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    日光街道 其の十二 (小金井~石橋)
    平成二十七年六月十三日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2015.06.25

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     六月八日、文科省は国立大学に対し、教員養成系と人文系社会学系の学部・大学院の廃止転換を求めた。実は文科省は五月二十七日に通知素案を出していたのだが、私はこれに気づいていなかった。
    「社会に必要とされる人材」を育てられなければ、そんな学部は要らないという趣旨である。今の段階では予算配分を人質に取った国立大学への通達だが、経費効率をもっと考える私大においては、廃止転換の速度は早まるだろう。学部が廃止されれば研究者がいなくなる。当然のことに本もなくなる。歴史、哲学、文学その他、人文学はなによりも世界に対する批判精神の基礎であり、文化そのものである。その文化の殲滅を宣告したものだ。
     人文学の危機は唱えられて久しいが、文教政策としてはっきりと打ち出されたのは平成三年(一九九一)の「大学設置基準大綱化」であろう。これにより一般教育科目必修枠が廃止され、その時以来、私立大学の多くは人文系の科目を廃止し、その教員を放逐してきた。その結果がどうなったかは歴然としている。
    「パパ、歴史は何のために必要なの?」フランスがナチスに占領された時代にマルク・ブロックはこんな質問に当面したが(マルク・ブロック『歴史のための弁明』)、歴史学はもはや疑問符もつかずに、完全に不要なものだと断定されるであろう。「実学」「必要」ばかりが重視され、人文学を成り立たせる諸知識は体系から切り離された細切れの情報の断片となり、ちょっと自慢できる雑学に転落する。
     クイズ番組や、いわゆる情報番組の流行は、膨大な知識が何一つ体系に向おうとすることなく存在する無残さを表している。雑学的知識を誇るタレント(大学教員や予備校教員も含まれる)とともに、無知無学を売り物にするタレントも出現した。それも一人や二人ではないのは、私はあんなに酷くないと視聴者を安心させるための手管だろうか。精神の驚くべき退廃と言わなければならない。世界を覆いつつある反知性主義を国家が後押ししているのである。今の政権には学問への尊敬も畏れもない。
     時代はいよいよ一九三〇年代との類似を強く思わせるようになってきた。知性と反対の極にあるのはファナティズムである。問題を無理矢理二者択一に仕立てあげ、あれかこれかの選択を強引に迫る手法は小泉純一郎によって大成功を収めたから、これからも政治家は踏襲し続けるだろう。後世、私たちの時代は何をしていたのかと批判されるのは間違いない。
     そして六月八日、関東地方も梅雨に入った。じめじめとした日が続き、気分も滅入ってくるが、今日は雨も中休みだ。旧暦四月二十七日。芒種の次候「腐草為蛍」。腐れた草が蛍となるというのである。家の近所ではノウゼンカズラやキョウチクトウが咲き始め、これだけ見るともうすっかり夏の景色だ。蒸し暑くなると寝苦しくなり、私はこのところ寝不足気味である。

     駅まで歩くだけで汗が滲んでくる。集合は宇都宮線・小金井駅だ。鶴ヶ島を七時五十四分に出て、川越・大宮を経由して九時四十分に到着する。運賃は千四百八十二円だ。電車から降りた途端、隣の車両から降りてきた姫と顔が合った。「乗ってたんですか?」全く気づかなかった。トイレではスナフキンと会う。ちょっと周りを見回していれば気づいた筈だが、大宮から約一時間の間、ほとんど居眠りをしていたのである。
     集まったのは姫、小町、ダンディ、講釈師、ヨッシー、オカチャン、スナフキン、蜻蛉の八人だ。「やっぱり少なくなってくるよね。」それでも小町が来るのは珍しい。スナフキンは珍しく爽やかな顔をしている。「昨日は休みだったんだ。」彼は出勤すると大酒になる機会が増えるのである。
     「歩く地図でたどる日光街道」(http://nikko-kaido.jp/niko-dochu/chizu-top.html)というサイトを見つけたので、そこから地図を印刷してきた。今日のコースは「小金井~自治医大」「自治医大~薬師寺」「倉井~下石橋北」「下石橋北~石橋宿」と四枚に分かれていて、主な商店や目印も網羅されている便利なものだ。ただ二〇一三年九月時点でのものだから、この二年で消えてしまったものもあるようだ。それでも姫が参照している本の地図よりはよほど正確で、これから先、こんなものがある筈だと私が言うのはこの地図に負っている。
     西口に降りると、SLの車輪が切妻屋根の下に保存されている。これはC57蒸気機関車の動輪で、この機関車は「貴婦人」の愛称で親しまれたと言う。国内向けに川崎車輛、汽車製造会社、三菱重工業、日立製作所の四社で計二〇一両が製造された。ほかに台湾向けに十四両が製造されている。ここに展示されている動輪は、昭和十三年(一九三八)に日立製作所で製造されたものである。ただ、どうしてここに展示してあるのか、理由は分らない。

     百メートルほどで国道四号線に出る。今日のコースでは、街道の一部は国道から少し逸れているのだが、その部分は今では畑地や宅地になってしまって通れない。だから今日は基本的に国道をそのまま北上することになる。
     所々に大谷石の蔵が目立つ。「これまで余り見かけないものでした。」軽くて加工がしやすく、しかも耐火性・耐震性に優れているのが大谷石の特徴だ。最古の例は壬生町車塚古墳、小山市間々田千駄塚付近百塚の石棺で、天平十三年(七九五)には下野国分寺や国分尼寺の礎石としても使用されたと言う。水には弱そうに見えるが耐湿性もあるらしい。
     菓子の蛸屋、寿司屋の力道が並んでいる。蛸屋は小山に本店があるのを私たちは知っている。「力道なんて、随分気張った名前だな。」マクドナルドの手前で姫は立ち止まり、「この辺なんです」と左を見る。
     国道の左には大きな家とユウガオ畑しか見えない。ユウガオの実が大きく生っている。見かけは普通の瓜と変わらない。勿論アサガオ、ヒルガオとは違うウリ科の植物である。ヒョウタンとは同一種であるなんて私は全く知らなかった。「カンピョウだね。」「俺はカンピョウを買いたいんだ。」カンピョウ好きのスナフキンに、「石橋駅の近くにお店があります」と姫が答える。
     左に少し入り込むと塚が見えた。国道から二三十メートルほど西にずれたところで、家や畑が旧道を分断したわずかな隙間に対の一里塚が残っているのだ。ちょうど小さな公園のような按配で、子供を遊ばせているオバサンが挨拶してくれる。
     これが「小金井一里塚」で、江戸から数えて二十二番目に当る。築かれた当初は五間(九メートル)四方の塚だったが、長年の風化でやや丸みを帯び、現在では十二メートル四方だという。日光道中の一里塚で唯一、国の史跡に指定されている一里塚だ。エノキとクヌギが立っている。と言っても私が判定できたのではない。姫が教えてくれるのだ。元々はエノキだけだったが、いつか誰かがクヌギを植えたらしい。塚と塚の間の道は十メートルあるだろうかと目測したが、五間と分かったので街道の道幅はおよそ九メートルになる。

     この二つの塚の間を通っている道が江戸時代の五街道の一つ、日光街道です。江戸幕府が五街道の整備に着手したのは慶長九年(一六〇四年)で、栃木県令三島通庸が今の国道四号を作ったのが明治十七年(一八八四年)ですから、この日光街道は約二八〇年もの間、東北地方への主要道路として使われていたのです。(説明板より)

     そうか、悪名高い三島通庸の名前がこんなところに出てくるのだ。土地を強制収容し、農民には無償の労役を課し、労役が負担できなければ税を課した。反対する者には弾圧一本槍で臨み、無茶な道路造りを強行したのは知っていたが、実際にこれが三島の造った道だと知れば、感慨が浮かんでくる。考えてみれば当たり前のことなので、福島県令として福島に道を通した以上、東京までの道を造るのは三島にとっては当然のことである。
     今まで私がこのことを全く思い浮かべなかったことが問題だった。ブッキシュな知識だけで、現実への想像力が欠けているのが私の大きな欠陥である。エラソウなことは言えない。しかし福島事件、加波山事件の経過を見れば、道路造りが目的だったのか、自由民権運動弾圧が目的だったのか分からなくなってしまう。私は三島を認めないが、しかし別の視点から見ればインフラを整備した偉人という評価も出てくるだろう。
     「小金井ってどんな由来でしょうか。」これは私も予習してきた。ここから七八百メートル北西に国分寺運動公園がある。今ではその中に埋もれてしまったらしいが、旱魃の時にも涸れることがなく、小金の井戸と称された池があったのである。それが地名の由来だとされている。「武蔵小金井の方はどうなんだろう?」「あそこも湧水が多い土地だよね。」「国分寺崖線の湧水だろう。」
     国道に戻って少し行くと、鈴木薬局の庭先に黄色いサボテンの花が咲いていた。サボテンの花なんか滅多にみられないので写真を撮る。「ひとさまのお庭なんですけどね」と姫が苦笑いする。

     覇王樹の花街道を驚かし  蜻蛉

     サボテンを覇王樹と言うなんて、歳時記を見て初めて知った。この辺りに宿場の木戸があったらしい。つまりここから小金井宿が始まる。
     小金井宿は天保十四年(一八四三)の『日光道中宿村大概帳』によれば、長さ二十九町、町並六町四十二間、家数百六十五軒、人口七六七人、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠四十三軒、問屋場一軒の宿場である。

    宿駅の管理は、当初は壬生藩だったが、元禄九年(一六九六)以降は幕府、宝暦十三年(一七六三)以降は下総佐倉藩、天明七年(一七八七)以降は幕府、寛政十一年(一七九九)以降は再び佐倉藩が担った。(ウィキペディアより)

     すぐ近くに宇都宮藩があるのに、わざわざ佐倉藩に管理を任せたのは何故だろう。右側の菅井製菓(下野市小金井二九八五)の辺りが、案内は何もないが下総佐倉藩の陣屋があった場所らしい。因みに幕末時点で下野国における佐倉藩の領地は、都賀郡のうち十六村、塩谷郡のうち十村となっている。
     そして左が慈眼寺である。下野市小金井一丁目二十六番二。金剛乗院多宝山。真言宗智山派。石門を入ったすぐ右側に、布袋の黒い石像が控えている。「この布袋様は怪しげじゃないですね」と姫が笑うのは、どこだったかで(日光御成道だった)おかしな布袋を見かけたことがあるからだ。その隣には五六基の文字庚申、合掌型青面金剛、如意輪観音、十九夜塔、二十三夜塔、二十六夜塔、馬頭観音、それに何か分からない菩薩の立像が並んでいる。
     「二十六夜塔ってなんなの?」私も二十六夜塔は見た記憶がない。「こういうのをただ集めるだけでなく、ちゃんと説明してくれると有難いんですよね。」私もそう思う。月待塔の一つであることは間違いないのだが、月待ち、日待ち、庚申待ちはややこしく分かりにくい。

     陰暦二十六夜の月の出を拝むこと。特に正月と七月との二回を二十六夜といった。この夜の月は阿弥陀・観音・勢至の三尊の姿に上天するといって、これを拝むと幸運を得るとの信仰があり、その月待ちが江戸では盛んであった。(中略)
     なお長野県北安曇郡では、二十六夜待は紺屋が主として行う行事である。(鈴木棠三『日本年中行事事典』)

     阿弥陀・観音・勢至は言うまでもなく阿弥陀三尊であり、これを主尊とするならば、本来は念仏講だったと思われる。紺屋が行う場合は愛染明王を礼拝したようだ。
     小花波平六は月待ちの代表的な例として二十三夜を挙げ、これも本来は念仏講(夜念仏)であったと言っている。二十三夜塔が初めて造られるのは嘉吉元年(一四四一)であり、十五世紀後半に最盛期を迎えたそうだ。

     仏教的な儀礼を伴う二十三夜の月待が行われてくるのは、文献や遺物によってみる限り一四四〇年代である。もちろん月に対する信仰が古代から行われてきたことはいうまでもない。けれども、月の二十三夜の晩に同信の者たちが一定の場所に集まり、一定のきまりに従い宿願の達成を祈念し仏教的儀礼を行い、共同飯食を催すなどいわゆる講的行事としての月待を行うようになったのは、一四〇〇年代のことではないかと推定される。(中略)
     要するに月待の板碑は関東に多く遺残している。・・・・この関東の月待の盛行は、京都など中央部からの影響があったにちがいないが、関東のこの信仰の盛行は、逆に京都方面に対しても影響を及ぼしたとも考えられる。またこうして盛行した月待が、守庚申にも影響し、庚申待という本尊礼拝の習俗を成立させたのである。(小花波平六「守庚申より庚申待へ――十五世紀の関東の夜念仏・月待と庚申信仰」)

     古代からの月に対する信仰に念仏講を結びつけた月待講が、やがて単なる念仏講を越えて、様々な形に変って行く。今でも十五夜や十三夜の行事は一般家庭にも残っているだろう。十三夜講は虚空蔵菩薩を主尊とし、十五夜講は大日如来や聖観音を主尊とする。十九夜、二十一夜、二十二夜は如意輪観音を礼拝する女人講となった。
     二十三夜にはちょうど真夜中に東の空から半月が登ってくるので、月待ちの中では最も盛大に行われたという。その割には今まであまり見かけたことがない。江戸時代には勢至菩薩を主尊としたようだ。二十三夜の主尊が勢至菩薩ならば、正体が分からない合掌型の観音に見える立像もこの二十三夜塔なのかも知れない。観音に見える合掌型の石仏があれば、たいていは勢至菩薩だと考えて良いらしいのだ。
     百メートルほどの参道の中ほどで、右隣の民家の塀から赤い花を開いているのはキョウチクトウではないか。「そうです、キョウチクトウですよ。」もうキョウチクトウが咲くのか。「ノウゼンカズラも驚きましたね。今年はなんでも花の咲くのが早いようです。」「だんだん春と秋が短くなって、すぐに夏になっちゃうんだよね。」小町の顔はもう汗でびっしょり濡れている。山門は黒塗りの四脚門だ。

    當山は、金剛乗院多宝山慈眼寺と号し、いまから七百八十年前の建久七年(一一九六)後鳥羽天皇の御代、下野の豪族新田義兼公の開基により新田一族の祈願所として建立された真言宗の古刹寺院である。当時から、七堂伽藍を有した東国の名刹寺院として代々新田氏に保護されてきた。
    又、弘安十年(一二八七)に高野山の学僧信日法師が書写せる、「空海御遺告文」が当時から寺宝として伝わっていることから、相当の寺格を有していたことが考えられる。
    下りて、応永年間(およそ五百九十年前)醍醐の俊海僧正を迎え、當山の中興第一世とした。それによって、今日と醍醐寺の直末寺院となり。末寺十数ヶ寺を有し、室町幕府の保護を受けて、寺門は大いに隆盛を極めた。
    又、応永三十年(一四二三)に俊海僧正によって印可の授与された記録が残っており、真言宗の奥義が當山で伝授されていたことが明らかであり、関東の有数な寺院であったことがうかがわれる。又、僧侶の学問・修行の道場として多くの学僧が学んでいたことが記録として残っている。(開山の由来)

     この説明で、また余計なことに引っかかってしまった。「下野の豪族新田義兼」「代々新田氏に保護され」というのは本当だろうか。新田氏ならば上野国新田荘を本貫とする。その新田氏がこの辺を領有したなんて聞いたことがない。これは足利氏の間違いではないか。調べて見ると、同じ時代に、新田氏と足利氏に同じ義兼という人物が従兄弟同士として存在するからややこしいのだ。
     以前にも触れたが、新田氏と足利氏は源義家の三男義国に始まる。義国の長男義重が新田荘を継いで新田氏を名乗り、義国の次男義康が足利荘を継いで足利氏を名乗る。新田次郎義兼(一一三九~一二〇六)は義重の次男で新田氏宗家二代目を継いだから、本拠地はもちろん上野国新田荘である。一方足利三郎義兼(一一五四~一一九九年)は義康の子で、足利氏宗家二代目として下野国足利荘を継いだ。同じ名前なので混同したのではないか。
     山門屋根の棟瓦や軒丸瓦には三葉葵の紋が彫られていて、姫が注意を促してくれる。日光社参の将軍の昼食所とされたから、徳川氏の保護を受けたのだろう。山門はかつて仁王門だったが、再建されてからは今の形となった。「かつては七堂伽藍の聳える大きな寺院でした」と姫が解説する。明治初年の大火によって多くの伽藍は焼失し、江戸時代の建物として今残っているのは、千手観音堂と鐘楼堂だけである。
     因みに「七堂」は禅宗では山門・仏殿・法堂・庫裡・僧堂・浴室・東司のことを言うが、宗派によって異なり、要するに寺院内の主要な七つの建物を言う。伽藍は僧侶の住み、修行する場所の意味である。
     まずその千手観音堂を眺める。壁は朱塗りで、甍の緑との調和が美しい。扉の表面は十二の区画に仕切られ、それぞれに植物が描かれている。桔梗桐やアヤメに見えるものもあるが、ほとんど分からない。講釈師とヨッシーが鰐口を鳴らす。

    江戸時代の建物、船形三手先枓組造りと申し、廻廊の端に縁束がなく、廻廊を十二本の柱から腕木を出して持たせている。堂外欄間には十二支が彫られ方角を示しており、堂内の佳麗なる宮殿には弘法大師御作の千手観世音菩薩、延命地蔵菩薩、毘沙門天が安置されており、下野西国二十三番札所として、安産子育の観音様として信仰されている。

     「欄干の上に十二支がいるんです。」姫の言葉で周囲を巡ってみると、一面に三つづつ、たしかに十二支の動物がいる。黒塗りの鐘楼の袴腰も見事だ。そばにいるオカチャンの背と比べると、袴の高さだけで五メートルを超える。

    総欅造り、入母屋袴ごしが付き、棟まで約十一米ある。彫刻物も多く、特に東北隅の柱には、鬼門いただきの獅子が彫られている。

     梵鐘は享保四年の作だったが、戦時中の供出で失われ戦後再鋳したものだ。本堂左の巨大なビワの木に、実が鈴なりに生っている。「食べたいですね。」背後の緑も美しい。唐破風の上部にも棟瓦にも、山門と同様金色の三葉葵が輝いている。
     「アジサイの開花を知ってますか?」通常花と見えるのがガクであり、その真ん中の小さなものが花だとは認識しているが、開花がどんな状態なのか、これまでちゃんと見ていなかった。「これはまだ蕾ですね。」青いアジサイを観察すると、確かに中心部は丸いままだ。別の場所に移って、今度は赤いアジサイを観察する。「これですよ。」なるほど、ガクに囲まれた中心に小さな四弁化が開き、めしべが伸びている。こんなものは初めて見る。「そうか、勉強になる。」オカチャンが感動する。私も一つ知識が増えた。

     紫陽花や朱の色に建つ観音堂  蜻蛉

     次は隣の金井神社だ。下野市小金井一丁目二十六番十六。石造の神明鳥居を潜る。参道の両側には朱塗りの灯篭が並んでいる。

    当社は、国土開拓の祖神である磐裂命、根裂命をお祀りする。往古は金井村字余又の地にあったが、宝暦四年(一七五四)に現在地に遷座し、小金井宿本陣隣りの鎮守として発展した。(由緒)

     磐裂命、根裂命は、イザナキがカグツチを斬った十拳剣を振るったとき、飛び散った血から生じた神である。岩を裂き、根を裂くほど強い力をもつ雷神と考えられる。この由緒では、その力を国土開拓の力とするのである。そして実はこの神社は北辰社、つまり星宮だった。

    金井神社は、近世は小金井宿の鎮守で、北辰社あるいは北辰宮とよばれ、慈眼寺が別当をつとめていました。昔は虚空蔵と称し、現在地よりも西の字余又というところにありましたが、宝暦四年(一七四五)に遷座し北辰社となり、のちに星宮神社と称し、明治五年(一八七二)に金井神社と改称したといわれます。県内でも数多くみられる虚空蔵信仰を発端とする星宮信仰とかかわりの深い社で、磐裂・根裂神を祭神としています。(「下野市の文化財」より)http://www.shimotsuke-bunkazai.com/culturalassets.php?id=31

     栃木県には星宮神社が多くあって、それが他の地方とは違う珍しいことだ。真偽は確認していないが、星宮神社は全国でおよそ四〇〇社あり、そのうち栃木県内だけで百三十とも三百とも言われる星宮が存在する。
     そう言えば大学の近くにも小さな星宮神社がある。入間郡毛呂山町下川原二四八番地。裏手の土手に春にはクサイチゴの花が咲く。江戸時代の妙見社だが、現在の祭神は天之御中主之命とされている。
     北辰(北斗)信仰は妙見菩薩と習合するのが普通だと思っていたが、栃木県内の日光からこの辺り一帯にかけての星宮は、磐裂・根裂神を祭神として、本地仏を虚空蔵菩薩とするものが多いらしい。金星を神格化した明星天子の本地が虚空蔵菩薩だと考えられている。北斗七星とは関係ないが、虚空蔵を星宮の本地とするのは、同じ星からの連想だろうか。
     例えば日光市遠下には、そのものずばり磐裂神社があって、その由緒を見るとこんな風に書いてある。

     当神社は、上古妙見天童と称し中古妙見大菩薩と称し近古妙見宮と称せしも、明治四年七月四日付太政官布告の郷社定則の時、磐裂神社と改称せり。
     往古、足尾郷民の祖日光中禅寺より足尾の土地に移住し土着せるものにして中禅寺の鎮守にして己等の氏神、妙見天童を一族の内、神山文左エ門、齋藤孫兵衛の両祖、交互に霊代を背負い奉り来りて遠下の地をとして鎮座せしめて足尾の鎮守となせり。
     天安二年八月、御祭神を磐裂命、根裂命の二柱として境内坪数千九百七十三坪と定め社殿を造営して名実共に鎮守となせり。(栃木県神社庁)

     これによっても、当初は妙見菩薩信仰だったことが分かる。しかし天安二年(八五八)の時点で、磐裂命、根裂命を祭神としたというのは少し信じ難い。この文章からはその時に「境内坪数千九百七十三坪」と定められたとしか読めないが、天安の時代に「坪」という単位があったなんて聞いたことがない。六尺四方の面積は「歩」と呼ぶのが常識で、これは明治の神仏分離後に作られた伝説であろう。
     拝殿には鈴が三つぶら下げられている。拝殿は黒塗りで、階段と回廊だけが真っ赤に塗られている。本殿の彫刻が素晴らしいというので、後ろに回ってみる。「どこですか?」「この中ですよ。」覆殿の格子から何とか覗いてみると、確かに見事な彫刻だ。「姫はここに乗ると見えますよ。」案内板にはこう書いてある。

    本殿は一間社三方入母屋造りという建築様式を伝え、壁面の全面に壮麗な彫刻がほどこされています。この彫刻の制作年代は不明ですが、天保期から嘉永期(一八三〇~一八五〇年代)にかけてのものと推定されます。作者は富田宿(栃木市大平町)を本拠地とする磯部氏系統の彫刻師であると考えられています。本殿は欅を用いた素木造で彩色はありません。屋根は栩葺きで、壁面には当時の人々の名前が刻まれており、両側には彫刻の施された脇障子がついています。この本殿において注目されるのは、彫刻の各部分に寄進者と思われる人物の名が数多く刻まれているという点です。寄進者の内訳をみると、現在、人名が確認できる三十九人のうち、夫婦あるいは家族の連名を除く二十六人は女性が単独で名を連ねています。それらは屋号となっているものが多く、本殿彫刻の寄進者の多くは、小金井宿の商家や旅籠の女性であることが考えられます。(「下野市の文化財」より)

     こんな風に説明してくれるなら、もう少しじっくり観察できるようにしてもらいたいものだが、それは無理な注文か。またそれぞれの彫刻のテーマについても教えてもらいたいものだ。
     街道に戻る。土壁が破れて露出している見世蔵造りの建物の前には、足場を組んでネットが張られている。修復するのだろうか。かなり大きな見世蔵だから、きちんと修復して見学できるようにすれば、日光道中の見どころのひとつになるだろう。幕末から明治初期に建てられた呉服屋らしい。
     すぐ先の左側の、大谷石の塀に囲まれた黒い四脚門の家が本陣跡(大越家)である。「乳鋲もあるんです」と姫が言う門は閉ざされている。門内を覗きこむ人がいるが、そういうことは遠慮しなければならない。中に人が住んでいるのである。
     この向かい、街道の右側に「俳諧の句碑」が立っている筈なのだが見つからなかった。文化四年(一八〇七)に大越家の屋敷内に建てられた句碑なのだ。慈眼寺三十世住職・宜照、江戸談林派の谷素外の発句の下に、小金井宿の俳人十二人の発句が刻まれているという。どんな句が記されていたのか分からないが、谷素外なら、私たちは品川の利田神社の鯨塚で見ている。

     江戸に鳴る冥加やたかし夏鯨  素外

     普通の文学史では、談林派は蕉門の登場によって衰退することになっているのだが、なかなかどうして、結構しぶとく生き延びている。芭蕉がエライことは間違いないが、庶民にとっては談林派のほうが分りやすくて面白かったのではないか。
     街道の東側には、さっきと同じように足場を組んだ見世蔵の建物が建っている。岡本仏具店の向かい、菅沼輪業の隣の辺りに問屋場があった筈だが案内はない。小金井の人は日光道中に冷淡なようだ。
     小金井北の交差点を右に曲がれば、正面が蓮行寺だ。珠栄山と号す。日蓮正宗。下野市小金井二九三六番地。正平十五年(一三六〇)の開基とされる。日光社参の将軍を宇都宮藩主がこの寺で迎えた程の格式を持っていた。
     法事に来たらしい礼服の人が見えるので、静かにしなければならない。境内を入ると竜安寺を思わせる石庭に、等身大の鶴の置物が数体立っている。「どうして鶴が?」分からない。「ここに鶴の紋所があります。」銅製の天水桶に金色の「鶴丸」紋が描かれていた。鶴丸はJALのロゴをイメージしてくれればよい。これが寺の紋なのだろうかと疑問に思ったのは私の無学である。鶴丸は日蓮の紋で、だから日蓮正宗の寺院に使われるのである。ほかに公家の日野氏や河内源氏流の森氏等の家紋にもなっているようだ。
     下野市消防団第七分団第一部詰所のところに薬師堂があるが寄らない。上町公民館になっているらしい。この辺りが小金井宿の北の外れで、木戸があった場所だ。ここを過ぎると国道の左側には麦畑が広がってくる。せっかく黄金色になった小麦が、昨日の雨で大方倒されてしまっているのが残念だ。既に刈り取りが終わった場所もあるのだから、仕事が遅かったというべきか。

     コスモ石油の手前の細道を姫は左に曲がり、すぐ先の麦畑と民家の間の狭い農道で立ち止まる。「この辺から旧道が分かれていました。」姫の参照している本の地図では、この道を行くことになっているようだが、すぐ先は工事中の建物にぶつかってしまう。「ですから、このまま国道を歩きます。」
     この辺りは笹原新田と呼ばれ、江戸時代には鬱蒼とした松並木が続いていたという。国道の右側を見ると、それらしい赤松の並木が続いている。しかしこれは新しいものだろう。左手は何もなく、荒れた草原が広がっている。歩道に覆いかぶさる枝葉がうるさい。
     十五分程歩くと、やがて右前方に「もつ煮」の看板が見え、左には手打ちうどんの看板も見えてきた。「ここでお昼にする積りでした。」姫は間違えて山田うどんなんて言ってしまったが、「田舎や」である。下野市笹原十番五。「山田うどんとはエライ違いだ。」十一時二十分である。「山田うどんだったら、もつ煮とセットだね。」「そうですよね。」オカチャンも山田うどんの常連であったか。しかし私はここ二十年、山田うどんには行っていない。
     壁に貼り出されたメニューが面白い。うどんだけで蕎麦はない。天ぷらもない。各種のうどんがあるのだが、それぞれ、普通・大盛り・特盛り・二枚・一キロがある。一キロのうどんってどんなものだろう。値段は「普通」のほぼ倍になる。
     私はとろろうどん(普通・六百七十円)にかやくごはん(百八十円)を付けた。小町はもり(普通)にかやくごはん、姫はとろろうどん(普通)、スナフキンは肉汁うどん(大盛り)である。隣のテーブルでは、この暑いのに煮込みうどんを頼んでいるようで、ピリ辛なんて声が上がっている。
     「ビール一本位いいだろう?」私は誘惑に弱い。スナフキンの言葉で中瓶を一本とって、姫と三人で分けた。
     まさか注文を受けてから粉を打っている訳ではないだろうが、かなり時間がかかってようやくでてきたうどんは太い。親指ほどの太さになるのではないか。そして固い。これを「腰がある」というのか。薬味に細く切った油揚げが三つついているのも珍しい。この店は「武蔵野うどん」を看板にしているので、ウィキペディアを開いてみた。

    麺は、一般的なうどんよりも太く、色はやや茶色がかっている。加水率は低く塩分は高めである。コシがかなり強く、食感は力強い物でゴツゴツしている(つるりとはしていない)。食するときには麺は、ざるに盛って「ざるうどん」もしくは「もりうどん」とする。つけ麺の汁は、かつおだしを主とした強い味で甘みがある。シイタケ、ゴマなどを具として混ぜたものを、温かいまま茶碗ないしそれに近い大きさの器に盛る。ねぎや油揚げなどの薬味を好みで混ぜ、汁をうどんにからませて食べる。豚肉の細切れを具にしたメニューの「肉汁うどん」などは明治時代中期以降の食べ方で、商業化された「武蔵野うどん」の店舗では「肉汁うどん」「きのこ汁うどん」が「武蔵野うどん」であるかのように近年売り出しているが、「武蔵野うどん」とは武蔵野地方で「手打ちうどん」と呼ばれるコシの強いうどんの麺を指す用語である。天ぷらうどんのような食べ方は元々なく、「糧(かて)」と呼ばれる具(主に茹でた野菜)が付く程度である。(ウィキペディア「武蔵野うどん」)

     下野国で武蔵野うどんを食う。麺はゴツゴツとしていて、胃にたまるようだ。これなら、かやくごはんは無用だった。小食の姫はさすがに全部は食べきれない。蕎麦湯ならぬ「うどん湯」がつくのがご愛嬌で、こんなものは初めての経験だ。「どうだい?」「ウン。」何とも言いようがない。
     店は結構混んできた。「流行ってるね。」「ほかに店がないんじゃないの。」満腹になったところで店を出る。十二時二十分。日差しが強くなってきた。
     次の角が自治医大駅に出る道だ。この左手が佐竹領だったようだ。久保田藩の飛び地がこんなところにあるとは全く知らなかった。慶長七年(一六〇二)に秋田への転封を命じられ、十年(一六〇五)に飛び地として下野国河内郡・都賀郡の飛び地十一ヶ村、五千八百石を与えられたのである。そのためにこの辺は五千石原とも呼ばれた。下野市の新庁舎工事が進んでいる。
     ほかに店はないのではないかと言ったのは、無知な私の悪口だった。お食事処「小雪」、麺屋穂華などラーメン屋が何軒か建っている。「ホラ、待ってるよ。」ラーメン屋の入り口前のベンチでアベックが待っている。国道の東側には相変わらず赤松の林が続く。
     笹原北交差点の前でビヨウヤナギを見つけた。「ビヨウヤナギだよ」と声を出すと姫が笑う。真後ろから日が照り付ける国道で、見るべきものがなにもないまま歩くのは疲れてくる。今日は異常なほど講釈師の声が聞こえない。疲れているのだろうか。「ずいぶん静かじゃないの。」「文句を言ってやる奴がいないからさ。」ロダンがいないと、こんなにも静かになるのである。ダンディもかなり疲れた様子だ。それに比べて同い年のヨッシーの元気なことはどうだろう。
     十分ほど歩くと、右手の赤松林の中に茶屋「ぎおんはら」の看板が見えた。会席料理の店らしい。「随分派手な建物じゃないか。」「あれはラブホテルだよ。」シャトーというラブホテルである。「あんなとこだと、入りにくいですね。」この赤松林はさっきの笹原新田からおよそ一キロに渡って続く。下野市のホームページを見ると、樹齢は百年を超えているというので、大正時代の植林である。
     この辺の住所は薬師寺だ。「薬師寺は近いのかな?」「ちょっとありますね。」地図を確認すると、薬師寺跡はここから北東約一キロになるだろうか。街道からはかなり外れてしまうが、下野国薬師寺と言えば歴史の教科書には必ず書かれる場所だ。最澄が比叡山に戒壇設立を求めて、その死後漸く延暦寺戒壇が認められるまで、奈良・東大寺と筑紫大宰府の観世音寺と合わせて、三つしかない戒壇のあった寺である。ここで受戒しない者は正式な僧侶と認められなかった。道鏡が流された寺としても有名だ。

    発掘調査の結果明らかとなった寺域は東西約二五〇メートル、南北約三三〇メートルである。伽藍配置は一塔三金堂で、伽藍中央に塔、そしてその北に規格の違う東西金堂が確認され、回廊北に中金堂が取り付く配置である。一塔三金堂の例としては飛鳥寺が挙げられるが、堂塔の配置は異なっている。なお、昭和四十年代の発掘調査の時点では、伽藍の中央に金堂、その北東に塔、北西に戒壇が想定されていた。
    また中金堂の北には講堂があり、さらにその北には僧坊があったことが確認されている。さらに伽藍東には、伽藍内の塔が焼失した後に改めて建てられた塔があったことが確認された。(ウィキペディア「下野薬師寺跡」より)

     広い駐車場に残された無人になった建物は何か。地図を見るとポーラ化粧品とあるのがそれではないだろうか。「疲れちゃったよ。」「あそこで休もうぜ。」ダンディと講釈師は道路を渡って農家の店「みのり」に入って行く。下野市薬師寺祇園原三三七九番地三。うどん屋を出てまだ三十分しか経っていない。店内に入れば涼しい。
     姫は下見の際に、何か食べるものはないかとこの店に入ったが探せなかったと言う。「だって農具とか肥料とか、そんなのばっかりで。」「パンがあるよ。」「見えなかったんです。」スナフキンはここで麦わら帽子を買った。私もどうしようかと思ったが、かぶっていない時に邪魔になるからやめた。
     国道から少し離れた西側の林の中に、下石橋の一里塚があったようなのだが、今では正確な位置は特定できないようだ。それでもネットを検索すると、「確認した」という記事がいくつか見られる。本当に確認できたのだろうか。
     丸大食品関東工場の入り口には大きな黒い観音像が立っている。下野市下石橋五四五番地。「動物供養のためじゃないですか。」しかし台座には慈母観音とあるから、動物供養とは関係なさそうだ。「黒いのは燻製にしたんでしょうね」とヨッシーが笑う。その奥の白い像はマリアのようだ。関連が分からない。丸大ハムのホームページを見ても何も書いていない。恐らく社長の趣味になるのだろう。

     「ここから石橋地区に入ります」と姫がマンホールの蓋を指さした。「グリムの里なんですよ。」絵柄は赤頭巾ちゃんと狼になっている。「どうしてこんな所にグリムが?」不思議である。

     石橋町は昭和四十一(一九六六)年、グリム兄弟が生まれ活躍したドイツのヘッセン州にある、シュタインブリュッケン村の児童と絵画や習字などの作品交換を始めました。 「シュタイン=石」「ブリュッケン=橋」を意味するこの村は、同じ「石橋」という名前なのです。
     昭和五十(一九七五)年には姉妹都市の盟約を結び、以来交流を続けてきました。石橋町は平成元(一九八九)年より、グリム兄弟が童話を通して世界中の人々に夢やメルヘンを与えたように、夢とロマンが感じられるまちづくりを目指し、地域づくり事業として『世界に誇るグリムの里づくり』をテーマにして、まちづくりをすすめてきました。グリム兄弟が生まれたハーナウも、姉妹都市と同じヘッセン州にあるのです。
     平成八(一九九六)年十一月にはその中核施設となる、このグリムの森・グリムの館を開館し、グリム兄弟のこと、グリム童話のこと、また姉妹都市のあるドイツのことについて、多くの皆様に知っていただこうと資料の収集・展示をおこなっています。現在、シュタインブリュッケンは周辺の三村と合併し「ディーツヘルツタール」の一部に、石橋町も合併して「下野市」となりましたが、下野市とディーツヘルツタールは姉妹都市として、変わらず交流を続けています。 (「グリムの森」)http://www.grimm-no.net/01sisetsu.htm

     グリムは民間伝承の収集を行い、それを編集したのであって、単純に「夢やメルヘンを与えた」のではない。と言うより、日本でイメージされる「メルヘン」とドイツ語のMärchenではかなり意味合いが違う。

    多くの日本人が「ふわふわした」、「かわいらしい」、「乙女チックな」イメージを抱いている「メルヘン」なる語は、ドイツ語のMärchenをカタカナで表記した造語であり、本来は「童話」、「民話」、「昔話」、「笑い話」等を包括する「短いお話」を意味すること、グリム童話は創作童話ではなく民間伝承の収集にして民の詩(Volkspoesie)であること(大野寿子「グリム年は続く――グリム童話刊行二百年記念シンポジウム報告」)http://www.jgg.jp/modules/kolumne/details.php?bid=93

     十年ほど前に『本当は恐ろしいグリム童話』なんていう本がベストセラーになったことがあるからお馴染みだろうが、原型はかなり残酷な話に満ちている。
     たまたま阿部謹也『ハーメルンの笛吹男』を読み返したばかりだが、阿部は中世ドイツ民衆の悲惨な生活が差別を生み出し、様々な伝説を語り伝えていく構造を明らかにしていく。笛吹男の伝説は、一二八四年六月二十六日に、ハーメルンの町から百三十人の子供が突然姿を消した事件を語り伝えたものである。

     ・・・・すなわちこの一三〇人の子供たちがどうして行方不明になったのか、これらの史料には示されていないからである。これらの史料の記録者にとって子供たちの失踪の原因はすでに謎となっていたのであり、それ故にこそこれらの記録が作られたのである。こうしてわれわれの伝説の出発点となった歴史的事件に最も近いところで記された史料が、皆すでに伝説の霧のなかで書かれたものであることが解る。そこでこれからいよいよ、これらの記録を書いた人々にとって、すでに謎となっていた事件の全貌を探り、伝説の霧の彼方にあるものを解明するという、極めて困難な作業にとりかからなければならない。(阿部謹也『ハーメルンの笛吹男』)

     今ではディズニーによって厚化粧を施されたものしかイメージできなくなっているが、童話、つまり伝説の背後には幼児虐待、子捨て、人買い、差別が存在する。それを伝えたのは、過酷な生活の中に生まれる民衆の悲哀と夢の混淆である。これは何もヨーロッパ中世の物語だけではない。日本のお伽噺に含まれる背景も考えてみなければならないのだ。
     やがて右にはとんかつの「合掌」が見えてきた。下野市下石橋一三四番地一。合掌造りの建物をメインにしたような店で、関宿城の大手門を移築したものらしい。「本当はここで食べたかったんですよ。でもお昼を随分すぎてしまうし。」しかし高いだろうね。それならメニューを調べてみよう。一番安いのが生姜焼き定食の八百円、次がおろしとんかつ定食の九百八十円。店自慢の「黒豚とんかつ膳」は千八百八十円である。
     左には墓地が現れた。寺はどこにもない。どうやら市営墓地らしいが、管理事務所のようなものも見当たらない。国道からすぐに入れる場所でどうも落ち着かない。新しい墓石もあって、ちょうど墓参りをしている人もいる。不思議な光景だ。道端に立っている大谷石の像は首がかけているので正体が分からない。
     下石橋北交差点の手前の細い道の角に、「夕顔橋の石仏群」がある。「夕顔橋」と言われても、川はどこにもない。目の前の陸橋(県道三五二号)が「橋」だろうか。青いトタン屋根の下に九体の石仏が並んでいる。全て舟形で、地蔵が六体、如意輪観音が二体、青面金剛が一体である。享保や延享の年号が確認できる。少し離れて、十九夜塔は屋根に入れてもらえないでいる。この辺りで旧道が国道に合流する。
     左に曲がって五百メートルほど、トウモロコシ畑を見ながら歩くと星宮神社だ。下野市下石橋四四七番地。由緒も何も説明がないが、林に囲まれた狭い境内は木陰になって涼しい。高齢者軍団二人と小町は、すぐに拝殿の縁に腰を下ろす。一時半である。小町から乾燥梅をもらう。もうひとつ乾燥マンゴー(だったかな?)も出してくれるが、これは姫が美味しいと言っていた。ヨッシーはおつまみ用のオカキをくれる。有難いことだ。
     ここも祭神は磐裂命・根裂命である。境内社に稲荷・八坂・高尾大神・八幡社大神があるというのだが、分からなかった。
     「トウモロコシももうすぐですね。」神社を出てさっきの石仏群に戻ったところで、地元の女性二人が「ご苦労様です」と声をかけてくる。そんなにエライことをしている覚えはないが、リュックを背負った余所者が珍しいのだろうか。国道に車は多いが、さっきジョギング中らしい男に会ったほかは、人が歩いているのは見かけなかった。この辺のひとは、人間が珍しいのかも知れない。
     しかし国道に出ると、短パンにリュックを背負った、やや腹の突き出た男二人が前を歩いている。彼らも日光道中を歩く人であろうか。すぐ目の前の家の前で写真を撮っている。追いついてみれば、古い門構えの立派な家だ。「名主か何かのお宅でしょうか?」表札の代わりに「牛乳」と書かれた札が貼られている。「牛乳さんだ。」「そんなバカな。」
     大谷石の塀の上に伸びて咲くのはキョウチクトウだ。別の家の塀ではビワの実が溢れるように生っている。この辺の家の敷地は奥が広い。「あそこもスゴイですね。」塀も蔵も家の外壁も全て大谷石の家がある。本町交差点で東西に伸びる道に、日光西街道の表示があった。壬生道である。
     そして愛宕神社に入る。下野市石橋三六四番地。石造の神明鳥居にぶら下がる注連縄が、ちょうど首の辺りまで垂れ下がっていて、それを避けて通る。長い参道の途中にベンチがあり、小町はそこに座り込む。「そこのお堂に二十三夜塔がありますよ。」姫の言葉で見に行く。中央に大きな弘化四年(一八四七)の二十三夜塔、右隣には小さくて表面の文字が摩耗しているが下部に三猿がみえるから庚申塔、左は新しい二十六夜塔だった。その二十六夜塔の前に、バケツに竹箒五六本をさしているのがおかしい。竹箒は必要だろうが、収納するところは別にあるのではないか。
     拝殿の左手前には大きな石を並べた一角があり、一番大きなものは高さ三メートルもあるだろうか。中央の中型の石に彫られた文字は「女神」と見える。それを説明する御影石の碑が立っているのだが実に読みにくい。石室とか発掘とかの文字だけ判読できた。それにしても「女神」とは何だろう。
     かつて七つの円墳を配した大古墳があったのである。下石橋愛宕塚古墳と呼ぶ。明治十年代の東北線開通工事によって墳丘が東西に分断され、その後の東北新幹線の工事によって残された墳丘も削り取られて、既に古墳の面影は全くないが、これはその工事中に出土した石室である。石材は凝灰岩だ。

     東北新幹線建設の際に発掘調査が実施され、周溝の外側の直径が約一一二メートルの円形で、周溝の内側が全長約八四メートルの帆立貝形であることがわかりました。
     墳丘一段目は土を盛り上げない平坦な面となっていて帆立貝型ですが、墳丘二段目と三段目は円形となり、二段目の直径は五〇メートル程度です。埋葬施設は横穴式石室で、羨道部と前室・玄室からなると考えられます。前室と玄室は凝灰岩の切石、羨道は河原石の小口積みにより造られていました。遺物は、多数の金銅張や金銅製の馬具類のほか、鉄の鏃や須恵器・土師器などが出土していますが、埴輪は確認されませんでした。これらの出土した馬具等から六世紀の終わりごろに築造されたと考えられています。(「下野市の文化財」)http://www.shimotsuke-bunkazai.com/culturalassets.php?id=33

     国分寺や薬師寺があることからも推測できるように、この辺が古代下毛野国の中心であったことは間違いない。私は考古学については全く門外漢であるが、ここに記されている以上のことは調査できないのだろうか。拝殿の右側の下に降りると、稲荷の石祠の脇に、小さな石祠が無造作に並べてある。
     神社を出てちょっと歩くと商店街に入ってきた。右側の伊沢写真館が脇本陣跡である。下野市石橋三一六番地。建坪一四八坪の屋敷だった。「オードリー・ヘップバーン、懐かしい。」写真が掲げられているのだ。その少し先の伊澤茶舗が本陣跡だ。「ここも伊沢さんですね。」こちらも建坪一四八坪であった。
     伊澤氏は、宇都宮氏一門の多功氏に仕えた武士である。多功城は河内郡上三川町にあった。現在、石橋ゴルフガーデンになっている場所らしい。それならここから東に約一キロのところだ。
     慶長二年(一五九七)、豊臣政権内部抗争に宇都宮氏が巻き込まれて改易され、多功城が廃城になるとともに帰農した。町役は名主伊沢近江守、問屋伊沢出雲守、本陣伊沢越前守の各家が代々交代で勤めることになっていた。
     石橋宿は本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠が三十軒あった。宿内の家数は七十九軒、人口は四百十四人の小さな宿場である。
     駅前通りに曲がると、街燈は中世ヨーロッパの城の尖塔を模した形になっていて、「グリムの里」のペナントが掲げられている。新旧入り混じった通りで、明治四十年創業の清水蕎麦屋は、瓦屋根二階建ての古めかしい建物だ。
     「あそこかな」とスナフキンが寄ってみた干瓢の店(高山高平商店)は扉が閉じている。駅に近づくと、右側の小さな店の看板に干瓢の文字を見つけた。「ここだな。」吉田商店である。小さな店に高齢者男性二人が店番をしている。「地方発送も受け付け」とあるので、案外有名店なのかも知れない。味付けしたもののほかに無漂白の干瓢も売っていて、姫とヨッシーも買った。
     栃木県干瓢商業協同組合によれば、日本の干瓢生産の九十八パーセントを栃木県が占めていると言うから、恐るべきものである。こんなにほぼ独占的に栽培される農産物は、他にないのではないか。その中でも下野市の生産量が最も多いのである。
     しかし江戸時代には関西が生産の中心だった。『源氏物語』に夕顔が登場するからには、そのころから栽培されていたことになる。正徳二年(一七一二)、近江国水口藩・鳥居忠英が下野国壬生に国替えになった際、殖産興業政策として干瓢栽培を奨励したことが栃木の干瓢の始まりである。国内生産の残り二パーセントの中で、本家ともいうべき水口(滋賀県甲賀市)も頑張っている。

     各地で伝統野菜が姿を消しつつある中、滋賀県甲賀市水口町には、江戸時代から栽培され、歌川(安藤)広重が東海道五十三次「水口宿」にも描いた滋賀県の伝統野菜「水口かんぴょう」があります。(中略)滋賀県から栃木県にかんぴょうが伝来して三百年の節目を迎えた二〇一二 年、栃木県と滋賀県甲賀市が手を結び、滋賀県産無漂白かんぴょうひいては国産かんぴょうの復興に向けて、産地どうしが手を結ぶことになりました。本格的な生産となった今年は、六〇度を超えるビニール内での作業など、数々の困難を乗り越え、米やカボチャ、大豆等を生産する古琵琶湖沖積土壌で生産されたかんぴょうは、数量に限りはあるものの色も香りも味も良い商品に仕上がりました。数量限定販売です。(乾物屋.jp  http://www.kanbutsuya.jp/fs/yamashiroya/shiga-kanpyo_shin)

     突き当たったロータリーにはグリム時計台が聳える。八時、十二時、十七時には人形が踊るようになっているようだ。ちょっと見た感じでは、一番下はブレーメンの音楽隊、その上がハーメルンの笛吹き男のようだ。最上段は男女のダンスをしているようだからシンデレラか。
     「私たちはエレベータで行きます」と女性二人はそちらに向かった。時計台を囲むように階段が作られていて、それを上がって駅に入る。スナフキンの計測によって、本日は一万六千歩、十キロと決定した。
     大宮に着いたのが四時頃で、例のように「庄や」に入る。姫はカシスオレンジ、私とスナフキンは取り敢えずのビールで乾杯する。話題は、スナフキンが紹介してくれた伊集院静『ノボさん 小説正岡子規と夏目漱石』、姫が最近買った関川夏央・谷口ジロー『坊ちゃんの時代』など。私たちの感覚は明治という時代に向かっている。
     ビールの後は日本酒にするか焼酎にするか。「酒は高くなるんだよ。だけど焼酎一本は無理かな。」「五百ミリにしようぜ。」結局、五百ミリを二人で空けた。

    蜻蛉