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    日光御成街道 其の四  浦和美園から岩槻まで
       平成二十五年十月十二日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2013.10.12

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     旧暦九月八日。「寒露」初候「鴻雁来」。明日は重陽の節句か。しかし連日三十度を超える日が続き、今日も真夏日になる予想だ。駅までの道には金木犀が香っているが、寒露なんて雰囲気は全く感じられない。駅まで歩いているうちに帽子は汗でびっしょり濡れてしまい、リュックに仕舞い込んだ。
     東武東上線の準急に座り込んで文庫本を開いたところで、霞が関で乗ってきた若旦那に声を掛けられた。今日も夫婦そろっての参加で「先日で自信がついたのよ」と若女将は嬉しそうにしている。途中で快速や急行に乗り換えることもできたが、時間は充分あるし折角座ったことでもあるから、そのまま朝霞台まで行くことにした。
     北朝霞駅のホームで画伯に会うと、「蜻蛉がいる筈だと思ってた」と言われた。同じ東上線に乗ってきたのだろう。東川口駅の埼玉高速鉄道に降りる階段で、「随分深く降りるんですね」と若旦那と頷きながらホームに入るとロダンがいた。「どこから一緒だったんですか。」カクカクシカジカである。
     浦和美園駅に集合したのは、あんみつ姫、小町、クルリン、ハイジ、マリー、若旦那夫妻、画伯、ヨッシー、講釈師、ダンディ、ドクトル、スナフキン、ロダン、オサム、蜻蛉の十六人だ。私のヒゲに驚くのだから、ヨッシーは随分久し振りだと分かる。「夏の間は何かと用が重なってしまって。」
     「佐藤忠良の像ってどこにあったの。」会う早々ハイジが訊いてくるのは、栗橋駅改札前にあった「冬の像」のことである。「気が付かなかったのよ。」ちょうど写真があったので、「こんな感じだった」と見せる。「佐藤オリヱさんのお父さんでしょう。見たかったわ。」ハイジは美術に関心が高くて知識も豊富だ。浦和からはそんなに遠くないのだから見に行けば良い。
     「久し振りに『若者たち』を歌っちゃったわ。知ってるよね。」ハイジは今も「青春」を生きている。私も佐藤オリヱと言えばそれしか思い浮かばない。「私も知ってはいるけどね。」しかしマリーは昭和四十一年(一九六六)のテレビドラマまでは見ていないだろう。私が中学三年でリアルタイムでは見ていないのだから、秋田では放送していなかったと思う。当時、秋田の民放テレビは秋田放送しかなかったからね。田中邦衛、橋本功、佐藤オリヱ、山本圭、松山省二の兄弟の物語で、再放送か何かで部分的に見たような気がする。
     それでも藤田敏雄作詞、佐藤勝作曲、ブロード・サイド・フォーの歌は高校の頃に流行った。私も安いギター(三千円で買ったような気がする)を持って友人と歌ったこともある。今は高音部のメロディーなんかすっかり忘れてしまった。
     「クルリンがあの時来たんだってさ。」講釈師の声が私を責めているようで、顔が怖い。「どこに。」「池尻大橋だよ。」先月の目黒川編の時か。「俺が謝っておいたよ。」私が謝るべきだったろうか。折角駅まで来たのに、少し遅れたために誰にも会えずに帰って行ったのか。なんとなく私も申し訳ないような気分になってきた。「そういう時は電話してくれなくちゃ。」「それがね、ケータイも忘れちゃってたのよ。」「ダメダな、いまどきケータイ持たないで外に出るなんて、生きていけないぞ。」講釈師はいかにもスマホを扱いなれているように指を動かす。「スマホ持ってるの。」「当たり前だよ、常識だぜ。」しかし彼がそれを操っているのは見たことがない。

     西口に降りた途端、ほぼ全員から「ずいぶん変わっちゃったな」と驚きの声が上がった。前回だってここを通っているのに、あの時はそんなに驚かなかったのではないだろうか。雑木林や畑を切り崩して道路や新興住宅地を開いているので、また二三年も見ないとすっかり変わっているだろう。
     なんとなく不自然にだだっ広い所に、綺麗な形の文字庚申塔が建っている。姫の案内にある「辻村の庚申塔」とは別なものだ。天保五年の銘が記されているが、「これってコンクリートで造ったんじゃないですか」とオサムが言うように、おそらくレプリカではないか。「是ヨリ 北いわつき二里・東こしがや二里」の文字も印刷したような楷書で、明らかに江戸期の書体ではない。こういうものを造るなら、そもそも本当にこの場所にあったのか、きちんと説明してくれなければいけない。ただ岩槻まで二里八キロなら、今日のコースは十キロ程度で収まるのではないか。大したことはなさそうだと、この時点では甘く見積もっていた。
     藪の中を切り開いて臨時に通したような道から四六三号線(越谷浦和バイパス)に入る。御成街道ならここに入らず、少し南に行って前回歩いた大門宿本陣の道を真っ直ぐ進み、大興寺の横から東北自動車道を潜るのが本格なのだが、姫は別のことを考えている。既に汗が流れてくる。「明日からは涼しくなるんだよね。」明日からは最高気温が二十五度前後に下がるらしいから今よりは涼しいが、十月の気温ではないだろう。
     空は青い。ヘリコプターの編隊が西の空に飛んでいく。「く」の字の形で六機づつ、と今書いていて変だなと思った。七機ならばちょうど上下の対称が合うはずなのにそうではないのだ。いくつかの班に分かれて続き、途中にポツンと一機だけが飛ぶ。「あれが司令官なんだろうね。」「あれだけが高度も高いんでしょう。全体が見渡せるように。」今日は自衛隊の何かの行事日なのだろうか。少し遅れてただ一機飛ぶ飛行機も見える。

     秋空や編隊追つてただ一機  蜻蛉

     東北自動車道の上を越える。御成街道は次の鶴巻陸橋(西)の所で斜めに交差している道なのだが、今日はそのまま直進するらしい。右手には浦和大学の校舎が見えてきた。「そんな大学があるのか。」平成十五年(二〇〇五)に短大を改組転換して、総合福祉学部とこども学部、短期大学部を作った。
     教育学部なんて言わずにこども学部と言う。最近の流行だが、要するに保育園や幼稚園の先生を養成するもので、子供の数がどんどん少なくなっているのに、教員ばかり作って成り立つものかどうか。
     「学校法人はどこだい。」スナフキンに訊かれた瞬間は俄かに思い出せなかったが、後で思い出した。九里(くのり)学園である。この頃固有名詞がなかなか出てこない。酒を飲むとその傾向は益々酷くなる。同じ名前の学園が山形県米沢市にもあるが(と言うことを初めて知った)、全く別の法人だ。こちらは九里總一郎が浦和実業専門学院(現浦和実業学園高校)を創設したことに始まる。初代は既に亡くなって今は二代目が継いでいる。
     「不便なとこだよな。」埼玉高速鉄道ができる前は最寄り駅は東川口駅で、そこからスクールバスが出ていたと思う。車がなければ来られない場所だった。「周りに何もないから勉強に集中できるんじゃないですか。」ロダンは実態を知らない。今の学生は不思議に学校には真面目に来るのだが、勉強なんかしない。図書館に来ても本も読まない。学生にいかに本を読ませるかと言うのは現代日本喫緊の課題であって、今度の図書館の定例会議はこれをメインテーマにしようと思っている。
     ところで、姫の案内の最初に書かれている「辻村の庚申塔」は、街道に沿って浦和大学の正門を過ぎた辺りにあるらしい。その辺りは南部領辻村である。その地名から、南部藩の飛び地だという説をネットで見つけたが、根拠が見つけられない。なんだか変だと思いながら、ようやくウィキペディアに辿りついた。要するに真相は分からないのだ。

    南部領とは、江戸時代の武蔵国内の名で、現在のさいたま市東部から上尾市東部(当時は三十七ヶ村)にあたる。
    地名の由来には諸説あり、慶長十六年(一六一一)盛岡藩第二代藩主南部利直は、徳川家康・秀忠父子より寵愛を受け、岩槻において五箇村を鷹狩場として拝領し、寛永十三年(一六三六)第三代藩主南部重直の時に召上げとなった。この南部氏の鷹狩場であったことが由来する説と、天正十九年(一五九一)「武蔵国足立郡南部之内」、「武蔵国岩槻領南部之内」(大和田村、中丸村の検地帳)とある記述があり、中世における岩槻領の南部との説がある。南浮(新編武蔵風土記稿)とも書く。岩槻藩が内命により南部領の地名の由来を調査させたが、真相はわからなかった(岩槻御旧地探索秘記)。(ウィキペディア「南部領・武蔵国」より)

     「ホラ、これが里山の風景だよ。」講釈師が指差す方には、ガードレールの下に畑が広がり、その向こうに雑木林が見える。しかしそんな光景もすぐに途切れ、広大な土地を重機で掘り返している。随分深く掘っているが何ができるのだろう。それでなくても暑いのに、こういう道を歩いていると汗が流れてくる。
     工事現場を過ぎれば、「クサギですね」と声がかかった。「そうだよ、クサギだよ。」繰り返さなくても私にも分かる。左の藪にはクサギの黒い実が手に採れるほど近くにたくさん生っている。ヒトデのような形の赤いガクの中心に黒い実が座っている姿はなかなか綺麗だ。花は小さく五裂した白いもので香りは良いが、時季は過ぎていて根元の茎だけが残っている。
     名前が臭木とは実に哀れな花で、それでもヘクソカズラ(屁糞葛)よりはマシか。「何が臭いんだい。」「葉っぱが臭いんです。」姫の説明で、ドクトルが葉を千切って揉みながら鼻にあて顔を顰める。「臭いものは嗅ぎたくないよな。」臭いと言われて嗅いでみる程好奇心が強くないから、私もどんな臭いか分からない。「ビタミンBの臭いに似てるので、ビタミンの木と呼ぼうっていう人もいます。」これは初めて聞いたが、そもそもビタミンBの臭いというのはどういうものだろう。
     やがて前方に料金所が見えてきた。この道は新見沼大橋を渡るだけのために通行料を取る。普通車が百五十円だ。実にバカバカしいが、浦和から越谷方面に抜けるのに便利になったには違いない。
     「その手前で左に曲がりましょう。」あんみつ姫は歩行者も通行料を取られると思い込んでいたようだ。歩行者は無料、但し軽車両(自転車はここに含まれるだろうね)は二十円だ。「エッ、そうだったんですか。それなら料金所まで行けば良かった。」
     道路の下を潜って北側に出る。「どっちに行けばいいのかしら。」福寿寺と浦和福祉会スマイルハウス(特別養護老人ホーム)が並んでいる。「取り敢えず見沼代用水東縁の方に向かいましょうか。」農道のような細い道で、スナフキンが得意のスマホで地図を開き、「こっちだと思う」とどんどん進む。今日は私も地図を持ってきた筈なのに、リュックを探っても出てこない。忘れてしまったのか。「ここは私道かな。」「行けそうですね。」しかしなかなか目的地に到達しない。姫の声がやや心細気になってきた。
     民家の庭先に三面二手の馬頭観音像が立っている。「何の仏様ですか。」「真ん中の頭に馬の首がついてるじゃないの。」「馬頭観音があるというのは、ここも旧街道なんでしょうかね。」ロダンの言う通りか。ただ年号は確認できないものの、表情が何となく現代的なようにも見える。新しいものかも知れない
     「後ろの赤い実は何かしら、誰も関心をもたないのね。」ハイジに言われて気が付いた。馬頭観音の二メートル程後ろに立つ木には赤い実が鈴なりに生っている。「ピラカンサスじゃないね。」それは違うと私でも思う。「センリョウかマンリョウじゃないか。」これも違うと思うが、しかし正体は不明だ。遠くで良く分からないが、もしかしたらサンゴジュではないかとあてづっぽうで考えた。
     あちらこちらで金木犀の甘い香りが漂ってくる。右に曲がり左に曲がり、少林寺拳法の道場を右に見てもう一度左に曲がるとやや広い道に出た。

     「幼稚園児と一緒になっちゃうよ。」曲がり角から前方を見ると、幼稚園児ではなく、小学生の集団が固まっていた。遠足のような恰好ではないから、社会科見学というものだろうか。教師らしい大人が数人付き添っている。そこが目的の国昌寺(曹洞宗)だった。さいたま市緑区大字大崎二三七八。小学生と交代して中に入る。
     黒い山門の扉には金色の菊花紋が大きく輝く。この門は宝暦頃(一七五一~一七六三)の建造とされる薬医門で、屋根は寄棟造りで銅板葺きだ。桁行一丈。梁間は一間をちょっと超える。断面矩形の本柱と説明されるが、クルリンと一緒に観察しても良く判別できない。
     欄間の龍が左甚五郎作と伝えられているのである。甚五郎が日光から江戸に帰る途中で彫ってもらったことになっているが、余り信じる必要はないだろう。脇から境内に入る。「こっちの方がよく見えるだろう。」講釈師の言葉で欄間を見上げれば、表と裏で板が二重になっているようで、こちらにも龍が彫られている。
     阿弥陀一尊種子の青石塔婆は浦和市の有形文化財である。高さは百五十センチほどだろうか。表面がやや擦り減っているものの、綺麗なものだ。緑泥片岩であること、頭の部分が三角で二条の筋が彫られていることで、武蔵型板碑の特徴を典型的に備えている。一二四〇~五〇年代のものと推定されているので、年号でいえば仁治、寛元、宝治、建長に当たる。執権は北条泰時、経時、時頼で、板碑の全盛時代である。
     その脇にはやや小型の阿弥陀三尊種子板碑も立っている。「これが阿弥陀如来に勢至と観音。種子と書いてシュジと読みます。」「これ(阿弥陀三尊の種子)とそれ(阿弥陀一尊)は同じものかい。」「同じキリーク。」何度も話題にしている積りだが、みんな初めて聞くような顔をする。ま、こんなものに関心があるのは宗匠位なものだ。
     半分に割れて上部の種子しか残されていない板碑、宝篋印塔の部品などが一緒に無造作に置かれている。緑泥片岩は割れやすいのだろう。
     センダンバノボダイジュ(市指定天然記念物)が立っているが、ちょうど出棺の時刻に当たってしまったようで、近づくのが憚られる。葉はほとんど落ちてしまっているようだ。「お葬式だから大きな声を出さないで下さいね。」

     センダンバノボダイジュ(標準和名モクゲンジ)はムクロジ科の落葉高木で葉はセンダンに似ています。種子を数珠に使用することからこの名があります。仏教的にも珍重され、寺院にも植えられています。
     この木は、檀家から移植されたもので、その時に樹幹を切りつめたため樹高は低いですが、その後枝が良く伸びて美しい樹姿です。指定時は、高さ六・三五メートル、幹まわり〇・五七メートル、根まわり〇・九三メートル。六月にみごとな黄色い穂状の花を咲かせます。(さいたま市http://www.city.saitama.jp/www/contents/1044834940056/index.html)

     栴檀葉菩提樹の別名のモクゲンジは、『本草綱目』にある木患子(ムクロジ)を誤ってこの木としてしまったことによるという。四阿で休憩している間に告別式も終わり、霊柩車が出て行った。「この頃は、キンキラの車がなくなったね。」昔は良く見かけた、神輿をつけたような霊柩車は派手すぎて、いまどきは流行らない。あれは恥かしい。ハイジがコーヒー飴をくれた。ここでもう一度念のためにリュックを掻き回すと、忘れてきたと思った地図が出てきた。

     それでは出発しよう。「このリュックは。」「アッ、それは私」とハイジが肩にかける。テーブルの上にはまだリュックが残されている。これはあんみつ姫のものじゃないか。しかし姫はもう先頭に立って歩き出している。「いけない、いけない。これで二度目です。」「このカメラは。」これは画伯であった。「千意さんもリュックを忘れたね。」「あのときは随分歩いてから気が付いた。」
     門を出て西に行き、代用水に架かる国昌寺橋を渡った。と言うことは、やはり料金所の辺りで降りて、代用水に沿って真っすぐ来れば分かりやすかっただろう。橋の親柱は木柱で、子供が一所懸命書いたような「国昌寺」の文字が斜めになっている。
     ここから暫く、御成道とほぼ平行に流れる代用水東縁に沿って、右岸(西側)を行くことになる。かなり広い国昌寺の墓地を外れた辺りで代用水は右に直角に曲がる。
     「この辺にトラストがありましたよね。」ロダンが口を開いた途端、対岸の林を背景にして「みどりのトラスト保全第一号地・見沼田圃周辺斜面体」の立札が見えた。「ふるさと歩道の会でも来ましたね。」「SR(埼玉高速鉄道)の会でも良く来るよ。」ダンディと講釈師はSRハイキングの会の常連コンビである。私も誘われて一度だけ参加して、バッジを貰った。姫は清掃のボランティアで何度も来ているらしい。
     私たちにはお馴染みだが、スナフキンはそれほど詳しくないだろう。元々、見沼と言う広大な沼地が広がっていたところである。この沼を干拓して新田を開いたのは主に享保年間のことで、溜井の代わりに用水を開削したので代用水と呼ぶ。開かれた新田が見沼田圃だ。誰かが鳥を見つけ、画伯が名前を特定する。なんと言っても鳥のことは画伯に訊くのが一番だ。
     代用水がコの字のように戻ったところで、総持院橋を渡って東側に出る。ここも木製の親柱だ。駐車場の左手の野菜即売所に、数人の高齢男女が集まって腰掛けているのは生産者だろう。一斉に私たちに視線を浴びせてくる。「今買ってもね、これから歩くんだから。」「カズチャンなら買っただろうね」とスナフキンが笑う。今日は里山歩きの雰囲気だ。
     右手に広がる雑木林の入り口に「県立安行武南自然公園」の看板が立っていた。「こんなの知らなかったな。」ダンディも知らないとは珍しいが、新しい看板ではなく、調べてみると昭和三十五年に指定された自然公園であった。しかし地理的にはおかしな感じだ。安行ならもっと南でなければならない。
     看板の地図を見ると、武蔵野線を挟んで二か所に公園緑地の範囲が指定されている。南の外環自動車道の周辺に広がる部分は確かに安行地区だ。それとは別に武蔵野線の北側で東北自動車道と代用水東縁に挟まれる南北に細長い地域(つまりこの辺)があるのだが、それならここが武南か。しかしこの辺を武南、つまり武州の南と称するのは歴史的にも納得できない。私は公園の存在に異議を立てているのではなく、名称が変だなと思うのだ。安行とは切り離して、見沼代用水自然公園とでも言ってくれた方が分かりやすい。
     少し行くと阿日山宝袋寺総持院(真言宗智山派)の入口に着いた。さいたま市緑区南部領辻二九四四。参道は百メートルもあるだろうか。「ここから見るのが一番いいんだよ。」講釈師が何度も繰り返して断言するのは、参道入口から望む鐘楼門だ。
     明治の火災で鐘楼門を残して全焼したというから、この門だけは江戸期の建造になるのだろう。門の下で二階を見上げると、床の隅には正方形の穴が開いているが、階段はない。「ここで鐘が撞けますよ。」オサムが、撞木に繋いだ縄が柱に巻き付けられているのを見つけた。下でこの縄をもって撞くのだろう。
     境内にはかなり大きな邪鬼を踏みつける青面金剛像が立っていた。「おれは大きな顔してるだろう。」「ホントに大きな顔。」「大きな顔が踏み潰されてるね。」全体に黒い苔のようなもので汚れているが、それ程擦り減ってはいない。後で岩槻のものと比較したいので、分かる限りメモしておく。
     正面右手は剣を握り、左手は腰の辺りで人身を持つ。「それって赤ん坊かい。」「女身だと言うネ。業界用語でこれをショケラと呼ぶ。」「どういう意味なの。」ハイジに訊かれても私も答えられない。語源は不明だ。三尸をシャ虫と称し、それがショケラに転じたという説明もあるが、そんな風に転訛するだろうか。それにその虫が何故女人になるのかも分からない。
     庚申塔の研究史は小花波平六編『庚申信仰』(「民衆宗教史叢書」第一七巻・雄山閣出版)にまとめられているが、歴史学や宗教学はこれに殆ど関与していない。しかし私は日本人の宗教感情は現代でも神仏習合にあると思っている。もっと歴史学界がこういうことに関与しなければいけないのではないか。
     ほかの腕は擦り減っていて判別が難しい。背面上方の右手は剣(?)、左はチャクラだろうか。下方の両手は弓矢を握っているようにも見える。ここで覚えておかなければいけないのは、正面の手が合掌していないことだ。
     「この寺はボタンで有名なんだ。」牡丹園は竹の柵で囲ってある。四月頃には六百五十株の牡丹が花開くらしい。その脇に、三十センチ程の少しひしゃげた石を赤く塗って、正面だけ白く残して髭面を描いたものが置かれている。「なんでこんなところにダルマが。」冗談のようなものだが、これが達磨仏石と称されるものだった。小中学生なら、図画工作の時間で簡単に作れる。智山派の寺院と達磨の関係は謎だ。寺を出れば竹林が広がっている。「ここで筍を採るんだよ。」

     「腹が減ってきたね。」「街道の方に行ってみましょうか。お店があるかも知れません。」今日の姫は一天地六の出たとこ勝負に賭けている。「運を信じましょう。」この天気ならば、最悪でもコンビニで弁当を買って公園で食えば良いと覚悟を決めているのだ。私の地図では街道に出て六百メートル程の所に「砂場」があることになっているがどうだろうか。
     五斗蒔橋から東に少し行けば御成街道に出る。「あそこに中華のお店が見えます。」左に曲がって三百メートル程歩くと、野田小学校の正門を過ぎたところに台湾料理の「福燕」があった。赤い看板には「百種類」と大きく書かれている。さいたま市緑区上野田三四。店の前の駐車場には車が四台ほど駐車している。いっぱいかな。
     入ってみると中は意外に広い。中央の大きな円形カウンターはかなり埋まっているが、窓際の上り框の四人座れるテーブル席が三つ空いているし、ほかにも席がありそうだ。姫は強運の持ち主であった。小上りのテーブル席を占領し、畳に座るのがきつそうな人は奥の個室に入った。ただ奥の個室も人数制限があったようで、時々膝が痛くなるという小町は無理してドクトルの隣の畳に座った。
     ランチメニューは、三種類の定食と、何種類かのラーメンに半チャーハンがついたセットが七百五十円だ。私は定食が食いたい。しかし水を持ってきた若い女性が、「定食は時間がかかります。ラーメンセットが早くできます」と宣言するので、四人ともスナフキンが選んだ叉焼ネギ麺のセットにした。
     「だけど、誰か一人でも定食を頼めば、結局全員が遅くなっちゃうんだな。」セットを注文すれば生ビールが三百五十円で飲めることになっているが、道中は長いので自重する。スナフキンは珍しいことに、とてもビールを飲む気分にはなれないようだ。「昨日は三時から飲んでたんだ。」
     平日の三時から飲めるのが奇態だとロダンは訝しがる。「私だったら三時からなんて、とても飲めない。」「仕事がらみで。」「それじゃ気を遣って大変でしょう。」私が聞いたところでは、別に気を遣う相手ではなさそうだ。「だから飲みすぎちゃったんだよ。」
     出窓には浦和学院高校野球部の記念皿が並べて飾られている。年度違いで甲子園出場が二枚と、今年の春の優勝記念だ。「選手の名前も全部書いてある。」「どこが作ったのかな。」野球部が作ったのだろう。寄付してくれたところに配るのである。浦和学院が丁度向かいにあるから運動部御用達の店に違いない。それにしては、紹興酒の空き瓶もずらりと並べてあるのはいかがなものだろうか。
     浦和学院が野球の強い学校とは知っていたが、今年の選抜大会に優勝していたのには気づかなかった。こういうことは小町が詳しい。「俺も全然覚えてないな。」調べてみると、今年春の優勝を筆頭にベスト4が二回、ベスト8が三回ある。現役のプロ野球選手の出身校としては全国三位ともいう。こういう学校で野球部以外の運動部は苦労する筈だが、ハンドボールや硬式テニスでも全国優勝経験のある強豪校であった。
     「お待たせしました。」出されたラーメンの汁はかなり赤い。失敗したか。これは相当辛いのではないかと思ったが、見掛けほどではなく、私でも食べられるものだった。細い縮れ麺で、チャーシューもネギも細かく刻んである。「そっちのテーブルはネギチャーシューですか。こっちは担担麺の島です」と隣のテーブルのロダンが声をかけてくる。
     ラーメンを食い終わっても、なかなか半チャーハンが出てこない。「チャーハン忘れてるんじゃないでしょうね。」煙草を一服したところで漸くやって来た。普通よりは量が多い。「こんなに多いと思わなかったよ」と言いながら小町も全部平らげた。「だって美味しかったからさ。」
     「私が頼んだ台湾のナントカが一番遅くなった。」「一人だけ特殊なものを注文するからだよ。みんなと同じものにしなくちゃいけない。団体の時のルールじゃないか。」講釈師だってみんなと同じものを注文することは余りないんじゃないか。「いいじゃないですか、自分のお金で好きなものを注文するんだから。」ただ、団体の時はできるだけみんな同じものを注文した方が早い筈だ。店として効率を考えるとそうなる。
     その間にも客は次々に入ってくる。「この辺には他に店がないんだな。」子供連れで補助椅子で待つ客が現れては、食い終わった私たちは出なければならない。
     私の前で会計をしていたロダンが大声を上げた。「なんだ、どうしたの。」店を出てから聞いてみた。セットは多くて食べ切れない。だから単品でラーメンを頼んだ。ところがこれが七百八十円だとレジで告げられたのである。繰り返して書けば、半チャーハン付のセットが七百五十円である。単品ならそれより安いと、まず普通の人は思う。「チンゲンサイが入っているからだって言うんですよ。」ロダンが怒る姿も珍しい。どの程度のものか知らないが、半チャーハンより値段の高いチンゲンサイとは恐れ入る。「チンは珍なんですよ。だから高くても仕方がない」と姫が笑う。若旦那は普通のラーメン四百二十円にしたそうだ。「美味しかったですよ。」

     十二時四十分。もう一度さっきの道から代用水の方に戻る。「この辺は田圃を作ってるんだな。」既に刈り取られた後だ。「サギ山公園は東側ですが、何もないので、こちらを歩きます。」「こちら」とは見沼自然公園だ。「こっちだって何もないけどな。」当初の計画で行く筈だったサギ山公園は野田の鷺山と呼ばれ、昭和三十年代始めまでは鷺が巣を作っていた。最盛期で巣の数は六千にも達していたという。巣を作り始めたのが享保の頃と言うから、ちょうど見沼田圃ができた頃で、水田が恰好の餌場になっていたのだ。それが昭和四十七年には完全にゼロになった。
     国の減反政策による農地転用が最大の原因だったと思われる。今では行政も反省して(?)政策転換を図り、見沼田んぼの保全・活用・創造を唱えている。

     近年における著しい都市化の進展や営農環境の変化などにより、見沼田圃に対する開発圧力が増大してきています。 その一方で、首都近郊に残された数少ない大規模緑地空間として見沼田圃を保全していこうという動きが活発になってきました。
     こうした状況を踏まえ、埼玉県は、県・関係三市(旧浦和市・旧大宮市・川口市)・議会の代表・農業団体の代表・学識経験者・地権者等の意見を聴き、 将来における見沼田圃の土地利用について総合的な検討を行い、平成七年四月に、それまでの土地利用の基準であった『見沼三原則』 (昭和四十年:見沼田圃農地転用方針)に代わる新たな土地利用の基準として『見沼田圃の保全・活用・創造の基本方針』を策定しました。
    http://www.minumatanbo-saitama.jp/policy.htm

     「あの像は誰だい。」「確かイザワヤソベエじゃなかったかな。」口に出した瞬間、自分で驚いた。こんなにすっきりと名前を思い出す程、親しい名前ではない。一度しか見ていない筈だ。銅像に近づくと、台座には間違いなく井澤弥惣兵衛為永の名前が記されていた。固有名詞がなかなか出てこない症状と、こういう記憶にはどんな関係があるのだろうか。見沼代用水を開削した人物である。「ヤソベエですか、イザワヤ・ソウベエではないですね。」

     井澤弥惣兵衛為永翁は承応三年に現在の和歌山県海南市に生まれ、若い頃から紀州藩の土木技術者として亀池の築造をはじめ数多くの土木事業を行いました。
       享保七年八代将軍吉宗に江戸に召し出された為永は、享保十二年に得意な紀州流の土木技術を駆使して見沼を干拓し、見沼に代わる水源を利根川に求め、長さ六十粁余りの見沼代用水を半年余りで完成させ、千二百町歩の新田を開発しました。これが現在の見沼田んぼです。そのほか用水沿岸のため池も新田開発されかんがい面積は一万四千町歩を超えました。
     更に日本最古の閘門式運河の見沼通船堀を造り、江戸と見沼代用水を結ぶ舟運を発展させました。これらの功績により享保十六年に幕府の勘定吟味役となりました。
     この偉大な功績を永く後世に伝えるため、井澤翁の生誕三百五十年を記念して賛同を頂いた皆様と見沼代用水土地改良区でここに銅像を建立するものです。
      平成十七年十月吉日
      井澤弥惣兵衛為永翁銅像建立委員会

     ドクトルは江戸時代の水準測量技術が気になって仕方がないようだ。「ロダンもちゃんと勉強しなくちゃいけない」と諭している。「ここで写真を撮って下さい。像を背景に。」珍しいことだが、ドクトルの折角の要望なので写真を撮る。
     「あんな顔してたなんて、どこで分かるのかな。吉宗の頃に写真があるわけじゃないしさ。」スナフキンがおかしな疑問を口にする。肖像画があったかも知れない。「エライ人でも鳥のフンを付けられちゃ、可哀そうだな。」
     江戸時代はまた列島改造時代でもあった。鬼頭宏『文明としての江戸システム』によれば、新田開発の結果、慶長五年(一六〇〇)頃に二百二十万町歩だった耕地面積が、享保六年(一七二一)二百九十六万町歩、天保十四年(一八四三)に三百六万町歩、明治五年(一八七二)には三百五十万町歩に拡大した。
     同書が紹介する中村哲の推計では、耕地面積の拡大に伴って国内の実収石高も一六〇〇年の千九百七十三万石から、一七〇〇年の三千九百七十六万石、一八七〇年の四千六百八十一万石へと格段に増加した。勿論技術革新もあってのことだが、面積が広がらなければ二百七十年の間に二倍以上の収穫はできない。
     これは当然人口増加に結び付く。慶長五年に千二百二十七万人だったものが、明治六年には三千三百三十万人へと膨れ上がった。(鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』より)。こうした歴史人口学の推計がどの程度正確かは分からないが、関ヶ原の戦いの時代、日本の人口は現代の十分の一しかなかったということは覚えておこう。

     「乳母車だよ、珍しい。」小町の声に、別に珍しいものでもないだろうと振り返ると、なるほど、小町が驚いた理由が分かった。犬を乗せて歩いているのは何かの呪いだろうか。犬は普通地面を歩くものだと私は思う。それとも全く歩けないほど耄碌して弱っているのか。できるだけ善意に考えたいが、時々は乳母車から出して歩かせているのを見れば、そんなに弱っているようでもない。何を考えているのだろう。
     公園の北側に出ると、車の通行量の多い道になった。歩道はない。「気を付けて一列で歩きましょう。」ここから西に少し行く。
     車の途切れたところで横断する。「あそこですね。」旧坂東家住宅見沼くらしっく館である。さいたま市見沼区片柳一二六六番二。「くらしっく館」と言うネーミングは好きではないな。
     かなり広い豪農の屋敷だ。「あの角が曲り家風になってますね。馬でも飼ってたんでしょうか。」若旦那が指摘するように、右端の土間の部分が少し出っぱったようになっていて、後で図面を見るとやはり馬小屋であった。
     坂東家は加田屋新田を開発した名主である。初代は紀州名草郡加田村の出身で、加田屋の屋号をもって江戸日本橋で商いをしていた。三代助右衛門尚常が願い出て六十五町二反余を開発した結果、享保十六年(一七三一)の検地で六百十四石二斗と確定し、代々名主を務めた。江戸時代の新田開発は、このように豪商に資金を出させて完成させることが普通だった。豪商の側も新田の大部分の権利を得るのだから、成功すればかなりの利益になる。
       地図を見ると、ここから北西に一キロほどの所に加田屋新田の地名があり、見沼代用水に並行して西側に加田屋川が流れている。

     旧坂東家住宅は三時期にわけて造られており、床上部分が安政四年の建立であることが柱のほぞ穴の墨書により判明しています。土間の部分の建立はこれより古く、中二階を持つ建物背面に突出した八畳の部屋が一番新しいものとされていますが、それほど大きな時期の隔たりはなく造られたものと考えられています。向かって右手の土間は建物の間口約半分を占め、土間部分は壁により「ウマヤ」、「オトコベヤ」、「ダイドコロ」等の部屋に仕切られており、馬屋の部分は前面に突出しています。板が貼られた「カッテ」が床上部分の「オクザシキ」から続いてあり、囲炉裏が設置されています。床上部分は六間取りとなり、オクザシキの隣には「オモテ」があり、オクザシキから続く中二階を持つ「ハチジョウ」が建物北側に突出しています。次に「ザシキ」と「ゲンカン」がありゲンカンには式台がついています。西側部分は「オク」と「オクデイ」と呼ばれる部屋でオクデイは床の間と付書院を持ちます。西側廊下の奥には湯殿と便所を設けています。旧坂東家住宅は六間取りという大きな間取りを持ち、この地の名主の屋敷としての規模と格式を備えた家です。(さいたま市http://www.city.saitama.jp/www/contents/1115793957623/index.html)

     広い庭では子供たちが竹馬に乗って遊んでいるが、子供より母親たちの方が楽しそうだ。かなりの高さの竹馬を乗り回し、自慢している女の子がいる。何故か男の子より女の子の方が多い。「頑張ってるのに、ママが声をかけるからできなくなっちゃう。静かにしててよ。」この子は何度やっても上手く乗れない。重心が後ろに残ってしまうのだ。竹をもっと前方に傾けなければいけない。こういうのを見ていると、つい口を出したくなってしまう。
     「やった、できたよ」と喜んでいるのは母親自身だ。「私にもやらせてよ」と、そばで子供が文句を言っている。「蜻蛉さんはできますか。」オサムよ、バカにしてはいけない。片足立ちで地面に落ちたものを拾うなんて朝飯前だった。「飛んだよ。」「上手、上手。」これは竹とんぼだ。実は私は子供の頃に竹とんぼをやった経験がない。

     秋日和笑へば高し竹とんぼ   蜻蛉

     母親と羽根つきをしている女の子は上手くできない。子供だから下手なのは仕方がないが、足の動きがやけにギクシャクしている。見ると、短い脚の膝下まである、しかも少しブカブカの革のブーツを履いているではないか。子供にこんな恰好をさせては、自由な動きができる筈がない。母親は何を考えているのか。こうして見るもの全てに文句をつけたくなるのは老化現象であろうか。この頃の私はだんだん現代日本人の心理が理解できなくなっている。
     「玄関に式台があるのは珍しいんだぜ」と講釈師が自慢するように言う。この玄関からは入れないが、土間から家の中に入ることができる。「プラスチックじゃないんだよ」と母親たちが興奮したように子供に話しかけている。ムクロジの実で作った羽子板の羽根が台の上に並べられていたのだ。
     奥の部屋には衣紋掛けに打掛がかけられている。試着ができるのである。「やってみれば。」「今更ね。」二階(屋根裏)に上る階段は急で、途中まで上がって覗いてみると黒光りする長持ちが収められていた。帰りがけに、見沼代用水散策コースの地図が土間に置かれていたので貰った。
     「靴を脱ぐのが面倒だからさ。」小町は庭のベンチに腰を下ろして休んでいる。姫が塩飴を配ってくれる。
     井戸の傍に咲くのはシュウメイギクだ。「このペースで岩槻まで行けるのか。泊りを決めておかなくちゃいけないな。」講釈師ではないが、本当にこのペースだと岩槻に四時には着けない恐れがある。「大丈夫です。ちゃんと行けますよ。」姫は強気だ。

     もう一度一列になって、来た道を東に戻る。「そこが慶応だよ。」「こんなところに慶応があるなんて知らなかったな。」御膝元のダンディが知らないか。「昔の共立薬科ですよ。」さいたま市緑区上野田六〇〇。「浜松町にありましたね。」大学のサイトを見ても、芝校舎との役割分担がどうなっているのかさっぱり分からないが、ここには薬用植物園がある。「無料なのね。」植物園にはただで入れるのだ。
     「慶応には薬学部がなかったからね。」「共立も売り時だったんだ。」慶応が共立薬科大学を買収したのは平成二十年のことである。大学が売買の対象になるということを、一般に広く知らしめた。

     薬学教育は、これまで四年制の課程を終えれば薬剤師国家試験が受験できたが、近年の医療における薬剤師の果たすべき役割の重要性にかんがみ、年限延長問題が長く議論されてきた。国公立・私立大学や日本薬剤師会、病院薬剤師会、文部科学省、厚生労働省が中心になって、「薬剤師養成には六年間の課程が必要である」との結論に至り、二〇〇六年四月から薬学教育の六年制がスタートした。六年制は今年で三年目を迎えたが、少子化や年限延長の影響もあり、薬学部全体の受験生数は減少傾向にある。一方、薬学部はここ五年間で新設が相次ぎ、二〇〇三年以前は二十九校だった薬科大学・薬学部が二〇〇八年度には五十七校と倍増した。このような状況の下、病院を持たない共立薬科大学では長期の病院実習ができるのかという不安があり、受験生の減少要因にもなりかねない状況であった。(笠原忠・慶応大学薬学部長「産学官連携ジャーナル」2008.7)
    http://sangakukan.jp/journal/journal_contents/2008/07/articles/0807-02-4/0807-02-4_article.html

     これが当事者の言い分である。病院を持たない共立薬科大学では、学生が集まらない、須磨里商売にならない覚悟したのであった。
     ここで漸く街道に出る。かつては国道一二二号線だったが、現在では県道一〇五号に格下げされた。浦和美園五キロの標識があった。ここまでのことを考えればざっと七キロ近くは歩いた勘定になるだろう。ここから北を目指す訳だ。先は長い。
     「日曜美術館を見てるの。」「俺も見てる。」どういうきっかけだった分からないが、スナフキンとハイジの間でそんな話題になってきた。ハイジによれば、明日、再放送だが高村光太郎と千恵子の物語をやるらしい。「是非見て頂戴。私たちはゼームズ坂も歩いたでしょう。」(是非と言われては仕方がないから私も見た。)
     「サクラじゃないか。」一本の木に白い花が咲いているのはソメイヨシノに違いない。しかしロダンがちょっと振り返っただけで、気づいた人は余りいなかったようだ。その脇にビヨウヤナギが咲いているのが不思議だ。「珍しいのか。どういう字だい。」「美央柳。五月六月に咲くんだよ。」季節が狂っている。
     膝子下のバス停を過ぎれば光徳寺(曹洞宗)だ。さいたま市見沼区膝子三一五。文禄四年(一五九五)の開創というから古い。御成街道が整備される以前の奥州街道の要衝だったのだろうか。「さっきビヨウヤナギを見たよ。」「そうなのよ、返り花ね。」ハイジも見るべきものは見ている。

     街道に車を避けて返り花  蜻蛉

     但し「返り花」は冬の季語である。将軍の休憩所に充てられたと言うが、それに関するものも全く残されていないようだ。手水舎は新しく、水鉢の両脇になぜだか分からないがウサギとカエルの像が立っている。境内には見るべきものは余りなく、単に休憩地点と考えればよい。墓地はかなり広い。

     次は一里塚だ。姫が地図にマークしてきた場所は、この光徳寺の裏の辺りになるらしい。「どこかで曲がれますか。」少し北側で右の細い道に入った。「大丈夫でしょうか、迷子になってしまいそう。」荒れ果てた田んぼの中の畦道のようだ。こんなに街道から離れた場所に一里塚があるのか。四つ角に出たので私は右に曲がってみる。ダンディは左に、ヨッシーはまっすぐ探検に行く。私の見る限りではそんなものはない。さすがにスナフキンのスマホも、一里塚までは表示してくれない。
     「ないですね。諦めましょうか。」そこに講釈師がやって来た。「地図を見たらさ、街道のもう少し北にあるよ。ホラ、次のバス停との間じゃないか。」講釈師が広げたのは、さっき旧坂東家で貰ってきた地図だ。「一里塚なんだから街道にあるに決まっているじゃないか。」「だって、ネットで住所を検索したらこうなってたんだもの。」これは姫の調査が聊か杜撰だったのである。しかし、こういうことがあるから楽しい。決まった道を歩くだけではこんな苦労も楽しみも知らない。かなり遠くまで行っていたヨッシーとダンディも戻ってきて、もう一度街道に引き返す。
     「もう疲れちゃった。」小町の膝はそろそろ限界に近付いてきたらしい。暑さのせいもあるだろう。「バスで帰ることにするよ。」それにしてもヨッシーの足取りは軽い。一番体力があるんじゃないか。
     そしてやっと一里塚に着いた。かなり寄り道をしてしまったが、光徳寺から真っ直ぐに百メートル程だろうか。膝子の一里塚である。さいたま市見沼区膝子五二七番地一。膝子の地名は、産み落とした奇形児が膝のような形をしていたからだという伝説によるらしい。しかし膝の形の赤子とは想像もつかない。膝や脛のつく地名は坂が連続したところに多いのだが、ここはそれとは違って平坦な場所だ。
     江戸より八里、岩槻へ一里。「どれが一里塚ですか。」ロダンが変な質問をしてくる。「この塚だよ。」「碑とか何かが建ってたんですか。」「この榎が目印なんだよ。」
     今では街道の東側にしか残されていない。かつては田圃が広がって畷のようなところだったろう。遠くからでも小高い塚と高い榎は見えたに違いない。ただ榎の根元は土が流れ、根っこが露わになって崩れそうに見える。もう少し手入れをしてもよいのではないか。
     膝子自治会防災倉庫との境の鉄柵際に、舟形石に二体づつ三段に浮き彫りした六地蔵が立っていた。「これ、珍しいですね」と若旦那が感心している。確かに余り見ない形だ。その隣の座像は、磨り減って頭が地蔵のようになっているが、台石に秩父坂東四国西国と彫られているので聖観音だと思われる。
     少し先の膝子のバス停まで歩き時刻表を見ると、南へ向かうバスは土曜日全面運休だ。ダメだ。「バスに乗るようなやつはいないんだよ。みんな車なんだな。」地図を見てみようか。「頑張って二キロ程歩けば七里駅に着くよ。我々は途中で別れるけどね。」「じゃ、歩こうかな。」
     その間にヨッシーが道を渡って北へ向かう時刻を見ている。私も行ってみた。「どうですか、ありますか。」あった。「かなり遠くまで行くようですね。」「七里駅入口で降りればいいんですよ。」あと十五分程待てばバスが来る。七里駅で東武野田線に乗ればよい。「それじゃ、ここで待ってる。」小町をバス停に残して出発する。(後刻、小町から連絡が入り、五時には最寄駅に帰り着いたということだった。)

     この辺からダンディの足が速くなって、どんどん先に行ってしまう。何をそんなに急ぐのだろう。「しょうがないな。年を取ると気が短くなっちゃうんだよね。」「それ、書いておいてくださいね」と姫が笑う。自動販売機があったのでペットボトルを仕入れる。これで二本目だ。暑い。Tシャツの背中が汗で気持ち悪い。この暑さで小町は消耗したのである。
     柿の実がかなり赤い。ススキの間にサルスベリの赤い花を見るのは違和感がある。ホントに季節はどうなっちゃったんだろう。「これがヘクソカズラ。」「それって冗談かい。」「真面目です。」これも夏の花だが、実に可哀そうな名前だ。「どういう字を書くのか。」「ヘとクソ。」相当に臭いというのだが、私にはそんな臭いは感じられない。ヤイトバナ、サオトメバナの異名があるが、だれもそんな風には呼ばない。
     七里中学の辺りの分岐点で、先に行っていたダンディとヨッシーが待っている。「右ですね。」左に行けば七里駅、道なりに右に行けば岩槻だ。ここからは県道六五号線になる。
     暫く行くとバス通りに出た。「ここなら大宮行のバスがあったじゃないか。」それは結果論である。あの時はそんなことは分からなかったし、それにここまで歩くのであれば、七里駅まで歩くのとほぼ同じ距離だ。小町には無理だったと判断した方が良い。
     それを越えて行けば、県道はやや左に回り込むようになっている。右斜めに通っているのが旧道だろう。若旦那とドクトルはそちらに行こうとするが、既にダンディとヨッシーは遥か先を歩いている。「斜めに行った方が近いと思うから。」若旦那が女将に弁解している。「そうか、底辺かける高さっていうことね。」不思議な反応だ。三角形の一辺の長さは他の二辺の和より短いというのではないか。
     たぶん合流するのだろうが、ダンディたちが先に行っている以上、このまま進むしかない。二号線に突き当たって信号を渡る。百メートルも先の橋の手前で、ダンディたちが立ち止ってこちらを眺めている。向こうには信号がないのだ。私たちは信号を渡って右に行く。ヨッシーとダンディも決断して、車の途切れを見計らって横断した。
     深作川に架かる橋は簀子橋だ。「橋の手前にある筈なんです。」道標があるらしいのだがいくら探してもない。「ちょっと地図を見せてください。」ロダンが私の地図を見る。「そうですよ、さっきの道から斜めに入る旧道があるんですよ。」さっき若旦那たちが行きかけた方に歩けば古簀子橋に出る。そちらの方だったと思われる。姫の調べでは「江戸道・岩槻道・慈恩寺道・原市道・川口善光寺道」と記されていたそうだが、風化によってほとんど判読できないらしい。要するに岩槻街道だということを言っているだけだ。
     宮ケ谷塔の交差点で国道十六号線を渡る。「宮ケ谷塔って塔があったんでしょうか。」民俗調査の原則として、漢字表記に引き摺られてはいけない、読みで考えよというのは、昔恩師に教えて貰ったことである。漢字は美しく飾ろうという意識によって意味を変えてしまうことがあるのだ。だから、ミヤガヤトウとして考える。ウィキペディアで確認すれば、やはり鎮守の氷川神社と谷戸によって、「宮ケ谷戸」と呼ばれたのが元の形だと言う。
     「名前の割に小さいですね。」確かに綾瀬川に架かる大橋は大きくない。旧道は古簀子橋を渡ってここで合流するのだ。日光社参の際に、将軍家慶は光徳寺からここまでは歩いて来たらしい。そのために御成橋と呼ばれるようになったと言う。「水門があるじゃないですか。」橋に沿って煉瓦色の水門が高く聳えている。「こんなところで水門を閉じたら氾濫しちゃうんじゃないですか」とロダンが心配する。

     現在の橋は大正九年(一九二〇)から昭和五年(一九三〇)にかけて 埼玉県が実施した綾瀬川の中下流部(原市沼川の合流から 終点まで)改修(十三河川改修のひとつ)のさいに建設された。
     下流にあった妙見堰の撤去に伴い、木造の旧大橋堰をコンクリートで規模拡大したもの。橋と堰が一体となった構造であり、上流側には 大橋井堰が併設され、左岸の大橋井堰用水路へ農業用水を送水している。
     堰の部分は新しい形式のゲートの設置に伴い、門柱などが大幅に改修されているが、橋は下流側の親柱が新造されている以外はほぼ竣工当時からの形態を留めている。
     大橋井堰は綾瀬川に現存する唯一の取水堰である。
    http://www.geocities.jp/fukadasoft/renga/hachiman/index2.html

     セブンイレブンに寄ってペットボトルを追加した。これで三本目だから、真夏とほとんど同じペースだ。若女将はアイスクリームを二つ買っている。ヨッシーは何を買う積りだろうか。オサムもいる。一足先に店を出ると、少し先の角でみんなが腰を下ろして休んでいるのが見えた。「何人でしたか。ロダンは二人だって言ってましたが」とダンディが訊いてくる。「四人ですよ。」追いついてきたヨッシーが「蜻蛉はダメですか」と笑いながら、冷たいチョコレートのようなものを全員に配る。
     東北自動車道の下を抜けると宿場に入ったようだ。交差点には「人形のまち いわつき わらべ人形」の像が立つ。稚児髷を結い、水干を身に着けた子供の像だ。「日光東照宮造営に関与した職人がいついたんだよ」とスナフキンに説明していると、「越谷も人形の町です」「春日部は桐箪笥だ」という声が聞こえる。どちらも日光街道沿いの宿場町であり、また桐の削り粉は、糊で練り固めて人形の顔になるから関連が深い。埼玉県内では鳩ケ谷の雛人形も有名だ。
     道路の右に赤い両部鳥居が建つのは久伊豆神社だ。「以前、久伊豆神社の本社に寄りましたよね。岩槻で。」ロダンに言われてそんなことがあったような気がしてきた。平成二十二年のクリスマスの日に歩いている。ただ久伊豆神社の本社というか大本は良く分からない。岩槻と越谷が有名で、加須の玉敷神社も久伊豆明神総本社を名乗っている。
     仏眼山浄国寺(浄土宗)。さいたま市岩槻区加倉一丁目二十五番一。天正十五年(一五八七)、岩槻城主太田氏房の創建になるとされる。浄土宗関東十八檀林の一つで、多くの末寺を擁していた。釈迦の左眼の舎利を保存しているというのが山号の由来である。眼の骨とは、どんなものを想像したのだろうか。「ここは初めてでしたか」と姫に訊かれた。私は初めてだと思う。「それなら寄って良かったですね。」
     参道に入ると青面金剛が三基並んでいたので、今日の目的の一つが果たせる。実は青面金剛には岩槻型と呼ばれる様式がある。今まで良く観察してこなかったから、機会があればこれをきちんと見ておきたいと思っていたのだ。
     岩槻型青面金剛の典型的な例は、合掌型六手像で中央の手が胸の前で合掌し、上方の手が剣とショケラを握り、下方の手が弓矢を持つことになっているらしい。勿論バリエーションはいくつもあるらしいから、典型例に御目にかかれるかどうかは分からない。
     左端のものが一番良く分かる。確かに上方の左手がショケラを握り、右手が剣を持っている。下方の両手は弓矢だから、まさに典型的な岩槻型である。隣のものもよくよく見れば同じようだ。右端のものはショケラがない。並んでいる三基とも合掌型であった。
     「これってミザルイワザルキカザルですよね。」オサムが石仏に対して何事かの関心を示したのは初めてのことであるまいか。「私も以前は、三猿なんて日光東照宮にあるとしか思ってなかった」とロダンが口を合わせる。
     青面金剛に三猿が付き物になっているについては、山王信仰に纏わる面倒臭い説明もあるのだが、三尸を象徴していると簡単に説明するものもある。庚申の日の夜、人間の体内にある三尸が六十日振りに目を覚まして天帝にその人間の悪事を告げる。その三尸が目覚めないように(人間が寝てから起きだすのだ)、庚申の夜は寝ずに過ごすのである。見ザル言ワザル聞カザルは、その象徴である。

     一本の木となりてあれゆさぶりて過ぎにしものを風と呼ぶべく  民子

     三波石に黒御影の銘板を嵌め込んだ歌碑で、作者大西民子自身の筆である。「大宮の人ですね」と言うダンディの声が聞こえる。ゴッホの「糸杉」をモチーフにした歌らしい。短歌の鑑賞に自信はないが、良い歌だと思う。
     大西民子は大正十三年(一九二四)盛岡に生まれ、盛岡高女から奈良女子高等師範を卒業し教職に就いた。昭和二十四年、大宮に移って埼玉県教育局の職員となった。職歴の最後は県立久喜図書館奉仕部長である。平成六年(一九九四)六十九歳で亡くなった。
     昭和三十年代前半に、夫と別居して、母と妹と一緒にこの浄国寺で暮らしたことがある。その縁で歌碑建ち、菩提寺にもなっている。
     ホトトギスとシュウメイギクが密集して咲いている。「この花は何だろう。」ハイジも「何の菊かしら」と首を捻る。姫は、「ノコンギクかユウガギクか。その区別が良く分からないんです。どっちかが毛がないんですよ」と笑う。「俺は毛があるよ。」「それじゃユウガギクにしましょうか。」優雅菊ではなく、柚香菊と書く。柚子の香りがするらしい。

    カントウヨメナ、ユウガギク、ノコンギク、シラヤマギクやシロヨメナを花色で区別することは個体変異があって無理です。
    http://www.geocities.jp/tama9midorijii/ptop/yuop/yuugagiku.html

     素人に区別はできないと、これだけはっきり書いてくれれば悩まなくてすむ。ウィキペディアを参照すると、一般に野菊と呼ばれるものに、キク属のほかにシオン属(ノコンギクはこの属)、ヨメナ属(ユウガギクはこの属)なども含まれるらしい。それなら私は野菊だと思ってよい訳だ。そしてノコンギクとは残ん菊と思っていたが、これは間違いで野生の紺菊であった。
     「お墓も見ますか。一人だと行けないので。」姫と墓地に向かうと、すでに何人も墓の前で観察している。分かりやすい場所で解説も付されているから親切だ。
     真っ白な玉垣で囲まれた墓域に巨大な五輪塔が三つ並んでいる。「随分立派なものだね。」「そうですね。」空輪上部のとんがった部分が長く伸びているのは、古い様式だ。五輪のそれぞれにア・ビ・ラ・ウン・ケンの梵字が彫られている。右が阿部家初代藩主正次、真ん中が三代定高、左の少し小型のものが定高に殉じた家臣小倉政光のものである。
     小倉家は、政光が小姓に取り立てられてから五十石の加増を受け二百石になっていたらしい。とすれば藩主定高の寵童だったに違いない。藩主の男色相手だった小姓は、当たり前のように殉死が期待された。殉死しなければ非難された。寛文三年(一六六五)三月に武家諸法度が公布されると同時に、殉死は公式に禁ぜられた。

     元和年中阿部備中守正次、岩槻の城主となりし時、菩提所とせり。故に其子対馬守に至り、供養料として綾瀬川の辺なる新田を寄附せしが、小笠原佐渡守城主となりし時、其事止しと云。(『新編武蔵風土記稿』)

     「阿部って、幕末の老中の阿部家ですか。」ロダンに言われなければ気づかなかった。「だって向こうは福山藩だろう。違うんじゃないの。」これだから私はいい加減なのである。きちんと説明を読まなければいけない。阿部氏は武蔵国鳩ヶ谷藩(一万石に)、上総国大多喜藩(三万石)、相模国小田原藩(五万石)、武蔵国岩槻藩(九万九千石)、丹後国宮津藩、下野国宇都宮藩(十万石)、備後国福山藩(十一万石)と移っていたのだ。
     「ここにあったよ。」石灯籠に阿部正弘の名が刻まれているのである。「福山城主従四位下行侍従兼伊勢守阿部朝臣正弘謹題」「岩槻之邑 昔公所食 中世移封 獨留塋域・・・・」正次の二百五十年忌に老中阿部正弘が寄進したものだった。
     石の門扉には「丸に違い鷹の羽」の紋が彫られている。「よく見る紋ですね。」有名なのは浅野家だろう。「実は我が家の紋もこれで。」「それは御見それしました。」日本で一番多いものではないだろうか。父の墓のある霊園でもいくつも見かける。
     ついでに岩槻藩主の変遷もたどってみる。天正十八年(一五九〇)家康の関東入部に伴って、譜代の高力清長が二万石で入封、立藩したのが初めである。高力氏が三代続き、青山忠俊(四万五千石)、阿部正次以下五代(五万石から九万九千石)、板倉重種(六万石)、老中戸田忠昌(五万千石)、藤井忠周(四万八千石)、老中小笠原長重二代(五万石から六万石)、永井直敬以下三代(三万三千石)、大岡忠光(二万石)以下八代で明治維新を迎える。

     人形の東久(さいたま市岩槻区加倉一丁目七番一)ではガラス引き戸越しに、白い顎鬚に帽子をかぶった職人が、板張りの床に胡坐をかいて錦凧の絵を描いているのが見える。和凧を錦凧と言うのか。赤青黄に黄緑と鮮やかな色彩だが、残念ながら何を描いているかさっぱり分からない。眺めていると、もう一人の男性が戸を開けて、「隣に入りますか」と声を掛けてくる。隣には「お人形歴史館」があるが、今日は入らない。
     クルリンは「線路を渡ったところが家だから」と左の小道に入って別れていった。いかにも街道に似合う歴史のありそうな木造二階家がいくつか建っている。「あそこに行ったろう。」郷土資料館の建物だ。
     青果土物商と駐車場の境には、高札場を模したものが建てられている。自動販売機二機の上に切妻屋根を置き、駐車場寄りの販売機の裏に現代表記の高札をぶらさげているのである。ここは市宿通りだから、人の集まる中心地だったのだろう。「ここにさ、常州無宿ロダンなんてさ、写真が貼りだされるんだ。」「写真はないよね。」「大体、この人は上野戦争を谷中の喫茶店で見ていた人だからね。」実際に掲げられているのは、高札の説明、生類憐みの令の解説などである。
     「あそこを見てください。」ヨッシーとロダンに教えられて田中屋本店の屋根を見ると、看板の下の軒丸瓦の上に鍾馗の像が立っていた。「あんなに小さいのか。」二十センチ程だろうか。「あっちは棟瓦の側に。」屋根に鍾馗を乗せるのは京都を中心に西日本に見られる習俗のようで、関東ではあまり見かけない。「以前、大宮でも見ましたね。」もう.随分昔のことになるが、私が初めて見たのがそれだった。
     本町二丁目の交差点で左に入り、太田道灌の墓のある芳林寺の前を過ぎる。かなり広い敷地が工事中になっている。「マンションに売ったんじゃないか。」「そうじゃなくて、なんとか会館を建てるとか。」事情は分からない。
     駅前通りに入る前に四時の時報が鳴った。「ちょっと遅かったですね。からくり時計が見られたかも知れないのに。」しかし四時に間に合ってもダメだったのである。土曜日には十時から十五時までの一時間おきと、十八時、二十時にしかカラクリは開かない。和服女性三人(腰元のようだ)が琴を弾き、その上に一人(姫か)が上がって舞を舞う。ネットで調べてみると、なかなかのものだ。

     駅に着いて姫が解散を宣言する。四回目にしてやっと将軍の一日目の宿泊地にたどり着いた訳だが、岩槻城はまだここから一・五キロほど東にある。「この調子じゃ、日光に着くのは何年後か分からないな。」悪態を吐く人の名前を書く必要はないだろう。
     「この辺には反省会をするような店はなさそうですね。」ダンディと周りを見回してみたが、それらしいものはない。駅前に飲み屋の影が見えないのも珍しいが、どうせ今日は大宮に出ることに決めている。
     「急いで、早く。」改札口に着くと、ちょうど大宮行が到着した所だ。「大丈夫ですか。」どうやら全員無事に乗り込むことができた。
     画伯はカラオケの会があるので反省会には参加できない。「ヤキモチだから」とロダンに言いながら残念そうに別れていった。ドクトルも静かに別れていく。このところ病院に通っていると言っていたが、体調が悪いのだろうか。「俺はもう帰って寝るよ。」スナフキンが珍しく帰って行った。
     結局、反省会参加者は七人になった。大宮のさくら水産は、今日は空いている。生ビール七つは言うまでもない。着替えると、脱いだ紺色のTシャツに白い塩の線が大きくついていた。こんなに汗をかいたのだ。
     ダンディは三万歩を超えた(十八キロ?)とびっくりしているが、朝、東川口から浦和美園まで歩いているのだから、これを採用する訳にはいかない。ヨッシーの万歩計では十五六キロにもなったようだ。「私は十二キロだよ。」ヨッシーとマリーとどちらの意見を採用しようか。ヨッシーは、さっきの一里塚探検でかなり遠くまで行っているから少し差し引かなければならない。昼飯を食った後で見つけた「浦和美園五キロ」の表示、一里塚で見た「岩槻一里」の表示などを総合的に判断して、本日の距離は十四キロと決定する。
     タッチパネル式の注文機械は難しい。前回は焼酎が八本にもなってしまったから、今日は慎重に押さなければいけない。「任せて下さい。」オサムなら大丈夫だろう。「まず焼酎を。」「芋でいいですね。」オサムが押すと、画面はグラスの数を訊いてくる。「七つにしましょうか。」プラスのマークを押し続けて七になった。これで良いか。手順は間違っていないから大丈夫だと思う。「念のために注文状況を確認しようよ。」ダメだった。やっぱり焼酎が七本になっている。これではシステムがおかしいとしか思えない。
     店員を呼んで訂正を頼むと、あっさり「キャンセルします」と言って去る。先月と全く同じで、こうしたことが頻繁に起こるのだろう。暫くしてもう一度注文状況を確認するとマイナス六本が計上されていた。「これでいいよ。」結局信頼できるのは人間でしかない。
     「今日もサンマがあるわよ。」二回続けて食ったからもうサンマは良いだろう。代わりにダンディが太刀魚の餡かけを注文した。太刀魚は小骨が多くて食べにくい。「私も今日は骨を残した」とダンディが笑う。
     いつの間にか焼酎は二本目になっている。オサムがいると、どうもペースが早くなってしまっていけない。

    蜻蛉