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    日光街道歩き 其の二(王子から南鳩ヶ谷)
       平成二十五年四月十三日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2013.04.22

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     旧暦三月四日。前回は二時からの横の会に参加するため、私は駒込の吉祥寺で半日券を使ってしまった。その後、姫に率いられた一行は飛鳥山を抜けたところで一日目を終わっているから、今回は王子駅からのスタートになる。赤羽までは第二十五回「駒込・王子・赤羽(日光御成道)編」(平成二十一年九月)と同じコースを辿る。同じことを書くのも能がない。しかし初めて歩く人のために基礎情報は記しておきたいし、今日はそのバランスが難しい。
     鶴ヶ島駅で和尚と一緒に東上線に乗った。去年はめでたい出来事が重なってなかなか参加できなかった和尚も、漸く完全復帰してくれそうだ。「王子なんて全然知らない、降りたこともない」なんて言っていても、ちゃんと乗り換えは調べている。私は埼京線で赤羽まで行って戻ろうかと思っていたが、田端で京浜東北線に乗り換えるほうが良いと言うので、それに従うことにする。時間が早目だからどちらでも良いだろう。
     集合場所は王子駅の北口だ。九時三十四分に王子に着き、中央口の階段を通り過ぎて更に行くと、前を歩く人の後ろ姿が若旦那に似ている。階段を下りる途中で追いつくと、やっぱり若旦那だった。「ちょっとトイレに。」「私も行こう。」「それじゃ私も。」結局三人並んで用便を済まして改札を出た。
     改札の向こうにはダンディとヨッシーしかいない。いつも一番先に来ている筈なのに、講釈師の姿が見えないのはどうしたのだろう。「講釈師は念のために中央口で待機してます。」やがて人が集まって来る。スナフキンの姿が見えないので念のためにメールを確認すると、案の定、間違って大宮まで行ってしまったと連絡が入っていた。十時二分に着くので姫への伝言を頼むと言う。「どうして大宮まで行くのかしらネ。」「南浦和で逆に乗ったんじゃないか。」二日酔いの頭で朦朧としていたのだと思われる。
     「今日はひとりよ。」小町がひとりで来るのは初めてではないだろうか。先月の深川には中将だけが来ていたが、二人揃っていないとどうもバランスが悪い。中将はどうしたのか。「家で犬の相手をしてる。」交代で犬の世話をしているらしいが、一日位放っておいても構わないのではないか。
     和尚はハナちゃんが来ないとヤキモキしている。「とんでもない間違いをしでかす奴ですからね」と言いながらメールをしたところに返事が来た。「これ見てくださいよ。」すっかり日時を間違えて、犬を散歩させていると言う。ここにも犬か。だから私は犬が嫌いだ。
     宗匠は初参加の母子連れを誘ったと予告していたのに、「急な仕事が入って来られなくなっちゃった。お騒がせしました」と姫に謝っている。「ひょうたん島の女性はどうしたんですか。」「次回は来るんじゃないかな。」
     「宗匠が奥方を連れて来ないのは蜻蛉の作文のせいですよ。」ダンディが私を非難するように見詰める。何を言っているのだろう。「メールを見てないんですか。」ダンディが宗匠に奥方を連れてくるように促したメールは見ている。「その返事ですよ。蜻蛉の作文に恐れをなしたって。」ホントカネ。奥方を公開したくない宗匠の言訳であろう。ダンディは女性の参加を待っている。
     「今日のコースはどこを通るんだい。地図を見ても追えなかったよ。」ドクトルは詳細な地形図を開いているが、私はもっとお手軽な道路地図で王子から赤羽までのページをコピーし、印をつけてきた。「ここを行くんですよ。」千意さんは黒っぽいジャケットにハンチングを被って、なんだかすっきりした姿だ。元々姿勢の良い人がいつもに増してスマートになったような気がする。「痩せたの。」「ううん、痩せない。」
     スナフキンも予告通りやって来て、リーダーのあんみつ姫、小町、クルリン、ハイジ、マリー、若旦那、ダンディ、講釈師、ヨッシー、ドクトル、和尚、千意さん、スナフキン、ヤマチャン、宗匠、蜻蛉の十六人になった。前回歩いていないひとが九人いる。「今日は半日券を使わせて貰います」とヨッシーが笑いながら申告する。半日券流行りである。ロダンは今月も忙しいのだろうか。

     駅の西側に出て、橋の上から親水公園を見下ろすと新緑が鮮やかだ。今年は変化が早くて、もうすっかり新緑の季節を感じるようになってきた。「綺麗じゃないの。」「水が少ないね。」「親水公園は前に歩いているので今日は下には降りません。」姫の計画では昼食は赤羽のイトーヨーカドー内の食堂街で摂ることになっていて、なるべく早めに赤羽に到着したいのだ。午前中は急がなければならない。「ですから寄り道はしません。」
     「この辺は熊野に関係があるんだね。音無川も熊野にありますよ。」ダンディが『江戸東京物語 上野・日光御成道界隈』(新潮社)を手にしながら、「この本に書いてある」と言う。「これは蜻蛉も持ってるんじゃないか。」残念ながらこの巻は持っていない。私が持っているのは、文庫になっている「都心編」「山手編」「下町編」の三冊と、重複しているからとスナフキンがくれた「池袋・中山道界隈」だけだ。スナフキンは多分全巻持っているだろう。紹介がコンパクトにまとまっていて、なかなか便利なシリーズである。
     以前にも書いていることだが、王子の地名が熊野権現に由来することは触れておかなければならないだろう。この一帯は荒川氾濫原右岸の台地であり、かつては岸村と呼ばれていたと言う。元亨二年(一三二二)、豊島景村が熊野新宮の若一王子を勧請し、王子権現と名付けたことから王子村と改称された。その王子権現が現在の王子神社である。
     熊野神社は関東では千葉県に圧倒的に多く分布していて、熊野水軍の影響を感じないわけにはいかない。そして東京は千葉に次いで多く、その殆どを勧請したのが豊島氏だとされている。豊島氏は秩父平氏で、武蔵国豊島郡を領したことからその名を名乗った。庶流に板橋氏、練馬氏、平塚氏、葛西氏などがいる。文明八年(一四七六)、長尾景春が山内顕定に反旗を翻した時、長尾方に加担して太田道灌に滅ぼされた。平塚(平塚神社)、練馬(豊島園)、石神井の三つの城を豊島氏の防御線と考えれば、江戸と岩槻・川越を根拠にする太田道灌の連絡線を断ち切ることになる。だから道灌にとっては最も邪魔な存在だった。
     「昔、熊野古道を歩いたことがあるから、音無川は知ってますよ」とダンディは自慢する。

    音無河 王子権現の麓を流る(ゆゑに、紀井國音無河を模してかくは名づくるとぞ)。本名を石神井川といふ(武州石神井村三宝寺の池より発するところなり)。下流は荒川にいる(世俗、滝野川といふは誤りなり。滝野河村と号して河の号にはあらず)。(『江戸名所図会』)

     「吉宗も紀州出身だから、熊野に縁のあるこの地を愛したんですね。」飛鳥山に桜を植えて江戸の名所に仕立て上げたのは吉宗である。橋を渡ればすぐに王子神社だ。北区王子本町一丁目一番一二号。

    王子権現社 飛鳥山の北の方、音無川を隔ててあり。・・・・
    社記に曰く、若一王子の社は紀井國熊野権現を勧請す。後醍醐天皇の御宇元亨年中、豊島何がしの主とかや、新たに祠宇を建てて崇めけるが、風霜ふり、歳月深うして、朝の霧は香を焚くかとあやしみ、夜の月は灯を挑ぐるに似たり。・・・・
    当社はすべて紀州熊野山の地勢を写し、前に音無川の流れを受けて風色真妙なり。花の時は花をもて祀るといへる神慮によるや、社頭に多く桜樹を植ゑて、春の頃は境内ことに鑑賞あまりあり。また冬月雪の眺望もまた他に勝れたり。(『江戸名所図会』)

     「正面から入るのは初めてだわね。」「前は親水公園から階段を上ってきましたからね。」社殿は権現造りで、黒地に金色の装飾が映える。文政三年(一八二〇)、十一代将軍家斉によって造営修繕されたものだ。
     「これを見なくちゃいけないよ。」ヤマチャンはこの辺に詳しそうだ。境内の東の外れに高さ一九・七メートル、目通りの幹周り六・四メートルの大銀杏が聳える。これが伝説の通り元亨二年に植えられたものだとすれば、樹齢六百九十一年ということになる。
     脇に大きな句碑があるのだが、その仮名を誰も読むことができない。句の末尾に「八十三翁 大谷暁山」、右隅には「八十四翁 一葉書」とあっても、それがどういう人物なのかも分からない。「最後は、さくらかな、でしょうね。」「そうですね。」ダンディとヨッシーが判読する。私は「さ」を「を」と読んでしまったので、まるで意味が通じなくなってしまった。「こんな字が読めたら、別の仕事やってたよ。」確かに講釈師の言う通りだが、日本語が読めないのは悔しいことに変わりはない。「○○なくも 夜○○○○る さくらかな」では全く分からない。
     「あそこに毛塚があるよ。」「あとでお参りしますからね、慌てないでください。」西側の駐車場の隅にある摂社の関神社は、逢坂の関に祀られていた蝉丸神社である。いつ頃の勧請かは分からないが、『江戸名所図会』には記載されていないので、天保以後のことだろう。玉垣に囲まれた中に小さな朱塗りの祠と、毛塚が建っている。ヤマチャンが不思議そうな顔をしているので、「知るも知らぬも逢坂の関ですよ」と説明する。
     百人一首に採用されたから誰でも知っているだろうが、蝉丸は実態の分からない謎の人物である。『今昔物語』では敦実親王に仕えた盲目の雑色で、琵琶の名手として名高く、源博雅に秘曲を伝授した。それが謡曲になると延喜の帝(醍醐天皇)第四皇子に昇格し、姉の逆髪も皇女となる。盲目、逆毛の狂女という障碍に機種流離譚を含ませ、芸能民の縁起としたものだろう。
     田畑耕作に携わらない職人、芸能民、障碍者がその起源を皇族に府会するのが中世天皇制を支えた精神的基盤であったとは、網野善彦が繰り返し力説したことである。

    「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも逢坂の関」の和歌で有名な「蝉丸公」は延喜帝の第四皇子にして和歌が巧みなうえ、琵琶の名手であり又 髪の毛が逆髪である故に嘆き悲しむ姉君のために侍女の「古屋美女」に命じて「かもじ・かつら」を考案し髪を整える工夫をしたことから「音曲諸芸道の神」並に「髪の祖神」と博く崇敬を集め「関蝉丸神社」として、ゆかりの地 滋賀県大津の逢坂山に祀られており、その御神徳を敬仰する人達が「かもじ業者」を中心として江戸時代ここ「王子神社」境内に奉斎したのが、当「関神社」の創始なり。昭和二十年四月十三日戦災により社殿焼失せしが、人毛業界これを惜しみて全国各地の「かもじ・かつら・床山・舞踊・演劇・芸能・美容師」の各界に呼び掛け浄財を募り昭和三十四月五月二十四日これを再建せり。

     社殿を焼失させた昭和二十年四月十三日の空襲とは、先月深川でも触れた三月十日の第一次東京大空襲に続いて第二次とされるもので、三百三十機のB29が王子・赤羽を中心に豊島・渋谷・向島・深川を襲った。およそ二千五百人が死に、二十万戸が焼失したのである。若旦那の家もこの空襲で焼けたとは先月聞いた。
     「人毛業界これを惜しみて」である。「だから床山の名前が多いのか。」右側の玉垣にはかつら店(小林かつら店、田島かつら店、淀かつら等)、左側には床山(床山浅井新太郎、床山堀越秀次、等)の名が多い。「床山は相撲部屋に所属してるんだよ。」講釈師の言うのは間違いではないが、床山は何も相撲に限らない。歌舞伎をはじめとする芸能のカツラを誂える専門職も床山と呼ばれる。
     「それではみなさん、お参りしてください。」姫は私と和尚の頭を見ているが、私は別に関係ないゾ。「いまさら遅いって書かれるんじゃないか。」「毛塚」の名称から、毛が生えてくることを期待してはいけない。スナフキンや宗匠は一瞬期待したようだが、カツラなら遅くない。
     神社を出るとすぐ左に順天中学校・高等学校があった。「順天堂じゃないんだね。」この学校は天保五年(一八三四)、和算家の福田理軒が大坂に開いた順天堂塾が始まりだから、伝統ある学校だ。佐藤泰然が佐倉に順天堂を開いたのは天保十四年のことだから、命名としては福田理軒の方が早いことになる。
     「王子大坂ってどこなの。」ヤマチャンが姫に質問する。コース案内に王子大坂のことが書いてあるのだが、それを書いた本人なのに何を勘違いしたか、姫は「親水公園の辺りですよ」なんて応えている。そう言っているところに地図が掲げられていたのですぐに確認できた。今歩いているのが権現坂で、歯科の向かいの辺りから斜めに上る坂が王子大坂である。かつての御成道はそちらを辿っていたようだ。
     うとう(善知鳥)坂、地蔵坂とも呼ばれた。うとう坂の名は善知鳥の嘴に似た地形から採られたと言われているが、以前、大山街道でも同じ名前の坂を見ている。切通しのような凹地型の坂に名付けられることが多いようだ。それにしても善知鳥と書いて「うとう」とは、知識がなければとても読めない。能に詳しい人には常識かも知れないが、私は山東京伝『善知鳥安方忠義伝』を読むまで知らなかった。
     その一本東の道が私たちの歩く御成道になる。石鍋久寿餅店。「今日は日光御成街道を歩くんだから、葛餅なんかダメだ。」「寄る積りはありませんよ。」前回、姫はここに未練を残していたのだが、今日はそれよりも時間が大事である。

     和菓子屋を睨んで登る春の坂  蜻蛉

     当り前だが、西の台地に向かう路地は全て坂道だ。左手の坂の途中で中学校の野球部員たちが、走り終えたばかりのように倒れこんでいる。その脇が神社付属のいなり幼稚園で、園内の藤棚が薄紫の花を広げている。噴水の上がる小さな池の中の石の上では、カメが二匹、身動ぎもしない。日向ぼっこであろうか。「置物かしら。」ハイジが言った途端、それが聞こえたように頭を動かした。「生きてる。」

     藤棚に野球少年息切らし  蜻蛉

     その隣が王子稲荷だ。北区岸町一丁目一二番地二六号。門を入れば境内は丸ごと幼稚園の庭で、正面の鳥居の奥に、園の建物に沿って階段が登っている。平日は幼稚園児のために、この門は閉ざされているらしい。
     「関八州のキツネはここに集まるかと思ったら、違うんですね。装束稲荷の方だって書いてある。」ダンディも以前ここに来ていると思うのだが。大晦日に装束榎のもとに集まったキツネは、そこで衣装を調え、新年の挨拶のためにこの稲荷神社にやってくるのである。現在その榎はなくなり、跡地に装束稲荷神社が祀られている。ここよりはもっと東、京浜東北線を超えて北本通りの辺になる。

    『王子権現記』に曰く、「いづれの世にかありけん、この社の傍らに稲荷明神をうつしいはいければ、年ごとの蠟晦の夜、諸方の命婦(稲荷神の使者の狐)この社へ集まり来る。そのともせる火の連なりつづけること、そくばくの松明を並ぶるがごとく、数斛の蛍を放ち飛ばしむるに似たり。その道、野山を通ひ河辺をかよへる不同を見て、明くる年の豊凶を知ると聞こゆ。命婦の色の白きと九つの尾あるは奇瑞のものなりと、古き書にありとなむ。下略」。(『江戸名所図会』)

     手水舎だったと思われる場所には、屋根があるだけで何もない。幼稚園児の遊び場にもなっているから危険と判断されたものだろうか。階段を上がれば華やかな社殿が建っている。

     八棟造り極彩色の華麗な社殿は、江戸文化の最高潮、文化文政時代の粋を伝え、当時の稲荷信仰の隆昌が偲ばれます。
     然し、惜しいことに、この度の大戦中、昭和二十年四月十三日、空襲によって本殿などを大破しました。その後、昭和三十五年に本殿の再建が行われましたので、現在の社殿は、拝殿幣殿は文政五年の作、本殿は昭和の作ということになります。
     又、昭和六十二年には、社殿の総塗り換えが百六十五年ぶりに行なわれ、神楽殿も新規に建て替えられました。(『王子稲荷神社由緒記』)

     その右手から小さな赤い鳥居が並ぶ参道を通り、階段を一番上まで行くとキツネの穴がある。姫は膝が痛いから上まで行けないのは分かっているが、小町も最初から諦めているようだ。大したものではないが、岩肌に小さな窪みができているのである。穴の入口には花挿しに榊を立て、両脇に小さな狐を置いてある。
     後から登って来る人と交差して降りてくると、「お石様」と呼ばれる祠もあった。前に来た時には気づかなかった。台形の台座に座布団四枚を敷き、その上に三十センチほどの石が置かれているのだ。持ち上げて、意外に軽いと感じれば祈願が叶うと言う。
     特に祈願の筋はないけれど、それでは試みてみるか。「やめてちょうだい。腰を痛めちゃ大変。」大丈夫だった。重さは二十キロちょっとではあるまいか。三十キロはないと思う。この程度なら、一昨日、エレベーターのない三階の研究室まで段ボールを運んでいる。ハイジも挑戦しようとしたが、華奢な彼女では無理だろう。「全然ダメ。」ヨッシー、スナフキンがやってみる。「意外に軽いじゃないか。」
     金輪寺には寄らない。かつては王子権現の別当寺で、十二の塔頭を抱える大寺院であり、将軍の日光社参時には休憩所として使われた。しかし明治の廃仏毀釈で廃寺になり、現在の金輪寺はその塔頭の藤本坊が名前だけ継承したものだから、場所も違う。真言宗霊雲寺派。
     名主の滝公園。北区岸町一丁目一五番地二五。武家屋敷の門のような入り口は素通りして、北側の入り口から入る。「ここでトイレ休憩をします。十分で戻ってきてください。時間厳守でお願いします。」十分で女滝まで行くのはちょっと忙しそうだ。

     江戸時代の安政年間(一八五四~一八六〇)に王子村の名主「畑野孫八」が自邸に開いたのが始まりで、〝名主の滝〟の名前の由来もここから来ました。庭園として整備されたのは、明治の中頃で、垣内徳三郎という人の所有になってからでした。昭和十三年には、株式会社精養軒が買収し、食堂やプールなどが作られ公開され続けてきましたが、昭和二十年四月の空襲により焼失し、ようやく東京都によって再公開されるようになったのは昭和三十五年十一月でした。
     (北区http://www.city.kita.tokyo.jp/docs/facility/055/005519.htm)

     これが北区の案内だが、別のサイトでは、「嘉永年間 (一八四八~一八五四 )王子村の名主畑野孫八が自邸に開いた」(http://www.geocities.jp/tokyo_saunterer/a032200.htm他)とある。嘉永と安政とどこでどう間違えたのだろうか。
     ところで名主を「みょうしゅ」と読めば中世の名田経営請負者のことだが、これは戦国大名の領国支配から太閤検地に至って絶滅した。「なぬし」と読めば、江戸時代の地方三役(名主、組頭、百姓代)の筆頭である。西日本では庄屋、東北や九州では肝煎と呼ばれることが多い。
     西側には鬱蒼とした高台が広がり、その北側に男滝、南側に女滝、間に独鈷の滝と湧玉の滝がある。私は男滝を眺めるだけでやめにしたが、宗匠、和尚、スナフキン、ドクトル、クルリンたちは女滝まで行ったようだ。「これは自然の滝ですか。」「人工的なものだと思うよ。」かつては豊富な水量を誇っていたが、現在では地下水をポンプで汲み上げて落としている。「それでも結構な水量だね。」
     小町がコーヒー味の飴をくれたのでそれを舐めていると、ハイジが種なしの梅干しを配ってくれる。「ちょっと待って。飴が終わったら。」少し甘めで塩味がきつくなく旨い。
     大きな八重桜が満開で、枝には「サトザクラ」の札が掛けられている。サトザクラとは、オオシマザクラやヤマザクラを基に作られた園芸種である。園芸種とは言っても近代のものではなく、桜の品種改良は平安時代から始まったと言われるので、平安の貴族が愛でた「花」はこのサトザクラや山桜だっただろう。和歌を詠んで、うっかりソメイヨシノを思い浮かべると間違ってしまう。しかしかなり大ぶりな八重桜で、余り儚い風情は感じられない。
     その隣のハナミズキは、白い花がまだ小さい。道路の向かいのピンクのハナミズキの方が美しく咲いているようだ。シャガ(アヤメ科)も広がっている。「シャガってどういう字。」「カタカナ。」「エーッ、知らないの。」「宗匠に聞かなくちゃ。」「そうか、宗匠は電子辞書をもってるものね。」しかしマリーは携帯電話で検索した。画面を横にし、指を不器用に使って拡大すると、「エッ、そんなこともできるの」とハイジが驚く。私と同じだ。現代文明に馴染めないのである。
     それによれば、射干、著莪などと書く。しかし射干という字はややこしくて、「ヤカン」と読めば同じアヤメ科の檜扇(ひおうぎ)のことであり、その黒い種を射干玉(ヌバタマ)と呼ぶ。シャガと読めば今見ているこの花になる。また仏典ではジャッカルを音訳して野干、射干と表記する。中国にジャッカルは生息しないからキツネや狐や貂、豺と混同され、日本では主にキツネを意味した。

     文明についていけずに著莪の花  蜻蛉

     「そろそろ行かなくちゃ。全員揃ってますか。」女滝まで行った連中がまだ帰ってきていなかったが、それでも数分後には戻ってきた。「それでは出発します。」
     公園の北の端に沿ってS字型に曲がる三平坂はちょっときつい。「こんなところに住んでる人は大変だな。」「毎日のことだしね。」この坂が王子村と下十条村との境になっていた。
     坂を上りきると、姫は前回と同じように小学校に入っていく。学校が好きなのだ。「学校に入ってもいいのかい。」ドクトルが注意を促すが、校地開放と書いてあるから大丈夫だ。「懐旧下十條小学校跡」碑を見る。昭和十二年に下十條尋常小学校として開校したが、二十年の空襲で全焼して廃校になったのである。その命僅かに九年。現在は十条台小学校になっている。
     「地福寺はどうしましょうか。」先を急ぎたい姫はできるだけ見学を省略したいのだが、「地蔵だけでも見ようよ」と言ってみた。「中には入りませんからね。」十條山地福寺東光院。北区中十条二丁目一番地二〇。実に親切な住職のいる寺で、以前ここに立ち寄ったとき、住職がわざわざ出てきて冊子をくれた。「俺は貰わなかった。」スナフキンがむくれても仕方がない。住職がくれたのは二冊だから姫と私が頂戴したのである。ここを歩いて寄らなければ義理が立たない。
     道路から少し引っ込んだところに文化五年(一八〇五)に建てられた山門があり、その手前に大小六体の地蔵が鎮座している。その中で、左端の一番大きなものが、「鎌倉街道の地蔵」と称されたものである。それで分かるように、この日光御成街道は、ほぼ中世の鎌倉街道中道を踏襲しているのだ。磨滅して目鼻は全く区別がつかない。台座に三猿が刻まれているらしいのだが、それも気付かなかった。
     また塀際に復元した「茶垣の参道」の解説によれば、かつてお茶は滝野川の銘産だった。さっきの名主の滝を開いた畑野孫八が、王子で初めて茶を植えたとも言われている。「千年の松」もあるが、何故千年なのかは不明だ。「救らいの寺」碑。境内には出羽三山講の供養塔がある筈だ。

     「病院と薬局と斎場が並んでいます。」「大山街道じゃ、老人ホームと斎場が隣り合わせになっていた。」斎場をこういう位置に立てるのはいかがなものであろうか。左には十条中央商店街の入り口が見えた。今は演芸場通り商店街とも呼ばれているらしい。
     「梅沢富美男が出てた演芸場があるんだよ。」後ろから講釈師の声が聞こえた。その篠原演芸場で、若くてチャーミングだった頃の梅沢富美男を見たことがあった。スナック「クール」のお姉さんに連れられて初めて大衆演劇と言うものを見たのだったが、それも四十年前のことである。梅沢は千意さんとスナフキンと同い年だから、あの頃まだ二十三四歳だったか。
     富士神社の前の道路は工事中で片側通行になっている。その向かいの歩道橋脇の小さな公園で姫は立ち止った。「見たい人は十分で帰ってきてください。」富士塚には登らなければならない。十条富士塚。北区中十条二丁目一四番地一八。狭い街道が工事中だから横断が面倒だ。
     鳥居から真っ直ぐ続く階段を登る。頂上の石祠の中におさめた「富士浅間神社」の木札は比較的新しそうだ。この富士塚は丸参伊藤講が文化十一年(一八一四)に造立したもので、江戸の富士塚としては四五番目になるだろうか。階段下に一番目立つ大きな碑はその丸参伊藤講のものだ。今更ではあるが、富士塚とはどういうものか。

     富士塚とは富士講の講徒が、土を富士山の形の盛り上げ、盛り上げた土の表面に俗に「黒ボク」と呼ばれる富士山の溶岩塊を配して作り上げた、人造の小型富士山をさすものである。
     富士塚が作られたその始まりは、安永八年(一七七九)江戸高田(新宿区戸塚)に住んでいた造園師の藤四郎が、高田の水稲荷神社の境内に築いたものといわれている。藤四郎は富士講を隆盛に導いた食行身禄(伊藤伊兵衛)の直弟子である。
     藤四郎は日行青山と称し、のちに身禄派富士講の一系統である丸藤講の講祖となるが、身禄の弟子の中では目立たない存在であったらしく、藤四郎は師を追悼するため、形を遺すものを作ろうと一念発起して、富士塚を築造したようである。(中略)
     ・・・・頂上には富士山の神仙元大菩薩を祀る石祠を置き、塚の下には黒宮を建て、中腹に小御嶽石尊大権現を祀る祠を建てて、中腹の身禄入定の聖地烏帽子岩にあたる場所には立石を置く。そして山裾の右手に胎内を象った洞穴をつくっており、頂上に石祠、中腹の向かって右手に小御嶽を、中腹の向かって左手に烏帽子岩、山裾に胎内という身禄富士塚の基本がこのとき形づくられた。(平野榮次『富士と民俗』)

     また「富士講という信仰集団が生まれたのは明和(一七六四)の頃であるらしい。その後の安永四年(一七七四)には、町奉行所の御触書で富士信仰を禁じている。」(岩科小一郎『富士講』)とある。それなら富士講は食行身禄没後に始まったことになる。
     食行身禄は富士信仰中興の祖で、本名伊藤伊兵衛と称す。もとは伊勢国一志郡の人で、江戸で油商をしながら富士行者に学んで修業を積んだ。食行は断食の意味であり、身禄は弥勒のもじりである。弥勒は釈迦入滅後、五十六億七千万年後に下生して世を救うと考えられ、メシア運動、世直し信仰のシンボルとされていた。食行身禄の富士信仰には世直し思想が含まれていて、それが庶民の不満や不安を吸収して富士信仰が拡大したと言われている。
     享保十八年(一七三三)、富士山の七合五勺目の烏帽子岩で断食して入定した後、その娘や門人たちの主導権争いによって、身禄の教団は分裂した。それぞれがいくつもの講を傘下に収め、江戸後期には江戸八百八講と言われるほどにまでなったと言う。その中でも十条の丸参伊藤講は、滝野川に生まれた安藤富五郎が結成したもので、伊兵衛の名を受け継いだ名門である。

     入定は即身成仏義を目的とする真言宗の教義であり、富士講にもその影響は認められる。しかし身禄行者の入定は、社会性を帯びており、その背景に「世直し」の意義が秘められていたのである。・・・・天皇・将軍・貴族・武士などの支配者階級の腐敗ぶりを痛憤しており、こうした世俗社会への批難を宗教的エネルギーに転化させる意図をもって入定行為の挙にでたことが推察されるのである。実際に身禄入定を契機として、富士講は、民衆の期待をになって拡大の途をたどっている。富士山のもつ山岳崇拝の要素が、山頂の弥勒浄土という形で、ユートピア運動の要に成り得た事例と言えるのである。(宮田登『弥勒信仰の研究成果と課題』)

     しかし富士信仰は本当に日本のユートピア運動になったのだろうか。この辺の議論はもっとよく考えなければならない。一般の庶民にとっては、山岳修行を疑似体験することで、非日常を体験する物見遊山のひとつではなかっただろうか。弥勒信仰は、古代中国や朝鮮においては激越な叛乱として勃発することもあったが、日本ではそんな動きは発生しなかった。そもそも富士塚なんていうミニチュアを作って喜ぶ位だから、大きな反乱エネルギーには結びつかないだろう。江戸の庶人にとっては、富士塚詣りは数多くある縁日のひとつでしかなかったのではないか。
     終末論的宗教感情の爆発と言えば、幕末の「ええじゃないか」の狂的乱舞も連想されるが、これも「運動」として成立したものではない。騒動を起こすのが目的で反幕派が工作したものだったから、自発的な宗教感情によるものではない。前近代の宗教感情を「運動体」として捉えるには、かなり慎重な検証が必要ではあるまいか。と言いながら、今の私にはそれだけの能力がない。
     ところで、この十条富士では今も毎年七月一日に祭礼が催される。再び平野榮次の論文から引用する。

     富士塚を中心とした行事で、人々が最も多く集まるのは、毎年七月一日に行われる東京都北区の十条富士の大祭である。この日は雨天が多いので塚の頂上にはテントが張られ、大勢の一般参詣者は塚の前面にある階段を上って、頂上の石祠の前に線香を供える。祭事は十条の富士講丸参伊藤講によって取りしきられ、神社の入口に仮設の世話人詰所ができて、先達・世話人が詰めて線香を売っている。塚の脇の道路両側には多数の露店が出て、大勢の参詣人で混雑するという、特異な形を見せている。

     この周辺の道路事情を見れば、どれだけ混雑することか。道路の両側に露店が出るほどの余地があるか。それにしても、これを取り仕切る講が今でも存在するというのも驚くべきことだ。
     下に降りると、道の向こう側で待機していた姫は既に歩き始めている。「早く渡って下さい。」交通整理員が片側の車を止めている間に急いで道を渡る。街道自体が狭い道だから歩道も狭い。前方から自転車がやって来ると、よけるのに苦労する。「ここは歩道なんですから、降りなくちゃいけないのに」と姫も少々オカンムリである。
     「このお寺は入れてくれないんですよ。」街道から二三十メートルの参道の突き当たりに大きな山門が建っている。真言宗智山派の西音寺だ。北区中十条三丁目二七番地一〇。ここは前回、私が勝手に立ち寄って姫に顰蹙を買ったところだ。
     「これ珍しいよ」と小町が指さす通り、門前に笠付きの六面石幢六地蔵が立っているのだ。六面石幢六地蔵はいくつか見たことがあるが、地蔵の頭の上に、坐像の如来か観音が浮き彫りにされているのが珍しい。ただこれは三面にしかなく、阿弥陀三尊であった。塀際に立っているので、「奉造営六地蔵 宝暦壬申年十二月吉祥日」の銘は見えない。宝暦壬申年は一七七二年である。
     その横にある「弘法大師」と記した大きな石碑には「豊嶋八十八ケ所」「第三十番 上十條 無量山西音寺」とある。もっと知りたいのだが、ネットを検索してもこの寺のことは良く分からないのが残念だ。
     二階の壁面が全面青い銅板で覆われた家がある。何かの工場か会社だろうか。環状七号線を渡る。右手を京浜東北線が走っている。この辺で街道の西側に渡る。「清水坂」の案内標識は鉄製で古い。

    十条の台地から稲付の低地に降る岩槻街道(旧日光御成道)の坂である。昔はけわしく長い坂道だったので十条の長坂とも呼ばれた。切通しの崖からは絶えず清水が湧き出ていたので、清水坂の名が付けられた。現在は崖が削り取られて、その跡に児童公園が設けられているが、そこは貝塚遺跡でもあった。

     埼京線を潜ると、前回歩いた時とは印象がまるで変わってしまった。「そうか、道路拡幅工事をしてるんだな。」東側の住居が取り払われて道幅が倍以上に広くなっている。道路の真ん中は通れないようにしてあるが、縁石があった形跡がはっきり残っている。よく、これだけの区間の家を撤去したものだ。
     「お風呂があるじゃないか。俺はあそこに入っていくからさ。」それじゃサヨナラ。「湯屋 わっしょい」と言う。おかしな命名だが、高濃度炭酸泉のスーパー銭湯である。「炭酸は体にいいんですよね。」そう言うことを主張するテレビ番組を見たことはある。「平日で七百円だぜ。」土日なら入館料は九百円にもなる。高いではないか。地元の人間が来るとは思えない。赤羽駅に近いから、終電を逃した連中が泊るのに都合がよいかも知れないが。
     武家屋敷のような門構えの家は、隣の共愛クリニックの母屋のようだ。広い駐車場の奥に二階建て石造の蔵が見える。表札の名前は、現在の院長の父親に当たる人ではないかと思う。
     その先の交番(赤羽西派出所)角から西に登るのが真正寺坂で、坂の北側に普門院末の真正寺があったことから名付けられたのだが、その寺は現在ない。曲がったところに庚申塔が建っている。北区赤羽西二丁目一九番地先。前に来た時は、全身黄色の苔で覆われていたのに、それを洗い落したように綺麗になっている。ただ所々に黄色の痕跡が残る。私は苔だと思い込んでいたが、姫は黄色いペンキが塗ってあったと言う。勘違いしていただろうか。六臂ある筈の腕も一本だけしかなく、その左手はショケラをぶら下げているようだ。新しい花が供えられている。
     この庚申塔は明和六年(一七六九)造立で、「これより いたはしみち」の道標になっている筈だが、損傷が激しくて文字は全く読み取れない。地図でこの狭い路地を真っ直ぐ辿れば都営三田線の本蓮沼駅の辺りに出るので、御成道と中山道を結ぶ道になる。
     次の路地に入れば、坂の突当たりに大きな竜宮門が建っているのがすぐに目につく。「竜宮城みたいだろう」と講釈師が大声で自慢すれば、小町やマリーは「ホントね」と納得する。森鴎外と太宰治の墓がある三鷹の禅林寺の山門もこの形式である。ここは普門院(真言宗智山派)、徳治二年(一三〇七)創建と伝えられる古刹だ。私たちは江戸の日光御成街道を歩いている積りだが、中世の鎌倉街道、奥州街道を思いながら歩かなければならないようだ。
     「そこに行くんじゃありません。この解説を見てほしいんです。」稲付の餅搗唄が解説されているのだ。道灌山稲荷では毎年初午の日に餅つきを行い、餅練り唄、餅搗唄が披露される。この辺りが上十条村と稲付村との境になるようで、北側の台地にかけて道灌山と呼ばれる。道灌山稲荷というのは、竜宮門のこ手前にある陀枳尼天のことだろう。
     稲付城址(静勝寺・曹洞宗)には寄らない。もう十二時十五分前で、ここに寄っていると昼時に間に合わない。この辺りが道灌山と呼ばれるように、太田道灌が築いたとされる城である。「だって、ちゃんと見学すれば一時間は必要ですからね。あそこの坂を上ったところです。興味のある人は後日来てみて下さい。」道灌の木像もある。

     稲付城は江戸城と岩槻城との連絡の城として太田道潅により静勝寺の建つ丘の上に築かれたと伝えられていましたが、以前はその存在を示す確たる資料や遺構等も無く、いわば伝承の城でした。ところが、近年になって付近のマンション工事に先立つ発掘調査により、空堀の跡が発見されて稲付城の存在が証明されました。城址は西、北、東の三方を崖に囲まれた尾根状の高台の先端にあり、北西の谷間には外堀の名残と伝えられている亀ヶ池があります。http://www.asahi-net.or.jp/~cn3h-kkc/shiro/ina.htm

     そしてすぐに赤羽駅の西口に着いた。ヨーカドーはパチンコ屋になってしまったのか。しかしそのビルを回り込むと確かにイトーヨーカドーの入口だ。ヨーカドー自前のビルではなく、パルロードという商業施設であった。現在、八階の八四・一四坪のテナントを募集している。賃料坪単価は一万一千三百円、共益費坪単価は四千七百円。
     「ちょっと待っててくださいね」と姫は店内に入ってすぐに戻ってきた。「六階に食堂やレストランがありますから、そこに行きましょう。」「待たせて確認するなんて、下調べが足りないんじゃないか。」講釈師の悪口は聞かないことにしよう。
     「全員乗れるかな。」エレベーターはかなり広い。「定員二十四人だって。」六階に降りれば、うどん屋、トンカツ屋、つきあたりにセルフサービスの「ファミール」と並んでいる。「十二時半に、この本屋さんの前に集まってくださいね。」宗匠、千意さん、ヤマチャンはうどん屋に入った。「そこでいいじゃないか」とトンカツ屋を指さしたが、スナフキンは皆と一緒がよいようだ。それなら私もそうしよう。
     幸い席は空いていた。「当店のシステムはご存知でしょうか。」「知らない。全く初めて。」前金で料理を注文すると、番号の入ったポケットベルが渡される。「ベルが鳴ったら、あのカウンターにおいでください。お料理をお渡しします。」
     講釈師は「カレーはないのかな」と尋ねて「ございません」と応えられ、何処ともなく去って行った。どこに行ったのだろうと思ったが、結局うどん屋に行ってざるそばを食べたようだ。メニューをみると一番安い定食が六百八十円だから、私はそれに決めた。若鶏と揚げ出し豆腐定食である。セルフサービスの割にはそんなに安いものではない。
     「こういうところでハンバーグは時間がかかるよな。」暫くして私のポケットベルが鳴った。やや混んできた狭い店内をトレーを持って歩くのは少し危険だ。「ずいぶん可愛らしいご飯だな。」飯の量は少ないが、どうせ四時過ぎには飲み始めるのだからこれでよい。次いでスナフキンのマーボー茄子丼とうどんのセット。ハイジのハンバーグはやはり時間がかかった。向こうの席ではなかなか呼ばれないダンディが苛立っているように見える。私があっという間に食べ終わった頃、ようやくダンディの順番もきた。どうやら天麩羅を頼んでいたようだ。
     定刻になって全員が集まった。またエレベータに乗ると、さっきより混んでいるようなのは気のせいだろうか。「そんなにくっつくなよ。そんな趣味はないんだよ。」私は思い切って講釈師に体を押し付けた。

     赤羽駅構内を抜けて東口に出る。少し歩いて突き当たりが真言宗智山派の宝幢院だ。北区赤羽三丁目四番地二。「記憶があるわ。」「中には入りませんからね。」また言われてしまった。前回は、猿が二匹だけの庚申塔を見た。但し青面金剛ではなく阿弥陀如来であるため、山王信仰と庚申信仰が結びついたものと推定されている。
     姫が見せたいのは道路際に立つ道標である。高さが五十センチ程で風化のためにかなりゴツゴツしているが、「東 川口善光寺道日光岩付道」「南 江戸道」と読める。「西 西国富士道板橋道」というのは裏に隠れているので分からなかった。この道をやや南西に道なりに行けば、中山道の志村警察の辺りに出る。
     私たちはその逆に北本通りを北東に行くのだが、すぐに小山酒造に着く。北区岩淵町二六番地一〇。二十三区内唯一の酒蔵で、酒の名前は丸眞正宗だ。前回、桃太郎はこの店で一升瓶を買った。
     「この間は、ここで千意さんが生姜を配ってくれたんだよね。」「そうそう。」その場で齧った生姜は、歩き疲れた後の体に沁み込むように美味かった。気配りのひとである。
     店の前に「岩槻街道岩淵宿問屋場址の碑」が立っているだけで、問屋場をしのばせるものは何もない。岩淵宿は日光御成街道最初の宿駅で、日本橋から三里八町、宿の長さは四町二十一間、道幅四間あった。さっきの宝幢院の辺りが宿場の外れになるだろう。北本通りの一本東側の大満寺の辺りが宿場の中心で、梅王寺を通る細い道が元々の街道だったと思われる。
     日本橋から三里八町では宿場の必要も余りないが、荒川氾濫で足止めになった時の臨時の宿場であった。そのため川口宿と二つで一つの宿場と扱われていたと言う。

     岩淵宿は岩槻道の初宿であって『遊暦雑記』には日本橋から三里八町、宿の長さは四町二十一間、道幅四間とある。旅篭屋は若松屋大黒屋が有名で本陣は小田切氏が代々勤める。川口と合い宿として月の前半後半で宿場の役目を交代した。実際にはほとんどが日光街道の千住宿を利用したのであまり活気はなかったようだ。と新修北区史にある。
     街道の初めの宿場といえば千住板橋新宿品川などに見るように実質的にそこが旅の門口で、見送る人たちと一晩遊興してから旅立つところとされて色街的な色彩をのちの時代まで残す。だが岩淵にはそのような面影が見られない。おそらく宿泊客は少なく休憩場所的な性格が強かったのではないだろうか。
     しかし宿場の機能とは旅人に宿を提供するばかりではない。むしろ江戸内外の物資の運輸や郵便通信などの問屋場業務のほうが政治的社会的には重要で、多くは本陣が直轄して運営されていた。ことに岩淵は街道交通に加えて荒川の上流下流の水運もあったのでその意味では物資が集積する賑わいのある町だったのではないだろうか。川が荒れたときや荷がたくさん届いたときなどはたびたび周辺の村から男たちが川越え人足として駆り出されたという。
    http://www.kitanet.ne.jp/~kiya/hometown/topics011.htm

     講釈師はヨッシーを誘って裏手の工場の方に行った。工場の壁に「愛酒報国」とあるのを見せるためだろう。その間にダンディは丸眞正宗を買った。
     目の前の川は新河岸川、その向うに荒川が流れている。江戸時代には勿論橋はなく普段は渡し船が通っていたが、「御成之節岩渕川口仮橋勤番絵図」を見ると、将軍社参の時だけ仮設の板橋が架けられた。橋の規模は幅三間、長さ六十五間(一一八・二メートル)とされる。
     渡し場はもう少し西側にあったようだが、すぐそこに新荒川大橋が架かっている。これを歩いていくのはどうだろうと、さっき昼飯が終わったあとに千意さんと提案していたのだが却下された。姫は現代の籠、地下鉄に乗って時間を稼ぎたいのである。「籠と徒歩とで別れたらいいんじゃないの。」「赤羽岩淵から川口元郷まで四分です。二キロの橋を渡る人との合流場所も難しいんですよね。」
     と言うことで駅まで戻る。「あっ、あの寺、本堂を再建したんだな。」講釈師が目敏く左側に見つけたのは正光寺である。北区岩淵町三二番地一一。確かにそうだ。前に来た時は、山門の中のだだっ広い空き地に、ただ三丈三尺の銅製の観音像が立つだけの荒れ寺だったのだ。ネットで調べてみると、随分立派な本堂と観音堂が建ち、地蔵も立っている。

     昭和五三年(一九七八) ホームレスにより正光寺本堂焼失。 以来、三十三年にわたって再建されないまま境内は駐車場と化し野良猫が目立つ荒れた状態でした。
     二〇一〇年、浄土宗開祖法然上人八百年大遠忌を記念して本堂建立が決まり、完成は二〇一一年七月のことでした。(http://www.ukima.info/meisho/kaiwai/shokoji/kannonzo.htm)

     赤羽岩淵駅だ。和尚もヤマチャンも埼玉高速鉄道には馴染みがない。「ここまでが南北線。ここからが埼玉高速鉄道です」とマリーが解説する。「そうか、京浜東北線が止まったときは、これを利用すればいいんだ。」ヤマチャンは京浜東北線を使っているのか。和尚は「初めて乗る」と言う。「どこまで通ってるんですか。」浦和美園まで運行距離は僅かに一四・八キロでしかなく、運賃の高い鉄道である。
     「埼玉スタジアムのサッカーだけを目的にできた路線じゃないの。」サッカー試合がない時は乗客も少なく、二〇一一年三月期決算では、売上高八一億三千四百万円、営業利益はマイナス一八億三千五百万、純利益がやはりマイナス四一億三千四百万円である。これでは運賃を安くするわけにはいかない。岩槻から蓮田までの延伸計画もあるようだが、いつになることか。ただ、これまで電車から見放されていた鳩ヶ谷の住民は、この路線の御蔭で便利になったのは間違いない。
     「略称をSRって言いますよ。」乗客を増やすために、毎月SR主催で見沼田んぼ周辺の里山を歩くハイキングを開催している。ダンディと講釈師はその常連メンバーだ。宗匠の奥方も参加しているらしい。「彩の国スタジアム線」という愛称があるそうだが、そんな名前は聞いたことがない。
     ここでヨッシーが半日券を使い果たして別れて行った。残りは十五人である。ひと駅二百十円で川口元郷に着く「高いわね。」「高いだろう。」
     室町時代にこの辺り十五ケ村を領していたのは平柳氏で、「元郷」の名は平柳氏の居館のある本村だったことによるようだ。十五ケ村の内訳は、元郷村、弥兵衛新田村、領家村、新井方村、十二月田村、樋爪村、二軒在家村、上新田村、中居村、小淵村、辻村、前田村、川口村、飯塚村、浮間村である。
     改札を出ると、北と南に出る通路が伸びている。さてどちらに行くか。姫は南に向かった。駅舎の壁には江戸時代の鋳物師の作業風景を描いた銅板のレリーフが飾られている。たたら踏み、こしき溶解、鍋釜小物の鋳込み、大物の鋳込み、仕上げなど。「面白いね。」言うまでもなく、川口は「キューポラのある街」であった。今でも小さな鋳物工場が点在しているが、ほとんどはマンションに変わってしまった。

     川口になぜ鋳物が発生したかは、明らかにされていないが、荒川や芝川などの砂や粘土、運搬の便、消費地江戸との近接などの好立地条件のため発達したと考えられる。これは他の諸産業と同様に特産品産業の一つとして農業の副業的な存在から発展したものと考えられる。
     江戸時代の鋳物業は小規模な手工業であったが、明治に入ってから著しい発展をとげる。それは、政府の富国強兵政策によって鋳物業が基幹産業として重要な役割を担うことになったからである。日清・日露戦争を契機としてその需要に応えるために軍需品製造に重点を置き、空前の活況を呈し、川口鋳物の名声は全国に聞こえ、その地位を確立した。
       その後、第一次世界大戦から太平洋戦争終戦までの間には、川口の鋳物業は生産額・技術面・製品面に飛躍的な発展をとげ、名実共に「鋳物の川口」といわれるようになった。
     (「川口の産業」http://www.sch.kawaguchi.saitama.jp/nishi-j/sangyou.htm)

     『江戸名所図会』にも「河口鍋匠」の絵が描かれているので、江戸時代から有名であったことは間違いない。

    河口鍋匠 その家に伝へていふ、天命国家が後胤なりと。人皇九十七代光明院の御宇暦応年間(一三三八~四二)、河州丹南郡よりこのところに移り住するよし。その子孫いまなほここに栄えて連綿たり。

     日本全国の鋳物は、河内丹南鋳物師を中心に伝えられたとされるから、河内鋳物師こそが日本の鋳物師の総本家と言っても良い。だからその後胤を称したのだろう。
     岩槻街道(国道一二二号)を南に戻り、上之橋で芝川を渡って産業道路に出る。「ここが産業道路か。よく通るよ」とヤマチャンが声を上げる。向かいの福田屋洋品店は、二階の壁が緑青の銅板貼りの古い店構えを残している。住所表示を見ると本町一丁目だから、この辺りが元々の川口宿になるだろう。信号のない場所で無理やり渡る。実家(母とマリーの住む家)が近いのに、この辺は全く歩いたことがないので地理が分からない。
     狭い路地に入りこめば、もう荒川土手がすぐそこに見える。かつて鋳物工場だったと思しき建物もいくつか残る。目的の旧鋳物問屋鍋平別邸は川口市母子福祉センターになっていた。川口市金山町一五番地二。こうした歴史的建物を福祉施設に使うというのは珍しいのではないだろうか。

     江戸時代末創業の地元鋳物問屋・鍋屋の四代目島崎平五郎が、西洋文化の風情を取り入れて建築した旧居宅が、市内の金山町にある。明治末から戦後にかけて五回の増築を経て造られた主屋、離れ、蔵の三棟から構成されている建物だが、いずれも再現することが容易でなく、また鋳物問屋鍋屋平五郎商店の隆盛を今に伝える貴重な文化遺として国指定文化財に登録されている。

     木造二階建て建坪二百平米、離れが木造平屋で八十二平米だから、豪商の屋敷としては小さなものだ。金山町の名の通り、周囲が鋳物工場の密集地で土地が増やせなかったのだろうか。「トイレがすごいよ。」トイレの窓にステンドグラスが嵌めてある。「ステンドグラスはイタリアのものですか。」「そうです、ヴェネチアです。」書院窓や鶴を透かし彫りにした欄間、竹を編み込んだ壁など、かなり手がかかっているのは分かる。
     屋内はあっという間に見終わっていったん外に出る。「ダンディ、それは私の靴です。」千意さんが慌てて声を掛ける。そんなに似たような靴ではないのだが。回遊式の庭園に入るためには、建物の下を抉って溶岩で固めた通路を通らなければならない。藤棚、躑躅。狭いがなかなか趣がある。
     「あの岩がスゴイよ。」高さ二メートル程の岩の上に樹木が建っている。崖の周囲を溶岩で固めたものだろう。

     本庭園の特徴であるクロボク(溶岩)石積みが主景となり水を流す庭の構成は、昭和戦前期の東京下町の神社仏閣や料亭、銭湯、個人住宅などの庭園に多く取り入れられました。面積の小さな庭を立体的な石組みと流れ落ちる水によりダイナミックに表現する手法として流行したものです。(解説板より)

     女性陣は四阿に座り込んでしまって、のんびりしている。午前中の忙しさとはまるで変わってしまった。なかなか出発する気配がない。こんなにのんびりしてしまえば眠くなってしまう。

     おしゃべりの止まらぬ庭や春の昼  閑舟

     「もう出発しよう。」やっと腰を上げてくれた。「そこの木造の家は、子供の友達の家だった」とマリーが言い出した。その家はちょっと気になっていたのだが、今は住んでいないようだ。「引っ越したのよ。」
     次は川口神社だ。川口市金山町六番地一五。「初詣といえば川口神社だわよ」とマリーは言う。家から一キロちょっとか。正月に実家で飲んでいるとき、姪や甥が初詣に行っていたようだが、私は初めて来た。
     もとは氷川神社で、天慶年間(九三八~九四七)足立郡司の武蔵武芝の創建になると伝えられる。武蔵氏は出雲系の氏族で武蔵国造家として代々郡司を務め、氷川神社を祀っていた。
     武芝といえば平将門の事件のきっかけになった人物として有名だろう。武芝が武蔵国権守興世王と介源経基の赴任に横やりを入れたのが発端で、これに将門が首を突っ込んだから事件は大きくなったのである。『将門記』では、非道の国司に対して正理の郡司とかなり持ち上げられている。

    国司は无道を宗となし、郡司は正理を力となす、其の由何とならば、縦へば郡司武芝、年来公務を恪慬し、誉有りて謗无し、苟くも武芝治郡の名は、頗る国内に聴え、撫育の方、普く民家に在り、代々の国宰、郡中の欠負を求めず、往々の刺史、更に期を違ふの譴責无し・・・・(『将門記』)

     小町は、入口の石柱にある「県社」の意味が分からないと悩んでいる。「村社とかあるよね、それと県社と。神社の格ってどうなってるの。」元々この氷川社は村の鎮守で、明治六年に村社に列格した。やがて菅原天神社、稲荷三社、金山彦を合祀して川口神社と名を改め、昭和十年に川口市の総鎮守として県社に昇格した。社格は明治以降の神社政策によるので、あまり気にすることはない。神社の格としては延喜式に基づく方がよいのではないか。
     江戸期の寺檀制度に代えて、神社を人民掌握の組織にしようとする意図で格付けしたのである。官幣社、国弊社の下に、府県から補助金を貰う(奉幣を受ける)府県社、郷から貰う郷社、村から貰う村社が存在した。
     本殿は権現造りでなかなか立派だ。境内には護国神社、金刀比羅神社、八雲社、杉山稲荷、第六天社などが祀られている。「広いじゃないか」とヤマチャンが驚く。なんとなく、ただ広いだけのような気がしないでもないのは、樹木が少ないからだ。
     海軍一等機関兵小池幸三郎の像が立つ。「誰だい。」「広瀬中佐と一緒に死んだようです。」「それじゃ杉野兵曹長かな。」若旦那は勿論「杉野はいずこ」を連想したのだが、旅順港閉塞作戦で福井丸に乗船し、広瀬、杉野らともに戦死した人物らしい。

     東郷司令長官は大本営に対し「第三次閉塞作戦は概ね成功せり」と打電したが、その後もロシア艦艇の出入港は可能で、国内での評判とは裏腹に、三次に渡る閉塞作戦が失敗に終わったことを示していた。(中略)
     閉塞船として旅順港口に自沈した輸送船は、いずれも海軍に徴用された「海軍御用船」から調達され、自沈用爆薬及び石塊とセメントが搭載された上、船橋など主要部分には防護用のマントレットが装着されていた。後期の作戦では戦訓から数門の機関砲を搭載したこともあったようだ。
     三次の閉塞作戦を通じて準備された船舶は計二十一隻59,112総トンで、明治三十八年(一九〇五)における日本の総船腹量約九三万総トンの実に六%強に及ぶ。実際に旅順港口に自沈した船舶は十七隻46,532総トン、五%に相当するが、当時の日本にとって実に膨大な船腹の喪失であったと言える。
     (「嗚呼旅順港閉塞船」http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/library/others/heisoku.html)

     結果的に失敗に終わったこの作戦で、広瀬武雄は中佐に昇進して軍神と崇められ、杉野孫七上等兵曹も兵曹長に特進して歌にも歌われた。しかしウィキペディア他を覗いてみても、作戦に参加した尉官以上の軍人の名は分かっても、下士官兵については何も分からない。無名の戦死者はまだ多くいた。たまたま田辺聖子『川柳どんどん太鼓』を読んでいて、こんな句を見つけた。立派な銅像を建てられても、遺族の心が癒されるとは思えない。

     忠魂碑遺族三文にもならず  井上剣花坊

     旧狛犬の一対が、覆殿の下に安置されている。説明によれば、文久二年(一八六一)に建立されたもので、「以来百三十五年に亘って社頭を守護してきたが、今般その任を終へたのに伴ひ、この場所に移設し、・・・・」とある。「任を終へ」とは、つまり古くなったということだ。
     金山神社はかなり新しい。「ご神体が最近戻ってきたんです」と姫が言うのが分からない。要するに社殿改修の間、別の場所にあったということだろうか。新しいのも道理で、つい最近の四月三日、遷座奉祝祭が開かれたばかりだった。改修の間は川口神社に預けられていたのであった。神社を出る時、鳥居の柱に刻まれた文字に気づいた。「大東亜戦争戦勝祈願」である。

     もう一度産業道路に出て、福田屋の斜め向かいの辺りに設置された川口宿絵図の記念碑を見る。川口宿には本陣一、脇本陣一、旅籠十軒があった。岩淵から荒川を舟で渡った後、川口市舟戸町の善光寺の東を過ぎてこの辺りに出てくるのが御成道である。川口は善光寺の門前町として生まれた町であった。
     善光寺は建久八年 (一一九七) 定尊上人によって、信州の善光寺如来の分身を招来して開創された。信州に行かずとも善光寺参りができるということで、江戸時代には庶人の信仰を集めた。しかし昭和四十三年に火災にあって焼失し、荒川のスーパー堤防工事完了後に、その土手の上に嵩上げして建て替える予定になっているようだ。
     また産業道路を横断しなければならない。丁度、信号と信号の中間あたりで、姫を集団に横断歩道を目指して西に歩いて行くが、悪い奴らは車の切れ目を縫って横断してしまった。戻ってきた姫が「気付いたら後ろがいないんですよ。驚いちゃいました」と嘆く。リーダーに従わない悪者は八人だった。そして私もその中に入る。
     路地を入ると凱旋橋欄干というものがある。言われないと気付かないような小さなもので、川がなくなって欄干だけが残ったものだ。日露戦争凱旋祝賀祭に、この下を流れていた用水の上に架けられた橋である。
     その突当たりが錫杖寺だ。川口市本町二丁目四番地三七。正式には宝珠山地蔵院錫杖寺と名乗る。真言宗智山派。今日は智山派の寺ばかりだ。将軍の日光社参の休憩場所になったため、葵の紋を許された。
     「ここには大奥の滝山の墓があるらしいですよ」とダンディが言う。「探してみてください。」姫は下見では見つけていないようだ。山門を潜った左手に青面金剛の庚申塔がいくつか並べられている。青銅の十三仏も並んでいる。何故だか分からないがハロー・キティの像もある。
     墓地の入り口に寛永寺の石灯篭が建っているのでハイジに説明していると、姫が滝山の墓の案内板を見つけた。「それじゃ行きましょう。」
     案内に従って墓所に行けば、囲まれた一画に三つの墓が並び、その脇には新しい「滝山家」の墓石も建っている。三つ並んだ真ん中が年寄滝山、右が叔母の染島、左が侍女の仲野。滝山と染島の墓石はごく一般的な位牌型のものだが、仲野の墓石は不規則な形の大きな石の表面を磨いた立派なものだ。
     滝山とは家定、家茂、慶喜の三代に亘って大奥に仕えた女性である。「最後の御局様ですよ。」ハイジや小町は喜ぶ。「稲森いずみがやったのよね。」そうなのか。これはNHK大河ドラマ『篤姫』の配役らしい。大河ドラマなんて滅多に見なかったから、この辺の教養が私にはない。
     墓所の案内図によれば、「東京府士族東京南伊賀町七代目主 大岡権左衛門長女、徳川家大奥老女俗称瀧山 行年七十一歳」とある。「南伊賀町七代目主」というのは町(チョウ)名主のことだろうか。新しい滝山家の墓誌には平成の年号も刻まれているから、今も家系は続いているのだ。「子孫がいたんだね。養子をもらったのかな。」小町はずいぶん詳しい。
     ウィキペディアによれば、養女に婿を迎えて滝山を名乗らせたという。川口には仲野の実家があり、維新後、滝山は染島と共にそこに身を寄せた。墓が並んでいるのを見れば、この仲野を養女としたのだと思われる。
     この寺でスナフキンは御守りを買った。「足腰のためだよ。ボケ防止とどっちにしようか考えちゃった。」「若年性認知症はホントに気の毒なんだ。冗談じゃないよ」とヤマチャンが力説するが、ホントに冗談ではないのだ。くれぐれもボケにならないように心して生きて行かなければならない。

     「マンションが多いな。」前述したように、川口は既にキューポラの町ではなく、マンションの町に変身したのである。「あのマンションは変だな。」おかしな多面体の恰好でベランダがない。「洗濯物を無理やり干してる。」
     「あれが超高層マンションのハシリです。」ダンディが指さしたのはエルザタワー55である。平成十年(一九九八)日本ビストリング川口工場跡地に建てられた。高さ一八五メートル、五十五階建ては、住居としては当時最高の高さであった。ウィキペディアによれば、昨年末の時点で、このエルザタワーはまだ国内十番目の高さを保っている。
     岩槻街道に戻って北に向かう。川口元郷の次の交差点の左のマンションの敷地に、真新しい一里塚の石標が立っていた。ただ、ここにあったことが分かるだけで、風情も何もない。日本橋を起点にして本郷追分、西ケ原、稲付、元郷と数えて四里になる。前回から通算で十七八キロを歩いている筈だから、どこにも寄らなければ十六キロというのは納得できる。
     「あの地名、読めるかい」とスナフキンに訊いてみた。十二月田であるが、こういう地名は知らないと全く手が出ない筈だ。「分からないよ。」「シワスダと読む。」「言われればそうかと思うけど。無理があるな。」
     その辺りから、前方右側に金色の大きな牛の像が見えた。その向こうが目的の田中家なのだが、牛は何であろう。「神戸焼き肉って書いてある。」神戸亭であった。「車でここを通るけど、焼き肉屋の高級な別館かと思ってたわ」とハイジが言う。
     交差点でそちらの側に移動する。道端の薄紫の花をみて、「カタバミの園芸種じゃないかしら」とハイジが呟いている。こんなに大きなカタバミがあるなんて知らなかった。それにピンクの花はお馴染みだが、こんな薄紫色は見たことがない。「園芸種だからだと思うわ。」
     「あっ、やっぱり道が隔ててるのね。」遠くから見れば同じ敷地に見えたが、やはり焼肉屋とは別であった。煉瓦塀に囲まれた、煉瓦の建物が旧田中家住宅である。川口市末広一丁目七番地二。玄関の庇の上にはTANAKAと彫られたプレートが嵌め込まれている。入館料は二百円だ。

    田中家は代々長男が家督を相続して「徳兵衞」を名乗ってきた。初代徳兵衞(一七九五~一八七一)は農家として身を立て、二代目徳兵衞(一八二八~一九〇五)から麦味噌の醸造や材木商を営み財をなした。 四代目徳兵衞(一八七五~一九四七)は若くして亡くなった先代の跡を継ぎ、味噌醸造業・材木商の家業を発展させ、埼玉県会議員や貴族院多額納税者議員にも就任した。
    その四代目田中徳兵衞が、大正一〇年(一九二一)から大正一二年(一九二三)にかけて、木造煉瓦造三階の洋館を建設した。イギリス式に煉瓦を積んだ壁に化粧用煉瓦を貼り、正面から見ると完全な煉瓦造りの洋館で、当時としては非常にモダンで立派な建物だった。

     貴族院議員となって客が増えたために、昭和九年(一九三四)に和館を増設した。五代目は戦後(昭和二四年から二八年)第九代川口市長を務めている。川口の味噌なんて全く知らなかったが、「田中徳兵衛商店」というのは今もちゃんと営業していた。会社のHPから。

     創業明治四年。埼玉の豊富な麦ときれいな水を利用して麦味噌の醸造をてがけたのが、田中徳兵衞商店と味噌の出会いです。県下最大の味噌メーカーとして活動した後、昭和三五年に味噌の専門卸・販売業へと転身し、百三十年にわたって味噌一筋に歩んでまいりました。全国の味噌蔵から本当に旨い味噌だけを、有名百貨店で展開しているのが、高級味噌ブランド「味噌蔵徳兵衞」の量り売りです。

     さっきの鍋平よりは遥かに豪華だ。蔵と一続きになっているせいもあって、室内にはやたらに段差が多い。和尚は階段で躓いて転んでしまった。グランドピアノを見て、これは新しいものだとスナフキンが断定する。「私たちが子供の頃はさ、グランドピアノが置いてある家なんか滅多になかったよ。」小町の言葉に「アップライトだけでしたね」と姫も応じる。今だってグランドピアノがある家なんてそんなに有る筈はない。
     土間の黒い壁にまっ黒な梯子が取り付けられている。「これ何ですか。」説明を聞いて驚いた。これは使用人の部屋に登るための梯子だった。確かに梯子を登りきった辺りの右の壁が入口のようだ。屋根裏の蒲団部屋のような狭い所が壁で区切られて、そこに男女の使用人が寝泊まりしていたと言う。男の使用人は、この梯子を登って部屋に入る。女の部屋には階段があるが、それでも狭い急な階段を登らなければならない。戦前における使用人の立場はどんなものだったか。宗匠と二人で、「使用人にならなくてよかった」と笑うしかない。
     またダンディが靴を間違えた。今度は同じ靴が二足あったのだから間違えても仕方がないか。庭も広い。池には錦鯉が泳ぎ、八重桜、枝垂れ桜、椿、躑躅が咲いている。小町が煎餅のようなものを配っているので手を出すと、「へーっ、要るの」と笑われた。違ったか。どうやら煎餅ではなくチョコレートだったようだ。

     枝垂れ桜匂へる間より田中邸  閑舟

     末広交差点の角に十勝甘納豆本舗(末広店)がある。川口市朝日一丁目一〇番地一。私は北海道の会社かと思っていたのに、実は川口市青木二丁目に本店があって、埼玉県内に店舗展開をしている会社だった。「お菓子を買う会じゃないんだからさ」と講釈師が怖い顔で宣言するので、小町は「我慢するよ」と言ったのに、その講釈師が率先して店に入って行く。明るく広々とした店内だ。
     みんな酒飲みの癖に、結構こういうものが好きなのが不思議でしようがない。試食コーナーにいい年をした男どもが群がっているのは、余り美しい光景ではないね。和尚は「女房に」と土産を買った。ダンディは漉し餡のどら焼きはないかと尋ね、そういうものはない、全て粒餡だと簡単に否定されている。珍しいものでは、「野菜そのまま」なんて名付けられたものがあり、パッケージにはトマト、パプリカの絵が描かれている。宗匠はこれを買ったようだが、甘納豆と言うからには「豆」ではないのか。どうも最近の風潮は私には謎が多すぎる。
     かなりの時間をかけて漸く買い物が終わった。何も買わなかったのは私の他に誰かいるだろうか。「この辺は金持ちが多いのか。」スナフキンが言うのは、街道沿いにBMWやハーレー・ダヴィッドソンの店が並んでいるからだ。確かにそういう店はあるが、この地域に特に金持ちが住んでいるとは思えない。
     今日の午後には「川口元郷でお終いにしようかしら」と気弱なこと口にしていた姫は、結局南鳩ヶ谷まで行くことに決めたようだ。
     「とんでん」「寿し活」「木曽路」と外食産業が続いて登場する。「あそこは美味しいよ」と小町が木曽路を推奨する。「チェーン店だろう。」「チェーンでも美味しいの。」しゃぶしゃぶと日本料理の店らしいから、私には縁がない。
     「あそこに寄りますか。」交差点で道路を渡れば、その角に小さいながら一間社流造の本格的な祠が建っていた。木の色がまだ新しい。「何を祀ってるのかしら。」「開けられないか。」観音開きの戸を開けるのは、言わずと知れた講釈師である。「お稲荷さんだよ、道祖神だよ。」お稲荷さんと道祖神では随分違うではないか。代わって覗きこんでみれば青面金剛ではないか。「庚申塔だったよ。」「大事にされてるんですね。」この庚申塔の由来は分からない。

     そして南鳩ヶ谷駅に着いた。一万九千歩。十一キロちょっとか。「直線だとそんなにないんですけどね。電気式駕籠も使ったし」と姫が弁解する。川口元郷の辺りを一周している分が加わるだろう。次回はここからの出発になる。
     反省すべき人間は東川口まで出ることになっている。武蔵野線の乗り換え駅だから、皆の都合がよいのだ。反省会に参加しないマリーは歩いても帰れる距離だが、どうしても電車賃を払いたいようで、たった一駅の電車に乗って帰って行った。「クルリンはどうしたのかしら。」「改札で何か探してたよ。子供じゃないんだから一人でも帰れるよ。」ちょうどやって来た電車に飛び乗ると、これが鳩ヶ谷止まりである。この短い距離の路線でこんなことがあるのか。次の電車を待って東川口で降りると、行方不明だったクルリンと合流した。
     四時四十五分。東川口の住人は「こんなところで飲んだことない」と弁解しているので、店を探してくれるのは千意さんだ。駅前の魚民はまだやっていない。姫が協会の会合で使っていたと言う店を探したが、もうその店は存在しなかった。結局、千意さんが探した和民に入れた。「二時間きっかりです。」「充分だよ。」「交渉しました。」
     八人なので、料理は四人分づつ二つ出てくるのだが、私の位置が悪かった。ダンディが異常な健啖家で、こちらの四人分はあっという間になくなってしまう。「食べてますか、大丈夫ですか」と姫が心配してくれる。刺身の盛り合わせの中から烏賊一切れを食った。ツマは誰も食わないからそれを貰う。「確か、じゃがバタを注文した筈だよね。」「さっき来たじゃないの。」私は食べてない。スナフキンが、隣の皿に一切れ余っていたジャガイモをくれた。
     ちょうど二時間でお開きになった。三千円也。地元の宗匠とはここで別れる。気づかなかったが三日月が出ていたようで、姫と宗匠は優雅な会話をしていた。

     箕被のごとき別れや春の宵  閑舟

     「箕被(みかづき)」なんて、教養のない私は知る由もない。宗匠はこのところ能狂言に凝り始めて、私たち(スナフキンやロダン、千意さんを仲間に引き入れてしまおうか)から随分遠い所へ行ってしまったようだ。仕方がないので、宗匠もHPに引用している『世界大百科事典』から引いてみよう。

    箕被  狂言の曲名。女狂言。大蔵、和泉両流にある。妻は、連歌に熱中して家に寄りつかない夫に愛想をつかし、離縁してくれという。夫は暇のしるしに妻が手慣れた箕を渡すと、それをかぶって妻は出て行く。その後ろ姿を見て夫が思わず〈いまだ見ぬ二十日の宵の三日月は〉と発句を詠むと、妻は〈今宵ぞ出づる身こそ辛けれ〉と脇句を付ける。妻の見事な手並みに驚いた夫は、これからは家にいて夫婦で連歌を楽しもうと、家に呼び入れる。

     今日もまた新しいことを一つ覚えた。鶴ヶ島に着き、和尚は腹が減ったと松屋に入っていったが、私も何となく物足りない気はするが、我慢して真っ直ぐ家に帰る。

    蜻蛉