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    日光街道 其の十七(最終回) 今市宿から鉢石宿・日光山輪王寺・東照宮へ
    平成二十八年六月十一日(土)~十二日(日)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2016.06.28

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     五日には関東も梅雨入りしたそうだが、前半は確かに曇天が続き時折小雨が降ったものの、昨日から日が照って暑くなってきた。旧暦五月七日。「芒種」の次候「腐草為蛍」(かれたるくさほたるとなる)。
     我が家のリフォームも先週の金曜日にやっと終わり、暫くは引っ越し後のような片づけ作業が続いている(まだ終わらない)。あれだけ本を捨てたのに、本棚の様子が余り変わらないのは何故か、私は理解できない。
     さて、平成二十五年二月に始まり、八月を除く偶数月の開催だから一年に五回、三年四ヶ月に及ぶ日光道中もいよいよ最終回となった。早いような長いような、この日を楽しみにしていたのに私の気分は快調ではない。
     八日の朝、布団を上げようとして腰に電気が走った。布団から起き上がるにも一大決心を必要とする按配で、終日殆ど動けず仕事も休んだ。九日になって多少は動けるようになったので医者に行ったが、レントゲンを撮った結果、予想通り骨に異常はないので痛み止めと湿布を貰うだけで二千円も取られた。貰ったのは先月に背中を痛めた時と全く同じで、これならまだ残っていた。筋肉が衰えているのである。昨日は家の中なら歩けるようになったので、酒とつまみを買いに車で出た。なんとかなるだろうか。
     そして今日である。湿布を貼ってコルセットをきつく巻き、取り敢えず登山用のストックを一本持って家を出た。妻は忙しいので、朝飯は駅前の松屋で目玉焼きと納豆の朝定食を食べた。駅階段の脇に咲く赤いタチアオイは随分背が伸びてきた。
     鶴ヶ島発(東武東上線)六時二十五分の電車に乗り、川越発(JR川越線)六時三十七分、大宮発(東武野田線)七時十三分に乗り換える。春日部七時四十四分発(東武伊勢崎線)会津田島行の電車はかなり混んでいて座れない。目の前の四人組がこの時間から缶酎ハイを飲んでいるのが悔しい。朝から酒を飲んではいけないのではないか。
     電車がちょっと揺れて足を踏ん張ると腰に衝撃が走る。大丈夫か、蜻蛉。このまま一時間以上も立ちっ放しだと死んでしまうかと思われたが、幸い南栗橋で座ることができた。新栃木を過ぎ、鹿沼になると缶酎ハイを飲んでいた連中も含めてかなりの客が降りて行き、多少は席も空いてきた。この連中は鹿沼でゴルフをやるようだ。
     下今市には九時三分に着いた。千六百九十円なり。この駅で日光線と鬼怒川線とが分離する。「どうもどうも。」「お早うございます。」別の車両からロダンとオカチャンが降りてきた。特急を使わないとすればこの電車しかないので、他の連中は特急に乗ってくるのだろう。高齢者の割には随分裕福ではないか。二千円も違うのですよ。「最後まで立ちっ放しでしたよ」とロダンは疲れた顔で言う。「それにしても杖なんか突いてどうしたの?」かくかくしかじかである。
     ダンディは町の方からやって来た。「JRの駅と間違えてた。」あんみつ姫に電話してここだと教えてもらったと言う。電話をもらった姫も驚いただろう。「前回の終了地点だと思ってた。」「ちゃんとメールに書いてあったじゃないですか。」前回の終了時にも、JRは高いから次は東武線にしようと確認している筈である。「時間しか見てなかった。」
     他のメンバーはやはり特急を使ってやって来た。「昨日も飲み過ぎたよ。特急じゃなきゃ、絶対来られなかった。」毎度毎度、会う度に「昨日も飲み過ぎ」である。たまには変わったことを言って欲しい。「その杖はどうしたのよ?」かくかくしかじか。説明も段々面倒臭くなる。

     九時半、リーダーのあんみつ姫、ダンディ、ヨッシー、お園さん、マリー、オカチャン、スナフキン、ロダン、桃太郎、蜻蛉の十人が揃ったところで出発する。ロダンだけは、愛妻が宿泊を認めてくれずに日帰りすることになっている。夫婦の愛情が深過ぎるのだ。
     古い街道の面影を残す道を歩き国道に出る。最初は、前回の最後に訪れた街の駅「ニコニコ本陣」の前で立ち止る。「重いので、早く渡したいと思って。」姫のバッグには何やらたくさんのものが入っているのだ。十七回を皆勤したスナフキンに姫から記念品が贈呈される。一度半日券を使ったヨッシーも殆ど皆勤のようなものだ。思いがけず私も「惜しかったで賞」と記念品を貰った。私は一回休んだが、後でそのコースを自分ひとりで歩いているから、私の中では完歩したと思っている。「自分は三回しか参加してないな」と桃太郎が呟く。桃太郎は遠いから仕方がない。今日来てくれただけでも嬉しい。まだ日光に到着はしていないがここで「日光街道歩き到着証明書」を貰った。展示コーナーで小倉一二丁目の彫刻屋台を見て出発だ。
     報徳二宮神社は前回寄ったから行かないが、その隣に如来寺がある。星顕山光明院。浄土宗。日光市今市七百十番地。寺のHPを見ればこんな風なことが分る。

     室町時代中期(文明年間)に、茨城瓜連の常福寺第四世超誉上人の高弟 暁誉最勝により創建。江戸時代には東照宮御造営の際、徳川第三代将軍家光が宿泊するために壮大な御殿が境内に建てられました。
     また、安政三年(一八五六年)には、報徳仕法の祖であり、日光市(旧今市市)の農村を復興した二宮尊徳翁死去の際、如来寺にて葬儀が行われました。
     境内には、日光市指定文化財でもある、木造地蔵菩薩立像(車止め地蔵)、 暁誉上人の五輪塔などの他、下野四番札所や今市宿七福神弁財天などが御座います。
     http://nyoraiji.org/info1/index.html

     「あれはヤマボウシだよね。」「こっちはまだ咲いてるんですね。」大学のヤマボウシはもうすっかり萎んでしまっているのだが、やはり緯度が違うのだろう。地蔵堂の前は赤いツバキが満開だ。
     「あれは聖徳太子でしょうか?」ロダンが指差した大きな石碑の文字は確かに聖徳太子だろう。「主に大工が信仰したんだよ。」これは以前にも書いたから姫はちゃんと覚えている。
     街道左の鹿沼相互銀行が高橋本陣跡だ。赤いトタン屋根の古めかしい商店は日光たまり漬けの店だ。右に会津西街道が分岐して行く春日町の交差点には、観光客目当ての「日光みそのたまり漬け」があり、歩道脇に木製の常夜灯が置いてある。
     「今市宿市縁ひろば」の入口には「今市宿 日光街道・二宮新徳翁 終焉の地」の木柱が立っている。前回不参加だったお園さんは二宮尊徳の墓が見たかったようだが、報徳二宮神社は過ぎてしまった。最初に言ってくれれば良かった。明治天皇御小休之蹟碑も立っている。
     ギクッ。いきなり筋肉をヤットコで鷲掴みにされたような衝撃があって、右手で握ったストックを地面にツッパリ、左手は膝の上の辺りを抑えて立ち止まる。たぶん身体は「く」の字になっているだろう。「大丈夫ですか?ちょっとした段差があるからね。」私の後ろからオカチャンが声をかけてくる。すぐに元通りに歩き始めたが、いつまたこれが生じるか。さっき姫から早々と「到着証明書」を貰ったのに、本当に到着できるのだろうか。蜻蛉の運命や如何に。
     格子戸を閉ざした立派な平屋の前には、対のフクロウの大きな石像が立っている。写真を撮ろうとした時、中から男性が現れた。なんでも当主が亡くなったので後片付けをしているとか、そんな意味のことを言っているようだ。「芸大の先生だったんですよ。」調べてみると手塚登久夫のことだと思われる。昭和十三年(一九三八)に今市で生まれ、昨年亡くなっている。東京芸術大学名誉教授で、フクロウの石像を好んで製作したようだ。この家はその生家の旅館で、改装してギャラリー白川屋となっている。
     歩道橋の下を潜ると、ここから杉並木と国道が分れる。その左に、今市の総鎮守瀧尾神社があった。日光市今市五三一番地。立て看板には「日光の名水ここにあり」と記されている。案内碑の由緒はこうである。

     天応二年(七八二)、勝道上人 日光二荒山(男体山)上に二荒山大神を祀ると同時に 当所琵琶ケ窪笄の森に之を祀るに始まる。

     伝説は当てにはならないが古いことは間違いない。明治十年七月に近郷十八カ所(今の日光市の一部と今市)の郷社となった。前回、例幣使街道と日光道中が合流する地点で祭り行列を見たが、あれが四月九日、十日(四月の第二土日に行われた瀧尾神社の春の例大祭であった。
     木造の大鳥居を潜って、姫が狛犬に注意を促してくれるのだが、反応は芳しくない。有角の犬と無角(宝珠を載せている)の獅子との組み合わせは本来の原型をとどめる古いもので、実は結構珍しいのだ。芝神明宮やその他何ヶ所かで見ている。麒麟に似た一角獣「獬豸(かいち)」が元になっているのではないかと言われるが、朝鮮半島のヘテには角はない。
     しかしロダンが注目するのは参道の脇にある水準点の方だ。「ちゃんと残ってますね。」道端と違って境内だから、取り除かれもせずに残っているのだ。叶願橋と言う小さな朱塗りの欄干の橋の下には清流が流れている。綺麗な水だが飲んではダメだろう。オカチャンが下に降りて水に手を入れて「冷たいですよ」と教えてくれるが、私は腰を屈めることができない。ヨッシーもロダンも下りて行く。悔しい。
     暫く行くと、竹を何重にも拙く丸めたようなものが置かれている。パッと見て、茅の輪を作る準備かと思ったのは間違いで、この不思議なオブジェは、「霊峰日光連山と大自然の気(パワー)大地を潤す河の流れを表わした」ものだ。私は一向に感心しない。
     二の鳥居を潜ると小さな社殿が現れた。拝殿には「凱旋」の額が二枚掲げられていて、右のものには「征清記念」とある。それなら左は「征露」かも知れないが、額面が褪色していて良く分らない。普段だったら裏に回って本殿の様子なども観察するのだが、今日は余り動けない。
     神社を出ると、ここから杉並木は国道と並行して東側を通る。土が均された並木道は車も通らず気持ち良いが、時々ギクッときて体が硬直する。「大丈夫なの?」私も分らない。「酒の瓶を桃太郎に預かって貰えよ。」「大丈夫だよ。「そんなこと言わないで。」浦霞の本醸造四合瓶は桃太郎のリュックに移された。スナフキンのリュックには別の瓶が入っている。
     明治十一年(一八七八)六月、イザベラ・バードも例幣使街道を使って今市に宿泊し、この道を通った。

    私たちは、今朝早く、小雨降る中を出発した。そして八マイル続く杉の並木の下の坂道を、まっすぐ登っていった。草木はよく繁茂していた。これは暑くて湿気の多い夏の気候と、山岳地方に豊富な降雨量があることから容易に察することが出来よう。どの石も苔でおわれており、路傍は藻類や数種の銭苔で緑色であった。(イザベラ・バード『日本奥地紀行』高梨健吉訳)

     この辺から約一キロに渡って杉並木公園が整備されている。右に入ると芝生広場には、さっき見たフクロウと似たような石像がいくつか置かれている。ただ、一人の作ではなく複数の作者によるものらしい。その奥に大きな「朝鮮通信使今市客館跡碑」があった。地図を見ると、東武日光線上今市駅に近い場所で、小字が唐人小屋となっている。
     朝鮮通信使が日光まで来たなんて私は知らなかった。調べてみると江戸時代に来日した通信使は十二回、そのうち第四回の寛永十三年(一六三六)に初めて日光まで来て家康廟を参詣した。日本側から突然日光遊覧を勧められ、前例のないことで通信使は戸惑ったものの、その申し出を受けたのである。

     このような紆余曲折の末到着した日光はどんな姿であったろうか。一六三六年、朝鮮通信使の副使であった金世濂は日光山に到着し最初に杉を見て次のような詩を書いた。
      仙都衆木摠芬芳 傳道靈杉自太荒
      氣接扶桑增黛色 影通丹桂播淸香
      虬鱗百丈排霄漢 翠葉千齡傲雪霜
      入夜笙簫求絶頂 願從高處駕鸞鳳
     日光山の入り口に立ちふさがる杉は千年の歴史を有するかのように百尋の高さをもって空に向かって広がり、その威勢に圧倒されそうになった。しかし金世濂は杉の威圧感よりはこの場所を「仙都」「扶桑」の延長線、すなわち仙界として表象化した。これは仙界という思いが浮かぶほど美しい風光を持つ日光に対する讚辞であったのである。(朴暎美『日・朝知識人の日光に対する見方とその相違』より)
    http://www.nishogakusha-u.ac.jp/eastasia/pdf/kanbungaku/06kanbun-143paku.pdf

     今は紀要論文の殆どがネットで読めるので素人には有難い(昔は紀要論文なんてバカにしていたけれど)。次いで第五回の寛永二十年(一六四三)には日光東照宮落慶祝賀、第六回の明暦元年(一六五五)には家康廟と大猷院(家光)廟を参詣した。朝鮮通信使が日光まで来たのはこの三回である。
     日光社参のことだけでなく、朝鮮通信使については知識がなかった。以下は殆どウィキペディアから得たものである。江戸時代に入って最初の三回は正式には「回答兼刷還使」と呼ばれた。「回答」とは、将軍から朝鮮国王に呈した国書に対する回答である。朝鮮側は秀吉の侵略に対する謝罪の国書を求めていたが、そんな国書が出される筈がなく、対馬の宗家が偽造したことは良く知られている。藩主と対立していた家老の柳川調興が幕府に暴露して事件となったが、柳川は弘前藩へ、外交僧玄方は盛岡藩へ配流とされ、藩主にはお咎めがなかった。幕府としても朝鮮との国交回復は急務だったのである。国交回復しないまま放置すれば西南諸藩が密貿易をすることは目に見えている。貿易を独占するためにも朝鮮とは早く友好関係を結ぶ必要があった。朝鮮側にとっても、背後から迫る女真族に対抗するためには日本との友好関係が必要だった。
     また「刷還」は捕虜として強制連行された朝鮮人の帰国を求めたもので、全体でどれほどの人数が日本に連行されたかは明らかでないが、三回の間に六千五百人から七千人が帰国したとされる。これによって国交正常化がなり、第四回からは通常の友好使節となった。行程は、釜山から対馬経由で瀬戸内海を通って大阪までの海路、淀川を遡航して京都から江戸までは陸路をとる。往復で八ヶ月から十ヶ月かかったらしい。
     通信使の一行はおよそ五百人、これに対馬藩の警護五百人以上を加えるから大人数である。しかし、対馬藩の五百人というのはホントだろうか。それだけの人数を動員できる大名なんてそんなにいない。享保六年(一七二一)の参勤交代の規定では、十万石以上の大名の行列は騎馬の武士十騎、足軽八十人、中間百四十人から百五十人とされたという。対馬藩は十万石格ではあるが、それにしても人数が多過ぎはしないか。ちゃんと勉強していないから何とも言えないけれど。
     滞在費はすべて日本持ちで、一回に百万両もかかったと言う。幕府の収入を四百万石(四百万両)とみればその四分の一に相当するもので実に莫大な費用だった。勿論幕府だけが支出するのではなく、沿道の各藩も負担した。藩は村方に負担を押し付けたから、農民の負担も容易ではない。元禄期以降、幕府財政は悪化の一途を辿っていたので、新井白石が六十万両に抑えたものの、すぐにまた元通りにされた。

     並木が日差しを遮っているから暑過ぎはしないが、それでも汗が滲んでくる。道路脇を流れる水が綺麗だ。芭蕉こんな光景に感動したのだろうか。芭蕉が日光に到着したのは四月一日、立夏の日であった。

     あらたふと木下闇の日の光  芭蕉

     「あらたふと青葉若葉の日の光」の元の句で、実は室の八嶋で得たものである。小さな社は髙靇神社だ。日光市瀬川三〇一番地。瀬川村の鎮守である。高尾神社と言っているが、雨冠に口口と龍を書く文字はオカミだから、タカオカミと読むのが正しいだろうと思う。ロダンは石段を上っていった。
     そして名主の家と報徳仕法農家を復元した小さな公園に着いた。日光市瀬川三八三番地。入口前の草むらに、葉が白変したものを見つけた。半夏生かマタタビか。掃除をしていたオジサンに訊くと、「猫が好きな奴」と答えてくれたのでマタタビである。半夏生が出てくるにはまだ早いか。実はこの辺に瀬川の一里塚があったらしいが気付かなかった。躓くと腰に響くので下ばかり向いて歩いているからだ。
     現在の時刻は十時四十六分。隣接した蕎麦屋「報徳庵」は十一時開店なので、姫が予約を入れた。今日はみんな朝飯が早かったので丁度良い時刻だろう。少し時間があるので農家の周りを見学する。南小倉村の名主の旧江連家を移築した家だ。家の中を見ることもできるが靴を脱ぐのが面倒だから私は入れない。
     十一時になって蕎麦屋に戻ると既に客が大勢並んでいるが、私たちは予約しているので先に入らせてもらう。縁側にも席が作られていて私はその方が良かったが、靴を脱いで座敷に入らなければならない。何しろ腰を下ろして靴紐を解くのが大変なのだ。ここは尊徳の報徳仕法によって建てられた轟村の大島家を復元したものである。茅葺屋根を鋼板で覆ってあるのは消防法によるのだろう。
     「尊徳は農学者ですよね。」ロダンは尊徳の「分度」という言葉が好きだ。報徳仕法がどれだけの効果を齎したかは詳しくないが、安丸良夫によれば、精神主義によって技術改善を図るそのやり方は、通常より過酷な労働を農民に強いるものだった。

    だが、こうした技術改善――農業生産力発展の基本的な方向は、労働過程の質的変革を伴わない労働集約的なものだった。だから、原蓄期の過酷な条件のなかで、こうした技術改善が十分に有効性を発揮するためには、人々は従来よりもはるかに勤勉でなければならなかった。小川誠氏は、報徳運動の指導者であった安居院義道の農業技術体系を検討して、一般水準の二倍以上の多労働を必要とするものだったとしている。(安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』)

     安丸は、一方では主に上流農民層によって担われた石田梅岩流の心学や尊徳の報徳仕法に見られる精神主義、一方では打ち毀しにまで及ぶ百姓一揆を検討し、いずれの場合も幕藩体制の枠組みを越えることが出来なかったのは何故かと問い続けた。枠組みを超える可能性は丸山教や大本教の発生現場にあったと安丸は考えていたが、明治政権の確立と共にその可能性は消滅する。
     私は冷たいとろろ蕎麦にビールの中瓶にしたが、中瓶が六百十円と言うのは少し高くないか。桃太郎も当然のようにビールを注文したが、席の離れたスナフキンが注文していない。「少し飲むかい?」「席が離れてるから飲まなくて済むと思った」とおかしな言い訳をしながら、空のグラスを出す。
     スナフキンやロダンは蕎麦が好きだ。たぶん蕎麦が嫌いだと言う人はいないだろう、そしてこれが「美味い」蕎麦というものなのだろうが、私には蕎麦の味は分らない。蕎麦屋ではカツ丼を注文することにしているが、この店にはそんなものはないから仕方がない。どんなものか分らないで注文したとろろ蕎麦は、もり蕎麦の上にとろろを載せたものである。
     次第に中に入れずに外で待つ客が増えてきた。適当なところで切り上げて外に出る。十一時五十分。

     少し行くと並木が途切れて小さな集落に入った。瀬川である。左手の奥に瀬川の大日堂があり、小さな堂の周辺の草むらに様々な石仏が並んでいる。草むらがデコボコしているので、私は余り近寄れない。
     街道の向かいには七本杉伐採跡(切り株だけ残る)がある。屏風が広がるような切り株からすれば随分太い幹ではないかと思ったが、七本分が根元でくっついていたのだ。更に行けば日光彫「鈴木彫刻工芸」の工房があった。「日光彫っていうのも、やっぱり東照宮建造の名残でしょうね。」
     日光彫とはどんなものか。私は詳しくないのでウィキペディアのお世話になる。

     素材の木材として、トチノキ、ホオノキやカツラを乾燥させて使用する。(中略)
     彫りは、ひっかき(日光三角刀)を用い、木地に模様をひっかき彫、沈み彫、浮し彫などの技法が用いられる。その模様は植物が多く、日光東照宮で多く用いられている牡丹を始め、菊、桜、梅、ニッコウキスゲなどが多い。また平面部分には漆の乗りを良くするために『星打ち』が施される。
     塗りは『日光朱堆塗り』という技法が明治時代以降に定着した。この技法は、彫りが終わった素地に直接朱漆を塗り、その上に黒炭の粉を降って一度黒色とした後に磨き、その磨き具合によって下地の漆の朱色を調節しより立体的に仕上げる。現在は漆は使用せず朱色の顔料を重ね塗りすることが多いと云われる。

     この辺りは野口村になる。五六分歩くと今度は砲弾打込杉に出会う。戊辰戦争の際に新政府軍の砲弾が当たって破裂した跡だというのだが、どれがその跡なのか良く判別がつかない。三本並ぶ杉の左の樹肌が剥がれているのがそれだろうか。慶応四年四月二十九日、土佐軍と日光から出動した草風隊および伝習隊の一部が衝突し、土佐軍の砲弾がこの木を貫通した。旧幕府軍は大鳥圭介、土佐軍は板垣退助が指揮していた。
     「大砲って言っても大したことなかったんだよ。」こういうことはスナフキンが詳しいかも知れない。使われたのはおそらくアームストロング砲ではなかったろうか。イギリスで開発されたが、廃棄処分になったものが南北戦争で使用され、更に南軍のものが英米の武器商人によって日本に齎された。
     「坂本龍馬だって、グラバーの手先だったとも言えるんだ。」スナフキンの言うように、龍馬はグラバー商会のエージェントだったと言って良い。西南諸藩にはトマス・グラバー、奥羽諸藩にはスネル兄弟が武器商人兼軍事顧問として深く関わった。日本の内戦は若い野心家にとっては一攫千金のチャンスである。グラバーは明治になってからは三菱の相談役となり勲二等旭日重光章を授与された。一方、スネル兄弟の兄ヘンリーは平松武兵衛と名乗り、明治になってから会津藩士のカリフォルニア移住(若松コロニー)を推進したが、経営難に陥り日本に金策に出たまま消息を絶った。
     この辺から道は並木の土手上を通るようになる。ギクッ。頻度が増えてきたようだ。「薬は飲んだの?」「もって来たけど飲むのを忘れた。」「今からでも飲みなさいよ。」余り効くとも思えないが、取り敢えず痛み止めを飲む。「ここにも水準点がありますよ。」水準点はロダンの専売特許である。

     緑さす杖を頼れど日光路  蜻蛉

     一本の杉の木の根元に石造の鐘が置いてあるのは野口の薬師堂だ。奥に小さな祠もある。それにしても石の鐘とは何であろう。「鳴るんですかね?」「鳴らないと思うよ。」奉納した時に竜頭が壊れてしまったのでそのまま放置したと言う伝説がある。また野口村では火災が多く、その都度鐘を鳴らしたので、二度と鐘が鳴らないようにと石造にしたと言う伝承もあるらしい。堂の周りには多くの石仏が並んでいるが、一番多いのは如意輪観音だ。
     二十分程歩き、国道と合流する辺りに広場が現れたので少し休憩をとる。有難い。今日の私は気力が薄れている。立ちっ放しだといつ腰に電撃が走るか分らないが、しかしいったん腰を下ろすと立ち上がるのが難儀だ。
     土手の上を歩くと、下を流れる水の勢いが良い。国道に出て五六分歩くと並木太郎が出現した。日光道中で最も大きな杉で、周囲五・三メートル、樹高三十八メートルと言う。真っ直ぐに伸びた姿も美しい。銀杏杉(根元が銀杏のように広がっている)を過ぎた辺りで、スナフキンが土手にカメラを向けている。マムシグサだった。明治天皇七里御小休所の碑が立っている。明治九年(一八七六)の奥羽巡幸の時である。
     志渡淵川が街道と筋違に交差している。その橋が筋違橋だ。川の上流は段差になっていて、水が勢いよく流れている。更に行けば国道の左側に椅子のような窪みのある石があった。異人席石である。腰を下ろしてしまうとまた立ち上がるのが大変そうだから私は座らない。明治になって、外人が石屋に頼んで作らせたもので、その異人は毎日この石に腰かけて杉並木を眺めていたと言う。
     日光杉並木街道の標石が立っている。ギクッ。まただ。「きつそうですね。あのガードがJRですから、もうすぐ日光駅です。そこで休憩しましょう。」ガード下を潜り、少し回り込めばJR日光駅である。駅前の花壇の縁に座り込むと、ビヨウヤナギ(たぶん園芸種)が咲いている。やはり北関東では時期が少しずれているようだ。日光駅と言うのに、駅前には観光地らしき店もなく閑散としている。

    一九二九年(昭和四年)には東武鉄道が東武日光駅まで開通して国鉄と東武の競争が始まった。・・・・東武鉄道に対抗したが、運賃・所要時間ともに東武鉄道の方が勝り、一九八二年(昭和五十七年)に上野から直通する列車が全廃となり、当駅に速達列車の発着は無くなった。二〇〇六年(平成十八年)からJR東日本は東武鉄道と直通しての特急列車の日光乗り入れを再開し、以後は東武日光駅にJRからの直通特急列車も発着している状況にある。(ウィキペディア「日光駅」より)

     ここは東武に敗北した駅であった。少し休憩した後、東武日光駅に回って明日の特急券を買うことになった。歩いて五分程しか離れていないが、こちらの方は余程賑やかだ。窓口には桃太郎に並んでもらい、私はベンチに腰掛ける。貰った特急券は下今市から大宮までである。
     「ここから下今市まではどうなの?」マリーに訊かれても分る筈がない。桃太郎がもう一度窓口に訊きに行って漸く分った。「さっき駅員がちゃんと教えてくれたじゃないか」とスナフキンが指摘する。つまり、ここから下今市までは各駅停車に乗り、下今市で特急に乗り換えるのである。鬼怒川方面から来る電車で、上の記事にもある通りJRが乗り入れて新宿まで行くのだから便利なものだ。
     「蜻蛉は先に旅館に行ってたらどうですか?東照宮までは結構登り道ですから。」そうさせてもらおう。「自分も一緒に行きますよ。一人じゃ淋しいでしょ。」桃太郎の心遣いが有難いが、実は早く飲み始めたいのではないか(邪推してゴメン)。マリーが「よろしくお願いします」なんて頼んでいる。「それじゃ俺のリュックも持って行ってくれよ。」スナフキンのリュックはやけに重い。
     この辺りは鉢石(はついし)宿の入口になるだろう。天保十四年(一八四三)の『日光道中宿村大概帳』によると、本陣二軒、旅籠十九軒、宿内の家数は二百二十三軒、人口九百八十五人である。再びイザベラ・バードを引用してみようか。

    街路はひどく清潔になっているので、応接間の絨毯を泥靴で踏みたくないと同じように、この通りを泥靴で歩きたいとは思わぬであろう。そこには、山の静かな雰囲気が漂っている。たいていの店で売られているのは特産品、漆器、黒豆と砂糖で作った菓子の箱詰め、あらゆる種類の箱、盆、茶碗、磨いた白木作りの小卓、その他に木の根から作ったグロテスクな品物などである。

     「漆器」と言うのは日光彫であろうか。この後、イザベラは金谷氏の家(金谷ホテルの前身)に泊まるとこになるのだが、私たちが泊まるのはそんな有名なホテルではない。宿は日光東観荘だ。桃太郎と一緒にタクシーに乗り込んだ。神橋の脇で大谷川を渡り、上り坂になるとちょっと渋滞している。それでも曲がりこめばすぐで、駅から五分程だった。
     既に日光山内、輪王寺境内である。「ここは伊達政宗の別邸があったところですよ」と運転手が教えてくれた。九百十円。二時五十分である。チェックインは三時だとされていたが、大丈夫だった。代表者の代わりにサインし、三人部屋に案内された。和風旅館で、三階の部屋にあがるのにエレベーターはないから、年寄りはきついかも知れない。部屋は三人なら充分な広さだ。「取り敢えず風呂に入ろうよ。」「ビールはその後ですね。」
     大浴場は離れにあって、最初に教えてもらったのに私は道を間違えてしまう。「こっちでしょう。」風呂は熱過ぎず、私にはちょうど良い。源泉に「加水」「加熱」「循環濾過」の処理を加えた湯である。大浴場には私たちしかいないのは、まだ時間が早いからだろう。それから露天風呂に回る。「日本人って、なんで露天風呂が好きなんでしょうかね。」なんだか得をしたような気になるのだ。露天風呂も今の季節なら良いが冬は結構寒い。湯の表面には虫が浮かんでいる。私のほうが早い筈だから、鍵は桃太郎に預けておいたのだが、結局同時に風呂を上がった。「自分もそうだけど、蜻蛉もカラスの行水ですね。」桃太郎は短時間で何度も入る方式らしい。
     冷蔵庫には中瓶が二本入っていたが、こんなものはすぐになくなってしまう。つまみは買ってきたスルメと乾燥小魚である。酒は四合瓶が三本ある。
     四時半頃になって皆も到着した。姫の資料を見ると、彼らは龍蔵寺、鉢石宿本陣跡、高野本陣跡、観音寺、天海上人像、神橋、杉並木寄進碑、輪王寺黒門を見て東照宮に入り、眠り猫、三猿、鳴龍などを見て来た筈だ。東照宮の中は三度程見ているから惜しくはない。
     スナフキンも風呂から上がってきて酒を飲む。やがて六時の夕食になった。他の部屋の連中はこの時間何をしていたのだろう。
     一人に「日光路麦酒」か、日本酒なら「清開」「四季桜」「霧降」のどれか一合が付く。地ビールに旨いものはないと思っているから私は日本酒を貰う。料理の量が多い。ユバが三種類くらいあっただろうか。味も悪くない。腹一杯になってしまった。
     部屋に戻って再び飲み始めたが、私は八時過ぎには寝てしまった。九時ちょっと前に秋田のYからの電話で起こされると、二人も既に寝ている。大酒飲みの二人にしては珍しいことだ。私もすぐにまた眠ってしまったから、二人が鼾をかいていたかどうか分らない。夜中に一度小便に起きただけで五時過ぎまで眠ったから、かなり疲れていたのである。


     六時頃、スナフキンが起きる気配で一緒に起きた。「二階の音が煩くて眠れなかったよ。」確かに一度目が覚めた時には騒いでいる音が聞こえていたが、私はそれ程気にならなかった。桃太郎は耳栓にアイマスクをしているから、たぶん全く気付いていないだろう。
     風呂に行くと、ちょうどヨッシーが入るところだった。腰には筋肉痛のような張りがあるが、昨日よりは按配が良さそうだ。夜中にそれほど汗をかいた訳でもないから身体を洗う必要もない。一度湯に浸かっただけですぐに出て部屋に戻った。後で戻ってきたスナフキンが、「ホントにカラスの行水だな」と驚いたように笑う。酒は二本空になっていて、久保田の萬寿は手つかずで残っている。
     朝飯は七時だったか、七時半だったか。「七時だよ。」ロビーに降りるとお園さんとマリーがいて、「七時半よ」と言う。彼女たちはコーヒーを飲んでいる。朝飯前にコーヒーは飲みたくない。土産は何にしよう。煎餅にしようかと思ったが、女性の多い職場なら甘いものが良いと言うスナフキンの意見に従って、三猿の人形焼にした。十個入りを二つ、味は全く不明だ。
     飯は正しい日本の旅館の朝飯であった。塩鮭、納豆、海苔、玉子、豆腐、梅干し、味噌汁。山口瞳は、この組み合わせは日本酒に最も合うと言っていた。お園さんは納豆を食べないと言うので私が貰い、ご飯は三杯食べた。どう言う訳か旅館やホテルに泊まると朝飯が進むのである。
     出発まで一時間ほどあるので、スナフキンに案内してもらって近所を歩くことにした。精算を済ませてリュックはフロント前に預かってもらう。昨日は気づかなかったが、玄関を出るとすぐに、杉林の中に朱塗りに流造の小さな堂が建っている。これは小玉(児玉)堂。伝説によれば弘法大師が瀧尾で修業中、池の中から大小二つの玉が飛び出した。そこで大は妙見大菩薩、小は虚空蔵菩薩の本尊とした。その小玉を祀るお堂であった。江戸初期の建築である。つまり輪王寺の境内に入っていることが分るのだ。
     駐車場にはまだ車は多くない。「わナンバー、レンタカーが多いんだ。」スナフキンの昨日の観察らしい。「日光火之番八王子千人同心顕彰之燈」と記された背の高い常夜灯がある。千人同心は百人十組で構成され、そのうち二組から各五十人の計百人が五十日交替で日光に勤めた。我が家の近く(鶴ヶ島)にも日光街道と呼ばれる旧道が残されているが、これが千人同心街道である。八王子から日光まで、三泊四日で歩いたようだ。
     勝道上人像を見て、参道の階段下を通り、神橋から天海大僧正像を見る。天海は東照大権現の神号を主張した人物である。崇伝は吉田神道に基づいて「明神」を主張したが、山王一実神道に拠る天海の政治力が勝った。秀吉が豊国大明神だったので、それを嫌ったということもあるだろう。「権現」とは、本地仏が仮(権)に神の形をとって現われたという意味である。そして家康の本地仏は薬師如来とされた。
     「もう戻らなくちゃ。」私は走れないが、できるだけ急がなければならない。間に合うだろうか。宿に戻ったのは九時五分前だ。

     「それじゃ出発しましょう。」今日は大猶院から始めるのだ。「取り敢えず勝道上人の所に行きましょうか。」清晃苑の前を過ぎて駐車場を通ると、この一時間で車が随分増えている。
     勝道上人像。「仏教ですか、神道ですかね?」「修験道と言うべきだろうね。」修験は役小角に始まる山岳信仰である。古来の神と密教を習合した。明治の神仏分離によって修験は単独での活動を許されなくなったが、江戸時代の農村には里山伏の制度もあって、民間の信仰を集めていた。
     勝道上人が実在したかどうかは別として、山岳修験の誰かが二荒山(男体山)を神体として崇めてこの地に神を祀り、千手観音を安置する堂を建てたのが二荒山神社と輪王寺(当時は満願寺)の始めである。もう何度も書いているように神仏習合だから、二荒山神社と輪王寺は一体であった。因みにフタラサンは補陀落山(観音菩薩の住処)の訛りだとの説がある。
     「表参道を通って、五重塔の手前を左ですね。」地図を確認して姫が宣言する。杉の間から五重塔が見える。参道脇を流れる水が冷たそうだ。土手に咲く白い花はユキノシタか。オカチャンは少し違う種ではないかと言う。「葉の形が違うようだから。」
     二荒山神社の鳥居を眺めれば、すぐに大猶院だ。家光の廟所であるが、今は特別に家康の位牌を公開しているらしい。拝観料五百五十円也。家光は鎖国をしたから嫌いだと、訳の分からない理由で中に入らない人がいる。
     鎖国のために西洋の文物が途絶え、日本の近代化が遅れたと誤解している人は多い。しかし十六世紀のスペイン・ポルトガルがカトリック宣教師を尖兵としてアジア侵略を狙っていたのは間違いないのであり、これらの国を排除したのは当時としては当然の政策である。そして「鎖国」という文字面に騙されやすいが、これは鎖したのではなく、窓口を一本化し独占したということである。最近の研究では「鎖国」という用語自体の見直しが始まっている。いわば管理貿易体制と言うべきもので、オランダや清国を通じて西洋文化や情報は途切れなく流入していた。それが日本蘭学の発展に結びついた。
     先ず仁王門を潜ると、内側には金細工の蓮が飾られていた。「水は冷たい?」「冷たい。」鍋島勝茂が寄進した御水舎である。天井には狩野永信安信の龍の絵が描かれている。二天門は工事中らしいシートで覆われ、入れないかと思ったが通ることはできる。その先は長い石段が続いている。「エーッ、ここを登るの?」中央に手摺が設置されているので登りやすい。
     広い敷地に出ると、左右に鐘楼と鼓楼が対になって建つ。黒を主体にして屋根の周囲に金箔が施されている。上に続く石段の下には銅灯籠が並ぶ。大猶院全体では、銅灯籠六十六基、石燈籠二百四十九基が置かれている。ここは展望所にもなって下を眺める。
     石段を二十段程登れば夜叉門だ。「これは何なの?」それぞれの名前なんか勿論知っている筈もないが、ヤシャあるいはヤクシャである。「元々ヒンドゥの鬼だよ。」阿跋摩羅(あばつまら)、毘陀羅(びだら)、烏摩勒伽(うまろきゃ)、犍陀羅(けんだら)。
     天衆、龍衆、夜叉衆、乾闥婆衆、阿修羅衆、迦楼羅衆、緊那羅衆、摩睺羅伽衆の八つを天龍八部衆と呼ぶ。これらはみな古代ヒンドゥの神々(善神も悪神も)で、これらを取り入れなければ仏教は広まらなかった。因みに阿修羅はペルシアのゾロアスター教ではアフラ・マツダと呼ばれた最高神であったが、インドに流れて帝釈天と戦う悪神となっていたものだ。仏教はその最初から民間信仰と習合していたので、日本の神仏習合だけが特殊な訳ではない。
     そして最後の拝殿に辿りついた。黒塀が巡らされて、唐破風には金箔がふんだんに使われている。「説明してくれるって言うから、急いで。」靴を脱ぐのも大変だ。何とか座り込んで靴紐をほどき、畳の上に座った。少し遅れて姫も座った。
     説明してくれるのは若い女性である。相の間に家康の位牌が置かれていた。これが四百年振りに公開されるというものだ。その奥が本殿となっている。
     天井には百四十枚の龍の絵が描かれている。襖には狩野探幽の唐獅子の絵が描かれている。家光十五歳に着用した甲冑は随分大きい。「重さは五十キロありました。」家光の身長は一五七センチという説があり、それからすれが大き過ぎる。
     写真を撮りたいが内部は撮影禁止だ。女性はいろいろ説明してくれるが、結局観光客に特製の鏡を売り込むのが目的だったようだ光輪瑞鳥鏡というもので、頒価五千円である。誰も買わないだろうね。

    この鏡は徳川家康公四百年御遠忌を記念して特別に出された縁起物です。
    鏡には風神・雷神のお姿が浮かびあがりご家庭の家内安全・病気平癒・心願成就など様々なお願い事が叶うように末永くおまつりすることが出来ます。
    光輪瑞鳥鏡には「まつり方の説明書」と「御仏前回向(御先祖供養)はがき」が同封されます。

     内庭に出ると、建物の外観にも金が無尽蔵に使われているように見える。右手の黒門を潜れば竜宮門があって、その扉は閉ざされている。これが皇嘉門で、その奥が家光の墓所となっているのだ。
     「良かったね。」「五百五十円の価値は充分にあったよ。」東照宮には何度か来たことがあるが、ここは初めてで、良いものを見た。感動したオカチャンは、通りすがりの赤の他人にも「素晴らしいですよ」と吹聴する。「オカチャンは感激家ですね。」「人柄だよ。」
     徳川将軍家が、政治的にも財政的にも最も力のあった時代の記念碑である。「蜻蛉が階段をスイスイ降りていく。不思議だわ。」姫は下りの階段が苦手な人だった。

     西参道を通って輪王寺の外に向かう。ガイドに率いられた団体が通るが、指示に従わないで勝手な行動をしている年寄にガイドが手を焼いている。「結局諦めたみたいだね。」ガイドは旗を掲げたまま、団体を無視してさっさと歩き始めた。どこにでも我儘な年寄というものはいるのだ。
     国道一二〇号に出た。日光ロマンチック街道と名付けられている。「山が近いですね。」「新緑がきれいだよ。」日光奉行所跡。

     元禄十三年(一七〇〇)に、日光山守護として四十余年を日光廟に尽くした梶定良(かじさだよし)の屋敷を役宅として日光奉行所が置かれ、寛政三年(一七九一)役宅に接して役所が建てられた。日光奉行は、日光廟の警備、営繕、祭事一切をつかさどるほか、日光領の司政や裁判を行った。明治二年(一八六八)に日光県が置かれその庁舎にあてられたが、同四年、廃県とともに建物も取り壊された。(案内板)

     「あそこのローソン、見てよ。」道路の反対側を見ると、二階建ての外壁が蔦で覆われている。姫は日光カステラ本舗で足を止める。「アイスを食べましょう。」私は外の喫煙所で待つことにした。それにしても皆はなかなか出て来ない。桃太郎はレモン牛乳を飲みながら出てきた。中に入ってみると、土産物屋になっているのだ。「その猫が可愛い。」箱に猫の絵が描かれているだけなのだが、そのカステラを買うために姫は奥に入って行く。
     青龍神社には寄らない。金谷ホテル歴史館がある。庭の奥を覗き込むと二階建ての和風建築だ。もしかしたらイザベラ・バードが宿泊したのはこの建物ではなかったろうか。金谷ホテルのHPを見てみよう。

     一八七〇年(明治三年)、アメリカ人宣教医ヘボン博士が日光を訪れた際に自宅を宿として提供したのが東照宮の雅楽師を勤めていた金谷善一郎です。日光を訪れる外国人の増加を見越した博士は善一郎に外国人専用の宿泊施設を作ることを進言。この言葉を受けて善一郎は民宿創業を決意し、四軒町(現在の本町)の自宅を改造して、一八七三年(明治六年)に「金谷カテッジイン」を開業しました。これが金谷ホテルの始まりです。
     一八七八年(明治十一年)ヘボン博士の紹介でカテッジインに逗留した英国人旅行家イザベラ・バードは、著書「日本奥地紀行」の中で日光や金谷家の様子を率直な言葉で綴っています。金谷家の家屋は江戸時代には武士が住んでいたことから外国人客の間ではSamurai House(侍屋敷)と呼ばれていました。百四十年以上を経た今日まで当時と同じ場所に保存されています。
     一八九三年(明治二十六年)、善一郎は三十の客室を備えるホテル「金谷ホテル」を大谷川岸の高台にオープンさせました。明治、大正、昭和そして平成へと時代が移り変わる中、金谷ホテルは日本最古のリゾートホテルとしての伝統と誇りを大切にし、長年培ったおもてなしの精神を受け継ぎ今日に至っています。http://nikko-kanaya-history.jp/

     やはりそうだった。時間があればぜひ見学しておきたい場所であるが今回は寄らない。それなら実際にどんな家だったかはイザベラの文を読んでみればよい。

     ・・・・・家は簡素ながらも一風変わった二階建てで、石垣を巡らした段庭上に建っており、人は石段を上って来るのである。庭園はよく設計されており、牡丹、あやめ、つつじが今花盛りで、庭はとてもあざやかな色をしていた。ちょうど後ろにそびえている山は、すその方が赤いつつじで覆われていた。(中略)
     金谷さんの妹は、たいそうやさしくて、上品な感じの女性である。彼女は玄関で私を迎え、私の靴をとってくれた。二つの縁側はよく磨かれている。玄関も、私の部屋に通ずる階段も同じである。畳はあまりにきめが細かく白いので、靴下をはいていても、その上を歩くのが心配なくらいである。磨かれた階段を上ると、光沢のあるきれいな広い縁側に出る。ここから美しい眺めが見られる。縁側から大きな部屋に入る。(中略)
     ・・・・・別の綺麗な階段を行くと浴室と庭園がある。私の部屋の正面はすべて障子になっている。日中には障子は開けておく。天井は板張りで、黒ずんだ横木が渡してある。天井を支えている柱はうす黒く光沢のある木である。鏡板は空色の縮み紙に金粉をふりまいたものである。一方の隅には床ノ間と呼ばれる二つの奥まったところがあり、光沢のある木の床がついている。一つの床の間には掛物(壁にかけた絵)が描けてある。咲いた桜の枝を白絹の上に描いた絵で、すばらしい美術品である。これだけで部屋中が生彩と美しさに満ちてくる。(『日本奥地紀行』)

     長くなり過ぎるからこの辺でやめておくが、英国夫人が日本の中流階級の家の美しさに感動しているのだ。イザベラはこの家に二週間も滞在し、日光の風景に感嘆するのである。そしてこの後、東北から北海道まで足を伸ばす。
     少し先で左に曲がれば日光田母沢御用邸記念公園である。日光市本町八丁目二十七番。私はここに御用邸があるなんて知らなかった。現在は那須、葉山、須崎の三ヶ所にある。「今日は無料だよ。」「ラッキー。」今日は栃木県民の日で、入場が無料になっている。

     日光田母沢御用邸は、日光出身で明治時代の銀行家・小林年保の別邸に、当時、赤坂離宮などに使われていた旧紀州徳川家江戸中屋敷の一部(現在の三階建て部分)を移築し、その他の建物は新築される形で、明治三十二年(一八九九)に大正天皇(当時 皇太子)のご静養地として造営されました。その後、小規模な増改築を経て、大正天皇のご即位後、大正七年(一九一八)から大規模な増改築が行われ、大正十年(一九二一)に現在の姿となりました。
     昭和二十二年(一九四七)に廃止されるまでの間、大正天皇をはじめ、三代にわたる天皇・皇太子がご利用になりました。戦後、博物館や宿泊施設、研修施設として使用された後、栃木県により三年の歳月をかけ、修復・整備され、平成十二年(二〇〇〇)に記念公園として蘇りました。
     建物は、江戸時代後期、明治、大正と三時代の建築様式をもつ集合建築群で、現存する明治・大正期の御用邸の中では最大規模のものです。これらの建物や庭園から、当時の建築技術や皇室文化を垣間見ることができます。http://www.park-tochigi.com/tamozawa/

     靴を脱ぎ、荷物はまとめて玄関脇の小部屋に置く。室内でストックを突く訳にはいかないから、ストックも置いた。大丈夫かな。床面積千三百五十二坪、室数百六と言うから驚く。純粋な日本建築だが、内部の多くは絨毯を敷き詰めて、洋風な生活ができるようになっている。木材はおそらく最高水準のものを使っているだろう。様々な金具、畳の縁の種類の多さ。本来御用邸とは避暑避寒、つまり休息のために滞在する場所だとすれば、御用邸に謁見室があるのは珍しいだろう。玉座はあるが、大正天皇は立って引見したと言う。
     要所々々に係員がいて多少の説明を加えてくれる。「昭和十九年、今上陛下が疎開生活を過ごしました。」それなら集団疎開ではなく単独だったのだろうか。調べてみると、十九年五月、学習院初等科四年生以上は沼津に集団疎開し、皇太子も同行している、但し一般生徒とは別に沼津の御用邸から通学した。
     しかし沼津は危ないと言うことで、今上(当時皇太子)は七月には田母沢に移った。夏休みが終わって、学習院三年生・五年生の次の疎開先は日光に決まる。三年生五十名は金谷ホテルの大広間を仕切って使い、五年生五十四名は御用邸に隣接していた東京帝大理学部付属植物園内の建物を使った。つまり皇太子は一般生徒と同じ授業は受けるものの、生活の場は別だったのである。二十年七月には奥日光湯元に移動し、終戦を迎えるのである。(青木哲夫「明仁皇太子の『集団学童疎開』」より)
     ビリヤード室もある。「不思議に思えるかも知れませんが、ポケットがありません。当時は四つ球という遊び方だったそうです。」同年代に見えるが、知らないのだろうか。私が学生時代にも四つ球だったのに、今では知る人もいなくなったのか。
     手玉(白)二つ、赤玉二つを使う。手玉を打って赤と白に当てれば二点、赤と赤に当てれば三点、赤赤白の三つに当てれば五点だったか。当て続ける限りプレーが続けられる。「マッセなんてやったよな。」キューを立てて上から打って球にスピンをかけるのだが、私の持ち点ではやってはいけないことになっていた。下手な人間がやると羅紗を傷つけてしまうのである。ビリヤードは三四回やっただろうか、ちっとも上達しないうち、興味は麻雀に移って行った。
     「そこの枝垂れ桜が見事なんですよ。」今は勿論咲いていない。それでは庭に出てみよう。玄関に戻るのに迷子になってしまいそうだ。
     御用邸として使われていた時代は敷地面積が三万二千坪あったが、現在は一万一千九百坪に縮小した。とは言っても広いことに変りはない。池の周りに青いアヤメと並んで赤いクリンソウが群生している。こんなにたくさんのクリンソウを見たのは初めてだ。防空壕入口跡の穴は鉄格子で塞がれている。塀の向こうに新しそうな蕎麦屋の暖簾が見える。
     入口に戻ったが女性陣はまだ帰ってこない。案内のオジサンが私のストックを見て、山に行ってきたのかと尋ねてくる。「そうじゃなくて、昨日、イマイチから歩いてきた。」「さっき、女性がそう言ってた。ご苦労様です。」十分ほど待ってやっと全員が集まった。「お昼はどうしましょうか?」「すぐそこに蕎麦屋があったよ。」
     十一時五十分。日光そば処たくみ庵である。日光市匠町七丁目四十六番。私たちが入ったときは客は誰もいなかったが、続々と入ってくる。私は湯葉そばに中瓶を頼む。「さざれそばってどんなものですか?」壁にポスターが貼ってあるのだが、メニューにはない。「うちのおそばは全部、さざれそばなんですよ。」品種なのか製法なのか。

    ~さざれそばとは~ 日光山麓の鹿沼市上永野産の選抜された小粒在来種。永野地区は、地下の石灰質の土壌がそば生産に適しており、また山にかこまれた上に沢になっている地形で、他の地区と隔離されており、多品種との交雑が殆どないところです。
    http://rsv.rurubu.travel/PlanDetail.aspx?st=3316026&sk=A8&pc=B2CEHTL&rc=656&rv=10

     さざれそばとは品種であった。これを冷たい清流に晒してアクを抜き、氷点下の寒風で甘みを育てるものらしい。
     ビールがなかなか出てこないのは、若いニイチャンの手順が悪いのである。やっとビールと突き出しが出てくると、今度は箸がない。突き出しは洒落た味なのだが、爪楊枝で食うのは風情がない。オカチャンが箸を頼んでくれたのでやっと出てきた。
     ゆばそばは、もりそばの上にねっとりとした生ゆばが大量に載っているものである。塩味のない、とろけるチーズを連想すればよいか。見かけは姫が頼んだとろろそばと似ている。夕べから湯葉を食っているが、どうやら湯葉はほんの少量をつまむのが良いのではないか。これだけの量だといささか飽きてしまう。
     店に入れずに外で待つ客も出始めたのでそろそろ出よう。オカチャンは一人で会計を済ませ、姫、すなふきん、蜻蛉はまとめた。しかしニイチャンは計算ができない。「三千九百円です。」「そんな筈はないな、慌てずにもう一度計算してみな。」ひとつづつ、私が読み上げて計算すると三千二百円である。「そうだろう。」私が握っている金額とぴたり合った。
     ロマンチック街道に戻る。この通りにはカステラ本舗の店が多い。百メートルに一軒あるのではないだろうか。「こんなに「カステラが有名なんて知らなかったわ。」日光で何故カステラか、日光カステラ本舗のHPはこんなことを言っている。

     江戸時代、他の国々より特権を与えられたオランダ国は徳川幕府に感謝し、毎年長崎出島の商館長が江戸参拝の際に カステラを将軍に献上し、東照宮へ灯籠を奉納する折にも神前に献上されたと思われます。
     そこに当店は着目し、金箔は東照宮陽明門、抹茶カステラは日光杉並木をイメージして作られたのが始まりです。http://www.nikko-castella.jp/why_castella.html

     オランダ商館長が東照宮にカステラを献上したと「思われ」るというのだから、根拠は薄弱というより、店の勝手な宣伝である。「コップを買わなくちゃいけないんだ。」電車の中で酒を飲むためにはコンビニでコップを買う必要があるのだが、コンビニがなかなか見えない。
     やがて国道の右手は大谷川になった。ダイヤガワと読む。中禅寺湖に発して日光市町谷で鬼怒川に合流する。神橋は小さな橋だが、山を背景にすると美しい。川を渡ると、金谷ホテルの前には板垣退助の像がある。戊辰戦争で焼き討ちされる筈だった日光山内だが、無血開城を迫った板垣の説得で幕府軍は退却し、新政府軍は攻撃を止めた。自由民権運動においては、板垣はダラ幹と呼ぶしかない行動をとったが、三十二歳のこの時にはなかなかの指揮官だったことになる。
     しかし、大鳥圭介が板垣の説得を入れて退却したというのは本当だろうか。谷千城によれば、日光山内攻撃は軍議で決定していた。ところが行ってみると旧幕府軍はすでに退却していてもぬけの殻だった、というのが真相らしい。山内に立て籠もっても補給が続かなければどうしようもない訳で、大鳥は戦術として会津での戦いを選んだのだと思われる。そうでなければ、任務を放棄したと言われて八王子千人同心の組頭が自害するはずがない。新政府軍がやってきた時点で、山内に残っていたのは千人同心だけだったのではあるまいか。
     「観音寺に行きます。」日光市上鉢石町一〇〇三番地。かなり急な坂道を上って境内に入る。観音堂はまだ石段を登った先にあり、オカチャンとダンディは登って行った。石段の脇には如意輪観音の十九夜塔や庚申塔などの石仏が並んでいる。
     境内にはガラスをはめ込んだ常夜灯があった。鐘楼の脇の案内板には「夏季午後六時 冬季午後五時 時を告げる鐘です。この時刻以外に撞くことはご遠慮ください」と書かれている。「その時刻だったら勝手に撞いて良いのかしら。」
     案内板によれば、弘仁十一年(八二〇)、弘法大師による開基と伝える。中世には六つの支坊を擁する真言密教の道場だったが、戦国末期に衰退。寛永四年(一六二七)に天海大僧正から「鉢石山無量寿院観音寺」の三号を賜り天台宗に改宗した。
     観音堂には空海自刻とされる千手観音が収められていて、年に一度開帳される。「騙されたな、扉が閉まっていて中が見えないんだ。」ダンディが戻ってきてそんなことを口にするが、誰も騙していない。そもそも秘仏が常時開帳されると思う方がおかしい。
     法事客に、裏から降りれば市役所裏に回れるとスナフキンが訊いたが、姫は元の道を戻ることに決める。「しそ巻き唐辛子のお店が市役所のこっちだったか、向うだったか忘れてしまったので。」桃太郎がそれを買いたいと言っていたのだ。
     もう一度急な坂道を降りると、国道の向かいに吉田屋羊羹本舗があった。日光市中鉢石町九〇三番地一。二軒先には鬼平の羊羹本舗(日光市中鉢石町八九八番地)もあるが、ヨッシーによれば吉田屋がお勧めである。古い木の看板には「日光煉羊羹 下野国日光山御用」の文字が入っている。金色の三葉葵と巴紋が並んでいる。大半はこの店に寄って水羊羹を買う。姫と桃太郎はしそ巻き唐辛子を目指して先を行く。
     「あれが市役所だよ。」白壁に千鳥破風を使った瓦屋根の庁舎は珍しい。桃太郎の目指す落合商店はその先にあった。日光市下鉢石町九三八番地。「元祖しそ巻とうがらし」を名乗る店である。店のHPを見てみた。

     志そ巻きとうがらしは、日光修験が体を暖める耐寒食として愛用したことから起こったといわれ、日光東照宮造営以後は、日光詣りのお札にそえる「日光みやげ」にされたといわれています。このことにより、志そ巻きとうがらしは「日光とうがらし」ともいわれています。(中略)
     そんな修験道と共に三百年前から伝わるのが志そまきとうがらしです。当店は古くは輪王寺へ供物を納める店でもあり、江戸末期から明治初期頃から志そまきとうがらしの本格製造をはじめ、現在では日光で唯一の製造元となり、伝承三百年の志そまきとうがらしを中心に日光伝統のたまり漬など幅広く販売しております。
     このとうがらし一本のビタミンCはレモン十個分に相当するほどで、山にこもって修行する修験者たちの知恵ある食べ物でもありました。
    http://www.shisomaki.com/rekishi.html

     通りには骨董屋というか古道具屋というか、そんな店が目立つ。そんな中の一軒にスナフキンが立ち寄った。「これが千円だぜ。」こけしである。高いか安いか分らない。そもそも日光でこけしとはあまり聞いたことがない。「どこのものですか?」しかし店主は「分りません」と呑気な返事をするだけだ。いい加減ではないか。それでもスナフキンはそれを買う。しかし後で覗いた別の店では似たようなこけしが五百円で売っていた。
     伝統こけしは、その殆どが東北で作られる。作並こけし(仙台市、作並温泉、山形市、米沢市、寒河江市、天童市・宮城、山形)や鳴子こけし(鳴子温泉・宮城)が有名だが、他に土湯系(土湯温泉、飯坂温泉、岳温泉・福島)、弥治郎系(白石市弥治郎・宮城)、遠刈田系(遠刈田温泉・宮城)、、蔵王高湯系(蔵王温泉・山形)、肘折系(肘折温泉・山形)、南部系(盛岡、花巻温泉・岩手)、津軽系(温湯温泉、大鰐温泉・青森)などがあり、秋田のものは木地山系として独立している。私が高校生の頃、秋田の木地山には小椋久太郎という名人がいた。
     通りの向かい側にコンビニがあったのでスナフキンが行ってくれた。少し遅れて酒の袋を下げた桃太郎も行った。酒は一本残っているはずだから、これで二本になる。「どうだった?」「あったよ。今日はやたらに紙コップが売れるって言ってた。みんな部屋で飲むんだな。」
     「お団子の匂いが。」宮前団子。日光市下鉢石町九五六番地。享保八年創業という店であった。一応宣伝を引いておくか。

     自家製無添加の宮前だんごはもち米を一切使用しないで米と米粉を用いたやや楕円形状のだんごに、秘伝のたれを溶いた味噌をつけて焼き上げ、最後に黒砂糖のたれをのせて古来の懐かしい風味を残しています。http://miyamaedango.dohome.net/miyamae.html

     ウィンドウに強飯式の紹介ポスターと、山盛りの飯椀が置かれている。輪王寺の春の行事で、毎年五月二日に行われるものだという。山伏姿の僧侶が、裃を着けた挑戦者(強飯頂戴人)に飯を強いるのである。山盛りの椀は三升飯であるが、江戸時代には十万石以上の大名が藩の名誉を賭けて頂戴人を出したと言う。体に悪そうな行事だ。
     日光市郷土センターで休憩する。日光市御幸町五九一番地。ここでもそうだが、市内のあちこちで美味しい水を飲ませるコーナーが作られている。その向かいに「元祖ゆばそば」を掲げる蕎麦屋「魚要」がある。日光市御幸町五九三番地。「そこが入江本陣の跡です。」この店のゆば蕎麦は、さっきの店のような生ではなく、甘辛く煮つけたものだ。日光では湯葉ではなく湯波と書くらしい。

     日本で最初にゆばの伝わった比叡山麗の京都や近江(現在の滋賀県大津市)、古社寺の多い大和(奈良県)、そして日光(栃木県)、身延(山梨県)といった古くからの門前町が産地として有名で、京都と大和、身延では「湯葉」、日光では「湯波」と表記する。(中略)
     京都の湯葉は膜の端に串を入れて引き上げるため一枚なのに対し、日光の湯波は膜の中央に串を入れて二つ折りにするように引き上げるため二枚重ねとなる。このため、京都のものは薄く、日光のものはボリューム感があるものになる。
     また、関西の湯葉は生または自然乾燥させることが多く、日光は生または油で揚げられることが多い。(ウィキペディア「ゆば」)

     まだ一時間以上もあるので、駅前のカフェで時間調整をする。こういう店ではコーヒーか紅茶を注文すべきだろうが、私はトマトジュースにした。オカチャンはケーキなんか注文している。私はこういう人が分らない。
     オカチャンとダンディは二時半頃のJRに乗ると、早々と出ていった。姫は我々より早い十五時五分発の浅草行きをとったので、早めに出る。その前に水羊羹を買うらしい。残されたものもそれから少したって店を出た。
     少し早目の各駅停車に乗り込むと、目の前に姫が座っている。下今市のホームは狭い。姫が浅草行に乗り込むと、桃太郎はすぐに酒のキャップを開け始める。「向こうが空いてるよ。」ホームの端のベンチに腰掛けて、私も酒を貰う。乗ったのは十五時二十九分発の「スペーシアきぬがわ」である。ヨッシーが取った特急券は車両が違うのだが、問題なく座ることができた。
     私は昨日食べなかったつまみを出し、ヨッシーのリュックからも大量のおつまみが出てきた。あまり飲まない人なのに、こういうものはいつも持っているのが不思議だ。二本の酒が空いた頃、大宮に着いた。十六時四十五分。マリーとお園さんは浦和まで、ヨッシーは池袋まで行くのでここでお別れだ。
     さてどこに行こうか。適当に歩いて初めての居酒屋に入り、ヌル燗を飲む。「新宿に行こうか?」彼らの肝臓はどうなっているのだろう。私はまだ腰に不安がある。「行かないよ。」「それじゃしょうがない。」
     不安を抱えた日光一泊旅行も無事に済んだ。三年四ケ月もの長丁場を企画先導してくれたあんみつ姫にはいくら感謝しても足りない。十月からは新しい企画で青梅街道編が始まることになっている。

    蜻蛉