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    番外 八王子編  平成二十五年八月三日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2012.08.16

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     旧暦六月二十七日。大暑末候、大雨時行(大雨時々降る)。この頃の時ならぬ豪雨は、江戸時代にも馴染みあるものだったのだろうか。案外、昔の季節感覚が今でも通用するから不思議だ。
     偶数月には日光御成街道を歩くことになっているが、この暑さの中で浦和美園から岩槻まで十二キロ程を歩くのはきついと言う理由で、姫は番外編として八王子散策を計画した。それも来週の第二土曜日はお盆にかかって忙しいから、第一土曜の今日になった。
     ダンディは引っ越し準備、宗匠は旅行、スナフキンは仕事だと言っていた。ロダンは先週に引き続いてでは外出券は貰えないだろう。小町は欠席の連絡とともに「蜻蛉の旅行記楽しみ」なんて言ってきた。参加者は少なそうだから、これでは私は休むわけにはいかない。
     八王子駅構内には「八王子祭り」の提灯やポスターが溢れ、浴衣姿の若い男女が目立つ。「そのせいで人が多いのか。」普段でも八王子駅は人が多いと思うが、それに輪をかけているのかも知れない。集まったのは、姫、碁聖、画伯、ドクトル、マリオ、蜻蛉の六人である。僅か六人だが、姫は最悪の事態を覚悟していたらしい。「こんなに来てくれるとは思いませんでした。有難うございます。」。講釈師の姿が見えないのは珍しい。画伯は半年振りだろうか。
     以前、里山ワンダリングの会で片倉城の周辺は歩いたことがあるが、八王子の街中、つまり八王子宿を歩くのはこれが初めてのことだ。甲州街道は内藤新宿、高井戸、布田五宿、府中宿、日野宿を経て八王子に至る。八王子横山十五宿と呼ばれ、長さ一里二十七町、家数千五百四十八戸は道中最大の宿場であった。
     十五宿とは、十王堂宿(新町)、横山宿、八日市宿、本宿、八幡宿、八木宿、子安宿、馬乗宿、小門宿、本郷宿、上野(上野原)宿、横町宿、寺町宿、久保宿、嶋野坊宿を指す。日野から続いてきた旧街道は新町で直角に曲がって、現在の甲州街道に入る。だから宿場の大半が国道二〇号に沿っていた。
     このうち横山宿に本陣と脇本陣が置かれて、八日市宿とともに中心をなしていた。横山の地名は武蔵七党の横山党に由来する。北条滅亡後に家康は八王子城を廃城として、甲州街道を整備することに決めた。八王子城は典型的な中世山城で、都市機能を満たすには立地が悪かったのだ。そして城下で生業を営んでいた商人をこの地の原野に移転させて町を作ったのである。

     人混みの中を北口に出て、最初のエスカレーターを降りてしまったのが姫の勘違いの原因になった。「下に降りるのが早過ぎたかも知れません。」「方向は分かるんだから大丈夫でしょう。」京王プラザホテルの前を通り甲州街道に出た。駅入口東交差点である。「ここを右に曲がります。」しかし暫く行ったが目指すものがない。「おかしいわ、曲がってすぐなんですけど。」私は予習してこなかったので、どこを目指しているのか分からない。この辺まで来ると、私が愛用している『大きな字の地図で東京歩こう』の収録範囲を遥かに超えてしまって役に立たない。
     「市守神社です。」姫が作ってくれた案内をリュックから取り出した。「住所は。」「横山町です。」電信柱の表示を見れば八日町だ。「それなら反対側だよ。さっき地図を見たから」とマリオが応える。そう言えば、さっき交差点を渡るときに左手に神社らしきものが見えていた。
     逆戻りしてさっきの交差点を過ぎるとすぐに神社に着いた。「ここです。交差点が違ったんですよ。」姫が甲州街道に出るべき交差点は「八王子駅入口」で、それなら右に曲がって良かったのだ。「五月に来たばかりなのに、もう忘れてる。イヤですね。」「大丈夫、今日は煩く文句言うのはいないから。」
     市守大鳥神社はセブンイレブンとマンションに挟まれた、鰻の寝床のような敷地だ。八王子市横山町二十五番地三。

     天正十八年(一五九〇)六月二十三日、豊臣秀吉の天下平定戦によって八王子城は落城した。戦後処理のため、市場の再開と物資の調達が急がれ、現在の横山・八日・八幡の各町の辺り(横山庄と言われた)に大胆な地割りが行われ、今日の八王子の市街地の原型が出来上がった。そして横山宿では毎月四の付く日に、八日市宿では毎月八の付く日に市が開かれた。六斎市である。
     そして、この市の取引の平穏無事を守り、人々に幸せを与える市神として倉稲魂命が祀られた。市守神社である。市守神社の縁起に、「当社神実の覆筥(御進退の覆い箱)裏面に人皇五代孝照天皇勅願と記載これあり並びに長田作左衛門とあり、これ北条氏輝の家臣長田氏の守護神にて京都伏見稲荷の分霊ならん。」とある。
     江戸時代の中期に授福開運の神として天日鷲神が配祀された。
     なお、市守神社に八王子開宿の功労者である長田作左衛門を併祀したとする説もある。(市守神社大鳥神社由緒略記)

     市場の中心であった。朱塗りの鳥居の両脇には提灯が四段に飾られ、境内にはテントが設営されている。それでなくても狭い境内を山車が塞ぐ。その間をすり抜けて奥に入り、じっくりと観察する。こういう機会は少ないから有難い。提灯の文字は「横壱」だ。豪華な彫刻を施しているが比較的新しい。てっぺんに載った金色の鳥は金鵄か鷲だろうか。

     江戸時代から続く市街地の氏子を中心とする山車祭りは、八幡八雲神社の祭礼を下の祭り、多賀神社の祭礼を上の祭りとして親しまれ、江戸中期から明治中期にかけて人形山車の祭りとして、明治後期以降は、彫刻を全面に施した彫刻山車の祭りとして、関東一円に名声を博していました。
     しかし昭和二十年戦禍に遭い八台の山車が焼失、失われた山車も、上八日町、横山町三丁目、八日町一・二丁目三町で山車の再建を果され、現在十九台の山車が八王子まつりに参加するようになり毎年甲州街道を舞台に華麗な山車祭り絵巻を繰り広げています。(八王子まちナビhttp://hachioji-machinavi.jp/event2013080201/)

     神社の裏から出て路地に入れば、甲州街道の喧騒とはうって変った静かな町になる。浴衣の婦人や半纏にパッチ、浴衣の尻を端折った男たちとすれ違う。「浴衣に足袋を履くものなのかな。」「素足だと、踊りの後すごく汚れるんですよ。」と言うことは姫も踊りの経験があるのだろう。
     立派な蔵を持つ家の石の門柱には、「飯塚絹撚株式会社」とある。日本シルクロードの名残か。信号を超え、次の路地を右に曲がる。
     「そこです。」少し高くなった石垣の上に相撲取りらしい像が見えた。姫の目的は一里塚だが、その前にこの神社に上がってみなければならない。永福稲荷神社だ。八王子市新町五丁目。虎を描いた化粧回しは現在の半分ほどの長さで、力士は八光山権五郎である。

    宝暦六年八月二日(千七百五十六年)力士八光山権五郎が再建し落成と同日に相撲を奉納したといわれています。江戸時代甲州街道八王子宿の入り口に位置しているために、江戸からの往来客による信仰が厚く寄進された鳥居、天水桶等が境内に現存されています。

     宝暦六年といえば、前年から始まり三年間に及ぶ飢饉の真最中だ。そのことと、神社再建と関係があるのかどうか。相撲がもともと五穀豊穣を祈る神事だったとすれば、あながち変な推測でもないだろう。
     大きな看板に記された由緒略記によれば、八光山は上州厩橋出身で、八王子の生糸問屋の養子に入った。寛延・宝暦(一七四八~一七六四)にかけて三都及び四国九州を歴訪して活躍したという。谷風、小野川、雷電が輩出するのはその二三十年後になるから、江戸相撲の体制がある程度確立する以前のことだ。
     身長六尺三寸(一九一センチ)は現代でも巨漢だが、江戸時代の男性平均身長が一五七センチ程度とすると、今の感覚では二メートルを遥かに超すだろう。谷風梶之助が一八九センチ、小野川喜三郎が一七九センチ、雷電為右衛門が一九七センチあった。大男は相撲取りになるしかないのである。ついでに言えば、第六十九代横綱白鵬翔の身長が一九三センチだ。
     流造の拝殿の周りには柵が巡らしてあり近づくこともできないが、側面に回ると、その柵の中に芭蕉の句碑が建っていた。「蝶の飛」「野中」「日かげ」は読めたのだが、その間の文字が分からないのは困ったことだ。「哉」を変体仮名で「閑那」と書くのか。画伯は自然に「かな」と読んだのに私は「閑」の草書体が分からずに悩んでしまった。

     蝶の飛ばかり野中の日かげ哉  芭蕉

     貞亨二年(一六八五)、芭蕉が『野ざらし紀行』の旅の途中、尾張鳴海付近で詠んだ句と言う。建立主は「桑都九世松原庵太虚書」と読めた。もともとは、榎本星布尼という女性俳人が寛政十二年に建てた日影塚だが、明治三十年の大火で剥落崩壊し、昭和二十四年に松原庵九世によって再建復興されたものだ。
     榎本星布尼は、享保十七年(一七三二)、八王子市横山宿の名主榎本家に生まれ、文化十一年(一八一四)、八十三歳で没した。

    江戸中・後期の俳人。初号は芝紅。武蔵国八王子(東京都)の名家榎本忠左衛門徳尚の娘。継母の影響で俳諧に親しむ。初め白井鳥酔門、のち加舎白雄門。白雄の後援で松原庵二世を嗣号し、寛政期(一七八九~一八〇一)には大いに活躍した。息喚之が編んだ『星布尼句集』(一七九三)ほか多くの編著がある。寛政十二(一八〇〇)年八月に芭蕉の句碑を八王子に建立し、翌年その記念集『蝶の日かげ』を上梓したが、刊行に先立って喚之を失い、以後沈滞する。(『朝日日本人物事典』)

     松原庵は白井鳥酔の号である。別の資料では、鳥酔門の熊沢兀雨を松原庵二世、星布を三世としているものもある。地方文化をリードした女性である。見つけた星布の句をいくつか挙げておく。

     蝶老てたましひ菊にあそぶ哉   星布尼
     むすぶ手に白雲すくふ清水かな
     河豚喰ふて生まれぬ先の父恋し
     雉羽うつて琴の緒きれし夕哉
     雛の顔我是非なくも老にけり
     海にすむ魚の如身を月涼し
     燕子花水に歌かくおもひあり
     老が膝芙蓉にてらす思ひあり
     舘の火のありありと冬の木立かな
     山牛のぬれて来にけり初しぐれ

     「桑都って八王子のことでしょうね。」「サンフランシスコじゃありませんよ」と姫も笑う。そう言えば『桑港のチャイナタウン』(佐伯孝夫作詞、佐々木俊一作曲)は姫のオハコの一つだった。古代から養蚕、織物が盛んだったために、八王子は桑都と呼ばれた。西行「浅川を渡れば富士の影清く桑の都に青嵐吹く」も、この辺りの情景を歌ったものだという。

     延々と 桑都への線路(みち) はるかなり  午角

     画伯は川越から八高線に乗ってきたのである。本当に「はるかなり」だっただろう。乗り換えなしの一本で便利なようだが、単線だから走っているより上下線交換の待ち時間の方が長い。東上線の朝霞台でJR武蔵野線(北朝霞)に乗り換え、西国分寺から中央線に回る方が遥かに早い筈だ。私はこの経路で来た。
     珍しいのが享保八年(一七二三)の銘のある梵字を彫った石塔で、ぱっと見て十三文字あるように見えたから十三仏の種子かと思った。写真をよく点検すれば、上部中央に大きな文字と小さな文字(これを一文字と思ってしまった)、その下に三行に分かれて四文字づつ、最下段に「講中 敬白」と二行に彫ってある。宗匠ならすぐに資料を取り出すところだが、一番上の大きな種子は降三世明王(ウーン)のようにも見える。
     しかし「庚申塔探索」(http://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/31547381.html)というブログによれば、これは青面金剛の真言であった。真言を彫った庚申塔は珍しい。と言うより、庚申塔だと気付かずに見過ごしていた可能性もある。「おん でいば やきしゃ ばんだ ばんだ かかかか そわか」と読むらしい。「おん」は「嗚呼」、「でいば」は神、「やきしゃ」は夜叉、「ばんだ ばんだ」は掻き混ぜる、「かかかか」は高笑い(喜ばす)、「そわか」は成就あれ、である。青面金剛はまさに夜叉鬼神であった。
     真言とは要するに呪文である。悉曇文字による仏典は漢訳されたが、陀羅尼(呪文)の部分は訳さずに原音で読むのが原則である。おそらく「神」の本性を明らかにしてはならなかったこと(古来から日本でも名前を呼ぶことは禁忌だった)と、意味不明な呪文を唱えることが神秘性を感じさせたからだろう。
     ついでに、「般若心経」で有名な「ぎゃーてー ぎゃーてー はらぎゃーてー はらそーぎゃーてー ぼーじー そわか」は、「達することよ、達することよ、目的(高み=サトリ)に達することよ、目的(高み=サトリ)にともに達することよ、サトリよ、成就あれ。」という意味になるようだ。(「真言・陀羅尼の実際」http://www.isis.ne.jp/mandara_darani.pdfより)
     神社の隣が小さな公園(竹の花公園)で、砂場で子供を遊ばせ、母親はベンチでのんびりしている。そこに「新町竹の鼻の一里塚」の石碑が建っている。ここが甲州街道八王子宿東の入口だったから、「鼻」が本来の文字だろう。日野から続いてきた旧甲州街道はここで直角に曲がり、現在の国道へと向かっていた。
     「江戸から十二里」の説明を見て、ドクトルが「私が調べた本には十一番目と書いてあった」と首を捻る。「簡単な植木算ですよ」なんて私は何を勘違いしたか、愚かなことを口にしてしまった。姫が「起点には塚はないですからね」と同調したのも、暑さのせいだろうか。「そのかみの神童の名の哀しさよ。」私も算数ができなくなってしまっては仕方がない。ドクトルが言うのは江戸から十一里ということだ。植木算も旅人算も関係ない。
     それでは、ここまでの一里塚を見てみよう。まず解説にある十二里を主張するサイトを見つけた。
     一里(千代田区隼町)、二里(追分・新宿三丁目)、三里(世田谷区笹塚二丁目)、四里(杉並区下高井戸一丁目)、五里(調布市仙川町三丁目)、六里(調布市小島町一丁目)、七里(常久・府中市清水ヶ丘三丁目)、八里(府中市日新町一丁目)、九里(一本榎・国立市泉一丁目)、十里(日野市万願寺二丁目)、十一里(日野市日野台四丁目)十二里(竹の鼻・八王子市新町)。これで十二番目、十二里である。(http://homepage2.nifty.com/hat-nif/etc/ichirikosyu.htmより)
     しかしこれで安心する訳にはいかない。今度はウィキペディア(甲州街道の一里塚一覧)をみると、この中の九里目の一本榎が抜けていて、日野市満願寺が九里、日野台が十里、竹の鼻を十一里としている。ドクトルが参照したのはこちらの方であろう。
     八王子は江戸から十一里なのか十二里なのか。念のために日野市教育委員会のサイトをみると、やはり満願寺は九里、日野台は十里とある。それならウィキペディアの記事が正しい。どうも一本榎が怪しい。
     結論は甲州街道の付け替えだと思われる。一本榎を通る道は旧道で、その時代には江戸からここまで確かに十二里あったようだ。後(いつの時代か分からないが)、一本榎を通らない道筋に変更されて、十一里に短縮したらしい。折角解説を設置してくれるなら、こういう事情もきちんと書いておいて欲しいと思う。

     蝉時雨九里を重ねる甲州道  蜻蛉

     「あっちに行ってこう行けば遠回りだし。」私たちは地図を持っていないから姫の悩みが分からない。「うーん、どうしようかしら。」あなたの行く通りについていくだけです。「そうか、分かりました。大丈夫です。コースをちょっと変えます。」当初の計画では、横山氏墓、横山党根拠地、長田作左衛門邸跡と回る筈だったが、姫は長田作左衛門邸跡(伝承地)を諦めたのだ。「その代わりお墓に行きます。」
     また少し戻って、八王子駅北の信号を曲がる。仏具店「百具一心堂」の店先の、小坊主が大きな木魚に凭れて寝ている像が可愛らしい。「三休さんだってさ。」「一休さんとは違うのか。」木魚を叩き疲れて眠ってしまった格好だ。
     着いたのは八幡八雲神社だ。八王子市元横山町二丁目十五番地二十七。かなり大きな神社だ。八幡八雲の名前が気になるが、これは八幡神と牛頭天王(八雲神社)を合祀したもので、由緒ではこうなっている。

    八幡神社の創立は延長二年(九二四)、武蔵守隆泰が国司の時、此の地へ石清水八幡宮をまつり、国土安全を祈願したのが当社の起源です。その後、隆泰の長子、小野義孝は武蔵権之守に任ぜられて当地に来り、父の遺志を継いで八幡宮を再建し、任期が満ちたので此地に永住することとなったのです。そして先ず小野氏を横山氏と改め、追々当地を開拓し、遂に一村落を形造り横山村と呼びました。
    八雲神社は、俗に天王様と申し、延喜十六年(九一六)大伴妙行が、深沢山(元八王子城山の古い名称)の頂上に奉斎し、天正年間、北条氏照が此山に城を築いてから氏神として崇敬しました。天正十八年(一五九〇)六月落城の時、城兵は天王の神体を奉戴し、川口村黒沢の地に密かに逃れ、北条残党の氏神として崇敬していました。
    慶長三年(一五九七)六月、大洪水のため神体は流失し、遂に八王子新町の北なる板谷ヶ淵に漂着しました。暗夜に御光を放ち現れた神体を、六月十三日未明新町百姓五兵衛という者が之を発見し、自宅土間の臼上に移しました。その後初穂の小麦を煎って供物とし、朝夕礼拝している内、或夜夢の中に不思議な神勅を受け、宿長の長田作左衛門の助力を乞い、八幡の社内に遷座しました。

     上の記事では、妙行が祀ったのは牛頭天王だけのように見えるが、ウィキペディアその他によれば、修行中に牛頭天王と八人の王子が現れた因縁で、八王子権現を祀ったことになっている。それが八王子城の名の由来である。大友妙行とどんな人物なのかは不明だ。
     朱塗りの明神鳥居を潜ると、一メートルほどの石垣に大きな石灯籠が二つ並んで建っている。狛犬は高さ三メートル程の溶岩の上に立つ。拝殿の唐破風向背の上に切妻の破風が二つ並んでいるのは、八幡と牛頭天王の両者を祀っているからだろう。

     参道や 風爽やかに 百日紅  午角

     ここにも黒光りする山車が鎮座している。「あっちの車はタイヤだったけど、これは違う」とマリオが目敏く指摘した。車には金輪が取り付けられているようだ。戦災で焼けずに残ったものに違いない。提灯は「元横山町」である。
     神楽殿では子供が太鼓や笛の練習をしている。揃いの浴衣に絽の羽織、麦わら帽子の数人の高齢男性が談笑しているのを見ると、昭和初期の映画を見ているようだ。町内会のオエラガタであろうか。
     「ここなんですけど。」姫が立ち止ったのは、その神楽殿の脇にひっそりと建つ、切妻屋根の小さな境内社だ。横山神社とある。祭神は横山義孝で、この地の伝承では小野氏を横山氏に改めた人物だ。

    往古より「多摩の横山」は名馬の産地として世に名を知られており、平安の時代には陽成天皇の私牧(御料牧場)として発達し、延長二年(九二四)武蔵守小野隆泰が横山の地へ石清水八幡宮(現在の八幡八雲神社)をまつり、天慶二年(九三九)「将門の乱」の翌年に勅使牧(国営牧場)となった「横山の牧」に武蔵権之守に任ぜられた小野義孝は小野姓を横山氏に改め、八幡宮を中心に祭政一致を行い、ここに定住されました。この御方が武蔵七党の一つである横山党の始祖であり、日本における「横山姓」の始まりであります。孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命を祖とする小野氏一族は小野妹子、篁(たかむら)、道風、小町などの逸材を輩出し、その血筋を引く横山氏は後世の世にまで武士の鏡として数々の「物語」の中に語られております。又、源氏一族との深い結びつきにより代々、源氏の嫡子の誕生に際しては「引目、鳴弦の神事」を行っておりました。(案内板より)

     小野小町は別にして、小野隆泰が篁の裔になるのは間違いないようだ。但し「武蔵権之守に任ぜられた小野義孝」というのが不審だ。
     取り敢えず『国司補任』(続群書類従刊行会)を当たってみた。これは各種史料から国司の名前を収集したものだから信頼できるだろう。天慶二年の時点で武蔵守は百済貞連、権守が興世王、介が源経基、権介が小野諸興である。翌三年、将門の乱によって介源経基は放免され、権守興世王は藤原公雅に討たれた。乱後、着任しなかった百済貞連に代わって、守は将門追討に功のあった藤原秀郷になる。小野諸興については記載がないが、押領史として秀郷に従ったというから、そのまま権介の位にいたのかも知れない。
     そして、その後三十年ほどの間に小野義孝の名は出て来ないし、延長二年に遡っても小野隆泰が武蔵国司になった形跡はない。つまり篁につながる小野氏が武蔵国に関係している記録はないのだ。
     となれば問題は小野諸興である。「権介」の官職からみて、中央の小野氏とは違って、国造の系譜につながる在庁官人と考えたほうがよさそうな気がする。在庁官人とは中央から派遣されたものではなく、在地の豪族である。勅旨牧(御牧)の別当職には大抵の場合、在庁官人が任命された。その別当職を通じて勢力を広げてきたのではないか。勅使牧として小野牧が設置されたのは承平年間(九三一〜九三八)のことだから、武蔵権介の小野諸興が別当になっても不思議はない。この「小野」は、中央貴族の小野氏に由来する姓ではなく、小野牧の管理者としての小野ではなかったか。
     そして横山党はこの辺から始まるのではないか。やがてその名を飾るため、同名の中央貴族である小野義孝を系図の筆頭に据えたのではないかと疑われるのだ。素人の勝手な推測だが、ウィキペディアの記事も参考に引いておきたい。

     多くの文献から、小野篁の後裔とされている。但し、これには異論を唱える研究者(安田元久は諸系図の精査や世代間の年数の計算、当時の国司の任命状況から見て後世の作為で、実際は在地の開発領主の末裔であろうと推測し、太田亮の『姓氏家系辞典』での所見である、古代日本における地方官であり軍事権・裁判権などを持ち祭祀を司ったその地方の支配者武蔵国造の末裔ではないかという見解を消極的に支持している)もいる。
     武蔵国多摩郡横山(現・東京都八王子市元横山町)を本拠として横山姓を称したとされる。当時「横山」とは多摩丘陵を指し、『万葉集』に「多摩の横山」と詠われている。(ウィキペディア「横山党」)

     中世(に限らないが)武士の本当の家系を探るというのは実に大変なことなのだ。横山党は多くの分家支族を輩出して関東に勢力を張った。畠山重忠を射殺した弓の名手愛甲季隆も横山党の庶流だ。しかし横山氏の本流は鎌倉時代初期の北条政権確立のための抗争で、和田義盛に加担して滅びることになる。
     十一時からケーブルテレビの中継が始まるらしい。「見物しますか。」あと五分程だが、別にそれを待つ必要はないだろう。ここから少し北に行く。民家の庭先に白い夾竹桃が咲いているのでカメラを向ける。「夾竹桃は白が好きだな。」「でもホントはピンクですよね。」「あのピンクの色が好きじゃない。」「毒があるのはおんなじなのにね。」
     次は医王山妙薬寺(真言宗単立)だ。八王子市元横山町二丁目十八番地一。門の鉄扉には三つ葉葵の紋が飾られている。境内の植木はきれいに刈り込まれて静かな雰囲気の寺だ。
     墓地の脇の扉は閉まっている。「大丈夫でしょうか。」「鍵がかかっているわけじゃないだろう」とドクトルが扉を開ける。庫裏との間の狭い通路を抜ければ、裏の辺りに「横山塔」と小さな標柱を立てた一角がある。玉垣に囲まれ、四隅に石の柱を立てた正面奥に宝筺印塔が建っていた。胴に彫られた種子はキリーク(阿弥陀如来)だと思う。
     この宝筺印塔は永禄三年(一五六〇)に、「横山将監小野秀綱」の供養塔として建立されたものだ。横山氏が和田合戦で滅びて既に三百年程が経った時代だ。生き残った一族の誰かの手によるのだろう。
     その脇の樹木の間に「先考張六府君・先妣山下孺君」の石碑が建っている。左右に枝が蔽いかかっているのでそれしか見えない。この時点では何のことか分からないが、重要そうなので写真に撮っておいた。文化五年の光明真言供養塔は「言」と「供」の間で割れた、修復した跡がある。
     境内に戻ると、本堂の色彩感覚に驚いてしまう。唐破風は派手な赤に青の線が縁取りしている。格子戸にも青色が貼られ、石段は緑に塗られている。「台湾のお寺みたい。」
     その脇の石碑「妙薬寺並法界塔縁起」に、さっきの張六府君の正体が書かれていた。昭和五十七年に当時の住職が書いた文章で、ややおかしなところがあるが、これによれば「甲斐武田家臣山本張六夫妻の墓」である。「先考」「先妣」とあるからには、その張六夫妻の子供によって建てられたものだろうが、その説明は書いていない。
     それに、「近江源氏新羅三郎義光の裔、山本勘介の曾孫」だというのが怪しい。勘介の名は『甲陽軍鑑』にしか記述がなく、かつてはその存在自体に疑いが持たれていた。
     しかし「真下家所蔵文書」というものが発見され、そこに出現する山本菅助がそうであろうと、現在ではほぼ決まったようだ。それでも新羅三郎の裔だなんていうのは言っていない筈だ。以下は、ウィキペディアが紹介する「真下家所蔵文書」関係の記事から抜き書きしたものだ。
     初代山本菅助は川中島で戦死し、二代菅助も長篠の戦いで戦死、二代菅助の義兄(初代の娘婿)山本十左衛門が継いだものの、武田家は滅亡する。天正十年(一五八二)に武田遺臣が家康に臣従を成約した起請文で、十左衛門は所領三十貫を安堵されたが、慶長二年に死んだ。つまり菅助の血統で「武田家臣」を名乗るのはこの三人しかいないのである。そしてまだ勘介の曾孫は生まれていない。
     更に十左衛門の嫡男平一が慶長十年に死んで山本家は浪人し、末子の三郎右衛門(三代菅助)が寛永十年(一六三三)に古河藩主永井尚政に仕えたという。つまり疑問は、「武田家臣」としての山本張六とは誰なのかということだ。
     読んでいないが、山梨県立博物館監修・海老沼真治編『山本菅助の実像を探る』(戎光祥出版)に詳細が書かれているそうだ。
     私だって、いちいち石碑や案内にある説明を疑いたくはないが、余りにも史実を無視した説明をされると困ってしまうのだ。歴史をいい加減に扱うことに慣れてしまうと、人間はいつか手酷いしっぺ返しを食う。
     西に行くと正面に国道一六号の標識が見えてきた。「蜻蛉はここから帰れますね」と碁聖が笑う。私が帰れるなら画伯も同じだが、川越までおよそ四十キロの道を歩いて今日中には帰れない。「この辺で曲がってみましょうか」という姫に従えば正面に寺の塀が見える。「入口は回り込まなくちゃいけないかもしれませんね。」しかし塀に突き当たればすぐに白壁の南門だった。極楽寺。寶樹山正受院、浄土宗である。八王子市大横町七番地一。
     ここは姫の予定にはなかったところだ。「長田作左衛門さんの御墓があるんですよ。」「それって誰。」「そこに書いてますけど。」さっきから、あちこちの解説板に登場する人物であった。
     門の右には鐘楼が建つ。広い境内はきれいに手入れされており、檀家が充実していることを思わせる。男が一人、いきなり私たちに何かを話しかけてきた。「●×△☆◆□?」良く聞き取れないが、どこから来たのか、何をしているのかと訊いているらしい。画伯が答えたものの、それが理解されたかどうか。何事かを呟いて男は離れていった。
     「ここですね。」堂内に古めかしい墓石が五基並んでいる。天保年間(一八三〇~一八四四)初期に、長田氏の子孫である川辺、金丸、飯島氏の手によって建てられたものだという。
     これを見てみんなは安心してしまっているが、その堂の右には塚が築かれているので回ってみた。真中には破損して修復された「南無阿弥陀仏」の石塔、左右に壊れた宝筺印塔と○○善女の墓石など数基が並ぶ。石碑を読めば、これも天保期に築かれた塚のようで、やはり作左衛門の供養塚である。「今や市制施行十周年を記念するに当たり、其の墓地を修理し之を不朽に伝へん」ために、大正十五年に修復したものだ。
     作左衛門については、東京都教育委員会の説明を引用する。

    天正十八年六月二十三日の八王子城落城後、交通の要衝に位置していた横山の地に地割りが行われ、八王子町が成立した。
    この八王子町の建設を推進したのは各地から来住した後北条氏や武田氏の浪人であったが、直接町割りを担当したのが長田作左衛門元重(八王子城主北条氏照の旧臣)と古くから伝えられている。長田作左衛門については、その実在を疑い八王子町の町割り参画そのものを否定する説もある。しかし、一般には代官頭大久保石見守長安の指揮に従って、八王子町の建設にあたった人物の一人として理解されている。

     北条遺臣が土着して宿場を開発したのである。この他にも、この寺には塩野適斎、玉田院の墓がある。「誰ですか。」「知らない。」誰も知らないから探すこともしなかったが、塩野適斎は八王子千人同心組頭で『桑都日誌』の編著者である。また『新編武蔵風土記稿』の編集者一覧には千人組同心頭・塩野所左衛門知哲の名で登場する。玉田院は高遠城で討ち死にした仁科盛信の息女で、松姫(信松尼)の姪の小督姫である。

     十六号に出ると途端にこれまでの静けさが破られる。「どこかで食事をしましょう」と姫が口にしたところで、ジョナサンを見つけた。「ちょっと早いですが、あそこでお昼にしましょう。」六人だからどこでも予約なしで入れる。「禁煙席ですけど、いいんですか。」入口の外に灰皿が置いてあるから大丈夫だ。
     土曜日にはランチメニューがない。碁聖と画伯はそれぞれ別のものだが、同じように難しい名のスパゲティ、マリオもなんとかいう難しいラーメン、ドクトルは冷し中華にサラダ、姫は冷シャブの定食、私はおろしハンバーグ定食を選んだ。
     最初に出てきたのはハンバーグ定食だ。「ハンバーグより早いと思ったのに」と姫は嘆くが、「温めたものを冷ますには時間がかかる」と当たり前のことをマリオが指摘する。案の定、最後から二番目に冷シャブ、次いでドクトルの冷し中華がでてきた。その時にはすでに私のハンバーグはなくなっている。水をお代わりしてゆっくり休憩する。今日は照りつけるような日差しはないが、湿度が高く暑いことに変わりはない。冷たい水が旨い。

     店を出たのは十二時四十五分だ。入り口は二階にあり、一瞬涼しい風が吹いたが、下に降りれば相変わらずムシムシした空気が纏わりつく。「一階と二階でこれだけ違うんだね。」
     十六号線を南下して甲州街道に出ると、祭囃子の音が聞こえてきた。歩道には露店が並び、たこ焼きの匂いが漂ってくる。「ウーン、誘惑に負けそう。お昼を食べて正解でしたね。」姫の好きそうなものばかりで、空腹だったら前に進めないところだ。

     街道に匂ふ屋台や夏祭り  蜻蛉

     ここから西に向かう。国道なのに、伝統のありそうな商店が並んでいるのが珍しい。「商店が元気だから町内会も元気なんですね。」そうなのだろう。本郷横丁東交差点の角には、二階に観音開きの扉が三つもある蔵が前の店があった。金物屋のようだ。
     「あっ、山車がいます。」横丁の入口には、山車が出番を待って待機している。八幡町一・二丁目。「神主さんが来ました。」神官が二人、山車に向かって大幣を振い、町内の世話役(だと思われる)人たちにも同じしぐさをする。「暑いでしょうね。」確かにあの装束で各町内を回るのは大変だ。
     「親父はあれを持ってたけど、私は着る機会がなかった。」「神主さんだったんですか。」「そうです。」マリオの御尊父が神主とは知らなかった。熱田神宮だったか、豊川稲荷だったかのご近所だと聞いたことがあるような気がする。

     角々に高く哀しく祭り笛  蜻蛉

     歩道に固まって太鼓の準備をしている連中がいるのは、関東太鼓合戦というものがあるからだ。八王子駅入口から追分の間に、甲州街道が歩行者天国になって二十一ヶ所の演奏会場が設けられるらしい。そのほかに、祭りの中日である今日は民謡流し、山車巡業・神輿渡御などが行われる。「夜になるときれいだろうね。」碁聖の口振りは夜まで待っていたいようだ。山車に吊るした提灯に灯が入れば、夜の街に映えるだろう。
     神輿を車に載せて引くのは初めて見た。ずっと以前、神輿を軽トラックで運んでいるのは見たことがあるが、これは全く違う。黒漆を塗った、おそらく神輿専用に造った立派な車だ。「あれは牛車みたいなものでしょうか。」牛車は基本的には大八車のような二輪のものだろうが、これは台の前の方に小さな補助輪をつけた三輪車である。二輪車なら止まった時に支える必要があるが、この小さな車輪でも三輪車になっていれば、手を離してもよい。
     山車は長い縄で大勢の人の手でゆっくり引かれる。ダンジリのように猛スピードで走り回ることはなさそうだ。「上にも乗ってるんですね。」提灯は「鞍馬」、太鼓をたたくのは女性だ。

     山車が行く 屋根の勢子には 命綱  午角

     なぜ「山車」なのか。山は神の降臨するところであり、降臨した神が練り歩く移動神座なのである。それではなぜ「だし」と呼ぶのか。

    屋台の鉾につけた竹籠の編み残し部分を垂れ下げて出してあり、その部分を「だし」と言ったことに由来する。
    その他、神を招き寄せるために外に出しておくことから。「出し物」とする説もある。
    (「語源由来辞典」http://gogen-allguide.com/ta/dashi.html)

     八幡上町、八木町。町中が祭り一色に染まっている。町内会というものがこうして現実にきちんと機能している町は珍しいだろう。小さな木造二階家はこんにゃく屋だ。
     町内が一体になって祭りを盛り上げているのをみると、なんだか羨ましくなってくる。子供時代、従兄従妹たちは土崎の湊祭りを楽しみにしていたが、サラリーマンの父の住まいが秋田市内だったから、私は土崎では他所者だった。また秋田市内でも外町(江戸時代の旧町人町)に住む連中は、子供の頃から幼若、子若の小さな竿灯を担いで大人になった。これも私にとっては他所の町の祭りだった。祭りはそこに主体的に参加することで地元意識が強化される。
     私に地元意識、郷土意識が薄いのは、祭りに縁が薄かったことが原因しているのではあるまいか。今は団地の自治会でも夏祭りをやっているが、我が家の子供たちは、あれがわが町の祭りだったと思うだろうか。
     「あそこが真っ直ぐ行けないんですよ。」追分の交差点は、逆V字とV字がつながる所に横一本の道があるので、厳密には五叉路になる。ややこしい道なので歩道橋を渡るしかない。右に分岐すれば陣馬高原、左が高尾に向かう甲州街道だ。
     その甲州街道に降りた所に追分道標が建っている。文化八年、江戸の足袋職人が高尾山に銅製五重塔を奉納した記念に、内藤新宿、高尾山麓小名小路と合わせて三か所に建てた道標である。戦災で四つに割れて欠損状態だったものを復元してあるから、どうしても石の色に違いがあるのは仕方がない。
     「左」「甲州道」「中高尾」「山道」となっていて、上と三番目が新しいものだ。それでも良く復元してくれたものだと思う。側面には「右あんげ道」とある。これは案下という地名だ。ここから和田峠を経て相模原に至る道が陣馬街道である。
     V字型の角を陣馬街道に曲がりこむと、前方に山車が止まっているのが見える。「あそこなんですよ。行けるかしら。」こんもりした木の前に追分町の山車が停まっていて、その後ろに隠れるように、千人同心屋敷跡記念碑が建っているのだ。八王子市追分町一丁目。千人同心頭の拝領屋敷を中心に同心が居住していた地域だ。
     ところで千人同心はもともと甲斐武田氏の遺臣を中心に、近在の地侍や富農で構成された。甲州方面からの敵の侵入に備えたものだが、太平の世で甲斐が天領になるとその目的も薄れ、日光勤番が実質的な職務となった。
     十組、各百人の構成である。平の同心は半農半士として普段は農耕に従事し、公式には武士としては認められていなかった。組頭になると御家人身分で、十俵一人扶持から三十俵一人扶持である。一人扶持は一日五合だから年に一石八斗。三十俵は十二石。つまり十三石八斗の知行と同じかと思ってはいけない。実はこれは計算が逆なのだ。一石取りとは、四公六民として手取り一俵である。つまり、三十俵の扶持は三十石取りに相当するのである。江戸町奉行所の同心とほぼ同程度の待遇だったと思われる。千人頭が二百から五百石取りの旗本だから与力に相当するだろうか。

     もう一度甲州街道を戻る。秋川街道を過ぎ、本郷横町東交差点を右に入るとすぐに小さな産千代神社に着く。大久保長安が所領八千石の陣屋を構えたところで、その屋敷神として稲荷を祀ったのが起こりである。八王子市小門町八二番地。「大久保石見守長安帰幽四百年祭記念事業」として、境内を整備し記念館を建てる構想があるようだ。寄付を募っている。

     長安は八王子宿(現・東京都八王子市)に陣屋を置き、宿場の建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた。石見土手とよばれている。
     長安はまた、家康に対して武蔵国の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心が誕生した。慶長四年(一五九九)には同心を倍に増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。
     長安は家康から全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切を任されていたのである。現在知られる里程標、すなわち一里=三十六町、一町=六十間、一間=六尺という間尺を整えたのも長安である。山がちであり、各地に諸勢力が散在する封建日本でこうした着想があったのは幕府という統一的な行政機構の発足ゆえであろう。
     これら一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。(ウィキペディア「大久保長安」)

     実に有能な経済官僚で、家康が信頼したのも無理はない。しかし慶長十八年(一六一三)四月の長安の死は、江戸時代最初の疑獄事件を惹き起こした。古来、長安は金を独占して私腹を肥やしたとされ、時代小説では悪役扱いされることが多い。「そうなんですか、知りませんでした。」
     しかし疑獄事件そのものは捏造ではないかとの説もあり、大久保忠隣とそれに連なる長安、それに対して本多正信、正純の権力闘争の結果とみるのが妥当なようだ。

     江戸幕府成立後、幕府内部では大久保忠隣とその与力といえる大久保長安を中心とした武断派と、本多正信・本多正純を中心とした文治派が互いに派閥を形成し、幕府内部における権力をめぐって激しく闘争していた。忠隣は家康の青年期から仕えた武将で、徳川四天王に劣らぬ武功を挙げた人物であり、正信は家康の側近としてその知略において幕府創設に貢献した人物である。忠隣には長安や本多忠勝、榊原康政といった正信にかねてから反感を抱いていた武断派が与し、正信には正純や土井利勝、酒井忠世といった徳川氏の家老的存在が与していた。(中略)
     長安は金山・銀山奉行など、全国各地の鉱山奉行を務めていた。その際、金銀の取り分は家康の命令で四分六分とされていた。幕府側の取り分が四分、長安の取り分が六分である。ただし、鉱山開発における諸経費や人夫の給料などは全て長安持ちとされていた。これに対して長安はイスパニアのアマルガム法という新たな鉱山開発方法を導入して、できるだけ経費がかからないように工夫していた。経費をできるだけ節減することができれば、それだけ自分の取り分が多くなるからである。ところが、本多親子はそれを利用して、長安が密かに金銀の取り分を誤魔化していたという虚偽の報告を家康に行った。
     さらに長安自身も失敗を犯した。長安は派手好きな人物であったが、自身の死去にあたって、金の棺に自分の遺体を入れるようにという遺言を残していたのである。本多親子の虚偽の報告に加えて、金の棺の存在を知った家康は激怒し、直ちに駿府町奉行の彦坂光正に調査を命じた。そして長安死後の五月六日、長安が生前に収賄を犯していたという罪で、長安の腹心であった戸田藤左衛門、雨宮忠長、原孫次郎、山村良勝、山田藤右衛門らが逮捕された。このときのことを『徳川実紀』は、「六日…此日大久保石見守長安が死せしにより。その属吏をして長安が所管の諸国賦税を会計せしめられしに。長安が数年の罪あらはれ。国々に令してその査検せしめらる。よて長安が属吏等を彦坂九兵衛光正に命じ獄に下さる」と記している。(ウィキペディア「大久保長安事件」)

     この記事は本多父子の陰謀と結論付けている。ここにも書かれている「イスパニアのアマルガム法という鉱山開発法」を駆使したことで、キリシタンとの関係を疑われたのも一因だったとの説もある。この事件の結果、長安の七人の男児も処刑された。実に無茶苦茶な判決である。
     神社の狭い境内には家が建ち、その脇には陣屋の井戸跡がある。白地に少し赤い斑点のある百合が一輪咲いている。「キレイ。」派手でなく、一輪だけだから精一杯頑張っているように見える。

     百合一輪栄華の果ての陣屋跡  蜻蛉

     「大通りに戻るべきか、そこで曲がるべきか。」「秋川街道に出るんだろう。公園の脇から行けると思うよ。」目の前の公園が小門町祭典本部になっていて、ちょうど神主がお払いをしているところで、町内の連中が直立して頭を下げている。女性は揃いの黄色の軽衫(裁付袴?)で、背中に花笠を背負っている。
     その右の小路を入って行けば秋川街道だ。この街道には「松姫通り」の名が付いている。「ここで良いんです。」これを左に曲がり、中央線の下を潜る。正面に黄土色の土壁に囲まれた寺が見えた。信松院である。八王子市台町三丁目十八番二十八号。門前に立つ小さな像は大きな市女笠をかぶり、杖をついた旅姿の女性の姿だ。「松姫様東下之像」である。「男みたいじゃないか」とドクトルが変な感想を口にする。
     「武田菱だね。」マリオが一瞥で断言した。詳しいではないか。門の格子には金色の武田菱が輝いている。境内に入ってすぐ目に付くのは、細長い黒御蔭の石に描かれたノラクロである。その上には「狗子有佛心」とある。犬に仏心あり。山川草木悉有仏性と同じことだろう。日本人の精神の奥深くにある感受性であって、格別何かある主張をしたものではない。ノラクロだから狗と言ったのだろうか。
     「この字も田河水泡が書いたのかい。」表面の署名が読めないが、こういうことは裏に回れば書いているはずだ。「裏」ではなく側面に書いていた。「書 広川弘禅」である。「あの広川かい。」広川弘禅とは良く分からない政治家だ。所属政党の変遷を書けば、社会民衆党、立憲政友会、日本自由党、民主自由党、分派自由党、日本民主党、自由民主党となる。勿論、戦中から戦後にかけての大変動期だから、これで弘禅が変節漢であるなんて言わない。但しその行動に一貫性を感じないのだ。曹洞宗の寺院に生まれたという。
     なんでもこの寺の二十八世住職が弘禅と知り合いで、たまたま田河水泡と三人で会食したことがあったらしい。
     「武田信玄公息女松姫君御手植えの松」がある。「ヤブミョウガの白い花がきれいですね。」墓地に行く。今日はお墓の嫌いな姫が珍しく先頭に立って行く。石段を登った上に玉垣で囲み、屋根をかけて祀られているのが松姫だった。古い無縫塔で、表面がボロボロに剥離している。
     「名水 姫の井戸」という名のペットボトルが供えられている。ラベルには武田菱が描かれている。「地元だけのものかな。」他では見たことがないからね。
     私は松姫なんて知らなかったが、八王子では有名な人物のようだ。武田信玄の四女(五女とも六女ともいう)で、出家して信松尼と名乗った。ウィキペディアから抜き書きしてみる。

     ・・・・『甲陽軍鑑』に拠れば永禄十年(一五六七)・・・・十二月には武田・織田同盟の補強として、七歳の松姫と信長の嫡男・織田信忠(十一歳)との婚約が成立する。・・・・
     元亀三年(一五七二)、信玄が三河・遠江方面への大規模な侵攻である西上作戦を開始すると、織田氏の同盟国である三河国の徳川家康との間で三方ヶ原の戦いが起こる。同盟関係にある信長は徳川方に援軍を送ったことから武田・織田両家は手切れとなり、松姫との婚約も解消される。
     天正十年(一五八二)には織田・徳川連合軍による甲斐への本格的侵攻が開始され、兄の盛信を高遠城において、勝頼は新府城(山梨県韮崎市)から天目山へ逃れともに自刃し、武田一族は滅亡する。盛信により新府城へ逃がされた松姫は勝頼一行と別行動を取り、海島寺(山梨市)に滞在したのち、盛信の娘である小督姫ら3人の姫を連れ、相武国境の案下峠を越えて、武蔵国多摩郡恩方(現・東京都八王子市)へ向かい、金照庵(現・八王子市上恩方町)に入る。・・・・
     同年秋、二十二歳で心源院(現・八王子市下恩方町)に移り、出家して信松尼と称し、武田一族とともに信忠の冥福を祈ったという。
     天正十八年(一五九〇)八王子・御所水(現・八王子市台町)のあばら家に移り住む。尼としての生活の傍ら、寺子屋で近所の子供たちに読み書きを教え、蚕を育て、織物を作り得た収入で、三人の姫を養育する日々だったという。また姉の見性尼と共に会津藩初代藩主・保科正之を誕生後に預かり育てている。
     元武田家臣であり、当時は江戸幕府代官頭の大久保長安は、信松尼のために草庵を作るなど支援をしたという。また、武田家の旧臣の多くからなる八王子千人同心たちの心の支えともなったという。
     元和二年(一六一六)に死去、享年五十六。草庵は現在の信松院である。

     「そこですよ。」小学校を通り過ぎてすぐ八王子市郷土資料館がある。八王子市上野町三十三番地。東側の空き地は何かの工事中だ。その東に向いた玄関前には、おそらく市内各地から集められた石仏を置いてある。徳本行者の六字名号碑は、先日川崎で見たばかりだ。
     珍しいのは青面金剛の庚申塔だ。三猿が、正面と両側面に一匹づつ分かれて彫られているのだ。この様式は見たことがないように思う。左側面に明和二(一七六五)乙酉季九月吉日、右側面には「月御待講中」とある。
     玄関を入ると、ワイシャツ姿の高齢者が会議机の前に座って出迎えてくれる。展示物は取り立てて言うほどのものはない。宿場時代の八王子の模型や図面が見られる。阿弥陀三尊の種子板碑に、「阿弥陀三尊」の説明がないのが惜しい。
     夏休みの企画として体験コーナーが設けられていて、八王子車人形のコーナーが二時に始まった。折角の企画なのに、私たちのほかには、女の子と母親しかいない。私も体験したかったのだが、子供に譲らなければならないのが残念だ。
     女性の年齢は私には分からないが、私よりも確実に若い女性が解説してくれる。「どちらからいらっしゃったんですか。」「埼玉県のあちこちです。」「そうですか、車人形は埼玉県に縁があるんですよ。」そもそも私は車人形というものを知らなかった。どうせ、文楽を田舎流に簡略化した紛い物であろうというのが私の偏見だった。
     しかし、なかなかそうではない。車人形とは、文楽が三人で操るのと違って、木の車輪が三つついた箱車に座って移動しながら一人で操る人形である。車輪は前輪が二つ、後輪が太くなっている。「そうそう、上手ですね。ちょっと後ろに重心をかけると回りやすいでしょう。」女の子が得意そうに回る。
     江戸時代末期、高麗郡阿須村(飯能)の西川古柳(山岸柳吉)が考案したものだ。文楽は舞台が必要なのに、それに比べて場所を選ばずコストが安い。一時は東京市中でも人気を集めたが、映画の登場とともに衰退し、多摩地方の郷土芸能としてひっそりと受け継がれてきたと言う。二代目古柳(瀬沼時太郎)が八王子で活動したことで、現在は五代目古柳が受け継いでいる。
     まず人形の足の踵に付けた棒を、足袋を穿いた演者の爪先で挟み込む。これで足を踏み鳴らすなどの豪快な動きやリズムが表現できる。左手を人形の背中の辺りから入れ、首の頭と左手につながる部分を持つ。右手は独立していて、脇の部分から入れてつかむ。三人で操る文楽に比べて、上半身(特に左)の動きは自由ではないが、足を踏みしめることができるのが最大の特徴ではないだろうか。

     人形の足踏み鳴らす夏の午後  蜻蛉

     パンフレットに紹介されている演目は、『三番叟』、『壺坂観音霊験記』、『葛の葉』、『東海道中膝栗毛』、『傾城阿波の鳴門』、『小栗判官物語』、『伊達娘恋緋鹿子』(八百屋お七)、『佐倉義民伝』、『生写朝顔話』、『日高川入相花王』(安珍清姫)がある。
     二時二十分。「それじゃ、そろそろ行きましょうか。」「あれっ、五人しかいない。」振り返ると画伯が人形を操っている。私も触りたかった。

     手で運ぶ 人形 心あるごとし  午角

     最後は本立寺(日蓮宗)だ。八王子市上野町十一番地一。かなり立派な寺である

     寺伝には後に身延山久遠寺第十七世となる江戸谷中瑞輪寺の住職であった慈雲院日新上人が身延に上られる途上八王子に草鞋を脱ぎ、当地に勢力を持っていた真言宗の寺の住職と激烈なる法論をたたかわせ、最後に釈尊の説かれた『法華経』とそれを身に読み、『立正安国論』等の数々の諌言をもって国の曲がった政治を諌めようと身体を張って国や人々のために殉じた日蓮聖人こそ従うべき師であると説き、その僧を寺ごと日蓮宗に改宗させたのが始まりとされている。真言僧はその時名を本立院日建と改め、本立寺を開創した。
     寺の在った場所を特定することはできないが、寺伝や『新編武蔵風土記稿』によれば天正年間(一五七三〜一五九二)、一五八七年頃までは瀧山城城下にあり、城の主であった北条氏が滝山城から新たに八王子城を築城しそこに移ったことに従い寺も八王子城城下へと移転した。しかし、その八王子城も完成を見ぬまま一五九〇年、全国統一を目指す豊臣秀吉指揮の加賀の前田利家を総大将とする、前田、上杉の軍勢に敗れ落城し、その後現在の八王子市の原形となる八王子の町が形成されるのに伴い慶長元(一五九六)年現在地へと移った。寺が創立してわずか三十年のうちに二度の引越を経験したことになるが、その後は現在に至るまで四百年以上、二十九代の住職が法燈を継承している。(本立寺の歴史)

     ここには原胤敦と三田村鳶魚の墓がある。しかし、それほど広大とはいえないのに探せないのだ。墓地の前に、やけに大雑把な地図がある。「大体あの辺でしょう。」「そうだよね。」汗が出てくる。二十分程歩きまわっただろうか。「諦めましょうか」と姫が口にした時、若い僧侶がやってきた。ちょうど良かった。「原さんと三田村さんですか、こちらです。」
     原さんはすぐに見つかったが、三田村さんがなかなか見つからない。「そもそも三田村って本名なのかな。」「私も疑問に感じたとこでした。」それでもやっと、「ここにありました」と教えてくれる。三田村は本姓であった。
     三田村家の墓域の中央には、「厳王院殿鳶魚玄龍開士」と「龍珠院妙恵日貞大姉」と並んで彫られた新しい墓石が建っている。墓誌を見れば、「昭和二十七年五月十三日 三田村玄龍 行年八十三。昭和二十六年二月三日 三田村十二世高松氏 行年六十六」とある。玄龍は鳶魚の本名である。三田村家も八王子同心を務めた家柄だが、鳶魚は明治三年(一八七〇)生まれだから同心にはなっていない。
     言うまでもなく鳶魚は江戸学の創始者である「あんまり膨大で、とても読み切れないね。」姫は少しづつ読んでいたのではなかっただろうか。中央公論社から全二十八巻の全集が出ていて、今ではほとんど手に入らないが文庫本にもなった。江戸の膨大な未刊行の写本類を読み込み、古老に問い質して学を構成したが、典拠を示すことが少ない。かつて歴史学界からあまり評価されなかったのはそのためだ。

     翁の江戸学というは、実に方面の広いもので、政治、経済の方面より、末は市井の事に至るまでに、翁はその注意を向けて、何でも知り、何でも自家薬籠中のものにしようとしていられたのだから、翁は該博そのもののようだったといってよく、事江戸に関する限り、翁に問うて即答の得られぬことなどはないところまでに行っていられた。それは、まったく驚くべきものだったといっていい。
     そうした仕事を、翁は中年から始められたので、その若い頃は三多摩の壮士として、政治に夢中になっていられたというのだから、意外といえば意外で、来島恒喜が大隈さんに爆弾を投じた試験には、若い翁は、どこかの四つ辻で、見張をする役目をしていられたなどということも仄聞している。しかし後の翁は、そうした過去の経歴などは、一切語ろうとせられなかったし、翁にさようなことどもを語らせようとした人もなく、今では雲中の出来事のようになってしまっている。(中略)
     ・・・・そこで落ち合った人から、「先生の御出身校は」と問われ、言下に、「寺子屋です」というなり、同文庫へ閲覧に来ていた岡本靖彦さんに、「岡本君、ぼつぼつ昼だ。何か食いに行こう」と同氏を伴って、ぷいと出てしまった。どこかの学校の教師だったかも知れないが、翁を捉えて出身校を問うたりする没常識な人が、昭和十年代の東京にいたというのに驚かされる。翁は誰とでも快く話そうとする、門戸開放主義者だったのであるが、自分の出身校を鼻にかけたりする男には、けんもほろろな人間に一変した。(森銑三「三田村鳶魚翁の思出」)

     もうひとりの原胤敦は八王子千人頭で、寛延二年(一七四九)に生まれて 文政十年(一八二七)に死んだ。中央にある青石板碑型の墓が「原了潜入道平胤敦墓」である。左隣の原新助平胤暉は弟だ。
     文化十年(一八一三)、幕命によって『新編武蔵風土記稿』の編纂に従事したという。これは昌平坂学問所地理局による事業で一八一〇年に稿を起して一八三〇年に完成した、全二六六巻の大部のものである。江戸時代の地誌として根本史料になるものだが、手元にないからなかなか利用しにくい。胤敦がどの程度関わったのだろうか。
     巻末の「新編武蔵風土記稿編輯姓氏」によれば、調方出役(監修者か)が頭取の西丸御小姓組御番・間宮庄五郎士信を筆頭に八人、調方出役並が四人、調方手伝が四人、他に「調人場所替並辞免死失」として十五人の名が挙げられる.
     そして「別段多摩高麗秩父三郡取調」として八王子千人頭原半左衛門胤敦、同原半左衛門胤廣他、同心頭が六人、辞免並死失が三人である。つまり、武蔵国全体のうち、多摩、高麗、秩父三郡の部分を八王子千人同心が請け負ったのである。胤敦はその責任者であるが、同名の胤廣は嫡男だろうか。

    蝦夷地御用を命じられ北海道に赴任、箱館奉行支配調役となる。寛政十二年(一八〇〇)、北方警備と開拓のため自らの一行は白糠へ、弟の新助一行は勇払へ千人同心をそれぞれ移住させたが、極寒の地のため犠牲者が出るなど困難を極めた。(ウィキペディアより)

     八王子千人同心と蝦夷地との関係なんて、私は全く知らなかった。寛政十一年(一七九九)、胤敦は蝦夷地移住の願いを出し、それが十二年に認められたのだ。十年(一七九八)には、近藤重蔵と最上徳内によってエトロフ島に「大日本恵登呂府」の標柱が建てられ、松前藩領のうち東蝦夷を幕府直轄地にすることが決まっていた。十二年には伊能忠敬に蝦夷地測量が許されている。松平定信政権も、遅ればせながら蝦夷地に目を向けようとしていた。
     胤敦の申請には、天明期の凶作によって同心の二三男の生計維持が困難になってきたことが背景にあったようだ。千人同心ならもともと半士半農だから、ロシアの脅威への防衛を兼ね農地開拓に当たればよい。要するに屯田兵である。しかし北海道の気候をずいぶん甘く考えていたのではないか。

     ユウフツ(勇払)・シラヌカに移り住んだ者は、あわせて百三十人となる。このうち三十三人が八王子にかえることなく、蝦夷地で犠牲者となった。白糠での犠牲者は十七人で、このうち十五人が三年目の享和二年(一八〇二)に死んだとされている。
     多くの犠牲者をだしたのは、(一)自然条件に対する理解と対応が適当でなかった、(二)生活必要品を手当することができず、予定していた自給自足の農業も定着することなく、食糧不足を経験することになった、(三)幕府としても漁場開設の努力に比べると、寒冷地農業の技術指導も、それを育てる体制もなかった、ことになる。
     http://www.hokkai.or.jp/history/kusiro-mukasi/2-3.html

     四分の一が蝦夷地で死んだのである。先駆的な試みではあっても、余りにも無謀だったと言わざるを得ない。近藤重蔵や間宮林蔵はアイヌと同じものを食って、なんとか気候に適応したのである。本土の作物が蝦夷地で育つかどうかのテストさえせずに、いきなり移住開拓を敢行するのは無茶である。
     もうひとつ、私はこの名前から原胤昭を連想した。ごく身近な一族ではないのか。「誰ですか、それ。」「江戸町奉行所の同心で明治維新後にクリスチャンになった。」「ああ、十字屋の。」姫も知っていた。ただし同心は誤りで、南町奉行所最後の与力であった。
     調べてみると、どちらも千葉氏庶流の下総原氏に由来するが、戦国期に分かれた家らしい。「胤」の字が千葉氏の証だ。そして千葉氏は桓武平氏の裔を称しているので、さっきの墓に平胤敦と彫られているのである。
     胤敦は、武田信玄に仕えた原胤歳(甲斐原氏)の裔である。武田氏滅亡後、その子である胤従が家康に仕えて、八王子千人同心頭十二家の一つとして八王子に土着した。
     一方、切支丹殉難史で有名な原主水(胤信)がいる。千葉氏の筆頭重臣の子として下総臼井城で生まれた。千葉氏が北条氏に加担して滅んだ後、家康に仕えた。御徒組頭や鉄砲組頭に任ぜられたが、切支丹棄教の命に応じず、額に十字の烙印を押され、手足の指を切断されて追放された。それでも布教活動をやめなかったため、元和九年に火刑に処せられた。高輪の切支丹殉難碑には三度程行っただろうか。胤昭は主水の大叔父である胤親(手賀原氏)の裔になる。
     八王子に直接の関係はないが思い出してしまったから胤昭についても、ちょっとだけ書いておこう。家職である奉行所与力を継いだのは慶応元年(一八六五)である。明治五年(一八七二)に洗礼を受けてクリスチャンとなった。殉難した先祖のことがどれほど影響していたか。聖書頒布のためにキリスト教書店の十字屋を開き、出獄人保護、児童虐待防止、労働者のための小住宅経営などの社会事業に挺身した。私がこの人物を知ったのは、山田風太郎『地の果ての獄』、『明治十手架』によってであった。姫は松井今朝子の小説で読んだと言う。

     墓石探し 巡り当てれば 蝉しぐれ   午角

     「よかった。やっと目的が達成できましたね。」それにしても、折角案内板を立てているのだから、矢印などの標識を作ってもよいのではあるまいか。
     「それでは駅に戻るだけです。」その前にコンビニで休憩がてらお茶を補給する。そして駅前に着いたのが三時を少し過ぎたところだ。マリオの万歩計で一万五千歩。八九キロ歩いたことになるか。さてどこで反省しよう。
     「華の舞」に暖簾がかかっているので覗いてみたが、四時開店だった。「それじゃ駅ビルに入りましょうか。」サザンスカイタワーの案内板を眺めてみると日高屋がある。「日高屋じゃね。」ビールが飲めることは分かっているが、落ち着いて反省する店ではない。「まるかみ水産っていうのはどうだろう。」「凧すしですね。」寿司屋で飲むのは少し勇気がいるが、駅ビルの中の店である。そんなに心配することもあるまい。取り敢えずビールを飲んで、華の舞に移れば良い。
     「七時から予約席になってしまいますが。」そんなに長居する積りはないのだ。ビールが旨い。「五臓六腑に沁み渡るね。」「ところで六腑ってなんだろう。」「胃の腑でしょう。それに肝臓。」「それは臓になるよ。」「ヒゾウはどうかしら。」「それだって五臓じゃないか。」こういう基礎的なことが私たちには分からなくなっている。
     「五臓」とは、肝・心・脾・肺・腎を指す。「六腑」とは、胆・小腸・胃・大腸・膀胱・三焦である。三焦とは、どうやらリンパ菅のことらしい。西洋医学とは全く概念が違うのだから、まず正解は出なかっただろう。

     笛太鼓遠く聞こえてビール干す  蜻蛉

     刺身六点盛りを頼んだのに、どう数えても八点ある。「それとこれとは同じですか。」「それはイサキだし、これは違うんじゃないの。」「これは烏賊だよ。」姫はここ一週間ほど、夫君が釣ってきたイサキを食べ尽くすのに苦労しているらしい。「刺身でも塩焼でも、そればっかりじゃ飽きちゃいますよ。」
     若い衆に訊いてみても分からない。どうやら新人で、少し先輩が代わって答えてくれる。「八点盛ってます。三点盛りも五点にしてますから、サービスです。」こういうことがサービスだろうか。最初から八点盛りと言えばよいではないか。
     こういうところで普通はタバコは吸えない。「喫煙所はどこかな。」「そういうのはありませんが、奥の座敷でどうそ。」灰皿を奥の座敷に持ってきてくれる。「従業員が休憩してますけど。」確かに男が寝ているが、それは問題ではない。一瞬、この店だけで最後まで行ってしまおうかと思ったほどだ。しかしツマミが少ないから、腰を落ち着けて飲むには少し物足りない。ビールを二杯飲んで、九千円也。それでは華の舞に移ろう。
     もうビールは要らないから、最初から焼酎にする。碁聖は飲めず、姫も焼酎は飲まないので一本でちょうど良い。
     最後は五人でカラオケだ。画伯は昼からカラオケに行こうと張り切っていたのだ。碁聖の声量は相変わらずだし、画伯の丁寧な演歌も変わらない。私も久し振りに舟木一夫の『初恋』なんか歌ってしまった。
     今日は雨に降られずに済んだ。

    蜻蛉