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    日光街道 其の十 復活編(野木~小山)
    平成二十七年五月三日(日)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2015.05.14

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     本編の二月十四日(土)を欠席したので、今回はひとりで補講を受けることにした。六日連続の休みになって、時間を持て余しているのである。しかし頼りは姫の資料と例の余り信用できない地図しかないから、ちゃんと目的の史跡に出会えるかどうか。下調べをしておけば良いものを横着して家を出る。「其の十一」には暫く欠番になる旨書いておいたが、案外早く実行できた。
     旧暦三月十五日とは言いながら、連日二十七度ほどにもなって既に夏本番の気配だ。穀雨の末候「牡丹華」である。日差しが強いのでサングラスが欠かせない。
     宇都宮線は意外に混んでいて座れない。この時期はみんな遠くへ行っているのではなかったのか。窓から見る沿線は、まだ水を張ったばかりだったり、苗を植えたばかりの田圃が交互に現れてくる。そう言えば先週オカチャンが、これから田植で忙しくなると言っていた。各駅停車だから大宮から野木まで、五十分近くずっと立ちっぱなしはやはり疲れる。
     野木は、今の団地に決める前に家を探したことがある。ローズタウンという新開の住宅地で、当時は三十坪ほどの家で二千五百万円という相場だったが、大宮から遠すぎたので断念した。あれは東口の方だったろうか。
     野木駅の西口に出て九時五十分に出発し、十分ほどで国道の友沼交差点に出る。この区間は前回クルリンが苦労した道だ。ここから街道歩きがスタートする。今回はほぼ国道四号線を逸れることなく北に向えばよい筈だ。麦畑はまだ青い。立派な門構えの家がある。役場入口の信号を過ぎ、次の角の左が法恩寺、右が友沼八幡だ。友沼交差点から一キロというところだろう。しかし一人で歩くのは余り面白くない。

     姫の案内資料の順に従って、取り敢えず信号を渡って法音寺に入る。下都賀郡野木町友沼九六二番地。野木はまだ市になっていないのである。
     山号は地蔵山、真言宗豊山派だ。山門は仁王門である。ガラスを嵌めた中には黒光りする、割に新しい金剛力士が立っている。しかし仁王門と思ったのは間違いで、中に入ると裏側には、比較的小さな四天王が二体づつ納めてあるのだ。北側が持国天と多聞天、南側に毘沙門天と広目天をおく。金剛力士と四天王が同居する山門は珍しいのではあるまいか。
     境内に入ると中門の右前には、「高祖弘法大師行頌円満塔」と刻んだ石柱を真ん中にして、右に「二十三夜塔」、左に「十九夜」が並んでいる。門の左手には芭蕉句碑が建っているが、普通にみるものとは違って、上に芭蕉翁とあって句が続く。裏面には安永九庚子中秋・秋元性李叟建立とある。

     芭蕉翁  道ばたのむくげは馬に喰われけり

     普通は「道ばたの」ではなく、『野ざらし紀行』の「道野辺の」が普及している。案内板によれば、安永九年(一七八〇)に今日庵安袋の門人である秋元性李叟が建てたものだ。知らない名前ばかりだが、調べてみれば安袋は利根出身の森田元夢と言う。元文四年(一七三九)、十三歳の時に其日庵二世長谷川馬光に師事した。寛延四年(一七五一)、馬光の死によって竹阿に兄事したが、明和七(一七七〇)に竹阿が関西に移ると、其日庵三世溝口素丸に師事したという。明和八年(一七七一)、四十五歳で江戸に出て今日庵を再興した。其日庵も今日庵も山口素堂を祖と仰ぐ葛飾派の号である。天明五年(一七八五)には一茶が今日庵に入門した。
     秋元性李叟は分からない。安永九年当時、館林藩主だった秋元永朝ではないかと推測している人がいる。(0http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000/58226344.htmlより)
     天和二年(一六八二)のお七火事で深川芭蕉庵を焼け出された芭蕉は、甲州谷村藩主秋元喬知の国家老・高山伝右衛門の招きで甲州を訪れ、半年ほど滞在している。秋元家はその後館林に移封されるのだが、その縁で、秋本性李は秋元氏の末ではないかと推測しているようだ。私には真偽の判定がつかない。ネットを検索しても秋元性李は出て来ないのだ。
     中門を潜ると、右手には如意輪観音、十九夜塔、古い様式の五輪塔、宝筺印塔などが一角にまとめられている。珍しいのは、角型石碑の上半分を円形に刳り貫いて如意輪観音を浮き彫りし、その下には宝暦三年の銘と「十九夜念仏供養」の文字が彫られているものだ。ここまでは普通に見るが、更にその石碑の上に丸彫りの半跏像を載せている。思惟像ではないので、この仏は何か分からない。十九夜塔が圧倒的に栃木県に多いのは、十一回を参照してもらえばよい。
     珍しい庚申塔もある。笠付角柱に合掌型六臂の青面金剛を彫り出したものだが、三猿が一緒にいないのだ。足元には「みざる」、右側面に「きかざる」、左側面に「いわざる」と、三面に一匹づつ配している。姫の資料には「古刹の面影は失われている」と書かれているが、こうした石仏を見ただけでも価値があった。
     寺の西側から思川にかけての河岸段丘上には法音寺城があったらしい。小山氏の家臣菅沼氏によって築かれ、小山氏滅亡と共に廃城となったと考えられている。大部分は宅地化したが、僅かに土塁と堀跡が残っているという。
     信号を渡って友沼八幡に入る。一の鳥居、二の鳥居共に石造明神型だ。とわざわざ記すのは、この後も、この形の鳥居に何度もお目にかかるからだ。この辺の人は、この形の鳥居に格別の趣味があるらしい。石造の鳥居は木造よりもコストはかかる筈で、この近辺の財力を示すものかも知れない。この神社は古河城を出発した将軍が最初に休憩する場所だったが、現在の境内はそんなに広くない。
     簡素な拝殿の前に、外側から石灯籠、古くて小さな狛犬、高い台座に乗った獅子と並んでいる。小さな狛犬は相当古く、足もなくなっていて蹲っている形だ。拝殿は白木で、虹梁上部の龍や木鼻の彫刻が美しい。
     社殿の裏手右側には樹齢五百五十年と推定されるオオケヤキが聳え、その横には石祠が六七個ならんでいる。何も説明がない石祠を眺めていると、さっき法音寺でも見かけた中年男性がやって来た。ガイドブックらしい本を片手にしているので、やはり日光街道を歩いているのだろうか。しかし、その男は特に観察することもなく、足早に去って行った。
     少し遅れて私も神社を出る。四五百メートル程歩くと小山市乙女に入った。ただ電柱の住所表示は「ここは乙女」とあるだけで、番地も何も書かれていない。それにしても乙女とは優雅な地名だ。由来は何だろうと調べていると、レファレンス協同データベースで、宇都宮市立図書館の調査を見つけた。図書館がこうしたことを調べて公表してくれるのは有難い。

     『乙女の里物語』に、乙女の由来の記述があった。明治四十四年(一九一一)、間々田尋常高等小学校長宮崎伊八郎により編纂された『間々田村郷土誌』によれば「乙女ハ古来、御止ト書キシナリ。其後、音女ト書キタルコトアリ。更ニ其ノ後ニ至リ乙女ト改メ称シタリ」とある。また、同書には、「乙女」が記録されている最も古い文書といわれる元徳四年(一三三二)の土地台帳(金沢文庫所蔵、『乙女郷年貢帳』には「乙女郷」と記されており、鎌倉時代には地名「乙女」があったことがわかる。
     『とちぎの地名』に地名の由来に関する記述があった。オトメ(乙女)のオトは、崖・傾斜地を意味する。メ(目)は二つの物の接点・境目の意である。乙女は思川に臨む崖縁(台地箸部)に由来する地名と思われる。
     http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000134111

     つまり御止か崖縁か、二つの説があるのだが、崖をオトと言うのは初耳だ。いずれにしても地名を探る時に、現代の漢字表記に引き摺られてはいけないという例である。さっきの男は随分先を歩いている。
     東京から六十九キロの標識が立つ角に大木が一本立っている。木の根元に小さな石祠が二つ置かれ、背の低い石造の神明鳥居も建ててある。ヰセキ関東栃木支社小山営業所(小山市乙女八五八番十)の向かい側だ。狭い道を隔てて北側には、田植えを終えたばかりの水田が広がる。何の説明もなく、この時は分からなかったが、どうやら乙女一里塚の跡らしい。ネットの記事を探してみると、そのどれもが半信半疑ながら、これが一里塚だろうと推定している。それなら日本橋から十八里だ。石祠の前に、ミニチュアの狐を載せてあるのはお愛嬌だ。小山市教育委員会はこういうことに関心がないのだろうか。
     そろそろ若宮八幡がある筈だと注意していると、前方にさっきの男が左から出て来るのが見えた。あれかな。やはりそうだった。若宮八幡である。小山市乙女一〇三二番地。例の通り石造明神鳥居があり、その右脇に小さな大杉神社の祠が建っている。大杉神社は利根川流域の船頭の信仰を集めた神である。本社は常陸国信太郡安婆嶋(茨城県稲敷郡桜川村阿波)で、信仰の範囲は利根川流域を中心に九十九里から東北の太平洋岸まで及ぶ。本社のある地名から、アンバサマとも呼ばれるらしい。末社の扱いだが、おそらくこの地に最初に祀られた神ではなかったろうか。
     左に大日如来坐像の説明板が設置されているが、かなり古くて文字がかすれてしまっている。訪れる人も少ないのだろう。そして林の中の左手にその大日如来像があった。宝永六年(一七〇九)、江戸湯島の渡部九兵衛が父母の供養のため、父の生国である下野国都賀郡寒沢のこの地に建立したものだ。黒光りする銅像で、かつては露天仏だったために「濡れ大仏」とも呼ばれたが、平成十四年に覆屋が作られた。大仏の右肩から何故か赤い襷が架けられている。蓮華座の正面に父母の法名と没年、右には建立年月日、左に施主の名が彫られている。施主の苗字は一見「渡戸」のようだが、「戸」に見える文字は「オオザト」で別の資料から判断して「渡部」に決めた。
     林の奥の八幡の社殿は小さなもので、笑っているような獅子が対で守っている。国道に戻る時に参道の入り口の石柱に気が付いた。「参道敷石 支那事変皇軍戦捷記念寄進」とある。
     垣根のアカメガシ(ベニカナメモチ)に白い小さな花が咲いているのは、初めて見るかも知れない。民家の塀の上から重そうなフジが垂れ下がる。ブロック塀を少しへこませて、十九夜塔に屋根をかけている。話し相手もなく一人で歩いていると淋しくなってくる。日差しが強くなってきた。
     少し先の国道東側の仏光寺(絵唐山)の門前には、金剛力士が露天のまま立っている。比較的新しそうな像だが、これは珍しくなないだろうか。姫の資料にはないが、中に入るとここにも十九夜塔(如意輪観音の浮彫を上部に施したもの)、十九夜供養塔(文字だけ)がある。小山市南乙女一丁目四番地十六。
     その向かい側にやや斜めに入る道が乙女八幡の参道だった。小山市乙女一二四九番地。姫の資料には書かれていないから、みんなは寄らなかったかも知れない。この神社も石造明神鳥居で、説明を見ると小山市に現存するものでは五番目に古い。鳥居の脇には日清日露戦役徴発軍馬記念碑が建っている。少し疲れた。十時五十六分である。

     乙女八幡宮は、鎌倉時代に創祀されたと伝えられる。
     元禄十六年(一七〇三)に当宮別当寺だった光明寺の住僧舜誉が願主となって建立したこの鳥居には、施主として乙女村の青木主水尉照朝と下館大町(茨城県)の有力商人高嶋忠左衛門勝広、栃木町の石屋三左右衛門らの名が銘文に刻まれている。このことから当宮は、西方の思川沿いに開けた、乙女河岸で活動する商人からも崇敬されていたことがうかがわれる。

     後で分かるのだが、乙女村の青木主水尉照朝というのが、乙女河岸の三軒の問屋の一人だろう。両側に大木が並ぶ参道は結構長い。二の鳥居も石造だ。地味な拝殿の右側は広場になっていて、ブルーシートをかぶせた土俵がある。ここにはかつて別当寺の光明寺があり、廃仏毀釈で廃寺になったのである。その脇はジャングルジムと鉄棒とブランコを設置した小さな公園だ。さっきまで親子がブランコで遊んでいたのに、今は一基のブランコが人影もなくて揺れている。

     ふらここや社の風に揺られをり   蜻蛉

     参道を戻る時に気付いたが、両側の畑は梨畑だろう。花は終わっている。
     国道に戻って一キロほど歩いたろうか。姫の資料では次は乙女河岸なのだが、どこから曲がればよいか分からない。位置的には間々田駅入口より手前の乙女交差点で曲がるのが近そうだが、持っている地図には間々田駅入り口からの道しか示されていない。後で調べると、やはりここで曲がれば真っ直ぐ乙女大橋に行けたのだ。
     ローソンでお握りを三つ買った。「アタタタタアスカ?」「何?」レジの男の言葉が全く分からない。聞き返すと「お温めよろしいですか」とたどたどしく答える。この言葉もおかしいが、取り敢えず意味は通じた。しかしお握りを温めるかと訊かれたのは初めてだ。
     次の間々田駅入口の交差点を左に曲がると、ピンクのハナミズキを街路樹にした新しい道である。この暑さのせいか、ハナミズキの花は少しへたばっているようだ。広い道路に出ると、正面の住宅地へ続く道の前に博物館の表示がある。少し行けば小山市立博物館だ。小山市乙女一丁目三十一番七。
     二階の展示室に上がる時、階段から降りてきた小学生の女の子が「こんにちは」と元気よく声をかけてくる。連休で遠出のできない家族であろうが、正しい日本の少女である。ここまで誰とも話をせずに歩いてきたおじいちゃんは嬉しくなってしまう。
     二階に上がると、七十歳前後の男性が声をかけてくる。どうやら学芸員らしいが、暇なものだからつきっきりで説明してくれる。最初は縄文時代の竪穴式住居の復元である。「丁度、この場所で発掘されたものです。」
     「埴輪は珍しくもなんともないものです。」土器に混じって鉄刀も展示されている。十センチ程の銅鐸もある。「銅鐸はこれ一つしか見つかっていません。」「伝製品でしょうか?」「何とも分かりません。ただ、銅鐸発見の北限のようです。」古墳の石室を復元したものは珍しいのではないだろうか。「かなりの権力者がいたんだと思いますよ。」
     「ただ弥生式土器が殆ど出土していないんです。この地方は縄文から一挙に古墳に入ったようです。」それは興味深い。この地方に弥生文化が訪れていない筈はなく、土器の様式だけでは時代の内容は分からないということだろう。
     ここから北には国府や国分寺跡もある。縄文時代から重要な場所だったのではあるまいか。「やはり思川流域ということでしょうね。」つい最近、西東京市の下野谷遺跡公園に行ったばかりだから、川と縄文遺跡の関係が気にかかる。「ここで焼いた瓦が薬師寺や国分寺で使われました。」
     説明は有難いが聊か面倒になってきた。中世に入ると一気に小山氏の時代になる。「最後は北条についたので滅びてしまいました。」「関東は殆どみんなそうでしょう。」「そうですね。」
     緑泥片岩の板碑も集められている。「これは鎌倉時代ですね。」「戦国時代にはなくなってますから。」近世は舟運の時代だ。乙女河岸の模型も展示されている。「江戸からここまでは大型の高瀬舟できて、ここから上流へは小型のベカ舟で行ったようです。」

     思川は利根川水系上流の一支流で、江戸(東京)と下野とを結ぶ動脈の一つとして、小河ながら水深く舟運栄え、その乙女河岸は典型的な中継積換河岸とみることができる。(中略)
     近世初頭以来、一般商人荷の積み卸し港として開かれ、さらに日光廟との相関関係から特殊性が付与されて高度の機能を発揮していた。(中略)
     乙女河岸は、奥州街道の宿駅間々田の外港として、渡良瀬川の支流思川の下流に位置する。利根本流から渡良瀬川に入るとすぐ思川に移る。そして、乙女河岸まで、オオブネ(オヤブネともいい房丁船・高瀬舟)が廻航し、ここから上流はカミカワ船としてベカ船が、黒川の分流を出す壬生河岸まで遡っていた。(北見俊夫『川の文化』)

     「ここから河岸まではどの位でしょう?」「歩いて十分ほどですね。小学校をめがけて行ってください。」「それじゃ、有難うございます。」ここで「思川河岸跡」というパンフレットを手に入れたのが良かった。
     博物館の裏手から中学のグランドを右にして進むと、左前方に小学校が見えた。その向こうが土手になっている。小学校の角を曲がると乙女大橋だ。狭い車道と人道が分かれている橋である。博物館から一キロの距離になる。河川敷は広いが水量はそれほど多くない。その左手に四阿があって、その横には米俵を積んだ高瀬舟のモニュメントと解説板もある。

     乙女河岸の起源は戦国時代にまで遡るとされますが、注目されるようになるのは慶長五年(一六〇〇)七月二十五日の「小山評定」からです。この時、徳川家康は会津の上杉景勝を討つべく小山に進軍しましたが、そのさい武器や兵糧を乙女河岸から陸揚げしたとされています。
     帰路は大雨によって渡良瀬川筋の栗橋の舟橋が押し流されていたため、八月四日乙女河岸から乗船し武蔵国西葛西に下船したことが「徳川実記」に記されています。そこでこれを吉縁として、家康を祀る日光東照宮の造営や修復に際しては、その建築資材を陸揚げする重要な役割を果たすことになったとされています。

     思川は足尾山地の地蔵岳を水源として、栃木県内を流れて渡良瀬遊水地に入る。ウィキペディアによれば「思川の名称の由来は、寒川郡胸形神社の主祭神である田心の媛にちなみ田心川と書かれたのが、いつしか思川となったと伝えられる。
     乙女河岸は三軒の問屋が支配していた。山中八郎兵衛、青木与右衛門、青木覚左衛門家である。問屋にはタナコ(小作人兼荷役人夫)が付属し、他村の人足を使うことがなかった。青木家が二つあるが縁戚関係はないと、北見俊夫の本には書かれている。さっきの乙女八幡で見た鳥居の青木主水尉照朝がどちらの家か分からない。大きな石柱が置かれているのは、黒田長政が日光東照宮に寄進した鳥居の一部で、高瀬舟で運ぶ途中で川に落ちたものと言われている。
     四阿では親子連れが飯を食べている。隣のテーブルが一つ空いているのでそこにリュックを下ろす。十一時五十分だ。汗が噴き出てくる。隣に座っているのは母娘と母の友人らしい。「パパとママとどっちが好きなの?」なんて愚かな声が聞こえてくる。あっという間に食べ終わり、十五分程で出発する。
     パンフレットの地図を見ると、この少し東に大杉神社がある。河岸の問屋が祀ったものだろう。小学校のグランド脇に人車鉄道跡の碑があるようなのだが、見つけられなかった。人車鉄道とは人力で押すトロッコである。野田でそれを知った。明治末期には思川を使った商品流通も衰退して、薪炭の輸送や、伝馬船による砂利取りとその運搬が中心になってくる。その砂利を間々田駅まで運んだのである。明治三十二年(一八九九)に開業し、大正六年(一九一七)に廃止された。
     更に真っ直ぐ歩くと、二股になった所に馬頭尊が二つ置かれている。すぐ隣がゴミ集積場なので、なんとなく残念な気がする。右が文政、左は明治の年号が見える。
     そして博物館まで戻ってくると、さっきは気付かなかったが、北側が国指定の「かわらの里公園」(乙女不動原瓦窯跡)だった。なかなかバカにできない公園で、窯跡の復元があまり見たことがない様子だ。

    この史跡は、奈良時代の頃(今から約千二百五十年前)、日本三戒壇の一つであった下野薬師寺に瓦を供給した瓦窯跡として注目され、昭和五十三年に国史跡として指定を受けました。
     発掘の結果、四基の窯跡、灰原(木の燃えかすを捨てた所)、粘土発掘抗(瓦の材料になる粘土を掘り出した所)、工房跡など貴重な遺構が見つかっています。また、下野薬師寺や下野国分寺跡から出土した瓦と同じ、ハスの花をかたどった文様の鐙瓦や唐草文様の宇瓦をはじめ、男瓦、女瓦など数多く出土しています。(小山市ホームページ)
     https://www.city.oyama.tochigi.jp/kyoikuiinkai/hakubutukan/kawarakamaato.html

     その北側が泉龍寺だ。石柱の左には「御瀧山泉龍寺」、右には「乙女不動尊」とある。小山市乙女一丁目二十五番八号。山門は朱塗りの鐘楼門だ。その右側に立つのが、享保三年(一七一八)に建てられたという「刻経塔」だろう。左には降魔の剣と思われる石塔が建っている。乙女不動尊と彫られた石柱の上に立つ像は、セイタカドウジかコンガラドウジか。首に赤いマフラーを巻いている。
     中に入れば、やはり十九夜塔が目立つ。池に架かる朱の太鼓橋の先には不動堂がある。本尊は千百年前に中禅寺湖から現れたことになっている。

     「御瀧山泉龍寺不動尊略縁起」によると、昔一人の異僧が日光中禅寺湖の湖水に浴して修行をしていました。百日目の満願の日の朝、湖上に光り輝くものがあるので何かと近づいたところ、不動明王の御尊像であったといいます。そのお坊さまは感激のあまり涙を流し、清滝の流れに沿ってお不動様を担ぎ南へと下ろうとしました。そのときお坊さまは「どうか有縁の地をお示し下さり、衆生を過去現在未来にわたって永く救済してください」と願をかけ、昼はホコリにまみれて歩き、夜は野山に臥して、お不動様の有縁の地を求めました。ちょうど乙女の里(現小山市乙女)にさしかかったところ、急にお不動様がズシリと重くなりました。耐えかねたお坊さまは、お不動様を置きひと休みしました。そしてもう一度お不動様を担ごうとしたところ、どんなに力を入れてもピクリとも動きませんでした。お坊さまはお不動様が選んだ場所はここなのだと思い、里人に説いて小さなお堂を造り、そこに安置することにしました。これが乙女寒沢の地にある不動塚です。
     のち乙女の地でも上の手に移しました。これが現在泉龍寺のある不動原です。泉龍寺の創建は正慶二年(一三三三)といわれております。

     本堂はその手前から左に曲がったところだが、姫の案内によれば芭蕉句碑があることになっているので探さなくてはならない。これだろうか。白く俯いて咲くのは何の花だろうか。その葉に埋もれそうに石が立っている。茶色の卵型の自然石で、文字は薄くて殆ど判読できないが、五行程の文字列があって、その真ん中の「川上」と読める行の下が「はせを」と読めそうだ。

     川上とこの川下の月の友  芭蕉

     姫の資料では明治二十五年(一八九五)に建てられたものらしいが、何の説明もないので由来はさっぱり分からない。因みにこの句は『続猿蓑』所収で、元禄五年あるいは六年の句だとされる。場所は小名木川の五本松、友は葛飾に住む山口素堂だろうと言われている。

     そして国道に戻る。間々田駅に近いところだ。車屋美術館というものがある。小山市乙女三丁目十番三十四号。元は乙女河岸で営業していた肥料問屋の小川家住宅で、大正時代にここに移築したという。その米蔵を美術展示室として改装するとともに、主屋・庭園なども一般公開するものである。乙女河岸に肥料問屋があるのは、江戸から下ってくる商品の主なものが肥料だったからだ。
     そろそろ逢の榎がある筈だと注意しているとあった。右側の二階建ての家のブロック塀の角に石碑が立っていた。石碑には「逢乃榎ここにありき」「江戸へ拾八里、日光へ拾八里」とある。「逢」は「間」である。江戸から十八里、日光まで十八里の中間地点であることから名付けられた。間々田の宿はこの辺から始まったのだろう。
     国道の西側に移って少し行けば隆昌寺だ。朱塗りに銅葺の屋根の山門である。小山市大字間々田一三二〇番地。家光の遺骸を東照宮に移す際、この寺に安置所が設けられ一泊した。朱塗りの門はそのためだろうか。
     境内には笠付の十九夜塔と、本堂不動尊が並んでいる。不動尊の方は、墓石型の石に「本堂不動尊」とあって、その上に不動明王が立っている。不動堂も朱塗りだ。寝起不動と言うのが面白い。

    当山の寝起不動明王は、むかし水戸城内龍江院に祀られてありましたが、元亀(一五七〇~七二)の頃、模庵和尚が明王の示現によって、尊像を背負い杖に縋って行雲流水の旅に立たれた。然し和尚は老弱であり日毎に衰弱がひどく、当地に辿りつくと足も動かなくなり、死ぬ苦しみで、一夜が明けようとする時、明王が枕辺に現れて申すには「この地こそ我が済度化縁の地なり、人々の秒難諸難を救って無量の福徳を与えよう」と和尚は寝起され、思わず尊像をお拝すると疲労と病が一時に消えて杖も使わずに立ち上がれたという。そこで人々は寝起不動尊と呼んで、万難消滅、万福生来を祈願してお堂を建てて尊像をお祀りしたといわれる。それ以後三十三年を一期として御開帳祈願が行われている。現在のお堂は延享二年(一七四五)に建てられたものです』

     さてこの辺に本陣跡がある筈だが、それらしき案内が見つからない。見つからないまま通り過ぎてしまったが、間々田の交差点を過ぎて百メートル程の、間々田三郵便局の向かいが本陣だったようだ。夏の日差しを首筋に受けながら、目的が見つけられないと疲れが増してくる。ほとんど北に真っ直ぐ伸びる道だから、昼過ぎの時間では道路の端に行っても日蔭がない。

     道中に片陰もなし間々田宿  蜻蛉

     ところで芭蕉も間々田宿に宿泊しているのだが、どこに泊まったかは分からない。天保十四年(一八四三)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠が五十軒である。ここまで栗橋が二十五軒、中田六軒、古河三十一軒、野木二十五軒と比べて、旅籠の数からいえば小さな宿場ではない。宿内の家数は百七十五軒、人口は九百四十七人。南(江戸側)から下町・中町・上町・土手向町より構成された。ここは中町である。
     「間々田ひも」の看板を掲げた家がある。小山市間々田一三一五番地。間々田は紐でも有名なのだろうか。店のホームページを覗いてみる。

    間々田紐は大正中期、初代の渡辺浅市が東京の組紐問屋深井誠太郎商店での年期奉公から実家の間々田に戻り、下請けとして店を構えたのがその始まりです。その後の昭和二十九年、民芸研究家の柳宗悦先生、近藤京嗣先生 が訪問され、「真田紐」の真田と地名である間々田の語呂が似通っているところから「間々田紐」と命名されました。特に益子町の日下田博氏(栃木県無形文化財技術保持者)の染め上げた絹糸を使った草木染の作品は柳宗悦先生から高い評価をいただきました。草木染の素朴で使えば使うほど味がでる風合い、機械ものとは違う手組みのやわらかさと上品さ、そして帯〆は一度締めると緩まず、着崩れを起こさないのが特徴です。http://www8.plala.or.jp/mmdh/sub1.htm

     右には乙女屋という菓子屋がある。小山市間々田一一五〇番地。大正元年の創業になる。干瓢のジャムをいれた「るかんた」や「十八里最中」「蛇まつり」などの菓子を作っているらしい。干瓢のジャムなんてどんな味がするのだろうか。干瓢好きなスナフキンに勧めたい。
     そして間々田四丁目の信号から左に入る道に、間々田八幡の鳥居が立っている。ここで、既に本陣を過ぎてしまったことが分かるのである。鳥居の手前には、常夜灯と電柱の間に緑のシートで覆った蛇が取り付けられている。もう一つは、常夜灯と間々田八幡の標柱を結んでいる。横断幕には「間々田のジャガマイタ」という意味不明な文字が記される。折角だから間々田八幡のホームページを開いてみよう。

    毎年五月五日に行われる『間々田のジャガマイタ』(通称『蛇まつり(じゃまつり)』)は、田植えの時期前に五穀豊穣や疫病退散を祈願するお祭りです。
    祭りの主役となるのは子供たちで、長さ十五メートルを越える竜頭蛇体の巨大な蛇を担ぎ『ジャーガマイタ、ジャガマイタ。四月八日のジャガマイタ。』のかけ声とともに町中を練り歩きます。
    関東有数の奇祭としても知られるこの祭りは、我が国の農耕祭事・除災儀礼を考える上できわめて貴重であることから、平成二十三年に国の選択無形民俗文化財に指定されました。
    http://www.mamada-hachiman.jp/saijin/saijin.html

     蛇が参ったということか。四百年近く続く祭りだとの言い伝えもあるが、その証拠は見つかっていない。蛇は龍と同じく水神である。八大竜王に雨を祈願すると言っているが、思川の氾濫にも関係したものではないか。
     大きな参道新設記念碑が建っているからには、この道が参道なのだろう。しかし途中まで歩いてみたが、参道と言うより普通の住宅地の曲がりくねった道で、終着点がまるで見えない。手持ちの不親切な地図で見ても、少し離れているようだから途中で引き返す。こういうとき、誰かと一緒だったら勢いで行ってしまうのだが、一人だとこういうことになる。後で地図を確認すると、国道から四五百メートルある。かなり広い公園になっているようだ。知識として、由緒だけでも読んでおきたい。

     間々田八幡宮の創建は大変古く、今から約千三百年ほど前の奈良時代中期(天平年間)と伝えられています。
     九百三十九年頃に起きた平将門の乱に際しては、百足退治の伝説でも知られる武将・藤原秀郷が、当八幡宮ほか沿道の神社仏閣に戦勝を祈願し、見事乱を平定。このご神徳へのご恩返しとして、神社にご神田を奉納されました。
     以降、当八幡宮が鎮座する一帯は、飯田(まんまだ)の里と呼ばれるようになります。
     鎌倉幕府成立直前の一一八九年。奥州藤原氏との合戦に臨んだ源頼朝は、先の藤原秀郷の戦勝祈願を知り、自らも当八幡宮に参拝。境内に松を植えました。
     この松は、一九〇五年(明治三十八年)に枯死するまで『頼朝手植えの松』として、氏子等により大切に守られていたそうです。
     さらに江戸時代に入り、日光街道が幕府の手により整備されると、この地がちょうど日光と江戸の中間点となることから、地名が飯田(まんまだ)から間々田(ままだ)へと改められました。
     また、この時代には朝廷が日光東照宮に毎年例幣使を遣わしていましたが、当八幡宮が大変由緒あることを聞き、道中必ず参拝することが習わしとなっていたそうです。
     http://www.mamada-hachiman.jp/saijin/saijin.html

     無理をしてでも立ち寄って見るべきだったか。しかし間々田の由来が飯田にあるというのは、ちょっと信じ難い。「まま」は『言海』によれば小児の語である。神社に寄進した田を飯田(ままだ)と呼ぶのはかなり無理があるのではないか。神田、美土代、三田、御田と呼ぶ地名の方が多いのだ。
     少し行くと浄光院がある。小山市間々田一二五二番地。この辺りが間々田宿の北のはずれになるのだろう。駐車場のような参道の奥に鐘楼門があり、その後ろに本堂の屋根が見えるから境内は狭そうだ。特に寄らなくても良いだろう。

     地図ではこの辺から千駄塚まで、国道を西に逸れる旧道がありそうなのだが、それらしい曲がり角が見つからない。仕方がないのでこのまま進む。後で正確な地図を確認すると、やはり旧道は残されていない。右手の大きな建物は天理教会である。左には菓子の蛸屋があった。この店については其の十一(小山~小金井)で触れているのだが、その支店だろう。
     そして千駄塚の信号から二百メートル程行くと、左の角に千駄塚古墳の標柱が立っている。左に曲がり、片側にアパートが立つ百メートル程の参道を行くと、正面に浅間神社の鳥居があった。
     この前を通る道が旧街道だろうか。とすれば、この南の方に間々田の一里塚があるのかも知れない。しかしこれは地図がおかしい。調べてみれば、さっきの蛸屋の場所である。蛸屋の住所は小山市大字間々田七九二番地九だ。
     鳥居の奥は木の生い茂る小山になっていて、これが古墳だ。鳥居の横には板に画鋲でとめた説明が貼ってある。

     この古墳は、墳頂の平坦部に浅間神社を祀っているので、別名浅間山古墳とも呼ばれている大形の円墳である。
     墳丘の直径は約七十メートル、高さ約十メートルで、墳丘裾部から約三メートル立ち上がったところに幅七~八メートルの平坦な段築面があることから、二段築成である。
     円錐形の形をした墳丘の周囲には、幅十五~二十メートルほどの周溝がみられ、その外側にある周庭帯は周溝がよく残っている西側と北側に認められる。
     内部主体が未調査であるため築造年代は不詳であるが、六世紀代のものという見方がつよい。
        栃木県教育委員会 小山市教育委員会

     頂上に浅間神社の小さな社殿が建っている。あんみつ姫は多分ここまでは登っていないだろう。(後で姫から、山頂に登ったと教えて貰った。)屋根がビニールシートに覆われているのは、修理中ということか。一時十五分。野木駅から一万七千歩だ。ペットボトルのお茶が少なくなってきた。
     粟宮南の信号角に西堀酒造がある。小山市大字粟宮一四五二番地。「国登録有形文化財指定酒蔵」の大きな看板が掲げられている。確かに建物は古そうだ。それは良いのだが、その上に書かれた「若盛門外不出・若盛奥座敷」の文字がなんだか怪しげである。店頭に自動販売機があるのでお茶を補給し、中に入ってみる。すると酒よりも純米酒ケーキとか純米酒ゼリーとかTシャツなんかが並べてあるのだ。

     弊社商品の内でも特に「門外不出」シリーズは、香りの良さやキレが良いため人気も高い商品です。栃木県の米、日光山系伏流水である弊社の水を使って醸した「栃木県」ならではの味わいをお楽しみいただける逸品となっております。栃木県の地酒として、県内中心に御愛飲いただいている数量で無くなるため「門外不出」と銘し、地元の方々の御好評をいただいているお酒です。どうぞお楽しみください。

     門外不出とはこういうことだった。つまり、余所者には飲ませたくないという趣旨である。その癖、ネットで注文できるようにしているのはおかしいではないか、桃太郎がいれば交渉して買っただろうか。予約をすれば見学もできるらしい。
     本編ではみんながこの店に入り、「門外不出」や酒粕を買ったらしい。隣には「鳥の王様」と言う居酒屋がある。宗匠は絶対に入れない店だ。
     次の粟宮交差点の左が安房神社だ。小山市粟宮一六一五番地。延喜式内社だから由緒は古い。延喜式では、「阿房神社」、明治以降になると安房神社で、昔は粟宮明神とも書かれた。地名は粟宮である。
     石造の明神鳥居から長い参道が続く。かなり広い敷地のようで、周囲は鬱蒼と木が生い茂っている。百五十メートル程行くと、右の石段を登ったところに社殿がある。その鳥居と向き合って、少し離れて左には両部鳥居があって、そこからも参道が南に伸びている。こちらの方が本来の参道ではあるまいか。その間には池があり、中央に小さな水神社が祀られている。

    延喜式内 安房神社 由緒
    崇神天皇の御代に創建され、仁徳天皇の御代に再建された。天慶二年、平将門下総猿島に拠って叛するや、俵藤太秀郷(藤原秀郷)が戦勝を祈願し、御宝前に汁器、供田を寄進して永世守護神と尊敬した。

     祭神は天太玉命と莬道稚郎子命の二柱である。天太玉命は忌部氏の祖とされる。莬道稚郎子(うじのわきいらつこ)命は応神天皇の子で、仁徳天皇の異母兄にあたる。『日本書紀』には、仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと書かれている。『先代旧事本紀』では、物部多遅麻連の女の山無媛連を母とするので、こちらは物部系である。
     天太玉命を祀るのは、安房神社(安房国一宮)は天太玉命の孫・天富命によって創建されたことになっているからだ。

     『古語拾遺』には、天太玉命の孫・天富命が阿波忌部を率いて東遷し、房総半島に上陸したとしている。この記述の中で、「麻」の古語を「総(ふさ)」というとし、古代の総国(のち安房国・上総国・下総国に分立)は東遷した忌部が麻を植えたことによるとしている。また、穀(かじ)の木を生むことにより結城郡が、阿波忌部の居るところとして安房郡(古くは阿波とも表記。のち安房国)が名付けられたとしている。
     同書では、天富命は安房郡において太王命社を建てた旨が記され、現在の安房神社に比定される。
     なおこれら伝承がある一方で、安房に忌部が設けられたという史料等は見つかっていない。そのため、この伝承は東国における中臣氏の勢力と対抗するために、忌部氏が奈良時代に造作したものと見るむきもある。(ウィキペディア「忌部氏」より)

     由緒にある「崇神天皇の御代に創建された」というのは、四道将軍のひとり武渟川別(たけぬなかわわけ・古事記では建沼河別と表記)によるというものだ。これは姫の資料にも書かれている。武渟川別は阿部氏の祖とされる。
     谷川健一『白鳥伝説』によれば、物部氏は常陸から更に北に向かってヒダカミ(日高見から北上へ)、ヒノモト(日下から日本へ)の地名を各地に残した。常陸に来ている以上、この辺りも勢力範囲にあったと考え良いかも知れない。また阿部氏は物部氏と密接なつながりがあったとも言う。それが物部系の悲運の皇子・莬道稚郎子命を祀った理由かも知れない。
     それにしても周囲の林を含めて、どれだけの広さを持つのだろう。久し振りにこんなに立派な神社に来た。

     ここから街道は国道から東に逸れていくのだが、分岐する車のための信号はあっても横断歩道というものがない。不思議な道だが、車が途切れた瞬間を狙って横断する。
     暫く行くと神鳥谷(東)の交差点で、信号の表示をみるとHITOTONOYAと書いてある。神をヒトと読むのは珍しいではないか。どういう謂れがあるのだろうか。しかし本来はシトトノヤと読んだらしい。説がいろいろあるのだが、鳥にシトドというものがある。大辞林によれば巫鳥・鵐と書き、ホオジロ・アオジ・ノジコなどの総称の古名である。文字に巫が入っているので、飛び方によって吉凶を占ったものか。これがヒトトに転訛し、表記は巫から神に変化したというのが一つの説である。
     小さな天満宮がある。小山市天神町一丁目十番十六。小さいくせに町名になっているのだから大したものだ。鳥居はここも石造神明鳥居である。
     やがて右に平屋の公民館のような建物があり、その奥に高い赤煉瓦の煙突が見えた。門の前に建てられた看板に「まむし・すっぽん 蛇しま」とあるのが紛らわしいが、これは五十メートル離れた店の看板である。敷地の前の大きな石に「小野塚イツ子記念館」とある。それは何者だろうか。小野塚家は江戸時代から「万久」の商標で醤油を醸造していた。小野塚イツ子氏が二〇〇三年に死去した際、遺言で計十六区画の土地・建物、預貯金計九千万円と、有価証券など約四億円相当を小山市に寄贈したのである。現在は市民活動の拠点として利用しているらしい。小山市天神町二丁目一番十八。
     かなり疲れてきた。この辺りに小山の一里塚があった筈だがまるで分からない。小山市立図書館の調べでは、「永島銅鉄店とその隣りの家との境のブロック塀の所が塚の中心だった所」である。それなら次の信号の角だが、痕跡はない。永島銅鉄店の住所は小山市天神町二丁目一番八だ。
     この角から左を眺めると鐘楼の屋根らしきものが見える。あれが持宝寺であろう。角を曲がって六十メートル程歩くと、右側に鐘楼門がある。小山市宮本町二丁目十三番。その柱の右には「新義真言宗持宝寺」、右には「弓削道鏡根本開基」の看板が掲げられている。この山門は元々街道沿いにあったものらしいが、敷地は住宅地に売られたのだろう。
     それにしても弓削道鏡とは恐れ入る。神護景雲四年(七七〇)に称徳天皇(孝謙天皇)が病死し、道鏡は下野薬師寺別当(下野国)として流されて、下野で死んだとされるのだ。道鏡と言えば女帝との関係や、皇位簒奪を狙ったという例の伝説だが、現在では余り信用されていない。皇位簒奪が失敗したのなら、いわば国家転覆の罪であって下野配流と言う程度で収まる筈はない。また女帝とのややこしい関係があったとすれば、僧籍も剥奪されなければおかしい。
     境内に入ると梵鐘が置かれ、説明が書かれている。寛政四年(一七九二)の鋳造になるものだが、銘文に「当寺者人皇四十六代孝謙天皇弓削道鏡廟塔」とあるらしい。天皇の名が記されているので戦争中の供出を免れたとも書かれている。ただ、ここで天皇の名前を記すなら、第四十八代称徳天皇とした方が自然ではなかろうか。道鏡が寵愛されるのは、女帝の上皇時代から重祚して四十八代になった時である。
     また、この寺は吉宗が日光社参の際に休憩所とされた。当時はよほど広い境内を持っていたと思われる。

     街道へ戻らず、このまま国道に出る。角は小山市立第二小学校で、グランドには糸を巡らして、たくさんの鯉幟をぶら下げている。そして国道を北に歩けば左が須賀神社だ。小山の総鎮守である。旧道に向って朱塗りの灯籠が並んで、参道を形づくっている。
     鳥居の脇には「徳川家康公 小山評定之碑」が建っている。小山市宮本町一丁目二番四。

     天慶の乱に際し、藤原秀郷公は日夜素盞嗚命に戦勝を祈願し、成就することが出来たので、天慶三年(九四〇)四月、京都の祇園社(八坂神社)から、御分霊を勧請してまつったのが、当社の創祀であります。
     当初は小山の字北山(現在の中久喜地内)にまつられましたが、小山城の築城に際し、城の鎮守とも仰がれ、平治年間(一一五九〜六〇)に現社地に遷座されました。徳川家康公は、慶長五年(一六〇〇)七月、当社境内にて小山評定(軍議)を開き、参籠して関が原の戦勝を祈願しました。(神社由緒より)

     随神門をくぐって行くと、おかしな場所に古い石造の明神鳥居が建っている。小山市に現存する最古の石造鳥居だそうで、道路拡張のために移されたものだ。今日はこの形の鳥居に多く巡り合った。七つ石。昌木(沼部)晴雄翁碑。知らない名前だが、説明を読めば天狗党で、処刑された時に四十四歳である。それで翁と呼ばれるのはちょっと感覚がずれてしまう。

     現沼部宮司より四代前の宮司、結城市健田須賀神社の社家杉山家に生まれ、長じて当神社々家沼部家の養子となる。神明奉仕の傍ら、国漢の学を修め武道に励み勤皇の志士として活躍したのち姓を昌木(杉の国字は椙)と称して挙兵(天狗党))し、太平山、筑波山を経、やがて吉田村(現水戸市)にて斬首された。

     七五三の親子が一組、拝殿の前で写真を撮っている。社殿の裏側には末社がたくさん並んでいるが、いちいち覚えてはいられない。そろそろ根気がなくなってきた。
     北隣が妙建寺だ。綺麗な境内だが見るべきものがない。本堂の天井に百人一首が描かれているようなのだが、見られなければ仕方がない。
     市民文化センターの角を曲がると、引っ込んだところに愛宕神社がある。小山市宮本町一丁目一番七。社伝によれば康暦元年(一三七九)、小山義政によって山城国の愛宕神社から勧請された。樹齢六百年と言われるケヤキが立つ。鳥居はお馴染みの石造明神鳥居で、小山市では二番目に古いらしい。ただ姫の資料では寛文七年(一六六七)とあるのだが、明和元年(一七六四)と見える。
     それにしても社殿のありさまには驚いてしまう。一段高くした敷地の奥に、コンクリートの倉庫にしか見えない建物が建っている。縦横五尺四方程しかなく、窓のように扉が付けられているが、これでは中に入ることもできない。脇に立つ「愛宕神社改築・愛宕会館新築記念碑」が立派なだけに情けない。もう少し造り方があるではないか。
     裏に回ると庚申塔が三基ある。舟形青面金剛が二基、文字だけで青面金剛供養塔とあるのが一基だ。少し離れて、其角の句碑の脇には「句碑を傷つけないで」と言う札が立てられている。碑面は殆ど読めない。其角の文字があるべきところは、「キ」と深く彫り込まれている。これが「傷つけないで」の意味だろう。其角と小山との関係は分からない。『炭俵』夏之部発句に収められた句だ。

     ほととぎす一二の橋の夜明けかな  其角

     最後に見た神社が余りわびしくてがっかりしてしまう。駅に着いたのがちょうど三時で、万歩計を確認すると二万六千七百歩だから、十六キロほどになった計算だ。野木宿から小山宿まで直線距離では十三・四キロだが、駅から友沼交差点までの道、乙女河岸までの往復を加えれば、おかしな数字ではない。電車を待つ間の七分で、ホームの売店で缶ビールを買って一気に飲み干す。朝と違って宇都宮線はガラガラだ。川越線も空いている。
     東上線で隣に座った小学二年と幼稚園の少女が、何が気になるのか、私の顔をじっと覗き込んでくる。「なんだい?」「サングラスが。」クリップオンのサングラスがよほど珍しいようだ。上げ下げすると喜ぶ。「外せるんだよ。」「スゴイ。」
     「いくつですか?」「年は六十四だよ。」「おばあちゃん、この方、おばあちゃんより一つ下ですって。」小学二年の女の子が「この方」と言う。吊革につかまっているおばあちゃんが苦笑いする。鶴ヶ島で一緒に降りて、改札を出て右と左に別れた。「バイバイ。」
     帰宅して総歩数を確認すると三万三千歩、二十キロになっていた。疲れた筈だ。

    蜻蛉