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    日光街道 其十四 雀宮~宇都宮
    平成二十七年十二月十二日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2015.12.21

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     旧暦十一月二日。暦の上では大雪の次候「熊蟄穴」だが、そんな気配はなくキャンパスでは季節外れのツツジが咲いた。その隣にはピラカンサスの赤い実が大量に生っていて季節感がおかしくなってくる。日中と朝晩との温度差が大きいので体調には気をつけなければならない。
     月曜日には「雨の予報が出たので、トホホです」と、あんみつ姫からへこんだメールが来て、私も覚悟していた。木曜日の夜中からの雨は昨日の朝方激しく降ったものの、昼前には止んで東京では最高気温が二十四度を超えた。夏日になった地方もあったらしい。但し猛烈な風が全国各地に被害をもたらした。この時期の嵐は珍しく、十二月とは思えない。
     昨日より多少は気温が下がるだろうが、今日は雨の心配はない。姫の精進の成果である。いつもより少し早く起きて鶴ヶ島を七時三十七分に出る。川越を経由して大宮で八時十三分の快速ラビットに乗り、雀宮駅に着いたのが九時二十三分だ。片道一六六〇円なり。少し早すぎたようで駅に着いても誰もいない。皆は四十五分着に乗ってくるのだろう。取り敢えず外に出て煙草を吸ってくる。
     戻ってくると改札口から姫が現れた。「ラビットで直接来られるんですか?」と不思議そうな顔をする。「ラビットで座っていたら、古河で各駅停車に乗り換えろって言われたんですよ。おかしいですね。」オカチャンは西口の方から現れた。「早く着き過ぎちゃって、探検してきました。黒塀はなかったですね。」仮本陣のことである。そして少しづつ人は集まってくる。
     かなり遠くなったから参加者は少ないかと思ったが、あんみつ姫、マリー、お園さん、ヨッシー、ドクトル、オカチャン、スナフキン、蜻蛉の八人が集まった。ダンディと講釈師は欠席だ。

     今日は宇都宮に着いたら餃子でビールを飲むことに決まっている。みんなは餃子に大いに期待しているかも知れないが、実は私はそんなでもない。「うちは、お袋が満州からの引揚者だったからよく作ったよ。子供のころは百個は食べた」とスナフキンが言う。しかし私は東京に出て来るまで、秋田で餃子なんか食った記憶がない。伯父夫婦も苦労して引き揚げてきた家族だったが、遊びに行っても餃子は出なかった。外食は殆どしなかったし、母は作らなかった。
     それでも東京に来てみると、百円の餃子定食は昼の定番の一つになったし、今でも昼に出かけていて学食が利用できないときには「餃子の満州」で野菜炒めライスに餃子をつけたりはするが、格別好みだというわけではない。
     しかし宇都宮ならば猫も杓子も餃子と言うのがこの頃の流行で、市内に約二百の店があると言う。それ以外に名物はないのだろう。と言っては宇都宮市民に対して申し訳ないから調べてみると、他に宇都宮焼きそば、レモン牛乳(レモンが入っているわけではない)、かぶと揚げ(鶏の腿を除いた上半身を手羽付のまま揚げたもの)などが有名だということだ。「焼きそばなんかどこでもあるだろう。」
     B級グルメと言えば、今やどこでも焼きそばが定番で、栃木市や足利市ではジャガイモ入り焼きそばが有名だが、宇都宮のものはそういうものではないらしい。客が好みによってソースを継ぎ足して掛ける方式だと、ネットには書いてある。それは自店の味付けに自信がないと言うことではないかと思うのは偏見だろうか。ところで宇都宮の餃子はいつ頃から始まったのだろうか。

    宇都宮市の餃子の始まりは補充担任を宇都宮師管区とする陸軍第十四師団が、一九四〇年(昭和十五年)八月以降、衛戍地を満州としたことから宇都宮出身の将兵が帰国に際して本場の餃子の製法を持ち込んだのが始まりといわれる。
    http://matome.naver.jp/odai/2139114615607987401

     餃子そのものは明治の頃から存在した。初めて餃子を食ったのは水戸光圀であるなんて与太記事も見つかったが、これはラーメンと一緒で信用する訳にはいかない。全国的に普及するのはやはり満州からの引揚者により、その最初が宇都宮だったというのはかなり有力な説らしい。しかし宇都宮師管区は群馬・栃木・茨城を管轄する師管区であり、将兵はこの三県から集められた。それならば群馬と茨城でも宇都宮同様、餃子の消費量が多くても良さそうだが、それほどでもない。これはどうしたことだろうか。
     平成二年(一九九〇)頃、観光の目玉を探していた宇都宮市の職員が、餃子の世帯当たり消費量が全国一だということに目を付けた。平成四年頃には市が餃子店と組んで宇都宮餃子会を結成し、それを山田邦子のTV番組「おまかせ山田商会」が取り上げたために、全国の注目を浴びたということだ。「竹下首相のふるさと創生の頃ですよね。」「あの頃はまだ食べ物で地域起こしするなんて発想はなかった。」宇都宮市には先見の明があったということか。
     「浜松と争ってるのよね。」私が知らないことを皆良く知っているのが不思議だ。ネットを調べていると、「宇都宮市と浜松市の餃子戦争」、「宇都宮市が日本一奪還」「餃子日本一を争ってきた浜松と宇都宮が歴史的和解へ」などの記事を見ることができる。
     「浜松には餃子の店は少ないよ。みんな、家で食べるんじゃないか」と言うのはスナフキンである。浜松はどうやら外食ではなくテイクアウトが中心らしい。そうなると今回の消費税軽減税率にも絡んできそうだ。マリーによれば、浜松餃子はモヤシを添えると言うことだが、その方式を採用しているのは市内店舗のうち二割程度だという情報もある。

     二〇一四年版の浜松餃子マップには、ギョウザを提供する専門店やラーメン店、居酒屋などが百七十店ほど載っているが、そのうち「円形モヤシ」を出しているのは二割だけ。六割近くの店がモヤシすら出さない。観光客は、つい円形モヤシのある店を目指すけれど、浜松の特長は持ち帰り中心のギョウザ専門店が多いこと。そこでは、家で調理できるモヤシをあまり付けない。(「浜松餃子なんてない?」http://blogos.com/article/124844/)

     しかし別の統計によれば、都道府県別で昨年度の一人当たり餃子消費量ランキング(個数)の一位は京都府(八二・六個、九九一円)、二位が栃木県(七三・一個、一三八八円)、三位が奈良県(七一・一個、七二六円)である。以下、和歌山県、滋賀県、鹿児島県と続く。しかし金額比較では栃木県が一位になる。ちなみに埼玉県は三五・七個、七四三円で二十五位になる。(「地域の入れ物」http://www.region-case.com/rank-h26-gyoza/)
     一個当たりの金額では、京都は十二円、栃木は十九円、奈良が十円となる。つまり関東の餃子は高いと言えるのか。ついでにギョーザの満洲のメニューを見ると、六個で二一六円だから一個は三十六円になる。
     「京都の餃子は小さいんですよ、一口サイズですから」とヨッシーが証言してくれる。他にジャンボ餃子というものもあるようだから、個数で比較するのはどういうものだろう。やはり金額か。
     もう四十年以上の前のことになるが、午前中の授業が終わった時に「餃子でビール飲むべ」と言ったのはYである。おお、それは大人の所業ではあるまいか。酒と煙草は大人の証明である。溜まり場にしていた「東仙坊」という雀荘の一階が同じ経営者のラーメン屋で、夜十時を過ぎて徹夜麻雀の様相になってくると、オバサンがラーメンをサービスしてくれる。義理があるから(料金はちゃんと払っているのだが)餃子を食うならその店に行かねばならない。
     しかし当時の私はビールが苦手だった。そもそも酒自体弱かったから、恰好つけて昼から飲んでしまうと、当然午後の授業に出られる筈がない。Yは高校時代から秋田市内最大の繁華街である川反通りに入り浸っていたから、私とは年季が違う。それにしても実に下らないことを考えていたものだ。
     また私は余計な話を書いている。これではいつまでたっても歩き出せない。前置きは不要、単刀直入に本題に入れとは、丸谷才一『文章読本』が幸徳秋水「兵士を送る」を引いて教えるところではあるが、そもそも私の作文に本題というものがあるのだろうか。
     と言ってしまった途端、秋水の文を引用したい誘惑に駆られてしまう。秋水の希望、志はその後の歴史によって無残に蹂躙され、再び安倍政権によって憲法が踏み躙られた。

     行矣(ゆけ)従軍の兵士、吾人今や諸君の行を止むるに由なし。
     諸君今や人を殺さんが為めに行く、否ざれば即ち人に殺されんが為めに行く、吾人は知る、是れ実に諸君の希ふ所にあらざることを、然れども兵士としての諸君は、単に一個の自動機械也、憐れむ可し、諸君は思想の自由を有せざる也、躰躯の自由を有せざる也、諸君の行くは諸君の罪に非ざる也、英霊なる人生を強て、自動機械と為せる現時の社会制度の罪也、吾人諸君と不幸にして此悪制度の下に生るるを如何せん、行矣、吾人今や諸君の行を止むるに由なし。
     嗚呼従軍の兵士、諸君の田畆は荒れん、諸君の業務は廃せられん、諸君の老親は独り門に倚り、諸君の妻兒は空しく飢に泣く、而して諸君の生還は元より期す可らざる也、而も諸君は行かざる可らず、行矣、行て諸君の職分とする所を尽せ、一個の機械となって動け、然れども露国の兵士も又人の子也、人の夫也、人の父也、諸君の同胞なる人類也、之を思ふて慎んで彼等に対して残暴の行あること勿れ。
     嗚呼吾人今や諸君の行を止むるに由なし、吾人の為し得る所は、唯諸君の子孫をして再び此惨事に会する無らしめんが為に、今の悪制度廃止に尽力せんのみ、諸君が朔北の野に奮進するが如く、吾人も亦悪制度廃止の戦場に向って奮進せん、諸君若し死せば、諸君の子孫と共に為さん、諸君生還せば諸君と與に為さん。(平民新聞第十四号)

     「跨線橋の柱は見ましたか?」見ていない。「ホームの中にあるんですよ。」「行ってみるか。」トイレを借りることにして、もう一度ホームに降りてみる。ヨッシーとスナフキンが一緒だ。「これだな。」
     時刻表掲示板を支える両側の黒い鋳鉄の柱が、かつて使われていた跨線橋の門柱である。テッペンにはランプ型の街灯が取り付けられていて、左側の柱には「明治四十五年七月製造」「合資会社高田商会柳島製作所」とある。解説板によれば、高田商会の銘を持つ柱は京浜東北線大森駅と雀宮駅だけだと言う。それなら大森駅の方はどうなっているかと調べてみると、駅東口広場の日除け棚の柱として使っている。写真を見ると柱も銘も全く同じだ。街灯の部分はないから、雀宮で後から取り付けたものらしい。
     高田商会というのはかなり有名な会社だったようで、明治大正の一時期、三井物産や大倉組と並ぶ大商社だったと言う。明治三十年の八幡製鉄所建設に当たっては設備を納入し、明治三十六年の内国勧業博覧会には自動車部品を出品し、また鉱山経営も行った。創業者は高田慎蔵で、その末裔に高田万由子がいる。クイズ番組でしか見たことがないが、東大を卒業したと言うだけの理由で芸能界に棲息している美女である。
     しかし関東大震災後、高田商会は二代目高田釜吉(養子)の時代に経営破綻し、やがて再建されたが高田家は経営から離れたらしい。現在は第三次の株式会社高田商会として、機械輸入の専門商社として生き残っている。
     現在の高田商会とは縁が切れているらしいが、高田家に資産がなくなったわけではなく、高田万由子の祖母愛子(二代目高田釜吉の娘、三代目の妻)は、虎ノ門のホテルオークラ隣に時価二百億円ともいわれる大正時代の豪邸を所有し、万由子も幼少時代にはそこで暮らしていたそうだ。三代目は医者、四代目(万由子の父)になって自動車輸入業に転じたと言う。なんだか芸能界裏話のようになってしまったが、かつては三大商社の一だったと言う高田商会のことは余り知られていないのではなかろうか。私は明治大正の実業界については殆ど無知である。
     橋上駅から西口に降りて振り返ると、なかなかモダンな駅舎だ。「新しいな。」平成二十三年(二〇一一)に完成した。
     駅から真っ直ぐ進んで街道に出たところの左の角、前回工事中だった家が仮本陣の芦谷家だ。まだ工事は続いている。駅前からここまで、そして国道も拡張工事がなされていて、そのせいで大幅に敷地を減らすことになったのだろう。オカチャンが言ったように黒板に白漆喰の塀は無くなっているが、門構えや、外に出してある小さな堂らしきものを見ると寺としか思えない。代々の名主であったらしい。本陣や脇本陣では賄いきれないとき、本陣の役を果たすのが仮本陣である。明治十四年(一八八一)の天皇巡幸では休息所として使われた。
     「行きますか?」「ちょっと行ってみようよ、すぐだから。」今回、私は予習をしてきたのだ。歩くまでもなく、少し江戸寄りに戻れば、大和田胃腸内科と酒の「やまや」の駐車場の境界に本陣跡の石の標柱が立っている。住所表示は宇都宮市雀宮四丁目三番の十三と十四の間になるだろう。「あそこですか、下見の時には気づかなかったんですよ。」敷地は間口十五間、奥行き十五間の正方形で二百二十五坪。建坪は百十五坪あったと言う。「それじゃ、二軒合わせた位ですね。」たぶんそうだと思う。
     本陣の小倉家は宇都宮氏に仕えたが、宇都宮氏の没落後土着し代々名主本陣を務めた。数年前の地図では「やまや」の場所はベビー用品の西松屋だった。既に小倉家はここから離れて、代々所有者は変っているのだ。
     街道の右側を歩き始めると、右手の広い敷地の奥に大谷石の蔵を持つ家が目についた。この辺りの家の敷地は皆広い。五分程行くと馬頭観音の祠が建っている。ただ文字が草書体なので「なんて読むんですか」と訊く人もいる。生駒神の石碑と馬力神の石もある。街道沿いには珍しくないが、前にも触れたように「馬力神」というのは、私は日光道中で初めて知った。
     その隣が雀宮神社だ。宇都宮市雀宮町一丁目。地名の由来になった由緒ある神社の筈だが境内は狭いし、朱塗りの屋根を持つ社殿も小さい。「藤原実方の伝説があるんだ。」「何それ?」「百人一首だよ。」こういうことは予習をしてこないと言えない。勉強はするものである。

     かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを  藤原実方

     上の句を口にすると、すぐに姫とマリーが下の句を続ける。『後拾遺集』には「女に初めてつかはしける」の詞書を添える。田辺聖子は、「才気がぴちぴちしてなかなかいい歌だと思える」と言い、藤原実方がこの歌を贈った相手は清少納言ではなかったかと推測している。

     こんなすてきな恋歌を贈られたのはどんな女であろうと思われるが、ひょっとしてこれは、あの才女の清少納言かも知れないのである。・・・・・
     情熱的な才子だったようで、清少納言は『枕草子』には、実方のことをつれなく、ちらと書いているだけだが、実方のほうは、清少納言とやりとりした恋歌もちゃんと書き記しているのである。(田辺聖子『小倉百人一首』)

     『後拾遺集』にはこんな詞書を添えた実方の歌がある。他人目を忍んで付き合っていたのに、暫く会わずにいた時、久しぶりに会った清少納言が「私のことを忘れちゃったのね」と愚痴を言った、あるいはからかった。

     清少納言、人には知らせで絶えぬなかにて侍りけるに、久しうおとづれ侍らざりければ、よそよそにて物など言ひ侍りけり、女さしよりて、忘れにけりなと言ひ侍りければよめる

     藤原実方朝臣

     忘れずよまた忘れずよ瓦屋のしたたくけぶり下むせびつつ

     しかし実方は長徳元年(九九五)正月に突然陸奥守に左遷された。実方は従四位上左近衛中将、陸奥守は従五位下相当だから、本来実方が任ぜられるものではなかった。実際に赴任するのは養父の喪が明けた九月である。左遷の原因は藤原行成との争いということになっている。実方は三十六歌仙の一人、行成は書家として三蹟の一人に数えられ、二人とも文化人であると言って良い。
     以前、歌に関して論争があって行成に恨みを含んでいた実方が、口論の余り行成の冠を笏で打ち落として庭へ捨てた。貴族として許しがたい狼藉であったが、行成はちっとも騒がず、冠を従者に拾わせて退出した。これを窓から見ていた一条天皇が不快に思って、「陸奥の歌枕を見て参れ」と命じたと言う。歌枕というのは平安の貴族が勝手に想像したもので、実際に見たものは殆どいない。
     実方は泣く泣く奥州に下ったが、若い妻が実方を追ってここまで来て病に倒れて死んだ。類似した伝説はよくあって、およそ二百年後に、奥州にいる筈の義経を追って静御前が栗橋に至って死んだと言う話と構造は同じだ。実方はかなり人気があったということでもあろう。若妻の遺言で、持っていた宝珠を埋めて塚を築いた。
     やがて長徳四年(九九九)、実方も笠島道祖神(宮城県名取市)の前で落馬して死に、その霊が雀となってこの地に飛来した。地元の人間はそれを憐れんで、二人を祀って雀宮と称したというのである。「それで雀宮ですか、なるほどね。」こういう話に余り感心してはいけない。
     しかし実方の死は遥か後まで語り伝えられた。芭蕉は陸奥に入って実方の墓を目指したが、泥濘の道を恐れて断念した。芭蕉もまた歌枕を尋ねて奥州に向ったのである。

     鐙摺、白石の城を過、笠島の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと、人にとへば、「是より遥右に見ゆる山際の里を、みのわ・笠島と云、道祖神の社、かた見の薄、今にあり」と教ゆ。此比の五月雨に道おとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過ぐるに・・・・・・(『おくのほそ道』)

     しかし雀宮にはもう一つの伝説がある。社殿の前に由緒の書かれた案内板があって、祭神の筆頭に御諸別王(みもろわけのきみ)を挙げている。日本書紀では豊城入彦命(崇神天皇皇子)の三世の孫、彦狭島王の子とされ、景行天皇五十六年に、父の彦狭島王に代わって東国を鎮める目的で派遣された。その「鎮め」が、やがて雀に転訛したとする。「シズメ、ああそうか、なるほどネエ。」オカチャンは大袈裟に感動してくれるから説明する甲斐がある。
     また毛野国の上毛野氏、下毛野氏の祖とされるのが豊城入彦命なのだが、御諸別王こそがそれに当たるとの説もある。しかし毛野氏については分らないことが多く、現地土着の豪族であった疑いが捨てきれない。系図を操作して天皇に関係づけるのは、ごくありふれたことだ。
     神社を出ると少し先に、「東京まで百キロ、国分寺まで十三キロ」の標柱が立っている。「下野国の国分寺ですね。」この辺から旧道は国道を逸れて、西側を平行に走る細い道になる筈だが、姫はそちらには回らず国道をそのまま進む。民家の塀の上にそびえるイチョウの葉が黄色い。
     百一キロの標柱は見逃してしまった。宇都宮環状道路(国道一二一号)を渡る。途中左手には陸上自衛隊があったが、誰も話題にしない。今日は講釈師がいないから、何となく黙々と三十分程歩く。見るべきものがなく三十分も歩くのは精神的に少し疲れる。
     「そこのセブンイレブンでトイレを借ります。」十時四十八分。駐車場で待っている間に、ジャンバーを脱いでリュックにしまう。小春日和というより暑い。
     国道を挟んで向かいには、少し奥まった所にひっそりと寿鶴(すず)薬師堂が建っている。宇都宮市台新田。朱塗りの宝形屋根に、やはり朱塗りの壁の小さな堂だ。寿鶴というのは僧の名前のようだ。道を横断するのが面倒なので見に行くのはやめた。
     そこから五分程で菅原神社に着く。宇都宮市台新田一丁目一番十四。石の鳥居を潜ると、参道の左は消防団の建物、更に平屋ながら立派な集会所に敷地を切り売りしたようで、漸くその奥に社殿がある。
     社殿の左手前にはコンクリート製の石祠が五基並んでいる。八坂神社、神明宮、三峯神社、稲荷神社、大山祇神社。これらは消防団や集会所の辺りに小さな祠としてあったものだろう。境内を縮小したとき、コストもかかるのでコンクリート製に変えたのである。サザンカの花弁が散っている。
     「本当の説明はこっちだよ。」社殿の右手前に菅原神社の由緒が書かれているのだが、ほとんどは菅原道真と天満宮に関する一般的な説明で、この神社がいつ創建されたのかは何も書いていない。ただ、「菅原道真は貞観九年(八六七)から十二年まで下野国権少掾を務めた」と書かれているのが珍しい。つまり道真と下野国とをどうしても関連付けたいのだが、念のために道真の年譜を確認してみると間違いではない。貞観九年に文章生の中から二名が選ばれ文章得業生となった際の名目上の役職であるが、道真が下野に赴任したなんてことはない。少掾は国司の三等官であって、大した役職ではない。カミ(守)、スケ(介、助、佐、)、ジョウ(掾、丞、允)、サカン(目、主典、属)の四等官は、昔日本史で習っている筈だ。二十三歳で正六位下となった。
     十二年には方略試に合格してやっと正六位上、玄蕃助兼少内記に昇格する。しかし正六位は地下人であって、まだ貴族(殿上人)にはなっていない。文章博士の子とは言いながら、身分は低い。藤原氏にとっては取るに足りない軽輩者であったが、ここから昇進を続け四十五歳で参議公卿、五十五歳で従二位右大臣まで登り詰めた。周囲の嫉妬、羨望、恨みは計り知れなかっただろう。

     昼はサイゼリアと姫は決めているらしい。地図を見ればここから十分程だろうか。私の地図を眺めていたスナフキンが、「ごはん亭っていうのがある」と気付いたが、「やってないんです」とあっさり言われてしまう。「私だってごはんの方がいいんですけど、潰れちゃったみたいですよ。」
     国道には「東京街道」の標識があった。「東京街道っておかしくないか?」確かに初めて聞く。「この辺の人には東京まで行く道なんだよ。」東京まで百三キロ。サイゼリアの斜向かいの「ごはん亭」は白いシートで覆われていて、何かの工事をやっている。サイゼリアに入ったのは十一時十五分。この時間だから八人でも充分に座れる。
     「ランチはないのかな。」ファミレスで土日にランチはないだろう。私はハンバーグにライスとドリンクバーをつけて七百八十五円。「ビールはどうする?」「後で餃子でビールを飲むんだろう。」「やめておくか。」「珍しいですね」と姫が笑う。グラスワインが百円だから、一杯だけでも注文したい誘惑に駆られるが、じっと我慢する。
     スナフキンはハヤシライス(ご飯はターメリックライスになっている)、ドクトルは悩んだ挙句ミックスグリル、ヨッシーは地中海ピラフのオーブン焼きにチョリソー、オカチャンはグラタンにパンという組み合わせである。女性陣はパスタを選んだ。
     最初に出されたのがヨッシーのチョリソーというもので、これはソーセージとジャガイモの鉄板焼きのようなものだから、まさにビールのつまみになる筈だが、飲んでいるのはジュースである。「ミックスグリルはどなたですか?」誰も反応しないが、消去法の結果これはドクトルの注文品だと分かった。「俺が頼んだのかい?」頼んだから来たのである。
     期待していなかったがご飯は美味しい。隣のテーブルではオバアチャンに娘がドリンクバーの説明をしているが、同じことをオカチャンがドクトルにしている。「何杯飲んでもいいんですからね。」
     コーヒーも飲んでのんびりし、会計をまとめようかと思ったが、円単位の消費税があるのでお釣りができない。「各自で払うということで。」それでもスナフキンが計算してくれたから各自の支払額は分かる。レジで品名を申告する。「俺は何かな?」必ずそう言うだろうと思って、私が確認しておいた。ドクトルは九百八十五円です。十二時十分に出発する。

     国道の両側には自動車関連の会社が並ぶように建っている。ダイハツ、トヨペット、ヤナセ、またダイハツ。「あれ、なんだよ。」古本、ゲーム、CD、おもちゃ、お宝、なんでもお売り下さいと派手な看板を掲げるのは、宇都宮鑑定団という店だ。
     一里の信号の右はすぐに踏切で、宇都宮線が走っている。一里は江曽島の一里塚で、日本橋から二十六里に当たるのだが、塚はない。「そこのカーチス宇都宮の手前、カレー屋の大きな看板がある辺りだったようです。」鉄道によって潰され、一里塚は交差点の名前だけに残っているのだ。
     ここからは街道の西側を歩く。相変わらず車の会社ばかりだ。メーカーだけでなく部品会社の看板も多い。「これだけ多くても商売が成り立つんですね。」バス停はあってもバスにお目にかからない。「一時間に一本か二本じゃ、なかなかぶつからないよ。」日産、ポルシェ、日産プリンス。「悪循環なんだよ。車社会だから公共のバスの本数が減る。年を取って車に乗れなくなると動く手段がなくなる。」
     所々に大きな敷地の民家があって、塀の上に伸びる枝にはもうモクレンの蕾ができている。「もう咲きそうじゃないですか。」これも暖冬のお蔭だが、年内にモクレンが咲くようなことがあれば、日本の季節感は壊れてしまうだろう。
     道路の東側には、大谷石の二階建ての蔵を持つ大きな家があった。質屋である。「お宝がいっぱいあるのね。」「あれだけ大きな質屋だからスゴイんだろう。」
     日光街道・日光三十一キロの標識が見えた。「マラソンなら一時間かかりませんね。」姫の弟がマラソンマンだと言う。それ程ではなくても、江戸時代なら一日で歩いた距離だ。「草鞋で歩いたんだよね。」「石ころだらけの道をね。」
     その後すぐに、日光社寺四十一キロの表示も見る。十キロも違う。スバル富士重工は、車ではなく航空宇宙カンパニーである。宇都宮市陽南一丁目一番十一。私は富士重工が飛行機にかかわっているなんて全く知らなかった。
     西原の二股に分かれる交差点で、国道4号線は右斜めに向かっていき、私たちはそちらではなく東京街道(119号線)を真っ直ぐに北上する。ここの横断が面倒だから、かなり前から左側を歩いてきたのだ。道路の下をJR日光線が横切っている。「懐かしい風景ですね。」土手の草が黄葉して、赤から茶、黄、黄緑のグラデーションを作っている。「単線じゃないか。」

     単線の軌条は伸びて草紅葉  蜻蛉

     JR日光線は宇都宮と日光を結び、全区間が単線で四十・五キロを走る。宇都宮、鶴田、鹿沼、文鋏・下野大沢・今市・日光。日中は一時間に一本、朝晩でも二本だから八高線と似たようなものか。余程時刻を正確に調べていないと、利用するのは大変だ。「日光に行くのにこれに乗る人はいないんじゃないか。」首都圏の人はまず東武日光線を利用するだろう。しかし東武線でも、東武動物公園で乗り換えて南栗橋から北に行く電車は一時間に一本か二本しかない。
     少し行くと不動前の交差点にぶつかる。ここは奥州道との追分で、右に行くのが奥州街道、直進するのが東京街道、左に行くのが日光街道である。
     小さな不動堂の中を覗き込むと、高さ五十センチの不動明王(大聖不動)が鎮座し、足元には造花のような紅白のサザンカが供えられている。この像は宇都宮朝綱の建立とされるが、宇都宮朝綱は保安三年(一一二二)から元久元年(一二〇四)の人物だから、本当なら九百年以上前の石像ということになる。
     祠のかたわらには、御大典記念として昭和三年(一九二八)に建てられた道標がある。「正面東京ニ至ル」、「右奥州街道及日光街道」、「左裁判所前に至ル」。私たちはその「裁判所前に至ル」不動通りを行く。
     ファミリーマートでトイレを借りる。ヨッシーはここでミカンを買って皆に分けてくれる。いつものことながら、気配りの人である。甘い。「年が明けると酸っぱくなっちゃう。今が一番いい時ですね。」
     東武宇都宮線の高架の下は歩道部分だけが隧道のようになっていて、「懐かしい」と姫は喜ぶ。この辺りに宇都宮宿の木戸(南の入り口)があったらしい。宇都宮宿は江戸から二十七里十二町二十間。天保十四年(一八四三)の『宿村大概帳』によると、人口六千四百五十七人、家数千二百十九軒、本陣二、脇本陣一、旅籠四十二軒。これは日光道中では千住宿(人口は九四五六人、家数二千三百七十軒、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠五十軒)に次ぐ規模である。旅籠には当然飯盛女がいた訳で、一軒に二人と言う規則が守られる筈はない。
     車が少ないので、右側に急いで渡り高架の下を潜り抜けると、蒲生君平勅旌碑があった。宇都宮市花房三丁目。四本柱に宝形屋根を載せ、その下に「勅旌忠節蒲生君平里」と彫られた石碑が建っている。高さ一・三メートル、三十センチ幅の角柱である。旌は天子が士気を鼓舞するために与えた、飾りのついた旗である。旌旗ならば一般に軍旗を言うか。
     明治二年、尊王の先駆けとしての功績によって、明治天皇の勅命の下で宇都宮藩知事戸田忠友が建てた。裏面は「明治二季己巳冬十二月 藩文学教授戸田誠謹書」とある。文学とは儒学の謂である。ここが君平の生まれた里であると、宇都宮に入る人に知らしめるためのものだ。
     蒲生君平は明和五年(一七六八)宇都宮の豪商の家に生まれ、家の伝えに蒲生氏郷の裔であると聞かされ、蒲生姓を名乗った。「蒲生は近江にありますね。それに越谷にも。どこから来たんですか?」オカチャンはときどき思いがけない鋭いことを言う。「たぶん、近江は蒲生氏郷の出身地じゃないでしょうか」と言ってみた。あてづっぽうではあるが、やはり氏郷の先祖は近江国蒲生郡の出身だった。草加から越谷にかけては元々湿地帯だから、蒲生の地名があってもおかしくない。
     仙台藩の林子平、上野国の郷士高山彦九郎と共に「寛政の三奇人」の一人に数えられる。「奇人って、あの奇人変人ですか?」「畸人」と書くべきかも知れない。

     荘子は言う、「子貢が曰く。敢て畸人を問ふ」。曰く「畸人は人に畸にして、而して天に侔(ひと)し」と。これはまた同じく荘子の言葉をかりれば「無為の真人」とも言えようか。秋成が剪枝畸人と名乗ったのは、単なる役立たずのわやく者の意ではなくて、無用の枝指を剪りとった、天に等しい真人の意味をこめていたのに違いない。(中野三敏『近世新畸人伝』)

     「名前は聞いたことがあるけど、どういう人なんですか?」三人とも全国を旅した。まともな生業につかず、ただブラブラと旅をし、出会った人間と議論する姿は、一般的にはおかしな奴としか見えない。高山彦九郎は著述を残さなかったが、林子平は『三国通覧図説』『海国兵談』を書いて刊行した。君平は文化四年(一八〇七)、奥州を旅して『不恤緯(ふじゅつい)』を著し、ロシアに備えて北方警備を固くするよう幕府に献策した。しかし幕政について何事であれ意見を表明することは、その内容如何に関わらず罪に問われた。
     幼少期には『太平記』に夢中になって南朝忠臣に感激した。『太平記』が江戸の尊王思想に与えた影響は大きいのである。更に藤田幽谷の影響を受けて熱烈な尊王論者となった。
     「尊王攘夷ですか、なるほど。」この時代にはまだ攘夷にまでは行っていない。歴代天皇陵の荒廃を憂い、寛政八年(一七九六)から十二年(一八〇〇)にかけて各地の天皇陵の実態を調査した。その結果が『山陵志』全二巻である。水戸藩の『大日本史』に付随する「志」(本紀・列伝に含まれない各種事項、地理などを記す)とする意思もあったらしい。考古学的にも先駆けとなったもので、前方後円墳の名はこれによる。文化十年(一八一三)に死んだ。
     「そうだったんですか、名前を憶えておかなくちゃいけない。」私も昨日、付け焼刃で勉強しただけだ。「顔を見ると四十六歳にはとても見えないな。」小堀鞆音が描いた肖像画である。オデコが大きくて、後頭部の髷が小さい。少し下膨れのような顔で、裃を着けている。しかし小堀は文久四年(一八六四)の生まれだから、君平の顔を実際に知っていた訳ではない。
     彼らが生きた十八世紀は、中野三敏が繰り返して言うように江戸文化の成熟期であり、人々のネットワークのあり方は田中優子『江戸の想像力』に描かれている。この時代に彼らのように諸国を遊歴し、藩の垣根を越えて各地の人間と交流する連中が出現したことが、半世紀後の日本に大きな影響を齎すのである。

     少し行った所に、数年前まで樹齢四百年と推定される大ケヤキ(南新町の大ケヤキ)があった筈だが、今はなくなっている。「でも、あそこのケヤキも大きそうですよ」と姫が言うので念のために富士見通りを左に曲がってみたが、どう見ても四百年という代物ではない。姫は落ち葉を拾って、葉脈がきれいに並行していること、鋸歯があることを講釈してくれる。「皮が剥げるのも特徴ですね。」
     そのすぐ先が台陽寺だ。曹洞宗、西原山。宇都宮市新町一丁目六番十二。慶長十年(一六〇五)、宇都宮藩主奥平家昌が下都賀郡大平町の大中寺十一世宗寅を招いて宇都宮城内に建立した。その後藩主が本田正純に代わり、城下町の再編を行った際に現在地に移設された。本堂は昭和二十年七月の宇都宮大空襲で焼失した。
     参道入り口の、無縁仏の骨を収めた蔵(だと思う)の屋根に大仏が鎮座している。「お孫さんがいる方はどうぞ」と姫が勧めるのは子安地蔵だ。たぶん元の表情が摩滅したせいだろうが、ややおかしな顔になっている。
     山門を潜ると、六地蔵の脇に檀家の人らしい男性が立っているので「こんにちは」と声をかける。「何をもってるんだい?ここは有名なのか?」私の持っている資料に目を留めたのだ。有名かどうか分からないが、日光道中では寄るべき寺になっているらしい。「そうか、全然知らなかったよ。」戊辰戦争で戦死した宇都宮藩士の墓があるはずなのだが、墓地を歩いても探せなかった。
     次は熱木(ねぎ)不動尊だ。鳥居の笠木の上に屋根を置いた形の門はあるが、参道奥の建物は公民館になっている。不動尊がその中にいるのかどうかは不明だ。宇都宮城の乾の方角を守るために置かれたと言う。熱木は江戸時代には贄木(にえき)町と言われたという。
     道路の角にススキが生えていて、ヒメはオギと違うと説明する。「へーっ、違うんだ」とマリーは無学な反応をする。
     次の交差点の辺りに「旧歌ノ橋番所」があった筈なのだが、案内標識は何もない。「残念ですね」と姫も言う。私は今回かなり予習してきたから期待していたのだ。しかし交差点を渡ってすぐに、道路の右側に細長い標識を見つけた。「あれは何かな。」色が褪せて文字も薄くなっているが、「旧町名歌の橋」の案内である。「ここにあったよ。」
     説明によれば、仕丁の歌が万葉集に採用されたことにより、歌橋と名付けられたと言うのだが、それがどういう歌かは何も書いていない。そもそも万葉集に採用された庶民の歌に、正確な住所が記されている筈はなく、あったとしても国郡だけだろう。この場所がそう呼ばれる意味も分からない。下野に関係するのを探してみると、東歌にふたつあった。

    下野の三毳の山の小楢のすまぐはし児ろは誰が笥か持たむ
    下野の安蘇の河原よ石踏まず空ゆと来ぬよ汝が心の告れ

     しかし三毳(みかも)は佐野市の東部、安蘇の河原も佐野市(旧田宮町)の辺りなので、ここではない。それでは防人歌を探してみるか。下野国の部領使は十八首を大伴家持に提出したが、「拙き歌」は採られず、十一首が採用された。全部調べるほどの根気はないが、これだけ見つけた。

    ふたほがみ悪け人なりあたゆまひ 我がするときに防人にさす 下野国那須・大伴部広成
    旅行きに行くと知らずて母父に 言申さずて今ぞ悔しけ 寒川郡上丁・川上臣老
    母刀自も玉にもがもや戴きて 角髪のなかに交へ纏かまくも 津守宿祢小黒栖
    月日はや過ぐは行けども母父が 玉の姿は忘れせなふも  敦賀郡上丁・中臣部足国
    国々の防人つどひ船乗りて 別るを見ればいともすべ無し  河内郡上丁・神麻績部島麿

     宇都宮市は河内郡に入るので、五番目の歌が該当するかも知れない。五首とも、家族との別れの辛さを素朴に歌っていると言えるだろう。防人の任期は三年だが延長されることもあった。勤務中は食料武器全て自弁で、税の免除もなかった。往路は部領使が引率し、難波津から船に乗ったが、任期を終えて帰国する際には後は勝手にしろと放り出される。引率する者もなく、食費自弁で帰らなければならない。過酷な強制労働であった。しかし、これはどうだろう。

     今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つ我は  下野國火長・今奉部與曾布

     火長は兵士十人を束ねる最下級の下士官である。この歌を見る限り、万葉集が古代人の素朴な心情を歌ったなんていうのは明らかに俗説である。家族と別れる悲しさは歌ってもよいが、国家の重要政策に反対するような歌は採用されないのが当たり前だ。下士官として、建前を言わざるを得ない状況だったのではないか。
     そして防人歌としては異例な、使命感を歌ったものが常陸と下野にしか見出されないことを点検し、実は大伴家持の手が入っているのではないかと推理する人がいた。

     実はこの家持の理想像が投影されたのが、常陸国・下野国に見られる歌のありようなのではないだろうか。つまり、家持は常陸国・下野国の防人歌に関与したのではないか。家持の長歌ならびに常陸国・下野国の防人歌に特徴的な「顧みず」という「ますらを」的発想も、それを間接的に立証する。(東城敏毅『防人歌「常陸国・下野国歌群」の成立』)

     しかし昭和の政府は、この歌と、大伴家持の「海ゆかば」とを引っ張り出してきて、国民精神の総動員を図って『愛国百人一首』を制定した。三島由紀夫の「楯の会」の名称もこの歌から採られた。三島的なもの、楯の会的なもの一切への反対を込めて、我が同級生は高校の同期会を横の会と名付けた筈だが、その彼も死んでしまった。

     次は一向寺だ。宇都宮市西原二丁目。時宗である。庫裡の脇に、開基の宇都宮景綱(七代)を顕彰して、その歌を刻んだ黒御影の碑があった。

     あけわたる嶺の霞のたえまなく 桜に残るいりかたの月

     景綱は頼綱(蓮生)の孫で、鎌倉時代中期の宇都宮氏当主である。実は宇都宮氏は和歌の家でもあった。頼綱の娘が藤原為家の妻だったこともあり、藤原定家と交流が深かった。と言うより、定家にとって宇都宮頼綱は大事なパトロンである。小倉百人一首は頼綱の小倉山荘のために選んだもので、このことは定家の日記『明月記』にも書いてある。

    廿七日 己未、朝、天晴る。殿下一昨日より五ヶ日、善恵房の戒なりと云々。典侍参り、未の時ばかりに帰る。予本より文字を書くことを知らず。嵯峨中院の障子の色紙形を、予書くべきの由、彼の入道懇切なる故に、極めて見苦しき事といへども、なまじひに筆を染めて之に送る。古来の人の歌各一首、天智天皇より以来、家隆・雅経に及ぶ。夜に入り金吾に示し送る。(嘉禎元年五月二十七日)

     このため、宇都宮には京都、鎌倉と並ぶ宇都宮歌壇とも言うべきサロンがあった。景綱もまたその伝統を継いで、宇都宮歌壇をリードし、『続古今集』ほかに三十首入集している。
     「こっちは何て読むの?」マリーが見ているのは、丸い自然石の断面を磨いた句碑である。

     ほとけ恋ひゐて蝋梅の一二りん  鷲谷七菜子

     「ほと希」と書いてあるので戸惑ったが、何とか読めた。鷲谷七菜子は知らないが、大阪の俳人である。大阪の俳人がこの辺まで来たのは、やはり日光道中に関係するだろうか。「ありましたよ。」オカチャンが見つけたのは菊地愛山の墓である。

     山門を入ったすぐ左側に、幕末から明治時代にかけて、宇都宮を中心に活躍した画家菊地愛山の墓がある。愛山は文政二年(一八一九)茂破町(もやぶりちょう:現大寛二丁目付近)にうまれて、明治三十九年(一九〇六)に八十八才で亡くなる直前まで絵を描き続けた。
     人物や花鳥などの描写に優れた画才を発揮し、嘉永年間の日光東照宮の修復のときには、師鈴木梅渓を助けたという。「釈迦三尊十六羅漢像」(一向寺蔵)、「延命地蔵菩薩縁日著色絵図額」(延命院蔵)をはじめとして、多くの作品が県や市の文化財に指定されている。(門前の説明より)

     銅造阿弥陀如来坐像は「汗かき阿弥陀」と呼ばれている。国家が危機に陥った時、汗をかいて知らせたというものだが、それなら今は汗をかいているかどうか。見ることができるのは日曜祝日に限られる。当初は宇都宮家菩提寺の長楽寺に奉納されたが、その後長楽寺が廃寺となった際に、この寺に移された。「どうぞ、日曜日に来てください。」今が日本の危機だとすれば、阿弥陀如来は必ず汗をかいているに違いない。
     寺を出てすぐ先の右手に、銀色の鳥居を持つ小さな社があった。「行ってみようか。」天満宮だった。境内では家族総出で敷き詰められたイチョウの葉を掃除している。既にビニール袋四つが満杯になっているが、まだ大量に落ちている。
     「昨日の風で全部落ちてしまって。普段は隔週交代でお掃除してるけど、このままだと飛ばされちゃうと思ってね。」小さな女の子は松ぼっくりを拾い集めていたが、私に向かって一つ差し出してくれた。三歳位だろうか、優しい男の顔は見分けがつくのである。それに引き替え、孫のこころはいつになったら私の顔を覚えてくれるだろう。

      松ふぐり小さき手から零れ落つ  蜻蛉

     「この辺は松が少ないんですよ、みんな拾いに来ますよ」とおばあちゃんが説明してくれる。お園さんは松ぼっくりをいくつか拾ってしまいこんだ。生け花にでも使うのだろうか。「ギンナンはないんですか?」「このイチョウは生らないんですよ。」あれは臭いからね。
     「ギンナンをペットボトルに入れて振るんですよ。果肉が剥がれるんです。」オカチャンは不思議なことを知っている。普通は土に埋めたりして果肉を腐らせるのではないか。「そうなんですけど、ペットボトルの方が簡単で。」水を少し入れるのがポイントのようだ。私はできることなら果肉を落として綺麗になったものだけ戴きたい。紙封筒にギンナンと一つまみ塩を入れてレンジでチンすると、簡単に酒のつまみが出来上がる。

     米兵質店はずいぶん明るくモダンな建物で、私が抱いている質屋の概念を変える。Yoneheiとイタリック体で書かれた白い暖簾の横には切手・ハガキ・印紙の看板もある。郵便局も併設しているのだろうか、不思議だ。この辺りがさっきの菊地愛山ででてきた茂破町である。日光街道開削以前は竹藪の生い茂る場所で、茂みを破って道を作ったと言うのが由来だ。
     材木町(材木屋が多かった)、曳地町(轆轤を曳いた)の標識を見る。道の向かいには丸井質店がある。今日三軒目の質屋で、こんなに大きな質屋が揃っている町とは、繁盛した宿場町の名残であろうか。
     そして街道は裁判所前の交差点で突き当たる。ここから東が宇都宮の城下になるらしい。広くて大きな通りに入った。「すぐそこだと思うんですけど。」少し歩くと、小幡郵便局の入るオノセビルの前の歩道脇に案内標柱が立っていて、ビルの壁面にプレートが張られていた。蒲生君平生誕地である。宇都宮市小幡一丁目一番二十一。
     伝馬町の交差点が奥州街道と日光街道との追分に当たり、日光街道は左に曲がって北上するのだが、今日の街道歩きはここで終了する。地図を確認すると、ここから北に四五分のところが宇都宮一里塚(江戸から二十七里)で、宿場の北の木戸があったらしい。
     高札場があったらしいが表示は見つけられなかった。道を渡って本陣跡の標識はあったが、問屋場跡、貫目改所跡は分らない。日光道中に貫目改所は千住宿と宇都宮宿だけに設けられた。江戸行きの荷物は宇都宮で、江戸を出る荷物は千住で重量を図って運賃を定めるのである。
     宇都宮市はこういうことにあまり熱心ではないようだ。いずれにしろ、この辺りが宇都宮宿の中心であったのは間違いない。「栄えてますね。」二十年ほど前に何度か出張で来たことはあるが、営業所のある駅の東側しか知らなかったから、宇都宮がこんなに大きな街だったことに驚いた。
     池上町から右手に東武デパートが見えるのが、東武宇都宮駅である。姫の当初の計画ではそこで解散することになっていたのだが、東武宇都宮線は連絡が悪い。昨日調べてみたら、ここから鶴ヶ島まで三時間以上かかるのだ。従ってJRの宇都宮駅まで行くことになっている。およそ三十分の距離になる。
     都橋の親柱は大谷石だろうか、その上に街灯が備え付けられていて明治大正を思わせる。下を流れるのは釜川だ。川沿いの道にはタイルが敷かれ、かまがわプロムナードと名付けられている。プロムナードはここから南に柳橋、一つ橋。南東に向かって新橋、修道橋、御橋、出雲橋、剣橋、井戸橋、今小路橋と続くようだ。町の中心部を川が流れているのはちょっと良い。
     二つ目の本陣跡は見つけられず、やがて巨大な両部鳥居が出現した。「大きいですね。」煉瓦を敷き詰めた広大な敷地の向こうに階段が上まで続いている。二荒山神社である。宇都宮市馬場通り一丁目一番一。日光の二荒山神社の下の宮になるかと思ったが、どうやら別物である。紛らわしいので宇都宮二荒山神社、日光二荒山神社と通称する。そしてどちらも下野国一之宮を称している。
     別名宇都宮明神と呼ばれ、宇都宮地名の由来になった神社である。下野国一宮が訛ったと言う説がある。また蝦夷を「討つの宮」、鬱蒼たる森があったから「鬱の宮」などの説がある。
     また藤原宗円という人物が前九年の役の功績で宇都宮明神の別当職に任じられたのが宇都宮氏の始まりである。宗円は藤原北家道兼流を称したが、上毛野氏の裔ではないかとも言われている。その孫の朝綱から宇都宮氏を名乗って約五百年、この地方を支配した。鎌倉時代、室町戦国時代を名門として乗り切ったものの、慶長二年(一五九七)、宇都宮国綱が突然改易されて滅亡した。

     この突然の改易は「不慮の子細」と言われるだけで、本当の理由は不明である。太閤検地の実施にともなう石高の不正申告が原因だとか、あるいは国綱の後継者をめぐる宇都宮家臣団の内紛とそれを収拾できない国綱の統治力不足だとか推測されているが、真相はわからない。恐らくこのような諸事情があったところに、秀吉政権内部の武将間のあつれきに巻き込まれて、鎌倉時代以来の下野の名族宇都宮氏の滅亡となったものではなかろうか。
     この改易により、宇都宮氏の勢力は、配下の芳賀・氏家などの武将も含めて、下野から一掃された。さらに村内の小領主たちも武士として生きる道が閉ざされて、帰農土着を選ぶようになった。下野の肝煎、庄屋、問屋などには、宇都宮氏を始めとする旧臣が帰農したものと言い伝えを持つ家が少なくない。近世下野の農村社会は、この「宇都宮崩れ」と伝承される宇都宮氏の改易の中から誕生してきたとも言えるのである。(『高根沢町史 通史編Ⅰ』)

     折角だから上まで登ってみたいところだが、リーダーにその余裕はない。宮の橋は田川に架かる橋だ。「宇都宮城はどの辺ですかね?」「分らないけど、県庁の辺りかな。」通りの左側(北)を眺めてみるが、全く違った。
     西の外れは東武宇都宮駅、そこから東にまっすぐ田川までを北のラインにして、そこから南に宇都宮市上下水道局下水道建設課(河原町)の辺りまで広がるかなり広大な城だった。ここから南五六百メートル程のところに城址公園がある。
     宇都宮城は戊辰戦争で大部分が失われ、その際に城下三千戸のうち八割までが焼失したという。そして昭和二十年七月の宇都宮大空襲でも被害を受けた。宇都宮駅周辺から栃木県庁周辺、宇都宮市役所周辺、東武宇都宮駅周辺と云うから、まさにこの辺り、当時の当時の宇都宮市域の約六十五パーセントが被災した。
     更に戦後の都市計画と宅地化によって、僅かに残っていた城の遺構も完全に破壊された。今はそれを復活させようとしているらしい。この辺は宿場の中心であるとともに、「大通り」と名付けられているように現在の宇都宮市の中心でもある。「栄えてるじゃないの。」
     「宇都宮城と言えば釣り天井ですよね、子供の頃に覚えましたよ」とオカチャンが笑う。宇都宮城下を近世的な城下町に整備した本多正純だが、酒井雅楽頭忠世、土井大炊頭利勝、井上主計頭正就の謀略を、おそらく秀忠自身も知っていて黙認したでっち上げによって、突然失脚した。
     その後の宇都宮藩は、奥平家(十一万石)二代、奥平松平家(十五万石)一代、本多家(十一万石)一代、奥平家(九万石)二代、阿部家(十万石)一代、戸田家(六万石)三代、深溝松平家(六万六千石)二代と、目まぐるしく領主を変えた。
     安永三年(一七七四)、戸田忠寛が七万七千石で転じてからは落ち着き、明治維新まで戸田家の支配が七代続いた。
     そして駅が近くなってきた。「みんみん」の矢印を見て、スナフキンが左に曲がる。知っているのかと思えばどんどん行っても何もない。「みんみんなら、曲がって三十メートルの表示がありました。」オカチャンが見つけてくれていたので少し戻る。
     「みんみん」というのは宇都宮で最も有名な餃子専門店らしくて、お園さんも一度入ったことがあるという。「でも車で来たからどこだったか覚えてないわ。」昭和三十三年に創業し、今では宇都宮市内だけでも多くの店舗をもっている。
     宮島通りの角の店も餃子をやっているが、だれも並んでいない。その先の「みんみん」の前には人が一杯で、列は道路を挟んで向かいの駐車場まで続いている。正式には「宇都宮みんみん」の本店である。宇都宮市馬場通り四丁目二番三。昭和三十三年創業で、宇都宮で最も有名らしい。
     すぐ近くには「正嗣」宮島本店がある。馬場通り四丁目三番十八。「みんみん」と人気を二分しているという情報もある。「この店は、餃子だけなんだ。ビールもご飯もないんだよ。」「やっぱりビールがないとね。」そんな店に、これだけの人間が並ぶのか。ネットでメニューを見ると、焼き餃子と水餃子がそれぞれ六個で二百十円、持ち帰り二百円とあって、本当にビールもご飯もない。
     「俺は並んでいない店が好きだな。」「だけど、誰もいないと淋しいわよ。」結局、駅ビルに行こうと決まり大通りに戻る。宇都宮共和大学のビルがある。「聞いたことない大学だな。」窓から子ども生活学部の垂れ幕が見える。平成十一年(一九九九)に那須大学として開設した大学であった。平成十八年に今の名称に変えたが、大学基準協会から正会員として「不適合」の判定を受けた。理由は「学生の受け入れ及び財務に関して問題がある」というものだ。平成二十三年(二〇一一)、宇都宮短期大学を改組転換して子ども生活学部を設置すると「期限付き適合」となり、去年漸く「適合」と判定された。
     但し全国に大学は七百八十一校(短大を除く)あるが、そのうち「適合」と評価された大学は三百三十九校、残りはまだ評価を受けていない。そして一度「適合」の判定を受けたとしても期間は七年間であり、安心しているわけにはいかない。
     前方からやってきた男女連れの女性の方は、酔っているのか真っ赤な顔をしている。「人によって見るのが違いますね」と姫が笑う。だって、あれだけ真っ赤な顔なら誰だって気付くのではないか。
     駅前にも宇都宮餃子宇味屋、健太餃子の宇都宮餃子館があるが、そこには寄らない。そして駅に着いた。私は万歩計を忘れてきたが、ヨッシー、スナフキンがほぼ同じで二万歩になったからそれを採用する。十二キロとみてよいだろう。
     駅ビルの二階に上がって、スナフキンは宇味屋の隣の宇都宮餃子館に入る。「前に来て、美味かったんだ。」創業二十年の店である。二時十分。

     宇都宮餃子館は選び抜かれた二十八種類の食材とスパイスを特別にブレンドした究極の味をご提供しております。私どもは素材の旨さが餃子の旨さと考えており、おいしさ地場産〝栃木のニラ〟、風味一番〝青森ニンニク〟を使用する食材にはこだわりが御座います。

     通路寄りの席に女性陣とオカチャン、その隣にオジサンたちが座った。「ビールを頼んでおいて」と言い残してドクトルはトイレに向かった。まずビールを頼み(お園さんはコーラ)、取り敢えず十二種のセット八百四十円を四皿頼んだ。お徳のようだが六個で一皿と考えれば、一皿四百二十円である。餃子の満州の倍になるから、普段だったら注文しない。
     十二種とは、健太・舞ちゃん(ニンニク抜き)・ニラ・チーズ・ニンニク・肉・エビ・スタミナ健太・激辛・シソ・ドンコ・舞茸である。ドンコとは椎茸のことらしい。激辛はイヤだな。「ロシアン・ルーレットだね。」隣のテーブルでは姫が激辛に当たってしまって、ゲッと言っている。こちらの席ではスナフキンが食べた。「どれですか?」もう一個ある筈で、ヨッシーが二三個選んだが当たらない。「これじゃないかな。」なんとなく皮が赤っぽい。「そうでした、これです。」これで私は安心して箸をつけられる。
     「『孤独のグルメ』って知ってますか?」スナフキンがヨッシーに声をかけるが、ヨッシーは知らないようだ。私は見たことはないが(だって夜十一時頃の番組だから、とっくに布団のなかである)、松重ナントカの番組だというのは知っている。「越谷にも来たんですよ」と姫も口にするから、人気番組である。久住昌之原作・谷口ジローのマンガが原作だ。
     「松重豊だよ。餃子を食べるんだけど、酢に胡椒を入れてラー油をちょっと垂らすんだ。」「美味いのか?」「知らないからやってみようと思う。」そこに胡椒の瓶もある。「胡椒があるのか、それならかなり流行っているのかな。」この店はラーメンも出すので、胡椒が置いてあるだけだろう。私も真似をしようかと思ったが、やはり酢だけにした。ヨッシーも酢だけである。
     「あそこ、おかしい。餃子味の柿の種だって。」通路を挟んで土産物屋があるのだが、そこに並ぶ商品が全て餃子味なのである。餃子煎餅、餃子おかき。餃子味の柿の種を食うのはどういう人たちであろうか。私はイヤだな。
     それにしてもドクトルが遅い。オカチャンが心配してトイレまで見に行ってくれたが「いませんでした」と報告する。姫が電話しても出ない。「カバンに入れてるんじゃないですかね。」ヨッシーがドクトルのバッグに耳を当てるが駄目だ。ということは、本人が持っている筈だ。しばらく待ってもう一度姫が電話をすると今度は出た。「よかった。」やっぱり迷子になっていた。
     ドクトルのビールは大分気が抜けたのではないだろうか。ドクトルは醤油にラー油を垂らした。「酢もありますよ。」「そういうものも入れのかい?」そう言いながら小皿に酢も入れる。私とスナフキンはビールをお変わりする。
     十二種を食べて味の違いが僅かに分ったのは、シソとエビだけだった。私がグルメでないことは分り切っているが、これほど味の差が分からないとは、我ながら驚いたことだ。「私もそうですよ、エビは歯触りで分りましたね」とヨッシーは、たぶん同情しながら頷いてくれる。
     そしてスナフキンは、健太餃子とゆば餃子のセット(それぞれ六個)八百八十円を頼む。さっきの十二種類に湯葉は含まれていなかった。健太というのはオーソドックスな餃子らしい。隣のテーブルでは、十二種で既に満腹しているようで、追加はしない。ゆば餃子はわさび醤油で食えと書いてある。しかし、小袋に入っているワサビは余りワサビの味がしない。私の偏見かも知れないが、湯葉のような繊細な味のものは餃子には向かないのではないか。
     私はそろそろ腹が膨れてきたが、スナフキンはまだ追加を注文する。エビとシソと健太を六個づつ。隣のテーブルでは帰り支度を始めている。「三時五十三分に乗ります。ドクトルも一緒に。」残されたのはヨッシー、スナフキン、私である。特に急いだわけではないが、食べ終わって時計を見ると、その五十三分に間に合いそうだ。先に行った人はきちんと計算して金を置いていったので、それを差引くと私たちの分は一人二千円であった。ヨッシーとスナフキンは土産用の冷凍餃子を買い、その紙袋の中にはカレンダーが入っていた。

     ホームに降りて、止まっている車両に乗り込むと目の前に彼女たちが座っていた。車内は結構混んでいて、私だけが座れない。「どうぞどうぞ。」気配りの人オカチャンが腰を上げようとする。「いえ、お年寄りが座らないと。」オカチャンが私より年上であることは間違いないし、気が付けば今日の男性陣の中では私が最年少であった。そのうちヨッシーの隣に一つ席が空いたので私も座る。スナフキンはとっくに寝ている。
     ヨッシーは友達に会う約束があると言って古河で降りて行き、スナフキンが私の隣に移動してきた。姫とドクトルは久喜で降りて行く。「大丈夫ですよ、ドクトルは私の一つ手前ですからね。」少し心配しているのだ。オカチャンは白岡で降り、残りは大宮で降りる。勿論マリーとお園さんとも別れる。来週の里山に参加できないので、車中で「よいお年を」の声を掛け合う。
     十七時十五分だ。もうどこの店もやっているだろう。「どこに行く?」「取り敢えず、いつもの道の方に。」客引きの声を無視して少し先まで行ってみたが、どうも新しい店を開拓する気力がない。結局「かしら屋」にした。「焼き鳥がどんどん出てくる店だろう?」「そうだよ。」正確には東松山流の焼きトンで、辛味噌を小さな刷毛で塗るのが掟である。注文する手間が省ける店だ。但し自動的に出てくるのはカシラだけで、他のものが欲しければ注文しなければならない。「俺は皮が好きなんだけどな。」残念ながら皮はなさそうだ。
     カウンターの目の前で気難しそうな兄ちゃんが忙しそうに焼いている。少し若手の兄ちゃん二人は茫然とそれを眺めている。焼き場を任されるにはまだ早いのだろう。ぬる燗は薬缶でもってきて、グラスに注ぐ方式である。
     「目の前で串をひっくり返してるのを見ると、目が回るよ。」「何か、漬物みたいなものはあるかな?」「キムチ系ですね。」それなら要らない。若布サラダを一つ。それぞれ五杯ほど飲んで一人二千百円なり。腹が一杯である。

    蜻蛉