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    日光街道 其の八  栗橋から古河まで
       平成二十六年十月十一日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2014.10.19

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     旧暦九月十八日。一週間ほど高い香りを漂わせていた大学の金木犀は、六日の台風であらかた散って全く匂いも消えてしまった。この台風十八号は今年最強ということだったが、埼玉県には比較的影響を及ぼさず、図書館が終日休館になったのは、なんとなく空振りであった。ただ、週明けにはまた更に大型の十九号がやって来る。(これも結果的には埼玉県に殆ど影響がなかった。)
     先月二十七日に噴火した御嶽山では、発見された死者は今日現在で五十五人になり、まだ行方不明者もいる。まさか桃太郎は行ってはいないだろうね。山に行くときは必ずメールで連絡をくれるので大丈夫とは思っているが。(そして十月十六日、死者五十六人、行方不明者七人を残して今季の捜索打ち切りが決まった。)
     この事件で「休火山」「死火山」という定義が今は廃語になっていたこと、そしてこの定義の見直しが、昭和五十四年(一九七九)の御嶽山の水蒸気噴火によるものだということを初めて知った。五十四年と言えばテレビもなく、新聞も余り読んでいない時期だから全く記憶にない。これでよくサラリーマンを続けてこられたものだ。
     デング熱騒ぎは、ほとんど重症化しないことが分かってほぼ終息したが、アフリカのエボラ出血熱はいまだに猛威を振るい続け、遂にアメリカで発症した。天変地異が続いている。
     十月八日は皆既月食を見た。隊長が事前に天文情報を送ってくれていたし、図書館九階では天文部の連中が観測会を実施することになっていたので、私も気になっていた。自宅でゆっくり見ようとこの日は早めに仕事を仕舞い、大学を出たときは満月だった。六時半過ぎに鶴ヶ島駅に降りたときには、左下三分の一が欠ける程度だったのに、およそ二十分で家に着いた時には下半分が欠けている。意外に速度が速いのだ。
     私が教えるまで妻と息子はこんなことは全く知らずに、慌ててベランダに出る。ちょうどベランダからよく見える位置で、秋田から送って来たひやおろしを飲みながら五分おきに窓際に行って確認する。国立天文台の発表から、時刻の経過を記しておくと、十八時十四・五分に部分食が始まっている。皆既食の始まりが十九時二十四・六分、食の最大が十九時五十四・六分、皆既食の終わりが二十時二十四・五分、部分食の終わりが二十一時三十四・七分である。
     月食というからには真っ黒になるものかと思っていたが、薄らと丸い形が残り、暗橙色とでも言うような色(一般には赤銅色と呼ぶらしい)になるのですね。と言っても肉眼ではよく分からず、デジカメで撮った画像で確認したのだ。何故そんなことになるのか、自然科学に弱い人間はネット情報に頼るばかりだ。

     皆既食では、月が本影の中に完全に入り込みます。しかし、皆既食中の月は真っ暗になって見えなくなるわけではなく、「赤銅(しゃくどう)色」と呼ばれる赤黒い色に見えます。
     地球のまわりには大気があります。太陽光が大気の中を通過する際、波長の短い青い光は空気の分子によって散乱され、大気をほとんど通過することができません。一方、波長の長い赤い光は散乱されにくく、光が弱められながらも大気を通過することができます。これは、朝日や夕日が赤く見えるのと同じ理由です。また、大気がレンズのような役割を果たし、太陽光が屈折されて本影の内側に入り込みます。このかすかな赤い光が皆既食中の月面を照らし、月が赤黒く見えるのです。(国立天文台「皆既月食二〇一四年十月八日」http://www.nao.ac.jp/astro/sky/2014/lunar-eclipse.html)

     光の波長と色の関係というのは私にとっては昔から謎である。ノーベル物理学賞の青色LEDにしても、いくら説明を聞かされてもなかなか理解できない。こういう分野に関しては全く脳味噌が働かないから嫌になる。

     赤銅に欠け行く月や冷やおろし  蜻蛉

     今日は栗橋駅集合だ。埼玉県内に住んでいても「栗橋ってどこですか」と訊いてくるトンチンカンな人も多いので、一応位置関係を簡単に確認しておこう。栗橋は埼玉県の北東部に位置し、すぐ東の利根川が茨城県との境界をなす。北側には、利根川と渡良瀬川が合流する三角形地域の下河辺(今では加須市)があり、群馬・埼玉・栃木・茨城との境界が入り組んでややこしい。鉄道はJR宇都宮線と東武日光線が乗り入れている。
     ここ一週間ほど腰の具合が本調子でなく、湿布を貼ってコルセットを巻き付けたが、ややへっぴり腰気味になって速く歩けない。遅れるとまずいので少し早目に家を出ると、予定していたより一本早い電車に乗れた。川越から大宮に出て宇都宮線に乗り換える経路で、料金は九百三十円である。武蔵野線から東武線に回る方が、JR区間が短い分安いのではないかと思ったが、そうではなかった。
     お蔭で栗橋には九時十五分頃に着いてしまった。まだ誰もいないだろうと思いながら改札の向こうを眺めると、佐藤忠良の少女像の脇に本庄小町がひとりでしょんぼり座っている姿が見えた。随分早いではないか。本庄からはどうやってきたのだろう。「湘南新宿ラインで大宮、そこから宇都宮線だよ。」大宮経由なら私と変わりない。「パソコンが病気になってしまって、ここでいいのか不安になってたのよ。」

     秋晴れや少女の像で独り待ち  蜻蛉

     九時四十分を過ぎた頃からメンバーが少しづつ集まってきた。それにしても、いつもは一番乗りをしている講釈師の姿が見えないのはどうしたことだろう。リーダーのあんみつ姫がJR改札口から出てきたのが奇態だ。彼女なら東武線でそのまま来た方が余程良い筈で、一駅違いのドクトルは既に東武線で到着している。「久喜でJRに乗り換えたんです。」乗換案内を検索してみると確かに第一候補はそれになっているが、第二候補として南栗橋で伊勢崎線から日光線に乗換える方法がある。そしてこの方が九十二円安い。こういう細かな計算を一所懸命しているのに、私の小遣いが一向に節約できないのは不思議なことだ。
     横浜のマリオが東武線でやって来たのにも驚いた。「押上で乗換えたんですよ。JRを全く使わなかったから安い。年金経路です。」なるほど、上大岡から京浜急行(浅草線乗り入れ)、東武線と乗り継げば良いのだ。「その代り時間はかかりました。」地下鉄の乗り入れが拡大したせいで、どこがどう繋がっているのか実に難しい時代である。マリオに少女像を教えてみたが、佐藤オリエを知らなかったのは残念だった。美人と言う訳ではないから、一般には余り知られていないのだろうか。
     桃太郎もやって来た。やはり御嶽山には登っていなかったのだ。「七時五分に電車に乗りました。」若旦那は海外旅行のあと体調を壊して二週間も入院していたそうだが、大丈夫だろうか。「まだ完全じゃないんですが、ゆっくり歩きますから。」起伏のない平坦な道だからそれほど心配しなくても良いか。「距離が短そうだから」と若女将も言う。「私もそうだよ。距離が短いからさ。」姫の資料では六・一キロのコースとなっているが、これはいくらなんでも短すぎる。直線距離でも七キロ以上にはなる筈ではないか。「大丈夫ですよ、いざとなれば桃太郎が負ぶってくれますからね。」毎度お馴染みのリーダーの言葉だ。
     これで姫、小町、若旦那夫妻、ダンディ、ヨッシー、ドクトル、マリオ、スナフキン、桃太郎、蜻蛉で十一人となった。それにしてもホントに講釈師はどうしたのだろう。いれば喧しいが、いないとなんとなく淋しい。「ハイジが来るかと思ったのに。」「そう言えば暫く会ってないね。」ロダンも宗匠もヤマチャンも来ない。「ロダンからはメールがあったんじゃないか。」私は気付かなかった。
     朝晩はかなり冷え込み、日中の気温との差が大きくなってきた。夏もあっという間に終わってしまった。今日の空はすっきりとした秋晴れだ。気温はそれほど上がらない筈だから歩きやすいだろう。「ウィンドブレーカーを忘れてしまって。」「日中は大丈夫だと思うよ。」

     東口に降りるエスカレーター脇の壁には、天保三年九月の栗橋宿の町並みを描いた絵が掲げられている。現本は本陣家の池田家が所蔵しているもので、「利根川通 堤外家作御糺ニ付取調絵図面複写」というのが正しい題だ。堤防の外に四角に囲んだのが関所であり、川岸に杭を並べて囲んだ部分は「土出し」と呼ばれ、川の氾濫で関所が流されないよう、水流を弱めるものだと言う。
     姫の挨拶が終わって出発する。小町もマリオも静御前の墓を見たことがない。「それなら、すぐそこですから寄りましょう。」どうせ通り道なのだ。記憶がないと言っていた桃太郎は現場を見て思い出した。「確かに隊長の企画のとき来ましたね。思い出した。」「団子を食ったじゃないか」とスナフキンは言うが、去年のその時には桃太郎は参加していない。桃太郎が来たのは平成二十年十月、幸手から南栗橋まで歩き、東武線で栗橋駅まで足を伸ばして立ち寄った時のことだと思う。折角近くまで来たのだからと、ロダンが提案したのであった。それも含めて私は四回目になる。静御前の墓については前回の記録を見てもらおう。随分余計なことも書いているけれど。
     今日は誰も団子を食わず、十分ほどで出発する。「ここだったかしら」と姫は福寿院(真言宗豊山派)に寄ろうとしたが、姫の計画にはない筈だ。栗橋八福神(吉祥天を含めている)の福禄寿を目玉にする寺であるが、歴史的にどんな価値があるものかは分からない。
     「勘違いしてました。」まっすぐの道が意外に長い。「こんなに長かったかしら。」栗橋駅入口の交差点から県道六〇号線に入ると、かすかに宿場の面影が感じられるようになってきた。古い店構えの家が道の両側に残っていて、「栗橋宿」の提灯と、かつての商売等を記した木札が掛けられていると姫が説明してくれるので、それに注目しなければならない。

    日光街道栗橋関所・栗橋宿を元気にする会
    栗橋宿 宿場町のお店に聞き取り調査を進めながら屋号の木札を掲げていく運動をやり始めてついに屋号木札の取り付けが始まりました。
    (「職人が作る木の家」http://kinoie-wada.seesaa.net/article/399184067.html)

     この記事が今年の六月十一日のものだから、つい最近始まった運動だ。寂びれた地域をどうにかして活性化したいと、地方は知恵を絞っている。道路向かいの鮮魚仕出し「乙女屋」の真青な屋根が目を惹くが、その隣にある橋原屋は「創業明治中期・燃料店・戦後は味噌塩など食料品も扱う・建物江戸末期築」、こちら側の「海老屋」は「創業明治中期・砂糖問屋・建物明治三十二年築」となっている。

     街道が整備される以前に町は無く、日光街道は手前の幸手宿から北東に向かった栗橋村(後に元栗橋村に改称、現・茨城県猿島郡五霞町元栗橋)に渡船場があり、〝房川渡し・栗橋〟とよばれていた。慶長年間に地元の池田鴨之助、並木五郎平の出願により、現在の栗橋地区となる上河辺新田が開墾された。一六一六年(元和二年)に街道筋が付け替えられ、現在地に正式な宿駅として栗橋宿が成立した。
     一八四三年(天保十四年)当時の人口は千七百四十一人、家数四百四軒、本陣一、脇本陣一、旅籠二十五軒との記録が残る。(ウィキペディア「栗橋宿」より)

     「たぶんここだと思うんですけど。」少し先の空き地で、ここが本陣跡ではないかと姫が半信半疑のまま口にする。「でも何の解説もないんですよ。」隅に立つ小さな石碑は「寄贈 古川鶏郎殿」というもので、本陣とは関係ないだろう。しかし栗橋宿は利根川堤防の拡張に伴って埋もれた部分が大きく、現在も発掘作業が継続している。そちらの方に埋まっているのではなかったかしら。
     念のため調べてみるとやはりそうだ。埼玉県埋蔵文化財調査事業団によれば、本陣跡を含む発掘現場は久喜市栗橋北二丁目四三三二番一である。

     栗橋宿本陣跡は、栗橋宿の本陣であった池田家を含む範囲です。池田家は栗橋宿が開かれた当初から江戸時代を通じて本陣を務めました。江戸時代後期には街道に面した部分を店子に貸していたようで、それらに関すると考えられる遺構が検出されています。
     (「栗橋宿本陣跡」http://www.saimaibun.or.jp/h25/3221.htm)

     しかし別の記事によれば、池田家は栗橋北二丁目七番地辺りに現存していると言い、写真付きで紹介している。私たちはその発掘現場から土手に回ってしまったが、県道をそのまま八坂神社方面に向かえば右手に見られたかも知れない。(「坂道散歩」日光街道・栗橋宿→中田宿→野木宿)http://8tagarasu.cocolog-nifty.com/sakamitisannpo/2009/11/post-cb0a.htmlより)。
     土手には栗橋関所跡の案内板と記念碑が立っている。「入り鉄砲、出女ですか?」桃太郎の疑問に「それは箱根の関所じゃないの」と小町が応えている。しかし箱根に限らず、江戸への出入りを取り締まる関所は全てこれを監視しただろう。

     栗橋関所は、日光街道が利根川を越す要地に「利根川通り乗船場」から発展した関所の一つで『房川渡中田・関所』と呼ばれた。東海道の箱根、中仙道の碓氷と並んで重要な関所であったという。
     関所の位置は、現在の堤防の内側で利根川のほとりにあり、寛永年中に関東代官頭の伊奈備前守が番士四人を置いた。以後、番士は明治二年関所廃止まで約二百五十年間、代々世襲で勤めた。
     往古、奥州街道は、下総台地の五霞町元栗橋(下総国猿島郡・栗橋町)を通っていて、その「幸手=元栗橋」の乗船場を『房川渡・栗橋』と呼んだ。後、利根川の瀬替えなどで、街道が付け替えられ「栗橋=中田」に乗船場が生まれ『房川渡・中田』と呼ばれた。一説に房川とは、元栗橋に宝泉寺という法華房があり、『坊前の渡し』と呼んだことから、房前が房川と記され、川と渡しの名になった。(案内板より)

     姫の資料には、「関東十六津をみだりに渡ることを禁じて」官許の渡しを設置したと書いてある。その関東十六津にドクトルがひっかかった。私は予習していなかったから、ドクトルに指摘されなければそのままにしていたかも知れない。「それはどういうことなんだい。ネットで調べたけど分からなかったんだ。」「私はそこまで調べてません。」
     それなら調べるのは私の役目になる。ちょっと逸れるが、室町時代には日本の十大港湾として三津七湊が定められていた。三津は安濃津、博多津、坊津、七湊は三国湊(越前・九頭竜川河口)・本吉湊(加賀・手取川河口)・輪島湊(能登・河原田川河口)・岩瀬湊(越中・神通川河口)・土崎湊(出羽・雄物川河口)・十三湊(陸奥・十三湖河口)である。
     このことによっても「津」は港、泊地のことで、川とは関係ないのではないかと思い込んでいたのは無学のせいであった。渡し場の意味もあるとは初めて知る。そしてネットを検索してみると、ドクトルの言うように「関東十六津」はグーグルでは引っかかってこない。
     それでも方法はあるので、いくつかキーワードを変えながらなんとか探し出した。正確には「関東十六渡津」(坂東十六渡津とも言うか)であり、定船場(じょうふなば)とも言う。元和二年(一六一六)、幕府は利根川水系を渡る街道十六ケ所を定船場と定め、それ以外の渡しを禁じた。ネットで見つけた禁令を挙げてみる。

    定船場之事
    白井渡(上野、利根川筋)・厩橋(同上)・五料(同上)・一本木(武蔵、利根川筋)・葛和田(同上)・河俣(上野、利根川筋)・古河(下総、渡良瀬川筋)・房川渡(武蔵、利根川筋)・栗橋(同上)・七里ケ渡(下総、利根川筋)・関宿之内大船渡境(同上、境町のこと)・根府川(常陸、利根川筋、布川のこと)・神崎(下総、利根川筋)・小見川(同上)・松戸(下総、江戸川筋)・市川(同上)。
    一 定船場之外わきわきにて、みだりに往還之者渡すべからざる事
    二 女人手負其外不審成るもの、何れ之船場にても留置、早々至江戸可申上、但酒井備後守手形於有之は、無異儀可通事
    三 隣郷里かよひのものは、前々之船渡をも可渡、其他女人・手負の外不苦者は、其所之給人又は代官の手判を以可相渡事
    四 酒井備後守手形雌有之、本船場之外は、女人手負又は不審成者は一切不可通事
    五 總而江戸へ相越者、あらたむべからざる事
    右條々於相背族は可被處巌科者也
    元和二年八月
    (谷弘『江戸町民の足、渡し舟』「造船研究」平成十二年七月・日本財団図書館電子図書館よりhttps://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2000/00993/contents/036.htm)

     対象河川は利根川、渡良瀬川、江戸川であった。十六ヶ所のうち葛和田は赤岩渡船とも呼び、私たちは一度乗ったことがある。今でもバスに代わる公共交通機関として稼働しているのだから驚く。松戸はお馴染みの矢切の渡しだ。これで見ると、房川(元栗橋)と栗橋とが別に設置されていたことが分かる。
     ウィキペディア「栗橋宿」には、「江戸幕府は江戸の街を防衛する理由から、大河川に橋を架けることを禁じたため」と書かれているが、それよりも架橋技術の未熟と橋の維持コストが要因であろうとは、先月の江戸歩き・第五十四回「隅田川橋巡り」で考えた通りだ。
     女人手負い又は不審なる者は一切通してはいけない。女人は出女対策である。元和二年は大坂夏の陣が終わった翌年で、それが「手負い」「不審なる者」の規定となったのだろう。但し酒井備後守の手形があれば良い。酒井備後守は川越藩主の忠利である。関所の統括責任者だったようだ。因みにこの年四月十七日(陽暦六月一日)、家康が駿府で死んでいる。
     曾良日記には「此日栗橋ノ関所通ル。手形モ断モ不入。」とある。手形も断りもイラズ(不要)。女に比べて男は簡単に通したようだ。
     「ここは後で寄りますから。」いったん八坂神社を通り過ぎて番士屋敷跡を目指していると、後ろから大声が聞こえた。「東武線が遅れちゃってさ。」講釈師である。東武動物公園駅で信号機故障があったらしい。「ケータイで連絡くれればいいのに。」ダンディの言葉に、「ケータイ忘れちゃったんだよ」と大声で答える。「よく、ここだって分かったわね。」若女将は素直に感心する。「どこだって分かるさ。」
     「ここに掛けて貰えませんか」姫から受け取った電話番号をそのままスナフキンに渡した。「ここに掛けてみてよ。」「俺が掛けるのか。」スナフキンが電話番号を入力したスマホを姫が借りて、昼食に予約していたうどん屋に人数確定の連絡をする。ちょっと前なら講釈師の分を入れずに十一人で頼むところだったから、タイミングが良い。スマホを借りたのは、姫の携帯電話も私のものも、日中の屋外では液晶画面が真っ黒になって確認できないからだ。そういうケータイだから、こういう時にメールを受信しても全く読めないし、そもそも電話しようと思っても電話帳が読めない。実に不便なものである。
     番士屋敷跡も、草原の中に案内板が立つだけで何もない。久喜市栗橋北二丁目。足立家があった場所で、いずれは堤防がここまで拡張されることになっている。昭和六十三年三月日付の案内板には、「現存する貴重な番士宅」と書かれてあるので、二十年前にはまだ家が残っていたのである。四人の番士の俸給は二十俵二人扶持、但し足立家だけは二十俵四人扶持だったという。江戸の町方同心が三十俵二人扶持だから、その三分の二に過ぎない待遇だが、屋敷地は四百二十坪ほどあったらしい。
     もとは幕府代官が関所を管轄していたが、寛政十二年(一八〇〇)以降は足立・加藤・島田・富田の四家が関所番を世襲した 。

     栗橋関所番士屋敷跡は、栗橋関所に勤務した番士の住まいです。番士屋敷としての存続期間は、関所が置かれた とされる寛永元年(一六二四)から明治二年(一八六九)に廃止されるまでの約二百四十年間に及びます。
     番士の屋敷は四軒(近年まで子孫の方が暮らしており、屋敷の位置も確認されています)あり、そのうちの三件が今回の発掘調査の対象となりました。 いずれも高い盛り土の上に建物が建てられていましたが、調査では、この盛り土の下からも建物の跡が見つかりました。この地域は 利根川に面しており、何度も洪水の被害を受けました。番士屋敷も洪水のたびに盛り土を高くして建て直し、現在の姿になったと考えられます。(埼玉県埋蔵文化財調査事業団「栗橋関所番士屋敷跡」http://www.saimaibun.or.jp/hakkutsu/1551.htm)

     少し戻って八坂神社に入る。久喜市栗橋北二丁目十五番一。栗橋宿の総鎮守で、かつての牛頭天王社である。「ほら珍しいじゃないか。」「あら、ホントだわね。」狛犬の代わりに鯉が鎮座しているのだ。姫の資料には冗談で「狛鯉?」なんて書いているが、こういうものに「狛」は使わない。ネット上でもこの手の表現をする人が多いので、言わでものことだが念のために言っておこうか。稲荷の狐、日枝山王の猿は誰でも知っている。浦和の調神社のウサギは珍しいが、その他にも狛犬以外のものが対になって社殿を守る例は多い。神使と言えば良いのである。
     「どうして鯉なのかな。」初めて見る小町は不思議そうな声を出す。私は前に見ているから、「利根川氾濫のときに、鯉と亀が神体を運んできたっていうんだ」と教える。「そんなことだと思ったよ。」それにしては鯉だけが目立って亀が余り目立たない。鳥居の外に、カメと鯉が開いた本を支える形の由緒碑があって、「ここに書いてありますよ」と姫が指をさす。「新編武蔵風土記」の項が引用されているのである。

    御祭神 素盞鳴命
    慶長年中利根川洪水ノトキ水溢を防カントテ村民等堤上ニ登リ居タリシニ渺々タル水波ノ中ニ鯉魚ト泥亀トアマタ囲ミ神璽ト覚ホシキモノ流レ来タレリ引キ上ゲ見ルニ全ク御神像ニテ元栗橋ノ天王ナルコト集ヘル村民等モ見認メ得タリシカバ衆庶皆奇異ノ思ヒヲナシカゝル乱流ノ中ニ傾覆ノ患ヒモナク鯉魚泥亀ノ類囲テ当所ニ流レ来ル事ハ之レ霊ノ然ラシムトコロトナシ則ニに勧請ス
    元和年中當地開墾栗橋宿ト称シ奥羽日光両街道ト定メラレ衆庶集マル為鎮守神社益々殷賑ス  新編武蔵風土記

     またこの神社は大神輿でも有名らしい。文久三年の制作と言い、『栗橋小唄』には重さ千貫とあるというが本当だろうか。関東三大神輿と自称しているが、ネット上では、木更津の八剱八幡神社がこれを自称していて、もう一つが分からない。神輿の大きさで言うならば深川の富岡八幡が一番だろうし、浅草鳥越神社のものも名乗りを挙げて良いのではないか。「なんとか三大」と言われると、いちいち調べなければいけないので実に面倒だ。
     境内隅に水準点というものを見つけてドクトルが一所懸命観察しているが、ロダンがいればもっと喜んでいただろう。角柱の上部を削って表面を円形にし、小さな半球を載せた石が水準点である。その周りを、四つの平べったい保護石が正方形のコンクリートに埋められて囲んでいる。ウィキペディアを見ると、この形式は一等水準点になるらしい。

    国土地理院が設置・管理する水準点は通常、国道、測量当時の旧国道や主要街道沿いに約二キロメートル間隔に埋設されており基準となる柱石又は金属標が設置されている。その数は基準、一等、二等、三等水準点合わせて約二万二千点に及ぶ。これらを辿る形で水準測量が行われ、この路線網を水準網と呼ぶ。(ウィキペディア「水準点」より)

     国が設置管理する「等」に対して、地方自治体が設置するものが「級」で区別されるようだ。全国の基準になる日本水準原点は永田町の国会前庭園にあり、そこはロダンの案内(第三十五回)で見たことがあった。
     「土手を行くのかい?」「橋を渡ります。」利根川橋(国道四号線)である。最初は大正十三年(一九二四)、内務省によって架けられた。利根川中・下流域に架けられた最初の近代的な橋である。交通量の増加によって昭和四十一年には平行してもう一本の橋が架けられ、古いものを上り、新橋を下り専用とした。しかし上り橋は老朽化が著しく、平成二十一年(二〇〇九)に架け替えられた。
     歩道は自転車の往来が激しい。「急ぎましょう。」講釈師は病み上がりの若旦那を気遣って、最後尾をゆっくり歩いてくる。「意外に優しいのね。」「口と裏腹だね。」橋の真ん中が埼玉県と茨城県の境になる。「水量が多いな。」先日の台風の影響だろう。河川敷に水溜りが残っている。「また台風が来たら大変だろう。」
     「渡良瀬川は近いのか?」ここから約一・五キロ上流で渡良瀬川が合流している。更にその上流十キロ以上を遡れば谷中村の跡(谷中湖)に辿り着くだろう。

     利根川を渡ると旧下総国、現在は茨城県古河市中田である。私は実は長い間、古河市は栃木県だと思っていた。「常陸国じゃないんですね。」茨城県でも西端に当たり、文化や交通面でも千葉や埼玉に縁が深い。土手下にはセイタカアワダチソウが広がっている。「あれはススキかな。」スナフキンが姫に訊く。「オギです。オギは生命力が強いんですよ。」何度か聞いたことがあるが、私にはまだススキとオギを区別できない。
     ここが渡し場の対岸になる。「侍は船賃を払わなくていいんだ。」「へーっ、そうなの。」講釈師が知識を披露し、若女将が感心している。武士(仕官しているもの)は公用と見做されたのである。但し荷物を民間に請け負わせるときは、その料金を支払わなければならない。また、「斗藪(托鉢僧)・行脚・乞食體之者」は往古より渡し賃を取らないとも定められていた。(谷弘『江戸町民の足、渡し舟』より)
     ここで国道四号線から逸れて左の県道二二八号に入る。
     「あれっ、おかしいですね。」ヨッシーが気づいたのは、橋に向かうカーブの手前で、上り車線の真ん中に大きく描かれた進入禁止の表示だ。橋は上り下りが別々になっているから仕方がないのだが、知らずにここまでやってきた車はどうしたら良いのだろう。いきなり前に進めなくなってしまうのだ。「大型トラックだったらUターンもできませんね。」ロダンがいたら『回転禁止の青春さ』(星野哲郎作詞・北原じゅん作曲・美樹克彦唄)なんて歌ったのではないか。
     少し先には、鉄骨で組んだ火の見櫓の脇に「中田宿」の解説板が立っていた。かつての中田宿は今では河川敷になってしまったが、天保十四年(一八四三)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣・脇本陣各一軒、旅籠六軒。家数は六十九軒、宿内人口は四百三人である。栗橋宿と渡し船で結ばれ、栗橋・中田宿と一つの宿駅とされた。明治四十三年(一九一〇)に始まった河川改修工事によって宿場のほとんどが移転し、今の中田地区になった。
     最初に寄るのは鶴峯八幡だ。古河市中田一三三七番地七。この神社もかつてあった場所は河川敷となってしまって、ここに移転したものだ。八幡宮と香取宮と二枚の扁額を掲げた一の鳥居から、細長い参道が五十メートル程にもなるだろうか。参道の両側には「源頼朝創建鶴岡八幡宮分祀 鶴峯八幡神社」の赤紫の幟が立ち並んでいる。
     幟の上部には三つ巴紋(尾から頭に時計回り)と五七桐紋を並べる。三つ巴は八幡、五七桐は香取の神紋である。但し鶴岡八幡は鶴丸を神紋としている。これは頼朝が千羽の鶴の脚に金の短冊を付けて放ったと言う故事に基づくものらしい。
     ところで随分前にもどこかで触れたことだが、巴の巻き方の左右呼称は難しい。要するに丸い頭と尻尾があるのだが、どちらからどちらに向かうかでまるで逆になる。すっかり忘れていたので、ウィキペディアの記事を引いておく。

     家紋における巴紋の左右呼称問題は長い間、家紋研究において最大の論点である。巴紋には細い部分(仮に尾)から円い部分(仮に頭)に至る進行方向が時計回りのものと、その逆の反時計回りのものがあり、用法などにおいて区別がされることも多い。家紋に関する現在の著書などではそれらに右と左の名を与えた名称が用いられるがそれがどちら向きのものを意味するかは時代や文献などにもより、必ずしも一定していない。
     家紋を描く上絵師は、その技法上の理由から尾が流れてゆく方向に従って名称としており、簡単な見分け方として親指を外に出して拳を握った時、左巴は左手の親指が指し示す方向、右巴は右手の親指が指し示す方向を参考とする。歴史的にはこの使用例が多い。(ウィキペディア「巴」)

     常識的に考えて丸い頭から尾の方に流れるのが自然に思える。それが絵師の使う名称なら、それに準じた方が簡単そうだ。
     由緒によれば、頼朝の奥州出陣の折に勝利祈願をし、建仁二年(一二〇二)相模国鶴岡八幡を勧請したものである。後、天福二年(一二三四)下総国一之宮の香取神宮を勧請して合祀した。従って祭神は誉田別(ホムダワケ・応神天皇)と経津主(フツヌシ・香取の神)である。
     本殿脇の胸像には「小久保城南翁之像」とある。字は内閣総理大臣岸信介だ。小久保の名前なんて勿論私が知っている筈はなく、裏に回ると、自由民権家で後に衆議院議員、貴族院議員になったと記されている。ウィキペディアによれば、本名は喜七、常陸国猿島郡新郷村の出身である。加波山事件、大阪事件、大隈重信暗殺未遂事件に連座したが、いずれも無罪または不起訴になっている。もう少し調べてみると、小久保が経営していた中田文武館(剣術道場)で、加波山事件の謀議が行われていた。この地域の民権指導者である。
     次は光了寺(真宗大谷派)だ。古河市中田一三三四番地。創建時は天台宗だったが、建保年間(一二一三~一二一八)に一向宗に改宗したというから、古い寺である。門前には「祖師聖人並静女旧跡」の石柱が立っている。静御前が葬られたことになっており、静が後鳥羽院から下賜された舞衣が保管されている。百人の白拍子に雨乞いの舞を舞わせた際、百人目の静の時に雨が降ったので蛙蟆龍(あまりょう)の御衣と呼ばれる。
     『義経記』から引いてみるか。梶原景時が「舞に於いては日本一の舞にて候」と頼朝に事情を説明する言葉だ。

     ・・・・磯禅師申しけるは、「九十九人が舞ひたるに、その験候はざらんに、静一人舞ひたりとても、龍神知見あるべきか。而も内侍所に召されて、禄重き者にて候ふに」と、申したりけれども、「とても人数なれば唯舞はせよ」と仰せ下されければ、静舞ひたりけるに、しんむじゃうの曲といふ白拍子を半らばかり舞ひたりしに、みこしの岳、愛宕山の方より黒き雲俄に出で来て、洛中にかかると見えければ、八大龍神鳴り渡りて、稲妻ひらめき、諸人の眼を驚かし、三日の洪水を出だし、国土安穏なりしかば、さてこそ静が舞に知見ありけりとて、日本一と宣旨を賜はりけるとは承り候ひしか

     境内の庭木は綺麗に丸く刈り揃えられ、掃除も行き届いている。落ち着いた静かな寺だ。「芭蕉の碑がある筈なんですけど。」「それじゃないか。」門の近くに句碑らしきものはあるが、それが芭蕉のものかどうか良く分からない。「いかめしき音や」までは読めるのだが、芭蕉の名前「はせを」もない。写真を撮っておいたので調べてみると、やはりこれだった。

     いかめしき音やあられのひのき笠  芭蕉

     奥の細道の旅で、芭蕉がこの寺に立ち寄った可能性は勿論ある。ただ、『奥の細道』本文では草加の次は一挙に室の八島(栃木市惣社町の大神神社)に飛んでしまうので、当然この寺のことは書かれていない。曾良日記によれば、元禄二年三月二十八日、昨夜来の雨がようやく辰上尅(午前七時半頃)に止んだので粕壁(春日部)の宿を出発した。間もなく降り出した雨は午下尅(昼過ぎ)まで続いたのだが、その日は栗橋関所を通って九里の道程を歩き、間々田に宿泊している。
     しかしこの句は貞亨元年(一六八四)、『野ざらし紀行』の旅で桑名本統寺住職琢恵を訪う途中に詠んだ句であるという。それなら何故ここに句碑があるのか。調べてみると、桑名の本統寺もここと同じく真宗大谷派であり、その縁かも知れない。
     ところで奥の細道といえば、古いメンバーは御存知の池田敏之氏が『平成奥の細道ウォーク記』(ぱる出版)という本を出版した。「八十男の難行苦行の十一年間の行楽」とサブタイトルにある通り、七十歳から十一年間かけて踏破した奥の細道の記録である。奥の細道だから江戸から東北までかと思ってはいけない。東北を回った後は日本海側を南に下り、敦賀で内陸に入って関ヶ原から伊賀上野を越えて伊勢神宮まで列島を横断する、実に東日本踏破と言って良い行程である。スナフキンが何人かに紹介しているので、私も宣伝に努めなければならない。初期の頃に栗橋を出発した記事があるので読んでみると、その日は小山まで一日二十八キロを歩いている。昔から元気な人である。

     「ちょっと時間がオシちゃってます。急ぎましょう。」今は十一時半。十二時前には昼食を予約したうどん屋に入らなければならない。円光寺(真宗大谷派)には寄らない。本願寺という随分大胆な名前を付けた寺がある。しかも真宗ではなく浄土宗なのが不思議だが、ここにも寄らない。
     こんなに暑くなるとは思わなかった。街道沿いには見るべきものは何もない。コンビニもない。「下見の時はトイレを探すのが大変でした。」中田公民館(古河市中田一三五番地一)でトイレ休憩を取って再び歩き始める。かなり暑くなって、背中が汗でびっしょり濡れてきた。「ちょうど食べ頃ですね」とヨッシーが指をさす。ホントに柿の実が随分赤くなっている。

     柿赤く街道行けど何もなし  蜻蛉

     腰をかばいながら歩いているから、普段より余計に疲れる。漸く「あそこの踏切を渡ったところです」と姫が声を上げた。南西からやって来た宇都宮線がここで曲がって北上していく場所だ。
     「看板が見えました。」着いたのは「うどん茶屋俵屋」である。古河市茶屋新田五十番地四。十一時五十五分。「丁度良かったですね。」うどん屋なのに鶏の唐揚げが一番人気だと言う不思議な店だ。街道の真向かいには「古河まねきねこ」というカラオケ屋が建っている。
     かなり広い店内で四人掛けのテーブル三席に分散し、私は小町、マリオ、ドクトルと一緒の席になった。ドクトルは鴨うどん(税込千二十六円)、あとの三人はエビ天丼と冷たいうどんのセット(税込九百円)を頼んだ。エビ天丼とはいうもののエビは一尾で、レンコンとカボチャの天麩羅が載せてある。
     別の席にはビールのジョッキが運ばれているが、私たちの席では昼間からアルコールを飲もうなんていう不届き者はいない。「誰が飲んでるんだろうね。」「ダンディ、スナフキン、桃太郎だよ。決まってる。」この辺では唯一の飲食店なのだろう。子供連れも目立って結構混んできて、入り口付近で待つ客も出始めた。
     姫は店を出るのは十二時四十分だと宣言していたが、テーブル毎に会計を済ませ、三十五分には全員が外に出た。「次に目指すのは一里塚跡ですが、しばらくトイレがありません。」

     片側一車線ながらかなり広い歩道をもつ道で、両側の家々は新しい。新開の住宅地のように見えるが、それぞれの敷地は広い。おそらく両側は田んぼか畑で、敷地の広さは農家だったからだろう。「昔の街道はこんなに広くないだろう。」相当拡張しているようだ。「夜になったら怖いよ。街灯もないんだぜ。」「夜にこんなところを歩く人はいないんじゃないか。」
     やがて松並木が見えてきた。中田の松原。説明によれば寛永七年(一六三〇)、古河城主永井尚政の時に植えられた松並木で、幅五間(約九メートル)の道の両側に、およそ一里の区間に及んでいたという。勿論今見ているのは復元したもので、松はまだ若い。
     特に早く歩いている訳ではないが、いつの間にか私とスナフキンが先頭にたって行き過ぎてしまい、姫に戻される。香取神社に寄るのであった。古河市茶屋新田二四六番地。長く創建年代が不明だったが、平成二年に改築した際、旧本殿の屋根の懸魚の裏に宝永元年(一七〇三)と記されているのが発見された。
     若旦那に「懸魚」の説明を求められて、「けんぎょ」と言ってしまったのは無学である。宗匠がいたら笑われてしまうところで、普通は「げぎょ」と読む。「あそこの切妻屋根の三角の下に。」破風という言葉も出てこないのだから嫌になる。それでも意味は伝わった。「ああ、あの飾りですね。」火防のために、水に所縁の魚の形を模した飾りを付けたのが語原であろう。
     「狛犬が可愛いんです。四角みたいでしょ。」正立方体の石を最大限生かしたように彫り込んでいるから、全体的に角張っているのだ。
     街道に戻ると、上から「日光道中茶屋新田」「日本橋十七里 日光二十里」「茶屋松原」の三枚の板を並べて打ち付けた立札が立っていた。「あと八十キロか、八回だね。」「私の計画ではあと九回、再来年の春になりますよ。」

    茶屋新田  常総軍記巻一云、下総古河と中田の間に茶屋村といふ処あり。この所は将軍家日光御社参にも、二町許の内御駕籠に召されず、御歩行の恒例なり。昔古河公方の時に御茶屋の跡ゆゑに、茶屋村と号す。(赤松宗旦『利根川図誌』)

     将軍だって駕籠の中に座ったままでは疲れるから、たまには歩くのである。松並木があって涼しいのが、ここを歩行の場所にした理由かも知れない。それにしても、あの駕籠の中で何時間もじっと正座している姿を想像すると、難行苦行としか思えない。特に腰痛のときに座りっぱなしはきつい。
     伊藤鐵工所。「その表札が古めかしくていいですね。」銅版に彫った表札である。道路脇の溝を覆うコンクリート製の蓋に、何かの紋のように直径十センチほどの刻印が押してあるのに小町が気付いた。「なんて書いてあるの?」読めない。「でも、こういうのって初めて見るわ。」暫く行ってようやく分かった。「茨」である。「盗んでも茨城県のものだってすぐ分かるようにさ。」「誰がこんな重たいものを盗むの?」「紋のところだけ欠いて持っていくんだ。」それをどうしようと言うのだろう。
     「茄子ですね。大きいですよ。」右手のネットで覆った畑は茄子畑であった。「茄子ってこんなに背が高くなるの?」「そうですね。実がなってます。」「秋茄子は嫁に食わせるな。」見るべきものがないと、変哲もない茄子でもいっときの話題だ。街道右手の雑木林の奥は茶園になっているようだ。
     一里塚はまだだろうか、随分歩いたような気がする。「さっき学校を過ぎませんでしたか。古河第二高校の校庭にあるんでしょう。」ヨッシーが少し不安になってきたようだ。「あれは二中でした。」そして姫が声を上げた。「あのネットのところです。」
     県道三五四号を越えると、今までの県道二二八号が二六一号に変わる。途中で赤信号に変り、若旦那は一所懸命走ったが、若女将は取り残されてしまった。彼女の傍では桃太郎がエスコートしている。
     地図を確認すれば、ここから一・五キロほど西を渡良瀬川が流れている。茨城県立古河第二高校はすぐそこだ。古河市幸町十九番地十八。グランドの外の角に十九夜塔の祠が建っている。「これが一里塚ですか?」「違います。十九夜塔です。」「十八夜なら聞いたことあるけどな。」マリオはこういうものにあまり馴染みはないだろう。十八夜は居待月とも呼ばれる。時々お目にかかってその都度説明はしているのだが、十九夜は女人講である。
     「昔は出産というのは大変な事業だったんですよ。幼児死亡率も高い。安産と子安を祈願して講を組んだ。」残念ながら上部の円の中の如意輪観音が欠けてしまっている。裏に回ると「原町女人講中 五拾一人」の文字が読めた。
     そしてネットの外から一里塚を見る。一時三十五分だから、うどん屋からちょうど一時間かかったことになる。グランドの中に小高く盛り土をして木が植えてある。復元したものらしい。今時は学校の中に入るのは難しく、ネット越しに見るしかない。嫌な時代だ。
     これが日本橋から十六番目の原町の一里塚である。しかし、さっきの茶屋の松原の立札では日本橋十七里とあったではないか。一里塚の方は十六番目(もちろん十六里ということになる)で間違いなさそうなので、立札の方が違っているのかもしれない。
     高校を過ぎて少し先には「史蹟 祭礼道 原町口」の石柱が立っていた。これは旧日光街道のバイパスとして作られた道のようで、ここから街道の東に沿って北に向かっているようだ。

    祭礼道とよばれる日光街道のバイパス道が市街地の東側に設けられ、原町口と横町口を結んでいた。雀神社例祭の際には、二丁目・高札場付近にお仮屋が建ち、出社したご神体のまわりに町民が集まっていたため、旅行者を迂回させて町民とのトラブルを防止した。藩主が土井利勝の頃に完成したと考えられている。(ウィキペディア「古河宿」より)

     やがて台町の三叉路で大きな通りに合流し、古河の町に入った。その角には常夜灯を模したオブジェに「日光街道 古河宿」の文字が記されている。ただ「古河宿」の文字が篆書体(?)のようで(私は字体に詳しくないので、隷書かも知れない)、「なんて読むんだろう」と悩む人もいる。
     古河宿は日光街道九番目の宿場であり、天保十四年の調べで本陣脇本陣各一、旅籠三十一軒、宿内家数千百五軒、人口三千八百六十五人であった。同時に古河藩の城下町でもあった。古河藩は小笠原家(三万石)、戸田松平家(二万石)、小笠原家(二万石)、奥平家(十一万石)、永井家(七万二千石)、土井家・第一期(七万石)、堀田家(十三万石)、藤井松平家(九万石)、大河内松平家(七万石)、本多家(五万石)、松井松平家(五万石)と藩主を変えてきて、最後は土井家が再び任じられ八万石で七代続いた。
     老中を輩出したことでも分かるように、古河は軍事上でも重要な地点である。かつて渡良瀬川の下流は太日川(現江戸川)と呼ばれて東京湾に注いでいた。初めて『南総里見八犬伝』を読んだとき、芳流閣から渡良瀬川に落ちた犬塚信乃と犬飼見八が何故行徳に流れ着くのか不思議だったが、当たり前のことだ。つまり古河は江戸と直結する重要な地域だったから、古河公方の拠点となったのである。
     「栄えてるじゃないか。」スナフキンの感想が面白い。「特に大きな企業があるわけじゃないんだろう?」ないと思う。(古河市民には申し訳ない言い方だが、実際に大きな企業はないのではないか。)「郷土愛の賜物ですよ」と姫が笑う。
     左手の狭い道の入口に「日本三長谷観世音参道」と彫られた大きな石碑が立っている。「勝手に自称してるんじゃないの。」しかし「大和国総本山長谷寺化主正盛書」とお墨付きがある。「お金を払ったんですよ。」もしかしたら長谷寺という名前の寺は日本に三つしかないのではあるまいか(これは違った)。
     「その石塀の所です。」三四百メートル行って右に曲がれば長谷観音だ。入口の前には「日本三大長谷観音」の赤い幟がたくさん翻っている。本堂は立派だが境内は狭く、到底「日本三」を名乗るほどの寺とは思えないが、古河公方所縁の寺である。明応二年(一四九三)、古河城の鬼門守護のために古河公方足利成氏が鎌倉の長谷寺より本尊を勧請したとされる。本尊は二メートル以上の十一面観音である。

    日本三大長谷観音様のゆわれは、大和、鎌倉、古河の長谷観音菩薩は一本の楠によって彫れ、大和の長谷観音様は楠の元木、鎌倉の長谷観音様は中木、古河の長谷観音様は楠の末木によって彫れたと口伝されております。(「長谷観世音縁起」)

     しかし「日本三大」のいつもの例のように、これを名乗る長谷観音は他にもある。大和、鎌倉は動かないが、長野市篠井塩崎、福岡県鞍手郡、秋田県由利本荘市赤田が候補の名乗りを上げている。由利本荘市赤田の寺は「ちょうこくじ」と読む。

     裏手から回って古河歴史博物館に入る。古河市中央町三丁目十番五十六号。ここは古河城の北東の端で、濠の外側に突き出た諏訪曲輪跡地である。古河城は渡良瀬川の改修工事に伴って大部分が破却され、堤防や河川敷に埋もれてしまった。川の改修工事が必要だった理由は、足尾鉱毒問題を治水問題にすり替えた明治政府の政策である。明治四十三年から大正十一年までかけて谷中村を水没させ、古河城を破壊したのであった。荒畑寒村の『谷中村滅亡史』を読んではいても、古河城のことまでは知らなかった。
     この辺の景色にはなんとなく見覚えがあるような気がした。「確かすぐ近くに鷹見泉石の記念館があったんじゃないかな。」「そこですよ。」姫が指差したのは通りを隔てた目の前の板塀に囲まれた屋敷だ。もう何年前になるだろうか。北河辺の住人で今ではすっかりシャンソン歌手になってしまったオオウチに誘われ、野木町在住のニシムラと一緒に古河を散策したことがあった。あの頃は、オオウチはまだシャンソン歌手になろうなんて大それたことは一言も言わず、一緒にカラオケで歌謡曲を歌っていた。
     古河はなかなか良い街である。「小京都」と自称しているのはどうかと思うが、見どころはかなりある。姫は、次回は古河の町を少し散策した後で野木宿に向かうことに決めている。
     入館料は四百円。「年寄割引はないのかな。」「ジューキカードをご提示戴ければ。」「ジューキカードって何だい?」「皆さんのおうちにもある筈ですよ。」姫の言葉で私も分かった。住民基本台帳のカードのことらしい。しかし我が家にもあるだろうか。「皆さんある筈ですよ」と姫が言うからには、どこかにしまってあるのだろう。博物館に来るのにそんなカードをわざわざ持ってくるような人はいないのではなかろうか。「高齢者割引は?」同じ質問が別の人間からも出てくる。年寄と応対する受付の人は大変だ。
     今は二時五分、四十分まで自由に見学することになった。この博物館は鷹見泉石関連資料を中心に収集したもので、当然ながらその資料が充実している。「全部読んでたら終わりませんね」と姫が笑うのは、鷹見泉石と交流のあった人物の一覧である。私は泉石に関して詳しくはないが、渡辺崋山の絵を見ると、実に知的で意志強固な人のように見える。大阪城代だった土井利位の下で大塩平八郎の乱を鎮圧した。次回は鷹見泉石記念館に行く筈だから、詳しいことはそれまでに調べておこう。
     その他に土井利位の『雪華図説』関連、古河の歴史のほか多くの書画が展示されている。土井利位は水野忠邦に代わって老中首座についた人物だが、日本で初めて雪の結晶を顕微鏡で観察したとされている。『雪華図説』の出版には勿論、鷹見泉石の力が随分働いた筈だ。この出版によって、雪華模様が流行し、「大炊模様」と呼ばれたとも言われる。利位の官名が大炊頭であることによる。
     二時半頃にロビーに戻って椅子に座っていると、にこやかな女性が現れた。どうやらストリートオルガンというものを演奏するらしい。日本語では手回しオルガンと呼ぶ。「よく映画でみるじゃないか。ヨーロッパの大道でさ。」大道芸ではもっと小さなものを使っているが、これはかなり大型で、横幅二・五メートルもあるのではないか。オランダ製なのは、土井利位や鷹見泉石の蘭学を象徴しているらしい。
     「この楽譜を挿入して演奏します。興味のある方は裏に回ってご覧ください。」楽譜とは折りたたんで冊子状にしたもので、様々な形の穴が開いている。パンチカードと呼んでも良い。それなら早速拝見しなければならない。説明する女性が一所懸命ハンドルを回す。それに従って折り畳んだカードが一枚づつ開かれ、機械の中に吸い込まれていくと音楽が奏でられるのである。オルゴールの原理と同じだろう。
     「音が素敵だよな。」「大きな音が出るのね。」私もそれには感動したが、何という曲だったのかは全く分からない。演奏が終わってから訊いてみた。「楽譜は何種類あるんですか。」「二十種類あります。」最初の説明を聞いていなかったらしい若者が、「楽譜ってどんなものですか」と尋ねる。「こんなふうになってるんだ。」私は余計な説明をする。「ハンドルを回すのも大変だね。」「息が上がりました。」なかなか珍しいものを見た。
     建物に沿って人工の川を流した公園で一休みする。紅葉したハナミズキの赤い実がきれいだ。公園の敷地を抜けると鮒甘露煮製造販売の「ぬたや」があった。古河市中央町三丁目八番地五。工場の入り口は関所のような冠木門で閉ざされ、左に回り込んだ店の方も黒塗りの料亭のような造りだ。有名店なのだろう。

     「ぬたや」は、古河鮒甘露煮の発祥といわれる「おつま店(だな)」台町にて営業されていた松村屋(池田家)にて、初代安次郎が修行し明治三十年創業以来四代目店主の私まで、百余年間元祖製造元として、鮒甘露煮一筋に取り組んでまいりました。
     (http://www.nutaya.co.jp/)

     内田茶店の麦まんじゅうは人気だ。古河市中央町三丁目二番地十四。「食べましょうか。」「食べよう。」姫、小町。歩きながら食べていたマリオから「絶品」の声が上がる。この近辺には源三位頼政を祀る神社、河鍋暁斎生誕地、永井路子旧宅ほか見るべきものがたくさんあるが今日は寄らない。次回姫が計画してくれるだろう。
     街道に戻ると古河城御茶屋口門跡の石碑が立つ。日光街道を通る大名たちの接待所に充てられ、江戸から来た将軍はここで休憩し、左に曲がって諏訪曲輪の北側を通って古河城に入って宿泊したのである。
     信号を渡ると街道の東側には高札場跡があり、そこは古道具屋の前だった。「これはさ、陸軍の鞍だよ。このサドルバッグに特徴があるんだ。」講釈師は相変わらず変なことを知っているが、私たちには真偽の判定ができない。値段を見れば八万八千円である。「講釈師、どうぞ。」勿論買う筈がない。
     もう一度信号を渡るとその向かいに、ジョイパティオという不思議な建物があった。古河市中央町一丁目二番地三十七。場末のキャバレーか。駅からまっすぐ西に来た目抜き通りの真ん中にある建物とは思えない。
     一階の左手前はアンティークショップ、その奥は吹き抜けの商店街のようで、CHOCOLATE とかPARADISEという看板が張り出されている。アンティークショップの屋根から右の建物にはアーチ型の鉄枠が伸び、JOY PATIOの文字が取り付けられる。赤錆が浮出し上って良いのかどうか分からない階段の上の二階には「Made Inホルモン」の看板がある。これは何だろう。そのほかにもフィリピンパブや怪しげなバーがありそうだ。「やってるのかな。」「やってるんじゃないの。」
     この建物の左隅に赤い電話ボックスがあり、その前に「古河城下本陣址」の石碑が立っていた。中央町一丁目と言えば、古河市の中心部だと考えて良いだろう。その本陣跡がこんな有様になっているのは、歴史を誇る古河市として恥ずべきではないか。
     大通りから駅の方に曲がると、「古河名物御家宝」を掲げる小さな店があった。「ゴカボウは熊谷名物でしょう。」「そうだよね。」「加須にもあります。」熊谷の方は「五家宝」と書く。古河の明石屋本店のHPによれば、「煎ったうるち米をつぶさぬよう、水飴、砂糖でからめ、風味豊かな黄名粉等の材料で包みころがした」(http://akashiya-honten.com/shouhin)というから、熊谷のものと同じであろう。江戸時代にしてみればかなり贅沢な菓子であるが、現代風ではないだろう。
     ウィキペディア「五家宝」では草加煎餅、川越の芋菓子と並んで埼玉県の三大銘菓としているが、そんなことは初めて聞く。それなら古河のものは剽窃であろうかと言えば、そうとも言えない。ウィキペディアでも、その発祥について諸説あるなかで、一番に『熊谷市史 通史編』の説を挙げている。

     水戸藩の銘菓「吉原殿中」を元に改良したとする説。『熊谷市史』によれば「吉原殿中」は、第九代藩主の徳川斉昭(一八〇〇 ~一八六〇)の側女が干飯にきな粉をまぶしたものを斉昭に茶菓子として献上したところ、これを気に入り側女の名前から名付けられたのが由来の一つとしている。

     水戸が発祥であれば、熊谷と同時に古河に伝播してもそれほどおかしくない。下総五霞村が発祥地だとの説もあるそうで、加須(忍岡)も含めて古河には近い所だ。
     駅に近づくにつれ、町の様子は淋しくなってきたのはちょっと不思議な光景だ。「何もなくなってきちゃったな。」大きなビルがないのだ。駅に着いたところでヨッシーの万歩計は二万三千歩を記録したが、小町とスナフキンの万歩計を採用して、本日は二万キロと決めた。かなりゆっくり歩いたから歩幅五十センチとすれば十キロちょうどというところだろう。古河宿から鉢石宿までは残り八十キロ強。ほぼ半分来たのである。
     それ程待たずに十五時二十六分発上野行きに乗り込んだ。マリオは次の湘南新宿ラインを待つというのでここで別れる。大宮着は十六時一分。予想に反して桃太郎は下車せずに、そのまま乗って行ってしまった。なんだか元気がなさそうだがどうしたのだろう。反省会は大宮南銀座通りの庄屋である。参加者五人。

    蜻蛉