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    番外 浦和~与野編
    平成二十六年八月九日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2014.08.17

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     あんみつ姫は「浦和倶楽部」として企画し、その四回目だと言う。調べてみると「里山日記」の中に平成十九年四月の第一回(この時はサクラソウを見た)、二十一年八月の第二回(見沼代用水西縁)の記録はあった。第三回の記録がないのは私が参加していないからだろう。
     今回は「里山日記」とすべきか、「江戸歩き」の番外編とするかちょっと迷ったが、第二土曜日だから「江戸歩き」の番外編とした。内容的にも浦和宿に関わって、「江戸時代」と考えれば問題ないだろう。通常なら偶数月は日光街道シリーズの番だが、猛暑の中を十キロ以上歩くのはきついので、八月はいったん休んで短いコースを歩くと決まっている。

     旧暦七月十四日。一昨日が立秋だったが猛暑は続いている。ほぼ二週間前に発生した台風十一号が九州四国近辺でぐずぐずと停滞し、高知や和歌山に歴史的な大雨を齎した。こんなに遠く離れている関東にも影響するのが不思議なことだが、今日は朝から曇り空で、午後あるいは夜に入って大雨になる恐れがある。そのためか、昨日までの脳髄が溶けてしまいそうな暑さは少し収まっているので、今日は帽子はいらないだろう。ただ、湿度は高く不快な日であることに変わりはない。
     「こんな日に五人も来て下さって有難うございます。」大雨の恐れもあるというのに、リーダーの姫のほか、ダンディ、講釈師、ドクトル、小町、蜻蛉の六人が集まった。「なんだ、ロダンは来ないのか。」浦和に住むロダンとハイジが参加しないのが淋しいが、それぞれ家庭の事情というものがある。特にロダンの夫婦愛の強さは他人の容喙を許さないから、込み入った事情があるに違いない。(これはウソです。仕事が入ったのである。)
     浦和倶楽部の始まりは浦和に縁があるものが集まろうという企画で、幼い頃浦和に住んでいた姫が発案した。それからすれば小町、講釈師、ドクトル、私は資格審査を通るかどうか怪しいが、浦和近辺の散策と考えればよい。名目は何であれ無駄に家でゴロゴロしているのは勿体ないし、お蔭で久し振りに本庄小町の元気な姿が見られたのも嬉しい。「ここは高崎線一本で来るからね。」中将はまた家で犬の世話をしていると言う。それではなかなか夫婦揃って出られない。
     実は私も浦和に全く縁がない訳でもない。平成二年の四月から半年ほど、当時中山道沿いにあった浦和営業所に通っていた。営業所の統廃合のために一時は日進に事務所を構えたが、平成六年か七年に北浦和に新しい事務所(さいたま営業所)を見つけて十年の三月まで勤務していたのである。
     「それじゃ、この辺は随分詳しいでしょう?」全く詳しくなく、無知であると言った方が正確だ。その当時は歩いてみようなんて了見は全くなかった。「ふるさと歩道自然散策会」に参加したのが平成九年頃だった筈で(当時はこんな作文を書いていないので記憶が曖昧だ)、歩くようになったのはそれ以来である。あの頃はみんなまだ若かった。
     それにしても浦和駅は随分変わった。「駅はずっと工事してましたからね。」昔は構内がもっと迷路のようになっていたような気がする。特に東口の変化が激しい。そもそも私はパルコ(平成十九年オープン)が出来た頃を知らないのだ。

     西口に出ると「浦和うなこちゃん」と名付けられたおかしな石像が立っている。「ウナギじゃないだろう?」三角おにぎりみたいな顔で手足も短いからドクトルは信用しないが、やはりウナギである。浦和のウナギのPRするため、平成二十年に作られたと言う。デザインは「アンパンマン」のやなせたかしだ。「浦和はウナギとかナマズとか有名なんだ。」「川魚ですね。」何しろ海のない県だから、その代り沼や川はたくさんある。

    浦和のうなぎは、江戸時代に中山道を通る旅人に提供したのが始まりです。
    浦和は、うなぎの蒲焼発祥の地と言われその伝統の味が受け継がれています。
    浦和うなこちゃんは、さいたま観光大使として活躍しています。

     「うなぎの蒲焼発祥の地」というのは疑問がある本当だろうか。ネット上であちこち探してみたが、これを裏付ける証拠は見つからなかった。浦和が飽くまで主張するなら典拠を示してもらいたい。

     古ハ鰻蒲焼ト云う名ノアルハ、鰻ヲ筒キリニシテ、串にサシ焼きシ也。形蒲穂ニ似タル故ノ名也。今世モ、三都トモ名ハ蒲焼トショウスレドモ、其製法異ニシテ名ニ合ズ。(『守貞謾稿』)

     蒲焼の名称が、ブツ切りにして串を刺した形が蒲の穂に似ているからとは、蒲鉾やきりたんぽ等と同じ由来だ。室町時代から江戸の初期には味噌や酢をつけて食ったという。これなら自然発生的にどこで生まれてもおかしくはない。串焼きで安価だから江戸時代には屋台で食わせた。下層労働者向けのものだ。古くは大伴家持に、「石麻呂に吾物申す夏痩せに良しと云ふものぞ鰻取りめせ」がある。その当時はどうやって食べたものか分からない。
     現代風の蒲焼が作られるためには、江戸初期までのたまり醤油ではなく濃口醤油が普及する必要がある。銚子で元和二年(一六一六)、野田で寛文元年(一六六一)に醤油生産が始まったことにより、寛永年間(一六二四~一六四五)から次第に濃口醤油が普及してきた。更に酒や味醂も関東自前で調達できなければならず、現在の蒲焼は享保の頃(一七一六~一七三五)以後に誕生したと考えられている。
     『守貞謾稿』が書かれた天保の頃には既に京阪と江戸とで裂き方も製法も異なっていた。喜多川守貞は、鰻の裂き方(背開きか腹開きか)を京阪と江戸とで逆に記しているが、単純な書き間違いだろう。江戸の鰻は一皿二百文。もっと手軽な鰻飯(丼)が百四十八文だったが、名のある店では鰻飯は売らなかった。要するに丼物は下賤な食い物であった。
     ともあれ、浦和が江戸時代からウナギで有名だったことは間違いなく、主に別所沼で獲れたウナギを街道を通る旅人に提供した。最初はやはりブツ切りの串焼きだったのではあるまいか。

     ショッピングセンターのコルソの中を通って、中山道に繋がる商店街に出る。なんとなくレトロな雰囲気を漂わせる道だ。「ここを通ったじゃないか。Sさんが浦和を企画したときだよ。」講釈師の記憶は驚く程で、言われてみるとそんなこともあったなと思い出した。「通りに店がいっぱい出てたろう。」里山ワンダリングの会が発足する前のことだから、相当昔の話だ。しかしそれだけでなく、その後も何度か通っている。
     中山道に入ればすぐに須原屋本店のビルが左手に建っている。「江戸の須原屋とは違います。」このことは第五十一回「日本橋界隈を巡る編」で蔦屋に言及した際についでに触れているのだが、みんな須原屋自体を良く知っていないようだ。明治九年(一八七六)にここで創業した、埼玉県で(というよりも全国的にも)古い老舗の本屋である。そのHPにもはっきり書いていないが、茂兵衛、市兵衛などで名高い江戸の須原屋の末裔(須原屋伊八)から商号を譲られたのだと思われる。
     仲町(ナカチョウ)交差点を過ぎてすぐの路地を曲がると、小さな公園がある。浦和区仲町二丁目六番。ここが浦和宿本陣跡だ。かつては敷地千二百坪に建坪二百二十二坪の屋敷を構えていたが、本陣の星野権兵衛家は明治になって没落して家屋敷を手放した。この公園はそのうちの僅かな部分でしかない。周囲は全てマンションや幼稚園になってしまっている。
     浦和宿は日本橋から六里六町(二十四・二キロ)、蕨宿からは一里十四町(五・五キロ)、大宮宿まで一里十町(五キロ)の距離である。上町(現在の常盤)、中町(現在の仲町)、下町(現在の高砂)で構成された。天保十四年の調べで、町並み十町四十二間(一・二キロ)、宿内人口千二百三十人。本陣一軒、脇本陣三軒、旅籠十五軒、商店二百余軒の規模である。板橋から本庄まで、武蔵国内にある中山道の十宿場(板橋・蕨・浦和・大宮・上尾・桶川・鴻巣・熊谷・深谷・本庄)のうち、人口は第八位と小さい。
     和宮が中山道を通って江戸に来た際は、桶川で宿泊して浦和宿本陣で昼食をとり、板橋宿で宿泊した。おそらくこれが一般的な行程で、浦和に宿泊する者はあまりいなかったのではないだろうか。
     「東海道より中山道を通る方が多かったんだよね。東海道は大井川の水止めにあったら莫大な金額が必要だったからさ。新選組だって、ここを通ったんだ。」講釈師は新撰組に関係することならば何でも知っている。しかしこれは勘違いのようだ。東海道は箱根越えを除いてほぼ平坦であるのに対して、中山道は山越えが多く、距離も長い。従ってやはり東海道を利用する者の方が多かった。ただ女性は大井川越えを嫌って、主にこちらの道を選んだと言われている。

     声高に中山道を語る秋  蜻蛉

     公園の中にある大きな碑は、明治天皇が大宮氷川神社を参拝したとき(明治元年と三年)に浦和本陣に宿泊した記念碑である。狭い公園の中を一組の親子が遊んでいるだけで、他には何もない。
     次は煉瓦造りの門のある常盤公園だ。かつての浦和地方裁判所の跡である。「家康が鷹狩をするときの御殿のあった場所です。」それも慶長十六年(一六一一)に廃され、以後幕府直轄の御林となった。明治二十六年に浦和地方裁判所が建設され、昭和四十八年に取り壊された。「県庁の方に移転したんです。」
     公園の中で不思議な動きをしている男性は一人で何をしているのだろう。私たちが近づくので動きをやめた。「太極拳じゃないか。」
     「童話碑」は長沼依山顕彰碑である。切り倒した大木に腰かけて本を読む男の子と寄り添う少女の像、それに長沼の顔のレリーフを埋め込んだ四角い石がおいてある。私は長沼依山なんて全く知らなかった。本名は新平、実はさっきの本陣跡の隣にあった浦和幼稚園の創立者である。「幼なき日 母のおとぎに魅いられて 童話の道に吾は老いゆく」とある。

     浦和幼稚園は、大正末期、幼児の集団生活とよいしつけの指しるべを目的で、故長沼依山前園長により、ここ浦和の旧本陣後に創立されました。以来九十年を経て、約五千名の卒園者を送り出しています。
     創立当時は、前園長が児童文芸家(童話作家)であったため、お話や童話によって、ことば教育や豊かな情操を養うことを指導の中心としていましたが、時代とともに、これに加えて教育要領の五領域(健康、人間関係、環境、言語、表現)を土台にして現状の「幼児の健康と豊かな情緒を養い、よい子を育てよう」ということを教育理念としてきました。
     特に本園は、それぞれの幼児の個性や発達段階をふまえ、無理なく自然に健全な心身の発達や基本的生活習慣、社会性などを育てることを重視して、一方、近代的な教育設備を完備し、国際性をも視野に入れた幼児本来の教育をめざしています。(学校法人浦和済美学園・浦和幼稚園http://www.urawayouchien.ed.jp/)

     著書を検索してみると、『ゆめのおさなご・子供民話集』、『花のおさなご・幼稚園保育園向童話集』、『アンデルセン童話集』、『塙保己一伝』、『二宮尊徳先生』、『愛のともがき』等がある。『塙保己一伝』があるのは本庄の出身だからだろうか。これを見る限りオリジナルと言える作品はなく、童話作家としてはおそらく一流ではない。得意とした「口演童話」は巌谷小波、久留島武彦などに師事した(あるいは影響を受けた)と思われる。むしろ幼児教育の先駆者と呼ぶべき人物であろう。
     口演童話は元々お伽噺の普及のために発想されたもので、小波や久留島が地方都市を行脚して、小学校の講堂などに聴衆を集めて語ったものである。娯楽の乏しい時代には一種の講談の代わりともなって大人にも聴かれたが、これがやがて教育現場に取り入れられる。現代に続く読み聞かせの源流とも考えられる。
     常盤公園を出て、慈恵稲荷には参道の脇から入る。浦和区常盤一丁目五番九。車が邪魔しているが二の鳥居脇の文字庚申塔の側面には「富士山・大山・引又道」とある。「これは何って読むのか分からないな。」引又(ヒキマタ)が読めないらしい。「志木ですよ。」先日の里山日記「和光市白子湧水地ほか」でもちょっと触れているのだが、引又宿と舘本村とが合併して志木宿となったのが、現在の志木市である。つまり浦和から志木を経由する府中通り大山道だ。現在では志木街道と呼ばれる道がそれに相当すると思われる。
     境内の二対の狐は金網で保護されている。「削ったりするやつがいるんだよね。」拝殿は小さいが彫刻がきれいに施されている。それにしても慈恵とは何だろう。下記を見ても命名の由来は謎である。

    慈恵の文字を冠するようになった時期は定かではないが、『明細帳』では「慈恵」の文字が後で加筆されていること、「慈恵稲荷社」の文字を刻んだ社号額や社号標が大正十四年に奉納されていることから考えると、同年の境内整備や翌年の本殿改築・拝殿新築といった事業を機に改称したものと思われる。・・・・(「埼玉の神社」より)
    (「猫のあしあと」http://www.tesshow.jp/saitama/saitama/shrine_urawa_jikei.html)

     参道を戻ると、鳥居のやや手前に石祠と石柱が鉄の柵で囲ってあった。石柱には「御免二七市場定杭」とある。毎月二と七のつく日に開かれた六斎市である。この稲荷を中心に南北二町の範囲に広がったと言われている。
     「少しづつずらしてるんだね。」近隣の宿場で日が重ならないように、桶川は五と十、与野は四と九、大宮は五と九、岩槻は一と六、原市(上尾)は三と八の日に市が立った。「この辺は農産物を出したんです。」。鎌倉時代から室町時代初期にかけて月に三回開かれた市が、戦国時代になって月に六日の市になった。
     講釈師はさっきから中山道浦和宿の資料を眺めて写真を確認している。「それ、私も持ってますよ。コースを考えるとき参考にしました。」「私も持っている。」「家に持ってたってダメだ。浦和宿を歩くのに資料も持ってこないのか。」私も買った筈だがすっかり忘れていた。
     「隣にお寺があったんだ。なくなっちゃったのかな。」朱色の褪せた古めかしい両部鳥居を潜り中山道に戻ると、隣にその成就院があった。浦和区常盤一丁目四番二十三。「ここにあったんだ。」「行きますか?」姫の計画には入っていなかったらしい。稲荷の別当寺である。「行こうよ。」真言宗豊山派。明治四年に廃寺になり、平成二年に復興した。
     狭い境内の小さな本堂の前に、対の石燈籠が建っている。火袋の位置に六面地蔵が浮き彫りにされているのが珍しい。火袋が塞がっているのだからこれは灯籠ではないが、何と呼ぶのか分からない。棹の部分に元禄九年と庚申供養の文字が彫られている。結局これは単に石幢六面六地蔵に笠が載せられたというもののようだ。
     「それは青面金剛ですか?」小さな駒形石に浮き彫りにされた立像には背後に炎のようなものが見える。「不動明王じゃないかな。」しかしこれは馬頭観音だったらしい。その隣には元禄九年の銘のある笠付の庚申供養塔が立つ。享保七年(一七二二)の二メートル程もある地蔵も立っていた。

     「近くだから石井桃子の実家を見ましょう。」姫の計画には入っていない。「道が良く分からないんですけど。」「リーダーの計画に従わなくちゃダメじゃないか。」「大丈夫、私が知ってるから。」ダンディはこれまでも時々、石井桃子の『幼ものがたり』の話をしていた。
     「これですよ、これ」とダンディはその本を小町に見せる。「図書館から借りたんだね。」図書館のラベルが貼ってある。私は読んでいないが、これは石井桃子の幼時の回想である。「面白そうだね、私も図書館で借りよう。たぶん閉架書庫から取り出させることになると思うよ。」このところ童話、児童文学に関係する話題が続く。
     暫く小路を歩いて、「あそこですよ」とダンディが右手を指差した。角から三十メートルほど離れた正面が駐車場で、「石井駐車場」の看板が立っている。「あれだけなんですよね。」「表側は中山道に面して金物屋だった。」生家は江戸から続く金物店だが、父親は教師を経て浦和商業銀行を興したらしい。
     私は『のんちゃん雲に乗る』しか読んだことがない。戦前は翻訳や編集を続けてきた桃子が、昭和十七年から書き始めて二十六年に初めて出版したオリジナル作品である。「鰐淵晴子がきれいでしたよね。」「本当に綺麗だった。」小町と姫は映画の話で盛り上がる。その映画は昭和三十年に公開されたもので、私は見ていない。姫だってリアルタイムでは見ていない筈だ。
     小町は「『くまのプーサン』は、犬養健の家にあったんだよ」と教養を披歴する。「犬養道子さんの本で読んだよ。」

    一九二四年四月、日本女子大学校(現日本女子大学)入学。在学中から、菊池寛のもとで外国の雑誌や原書を読んでまとめるアルバイトをする。一九二八年三月、同英文学科卒業。一九二九年十二月から一九三三年十二月まで文藝春秋社に勤め、永井龍男のもとで『婦人サロン』『モダン日本』などを編集。このころ、仕事で知り合った犬養健と親しくなり、信濃町の犬養家に出入りする。
    一九三三年、犬養家でクリスマスイブに『プー横丁にたった家』の原書 "The House at Pooh Corner"(西園寺公一から犬養道子や犬養康彦へのプレゼントだった)と出会い、感銘を受け、道子や康彦や病床の小里文子のためにプーを少しずつ訳し始める。(ウィキペディア「石井桃子」より)

     私は石井桃子について殆ど無知であった。今回調べてみると、明治四十年(一九〇七)に生まれ、県立女子師範付属小学校、浦和高女を経て日本女子大学に入学している。一時文藝春秋社に努めた後、新潮社で山本有三や吉野源三郎と共に『日本少国民文庫』の編集に携わっている。昭和十年(一九三五)から十二年にかけて刊行されたこのシリーズは、山本の『心に太陽を持て』や、吉野の『君たちはどう生きるか』などを収録して特筆されるべきものだ。昭和十年といえば、貴族院議院で菊池武夫が美濃部達吉の天皇機関説に攻撃を加えた年である。無茶苦茶な理屈が道理を抑圧する時代に入った頃で、その時代に出版されたシリーズとは思えない。
     『心に太陽を持て』は小学校時代、たぶん教科書で最初に知り、それからおそらく何かの子供向け文学全集に収録されていたものを読んだ。『君たちはどう生きるか』は中学一年の時、担任の教師が貸してくれたのを読んだのが最初だ。当時の私は優等生の部類だったから期待されていたのだろうが、残念ながら私はコペル君のようにはならなかった。それでも後に岩波文庫になったものを今でも持っているのだから、なにがしかの記憶は残っていた。
     桃子は昭和十五年には岩波書店から『熊のプーサン』の翻訳を出版した。自らは白林少年館出版部を興し、十五年にはケネス・グレアム作、中野好夫訳「楽しい川辺』、十六年にはヒュー・ロフティング作、井伏鱒二訳『ドリトル先生「アフリカ行き」』を出す。これも時代を考えれば驚くべきことだ。昭和十五年は敵性語追放のもとにカタカナ芸名が禁止され、近衛文麿が新体制運動推進を表明し大政翼賛会が発足した年である。案の定、白林少年館出版部はこの二冊を出版しただけで終わった。
     今、知的なものに対する侮蔑や反感が世界を覆いつつある。現代の反知性主義の行き着く先はどこであろうか。歴史を振り返れば桃子のやって来たことは偉大なことであった。

    岩波書店版では一九七八年以降、児童文学作家・石井桃子の手になるシリーズ全般の解説が掲載されており、その中で本作が日本に紹介された経緯についても詳述されている。石井が下訳を持参して近所に住んでいた井伏鱒二に本作の翻訳を依頼し、雑誌『文學界』一九四〇年十月号に「童話 ドリトル先生物語」として冒頭部分の抄訳が掲載されたのが、本作の日本における初めての紹介である。全編の訳は翌一九四一年に『ドリトル先生「アフリカ行き」』の表題で白林少年館より刊行されたが同社は短期間で倒産してしまう。(ウィキペディア「ドリトル先生アフリカゆき」より)

     昭和二十五年には岩波書店の嘱託となって「岩波少年文庫」の創刊に関わった。その関係もあって約二百冊の著訳書の半数を岩波書店から出している。昭和の児童文学の歩みをそのまま生きた人である。明治四十年(一九〇七)三月十日に生まれ、平成二十年(二〇〇八)四月二日に亡くなった。百一歳であった。

     新浦和橋の所から四六三号(越谷浦和バイパス)を西に行く。「越谷に繋がる道路ですね。」「これを真っ直ぐ東に行くと、日光御成道の浦和美園の辺りを通るよ。知ってるでしょう?」「車に乗らないから全く分かりません。」
     埼玉りそな銀行を見ながら国道十七号を渡る。市立常盤小学校の門は赤レンガの柱の立派なものだ。常盤地区は浦和の中では高級住宅街として名が通っているて、大きなん屋敷やマンションが目立つ。高台で地盤が穴呈していることも人気の理由だ。
     「不思議な庚申塔があるんですよ。」姫の言葉で立ち止れば、道の角のマンションの脇に道教風の石祠がある。赤土の祠の屋根は緑に苔むして、左脇にはこれも石で作った五重塔がたっている。これが庚申塔か。よく見ると、中に文字庚申塔が収められているのである。「講釈師はいるかな?」文字庚申に邪鬼はいない。庚申信仰が元々道教の三尸説によるとはいえ、こんな風にしているのは初めて見る。住所は浦和区大戸四丁目十四番辺りになる。
     「あれっ、フクロウですよ。」赤レンガの外壁の家にはフクロウの装飾がたくさん飾られている。白い女性の像はミネルヴァだろうか。「フクロウ博士 古川のぼる」「師立日本フクロウ博物館」の表札が掲げられていた。「師立」とは何だろう。「分かりました。家庭教師センターですね。」姫は良く知っている。日本家庭教師学院というものの創設者であるらしい。外壁には受験生応援歌「はばたけ禁多郎」なんて言う歌の歌詞も嵌め込まれている。
     次は二木屋だ。さいたま市中央区大戸四丁目十四番二。黒板塀に囲まれた料亭である。こんな家も私は知らなかったが、建物が国の有形登録文化財になっている。まず店のホームページから拾っておこう。

     平成十年十月二日、父の一周忌を済ませ、古い家をそのままに二木屋をはじめました。懐かしい味、本物の味、日本の代表食材・和牛、家に伝わる味・・・
     お茶時の料理である〝懐石〟はあえて名のらず、楽しく集まって食べる〝会席〟を選んで、伝えるべき日本の味を模索してまいりました。そして十年。この節目に私のするべき日本料理の仕事をまとめ直しました。
     〝過去という未来〟に向かって走っていく二木屋の〝温故知新〟です。
     この屋敷の主は、保守が大合同した自由民主党最初の内閣(一九五五年)の厚生大臣・小林英三。昭和十年建築の軍人の家を戦中に疎開用として買取り、増築を経て今の形となりました。
     ダイニングの部分は元の住居。宮殿と洋間が昭和二十二年頃の増築です。宮殿は四十帖の広さがあり、当時から専用の厨房も設えてありました。当時はホテルやホールなどの公共施設が少なく、政治家は、会合や催しを自分の家で開いたため大きな屋敷を必要としました。http://www.nikiya.co.jp/nikiya.html

     個人の家で「宮殿」とは恐れ入る。普通「宮殿」とは王侯貴族の館のことを言うのだと思っていたが、勘違いだろうか。門前にメニューが出ている。私がこの店に入るなんていうことは全くないから、ホームページを参照しながら内容を記録しておく。「お昼どき」と書かれたものがこれである。値段はいずれも税込で、これにサービス料が七パーセントかかる。

     傘福 四千九百円。約十種程のお料理(献立や品数は毎月変わります)籾殻竈焚きご飯・味噌汁・香の物・甘味等。※ステーキは付きません。
     毎来 六千三百円。約十種程のお料理(献立や品数は毎月変わります)鹿児島牛ステーキ六十グラム・籾殻竈焚きご飯・味噌汁・香の物・甘味等。
     明覚 八千四百円。約十一種程のお料理(献立や品数は毎月変わります)鹿児島牛ステーキ八十グラム・籾殻竈焚きご飯・味噌汁・香の物・甘味等
     妙玖 一万五百円。約十三種程のお料理(献立や品数は毎月変わります)鹿児島牛ステーキ八十グラム・籾殻竈焚きご飯・味噌汁・香の物・水菓子と甘味等
     のざき 一万三千六百五十円。十三種程のお料理(献立や品数は毎月変わります)のざき牛ステーキ八十グラム・籾殻竈焚きご飯・味噌汁・香の物・水菓子と甘味・珈琲又は抹茶等

     「ダンディの奢りでしょう。」「一度だけ、接待されたことがある。」さて、誰がこの店で昼食をとるのだろう。こうして十六年も営業し続けているのだから、それなりに客はいるのだろう。「雛祭りの時は、無料で入れるんだ。」

     北浦和公園に入った所で雨が落ちてきた。「少し早めですがお昼にしましょう。」姫が向かったのは県立近代美術館の中にあるレストラン「ペペロネ」だった。十一時二十分だ。「イタリアンなんですけど。」仕方がない。
     私は本日のパスタ(トマトとナスのスパゲティ)にした。千八十円である。講釈師と姫も同じものを選んだが、講釈師はなんだか居心地悪そうにしている。私と同じで、この手の店が苦手なのだ。ダンディ、小町、ドクトルは千三百円のランチである。
     最初にサラダが出てくる。野菜を細かく切ってドレッシングを少しかけただけのものだ。「葉っぱなんか食わないよ。」講釈師のサラダは、ダンディ、姫、私が分けた。その「葉っぱ」を食い終わった頃にパンが出た。玉ねぎパンというものらしい。「これを買いに来る人もいるんですよ。」なんだかやたらにフワフワしている。
     パンを食うのは何年振りだろうと考えると、去年の九月、桃太郎企画の「目黒川編」でイタリアン・レストランに入り、やはりスパゲティとパンを食っていた。それ以来だ。それにしてもスパゲティはいつ出てくるのだろう。こういう風に時間を置いて少しづつ出されてくると、全体像が把握できない。このパンは主食なのだろうか、おかずなのだろうか。暫くしてやっとスパゲティが出てきた。
     「アレッ、この曲はカントリーじゃないか。店に好きなやつがいるのかな。」講釈師が店員に質問すると「有線放送ですので、私どもは分かりません」と答えられた。イタリア料理とカントリー&ウェスタンというのも奇妙な取り合わせだ。これこそマカロニ・ウェスタンではあるまいか。
     さっきまで居心地が悪そうにしていた講釈師はよほどカントリーソングが好きなのだろう。鼻歌が出始め、姫と二人で盛り上がる。ロダンがいれば「バテレンの音楽だ」とすぐさま指摘するだろう。

     秋立つや耳傾けるカントリー  蜻蛉

     やがて話題はプレスリーに移ってくるが、私はプレスリーに全く影響を受けなかったから話についていけない。姫はプレスリーの熱狂的ファンであった。「バナナのサンドイッチとピーナツバターが大好物だったんだ。」そんなものばかり食うから太るのである。ガキだったんだな。「子どもの純粋さを持ち続けていたんです。」そういうものか。
     「ミシシッピーで生まれたんだ。」ミシシッピー川ならば私はマーク・トウェィンを思い出す。「そうですよね、マーク・トウェィンですね。」
     食事は終えたが、皆ケチだから常設展の二百円を惜しんで展示室には入ろうともしない。無料で見られるロビーや売店を少しうろつくだけだ。「こういう所に来ると買いたくなっちゃうよ。」小町は熱心に売店を物色する。
     ドクトルは『柳花叢書 山海評判記/オシラ神の話』(筑摩書房)を手に取って悩んでいる。「泉鏡花と柳田國男とどう関係があるんだい。」それならさっき、ロビーの隅に数十枚飾られている小村雪岱の絵を見たばかりだ。「鏡花・柳田・雪岱のコラボ」というタイトルで、鏡花の新聞連載一回ごとに雪岱の挿絵が描かれたものが展示されているのである。「こっちに来てよ。」
     泉鏡花の『山海評判記』は、柳田國男に訊いた「オシラ神の話」が背景になっているのだそうだ。(私は読んでいない。)この本は、鏡花の小説と柳田の論考を一冊にまとめたものだ。「誰が作ったんだい。」どうやらドクトルは、この一冊が一つの小説であって、その作者が誰かと訊いているのだ。「そうじゃなくて、二冊を一冊にまとめたんですよ。」柳花叢書は、ちくま文庫の中で、東雅夫が編集するアンソロジーである。

     そも、〈柳花叢書〉とは何か?
     二〇一三年は、柳田國男の没後五十周年と、泉鏡花生誕から百四十年目という二つの節目が交錯する、空前のメモリアル・イヤーです。
     日本民俗学の開祖と日本幻想文学の巨匠――ともに明治・大正・昭和の三代を生き抜き、近代日本の文化に多大な寄与をなした両巨人は、若き日から奇しき縁で結ばれ、鏡花云うところの「おばけずき」の盟友として、終生にわたり親交を深めた間柄でもありました。
     それゆえ両者の著作には、互いの文業に寄せる敬慕の念とともに、それぞれの姿が色濃く投影され見え隠れしていますが、「民俗学」と「文学」という学問領域の壁に隔てられ、これまでつぶさに照合考察される機会に恵まれぬまま推移してきた観が否めません。
     ちくま文庫版〈柳花叢書〉は、両者にとりわけ所縁深き作品群の自由な結合とコラボレーションによって、柳と花とが麗しく妖しく響き交わす軌跡を浮かび上がらせることを目的とするアンソロジー叢書なのです!(「東雅夫の幻妖ブックブログ」より)
    http://blog.livedoor.jp/genyoblog-higashi/archives/30467824.html

     私は『山海評判記』を読んでいない。そもそも怪異なものに余り触れたくないのは、根が臆病だからだろう。それに鏡花の小説は緻密な前半に比べて、後半はいつも尻すぼみで突然終わってしまう。私が感心したのは『歌行燈』だろうか。
     既に雨は止んでいるようだ。「それじゃ行きましょうか。」「あそこを見て行こう。」ダンディが向かったのはカプセルハウスというものだが、姫は「私は見たくありません」と撥ね付ける。小町と姫を残して男どもはそれを見に行くが、息が詰まりそうな、安いビジネスホテルの一室のようなものだ。大きな丸窓が一面あるだけだ。「実際にここで仕事をしたんですよ。」しかし折り畳み式になった机も狭い。これがマンションの一室を構成するユニットなのだ。ウィキペディアで調べてみると下記のようなものである。

     中銀カプセルタワービル(なかぎんカプセルタワービル)とは、黒川紀章が設計し、世界で初めて実用化されたカプセル型の集合住宅(マンション)である。
     黒川の初期の代表作であると共に、メタボリズムの代表的な作品である。
     それぞれの部屋の独立性が著しく高く、部屋(カプセル)ごとに交換することも、技術的には可能な設計になっているが、実際には、二〇一三年(平成二十五年)に至るまで一度も交換されたことはない。
     鳥の巣箱を積み重ねたような(日本国外からの見学者はドラム式の「洗濯機を積み重ねたような」と表現する)特異な外観は、ユニット製のマンションであることの機能をダイレクトに表現し、そのメタボリズムの設計思想を明確に表現したデザイン性は高く評価されている。
     またビジネスマンのセカンドハウス・オフィスとして想定されたその内装はベッド、エアコン、冷蔵庫、テレビ、収納などが作りつけで完備されており洗濯機などの日用品は排されている。
     二〇〇六年にはDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選ばれている。(ウィキペディア「中銀カプセルタワービル」より)

     この建造物は人間の生活感情を無視したものである。こういうものを造る建築家の神経が分からないし、これに賞を与える側の意識も分からない。メタボリズムという設計思想(運動)についても私は知らなかった。

     メタボリズムは一九五九年に黒川紀章や菊竹清訓ら日本の若手建築家・都市計画家グループが開始した建築運動。新陳代謝(メタボリズム)からグループの名をとり、社会の変化や人口の成長に合わせて有機的に成長する都市や建築を提案した。
     彼らは従来の固定した形態や機能を支える「機械の原理」はもはや有効的でないと考え、空間や機能が変化する「生命の原理」が将来の社会や文化を支えると信じた。黒川紀章や菊竹清訓らの都市・建築計画では、無数の生活用ユニットが高い塔や海上シリンダーなどの巨大構造物に差し込まれており、古い細胞が新しい細胞に入れ替わるように、古くなったり機能が合わなくなったりした部屋などのユニットをまるごと新しいユニットと取り替えることで、社会の成長や変化に対応しこれを促進することが構想された。(ウィキペディア「メタボリズム」より)

     モダニズムの生んだ鬼子であろう。一昔前のSF感覚ではないか。老朽化したユニットは交換されることが前提だったが、これまで交換されたことはないらしい。窓は開かないしエアコンがなければ夏は暮らせない。給湯設備もないからシャワーは水だけである。私には全く理解できないが、それでも、こんな部屋に住む人間が現在でもいるのである。
     園内のあちらこちらに置かれたオブジェも分からないものだらけだ。長虫がのたくっているようなのは、「果実の中の木もれ日」と名付けられ、クレーンのようなものは「子午線」と名付けられている。鉄板の切れ端で立体を作ったものは「ゆっくりと起き上がる精神の集積」だ。こいつらは何を考えているのだろうか。
     「これなら分かるわ。」相当太った裸の女性が横たわった像であるが安心できない。「これが生命の意思とか言っちゃって。」「どう見てもカウチポテトで太ってしまった女性ですね。」もしかしたらモデルは小錦ではあるまいか。タイトルは単純に「横たわる人物」というものだった。
     旧制浦和高校の正門を見て公園を出る。「旧制高校って五年制でしょ?」「違いますよ、三年。」「中学が五年。」「中学四年修了で高校受験資格がありました。」但し優秀であれば、という前提だ。
     旧制高校の卒業者数と大学の入学者数がほぼ同じだったから、専攻を選ばなければ、高校卒業生はどこかの大学に入れた。勿論東大法学部なんかは競争がある。だから、旧制高校に入学することはそれだけでエリートの証明だったのであり、試験も卒業も難しかった。岩波茂雄は一高を卒業できなかった。私の高校時代の担任は東京帝大の最後の卒業生だったが、そのことよりも旧制二高を出たことを頻りに自慢していた。
     東京帝大への入学者数は一高に次いで浦和高校が二位を占めていた。戦後の学制改革によって、昭和二十四年四月、浦和高校と埼玉師範、埼玉青年師範を合併して新制大学として埼玉大学が発足した。昭和四十四年に埼玉大学が移転して公園になったのである。
     門に掲げられた青銅の表札には「舊制浦和高等学校跡」と彫られている。「難しい字だね。」しかしこれはおかしい。旧制浦和高校が存在している間は「旧制」とは呼ばない。余りにも当たり前すぎることだが、新制大学が出来た後に、かつてあった高校を「旧制」と呼んだのである。そして当用漢字表が昭和二十一年十一月には公表されているから、少なくとも公的機関が作るなら「旧制」でなければならないだろう。
     だからと言って私が当用漢字表を容認しているわけではない。文字は制限すべきではないし、勝手に略すべきものでもない。残念ながら旧字体(本字)を書けなくなっているけれど。

     国道十七号に出ると、常盤九丁目の交差点の三角地に、一里塚のように仕立てた所が浦和宿石橋と供養仏がある。冒頭にも書いたように、かつて北浦和に通っていたのにこんなものがあるなんて、全く気付かなかった。私が通っていたのは、りそな銀行よりもう少し南の常盤七丁目だから、この辺りは毎日歩いていた筈なのだ。
     こんな駅前に川はなく、当然石橋もないが、かつて針ヶ谷方面から流れてきた排水路にかけられていた石橋だという。植え込みの草が茂って、正面の「奉造立石橋並道普請供養塔」とある筈の下の「供養塔」の部分が見えない。それに側面にあるという「是よ里与の川越道」も確認できない。宝暦十二年(一七六二)に建てられたものである。
     「ぎょうざの満州だね。」「私は知らないよ。」小町は知らないと言うが、坂戸に本拠を置く店(発祥は所沢)なので私は知っている。「帰国子女が始めた店なんだ。」講釈師はそういうがホントだろうか。会社のホームページを見ても、そんなことは書いていない。もしかしたら私の利き間違いで、単に「中国から帰国したひと」が餃子を広めたと言いたかったのかも知れない。
     すぐに北浦和駅前に出る。線路沿いに少し北に行き、京浜東北を越えて東側に出なければならない。「姫はどの辺に住んでたの?」「駅の向こう側です。」隧道には階段があるので姫と小町はエレベーターを利用する。
     旧中山道に入り、私立北浦和図書館前を過ぎると厚徳幼稚園がある。浦和区北浦和三丁目十六番二十一。「この幼稚園に通ってたんです。」昭和三十一年四月、仏教の根本理念の「明るく・正しく・仲よく」を保育目標として創られた。「昔はプールがあったんですよ。」
     その隣が廓信寺だ。浄土宗。浦和区北浦和三丁目十五番二十二。街道に面した門前に「サツマイモの女王・紅赤の発祥地」の案内板が立っている。川越サツマミモ商品振興会、川越いも友の会、浦和市教育委員会、廓信寺の連名によるものだ。

     江戸時代以来、関東でサツマイモといえば川越で、「アカヅル」、「アオ ヅル」といういい品種を持っていた。
     ところが明治三十一年(一八九八)秋、浦和市北浦和(当時の木崎村針ヶ谷)で、それ以上のいもが発見された。
     発見者はここの農家の主婦、山田いち(一八六三~一九三八)だった。いちは皮が薄紅色の「八つ房」を作っていた。それを掘っていると皮の紅 色がびっくりするほど濃く、 あざやかで美しいいもがでてきた。八つ房が 突然変異したもので、形も味もすばらしかったため大評判になった。
     いちの家の近くに、いちの甥で篤農家の吉岡三喜蔵(一八八五~一九三八)がいた。この新しいいもに惚れ込み、「紅赤」と命名、それを広めることを使命とし、懸命に働いた。
     そのため紅赤(俗称、金時)はたちまち関東一円に普及、「サツマイモ の女王」とうたわれるようになった。川越いももむろん紅赤になり、その名声はますます上った。

     「なかなか立派なオバアサンじゃないか。」山田いちの写真を見て講釈師が感心する。この寺は高力清長の菩提を弔うため、家臣の中村弥右衛門尉吉照が建立したものである。高力清長の墓は岩槻で見たことがある。
     境内に入ると、仁王門(三門)が立派だ。平成二十年に改修したと説明されていて、姫は向きが違っていたのではないかと首を捻る。ただ、街道と本堂の位置を見ればこれが正しいのではないか。
     境内に入れば右手には大きな白い聖観音、鐘楼がある、その脇に「廓信寺のカヤ一株」の説明がある。「どう見てもカヤじゃなさそうですね。」姫が言うなら信じないわけにはいかない。「切ってしまったんじゃないでしょうか。」しかし講釈師は絶対にカヤだと主張する。ドクトルの後について、その木の傍まで行ってみる。「どうだ、カヤじゃないか。」「そうですね、老眼鏡を出さなかったので良く見えなかったんです。」
     本堂の脇にある小さな堂には小泉蘭斎の墓石と阿弥陀一尊の板碑が収められている。「お墓をここに入れてるんですか?」こういうものは珍しい。そもそも小泉蘭斎とは、そんなに重要な人物なのだろうか。説明を読む限り、寺子屋教師から浦和郷学校の教師になった人物で、歴史的にそんなに重要だとは思えない。

     小泉蘭斎は、文化八年(一八一〇)三上藩(滋賀県)藩士の子として江戸に生まれ、三十八歳のとき藩を辞し、別所村(現浦和市)に移り、寺子屋を開いた。当時の浦和県が浦和宿本陣に郷学校を開くにあたり、石川直中校長のもとに蘭斎も招かれ、その教師となった。浦和郷学校は、明治四年二月、玉蔵院を校舎として正式に開校したが、蘭斎は、翌五年五月十三日、病没した。明治十年、教え子達が拠金してここ廓信寺に墓碑を建て、香華料を託した。
     この碑は、背面に蘭斎の事歴を刻んでおり、浦和の近代教育の歴史を知る資料として欠くことのできないものである。

     それよりも元享四年(一三二四)の板碑が、保存状態も良くてきれいだ。高さ一二六センチ、幅三十八センチ、厚さ四・五センチ。頭部が山形で二条の筋が入っている典型的な武蔵型板碑で、蓮台の上に大きなキリークを彫ってある。壁際にはその半分もない阿弥陀三尊の板碑もおかれている。
     他に一本杉の仇討で討たれた河西祐之助の墓もある筈だが、姫はそんなことは一切口にしない。
     寺を出ると少し雨が落ちてきた。「大丈夫かしら?」「傘させば大丈夫だよ。」それぞれ折り畳み傘を出す。「因縁のある傘だよ、女風呂で忘れたやつ。」講釈師はずいぶん物持ちが良い。小金井の江戸東京建物園の銭湯で置き忘れた傘のことだろう。あれは何年前のことだろう。「そんなでもないですよ。四五年かしら。」(平成二十一年十一月の第二十六回「玉川上水編」でのことだった)
     雨はすぐに止んだ。「却って蒸し暑くなっちゃった。」歩道橋を渡って右に曲がると北浦和小学校の門扉も立派だ。浦和の小学校は少なくとも門は立派なものにしている。「トケイソウだ。」咲き切ったものもまだ蕾のままのものもある。角を曲がって北浦和公民館でトイレ休憩を取る。
     次の角を曲がり、一丁ほど行った角で姫が立ち止る。ここは三郎山ハイツの敷地の角で、土盛りしたコンクリート壁に「三郎山の由来」を説明したプレートが埋め込まれてある。浦和区北浦和二丁目十九番十一。浦和一帯は幕領であり、この辺りに代官中村吉照(さっきの廓信寺の開基)の陣屋があり、針ヶ谷の陣屋跡と呼ばれる。また昔は稲荷山と言う丘があり、そこに三郎兵衛と言う武士が住んでいたので三郎山と呼んだと言うのが伝説だ。
     もう一度旧中山道に戻る。「庚申塔があるんですよ。」大原陸橋東の五差路になった三角地に、流造の屋根を持つ小さな祠があって、そこに青面金剛の庚申塔が収められている。正徳四年(一七一四)だからそんなに新しいものではないが、彫がくっきりときれいに保存されている。笠付塔婆で合掌型、下の手が弓矢、上の手が剣とチャクラを持っている。
     「ちゃんといるじゃないの。」邪鬼もちゃんといて、三猿も分かる。惜しいのは、弓の脇に「針」と悪戯で彫られていることだ。「かなり深く彫ってある。」「相当音が出たんじゃないの。」「車が通るから聞こえないよ。」
     更に行けば一本杉だ。勿論当時の杉が残っている訳ではなく若くひょろっとした気が一本植えられ、「一本杉の仇討跡」の立札があるだけだ。

    〜幕末の中山道に伝わる大事件〜
     この地は、中山道界隈で「一本杉の仇討ち」として語り継がれた事件のあった場所です。
     この事件は、万延元年(一八六〇年)常陸国鹿島津の宮沖の船中で、水戸藩藩士宮本佐一郎と讃岐丸亀藩の浪人である河西祐之助が口論のすえ斬り合いとなり、宮本佐一郎が命を落としたことに端を発します。
     河西は、この斬り合いで負傷しているところを、同じ年に起こった大老井伊直弼が桜田門外で襲撃された事件の逃亡者と疑われ、吟味を受けました。そのため、居所が宮本佐一郎の息子である宮本鹿太郎の知るところとなりました。
     鹿太郎は四年後の文久四年一月二十三日(一八六四年三月一日)に、西野里之進、西野孝太郎、武藤道之助の三人の後見人と共に、仏門に入ろうと不動岡総願時から江戸に向かう河西を、針ヶ谷村の一本杉で待ち伏せ、みごと父の仇を討ちました。
     その後、一行は針ヶ谷村名主の弥市方へ引き取られ、一月二十七日浦和宿にて幕府の取り調べが行われた後、小石川の水戸藩邸へ引き渡されました。事件は幕府最後の仇討ちとして、刷り物・はやり歌などで中山道界隈に広まり語り継がれていきました。
     かつて、一本杉は樹高約十八メートル、周囲約三メートルといわれ、松並木の中で一際ひいでた大樹でした。また河西祐之助は観音寺(廃寺)に葬られましたが、現在は北浦和にある廓信寺で供養されています。

     この事件が江戸時代最後の敵討ちとされている。この後、明治なってもうひとつの敵討ち(高野の仇討)が起きた。文久二年(一八六二)に、赤穂藩で森主税と村上真輔が尊王攘夷を叫ぶ一派によって殺害された。残された遺児四人が三人の助太刀を得て、高野町神谷で仇討を達成したのが明治四年(一八七一)二月のことである。
     直接的にはこれが引き金となって、明治六年、太政官布告「復讐ヲ厳禁ス」(敵討禁止令)が出された。幕末、政治信条に関わる暗殺事件は夥しく発生し、これに対して仇討を認めていては国家が成り立たないと、司法卿江藤新平が判断したとされている。

    人ヲ殺スハ、国家ノ大禁ニシテ、人ヲ殺ス者ヲ罰スルハ、政府ノ公権ニ候処、古来ヨリ父兄ノ為ニ、讐ヲ復スルヲ以テ、子弟ノ義務トナスノ古習アリ。右ハ至情不得止ニ出ルト雖モ、畢竟私憤ヲ以テ、大禁ヲ破リ、私儀ヲ以テ、公権ヲ犯ス者ニシテ、固擅殺ノ罪ヲ免レズ。加之、甚シキニ至リテハ、其事ノ故誤ヲ問ハズ、其ノ理ノ当否ヲ顧ミズ、復讐ノ名義ヲ挟ミ、濫リニ相殺害スルノ弊往往有之、甚ダ以テ相不済事ニ候。依之復讐厳禁仰出サレ侯。今後不幸至親ヲ害セラルル者有之ニ於テハ、事実ヲ詳ニシ、速ニ其筋へ訴へ出ヅ可ク侯。若シ其儀無ク、旧習ニ泥ミ擅殺スルニ於テハ相当ノ罪科ニ処ス可ク候条、心得違ヒ之レ無キ様致スベキ事。

     しかし、それにも関わらず明治十三年に臼井六郎が父母の敵である一ノ瀬直久を討ち取った。これもまた藩内の政治的対立による暗殺が元であり、本当の最後の敵討ちとなって、長谷川伸が『日本敵討ち異相』の第十三話で紹介し、吉村昭が『最後の敵討ち』を書いた。臼井六郎は死刑の所罪一等を減じられて終身刑とされたが、憲法発布の恩赦によって十年で出獄した。藤原竜也主演でドラマ化(『遺恨あり 明治十三年 最後の仇討』)されたから有名だろう。
     調べてみると、「日本最後の」敵討ちにはこのほかにも候補がある。明治四年(一八七一)四月十六日、肥後の玉名石貫で下田恒平が父の仇・入佐唯右衛門を討った。これは熊本藩の公式な許可によったもので、敵討ちの後、家名再興を許され金子を与えられた。つまり藩の公式の許可を得て実行された最後の敵討ちである。
     思いがけなく敵討ちについて考えさせられた。復讐の連鎖はあってはならないが、非道に死んだ者の恨みはどこかに残る。その恨みを晴らしたいと言う遺族の想いも必ずある。私刑は認められないが、その代わりに死刑があると言うのが近代刑法の建前であるが、その死刑さえ存続の可否に議論が絶えない。

     私に『日本捕虜志』という著があります。戦火がたびたび東京を襲ったころ、その草稿を、もう一つの草稿『日本の敵討ち』と共に、空襲のサイレンを聞くと土中に埋め、解除のサイレンを聞くと掘り起こしたものです。
     大型トランクを一杯にした草稿の中の〝敵討ち〟三百七十件ばかりの中から、異質なものばかり選んで書きました。異質なものと言ったのは、人間と人間とがやった事を指しています。それは現在の人間と人間とがやっている事と、共通していたり相似であったりだと言うことです。そうして又、現代人が失った清冽なものだってあります。(長谷川伸『日本敵討ち異相』著者のことば)

     わが長谷川伸は必ずしも敵討ちを否定してはいないのだ。どう考えたらよいのだろうか。これを綱淵謙錠の言葉で補足してみよう。

     つまり従来の〈敵討ち〉観には、討つ側が正義で討たれる側が不正義だ、という固定観念がある。その眼鏡をはずして、討つ方も討たれる方もともに必死に生きている人間なのだ、ということを主張したい、という意味である。そういう立場に立つと、あるのは昔も今も変らぬ、それぞれの人間の一生という問題であり、他人の容喙を許さぬ個々の人間の生き方が浮き彫りにされるはずだ、というのである。
     しかも長谷川伸は日本の〈敵討ち〉には制度としての一定の厳しいルールがあり、それを厳守しようとしたところに欧米の〈復讐〉とは本質的に異なる、いうならば文化的所産としての特殊性があることを主張している。(綱淵謙錠『日本敵討ち異相』解説)

     与野駅に着いたのはまだ二時だ。どうしようか。日高屋しかないが、それでは姫がダメだろう。「いいですよ、ビール一杯だけなら。」小町もビール一杯、一時間程度なら付き合うと言ってくれる。「宗匠が私と飲みたいって言うけど、なかなか機会がないんだよね。」小町はなかなか飲む人である。
     姫を除いて餃子を一皿づつ、姫は野菜炒め、それに枝豆を二皿頼んだ。野菜炒めは私にもお裾分けが来る。小町が餃子を一切れ姫に進呈する。姫はニンニクが苦手だ。そして同じくニンニクは余り得意でない私が餃子を食べるのが信じられないと言う。私の味覚の中で餃子だけは別物らしい。月に一度は日高屋か「ぎょうざの満州」で、野菜炒めライスに餃子をセットしたものを食う。それに餃子とビールの取り合わせには思い出がある。
     学生時代(大学三年生だったか)、昼に「餃子でビール飲もうぜ」と誘われた。バカなやつがいるのである。私は午後から試験があるのだが誘惑に負けた。相棒は学部も学年も違うから試験はない。「それじゃ東仙坊だな。」一階が小さな中華屋で二階が雀荘になっている店で、実はそれまで一階の店に入ったことがなかったが、徹夜麻雀をすると、夜の十時頃にラーメンを無料で提供してくれるのでオバサンとは顔馴染みだ。
     「この時間に飲むのかい?」オバサンの不審な顔を尻目に、餃子を一皿づつ、それに大瓶を一本づつ飲んだ。私は当時から余りビールは得意ではなかったし、今より遥かに酒も弱かったから、案の定、午後の試験は滅茶苦茶だった。実に愚かなことをしていたものだ。
     ビールは二杯飲み、ひとり千円なり。一時間でお開きとなった。まだ三時なので川口の実家に寄って日本酒を少し飲んだ。今日は大した雨も降らずに良かった。(翌日が大雨だった。)

    蜻蛉