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    日光街道 其の十三(石橋~雀宮)
    平成二十七年十月十日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2015.10.17

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     旧暦八月二十八日、寒露の初候「鴻雁来」。寒露の名に違わず、ここ数日でめっきり秋の気配が濃くなってきた。ちょうどクールビズが終わったこともあるが、もう出勤に上着なしでは辛い。これだけ涼しくなると、夜もある程度眠れるようになった。暑い間は眠るのがひどく難しく、鬱病になったかと思った程だが(誰も信じず、同情もしてくれなかったけれど)、どうやら単純に気温のせいだったらしい。それにしても私とストレスとを誰も結び付けようとしないのは実に心外なことだ。無神経と思われているのだ。
     無神経ついでに、絶対に顰蹙を買うだろうとは承知の上で、自慢の種ができたので吹聴したい。十月二日に定期健康診断を受けた、その結果である。詳細な結果はまだ一二週間待たなければならないが、その日の簡易結果では問題は全くない。タニタの計測器によって体内年齢が三十九歳と判定されたのだ。毎年のことではあるが、職場では「イヤミ、イヤミ」と嫌がられ、「それならもっと働いてもらわなくちゃね」と言われてしまう。全く若い連中は年寄りに対する同情というものがない。
     体内年齢というものの仕組みは分らないが、おそらく体脂肪率と基礎代謝を元に算出しているのだと思う。私の場合、基礎代謝量が標準を越えてかなり多い割に、筋肉量が少ないのはどういうことだか分からない。問題は腹囲が去年より二センチ増えていたことで、いつもの夏よりビールの量が増えたせいだろう。
     予報では今日は終日曇りで、それでも最高気温は二十五六度にはなるらしいので半袖にした。明日は雨が降ることになっている。ホントに着るものの選択が難しい。ただ夜は寒いかも知れないので上に羽織るシャツもリュックに放り込んだ。薄手のジャンバーを買った方が良いかも知れない。
     鶴ヶ島駅を七時五十四分に出て、石橋駅には九時四十八分に着く。片道千六百五十五円也。改札の前にはもうみんな集まっていて、今日はあんみつ姫、ヨッシー、ダンディ、ドクトル、オカチャン、スナフキン、ロダン、蜻蛉の八人になった。
     半袖は私とロダンだけで、「さすが若者」とヒヤカシの声がかかる。何しろ私は三十九歳だからネ。それから推せばロダンは三十七歳である。姫が背広型のジャケットを着ているのは、夕方からの会議に備えているからだが、これでは少し暑くはないだろうか。
     オカチャンは随分久し振りだが、前回の日光街道に来ているのだから、本人としてはそんなに久し振りではないのかも知れない。毎回偶数月に開催する日光街道歩きも、八月は休んで番外編「谷根千」を歩いたから四カ月振りで、前回のことはあらかた忘れてしまった。
       「ケータイ忘れちゃって。」遅れる人が姫にメールを入れていても、「家で淋しく鳴ってますね」ということで、念のために十時三分まで待って出発する。「桃太郎は来なかったね。」「遠いから仕方がないですよ。」「だって前回は新幹線で来た。」「来月の江戸歩きの下見に行ってるんじゃないかな。」
     ヨッシーは大人の休日倶楽部ジパングを使った切符を見せてくれる。「吉永小百合がCMをやってるやつですね。」三割引きになるそうだ。「会費が必要ですけどね。」後学のために調べてみた。年会費は個人で税込三七七〇円、夫婦で六二九〇円だが、これにカードの年会費として一人五一五円が必要になる。クレジットカードの入会が必須なのだ。入会条件は男が六十五歳以上、女が六十歳以上なので、私は来年から資格ができる。
     しかし割引条件は、片道・往復・連続のどちらかで二百一キロ以上でなければならない。二百一キロはハードルが高い。私の場合JR利用区間は川越から石橋までで、片道八十一・二キロだから往復しても条件に満たない。ヨッシーだって片道九十キロ程度だから、何か別の要件が重なるのかもしれない。その辺の仕組みは謎だ。私の場合、割引を期待するような旅行は何年かに一遍しかないから、会費を払うとたぶん得にはならない。

     「今回は、日光街道中もっとも見所のないコースで、後半はひたすら歩くだけです。」西口からグリムの時計台を眺めて階段を降りる。「ブレーメンの音楽隊だ。」「どうしてグリムがこんなところに。」「不思議ですよね。」前回も参加している二人がこんなことを言っているのが私には不思議だ。
     「石橋は、グリムの生まれた町と姉妹都市の提携をしてるんだよ。」「そうだったんですか。」姉妹都市の提携をしたのは、シュタインブリュッケンSteinbrückenが、Stein=石、brücken=橋を意味するからなのだ。これは「日光街道」其の十二に書いているのだが、要するに私の作文は読まれていないのである。
     「そこの店(吉田商店)でカンピョウを買ったね。」「寄りますか?」「いいよ。なんで、こんなに買ってくるのかって女房に言われた。」スナフキンはよほどカンピョウが好きなのだ。あんみつ姫も好きだと言うが、我が家にはわざわざ買ってまでカンピョウを食う習慣はない。
     私は全く予習をしてこなかったから、そのまま国道に向かうのかと思っていると、姫はすぐに右の小路に曲がりこんだ。最初に着いたのは開運寺である。下野市石橋二八四番地一。石の門の両脇には松が高く伸びている。
     「脇から入ったんですけどね。」昔だったら講釈師に、裏口入学だと散々罵倒されていたところだ。境内に入ると、羅漢(だと思う)の石像が十数体並んでいる。両手を挙げて笑っている者、左腕の力瘤を誇示している者、鹿や牛に跨っている者など、様々な恰好をしている。将軍の日光社参の休息所に当てられたと言うから、この近辺では大きな寺だったのだろう。本堂の白い垂れ幕には三つ葉葵の紋が描かれている。
     「見えるかい?」階段からでは本堂の内部は見えない。「土足はダメだよ。」上まで上がって中を覗き込む人がいる。私は神仏に対して信仰はないが、寺院と言えども他人の家である。それなりの礼儀は必要で、土足禁止と書かれている場所に土足で上がるのは論外であろう。
     太子堂の方を覗いてみると、石の上に立った十五センチ程の弘法大師像(銅像だと思う)と、両脇に三十センチ程の石の僧(これも弘法大師かな?)が並んでいた。或いは興教大師覚鑁だろうか。
     「この鐘の上部の梵字の彫が珍しいのと音が良いので、戦時中の供出を免れました。」そんなに珍しいのか。鐘楼に上ってみても分らない。「梵字は珍しくないだろう?」「彫が珍しいんじゃないかな。」こういうことに無学な私たちは、どこが貴重なのか判断ができない。調べてみると、普通、鐘の上部は丸い突起の模様(乳)で一面覆っている。その場所に梵字を浮き出させるのが珍しいということだった。
     かつては源頼朝が寄進したという鐘があったが(ホントかね)、寛文三年(一六六三)の将軍家綱の日光社参の際に宇都宮城中に移されたため、宝暦八年(一八五六)に鋳造されたものだ。二百年も鐘のないまま放置していたのだろうか。
     山門から出て振り返ると、門に掲げられた扁額は「石橋山」である。「ここから石橋の地名になったんですかね。」「それは逆だよ。」明治天皇が奥羽巡行の際に立ち寄った記念碑が立っている。白壁の塀には銃眼や矢狭間があると言うのだが、気付かなかった。白い金剛力士像には木肌のような筋があるので木造かと思ったのは勘違いだった。「コンクリートじゃないか。」触ってみると確かにそうだ。古そうに見えたが実は新しいものらしい。

     住宅地を抜けて国道に出る。「この近くに本陣と脇本陣がある筈なんですよ。」「その立派な煉瓦塀の家はなんだろう。」おそらく大正期の煉瓦造りだと思われる塀と門柱があり、中の瓦屋根もかなり立派なものだ。「薬局を併設してるから医者じゃないか。」「これが本陣かも知れないね。」しかしそうではなかった。この戸田薬局はかつて生糸問屋を営んでいた豪商らしい。
     すっかり忘れていたが、石橋宿の本陣(伊澤茶舗)、脇本陣(伊沢写真館)は街道をもう少し江戸寄りに戻ったところにあって、実は前回私たちはちゃんと確認しているのだ。体内年齢はギリギリ三十代でも、記憶力は確実に衰えてきている。
     国道を横断して、駅前からまっすぐ伸びる道を行く。「下見のときには違う道だったんですけど。やっぱり同じ道を行った方が良かったでしょうか。」姫が不安そうな声を出す。左右は住宅地だが、姫は田圃の中を通った記憶があるというのだ。「講釈師がいたら怒られてましたね。」講釈師は一時入院していたが、もうすっかり回復したらしい。
     前方から自転車でやって来た男子中学生三人が大きな声で「こんにちは」と挨拶をかけてくる。「田舎の子供はいいな。」教育が行き届いているのである。なんてことを言うと、だから道徳教育が必須だと声高に主張する連中がでてくるから注意しなければならない。場所によっては子供が知らない人に声をかけるのは非常に危険なのだ。そういう国になってしまった以上、単純に挨拶は良いと言えないことが残念だ。

     自転車の挨拶高し秋の道  蜻蛉

     姫が参照している、縮尺がいい加減で大雑把な地図には、右手に石橋高校があることになっている。「あれがそうだろう。」たぶんこの道で大丈夫だ。やがて左右には田圃が広がってきた。一部刈り終わった田んぼには、稲藁をとんがり帽子のように束ねたものが並べて立ててある。「田舎みたい。」「田舎だよ。」「そうじゃなくて、私の田舎。昔懐かしい光景ですよ。うちの田舎じゃ、稲架木(はざき)は立てませんから。」日本の秋には、やはり黄色くなった田圃が似合う。
     私は市街で生まれ育ったので詳しくはないのだが、稲架木は稲を乾燥させるための装置である。今見ている円錐状に組んだ藁は脱穀した後の稲藁であり、今のコンバインには自動的にまとめて立たせる機能があるらしい。こうして乾燥させた後、細かく砕いて田に漉き込んだり、一部は牛の飼料として使ったりするようだ。刈り取られた区域はまだ小さくて、今もコンバインが作業の真最中だ。
     「道が合流するところにお墓があったんですよ。」そのお墓が見えてきた。「良かった、これで分ります。」近づいてみると、二軒の家がそれぞれかなり広い墓域を占領した墓地である。

     暫く歩くと、左前方に不思議な形の建物が見えてきた。石橋中学校と武道場と弓道場である。交差点を挟んで、その右斜向かいにあるのが孝謙天皇神社だ。下野市上大領一六一番地。駅前の交差点から二十五分程かかった。速度を考えると二キロちょっとというところだろうか。
     信号を渡り、「孝謙天皇神社」と彫られた対の石柱から石造鳥居を潜る。祭神は孝謙天皇、配神は御篠元女官と御笹元女官である。女官が神になってしまっているのが珍しい。と言うより、「天皇神社」なんていうものがあるとは全く想像もしなかった。
     社殿は装飾もほとんどない素朴なもので、格子から覗き込んでも何も見えない。背後に回ると、ブリキを貼った板が窓を塞いでいるが、下の壁に無造作に止めてある銅線を外すと上に跳ね上げられた。「開いたよ。」窓ガラスが一枚壊れたのを、応急措置でこんな風にしているようだ。しかし中はがらんどうで、本当に何も置いていない正面から覗いているヨッシーと目が合った。
     社殿の裏に玉垣で囲んだ墓域を作っている。「孝謙天皇」の石碑を真ん中に、右にはかなり古いタイプの五輪塔の地輪がなくなってしまったもの、左には宝篋印塔の相輪の部分(だと思う)が置かれていた。この石碑を神体としているのかも知れない。
     「天皇は神道じゃないんですか?」「神仏習合だから。」孝謙称徳女帝は、父の聖武天皇譲りの熱烈な仏教信者である。この女帝の時代に、伊勢神宮など各神社に神宮寺の建造が盛んになって、神仏習合が進められた。神宮寺とは、神威の衰えた神を仏の加護よって支えるためのものである。この時代に日本の神は衰えていた。
     ただ孝謙天皇の称号はいかがなものだろうか。女帝は重祚して称徳天皇になるのであって、生前に贈られた尊号は宝字称徳孝謙皇帝である。百歩譲って称徳孝謙天皇神社ならまだ分る。それにしても、女帝が道鏡を追ってこの地まで来て病で死んだというのは、良くも考え出したものだ。突拍子もないので、案内を引用しておこう。

     女帝は配流された道教をあわれみ、この地にまえり病没したと言い伝えられていますが、女帝の崩御後、道教とともに女帝に使えていた高級女官の篠姫、笹姫も配流されてきた。
     二人は奈良の都には永久に変えることが出来ないことを悟り、女帝の御陵より分骨をして戴き、銅製の舎利塔に納め当地にあった西光寺に安置し、女帝の供養につとめた。
     その後、西光寺は廃寺となり、村人たちは舎利塔を御神体に祀り孝謙天皇神社と改め、八月四日(崩御の日)に女帝を偲び、清楚なお祭りを催し今日に至っています。(以下略)

     「この地にまえり」とは「参り」の意味だろうネ。「イ」が「エ」になるのは、北関東から東北にかけての方言の特徴である。こういう案内板に、堂々と方言を記述する度胸は大したものだ。「ス」と「シ」の区別が曖昧になることもある。中学時代の国語の教師が「親雀小雀」と言えなくて、「親しずめ、子しじめ」と言うのを、私たちはバカにしていた。本来左利きなのを隠し、右手で殴ると見せかけて左手で強烈なビンタを張る、実に卑劣な男であった。この男に一度も殴られたことがない生徒がたった一人いて(勿論女子は除く)、その生徒は仲間内では敬遠されていたから、本人の責任ではないにしても影響は大きい。
     「天皇が都を離れるなんて大変なことでしょう?」ロダンは素直だからすぐに信じてしまうが、こういうのは信じなくても良い。『続日本紀』によれば、道鏡が失脚して下野薬師寺に配流されたのは、神護景雲四年(七七〇)八月に天皇が死んだ後であり、そもそも順序が逆なのだ。生前の女帝が下野くんだりにやってくる理由がない。
     ただ道教と共に下野に配流された女官(これもいささか怪しい)が、天皇を偲んでその霊を祀ったということは考えられないでもない。それがいつしか、天皇自身がここで亡くなったという伝説に転じたものか。
     道鏡にまつわる伝説の殆どは、政治的な意図によって捏造されたものだろう。称徳天皇の重祚の大嘗祭に、法体の道鏡が群臣の筆頭として参加した姿は、朝廷の貴族層に大きな衝撃を与えた。神の威力を取り戻すためには、仏教政策を推し進めた二人にスキャンダルを負わせるのが最も早い。称徳の死後、伊勢神宮に造営された神宮寺は廃止される。
     孝謙称徳女帝の死によって、天武系の天皇は絶えた。次に女帝が現れるには八百六十年後の明正天皇まで待たなければならない。なお史上に現れた女帝は、十代八人を数える。神功皇后は数に入れない。
      第三十三代 推古天皇(在位五九二年~六二八年)
      第三十五代 皇極天皇(在位六四二年~六四五年)
      第三十七代 斉明天皇(在位六五五年~六六一年) 皇極天皇の重祚
      第三十八代 持統天皇(在位六八六年~六九七年)
      第四十三代 元明天皇(在位七百七年~七一五年)
      第四十四代 元正天皇(在位七一五年~七二四年)
      第四十六代 孝謙天皇(在位七四九年~七五八年)
      第四十八代 称徳天皇(在位七六四年~七七〇年) 孝謙天皇の重祚
      第一〇九代 明正天皇(在位一六二九年~一六四三年)
      第一一七代 後桜町天皇(在位一七六二年~一七七〇年)

     何度も言っていることだが、直系男子だけで皇統を維持するのは到底無理な話で、将来は女帝が現実的な話になってくるだろう。

     哀れ蚊や女帝の墓を前うしろ  蜻蛉

     「児山城址に行きますか?このいい加減な地図じゃ辿り着けなかったんですよ。かなり歩くんです。」なんとかなるだろう。取り敢えず北に向かうと、はるか前方に高速道路が走っているのが見える。北関東自動車道だ。「遠いですね。」田圃の中をかなり広い道が続いている。車は少ない。
     イネ科アレルギーの姫はマスクをしていても鼻がむずむずしているようだ。「トンボが一杯。」「どこに?」ドクトルは気がつかなかったようだ。「ほらそこに。」「アッ、上の方ね。」田んぼの上空をたくさん飛んでいる。「トンボの語源説に田圃から来たというのがあるんですよ。」それは初耳だった。蜻蛉を名乗る私が、今までその語源について何も考えてこなかったのは聊か怠慢であった。

     「とんぼ」の語源なども「大言海」には「とんばうの約」とあって、「とんばう」の条には、「飛羽の音便延…」とある。俗間語源説の「飛棒」は、仮名づかいも違っていて問題にならないが、この飛羽の説も、命名の心理から考えてみるとすぐにはいたゞけない説である。(中略)
     さて、「とんぼ」は平安末期に「とうばう」「とむばう」(発音はおそらく「トンバウ」か)として諸書に現れている。これも兒童語としてはもう少し古くからあったのではないかと思う。「とんばう」という音形を考えると、漢語か又は冩声語と見るのが至当であろう。平家物語延慶本に「東方」という漢字があてヽある。これにもとづいたのか、徂徠は、この「東方」の漢語から来たといっているが、これは漢学者のでたらめである。
     そこで、いよ々々最后の「とんばう」冩声語源説となる。倭訓栞「とんぶり」の條に「津軽の辺には、蜻蛉をどんぶりといふ。信濃にてどんぶといふ。杜詩の點水蜻蛉欸々飛の意なるべし」とあるのがこれである。「とんぼ」はしば々々水辺に飛び来って産卵する特徴をもって知られている。青森、秋田、岩手で現在「だんぶり」「たふり」「だんぶりこ」岩手の下閉伊では、これと並んで「ざんぶり」といヽ、また「ざんぶ」「ざぶ」「じやんぶ」「じゃぶ」というそうである。変な落語のさげだが、「とんぼ」の語源は存外こんな所にあるのではなかろうか。(東條操「とんぼ名義考」『森林商報』新四十四号)

     東條操は日本方言学会を創設した人である。もう一つ、上代語や方言学の専門家の北条忠雄の説も引いてみる。結論としては似たようなもので、つまり水溜りや水辺等をトンとかドンと呼んだ。それに因むのではないかというのである。

     ダンブリ・ダブ・タンボ・ドバ・ドンブ・ドンボというような語が、全国でどんな意味に用いられているかというと、それは悉く湿地・淵・泉・淀・沼・池・水たまりなどの意味に用いている。大阪ではボウフラ(蚊の幼虫)をドンブリというところがあるらしいが、これはドブに棲息するからであろう。こう考えて来ると、蜻蛉をダンブリ・ダブ・ドンブ・ドンバなどいうのは、大阪のボウフラと同じく、それが泉・淵・溝・湿地等に発生し飛翔し産卵するから名づけられたことが明らかである。即ちこれも棲息地域による命名である。(北条忠雄「蜻蛉の語源」『森林商報』新四十六号)

     この二つの文章は、繊維総合商社モリリン株式会社(旧森林株式会社)がトンボにまつわる随筆を掲載した「トンボ コレクション」から引用した。文学者から科学者まで、トンボにまつわる話を満載していて面白い。(http://www.tombow.pippo.jp/index.html)
     ウィキペディアでは、その他に「飛羽」、「飛ぶ穂」、「飛ぶ棒」、 秋津島が東方にある地であることから「トウホウ」、 高いところから落下して宙返りの「ツブリ、トブリ」などの説を挙げている。田んぼ説は発見できなかった。但し姫が言いたかったのは、種類によって止水を好むもの、流水を好むものなど、蜻蛉には様々な種類があって、難しいということだった。
     ところで、私が名乗る蜻蛉は是非、トンボと読んでいただきたい。セイレイでもカゲロウでもない。極楽蜻蛉の謂である。

     城跡を尋ねあぐねて蜻蛉釣り  蜻蛉

     「たぶん、あの鬱蒼とした森の辺りだと思うんですよ。」右手奥がそうだろう。「あの辺から曲がれそうだね。車が通って行くところ。」標識には「グリムの森」はあっても児山城址の案内は全くないい。
     右に曲がると農村風景になった。道端に由緒ありそうな門があるので覗いてみると、中には何もない。「ずっとむこうに家がある。」細い入口の道には石垣を巡らしてあるので、なにかありそうだと思って少し先まで入ってみたが、結局農家があるだけだった。
     ムラサキシキブの紫色が鮮やかになっている。「秋ですね。」粒が小さいのでコムラサキかと思ったが、姫がムラサキシキブと鑑定する以上、それに従うのが当然だ。
     「この赤い実はなんでしょうか?」私は一瞬マユミかなと思ったが多分違うので口にせずにいると、「ニシキギでした」と姫が解答を出した。
     右手奥には森が広がっているのだが、その手前には畑や草むらが広がっていて、どこから入れるのか分らない。草むらの中をヨッシーが見に行った。実に動きの軽い人である。「堀があります。」しかしそこからは行けない。「あそこだったかも知れません。」姫の言葉で少し戻って森の方に抜けそうな道を発見したが、スナフキンのスマホの地図では、ここではない。「もっと向うから回り込むんだよ。」更に進めば確かに道は右に回り込んで森の方に行く気配だ。
     「何をしてるんですか?」後ろから追いついてきた地元の若者が声をかけてきた。「東京から日光街道を歩いてる。」「東京から?」と驚いているが、ダンディが説明したので理解したらしい。「ここは日光街道から大分ずれてますよ。」「あちこち散策してるんです。児山城址はこっちですか?」「そうです。だけど城跡って言っても何もないですよ。」「それは承知してます。」城跡と言って天守閣を期待する程の素人ではない。
     「初めて聞いて納得しました。」ダンディはグリムの里の謂れを若者に訊いて喜んでいる。そして目的地に到着した。「便利だろう?」悔しいけれど、スマホがこういう時に役に立つのは確かに認めなければならない。事前に姫が見て来た栃木市のHPではGoogleの地図をリンクしているが、矢印と道路との間が空白で、この地図を元に辿りつく人は相当運が良い。後で分かったことだが、華蔵寺をめがけて来て、境内を抜けて裏に回るのが一番分りやすいだろう。
     突き当たった華蔵寺の裏門はなんだか寂びれているようだが、その脇に児山城址の標柱と説明板が立っていた。十一時二十分。さっきの孝謙天皇神社から三十五分かかった。ここで若者は別れていった。
     城址は昭和三十六年に栃木県指定史跡になっているが、看板は古びているしほとんど手入れも施されていないように見える。歩いてきた道路に何の表示もなかったのは、栃木県が全く力を入れていないということだ。「これが空堀の跡でしょうね。」水はないが、道路から一段深くなっていて、その向こうが林になっている。
     「こっちから行けそうですよ。」ヨッシーが軽やかに先頭を行く。林の中に行ってみると、やがて柵にロープを張って敷石を置いた遊歩道が階段に続いている。それを上るとちょっとした広場が開けてきた。周囲を三メートル以上の土塁が囲んでいる。「ここに館があったんでしょうね。」本丸跡ということになるらしい。

     現在も、本丸をめぐる堀と土塁がよく残されていて、四隅には櫓があったと考えられる高まりも確認できます。また城の周囲にも部分的に堀と土塁が残されていることや、西城、中城、北城、稲荷城などの地名から城の範囲はかなりの広さがあったと考えられます。
       児山城は、築城以来宇都宮氏の南方の拠点として今から約四〇〇年前の慶長年間まで存続し、宇都宮氏の改易とともに廃城となったと考えられます。(案内板より)

     この城は建武年間(一三三四~一三三八)、児山朝定によって築かれたと伝えられている。宇都宮頼綱の四男に多功宗朝がいて、その二男(三男)の朝定が児山郷を領して児山氏を名乗ったのである。永禄元年(一五五八)、上杉謙信が多功城を攻めた際、児山兼朝が討死して児山城は廃城となった。児山氏はそこで歴史上から姿を消すのである。
     人の手が入っていないので、土塁や堀切の跡が素人の私にもよく分る。城跡としては、なかなかのものだと思う。栃木県はもう少し案内を親切にしてもいいのではないか。但し石橋町教育委員会(もう下野市だから存在しないか)の立札によれば、この林は民間所有地らしい。所有者の名前が三人連名で記されている。
     「こっちから戻れそうだ」とスナフキンやヨッシーはその先を歩くが、私は慎重に元来た道を戻る。合流地点まで戻ると、「蜘蛛の巣が」と言いながら、道のない草むらからスナフキンたちが現れた。
     入口まで戻って寺に入る。ただの民家の庭のような雰囲気で姫は躊躇したが、庫裏の裏手だったようだ。法事の人に「ゴメンナサイ」と言い訳をしながら抜けると寺の正面に出た。児栄山実勝院華蔵寺。真言宗智山派。下野市下古山九二八番地一。建武元年(一三三四)、児山定が復興し、それ以来、児山氏の菩提寺となった。ここも本来は城内だったのだろう。下古山の地名も児山に由来するに違いない。
     こんな所にと思うのは失礼だが、予想以上に立派な寺だった。本堂も新しくて立派だ。裕福な檀家が多いのだろうか。「天井に絵があります」とオカチャンが教えてくれるので近づいて上を眺めると花のようだ。パンフレットには、これは花の彫刻で、好きな花を選んで奉納できると書かれている。但し一枚が十二万円以上する。こういうことで稼いでいるのだ。
     しかしこれから(今でもそうか)寺院を維持していくのは容易ではない。私自身もそうだが、墳墓の地を離れて戻らない者は多い。墓は寺とは無縁の霊園に決める。故郷の先祖代々の墓も供養するひとがいなくなる。葬儀や法事だけではやっていけない時代が来るだろう。
     私が期待するのはアジールとしての機能である。観光で食っていける大寺院ではなく、地域に密着した寺のことだ。新自由主義経済のもとで弱肉強食の暴力的な競争を強いられ、若年高齢を問わず貧困層は更に増大するだろう。そのとき、ひと時でも良い。行政の施策を待つ間、寺が何らかの避難所、救済施設になれることはあるのではないか。
     薬師堂の宝形屋根は茅葺で、隣の聖天堂は八角堂である。その脇に「児山城主 児山氏供養塔」と記された五輪塔があった。それほど古いものではない。
     境内には台座に「下古山光明念仏講中」「二世安楽祈念」と彫られ、如意輪観音を浮き彫りにした箱型の十九夜塔が建っていた。年代は分らない。その隣にももう少し小さくて古い舟形の如意輪観音像もある。

     そろそろ腹が減ってきた。寺を出て大きな家を見ながら道なりに行くと、駅前東通りに合流する。新しい家が立ち並んでいる住宅地だ。洋菓子の店があるが、こんなところに縁はない。二階建てで西洋の城を模したような建物は、「グリムこどもクリニック」という小児科である。古山小学校を過ぎると電柱の住所表示が「文教」になった。小学校が一つあるだけで文教か。「新しい住人は古い地名を嫌がるんですよ。」
     「そこしかないんですよ。」姫の目的は国道沿いの「くるまやラーメン」だ。「マクドナルドもありますけど、入る人はいませんよね。」スマホで地図を見ていたスナフキンが大衆割烹・御食事処を見つけた。「行ってみるか。」すぐ近くだから確認するのは問題ない。姫も実はラーメンよりも和食の方が好きだ。
     次の信号を右に曲がってみる。下野新聞の隣だ。「やってるかい。大衆割烹なんて夜だけじゃないのかな。」「なんだ、やってない。」今の時間営業していないのではなく、店自体がやっていないのである。「看板だって汚れてる。」「スマホの情報も古いな。」「ごく最近廃業したのかも知れませんね。」
     仕方がないので予定通り国道に出て、角にある車屋に入る。駐車場は車でいっぱいだ。入れるだろうかと思ったが、ちょうどタイミングよく、四人掛けのボックス席が二つ並んで空いたところだった。十二時五分前である。
     チェーンのラーメン屋だが、私は初めて入る。メニューを見ると、中華ラーメンというものがある。ラーメンとはそもそも中華ではないかと私は思うのだが、それは常識ではないのだろうか。それと醤油ラーメンがあって、姫はその区別が知りたい。店員に訊くと、醤油ラーメンはモヤシを載せたもの、中華ラーメンはチャーシューや海苔などお馴染みの具材を載せたものだと言う。それならお馴染みのものに決めたのだが、実はこの説明は少し間違っていて、「味噌ラーメン」「塩ラーメン」「醤油ラーメン」は太麺でニンニク入り、「中華ラーメン」は細麺でニンニク無しである。私も姫もニンニクが苦手だから、間違った説明でも中華ラーメンを選んだのが正解だった。
     私は中華ラーメンに半チャーハン、スナフキンは味噌ラーメンに半チャーハン、ヨッシーは中華ラーメンに餃子、姫は中華ラーメンを選ぶ。「ビール、どうする?」私は腹囲を減らすためにできるだけビールは控えたいのだが、やむを得ない。ヨッシーは要らないというので、中瓶一本を頼んで三人で分けた。
     汁は私には少しくどい感じがした。私は昔風の東京ラーメンの、あるいはもっと昔の支那蕎麦と呼んだ時代のあっさりした味が好きだ。ロダンはいつもトンコツの濃いラーメンに慣れているので、あっさりしていると言う。人によって感じ方は違う。
     ヨッシーが食べた餃子も旨かったらしい。なにしろ宇都宮に近い処だからと思ったのは早とちりだ。チェーン店なのだから、宇都宮と関係ない場所でも同じ味で提供されている筈だ。それに餃子は殆ど当たり外れのないものではないか。逆に言えば、餃子に大騒ぎする人の感覚が分らない。

     店を出たのは十二時半だ。マクドナルドの隣に洋食屋があった。「下見の時には開いてなかったんだと思います。」
     「ここからは何もありません。」この言葉は朝から何度目になるだろう。東京から九十四キロの標識が立っている。バス停の停留所名は「通古山」だ。この辺りに高札場があったようだが、何も残されていない。石材店、車の会社、ブックオフ・ハードオフ・オフハウスを一緒にまとめた店がある。
     下古山の交差点手前には一里塚があったらしいが、これもまた何もない。国道はかなり拡張されたようで、その周囲の遺跡は殆どなくなってしまっているのだろう。今でも歩道を広げている最中のようだ。
     信号を渡ると右手の広い敷地には前田製菓の看板が立っているが建物はない。かつての宇都宮工場の跡地で、工場があったらしい空地は一面ススキで覆われている。「当たり前田のクラッカーだよね。」「そうだろう。」こんなことを言っても若い世代には何のことか分らないかも知れない。前田製菓が『てなもんや三度笠』の提供元になっていて、そのCMで、主人公の藤田まことが「俺がこんなに強いのも、当たり前だのクラッカー」と言うのである。古いね。
     石橋ビジネスホテル。下野市下古山三三三二番地。「ビジネスホテルにしては中途半端な場所だね。」駅から歩こうと思えば結構な距離だ。車で来る人間のためだろうか。シングル一泊四千五百円は安い。
     下野警察署の真ん前には大きなパチンコ屋がある。「これじゃ両替できないだろう。」私はパチンコをやらないので実感がないが、両替ができない.パチンコ屋では儲からないとは思う。「オメコボシがあるんだよ。」「天下りもあるし。」これは栃木県警には失礼な発言だったが、それにしてもパチンコ屋の多い地域だ。
     やがて国道沿いに飲食店が並ぶ一角にやってきた。手打蕎麦「木楽里」。「ここで食べようかと思ったんですけど。」「ここまで腹がもたなかったね。」不思議な形で前面が取り壊されかけている建物があって、その前に重機が置いてある。「なんだろう。」「顔だね。」韓国料理の看板だけが残っている。
     近づいてみると、国道側には馬に乗った武士の像が立っている。「秀吉かな。」韓国料理屋で日本の武将をデザインしているのは聊か問題があるのではないか。秀吉の朝鮮侵略を文禄慶長の役と日本では言ったが、朝鮮側からすれば壬申倭乱、丁酉倭乱である。ネットで調べてみると、壊されていたのは兜をかぶった武者の顔である。「家康本陣」という韓国料理屋だったようだ。名付け方の意味が分からない。最近私には分らないことが多すぎる。こうして時代に取り残されていくのだ。

     次の信号で下野市を出て河内郡上三川町になった。「これでカミノカワって読むんですよ。三を之の略字と読み間違えたということです。」「何でこれでカミノカワって読むのか。」「今説明してたところなんですけどね。」僅か八人なのに、遅れる人がいるので、なかなか情報が伝わっていかない。
     三川郷の地名は鎌倉時代に既にあって、おそらく鬼怒川、田川、江川の三川に由来するだろう。三川郷がその後上三川、中三川、下三川に分れた時、通称として上の川、中の川、下の川と呼んでいたのではあるまいか。最終的に上三川だけが残り、文字だけはそのままに読みは通称が残ったのだと思われる。東京まで九十五キロ、宇都宮まで十三キロ。
     渡辺肖像画工房のウィンドウにはフェルメールの模写も飾られている。その先に鞘堂地蔵尊がある。河内郡上三川町鞘堂。参道の入り口には渡辺肖像が寄進した灯篭が立ててある。参道の左側は滑り台やブランコを置いてある。今日は誰も遊んでいない。
     植込みの中に石碑を見つけて見に行くのは私だけだが、碑文は「家畜は農業の母」であった。しかしTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)によって、この国の農業は壊滅的な影響を被るだろう。構造転換によって未来は開けるなどとノー天気なことを声高に叫ぶ連中はいるが、畜産を含めた農業が産業として生き延びるには過酷な時代がやってくる。
     地蔵堂の右に小さな堂があり、そこには五体の地蔵座像が並んでいる。「どうして五体なんだろう。」「六より五が縁起がいいとか?」理由は分らない。そもそも六道に輪廻転生する衆生を救済するため、地蔵は六体と決まっている。
     本体の地蔵堂を覗いてみたが何も見えない。取り敢えずカメラに収めたものを確認すると、真ん中には台の上から、のっぺらぼうの地蔵の頭(?)だけが見える。赤いベレー帽に赤いマフラーを巻いたような格好で、もしかしたら、これだけが座布団の上に鎮座しているのかもしれない。あるいは、下の部分が前面の板で隠されているものか。
     左端に立っている金色の像は観音だろうか。康暦二年(北朝)、天授六年(南朝)の一三八〇年に、宇都宮基綱と小山義政が戦い(茂原の戦い)、小山氏がいったん滅亡する(後に結城氏から入って再興するが)。そのとき戦死者約二百八十余を埋葬し、その上に御堂を建てた際、戦死者の刀の鞘を埋めて供養したことから鞘堂地蔵と言う。宇都宮氏が供養したのだろう。吉宗の日光社参の際には休息所となったというから、かなり広い境内があったのではないか。
     外壁の周囲に掲げられた額は十二支の絵で、署名を見るとさっきの渡辺肖像の先代が描いたものである。
     堂の壁に貼られた解説に「この地内には地蔵院とゆうお寺がありました」「鞘堂とゆう地名になった」と書かれている。「いう」を「ゆう」と表記するひとがいるのである。東海林さだおや嵐山光三郎の昭和軽薄体ではない。書かれた時代はもっと古い。この辺の人の文字感覚も不思議だ。
     明治大正昭和の初めには、この辺一帯に桜並木が広がり、祭りのときには露天商が立ち、舞台も作られたと言う。
     次は星宮神社だ。朱塗りの鳥居の前の「星宮神社」の石柱が、左のほうだけ半分に割れてしまっている。社殿は覆殿に隠れていて、覗き込んでも暗くてよく分からない。前回から星宮神社にはいくつかお目にかかっているから、説明に関してはその記事を参照してもらえば良い。

     北関東自動車道を潜る。この手前に、南西に向かう結城道があったらしいのだが、国道の拡幅や高速道の建設でなくなってしまったのだろうと思われる。この辺りから国道の両側がにぎやかになってくる。ユニクロ、ワンダーグーがある。ワンダーグーはTSTUYAと同じような業態で、北関東を中心に展開する会社である。最近はCCC(TSTUYAを運営する会社)と提携しているようだ。
     焼肉のビッグボーイ、童夢書店(DVD中心)、ラーメンのジパング軒、サイゼリア。更に行くと、「もどれ!まだ間に合う。300m手前」と大きな看板があるのは、さっきのジパング軒である。「戻れって言われてもね。」国道をUターンさせようというのだろうか。大胆な看板である。
     やがて宇都宮市に入った。「次回は宇都宮で餃子だね。」「やっぱりヒールを飲みたくなりますね。」姫はニンニク系が苦手で、餃子だって本当は余り好きではない筈だが、宇都宮には餃子しかないのだろう。(宇都宮市に関係する人には、暴言を謹んでお詫び申しあげる。)
     茂原正観音道の道標が立っている。「行きません。だってこの地図見てくださいよ。」道の途中が省略されているからどれだけ遠いか分らないのである。後で確認すると、ここから南東に五百メートルほどである。
     「あそこでトイレ休憩をしましょう。」ホームセンターのカンセキ雀宮店でトイレを借り、その隣の茂原公園で休憩するのだ。宇都宮市茂原二丁目四番二十七。ロダンが煎餅をくれる。「そんなに甘くないけど」とヨッシーが乗鞍岳のお土産を出してくれるが、謹んでご遠慮する。「上はもう雪でしたよ。」あんみつ姫からは塩飴が提供される。

     左は陸上自衛隊宇都宮駐屯地だ。宇都宮市茂原一丁目五番。国道には予備自衛官募集の看板が立っている。「私でもなれるかしら?」「平地勤務に限定すれば。」坂道や階段を拒否する自衛官というのが存在すればの話である。
     予備自衛官とは旧軍の予備役に相当するのだろうか。無学なので調べてみると、任期中の月俸は四千円、訓練時にはその手当が八千百円つく。何も資格がなくて一般公募で採用されれば予備二等陸士(要するに二等兵ですね)になるが、資格を持って技能公募で採用されれば、もう少し上級になれる。たとえば自動車整備士の一級を持っていれば、予備一等陸曹(軍曹に相当するか?)、二級ならば予備二等陸曹(伍長か)に任官する。上級システムアドミニストレーションならば予備陸曹長だ。姫のように英語ができれば、程度によって予備一等陸曹から三等陸曹になれる。更に歯科技工士なら予備三等陸尉(少尉相当)だし、医師は経験によって左官待遇まである。要するに資格があれば、技能公募によって士官にもなれるのである。
     但し自衛隊未経験者の場合、予備自衛官になるためには、予備自衛官補として三年以内に五十日の訓練を経なければならない。しかし非常勤の自衛官ということは、普段は別の職業に就いているのである。招集命令が発せられた時だけでなく、年間数日の訓練入隊が必要だから、まず普通の会社員では無理でしょうね。
     勿論戦前戦中には一年志願を終えて予備役少尉になった者もいた。私の両親の双方の父もそうである。普段は普通に働いていて毎年必ずくる訓練召集に参加していたが、その当時は軍事最優先だから周囲が認めた。現代ではなかなか理解が得られないのではないか。
     予備自衛官の経験を積んだ経験者には、即応予備自衛官になる道がある。それにしても予備役とは言っても、一旦緩急あれば防衛招集に応じなければならない。災害救助だけではないのだ。成り手はいるのだろうか。こんなことを調べても、私にとっては何の関わりもなかった。

     末広から新富町に入る。住所から言って、雀宮宿の中心部に近づいていることが分る。赤と黄色のピラカンサが鮮やかだ。「キョウチクトウがまだ咲いてる。」
     電柱の住所表示が雀宮になった。「交番の辺りに一里塚があったようです。」その交番は営業していない。ネットで出力した地図によればもう少し詳しくて、二三軒先の辺りだ。東側の一里塚は雀宮五丁目の住宅敷地になっているらしい。江戸日本橋から二十五里である。
     安塚街道入口を過ぎる。「これは何んだい?」「ケータリングって書いてある。」次の信号が雀宮駅入口だ。「この辺に本陣跡があったようなんです。」国道は拡幅の最中で、それらしい建物は発見できない。「そこの滝沢商店(食料品店)の辺りでしょうかね。」ロダンは少し先まで行ってみたが、やはりそれらしきものは見当たらない。
     宿の名は雀宮神社に由来する。天保十四年(一八四三)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣一軒、脇本陣一、旅籠が三十八軒あった。宿内の家数は七十二軒、人口は二百六十八人の小さな宿場だ。宇都宮まで二里強だから、宿泊するものはほとんど宇都宮にしただろう。
     雲行きが怪しくなってきた。太陽に笠をかぶせるように雲が覆う。「降りますかね?」「予報じゃ今日一杯は大丈夫の筈だけど。」
     駅に曲がる交差点の角の黒塀の家は工事中だ。かなり広そうに見える。「お寺でしょうか?」門構えを見ると確かに寺のようなのだが、「歩く地図でたどる日光街道」をみると、これが仮本陣の場所になる。本陣と脇本陣が満室になったときの控えの本陣らしい。
     そして本陣はさっきのケータリングの向かいになっている。跡地に標柱が立っているらしいのだが、その辺りは全く注意していなかったので、分らない。スナフキンが印刷してきた部分の次の回になるので、スナフキンも気づかなかったのだ。ただ姫の地図よりははるかに詳しいので、次回以降はこの地図を参照する方がよい。
     「歩く地図でたどる日光街道」http://tochigikanko.web.fc2.com/niko-dochu/chizu-top.htmlに地図の索引があるので、必要な部分を印刷していくことにする。個人のサイトらしいが、相当詳しく記述してくれているので非常に助かる。
     雀宮駅に着いたのは二時半だ。「こんなに早かったんですね。見るものがないから。」歩数を確認しようとした時、万歩計を忘れているのに気が付いた。「大丈夫ですよ、ありますから。」ヨッシー、ロダン、スナフキンの数値を勘案すると、本日は二万二千歩、およそ十三キロになった。直線距離ではその半分だから、孝謙天皇神社と児山城址に回った分が半分占めたのである。

     すぐに湘南新宿ラインが来たので乗り込んだ。「先頭がボックス席ですから」というオカチャンに従って先頭車両に入る。しかし、全員がまとまって座れるわけではなかった。結構混んでいるではないか。
     私の前に座っていた小学生は、タブレット端末の画面から目を離さない。何を見ているのか、たまたま画面が見えると、電車の動画である。時々、シューッという音が出る。鉄道ファンなのだろうが、小学生にこんなタブレットを持たせる親とはどんなものであろうか、と思うのは頑迷固陋な私だからだ。私は単純にタブレット端末が嫌いだ。これで生きて行けるだろうか。
     オカチャンとドクトルは久喜で降りて行った。その後で小学生が降りて行き、スナフキンと姫が席を移して来たので、リュックの中から半藤一利『昭和史』を取り出した。「なかなかだったよ。」戦争と歴史をもっと知りたいと言う学生に推薦できるかどうか確認するため、実は余り期待しないで手に取ったのだが、読んで良かった。「文春の編集者だったんだ。」それは知っている。かつて会社では『文藝春秋』を読むように勧められていたが、私は無視していた。思想が違うと思っていたのである。
     「小熊英二の『生きて帰ってきた男』も面白いよ。」相変わらずスナフキンは新刊書にちゃんと目を配っている。それも購入予定に入れてはいるのだが、もう一冊買わなければならない本がでてしまったのでちょっと躊躇っている。それにしても、小遣いの残りを気にせずに本を買えた時代が懐かしい。
     安藤礼二『折口信夫』で、税込三九九六円もするから図書館で借りたのだが、結局手元に置くべきものだと観念した。柳田國男に出会う以前の折口の原思想とでもいうべきものを克明に調査して、全く知らなかったことを教えてくれる。恐らく今後折口信夫を論ずるには必ず前提にしなければならないだろう。
     姫は整理しようと思っていた浅見淵『燈火頬杖』を、やはり手元に置いておくことに決めたと言う。「小田原に関係する人の思い出も多く触れられていますから。」
     酒は大宮の「庄や」に決めた。「ホントにさくら水産には行かなくなっちゃったな。」喧しく騒いでいた五人組は、G高専の出身者と教師のようだったが、二十分ほどで出ていったので、その後は静かに飲むことが出来た。居酒屋で出身高校名や勤務先名を大声で喚き合う。常識を疑ってしまうが、これも古老の繰り言であろうか。
     今回は飲む過ぎることもなく、従って電車を乗り過ごすこともなく無事に帰宅した。

    蜻蛉