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    日光街道 其の十六 例幣使街道杉並木(文挟宿・板橋宿・今市宿)
    平成二十八年四月九日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2016.04.15

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     先週末には小畔川の土手や、団地を通るバス通りの桜並木が丁度見頃を迎えていた。桜並木は団地が造成された三十五六年前に植えられたもので、私が住み始めた頃にはまだ幹も細かった。それが今では道の両側から伸びる枝で花のトンネルを作る程になって、この界隈では桜の名所のひとつになっている。
     先週の金曜日は風もなく穏やかな日で、こころを迎えに行って近所の伊勢原公園に花見に出かけた。団地と道路を挟む調整池はいつからか「小畔水鳥の郷公園」と名付けられた。数年前に大量のハスの花を初めて見て驚いたものだが、今は池の三分の一程を枯れたハスの茎が埋め、水面には鴨が泳いでいる。「トリサンいるかな?」「イウ。」小畔川を渡って公園まで、こころと手を繋いで歩いても団地から十分かからない。
     犬を連れて散歩している人とすれ違うと、その度に「ワンワン」と指差し、「バイバイ」と手を振る。園内の芝生にはそこら中でシートを敷いて飲み食いしており、その隙間を縫って小学生がサッカーボールを蹴っている。まだ春休みだから子供たちも多い。「今日は小さい子供が多いから危ない。サッカーはやめろ」と諭すと「怒られた」と五六人の仲間に向って報告する。「怒ったんじゃないぞ。」「分かりました、注意です。」小学校の五六年生だろうか。
     公園の池に今日は鳥が見えず、噴水だけが上がっている。「いないね。」「ナーイ。」ざわざわしている公園を出て、川沿いの土手に行ってみた。何種類かの桜が遠くまでグラデーションを作って美しいし、余り人が出ていない。「こっちの方がきれいですよね」と嫁も呟く。
     「これ、なんですか?先日見て、カワイイと思ってたんですよ。」「これはヒメオドリコソウ。」それにホトケノザ、ハナダイコン(ムラサキハナナ)等を嫁に教えていると、「昔のお父さんはヒマワリとチューリップしか知らなかったのにね」と妻が笑う。十数年、私も多少は学習してきたのである。
     家に戻って昼飯を食べ終わった後、「ジイジに歌ってあげて」という嫁の言葉で、こころは「アパバーデードゥチュー」と何度も繰り返す。Happy birthday to youの積りなのだ。少し早いが、明日十日が私の六十五歳の誕生日で、年金申請書と介護保険証なんてものが送られてきていた。これから前期高齢者と呼ばれるのである。
     一昨日からの雨と風でソメイヨシノもかなり散ってしまったが、大学に行く途中の星宮神社裏の土手にはクサイチゴの白い花が咲いた。この星宮神社は、栃木県でよく見かける磐裂・根裂を祭神とするものとは違って北斗妙見社の系統である。二年前に植えられたキャンパスの細いハナミズキも、薄い緑色のガクを開き始めている。

     今日は旧暦三月三日。「清明」の次候「鴻雁北(こうがんかえる)」。万物ここに至りて皆潔斎にして清明なり。その言葉通り、今日は爽やかな一日になりそうだ。少し暑くなるかも知れないので、薄手のシャツにいつもの黒のベストにした。
     私たちの日光街道歩きも、いよいよ大詰めに来た。鶴ヶ島駅七時三十七分発に乗るため、いつもより一時間近く早く朝飯を食った。たぶん途中で腹が減るので、おにぎりを一個だけ買って電車に乗る。川越を七時五十分に出て、大宮に着いてホームに降りると、階段の裏側からコーヒーを片手にしたスナフキンがやって来るのと目が合った。「これしかないだろう?」「そう、これで九時五十五分に着くんだ。」あんみつ姫の案内では、集合は十時三十分となっていたが、何かの勘違いだろう。八時二十七分発を逃すと次は文挟到着が十一時を過ぎる。電車を待つ間、買ってきたおにぎりを食べる。
     二十年程前には、宇都宮に出張する時は迷うことなく新幹線を利用したのに、今の私の財布の状態ではそんな贅沢はできない。当然在来線で行くことになるが、ラビット快速は結構混んでいる。ちょうど向かい合わせで空いている席に座り込むと、隣の女性が「代わりましょう」と席を移ってくれた。何が何でもスナフキンと隣に座りたい訳でもないのだが、好意は有難い。
     座席に着くとすぐに、彼は『巨人軍の巨人 馬場正平』という本を開いて見せてくれる。巨人症と戦い続けたジャイアント馬場のジャイアンツのピッチャー時代(二軍だけれど)の伝記らしい。私は巨人症には不案内だが、身長二メートル以上というのが目安になるようで、馬場正平の身長は二〇九センチあった。江戸時代だったら相撲取りになるしかなかった。
     「脳の下垂体前葉の成長ホルモン分泌腺細胞がその機能を保ったまま腫瘍化し、成長ホルモンが過剰に産生され、手足や内臓、顔の一部分が肥大する病気」(ウィキペディア)である。「なかなか読書家だったんだ。」それは聞いたことがあるが、それにしても、こんなものまで買うのだからスナフキンの家の本棚は大変なことになっているのではないか。
     私は臼井吉見『安曇野』の第三巻を取り出した。リフォームのために本棚を整理する必要があって、このところ休日は殆どその作業にかかり、五百冊以上処分した。残すものを段ボール四十箱に詰めてもまだ終点が見えてこない。その最中に発掘したのである。
     先月の江戸歩きで明治女学校跡地を訪れて、相馬黒光の名を思い出したからだが、内容はすっかり忘れていた。読み返してみると面白い。新宿中村屋を舞台に、相馬愛蔵・黒光夫妻を巡る木下尚江、田中正造、碌山荻原守衛、中村彝、中原悌二郎などの交流を描く大作だ。
     「俺も持ってるよ。文庫本じゃなくて単行本で。」それならかなり早い読者だ。単行本が発売されたのは昭和四十七年、私が持っているちくま文庫版は昭和六十二年のものである。四十七年ならば大学三年で、臼井吉見の小説なんてバカにしていたのかも知れない。臼井は編集者であり、文芸批評家だったから。
     第三巻からは大正に入り、インドの革命家ラス・ビハリ・ボース(相馬家の長女俊子と結婚)、ボースを匿った頭山満、ウクライナの盲目の放浪詩人ワシリー・エロシェンコ等が登場する。臼井は中村屋をダシに日本近代史を語っているのだ。

     宇都宮には定刻の九時二十九分に着いた。階段を上ってスナフキンが改札口の方に行きそうになる。「こっちだよ。」日光線は五番ホームで、乗り換え時間は三分しかない。「誰もいないな。」停車している電車の中は既に乗客がいっぱいだ。座席に座っている姫の後ろ姿が見えたが、空いている車両はないかと先頭車両まで行ってみた。結局座れない。「これに乗るしかないのに、他には誰も来ないのかな。床に大きなスーツケースやリュックを置く外人が多い。アジア系の人は分らないが、白人が多いことは確かだ。
     九時三十二分発、立ちっ放しで九時五十五分に文挟駅に着いた。ドアは自動では開いてくれず、脇にあるボタンを押さなければならない。二千百九円也。「降りるのは俺たちだけだろうな。」しかし他にも数人が降りたようだ。
     「なんだ、乗っていたんだな。」出口は後ろの方で、その辺りの車両から仲間が降りてきた。これで今回の参加者は、あんみつ姫、ダンディ、ヨッシー、オカチャン、スナフキン、ロダン、蜻蛉の七人に決まった。桃太郎からは欠席すると姫にメールが入った。講釈師は検査入院のために欠席だとダンディが報告する。「最終回は必ず来るって言ってました。」
     この駅はJR日光線で唯一の無人駅である。ウィキペディアによると、一日の乗降客は二〇〇九年の統計で僅かに二百六十三人しかいない。駅員を配置するにはあまりにも少なすぎるのだ。ホリデーパスを使うスナフキンは精算しなければならないのだが、駅員がいなければどうしたら良いか。そのためかどうか知らないが、乗車証明書というものが置いてあり、それを帰りに今市の駅で提示することになるらしい。私はこういう「お得な」切符の仕組みが良く分っていない。
     トイレは一つしかないので時間がかかる。今日のコースは杉並木の中を歩き続けるのでトイレがない。姫の事前調査では、おそらくコンビニも殆どない。私が済ませて改札を出ると、オカチャンが見知らぬオバサンと親しげに話をしている。「オカチャンの知り合いなの?」「違います、山菜採りだって。穴場があるらしいんですね。私も好きなもんで、ついつい話し込んでしまいましたよ。」
     「お昼がどこで食べられるか分からないんです。」姫はいろいろ調べた挙句、ネットでヒットした十石坂の蕎麦屋「十石そば処」に連絡を試みているが、何度かけても繋がらないと言う。「最悪、どこかでお弁当を買うことになるかも知れません。」取り敢えず行ってみるしかないだろう。

     石垣で保護された杉並木の、街道の西側の土手の遊歩道を歩く。向かいの東側の土手の道路に接する下部は、土が流れ出さないようにするためだろう、割竹のようなもので保護されている。枯れた杉の落ち葉の中から黄色い花が顔を覗かせているのはヤマブキだ。足元は土の上に杉落ち葉が敷き詰められ、ふかふかして足に優しい。
     十五分程で杉並木が尽きかけた所に延命地蔵の祠があった。蓮台に載った座像だが、赤い服と赤い頭巾を纏っているので全体像が見えない。祠の壁には千社札が数枚貼られ、昭和三十四年七月吉日「延命地蔵尊」と書かれた額が掲げられている。「昭和三十四年って?」ロダンが不思議そうな声を出し、「祠を建てた時でしょうね」と姫が応える。
     「あそこに書いてある。」道路の向い側に、ここまでが「保護地域」ここからが「普通地域」の矢印を示した立札が立っているのだ。「普通地域」というのもおかしな言葉だが、ここで杉並木がいったん途切れて、宿場が始まることになる。
     この延命地蔵は文挟宿の入り口を守っているのである。村はずれの地蔵であり、歌謡曲しか知らず感覚の古い私はこんな歌を思い浮かべてしまう。

    泣けた泣けた
    こらえきれずに泣けたっけ
    あの娘と別れた哀しさに
    山の懸巣も啼いていた
    一本杉の
    石の地蔵さんのヨー あの涙
    (春日八郎『別れの一本杉』高野公男作詞・船村徹作曲、昭和三十年)

    指をまるめて のぞいたら
    黙ってみんな 泣いていた
    日暮れの空の その向こう
    さようなら  呼べば遠くでさようなら
    おさげと花と 地蔵さんと
    (三橋美智也『おさげと花と地蔵さんと』東条寿三郎作詞・細川潤一作曲、三十二年)

     文挾宿として家並みが整えられたのは、東照宮造営に伴って元和三(一六一七)年に壬生通りが整備された時である。その当時にはまだ杉並木なんかなく、ごく普通の寒村だっただろう。
     天保十四年(一八四三)の『壬生通宿村台帳』によれば、江戸から二十九里三十二町余(百十七キロ強)、宿内町並み三町十四間(約三百五十メートル)、人家は三十二軒、百五十六人と小さな宿場だった。小さいながら本陣一軒、脇本陣二軒があり、旅籠も十四軒あった。宿建人馬は、通常二十五人二十五匹のところ、十三人十三匹と少ない。板橋宿と合わせてひとつの宿の扱いとされ、板橋宿との継立はなかった。
     さっきまで足元が柔らかだったので、アスファルトになって少し足の感覚がおかい。宿場に入ったとは言え、その面影は殆ど残っていない。宇都宮今市線(県道70号)が左に分岐して行く。その先のJA落合の場所には旅籠があったらしい。
     左に「日光ろばたづけ製造本舗」という店があった。日光市文挾町四三八番地。ろばた漬けとは何だろう。店のホームページを見て、たまり醤油に漬けたものであることは分かったが、それと「ろばた」(炉辺)との関係はさっぱり分らない。ここが本店で、そのほか宇都宮など五店舗を経営しているようだ。
     この向かいにある田辺商店が問屋だったらしいのだが、気付かなかった。街道には蔵のある民家も建ち、僅かに街道の面影が感じられるだろうか。
     そして日光二荒山神社に突き当たる。街道が神社の左に沿ってカーブしていて、前方から急に車が来るから横断には注意しなければならない。
     一の鳥居を潜ると、色褪せた両部鳥居が立っている。狛犬は慶応三年のものらしい。社殿の右隣には、壁が取り払われて骨組みだけになった摂社がある。建て替えるのだろうか。この境内に江戸時代末期に建てられた郷倉(ごうぐら)が残っているのだ。間口三間、奥行二間。板壁を切妻屋根で覆った簡素なものだ。

     江戸時代の元禄、天明、天保、大飢饉で、日光神領の村々は餓死者や倒産の家が多発した。このため村民は協同で郷倉を建て不作の時に困らないように貯穀した。この文挟宿郷倉は江戸末期に栗材でしっかりと建てられたもので、当時の稗も発見されている。農民共済の実をあげたこの郷倉は、わずかに残っている貴重な建物である。(日光市教育委員会)

     慶応年間の飢饉には、板橋・文挾宿等九ケ村の飢民が百十九石を借り出して飢えを免れたという。郷倉は飢饉対策の貸籾の備蓄倉庫として全国的に建てられたが、実際に見たのは、私は初めてのことだ。
     郷倉は、元々は山崎闇斎が朱子の社倉制度を紹介したことに始まるようだ。義倉とも呼ばれる。厳密に言えば、宋では行政が作るものを義倉、民間が主体に作るものを社倉と言うが、日本では区分が曖昧で混同されている。
     闇斎の紹介によって、承応四年・明暦元年(一六五五)の飢饉に際して会津藩の保科正之が初めて導入した。保科正之は熱烈な朱子学の信奉者で、山崎闇斎(垂加神道)の影響を強く受けて神儒一致を主張した人物でもある。飢饉だけではなく、不時の災害の被災者救済、救貧、新田開発、土木工事への籾の貸出を目的として、通常は二割の利子を取るのだが、飢饉の場合は利子の返済を猶予した。
     普通の年でも、年貢を納めた残りの米で一年を食いつなぐには足りない貧農がいる。彼らは社倉から米を借り、翌年の年貢米で利子も含めて返済するのだが、当然、借りる米の量は毎年増え続けていく。江戸初期の自作農はやがて小作に落ちぶれ、階層分化が広まっていくのだが、これは別の話になる。
     この制度は寛政の改革で奨励され、全国に広まった。江戸時代は全体を通して「飢饉の時代」と呼んでも良い程、飢饉が多かった。地球規模での寒冷化が一つの原因だが、急激な新田開発のための森林破壊による洪水も大きな要因になっている。日本列島改造は江戸時代に始まるのである。

     文挟宿はここで終わり、神社の左を回り込むように街道が続き、再び「特別保護地域」の杉並木が始まる。暫くは街道東側の車道の端に白線を引いた部分を歩く。大型トラックがやってくると少し怖い。二三分歩いて再び西側の並木の土手に入ることができた。
     地面には杉の細い枝が無数に落ちていて、踏むと時々跳ね返ってくる。幹をブルーシートで覆った大木もあって、並木の杉はかなり傷んでいることが分る。車道は土手から二メートル以上も下を走る。「かなり掘り下げたんだね。」
     突然遊歩道の脇にクリーニング店が出現した。「こんなところで客が来るのか。」「おかしいね。」下を通る街道には駐車スペースもない。しかし左の土手下は住宅地だった。生活用の道路は下にあるのだろう。
     やがて木道になった。と言っても何かの樹脂のようで、足元が柔らかい。杉の根を保護するためだろうか。遊歩道が少し広くなった所に、岩見重蔵の碑が建っている。「岩見重太郎の関係ですかね。」ロダンはこういう講談種を良く知っている。岩見重太郎と言っても、今どきの連中は知らないだろうね。
     岩見重太郎の狒々退治なんて、小学校の二年生の頃に講談社が立川文庫や講談を子供向けにアレンジした時代小説シリーズで知った。脚の骨を骨折して一か月近く入院していた間、母親が毎日新しい本を届けてくれたのだが、このシリーズで真田十勇士や由比正雪、忠臣蔵外伝、加賀騒動、鍋島藩の化け猫騒動、桜田門外の変、幕末剣豪伝なんかも読んだ。
     岩見重太郎は大阪の陣では薄田隼人正を名乗ったが、武将としては評判が悪い。後藤又兵衛の戦死は薄田の遅延が原因だとされている。しかし碑の裏側を見るとこんなこととは全く関係がない。岩見重蔵とは観光会社の関係者らしい。
     そのすぐ隣に立つ背の高い石碑が分らない。真ん中より少し上の辺りで折れて修復した跡がある。「地震でしょうか。」「でもきれいに修復してますね。」ロダンが解読しようとしても分らない。文字の末尾は「太子」だろうか。後で写真を確認すると「聖徳太子」のように見える。説明が全くないので、例幣使街道や杉並木とどんな関係があるのか不明だが、これが「聖徳太子」なら思いつくことがある。中世から近世にかけて、太子信仰を担った中心は木工や大工たちであった。
     聖徳太子は四天王寺や法隆寺などの巨大建築に関わり諸職を定めたという伝説から来たもので、聖徳太子の忌日とされる二月二十日は太子講の日と決められた。もしかしたら東照宮建築に携わった職人たちが建てたものかも知れない。
     街道を横切る道路の角にガソリンスタンドENEOSがある。土手から降り、道路を横断して再び土手に上がる。
     土手の左は広く、細い杉が疎らに生えている。新しく植えたものだろうか。「オカチャン、スミレですよ」と姫から声がかかる。タチツボスミレだろう。スナフキンも「葉っぱがハート形なのが一般的なやつだって言っていたな」と言う。スミレにはずいぶんたくさんの種類があるのだが、私も自信をもって言えるのはタチツボスミレしかない。シダや笹竹のようなものも目立ってきた。
     「牧場です。」街道の東側に、杉並木の間から黒い牛が数頭見えた。「おいしそうだな。」生きた牛を遠目で見て旨そうだと言うのは、聊か異常な感覚ではあるまいか。並木の間から、遠く桜の大木が見える。「今が満開ですね。」やはり緯度が違うのだろう。「北関東ではまだ三分咲きなんですよ」とオカチャンが教えてくれる。それに高度も少し高くなっているのではなかろうか。「あそこもきれいですよ。」杉が切り倒された場所もある。
     土手が尽きて車道に降りると、「レストラン例幣使」の看板を出す建物があったが、廃屋である。一時間ちょっと歩いたか。この辺の住所表示は小代だ。少し腹が減ってきたが店らしきものは見えない。スナフキンが、姫が言っていた蕎麦屋に電話するとすぐに通じた。「やっているってさ。」取り敢えず昼食はなんとかなりそうだ。
     街道の東側のガードレールで区切られた歩道を行くと、杉の根元に石碑が立っているが文字はかなり摩耗している。「三大ですかね。」ロダンが悩む。私はその下に三行ある一番下の文字「村」「宿」「村」しか判読できなかった。これは「三本石」と呼ばれるもので、上部中央に「三本石」、下部に「小代(こしろ)村」「板橋宿」「明神村」と並んで彫られているのである。
     この三村の境界を定めるため、代表が出発して落ち合った場所を境にすることになったが、板橋宿の代表は寝過ごしてしまい、小代、明神両村の代表者が板橋宿の代表者の自宅まで到達した。それがこの場所だという伝説が残されている。寝過ごしたなんていうのは信用できない。いずれにしろ、ここまでが小代村、ここから板橋宿、西が明神村ということになる。
     その隣には文政八年(一八二五)の十九夜塔(如意輪観音)の祠があって、花が供えられている。如意輪観音は一般のものと違って、殆んど首を傾げずに真っ直ぐに向いている。首を傾げて頬杖をつくから思惟(しゆい)像だと思うのだけれど。
     その左が板橋の一里塚だ。少し土が盛り上がっているのがその痕跡である。木の標識は「一里塚」の「塚」の文字が埋もれている。説明には江戸から二十七里とある。これは前回の小倉の一里塚でも調べたことだが、どう数えているのか分からない。姫の案内資料にも書いてあるように、実際には三十里になる筈だ。
     ここから板橋宿に入るので、また暫くは杉並木とはお別れだ。眼科、ビニールハウスの苗代がある。庭先や塀際にシバザクラを植えている家が多い。白やピンクがきれいだ。

     「そこにランチって書いてある。」看板には「食楽酒楽むらかみ」modern kitchen murakamiとある。板橋の交差点の少し手前で、地図を見ると、スナフキンが確認した蕎麦屋まではまだ三十分程かかりそうだ。「ここでいいじゃないか。」日光市板橋一四一二番地。店構えが洒落ている。「蕎麦屋に予約したんじゃないのか?」「予約はしてないよ。」「それなら大丈夫だ。」十一時半、時間もちょうど良い。
     「暑いですね、汗かいちゃいました。」「一度も休憩しなかったから疲れたよ。」店内はきれいでまだ新しそうに見える。グーグルの地図では別の店になっているから、代替わりして間がないのかも知れない。メニューを見ると、手打ちうどんの他にステーキも自慢の店のようだ。
     小上がりのテーブルには角瓶などのウィスキーが並べてあり、夜は居酒屋になると分る。姫とスナフキンは鍋焼きうどん、ヨッシーとロダンは焼うどん、オカチャンは唐揚げ定食、ダンディと私が博多モツ煮込み定食(八百六十円)を選んだ。
     「どちらからいらっしゃったんですか?」愛想の良い、しかし本当は物静かなのだろうと思われる若い女将が訊いてくる。「主に埼玉県から。」正確に言えば埼玉が五人、東京が二人だ。「先日も東京の方から、やっぱりウォーキングの人が。十四五人かな、いらっしゃったんですよ。」下見で予約した人が、本当に来てくれたのだと嬉しそうに話す。
     味を正確に説明することなんかできないが、紅生姜を載せたモツ煮込みは白濁したスープがすっきりした上品な味で、いつもの居酒屋のモツ煮込みとは全然違う。モツも柔らかい。これが博多風なのか。それにご飯が旨い。ロダンやヨッシーはうどんも旨かったと口にする。「手打ちなんですよ。」焼うどんに味噌汁がついてくるのは珍しいが、これもサービスだろう。
     「今週、私は六十三歳になったんですよ。やっと蜻蛉と一歳違いに追いついた。」ロダンが言う。「俺は明日で六十五になるよ。」「残念、一瞬でまた二歳違いになってしまった。」「私は五月です。」ヨッシーの言葉に「七十八歳?」と確認すると「そうですよ」と答える。それにしては元気な人だ。ヨッシーは仲間内で一番体力がある。ダンディ、講釈師、隊長も同い年なのだから茫洋としてくる。
     急にクシャミと鼻水が止まらなくなったスナフキンのために、女将がティッシュペーパーの箱を渡してくれる。花粉症が発症したのではないか。そしてアイスコーヒーとウーロン茶が配られる。これは最初からランチにつくと言われていたが、意外なことにご主人がアイスクリームのようなものも配ってくれる。これは何だろう。「ヨーグルトのシャーベットです。」甘くはないのか。ヨッシーに訊いてみると「そんなに甘すぎない。さっぱりしますよ」というので、それでは私も挑戦してみるか。なるほど、ほんのりした甘さの中に酸味があって口内が爽やかになる。
     「蜻蛉はこれなら食べられるのかい?」ダンディの声に若女将が不思議そうな顔をする。「この人は甘いものはダメなの。」「煎餅しか食わないからね。」「カラダが受け付けないんですか?」受け付けない訳ではないが、甘いものは旨いと感じないので基本的に食べない。これも普通のアイスクリームだったら手を付けなかっただろう。それにしても、こんなサービスをしていては儲けが出ないのではないかと心配になる。
     「道の駅には行きますか?」「船村徹の?」「そうです。」オカチャンは去年、その船村徹記念館のミュージアムで、カラオケの発表会に出場したと言う。厨房からご主人が「○○先生の?」と声をかける。ご主人も関係者なのだろうか。「いえ、私の所は宇都宮の△△先生です。」宇都宮の△△先生が大宮のカルチャースクールの講師をしていて、オカチャンはそこに通っているのである。
     それでは出発しようか。オカチャンはポイントカードを貰った。「人数分、つけてありますから。」オカチャンはまた来るだろう。「写真を撮りましょうか?」女将さんの声で店の外に出る。「店の名前が分る方がいいよな、どこにしようか。」「この看板を持ってください。」「Open」と記され、営業中を示す幅七八十センチ程の横長の看板を外してくれる。「じゃ、私が持ちますよ」とオカチャンが持ってしゃがみ、全員が並ぶと女将さんが撮ってくれた。次は女将さんを真ん中にして私が撮る。「送ってくださいね。」「お店の住所は?」最初に彼女が持ってきたパンフレットには住所がなく、結局名刺を貰った。
     大手町から日光御成街道、幸手から日光街道、鹿沼から日光例幣使街道と歩き続けて二年半で十六回、こんな店は初めてだった。日光例幣使街道を歩く人には是非この店で食事をするよう薦める。

     爛漫の春街道にもてなされ  蜻蛉

     十二時十五分。目的地は今市である。曾良が「板橋ヨリ今市ヘ弐リ」と書いてある通り、地図を見てもざっと四キロだ。
     「あれ、珍しいよ。」板橋交差点の手前の角には永楽屋という店があった。日光市板橋一三七五番地一。店の前には朱塗りの明神鳥居が二基置かれているのだ。鳥居を製造販売する店というのは初めて見る。
     ホームページを見ると、日光産の杉を使ったもので、笠木の高さ一九二センチ、幅一二一センチの最も安いものが定価八万八千円である。意外に安いと思うべきだろうか。しかし誰が買うのか。高いもので二十三万五千円。これが神明型になると木製はなく塩ビ製になって十三万から十五万円である。
     道路を渡って向かいにあるのが、高野山真言宗・福生(ふくしょう)寺だ。日光市板橋一三六六番地。桜が咲いている。「あっちから入るのか?」右に曲がって栖克神社に上る石段の脇から入ったが、ここは正しい入り口ではなかった。本来、街道を真っ直ぐに進めば正門があるのである。敷地をきれいな小川が流れている。その門のそばに本多正盛の墓がある。日光で本多といえば、私は例の宇都宮釣天井事件の本多正純を連想してしまったが、全く関係がなかった。徳川十六神将の一人内藤正成の三男で、本多忠信の養子となった人物らしい。
     元和二年(一六一六)、東照宮造営の副奉行(墓には「東照宮造廟少監」とある)の職にあり、同僚の山城宮内と争論の挙句、山内を刀の鞘で打ち据えた。恥じた山内は日光山で自害した。元和二年と言えばまだ前年(慶長二十年)の大坂夏の陣の余燼が燻っている頃で、武将たちの気も荒かっただろう。正盛もまた工事完成を見届けた後、妻の妹の嫁ぎ先であった松平成重の板橋城下に至って自害したと言う。大切な工事で争論を起こした責任を取ったのだろうが、場所を選んだ基準が分らない。中世以来の喧嘩両成敗の慣習法も生きていた筈だから、周囲の視線もあったに違いない。墓の上を桜の枝が覆っている。
     地図を見ると、ここから南東に直線距離で四五百メートルほどの所に城山がある。板橋城のあった山だ。永正年間(一五〇四~一五二〇)に日光山の防衛拠点として日光山・遊城坊によって築かれたという。後、天文年間(一五三二~一五五五)、壬生氏と同盟関係にあった後北条氏によって、壬生氏の援軍として武州の板橋将監が派遣されてこの地を占拠した。板橋城の名はそれに由来するのだろう。板橋氏は豊島氏の庶流で、本貫の地である板橋区で城跡だとされる長命寺には、ずいぶん前の江戸歩きで立ち寄ったことがあったのではなかったか(記録をひっくり返しているがなかなか見つからない)。その地が太田道灌に滅ぼされた後、板橋氏は北条氏に臣従していたらしい。
     ここから姫は私たちと別れて東武日光線の明神駅に向かう。これから先は杉並木ばかりで今市までトイレは全くない。「男性はいいでしょうが。」女性にとっては万一ということがある。明神駅から電車で今市に向かうのだ。「追分地蔵で合流しましょう。少し前で連絡してください。地図は蜻蛉に預けます。」追分は日光街道と日光例幣使街道が分岐する地点である。

     バイパスは旧道の東側に走って行くが、私たちは左に曲がる。向かいに黒板塀の二階家が出現した。「いいですね、ガラスが波打っている。」このガラスなら大正の頃の、かなり金のかかった建物ではないか。背後には屋敷林が広がっている。板橋宿でもかなりの名家だったと思われる。「何屋かな。」正面のガラスの向こうに花が見えるようだ。
     目の前には谷津のように田んぼが広がり、その左右が墓地になっている。「こういうお墓は珍しいね。」道はすぐに大きくカーブを切る。板橋交差点からここまで、いわば巨大なクランク状になっていて、これを枡形と呼ぶのかも知れない。
     「オッ、スゴイね。」街道の両側に高い石垣を築いて杉並木が始まった。右側の石垣は自然石を積み上げたもので高さ三メートル程にもなるか。左は少し低く、緑色の苔で覆われている。ここからは歩道というものがなく、車道に引かれた白線だけが頼りだ。事前にネットで調べてみると、歩道がないから怖いという記事、バイパスのお蔭で車が少なくなったという記事と両方でていた。
     前方を眺めると、街道の両側の並木が真っ青な空で交点を作るようだ。幸い車は余り通らない。時折通っても、私たちを見かけるとスピードを落としてくれるから危険はない。バイパスのお蔭で旧道は歩きやすくなったのである。石垣をまたぐように広がる巨大な根っこもある。
     「あそこに何かの碑があるよ。」街道の右側だ。杉落ち葉に埋もれるように、文字庚申塔が二基、四国・西国・坂東巡拝供養塔が一基。
     その先に地震坂の解説板があった。昭和二十四年(一九四九)十二月二十六日、今市地震で街道ごと杉並木が地滑りを起こした坂だと言う。別名地すべり坂。「あれですね。」街道から少し奥に、確かにかなりの規模で地滑りを起こしたような形跡が残っている。「根が張っているから、普通はそんなに地滑りを起こさないんですけどね」と地学専門のロダンが首を捻る。道路側に傾いて倒れそうな木もある。
     時折ウグイスの声が聞こえてくる。「長閑ですね、いいですね」とオカチャンが繰り返す。働きすぎて聊か疲れ気味のロダンは心が洗われるだろう。時々雨のように降ってくるものは何だろう。昨日バリカンを当てたばかりの頭に降ってくるのだ。今日は帽子を被ってこなかった。
     「これですよ。」地面に落ちた細長い小さな実のようなものを、ヨッシーとオカチャンが教えてくれる。「雄花なんですよ。」雌花はスギ花粉の原因になるが、雄花はそうではないらしい。「杉鉄砲に使いましたよね。」そうか、あれがそうだったのか。私自身は杉鉄砲を作ったことはない。工作も苦手だったし、町中ではあんな細い篠竹は手に入らなかった。私の周囲で見かけるのは、紙を噛んでくしゃくしゃに丸めた玉を詰めたものだった。これならもう少し太い竹でも良かったし、駄菓子屋や文房具屋かで売っていたんじゃないか。
     左に大きく曲がり込み東武日光線を越えると、日光方面に向かう一方通行の道が左に大きく逸れていく。左に蕎麦屋が見えた。「あれだろう。」「スナフキンが電話で確認した十石蕎麦である。「ホントは休みたかったのに、電話したから、無理やり開店したんじゃないの?」「違うよ、電話した時は既に開いているって言ったんだ。」「むらかみ」からここまでおよそ三十分か。やはりさっき食べたのが正解だったのだ。
     店の名にあるように、ここは十石坂と呼ばれる。昔はもっと急坂で、元和四年(一六一八)東照宮造営の時に黒田長政が大石鳥居を奉納するのに酷く苦しんだ。何しろ一ノ鳥居は高さ九・二メートル、幅一三・二メートル、柱の直径が一メートルもあって、十五個の石材で作られているのである。大石を運搬する人足も通常より多く、その人足のための米の量が十石に上ったというのが坂の名の由来だ。
     通常ひとり一年間を養う量が一石だから、一日当たり三合程度になるだろう。一日で十石ならば、三千人以上を要したことになる。また一人扶持の手当てが一日五合の計算をすれば二千人分をいうことになる。いずれにしろ、これは白髪三千丈の類の大袈裟な話だろう。
     「ちょっと休みたいな。」珍しくダンディが呟いている。姫の話ではこの辺にキャンプ場や体育館がある筈だからそこで休憩にしようか。日光宇都宮道(一般有料道路)の下を潜るとすぐにある筈だ。「あれじゃないか。」並木の後ろに建物は見えたが、街道からはすぐには行けないようだ。
     そして気づかずに通り過ぎようとしたとき、ヨッシーとオカチャンが「一里塚です」と声をかけてくれた。室瀬の一里塚である。多少塚が盛り上がっていると言えるだろうか。説明がなければ気付かずに通り過ぎてしまう。「この並木の中ですからね、目立たないよ。」
     ダンディのために、ここで少し休憩をとる。街道の東側に、一里塚の裏から東武線とJRが交差する辺りまで原っぱが広がる。ダンディはすぐに倒木に腰を下ろす。
     ヒメオドリコソウが広がる野原の一角にトウダイグサ(だと思う)が群生している。直径一センチ程の可憐な花はカキドオシではないか。念のためにオカチャンに訊いてみたが分らない。シソ科で茎が四角になっているというのを以前訊いたことがあるから間違いないだろう。ヨモギもある。
     「あっ、ツクシがありますね」とヨッシーが摘みはじめた。「今日のおかずになるんですよ。」「それなら向うにいっぱいあります」とオカチャンがヨッシーを連れていく。私はツクシなんて食ったことがないが、旨いのだろうか。
     「アマガエルだ。」スナフキンの声で見に行くと、体長三センチ程のアマガエルがいた。そのそばの草にはカマキリの卵がくっついている。「こっちにもいる。」「長閑だな。」ロダンが煎餅を出してくれた。「一人二枚ね。」いつも有難いことである。ロダン夫人感謝しなければならない。
     極めて不作法ではあるが、ここで私はオシッコをした。良くぞ男に生まれけり。名前は隠すが、私の他にも同じことをした人はいる。しかし姫はこんなことはできないのだ。ヨッシーはビニール袋一杯の土筆を採っていた。「夫婦二人だから、これで充分ですよ。」

     土筆摘み真青な空の立小便  蜻蛉

     暫くのんびりして一時半になった。「それじゃ出発しましょう。」地図を確認すると、ここから追分地蔵まで二キロ弱というところだろう。できれば乗りたいと姫が言っていた十五時二十七分の電車には充分すぎる程だ。十分ほど歩き、小さな石橋を渡る。橋の袂のレンギョウの黄色が鮮やかだ。「水が綺麗ですね。」「勢いもいいよ。」
     「向右鹿沼ニ至ル左今市ニ至ル」の道標があった。一本道の街道でこんな道標が必要だったのだろうか。側面の文字は「向右当村経」の後が読めない。土が流れて根っこが浮き出てしまったもの、皮が剥がれ落ちているもの、幹の根元に大きな洞が開いているもの、杉並木の現状はあまり良くはない。洞の内部が焦げたように黒くなっているものもある。
     道路脇の水路を勢いよく水が流れる。やや上り加減の道だ。この辺の土手にはムラサキハナナ(ハナダイコン)が目立つ。「ダイコンの花か?」「あれは白い花だろう。」「昔、竹脇無我なんかが出てた奴。」「懐かしい。」こういう話題で懐かしさを感じるのは同世代である。ただ私はドラマ『だいこんの花』自体には殆ど記憶がない。調べてみると放映されたのが昭和四十五年(一九七〇)十月から五十二年(一九七七)十一月だから、私はテレビを持っていない。
     「日光市千本木」の道路標識がある。「木漏れ日が良いですね」とオカチャンが感動したような声を上げる。真青な空、鬱蒼とした杉並木、その間から漏れる日の光。本当に今日は天候に恵まれた。
     JR日光線を渡ったところで、歴史民俗資料館にいる筈の姫に、スナフキンが電話する。「行列が来ます。」右手の方から祭り太鼓の音が聞こえてきた。前方には警官が立っている。「来た。」白の狩衣に裾の短い括り袴と黒烏帽子、白足袋の白丁(というのを初めて知った)が榊を載せた台を担いで行く。すぐ後ろには一本足駄の天狗が続く。その後ろには陣笠をかぶり裃に脇差を差した集団。女性の集団、衣冠束帯の神官、黒紋付に袴の氏子たち、そしてまた白丁が神輿の屋台を引っ張ってやってきた。
     私は祭り関係には全く疎いので、白丁の姿は初めて見た。山王祭、神田祭でも神輿を担ぐのは白丁らしい。色は別にして、簡素な狩衣に裾の短い袴と烏帽子は中世庶民の雰囲気があって、陣笠に裃の江戸時代の姿との対照が面白い。ところで白丁は白張(しらばり)とも呼ばれる。李子朝鮮では賤民を指す言葉になったが、日本ではそういうものでもないらしい。元々衣装の名称だが、それを着用する人の呼称になった。
     「あれ、何かな。平和かな?」「平町だよ。」全員が肩にかけた白布には朱色で「平町」と書かれている。ここで、ちょうど姫も合流した。「運が良かったですね。何のお祭りですか?」オカチャンが警官に訊くと「八坂祭」と答える。後でネットを検索すると今市の八坂祭は今市総鎮守の瀧尾神社の大祭で、毎年四月十四、十五日に開かれる。八坂神社はその末社になる。その準備、予行演習だろうか。またこれとは別に四月十三日から十六日に行われる弥生祭というものもある。
     行列は追分地蔵尊に入るようなので、私たちは少し逸れる。追分は、日光街道と日光例幣使街道の分岐点(私たちにしてみれば合流点と言った方がよいか)である。JR今市駅と東武下今市駅との丁度中間地点だ。
     「明神駅は面白いんですよ。」別れて西に真っ直ぐ向かった姫だが、駅にたどり着く道が分らなくなった。近くにいた人に尋ねると、その林を突っ切れと言われた。林の中の獣道のような処を抜けてようやく駅に着いたのだと言う。
     「今市の地名由来は何でしょうか?」オカチャンが訊いてくるが、私が知っている筈がない。「調べてくださいよ。」まず今市の沿革を調べてみると、明治二十二年(一八八九)四月一日、今市村、瀬尾村、瀬川村、平ヶ崎村、千本木村、室瀬村、下之内村、吉沢村、土沢村が合併して今市町が発足した。昭和二十九年(一九五四)上都賀郡落合村、河内郡豊岡村を編入し、今市市となる。平成十八年(二〇〇六)年三月二十日、旧日光市、足尾町、藤原町、栗山村と合併して日光市となった。
     これでは由来は分からない。ウィキペディア「今市宿」によれば、「もと今村と呼ばれていたが宿駅となって住民が宿に集まって活況を呈し、定市が開かれるようになったことから今市宿となったと云われている」と言うことだ。日光街道、壬生道(例幣使街道)、会津西街道、日光北街道がここで合流するので、江戸時代には相当の賑わいを見せたに違いない。
     天保十四年(一八四三)『宿村大概帳』によれば、今市宿の町並み七町二十一間、男六百九人、女五百十三人、家数二百三十六軒、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠二十一軒、問屋場一軒、宿場人足二十五人、馬二十五疋であった。

     「さてどうしましょうか。」電車の時間までは一時間以上ある。「道の駅に行ってみようか。」追分の交差点からすぐ北にある。「船村徹なら行きませんよ。」姫は演歌に冷たい。道の駅とは言いながら普通のスーパーのようで、広場を挟んで船村徹のミュージアムがあるが、入場料が五百四十円もするのである。なかなか入る人は多くないだろう。
     「船村徹はまだ生きてるんだろう?生きてる内に記念館なんか作るのか。」新聞記事を検索すると、船村自身が開館式典で、生きているうちに恥ずかしいと挨拶したそうだ。「船村徹なんて知らないな。」前回ちゃんと書いてあるが、関心のない人には分らないだろう。昭和三十年代の歌謡曲は高野公男作詞・船村徹作曲『別れの一本杉』から始まると言っても良いので、これが船村の出世作である。「他にはどんなのがあるのかな?」「ちあきなおみの『紅とんぼ』とか『矢切の渡し』も。」
     「ちあきなおみの『冬隣』もそうだろう?」スナフキンが言う。ちょっと感じが違うが、私は作者を覚えていなかった。「どんな歌ですか?」「亡くなった旦那を偲ぶ歌なんだ。そしてその時、郷鍈治はまだ生きてたんだよ。」「今度YouTubeで聴いてみよう。」『冬隣』は惻々と哀情が沁みてくる良い歌だ。しかし船村徹というのはスナフキンの勘違いで、吉田旺作詞・杉本眞人作曲であった。

    地球の夜更けは 淋しいよ・・・・・・
    そこからわたしが 見えますか
    この世にわたしを 置いてった
    あなたを怨んで 呑んでます

     平成四年(一九九二)九月二十一日、郷鍈治が死んで以来、ちあきなおみは公に姿を現さなくなった。惜しんでも惜しみ切れず、通販で買った『ちあきなおみの世界』(全十巻・全百六十六曲)で聴くしかない。
     広場の正面奥には小倉町一二丁目の屋台が展示されている。白木造りの透かし彫りがとてもきれいなものだ。「まだ新しいですね。」説明を読むと天保から弘化の頃(一八四〇年代)のものだという。鹿沼の屋台も美しかったし、この辺りは透かし彫りが有名なのだ。今市にはこうした彫刻屋台が六台現存しているということだ。
     トイレを済ませて煙草を吸っていると、ヨッシーが大きな袋を下げて道の駅から出てきた。「何を買ったんですか?」「コンニャク。先日買ったのが美味しかったから。」ヨッシーは買い物が大好きだ。「自分で料理も作りますよ。」
     姫は酒の一合瓶を買ってきた。ご主人のためだろう。「ロダンは買わなかったの?」「私はね、この杉並木の写真で充分ですよ。これで夫婦の会話ができるんです。」「写真がアリバイか。」ヨッシーがおつまみの小袋を大量に配ってくれる。有難い。これなら電車の中でビールのつまみになる。
     まだ時間はある。姫の予定では次回に回す筈だった報徳二宮神社に行ってみる。日光市今市七四三番地。「どうして尊徳がこんなところに。小田原じゃないの?」
     尊徳は天保十三年(一八四二)には幕府に召し抱えられ、弘化元年(一八四四年)に日光山領の仕法を命じられた。翌年、下野真岡の代官山内氏の属吏となって真岡に移住し、日光神領を回って日光奉行の配下で仕法を施していたのだが、安政三年(一八五六)下野国今市村の報徳役所にて没した。「七十歳って、当時としては長命ですよね。」身長六尺、体重二十四貫あったというから、相撲取りになっても良い程の大男でもあった。体が丈夫だったのだろう。
     「金次郎の像はあるかな。」例の薪を背負った像があった。ロダンも姫も小学校の校庭にあったというが、秋田では記憶がない。「占領軍が、封建思想だからって廃棄させたんですよ。」しかしそれは俗説ではないだろうか。昭和二十一年三月十九日発行の一円札に尊徳の肖像が描かれているので、占領軍が嫌ったというのは平仄が合わない。金次郎の像は、昭和十六年八月三十日に公布された金属回収令によって、大半が撤去されたのである。尊徳の一円札が支払い停止になるのは昭和三十三円(一九五八)十月一日だから、私の幼少時にはまだ使われていた可能性があるが、見たことはない。
     ところで今市市の南原小学校に今年の三月に新しい金次郎像が建立された。それが座って本を読む像なのだそうだ。歩きスマホが危険だという教育的配慮に基づいたと言う。
     『今市田植唄』というものの五線譜と歌詞が彫られた石が建っている。「やっぱり『分度』ってありますね」とロダンが会心の笑みを浮かべる。以前ロダンに教えられて知った言葉だ。昭和四十五年(一九七〇)から行われるようになった田植祭のテーマソングであるらしい。ついでだから歌詞を引いておこう。

    至誠勤労分度に推譲
    報徳教えは今市の宝

     大きくて、いやに平べったい薄桃色の花が咲いている。渡り廊下の下を潜って社殿の奥に行けば、尊徳晩年の像があり、墓もある。誠明院功誉報徳中正居士。樹高のかなり高い桜が満開だ。「真っ青な空、薄いピンクの桜、いいですねえ。」
     「次回の行程がひとつ楽になりました。」戻って追分地蔵尊に入る。大きな杉の根元に「地蔵尊とおサンヤサマ」と題する説明が置かれている。オサンヤサマとは初めて聞く言葉だ。「水戸の方じゃオサンヤサンって言いましたね。」北関東では珍しくない言葉なのだろうが、同じ茨城県でも姫は初めて聞くと言う。二十三夜講を言う。二十三夜尊の赤提灯を下げた小さな祠を覗いてみたが本尊はよく見えない。おそらく勢至菩薩だと思われる。十九夜講が如意輪観音を本尊とするのと区別しなければならない。
     唐破風屋根の立派な地蔵堂に鎮座する地蔵は、丸彫り石造で、高さ約二メートルという。丈六仏より少し小さいが、石造としては、こんな大きなものは見たことがない。東日本有数の大きさだそうだ。立像なら一丈六尺(四・八メートル)、座像ならその半分というのが丈六仏で、江戸六地蔵(銅造の坐像)がこのサイズになる。
     この地蔵は室町時代の作と推定されている。弘法大師が大谷川含満ヶ淵の岸辺に建てた石仏が、大水で流されて今市の河原に埋もれていたのを発見し、ここに堂を建て安置したと言われているが、勿論伝説である。
     大きな地蔵の横に小さな恵比寿も鎮座している。「釣竿を持っているのは珍しくないですか?普通はタイを抱えていますよね。」タイを抱えて釣竿を持つのは一般的だと思う。この恵比寿は、タイは抱えていない。この恵比寿によって、この地蔵尊は今市七福神になっている。ついでにその他の福神を数えると、明静寺(福禄寿)、如来寺(弁財天)、瑞光寺(毘沙門天)、本敬寺(寿老人)、徳性院(布袋尊)、瀧尾神社(大黒天)となる。
     「これスゴイですよ。」皆が見詰めているのは、杉の大木の根元からまっすぐ一本伸びた小さな杉である。小さいくせに一人前に緑の葉も茂らせているのだ。テレビで、こういう不思議なものを紹介する番組があるようで、皆はそれを口にするのだが、私には分らない。
     「それじゃ、ゆっくり行きましょうか。」電車の時間までは三十分程あるがのんびり行けばよい。しかしスナフキンは例のホリデーパスの精算のためにまっしぐらに駅に急ぐ。コーヒーでも飲もうかと姫は言っていたが、駅前の喫茶店は入ってしまえば長居してしまいそうで危険だからやめて、駅でのんびりすることになった。
     それぞれの万歩計は色々な数値を示しているが、ここはスナフキンの二万三千歩を採用して十三キロとしておく。「道の駅まで行きましたからね。」
     スタート地点の文挟駅の標高が二三六メートル、今市駅が三九六メートルだから、百三十メートルも登って来た。

     ホームの駅名表示板が洒落ている。焦げ茶の枠に朱の地、文字の色は白である。暫く待って電車が来た。電車が止まってドアが開くのを待っていると、後ろに立っていた人がボタンを押すのだと教えてくれる。そうだった。「失礼しました、田舎者なので。」電車は外人で混んでいて座れない。
     目の前の座席で眠っている若い白人女性は、可愛らしい顔つきなのに、Tシャツの袖から覗く二の腕に刺青を入れている。描いた絵ではないだろうね。それにしてもコーヒーカップのような絵が刺青になるのか。「Made in なんて書いてある?」腕を組んで眠っているのでよく見えない、しばらくして「Everywhereですね」と姫が確認した。しかし英語の堪能な姫にも意味は分らない。Made in everywhereとはなんであろう。「俗語じゃないか?」スマホで検索していたスナフキンがそんなことを言う。
     宇都宮に着いて、オカチャンは寄るところがあるのでここで別れる。ロダンはトイレに行き、私とスナフキンはビールを買う。ホームに降りると姫しかいない。「他の人はどうしたんでしょうね。」車内は混んでいるが、三人並んで席に着くことができた。
     大宮まで一時間以上かかるので、ビールがあって良かった。「私も食べちゃおうかしら。」姫もアラレを口にする。他の人はどうしたのだろう。スナフキンがメールをすると、一つ後の電車になったらしい。姫は旦那様と過ごすために、珍しく飲まずに久喜で降りて行った。
     長い旅も終わり漸く大宮に着いた。「庄やも飽きたな。」「そこにしようか。」入り口に出されているメニューを見れば値段は手ごろだ。「鳥彩々」という店だ。普段、最初はビールにするのだが、私とスナフキン既に電車で一杯飲んだからハイボールにした。そして焼酎は黒丸にする。突き出しは三種類から一つを選ぶ方式である。焼き鳥はタレ、塩でそれぞれ三種類づつ選ぶ。店員お薦めのサラダをつまみに、三人で黒丸一本はすぐに空いた。日本酒ヌル燗の二合徳利を二本飲んでお開き。三千三百円なり。
     帰りの電車賃は二千四百三十三円だったから、往復で四千五百四十二円であった。

     次回は東武日光線の下今市駅から出発することに決まった。JRより東武を使った方が、時間はかかるがはるかに安いのである。鶴ヶ島からだと、大宮で東武野田線に乗って春日部まで行き、そこから伊勢崎線・日光線に回ると千六百八十二円で済む。今朝、文挟まで二千百九円かかったことを思えば、相当違う。

    蜻蛉