でも優秀ですからね。」
     正確に言うと、適塾は明治元年に閉鎖された。一方、明治二年浪華仮病院と医学校が設立され、緒方惟準(洪庵の次男)が院長、ボードウィンが教頭となった。緒方拙斎(洪庵の養子)、緒方郁蔵(洪庵の後輩で義兄弟)等、適塾の教師学生が移籍したから、適塾の後継と考えて間違いない。仮病院が大阪府立大阪病院、医学校が大阪府立大阪医学校となって、これが大阪大学医学部に発展するのである。
     洪庵自身は体調がすぐれぬこともあって不本意だったが、幕府の再三の要請を断り切れず、文久二年(一八六二)江戸に出て奥医師兼西洋医学所頭取になった。十二月には法眼に叙せられたが、翌三年(一八六三)六月十一日、下谷御徒町の医学所頭取屋敷で突然喀血して死んだ。享年五十四。
     法眼とはどの程度の位階なのかよく分からない。本来僧に与えられる位階であり、絵師や医師、儒者などにも与えられた。最高位の法印に次ぎ、その下は法橋となる。これを僧綱に当て嵌めると、法印は大僧正、僧正、権僧正。法眼は大僧都、権大僧都、少僧都、権少僧都。法橋は大律師、律師、権律師に与えられる。
     適塾から福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲、手塚良仙等が出た。「福沢諭吉も医者だったんですか。」「蘭学を学んだ。」若旦那は大阪で適塾をみたことがあるらしい。ダンディとうまく話が合っている。
     適塾を開いた後のことはかなり知られているから、それ以前のことを書いておこう。
     文化七年(一八一〇)、備中国足守藩の三十三俵四人扶持・佐伯惟因の三男として足守に生まれた。足守藩は木下氏二万五千石である。八歳のとき天然痘にかかる。 
     文政八年(一八二五)、父が大坂蔵屋敷留守居役となったため、大阪にでた。病弱だったため武士ではなく医師を志し、文政九年(一八二六)、中天游の私塾「思々斎塾」で蘭学・医学を学んだ。を学ぶ。天保二年(一八三一)、江戸へ下って坪井信道に学び、さらに信道の勧めで宇田川玄真(榛斎)にも学んだ。この時期に特に蘭学の力をつけたと思われる。翻訳をいくつもなした。この坪井信道については、三月の深川歩きでも触れることになっている。
     天保七年(一八三六)、長崎へ遊学してオランダ人医師・ニーマンのもとで医学を学んだ。この頃から緒方洪庵と名乗ったようだ。天保九年(一八三八)春、大阪に戻って医師を開業するとともに適々斎塾(適塾)を開いた。
     「お墓には行きません。時間がなくなってしまいますからね。蜻蛉は時間は大丈夫ですか。」「駒込辺りまではいけると思う。」「ロダンはまだいたのか。早く行けよ。」「そんな、まだいさせてくださいよ。」「それじゃ出発します。」

     高林寺の隣の蓮光寺には最上徳内の墓もある筈だ。出羽の小農の子として生まれ、晩年には旗本の身分になり、天保七年(一八三六)八十三歳で死んでいる。これも司馬遼太郎を引用しておこう。

     辺境の山を歩き、水を渉って、学問をつくりあげた。江戸朱子学の通弊である空論はそこになく、著作は実質に満ち、しかも規模が大きい。
     学問の質の高さは、後発の著者たちから引用される頻度の多さによっても測ることができるが、徳内は在世中から、多くのひとびとに引用された。・・・・
     シーボルトはこの小さな老人を尊敬し、のち文章のなかで、「わが人格崇き老友」とか、「勇敢にして功績多き老人」、あるいは日本の北方に関する知識においては「まれなる学者」とたたえている。とくに徳内が製作した蝦夷地(北海道・千島)や樺太の地図をみて、準尺技術の高さや、かつ日本において天文学や陸地測量術が意外に進んでいることを知った。
     徳内は、市井の知名人ではなかった。
     しかしかれと同時代の質の高い学者や知識人からは尊敬され、かれらは徳内の著作によって日本の北方を知ることができたのを感謝していた。

     それにしても、この狭い区域内に近藤重蔵、最上徳内、緒方洪庵の墓が揃っているのも不思議な気がする。実は「ほうろく地蔵」で知られる大円寺には高島秋帆の墓がある。そこに斎藤緑雨の墓もあるのだが、門前の説明だけ読んでいて、まだ実際には見ていないことも思い出した。
     信号を渡って道の西側に行くと、その角の天栄寺(浄土宗)の山門前に「駒込土物店跡」と「江戸三大青物市場遺跡」の碑が建っている。本駒込一丁目六番一六。「土物って何だい。」「大根とか人参とか牛蒡とかさ、根っこに土がついてるやつだよ。」
     元和年間(一六一五~二三)、武州在から江戸に野菜を売りにきた農民たちが、この辺りにあった大きなサイカチの下で一休みしがてら、野菜を売ったのが始まりとされる。やがて市が立ち、辻の辺りには青物問屋が建ち並び、神田・千住と並ぶ江戸の三大やっちゃばとなった。
     「ここ、来たことある。」千意さんが言うのは「墓マイラー」をした時の下見だったようだ。私はたぶんダンディが企画した五色不動のときに寄っている。「その五色不動に行きます。」
     姫は少し先の寺に入った。こんな風だったかな。もう少し大きな看板か何かが出ていたような気がする。堂の中を覗いて見たが地蔵らしい物しか見えない。違うんじゃないか。「目赤ならもう少し先ですよ。」ヨッシーが正しく導いてくれる。「ゴメンナサイ。曲がり口を間違えちゃった。」ここは定泉寺(浄土宗)で、私が見た地蔵は夢現地蔵尊と呼ばれるものであった。

     寒桜ひとつ間違う不動尊   蜻蛉

     南谷寺(天台宗)の山門左の柱には大きく赤く、「目赤不動尊」と彫られていた。そうです、ここなら記憶があるのだ。不動堂のガラスに太陽が反射して中の像がよく見えない。
     「五色の全部に行ったかな。」「全部は行ってないんじゃないかな。」解説板に従って五色不動と呼ばれるものを挙げれば次の通りだ。
     目黒不動(瀧泉寺・目黒区下目黒)、目白不動(金乗院・豊島区高田)、目赤不動(南谷寺・文京区本駒込)、目青不動(教学院・世田谷区太子堂)、そして目黄不動はなぜか二か所あって、永久寺(台東区三ノ輪)と最勝寺(江戸川区平井)だ。「平井だけが行ってないね。」
     「江戸時代に五色不動なんていうものはなかった。」以前調べたことがあるのだ。「エーッ、そうなの。」マリーが驚くように、これは案外知られていない。と言うより、江戸四方鎮護のために天海僧正が定めたなんて与太話に騙されている人が多いのである。この寺が「江戸五色不動の一つ」と麗々しく謳っているのは、史実ではなくても信じた振りをすれば寺の宣伝になるからだ。
     江戸時代の史料に五色不動の名は出てこない。目黒不動、目白不動は江戸開府以前からかなり有名で、それに倣って「赤目」を「目赤」と呼び変えたことは『江戸名所図会』にも書いてある。

    目赤不動  駒込浅香町にあり。伊州(伊賀国)赤目山の住職万行和尚、回国のとき供奉せし不動の尊像しばしば霊験あるによつて、その威霊を恐れ、別にいまの像を彫刻してかの像を腹籠りとす、すなはち赤目不動と号し、このところに一宇を建立せり(始め千駄木に草堂をむすびて安置ありしを、寛永の頃大樹(将軍家光)御放鷹のみぎり、いまのところに地を賜ふ。千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて、草堂のありし旧地なり)。後年、つひに目黒・目白に対して目赤と改むるとぞ。(『江戸名所図会』)

     『柳樽四十六篇』(文化五年)に「五色には二色足らぬ不動の目」という句がある。これによっても、目黒・目白・目赤の三色の不動は知られていても、青と黄は知られていなかったことが明らかだ。文化五年(一八〇八)が天海僧正(一六四三年没)の時代と遥かに隔たっているのは言うまでもない。但し二色足りないと言ったのは、五行説に基づいて五色をセットとする観念はあったのだろう。やがて明治以降(たぶん大正の初め)、青と黄を持ち出して五色不動としてグループ化されたものである。「江戸五色不動」ではなく、「東京五色不動」と呼ぶのなら、私は何も文句は言わない。
     因みに五行説と色、方角、季節の関係は、木(青・東・春)、火(赤・南・夏)、土(黄・中央・土用)、金(白・西・秋)、水(黒・北・冬)となる。五行を四季に当て嵌めると一つ多い。だから季節の区切りに土を分散して入れ込んで土用とする。
     目赤不動(千駄木にあったとしても)と目黒不動の位置関係を見るだけでも、目の色と方角が全く関係ないのが分かるだろう。五行説によって配置したなんて説がいかにいい加減であるかの証拠である。
     肉眼では分からなかったが、写真にはちゃんと不動の姿が映っていた。目が別に赤くないのは当り前だ。

     残念ながら、私は吉祥寺の門前でサヨナラしなければならない。今は一時二十分。駒込駅まで急げば十分だから丁度良い時間だ。
     今日は行けないが、吉祥寺の南側の塀に沿って路地を入れば、落合直文の「あさ香社」跡がある筈だ。しかし落合直文と言っても、関心のある人は殆どないだろうね。若旦那や碁聖なら『孝女白菊の歌』なんて知っているだろうか。講釈師なら『桜井の訣別』(青葉茂れる桜井の)を歌うかも知れない。
     みんなは吉祥寺でお七吉三比翼塚を見ただろう。以前、榎本武揚の墓を探すのに苦労した覚えがある。姫の計画では、富士神社、六義園、旧古河庭園、平塚神社、西が原の一里塚、飛鳥山、王子神社、装束塚、十条富士などを辿って赤羽に向かうことになっている。
     そのコースは、同じく姫が企画した第二十五回(平成二十一年九月十二日)「駒込・王子・赤羽編」で報告しているので参照して欲しい。あの時は、駒込を出発して岩淵の小山酒造を見て赤羽に着いたのが四時半だった。この時間では計画通りに行くのは難しいだろう。(案の定、実際には王子で止まったらしい。)

     有楽町の「ハタハタ屋敷」に着いたのは二時二分前。貸し切りになっていて、もう大半が集ってビールを飲んでいた。

    蜻蛉