文字サイズ

    日光街道 其十五  日光例幣使街道鹿沼宿 ~ 文挟(ふばさみ)宿
    平成二十八年二月十三日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2016.02.24

    原稿は縦書きになっております。
    オリジナルの雰囲気でご覧になりたい方はこちらからダウンロードしてください。
       【書き下しオリジナルダウンロード】

     近所の紅梅が綺麗に咲いてきた。大学の裏道の畑脇には雑草の間からオオイヌノフグリが顔を出し始めた。今日は旧暦一月六日。立春の次候「黄鴬見睨(うぐいすなく)」。予報では今日の最高気温は十七度にもなると言う。
     明日はバレンタインデーだ。図書館で、バレンタインデーに向けた福袋という企画をやると言うので、「そもそもバレンタインデーっていつなのかい?」と訊いてみた。「そもそもって言うのがおかしい」と笑いながらスタッフが教えてくれた。それで正確な日が分ったのである。
     しかし何が入っているか分らずに、人は本を借りるものだろうか。私は半信半疑だったが、試験期間中だというのに三冊入りの袋が十五袋出た。頑迷固陋な私にはなかなか理解しにくい、実に不思議な現象である。
     バレンタインデーについては考えたこともなかったので、この際調べてみた。おそらく土着の春の豊饒祈願祭に聖者伝説を習合させたものだろうと推測したのは間違っていなかった。
     ローマ帝国では兵役期間中の軍団兵の結婚を禁じた。士気が落ちると言う理由だが、司祭のバレンタイン(ウァレンティヌス)が禁令に背いて兵士を結婚させたため、西暦二六九年に処刑された。その日が二月十四日だったと言うのが一般的な解説である。
     しかしこれは余り信用できない。ウィキペディア「軍団兵」によれば、「公式には兵役中の兵士の妻帯は禁止されていたが、実際には居留地で妻を娶り、除隊後故郷に妻子を連れて帰ることなどは黙認されていた」とある。また同じウィキペディア「ローマ市民権」では、「正式に結婚はでき」なかったが「しかし除隊・退役後には(市民権は)子供には認められた」とある。わざわざ禁令を冒してまで正式に結婚する必要はなかった。
     そもそも、この禁令は当時生きていたのだろうか。軍団兵と言っても王政、共和制、帝政と長い歴史があるが、共和制時代のローマ市民の兵役は二十歳から四十五歳までの二十五年間だった。この期間に、内縁さえも許さなければ、ローマ市民の血は絶えてしまうだろう。そして三世紀のローマは軍人皇帝が乱立し、軍団兵は傭兵化していた。傭兵に対して、かつてのローマ市民を拘束した法律が適用されたとは思えない。
     三世紀後半から四世紀にかけてのローマ帝国は、キリスト教に対して弾圧と寛容を繰り返していて政策は安定していない。三九二年にテオドシウスⅠ世によって国教とされるまで、処刑されたキリスト者はいくらでもいた筈で、その全てに正確な記録が残っているとは考えられない。一九六二年から一九六五年にかけて開催された第二バチカン会議において、ウァレンティヌスについては史実の上で信憑性がないと、聖人暦から除かれた。
     古代ローマでは、二月十四日は結婚や出産を司る女神ユノ(ギリシア名ではヘラ)の祝日であり、翌十五日は春の祭ルペルカーリア祭となる。ユノはユピテル(ギリシャ神話ではゼウス)の妻であり、女神の中で最高の神である。春になると泉で水浴し、年齢を洗い流して乙女に変わる。しかしユノを祭る日は年に何回かあるようで、六月一日もその日である。六月Juneはユノに由来し、ジューン・ブライドの起源にもなっている。
     問題は豊穣と多産を祈願するルペルカーリア祭で、古代の豊穣祈願なら当然性的なものが多く含まれていた筈だ。教会としては本来禁じたい異教の祭りであるが、いくら禁じても止むことがない。それなら聖者伝説と結び付けて、いっそ教会公認のものにしてしまうしかない。こうして五世紀末のゲラシウスⅠ世(教皇在位四九二年~四九六年)が、ルペルカーリア祭をバレンタインデーに変えたとされている。
     しかしローマ帝国は四世紀末には東西に分裂し、西ローマ帝国は四七六年または四八〇年に消滅していた。そんな時代に、バレンタインデーなんてことを考える余裕があっただろうか。
     そして現代ではこんなことは全く関係がなく、菓子業界が必死に普及活動を進めた。

     デパート各店がバレンタインデー普及に努めていたが、なかなか定着せず、一九六八年をピークに客足は減少し、「日本での定着は難しい」との見方もあった。しかし、オイルショック(一九七三年)に見舞われ、高度経済成長が終焉した一九七〇年代前半頃になると、チョコレートの売上が急増した。オイルショックによる不況に喘いでいた小売業界がより積極的にマーケティングを行ったとされ、一九七〇年代は日本の資本主義がほぼ完成し、成熟した消費社会になった時期とも重なる。バレンタインデーにチョコレートを贈答するというのは、小学校高学年から高校生までの学生層から広まったという。一九八〇年代後半頃には主婦層にも普及した。
     前節で述べたように、当初は贈答品はチョコレートに限られておらず、誰とも交際していない女子から意中の男子へという形でもなかった。バレンタインデー普及には商業活動が一役買ったことは間違いないが、日本社会に受け入れられやすかった要素とそうでなかった要素があることが指摘されている。(ウィキペディア「バレンタインデー」より)

     この記載を信用すれば、バレンタインデーは七〇年代半ばに小学生から高校生の間に普及したのだから、昭和四十五年(一九七〇)に大学に入った私に縁がなかったのは当然だ。それにしても、急速に普及するにはそれなりの時代の精神状況があるだろう。消費社会に向かいつつあった、あの時代の青少年のメンタリティどうであったか。
     昭和四十五年(一九七〇)十一月二十五日に三島由紀夫が自決した。四十六年(一九七一)五月三日、戦後文学の継承者とみられ、全共闘運動に深く関わっていた高橋和己が癌で死んだ(可哀そうな高橋)。高橋は知識人が果たすべき役割について真剣に考えていたのだが、この頃から知識人や教養というものは衰退に向かっていく。
     そして四十七年、あさま山荘事件をきっかけに連合赤軍(共産同赤軍派と京浜安保共闘の合同)の凄惨な内部テロの実態が明らかになった。これによって、昭和四十三年(一九六八)を中心に世界中に拡散した学生の反乱と、それに対するある種のシンパシーは完全に消滅した。政治の季節が終わり、論争がダサイものになっていく。
     小学生から高校生までと考えると、一つ目に付くのは漫画の世界における変化だ。記憶を辿ると、七〇年代中頃から少年漫画に少女漫画の要素が浸透してきた。たぶん柳沢きみお『女だらけ』(『少年ジャンプ』昭和四十八年連載開始)が、強い姉たちの間で右往左往する弟を描いたのが最初だったのではないだろうか。やがて柳沢『翔んだカップル』(『少年ジャンプ』昭和五十三年連載開始)辺りから「ラブコメ」と言うジャンルが生まれてくる。中でも影響が大きかったのは高橋留美子『うる星やつら』(『少年サンデー』五十三年開始)だろう。女性作家が最初から少年漫画誌を舞台にすること自体が異例であった。
     この先駆として、萩尾望都(『ポーの一族』が昭和四十七年『別冊少女コミック』)、竹宮惠子(『地球へ』が五十二年『月刊マンガ少年』)等の活躍を見なければならないだろう。それまで少女漫画を代表するのは「わたなべまさこ」で、様々なイジメに耐えて健気に生きる美少女の物語なんか男の子は読まない。それが変わってきた。以前には、トキワ荘グループで唯一手塚治虫のスケールを引き継いだ水野英子が孤軍奮闘していたのだが、萩尾たちはその影響を受けたと思われる。要するに男の子が少女漫画を読むようになった。
     やがて昭和五十五年(一九八〇)に創刊された『ビッグコミック・スピリッツ』に、高橋留美子が『めぞん一刻』を開始して以来、流れは青年漫画誌にも及んでくる。少女漫画に慣れた世代が青年期に入ってきたのである。
     萩尾や竹宮、そして小説においては栗本薫等にボーイズラブ(少年の同性愛)への偏執が見られるのはどうしてなのか理由が分らない。そんな時代だったとしか言いようがない。同人誌の世界で「やおい」というものが流行っていた。
     ここには日本SFの変質も大きく関わっている。光瀬龍『百億の昼と千億の夜』(一九六七年)や山田正紀『神狩り』(一九七五年)等によって思弁的な頂点に到達したと思われたが、実は同時に日本SFは袋小路に入ったのである。そして、かつてジュブナイルと呼ばれた一部のジャンルがコミックと融合し、その中から新井素子が登場して来る。現代のライトノベルにつながる路線がこの頃に現れて来たのである。
     歌の世界では、昭和四十八年(一九七三)の山口百恵の登場が大きな画期だったろう。未成熟な少女があからさまに性を連想させる言葉で恋を告白するのは、流行歌史上に初めてのことであった。「あなたに女の子の大切なものを上げるわ」と言っても良いのだと、日本中の少女は思ったに違いない。その「大切なもの」がチョコレートで代用されたことは充分に考えられるだろう。
     同じ頃、アメリカンフォークの模倣から始まった日本のフォークソングが、七三年の『神田川』辺りから変質して四畳フォークと呼ばれるようになり、更にニューミュージックへと変貌していく。これ以後、流行歌の世界は女子供に占領され、やがて「歌謡曲」というジャンルの衰退に至るので、私はこの頃から新しい流行歌を聴かなくなる。私は主に昭和三〇年代に帰っていて、つまり私が時代とずれ始めて行ったのがこの時だった。
     これらを総合して考えると、総じて世界が女性化し幼稚化していく画期が七〇年代半ばだったと言えるだろう。バレンタインデーの流行と普及には、これが関係しているに違いない。女性からの告白を待つというのは、男性の自信喪失と責任放棄である。
     勿論、世界は一挙に一律に変わるのではない。バロン吉元『柔侠伝』は七十年代を通して、明治大正昭和を生きた男三代の物語を悠々と描き続けていた。女性化への反動としては、どおくまん『嗚呼!花の応援団』(昭和五十年連載開始)や武論尊原作・原哲夫作画『北斗の拳』(昭和五十八年連載開始)などのマッチョ的なものを全面に押し出す作品も現れ、暴力礼賛と右翼への親和性を養った。この種のものは時折出現する。政治的にはこの頃からネオコンが台頭してくるのだが、これがどう関係してくるのかは良く分らない。
     私は相変わらず余計なことを長々と書いている。流行歌や漫画を軸にして近代の精神史が書けるのではないかとは、若い頃の私の妄想だったのである。しかし、これはどうにも手に余る問題だった。消費社会を信じていない私が、消費社会の実相を分析できる筈がない。

     集合は東武日光線の新鹿沼駅だ。日光御成街道に始まり、幸手から日光道中に入って歩いて来て、前回は宇都宮で餃子を食べた。しかしその先の徳次郎(とくじら)宿、大沢宿を通る日光街道は電車を使って行ける距離ではない。だから西に十二キロ程飛んで、鹿沼宿から文挟宿、板橋宿を通って今市で日光道中に合流しようというのだ。この経路は壬生通りとも日光西街道とも呼び、日光例幣使街道の一部である。八王子千人同心も使った道だ。
     例幣使街道については今更言うまでもないが、正保四年(一六四七)から慶応三年(一八六七)まで毎年派遣された例幣使が往路をとった道である。京都から中山道を通って倉賀野宿(群馬県高崎市)で例幣使街道に入った。そして楡木(栃木県鹿沼市)で壬生通りと合流し、更に今市で日光道中に合流する。
     いつもよりかなり早く起きて、昨夜のトン汁の残りと目玉焼きで朝食を食った。いつでも脱げるようにジャケットの下には薄手のセーターを着込み、家を六時五十分に出て、七時十三分の鶴ヶ島発東上線に乗った。川越から埼京線、大宮から東武野田線を使って春日部に着いた。十分以上余裕があるのでトイレを済ませてホームに降りると、ドクトル、ダンディが見知らぬ女性と一緒にいる。新しい参加者かと思ったが、ドクトルに付き添って来た奥様だった。一緒に歩くのかと一瞬期待したが、「カードは財布に入ってますからね」とドクトルに念を押して、別れて行った。「娘が春日部に住んでるんだよ。」ドクトルを送って来たついでに、お嬢さんの家に行くのだ。
     「聞き覚えのある声がしたので」と姫も現れた。この電車(快速会津田島行)に乗らないと定刻には間に合わない筈だが、他のメンバーの姿は見えない。まさか今日は四人だけということはないだろうね。
     乗った電車(会津田島行)は、日光を目指すらしい中高年の団体客や家族連れでかなり混んでいる。最初に空いている席を見つけて姫が座り、男三人は若い女性が一人で腰かけているボックス席に同席した。私の正面の女性は片足を組んでいて、座席の間隔が狭いので足の置き場に困ってしまう。
     東武動物公園で東武伊勢崎線から東武日光線が分岐する。「あの土手は何だろう?」「利根川ですね。」土手の風景に見覚えがあるから栗橋関の辺りだろう。利根川を越えて更に右手に土手が見てきたのは渡良瀬川だ。
     板倉東洋大学前。「東洋大学は、ここの他は東京だけかい?」そんなことはない。中心は白山だが、川越(と言っても駅は鶴ヶ島)に理工学部、朝霞に教養課程(現在はライフデザイン学部も同居)があって、この板倉は生命科学部のキャンパスだ。
     日差しが眩しくなったので、窓のブラインドを下げようとすると、向かいの女性も手伝ってくれる。通路を隔てて座っていた団体は、先頭車両で飲み始めていると呼びに来た男性に従って席を移動していった。そこに祖父と孫三人(女の子二人、男の子一人)が移ってきた。「どうしてママじゃなくてジイジが座るの?ママが座ってよ。」「ジイジは年寄りだから座らせてあげなさい」と母親が言い聞かせる。ジイジは辛いね。暑くなってきたが、座席が狭いので上着を脱ぐのも面倒だ。
     新鹿沼に着いたのは九時四十四分だ。鶴ヶ島からは二時間半で電車賃は千四百五十六円なり。帰りは文挟からJR日光線を使う予定なので、二千百九円にもなる。今月は外で飲む回数が多かったので小遣いは既に赤字だ。妻は「日帰りなの?」なんて呑気なことを訊いてくるが、補助金を出してくれる積りはない。
     電車を降りると、一つ後ろの車両からロダンとスナフキン、オカチャンも降りてきた。ロダンは新越谷から乗って来た。「誰もいないんだもの、不安になって。」スナフキンは栗橋から乗って来た。オカチャンも当然栗橋経由だろう。「財布はどこにあるのかな?」ドクトルがポケットから取り出したのは札入れで、カードが入るようなものではない。「ウェストポーチじゃないですか?」オカチャンは鋭い。確かにあって、無事に改札を出ることができた。
     改札を出ると駅舎の入り口脇に、チェーンソー・アーチスト小林哲二氏による芭蕉の立像が立っていた。「なんだかミイラみたいじゃないか。」木目の模様が眼を窪ませてミイラを連想させるのである。「芭蕉が見たら、俺じゃないって言うよ。」「ギョエテとは俺のことかと、っていう感じでしょうかね。」
     因みに「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言ひ」は斎藤緑雨の作と伝えられるが、手持ちの『斎藤緑雨』(筑摩書房『明治の文学』第十五巻)にも、中野三敏編『緑雨警語』(冨山房百科文庫)にも載っていないので確認できない。
     朝飯が早かったので少し腹が減ってきた。「俺もだよ」と言うスナフキンと一緒に売店に入ると姫も先に入っていた。私とスナフキンはおにぎりを一つ買い、姫はサンドイッチを買う。
     暑くなりそうなので、ここでセーターを脱いでリュックにしまった。「エーッ、もう脱ぐんですか?」ロダンはマスクをしている。ロダンの会社では先週インフルエンザ患者が続発し、ロダン自身も三日寝込んだと言う。まだ本調子ではないのだろう。「マスクは予防のためですよ、それにしてもまだ寒いじゃないですか。」
     念のために十時三分着の電車を待ったが誰も降りてこない。今日は、あんみつ姫、ダンディ、ドクトル、オカチャン、スナフキン、ロダン、蜻蛉の七人になった。「七福神だね。」「弁天様もいるし。」随分前に同じような会話を聞いた気がする。ヨッシーはどうしたのだろう。
     ロータリーには岡本太郎作「夢の樹」という不思議なモニュメントが聳えている。私は大阪万博の「太陽の塔」以来、岡本太郎を信用していない。なんて言うとエラソウだが、そもそも私には「芸術は爆発だ」という太郎の感覚が理解できないのである。

     歩き始めるとニラ蕎麦の看板が目についた。「美味そうですね。」ニラも蕎麦も鹿沼名産だ。「お蕎麦は好きですけど、ニラはちょっと。」ざるそばの上に茹でたニラを載せたものらしい。B級グルメの類だろうか。
     駅前交差点からは左手(北)は二股に分かれていて、ちょっと変わった五叉路になっている。その分岐点に小さな祠があって、一間社流造の小さな祠の前に、日光二荒山神社の額を掲げる石造りの明神鳥居が立つ。沈丁花の尖った蕾が赤い。もうじき花が開きそうだ。
     これは遠鳥居(旧一ノ鳥居)の跡、つまり日光山を遠く望む鳥居の謂である。つまりここから日光山の神領に入るのだ。それに因んで鳥居跡(とりいど)町と名付けられる。「跡と書いてドと読むのは普通にあるのかい?」普通ではないだろうね。

     奈良時代に勝道上人が日光開山後、この地に四本のえのきを植えたと伝えられ、また、鎌倉時代に、源頼朝が日光神領として寄進したとされる押原六十六郷の由緒あるこの地に、日光山の遠鳥居を建てたと言われているように、古い伝承のある地である。後年、鳥居の跡が地名になって鳥居跡になったと言う。江戸時代のはじめ、日光へ街道が整備され、鹿沼宿がつくられた際、鳥居跡から分岐造成された新道が現在の大通りであると鹿沼古記録にある。その頃、鳥居跡に植えられた四本のけやきは次第に枯れ、大きな空のあった最後の一本も、戦後まもなく姿を消してしまった。その跡に、昭和三十二年、日光二荒山神社から御神体を迎え、二荒山神社を建立した。鳥居跡町名は、由緒ある地名「鳥居跡」から命名されているが、町内発展の契機となったのは、昭和四年に東武日光線が開通し、東武新鹿沼駅が開業したことである。(説明板)

     ここは下野国都賀郡押原郷の中心で、鎌倉時代末期には鹿沼氏の本拠だった。鹿沼氏の出自については良く分らない。正応五年(一二九二)、日光二荒山神社にあるお化灯籠の銘に「鹿沼権三郎入道教阿」とあるのが、鹿沼氏が文献で確認できる最初だと言う。佐野氏の流れとする系図があるが、宇都宮氏末流ではないかという説もある。
     永正年間(一五〇四~一五二〇)宇都宮忠綱の命で壬生綱重が鹿沼氏を滅ぼすと、壬生氏は宇都宮氏の承認を得て本拠を壬生から鹿沼に移した。しかし壬生氏は後に宇都宮氏を離れ、北条に臣従して天正十八年(一五九〇)小田原滅亡とともに滅びた。
     これによって鹿沼は城下町としての機能を失ったが、江戸時代になって日光社参の街道の宿場町として再開発された。ここの二股に分かれる街道の東側が田町、西側が内町と呼ばれ、それぞれ名主・問屋を置いて、月番で宿場の管理を担当した。天保十四年(一八四三)には人口二千八百四十四人、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠二十一軒があった。商売としては酒造十軒・穀屋十三軒・麻二十四軒・荒物二十二軒・大工二十二軒・茶屋二十六軒というから、相当な賑わいである。大工が目立って多いのは、東照宮の建築に携わった者が土着したためかも知れない。
     ここから先は国道293号を北上する。街道沿いには昔ながらの二階家が何軒も残っていて、今でも普通に生活し、物を売っている。酒食料品の中野屋は黒板塀に黒瓦の重厚な建物だ。
     少し行けば雲竜寺だ。鹿沼市寺町一三五一番地。浄土宗、天動山往生院。寺伝によれば、平家の落ち武者が土着して、法然の弟子を迎えて建立したと言う。しかし平家落ち武者伝説は信用できない。この辺りは宇都宮氏の本拠に近く、源氏の勢力圏だったに違いなく、平家の落ち武者が土着できるとは到底思えない。永正元年(一五〇四)、宇都宮清巌寺開山の旭蓮社義扇心公上人を迎えて、現在地にあった草久庵を拡大して現在に至った。
     門前に「鈴木石橋・山口安良先生菩提所」の石柱が立っている。「下見では見ていませんが、探したい人はどうぞ。」静かな境内の正面に本堂があり、左手には鐘楼が立つ。墓地に入ってみたが、何の案内もないので探せる筈がない。門前に案内をおくなら、墓地にも矢印程度はあっても良いのではなかろうか。初めて知った名前だが、知った以上は墓に詣でてみたかった。
     鈴木石橋は宝暦四年(一七五四)~文化十二年(一八一五)の人。都賀郡石橋の豪農に生まれ、昌平黌で学んだ後、郷里で私塾・麗澤之舎(りたくのや)を開いた。門人に蒲生君平がいる。蒲生君平については、前回宇都宮でかなり勉強したから皆さん馴染みになっているだろう。宇都宮から鹿沼まで、毎日三里の道を歩いて通ったと言う。
     石橋は天明の大飢饉では私財を投じて窮民救済、備荒貯蓄、堕胎や間引きの根絶に力を尽くし、道路、橋の改修等の社会事業にも積極的に関与した。
     麗澤と言えば柏にある麗澤(れいたく)大学を連想するが、麗澤大学の創立者・廣池千九郎は豊前中津の出身だから、直接の関係はなさそうだ。「易経」(巻十五 下経 兌)の「象曰、麗澤兌。君子以朋友講習」(象に曰く、麗ける澤は兌びなり。君子以て朋友と講習す)とあるのを採った。「麗沢」は地中で繋がった二つの泉の謂である。『大辞林』によれば、「連なった二つの沼沢が互いにうるおし合うように,友人が互いに助け合いながら学ぶこと」と言う。
     山口安良は安永十年(一七八一)から慶応元年(一八六五)の人。鹿沼宿の名主で、鹿沼の歴史を調べて文政十三年(一八三〇)に『押原推移録』を著した。「そうですか、そこまでは調べませんでした。」姫はそう言うが、私だってここまでしか調べられなかった。閻魔堂を覗くと、真っ赤な閻魔大王が鎮座していた。「ロダンは、うちには閻魔女王がいるって言ってた。」
     下材木町の交差点から、国道は右から曲がってきた121号に合流する。大正か昭和の初め頃だと思われるコンクリート二階建てがある。表側は両開きの窓がついた立派なものだが、裏側には木造瓦屋根の家が接している。こういう継接ぎの建物は地震に弱いのではなかろうか。昔の病院のようにも見えると思った通り、これは旧岡本歯科医院である。下材木町の名の通り木材店が目につく。蒟蒻の秋山商店もある。
     うなぎ屋の角を左に入れば突当りが薬王寺だが、その前に、門前左にある割烹「喜楽」が気になってしまう。板塀の上部に窓を開けた黄色の土壁を載せた塀は歪んで押しつぶされたように見える。建物は赤いトタン屋根の平屋だ。
     真言宗智山派、医王山阿弥陀院薬王寺。鹿沼市石橋町一五三四番地。弘長年間(一二六一~一二六四)の創建と言われる。

     元和三年、僧正・俊賀の時代には、徳川家康公の遺骸を日光山に移埋する際、当山に四日間滞在し、また、天海僧正、家光公の葬送の際にも止宿となり、徳川家より十石を賜り、門末の塔頭寺院も二十六ヶ寺を有しました。
     しかし、寛文三年回禄の災により、御堂、古記録等皆焼失しました。(「縁起」より)

     元和三年(一六一七)三月十五日に久能山を出発した家康の遺骸は、富士山麓の善徳寺で一泊、三島に二泊、小田原に二泊、中原一泊、府中二泊(あるいは三泊)、川越の喜多院で四泊、忍一泊、佐野一泊、鹿沼で四泊して、四月四日に日光山の座禅院に到着した。
     これで見る限り四泊したのは、この寺と喜多院に限られるから異例のことだと言って良いだろうろう。喜多院は天海僧正の地盤だから当然と言って良いが、この寺に関して理由は分らない。東照大権現の本地仏は薬師如来とされるから、薬師如来を本尊とするこの寺を重視したのかも知れない。
     ところで、前年四月に久能山に埋葬された家康の遺骸は本当に日光に移されたのか。これについては賛否両論ある。土葬されて一年弱、死骸はほぼ完全に白骨化したとみて良いか。その骨を完全に移したとすれば久能山には骨はなく、分骨だとすれば骨の一部を切取ったことになる。久能山の発掘調査はされていないし、本当の所は実は謎である。
     ただ、当時は遺骨に対する執着はそれほど大きくなかったのではあるまいか。鈴木理生『江戸の町は骨だらけ』を読んでも分るように、江戸時代の寺は頻繁に移転したが、土葬された骨はそのまま残され、その上に別の建物が建てられた。それに家康は東照大権現という神になったのだから、日光に骨は要らない。詳しく調べた訳ではないが、遺骨に対する現代日本人の感情は、太平洋戦争以後に生まれたものではないだろうか。
     門を入るとすぐ左手に、五輪塔の出来損ないのような、ずんぐりした石塔が建っている。「三代将軍家光公鎧塔」である。鎧塔と言うのが分らない。説明によれば、日光山輪王寺大猷院奥院にある宝塔を模したものらしいが、その現物を知らないので何とも言えない。
     鹿沼招福七福神という小さな堂のガラス戸を覗きこむと、様々な形の七福神の人形が飾られている。その中に狸の七福神があるのが御愛嬌だ。

     「それじゃ行きましょうか。」姫の言葉で外に出る。街道に戻ると、通りの右側に鈴木内科がある。「あそこに説明があるようですね。」通りを渡ってみると、ロータリークラブの立てた「鈴木石橋先生旧居跡」の説明があった。鹿沼市石橋町一三一四番地。但しここが本陣跡とは書かれていない。
     石橋町交差点を渡ると大坂屋箒屋店がある。鹿沼市仲町一七〇三番地八。黒塗りの蔵造りの店構えで、看板は「鹿沼屋台夢箒」。店頭には七福神を始めとしてさまざまな商品が雑然と置かれている。店は小さいが、宝永元年(一七〇四)創業で三百年を超える老舗だと言っている。私は予習してきたからね。
     「これが鹿沼箒の特徴なんだよ。」コンクリートブロックの穴に何本か差してある箒を見て、私は予習してきたことを披露する。柄との接合部分が蛤の形に編み上げられているのが特徴で、かつて鹿沼には「箒千軒」と言われるほど店があったという。
     座敷箒には「棕櫚箒」(主に関西のもの)、「南部箒」(名前の通り南部地方で生産される)、「鹿沼箒 」の三種類があると言われる程、鹿沼は箒の産地として有名だった。しかしこの店で箒の製造販売を始めたのは天保の頃で、創業から百年間は麻の製造販売を行っていたらしい。
     元々鹿沼は日本一の麻の産地で、その製品は野州麻と呼ばれた。現在でも全国の七割以上を産出していると言う。大麻はマリファナになるから免許制で勝手に栽培することはできないが、鹿沼では昭和四十年代に無毒の麻の開発に成功した。
     古代から中世を通じて庶民の衣服は麻で作られた。しかし寛永五年(一六二八)、幕府は絹の禁止を主眼に奢侈禁止令として、百姓の衣服は木綿に限るというお触れを出した。戦国時代に広まり始めた木綿が、この頃までに麻に代わって普及していたことが分る。柳田國男『木綿以前の事』は、「木綿が我々の生活に与えた影響が、毛糸のスエーターやその一つ前のいわゆるメリンスなどよりも、遥かに偉大なものであったことはよく想像することができる。」と書いている。

     第一には肌ざわり、野山に働く男女にとっては、絹は物遠く且つあまりにも滑らかでややつめたい。柔かさと摩擦の快さは、むしろ木綿の方が優まさっていた。第二には色々の染めが容易なこと、是は今までは絹階級の特典かと思っていたのに、木綿も我々の好み次第に、どんな派手な色模様にでも染まった。そうしていよいよ棉種の第二回の輸入が、十分に普及の効を奏したとなると、作業はかえって麻よりも遥かに簡単で、僅かの変更をもってこれを家々の手機で織り出すことができた。

     麻の産地にとっては大打撃だったかと思うが、同じ時期に大名や武士の礼服(大紋)や裃は麻を用いることが定められた。それに漁網や下駄の鼻緒、縄等にも使われるので、いきなり需要が減った訳ではなく、全国的に麻の栽培は盛んだった。
     そして天保十二年(一八四一)、上殿の代官・荒井喜右衛門が練馬からホウキモロコシの種を持ち帰って植えたのが始めで、鹿沼では麻の裏作としてホウキモロコシを植えて箒としたのである。関西では棕櫚を用いたが、関東ではホウキモロコシを使用し、その箒は関東箒、江戸箒とも呼ばれた。麻もホウキモロコシも水捌けのよい土地でなければ定着せず、鹿沼土がちょうど適合したのである。

    鹿沼箒の歴史と文化  ほうきの材料となる種が移入されたのは天保年間(一八三〇年)のこととされる。天保時代のほうきは、竹を細かく裂いて竹皮で編み、麻を用いてとじ木の柄を付けたものであったと言われている。明治十年(一八七七年)には青木清七が制作したもろこし箒が、第一回勧業博覧会において、大久保利通公より表彰を受けている。鹿沼箒の特徴として、柄の接合部分がこんもりとまるく、蛤の形に編み上げた箒が特徴的な製品である。とじ糸飾り付けは、麻の葉のデザインを付け、末広がたの箒である。江戸、明治時代には、子供が早く亡くなるため、蛤ほうきのデザインには子宝に恵まれ、元気に育ちますようにとの願いが込められ、嫁に出す折には二本を嫁ぎ先へ持たせた開運箒でもある。穂先もしなやかで、女性の美しさも表現している。(http://www.yumehouki.sakura.ne.jp/about.html)

     箒が普及するためには畳の普及も必要だっただろう。漸く九尺二間の裏長屋にも畳が敷かれるようになっていた。
     ついでに大坂屋のホームページを読んでいると意外なことが分る。初代惣兵衛から数えて現在の店主は十五代目だが、八代目が鈴木石橋、通称四郎兵衛なのだ。なるほど、現在の代表者の名字も鈴木だった。但しこの店は九代目が分家した家である。今では箒だけで商売が成り立つ筈はなく、祭り用品や作業服、履物などを商っている。
     また鹿沼箒が全国的にはどの程度のものだったのかは、次の記事によって分かる。最盛期には全国生産の半分を占めたと言う。

     栃木の中心的な箒産地・鹿沼の座敷箒(蜀黍箒)はすでに近世末期に定評があり、材料となる箒もろこしの種子は練馬から移入されたのが始まりといわれるが、その後、明治末期から大正にかけて品種改良され、麻の裏作として周辺農家で栽培された
     鹿沼の箒生産が盛んになるのは、畳敷きの部屋(座敷)が増え、座敷箒の需要が増大した明治三〇年頃からであり、昭和五〜六年頃が最盛期とされる。最盛期の県内工員数は三千人、生産数三百万本、全国生産高の約半分を占めたという。鹿沼箒の形状はその編み込み部の形から「蛤型」と呼ばれる。麻糸で編む蛤型の技法は明治前期の鹿沼で起こり、明治二十二年頃からニッケル線が使われている。(面矢慎介「明治の雑貨産業 畳、箒、箪笥」)http://www.shc.usp.ac.jp/omoya/lab/activities/articles/meiji-industry.html

     まちの駅「新・鹿沼宿」にちょっと寄る。鹿沼市仲町一六〇四番地一。入口前には駅前にあったチェーンソー彫刻と同じ作者による、芭蕉と曾良の像があった。芭蕉は切り株に腰を下ろし、曾良は切り株の上に立っている。その曾良の耳が異常に大きく、なんだかSF映画に出てくる宇宙人のようだ。
     蔵造の仲町屋台展示収蔵庫は、今月下旬まで屋根の修理のため休館中で入れない。鹿沼市仲町一六一〇番地一。天保七年(一八三六)に製作された白木彫刻屋台で、牡丹と孔雀の脇障子、屋根の鬼板・懸魚の龍、外欄間の花鳥などが見どころだという。鹿沼の祭り屋台は彫刻の見事さで知られている。

     鹿沼市には、鹿沼の秋祭りに繰り出される今宮神社氏子町の屋台が二十七台あり、これ以外にも、楡木町に三台(うち一台は山車)、上大久保に一台、口栗野神社大祭に繰り出される七台を含め、計三十八台の屋台が現存しています。
     鹿沼の屋台は、江戸の屋台の系統を引く「踊り屋台」から発展したものと考えられ、その構造は、唐破風の屋根を載せた単層館型で、四輪を内車式に付けたものです。屋台本来の機能は氏神へ奉納する芝居や踊りのための移動舞台ですが、現在では囃子方が屋台の中に乗り、演奏する構造となっています。
     鹿沼の屋台の最大の特徴は、日光山社寺の豪華な彫刻の影響からか、全面が豪壮な彫刻によって飾られている点で、江戸時代に建造された十三台と当時の彫刻を付ける一台、合わせて十四台が市の有形文化財に指定されています。(「鹿沼観光だより」より)
     http://www.kanuma-kanko.jp/manabu/yatai.shtml

     屋台の町中央公園もあるが、ここにも寄らない。「おっ、珍しいね。」中野屋本店という、いま時なかなかお目にかかれない駅前旅館のような旅館があった。鹿沼市天神町一七〇四番地。フーテンの寅が泊まりそうな宿である。江戸時代創業で大正時代の建物だ。既に廃業して暫く空き家になっていて、現在は再生プロジェクトによって様々に活用されているらしい。
     市役所前交差点の左手奥には市役所がある。「お城はあの奥にあったんですよ。」姫の言葉通り、市役所の背後が御殿山と呼ばれ、かつて鹿沼城があったところだ。比高二十メートル程の平山城である。先にも触れたように鹿沼氏から壬生氏が引き継ぎ、小田原滅亡とともに廃城となったものだ。本丸と二の丸跡は野球場になってしまっているらしい。
     交差点を渡れば天満宮だ。鹿沼市天神町一七一六番地。参道の右には天神町屋台収蔵庫があり、下ろされたシャッターに、その屋台の様子が描かれている。石造明神鳥居を潜ると、小さいながら黒塗りの社殿が厳かな雰囲気を醸し出している。一間社流造。棟瓦には梅の紋が三つ飾られている。

     東風吹かばにほひをこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ

     案内板にも書いてある道真の有名な歌を、念のために調べてみると意外なことが分ってくる。私たちは古典文法の「な・そ」の典型だと「春な忘れそ」を教えられた筈だが、「春を忘るな」と表記される文献があるとは、迂闊なことに知らなかった。『宝物集』『十訓集』『古今著聞集』『延慶本平家物語』『太平記』では「春な忘れそ」、『拾遺和歌集』『大鏡』『源平盛衰記』では春を忘るな」となっているそうだ。
     紅梅と白梅ともに、まだ開きかけたばかりだ。紅梅からこんな句を連想した。

     紅梅や見ぬ恋つくる玉すだれ  芭蕉

     芭蕉には似合わないような、若々しく艶やかな句ではあるまいか。私は最初、紅梅の蕾が玉簾のように見えるのかと誤読していた。紅梅が香る屋敷の玉簾の陰には妙齢の美女がいるのではないかという妄想である。芭蕉が奥の細道の旅に出る直前に作句されたものらしい。
     この句は大西巨人『春秋の花』で知った。と言ってしまうと大西の『神聖喜劇』を紹介しておきたい誘惑にも駆られる。まともに言っては長くなるから簡単に済ませるが、大岡昇平『俘虜記』と並ぶ戦争文学の傑作である。軍隊は愚劣であり、そこに召集された庶民もまた愚劣にならざるを得ず、それを描いて日本人の研究にもなっている。文庫本全五冊には、大西の古今東西に及ぶ読書遍歴からくる引用が、主人公の記憶の蘇りとしてふんだんに盛り込まれているので、なによりも知的に圧倒されるが、しかし捧腹絶倒する場面もある。「喜劇」を名乗る所以だ。
     鳥居の手前にある小さな社は厳島神社。つまり弁才天で、小さな池もある。「鯉もいるよ」とスナフキンが教えてくれる。
     この辺りの街道にも木工所や家具屋が目立つ。左手を見ると、長い参道の奥に立派な山門が聳えている。境内も広そうだ。「気になる方はどうぞ。でも急いでくださいね。」宝蔵寺。鹿沼市上材木町一七五二番地。
     確か芭蕉の笠塚伝説のある寺がこの辺ではなかったろうか。記憶が曖昧だがちょっと寄ってみたい。山門を潜るとまっすぐ奥に、高台の墓地に上る階段があり、本堂は右手に、つまり南面して建っている。しかしそんな形跡は何もなかった。「違ったな。」
     これは私の記憶違いなので、芭蕉伝説を持っているのは西鹿沼町の光太寺の方だった。一夜漬けの予習はすぐにぼろが出る。その寺は街道から西に外れているので、今日のコースでは立ち寄るのは無理だ。芭蕉が鹿沼に泊まったのは元禄二年三月二十九日だが、どこに泊まったかはっきり示す文献はない。
     草加から日光道中を辿って来た芭蕉は、喜沢追分(小山市)で壬生道に入り、室の八島を参拝してから鹿沼を経由して鉢石宿に至った。『奥の細道』は室の八島については記しているが、そこから鉢石宿まで途中については何も語らず、曾良の日記で追いかけるしかない。

    一 廿九日、辰ノ上尅マゝダヲ出
    一 小田(山)ヨリ飯塚ヘ一リ半。木沢ト云所ヨリ左ヘ切ル。 
    一 此間姿川越ル。飯塚ヨリ壬生ヘ一リ半。飯塚ノ宿ハヅレヨリ左ヘキレ、(小クラ川)川原ヲ通リ、川ヲ越、ソウシヤガシト云船ツキノ上ヘカゝリ、室ノ八嶋ヘ行(乾ノ方五町バカリ)。スグニ壬生ヘ出ル(毛武ト云村アリ)。此間三リトイヘドモ、弐里余。
    一 壬生ヨリ楡木ヘ二リ。ミブヨリ半道バカリ行テ、吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有。
    一 にれ木ヨリ鹿沼ヘ一リ半。
    一 昼過ヨリ曇。同晩、鹿沼(ヨリ火バサミヘ弐リ八丁)ニ泊ル。火バサミヨリ板橋ヘ廿八丁、板橋ヨリ今市ヘ弐リ、今市ヨリ鉢石へ弐リ。 )(『曾良随行日記』)

     曾良が「火バサミ」と書いているのは文挟のことだ。鹿沼から文挟まで二里八町なら八・六キロだが、実際には九・六キロとなるらしい。芭蕉と曾良がどこに宿泊したかでも、一キロ程度はすぐ違ってくる。芭蕉は鹿沼で菅笠を新調し、光太寺に古い笠を埋めたというのである。

     入相の鐘も聞こえず春の暮  芭蕉
     鐘つかぬ里は何をか春の暮  同

     最初の句には「田舎に春の暮を侘ぶ」の詞書きが付く。芭蕉が高久の門人覚左衛門に与えた真蹟が残されている。二番目の句は旅中に曾良が書き留めたもので、芭蕉は校正して上の句に改めたのかも知れない。春の夕暮れに入相の鐘がつきものなのは、能因法師以来である。

     山里の春の夕暮れきてみれば入相のかねに花ぞ散りける(新古今)

     しかしここでは鐘の音が聞こえなかった。当時、光太寺には住職がいなかったらしいのだ。芭蕉死後、寺は芭蕉を偲んで笠塚を建てた。江戸時代には既にこの寺に芭蕉が泊まったと言う伝説が広まっていて、元文三年(一七三八)山崎北華も奥の細道を辿って光大寺の笠塚を詣でた。

     我も此の影に居るなり花の笠  北華

     山崎北華は自堕落先生である。谷中の養福寺に「自堕落先生之墓」という大きな石碑を見たことがあるのを覚えているだろうか。洒落で自分の葬式を出し、墓まで作った奇人である。中野三敏が『近世新畸人伝』で伝記を書いた。
     黒塗りの二階家は格子戸が美しい。そこに「鹿沼おひな様めぐり」の幟を立てている。旧家で所蔵している雛人形を一般に公開しているのだろう。二月七岡から三月三日まで、六十九か所で展示しているという。栃木市では重陽の節句(旧暦九月九日)に、旧家所蔵の雛人形を公開するイベントをやっていた。鹿沼は今まで見てきたように宿場の面影を残す家が多いから、古い雛人形はかなりあるのだろう。今年が七回目だからまだ新しいイベントである。
     それにしても、こういう旧家を保存するのは大変だ。私たちのような余所者は外観を見て喜ぶが、実際にその家に住んでいる人にとっては厄介であろう。観光客を呼びたい自治体はこういう家並みを残したいが、結局唯一の方法は、自治体が金を出して外観を修復し、内部は現代風に改造するしかないのではないか。文化の保存は微妙な問題で、人は快適な生活を営む権利がある。
     星宮神社。鹿沼市戸張町一八〇五番地。栃木県の他の星宮と同じく、祭神は磐裂(いわさく)神、根裂(ねさく)神であり、本地仏を虚空蔵菩薩とする。小さいながら覆殿の中の本殿は、彫刻が見事だ。いつものことではあるが、本殿壁面の彫刻に描かれる物語が分らないのが悔しい。
     松源寺には塩なめ地蔵が残されているだけだった。但し地蔵堂は新しく、彫刻もきれいに施されている。堂の外に塩の袋が三つ置かれていた。地蔵は天保年間(一八三〇~一八四四)の作で二メートルを超える石像だ。「回り込んでもお寺がないんですよ。」姫は下見で苦労したようだ。墓地の一角に、上部に如意輪観音を浮き彫りにした墓石型の十九夜塔があった。

     出発の時に二股に分かれていた道がこの辺で合流する。ということはこの辺りが鹿沼宿の外れになるか。「あそこに石があるんです。見たいですか?」見てみたい。二階建てのアパート二棟が直角に立つ、その内角のところに、屋根で覆って石碑がいくつか見えるのだ。堂のようなものも建っている。
     信号を二つ渡って寄ってみると、巳待供養、回国供養、それに観音のような石仏が二体あった。堂は地蔵堂である。「巳待ってなんですか。日にち、時間?」「月待ちの一種だと思うよ。巳の日だろうね。」巳は蛇だということから、弁天信仰と習合したようだ。また蛇は蚕を食う鼠の天敵であることから、養蚕農家の信仰も集めたと言う。回国供養塔は六十六部塔とも呼ばれる。全国六十六ヶ所の霊場に法華経を書写して納めるのが六十六部であり、それを成就した記念であろう。
     ここで、ダンディの携帯電話が鳴った。ヨッシーからで、少し遅れたので後ろを歩いているらしい。「それじゃここで待ってますよ。」「御成橋に行っています。」
     しかしその前に姫は、愛する夫のために酒を買わなければならない。麗しい夫婦愛。入った酒屋は「ますや」で、クリーニングの受付を兼業している。酒はたくさん並んでいるが、鹿沼には蔵元はないそうだ。「だけど、ここに鹿沼って貼ってあるよ。」「ラベルだけ貼らせてもらってるんです。」それは姫にとっては残念なことだ。「でもこのコーナーは全部、栃木県のお酒です。」私は栃木の酒には余り馴染みがない。
     「このラベルの文字は船村徹先生です。」酒は塩谷町の松井酒造「男の友情」である。「蜻蛉の得意分野だね。」船村徹は栃木県塩谷郡船生村(現塩谷町)の出身で、高野公男と組んで作った『別れの一本杉』(昭和三十年)で世に出た。しかし盟友高野は翌三十一年(一九五六)に二十六歳で亡くなった。最近はほとんど歌わないが、この歌は若い頃の私の十八番で、こんなところで思い出すとは思わなかった。
     ついでだから船村作曲で好きな歌を並べてみると、青木光一『柿の木坂の家』(石本美由起作詞)、島倉千代子『東京だよおっ母さん』(野村俊夫作詞)、北島三郎『なみだ船』(星野哲郎作詞)、ちあきなおみ『矢切の渡し』(石本美由起作詞)、ちあきなおみ『紅とんぼ』(吉田旺作詞)などである。そして以前にも言ったかも知れないが、『矢切の渡し』は細川たかしではなく、絶対にちあきなおみでなければいけない。
     銘柄は何だったか、姫は四合瓶を買った。華奢な体で酒を背負って歩くは大変である。「辛口だといいんですけどね。」「そうそう、酒は辛口に限りますよ」とロダンも同調する。桃太郎がいれば一升瓶を買ったのではなかろうか。

     御成橋の親柱の形は常夜灯を模しているのだろう。ここから街道は大きく右に曲がる。下を流れるのはかなり幅の広い黒川だ。「栃木市で思川と合流するんですよ。」オカチャンはこの辺りに詳しい。源流は日光市南部の山である。昨年九月の大水害のとき、この川も複数個所で堤防が決壊した。それがそのまま残っているのだろうか。橋の上から眺めると、上流側には傾いた屋根が見え、護岸工事の真最中だ。
     「あれが男体山ですね。」オカチャンの声で北を見ると、銀色に光る山が見える。カメラを向けたがうまく撮れただろうか。姫は今日は曇りで山は見えないだろうと自分で決めて、カメラは持ってこなかったと言う。さっきまでの薄曇りの空がかなり晴れ上がってきた。「写真が撮れたらメールでくださいね。」しかしスナフキンは「絶対無理だよ」と言い張る。男体山は日光二荒山である。
     「あの丘の上が不動堂なんです。」橋の東詰めに、十メートルもあるだろうか、崖の壁面にコンクリートの護岸を施して、不安定な格好で堂が建っている。暫く待っていると漸くダンディとヨッシーが追いついた。「北千住で、電車が行っちゃったんですよ。」これで八人になった。八犬士であろうか。犬坂毛野を女性とみれば平仄は合う。  下野成田不動尊。鹿沼市御成橋町二丁目二二四六番地。階段の赤い手摺には「参道」と書かれた札が掛けられている。途中に踊り場が設けられているが、階段はかなり急だ。姫は階段が苦手だから下で待つ。
     「フクジュソウだ」とオカチャンが声を上げた。登り切った境内の地面に黄色い花が咲いている。「こっちにもありますね」とヨッシーが目ざとく見つける。スナフキンとヨッシーがお参りしようとすると、中から男が出てきた。「ラッキョウ食いながら出てきたんだ」とは後でスナフキンが言っていた言葉だ。隣が自宅になっているようだ。この不動堂も彫刻が美しい。ここからは男体山がはっきり見える。

     しろがねの男体山や福寿草  蜻蛉

     不動尊の丘に沿って道は再び大きく左(北北西)に曲がっていく。十一時三十六分。そろそろまた腹が減ってきた。ロウバイがまだかなりの芳香を放っている。「ソシンですか?」中心まで同じ色だからソシンロウバイだ。杉並木が現れたが、すぐに途切れてしまうのでまだ本格的ではない。杉の葉がかなり茶色くなっている。赤松も少し混じっているような気がする。「そんなに古く見えないな。」確かに四百年も経っているとは思えないが、私には正確な判定はできない。
     「街道を挟んでお蕎麦屋さんと食堂があるんです。」姫が最初に足を向けたのは街道の東側の「きんた」である。鹿沼市御成橋町二丁目二一四一番地二。外の見本ケースを見ると、トンカツは千円を超えるが魚フライ定食が八百六十円と手頃だ。姫とスナフキンと私がこの店を選び、残りは街道の斜向かいにある蕎麦屋に向かった。十一時四十五分。十二時半に蕎麦屋の前で待ち合わせることになる。
     「懐かしいようなお店ですね。」割烹と名乗ってはいるが、ラーメン、トンカツ、フライ、カレーなんでもありの食堂である。「俺は魚フライ定食」。「分かりました。」姫はチキンカツ定食。スナフキンは「俺も魚フライ」と注文した。これで注文は終わっているのに、何故かおばさんはまだ傍に立ったままだ。「瓶ビールを一本。」安心したようにおばさんは引っ込む。壁のメニューを見ると「メガカツカレー」なんてものもやっている。三四人で分け合うものらしい。
     やがてビールのつまみのサービスの積りだろう、キムチの小皿を三つ持ってきた。申し訳ないが私と姫は遠慮する。「甘いのも辛いのもダメなんじゃ面倒臭いな。」辛さよりも、キムチはこの臭いが嫌なのだ。ビールを三人で飲んでいる間に、最初にチキンカツが出来上がり、魚フライも出てきた。「ひとつだけ?」どうやら、スナフキンの注文を聞き逃していたらしい。「さっき、ずっと待ってたのはそのためだったんですよ。」「済みません、すぐに作ります。」
     十分程で魚フライが出来上がった。魚とイカのフライが三つ、キャベツの盛りが多い。どんぶり飯の量も多くてかなり腹が膨れた。私とスナフキンがそうなのだから、姫は到底全部は食べきれない。味は普通である。
     私は小銭が足りなかったので、スナフキンに二百三十円を借りた(忘れないように記録しておくのだ)。街道を渡って蕎麦屋に行くと、既にみんなは店頭のベンチに座って日向ぼっこをしている。「並木藤」。鹿沼市御成橋町二丁目二一五三番地十。「美味しかったですよ」と口を揃える。それにしても「日本初特許・石打・真空ねりうち」とは何だろう。

     御影石打ちそばにこだわって十五年!
     当店考案の御影石そば打ち機が、特許を取得しました。さらに真空ねり機を使用することにより、手打ちよりも水分が三〇%多くなるため、茹で上がりが早く、そばの香りが逃げません。また、のど越しがよく、滑らかで手打ちに勝るそばです。
     石打ちは水分の蒸発・吸収を抑え、安定した品質の麺を造りだします。手打ちを超えた味とコシ、つるつるとした喉越しのそばをぜひご賞味ください。当店は北海道幌加内と鹿沼の玄そばを自家製粉しています。http://www.kanuma-kanko.jp/entry.shtml?1072

     ここでオカチャンが「鹿沼おもてなしガイド」というものを配ってくれた。中に地図があるのが嬉しい。これを見ると文挟まで五キロちょっとだろうか。およそ半分来たことになる。そして十二時三十二分に午後の部が始まる。「ここから先は何もないんです。」道端にはオオイヌノフグリが光っている。
     暫く歩いたところで、「アッ、地図を忘れた」とスナフキンが声を出した。「取ってくるから先に行っててくれよ。」ドクトルは武子工場団地の標識を見て悩む。「タケコって名前かな、地名かい?」地図を見ると、確かに武子という地名があるが読みは分らない。「タケコじゃなければブシかな?」
     日本ロマンチック街道ラリー地点まですぐ、の標識があった。ロマンチック街道は主に群馬県だと思っていたが、この辺りにもあるのだ。調べてみると、本来は上田から小諸、軽井沢、沼田を経て日光に至る街道に対して名づけられた。それに、栃木県では今市市(現日光市)、鹿沼市、宇都宮市も参加しているのだそうだ。日光例幣使そば街道の表示も見える。「そば街道って言うのがおかしいですね。」
     少し行くと街道の東側に物産店(地元の野菜を売る)が現れた。建物の北側部分は蕎麦屋になっているが、店は閉まっている。「そこで休憩しましょう。」鹿沼例幣使物産直売所の店の名前は「たけしの里」である。鹿沼市武子一五三六番地。これだ。「ドクトル、これですよ。」ここがロマンチック街道のラリーポイントになっている。
     ヨッシーは買い物が好きだ。今日もコンニャクを大量に買っている。鹿沼はコンニャクでも有名なのだ。「コンニャクといえば群馬ですよね?」「山間部でコメが作れないから、小麦とかコンニャクを作ったんじゃないか。」
     コンニャク芋の生産高では群馬県が圧倒的で、平成二十五年の統計では六万トンを超えてシェア九十一・九パーセントにも上る。遥かに量は少ないが栃木県が第二位で二千百三十トン、第三位の茨城県が六百九十トンである。
     今日初めて知ったことだが、鹿沼は蕎麦、麻、ホウキモロコシ、コンニャクの産地であった。米が獲れない地域だが、鹿沼土という特有な地質によって、江戸時代から商品作物の生産に方向転換して成功したのであろう。
     私は小遣いが赤字だから何も買わずにトイレを借りる。トイレは和式だ。スナフキンも戻ってきた。「走ったから暑くなった」と汗を拭いている。外に出てベンチで休憩すると、いろんな人から菓子が配られるのは有難いことだ。私はいつもように煎餅だけ戴く。
     檻の中に熊の剥製がいた。正面に回ると、口のあたりはボロボロになっている。この辺で獲れたクマだろうか。
     街道のあちこちにはビニールハウスが広がっている。「鹿沼土ですね。後ろに土の山がある。」掘った土をビニールハウスで乾燥させるのだろう。ウィキペディアによれば鹿沼土とは農業や園芸に使われる栃木県鹿沼市産出の軽石の総称であり、通気性と保湿性が高い。酸性が強いのでサツキや東洋ランの栽培に使われる。赤城山の火山灰土がこの辺りに降り積もって堆積したのだという。地表面には黒土、その下に関東ローム層の赤土、その下に鹿沼土があるらしい。
     触ってみると、非常に細かな粒である。これが軽石なのか。「これは土産に買って帰れないな。」園芸用品店ならどこでも売っているだろう。
     その合間を縫うように杉並木が残る。雑木林には先日の雪がまだ溶けずに残っている。「梅が咲いてますね。」
     今度は鹿沼こんにゃく製造販売中條商店で休憩だ。鹿沼市富岡四八一番地十。明治四十年創業の店である。スナフキンは柚子入りの刺身コンニャクを買ったようだ。ヨッシーはさっきコンニャクを買ったばかりだ。「タレがありますよ。」姫はヨッシーに注意を促すが、「うちに金山寺味噌がありますから」とヨッシーは笑う。私は刺身コンニャクは積極的に食いたいとは思わない。店の奥ではコンニャクの製造をしているようで、窓からそれを眺めることができる。今日のロダンはアリバイを買わないようだ。

     蒟蒻を買ふ街道に残り雪  蜻蛉

     空が少し暗くなって来て、雨が一粒落ちて来た。「早く行きましょう。」しかし雨はそれ以上降ることもなく、すぐに止んだ。
     そこから百メートルちょっと行けば、日光壬生道杉並木の寄進碑だ。寛永二(一六二五)、大河内松平正綱(相模国玉縄藩初代藩主)が熊野杉の苗を植えたのが始まりで、二十四年かけて造られた並木は日光に入る街道(日光街道、例幣使街道、会津西街道)合わせて延べ約三十五キロに及ぶという。そして慶安元年(一六四八)、神橋畔と三つの街道筋の日光神領に入る境界、合わせて四か所に、正綱の嫡子・正信によって並木寄進碑が建てられた。碑文は摩耗していて、とても読めない。
     正綱の時代に二万四千三百本植えられた杉は、現在では一万三千本強に減ってしまった。そのうち、例幣使街道にあるのが六千四百本弱という。そして年間約百本は倒木、枯死によって失われる。これに対する対策として、栃木県では杉並木オーナー制度を実施している。杉一本が一千万円で、これを保護対策に充てるというものだ。現在、この制度のオーナーは四百名ほどになるらしい。ほとんどが法人だろう。
     案内板には今市市とあるが、今市市は平成十八年(二〇〇六)に日光市に合併した。ここから日光市に入るのだ。並木はトンネルのように続いている。
     二時。「二時三十九分に間に合うかも知れません。」それを逃せば次は三時四十分だ。「何もないところで一時間も待ちたくないですよね。ホントに何もないんですから。」地図を見れば、ここから二キロ程だろうか。充分間に合うだろう。
     車道は怖くて歩けないから、街道の西側の土手に上がって、並木と堀に挟まれた間を歩く。並木から街道は一段低くなっていて、土手が崩れ落ちるのを防ぐため、街道との境目を竹のようなもので覆っている。「あれがあるから、街道から土手に避難できないんですよ。」  土手は杉の落ち葉で覆われ、部分的に木道を敷いているが、腐って割れているので却って歩きにくい。街道の東側には杉林が広がり、中に竹林も見える。そのすぐ東にJR日光線が走っている筈だ。左手の堀の向こう側にはクワ畑や民家が点在している。
     「これが小倉の一里塚です。」非常に小さな塚が、かろうじて街道の両側に残っている。表土が崩れかかっているので、数年放置すれば跡形もなくなってしまうだろう。案内板には「江戸日本橋より小山壬生を経て凡二十六里」とあるが、姫の案内には江戸から二十九番目だと書かれている。日光街道から分岐する喜沢が江戸から二十一里であった。壬生通りに入って飯塚、壬生、稲葉、赤塚、奈佐原、鹿沼、富岡、小倉と数えると二十九里で間違いない。
     姫はどんどん先を急ぐ。ドクトルが少し遅れかけている。「みんなの足手まといになっちゃうな。」大丈夫だ。スナフキンのスマホでは残り十分と出ている。今は二時二十分、ちょうどよいではないか。しかし先頭は走るように行く。オカチャンが振り向いて、「パスモを取り出せるようにしておいてください」と声をかけてくる。そんなに急がなくても大丈夫なのに。やっと右側に二階建ての建造物が見えてきた。「あれだろう。」
     街道を渡れば文挟駅の西口である。無人駅だ。階段を上って対面式ホームの向こうに出る。「文挟ってどういう意味かな?」「棒の先に手紙を挟んで尊貴な相手に差し出す。その棒を文挟って言うよ。」とは言ったものの、しかしそれが何故この地名になっているのかはよく分らない。例幣使街道と何かつながりがあるのだろうか。しかしこの推定は違っていて、中世の頃からある地名らしい。「地名は文学的なのに、何もありませんね」と姫が笑う。
     二時三十分。私の万歩計は一万七千歩、ロダンのは一万六千歩。これはおかしい。いつも私の万歩計はみんなより少なくなるのが当たり前なので、スナフキンの万歩計を採用して二万歩と決めた。十二キロというところだろう。

     電車が混んでいるのは、日光からの戻り時間にあたるからだろうか。外人数人が大きなスーツケースを足の前に置いているので邪魔くさい。高年齢者が三人、その向かいにオカチャン、少し離れて姫、ロダン、私。スナフキンは隣の車両に一人で座った。
     宇都宮で降りて快速熱海行きに乗り換える。「乗り換えるよ」と言った時、ロダンは少し変な顔をした。これは日光線で、宇都宮が終点だと言うことをうっかりしていたらしい。
     オカチャンは次の電車を待つらしい。快速も混んでいて、高齢者三人が一か所に、隣の車両で姫とロダン、少し離れて私とスナフキンが向い合せという配置で席を確保した。本を取り出したがすぐに眠くなってくる。
     大宮に着いたのは四時二十分頃だ。「ドクトルが心配だったんですが、栗橋で降りたから大丈夫ですね。」姫が確認していた。ダンディとヨッシーはそのまま乗っていったのだろうか。大宮で降りた姫、スナフキン、ロダン、蜻蛉の四人はいつもの庄屋に入る。私はまだ昼飯が腹に残っていて、突出しのポテトサラダが少し重い。昼に蕎麦を食ったロダンは元気だ。ロダンが注文したイワシの刺身はまだ仕入れていないのでアジの刺身に変った。
     そろそろ六月の日光宿泊も考えなければならず、姫は一所懸命宿を調べてくれている。何人が泊まれるだろうか。ロダンは、まだ決められないと言う。「日光に泊まったのは小学校の修学旅行ですよ。」私もそうだ。水戸のロダンもそうだと言うし、関東の小学校は大抵そうではないだろうか。「秋田から日光に来たのか?」「その頃は熊谷に住んでた。」バスの中で『高校三年生』を合唱していたことしか覚えていない。名所旧跡は大人になってこそ面白く感じるので、修学旅行で名所旧跡を訪ねても、余り意義はないように思う。
     ビールの後は何にしようか。「一刻者」にしようかと思ったが、それは五百ミリで、七百二十ミリの「黒霧島」より高い。「それじゃクロキリにしよう。」飲み始めれば腹は次第に納まってくる。「ソーセージを頼んでいいですか?」今日はロダンも快調でわりに早く黒霧島はなくなった。「もう一本どうですか。」飲むのは久し振りだと言う姫も元気だがそんなに飲めないだろう。ぬる燗を二合頼んで、それが空になったところでお開きにする。一人三千円なり。

    蜻蛉