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    日光街道 其の六  白岡から幸手まで
       平成二十六年四月十二日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2014.04.20

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     旧暦三月十三日。二三日前の強風でソメイヨシノは殆ど終わってしまった。我が家の近所ではハナミズキが咲き始め、ドウダンツツジの小さな花もかなり開いてきている。もう春も終わりか。二日前に私は六十三歳になった。後でロダンが、「いつまで経っても二歳の差が埋まらない」なんておかしなことを言った。ロダンも四月生まれである。
     この頃、昼は上着がいらない程の陽気になるが、夜が冷えるので着るものが難しい。取り敢えずリュックの中にセーターを放り込み、薄手のジャンパーを着てみた。
     宇都宮線の白岡駅に着いて階段を上ったところで、ダンディと講釈師が改札も出ずに窓際に立っている。煙草を吸いたいのですぐに改札を出ると、見覚えのある人が正面を見据えている。オカチャンだ。前回の里山ワンダリングで初めて会ったばかりだが、丁寧に挨拶をしてくれる。腰の折れ具合が私の不作法さとは全く違う。「歩いてきたんですよ。地元ですから。」
     定刻までに十一人集まった。あんみつ姫、若旦那、若女将、マリー、講釈師、ダンディ、ヨッシー、オカチャン、スナフキン、ロダン、蜻蛉。
     「今日は帽子のことを書いてくれる人がいない。」宗匠がいないからとダンディがぼやくのは、つまり私に書けと言っているのだ。白地に、小さなダビデの星の六芒星を散りばめたキャップだ。若旦那も珍しく青いキャップを被っている。サイズを調整する部分にイタリアの三色国旗がついたものだ。
     二月は大雪で延期になっていたので、日光街道も去年十二月以来だ。「もう下見の時のことは忘れているかも知れません」と姫は講釈師向けの言い訳を口にする。街道に入れば一本道だから迷うことはないだろう。

     東口を出てすぐ、黄色いタンポポの広がる草叢で姫がシロバナタンポポを見つけた。三本、四本、結構あるではないか。「先日も見ましたよね。」狭山丘陵の雲性寺で一輪見つけたのが珍しかったが、こんなに何本もまとまっているのはもっと珍しい。「純国産ですよ。」西洋タンポポの間で在来種が頑張っている。
     「これがキュウリグサです。揉むとキュウリの臭いがするんです。」姫が折り取って渡してくれるが、特にキュウリの臭いというほどでもない。「青臭いとは思いますがね」とロダンも笑っている。薄青い五弁花は直径五ミリほどの小さなものだ。ムラサキ科キュウリグサ属。
     写真を撮っているうちに少し遅れて信号を渡ると、姫を先頭に先陣グループは立ち止まっている。「名残りの花ですよ。」まだ散らずに残った一本の桜を眺めていたのだ。「名残のなんとかって、聞いたことがあるような気がする。」「バッカだな、浅野内匠頭じゃないか。」このやり取りはなんだかおかしい。浅野内匠頭の辞世は「花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものは我が身なりけり」である。大した歌だとは思わないし、名残の花とは関係ないのではないか。
     かなり広い道の両側には新興住宅地が広がる。「バイパスなんです。まだ全部つながっていません。」「この辺一帯は畑か田圃だったんでしょ。」「田圃です。田舎だったんです。」それもやがて忘れられてしまうだろう。白岡から大宮までは十五分、湘南新宿ラインの開通以来、充分通勤圏内に入った地域だ。
     ウィキペディアによれば、『週刊東洋経済』(平成二十四年十月十三日号)の特集「日本のいい街二〇一二」で、白岡市は「裕福な街ランキング」で埼玉県四十市中第一位、「発展力のある街ランキング」で同じく一位を獲得した。フーン、そうですか。白岡町時代も含め、人口は平成八年以来増加を続けている。
     「あの紫の花はなんですか。」ロダンの質問に、「ダイコンの花だよ」と講釈師が答える。「ダイコンの花って白いんじゃなかったかな。森繁とか竹脇無我のテレビで見ましたよ。」調べてみると、昭和四十五年から五十二年まで放映された『だいこんの花』である。テレビを持っていなかった時期で、私が覚えていないのは当たり前だ。
     ハナダイコンと呼ばれるが大根の種類ではないから、根っこではなく若い葉を食べる。アブラナ科オオアラセイトウ属で、ムラサキハナナ、ショカツサイとも言う。「ショカツサイ?」ヨッシーが訊きかえす。「諸葛孔明が救荒作物として広めたっていう伝説があるんですよ。」葉が食用になるし、種からは油が採れる。
     歩いているうちに暑くなってきたので、ジャンパーを脱いでリュックにしまった。東北自動車道の下を潜ると梨畑に出た。枝を這わせた低い棚に、白い花が盛りに咲いている。「中央が紫なんですよね」と姫は言ったようだが、紫のようには見えない。後で写真をじっくり観察すると、雄蕊の先が紫色をしていた。「間引きして、受粉させてさ。梨の栽培は大変なんだ。」講釈師は自らが梨栽培農家のような顔をする。「老夫婦だけになってさ、人を雇うわけにいかないんだよ。」
     「長十郎ですか、二十世紀ですか。」ロダンの発言は余りに古くて、「それは古い」と皆が笑う。「今じゃそんなの作ってないよ。」長十郎は川崎で発見され(スナフキンの案内で川崎を歩いた時に知った)、二十世紀は松戸で発見された(これも姫の案内で松戸歩いた時に確認している)が、今ではもっと甘くて柔らかい品種が主流となった。「今は幸水とかさ。あと何だったかな。」なんでも知っている講釈師でも言葉が出てこないことがある。白岡が梨の産地だとは知らなかったが、白岡市観光協会の記事を見てみよう。

    明治時代から栽培の歴史を持つ白岡の梨は、今では埼玉県内有数の生産量を誇るおいしい梨です。『白岡美人』の愛称で親しまれる白岡産の梨は、甘くてジューシー。毎年食べたくなるおいしい特産物です。

     「幸手もそうだよ。」講釈師によれば、幸手にも梨もぎの農園が多くあるらしい。梨は埼玉県にとっても重要な農産物で、平成二十四年の統計によれば生産量は全国十一位だ。品種別では「幸水」が六〇%、「豊水」が二十二%、「彩玉」が七%、「新高」が七%となっている。これでは二十世紀にも長十郎にもお目にかかれないわけだ。因みに梨の生産量全国一位は千葉県だ。埼玉県に梨を広めたのは五十嵐八五郎という人物で、千葉で修業した経験を持つ。どんな分野にも先覚者がいる。

     一八五四年(安政元年)に当時の武蔵国埼玉郡臺村(現埼玉県久喜市菖蒲町台)に生を受ける。一八七一年(明治四年)に群馬県勢多郡大島村(現前橋市)に赴く。その地で梨栽培に興味を抱き、梨栽培技術の研究に励む。そして群馬県・千葉県でそれぞれ一年ずつ梨栽培の修行をし、埼玉県幡羅郡三ヶ尻村(後の大里郡三尻村、現熊谷市)で八年、計十年間梨の栽培実地研修を行った。一八七六年(明治十三年)十一月、大里郡武川村(現深谷市)で梨栽培に専念・技術も進歩し、販売を行い収益も多く得る。この有利な事業を一人占めすることなく一八八一年(明治十七年)には南埼玉郡台村および南埼玉郡三箇村、南埼玉郡栢間村、南埼玉郡江面村、その他各地の村々を廻り、「長十郎」「真鍮」と呼ばれる品種の栽培を普及させ、梨栽培の有利性そして技術を伝えた。
     梨栽培が有用な事業であることが認識されたのは一九一〇年(明治四十三年)八月の台風による水害時(関東大水害)のことである。米や麦、野菜などの作物が被害を受ける中、梨はほぼ被害を受けることがなかった。梨は当時高価に取引され、換金作物として地域に急速に普及していった。一九二七年(昭和二年)に没し、その後「埼玉梨の元祖」と称されるようになった。(ウィキペディア「五十嵐八五郎」より)

     道端にはヒメオドリコソウやオオイヌノフグリが広がっている。「これがヒメオドリコソウですか。」この一週間で、野原のピンクがホトケノザからヒメオドリコソウに主役交代したような気がする。やがて前回も最後の休憩をとった総合運動公園に着いた。ここでトイレ休憩になる。
     ドウダンツツジがほぼ満開に近い。「ユキヤナギはもう終わりだな」と講釈師は言うが、まだ盛りのように白い穂がきれいだ。久し振りでムサラキケマンを見てロダンに注意を促すと、「それって、この会に参加し始めた頃に聞いたことがある」と反応する。私は今年初めて見た。レンギョウも今が盛りだ。ハナズオウも赤紫の穂をつけている。「これってヤマブキじゃないか。」「これが?」とロダンは疑わしそうな声を出す。八重の山吹だ。
     ロダンは一所懸命メモを取る。「愛妻に報告しなくちゃいけないからね。」「アリバイ作りか。」今日見つけた花の名を数えながら会話ができる夫婦である。公園の周回道路はジョギングのコースになっていて、後ろからランナーが走ってくると避けなければいけない。

     「それでは出発しましょう。」公園を出て県道七八号線に入る。この道は隼人堀川の南側に並行した道だ。「黄色がスゴイね。」「畑みたい。」レンギョウの黄色に染まった一画がある。
     「これって何だ。」遠州トラックの倉庫の看板を見てスナフキンが驚く。「遠州なんて、こんなところじゃ誰も知らないんじゃないか。」確かに武州埼玉郡に遠州は似つかわしくない。「社長の名前が遠州だったりしてね。」勿論冗談だが、実は静岡県袋井市を本拠として関東一円に営業展開している会社であった。
     「遠州は普通に静岡だと思われてるけど、駿河とは違う。三河の豊橋と気候的にも雰囲気的にちょっと似てる。独特な風土なんだ。」そうなのか。その辺については、実際に住んで営業していたスナフキンの感覚が正しいだろう。何しろ私は行ったことさえないのだから。
     遠江は本来浜名湖を指した。都の近くに琵琶湖があって淡海(あはうみ、音便してオオミ)と呼ばれていた。淡水湖、湖の意味である。後、東にやって来て浜名湖を発見した連中が遠い淡海と呼んだ。「遠」があるからには琵琶湖を区別しなければならず、近淡海(ちかつおうみ)、遠淡海(とおつおおみ)と呼ばれるようになる。「エッ、そうなの?」マリーは疑り深い。そして「淡海」の表記がが「江」に変えられ、近江、遠江となるのだ。だから旧国制ではほぼ静岡県西部が遠江国で三河国に隣接している。そして静岡県東部が駿河国、南部が伊豆国になる。

     漸く御成街道(県道六五線)の岡泉交差点に着いたのは十一時十分だった。「やっと着きました。ここからスタートです。」近くに適当な鉄道の駅がないので前回はここで街道を終え、白岡まで行ったのである。姫の見積ではもう少し早く到着できる筈だったらしいが、急ぐ必要は全くない。花の盛りをゆっくり見ることができて却って良かった。私の見ている地図を覗き込みながら、「南に戻りすぎじゃないですか」とダンディが呟くが、前回ここで終わったのだから仕方がない。
     すぐに隼人堀川に架かる橋に出る。隼人堀川は享保十三年(一七二八)、井澤弥惣兵衛によって、栢間沼の干拓の際に排水路として開削された。見沼代用水を歩いて、井澤弥惣兵衛の銅像は見ましたね。
     「前回は全く勘違いしちゃったんですよ。」一つ前の橋を義理橋と勘違いしたのであるが、この辺の事情は「其の五」で確認してもらおう。橋にはガードレールがあるだけで欄干もなく、名も記されていない。本来は往還橋と呼ばれていたようだ。将軍が通行する際、村人はまず村境の橋まで出迎え、その足で裏道を通って往還橋に先回りして見送った。やりたくもない義理を果たしたので「義理橋」になった。
     それにしても、日光社参の行列の人数は十万を超える。これが全て通り過ぎるまで見送ったとすれば容易なことではない。一行がここを通り過ぎるのは旧暦四月十四日、農繁期の真っただ中である。義理とはいえ、実に難儀なことだったと思われる。

     菜の花や御成りの列の長々し  蜻蛉

     岡泉村の村境がどこか正確には分からないが、現在の地図を頼りにすれば、前回姫が勘違いした橋から街道沿いにこの辺までが村の東南端のようで、あれが将軍を最初に迎えた橋だったように思われる。
     土手の緑の叢の中に菜の花が咲いている。橋を渡った空き地には庚申塔が立っていた。台座の三猿、庚申塔の文字と日月がくっきりと彫られていて、比較的新しいものかと思われる。「日光の三猿ですね。見ざる聞かざる言わざる。」オカチャンは庚申塔に馴染みがないようで、「日光だけじゃないんですけどね」と姫が笑う。この会に参加し続けてくれれば、庚申塔にはしょっちゅうお目にかかるので納得するだろう。庚申塔の後ろの叢の中に赤いポピーが一輪咲いている。
     「蕎麦屋がある。」右手の看板には六本木「砂場」の支店だと謳っている。「まだ十一時十五分、ちょっと早すぎるな。」しかし営業している形跡がない。「廃業したんじゃないか。」「六本木なんて名乗るからだよ。」「トラックの運転手相手なら山田うどんの方が流行るんじゃないか。」見渡した限り、他に食事が出来そうな店は見当たらない。
     工場のような建物の前に広がる駐車場の前で姫が立ち止る。「どうしたの?」「あそこに碑があるんですけど、私有地だから入っちゃいけないかと思って。」だだっ広い駐車場の隣には塀もない民家が建っているから、姫は遠慮したのだ。しかし大丈夫だろう。「構わないよ。行きましょう。」
     街道から少し入ったところで、工場と民家との間に対になって立つ庚申塔だった。かつては田圃の中の道だったのではないだろうか。台石の三猿の上に、庚申塔の文字と日月が彫られている。裏面に回ると、武州埼玉郡彦兵衛新田村とあった。最初「彦」と読めずに「麦」と読んでしまってオカチャンが訂正してくれる。「道路の向こうが彦兵衛新田なんですよ。」地元の人がいると本当に便利だ。街道から彦兵衛新田村への入り口だったのかもしれない。「麦兵衛ですか。」ロダンが私と同じ間違いをする。

    『白岡町史』に「此の地は鷲の郷と唱え、上野田村の飛地にして一橋中納言の林なりしが、宝暦十三年(一七六三)武州葛飾郡幸手領の民、彦兵衛、新平の二人これを新墾し、彦兵衛新田と称せり」とあることから、開墾者の名をとったものである。
    明治二十八年に岡泉村など八か村と合併し日勝村となり、昭和二十九年に篠津村・大山村と合併して白岡町となる。(「白岡市HP」http://www.city.shiraoka.lg.jp/2171.htmより)

     ただ武州の「州」が「刕」となっているので、ロダンは悩む。「これが州ですか?」私は異体字だと思っていたが、実はこの方が本字である。刀を部首にすると「リ」(リットウ)になる。この「リ」を横に三つ並べて簡略化したのが「州」であった。「こっちはちゃんと武州になってるよ。」向かい合う庚申塔には、ちゃんと「武州」と彫られている。
     歩き始めてすぐに「通学路・菁莪小PTA」の案内板があり、「難しい字だね」と問題になった。「母校です」とオカチャンが告白した。幼稚園と小中学校がある。セイガと読むのだろうが、どんな意味か分からない。「オカチャン、どういう意味なの?」「分かりません。」スナフキンがスマホで検索すると、デジタル大辞泉の解説がでてきた。

    《「詩経」小雅・菁菁者莪の「菁菁たる莪は材を育するを楽しむ、君子は能く人材を長育す」から。「菁」はしげるさま、「莪」はあざみの意》人材を育成すること。英才の育成を楽しむこと。また、多くの人材・英才。

     「莪は何ですって?」「あざみです。」ただ漢和辞典を引くとヨモギとあって、アザミは発見できない。著莪ならばアヤメ科になる。白岡市立菁莪小学校のHPもみてみるか。

     ・・・・明治二十五年に開校し、今年で百二十二年目を迎える、児童数三百四名、十三学級、教職員二十九名(含非常勤講師等)の学校です。
     校名の「菁莪」は「詩経」という漢詩より命名されました。
     意味は、『この学校に学ぶ子どもは、青々と盛んに茂る莪の如く、賢者たる教師の教育によって才能を人徳を伸ばし、立派な人物となる。』ということを表しています。

     「ヤギュウって言う村があるんですよ、新井白石の領地だったところです。」オカチャンに教えて貰わなければ、そんなことに気づきもしなかった。柳生かと思ったが違った。新白岡駅の西側で、東北本線、東北自動車道、備前堀川に囲まれたほぼ三角の地域が野牛である。

    江戸時代中期、六代将軍家宣の政治顧問となり、さまざまな政治改革を行った新井白石。世に「正徳の治」といわれ善政の手本とされる政治を指導した人物です。その新井白石は宝永六年(一七〇九)に野牛村五百石の領主となりました。白石の民政は、権力で領民を支配するものではなく、道徳的な教えを説いて治めたといいます。また、水利が悪く洪水に悩まされ良好な農地ではなかった野牛村に、排水を良くする水路を掘り、収穫を向上させたとも言われています。「白石堀」、「殿様堀」と呼ばれた水路は、現在も野牛に残っています。(「白岡市HP」http://www.city.shiraoka.lg.jp/2686.htm)

     この記事には野牛村だけで五百石あったように書いてあるが、埼玉郡野牛村に比企群奈良梨村(現小川町)、越畑村(現嵐山町)を合わせて五百石を領有したようだ。
     姫宮落川にやって来た。「キヨシサン、これが一級河川なの。」道路標識を見て若女将が驚いたように若旦那に訪ねている。一級河川の意味は分からないが、確かに「春の小川」のような雰囲気だ。ウィキペディアによれば、「一級水系に係わる河川は、河川法によって指定される際は原則として一級河川であり」とある。「係わる」というのは、支流であってもということだろうか。
     川幅は狭く、緑に覆われた土手には、ほとんど散りかけた桜が立っている。「葉桜だな」と講釈師が断定する。葉っぱよりも蕊の赤さが目立つ。

    姫宮落川は延長十・一キロメートル、流域面積十三平方キロメートルの中川水系の一級河川。
    地元では姫宮落や姫宮堀とも呼ばれている。久喜市下早見を管理起点とし、おおむね南東に向かって流れ、白岡町を経由して宮代町川端で古利根川の右岸に合流する。姫宮落川の主な支川には、野田川(準用河川)がある。
    姫宮落川は上流部は備前堀川(姫宮落川の北側)と庄兵衛堀川(南側)の間を流れ、下流部は古利根川(姫宮落川の北側)と隼人堀川(南側)の間を流れているために、 延長のわりには流域面積が小さいのが特徴だ。流路の大半は直線であり、平坦地を流れているので、見た目にも河床勾配は緩い。姫宮落川の現在の流路は、昭和初期に行なわれた大落古利根川の改修事業に伴って確定した。
    「姫宮落川(その一)」http://www.geocities.jp/fukadasoft/bridges/himemiya/index.html

     「アッ、飛んだ。」講釈師の声で水面に目をやると、背の青い鳥が水面からまっすぐ飛んで、一瞬のうちに少し先の木に止まった。「カワセミだよ、カワセミ。」講釈師が誇らしげに連呼する。「どこに?」「あの、菜の花が切れる辺りに木が一本あるだろう。あれだよ。」ロダンも見ていたようだ。「良かったですね。何もない街道で見るべきものがあって。」空は青く、緑の岸辺に葉桜の蕊は赤く、菜の花は黄色い。

     翡翠や川面を走る一瞬に  蜻蛉

     歳時記を見ると翡翠は夏の季語なので菜の花と合わせると季が二つになってしまう。翡翠を採るべきか、菜の花を採るべきか。ヘボな俳句でも、私も少しは考えているのだ。
     少し行くと左の畑の手前に、コンクリートブロックを壁にして切妻屋根をかけた小さな祠に出会った。正面には、鈴をつけて紅白に撚った綱がぶら下がっている。「お不動様ですよ。」結跏趺坐した不動明王の下に立つ二人の人物はセイタカとコンガラだろう。側面を覗き込むと嘉永四年(一八五一)の銘が見えた。「嘉永っていつ頃ですか。」「ペリーが来航したのが嘉永六年。」「そうですね、幕末ですね。」
     嘉永四年はジョン・万次郎がアメリカから帰国した年だが、庶民はそんなことは知らない。まだ黒船の影もなく、比較的落ち着いていた時期ではなかろうか。干乾びた丸餅が二枚供えられている。
     両側に広がるのは麦畑だろうか。歩道の脇にはタンポポが咲き乱れている。「こんなにタンポポを見るのは久しぶりですね。」「ホントですね。」「ホラ、梨の販売所がある。梨の品種が書いてあるよ」と講釈師が右手を指差す。さっき、幸水の他に品種が思い出せなかったのだが、豊水、新高なんて書いてある。「秋になるとあそこで売るんだよ。」
     「向こうに東武動物公園の観覧車が見えた。」東武動物公園入口交差点を過ぎて二百メートル程だろうか、下野田の一里塚に着いた。東西両側に残っているのは県内ではここだけで、全国的にも珍しい。東側の木は枯れて別の木を植えかえたものだが、西側はかつてのものそのままらしい。大きなエノキだ。塚には青紫のムスカリ、ピンクのシバザクラ、ハナニラが植えられている。ムスカリとは姫に教えられて初めて知る名前だ。「園芸種ですね。」

    名の由来はギリシャ語の moschos(ムスク)であり、麝香のことである。花は一見するとブドウの実のように見えることから、ブドウヒアシンスの別名を持つ。(ウィキペデアより)

     ここは日本橋から十一里である。「十一里塚って言わないんですかね。」ロダンが不思議なことを言い出して、「言う訳ないだろう、そんなもの」と講釈師に罵倒される。歩道脇にシロバナタンポポが咲いている。珍しいものが今日は簡単に見つかる。
     ちょうど十二時になったが、姫が目的とするトンカツ屋はまだ見えない。「また遠州トラックがあるよ。」横浜タイヤのラッピングを施したトラックが並んでいる。この近くの右手に六地蔵がある筈だったが、左ばかり見て歩いていて発見できなかった。
     丁字路になった上野田交差点のブロック塀で囲まれた狭い地所に、白い石の鳥居が建っている。その奥に二本の柱に屋根を置き、庚申塔を据えているのだ。庚申塔に鳥居というのは余りお目にかからない組み合わせだ。庚申塔はかなり大きなもので、二段の台石を含めると大人の背丈ほどになる。ここも紅白の綱をぶら下げているのは、この辺りの風習だろうか。合掌型一面六臂の青面金剛像で、左上部に貞享三年(一六八六)、右側面には「是よりふじ海道原市へ二里」とある。
     「ふじ海道」は富士街道で、大山石尊権現参りや富士登山の道筋の総称である。「富士講って言えば、鳩ケ谷で見ましたね。」「鳩ケ谷三志(小谷三志)だよ。」御成街道自体がそれ以前の鎌倉街道をほぼ踏襲しているのだから大山に続くのは当然だ。原市は上尾市原市のことだそうだ。しかし現代の地図ではここから上尾市原市に直接向かう道はなさそうで、何か不思議な気がする。並んでいる白っぽい石碑には「日本廻国為二親菩提」の文字が読めた。
     ここまでほぼ北西に伸びていた街道は、この辺から緩やかにカーブを描いて北東に向かって行く。「あそこのコンモリしたところが十二里塚だよ。」講釈師が若旦那にいい加減なことを言っている。ロダンの十一里塚を罵倒したと思ったら、すぐにこんなことを思いつく。「あっ、そうかだって。騙してやった。」梨畑を覆う青いネットの中に地蔵が立っている。「これが梨地蔵だよ。」「あら、そうなの。」若女将は実に素直だ。「また、嘘ばっかり。」
     小さな川を渡ると、左にラーメン屋、右に鰻屋「板善」があった。「ここでもいいんじゃないの。」しかしダンディとヨッシーはかなり先を歩いている。「私たちだけウナギにしましょうか。」その声が聞こえた筈はないが、ダンディが立ち止ってこちらを振り向いた。
     この辺で宮代町に入った。次は西粂原鷲宮神社だ。南埼玉郡宮代町西粂原六八〇番地。「末社ですね」とダンディが声を出す。村の鎮守であろう。明治になって愛宕神社、雷電神社、厳島神社、稲荷神社、猿田彦神社、三峰神社を合祀したものだ。
     天保十四年(一八四三)将軍家慶の休憩所になったことがあるのが自慢だ。「そんなことが自慢になるのか、どこだって休憩するだろう。」スナフキンは考えが甘い。将軍の行動は厳しく管理されていて、休憩だって勝手にとるわけにはいかない。そして将軍が休憩する以上、村方からは茶菓の接待に駆り出されたに違いない。
     庚申塔は駒形で、剣人六手型の青面金剛が浮き彫りにされている。右手に剣、左に人(ショケラ)の髪を握り、他の四本の手が輪・矛・弓・二本矢を持つ。「これが人間ですよ。」「ほんとだ、髪をつかまれてるわね。」日月・邪鬼・二鶏・三猿もはっきり見える。元文五年(一七四〇)庚申十月吉日の銘がある。隣の小さなものは文化三年の庚申供養塔だ。
     庚申塔の上部には細い縄が巻かれていて、紙垂がちぎれた跡がある。「この時期に注連縄を張るんですかね。」年中巻きつけてるんじゃないだろうか。それとも田植え時期に関係するか。狛犬の首にも細い縄が巻かれている。「この狛犬が阿吽になっていない。」ロダンが気付いた。どちらも吽形のように見える。
     「聞いた話だけど、阿は赤ん坊が誕生するときの声、吽は死ぬ時だって。本当ですか。」若旦那が訊いてくる。阿は最初の音声、吽は最後の音声だから、当たらずといえども遠からずか。念のためにウィキペディアを参照しておこう。

    阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であり、そこから、それぞれ宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされた。
    また、宇宙のほかにも、前者を真実や求道心に、後者を智慧や涅槃にたとえる場合もある。

     歩道の縁石の脇にはネコノメソウのようなものが群れて咲いている。街中ではあまり見かけたことがないから珍しいのではないか。ただ私はトウダイグサとの区別がよく分かっていない。「なんだって。」スナフキンがスマホを取り出してニコノメと入力する。「違うよ、猫の目。」出てきた画像は少し違う。「それじゃ、トウダイグサ。」今度は同じ画像が出た。「これだね。」「確かに二つ似てはいるけどな。」またスマホの便利さを吹聴されてしまう。
     漸く目当てのトンカツ屋に着いたのは十二時半である。「とんかつ・すてーき ぶんど」という店だ。南埼玉郡宮代町西粂原九三四。「安いじゃないか。」表の柱には、ランチ六百五十円、弁当四百五十円と書いた看板が掛けられている。街道沿いで他にはさっきのラーメン屋とウナギ屋位しかないから、トラック運転手が立ち寄るのではないだろうか。私の地図にもこの店が載っている。
     店内に入ると椅子テーブル席が三つ、小上がりにテーブルが二つあって、他に客はいない。この時間に誰もいないのは流行っていないということだ。全員が椅子席に着いた時、「おひとりのお客も来るから、できるだけ畳の席にお願いします」と声がかかった。仕方がないのでダンディ、スナフキン、ロダン、マリー、私が靴を脱いで畳に座り込む。
     外の看板とは違って、メニューを開くとランチはすべて千七十円である。私とスナフキン、ロダンはロースカツ、ダンディとマリーはヒレカツを選んだ。ほかのテーブルでも、ヨッシーが九百円のカレーを選んだほかは全員が千六十円のカツである。
     店名の「ぶんど」とはどういう意味なのか。「ブンドなんて、全学連しか知らないな。」ダンディのいうのは共産主義者同盟ブントのことだろう。六十年安保の際の全学連主流派で、安保後に解体分裂した組織だ。Partei(党)ではなくBund(同盟)、それが学生の組織だったというのは世界的にも新しい動きで、樺美智子もブントの事務を担当していた。しかし解体後に、その残党を含めて再編された新左翼各派の中から、やがて六十年代末から七十年代初めのテロリズムが発生する。
     「ドイツ語だから語尾のDはT音になるけど、当時だって英語を使う人間はブンドと言っていた。」そうなのか。確かにBund der Kommunistenだから語尾はDである。しかしこれまでに読んだ本で、ブンドと表記したものにはお目にかかったことはない。それでも六十年安保当時を学生で過ごした人の証言には従わなければいけないか。ウィキペディアを見ると「しばしばブンドと誤読される」とあった。
     「なにか二宮尊徳に関係していたような。」「ホントカヨ。」誰もが疑ったが、ロダンは人の知らないことを知る知恵者であった。スナフキンが辞書を引くと、下北方言にブンドがあることが分かった。「店主が下北出身なんだよ。」しかしこれは葡萄の訛りだから違うだろう。もう一つの意味に尊徳の「分限度合」(略して分度)があった。これがロダンの言いたいものであろう。「老夫婦二人で分を守って商売していこうってことだな。」
     それにしてもなかなか出来てこない。ちらちら時計を見ているとロダンと目があった。「私も同じことをしていました。」揚げるのは主人ひとりだから、十一人分を作るのは大変だとは思う。しかし腹が減った。
     やがて、各テーブルにソースと醤油のセットが出され、注文した品が目の前に来たのが一時十分だった。醤油は小さな冷奴のためのものだろうが、トンカツにも醤油をかける私には有難い。一度に出すために、全員分のカツを揚げていたのである。私に出されたのは最初の方に揚げたもののようで、既に幾分冷めかかっている。味がどうこう言うより、こういうものは出来たてのアツアツが欲しいが仕方がない。こんなに待たされては、トラック運転手は来ないだろう。「今日は人数が多すぎたんですよ。一人で来ればそんなに時間はかからないと思いますよ。」姫は冷静だ。
     みんなから集めてまとめて払ったおかげで、財布の中に小銭がたまってしまった。店を出たのは一時三十五分だ。

     備前堀川に架かるのが国納橋だ。「備前は何か人の名前でしょうか。」若旦那の疑問に、「伊奈氏ですよ」とオカチャンが答える。そうか伊奈氏の受領名は備前守であった。

    埼玉県加須市の新川用水排水路の備前堀古笊田落と備前堀大英寺落の合流点を起点とし、久喜市北中曽根(清久地区)の西端で備前堀八ヶ村落を併せ、さらに清久町(清久工業団地)の南側からは備前前堀川と平行して流れる。(ウィキペディア「備前堀川」より)

     橋の手前の叢に舟形の青面金剛庚申塔が立ち、その右に小さな石碑が二つある。覆いかぶさっている草を除けると、一つは「血神」、もう一つは「馬頭観音」だ。「血神」とははじめてお目にかかるもので、由来が分からない。昔は結構当て字を使って平気だったから、地神ではなかろうか。地神は土地の神であり、春分、秋分に最も近い戊の日に地神を祀る社日(しゃにち)という習慣がある。
     街道から逸れて川に沿って歩くと、菜の花が咲きカモがゆっくりと泳いでいる。民家の塀からはハナミズキの花が咲いている。

    時は暮れゆく春よりぞ
    また短きはなかるらむ
    恨みはともの別れより
    さらに長きはなかるらむ

                          ああいつかまた相逢うて
    もとの契りをあたためむ
    梅も桜も散りはてて
    すでに柳はふかみどり

    人はあかねど逝く春を
    いつまでここにとどむべき
    われに惜しむな家づとの
    一枝の筆の花の色香を(島崎藤村『晩春の別離』より)

     春は別離の季節である。その春に咲く花は白い。岡本敦郎『白い花の咲く頃』、佐々木新一『リンゴの花が咲いていた』。お下げの少女に見送られて故郷を捨てるとき、必ず白い花が咲いていた。
     桜が終わり晩春、春逝くと言えば愁を感じるのが文学的な約束だが、実はこれから初夏に向かう時季が、様々なものが萌え出る季節でもあった。
     むしろ蕪村の『春風馬堤曲』の心浮かれる心地が、丁度今の季節に合っているのではあるまいか。朔太郎の言う「郷愁の詩人」蕪村である。俳句と漢詩を縦横に組み合わせた面白いものだから、ちょっと長いが、漢詩の部分は読み下して引用する。

    春 風 馬 堤 曲 
    余、一日、耆老を故園に問ふ。澱水を渡り
    馬堤を過ぐ。偶女の郷に歸省する者に逢ふ。先
    後して行くこと數里、相顧みて語る。容姿嬋娟として
    癡情憐むべし。因りて歌曲十八首を製し、
    女に代はりて意を述ぶ。題して春風馬堤曲と曰ふ。

    春 風 馬 堤 曲  十八首
    ○やぶ入や浪花を出て長柄川
    ○春風や堤長うして家遠し
    ○堤より下りて芳草を摘めば 荊と蕀と路を塞ぐ
     荊蕀何ぞ無情なる 裙を裂き且つ股傷つく
    ○溪流石點々 石を踏んで香芹を撮る
     多謝す水上の石 儂をして裙を沾らさざらしむ
    ○一軒の茶見世の柳老にけり
    ○茶店の老婆子儂を見て慇懃に
     無恙を賀し且儂が春衣を美ム
    ○店中二客有り 能く解す江南の語
     酒錢三緡を擲ち 我を迎へ榻を讓つて去る
    ○古驛三兩家 猫兒妻を呼ぶ妻來らず
    ○雛を呼ぶ籬外の鷄 籬外草地に滿つ
     雛飛びて籬を越えんと欲す 籬高うして墮つること三四
    ○春艸路三叉中に捷徑あり我を迎ふ
    ○たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に
     三々は白し 記得す去年此路よりす
    ○憐みとる蒲公莖短して乳を浥
    ○むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
     慈母の懷袍別に春あり
    ○春あり成長して浪花にあり
     梅は白し浪花橋邊財主の家
     春情まなび得たり浪花風流
    ○郷を辭し弟に負く身三春
     本をわすれ末を取接木の梅
    ○故郷春深し行々て又行々
     楊柳長堤道漸くくだれり
    ○嬌首はじめて見る故園の家黄昏
     戸に倚る白髮の人弟を抱き我を
     待つ春又春
    ○君見ずや古人太祇が句
      藪入の寢るやひとりの親の側

     次の橋を渡って国納交差点で街道に戻り、東武伊勢崎線を渡る。「あそこが和戸駅だね。」若旦那が右を見て確認する。次は和戸浅間神社だ。宮代町和戸二丁目。民家に挟まれた狭い場所だが、ちょっとした高台になっている。もともとは少し南にあったものだが、東部伊勢崎線の通路に当たってここに移転したらしい。「あそこの線路脇がこんもりしているね。」
     オジサンが二人、草むしりをしている。「ご苦労様です。」「歴史散策ですか?」「そうです」とヨッシーが応えた。民家の間の幅二間もない狭い道が参道で、朱塗りの両部鳥居が建っていた。
     和戸公民館の脇に「須賀村役場跡」の案内板が立つ。それを見ている間に、必要な人は公民館でトイレを借りることになった。須賀はスカと濁らずに読むらしい。昭和三十年、須賀村と百間村が合併して宮代町が発足するまで、ここが役場だったのである。合併直前の集合写真は当時の村役場の職員たちか。
     「事務室もないんですよ。いきなり部屋になってしまって。」トイレから戻ってきた姫が不思議そうな声を出す。事務室を設けるのもコストの無駄だということだろう。特に見るべきものはないので先に進む。
     後ろから高校生らしい女の子二人が、私たちの後ろを掠めるように走り抜け、右の建物に向かった。「なんだ。」カラオケがあった。女子高校生は他にやることがないのか。和戸駅に近いせいか、これまでの街道沿いより商店が目立つようになってきた。

     和戸橋は青毛堀川と備前前堀川とが合流して大落古利根川になる地点だ。「落としっていうのは、堰を設けたとか、そういうことですか。」実は私も正確な意味を知らなかったので、若旦那の疑問には下記を引用しておこう。要するに農業排水路のことであった。

     大落古利根川は名前のとおり、利根川の旧流路(のひとつ)だが、数多くの落し(農業排水路)が合流するため、延長の割には流域面積が大きいのが特徴である。これらの落しは堀とも呼ばれ、その起源は中川低地に数多く存在した沼沢地の干拓のために、江戸時代に整備された排水路だ。
     現在でも埼玉県内には落しという名称の河川が多いが、その分布は中川水系に集中している。沼沢地(溜井であり農業用水の水源だったものもある)の干拓では、まず最初に沼沢地へ水が流入しないように堤防が築かれる。その後、沼沢地から水を抜くために、落しが掘られた。落しの多くは旧河道跡などを巧みに再利用した人工水路であり、その排水先が大落古利根川だった。(中略)
     しかし近代になると、大落古利根川は河道の荒廃と水利系統の旧態化が問題となり、水害も多発していた。利根川から葛西用水を経由して運搬された土砂が、河床に大量に堆積し河積が減少していたからである。しかし、当時は河川の浚渫工事は民間の負担だったので、莫大な工費を工面するのは困難であり、工事は実行されなかった。そのため明治時代には、大落古利根川の浚渫工事実施の請願が、県議会に頻繁に提出されていた。大正七年(一九一八)から昭和三年(一九二八)にかけて実施された、国営(内務省直轄)の庄内古川改修事業の結果、排水幹線である中川が確立すると、それに合わせて大落古利根川の改修工事が計画された。
     大正七年から昭和九年にかけて、埼玉県による第一期改修事業が実施され、古利根川だけでなく、支川である青毛堀川、備前前堀川、備前堀川、姫宮落川、隼人堀川(庄兵衛堀、栢間堀)の改修も同時に実施された。これは、俗に云う埼玉県の河川改修(用排水幹線改良事業)であり、その嚆矢が、大落古利根川である。
     http://www.geocities.jp/fukadasoft/renga/around/furutone/

     橋を渡ると杉戸町で、和戸橋交差点の角に庚申塔が立っている。宝暦七年(一七五七)のもだというが、ブロック塀をへこませて囲んであるので確認しにくい。側面の「右○○○ 下高野村 左さって道」は読めた。○○○の部分は黄色い苔に覆われていて判読できないが、「すぎと道」とあるらしい。ところが肝心の正面に彫られた文字が全く読めない。彫られた文字は三文字、一番下は「黒」に似ている。これが庚申塔だろうか。取り敢えず写真を撮っておく。
     後で調べてみると、こういうものをきちんと書いている人がいるので有難い。これは「参姑神」と読み、三尸塔と言うのだそうだ。よくよく写真を確認すれば、真ん中の文字は「古」の下に「女」(つまり「姑」の異体字)、下の黒と見えたのは、「申」の下に「示」(「神」の異体字)だった。「参」は草書体のようだが良く分からない。それにしても私は初めて見た。これを教えてくれたのは石仏の様々を紹介してくれる下記のサイトだ。

    石仏図典参姑神によると、「姑を故として三尸の呪能を破る意ととれば庚申の意に通じるだろう」って意味深な書き方になっています。
    http://www2q.biglobe.ne.jp/~nakamura/sankosin.htm

     この文章の筆者も半信半疑のようだが、庚申塔と呼んで良いということらしい。『石仏事典』が手元になくて参照できないのが残念だ。手元にある『庚申信仰』(雄山閣出版『民衆宗教史叢書』第十一巻の必要部分をコピーしたもの)には、「参姑神」も「三尸塔」もない。コピーしなかった部分に記載されていただろうか。
     庚申信仰の始まりが道教の三尸にあるのは勿論だが、中世から山王信仰(猿)や密教(青面金剛)、神道と複雑に習合してしまった後、近世になって殊更に三尸を言うのは少ないのではないか。農村の庚申講とは全く関係なく、相当な教養人が造ったものだと思われる。
     街道の反対側の柵で覆われた場所に大きな碑が立っている。あれが「大落古利根川治水碑」らしい。「大回りしなければ入れないので割愛していいですか。」いいです。
     五百メートルほど行き、マミーマートを過ぎた辺りで下高野一里塚に着いた。結構大きな塚は砂地で、崩れないように基礎部分は木(模造か)柵で囲まれている。階段を設けて頂上まで行けるようにしてあり、松の脇には石碑が立っている。

    ここは古利根川の自然堤防となっており、その上に塚を設けたものである。もとは街道の南側に五問(九メートル)四方の大きさの塚があったが、大正時代初期、道路拡幅により西塚が消滅し、現在残っているのは東塚だけである。

     「さっきから四キロ歩いたことになります。」「もうそんなに来たのね。」この砂地は自然堤防だったか。「河畔砂丘とも言いますね。」こういうことは姫もロダンも詳しい。「加須でも見ましたよね。」実は埼玉県は河畔砂丘の本場でもある。

    砂丘を形成維持するために必要となる、安定した砂の供給源を持たない植生の豊かな日本の内陸部で砂丘が形成されるのは河畔砂丘のみで、河原から吹き上げられた砂が、蛇行した河川の凸部の風下側に堆積することにより形成されるものである。したがって河畔砂丘は、砂を含んだ河原が広い、ある程度規模の大きな河川の流れる平坦地(氾濫原)という限定された条件がなければ形成されない。低地にある微高地という点で自然堤防と類似する地形である。
    河畔砂丘は堤防の拡幅などにより破壊されることが多く、現存するものは群馬県と埼玉県の利根川流域のみとなっており、これらも宅地開発や、容易に砂礫を採取出来ることから本来の地形を留めているものはほとんど無いのが現状である。加須市にある会の川砂丘(志多見砂丘)は日本に残る河畔砂丘の中で最大級のものであり、一九五六年(昭和三十一年)に加須市の名勝に指定され保護されている。(ウィキペディア「河畔砂丘」より)

     昌平高校の案内板が見えた。昌平黌とは関係ない。元々は福岡の東和大学(福田学園)の付属高校校だったが、平成十九年に独立して昌平学園となった。
     その先の左側が八幡神社だ。北葛飾郡杉戸町大字下野。下野村の鎮守である。ここも自然堤防の高台だから砂地になっている。案内板を見ると、関東大震災で本殿が消失し、平成十三年にも火災にあっている。あまり運のよくない神様だ。
     オバアサンが女の子二人を連れて遊んでいる。村の鎮守のようで何となく嬉しい。「こんにちは。」私の顔は怖いだろうか。「ホラ、ご挨拶はできないのかい。」「こんにちは。」オバアサンの催促で、やっと女の子が口を開いた。孫たちは階段を上り下りし、砂をつかんでは風に散らす。オバアサンは社殿の石段に腰かけてそれを眺めている。

     菫花孫を見守る鎮守かな  蜻蛉

     境内の隅には文字庚申塔、駒形の青面金剛(元禄七年)、馬頭観音(天保十年)、地蔵が並んでいて、お地蔵さんだけがトタン屋根の下に立っていた。青面金剛はかなり擦り減っていて、腕が全く判別できない。階段を上って社殿の前で休憩する。お菓子が回されて来るので、女の子にも分けた。オバアサンが嬉しそうにお礼を言う。「私も前回の蜻蛉みたいに」とロダンが笑いながら柿の種の小袋を配り始めた。「愛妻が、たまにはって持たせてくれたんですよ。」オカチャンは飴を配る。実に丁寧な人で、今までにいないタイプだ。あんみつ姫、マリーも煎餅を配る。
     のんびりしたところで出発する。少し行けば赤松が二本立っている。「あれですよ。」街道の松並木の生き残りである。「ここしか残っていないんですよ。」前回も少し残ったものを見た。
     幸手市に入ったようだ。「洒落てますね。」同じような赤レンガの家が並んでいるのは建売であろう。「本物じゃないだろう。」「貼り付けてるんだよ。」家の前にはチューリップを植えている。チューリップを見るのも久し振りのような気がする。
     交差点の角に立つ馬頭観音は道標になっていて、「右日光 左いわつき」と彫られている。文化十四年。「これが『わ』ですか。」ロダンは納得いかない顔をしている。変体仮名の「者」(は)のように思えるが、それなら「いはつき」か。
     左手にあるのが琵琶溜井らしい。しかし公園のように整備されているので、溜井という言葉から受ける印象とは随分違う。

    一六六〇年(万治三年)に伊奈忠克によって葛西用水路が整備されるとともに設けられたという溜井で、中郷用水路および南側用水路を分水している。琵琶溜井の水利施設は一九六二年(昭和三十七年)・二〇〇二年(平成十四年)にそれぞれ改修工事が行われている。また琵琶溜井の水利施設内に葛西宮(久喜市栗原側)が祭られており、公園のように整備された空間(幸手市上高野側)も所在しているが、一般の人は通常この敷地の中に自由に立ち入ることはできない。(ウィキペディアより)

     正徳二年(一七一二)の庚申塔は、合掌型一面六臂。「こっち向いてますよ。」「いいじゃないか、どっちを向いても。」裸の邪鬼の顔が真正面を向いているのだ。この問答はオカチャンには分からないだろう。「いろいろあるんですよ。」
     やがてベルクに着いた。「この辺には多いのか。」我が家の近くには二軒ある。本部は寄居だから、スナフキンにはなじみがないのかも知れない。二〇一四年二月期通期の決算で、千二百四十五億円の売上、約四十億円の利益を上げている。販管費三百十六億円のうち、人件費は百三十六億円。意外に人件費率が低いのではないだろうか。トイレに行ったが、詰まっていて使えない。
     ベルクの敷地の奥の、天保十一年(一八四〇)創業の石井酒造が姫の目的である。幸手市南二丁目六番十一。「ベルクの傍にこんな店があるのは珍しい。」「ベルクは後から来たんですよ。」初緑という銘柄らしい。四合瓶で大吟醸が二千七百円、吟醸が千六百二十円、純米酒が千八十円。本醸造は四合瓶はなく一升二千五十円である。
     いまどき珍しく量り売りをする店だ。「ここで飲めないの?」ダンディは一刻も早く飲みたくてウズウズしている。「残念ですが、うちは販売の免許しかないんです。」
     この店では空の一合瓶を八十円ほどで売っていて、これに好きな酒を入れてくれるのである。つまり大吟醸なら一合六百五十円ちょっとに瓶代八十円が加算される仕組みだ。知らない酒を一升買うより、少しづつ試すのには良いシステムだ。「これなら飲んでいいの?」「あとはお客様のご自由に。」ダンディは一本買ってすぐにラッパ飲みする。「良い店を教えて貰った。」オカチャンは感動しやすいタチだ。
     昔はモッキリと呼んでいた。酒屋の店頭で飲むのだが、店はコップ一杯の酒を売るだけという建前である。客は店の隅(あるいは、別の建屋)で売っている柿の種なんかを買って、勝手に飲む。店は売るだけ、飲むのは客の勝手であるという理屈だ。私の学生時代で二級酒が一合百円で飲めたから、金のないときは便利だったが酒は不味かった。
     「蜻蛉は飲まないんですか?」こんな昼間から飲むなんて私は信じられないね。「桃太郎がいれば必ず飲んでましたよ。」桃太郎は谷川岳残雪訓練というものに行っているのだ。スナフキンは二本買った。姫はダンナサマのために(?)買った。
     「食べますか?」ヨッシーがビニール袋の中身を摘まみながらベルクの店内から出てきた。酒粕である。こんな風に食うものなのか。「美味しいですよ」と言われるが遠慮しておく。

     一合の酒を呑み干す春の午後  蜻蛉

     ベルクの正面から南に入る細い道が日光街道だ。つまりここが追分だった。本郷追分で中山道から別れた御成街道もここで終点となった訳だ。「ああ、そうなんですか。初めて知りました。」地元に近いオカチャンも感動している。「私たちはここまで将軍様と同じ道を歩いてきました。ここからは庶民の道になります。」
     日光街道を江戸方面に戻る所で、塀際に石仏が並んでいるのでちょっとだけ見に行く。「そっちには行きませんよ。」姫の声を無視して確認すると、頭の欠けた地蔵、如意輪観音、馬頭観音などが並んでいる。どこかから集めてきたものだろう。
     倉松川に架かる志手橋を渡るとすぐ右が田螺不動だ。幸手市中二丁目一番十五号。正式には神明社である。

    この神明神社は一七五五年(宝暦五年)に伊勢皇大神宮の分霊を祀った神社であり一八七三年(明治六年)四月より旧幸手町の村社の一つとなっていた.境内に菅谷不動尊こと、通称田螺不動尊が安置されている。たにしの描かれた絵馬を奉納すると眼病が治るというご利益があるとされる。

     田螺不動のルーツは越後国蒲原郡菅谷(現新発田市)にある菅谷寺(かんこくじ)の本尊である。火災にあったとき、みたらせの滝の中で不動尊が無数の田螺に守られたという伝説がある。滝壺の田螺を奉納して、滝の水で目を洗うとご利益があるのだそうだ。ここにあるのは、安政年間に菅谷不動を勧請したもので、眼病に効くことになっている。
     神明社に不動尊を勧請したというのも今では不思議に思えるだろう。「これが田螺ですよ。」狛犬が抱えているのが田螺だという。「田螺はホントに美味しかったな。」ダンディが感に堪えたように言うのが不思議だ。秋田ではツブと呼ぶが、子供の頃の記憶では美味いものではなかった。ダンディの感想は、食糧難の頃の記憶を余りにも美化しすぎているのではないか。
     「ニシは巻貝ですね。田のニシ。」ダンディが知識を披露する。確かにアカニシ、イボニシなんていう貝がある。ウィキペディアによれば、タニシは南米と南極大陸を除く各大陸とその周辺の淡水に住む貝である。特に「田」に限定されるものではなさそうだが、日本では特に水田に適応したようだ。
     スナフキン、オカチャンは賽銭を入れ、丁寧に頭を下げてお参りする。「信心深いひとたちですね。」「桃太郎もそうですよ。」「それに引き換え、ダンディと蜻蛉は見向きもしない。」全くの不信心者である。
     幸手駅入口交差点から新しくて広い道路に入る。正面突当りが幸手駅だが、この道は最近になって拡張したものではないだろうか。道路に面した建物が新しい。一色稲荷は新しい神社だが、その隣の十万石饅頭の幟の方が目立つ。この稲荷は、古河公方の家臣である一色氏の陣屋があった場所だという。一色氏は足利氏の流れを汲む名門だ。幸手市中一丁目十五番三十一。

    東武日光線の幸手駅とその周辺はかつて城山と呼ばれ南北朝期頃に一色氏によって築かれた城がありました。「日光道中分間延絵図」などから推定すると幸手駅を城の中心として西側の馬場と伝わる祥安寺辺りまでが城域と考られています。現在はその面影は見られませんが当時は旧・利根川とその支流と低湿地に囲まれる自然堤防上に城は築かれていたと考えられます。
    幸手一色氏は足利尊氏の命により九州探題として九州経営を任せられる一色範氏の子孫であり鎌倉公方に仕えました。公方が古河に拠点を移した後も重臣として歴代公方を支えます。この頃に上杉氏に対して城は整備拡張されたのでしょう。
    後北条氏配下に組み込まれた後、江戸幕府にも仕え改めて幸手に所領を与えられ城山の一角に館を構えたのでしょう。http://www.geocities.jp/sisin9monryu/saitama.satte.html

     この記事がどこまで正確かは分からない。一色氏は江戸時代の初期に関東を離れたものらしい。
     しかし誰もそんなことに興味はない。「十万石って餃子ですか」とダンディが首を捻る。そんな餃子があるのか。「違うよ、饅頭だよ。」「北本ですよ。」「北本が十万石なんておかしい。」どうもこのやり取りがおかしい。調べてみると、十万石饅頭は北本ではなく行田である。もしかしたらダンディは「餃子」ではなく「行田」かと訊いたのだったかな。私の耳も悪くなったかも知れない。

    製造元の十万石ふくさやは、太平洋戦争の終戦後、砂糖の流通が解禁されたことから、一九五二年(昭和二七年)に和菓子の製造・販売の「福茶屋」として、埼玉県行田市本町に創業し、創業と共に「十万石まんじゅう」は誕生した。「十万石」とは、江戸時代に行田市にあった忍藩の石高が十万石であったことに因んでおり、「行田名物」にしたいという命名であった。(ウィキペディアより)

     饅頭を買ったのは講釈師と若旦那だ。そして駅に着く。時折強い風が吹いたが、おおむね穏やかな春の日であった。今日は二万三千歩。十三キロというところか。「今日はどこにしますか?」「大宮でしょう。春日部で乗り換えれば早い。」幸手駅は東武日光線の駅である。
     四時九分の上りに乗り込む。二十四分に春日部に着き、野田線に乗り替える。座席に着いて、ロダンはすぐに眠ってしまった。余程仕事の疲れが残っているのか。大宮に着いたのは四時四十八分だ。勿論行先はいつものさくら.水産である。土曜日は昼からやっている店だから、この時間ではもうかなり混んでいる。十一人のうち、酒を呑まない講釈師と若旦那夫妻を除いた八人が参加した。
     最初に案内されたテーブルに座って荷物を片付けていると、「いけません、ここは予約席ですよ」と切羽詰ったような声で非難された。おかしいではないか。私たちはここに案内されたのである。席を移るのは問題ないが、そういう言い方はいかがなものか。私はいつものように実に穏やかに、そしてにこやかに説明した。「すみません。説明が足りなかったようです。」さくら水産も余り居心地が良くない店になった。
     「ビール中生を八つ。」「タッチパネルでお願いします。」こんなことも口頭では注文できないようになってしまった。ロダンと私は自信がないから注文は姫に任せなければならない。焼酎は九百ミリの芋焼酎にする。「焼酎のグラスを訊いてくるんだよ。それが間違う。」「大丈夫ですよ。」操作の手順は良く分からないが、無事に注文はできている。焼酎をもう一本入れるほどではなく、最後はグラスを頼んでひとり二千四百円なり。

    蜻蛉