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    日光御成街道 其の五  岩槻から白岡まで
       平成二十五年十二月十四日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2013.12.21

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     旧暦十一月十二日。大雪、熊蟄穴。東北や北海道では今年も大雪が降っているようだ。天気予報は、関東でも今季一番の寒波が襲うので寒さ対策を万全にして出かけろと警告している。熊が穴籠りする季節である。かなり厚着をして家を出た。
     大宮に着き、停車中の東武野田線柏行きの中程までホームを歩いた辺りで、既に乗車していたロダンが私を見つけて出てきてくれた。「この辺で待っていれば誰かの姿が見えると思ってたんですよ。」乗客の少ない車両に座って辺りを見回してみたが、他のメンバーの姿は見当たらないようだ。もう少し早い電車で行ったのだろうか。岩槻には九時三十七分に到着した。
     岩槻駅は改修工事の最中だ。「橋上駅にするんじゃないかな。」今は東口にしか出られないが、西口にも出られるようにするのだろう。改札を出ると、右の方の陽だまりに仲間が集まっていた。まだ少し早いが大体揃っているだろうか。少し経ってイッチャンが現れた。これで全員になった。あんみつ姫、イッチャン、マリー、講釈師、ダンディ、ヨッシー、ドクトル、スナフキン、ロダン、蜻蛉、ちょうど十人になった。「数えやすくていいですね。」ロダンも私も、時々数が数えられなくなるからね。
     「今日も帽子のことを書いてくれる人がいない」とダンディが愚痴をこぼす。宗匠ならば自慢の帽子のことをホームページに書いてくれるのだが、このところ勉強が続いているせいで暫く姿を見せない。仕方がない、私が書いておこう。今日のハットは時々見るものだが、材質は何だったか。「何の帽子ですか。」「ヤクの革ですよ。」チベットで買ったものだったかな。
     私にはそんな珍しいものはない。昨日床屋で一ミリのバリカンを当てたばかりで頭が寒いので、今日は毛糸の帽子にした。ヨッシー、スナフキンは洒落たハンティングである。ロダンは最近キャップをやめて暖かそうなハットにしている。講釈師はいつものキャップ、ドクトルは毛糸の帽子だ。
     十時になって駅前の時計台から音楽が鳴り響いた。「あれだよ、あれ。」最上段に人形が出現したので、全員が時計台を注目する。しかしこの人形が一向に動こうとしない。本来、この男の子の下に時計を挟んで、一人で舞う女性、最下段に琴を弾く三人の女性が現れる筈なのに、これも登場しない。なんだか変だな。「カラクリなんだから動かなくちゃいけないよな。」壊れているのだろうか。「公園のところの奴は動くよ。」講釈師はそう言うが、それも私は見たことがない。
     五分ほど眺めていても変化はないのでリーダーが出発を宣言する。「今日のコースにはトイレが少ないんです。最初に区役所で済ませましょう。」ロータリーの正面にワッツ東館という複合施設があり、区役所はその三四階にあるらしい。更に上階はマンションになっている。勿論区役所自体に用があるわけではないので、トイレに行かない人間は待っている間、一階でウロウロすることになる。
     「奥様にクリスマスのプレゼントを買ったらいかがですか。宝石もありますよ。」姫は盛んに挑発する。自分がご亭主にプレゼントして貰いたいに違いない。ロダンは姫の言葉に動揺するが、辛うじて我慢した。しかし私は妻に小遣いを貰っている身分で、その妻にプレゼントするなんて思いもよらない。自慢じゃないが結婚以来、一度もそんなことはしたことがない。
     国道一二二号に出ると、歴史のありそうな建物の前で足が止まる。「この屋根が素晴らしいじゃないか。」住所表示は本町だから、岩槻宿の中心になるのだろう。信号を渡ったところに旧町名「久保宿町」の標柱が立っていた。かつては「窪宿町」と書かれていたらしいので、低湿地だったろうか。「ほら、この六斎市が有名なんだ。」説明を読んでいた講釈師が声を出す。「六日毎に開かれるんですか。」そうではなく、月に六回開かれる市を言う。
     そもそも六斎日とは仏教の戒律を守る日である。八日、十四日、十五日、二十三日、二十九日、三十日を六斎日と決め、普段は破戒無慙な所業であっても、せめて月の六日だけでも八戒を守り身を慎むようにと教えた。隋の時代に既に六斎の定めがあって、その日は殺生を禁じたと言い、律令にも同じ規定があるらしい。少し時代が下って空也の踊り念仏はこの日に行われたことから、六斎念仏とも言われたと言うのは初めて知ることだ。やがて室町時代頃から、これに準じて月に六回開かれる市を六斎市と呼ぶようになった。
     東側のカラフルな歩道を歩いていると、所々に岩槻を読み込んだカルタが嵌め込んである。「道灌の歴史を残す城下町」「手を合わす慈恩寺観音初もうで」は良いとして、「釣り人ににぎわう堰わく日曜日」とは何だろう。「なんだか情緒がないな。」「どういう順番なんだ。」イロハ順ではなさそうだ。「さっきがタ、こんどがソだよ。五十音順みたいだな。」それを逆に辿っているようだ。
     「宇宙への夢を育てるプラネタリウム」「岩槻の畑にならぶねぎぼうず」「綾瀬川思いでかたるしじみ取り」これが先頭だった。それにしても、これが「郷土かるた」とはがっかりしてしまう。プラネタリウムが岩槻の誇るものか。「ランランラン体が燃える体育祭」とは何事だろうか。小中学生の作品とは言え、郷土カルタにこんなものを採用する岩槻区の見識を疑ってしまう。子供に媚びているのではないか。プラネタリウムにも体育祭にも、岩槻特有のものは一切ない。
     右に入る低い天井の入口には岩槻名店街とあるが、両側のシャッターは全て下ろされ、照明もなく薄暗い通りに「名店街」の面影はない。僅か四五十メートル程の長さだろうが、なんだか郷愁を誘う。昔は秋田にもこんな通りがあった。ここもいずれは再開発の対象になるのだろう。この建物自体が老朽化して危ないらしい。この先を通り抜けると岩槻藩の藩校「遷喬館」に出る筈だと思うが、以前立ち寄っていることだし、街道から逸れるので今日は寄らない。
     「ここが一里塚です。」市役所の旧庁舎の前に榎を植え、その傍らに「日光御成道一里塚跡」の標柱を立てている。岩槻区本町六丁目一番一号。「一里塚ってどこを起点にしてるんだい。」御成街道なら本郷追分が起点になるか。「そうか、あそこか。」その本郷追分から、西ヶ原・稲付・元郷・鳩ヶ谷・戸塚・玄蕃新田・膝子と来て、この岩槻城下久保宿一里塚で八里目になる。 言うまでもないが、日本橋から数えれば九里になる。
     建物は平成二十二年一月に駅前のワッツに移転するまで、区役所(旧市役所)として使われていた庁舎だ。今は全く使用されていない。今年になって、旧岩槻区役所敷地利用計画検討委員会が設置され、四回の会議がもたれているが、解体することだけは決定しても、跡地をどう利用するのかまだ結論はでていないようだ。委員会の議事録を読んでみても、堂々巡りをしていて、なかなか難しそうだ。
     「そこに道灌様も立っています。」庁舎の東側の隅に、狩衣に綾藺笠を被り左手で弓を立て右手に扇を持った道灌像が立っている。「これがさ、あの七重八重の格好なんだ。」講釈師がヨッシーに講釈する。「この道灌はスマートだな。」「そうですね。」スナフキンとロダンはおかしなことに感心している。高い台座の下にはヤマブキが植えられていた。勿論花が咲く季節ではないから私に分かるように標識を立ててくれている。少し離れた敷地の境界寄りに柿の木が立ち、その傍らにはいくつかの石碑がまとめられている。よく観察しなかったが、岩槻町になったとき、岩槻市になったときの、周辺町村との合併を記念するものだったらしい。
     敷地を出てすぐに、歩道際に夫婦雛のオブジェが立っているのに気付いた。男雛は両手を広げて舞うような恰好をしている。これは「久保宿通り街路整備事業記念碑」である。「お雛様の並び方はこうなっているのかい。」ドクトルが質問してくるのは、男女の左右である。これは難しい質問だ。この人形は男雛が右、女雛が左に立っているので、歴史的には正しくないとも言える。「天子は南面するんです。そのとき左は太陽の上る方向、右は太陽の沈む方向だから、左の方がエライ。左大臣と右大臣もそうでしょう。」しかし明治になって西欧式の礼法が輸入され、天皇皇后もかつてとは逆にならぶことになった。それに合わせて関東ではここに立っているように西洋式にしているのが多い。関西では歴史的な並び方が残っているらしい。
     渋江の交差点を左に曲がると埼玉県道六五線で、これが御成街道になる。「逆に行けば時の鐘だよ。」ここから百メートル程のところにあって、記憶では川越のものとは違って鐘楼の袴腰が低く、ずんぐりした格好の時の鐘だった。

     米穀商の店先に日光御成道の看板が立っている。曲がり角から二百メートルも歩かないうち、浄安寺の入り口に着いた。白壁の塀の前に渋江町の標柱もある。「なんだかお寺に不似合いな山号だな。」ダンディが見ているのは「快楽山 浄安寺」と彫られた新しくきれいな石柱である。ケラクサンと読むだろう。
     密教には立川流のように男女交合を即身成仏の境地とするものもある。そこでなら快楽こそが教義の中心になってもおかしくない。日本では異端とされているが、案外これが密教本来のものに近いかも知れない。密教は仏教の究極の形だと密教側では主張する。しかし釈迦の唱えた仏教が、ヒンドゥー土着の欲望肯定に決定的に敗北した結果が密教ではないかという疑いを、私は拭い切れていない。
     それとは違って日本の仏教では快楽(ケラク)と読む。これはいわゆる快楽(カイラク)とは別のことである。辞書によれば、煩悩から解放された安楽な状態、あるいは浄土の境地を言う。この寺は浄土宗である。正式には快楽山微妙院浄安寺。岩槻区本町五丁目十一番四十六。
     石畳の参道の向こうに古風な山門が立っている。「永代供養墓」現地案内の立て看板が邪魔だ。この門の形は何というのだろう。ロダンが頻りに感心しているので調べてみると、高麗門という形式のようだ。本柱の上に切妻屋根が載るのは普通だが、内側の左右の控柱にも切妻屋根が載っている。
     ウィキペディアによれば文禄・慶長の役(朝鮮半島では壬申倭乱・丁酉倭乱と言う)の頃(一五九二~一五九八)に造られ始めた形式だという。朝鮮侵略に合わせて高麗門と名付けたものか。朝鮮半島にこの形式の門があったということではなさそうだ。
     「それではお墓を探してください。下見では見つけていません。」姫は一人で墓地に入ることができない人である。岩槻藩初代藩主高力清長と児玉南柯の墓があるらしいのだが、案内板もなく目当ての墓を探すのは容易ではない。「この辺は新しそうだね。」「向こうが古そうですから行ってみましょうか。」姫の言葉に従って古そうな墓石が集まっているあたりに行けば、簡単に見つかった。高力清長、松平忠輝の長子・徳松とその母・竹の局の墓がひとまとめになっている。高力清長と徳松母子とは何の関係もなく、元々は別にあった筈だが墓地整理のために集められたのだろう。
     高力清長は熊谷直実の末裔(三河熊谷氏)を称している。家康に仕えて功績があり岩槻藩二万石を与えられた。家康の三河時代、三奉行として「仏高力、鬼作左(本多作左衛門重次)、どちへんなきは天野三郎兵衛(康景)」と呼ばれたと言う。「どちへんなき」は慎重という意味らしい。
     孫の忠房が島原の乱後の肥前島原四万石に移封されたので、岩槻との縁は二代で切れた。そして忠房の子の隆長が改易となって落ちぶれた。高力家はその弟の子孫が旗本として幕末まで続いていたらしいが、先祖の墓を守る意欲もなかったと思われる。
     三つ並ぶうち、慶長の年号が読み取れる右の板碑型の墓石が清長のものだろう。法名は快光院殿廓誉道鎮大居士。ただウィキペディアでは没年を慶長十三年(一六〇八)としているのに、墓石の文字が「慶長五子年(一六〇〇)十二月廿六日」となっているのが不思議だ。慶長五年は関ヶ原の戦いの年である。ウィキペディアでは、この年に隠居して嫡孫の忠房に家督を譲ったとある。それが本当なら、生前に建立したのだろうか。
     こういう風に並んでいる墓石のどれが誰なのか、きちんと示してくれると有難いのだが、寺のHPを見なければ分からない。
     その隣の五輪塔は、地輪に彫られた法名の朝生院だけが読めた。これが松平忠輝の長子である徳松の墓になる。法名は朝生院殿珠晴光空大禅定門だ。それならその右の宝篋印塔が竹のものに違いない。
     忠輝は家康の六男で越後高田七十五万石の藩主だったが、家康・秀忠の勘気を蒙って改易され、元和四年(一六一八)飛騨高山に、更に寛永三年(一六二六)には信州諏訪に配流された。大阪夏の陣への遅参、進軍中に追い越した秀忠の旗本を斬り捨てたこと(但しこれは当時の軍法に適ったもの)などが公式の理由とされている。徳松は忠輝配流の際に同行を許されず、母の竹とともに岩槻藩主阿部重次の預かりとなった。そして寛永九年(一六三三)十八歳の時、母の死の一か月後に家に火をつけて自殺した。
     私が知っているのは隆慶一郎の最後の長編『捨て童子松平忠輝』だから歴史的に正しいとは言えない。物語では、忠輝はラテン語も話せる時代を超えたインテリで、明朗闊達この上もない人物である。正室は伊達政宗の娘の五郎八(いろは)で、彼女はキリシタンだった。側室の竹は傀儡一族の出身である。
     家康は忠輝を愛したが、嫉妬と憎悪に燃える秀忠による暗殺を阻むため、敢えて改易、配流したというのである。またこれも隆によれば、家康の子には信康、秀康、忠輝などの英邁型と、秀忠のような凡庸型とがいて、英邁型の人物はすべて悲運に恵まれている。ただ忠輝は殺されもせず、九十歳を超えるまで生き延びた。
     「こちらに児玉さんがありました。」姫の声のする方に行けば、こちらはさっきとは違って立派な墓所である。「南柯児玉先生墓所」の石碑が立って、無量壽仏と彫られた墓石には花も供えられている。「岩槻に過ぎたるもの、児玉南柯と時の鐘」と言われたと言う。「光成にも過ぎたものがいましたよね。」ロダンも案外講談が好きだね、変なことを知っている。島左近のことだろう。「治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と言う。
     南柯は大岡家に仕えた儒者である。残念ながら私は南柯について何も知らない。

    十六歳の時二代の藩主忠喜の小姓となり江戸の大岡判定に勤務し、この間の勉学著しく二十五歳の時昌平坂(現東京大学)へ入学する。安永七年(一七七八)藩の領地房州朝夷郡奉行となり、清国の商船の漂流を助け「漂客記事」を書いた。五代藩主忠正の時、遷喬館を創建した。藩の子弟教育に努力し、その指導方針は民主教育の先駆者として単なる学者を養成するだけではなく、清純な人材を世に出すべく専念した。(岩槻市教育委員会の案内板より)

     昌平坂学問所に「現東京大学」と注記されると、間違いとまでは言わないがなんだか違和感がある。それに「民主教育の先駆者」は言い過ぎだろう。私塾「遷喬館」は後に藩校になる。遷喬館は、詩経の「出自幽谷、遷于喬木(幽谷より出でて、喬木に遷る)」から採られた。鶯が深山幽谷から飛び立ち高い樹上に上る、つまり学問によって立身出世することを意味する。浄安寺のホームページを見ると、もう少し別のことが分かった。

    明和四年(一七六七)明和の変により元岩槻藩士山県大弐が斬首されると、累が及ぶのを恐れた岩槻藩は、大弐との関係を絶つために大弐の教えた闇斎学派から、幕府儒官林家の朱子学に換え、学才を認められた南柯は藩主直々の口入で昌平黌に入学。安永四年(一七七五)若君の素読相手となり、その後藩主の要職を歴任した。(http://浄安寺.com/pg73.html)

     つまり児玉南柯の出世は、山県大弐事件のお蔭であったことになる。私は山県大弐と岩槻藩との関係なんて全く知らなかった。大弐は甲斐の人である。太宰春台の弟子・五味釜川に学んで山崎闇斎の流れを汲む。山崎闇斎は伊勢神道を朱子学の理論で再構成して、垂加神道を作り上げた人物で、その尊王思想が山県大弐に伝わった。
     甲斐国山梨郷小河原山王神社の神官を経て、宝暦六年頃(一七五六)に大岡忠光に仕えた。忠光死後は大岡家を辞して私塾「柳荘」を開いて儒学、兵学を講じた。
     忠光が没したのは宝暦十年(一七六〇)のことだから、大岡家に仕えた期間は四年程、明和事件が起こったのは大弐が大岡家を辞して六年後のことになる。累を恐れた岩槻藩もだらしがないと言えば言えるが、それだけ事件の衝撃が大きかったのだろう。上州小幡藩主織田家はこの事件をきっかけに出羽に移封され、信長の末裔として与えられていた国主格を剥奪されている。そして児玉南柯は為政者にとっては無害な人物だったとも想像できる。
     近世史をきちんと勉強していないから、こういう大事なことを見落としてしまう。私は尊攘思想の源流は後期水戸学にあるとばかり思っていた。闇斎学とその影響についてもきちんと押さえておかなければならない。一応、明和事件の概要も記しておこう。

     江戸中期に山県大弐、藤井右門らが処罰された事件。山県大弐は儒学、兵学の塾を江戸日本橋に開き、上野小幡藩の家老吉田玄蕃と親交があった。ところが玄蕃の失脚を図る者が、大弐や友人藤井右門が甲府や江戸攻略の話をすると聞いて、それを藩主の父に告げ、玄蕃は監禁された。そこで危険が身に及ぶことを案じた大弐の門人らは、大弐が謀反を企てていると幕府に密告し、幕府が大弐らと竹内式部を捕らえて糾問した。その結果、謀反の事実はないとわかったが、一七六七年(明和四)に、大弐は兵学の講義で甲府その他要害の地をたとえに用いたり、天皇は行幸もできず囚人同然であるなどと語ったことが、不敬、不届きであるとして死罪、右門も獄門となった。(『世界大百科事典』より)

     さっきの山門をもう一度眺めながら寺を出る。街道脇に久伊豆神社の石柱が立っているのは、ここから右に行く道が参道になっていたということだろう。「片道二十分はかかるんですもの。だから今日はカットします。」以前に行っているからね。「有名なのか。」埼玉県の住人以外には余り知られていないだろう。久伊豆神社は元荒川流域の、武蔵七党の野与党や私市党の勢力範囲に点在している。
     野与党は桓武平氏を称しているが、武蔵武芝(武蔵国造の裔とされる)の後裔という説もある。それが正しいなら遠く辿れば出雲族出身となる。祭神オオナムチ(大国主)は、欽明朝の頃に出雲族の土師氏が齎したと伝えられているから、縁が深いのである。
     中でも岩槻と越谷の二つが大きい。岩槻が久伊豆の総本社だと思っている人が多いが、加須にある玉敷神社(江戸時代は久伊豆明神)が総本社とされる。
     旧町名出口町の石標が立っていた。「さっき出口のバス停があった。何だと思ったよ」とスナフキンが笑う。私は気付かなかったが、バスに乗っていて「出口」と言われれば、やはりおかしな感じだろうね。説明によれば、岩槻城の大構の外にあることから名づけられた町名のようだ。城下、あるいは宿場の出口と思えばよいだろう。民家の庭には黄色い蜜柑が生っている。
     「そこの細い道を左に入ります。」龍門寺の参道の左側には民家が立ち、寺の境内は右側の土塀の側だけになっている。しかし到着した山門は閉ざされていた。岩槻区日出町九番六十七。曹洞宗。不許葷酒入山門の結界石を見て、酒飲みは入っちゃいけないと、講釈師ばかりかダンディまで言う。「昨日飲んだ人もダメだって書いてある。」昨日飲んでもダメなら私やスナフキンは一生入れないだろう。
     「思い出したよ。トイレを借りたいって頼んだら、お布施をよこせって言われたんだ。覚えてるだろう。」講釈師が同意を求めてくるが、私にはそんな記憶はない。「ふるさと歩道の時だよ。」そもそも私はふるさと歩道の会では岩槻に来た覚えがない。「そんなことないよ。岩槻城址公園でさ、赤い欄干の橋で会長が撮ってくれた写真があるじゃないか。それに蜻蛉も写ってるよ。」そう言われればそんな写真があったような気もする。「ダメだな。俺は参道を歩いていてすぐ思い出したよ。」
     あの頃、ふるさと歩道(ふるさとの道)には五十人や六十人が集まるのが普通だったから、騒がしくしたのではないか。「どこから来たかって訊かれてさ、あちこちからって言ったら、それじゃ、ふるさとでもなんでもない、名前が悪いって言われたんだ。」余程機嫌の悪い時に出くわしたのではあるまいか。
     そんな気難しい住職のいる寺だから山門を閉じているのだろうか。門の前でどうしようかと悩んでいると、ちょうど通りかかったオジサンが、「大丈夫だよ、その脇から入ればいい」と教えてくれた。「庫裏は遠いから、声をかけても聞こえないんだ。帰るとき、ちゃんと閉めてくればいいよ。」親切な人である。「それでは静かに入りましょう。」
     中に入るとかなり広い境内で、一面箒の跡がつく手入れの良い寺だ。土壁際に青面金剛が立っている。「この後ろの上の手がショケラを持ってるみたいだろう。」「そう言われればそうだね。」中央の手は合掌しているので、岩槻型になるようだ。
     ここで見なければいけないのは大岡忠光の墓である。案内に沿って行くと、墓地の一番奥で、玉垣に囲まれた広い墓所の中に巨大な五輪塔が立っていた。岩槻市教育委員会が建てた案内板は、すっかり錆びて汚れ、文字も薄れかかっている。境内は綺麗に清掃しても、これを綺麗にしようとは思わないらしい。「拓本禁止」と「立入り禁止」の札が、その案内板の隅に貼ってある。玉垣の扉に彫られた、ヒマワリのような家紋は「大岡七宝」というもので、大岡越前守忠相と同じだ。
     大岡忠光は三百石の旗本の家に生まれたが、将軍世子(九代将軍家重)の小姓に取り立てられ、家重が将軍になると出世した。言語障害の家重の言葉が理解できるのは忠光だけだったと言われているが、果たしてホントかね。吉宗時代には廃止されていた側用人に登用され、岩槻藩二万石の藩主に上り詰めるのである。
     側用人と言えば、権力を笠に着て我が物顔に振る舞う人物を想像するのはステレオタイプの発想で、ウィキペディアをはじめネットで見られる記事には、忠光の人柄に対して好意的なものが多い。大岡忠相とも親戚になるが、どの程度交流していたかは分からない。岩槻藩はこれまで頻繁に藩主を変えてきたが、忠光以降は明治維新まで大岡家が続くことになった。山県大弐が書いた『大岡忠光公行状記』があるらしい。
     墓地を出て案内板を見ると、自由民権運動家の後藤富哉(とみちか)の墓もあるという。「知ってますか。」知りません。「見たいですか。」特に見なくてもよいだろう。
     境内に戻ると比較的新しい七福神の像が並んでいる。これは明らかに観光用、人寄せのためのものであり、気難しい住職の寺には似合わないのではないか。私はどうもこの手のものが好きになれないが、みんなは喜んで盛り上がっている。「ただ一人実在の人物が布袋だよ」と講釈師がイッチャンに知識を披露しているので、「契此(カイシ)って言う」と補足する。イッチャンは素直に驚く。唐末の時代の禅僧とされている。
     更に講釈師は「日本人はこれだけ」と恵比寿を指さす。神を人と言って好いかどうか分からないが、イザナギ、イザナミによって生み出された蛭子であり、西宮に漂着したとされるのが西宮神社の縁起である。渡来神は海の彼方から福をもたらすと信じられた。
     一方、エビスは大国主の息子の事代主だという説がある。建御雷神が大国主に国譲りを強要したとき、大国主は息子二人の意見を訊いてくれと答えた。事代主はちょうど釣りをしていたが、侵略軍の力を恐れてすぐに降伏した。恵比寿が鯛を小脇に抱えているのは、釣りをしていた事代主に因むのである。もう一人の建御名方は反抗したが力及ばず、信州諏訪湖まで逃げたものの遂に降伏する。

     一般の墓地を通って外に出る。やや右斜めにカーブするように進むと、右手に見えてきたのが人間総合科学大学である。本部(人間科学部)は岩槻区馬込(蓮田キャンパス)にあって、ここ岩槻キャンパス(岩槻区太田字新正寺曲輪)には保健医療学部がある。「早稲田ですよ。」「前回は慶応の前を通りましたね。」浦和の慶応は元共立薬科で現在の慶応大学だから問題ないが、ここは早稲田と名がつくからと言って早稲田大学の親類と思ってはいけない。前身は早稲田医療学園の東京カイロプラティック学院(後、早稲田鍼灸専門学校、早稲田医療専門学校と改称)である。
     「通信制だろう。」やはりスナフキンは詳しい。現在でも人間科学部人間科学科は通信制のみである。しかし、保健医療なんかは実技が主体だから通信制では無理だろうね。
     ミッキーマウス模様の涎掛けをした「南辻の地蔵堂」を過ぎると、やたらに長い板塀に囲まれた豪邸があった。この辺の大地主であろう。その塀際に小さな「馬頭観音」が立ち、側面に上野村関根金次郎建之と彫ってある。この家が関根氏の邸宅であった。
     関根金次郎と言えば、坂田三吉が生涯かけて争った将棋の十三世名人を思い出すが、まさかその人物ではないだろう。将棋の関根金次郎は下総国葛飾郡東宝珠花村のひとである。この家は、見るからにこの辺の豪農だと思えるから違うね。『埼玉苗字辞典』にこう書いてある。

    当村(上野村)は延宝八年の家数三十五軒、文化文政頃の家数四十五軒の内、二十八軒以上が関根一族なり。(http://homepage1.nifty.com/joichi/3-2se.html)

     このほか慈恩寺村にも関根姓は多いから、戦国期にはこの辺りを領有していた地侍の一族だったのではいだろうか。「節目が浮いてるだろう、雨で地が削られるんだ。」板塀を指さしながら講釈師が講釈している。元は黒塀だったのだろうか。
     元荒川を渡る橋は慈恩寺橋だ。元荒川とはその通り、本来荒川の本流だった。伊奈忠次の利根川東遷に伴って、熊谷市久下で荒川が締め切られ、和田吉野川、市野川を経由し、入間川に付けかえられた為、本流からは切り離された。現在では、熊谷から南南東方向に流れ、行田市、鴻巣市、久喜市、桶川市、蓮田市、白岡市、さいたま市岩槻区を経由し、越谷市中島で中川に合流する。
     「カルがいるよ。」「カルガモですか。」珍しくもないだろうが、みんなは川を見下ろす。「カルなんて専門家ぶってイヤだね。カモはカモでいいじゃないですか。」ダンディにも苦手な分野がある。「以前、シラサギって言ったら、そういう鳥はいないって言われた。」「シラサギは、小首かしげて」と講釈師がまたおかしな節をつけて歌う。高田浩吉『白鷺三味線』だ。
     「川が凍るとさ、カモの脚も一緒に凍ってしまって動けなくなる。そこで氷の上で脚を斬って獲るんだよ。」「エーッ、そうなの。」素直なイッチャンを騙してはいけない。「オイオイ、信じちゃだめだよ。そんなこと。」珍しく講釈師が慌てて訂正する。「講釈師も反省することがあるんだな。」「だってホントに信じるなんて思わないじゃないか。」イッチャンは講釈師の名の由来を知らないようだ。
     橋を渡ったところに小さな祠があった。「猿田彦です。」中を見れば新しい石柱に猿田彦大神と彫られたものだ。祠の壁が邪魔になって写真は撮れないが、道標になっているようだ。南岩槻町ニ至ル約二千メートルなどと彫られている。どうせこういうものを造るなら、メートル表記は無で願いたいものだ。
     「どうして、こんなところに猿田彦がいるんですかね」とロダンが首を捻る。「ニニギが降臨したとき、ウズメが猿田彦と交渉したんだね。立ちはだかる猿田彦に対して、ウズメはおっぱいを露出したり、つまりストリップをして幻惑した。そのせいかどうかわからないが、道案内をしてくれたんだよ。」猿田彦は若い娘の裸に参ってしまったに違いない。こうして猿田彦は道案内の神になった。
     「ウズメと猿田彦が一緒になって、その子孫が猿女君と称した。これが芸能の起源。」「ウズメって天岩戸のアレですよね。そうか、それが芸能の始まりですか。」正確に言えば、芸能民がその祖を古代神話に求めてウズメに結び付けたのである。
     一方、山崎闇斎の垂加神道では、猿田彦を庚申の神とした。サルからの連想である。「巣鴨に庚申塚があるだろう。」「都電荒川線だよな。」「そう、あの庚申塚は猿田彦を祀ってある。」橋の傍に庚申塔や道祖神を建てるのは、ありふれた習俗だ。
     この道(県道六五線)は幹線道路になっているようで、車が途切れなく走っている。背中に日が当たり、ポカポカしてきた。「天気予報もあてにならないよな。」
     「あそこにあるんですよ。」姫が指差すが、道の反対側で渡るのは面倒だからやめた。工業団地入口交差点で、右側に建つのが石橋供養塔だったらしい。川から離れていておかしいと姫は不思議に思っていて、川の遷移かと疑っている。

     小春日や川を離れて橋供養   蜻蛉

     「もうちょっと行ったところでご飯を食べます。トンカツ屋さん、ラーメン屋さん、お蕎麦屋さんがありますからね。」最初に出あったのがトンカツ屋で、隣にラーメン屋、斜向かいに中華料理と蕎麦屋が並んでいる。「適当に分散して一時間後に会いましょう。」
     トンカツ屋の店先にはランチメニュー七百五十円の表示が出ている。店の名は「とん勇」。岩槻区上野二丁目二番六。私はこれで良い。スナフキン、ドクトル、私の三人がこの店を選んだ。ダンディ、ヨッシー、ロダンは中華料理屋、講釈師と女性陣は蕎麦屋に入った。
     奥の座敷に座り込んで、「アジフライにしようかな」「俺はメンチカツかな」なんて言ってはみたものの、「やっぱりトンカツ屋に来たんだからトンカツにしようぜ」とスナフキンが言い出した。ランチよりは百円高いがそうしようか。ドクトルも付き合って同じものにした。「トンカツ屋のランチメニューにトンカツがないのは不思議だな。」それでもアジフライやメンチカツより多少高くなるのは仕方がないか。
     暖房が利いていて暑い。セーターを脱ぎ、帽子と一緒にリュックにしまい込んだ。「だけど、この壁から隙間風が吹いてくるぜ。」スナフキンの陣取った位置が悪く、いったん脱いだジャンバーをまた着込んでいる。お茶は随分時間が立ってからやっと出てきた。客はそんなにいないのだが、老夫婦二人だけでやっていて段取りが悪そうだ。
     暫くしてやっとトンカツが出てきた。薄いトン汁に大根の細切りの漬物がついている。スナフキンがソースをかけようとすると、注ぎ口が詰まって出てこない。「すみません。この時期は乾燥しちゃって固まるんです。今日は忙しくてちゃんとする時間がなくて。ゴホッ、ゴホッ。」オバサン、大丈夫か。私はいつものように醤油を垂らす。「トンカツに醤油か。」スナフキンは知らなかったかしら。私はなんだって醤油だ。ソースは使わない。トンカツは昔ながらのものだ。「オーソドックスな味だな。」この値段なら不満はない。
     「何時だっけ。」「一時間って言ったよね。さっきが四十五分だから一時半に出ればいいんじゃないか。」ドクトルが食べ終われば丁度良い頃合いだ。それでは出ようか。「八百九十円です。」一瞬おかしな気がしたが、八百五十円は本体価表示であった。
     店を出ると、斜向かいの中華料理屋の前にダンディ、ヨッシー、ロダンが待ちくたびれたように立っている。建物は撤退したコンビニをそのまま利用したものだろう。「全然、誰も出てこないんだもの。随分待ちましたよ。」「だって姫が時間を言ってたでしょう。」「言ってたようだけど、誰も聞いてなかった。」
     「ロダンは、今回は大丈夫だったのかな。」「普通の定食にしましたからね。」「それって何のこと。」前回、ラーメンセットより単品の方が高かったので、ロダンが怒ったのは知っているでしょう。ロダンとヨッシーはチンジャオロース定食、ダンディは定食にラーメンを付けたセットを食べたと言う。ダンディは食べ過ぎである。「本物の中国料理ですよ。」
     「この字が読めたら賞金をあげますよ。」「なんですか。」読むだけなら、大抵の文字は読めるだろう。ダンディが言うのは店先ではためく赤い幟に白抜きされた文字であった。「戀」の上の部分と「心」との間に「長馬長」と横に並べる。左は「月」、右は「戈」に挟まれ、その全体を穴カンムリが覆う。更にシンニュウまで加えた、実に手の込んだ難しい文字である。これを二つ重ねて「麺」と続く。「これって何画あるんですか、もう。」ロダンでなくてもイヤになる。到底読めないが、嘘字臭いね。ウィキペディアから拾ってきた文字を掲げてみた。これでは「イトシ、イトシト言う」の部分が「糸」ではなく「幺」になっているが、幟の方は「糸」である。
     幟の前で長々と議論をしている私たちを、店のガラス越しに、若い女性が笑いながら眺めているのが見える。「訊いてこよう」とダンディが店に入って尋ねると、すぐに女性が笑顔のまま出てきた「ピャンピャンメンです。」片言の日本語と身振りによって判断すると、長く伸ばした幅広の麺らしい。「陝西省で良く食べます。」
     ウィキペディアによれば、P音(ピャンピャン)ではなくB音(ビャンビャン)麺であった。茹でる直前に生地を両手で伸ばし、二三センチ幅に平たく伸して成形する。長さは一メートルになるものがあるという。「そんな珍しいものがあるって知ってたら注文するんだったな。」「もう一杯食べてきたらどうですか。」「そんなに食べられない。」女性が笑っている。
     しかしこんな文字が本当にあるのだろうか。「あります。中国にこういう名前の店があります」と言っているようだ。ダンディが、自分も調べるから蜻蛉も調べろと言うので、諸橋轍次の『大漢和辞典』に当たってみた。その結果、この文字は載っていない。世界に誇る諸橋漢和になければ眉唾文字だと考えても良いのではないか。案の定ウィキペディアでは、この麺を売り出した店の創作ではないかとの説を紹介している。

    ・・・・清代の康熙字典に見当たらず、二〇世紀までに出版された陝西方言の研究書や漢字研究書にもみられないため、後に作成されたと考えられる。香港の民放・無綫電視 (TVB) で二〇〇七年に放映された番組『一網打盡』によると、番組のプロデューサーが大学教授に協力を仰いで漢字の起源を探ろうとしたが、李斯の説や字の起源について確たる証拠を掴むことができなかった。このため、ビャンビャン麺の店による創作ではないかと結論付けている。(ウィキペディア「ビャンビャン麺」より)

     やがて姫が宣言した時間通りに、蕎麦屋組も店から出てきた。「玩具が一杯あるんだよ、面白かった。」店主の趣味で集めた玩具で、店内が私設博物館のようになっていたらしい。そのせいで、いつもはすぐに店を出ようとする講釈師も時間ぎりぎりまで粘っていたようだ。「ダッコちゃんがあるのが良かったな。」講釈師がダッコちゃん好きとは知らなかった。手打ちそばうどんの「瀧川」と言う店である。ショーケースにも、フィギュアが何体も飾られている。「『なんでも鑑定団』のあの人が喜びそうだったわ。」

     それぞれに昼を楽しむ年の暮れ  蜻蛉

     全員が揃ったところで出発する。少し行けば右側に慈恩寺道標が立っている。地図を見るとここから右斜めに行けば近そうだが、姫は自信がないようだ。「大きな道を行きます。」このまま街道に沿って三角形の二辺を辿って行くらしい。ショートカットしては、街道を歩く趣旨にも反するからね。
     「地図を見たけどさ、慈恩寺のつく地名はいっぱいあるんだよ。でもお寺が見つけられなかった。」ドクトルは結構大きな地図を持っているのに、それにはないと言う。もう一度私の地図を見ると、なるほど、周辺には慈恩寺、表慈恩寺、裏慈恩寺などの地名が散らばっている。これがかつての慈恩寺領百石の範囲だから、相当大きな寺院だったのだろう。天和二年(一六八二)には塔頭も六十六を数えたという。しかし文化文政時代(一八〇四~一八九二)には大半が農地に転用され、九坊を残すのみと縮小した。「慈恩寺はここですよ」と私の地図をドクトルに示す。
     観音入口の角を右にV字のように曲がる。この「観音」は慈恩寺観音のことらしい。地図で測ればここから南東一キロ程の所にある。「コブシだよ」と講釈師が声を上げた。民家の庭の上の方に、まだ小さいが白銀色のコブシの蕾が光っている。「早いよね。」いくらなんでも早すぎるのではないか。
     右手に小さな祠があるのは天満宮だった。私の地図にも載っているが、地図に記載するほどのものではない。民家の植え込みの辺りに立つのは馬頭観音だろうか。腕は八本あって、顔面は崩れて判別できないが、額の上が大きく盛り上がっているから馬頭観音かと思うだけだ。道標になっているらしいが、石は風化して文字は全く読めない。「この辺に毘沙門天霊場がある筈なんです。」「なんですって。」「ビシャモン、テンレイジョウ。」区切りがおかしい。
     「あれじゃないか。」近づくと毘沙門天霊場の石碑があったから間違いない。しかし建物はプレハブ造りの小さな集会場のようなもので、これを「霊場」と呼ぶ勇気がエライ。元々は運慶作と伝えられる毘沙門天像を祀った堂があったらしいのだ。弘治二年(一五五六)には荒れ果てた堂宇を再建した記録がある。元禄や明治にも修復したものの本格的なことができなかったというのは、余り信仰されていなかったのではなかろうか。しかし碑文を読むとそうではない、単に資金が不足していたのであった。

     当代に至って堂宇再建の議が起こったが僅か十数戸の部落故、一朝一夕には叶わず、一同相謀って、部落への入金は全て積み立てをなすこととし、一方三年にわたって積立をなし、今回更に芳志を募って完成に至ったのである。
     これ部落一丸の篤信の賜物であり、永くその芳志を後世に伝え、毘沙門天の加護を願うものである。合掌  平成三年三月吉日 (「毘沙門天堂再建之碑」より)

     慈恩寺の縁起には、円仁が毘沙門天のお告げによって千手観音を彫り、それを本尊として開基したと伝えている。ここに毘沙門天を祀ったのはそれに関係していると思われる。それにしても、現代の文で「部落」と表記するのは、やはり東国だからだろう。集落を部落と言うのは普通のことだが、関西なら問題が起きるところではないか。
     「このお地蔵さんの顔がおかしいよ。」敷地の端に地蔵が立っているのだが、おそらく欠けた首を修復したのだ。「だけど大きさが。」推定できる原型の半分程度の大きさしかない。「スペインでキリストを勝手に修復したのがあったじゃない。あんな感じよね。」適当にその辺に転がっている石を拾ってくっつけたとしか思えない。折角修復するならもう少しきちんとしてほしいものだ。
     天保三年の銘のある石碑には、衣冠束帯姿の小さな座像が浮き彫りされていた。これは何か。「お内裏様かしらね。」まさか内裏雛をひとりだけ祀るということはないだろう。後で写真をよく見ると、上の方には梅の花が彫られているではないか。どうも私の観察力は貧弱で感度は鈍い。「東風吹かば匂い起こせよ梅の花」菅原道真に決まった。おそらくさっきの天満宮にあったものではなかろうか。その他に六十六部供養塔など、ここに立っているのは全て、近辺で見捨てられていたものを集めてきたのだろう。ついでに六十六部についても知っておこう。

     正しくは日本回国大乗妙典六十六部経聖(ひじり)といい、江戸時代にはおとしめられて六十六部または六部の略称でよばれた回国聖。今も各地にこの回国供養碑を見ることができる。江戸時代には単なる回国聖または遊行聖になってしまったが、中世には法華経六十六部を如法に写経し、これを日本全国の霊仏霊社に納経するために回国したのである。西国三十三所観音霊場の巡礼納経にならって、六十六部納経したとも考えられるが、日本全国六十六ヵ国をめぐることによって、より大きな功徳を積もうとしたものであろう。(『世界大百科事典』より)

     「アッ、ヤツデの花ですね。」荒れ果てた屋敷林の成れの果てのような場所に白い花が咲いていた。遠くから見れば綺麗だが、近づいてみると、なんだか球体に固まった微生物が触手を伸ばしたようにも見えて聊か不気味な形状だ。
     「おいおい、あれが診療所だよ。」白い板壁が、全く手入れしていないから風化に任せたままで、ペンキが剥げている。平屋の診療所だが、やっているのだろうか。「やってないんじゃないか。」流行っていないのだろう。
     街道の曲がり角から二十分程歩いて慈恩寺に着いた。古びた山門はあるが塀も樹木もなく、だだっ広くなっているので、なんとなく荒涼とした感じがする。おそらく広大すぎる境内が分割されて農地や雑木林、生活道路になってしまったのだろう。さっきの天満宮や毘沙門天霊場も、元はこの寺の境内の一部だったと思われる。
     山門を入って左手にある本堂は大きくて立派だ。華林山最上院慈恩寺、天台宗。岩槻区慈恩寺一三九番地。慈覚大師円仁の開基とされる古刹である。本堂(観音堂)は天保七年(一八三六)に焼失し、天保十四年(一八四三)に建立したもので、寄棟造り。昭和十二年(一九三七)に改修した。山門は数度の火災にも焼失を免れた本坊の門で、元禄四年(一六九一)建立と伝える。
     藤棚の藤の幹は黒く焦げた跡が痛々しい。「空襲があった場所でもないですよね。」仮に空襲があったにしても、七十年近くも前の焦げ跡が残るものだろうか。雷かも知れない。細長い莢状の豆も、この季節では真黒くなっている。「食えるのかな。」なんだか、みんなダンディのようになってきた。藤の実が食えるということは勉強済である。
     この寺には玄奘三蔵の遺骨がある。昭和十七年、日本軍が南京で発見したもので、当時の南京政府との交渉で、半分が日本にもたらされた。蕨宿を歩いた時に、三学院に立ち寄って知ったことだが、別の記事から引用しておこう。

     一九四二年、工場の裏山に参拝用の稲荷神社を建てるため、砲台を掘っている途中、奇妙な土層が発見されました。専門家が発掘作業を進めるとその下約三・五メートルの所に、一つの石が見つかりました。
     石榔の内側の大きさは五十九センチ×七十八センチで、深さは五十七センチ。石の中に石棺があり石棺の大きさは五十一センチ×五十一センチで、深さは三十センチ。
     石棺の蓋は煉瓦で作られ石棺の両側に文字が彫り付けられ、一つは北宋天聖五年の葬志で、一つは明の洪武十九年の葬志でした。
     専門家の鑑定により玄奨の頭蓋骨を納める石棺であることが確かめらました。石棺に格納されていたものは次の通りです。
     石棺を開くと玉、銅器、磁器、貨幣とともに十七個の頭蓋骨が見つかりました。
     http://www7a.biglobe.ne.jp/~ikka/ikotu.htm

     日本軍と汪兆銘(汪精衛)との間で、骨の一部を日本に持ち込むことが合意された。当時の南京政府では日本軍の要求を断固排除するなんてことはできない。最初は蕨の三学院に持ち込まれた。

     しかし、三学院も東京に近く、安全が計り難いということで再度、日本仏教連合会では疎開先を検討し、慈恩寺に仮奉安することになりました。当山の第五十世大島見道住職が、日本仏教会の事業部長であったこと、慈恩寺が平安時代に慈覚大師の開基であり、三蔵法師ゆかりの長安の大慈恩寺からその名をとって慈恩寺と名付られた由来もあり、歴史と格式のある寺院だったことが慈恩寺に奉安された理由と考えられます。(慈恩寺HP http://www.jionji.com/)

     そして、昭和三十年には台湾の玄奘寺、昭和五十六年には奈良の薬師寺へも分骨された。慈恩寺ではこのために玄奘塔を建てたのだが、この境内ではなくここから南南東に五百メートル程の場所にある。十三重石塔だそうだ。今では畑や道路に隔てられているが、かつては広大な境内が続いていたのである。
     本堂に向って右手のトイレに続く場所に、やや茶色に錆びた灯籠が建っている。天正十七年(一五八九)に岩槻城主太田氏房の家臣である伊達与兵衛房実によって寄進された南蛮鉄の灯籠だ。
     「神馬がいます。」本堂の左にある小さな堂から馬の顔が見えるのだ。寺院で「神馬」と言うものかどうか。この白馬堂は宝暦年間(一七五一~一七六三)に奉納されたものである。「馬はよく見ますよね、深川でも見た記憶があります」と姫が言う。そうだったかな。全く覚えていない。寺社に馬を奉納するのは古い習俗で、それを簡略化したのが絵馬である。
     ここでトイレを兼ねて少し休憩する。境内に隣接する民家の茅葺屋根が立派だ。「寺の建物じゃないのか。」しかしやはり敷地が違う。スナフキンが門の表札を見に行って、やはり普通の家だと確認した。

     「それじゃ行きましょうか。」もう一度同じ道を辿る。「帰りは早い筈ですよね。」さっきの診療所をつくづくと眺め、「いかにも診療所って感じですよね」と感心する人が多い。剥落するペンキを剥がして、ちゃんと塗り直せばそれなりに洒落た建物になるのだが。
     小さな祠の中を覗くと石仏が収まっている。「馬頭だよ」と講釈師は簡単に言い捨てて行ってしまう。しかしよく見なければいけない。壁には古ぼけて表面が分からなくなった絵馬が掛けられていて、中に納まる石碑の文字は「薬師」と読める。薬師如来ではないか。
     「お茶の花だ。」これは正しい。既に終わりかけた花、これから咲こうとする蕾。「ホトケノザだ。」もうホトケノザが咲いているのか。ホトケノザと言えば、ヒメオドリコソウなどと一緒に、普通は春を告げる花ではなかったか。季節感がおかしくなってくる。
     街道に戻って北に向かう。通りかかったオジサンが私たちの格好を見て、観光客だと思ったか、「ここは何もない、クズが住むばっかりだ」と笑っていく。
     「この辺に一里塚がある筈なんです。」民家の敷地にあるらしいと言うので、道の西側を垣根の中を覗きながら歩いていると、庚申塔があった。「まさか、これじゃないよな。」「あっちは屋敷林だろう。違うよな。」
     「アッ、あれじゃないですか。」向かい側のワコー産業の塀の一部がへこんでいて、そこに石垣と言う程でもないが、石をめぐらした小さな塚があった。岩槻区大字相野原二一一番地二。姫が調べてきた写真と見比べて、確かにこれだと確定した。
     これが相野原の一里塚で、岩槻城下久保宿町から一里に当たるのだが、一里塚跡であることを説明するものはなにもない。岩槻区は標識を立てても良いのではないか。小さく復元したもののようで、何だかわからないが細い木を二三本植えている。そして私たちが確認したのはこれだけだった、実は向かい側の木の生い茂る場所が西塚だったらしいのだ。こちらの方は道路拡幅のために半分削られ、屋敷林にしか見えなかったので全く観察しなかった。

     ダンディが古い日光街道の写真集を開いて、「この辺に杉並木があったんですよ」と教えてくれる。「買ったんですか。」「いや図書館で借りてきた。」やがて前方右手にその生き残りが見えてきた。「四本ですね。」街道の左はホームセンターになっていて、並木は全く残っていない。
     四本の杉の傍はパチンコ屋(エメラルドプレイランド)になっている。岩槻区相野原二三六番地一。「随分車が停まっているじゃないか。」駐車場が随分広い。駐車場のために並木は排除されてしまうのだ。「みんな車で来るんだな。」
     スナフキンは独身の頃、パチンコで随分稼いでいたらしいが、私は学生の頃からパチンコには関心がなかった。二三度やってはみたが面白くないのだ。それにあの頃の手動のパチンコはそれなりの技術が必要で、それを身に着けようと思う程の根気もなかった。「昔とは全然違っちゃったよ。」漏れ聞くところでは、そうらしい。
     パチンコ人口は急激に減っていると言われるが、昨年度の調査で千百万人というから、ほぼ日本人成人の一割がパチンコで遊び、業界総売上は十九兆円を超える。出版業界が二兆円を割ったのと比べると哀しくなってくる。
     「日光御成道みちすじ」という看板で現在地を確認すると、岩槻駅と白岡駅のほぼ中間地点に来ているようだ。小さな祠には、文字「青面金剛」の下に三猿を刻んだ石碑が収められている。「講釈師はいませんね。」
     次に現れたのは不動堂だ。こんなに小さな祠がたくさんある地域は珍しいのではあるまいか。「扉が閉じていてよく見えませんね。」姫が口にした途端、ダンディが扉を開けた。鍵がかかっているわけではなかった。片隅に小さな座像の不動明王が収められていた。と言うより、倉庫に無造作に置いてあると言った方が良い恰好だ。「下にもなにかありますね。」左手前には古ぼけた小さな机のようなものが置かれ、その下に小さな僧形の座像が二体見えた。

     セブンイレブンでトイレを借りて休憩する。ヨッシーからは小さなパッケージに小分けされた柿の種、ピーナツが配られ、ドクトルからはチョコレートや黒飴が提供される。いつも有難いことだ。更にコンビニから出てきた姫が歌舞伎揚げの袋を手にしている。「これ、美味しいんですよね」とロダンが喜ぶ。姫もこれが好きなようで、しょっちゅう持っている。女性陣は煎れたてのコーヒーを手にして出てきた。「缶コーヒーよりいいわよね。」「豆から作るからね。」
     「そこを左に入ります。」宝国寺、曹洞宗。岩槻区鹿室二八六番地一。幼稚園を併設している。文久年間(一八六一~六三)に火災に遭い、本堂、古記類がすべて焼失し、現本堂はその後に再建されたものである。裏の林がかつての将軍の休息所があった場所で、富士の眺望が見事だったという。
     山門も本堂もずいぶん古めかしい。本堂の前に鐘が吊るされているのは珍しい。「かるくしずかにゆっくり撞きましょう」とあるので、撞いても良いということだ。静かにネ。ゆっくり静かに綱を引いて戻すと鐘に届かない。力が足りなかったか。今度はもう少し強く引くと意外に大きな音が鳴る。「静かにって書いてあるじゃないか。」
     ドクトルが撞くと比較的静かな音になった。次いで姫も挑戦する。これは私と同じだった。一度目は鐘に届かず、二度目にやはり大きな音を出した。
     鹿室交差点を渡るとすぐに、また小さな祠があった。姫の案内には「猿田彦の祠(おたま様)」と記されている。像の傍に「猿田彦大神」と記した板が置かれている。顔は削られ、腹部の辺りから下も良く分からなくなっているが、像は明らかに青面金剛である。つまりもともと庚申塔なので、比較的新しい時代に猿田彦を結びつけたのだろう。猿田彦と庚申塔との関係は先に書いた通りだ。
     それよりも、ここでは玉杓子が問題になる。手前には木の杓子やアルミのお玉が、それぞれ十数本置かれ、その後ろには汚い袋の破れた穴から古い玉杓子が覗いている。「去年のものは袋に詰めるんだな。」去年どころか、もう随分古いものを詰めているのではなかろうか。
     奉納されたお玉を持ち帰り、みそ汁を掬って飲ませると子供の病気が治ると言う。「掬う」イコール「身を救う」である。しかしこれを論理的に考えると、持ち帰るためには、既にこの祠に杓子が奉納されていなければならない。それでは全く何もない所に、最初に杓子を奉納した人物は持ち帰るものがない。つまり、「身を救う」効果を得られない、あるいはそんなことは考えていなかった。
     杓子を奉納するのは良くあることで、本来はシャグジ、石神信仰であることは間違いないだろう。シャクジ様と祀っていたのが、時代を経て、杓子様に訛って考えられ、杓子を奉納する習俗が生まれるのだ。そしていったん習俗が生まれると、更に御利益になることを考える。
     「シャクシがそうなら、講釈師も石に関係するのかな。」「石の中で金剛に踏み潰されてるんだからさ、当然関係あるよ。」「座布団一枚。」光栄にもロダンにお褒めの言葉を戴いた。
     岩槻区と白岡町との境界を越えて白岡に入る。「ここが義理橋です。」跨線橋のような橋の袂に「水と緑のふれあいロード 下に降りる」の案内板が立っている。橋の下は随分低くなっているが、水は流れていないから暗渠になっているのだろう。「昔は川だったのかしらね」とイッチャンが考える。地図を確認すると少し西に黒沼用水があり、この近くて途切れているからこれではないか。調べてみると、やはり黒沼用水に沿う道が「水と緑のふれあいロード」であった。
     しかし残念ながら「義理橋」(往還橋)はここではなかった。姫の案内にも隼人堀川に架かるとちゃんと書いてあるじゃないか。それならもう少し北に行き、岡泉の交差点を過ぎて五十メートル程の場所である。

     本当なら東武伊勢崎線の和戸辺りまで行きたいところだが、私たちの脚力では到底到達できないとあんみつ姫は判断した。「和戸までだと二時間はかかります。白岡駅までなら一時間ほどですからね。頑張って歩きましょう。」御成街道からは少し西に外れるが、街道沿いに適当な駅が見当たらず、今日はJR白岡駅を解散地点にすることに決まった。
     岡泉の交差点を左に曲がる。地図を確認すると白岡駅までは四キロ程だ。北西に進む道は隼人堀川のやや南側に並行している。次回は同じ間位置を戻って街道を行くことになるだろうから、義理橋はその時にお目にかかるだろう。
     それにしても途中に見るべきものがなく、ただ歩くだけというのは結構疲れる。飽きてくるのだ。「だけど姫は一人で下見をしてるんですよね。」ロダンが冷静に言ってくれるので、私も飽きたなんて言ってはいけなかった。暫く歩いていると、「あのネットの所で休憩します」と姫が声をかけてきた。野球場かな。
     そこから十五分も歩いただろうか。漸く公園に着いた。総合運動公園である。ここで休憩だ。入口を入るとすぐにトイレがある。「ベンチはないのかな。」姫が探しに行き、すぐに戻ってきた。「向こうにありました。」ベンチが二台。ドクトルは席がないと考えたのか、立ったままだ。「こっちに座れますよ。」詰めあって、肩を寄せ合うように座ればなんとかなる。
     私はなんとなくぼーっとしてしまった。みんなも静かに座り込んでいる。少し気温が下がってきた。「フクラスズメみたい」と姫が笑う。「それじゃ行きましょう。」
     そしてJR白岡駅に着いた。ヨッシー、マリー、ダンディのそれぞれ違う万歩計の数値を総合的に判断して、本日の歩行は二万五千歩、十五キロ程度と決めた。駅前には姫が言うとおり何もない。近所にコンビニも見かけなかった。「この辺の人は買い物なんかどうするのかな。」余計なことだが心配になってしまう。しかし後で地図を確認すると、西口の方が昔からの町だったようだ。西口駅前には東武ストア、りそな銀行、白岡特産館なんかもある。「庄や」もあった。

     やはり反省会は大宮である。ここで講釈師は北に向かい、その他は南に行く。宇都宮線はすぐに来た。白岡から大宮までは十六分で着く。駅に降りればいつものさくら水産だ。五時少し前だが、既に混んでいる。大きな四角のカウンターテーブルの、壁際を中心にコノ字型に座った。「ここで絶対間違うんだよ。」「私がやります。」姫がパネルを操作すると、今日は何事もなく済んだ。「変だな。」「クレームが多いから、プログラムを修正したんじゃないか。」
     店員は若い中国人の娘ばかりで、どうも要領が得ない。注文は姫がしてくれるから良いのだが、あらゆるものが、一番端に座ったドクトルのもとにドンと置かれる。突出し、ビールのジョッキ、冷奴。そのたびにドクトルが立ちあがって、向かいの席まで運ぶのは気の毒だ。こういうことは若者がやらなければいけない。「私が代わりますよ。」ロダンと席を入れ替わった。中国人を雇うのは良い。言葉が片言でも良い。しかし基本的なサービスについてもう少し教育してもらいたい。
     今日はヨッシーの元気の源が分かった。スナフキンと同じく毎日、NHKのテレビ体操をやっているのである。「朝、六時二十五分。ちゃんとやるんだよ。」私はその時間にまだ起きていない。「そんな番組を見てたら、女房に何を言われるか。」ロダンはあらぬ想像をしてしまうものだから、余計な心配をしなければならない。
     「見るんじゃないよ、やるんだよ。」そう言っている癖に、出演する女性が結婚して戻ってきただの、名前がどうだのとスナフキンは随分詳しく見ている。「レオタードばかりじゃありませんよ、ショートパンツででてくることもあります。」ヨッシーの補足は、ロダンには却って罪作りになるかも知れない。
     途中で帰ると言っていたドクトルも最後まで付き合ってくれ、七時頃にお開きになった。二十八日の里山ワンダリングで会えるかどうか分からないので、「よいお年を」と挨拶しながら別れる。

    蜻蛉