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    日光街道 其の三(南鳩ヶ谷から浦和美園まで)
       平成二十五年六月八日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2013.04.22

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     旧暦四月三十日。二十四節季の芒種、七十二候の螳螂生(カマキリショウズ)。先月二十九日に梅雨入りが発表されたのに、この十日間で最初の二日ほど雨がぱらついただけで、雨は降っていない。今日も空は曇っているが、最高気温は二十八九度にもなるらしいので、半袖のティーシャツに、いつものベストにした。
     南鳩ヶ谷で降りるとちょうど姫も降りて来た所だ。「早いじゃないですか。何時に出て来たんですか。」九時半だから極端に早い訳でもない。いつもの通勤と同じく、NHKBSの『あまちゃん』を見てから出て来た。まだ誰もいないので、取り敢えず外に出て一服してから改札口に戻ると、この短い間にもう何人かが来ていた。「ちょっと肌寒いですね。」ドクトル以外みんな長袖だ。歩くにはちょうど良い気温だろうが、この夏の水が不安になってくる。
     あんみつ姫、マリー、若旦那、ダンディ、講釈師、ドクトル、マリオ、スナフキン、ロダン、オサム、蜻蛉の十一人だ。オサムはやっと忙しさから少しは解放されたようだ。「半年振りですね。」マリオは、昨日は軽井沢でゴルフを楽しんできたと言う。「二泊ですか。」「一泊ですよ。」「私は上高地に行ってきた」とダンディも言う。優雅な年金生活者である。
     「釣用のベストでしょう。私はそんなものを持ってないからね。」ダンディはそんなことを言うが、別に釣用として買った訳ではない。「ポケットが多いからいいんですよ。」タバコ、ティッシュ、カメラなどを収納するためには、こういうものがないと不便でしょうがないのだ。釣用や登山用のベストは専門店で買えば高い。私は確かカインズホームの作業服売り場で、五百円程で買った筈だ。
     「今回は下見をしていません。インターネットで調べただけですから、迷う所もあるかも知れません。」すっきりしたジャケットを身に着けた姫が宣言する。今日の姫は夜に某協会の仕事に行かなければならず、きちんとした格好が必要なのだ。日光まで全てのコースを下見するのは大変だから、そんなにしなくても良い。これは以前に宗匠やスナフキンとも提案していたので問題ない。但し講釈師の前ではきちんと宣言しておかないと、何か喧しいことを言われてしまう。

     姫の計画では、最初に実正寺に行くことになっているが今日は寄らない。地図を見れば、駅を出て一つ目の信号を右に曲がって二百メートル程のところにある。阿弥陀庚申塔板碑というものがあるらしい。
     今日はそこを曲がらず、国道一二二号線をそのまま北上する。「たぶん、右側だろうと思うんですよ。」信号で向こう側に渡るとすぐに鳩ヶ谷大橋だ。「この川はなんだい。」「新芝川です。」
     芝川は荒川の支流で、桶川市末広と桶川市小針領家に発する流れが上尾市本町で合流して、見沼田圃を流れる。川口オートレース場北の青木水門の前で堅川と合流し、南下する芝川と分かれてほぼ直角に曲がりながら東南に流れるのが新芝川である。荒川放水路の掘削と連動して昭和四十年(一九六五)に造られた放水路だ。領家水門で再び芝川と合流して荒川(荒川放水路)に注ぐ。現在ではこの新芝川が芝川の本流とされ、芝川は旧芝川とも呼ばれる。青木水門から汐入橋、千歳橋、鳩ヶ谷大橋と来て、下流には白鷺橋、有明橋となかなか雅びな名が続くのは、この川が新しいからだ。
     「変電所はもうすぐですよね。」「次の信号が変電所前だね。」その信号がちょうど一二二号線と旧街道(一〇五号)が分岐する地点で、右手のこんもり茂った辺りが変電所だろうか。「正門前にあるんですよ。」しかし正門とはどこだろう。塀を回り込むとどうやら違った。「違います、ありません。幼稚園でした。」後ろを振り返ると、さっきの信号の向こう側が変電所ではないか。もう一度地図を確認すれば、ちゃんと変電所の敷地が描かれているではないか。「あれこそ変電所だろう。」右の方ばかりに気を取られて、あんなに大きなものに気づかなかった。
     姫を先頭に階段を登りたくない連中は自転車用の横断ラインを渡り、私のように遵法精神に富んだ半数は歩道橋を使う。国道を少し戻ったところが変電所の正門で、フェンス際の植え込みの中に埋まるように石碑が立ち、案内板があった。「これですね。」バスを待っている男が不審そうに私たちを見る。
     「鳩ヶ谷八景之跡・松原晴嵐」だ。この鳩ヶ谷八景は昭和三年十一月に選定されたものだが、昭和四十年(一九六五)の国道の拡張で松並木は切り倒されてしまって、今では見る影もない。案内板に載っている当時の写真を見ると、未舗装のデコボコ道で、変電所側の片側だけに松並木が続いている。もっと昔は道の両側に並木が続いていたと言う。
     因みに他の八景を数えてみると、境橋の秋月、芝川の帰帆、五反田の落雁、浅間山の夕照、地蔵院の晩鐘、氷川社の夜雨、法性寺の暮雪である。「芝川の帰帆」は、鉄道から見放され衰退した鳩ヶ谷が、舟運で繁盛していた時代を懐かしんで選定したに違いない。
     雲が晴れ、日差しが出てくると暑い。「最初から時間をかけすぎましたね。これじゃ浦和美園までは行けないかも知れません。」ホントに汗が出て来た。「今度は鳩ヶ谷宿の石を見ましょう。」
     もう一度さっきの交差点まで戻って旧街道に入る。三四百メートル程行くと、第二産業道路との交差点(鳩ヶ谷庁舎西)の中央分離帯の真ん中に大きな石が置かれていた。「こんな道路の真ん中だったんですね。」石には「ここから北 日光御成道鳩ヶ谷宿」と書かれ、矢印まで記されている。「まだ新しいじゃないか。」平成二十二年三月とある。「川口市と合併したからさ、薄れゆく鳩ヶ谷の存在意義を強調したいんだろうね。」合併というと対等のように思えるが、実情は吸収である。
     明治以降鳩ヶ谷と川口との間に行われた戦いは、ついに鳩ヶ谷の敗北に終わったのである。天保十四年の調べで鳩ヶ谷宿の人口は九百六人、内男が四四一、女が四六五人いた。本陣、脇本陣の他、旅籠も十六軒を数えた。見沼代用水を利用した舟運の基地でもあって、川口宿より栄えた町である。しかし明治の文明開化によって鉄道が生まれたことで運命が変わった。当初は鳩ヶ谷を経由して岩槻まで通す計画もあったらしいが、鳩ヶ谷住民の反対にあって鉄道は御成街道を大きく外れ、川口から大宮へ向かうコースに決まった。
     鉄道敷設を嫌い、そのために寂れてしまった町は多い。時代を読む先見性がなかったと言えばそれまでだが、それはかなり難しいことだ。私なんか、時代の先を読むことにかけては完全に無能である。昭和四十六年に初めてカップヌードルが発売された時、こんなものが売れる筈がないと思った。インスタントラーメンが三十円、特売なら百円で四個買えた時代に、一個百円のカップヌードルなんて、余程の金持ちしか買えないではないか。そして本当の金持ちなら、こんなものを食う筈がない。しかし予想は完全に外れた。人間というやつが「便利」の名のもとに、際限なくお手軽なものを追い求めていくと言うことが、私には分からなかったのだ。
     だからと言う訳ではないが、私は住民投票というものにも些かの疑問を持っている。多くの住民が将来を完全に見通し、正確に判断するとは到底思えないのだ。しかしこれは余計なことであった。
     昭和十五年(一九四〇)四月一日、鳩ヶ谷町は川口市に編入されたが、昭和二十五年には住民投票によって川口市から独立して北足立郡鳩ヶ谷町となった。川口の下風に立つのが嫌なのである。そして昭和四十二年三月一日の市制執行によって晴れて鳩ヶ谷市となったのだが、平成十三年三月十八日に埼玉高速鉄道が開業するまで鉄道の走らない陸の孤島であり、川口との格差は広がるばかりだった。そのお蔭で旧街道の宿場町の面影が残ったとも言え、地元の経済的利害に全く関係のない私たちが喜んでいるのだから、歴史と言うやつは難しい。
     そして再び川口との合併協議が始まり、平成二十三年一〇月十一日、川口市に編入されて鳩ヶ谷市は消滅したのである。合併前は蕨市に次いで全国で二番目に面積の小さな市であった。「色々調べても、旧住所表示のものが多くて良く分からないんですよね。」私の持っている地図も平成二十年のものだから、まだ鳩ヶ谷市のままである。マンホールの蓋に鳩のマークのものが残っているのは、あるいは占領軍に対するささやかなレジスタンスであろうか。
     「これは埼玉県のマークですよ。」姫が指差したマンホールの蓋には、私の知らない模様が刻まれている。埼玉県のマークなんて、他に知っている人がいるのだろうか。「えーっ、知らないんですか。」調べてみると昭和三十九年に制定されたもので、太陽をモチーフにして十六個の勾玉を円形に並べたものであった。

     「あそこに案内板があるよ。」道路の右に渡ると「紀伊殿鷹場定杭跡」の案内があった。辻村と鳩ヶ谷宿の境界を示す杭である。ここから北が紀州家、南が幕府の鷹場に使われ、その標識として七寸角で高さ一丈三尺の杭を打ち、その回りを囲ってあったそうだ。「鷹狩ってそんなに面白いのかな。しょっちゅうやったんだろう。」面白いのは将軍だけだろうね。駆り出される方は面倒臭くてたまらかったんじゃないか。「軍事訓練の一種なんじゃないかな。太平の世に体の鈍ったサムライの運動会よ。」

    「鷹狩り」とは、猛禽類の狩猟本能を利用し、訓練した鷹と熟練した鷹匠(たかじょう)と、これに従う猟犬や犬引き、馬と騎馬者、勢子などのチームワークによって行なう狩猟方法である。
    ヤブや林などに潜む獲物を犬が探し上空へ追い出す。鳥が舞い上がった瞬間の速度の遅いときに、鷹匠がすばやく鷹を放し獲物を捕えさせる。捕えて降下した鷹は獲物の上で闘争の疲れが回復するまで休んでいる、ほんの短い時間のうちに、鷹匠が行き、餌を与えて獲物から引き離し回収する。
    鷹が捕えた獲物を主人である鷹匠のもとへ持ってくるという俗説は間違いである。(日本鷹匠協会http://www.jfa.gr.jp/falconers/)

     「鷹匠協会」なんていうものがあるのだ。日本野鳥の会を創設した中西悟堂が、一方では鷹狩り振興のために日本放鷹倶楽部設立の発起人にもなったなんて、知っている人はいるだろうか。家康、家光は特にこれを好み、綱吉時代に廃止されたが、吉宗が復活したようだ。
     旧街道の面影が残る木造二階建ての家があった。保坂家だ。「有名なおうちですよ」と姫が言うが、何を商っていたのかは分からない。人は住んでいないようだが黒板塀に、鳩ヶ谷氷川神社の神輿担ぎ手募集のポスターが貼られている。あるサイトに、鳩ヶ谷宿本陣を保坂家とする記事を見つけたが、明かに間違いである。
     「とんぼ橋」の案内版も立っている。その遺構が置かれているというのだ。かつてこの街道に沿って見沼代用水から引いた平柳領用水が流れていたのだが、今は暗渠になったのか、姿は全く見えない。昭和五十三年、用水堀改修工事で大きな石柱が五本見つかったうちの一本である。
     「この石じゃないの。」案内板の下、商店の外壁の前に長い石が横たえてある。「字が彫ってあるよ。」「どっち。」「こっちから。」私は読めなかったが、「確かに武州って書いてある」とロダンが確認した。実際には読めないが、「丁巳延宝五年三月吉日、武州下足立郡鳩ヶ谷町とんぼ橋」と彫られてある。石の長さは二・四八メートル、幅四十二センチ、厚さ三十一センチである。この二・四八メートルと言うのが橋の長さになるようだ。延宝五年は一六七七年で、見沼代用水が掘削される遥か前のことである。用水の掘削と言っても何もない所ではなく、それ以前からあった流れを利用した場所もあるのだろう。
     「立てておけばいいじゃないか。」「そうすると、どうやって支えようかとか、いろいろ面倒なんですよ。」しかし折角丁寧な解説を作っているのに、これではただ捨ててあるようにしか見えないではないか。石は相模国産出の安山岩だという。「ここから千住道って書いてある。」それは右に入る細道で、反対側は蕨道になっている。
     同じく川のない昭和橋を過ぎるとその先には見沼代用水東縁が流れ、その上に吹上橋が架かっている。東側の親柱には腰かけて右拳を口にあてた裸の赤ん坊、西側には両手を大きく上に伸ばした赤ん坊が立っている。向こう側はハイハイ、お座りをする赤ん坊だが、この像の意味は不明だ。「川の東側はあんまり景色が良くないですね。西の方が良い。」
     川を見て、「三面護岸なんですよね」と姫は悔しそうに呟く。見沼代用水は見沼溜井の代用となる用水の意味である。利根川東遷の大型土木工事によって生じた周辺の田畑の水不足を解消するため、伊奈忠治は芝川を堰き止めて見沼溜井を作った。しかし流入する水量の割に土砂の堆積が多く、灌漑用溜井としての能力が低下した。
     時代が下れば、幕府財政の逼迫から次第に新田開発が求められ、享保になって漸く用水の掘削が認められた。そして井沢弥惣兵衛によって行田から利根川の水を引く工事が行われた。これが見沼代用水である。この結果、見沼溜井や大小の沼沢は埋め立てられ新田となった。見沼田圃である。

     これだけの大規模工事にもかかわらず、用水路の完成は着工から約五ヶ月後の一七二八年二月で、三月には利根川より水を流し込み用水路の利用が始まっている。建設に関わった作業者は延べ九十万人といわれ、幕府の支出した工事費用は賃金が約一万五千両、工作物が五千両で総額約二万両に達した。しかし、見沼溜井跡地に新田として千百七十五町歩(約千百六十ヘクタール)が打ち出され、毎年五千石弱の年貢米が幕府の蔵に納められるようになった。(ウィキペディアより)

     五千石の年貢を五千両とすれば、二万両のコストは四年で回収したことになる。
     橋の北詰に一里塚跡の案内板が立っていた。川口元郷の次、日本橋から五里である。しかし塚の跡は何もない。「道の両側にあったんですか。」一里塚が街道の両側に造られたのは、中山道志村の一里塚を思い出せばよいだろう。あそこは道路の間隔は広がったが、一里塚は移設して昔のままの形に残してある。あるいは日光御成道の西ヶ原でも良い。道路は拡幅されたが、澁澤栄一等の努力で中央分離帯のように西側の一里塚が残されている。
     「鳩ヶ谷は頑張ってるね。」昔のものはなくなっていても、あちこちに案内板を設置してくれるのは有難い。代用水の南側は坂下町、北側は本町だ。吹上橋は別名坂下橋とも呼ばれ、ここから上り坂になって、本来の鳩ヶ谷宿に入ることになる。こういう境界にあたる場所には道祖神や地蔵、庚申塔が置かれることが多いが、そんなものもない。
     これから四町二十間(四百七十メートル)の家並みが続いていた。宿場に入ってすぐ左側には御成坂公園という小さなスペースがあり、火の見櫓を模したカラクリ時計が建っている。時計台の最上段には鐘を突く坊主がいる。二番目は文字盤が十二支になった時計、その下は扉が閉ざされていて、ここから何かが出てくるらしい。なまこ塀を模した壁面には大名行列のモザイク画が嵌め込まれているが、はっきり言って絵は稚拙で、千住宿の芭蕉と曽良の絵に似ている。
     「定時に時計が鳴るならちょっと待ってましょうか。」今は十時五十分頃か。しかしカラクリが動くのは午前十時と正午、三時、五時、七時と決まっている。「残念ですね。それじゃ行きましょう。」
     地図を見ていて、少し先には小谷三志の旧居跡があるのを見つけた。鳩ヶ谷に来たのだから鳩谷三志には挨拶しておきたい。「通り道だから、そこに寄ろうよ。」「いいですよ。そこに鰻屋がありますね。」姫は小谷三志なんて知らないから、うなぎの方にばかり目がいってしまう。割烹うなぎ「湊家」は江戸時代創業の老舗である。鳩ヶ谷本町一丁目一番地十二。この時は私も知らなかったが、小谷三志の三男が始めた店で、今もその六代子孫が経営しているのだ。
     「浦和じゃナマズが有名ですよね。」ロダンはそう言うが、浦和のナマズなんて私は余り聞いたことがない。「ナマズだったら吉川じゃないか。」ふるさと創生の補助金で金のナマズの像を作ったのは吉川市である。補助金の使い道としては実に下らないものではあったが、その金の髭が紛失したのには、講釈師が関係しているのではないかと私たちは疑っている。
     湊家の向かいには、大正か昭和の初めのような二階建ての洋館が建っている。表札をみると船津氏だ。「知ってますか。」「名主だったか本陣だったか、舟戸家の分家筋じゃないかな。」「医師って書いてある。」調べてみると、昭和七年に建てられた旧船津眼科医院であった。木造モルタル塗り二階建てだが、一見すると石造りのように見える。
     鳩ヶ谷には船津、舩津などの家が何軒もあり、これらは全て舟戸家の分家に当たるらしい。長男が舟戸の家を継ぎ、二三男以下は船津を名乗るのだと言う。「知り合いに船津さんがいますよ」とロダンが言う。その人とは違うだろうが、私が知っている船津さんは鳩ヶ谷には関係していないと思う。
     藤屋洋品店の角を右に曲がりこんだところに、本陣・問屋跡の案内板が建っていた。つまり、この洋品店が本陣のあった場所だ。鳩ヶ谷本町三丁目二番地二四。三百十六坪の敷地に七十三坪の屋敷が建っていたのである。
     天正年間(一五七三~一五九二)以前から鳩ヶ谷に住み、江戸井時代を通して本陣・名主職を世襲したのは舟戸家である。足利成氏の孫の氏経が初めて舟戸を名乗ったことに始まるというから名門である。戦国時代には北条氏の家臣だったのではないだろうか。舟戸家に残された古文書の中に、天正十八年に秀吉が鳩井村名主に宛てた「禁制」があったという。それに関連してついでに書いておくと、かつて鳩ヶ谷は鳩ケ井、鳩井などとも書かれたから、本来は熊谷(クマガイ)と同じように、ハトガイと読まれたものだと思われる。
     しかし舟戸家は幕末以降累積した莫大な借金を背負っていた。昭和六年に建物を真光寺に売り払ったものの負債を帳消しにするには至らず、没落して昭和八年に鳩ヶ谷の歴史から消えた。「真光寺はここから二十分程西の方ですから、今日は行けません。」真光寺(川口市里一三〇六)は舟戸家に五百円を支払い、本陣の建物を移築して本堂にした。

     昭和八年(一九三三)十月十日付の朝日新聞埼玉版には「返らぬ栄華、哀しくも綴られた舟戸家没落秘話」と題して大きく報道されている。(中略)
     この新聞報道によると、幕末の当主吉三郎氏は大正六年(一九一七)莫大な借金を残して死亡。跡を継いだ彰氏は昭和六年(一九三一)には、ついに全財産を整理することを決意するに至った。その仕事を船津某、藤田某にまかせたが、舟戸氏はわずか六百円しか受けとることができなかったとして公事訴訟を起こした。(中略)
     「昭和八年の一月には祖先伝来の本陣を追われ、今はわずか三間の借家に親子九人がわずかに余命を保っている有様となり、残された土地も債務を差し引くと五千三百余円の債務超過となり・・・・」この間の整理担当両氏に「不正あり」と訴訟に及んだのだ。(中略)
     結局、舟戸氏は、その訴訟に勝つことができず、鳩ヶ谷から消え去ってしまった。財産整理の両人の不正の真偽は永久に歴史のかなただが、長い間、鳩ヶ谷の象徴、いや権力の座にあった舟戸家の栄枯盛衰は、その後の鳩ヶ谷を予見して余りあった。(平野清『鳩ヶ谷歴史往来』)

     舟戸家が工面できなかった五千三百円とは、現在ではどの程度の価値になるのだろうか。こういうことは何によって比較するかで全く結果が違ってくる。資料がないので、一年違いだが、昭和七年との比較を計算してみる。(http://q.hatena.ne.jp/1250485698より)
     米価換算では昭和七年の一円は現在の一六八〇円程になる。それならば八百九十万円であり、旧家がそのために没落するには少なすぎる気がする。しかし米の公定価格は政府の政策に大きく左右されるから、こういう時の比較にもってくるのは難点がある。山手線初乗り運賃で比較すれば二千六百倍で一三七八万円。大卒初任給で比べれば四千倍となって二一二〇万円。
     現在のようにものが溢れている訳ではなく、買うものもそうそうないから、生活実感としてはもっと大きい金額になったに違いない。不動産価格は現在と比べて嘘のように安いから、借金を帳消しにするには足りない。これまでは他人に指図するだけで、働くなんて言うことは全くしたことのない旧家の旦那には、ただ陋巷に逼塞するしか手立てはなかっただろう。
     向うの正面には、隣に大きな土蔵を持った古い木造二階建ての酒屋がある。十一屋北西酒店。鳩ヶ谷本町一丁目二番地八。明治十七年建築の建物だ。「イブリガッコがあるって書いてる。どこの食べ物だったかな。」スナフキンは秋田が誇るガッコ(漬け物)を知らないのか。「なんで、こんなところにおいてあるんだ。」知る訳がない。
     こちら側の歩道には「市場杭跡」が立っている。三八市の範囲を定めるために、四隅に杭を打ったものの内の一ヶ所がここだったようだ。三八市とは毎月三と八の日に立った市で、享保十六年(一七三一)に初めて開かれた。とすれば、その当時は鳩ヶ谷宿には常設の店屋がなかったということだろうか。近隣では蕨宿が一六、与野が四九、大宮が五十日などに市を立てている。
     「ここから東に行くのが草加道ですよ。講釈師はここから帰れますね。」「なんだよ、そんなに早く帰らそうって言うのか。」「サヨナラ。」細い道だが、さっきの千住道や蕨道等も含めて、各地に通じる道があったのは、それだけの往来があったのだ。三八市を目当てに近在から人が集まって来たのだと思われる。
     反対に西に行くのが鳩ヶ谷氷川神社に至る宮道だ。今日は寄らないが、応永元年(一三四九)の創建とされる鳩ヶ谷の総鎮守である。マンションばかりの町になった川口と比べると鳩ヶ谷は随分違う。住んでいる人間は変わったかも知れないが、江戸時代の町割りがそのまま残っている。
     道端の所々には赤いタチアオイが真っ盛りだ。「この先端まで花が咲けば梅雨が終わるんだよ」と講釈師が若旦那に講釈している。私も何度も聞いている。しかし今年の梅雨は本当にどうなってしまうのだろう。「タチアオイは一番先に覚えた花だよ、実家にあったから」とロダンが笑う。

     立葵帰りを急かす宿場町   蜻蛉

     本町二丁目の信号を右に曲がると、川口市立文化財センター郷土資料館に着く。川口市鳩ヶ谷本町二丁目一番地二二。入館料は百円だ。「販売機で買うんだよ。」「老人割引はないのか。」「それを押したらお金が戻っちゃう。百円のボタンを押さなくちゃいけない。」いきなり十一人もの不審な団体が押し寄せ大声で喋りまくるから、男性職員は圧倒されたような表情で「二階と三階が展示室になっています」と呟いただけで事務室に戻って行った。
     二階に上れば、展示ケースに収められた大きな阿弥陀三尊種子板碑が最初に目に入る。かなり大きなもので珍しいが、宗匠がいないと他には誰も関心を示さない。暦応三年(一三三九)のもので、高さ一・三メートル、幅が三十四センチ、厚さ三・六センチあるらしい。
     講釈師が喜ぶのは、刀架けに架けられた六尺程もありそうな居合刀だ。「長すぎるじゃないか。こんなもの抜けないよ。」「香具師が使ったって書いてある。」「それじゃ蝦蟇の油売りだな。」これも三八市の賑わいの中で演じられたものだろうか。「背が低かったら腰にもさせないね。」「鐺に車を付けたやつがいただろう。」鳩ヶ谷宿のジオラマ、本陣の模型、昔の生活道具など。郷土資料館の展示物はこんなものだろう。
     この時点で郷土資料館を些か軽く見ていたのを謝らなければならない。三階に行って驚いたことに、小谷三志関連の資料が一部屋にまとめて展示されていた。「さっき蜻蛉が言ってたひとですね。」富士講中興の祖で、不二道、不二孝を称した。「良く知ってますね」とロダンは驚く。「ウン、富士講の歴史をちょっと勉強したからね。」「ハハハ。」確かに普通の人はこんなことを勉強しないだろうとは思う。
     小谷三志は明和二年(一七六五)鳩ヶ谷宿に生まれた。本名は庄兵衛。麹屋「河内屋」を営み、宿場の年寄・問屋役を務めながら富士講の丸鳩講の先達となるが、旧来の富士講に飽き足らず模索を重ねた。
     食行身禄の死後、富士講は各派に分列したのだが、一行此花(身禄の三女花)の夫で江戸山谷に住む参行禄(六)王(二代伊藤伊兵衛)に入門し、禄行三志の名を貰ってその門流を継承した。身禄の革命的終末観と禄王の改革思想を整理発展させて、「おんながだんな」になる男女の役割逆転こそが理想的な「みろくの世」を作ると主張する。女人禁制の富士山に女弟子を伴って登頂したのもその現れだ。

     不二孝元祖身禄の「天地振り替り」「女綱男綱のつなぎ替え」の論、参行六王の『四民之巻』の四民平等論、また「陰陽優劣なき和合」を発展させ、世に真実の和合を実現させるためには、陰の尊重、陰の優位が必要であると説き、武士に対する農工商の優位、男に対する女の優位を、遂には天子に対する幕府の優位すら表明する。その「天地振替り」を説き広める身であるからと、富士山へ登れば山頂を逆にまわり、御中道も逆にまわり、筆法を逆にして文字を書き、着物を左前に着用したのである。(岡田博『実行教と不二道孝心講』)

     同時に家業精励、勤労奉仕などを中心教義として、土木改修工事にも積極的に参加した。文政十年(一八二七)六十二歳の時、桜町陣屋の二宮尊徳に招かれたのは、その勤労観に共通するものがあったのだろう。それが直ちに尊徳に影響したのかどうかは分からないが(そもそも尊徳の思想についてちゃんと勉強していないからね)、三志の弟子で尊徳の弟子にもなった者も多いようだ。

     また一方に伊勢神宮を初めとする日本国中の神々の否定があり、応仁以来の戦乱を鎮め得なかった神神の命運は尽きて、世界は富士山の神「元の父母」の直接支配の世になったと公言する。その伊勢神宮否定の一方で、戦乱を鎮め泰平の基を作った人として「東照大菩薩」と自ら名付けた徳川家康への尊敬はいよいよ強まり、天子の御陵威よりも、政治を直接担う将軍の重要さを讃えた。また食行の詠歌中の「関の戸を開く」「東へ出でて西の奥まで」の意味を拡大して、長崎への往還が多くなり、清人と直接に語り、国外文明の現実を知るとともに開国の必然性を書面にして関東へ送った。(岡田「同論文」)

     三志は国学者との付き合いもあり、弟子の中にも国学者が多かったのに、こうした発想は異例とも言えるだろう。この時代に伊勢神宮を否定すると言うのは並大抵の覚悟ではない。後に国学系の門人が三志とは違う方向に向かう下地はあったのである。
     天保十二年(一八四一)、京都醍醐院理性院の住職、徳大寺行雅に跡目を継がせて、その年に七十六歳で死んだ。やがてこの徳大寺行雅は三志の意思とは異なり、不二道の神道化を進めることになる。そして明治以後、三志の門流は分裂する。京都を中心として神道化を推進するグループは神道実行教となって国家神道に組み込まれ、それは三志の意思ではないとする鳩ヶ谷グループは不二道孝心講を形成した。
     誰かが写真を撮っていたのが気付かれたようで、さっきの職員が仏頂面でやってきた「撮影禁止なんですよ。」「すみません、禁止の表示がなかったので。」「一階の階段の昇り口に貼ってあります。」私は気付いていた。
     「一泊目は日野だぜ。」三志の富士登頂に至るコースの絵図を見て、スナフキンが驚いたような声を上げた。富士山に何度も登った人だから、普通の人よりは健脚であったのは間違いない。道筋を全く無視して直線距離を測っても、鳩ヶ谷から日野までは四十キロ弱はある。江戸時代の道を辿ればもっとあっただろう。現代では、埼玉高速鉄道、武蔵野線、中央線を使えば、鳩ヶ谷から日野まで一時間ちょっとで行けるけれど。

    交通機関の何もない江戸期は江戸からの富士講では往復七泊八日かかった。コースは新宿―八王子泊―小仏峠―猿橋泊―谷村―吉田御師泊―山小屋泊―頂上須走―竹ノ下泊―足柄峠―関本―道了尊往復―みの毛泊―大山―子安―厚木。ここから大山街道を江戸に帰る組と東海道の藤沢へ出て江ノ島・鎌倉などに廻遊するものとがあった。相州の大山石尊には必ず寄った。寄らぬは〝片参り〟とて忌む。(岩科小一郎『富士講』)

     「もう一部屋あるね。」こっちは大熊氏広であった。靖国神社の大村益次郎像や有栖川記念公園にある騎乗の有栖川宮像の作者である、とは説明を読んで初めて知ったことだ。遅れてやってきたスナフキンに「大村益次郎像の作者だよ」とエラソウに教える。「そうか、知らなかった。」
     大熊氏広は安政三年(一八五六)足立郡中居村八幡木に生まれた。家は豪農で、祖父の良平は文人や画家と交流があり、父の伝右衛門も文里の俳号を持つ文化人だった。工部美術学校彫刻科一期生として学び、明治十五年六月、二十名中の首席で卒業した。岩崎彌之助の援助でヨーロッパ留学を果たし、ローマ美術学校を修了する。近代彫刻の先駆者である。昭和九年(一九三四)七十九歳で亡くなった。作品には伊藤博文、三条実美、大久保利通、板垣退助、後藤新平、福沢諭吉、岩崎久弥、岩崎彌之助、原六郎、大橋佐平、北里柴三郎、ライオン像、八甲田山中雪中行軍記念像などがある。
     小さいながら、なかなか有益な郷土資料館だった。鳩ヶ谷銘菓に三志最中と八幡木ばやし(赤城屋)という和菓子があるらしいから、地元ではこの二人は有名なのだろう。タバコを吸おうと下に降りると、事務室内の男性職員から声がかかった。「地図があるんですが。」今度はにこやかな表情をしている。何かのパンフレットのコピーで、鳩ヶ谷宿の見所や商店が記されているから有難い。「人数分戴けますか。」「何人でしたか。」「今日は十一人です。大手門から御成街道を歩いているんです。」「それは御苦労さまです。」
     「小谷三志の旧居は、りそな銀行を越えた辺りです。」その情報は有難い。「本陣の建物を移設したお寺はどこですか。」「すみません、私もここに赴任したばっかりで。お調べしましょうか。」「いいです。」既に知っていることだからね。私も意地が悪い。

     姫の決めた定刻より早く全員が揃ったので、十一時三十五分に出発する。すぐに高札場跡の案内があった。
     向かいの二階建ての家には、「健友館さくま整体」の看板が掲げられている。これも古そうな家だ。その隣の駐車場の一角では、テーブルに鍋を置き、「ビーフカレー三百円」の札を貼っててある。「なんでビーフカレーなんだ。」こちら側の歩道でもブルーシートを広げて何かの準備をしている連中がいる。「何かの縁日かな。」「そうか、あれだ。」フリーマーケットの幟が翻っている。「三八市に因むんだ。」「今日は八日だからね。」焼き蕎麦も売っている。「腹へっちゃったな。」「これからお昼を食べるからね、我慢しなくちゃ。」
     「市神宮」の祠は本町二丁目のバス停辺りで、商店街の真ん中の駐車場と商家に挟まれた間口一間ほどの社だ。案内板には市神社(いちがみしゃ)とある。三八市の守護神である。「こんなに小さかったんですね。」下見をしていない姫は驚いている。こういう驚きがあるから良いのだ。全国的にも市神社、市場稲荷神社、市比売(姫)神社等の名で、市場の神を祀る所が多いが、一般的にはいわゆる「祭神」なんていうものがない。香具師が神農皇帝を尊崇するように、庶民の素朴な信仰は市場の神を祀った。祭神の名がないのは、明治の神道政策でも捕捉されなかったことを意味していると思われる。
     社殿は平成十四年に修復された。平成十年の時点で、解体修理費用五百万円の寄付を募るための趣意書を見つけた。

    鳩ヶ谷市指定有形文化財「市神社」本殿が近年傷みがひどく、毎月二回、掃除をして下さっている近所の奥さん方から何とかしては、本殿が雨漏りでだめになってしまうと、指摘されていました。教育委員会を通じて、県指定の建造物修理業者、秩父市の(有)荒木社寺設計の坂本さんに、本殿修理工事の見積りをお願い致しました。委員会に送付された見積り金額は、約五百万円でした。
    社殿を解体して、完全な修理を施す事が必要だという様な内容です。(中略)市神社が創建された年代は定かではないが、天保十五年に描かれた「日光御成道分間延絵図」に社を見る事が出来ます。かって鳩ヶ谷が近隣の経済流通の中心地だった事を立証する貴重なこの文化遺産消滅の危機を多くの心ある皆様の賛同、ご協賛を仰ぎたく、それにより後世に残すべく努力したいものです。蕨、川口に東北線の駅が、明治四十三年開通以来、鳩ヶ谷は長い間、「陸の孤島」といわれ、その存在すらも希薄になっていました。地下鉄開通により、脱出の機運が高まってきております。市神社も陽の目をやっとみる事が出来るのです。
    http://www.ne.jp/asahi/area-index/hatogaya/top/gallery/itizinja/itiznj.htm

     埼玉りそな銀行の角を過ぎた空き地が小谷三志旧宅跡だ。桜町一丁目一番地。案内板に枝が垂れかかって見難い。片手で枝を押さえながらカメラを構えていると、ロダンがきれいによけてくれた。御蔭で案内版の脇に立つ石碑も分かった。
     街道に沿って今では住んでいそうもない二階家や土蔵も並んでいるのは、景観として保存しているのだろうか。戸田道の案内を見て、五叉路の交差点を渡ると、右手にあるのが地蔵院だ。真言宗智山派、筥崎山錫杖寺。川口市桜町五丁目五番地三九。参道入り口に「四国八十八箇所従 五十九番」の石碑が建っている。その文字の上の円盤は、周囲に二十程の梵字を配置し、中央に大きな種子を記してある。この形は初めて見るような気がする。
     「なんて書いてあるんだい。」読めません。宗匠なら種子の資料を持っている筈だが、こういう時にいないのだから仕方がない。札所だから観音菩薩か、あるいは寺の名前からして地蔵菩薩の種子だろうかとも思ったが違った。調べてみると大日如来「ア」である。とすれば、円盤の周囲の梵字もそれぞれが種子で、これによって大日如来を囲む曼荼羅を表しているのかも知れない。
     これは文政五年(一八二八)に建立された道標で、右側面には「従是右こしがや道 二里」と彫られている。「姫とドクトルはここから帰れます。」左側面には「月山・湯殿山・羽黒山。四国巡礼・百番札所供養塔」とある。
     「ご法事があるみたいですから、中には入れませんね。行きたいですか。」長い参道の奥の山門辺りに礼服の男女が立っている。講釈師は、ここには見るべきものはないと断言する。「ナンニモナイ、ホント。」「ホントカナ。」「あっ、信じないんだな。」しかし郷土資料館でもらった地図を確認すると、小谷三志の墓があるのはここだった。

     この道を真っ直ぐ北に行けば新井宿駅の東口に出るが、私たちは二股になった交差点まで戻って左の道を行く。急に道が細くり、歩道と車道の境がない道を車がかなりのスピードで通って行く。「こっちでいいんですよね。」「大丈夫。」「このバスの車庫が目印なんですよ。」国際興業のバス車庫を過ぎる。「住所が西新井宿になりました。」
     川口元郷から新井宿駅まで御成街道の下を通ってきた埼玉高速鉄道は、ここで御成街道から逸れて、一六一号に沿って北東に曲がって行く。駅西の交差点の正面にはサイゼリアがあるが、姫が目指すのはここではない。「品川の洋食でちょっとメゲマシタ。今日は和食の気分なのです。」あれは量が多すぎた。「それにデミグラスソースが。」姫はそもそもトマト系のソースが嫌いなのだから、洋食には向かない人なのだ。
     左に曲がって一二二号と交差すると、その左の角に華屋与兵衛があった。「前にも来ましたね。」ロダンは蕨宿を歩いた時のことを言っている。「あれは蕨だろう。」「そうか、そうでした。」蕨の華屋にはダンディも行っているはずなのに、「この店は洋食系ですか」と姫に訊いている。
     十二時をちょっと過ぎた頃だが店内は空いている。「このお席は二時には喫煙席になってしまいますが。」そんなに長居する積りはない。この言葉から、二時間以上長居する客は珍しくないと分かる。「この時間は禁煙ですよ」と姫が私の顔を見るが、そんなことは承知である。
     「このお店はビールが飲めるんです。」姫は最初から飲む積りだ。「だって、夜は協会の行事があるから飲めないんですよ。」かなり汗をかいたからね。姫にならってグラスビールと言いかけると、スナフキンが「中生ジョッキがあるんじゃないか」とメニューを開いた。確かにある。「脱水症状にならないようにビールを頼む」というドクトルに、一斉に反対の声が上がる。ビールの利尿作用とは、つまり脱水させることなのだから、科学者にしては迂闊なことではないか。若旦那と講釈師が飲まないのは分かっているが、ロダンとオサムもビールを注文しない。この二人は反省会に備えているのだと思われる。
     私は八百八十円のヒレカツ定食にした。「ヒレカツかい。」本当はロースのトンカツが好きなのだが、ヒレカツの方が安いとは初めて知った。スナフキンとマリーは天麩羅蕎麦、姫は華屋御膳という高価なものを選んだ。御膳には茶碗蒸しが付いていて、姫はこれが食べられない特異な体質なので私に回ってくる。今日は蕎麦を選んだ人が多い。
     斜め向かいの席に陣取った八十歳程に見える女性三人のテーブルにもグラスビールが置いてある。「卵焼き追加で注文してるよ。」スナフキンは変なところを見ている。「ビールに卵焼きは合わないんじゃないか。」ひとには好き々々というもがある。私たちが食べ終わる頃になっても、彼女たちのビールは減っていない。
     「蕎麦を出してるのに蕎麦湯がないんだよ。」「そうですね、私も残念だった。」スナフキンとオサムが文句を言っている。「分かってたけどさ。素人だと思うよ。」

     出発は十二時四十五分だ。「あれっ、ここにもサイゼリアがある。」さっき通った道じゃないか。「そうか、感覚がおかしくなった。」駅西の角まで戻って街道を北上する。街道の西側が西新井宿、東側が新井宿で、もともと一つの村が街道で分断された形だ。「宿」と呼ばれるが、江戸時代に宿場はない。中世の鎌倉街道の宿場であったものだろうか。
     小さな祠に、大小二体の後背型地蔵が並んでいる。大きな方には「奉造花見堂供養○○○」「元禄」の文字が分かった。地蔵の足元に「男女」とあるのは何故なのか分からない。
     道を挟んで両側に神社があった。街道の左にあるのは氷川神社で、西新井宿の鎮守になる。川口市西新井宿三五二。狭い境内で、石造りの稲荷鳥居のすぐ後ろに、白木の両部鳥居が建っている。両部鳥居の貫に注連縄を張っているのがロダンには不思議に思えたらしい。「余り見かけませんが。」「時々あるよ、久伊豆神社なんかでもあった。」境内に入ると日露戦役の戦利品を奉納したという石碑があった。

    戦利兵器奉納ノ記 是レ明治三十七八年役戦利品ノ一ニシテ我カ勇武ナル軍人ノ熱血ヲ濺キ大捷ヲ得タル記念物ナリ 茲ニ謹テ之ヲ献シ以テ報賽ノ微衷ヲ表シ尚皇運ノ隆昌ト国勢ノ発揚トヲ祈ル 明治四十年三月 陸軍大臣寺内正毅(花押)

     日清日露戦争の後、政府はその戦利品を盛んに全国に配ったらしい。「伊予歴史文化探訪よもだ堂日記」(http://home.e-catv.ne.jp/carbonara/2009-03/9-sensouhi2.html)や、「二本松藩だより」(http://blogs.yahoo.co.jp/wmoth155/15824830.html)というサイトで紹介される碑文が、ここで見るのと全く同じなのだ。
     「ニチロノセンソウ、ダイショウリ。」講釈師が誰も知らない歌を歌っている。「なんですか、それ。」「知らないのか。」私は聴いたこともないが、昭和三十九年に守屋浩が歌った『明治大恋歌』(星野哲郎作詞、小杉仁三作曲)だろうか。歌詞が見つかった。ある程度はヒットしたらしいが、全く覚えがない。

    日露の戦争大勝利
    まだうら若き父と母
    チンチン電車のランデブー
    空は青空日曜日
    そもそもその日の父さんは
    マンテルズボンに山高帽
    自慢の懐中銀時計
    ふかす煙草は天狗堂
    日露の戦争大勝利(以下略)

     昭和三十九年と言えば東京オリンピックが開催された年であり、その年に何故こんな歌を作ったのか理解に苦しむ。
     現実には薄氷の勝利であったことは、今では誰でも知っている。費やした戦費は二十億円とも言われ、直前の国家予算の七倍にも上った。これを賄うため内外から募集した公債は十六億円にも及び、既に財政的には破綻状態と言えるだろう。非常時の特別税も徴収され、国民は多大な負担を強いられた。これ以上戦い続ける余力などなかったのである。
     そして実態を知らされなかった国民が、ポーツマス講和条約に対する猛烈な反対運動を起こしたのは、強いられた負担に比べて得るところが余りに少なかったからである。講和条件をみるだけでも、これが大勝利の結果だなんて誰も信じない。戦争が終われば、軍需によって一時的に膨れ上がった市場も一挙に激減し、不景気と失業の時代がやって来る。「日露の戦争大勝利」なんて能天気に浮かれた国民はいなかっただろう。
     こうした国民の不満を逸らすために、政府は全国の寺社に戦利品を配り、忠魂碑の建造を進めたのではあるまいか。と思ったが、戦利品を寺社学校等に分配することは日清戦争時から始まっていた。

    ・・・・私が勤務した大阪府下の学校では、日清戦争の戦利品として、「榴弾一個」(大阪市愛日尋常小学校)、「大炮丸壱個(重量壱貫百目)」(大阪市岩井尋常小学校)、「榴弾壱個、小銃壱挺、三角剣一本」(大阪市盈進高等小学校)、「ゲーベル銃、三角剣、榴弾」(泉北郡養徳高等小学校)等を、「知事」あるいは「其筋」から配布されたという記事である。(中略)
     第一期の調査がほぼ終了した九五年一一月中旬、整理委員会は議定を発表し、改めて分与方針を次のように述べている。
     一陸軍戦利品の処分は、同戦利品整理規則並に追加規則の定むる所に依り、陸軍省各師団用を除くの外皇室に献納し、或は博物館陳列場神社仏閣学校等に下付する事(以下略)(籠谷次郎『日清戦争の「戦利品」と学校・社寺―その配布についての考察―』)http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=BD00008361&elmid=Body&lfname=007000560010.pdf

     「尚武の思想を喚起せしむる」目的だから、女学校には下付しないことも決められている。国民の不満を逸らすなんていうのは、まるで勘違いの発想であった。
     街道を隔てて真向かいにあるのが新井宿の鎮守、子日神社(旧子聖権現)である。こちらは通りに面して新しい白木の両部鳥居が建ち、その後ろに石造の明神鳥居が並んでいる。祭神は大貴己命(オオナムチ、大国主)だ。子神社、子ノ権現、根権現など表記は多少違っても、いずれもオオナムチを祭神としている。

    文化三年(一八〇六)の『日光御成道分間延絵図』を見ると、街道の東側に当村の鎮守子聖権現(当社)と別当多宝院、街道の西側に西新井宿村の鎮守氷川明神と別当宝蔵寺という形で、両村の社寺が街道を挟み対面して措かれている。当社は『風土記稿』に「子日権現社 村の鎮守なり、天神山王稲荷の三神を合祀せり、多宝院持なり」と記されている。
    別当多宝院は西新井宿村の真言宗宝蔵寺の門徒で、開山叡導が元禄十五年(一七〇二)に入寂している。更に当社の祭神である大己貴命の別名は大国主命で氷川神社の祭神であるスサノヲノミコトの御子とも、六世孫ともされることや、大国主命の神使が鼠(子)であるとされることなどを勘案すると、分村以前は一寺一社であったと考えられる。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)
    http://www.tesshow.jp/saitama/kawaguchi/shrine_arai_nehi.html

     狛犬は溶岩を固めた岩に乗っている。比較的地味な拝殿の、正面の格子を開けた部分に草鞋が何足もぶら下げられている。
     神社との間に仕切りもない隣の多宝院は廃寺になったのだろうか。私の地図には名前も載っていない。だだっ広い空き地に小さな堂が取り残されたように建っている。その横に大型の石灯籠がある。「あの灯篭は寛永寺のものだろう、東叡山ってあるから。」スナフキンが気付いたので確認すると確かにそうだった。
     その手前には割に新しい白い観音像も建っている。それに並ぶように割にきれいな青面金剛もある。「講釈師、いましたよ」とロダンが声をかける。「俺はいつだっているよ。」これもお馴染みの台詞だ。金剛が持つ三叉戟と法輪がこんなにはっきり分かるのも珍しい。正面の左手はショケラを握っている。
     道路の左側に木造三階建ての瓦屋根の大きな家が見えた。「あれっ、セブンイレブンだ。」一階部分がコンビニになっているのだが、二階三階の白壁と瓦屋根とが妙にバランスを欠いているのだ。この辺りの地主なのだろうが、何も一階を店にしなくても、敷地はいくらでもあるのではないか。今日は行かないことになっているが、ここから三百メートルほど東に入ると、伊奈氏の菩提寺である源長寺がある。その東側が赤山陣屋跡だ。
     この辺りから、周辺には造園業者が目立つようになって来た。安行から新井にかけては植木屋の本場である。「以前に調べましたよね。」ロダンに言われて、そういえば調べたような気もしてきたが、全く忘れているのは困ったことだ。仕方がないのでもう一度調べてみる。
     寛永十二年(一六三五)、浦和の附島村に生まれた吉田権之丞が安行植木の元祖である。江戸の植木と言えば染井が有名だが、権之丞はその駒込染井で技術を学び、安行で苗木を育てた。明暦の大火の後、江戸に苗木や藁を運んで評判になったという。

     吉田権之丞が駒込染井の植木屋から学んで安行村へ伝えた植木の技術は、曲げ物(盆栽仕立て)、挿し木、挿し穂、接木そしてサツキ、ツツジ、ツバキなどの花卉の栽培方法などと言われている。(埼玉ゆかりの偉人データベース)
    http://www.pref.saitama.lg.jp/site/ijindatabase/syosai-335.html

     手を伸ばせばもぎ取れるほど近くに、大きな梅の実が鈴生りに生っている。「食えるのかな。」梅雨時は梅の実がなる頃だと、こんな当たり前のことも忘れていた。「ほら、これ」と講釈師が指さしたのはずいぶん大きな実だ。「カリンだよ。」
     赤い夾竹桃も真っ盛りだ。写真を撮っていると、「植物に趣味がありましたか」とマリオに訊かれた。「もっと遅い花かと思ってたからね。」私は夾竹桃は真夏の花だと思い込んでいたが、姫は「もう六月ですからね、早くないです」と言う。
     首都高速川口線を潜り、またすぐに外環道路の下を潜る。この辺も道が狭い上にトラックが走っているから危なくて仕方がない。ダンディを先頭に大半が左のやや日陰になった方を歩いているので、私もそちらに回った。しかし姫が指さしたのが右の小高くなった所にある祠だ。これは見に行かなければならない。「あっ、車が。」車が途切れたすきに道を渡った。
     斜面の中腹には小さな祠が二つ捨てられたように置いてある。そこから雑草に覆われた石段を上ると、石像を三体収めた祠が建っていたのだ。この正体が分からない。真ん中の像は衣冠束帯に剣を帯び笏を持った貴人だ。左の像は顎鬚を伸ばし、右手で背と同じ長さの杖を持ち、左手は綱のようなものを持っている。服装は道教か朝鮮の道袍のように見える。右の像は古代風の甲冑を身に纏い剣を握っている。足に履いているのは明かに靴だ。「神将かな。」「なんだか中国っぽいね」「そうだ、中国風だよ。」講釈師と意見が一致したが、だからと言って正体が判明したことにはならない。仏教に関係するものではないことは確かだ。住所は川口市石神だが、その地名と関係があるのかどうかは分からない。
     ここは御嶽山、御嶽塚と呼ばれる場所だそうで、それなら御嶽信仰に関係があるだろうか。富士塚と同じように、御嶽信仰に基づいて築かれた塚ならば石碑や石祠があっても良いが、それらしきものは見当たらなかった。
     御嶽信仰は良く知らないだのが、元々の祭神は役の小角が顕現したという蔵王権現で、国常立尊、大己貴命、少彦名命、安閑天皇、金山毘古命等と習合したとも言われる。安閑天皇なんて私たちの世代には殆ど知られていないが、継体の長子で在位は僅か四年しかない。神仏習合によって何故か蔵王権現と同一視された。和風諡号が古事記では広国押建金日命、日本書紀では広国押武金日だから、「金」の文字によって金山毘古と同一視されたのかも知れない。たとえ鉱物が出なくても、山と鉱山は密接な関連があるからだ。
     御嶽塚の名にひかれてこんなことを調べてみたが、三体の石像の正体は依然として謎のままである。あるサイトに、これは聖徳太子であり太子堂なのだという記述も見つけたが、とても信用する気にはならない。

     梅青し御嶽塚に解けぬ謎  蜻蛉

     新町の信号を右に百五十メートル程行けば、女郎仏のある妙延寺に着く筈だが、今日の姫にそんな余裕はなさそうだ。
     「戸塚四丁目の信号はまだですか。」地図を見ると、戸塚四丁目は御成街道から東に百メートル程ずれたところにある。「ポケットパークがある筈なんですよ。」ポケットパークとは何だろう。
     取り敢えず次の信号で上州屋の角を右に曲がった。「宗匠はこの辺に住んでるんじゃないか。」「あそこだよ、あの家。」講釈師が宗匠の家を知っている筈はないが、イヤに断定的に指差しているのがおかしい。「そこが戸塚四丁目の信号だよ。」「おかしいですね、地図に公園はありませんか。北原台二丁目なんですけど。」信号を左に入った所に四丁目公園があるようだ。「じゃ、そこですね。」
     確かに公園はあった。しかしこれがポケットパークというものなのか。姫の調査では三面六臂の馬頭観音がある筈なのだが、子供たちが遊んでいる公園にはそんなものは見当たらない。取り敢えず日陰に入って休憩する。公園にトイレはない。「住宅地の公園だから、みんな家に戻るんでしょうね。」
     暑い。マリーが配るチョコレートは、勿論私は手を出さないが、かなり溶けているようだ。一時五十分。「東川口で終わりにしましょうか」なんて姫は弱気な声を出すが、東川口はすぐそこだ。こんな所で終わってしまっては反省会が出来ないではないか。「東川口まで一キロ、そこから浦和美園までニキロ。充分行けるよ。」「じゃ、取り敢えずコンビニでトレイを借りましょう。この辺で近いのはどこですか。」地図を見れば、街道沿いにスリーエフという店がある。私はこの店を知らなかったが、横浜市中区に本社を置くコンビニである。汗になって排出されるのか、今日の私は余りトイレに入りたい気分にならない。
     公園の北側から西に歩いて街道に出ると、すぐ向かい側にスリーエフがあった。姫はアイスクリーム(?)を買ってきて全員に配る。「蜻蛉は要りませんよね。」要らない。お茶を飲んで落ち着いた所でコンビニの駐車場から出れば、斜向かいに何かの案内板が見える。「あそこに行ってみよう。」実はこれが、姫の探していたポケットパークであった。街道から右に曲がったのは全くの無駄であり、そのまま真っ直ぐ来ればよかったのだ。「だって、調べた記事の日本語が分かりにくかったんですよ。」
     姫が参照したのは「一里塚ポケットパーク 戸塚四丁目の北原台信号右手角にある」という記述(http://www1.cablenet.ne.jp/kaidou10/onaridou/05_hatogaya/)だろうか。間違ってはいないのだが、この辺では信号機に地名の表示がないので、これではまず戸塚四丁目を探してしまう。
     南の隅には確かにひっそりと馬頭観音がいた。向背型の馬頭観音で、三面の中央の額の上にある馬頭は摩耗していて形も定かではない。「これが馬頭ですか。」宝暦八年(一七五八)の建立と言う。
     馬頭観音を見ているのは私とロダンだけで、他の連中は一里塚の解説に集まっている。ここが鳩ヶ谷の一里塚に次ぐ六番目で、戸塚の一里塚と呼ばれた。東側には松、西側には榎が植えられていたらしい。「休憩を取ったんですね。」「お握り食べたり。」しかし「次の一里塚で待ってるよ、なんて言ってさ」と言うのはどうだろう。街道で離ればなれになって一里塚で待ち合わせようなんていうのは、水戸黄門の一行だけではないか。
     「戸塚ってトツカか、トヅカか。」スナフキンが訊いてくる。地名の読み方は難しい。「神奈川にトツカがあるだろう。」ここはトヅカと濁るようだ。

     「それじゃ行きましょう。」歩き始めると、道の左側に小さな祠があったので寄ってみる。誰も関心を持たずにどんどん先に行ってしまうが、マリオだけがついて来た。小さいながら龍の彫刻を施したちゃんとした堂だ。錠を回して観音扉を開ける。「何でしたか。」不動明王の石碑だった。白い石に浮き彫りした不動明王の周囲の炎には赤く色付けされている。その下には成田山の文字があり、そこから滝が流れているようだ。滝の左には胡坐をかいた猿、右に猟師のような男がいる。こういう図柄は初めてだ。天井近くには「不動堂由来」を記した額が掲げられているのだが、残念ながら読めない。「不動堂ですね。」マリオは頷いたが格別見たいとは思わなかったようだ。
     武蔵野線を越える橋に出た。「ここから右に少し行けば東川口駅です。疲れた人はここで解散しても結構です。」しかし誰も解散しようとはしない。やがてマンションの隣に火の見櫓が見えた。頂上を見ると、三角屋根の下には鐘もぶら下がっている。「今時、こんなものを使うのかな。」「停電になったら、こういうものだけが頼りですから。」なるほどね。
     その隣が諏訪神社だ。川口市東川口一丁目十番地。殺風景な境内に鎮座する狛犬は比較的新しいし、その後ろにある鳥居は真っ白に塗られている。「白塗りの鳥居って珍しくないですか。」ロダンが不思議に思うのも当然で、私も実に珍しいものだと思った所だった。しかしネットで調べてみると普通の朱塗りの鳥居である。それなら、おそらく錆を落して塗りかえるための一時的なものではなかろうか。
     本殿の裏に行って藪の下を眺めると、ここはかなりの高台なのが分かる。「何があるんだい。」スナフキンもやって来た。「かなり高いんだよ。」姫の調査では、隣にあって今は廃寺になった延寿院は、眺望が良かったため、鷹狩りに来た将軍の休憩所になっていたと言う。
     二時をちょっと過ぎたところだ。あと二キロ程だから丁度良い時間ではあるまいか。かなり急な下り坂が右手に降りている。貝殻坂と言う。「昔はこれを行くのが御成道だったようです。」坂の名は貝殻が多く出土したことによる命名らしい。大宮台地の東南の縁だから、かつては海がここまで来ていたことが分かるし、もしかしたら貝塚があったかとも想像される。ここから東に五六百メートル程行けば綾瀬川だ。
     「宇都宮釣天井事件の後、秀忠が釣上新田の名前を嫌って御成道を付け変えたとも言われています。」姫の調査ではそういうことらしい。「釣上新田ってここだよ。」私の地図では、釣上新田の地名はここから北東に行って綾瀬川を越えた所だ。一応信頼できそうな記事を見つけた。

    ・・・・日光御成道は鎌倉街道中道とほぼ合致しているようだ。しかし、大門宿~岩槻の道は中道とは違う道である。
    また、日光御成道には大門宿南の貝殻坂をくだって銅上を経由して岩槻へ入る「日光御下道」または「下道」と呼ばれる道があり、この道筋が中道と合致するようだ。
    (国立国会図書館レファレンス協同データベース・さいたま市立中央図書館)https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&ldtl=1&dtltbs=1&mcmd=25&st=update&asc=desc&fi=6_0+2_6&tt=2210012&tt_lk=1&tcd=2210012&tcd_lk=1&id=1000086764

     銅上という地名が分からない。これは釣上の間違いではないかと言えば、さいたま市立中央図書館に失礼だろうか。いずれにしても確かに貝殻坂を下る道はあったのだろう。そうすると、現代の地図では東北自動車道を挟んで、御成街道の東側を並行して通る道(三二四号)がそれに相当するのではないだろうか。綾瀬川を渡る道を嫌って高台を行くことにしたのだと思われる。
     「そもそも釣天井事件なんてなかった。でっち上げだよ。」「前にそう言ってましたね。」元和八年(一六二二)秀忠の日光社参の時と言われているのだが、もし本当に本多正純が将軍暗殺を試みて罪に問われたとすれば、改易、出羽に配流で済む筈がないではないか。本多正純の失脚を狙った土井利勝の陰謀である。

     大門小学校入口で四六三号と合流して西に向かう。大門は鳩ケ谷宿に次ぐ日光御成街道四番目の宿場である。ただ大門の地名の由来が分からない。芝増上寺の大門を考えれば、大きな寺院の門があったのなら分かるのだが、この地域にそれらしきものはないのではないか。
     すぐ右手に大門神社があった。さいたま市緑区大門二九二一番地六。鳥居は朱塗りの両部鳥居だ。今日はこの形式の鳥居ばかりを見る。間口は狭いのに右手に続く参道は長い。「この道はよく通るのに全く知らなかった」とロダンがびっくりしている。「参道に並木も残っていて良いですね。」二の鳥居を潜り、三の鳥居に至ってようやく拝殿に着く。中は意外に広い境内だ。

    大門神社は往古十二所社と称し、旧大門村、下野田村の鎮守の神として下野田村に鎮座せしものと伝ふれどその記録又は旧蹟等も認められずに古来より現今の神域に鎮座せしものと推考される。(由緒)

     十二所社なられっきとした熊野権現である。明治の神仏分離で大門神社と名を改め、祭神も天神七代地神五代としたのである。
     クニノトコタチに始まるひとり神三代、男女対の神がイザナギ・イザナミまで四代、これを天神七代とする。アマテラス、アマノオシホミミ、ニニギ、ヒコホホデミ、ウガヤフキアエズが地神五代である。ウガヤフキアエズは神武天皇の父だ。
     この中には熊野の祭神もいるが、熊野十二所にあるカグツチ、ハニヤス、ミヅハノメ、ワクムスビなどがなくなっている。摂社に愛宕神社、御嶽社、浅間社、天神社、稲荷社がある。
     その少し先にあるのが大門宿本陣の表門だ。代々本陣を務めたのは会田家で、その表門は元禄七年(一六九四)に築造された、茅葺寄棟造りの長屋門である。私たちの前に、怪しげな男性が写真を撮っている。裏に回ってみると空き地の奥には民家がある。「よそ様の敷地ですから入っちゃダメなんですよ。」姫の言葉で早々に表に戻る。「裏には何があるんですか。」若旦那が訊くと、「何もない、行き止まりだよ」と講釈師は適当なことを言う。
     もう少し先の道路の反対側には脇本陣がある。茅葺寄棟造りは本陣表門よりは小さい。個人の敷地だから中には入れない。ここにも、さっきの男が先回りしていた。将軍の日光社参の際、一日目に将軍が岩槻城に宿泊した時、しんがりを務める大名がここに泊ったと言われる。大門宿にはこのほかに旅籠が六軒あった。それではゴールに向かおう。
     次の信号を右に曲がり、新しく造成された住宅地の新しい道を通る。ちょっと前までは田圃が広がっていたのではないだろうか。「若旦那、あれが埼玉スタジアムだよ」と講釈師が指を指す。
     「こっちから行けるかな。」前方は崖になって川が流れているようだ。その向こうにイオンの建物が見えた。坂を下ると、蘆の茂る河原に向かう小道はあちこち工事中でふさがれている。こんな道で駅まで行けるのだろうか。河原に沿って歩き、頭上を走る四六三号の手前で右に折れる細道に、駅への近道の案内板が出ていた。これも雑草の生い茂る怪しげな道で、暗くなれば女性は怖いだろう。イオンのある側しか知らなかったが、この辺はほとんど未開発の状態だ。
     「ここはレッズの駅かい。」埼玉スタジアムと同じ草を使ったという芝生の一画がある。「駅舎に入って反対側を覗いてみたが駅前には何もない。「そうだよ。お茶を飲むにしてもイオンまで行かなくちゃいけないんだ。」
     スナフキンとマリーの万歩計に二千歩以上の差が出たのは足の長さの違いである。途中で少しコースがずれたが、埼玉高速鉄道の営業キロ数でも南鳩ヶ谷から浦和美園まで十・三キロだ。それなら私たちは十一キロ位歩いたかもしれない。
     「次回はここから始まります。よろしくお願いします。」次は岩槻まで行けるだろうか。将軍第一日目の宿泊地まで、私たちは四回かけて歩く訳だ。
     反省会は東川口に出て、前回と同じ和民にした。横浜まで帰るマリオは、ここで降りると後が大変だからと、そのまま帰って行った。四時十分。平日は五時開店だが、土曜日は四時に開く店なのだ。「七時からは予約が入っていますが。」大丈夫、そんなに長居はしない。(あれっ、今日は同じことを昼にも言っていたね。)
     「お座敷になりますが。」「姫は座敷は苦手なんじゃないの。」ロダンが心配するが、「掘りごたつの形式ですよね」と姫は涼しい顔をする。前回も来ているからね。スナフキンは準備良く着替えを持参していた。私のシャツも汗でびっしょり濡れている。着替えを持ってくるべきであった。
     今日は宗匠がいないから珍しく焼き鳥を注文してみた。オサムと私が串から肉を取り外していると、「坂上忍はこういうのが一番嫌いだって」とマリーが言う。それは坂上某の勝手である。自分だけの焼き鳥を注文すればよいのだ。「そもそも他人と一緒に食べるが嫌いみたい。」それなら反省会はできない。姫は三十分程付き合って、おにぎりを食べて去って行った。
     終わって外に出てもまだ明るい。「まだ六時過ぎだよ、明るいな。」スナフキンとオサムが飲み足りないのは分かっている。「そんな目で見ないでよ。分かりました、行きますよ。」無理やりロダンも誘って、北朝霞で降りた。「安い店があるんですよ。」オサムはこの辺に詳しいようで、連れて行ってくれたのは一休である。「カードを作れば安くなる。」意味が分からないがオサムに任せる。焼酎がボトルでなくデカンタで出てくるのは確かに安い店の証拠だ。これを二つ飲んで、丁度良い時間となった。

    蜻蛉