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    日光街道 其の七 幸手から栗橋まで
       平成二十六年六月十四日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2014.06.20

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     旧暦五月十七日。例年より早く梅雨入りし、今週はずっと雨続きだったが、今日は中休みの快晴になった。この天気は数日続きそうだが、中休みというより本格的な夏の空に近い。
     昨日はアルコールの出ない立食パーティで二時間の間に十五人と名刺交換し、帰りは人身事故による東上線の運転見合わせに引っかかった。水曜日もトラックの炎上に事故にぶつかっている。このところ、月に二回はこんな目に合う。全て東武鉄道のせいではないが、こうも頻繁に事故があると温厚な私でもたまには文句を言いたくなる。なんだか今週は疲れた。
     御成街道は前回で終わり、今日からは日光街道に入る。大宮から東武野田線に乗って春日部で降りる。九時二十分の南栗橋行に乗る積りだったのに、ホームの電光表示には九時十三分の東武動物公園行の次は二十七分の南栗橋行しか載っていない。取り敢えず十三分の伊勢崎線に乗って動物公園で降りたが、ここまで仲間の姿が全く見えないのが不思議だ。もしかしたら、私はとんでもない勘違いをしているのだろうか。聊か不安になって姫の案内文を開き、間違いなく今日であり、集合場所が幸手であることを確認する。それにしても人がいないのが気にかかる。
     東武線はここで伊勢崎線から日光線が分岐する。やがてやってきた南栗橋行に乗り込むと、目の前にロダンの笑顔があった。良かった。会った早々、ロダンが「おめでとうございます」と笑う。「ヘヘヘ。」誰彼の見境なく、初孫の誕生を言い触らしたいのは老化現象であろうか。「ロダンはまだなの?」「まだまだですよ。」
     幸手駅に集まったのはあんみつ姫、マリー、画伯、講釈師、ヨッシー、ダンディ、オカチャン、スナフキン、ロダン、蜻蛉の十人だった。宗匠とヤマチャン、桃太郎は欠席だ。「あのでかい石碑はなんだい?」「日光線開通記念碑だよ。」「こんな大きな碑を作るぐらいだから、地元にとっては待望の鉄道だったんだな。」根津嘉一郎の署名がある。「有名なのか?」「根津財閥だよ。」根津嘉一郎は鉄道王とも呼ばれた。ウィキペディアから引用してみよう。

     『根津翁伝』によれば、一八七七年(明治十年)に山梨郡役所の書記として働いていたが、民権運動にも携わる。長兄の死により家督を相続し、一八八九年(明治二十二年)には村会議員となった後、東京へ進出する。若尾逸平や雨宮敬次郎と知り合い、甲州財閥を形成する。一八九一年(明治二十四年)には渡辺信、小田切謙明、佐竹作太郎ら名望家とともに鉄道期成同盟会を結成し、中央線の敷設運動を行う。
     第一徴兵保険会社や帝国火災保険、富国徴兵保険など保険会社の資金を運用し、東京電灯の買収などに関わる。一九〇五年(明治三十八年)には東武鉄道の社長に就任し、経営再建に取り組んだ。
     その他にも経営に行き詰まった企業を多く買収し、再建を図ったことから「火中の栗を拾う男」「ボロ買い一郎」との異名や揶揄を与えられることもあった。資本関係を持った鉄道会社は二十四社に及び、多くの会社において名誉社長などに就任した。その中の数社には同じ甲州出身の早川徳次を送り込み、経営を任せて再建している。
     「社会から得た利益は社会に還元する義務がある」という信念のもと、教育事業も手がけ、一九二二年に旧制武蔵高等学校(現在の武蔵大学)を創立する。

     「ちょっと自信がない場所もあります。迷うかも知れませんが責めないで下さいね。」「それは一人に言うことだろうね。」「俺は何にも言わないよ。いつだってリーダーの指示に従う。」講釈師が不満そうに口を尖らす。
     駅前通りを真っ直ぐ行くのは前回辿った道でもある。「ホラ、十万石だよ。」「みんなが間違えて、私だけが正解だった」とダンディが自慢する。「一色稲荷はみなさん、前回も見てますよね」と、姫は一色稲荷を通り過ぎる。「光ってるだろう。」桜のマークを付けた街路灯の笠が日に反射して光る。桜は幸手市のシンボルである。
     幸手駅入口交差点を左に曲がれば旧日光街道、県道六五号線だ。昔ながらの二階建ての店構えが何軒も残っているのが旧街道筋を偲ばせる。そうした古い構えの店先には、紺地に白で「日光街道幸手宿」と染められた同じ大暖簾が下げられている。幸手は日光街道を観光資源にしようと頑張っているようだ。
     「あれは酒屋かな?」「トロッコじゃないか。」道の向かい側にある酒屋の永文商店の左側には、トロッコの線路が奥に伸びている。幸手市中一丁目七番二十七号。トロッコは横丁鉄道というものらしい。

     横丁鉄道は、商店街や町工場の構内にある荷物や製品を運搬する『トロッコ』のことを主に指します。「鉄道」?と思う方も多いでしょう。「鉄道」の定義は、レールを敷いた線路上に貨物・旅客を輸送する運輸機関のこと。つまり荷物を載せて走れば鉄道なのです!
     この横丁鉄道、かつてはあらゆる街(主に歴史のある街)に存在していましたが、今では埼玉だと、川越・加須・鴻巣・秩父・飯能・川口・所沢(九七年現在)、そして「幸手」に存在しています!(中略)
     (永文商店は)明治時代に当初は魚屋として開業し、その後、酒屋(味噌・醤油等の食料品も販売)として営業し現在に至っています。お店『永文』の屋号の由来は、先々代(創始者)である永島文太郎さんから取っています。
     横丁鉄道は、大正十三年頃からあり、軌間(ゲージ)は約六百ミリ。倉庫からお店まで直線約七十メートルの長さ。荷物は主に商品を運んでいました。今でも現役で動きます。(TMO幸手 http://www.tmo-satte.org/itsuzai/tetsudou.htmlより)

     店の北側の黒いトタン壁には、芭蕉と曾良の姿が白線で描かれている。「草加から歩いてきたんだよ、知らないのか。奥の細道だよ」と草加の住人が自慢する。草加は日光街道に力を入れていて、芭蕉と曾良の像も作っているからね。今は見られないが正面のシャッターにも、船着き場で荷揚げ作業をしている人足を描いているらしい。制作した会社によれば、これが「幸手宿シャッターアート」の第一弾だから、今後こうしたものが増えるのだろう。

     夏空や宙を歩むか芭蕉曾良  蜻蛉

     私たちが立っているのはその向かいの中央商店街ポケットパークで、片隅には問屋場跡の解説板が立っていた。間口六間一尺、奥行三十三間半の広さ(二百坪弱か)に問屋場、人足溜、馬小屋があり、人足二十五人、馬二十五頭の常駐が義務付けられていた。ところで問屋場はトイヤバと読む。人馬継立、助郷賦課などの業務を行う役所である。
     暖簾が下がっているのに人の住んでいる気配が感じられない店は、元石炭商の竹村家だろうか。「蔵があるよ。」姫は中一丁目の角にある割烹・蒲焼「義語屋」の格子窓の前で立ち止まった。本陣「知久家(チクケ)跡」の解説板が立っている。それよれば、初代知久帯刀は信州伊那の出身で、その縁で関東郡代伊奈熊蔵から幸手宿久喜町の開発を命じられたという。熊蔵は伊奈氏が世襲する幼名だから分かり難いが、これは忠次のことだろう。こういう解説にはきちんと忠次と書いてもらいたいものだ。屋敷の広さはおよそ千坪あった。
     「ここはウナギ屋だろう。ニホンウナギが絶滅危惧種に指定されたってね。」「これからウナギは食えなくなる。」「だけど今年は去年より出回ってるよね。」
     少し先の電柱に「ここより日光お廻り道」のプレートが取り付けられているので左に曲がると、車がすれ違うのが厄介なほど狭い道に、小さな商店が立ち並んでいる。電柱に取り付けられた案内板は「ふるさとの道 妙観横町」であり、「鷲宮←ここは中四丁目」である。
     鷲宮とこことの関係がよく分からないが、地図を北西に真っ直ぐ辿ると鷲宮神社に行き着くから、その道になるのだろうか。鷲宮は中世以来、関東総社として尊崇を集めていた。横町の名は、雷電神社のそばにある妙観院から名付けられている。
     小林豆腐店と小路を挟んで「中山のせんべい」があった。「中で手焼きしてるよ」と店内を覗き込んだスナフキンが教えてくれる。手焼き煎餅は一枚六十円、五枚入り袋が二百七十五円。高いのか安いのか私には判断がつかない。濡れ煎餅も自慢だというが私は苦手だ。

     角を左に曲がったところが幸宮神社だ。幸手市中四丁目十二番十四号。幸宮神社なんてなんだか胡散臭い名前で、本来は別のものだったろうと推測できる。

     当社の創祀は不明であるが、『元禄八刻年御検地写帳』に「八幡香取 社地三反八畝弐歩 内三畝六歩大門 竹林七畝六歩」とあり、更に社蔵の金幣二基を見ると「八幡大菩薩」「香取大明神」と彫り、裏にはそれぞれ「元禄十二(一六九九)己卯三月吉日」と刻んである。これからみて、当社の江戸中期の様子をうかがい知ることができる。
     なお、創祀を考えさせるものに『祠道石道之記』がある。これは、天保十二年(一八四一)に社前の敷石を奉納した折、当初の書家金子竹香が記したもので「鎮守両大神自照臨于此地域内二百有余年」とあり、このころまでは、まだ江戸初期に当社創建という話が伝わっていたものであろう。
     『当社造営記録』によれば、寛延二年(一七四九)に本殿・拝殿を再興し、文久三年(一八六三)に本殿が再建され、仲町の鎮守として崇敬されたことが知られる。
     明治六年村社となり、大正三年三月に琴平社、天神社二社、稲荷社三社を合祀し、社名を幸宮神社と改めて幸手総鎮守となり、今日に至っている。(「由緒」より)

     幸手の総鎮守で八幡と香取を合祀し、かつては八幡様とも呼ばれていた。八幡大菩薩と香取大明神とを合祀した神社は初めて来るが、いずれも軍神として武士の尊崇を集めた神である。鳥居の前の狛犬は、顔が分からない程磨り減っている。参道を通り、朱塗りの格子板塀を抜けて境内に入る。
     「本殿の彫刻が見事なんですよ」と姫はどんどん奥に入って行く。「ここは拝殿ですからね。本殿はこの奥です。」白壁に穿たれた細い穴から覗くと、本殿の周囲に彫られた彫刻が見事なのだ。「一枚板に彫ってあるんですよね。」「あれっ、なんだか記憶があるよ。」「そうだよ、カメちゃんがリーダーの時に来てるじゃないか。」
     講釈師の記憶力は大変なもので、それならもう十年近くも前になるだろうか。生態系保護協会が主催していた「ふるさとの道」の頃には、私はまだこんな作文を書いていないので、記憶を確認するすべがない。「山田新聞があるじゃないか。」そう言われればどこかにしまってあるかも知れない。私たちの後から老夫婦が参拝している。
     路地を回り込んで田宮の雷電神社に着く。幸手市中四丁目二十一番十。旧地名は幸手市大字田宮。中世、幸手は田宮庄と呼ばれており、それを名に負う幸手で最も古い神社だ。ヤマトタケルが東征の際に薩手ケ嶋に上陸し(東京湾がここまで入り込んでいた)、ここに農神を祀ったという伝説がある。
     石造りの鳥居には「旹享保十四己酉歳十一月十五日別当金龍山寶持禅寺・・・・」「奉寄進雷電宮惣氏子 願主武州幸手久喜町中敬立」とある。久喜は幸手だったのだ。
     それにしても、享保の先頭にある「旹」が読めないのは、日本史を学んだ者として実に無学で恥かしい。「山に百かな?」「真ん中はナベブタじゃないか。」調べてみるとこれは「時」の古字であった。
     そこに車がやってきた。鳥居の外の駐車場に止まるのかと思えば、どんどん中に入ってきて、社殿の前で止まった。降りてきたのは、さっき参拝していた老夫婦だ。車で神社巡りをしているのであろうか。「神仏にすがるしかないんだよね。」ロダンがしみじみと呟くが、そういうものであろうか。
     社殿前の狛犬の右側(阿形)は真中に尻を向けている。本殿は小さな堂だ。「天皇御手植えですよ。」立札には「天皇即位記念樹」とあるだけで、今上が自ら植えたなんてどこにも書いていない。オカチャンはどこでその情報を仕入れたのだろうか。
     「この木は何でしょうか。」榊のような葉に小さな白い花が咲いている。姫はかなり悩んだ挙句シキミではないかと判定したが、私の記憶にある花とは違う。「違うと思うよ。」身の程知らずに言い張ったものの、しかし後で調べてみるとやはりシキミだったようだ。植物に関して姫に異を立てるのは不遜である。私の記憶の混乱は、つい先日鎌倉で見たオガタマとの勘違いであった。
     境内の隅には瘤神社の石碑、疣権現の石祠、痘瘡宮などが建っている。「これもカサですね。」神奈川塾の笠のぎ神社で話題にしたから、カサ、瘡には注意が行く。皮膚病全般に効き目のある神様であった。
     ところで雷電神社は各地にあるが、本社とかそういうものはなく、各地で自然発生的に生まれたようだ。上州邑楽郡板倉の雷電神社が総本社を名乗っているが、これが正しいかどうか。こことは祭神が違うのである。「稲妻」からも分かるように雷は農耕の神であり、それならヤマトタケルが祀ったという農神がこれであろうか。
     「雷電為右衛門じゃないんだね。」雷電は信州に生まれた史上最強の大関である。赤坂報土寺に墓を見たのは皆覚えているだろうか。
     「これは富士山ですね?」ダンディがそう言いながらすぐに離れて行ったが、塚の中腹に立つ石碑には「御嶽山」とあるから、富士塚ではない。ただ私は御嶽講の実態がよく分かっていない。そもそも木曽の御嶽山を信仰するのか、それとも武蔵御嶽山を対象にしたものなのか。それに猿田彦大神の石碑が数個建っているのも理由が良く分からない。庚申信仰との関係だろうかとも考えてみるが不思議だ。

     路地を更に行けば、聖福寺の狭い参道入り口には芭蕉と曾良の句碑が建っている。幸手市北一丁目九番二十七号。

     幸手を行ば栗橋の関      蕉
     松杉をはさみ揃ゆる寺の門   良

     七七と五七五の組み合わせは連句の一部を切り取ったもので、芭蕉の句が発句になっている訳ではなさそうだ。曾良の句にも季語は見当たらない。出典を知らないので、下記の記事を引用する。

     ・・・・元禄六年九月に深川芭蕉庵で、
      十三夜あかつき闇のはじめかな  濁子
     を発句とした興行の句で、芭蕉の句は、
      きり麦をはや朝かげにうち立て
      幸手を行けば栗橋の関   芭蕉
     連句というのは前句がわからないと意味をなさないもので、この碑を立てた人はそこのところがわかってなかったのだろう。
     埼玉は小麦の産地で、かつては切り麦が有名だったのだろう。最初は冬は暖めて温麺にし、夏は冷やして冷麦にしたらしいが、次第に温麺の方が独立して、切り麦は冷麦のことになったようだ。
     前句の「うち立て」を、麺を打つことではなく、早朝の旅立ちのことに取り成して日光街道の旅の句に転じた機知は、前句がないとわからない。幸手の地名も微妙に「去って」に掛かっている。
     (「こやんの奥の細道」http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/koyan-okuno02.html)

     芭蕉の「幸手を行ば」の前の「きり麦を」は別人の句だろうが、この記事では誰とも分からない。ここは菩提山東皐院。浄土宗。参道を抜けた正面には唐破風の四脚門が建っている。日光社参を終えて江戸城へ向かう例幣使の休憩所に充てられたことから建てられた勅使門で、将軍と例幣使以外に通ることを許されない。
     「これってスゴイですね」と姫が見つけたのは、鐘楼の石垣に嵌め込まれたプレートだ。「為竹村家先祖累代菩提」とあるのだ。竹村家はこの辺りの名主であろうか。寄進者は「小倉栄吉・小倉乃婦」である。小倉さんは竹村さんの一族なのか。檀家一同ではなく、個人で鐘楼を寄進したのは初めて見た。
     墓地入口には六地蔵を横に並べて浮き彫りにした石碑がある。「この形は珍しいものじゃないでしょうか。」姫の言う通り、私もあまり見たことがない。
     荒宿の交差点から街道に出て、右にほぼ直角に曲がる正面が正福寺だ。その向かいの空き地に何かの解説板があるので、一人で道路を横断して確認すると一里塚の跡だった。幸手の一里塚は日光道中では十二里目になる。これまで御成道を通ってきた私たちには縁がなかったが、一応ここまでの道筋を記録しておけば浅草(台東区)、千住(足立区)、六月、吉町、蒲生(越谷)、下間久里、備後(春日部)、小渕(春日部)、三本木(杉戸町)、茨島(杉戸町)、幸手となる。
     カーブに信号がないので道が渡りにくいが、なんとかみんなに追いついた。左手の「水屋製麺」の前に立つ大きな石灯籠にも記憶がある。水屋製麺は天保二年(一八三一)創業の店で、最初は屋号の通り利根川の清水を汲んで売り歩く商売だった。二代目以降、うどんや蕎麦を売るようになったという。
     正福寺。香水山揚地院。真言宗智山派。幸手市北一丁目十番三号。「香水山って面白い山号だ。」案内板の三行ほどが赤く塗られて消してある。「何が書いてあったんでしょうか?」「ヤラシイこと書いてたりして。」私はバカなことを言う。「そんなことはないでしょう。」「たぶん間違いを指摘されたんじゃないか。」私も何度か気付いて作文中で指摘したことがあるが、教育委員会等の設置する案内には、案外間違った記述も多いのである。
     寛政十二年銘の馬頭観音は道標になっていて、右側面には「ごんげんどう道」、左に「日光道」とある。「碑があるんだよ。」講釈師の言う「義賑窮餓之碑」はほとんど読めない。天明三年(一七八三)の浅間山大噴火による飢饉に際し、二十一人の義人が金や米を出し合って七十余日間も窮民を援助した。それを知った関東郡代の伊奈忠尊が表彰した記念である。
     善行旌表(セイヒョウ)と呼び、江戸時代には孝子表彰と並んで善行を表彰する制度が定められていた。更に幕府は全国からそれらの事例を集めて刊行もした。儒教に基づく理想的な民衆像を推奨するためだが、刊本がどれほど読まれたものか。
     ところで天明の飢饉はなぜ起こったか。

    一七八三年六月三日、浅間山に先立ちアイスランドのラキ火山(Lakagígar)が巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火)、同じくアイスランドのグリムスヴォトン火山(Grímsvötn)もまた一七八三年から一七八五年にかけて噴火した。これらの噴火は一回の噴出量が桁違いに大きく、おびただしい量の有毒な火山ガスが放出された。成層圏まで上昇した塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させ、北半球に低温化・冷害を生起し、フランス革命の遠因となったといわれている。影響は日本にも及び、浅間山の噴火とともに東北地方で天明の大飢饉の原因となった可能性がある。ピナツボ火山噴火の経験から、巨大火山噴火の影響は十年程度続いたと考えられる。
    しかしながら異常気象による不作は一七八二年から続いており、一七八三年六月の浅間山とラキの噴火だけでは一七八三年の飢饉の原因を説明できていない。
    大型のエルニーニョが一七八九年~七九三年に発生し世界中の気象に影響を与え、天明の飢饉からの回復を妨げたとの説もある。(ウィキペディア「天明の大飢饉」より)

     江戸時代に頻発した飢饉は、ひとつには過剰な水田開発が原因になった。無理な開発の結果もたらされた国土破壊は洪水の被害を大きくした。その他にここに引用したように、全世界的な気候変動による旱魃や冷害の影響が大きかった。浅間山の噴火では百五十キロ離れた江戸でさえ、三センチほどの灰が降っている。世界的に巨大火山が噴火したとすれば、その灰の影響はとてつもない。
     「風情がないな。」本堂がコンクリート造りなのは仕方がない。その門前には石造りの白いライオンが鎮座している。勿論、狛犬の原型がエジプトの神殿を守るライオンに由来することを思えば、特に突飛な訳ではない。ユリが咲いている。

     白百合やライオン護る寺の門   蜻蛉

     境内を出る前に、金色の丸い円盤を埋め込んだ赤御影の石碑に気が付いた。「なんでしょうかね。」円盤にはユリと何かの花が描かれているだけで、文字がない。

     寺を出ると姫は道を渡って、さっきの一里塚跡に行く。最初から予定されていたのなら慌てて見ることはなかった。商店の脇に「石敢當」と刻まれた小さな石が立っていた。これは何だったろう。「石だからロダンが知ってるんじゃないの。」「知りませんよ。」以前、調べたことがあった気がするが、すっかり忘れている。

    石敢當(いしがんどう、いしがんとう、せっかんとう)は、石敢當などの文字が刻まれた魔よけの石碑や石標。石敢当、泰山石敢當、石敢東、石散當、石散堂、石厳當と書かれたものもある。中国で発祥したもので、日本では主に沖縄県や鹿児島県で見かける。
    沖縄県、鹿児島県以外の日本全国にも分布するがその数は少ない。
    「石敢當」の名前そのものの由来は後漢代の武将の名前とも名力士の名前ともされるほか、石の持つ呪力と関わる石神信仰に由来するとの説もあり定かではない(ウィキペディア「石敢當」より)

     「そこの塩がまが有名なんだ。」交差点に立って講釈師が指差すのは、左手に見える和菓子の石太菓子店だ。幸手市北一丁目十番三十二号。草加の住人がどうしてこんなことまで知っているのだろう。「俺はお菓子は食わないからさ。」「甘くないんですよ」とヨッシーが笑い、マリーも「ちょっと塩味が利いてるから」と言う。そんなに有名なのだろうか。「明治天皇に献上したんだぜ。」良く分からないから調べてみた。

     北町商店会にある和菓子店「石太菓子店」は、江戸時代(文久年間)から営業しているお店です。名前の由来になった、初代中村石太郎氏によって創業し現在に至っています。
     数ある和菓子の中でも、創業時からそのまま受け継がれている伝統の和菓子があります。
     それが、『塩がま』です。もち米・砂糖・塩等材料を用いて作ります。型に押し固めて作るので、押し物菓子の一種になります。口に入れたときに、「ほっこり~」とする食感で、お茶と一緒に頂くのが一般的です。
     なお明治九年六月三日、明治天皇東北御巡幸の際に、幸手宿にお泊まりになり、『塩がま』を献上致しました。お茶と一緒に頂くのが一般的です
     幸手の『塩がま』は、幸手名物として現在に至っていますが、起源は江戸時代(文政年間)に幸手市内国府間で菓子製造を営んでいた、『大阪屋』の樋口清左衛門氏によって作られたといわれています。http://www.tmo-satte.org/itsuzai/ishida.html

     「ほっこり~」とする食感とは何だろう。それにわざわざ「お茶と一緒に頂くのが一般的です」なんて書くのがおかしい。和菓子は一般にお茶と一緒に食うものではないのか。「羊羹みたいになっててさ、薄く切ってるんだよ。」そうなのか。サイトを見ると、百三十グラムに七カ所の切り込みを入れているという。
     旧街道はここから左に行くのだが、姫はそこから逸れてやや南東に行く。幸手北モールという商業エリアで、しまむら、マツモトキヨシ、ベルクが並んでいる。「ベルクでトイレを借ります。」ここから昼食の店までまだ三十分ほどかかるらしい。「ベルクって知らないな。埼玉県なのか?」寄居に本社を置くスーパーマーケットで、全八十店舗中、埼玉県内に五十七店舗を持っている。我が家の周り半径三キロ圏内に、ベルクは二軒ある。
     今は十一時十分。「三十分にここに集まって下さい。」ロダンがしまむらに入って行きそうになる。「ダメだ。リーダーの言うこと聞かない奴は。」「ロダンはファッションに興味があるんでしょう。」「安いんだよね。」「どっちでもいいですよ。喫煙所もありますからちょっと休憩します。」しかし喫煙所を見つけるのに苦労した。私は外に灰皿が置かれているかと思っていて矢印に従って奥まで行ったのに見つからない。諦めようかと思った時、ちゃんと隔離された小部屋を見つけた。先客に若い女性がいた。
     少し早めに戻って集合を待つ。「全員揃いましたか。」まだ足りない。ダンディとヨッシーの姿が見えた。「後ろに画伯が見えますね。」「駆けなくちゃダメだ。」講釈師の声で画伯が慌てたように駆け出そうとする。「大丈夫、無理しなくて良いですよ。」「出発予定までまだ三分ありますから」とヨッシーも時計を翳す。「それじゃ出発しましょう。」
     筋違橋の下を流れるのは北川用水だ。「葛西用水なんですね。」葛西用水から加須市川口で分水し、中川の南側を並行して流れて権現堂川に合流する用水だ。「どうして、筋違いなのか分かりません。」街道はすぐ先の内国府間(ウチゴウマ)の交差点で国道四号線と合流する。国府間と書いてゴウマとは珍しい地名だが、国府に関係することは間違いないだろう。
     「街道の行く先へ」(http://tomozoaruku.blog89.fc2.com/blog-entry-490.html)というサイトによれば、幸手は下野国分寺と武蔵国分寺を一直線に結ぶほぼ中間地点になる。またこの半径を南東に延ばせば下総国分寺がある。それが地名由来ではないかと推測している。つまり、武蔵・下総・下野各国府の間に位置するということだ。
     やがて右手に権現堂公園が見えてきた。今頃はアジサイの季節で人がどっと繰り出しているのではないか。「前にヒガンバナを見たのはあそこだろう?」「そうだよ。ビール飲んだじゃないか。」「ビールを飲んだのはごく一部だろう。」ヒガンバナの中にコスプレの不思議な連中がたむろしていて、私とスナフキン、それに姫が農協の売店でビールを飲んだのだ。忘れた人は去年九月の『里山日記』を参照してもらおう。ビールを思い出すと、余計に汗が流れてくるような気がする。帽子も汗でびっしょり濡れてきた。

     姫が予約していたのは「びっくりとんかつ・かつ太郎本店」だった。幸手市内国府間七九八番一号。「小唄勝太郎っていたよね。」ダンディがまた古いことを言い出した。さすがにそのあたりは私の範囲を超えている。入口の前には「親孝行通り」の立札が立っていて、その意味は謎である。「本郷には親不孝通りがある。」現在時刻は十一時五十五分だ。
     隣り合わせの掘り炬燵式のボックス席二つに分かれる。姫はちょっと高めだと言っていたが、メニューを見なければならない。「いい値段ですね。みんな四桁ですよ。」私は三桁のミニヒレカツ丼とうどんのセットにした。ダンディとヨッシーはエビフライ、ヒレカツ、メンチカツのランチ、オカチャンはカツ丼、スナフキンはソースカツ丼とソーメンのセットを選ぶ。
     ダンディとヨッシ-に、「ご飯は白米と五穀米が選べます。お味噌汁はアサリとトン汁のどちらが良いですか」と店員が質問する。オカチャンは味噌汁の種類を訊かれ、私は細麺か太麺か、熱いのか冷たいのかと訊かれる。「俺だけ何も訊かれない。」スナフキンが口を膨らませるが仕方がない。「今日は姫はビールを飲まないのかな?」ダンディが振り返っても、姫の反応はない。
     最初に三種類の漬物が出された。「みなさんでどうぞ。」取り皿は五枚ある。ダンディとヨッシーには擂鉢に入ったゴマと擂粉木が出される。「ゴマスリは卒業しましたね」とヨッシーが笑い、「女性にはゴマをすらないといけない」とダンディが応じている。
     隣の席で何が選ばれたか分からないが、講釈師の注文したのが一番遅かったようで姫が安心している。「俺はさ、五穀米はどうしても食えないよ。集団疎開の飯を思い出しちゃうんだ。」栃木に疎開した講釈師は繊細な神経の持ち主である。
     キャベツの御代わりが自由で、ご飯も御代わりできるらしい。食べ終わったところにキャベツが追加され、結構腹が膨れてしまった。いつの間にか店内はいっぱいで、入り口付近では待っている客も目立ち始めた。
     この店が「びっくり」と名乗っているのは何故だろう。箸袋を見ると「坂東太郎」というチェーンである。他に海鮮料理の「八幡太郎」なんていう店もあるようだ。一時十分前に店を出る。日差しが暑い。

     中川に架かる橋は行幸橋だ。明治九年と十四年の二回、明治天皇は幸手に来ているから、その時に渡ったのであろう。信号を渡って国道の西側に降り、青い田んぼに沿った道を歩く。これが旧街道で、地蔵座像を載せた道標が建っている。右つくば道、左日光道。「つくば」の「つ」が、ちょっと見ると「佐」のような文字になっているので分かりにくい。ひとしきり穿鑿が喧しいが、人偏に見えるのがサンズイだとすれば「津」であろうか。

     地蔵尊青田背にして右左  蜻蛉

     「ここでさ、沓掛時次郎が笠を投げるんだ。右に行くか左に行くか、お地蔵さんに訊いても知らんぷりさ。」ここにどうして時次郎が出現するのか。「橋幸夫が歌っていませんか?」「バッカだな。美空ひばりに決まってるじゃないか。何を考えてるんだ。」講釈師の話は二つが一緒になっているから、ロダンが混乱する。
     ロダンは橋幸夫が時次郎の歌を歌っていないかと訊いたのだが、橋幸夫なら『鯉名の銀平』ではないかと私は言ってみた。どちらも長谷川伸原作であるが、傑作は文句なく『沓掛時次郎』だと言わなければならない。その後のいわゆる任侠物のエッセンスが全て、最も純粋な形で描かれている。
     しかし橋幸夫が歌っていないというのは私の無知であった。調べてみると昭和三十六年公開の市川雷蔵主演映画(池広一夫監督『沓掛時次郎』)の主題歌(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)を確かに橋幸夫が歌っている。当時八歳のロダンはその歌を聞いて覚えていたのだろう。
     私の記憶にあるのは市川雷蔵ではなく、中村錦之助の『沓掛時次郎・遊侠一匹』(加藤泰監督・昭和四十一年)だが、細かな部分は忘れてしまっている。時次郎は一宿一飯の義理で、何の恨みもない六ツ田の三蔵を斬り、その女房おきぬと子供の太郎吉を預かる羽目に陥った。一緒に旅を重ねるにつれ、時次郎とおきぬの間には恋が芽生える。二度とヤクザには戻らぬと誓って門付をしながらの旅だったが、病に冒されたおきぬの薬代を稼ぐため、時次郎はこれっきりと心に言い訳しながら喧嘩の助っ人に赴く。
     講釈師の言うもうひとつは、美空ひばりの『花笠道中』(米山正夫作詞・作曲)だ。それにしても実にややこしい言い方をする人だ。

    これこれ 石の地蔵さん
    西へ行くのは こっちかえ
    だまって居ては 判らない
    ぽっかり浮かんだ 白い雲
    何やらさみしい 旅の空
    いとし殿御の こころの中は
    雲におききと 言うのかえ

     この歌は実はおかしい。「ぽっかり浮かんだ白い雲」が見えるのなら日が照っているだろう。太陽が見えるのに東西も分からないなんてことは、よほど無学でない限りあり得ない。名手米山正夫はどうしてしまったのだろう。まあ、ひばりが無学であっても仕方がないか。
     地蔵を歌った歌ならば私は三橋美智也の『おさげと花と地蔵さんと』を選ぶ。東條寿三郎作詞・細川潤一作曲。

    指をまるめて のぞいたら
    黙ってみんな 泣いていた
    日昏れの空の その向こう
    さようなら
    呼べば遠くで さようなら
    おさげと 花と 地蔵さんと

     男が故郷で別れを告げる相手は必ずお下げの少女だったとは、私が繰り返して言うことだ。
     左に青い田圃を見ながら炎天下を行く。「藤田まことの『てなもんや』は、沓掛のパロディでしたかね?」あんかけの時次郎か。「古いですね」とオカチャンが笑っている。子供の頃の私は、沓掛と書いて「あんかけ」と読むのだとばっかり思っていた。
     「ロダンはいつまで考えてるんだよ。もう時次郎は終わってるよ。時間がかかりすぎだ。」「あの山が筑波山です。」姫がいきなり左前方の山を指さした。「あれが?」「違うじゃないか。」明らかに方角が違う。「だって、ロダンが講釈師に叱られてるから。話題を変えようと思って言ってみました。私が悪うございました。」「あれは男体山だろう。」そうらしい。
     「ブラジルが遅いじゃないか。燃料切れか?」「それって、私のことかな?」「ほかにいないよ。」ダンディはどうした訳か黄色のブラジルサッカーのユニフォームを着ている。それに鉄人にはふさわしくなく、今日は少し遅れ気味だ。講釈師は絶好調ではないか。「ゼツは舌ですね。」
     やがて正面に見えたのが外国府間の雷電神社である。如意輪観音を上に彫った十九夜塔の台座に「女人講」とあるのが、姫は珍しいと言う。十九夜、二十一夜など女人講に由来する石塔は多いが、確かに、はっきりと「女人講」と明記してあるのは珍しいかもしれない。如意輪観音と十九夜で、既に女人講中が建てたことは明瞭だからだ。「如意輪観音は女人講の守り本尊です。」
     因みにこれらは月待塔には、十三夜塔(本尊は虚空蔵菩薩)、十五夜塔(本尊は大日如来や聖観音)、十九夜塔(女人講。本尊は如意輪観音。安産、育児、婦人病祈願)、廿一夜塔(十九夜塔とほぼ同じ女人講)、廿二夜塔(十九夜塔とほぼ同じ)などがある。毎月、日を決めて神仏と共食するのは信仰であるが、一方では集落の女たちの息抜きと親睦を深めるためのものでもあった。
     その隣の貞享四年(一六八七)青面金剛も、時代の割には図柄が実にくっきりと残されていて珍しい。合掌型一面六手。邪鬼、三猿のほかに、日月、二鶏もちゃんと判別できる。「これは何ですか?」「ニワトリ。」「一羽でも鶏なんちゃって。」所々、朱を塗った跡が残っているのも珍しい。

     国道に上がり、すぐにまた脇の土手下道に逸れると真光寺だ。久喜市栗橋町小右衛門六一二番。「まひかりとは違うでしょうね。」ロダンが面白いことを言うが、それは違う。真言宗豊山派である。「何もないんですけど、小学校の碑があります。」境内脇に「開校百年記念 愛敬学校・聲門学校遺跡」の碑が立っていた。久喜市立栗橋南小学校の前身に当たり、明治六年(一八七三)に愛敬学校が設立され、明治八年(一八七五)に聲門学校と改称した。明治五年の学制公布に応じたものである。
     シャツは汗でびしょ濡れになり、咽喉が渇く。本堂の階段に並んで腰かけてお茶を飲んでいると、姫が日光御成街道の完歩賞を配ってくれる。該当者はダンディ、スナフキン、マリー、私である。さらに、「前回までは将軍と一緒だったので要らなかったんですが、これからは庶民の道なので通行手形が必要です」と名刺大の通行手形も配ってくれる。姫はなかなか芸が細かい。
     寺の右の裏手から道に出ると、小さな弁天堂の横に一里塚の案内板が立っていた。小右衛門村の一里塚と呼ぶ。正福寺から一里来たわけだ。塚の下は小さな墓地になっていて、墓地の脇に降りると、かなり状態の悪い青面金剛が立っている。ロダンと私だけが確認したが、こちらは合掌型でショケラを握っているようだ。剣人六手の岩槻型だろうと思われる。「砂岩だから崩れやすいんだよね。」「その代り、細工が楽なんですよ。」石のことならロダンに訊けばよい。
     国道まで戻り、すぐに隧道を潜って国道の東側に出る。「涼しい。」「生き返るね。」国道の東側の土手からは権現堂川が見え、対岸にはキューピー、キッコーマンの工場が建っている。「工場見学もいいですよね。」野田のキッコーマンには五年前に行った。「キューピーは試食もできるよ。」講釈師は詳しい。「マヨネーズばっかり試食してもね。」「そうじゃないんだ。野菜が出されて、マヨネーズをつけて食うんだよ。」
     ダンディとヨッシーが雑草に覆われた土手を降りて緑道に入った。それに続くと少し涼しい。「前回はここを逆に歩いたんですよね。」「もっと前からここを歩けばよかったじゃないか。」講釈師が大きな声でリーダーを批判する。「だって、どこから降りればいいか分からなかったんだもの。」
     ボートピアの手前で国道に戻り、小右衛門北信号で再び国道の西側に出て、「栗橋大一劇場」の横から左に入る。「ストリップだろう?」いかにもそんな造りだ。「皆様、踊り子には絶対に手を触れないようにお願い致します。」講釈師はこんなのが得意だ。「池袋にもありましたよね?」ロダンは池袋に通ったのか。池袋や新宿、渋谷のストリップ劇場は比較的上品で、西船橋OS劇場や西川口に行くと全然違っていた。
     高台に上がれば上川通神社だ。鳥居の台石に几号水準点(不の形)が刻まれていてロダンが喜ぶ。「もしかしてと思ったんだけど、やっぱりありました。」この石鳥居は宝暦十四年(一七六四)の建立だ。社殿は小さなもので有難味はあまりない。すぐそばに石をコンクリで固めた水準点もある。「この水準点って彫られた方が南なんです。」さすがに専門家は言うことが違う。
     ここでも石仏が珍しい。まずさっきもあった六地蔵の浮彫で、「キリシタンみたいだ」とロダンが言うように、使徒が並んでいるようにも見える。隣には三人づつ二段に彫ったものもある。合わせれば確かに十二使徒と言ってもよい。宝暦十四年の青面金剛は、三猿が立っているのがかなり珍しいだろう。
     神社を出て旧道に戻る。暫く歩きながら「この辺の民家の中なんですけど」と姫が不安そうに左右を見廻す。するとかなり先頭を歩いていたオカチャンが道標を見つけた。「ここですよ。」会津見送り稲荷という。民家の庭先のような場所である。久喜市栗橋東六丁目二十二番。庭掃除をしているおじさんに挨拶して鳥居を潜る。

     江戸時代、徳川幕府が参勤交代制をとっていたころ、会津藩の武士が藩士江戸参向に先立ち、先遣隊として江戸へ書面を届けるためこの街道を栗橋宿下河原まで 来たところ、地水のため通行できず、街道がどこかわからずたいへん困っていると、突然白髪の老人が現れて道案内をしてくれた。お蔭で武士は無事に江戸へ着き、大事な役目をはたせたという。
     また、一説には、この地で道が通行できずに大いにあせり、そのうえ大事な物を忘れたことに気がつき、困り果てたすえ、死を決意した時、この老人が現われ藩士に死を思い止まらせた、ともいわれている。
     のちになって、この老人は狐の化身とわかり稲荷様として祭ったものである。

     会津の武士にしては随分迂闊ではあるまいか。「そうか、この辺は水が出たんですね。」次の目的地は焙烙地蔵だが、オカチャンが道標を見てこのまま旧道から真っ直ぐ行けると提案した。「でも、トイレ休憩もするので国道に戻ります。」「リーダーの言うこと聞かなくちゃダメダよ。」
     国道に戻ってベイシアでトイレ休憩だ。ここも記憶がある。前回はトイレの場所が分からずに、店内をぐるっと回ってしまったのだが、入り口からすぐ左のカフェコーナーの先がトイレなのだ。ベンチで休憩しているとオカチャンがゼリーを配り、ヨッシーはアイスキャンディーを配ってくれる。「蜻蛉はこれもダメですか?」遠慮しておこう。朝持ってきたお茶が切れたので自動販売機で補充する。

     「頭に焙烙を載せて灸を据えるんだ。」「直接じゃダメなんですか?」「熱すぎるだろう。死んじゃうじゃないか。」国道東側の側道を行きながら姫が悩んでいる。この先で国道四号と一二五号線が直角に合流する辺りの、西側へ出る道が分かりにくいらしい。「たぶんこの先に隧道がある筈なんですよ。」
     「コスモスが咲いてる。」どうも季節がおかしい。下っていくと、前方の国道から分かれてきた道が左に戻るように隧道を抜けていく。これだろうか。「もう少し先でしょう。」ヨッシーが冷静に判断した通り、少し行くと隧道があった。「ここですね。」
     国道の下を潜って抜け出たところが焙烙地蔵である。「白山にもあります。」祠をのぞき込むと、奉納された焙烙が積み重ねられている。「懐かしいな。昔は豆を炒ったもんだ。」私は日常生活で焙烙なんて見たことがない。年齢が一回り違うと、こんなものもまるで違ってしまうのだ。ここは白山のものとは違って、関所破りで火刑に処せられたものを供養するために建てられたという。
     土手に立つ栗橋関所跡碑は去年見た。栗橋は日光街道が利根川を越える重要な位置にある。関所破りは主殺しに並ぶ重大犯罪と考えられ、磔刑に処せられたのである。つまり、ここはその刑場跡だったのだろう。

     またエボ地蔵とも言われ、あげた線香の灰をエボにつけると治ると、いいつたえられている。

     これは久喜市教育委員会の書いた案内である。「イボですか、エボですか?」「北関東ではイとエの区別ができない人がいます。」「うちの方じゃエボなんて言わない。」ロダンは不満な顔をする。久喜市教育委員会では、エボが共通語であると判断したのであろう。イとエの区別が曖昧なのは東北もそうだ。
     イボダイ(スズキ目イボダイ科)を東京や神奈川ではエボダイと呼ぶらしい。威張る(イバル)をエバルと言うのはかなり広範囲に及ぶのではなかろうか。
     跡は栗橋駅に向かうだけだ。「その前に静御前にも寄ろうよ。」「通り道ですからね。」しかし画伯が少し疲れた表情になっている。「大丈夫ですか?」「我慢して歩く。」
     ダンディとヨッシーは随分先を歩いていて、さっき講釈師に燃料切れかなんて言われたのが嘘みたいだ。「画伯、もうすぐですよ。」「頑張ってるけど、先が見えない。」曲がり角でオカチャンが「こっちです」と案内する。交通案内も板についたものだ。「向こうからも行けるけどね。」ダンディとヨッシーは曲がらずに随分先の方を歩いている。
     静御前の墓に着くと、すでにダンディが涼しい顔でベンチに座っていた。「ダメじゃないか。リーダーより先に来ちゃ。」「だって分かってるんだから。」取り敢えずリュックを下ろし水を飲む。ここに来たのは三度目だろうか。来るたびに綺麗になっているようだ。栗橋の観光資源の目玉なのだろう。ここの様子は、既に昨年九月の「里山日記」に書いたので今日は言及しない。
     気が付くと腕が随分日焼けして真っ赤になっている。「だから、日焼け止め塗らなくちゃ。」マリーが妻と同じことを言う。先日妻に日焼け止めクリームを貰ったのだが、今日はすっかり忘れてしまった。
     「ここでお団子食べましたね。」「俺が買ってたら、みんなが来たんだ。」大酒のみのスナフキンが団子を食うというのが信じられない。ヨッシーは胡瓜を買ってきた。「安かったんですよ。」新鮮な胡瓜は味噌をつけて食うと旨い。
     「静御前の墓だなんて捏造、嘘っぱちですよ」とダンディは静伝説を一刀両断する。「それを言えば日本史なんか捏造だらけじゃないですか。」姫の言葉はちょっと残念だが、特に目くじらを立てるほどでもない。
     「関西にあれば信用するんじゃないの?」マリーの判断が正しいか。全て東国にあるのがいけないのだ。いっそドイツにあれば、ダンディはもっと信用するのではあるまいか。「また無茶なこと言って。」私も以前はこうした物を否定するだけだったが、最近少し考えが違ってきた。歴史に捏造は許されないが、民間伝承は別に考える必要がある。伝承が生まれた背景、それを伝え続けてきた民衆の社会心理には、それなりの理由がなければならない。
     頼朝の前で臆することなく義経を偲び歌い舞った静に、並み居る坂東武者は涙を流した。熱狂的なファンになってしまったのである。その後彼女の姿を心に刻み付けた武将たちは、それぞれの領地に戻ったとき、行方を絶った彼女を偲ぶために鎮魂碑を建てた。つまり各地にある静御前の墓は、静への鎮魂と悔恨の記念碑なのである。後には『義経記』を読んで静に憧れ、供養塔を建てる連中も出た。やがて鎮魂碑は本当の静の墓だと思われた。しかし静は日本で死んだのではなかった。

     平氏政権の財政基盤は対宋貿易に大きく依存していた。清盛が福原遷都を強行したのは、これを更に強固なものにするためであり、大輪田泊を拡張整備して、南宋との間に正式な国交を開いた。平氏が滅んでも南宋の商人は日本に出入りしており、かつて常盤御前を知っていた男が密かに静を船に乗せ、首都の臨安に逃した。文治二年(一一八六)の暮れ、静二十一歳の時である。
     白拍子には教養と音感とリズム感が求められる。これが外国語習得に有利に働き、静はすぐに南宋語を話すようになる。臨安の宮廷でも静は艶麗な舞姫として厚遇された。
     それから三年、義経が死んだという噂が臨安まで届いた。九郎様が死んだ。それならば、いっそできるだけ日本から離れてしまいたい。遠くへ、遠くへ。静はイスラム商人に従って西へと向かい、コンスタンティノープルに辿りついた。静が辿ったのは東シナ海、南シナ海、インド洋を経てアラビア半島に出る海のシルクロードである。途中で海賊に襲われるなど、苦難の連続ではあったが、その事情を記していると余りにも長くなるので割愛する。コンスタンティノープルは、東西文化が妍を競う当時最大の国際都市であり、ここでも静は舞いの名手としてもて囃された。
     しかしコンスタンティノープルも静にとって安住の地ではなかった。一二〇二年から始まったヴェネティアが組織した第四回十字軍は、あろうことか同じキリスト教国である東ローマ帝国の首都を攻め落とし、破壊と略奪の限りを尽くす。瓦礫の中に身を隠していた静を、たまたま十字軍に参加していたドイツ騎士団の一人が発見し、奴隷としてドイツに伴った。
     奴隷とは言いながら三十七歳の静はせいぜい二十歳程度にしか見られず、騎士は妻として丁重に扱った。勿論その時代にドイツという国はない。静が落ち着いたのはゲルマンの奥深い森に囲まれた小さな荘園である。
     やがて老年になった静は、冬の寒い日に荘園を訪れた旅芸人の笛吹きに出会い、求められるままに笛を教えた。肉を手掴みで食い、ジャガイモを主食にするような野蛮な民族にとって、静の吹く曲は実に神秘的に感じられたに違いない。芸人が教えられた曲を完璧に吹けるようになったとき、静は「しづやしづしづのをだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな」と舞い終わってひっそりと死んだ。奇しくも鎌倉では実朝が公暁に暗殺され、公暁も殺されて頼朝の血筋が絶えた日であった。日本の年号では健保七年一月二十七日、西暦では一二一九年二月十三日、静は五十四歳だった。
     旅芸人はその曲を秘伝として子に伝え、子は孫に伝えた。祖父と同じ旅芸人になった孫は、いつしかハーメルンの笛吹き男と呼ばれるようになっていた。この男に言及する最古の文献は、事件が起きたのは静の死後六十五年後の一二八四年のことだとしている。多くの子供たちがその神秘な曲に誘われて行方を絶った。
     一方、文治五年(一一八九)に奥州で死んだと思われた義経も大陸に逃れていた。藤原秀衡の北方交易ルートは十三湊から日本海を南下し、敦賀から渤海国に至るものだったが、渤海は既に滅ぼされて満州一帯は女真族が支配していた。義経は蝦夷から樺太を通って大陸に渡り、更に内陸に入っていく。やがて一二〇六年のクリルタイでモンゴル諸部族を統一し、チンギスハンと名乗って西アジアからヨーロッパを席巻する。
     西に向かったという噂を信じて静を探すためであったが、努力空しく静に出会うことはなく死んだ。一二二七年、義経六十八歳であった。岡田英弘『世界史の誕生』が言うように、モンゴル帝国の誕生こそが「世界史」という概念を誕生させたと見做されるなら、静こそが「世界史」を生み出したと言わなければならない。
     しかしモンゴル宮廷には日本の美女の伝説が残った。フビライの二度に亘る日本遠征の隠された目的は、日本の美女を求めることにあったのである。
     そして歴史の女神クリオは実に不思議な振る舞いをする。やがて七百年の時を隔て、静の血をひく少女がドイツに生まれた。少女は長じて踊り子となり、日本人留学生と運命的な恋をすることになる。少女の名はエリス・ヴァイゲルト、日本人の名は森林太郎であった。

     「今日はどこにしますか?」妄想をロダンの言葉が断ち切る。やはり大宮だろうね。「栗橋にあればそこでも良いと思ったんですけど。」「栗橋じゃ何もないよ。」「三時四十二分がある。間に合うかな。」さっきからスナフキンが検索していたのは時刻表を見ていたのか。あと七八分あるから十分間に合う。「それじゃ急ぎましょう。」
     駅舎に入り佐藤忠良の少女像を見て、「何かな」と確認する人がいるのが不思議だ。去年も見ているではないか。「佐藤オリヱですよ。」講釈師は東武線に回り、残った九人が湘南新宿ラインに乗り込んだ。「これで逗子まで行くんですね。」随分便利になったものだ。
     本日の歩数は二万二千歩と決まった。十三キロ程度になったろうか。姫の計画では八・二キロだが、最初の「お廻り道」の迂回路と、ベルク、ベイシアへの寄り道等を考えれば妥当な所だろう。
     オカチャンは愛妻に禁酒を命ぜられていて参加できないと、「残念です」と言いながら白岡で降りて行った。大宮に着いたのは四時十一分だ。「さくら水産は飽きたから、庄屋辺りにしようよ。」「やってるかな。」やっていた。スナフキンは着替えてすっきりした顔で戻ってきた。私も着替えを持ってくればよかった。姫も着替える。ダンディもブラジルを脱ぐ。
     今日は画伯の傘寿の祝いを兼ねることになった。「ダンディとヨッシーはあと何年ですか?」「四年です。」「講釈師と小野中将も一緒ですね。ただ中将は早生まれかな。」元気な年寄りたちである。ビールが旨い。このために歩いているようなものだが、二杯飲む気にはなれない。「お腹がダブダブになっちゃうものね。」しかしダンディはビールを三杯飲む。焼酎は黒霧島のお湯割りだ。
     牛蒡の唐揚げが旨い。カブの浅漬け、新じゃがのバタ炒めも旨い。これらは.本日のお薦めである。さくら水産とはかなり雰囲気が違う。他に何を食べたろうかと記憶を辿ると、マイタケの天麩羅が出た。ナスの一本漬けを食った。植物ばっかりだが、他には思い出せない。
     焼酎を一本空けた所でお開きにし、二千五百円なり。しかし六時半では外はまだ明るい。これでは帰るわけにはいかないではないか。「どこかに行くんですか?」姫の声はカラオケを期待しているようだが、今日はちょっと違う気分だ。スナフキン、ロダンと商店街を少し歩いていると、かしら屋(川越若松屋直営店)を見つけた。「ここでいいかな。」「若松屋ですね。行きましょう。」入り口で見るとかなり混んでいるようだったが、奥に案内されると、焼きトン屋とは思えない落ち着いた雰囲気の席が空いていた。
     「ここは焼き鳥屋かい?」「焼きトンですよ。」スナフキンには馴染みがないだろうが、東松山名物の焼きトンで、辛い味噌をつけて食うものだ。若松屋は人の知る有名店である。川越の若松屋はいつも満員でなかなか入れない。私は会長と一緒に二度程入っただろうか。
     日本酒のぬる燗を二本頼むと、自動的に焼きトンの串が出てきた。「これってお通しかい?」そうではないのだ。要らないというまで出される筈だ。しかし、店員は私の皿には追加するのに、他の二人の皿にはあまり追加しない。不思議である。酒をもう二本追加する。ロダンは眠そうだ。結局注文したのは酒だけで、自動的に出された串を何本か食い、一時間ほどで一人千円なり。

    蜻蛉