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    日光街道 其の十一 (小山~小金井)
    平成二十七年四月十一日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2015.04.20

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     残念ながら、其の十(野木から小山まで)は今のところ欠番としなければならない。当日の二月十四日(土)は、九十六歳で亡くなった秋田の伯母の葬儀と重なって、江戸歩き・日光街道を通じて初めて欠席することになってしまったのだ。いつかは歩こうと思っているが暫く予定が立たない。
     実は(と言う程ではなく、自分から大いに宣伝していたのだが)、昨日は私の満六十四歳の誕生日で、嫁が孫と八海山を抱えてやってきた。妻も珍しくウィスキーを買ってくれた。
     久し振りに会ったこころは、最初は警戒するような目付きで私を窺っていたが、泣くこともなく時折は顔をくしゃくしゃにして笑う。しかしその顔は何だろう。「いい顔」の積りか。髪の毛も少し伸びて、少しは女の子らしくなってきた。芸も仕込まれていて、「上手、上手」と言えば手を叩き、バイバイもできる。テーブルを伝って歩き、いきなりテーブルの上に手を伸ばすから危なくてしようがない。進化はしているのだ。
     それにしても今週は寒かった。花冷え、菜種梅雨とはいうものの、少し酷過ぎはしないか。八日は時ならぬ雪に見舞われ、そのせいでソメイヨシノはほとんど散ってしまった。入学式を行った学校も多く、この日のために着飾っただろう母親たちには気の毒なことだった。

     新しき学生服や雪の果  蜻蛉

     イルカ百五十頭が茨城県の海岸に打ち上げられたのは、その寒さと関係があるかどうか。ソメイヨシノは終わったが、気の早いハナミズキが小さな花を開きはじめ、バス通りの植え込みからはドウダンツツジの小さな花が目立つようになってきた。シャクナゲも咲いている。
     今日は旧暦二月二十三日。清明の次候「鴻雁北」。清明という割に天気は余り良くない。昨日の夕方から降り始めた雨は朝になっても続いている。予報では午前中一杯はやまないと言うので、ビニール傘を持って出た。
     宇都宮線の小山は大宮から各駅停車で一時間弱かかる。鶴ヶ島からの料金は片道千三百十円で、だんだん交通費がバカにならなくなってきた。途中で窓の外を眺めると、雨は小やみになったようだ。
     相変わらず講釈師とダンディは早くから来ている。煙草を吸おうと外に出ると雨は止んでいた。喫煙所はないが適当に人気のない場所を選ぶ。改札前に戻ると、次第に人が集まってきた。十時五十分、もう参加者はこれで決まったのではないか。しかし「十時二分まで待ちましょうか」と、念のために姫が決断したのが良かった。「あっ、桃太郎が来ました。」彼は大宮から新幹線に乗ってきたのである。「ときどきは顔を出さないと忘れられちゃうから。」
     彼は「休日おでかけパス」というものを利用したという。「一日乗り放題で二千六百円ですよ。」小田原・小山の間を何度乗り換えても二千六百円は安い。それなら次回は私も利用しようかと思ったが、使えるのはJRだけで、北の限界が小山だから私にはメリットがない。私の場合、川越から小山の間の料金が往復二千二百八十円なのだ。
     集まったのは、あんみつ姫、ヨッシー、講釈師、ダンディ、ドクトル、スナフキン、ロダン、桃太郎、蜻蛉の九人である。「こんなに.集まってくれるとは思いませんでした。」この距離だから、他の女性陣はなかなか難しいだろう。
     スナフキンは、昨夜は帰宅したのが一時頃だったそうで、眠そうな顔をしている。それなのに、わざわざ一時間も早く来て、「道の駅で干瓢ラーメンを買ってた」と言う。干瓢ラーメンとはなんであろう。「俺は旨いと思ったけど、家族の評判はイマイチだった。」干瓢を刻んで入れたものだろうか。こういうことは栃木県観光協会に教えてもらうのが良いので調べてみると、正式には「夕顔ラーメン」と言うようだ。

    夕顔という植物をご存知ですか?
    お寿司によく使われる、干瓢の原料になるのが夕顔の実です。栃木県は干瓢の生産地。でも、他にも美味しい料理として使えるのではないか?そうして考え出されたのが「夕顔ラーメン」です。
    麺に夕顔の実の粉を練りこむことで、柔らかな食感のつるりとしたのど越しになります。また食物繊維やカルシウムを多く含んでいるので、美容や健康にもいいのです。
    http://www.kuranomachi.jp/spot/eat/yugao.php

     この他に、小山市では「かんぴょううどん麺」というものを発明した。「うどん麺」という名付け方は感心しないが、小麦粉に夕顔の粉を八~十パーセント混ぜてうどんにした乾麺だそうで、スナフキンの言うラーメンとは違うのだろうね。「俺は干瓢が好きなんだよ。」それは前にも聞いたことがあるが、そんなに美味いものだろうか。私は昔からあの甘辛く煮付けたものが得意ではなく、干瓢巻もできるだけ敬遠していた。
     構内の通路には、いくつも横断幕が掲げられている。「祝ロンドンオリンピック柔道銅メダル・海老沼匡選手」、「祝世界選手権三連覇・海老沼匡選手」、「祝ロンドンオリンピック競泳男子個人メドレー銅メダル・萩野公介」、「祝渡良瀬遊水地ラムサール条約湿地登録」である。
     「ラムサールにも登録されたんだ。」講釈師は本当に知っているのだろうか。私は初めて目にする言葉だ。無学だから、これも調べなければいけない。これは湿地の保存に関する国際条約である。

     湿原、沼沢地、干潟等の湿地は、多様な生物を育み、特に水鳥の生息地として非常に重要である。しかし、湿地は干拓や埋め立て等の開発の対象になりやすく、その破壊をくい止める必要性が認識されるようになった。湿地には国境をまたぐものもあり、また、水鳥の多くは国境に関係なく渡りをすることから、国際的な取組が求められる。そこで、特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地及びそこに生息・生育する動植物の保全を促し、湿地の適正な利用(Wise Use、一般に「賢明な利用」と呼ばれることもある)を進めることを目的として、一九七一年二月二日、イランのラムサール(カスピ海沿岸の町)で開催された「湿地及び水鳥の保全のための国際会議」において、本条約が採択された(一九七五年十二月二十一日発効)。
     本条約は、環境の観点から本格的に作成された多国間環境条約の中でも先駆的な存在であり、現在では広く用いられるようになった持続可能な利用(Sustainable Use)という概念を、その採択当初から適正な利用(Wise Use)という原則で取り入れてきた。現在は水鳥の生息地のみならず、人工の湿地や地下水系、浅海域なども含む幅広い対象の湿地を対象として、その保全及び適正な利用を図ろうとするものである。
     (外務省「ラムサール条約」http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kankyo/jyoyaku/rmsl.htmlより)

     登録基準は二つあって、ひとつは「代表的な、希少な、又は固有の湿地タイプを含む地」であり、もう一つは「生物多様性保全のために国際的に重要な地域」である。田中正造が必死になって闘った挙句に生まれた渡良瀬遊水地も、今ではそんな貴重な池になったのである。田中正造も荒畑寒村も、こんな時代が来るとは夢にも思わなかっただろう。
     西口に降りる階段にも海老沼選手と萩野選手の写真が掲げられている。小山市の二大ヒーローである。「だけど、二人とも銅メダルじゃないか」とスナフキンは身も蓋もない言い方をする。荻野公介の名は今でもよく目にするが、海老沼の名は余りお目にかからない。しかし、「世界選手権三連覇」の横断幕もあるのだから、尊敬すべき柔道家なのであろう。
     白鴎大学の看板が目に付いた。昭和六十一年(一九八六)に経済学部の単科大学として創設された大学である。流行に乗って法科大学院を作ったものの、昨年六月に募集を停止している。
     さっきは止んでいた雨がまた落ちてきたが、幸い小降りでたいしたことがない。ロータリー前には海老沼選手記念植樹の桜が咲いている。

     歩き始めてすぐ、資料を眺めていた桃太郎が「小山は醤油の発祥地ですか」と声を上げた。私は予習していなかったし、雨だから資料はリュックの中にしまいっきりで気付きもしなかったが、姫の資料には、小山は醤油発祥の地であると書いてあるのだ。「醤油って銚子とか野田じゃないんですかね。」皆が勘違いしていたが、資料をちゃんと読めば「醤油漬発祥」と書いてある。漬物なのだ。なんでも嘉永年間創業の「八百忠」という漬物屋の店舗前(小山市若木町二丁目)にその碑があるらしい。しかし碑を建てた先代が亡くなって現在の当主も由来は分からないというので、簡単に信じる訳にはいかない。
     全日本漬物協同組合連合会では、延喜式にある醤(ヒシオ)漬けが現在の醤油漬け、味噌漬けの源流だと推定している。江戸時代半ば以降、全国に醤油が普及していけば、醤油漬けなんかどこでも発明したのではないか。既に塩漬けや味噌漬けがある以上、こんなものは自然発生的にあちこちで作られた筈である。
     線路に沿って南側に歩きドンキホーテを過ぎると常光寺があった。小山市中央町三丁目。浄土宗である。寺に入る前に、門前の案内板の前で喧しくなってくる。

    小山市教育委員会指定、小山市重要文化財、常光寺所有
    一 民俗資料 十王図 十幅
      地獄に十人の王がおり、生前の罪の軽重を判定するという、勧善懲悪を説いた図。江戸時代作。
    一 民俗資料、祐天上人自刻の百万遍の珠数。
      祐天上人は、五代将軍徳川綱吉の信任が厚かった浄土宗大本山増上寺の住職、祐天が諸国行脚中、芝居、講談で有名な「怪談累ヶ淵」で累の亡霊を救った時に用いた珠数と六字名号を縁あって当寺に贈ったもの。
    一 彫刻資料 阿弥陀如来坐像
     青銅の座像は寛延元年(一七四八)の作、慶応四年(一八六八)四月十七日、戊申の役小山の戦いで幕府軍の流れ弾が台座後部に命中し、今もその傷跡をとどめている歴史資料でもあり当寺の境内に有る。

     「生前の罪を判定するんだってさ。」「講釈師の罪が一番重そうだね。」「閻魔さまが何人もいるんですか?」「閻魔は一人だよ。」練馬高野台の長命寺に十王像があったのは覚えているだろうか(第二十四回「石神井編」平成二十一年七月)。仏教が道教と習合して始まった信仰である。
     その時に調べておいた筈だが、改めて簡単に書いておこうか。初七日から三回忌まで忌日毎に、死者が六道のどこに転生すべきかの判定を下すために存在する。名前を挙げれば、秦広王(初七日)、初江王(二七日)、宋帝王(三七日)、五官王(四七日)、 閻魔王(五七日)、変成王(六七日)、泰山王(七七日)、平等王(百ケ日)、都市王(一周忌)、五道転輪王(三回忌)である。本来は七人目の四十九日で裁定は決まるのだが、畜生道、餓鬼道、地獄道を宣告された者を救済するため、追加して三人がいるらしい。
     追善供養のためには費用が掛かる。寺院の収入手段として流行させたものではあるまいか。因みに浄土真宗では人は輪廻転生せず、死んですぐに浄土に行くことになっており、初七日以降の追善供養はない筈だが、現代では普通に行われている。
     「あっ、累じゃないか。」祐天上人は江戸時代最大の悪魔祓い師で、その事跡は高田衛『江戸の悪霊祓い師(エクソシスト)』に詳しい。これも目黒を歩いた時に触れている筈だ(第十九回「目黒編」)。「祐天寺に行ったでしょう。」「母校の近くでしたね。」そう言えば桃太郎は目黒高校の出身だった。
     「戊辰戦争だよ。」講釈師は戊辰戦争の話が好きだ。上野戦争の時は谷中の喫茶店でコーヒーを飲みながら、新政府軍と幕府軍の闘いを見物していた人だ。
     大鳥圭介を総裁とする旧幕府軍が日光を目指して北上し、この近辺で宇都宮城をめぐる攻防戦が行われたのである。新政府軍には彦根藩や館林、笠間、壬生の譜代藩が配備された。小山の戦いは、鳥羽伏見以来敗け続けていた幕府軍が新政府軍に対して一矢を報いた戦いで、旧幕府軍最後の勝利とも言えるのだが、宇都宮城占拠の後に再び敗走することになる。
     しかし、ここに記されてあるものは全てどこかに大事にしまってあるのだろう。見ることができない。四脚門を潜ると右手の地蔵堂には焼け焦げた跡の見える六地蔵が立っている。「頌樹の辞」によれば、昭和七年に火災があったようだ。「二十三夜堂突如火炎に包まれ、折柄の寒風に煽られ本堂将に延焼せんと」した時、老樹の幹から大量に水滴が滴って延焼を防いだという。筆塚、動物供養塔、それに再建された二十三夜堂がある。
     そして阿弥陀如来座像が安置されていたと思われる台座がある。案内には、阿弥陀如来はここに移されたと書かれているが、どこにもない。「ないんですよね。」調べてみると、三・一一の震災で倒れ、今は二十三夜堂に安置されているらしい。ネットで検索してみると、蓮華台の下、ちょうど阿弥陀様の尻のあたる部分に弾痕があるという。
     本堂は立派なもので彫刻も見事だ。唐破風の下の紅梁に浮き彫りされているのは羅漢像だろうか。
     「これは何ですか?」桃太郎が訊き、「馬酔木ですよ」と姫が答えている。馬酔木は色も形も薄らぼんやりしていて、小さな花がいくつも、だらしなくくっついている。何を考えて咲いているのか、自立しようという思想が全く感じられない。「そうか、ドウダンツツジかと思った。」「ドウダンツツジの花は壺型なんだよ。」「ここに咲いてますね。」馬酔木の隣にそのドウダンも咲いていた。

     寺を出てまっすぐ行くと街道に突き当たる。そこが姫の目的地なのだが、既に私たちと同じような格好の連中が屯している。「ちょっと待ちましょうね。」待つほどもなく、信号が変わった頃ちょうどその連中がいなくなった。しかし黄色いジャンパーを着たオジサンがひとりだけ残っている。「ボランティアのガイドみたいですね。」小山市の観光案内を見ると、「いいとこ教え隊まちなかガイド」というものらしい。時間があれば二時間半、四キロ程のコースも案内してくれる。
     「ちょっと説明しましょうか。」道路から十メートルほど引っ込んで空き地になった奥に、板塀を挟んで唐破風の門が建っている。「ここが脇本陣です。残念ながらこれしか残っていません。」空き地の手前には「明治天皇御駐輦之地」の標石が立っている。奥州巡幸の際に明治天皇の休憩所になった。明治九年(一八七六)のことだろう。
     「小山宿は、本陣一軒、脇本陣二軒、旅籠が七十四軒。家数は四百二十三軒、人口は一三九二人でした。」「旅籠が七十四軒って多いですね。」「でも、泊まる人はあまりいなかったようです。将軍は古河城に泊まったし、ほとんどは間々田ですね。」確かに芭蕉も間々田に宿泊している。他人の話を聞きたくない講釈師はダンディと一緒に唐破風の門を観察している。
     「先を急ぎますので。」話し足りないオジサンには申し訳ないが、姫にはこれからの予定がある。「なるべく早めに昼食にしたいんです。」「喋りたい人がいるんだよ。」街道は県道二六五号だ。「小山って城下町ですか?」「中世には小山氏の城があったけど、江戸時代は宿場だよね。」
     小田原評定は知っていても小山評定なんて私は知らなかった。上杉征討軍が小山に到着したとき、石田三成挙兵の報が届いた。その時の征討軍の軍議を小山評定と呼ぶらしい。この結果、征討軍の大部分はそのまま東軍に統一され関ヶ原に向った。ただ真田昌幸と田村直昌だけが西軍に転身するのである。
     小山宿は日本橋から十二番目の宿場で、日光道中、壬生通り、結城道、佐野道、栃木道が交わる要衝である。管轄は元和五年(一六一九)から古河藩、延宝三年(一六七五)から幕府直轄、天和二年(一六八二)に古河藩と移り、貞享二年(一六八五)からは幕府、そして安永三年(一七七四)以降は宇都宮藩が管理した。
     「そこの常総銀行のところが問屋場でした。今は何も痕跡がありません。」一応住所を記しおけば、小山市中央町三丁目三番三である。通りには「小山宿通り」の表示板が立っている。「ここだよ、この道の駅で干瓢ラーメンを買ったんだ。」しかし「道の駅」ではなく「まちの駅・思季彩館」である。「そうか、ネットで道の駅を検索したけど分からなかったんだよ。」スナフキンは前回ここで干瓢ラーメンを買ったので、調べていたらしい。「まちの駅」なんて私は初めて見た。適当にネーミングしたのかと思えば、実はこれには審査があった。

     まちの駅は、地域住民や来訪者が自由に利用できる休憩場所や地域情報を提供する機能を備え、さらには地域内交流・地域間連携を促進する公共的空間である。
     具体的には公共・民間を問わず、広く人々が入ることができる施設がまちの駅となり、トイレ・休憩場所等を来訪者に提供するものであるが、現在全国のまちの駅のほとんどは小売店舗である。またまちの駅となった施設内には観光パンフレット等が備えられており、施設の代表者や従業員がまちの案内人となって来訪者に観光地等への道案内を行うこともある。
     施設がまちの駅になるには、まちの駅連絡協議会(特定非営利活動法人地域交流センター内)が定めたまちの駅設置要項に基づき同協議会事務局に設置申請をし、認定審査を経て、同協議会への入会が認められることが必要である。そのようにしてまちの駅となった施設はまちの駅の名称を名乗ることができ、さらに同協議会が定めたシンボルマークを内外に掲示することができる。まちの駅の名称およびシンボルマークは同協議会が商標登録しており、それらを無断で使用することはできない。(ウィキペディア「まちの駅」より)

     次の角は駅に続く大通りだ。ちょうど小山千本桜まつりの最中で、道路の両側の桜並木はピンクの花が満開になっている。八重桜だろうか。「八重じゃないよ。一重だよ。」講釈師は視力も良い。大通りには入らず、その角を過ぎて姫は左の脇の道に入っていく。
     元須賀神社は住宅地の真ん中にあり、鳥居の奥には五六十メートルほどの参道がつながっている。小さな社殿は新建材を張り合わせたプレハブの建物で、あまり有難味が伝わらない。小山市城山町二丁目。城山町の地名の通り、西に国道四号線を越えて一キロも歩けば小山城址に着く。現在は城山公園になっているが、中世、小山氏の居城の祇園城があったのである。
     「元」と呼ぶのだから、現在の須賀神社(小山市宮本町一丁目)より古いのだろうか。そちらの方は、皆は前回(其の十)立ち寄っている筈だ。須賀神社と言えば本来は牛頭天王社であり、スサノオを祀った神社である。
     「小山の町めぐりかい?」庭いじりをしていたオジサンが声をかけてくる。「日光街道を歩いてるの。東京から来たんだ。」「エッ、東京から?」これは私の言い方がおかしかったか。「びっくりしてるぜ」とスナフキンが笑う。ハナズオウが赤紫の色鮮やかに咲いている。
     「ナンバープレートの地名が平仮名なんだよ。」スナフキンの指摘で車を見ると、確かに「とちぎ」となっている。「普通に漢字で書けばいいじゃないか。」調べてみると、このほかにも地名を平仮名表記にしているところが三ヶ所あった。いわき(福島県)、つくば(茨城県)、なにわ(大阪府)である。いわき市とつくば市は、そもそも市の名称が平仮名だから仕方がない。「とちぎ」と「なにわ」はどういう思想に基づいたものなのか理解できない。
     街道を横切って路地に入れば光照寺(衆徳山)だ。小山市城山町三丁目六番十。時宗の寺院である。「時宗って珍しいですね。藤沢の遊行寺もそうでしたよね。」「遊行寺が総本山なんだ。」時宗の寺は余りお目にかからない。
     門を入ってすぐ右に小さな切妻の祠があり、全身が見えなくなるまで紅白の布にまかれた地蔵が立っている。「奥にももう一体ある。」格好から判断すると、手前のものは首がないのではなかろうか。「願掛けするときに巻くのか、成就した時なのかな。」
     椿の根元に立っている舟形光背の石仏はなんだろう。「青面金剛ではないですね。」姫が首をひねる。頭の部分が少し欠けているが馬頭観音ではないか。「そうでしょうかね。」あるいは何かの明王像かもしれない。
     境内の奥には一遍上人の像が立っている。「一遍上人って、見ただけですぐに一遍って分かりますね。」姫はそう言うのだが、私は一遍の像には今までお目にかかったことがない。膝丈より少し長めの粗末な衣をまとい、素足で合唱している姿だ。
     一遍については、僅かに五来重の「一遍聖絵」の解説を読んだだけで詳しくない。一遍は伊予の豪族の家に生まれ、出家と還俗を繰り返し波乱万丈の一生を送った。五来は一遍の再出家と遊行は、二人の妾のトラブルに悩んだ挙句の滅罪の意識からではなかったかと指摘している。

     ・・・・・『北条九代記』は刈萱道心石童丸の説教は、一遍と聖戒をモデルにしたことを素っ破抜いている。すなわち、

    開山一遍上人は、伊予国の住人河野七郎遍広が次男なり。家富み栄えて(中略)二人の妾あり、何れも容顔麗はしく心ざま優なりしかば、寵愛深く侍りき。或時二人の女房碁盤を枕として顔さし合せで寝たりければ、女房の髪忽ちに小さき蛇となり、鱗を立てゝ喰合ひけるを見て

    と発心の動機をしるし、熊野での念仏成道までの経緯をかなりくわしくしるしている。一遍はこのような人間的な悩みを背負って、おそらく滅罪の苦行をかねて熊野詣をしたのだろうとおもう。(五来重『熊野詣』)

     一遍の教団も一向宗と呼ばれることがあり、浄土真宗と紛らわしい。そして浄土真宗と言えば、親鸞も性欲に悩んでいた。悩み抜いた挙句、自力作善は阿弥陀の本願ではない、結局人は阿弥陀如来にすがるしかないと観念したのである。一遍もまた親鸞と同じ境地に到達したのではないだろうか。

    善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。しかるを世の人つねにいわく、「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」。この条、一旦そのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣に背けり。
    そのゆえは、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心欠けたる間、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり。
      煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。
    よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せ候いき。(『歎異抄』)

     秋田の高校生はこれを読んで、努力しなくても良いという言い訳にしていた。ただ親鸞には比叡山で学んだアカデミックな雰囲気が残っているのに対して、一遍の遊行念仏にはもっと庶民的な、土俗の匂いが濃厚にある。一遍はまとまった著作を残さなかった。
     街道に戻って少し北に行けば、次は興法寺(天台宗・徳王山妙楽院)だ。小山市本郷町二丁目七番三十七。街道から続く長い参道の両側は白壁の塀に囲まれ、参道には桜の花弁が敷き詰められている。「素敵な雰囲気ですね。」

     参道に桜を踏めば女人講  蜻蛉

     山門を潜れば、朱色の鐘楼の前には石仏が並んでいる。笠付の青面金剛像、「庚申」の文字だけのもの、上部に如意輪観音を浮き彫りにした十九夜塔、その他よく分からないものだ。それにしても、古河の辺りからこの辺にかけては十九夜塔が多い。女人講が特に広まっていたのだろうか。ちょうどうまい記事を見つけた。

     中上敬一氏の二〇〇五年の報告(『茨城の民俗』第四十四号二〇〇五)では、栃木県が二七〇二基、茨城県が一六七二基、福島県が一四四九基、千葉県が一一七五基、群馬県が一四二基、埼玉県が一〇八基とのことです。
     また、石田年子さんが昨年(二〇一一)房総石造文化財研究会主催の第十七回石仏入門講座で発表した最新の集計では、千葉県で一九九七基がリストアップされていて、各市町村の悉皆調査が進めば、もっと増えることが予想されます。(蕨由美「さわらびYの歴史・民俗・考古探索ノート」http://sawarabituusin.cocolog-nifty.com/notebook/より)

     十九夜塔はやはり栃木県に圧倒的多いのだ。筆者は在野の研究者のようで、千葉県八千代市郷土歴史研究会の機関紙『史談八千代』にいくつも報告を発表している。ブログを見ると特に子安信仰と十九夜塔の調査が多い。こうした石仏を丹念に実地に調査して報告してくれるのは実に有難いことである。ついでだから同じ筆者の文から、十九夜塔の基本を押さえて置こう。

     関東北東部では、旧暦十九日の夜、女性が寺や当番の家に集まって、如意輪観音の坐像や掛け軸の前で経文、真言や和讃を唱える「十九夜講」が盛んに行われていた。
     この十九夜講が、祈願の信仰対象あるいは成就のあかしとして建立する石塔が「十九夜塔」で、右手を右ほほに当てた思惟相で右ひざを立てて座る姿の如意輪観音像が主尊として彫刻される。(同上)

     そして江戸中期から後期に入ると、十九夜塔に代わって子安塔が出現するらしい。観音が乳飲み子を抱いた像であるようだ。

     北総の女人講関連石造物は、江戸初期~中期(十七世紀後半から十八世紀代)にかけてほとんどが如意輪観音像の十九夜塔で推定千二百基以上。一方、子安像塔の建立数が月待塔の数を上回るのは幕末以降で、近代になって爆発的に増える。(同上)

     「こっちだよ、こっち。」切妻の地蔵堂には、赤い涎掛けと帽子を被った六尺ほどの地蔵が鎮座している。「こっちからのほうがよく見える。」地蔵の左の肩下と横腹に直径五センチばかりの陥没があるのだ。「砲弾の痕だよ。爆発する弾じゃないからさ。」さっきも触れた戊辰戦争時の弾痕である。

     花冷えや地蔵の肩に弾の跡  蜻蛉

     戊辰戦争当時に最も多く使用された大砲は四斤山砲と言われるものらしい。フランスで発明されたもので、四斤とはメートル法に基づき四キロの砲弾を発射するのである。弾丸は細長い椎実形で、砲身にライフルを刻んであるので回転力が増す。これで命中率と射程距離が上がった。また鉄製ではなく青銅製だったため軽く、分解すれば馬二頭に載せて運ぶことができた。
     十三塔は浅草の浅草寺にあったものだと伝えられる。静かで手入れの行き届いた寺だ。いつの間にか雨は止んでいる。「枝垂桜がきれいじゃないか。」ちょうど見頃だ。

     かなり立派な店構えの菓子屋は御菓子司「蛸屋総本店」である。小山市本郷町二丁目八番地二十六。元々は仙台で元禄十一年(一六九八)に創業したというから大変な老舗である。店のホームページを見ると、戦争の疎開後に小山に移ってきたらしい。その角に祇王山天翁院(曹洞宗)の石柱があり、そこから西に参道が伸びている。二百メートル程で参道は国道四号に突き当たる。
     国道は後からできたのだと明らかに分かるのだが、車の往来が激しく、なかなか渡ることができない。正面に天翁院の門があるのだから、横断歩道を設けてくれればよいのにと思うのは、余所者の身勝手だろう。右に七八十メートルも行けば市民病院入口の信号があり、真面目な人たちはそちらを横断するのだろう。なんとか車が途切れたので急いで渡る。小山市本郷町一丁目九番四十一。
     寺というより森の中の庭園のような雰囲気だ。人気はない。如意輪観音、十九夜塔、青面金剛ほかにも石仏が多い。
     菜花亭種好の句碑がある。真ん中下部に署名があり、左右に二句記してあるようなのだが無学だから読めない。調べてみるとつぎのようなものである。

     むっくりと勝れて白し春の不二
     よろづ代の筑波の山や秋のいろ

     菜花亭種好とはどういう人物なのか全く分からない。蕉隣翁の句碑もあるが、これも姫の資料に「蕉隣翁」とあるので、「蕉」だろうと判定しただけだ。文字は読めないし、そもそも蕉隣翁とは何者なのかも分からない。この二人に関しては、ネットを検索しても情報が得られない。
     ここは小山氏の菩提寺で、天翁は中興開基の小山高朝の法名に由来する。高朝は結城政朝の三男で小山政長の養嗣子である。祇王山は小山城の別名祇園城から採られた。
     小山氏についても簡単に確認しておきたい。小山氏は藤原秀郷流太田氏を源流とする。太田氏の支配範囲は埼玉郡太田荘(現在の久喜市・加須市・羽生市・さいたま市岩槻区)だったが、久安六年(一一五〇)年頃、秀郷九世の後胤太田政光が下野国大掾として小山に移住し、初めて小山氏を名乗った。小山庄は、都賀郡から寒川郡・結城郡に及び、上六十六郷・下三十六郷といわれる一万余町歩の広大な面積を抱えた。政光の後妻が後に源頼朝の乳母になった寒河尼で、その縁で頼朝の信頼を得て、鎌倉幕府内で重く用いられた。
     鎌倉時代初期から建武の頃までは下野国守護として威勢を振るったが、南北朝から戦国時代にかけて三度の断絶と復興を経た。支流の結城氏から継嗣を得て辛うじて家系を繋いでいたが、天正三年(一五七五)、北条氏の攻撃によって居城の祇園城は陥落した。四百年続いた関東の名門、小山氏はここに滅亡したのである。姫の資料では小山氏の廟所もあるようだが、見られなかった。
     講釈師は背の高い、緑に苔むした石柱の文字を読んでいる。「彦根じゃないかな。」確かに彦根に見える。これは彦根藩新組青木貞兵衛戦死之碑である。側面には明治元年四月十七日とある。先にも書いたように、彦根藩は新政府軍の一員として戊辰戦争に参加していた。また少し雨が落ちてきた。「本堂の鬼瓦が変わってるんですよ。」樹齢四百年を超えるというコウヤマキもある。「竹林も立派ですね。」
     シャガも咲いている。「これがアオキの花です。」姫に言われて観察する。小さい赤い十字形の花弁に黄色の雄蕊が丸くついている。「気付きにくいんですけど、拡大してみてください。」

     「それじゃお昼にしましょう。すぐそこです。」国道の少し先、さっき見た市民病院入口交差点角にガストがある。「この裏にうどん屋さんがあります。ガストでもおうどんでも、どちらでも好きな方を選んでください。十一時二十分ですから、一時間後にここに集合しましょう。」角を右に曲がると満留賀である。勿論うどんもあるが、普通は蕎麦屋と呼ぶのではあるまいか。小山市本郷町二丁目九番十五。ガストに入りたいと言っていた人も、結局こちらに合流して全員が分かれて座った。
     私とスナフキンは野菜天丼ランチにした。天丼のほかに蕎麦とサラダがついて七百円である。ロダンは割子蕎麦(器が三つ)、ドクトルは城山蕎麦(割子が五つ)、桃太郎は野菜天麩羅ランチ、姫は天麩羅セイロである。桃太郎は当たり前のようにビールを注文し、普段だったら必ずそれに付き合うはずのスナフキンは目もくれない。よほど昨日飲みすぎたのだろう。向こうのテーブルではダンディが蕎麦ビールというものを注文しているが、蕎麦ビールなんて旨そうには思えない。
     ちょうど座席の隣の坪庭に水琴窟が見える。ドクトルは何にでも興味を持つから、戸を開けてもらって聴いてきた。「聞こえましたか?」「何も聞こえないんだ。調節が悪いんじゃないのかな。」水琴窟で調節が必要なんて聞いたことがない。ドクトルの言葉で店員が調べ、壊れているようだと報告してくれた。ドクトルが興味を持たなければ、水琴窟は永遠に壊れたままで放置されていたかも知れない。
     掻揚げは聊か油っこい。「あれっ、五つもありますね。」ドクトルの蕎麦とロダンの蕎麦を見比べて桃太郎が驚いた。「ドクトルのは高いからね。千円以上するんだぜ。」「そうか、私のは貧乏人のものでしたか。」ロダンは意外に小食なのだ。桃太郎がやっと食べ終わった頃、姫は天麩羅一つを持て余している。「桃太郎が食べてくれるんじゃないの?」しかし桃太郎はトンデモナイというような顔をする。ビールも飲んでいるのだ。ドクトルは多すぎるかと思ったのに残さず食べ終わる。年齢の割に大食である。

     待ちきれなくなった講釈師が声を上げ始めたので、予定より少し早く十二時十分に店を出る。曇り空だが、もう雨はすっかり上がった。午前中より暖かくなっただろうか。県道に戻り歩き始める。この辺りに、冒頭に書いた醤油漬けの八百忠があった筈だが、見逃してしまった。
     両毛線の踏切を過ぎると、やがて左手には小平産業の広大な敷地が広がってきた。小山市稲葉郷一三四一番地。「特装車専門」の看板がある。主にトレーラーを製造する会社のようで、駐車場には新品のトレーラーがずらりと並んでいる。「有名ですか?」とロダンがヨッシーに訊いている。
     「左に行くと小山ゆうえんちです。」姫は小山ゆうえんちのCMソングを歌いだす。しかしロダンは「聴いたことがないな」と首をひねる。私もよく覚えていないが、歌詞はいくつかの種類があったらしい。こういう歌詞を見つけたが、詰まらない歌詞だ。全く歌えない。

    オヤマーアレマー  小山ゆうえんち
    つつじ花咲く恋も咲く
    つつじ祭りを見に行こう
    オヤマーアレマー
    お隣り日光こりゃ結構
    小山ヘルスセンター 小山ゆうえんち(伊藤アキラ作詞・キダタロー作曲)

     「観覧車があったんですよね。」ヨッシーはこの辺まで来ていたのだろうか。調べてみると閉園は平成十七年六月で、現在は大型商業施設「おやまゆうえんハーヴェストウォーク」というものになったらしい。大資本による東京ディズニーランドのような巨大遊園地が登場してしまった後は、地方の遊園地はどうしてもチャチなものにしか見えない。
     「私が知ってるのは船橋ヘルスセンターですよ。」こっちの歌は楠トシエが歌っていたのを覚えている。調べてみると三木鶏郎作詞・作曲、タイトルは『長生きチョンパ』である。船橋ヘルスセンター、船橋ヘルスセンター、長生きしたけりゃチョトオイデ、チョチョンノパ、チョチョンノパ。これも今ではららぽーとになった。
     信号を越えると、アイダエンジニアリング(小山市喜沢一二〇〇番地二)の駐車場の鉄柵と三階建てアパートの間が参道のようになっていて、正面に宝形造りの観音堂が見えた。その右には小さなお堂も建っている。観音堂の正面の穴からカメラを差し込んで写してみると、小さな厨子の中に金色の観音坐像が鎮座しているようだ。隣の小さな堂の内部はがらんとして、赤い厨子の中に五センチ程の立像が立っている。これは表面が薄汚れていて表情も姿もはっきりしない。
     敷地右手には端から地蔵、首の欠けた地蔵、如意輪観音の胴体が半分に欠けた十九夜塔、石塔婆の十九夜塔、慰霊碑が並んでいる。その右端の地蔵の台座が道標になっているのだ。
     真ん中に念仏供養の文字、右側に「右奥刕海道」、左側には「左日光海道」とある。街道でなくて海道となっているのが皆の不審の的になる。「海岸沿いの道でもないのにね。」しかし江戸時代の初期には五海道の表記があることが確認されている。姫の資料にも書かれているように、幕府は正徳六(一七一六)年に「五街道文字之事」の触書を出した。正徳六(一七一六)年は享保元年でもある。

    一 東海道 海端を通り候ニ付海道と可申候
    一 中山道 只今迄ハ仙之字書候得とも向後山之字書可申事
    一 奥州道中 是ハ海端を通り不申候間海道とハ申間敷候
    一 日光道中 右同断
    一 甲州道中 日光道中同断
    右之通向後可相心得旨(正徳六)申四月十四日河内守殿(より)松平石見守伊勢守江被仰渡候(「驛肝録 廿四 五街道文字之事」)

     ここで「中山道」の表記も確定している。読み慣れない人のために読んでおくと、「海端を通り申さずそうろう間、海道とは申すまじくそうろう」である。おそらくそれまでは海道の表記が一般的に行われていたのだろう。そして、奥州、日光、甲州ともに「道中」であって、「街道」とは呼ばない。「街道」は幕末以降の表記である。但しこの触書は公文書作成のルールだろうから、一般にどれだけ普及したか。私の言葉だけだと信用しない人が多いので、下記を挙げて置く。

     街道は歴史的な道の代名詞のようになっているが、当然のことながら近世には歴史的な道を表現するためではなく、交通路・道路といった意味で使われている。ところで「街道」という表記だがこの表記が頻繁に使われるようになったのは幕末近くなってからのことのようであり、それ以前は「海道」と表記するのが一般的であった。(中略)
     試みに慶長二年(一五九七)頃に刊行されたとみられる易林本『節用集』(「日本古典全集 大十五)によると、カイドウは「海道」と表記され、「カイダウ」と振り仮名が付せられており、「街道」は記載されていない。『節用集』を隈なく見たわけではないが、このほか交通路に関する用語として「往還」が挙げてある。(中略)
     海道・街道について、坪内逍遥は『東海道中膝栗毛輪講 下編』(三田村鳶魚編 昭五 春陽堂)の序文において次のように記している。

     さやう、膝栗毛は今はもう歴とした古典である。寺子屋が大震災以来一斉にバラック扱ひにされて、寺小屋と書かれるのが恒例となつたと同じく、道中はミチナカ、十遍舎一九はジフヘンシャとも一キウとも読まれ、海道が街道と書き替へられるのは、或ひは遠い未来でもあるまい。

     坪内逍遥は安政六年(一八五九)の生まれであるから、明治のある時期までは「カイドウ」と言うと「海道」の文字を意識したし、文をかくときは「海道」が一般的であったということだろう。(山本光正『海道・街道と交通路の名称』逓信総合博物館 研究紀要 第四号)

     ついでに、「奥刕」の文字を「初めて見る」と何人もが口にするのはおかしい。何度も見ているし、と書いていて気が付いた。皆が皆、全ての会に参加している訳ではないのだ。どこかで書いた筈だが、「州」は「刕」の異体字である。刀の代わりに部首「リットウ」を横に三つ並べた形である。
     大きな慰霊碑を見つめていたロダンが「署名が分からない」とぼやいているので覗いてみた。「岸伸介じゃないか。」「そうですか、岸でしたか。何の戦争の慰霊碑でしょうか?」太平洋戦争だと思うけどね。碑文は読まなかったから正確ではない。
     「それじゃ出発します。」街道を行き、左の脇道に入って百五十メートルも歩くと、また国道に出た。今度も車の往来が激しい。「やめましょうか。」姫は下見の時にも横断を断念したと言うのだが、一瞬車が途絶えたのを見てドクトルが渡る。皆で渡ればコワクナイ。そこが日枝神社である。小山市喜沢一二三九番地。参道入り口には樹齢四百年の大欅が立っている。案内板によれば、天正十八年(一五九〇)に祇園城が滅びた後、ここに社殿が移されケヤキが植えられたという。四百年を超えるケヤキは三本ある。神社の西側に祇園城の支城としての喜沢砦があった。
     これも参道が長く、地面には桜の花弁が敷き詰められている。舗装されていないので泥濘も多い。ウグイスが頻りに啼いているが、ホーホケキョとは啼かない。「いい声ですね。」ロダンが感嘆するように、声は良い。やっと拝殿にたどり着くと、その前にはビニールシートで覆った土俵があった。
     「日枝神社って坂本ですか?」桃太郎に訊かれても、私は関西の地理に暗いので分からない。分からないから、「日枝神社は山王なんだよ」と別な話で逃げてしまう。調べておくと日枝大社は確かに滋賀県大津市坂本にある。
     元々は比叡山の地主神の大山咋神であるが、天智天皇七年(六六八)に、近江大津京鎮護のため大和国三輪山の大三輪神、別名大物主神を勧請して共に祀った。そして最澄が比叡山に延暦寺を創建した時、その神を仏法擁護の守護神として祀ったのである。唐の天台山国清寺が地主神として「山王弼真君」を祀っていることに倣って山王と呼んだ。「東京では赤坂の山王神社ですね」と姫も口を合わせる。
     姫の資料には祭神の大山咋神に「おおやまずみ」と読みを振っているが、これはオオヤマクヒと訂正させてもらおう。咋(クヒ)は杭であり、山に杭を打って所有権を主張することだと考えられている。大きな山の神と言えばコノハナサクヤビメの父である大山祇(オオヤマツミ。大山積・大山津神)もいるが、こちらは大三島の系統で、祀り上げた集団が違うのである。
     この神社は、かつては木沢山王社と呼ばれていたようだ。キザワのキは柵、城戸の意味だとの説がある。戦国時代までは木沢と表記され、江戸時代になって喜沢と改称されたらしい。

     「また国道を渡るのが大変ですね。」地図を見るとこのまま国道を行っても次の目的地の追分に着きそうだ。「でも下見をしてない道ですから。」姫はこの地図を信用していないので、あくまでも自分で確認した道を進みたいのだ。なんとか国道を渡って街道に戻った。
     喜沢追分交差点の手前の角には、「馬力神」と掘られた石が置かれている。明治三十七年とある。ある説によれば、廃仏毀釈によって馬頭観音が忌避され、馬力神を建てたものらしい。国会図書館のレファレンス協同データベースから栃木県の調査を見つけ出した。

     『日本民俗大辞典』(福田アジオほか/編 吉川弘文館 一九九九)によると「馬の守護神。自然石に馬力神と刻んだ石塔が栃木県や宮城県で見られるが、その大部分は愛馬の供養のために造立されたもので、神名のほか、紀年銘と造立者を記すだけのものが多い。馬力神の石塔は栃木県下都賀郡壬生町南犬飼北坪の一八五一年(嘉永四)例が現在知られる最古のもので、幕末に出現し、明治時代にもっとも多く造立された。」と説明があります。
     県内の馬力神について『下野の野仏』緊急碑塔類調査報告(栃木県教育委員会/編 一九七三)の塔碑類一覧で調べると県内に二百七十四の馬力神があることがわかります。
     http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000002571

     私は初めて見たが、栃木県を中心に茨城県、宮城県に見られるものだという。その石の蔭に隠されるように、もう一つの石も置かれている。「こっちは馬しか書かれてないね。」「神」の文字が前の石に隠れてしまっている。
     ここは五叉路になるのだろうか。左に行くのが壬生道で、すぐに国道四号線と交差する。前夜は間々田に宿泊した芭蕉と曾良は、ここから壬生道を通り、室の八島(大神神社内)を見物して鹿沼に泊まっている。
     まっすぐ行けば単純に国道に合流するのだが、その右に斜めに入る細い道が旧道になり、私たちはそちらに向かうことになっている。姫の最初の計画では壬生道を辿る筈だったが、そちらは電車の便が極端に悪いので、計画を変更したのである。
     信号の向こうの角にしゃがみ込んでいる男は何をやっているのだろう思えば、信号が青に変わると立ち上がって女と一緒に歩き出した。今どきの若い男は信号待ちの間にしゃがみ込むのか。その角にも石碑が立っていて、小さな観音像が二体置かれている。黒御影の石に彫られた文字を読むと、「馬頭観音及出征馬碑の敷地使用と道路改廃の契約書(写)」と書いてある。昭和五十七年に共同石油が土地の払い下げを受けた際、この三坪を引き続き馬頭観音を祀る敷地として維持する旨、地元町会と契約したのである。
     馬頭観世音は明治二十七年のもので、台座には「喜沢中」とある。その隣に立つ大きな石碑は「日清日露日支出征馬碑」である。「ほら、ここに馬の名前も書いてあるよ。」講釈師は碑の裏を眺めて嬉しそうに講釈を始める。
     旧道は幅三メートル程の、住宅に挟まれた細い道だ。黄色い花はヤマブキではないか。そして陸羽道東二号公園で小休止する。一時十三分である。「陸羽道」とは陸奥と出羽を言うだろうか。ここにはトイレもないので五分ほどで出発する。
     左手は雑木林だ。「あれが一里塚です。」確かに木を伐採して草だけになった中に、こんもりとした塚がある。しかし説明するようなものはどこにもない。日本橋から二十一里、喜沢の一里塚である。「でも、これでもきれいになったんですよ。インターネットの写真を見ると、もっと荒れ果てていたようです。」

     本来の街道は途中で宇都宮線・東北新幹線の東に回り込んでいたようだが、そちらにはいけないのでこのまま真っ直ぐ行く。少し先でさっきより少し広い公園に出て休憩をとる。地図によれば旧道はこの辺で再びこの道に合流しているようだ。公園の名前は分からないが、四五人の男女がグランドゴルフをやっている。「ゲートボールとは違うのかい?」ドクトルはこういうことには不案内らしい。「違うよ、ゲートボールは四隅を使うんだ。」これは一番から何番まであるのかしらないが、芝生のそこらじゅうにゴールを置いてある。
     花壇には水仙の間にツクシが無数に顔をのぞかせている。「外から持ってきた土に入ってたんだね。」花壇にツクシとは不思議な光景だ。子供連れの女性が明けてくれたのでベンチに座り込んで、差し入れの煎餅や飴を戴く。ヨッシーが「そんなに甘くないですよ」と瓦煎餅をくれたので、私にしては珍しく有難く頂戴する。公園の西側はすぐに国道に面しているが、私たちは再び旧道を歩く。
     右手はすぐに新幹線の高架だ。その下に源平咲の桜が咲いている。「源平って、私も先日で覚えましたよ」とロダンが笑う。このところ結構見かけることが多い。新幹線の向こうに馬に乗っている男の姿が二人見えた。「乗馬クラブがあるんだ。」小山乗馬クラブ大沼の看板が建っている。
     国道に出ると、「この辺から地名と屋号の看板を出した家が多くなります」と姫が注意してくれる。最初に出会ったのは「奥州道中大町新田宿・下の和泉屋」である。「道路の向こうにもあるんですけど、横断できませんからね。」
     新田宿は小山宿に次いで、日本橋から十三番目の宿場である。別称として大町新田、芋柄新田とも呼ばれた。現在の字名では小山市羽川となる。天保十四年(一八四三)の「日光道中宿村大概帳」で、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠が十一軒、宿内の家数五十九軒、人口二百四十四人とある。こんな小さな宿でも旅籠があるのだから不思議な気がする。
     「栃木屋」の札を掲げる家は広大な敷地で、奥の方に三棟の建物が並んでいる。「あの石が面白い。ライオンの口みたい。」「どこから持ってくるんだろう。」大きな岩石を庭に置く趣味はどういうものだろう。ドクトルやロダンは石が好きな人たちであるが、家にこういうものを置こうとは思わないだろうね。「うちに置いたらリビングが塞がれてしまいますよ。」
     「樹とか石とか、いやだね。あんなものが好きな奴の気が知れない。ネッ。」「好き好きだからいいんじゃないの。」「アレッ、反論したね。昔は素直だったのに。」「俺も講釈師の悪影響を受け過ぎたんだね。朱に交わってしまった。」
     信号を渡った正面の立派な門構えの家には「本陣」の札が掛けられている。「ここが本陣でした。」「随分広いですね。あのブロック塀が尽きるところまでが敷地でしょう?」「小学校の校庭くらいありますね。」この家ほどではないが、札を掲げている家はどこも広い。
     もう一度信号を渡って国道の東側を歩く。「瀧屋」「小佐野屋」「池田屋」。キリがなくなってくる。道路端に昭和六年一月に据えられた馬頭観音がある。「昭和になっても造ったんですね。」馬は輸送の貴重な手段だったのは、田辺茂一が新宿を回想した文章(『わが町新宿』)を読んでも分かる。今の新宿通りだって大正から昭和初期には、そこらじゅうに馬糞が落ちているような道だったのである。
     その表札が尽きた頃、鳥居の前に着いた。小山市上国府塚七三八番地。鳥居の前の立て看板には「ふるさと運動・羽川おはやし会・おはやし後継者育成指定地区・小山郷土芸能おはやし振興会」とある。コンクリート製の神明鳥居の前の石柱には「郷社橿原神社」と彫られている。幅二メートル程のコンクリートの長い参道が続き、両脇に金属製だが朱塗りの灯籠がずらりと並んでいるのは壮観だ。参道を外れた草むらにはムラサキハナナが目立つ。
     「ホラ、桃太郎の名前があるよ。寄進したんだな。灯籠の赤い柱には寄進者の名前が記されているのだ。「もう一つあったよ。桃太郎は金持ちだ。」「名前が違いますね。」道の両側に植えられているのはソメイヨシノだろう。アジサイもある。
     社務所の前には数人の高齢者が集まっている。おはやしの会の人たちだろうが、何となく監視されているようで、ゆっくり見学する気分になれない。拝殿の真後ろに新幹線の高架が見えるのが不思議な配置だ。社殿は権現造りだ。

     往古、この地の氏神様は「星宮神社」であった。明治五年、敬神の念篤き氏子等が集い、九州は宮崎神宮より御神霊を勧請し、「橿原神社」と名を改め創建されたのが当社である。 以来、羽川駅・小金井宿・飯塚宿・半田村・三拝川岸村・川中子村・紫村・笹原新田村・国分村・柴村・荒井村・出井村の一駅・二宿九ヶ村の総鎮守(郷社)として崇め祀られてきた。しかし年月の推移、組織改変等により、羽川郷の氏神様となり、現在に至る。明治三十九年四月二十五日汽車の飛び火により、神殿が炎上、灰燼に帰した。現在の御社殿は、大正三年四月再建したものである。 昭和四十七年国鉄新幹線が神社境内の東を通過のため西に移転等、大改築工事を行い、屋根は銅板葺きにて、昭和四十九年十一月二十四日完成し、現在に至る。(境内の案内より)

     橿原神社の名は廃仏毀釈以後のもので、「敬神の念篤き氏子等が集い」と言うのは、政府に迎合して神武天皇を祭神にしたということである。元来は星宮であって、星宮と言えば北斗妙見信仰によるものだろう。「前にも聞いてますね」と姫が笑う。佐野市の星宮神社について栃木県神社庁が解説しているのを読めば、「旧社地は七ツ塚と呼ばれ、北斗七星に塚を配置、星宮妙見大菩薩を祀る地とされている」とある。ここでは、星宮神社は小さな摂社になってしまっている。その他に吉田神社、琴平神社、八坂神社も祀られている。
     「それじゃ出発します。あとはひたすら小金井駅を目指すだけです。」二時十五分。あと一時間くらいだろうか。
     「そこに道があった筈なんですよ。」姫が指差すのは道の向かい側、銅市金属工業(小山市羽川四六六番地一)の角だ。敷地に沿って細い水路があって、旧街道はそこから左に入り国道の西側を並行して北上するのである。しかし金網で塞がれてしまって行くことはできない。
     姫の資料によれば、道に入った所に新田出口の道標と羽川石仏群があるのだ。行くことはできないが、寛政十二年(一八〇〇)の道標を兼ねた馬頭観世音には「左おざく道」、 宝暦二年(一七五二)の供養塔には「左おざく・こくふんじ」と刻まれているらしい。「おざく」とは鹿沼市石裂である。
     auショップを過ぎた辺りで下野市に入った。下野市なんて私には馴染みがないが、平成十八年(二〇〇六)一月十日に河内郡南河内町と下都賀郡国分寺町、石橋町の新設合併により発足した新しい市である。こういう新しい市が下野国を代表するような名をつけるのは如何なものだろうか。「シモツケなんて、普通は読めないよね。」
     下毛野と上毛野とが存在する以上、分割される前の毛野国があったのは当然だが、文献上に毛野国は現れてこない。つまり相当古い時代に毛野国は上下に分かれたのである。表記から「毛」が脱落し、読みから「ノ」が脱落するのは和銅六年(七一三)、風土記編纂の勅とともに発せられた好字二字化令(諸国郡郷名著好字令)によるものだ。これに似た改名に、近淡海を近江に、遠淡海を遠江に替えた例がある。
     左に向って「天平の丘公園」の標識が見えた。こんな場所で天平とはなにごとかと言えば、つまり国分寺の跡なのだ。それならこの市が下野国を名乗ってもそれ程無茶ではないか。しかしそれなら国衙はどこにあったか。これは栃木市田村町の宮目神社境内付近にあったという。「国分寺とか小金井とか言うと、中央線かと思ってしまうよ。」

     小金井駅に着いたのは三時十五分頃だ。「こら、これだよ。」駅前の観光マップで国分寺、国分尼寺の一を確認する。スナフキンの万歩計で二万一千歩。十二キロ程度歩いただろうか。「おかしいですね、八・三キロの筈なんですけど。」姫は不思議そうに首を捻るが、長い参道を何度も往復したりしているから、そんなものなのだろう。「そう言えば講釈師も疲れたようでしたね。」講釈師は疲れてくると文句が多いのである。
     ちょうど上手い具合に快速に乗れた。講釈師とドクトルは久喜で降りて行った。大宮には四時過ぎに着き、三々五々別れていく。

    蜻蛉