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    日光街道 其の九  古河から野木まで
    平成二十六年十二月十三日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2014.12.25

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     十一月二十八日、高倉健に続き菅原文太も逝った。八十一歳。日光街道には全く関係ないが、心情的に触れておかなければならない。今にして思えば、私の感受性のかなりの部分はヤクザ映画によって育てられた。これは同世代全般に言えることかと思っていたが、スナフキンと話していると、どうやら余り普通ではなかったようだ。
     『仁義なき戦い』や『トラック野郎』については語られても、任侠映画時代のことは殆ど語られることがないだろう。鶴田浩二、高倉健の陰で常に二番手にあって、文太にとっては不本意な時代だったかも知れない。川地民夫とコンビを組んだ『まむしの兄弟』シリーズは、エロと暴力にややコミカルな味を加えたB級の添え物であった。主人公は無学で粗暴な、しかし正義感のあるチンピラで、このキャラクターが後の『トラック野郎』に引き継がれていく。
     『仁義なき戦い』では第一作こそ文太主演と言えるが、最後まで生き残る役だから第二作以降は正面に出ることがない。存在感を示したのは北大路欣也、千葉真一、松方弘樹、梅宮辰夫、成田三樹夫たちだ。彼らも皆まだ三十歳代だったと思えば茫洋とするが、『昭和残侠伝』や『緋牡丹博徒』は欠かさず見ていた秋田のYは、このシリーズは殆ど見ていないと言う。全作見ている私とはこの辺の感覚が少し違う。
     それとは別に、忘れられないシーンが『緋牡丹博徒・お竜参上』(加藤泰監督・昭和四十五年)にある。「あの橋の上だべ。」Yも勿論覚えていた。雪降り積もる今戸橋で青山常次郎(文太)が立ち止まる。そこにお竜(藤純子)が追いつく。「あっしの故郷にもこんな川がありました。」故郷の川は北上川だ。常次郎は遠くを見つめるように目を細める。橋の上から山が見え、その麓に両親の墓がある。そこに妹を葬ってやりたい。幼い頃に女郎に売られた妹を探して放浪し、やっと見つけた妹の遺骨をもって故郷に帰る所である。お竜とは信州の賭場で知り合って、互いに心を通わせていた。
     「それじゃ」と三度笠を手に足を踏み出す常次郎に、「あの」とお竜が声をかける。「こいば、汽車ん中で上がってくださいまし。」お竜が風呂敷包みをさし出す。包みの中は握り飯だろう。普通の主婦であれば握り飯を作るのに何の造作もない。しかしお竜は旅の途中であり、たまたま嵐寛寿郎の一家に厄介になっている身である。矢野一家二代目を名乗り背中に刺青を背負った女が、握り飯一つ作るのにどれだけの思いを籠めたか。
     その時、お竜の袖口からこぼれ落ちたミカンがひとつ雪の上に転がる。お竜の蛇の目の中で見つめあう二人。そして無言で頭を下げ去って行く常次郎。美しいラブシーンであり、加藤泰会心の場面と世評に高い。勿論藤純子の美しさを際立たせる演出だが、それ以上に文太の寂寥感が滲むのである。
     娘を売るほど貧しい家であり(昭和初期の農村はどこも貧しかった)、いいことなんか何もなかった。常次郎という名の通り、貧農の次男だから故郷にいても厄介叔父になるだけだ。逃げるように村を離れてはみたものの、所詮ヤクザになるしか道は残されていなかった。生きるためにはどれだけ辛い経験が必要だったか。一言も言わないが、文太の全身からそうした過去が滲み出る。
     その辛い過去の雰囲気を最もよく感じさせたのが映画版の『木枯し紋次郎』だった。テレビ版の中村敦夫にはインテリが世を拗ねた趣があったが、文太の紋次郎にはもっと切迫した気分が漂っていた。貧しさの余り間引きされるところを辛うじて助かった命である。善意はいつも裏切られ、その度に深い傷を負う。もう二度と他人を信じてはいけない、関わり合うのは御免だ。しかし否応なく他人と関わりを持ってしまうのは、心のどこかに他人を信じたいという飢渇があるからなのだ。
     紋次郎は兄弟分(左文字)の殺人の身代わりになって自首して三宅島に流される。左文字は、瀕死の床にある母親の死を看取ったらすぐに自首すると約束した。紋次郎が秘かに心を寄せていた女(お夕)は出航する流人船を追って小舟から身を投げて死んだ。
     島には、蘇鉄の花が咲くと赦免船が来るという言い伝えがあり、流人はその花を赦免花と呼ぶ。お夕によく似た、名前も同じお夕という流人の女郎がいた。過酷な流人生活に苦しみながら、たった一つの希望として赦免花が咲くのを待っていたが、やってきた赦免船にお夕の名前はない。絶望して海に身を投げる、その哀切。一方、新入りの流人から左文字の母は既に半年前に死んだと聞かされ、それまで左文字に義理立てして島抜けの相談には加わらなかった紋次郎が、ついに島抜けを決意する。更に島抜けの仲間の一人が、左文字の差し金で紋次郎を殺すために島に来ていたことが発覚する。
     噴火に乗じて島抜けに成功すると、紋次郎は日野宿に急ぐ。道中では島抜けを知った左文字の刺客に襲われるものの、それを全て斬り捨てて道を急ぐ。日野の左文字の家に到着すると、死んだ筈のお夕が左文字の子供を抱いていた。実はすべての筋書きはお夕によって書かれたものであった。左文字が殺人を犯したとき、お夕は既に左文字の子を身籠っていたのだ。立ち竦むお夕の目の前で、「赦免花は散ったんでござんす」と呟いて紋次郎は左文字を叩き斬る。

     健さんも文太も逝くや冬籠り  蜻蛉

     旧暦十月二十二日。大雪の次候「熊蟄穴」くまあなにこもる。今年は雪が早く、五日、六日には四国や福井で大雪が降った。去年の大雪のこともあるので、念のために昨日はスコップを買った。大寒波が来ており、今日も日本海側や北海道では大雪になりそうだ。この辺りは大丈夫だが、かなり寒くなるだろう。この冬初めてタイツを穿いて出た。
     鶴ヶ島発八時三分に乗る積りが一本早い電車に間に合って、古河には九時二十分頃に着いた。改題を降りると改札口の手前で講釈師が所在無げに立っている。「一本前に着いたんだよ。」いつものことながら早過ぎる。講釈師の左拳には包帯がぐるぐる巻かれている。「また野球で転んだの?」喜寿の人(数え年でそうなる筈だ)が野球をやってはいけない。「違う。ちょっとね。」指を骨折したみたいだ。
     スタート地点がだんだん遠くなってくると、参加者も減ってくる。今日はあんみつ姫、クルリン、講釈師、ダンディ、ヨッシー、ドクトル、オカチャン、スナフキン、蜻蛉の九人である。ロダンは仕事が忙しいのだろうか。「ロダンは働きすぎだよ。」宗匠は源氏物語の勉強か植木のボランティアか。
     古河宿から野木宿まで、姫の資料では二・八キロだ。一時間もかからない距離だから、今日は昼過ぎまでゆっくり城下町古河を楽しみ、それから街道を野木に向かうことになっている。まず駅前西口ロータリーで、赤褐色の大きな石に記された万葉歌碑を見る。

    逢はずして行かば惜しけむまくらがの 許我こぐ船に君も逢はぬかも
    安波受之弖由加婆乎思家牟麻久良我能  許賀己具布祢尓伎美毛安波奴可毛

     許我は古河の古い表記で、古代から渡良瀬川舟運の基地であった。「昔はフルカワって読むのかと思ってたよ。」足尾銅山の古河市兵衛と古河電工が有名だから、知らない人はまずフルカワと読む。私もそうだった。「まくらが」は古河に掛かる枕詞で、特に意味はないという説明をいくつも見るが、かつてはちゃんと意味があった筈だ。どの国にも属していない地域とか、枕香だという説がある。
     駅東口とは違って西口は殆ど再開発されていない。四百メートル程で街道に突き当たると、姫は前回参加していないクルリンとオカチャンのために、まず高札場跡と本陣跡碑に立ち寄る。街道の東西に向き合って、どちらもアンティークショップの店頭だ。
     街道の街灯には「日光街道古河宿」のペナントが掲げられている。「あれも、何かのキャラクターなんだろう?」アニメの主人公らしい少女の顔は余計ではないか。どこに行ってもこの手の顔を見ることが多すぎる。「カワイイ」ものだけを求めて、日本人の精神は衰弱していく。
     本町二丁目の次の交差点を右に曲がる。この辺り、街道の西側が古河城下になるわけで、暫くはこの界隈を巡ることになる。肴町米銀の外壁には「御馳走番所」と墨で大書され、「史跡古河藩使者取次所址」の石柱が立つ。古河市中央町三丁目一番地四十三。参勤交代で立ち寄る大名の接待所である。「御馳走番所って、名前の響きが好きです。」米銀は文政年間創業の米屋で、今は宅配弁当を商っているようだ。米蔵の黒板壁には肴町の由来を記した高札も掲げられている。肴町には特に魚屋が集まっていたのではなく、米屋、茶屋、酒屋など飲食料品を扱う店が多かった。
     通りには歴史を感じさせる店蔵が多い。お茶の「関善」を横目で見て、「坂長」の敷地に入る。古河市中央町三丁目一番地三十九。両替商や酒問屋を営んでいた店である。古河城から移築した蔵が登録有形文化財になっており、無料で見学できるのだ。「スタンプがある。」講釈師はスタンプのコレクターである。クルリンも姫もヨッシーもスタンプを押す。
     文庫蔵には店の人が案内してくれる。急な階段を伝って二階に上がる。「そこに安政五年って書いてあるんですよ。」「どれですか。」「その梁です。」太い梁に「安政五年戌年九月再作之」と墨で書かれている。「安政五年といえば、井伊直弼の暗殺が七年ですから二年前ですね。」壁に貼られた年表を確認しながら説明してくれる。
     説明文によれば、安政二年の安政大地震に伴う困窮者のお助け普請として建てられたものだという。「お助け普請」とは、景気対策と困窮者救済のために行う社会事業で、現代の失業対策事業に似たところがある。幕府や藩だけでなく、豪商が自腹を切って行うこともあった。その場合、敢えて豪奢な建築をしたとも言われる。職人や人足を多く働かせるためである。しかし、この古河で安政大地震の影響を受けた困窮者とは誰のことだったのか。
     地震が原因というより、幕末の物価高騰による困窮者の増大が原因だろう。開国は必然だったが、金銀交換比率の違いを諸国に利用されて国内の金は大量に流出した。その是正のために行われた金貨の改鋳はインフレを呼び、品不足と合わせて物価は急激に騰貴していた。
     「酒造元だったんですか?」「問屋です。以前は奈良漬も製造販売していたんですが、今の若い人は奈良漬なんか食べないから。」それで今は止めてしまったらしい。
     お礼を言って店を出る。今度はえびす神社だ。古河市中央町三丁目九番地一。白いコンクリート造の鳥居を持つ小さな神社だが、古河七福神に指定されている。本殿は一間社流造。えびす神社には蛭子系と事代主系と二系統あって、ここは西宮のエビスを勧請したものだから、祭神は蛭子である。
     手が冷たい。手袋を持ってくるべきだった。この辺りは大工町である。肴町、大工町は城下町には珍しくない町名で、秋田にもあった。米町、茶町、鉄砲町、鷹匠町、寺町と思い出していると、寺山修二の歌が浮かんできた。

     大工町寺町米町仏町老婆買う町あらずやつばめよ  寺山修二

     文学館に近づいてくると、舗道の敷石の模様が雪華になってきた。土井利位『雪華図譜』によるだろう。そして古河文学館に着く。古河市中央町三丁目十番二十一。山小屋風の建物で、二階にイタリアンレストラン「唐草」を併設していて、昼食はここでとることになっている。
     受付には若い女性が二人座っている。他に見学者は誰もいないから暇そうだ。入館料は二百円である。「年寄割引はないのか?」毎度お馴染みのセリフだ。「煩い人は割増取られるよ。」サロンのような広間から展示室がいくつか繋がっている。今の企画展は和田芳惠だが、彼が古河に関係していたとは思わなかった。確か北海道長万部の人である。「晩年を過ごされました。お墓もあります。」そうか、土浦短大(現・つくば国際短大)の文学教授になったと、本人がどこかで書いていたのを思い出した。今はなくなったが、当時は国文科があったのである。『接木の台』や『自伝抄』は古河市内の宗願寺で執筆したもので、墓そこにあるようだ。
     今回の企画は「短編小説の名手」とサブタイトルを付していて、主に作家としての和田に光を当てている。確かに直木賞(『塵の中』)、読売文学賞(『接木の台』)、日本文学大賞(『暗い流れ』)を受賞してはいるが、私は読んでいない。言い訳をするわけではないが、それよりも和田は樋口一葉の研究家として評価される人ではないか。偏執的とも言える徹底的な調査が有名で、一葉日記に一度でも登場した人物を突き止めようとする。樋口家の先祖を突き止めるために、甲州塩山を中心に五年にも亘って古文書を調べたこともある。
     生涯の研究の総決算として書いた『一葉の日記』(昭和三十一年)で日本芸術院賞を受賞するまで、貧困に喘いだ。貧困の原因は編集者として『日本小説』を創刊したものの、一年で倒産して莫大な借金を背負ったためである。

     前年(昭和三十年)の秋、「一葉の日記」が読売文学賞の候補に上げられたときは、本人ばかりか周囲までが今度こそまちがいない、と思い込み、出版元の筑摩書房社長古田晃までがどこから情報を仕入れてきたのか、確実だね、とおごそかに言った。古田はウソや世辞を言えぬ性格だったから、いかにももっともらしい感じを与えた。読売文学賞の賞金は二十万円であった。復活した野間文芸賞の百万円からすれば低かったが、夫婦二人で一か月二万円ほどでカツカツに暮らしていた和田にとっては、この賞金はノドから手が出るほどに欲しかった。ふだん借金のため迷惑をかけている知人の間を順番に回って返済できたら、どんなに嬉しいか、とあらぬ夢想に耽ったりした。(大村彦次郎『文壇挽歌物語』)

     しかしこの時は一票差で受賞できなかった。もう文学賞は当てにすまいと思った翌年、幸田文『流れる』とともに日本芸術院賞を受けた。『一葉の日記』は日記本文と誤解される恐れがあるが、日記を材料に一葉の生涯に迫った評伝である。「この本は今でも手に入りますか?古本屋に行かなくちゃだめでしょうか?」「ちくま学芸文庫であるよ」と姫に答えたのは勘違いだった。『一葉の日記』は講談社文芸文庫になっている。「やっぱり日記の原文を読みたいですね。」展示してある角川文庫の『一葉青春日記』と『一葉恋愛日記』(いずれも和田の編集)は今では絶版で入手できない。日記ならば、ちくま文庫の『樋口一葉日記・書簡集』が手軽だろう。(姫が調べた結果、これも今では入手できないらしい。)
     「『不連続殺人事件』って、これがそうですか。」オカチャンが誤解したままだといけない。坂口安吾のこの作品は、『日本小説』の三号から八号に掲載されたので展示されているだけだ。「なんだ、そうですか。」安吾は和田を応援するため、原稿料なしで原稿を提供したという。これがきっかけとなって、純文学作家が推理小説を書くようになった。
     第二展示室には『コドモノクニ』の原画が展示されていて、ヨッシーが真剣に眺めている。よほど関心があるのだろうか。大正のロマン主義、童心主義を中心に据えた絵はモダンで美しい。これは、あんみつ姫も好きだろう。なぜこの雑誌が古河に関係するのか。
     『コドモノクニ』は鷹見久太郎の東京社が出した雑誌である。ここで鷹見久太郎の名前をはじめて知った。久太郎は泉石の曾孫になる。東京社は明治四十年に、独歩社の編集者だった鷹見久太郎と窪田空穂、島田義三が『婦人画報』と『少年少女智識画報』を引き継ぐことを目的として設立した。昭和六年に経営破綻して鷹見の手を離れると柳沼沢介が再建する。鷹見は理想主義的な編集者ではあっても、経営者としては才能がなかった。

     縦二十六センチ、 横十八・五センチという大型の判型で、厚手の画用紙に似た紙を用いたのは、絵を見やすくし、子どもたちが何度もページを繰っても破れないようにとの配慮からでした。
     このため、多色印刷の効果が見事に発揮され、多くの才能ある画家が子どもたちのために創作活動を行う舞台となりました。
     当時、日本は大正デモクラシーの潮流にのって、子どもの個性や自我を尊重しようとする、新しい教育理念が旺盛でした。
     編集顧問となった倉橋惣三は、芸術が人間としての理想的な生き方につながると信じ、子どものために多様で純粋な芸術表現を求めました。北原白秋、野口雨情が童謡顧問、中山晋平が音楽顧問、編集主任は和田古江、絵画主任は岡本帰一が担当しました。
     画家たちが企画に参加し、あるがままの子どもを直視し、真剣に子どもの心を問い、子どもたち自身にページの中に自分を発見させることを目指しました。この展示でとりあげた創刊から一九三二年までの期間に登場した画家は、総勢百人を越え、そのうち四分の一が女性です。(国立国会図書館国際子ども図書館 絵本ギャラリー「『コドモノクニ』の画家たち」http://www.kodomo.go.jp/gallery/KODOMO_WEB/commentary/artists_j.html)

     『コドモノクニ』は大正十一年(一九二二)一月に創刊され、昭和十九年(一九四四)三月まで二十三巻二百八十七冊を出した。倉橋惣三が編集顧問となり、北原白秋、野口雨情、中山晋平など当時の錚々たるメンバーが集められた。代表的な画家には岡本帰一、武井武雄、清水良雄、川上四郎、初山滋、本田庄太郎、竹久夢二、細木原青起などがいる。倉橋は日本のフレーベルと呼ばれた教育学者である。
     こういう雑誌が昭和十九年まで続いたとは信じられないようなことで、恐らく鷹見の経営が破綻した昭和六年頃までがピークではなかったか。北原白秋『アメフリ』、野口雨情『兎のダンス』、『あの町この町』、西條八十『毬と殿さま』などが、いずれも岡本帰一の画によって発表されている。
     一方この時期の子供向けの雑誌としては、大正三年(一九一四)大日本雄弁会(講談社)が創刊した『少年倶楽部』、大正十五年一月創刊の『幼年倶楽部』があって、子供に与えた影響からすればこちらのほうが段違いに大きかっただろう。鈴木三重吉の『赤い鳥』に始まった童心主義は、大正デモクラシーと自由教育、昭和モダニズムの終焉とともに、姿を消していく。
     永井路子関連資料も独立した展示室になっている。永井の本は殆ど読んでいない。作品一覧を確認してみると、「殆ど」どころか小説は一冊も記憶にない。僅かに読んだのは『太平記紀行 鎌倉・吉野・笠置・河内』だけだ。これでは永井路子を語る資格はない。
     サロンの片隅では暖炉が燃え、講釈師とダンディは大分前からソファーで寛いでいる。十一時に集合して出発する予定だったが、みんなが集まった時に、受付の女性がレコードをかけましょうかと言い出した。巨大なラッパをつけた手回し式の蓄音器である。「SPレコードで演奏時間は五分程ですが。」珍しい機会なので是非お願いする。蓄音器は一九三〇年頃にイギリスで製造されたもの(EMGマークXb)で、ラッパ(ホーン)の直径は七十四センチにもなる。「これは金属のように見えますが、紙を貼り合わせたものです。」それは初めて得る知識だ。

    これは一九三〇年頃イギリスのEMG社で製造された。イギリス蓄音機界の鬼才と呼ばれたEMG社の創設者E・Mジーンは当時、蓄音機界の主流が電蓄(電気再生式蓄音機)に移行しつつあるなか、アコースティック(生の音=機械式再生)はエレクトリック(電気式再生)の勝るとの信念をもって、この蓄音機を製作しました。すべて手作りの一品生産で、数ある蓄音機の中でも「幻の名器」といわれている逸品です。(古河文学館)

     針は竹針で、先が摩耗するため一回毎に爪切りのような挟みで先端を切って使う。曲はビゼーの『カルメン』である。私は音響関係には全く疎いが、竹の針だからか音が柔らかいように思える。説明されたから、そう思うのかも知れない。「レコードを持ってくれば演奏してもらえますか?」オカチャンはかなりのコレクターらしい。「SPですか?」「そうです。」「時間の制限はありますが、そういう機会もございます。」「絶対、来ます。」出発は十一時十二分である。

     暖炉燃えカルメンを聴く蓄音器  蜻蛉

     「甘露煮を買いに行こうぜ。」講釈師は朝から甘露煮、甘露煮と言っていたのだ。「後で食事の時にどうですか?」「今行きたいんだ。」前回外観だけ見た「ぬたや」であろう。「それじゃ、十一時四十分にここに集まってください。」適当に分散して見学して戻ってくれば良い。
     まず鷹見泉石記念館に入る。前回は泉石についてあまり詳しく語らなかった。と言うより良く知らなかったので少しだけ調べた。泉石は天明五年(一七八五)に生まれ安政五年(一八五八)に没した。蘭学の大旦那ともいうべき人で、知識欲、情報収集欲に溢れていた。生涯に交流した人物も無慮多数に上る。オランダの地図を筆写して和名を施したのは、趣味の範囲では収まらない過剰さを感じさせる。利位の『雪華図説』も、泉石が収集した顕微鏡があったからこそだろう。
     泉石の肖像は渡辺崋山の絵で誰もが知っている。大塩事件平定の後、当時大阪城代だった藩主土井利位の名代として浅草誓願寺(土井家の墓所)に参拝した時の姿である。普通であれば裃だが、藩主名代としての参拝だから素襖折烏帽子の正装で、帰途その足で崋山の家を訪れた。泉石にしてみれば記念写真を撮るようなものである。
     蛮社の獄で渡辺崋山が罪せられたとき、救出運動に乗り出すべき立場でもあったが、泉石自身が危ないから動くなと、主君土井利位に禁じられたと伝えられる。実際に泉石の蔵書中に崋山誹謗の根拠とされた『慎機論』の写本が見つけられている。
     家の内部には入れず、外から内部を窺うだけだが、落ち着いた日本家屋で庭も手入れが行き届いている。昔の図面と比べると建物はかなり減築され、周囲は全て縁側が囲んでいる。「縁側がいいんだよな。」今では縁側のある家が珍しいものになってしまった。
     オカチャンは庭に植えられた楓樹(マンサク科・トウカエデの一種)の葉を拾って喜んでいる。こういうものにも関心があるらしい。泉石に楓所の号があるのは、この樹に因む。
     「向こうにも建物があるぞ。」釣瓶井戸を回り込んでいくと、奥原晴湖画室・繍水草堂があった。小さな平屋の軒先に干し柿がぶら下がっている。その奥の土蔵が画室である。明治の女流画人であるが、私もスナフキンもこの辺の事情には全く疎い。
     晴湖は天保八年(一八三七)、古河藩大番頭池田繁右衛門政明の四女として生まれた。十六歳で谷文晁門の枚田水石に南北合体の画風を学び、後に渡辺崋山に私淑し南画に転向した。明治の女流画家として第一人者であるらしい。

     木戸孝允や山内容堂の庇護を得て多くの文人と交流。画家を生業とするお披露目会に大沼枕山・鱸松塘・関雪江・福島柳圃・上村蘆洲・高斎單山・山内香溪・松岡環翠・坂田鴎客・福島柳圃・服部波山など二十五名もの画家・書家を招いた。このとき「不忍池集」とした合筆を贈られている。
     明治三年(一八七〇)、家塾を開くが最盛期には門人は三百人を超えたといわれる。明治七年(一八七四)に鷲津毅堂・小長井小舟・市河萬庵・川上冬崖らと雅会「半間社」を結成。文人画隆盛に尽力する。明治九年(一八七六)に岡倉天心が晴湖に入門している。
     フェノロサの講演以降文人画が低迷。明治二十四年(一八九一)、五十五歳のときに東京を払って成田村上川上(埼玉県熊谷市)へ隠棲。豪放磊落な画風から謹厳精緻な画風に変わった。この頃「繍仏草堂」・「繍水草堂」・「寸馬豆人楼」などの堂号を用いている。(ウィキペディア「奥原晴湖」より)

     昭和四年に熊谷から移設した画室である。ここに名前が挙がった人物を見るだけで、晴湖が幕末明治の日本文化の中心にいたことが窺える。鷲津毅堂は荷風の母方の祖父であり、禾原永井久一郎の師でもある。大沼枕山は幼時から叔父の鷲津松隠の家塾で毅堂と共に学んだ。この二人のことは荷風『下谷叢話』に伝記が書かれている。そして岡倉天心の名前があることにも驚いてしまう。明治九年は岡倉天心が東京開成学校(十年に東京大学に編入)の学生時代のことである。勝海舟・副島種臣・長三州を勧進元にした当時の画家の見立番付「皇国名誉 書画人名録」があった。女流は七人で勧進元の下の枠に収められ、晴湖はその真ん中に位置している。どうも私はこうした絵が分からなくて困る。
     まだ少し時間があるので歴史博物館の方に向かっては見たものの、入館料四百円で十分しかいられないのでは元が取れない。「こっちから行けるかな。」クルリンも一緒だ。建物伝いに回り込むと、レストランの入り口前に出た。店の前では十人以上が開店を待つように並んでいる。大丈夫だろうか。予約は入れていない筈だ。
     取り敢えず通りに出て四阿で皆を待つことにした。二三分経ってオカチャンと姫が現れた。「もうだいぶ並んでたよ。」「貸切が入っていて、ダメなんだそうです。」「俺も一度、貸切でやられたよね。」トッパン印刷博物館のレストランの時だ。あの時は仕方がないのでコンビニ弁当にしてしまったが、講釈師の頭の中では江戸歩き唯一の汚点として記憶されている。「ほかのお店も聞いてきました。坂長に行きましょう。」
     定刻二三分前に八人が集まったが、まだドクトルが来ない。博物館に行っているのだろう。「見てきます」とオカチャンが駆けていく。「ダメだな、除名だよ。」先月、国際基督教大学で除名になりかけた講釈師が口を尖らせたところにドクトルが現れた。「まだ時間前だよ。」講釈師は鮒の甘露煮が入っているらしいビニール袋を二つもぶら下げている。「鮎も買ったよ。」

     しかし坂長のレストラン「泉石邸」も予約で一杯だった。「どうしましょう。」「駅の方に行けばあるだろう。」「こっちを回り込めば。」ヨッシーの言葉に従って、街道から一本西側の道を歩いていると、レストラン・シェルブールの看板が見えた。レストランというよりも町の食堂といった風情の店だ。古河市中央町二丁目一番二十二。十二時四十七分。かなり腹が減っている。
     店内に入ると客はなく、気さくなマダムが迎えてくれる。「娘が浦和に住んでるのよ。」私たちが主に埼玉県から来たと知ったのである。「誰かに訊いてきたの?ウチは結構予約してくれるお客さんが多いのよ。」テーブル一つに予約席のプレートが置かれていた。四五種類ほどあるメニューは全て千円で、一種類だけ二千五百円のものがある。そんなものに関心はないから、その特別メニューがなんだったか記憶にない。
     「アンマリ数はおいてないのよ。ハンバーグだったら充分にあるけどね。」客数は多くないのだ。この店にとって今日は特需が訪れた日であった。「うちはフレンチだけど和風もあるの。」私は勿論和風を選ぶ。結局、和風ハンバーグが六人、デミグラスソースのハンバーグが二人、ヒレカツが一人という具合になった。オカチャンが何かを訊いている。「今?食後の方がいいんじゃないの?」ケーキか何かを注文したのだろうか。
     「また、菜っ葉だよ。ウサギじゃないんだからさ。」講釈師は野菜サラダが嫌いだ。「それじゃ私が戴く。」デジャヴのようなやり取りが繰り返され、その野菜サラダはダンディに回された。トマトのドレッシングがかけてある。やがて出てきたハンバーグは量が少ない。スナフキンのデミグラスにはゆで卵がついているのに、和風ハンバーグにはそれがない。ご飯も少ないからすぐに食べ終わってしまう。包帯を巻いている講釈師を見て、「可哀想ね」とマダムが言ったとたん、講釈師は照れて下を向いてしまう。
     ランチにはコーヒーか紅茶がつく。姫とスナフキンが紅茶を選び、他はコーヒーにする。するとオカチャンが団子のケースを取り出し、爪楊枝を刺し始めた。「ここにも楊枝がありますよ」とヨッシーが卓上の楊枝入れを滑らす。オカチャンは爪楊枝も用意してきたのである。「二つづつ取ってください。」餡子の周りを寒天かなにかでくるんだ様な団子だ。「舟和です。」「浅草ですね。芋羊羹が美味しいんですよ。」私には謎の会話だが有名な店らしい。調べてみると「あんこ玉」の十六個入りケースだったらしい。
     「蜻蛉にはこれを。」オカチャンの頭の中で、私は余程の酒飲みだと刷り込まれているのではあるまいか。くれたのは酒のつまみになるイカの軟骨の真空パックである。「店内は禁煙かな?」「そんなことないよ。どの灰皿がいい?この大きいのがいいかな。」素人っぽい店で、マダムは大小不揃いの灰皿をいくつも取り出す。「小さいのにする。」

     十二時半に店を出る。「あっちからも行けそうですが、下見の時に歩いた道を行きます。迷子になっちゃうといけないので。」赤煉瓦の塀が長く続くのは何かの工場跡地かも知れない。住宅地を外れて前方に土手が見えた頃、竹林を柵で囲んだ場所に出た。ここが獅子ヶ崎土塁の跡で、丸の内曲輪の御成門があった場所だ。案内板に描かれた写真や地図が薄れかかって、よく読み取れないのが残念だ。諏訪曲輪(歴史博物館や文学館がある場所)から西にまっすぐ、百間堀を渡った地点で、北は観音寺曲輪、南は桜町曲輪、三の丸、本丸と続いていた。
     「鷹見泉石生誕の地」碑は古河第一小学校の北側の道路沿いに立っている。古河市中央一丁目十番。道路の向かいは宗願寺の墓地だ。パッと見て何かの悪戯書きかと思ったのは、ローマ字の署名である。オランダ商館長から送られた名でヤン・ヘンドリック・ダップルと言う。署名のデザインは花押をイメージしているようだ。
     東片町自治会館の前にある鎮火稲荷の境内には、「史跡 古河藩盈科堂及教武所趾」の石碑が建っている。古河市大手町四番。盈科堂は古河藩の藩校で、享保九年(一七二四)当時唐津藩主であった土井利実によって創設され、土井氏の古河転封によって移転してきたものだ。説明は石碑の裏に記されているが、背後の建物との間が二十センチもないから読みにくい。「なんだよ、読めないところに連れてくるなよ。」「ここにもスタンプがありますよ。」
     住宅地の間を抜けていく。「立派だね。」民家の庭先に大きなみかんが鈴なりになっているのだ。突き当りを曲がって適当に歩いていくと、民家の庭先を四角に削り取った形で、「水戸勤王志士殉難の地」碑が建っている。「こんな所にあるのか。」残念ながら正確な住所が分からない。永井寺付近である。
     表面の文字は読み難いが、裏面に回ると家老榊原新左衛門以下十七人切腹、寺社役梶清次衛門以下十二人が斬罪にされたと記されている。ここがその刑場だったのだろうか。榊原の贈従四位から、小十人見附宮本辰之介の贈従五位まで位階を受けている。「ここに足軽ロダンって書いてある。」「勤王の志士ですか。」「天狗党じゃないかな。」藩内の対立、天狗党の長征から降伏と断罪、維新後の復権と凄惨な復讐。この時代の水戸藩はもう無茶苦茶である。

    元治元年(一八六四)三月、筑波山には藩内尊皇攘夷派が挙兵し、水戸天狗党の乱が起こる際に執政に就任した。五月に市川三左衛門が藩内親幕府勢力である諸生党を率いて江戸藩邸の政務を掌握すると、新左衛門は一隊を率いて江戸に出府し、諸生派を排して再び藩政を掌握する。諸生派と水戸天狗党が戦いを始めると、定府の役目にて江戸を離れることができない藩主・徳川慶篤は名代として水戸藩支藩主の一人で宍戸藩主・松平頼徳を派遣し、水戸表の平定を命じた。新左衛門らはこれに随行し、尊皇攘夷派もこれに随ったため、水戸藩に篭城する諸生派は頼徳の水戸城入城を拒否した。これに憤激した尊皇攘夷派は諸生派と合戦に及ぶと、頼徳以下、尊皇攘夷派の志士たちは諸生派を支援する幕府より賊軍とみなされ、頼徳は恭順の意を示して降伏。頼徳が罪を得たことで、自らも抗争の名目を失った新左衛門ら千の将兵も幕府に降伏した。新左衛門は古河藩に預けられ、翌慶應元年四月、古河藩内にて切腹した。享年三十二。(ウィキペディア「榊原新左衛門」より)

     次は頼政神社だ。古河市錦町九丁目五番。住宅地の中をグルグル回っているから地理がよく分からなくなってくる。改めて街道からの位置を確認すると、本町二丁目の交差点を西に入り、どこまでもまっすぐ歩いて(渡良瀬坂通りというらしい)、渡良瀬川の土手の手前ということになる。以前一度だけ来たことがあるが、古びた小さな神社だったとしか覚えていない。
     途中に踊り場のある、磨り減った石段を二十段ほど登ると、参道は苔の生えた地面だ。人が来ることも稀なのだろう。モミジが紅い。ここは観音寺曲輪の土塁跡だ。大きな石灯籠は元禄九年(一七〇三)のもので、「頼政明神 寶前」とある。大河内松平家が藩主の時で、藩主の弟大河内輝貞の寄進による。大河内氏は、宇治で討たれた兼綱(頼政の養子)の子顕綱に始まると称しているので、祖先顕彰の意味で祀ったものだろう。形と大きさは寛永寺や増上寺の石灯籠に近い。かなり風化して丸くなり、苔むした狛犬も元禄九年のものである。元々古河城内の竜崎曲輪にあったものだが、渡良瀬川改修で城が水没したとき現在地に移された。境内の落ち葉は掃かれた跡もない。
    しかし、そもそも宇治で自刃した源三位頼政がなぜ古河に祀られているのか。伝承では、頼政自刃の際に随行していた下河辺氏が首を持ち帰ったとされているのだ。別に頼政の首は猪早太が美濃に持ち帰ったという伝説もある。猪早太は頼政の鵺退治の際に従った郎党である。

     源三位入道は、七十に余って軍して、弓手の膝口を射させ、痛手なれば、心静に自害せんとて、平等院の門の内へ引退く所に、敵襲ひかゝれば、次男源大夫判官兼綱は、紺地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧着て、白月毛なる馬に、金覆輪の鞍置いて乗り給ひけるが、父を延ばさんが為に、返し合せ防ぎ戦ふ。上総太郎判官が射ける矢に、源大夫判官、内甲を射させてひるむ所に、上総守が童、次郎丸と云ふ大力の剛の者、萌葱匂の鎧着、三枚甲の緒をしめ、打物の鞘をはづいて、源大夫判官に押並べて、むずと組んで、どうど落つ。源大夫判官は、大力にておはしければ、次郎丸を取って押へて頸を掻き、立ち上らんとする処に、平家の兵ども、十四・五騎落ち重なって、終に兼綱を討ちてげり。伊豆守仲綱も、さんざんに戦ひ、痛手あまた負うて、平等院の釣殿にて自害してげり。其の頸をば下河辺藤三郎清親取って、大床の下へぞ投入れたる。六条蔵人仲家、其の子蔵人太郎仲光も、さんざんに戦ひ、一所で討死してげり。この仲家と申すは、故帯刀先生義賢が嫡子なり。然るを、父討たれて後、孤にてありしを、三位入道養子にして、不便にし給ひしかば、日来の契約を達へじとや、一所で死ににけるこそ無漸なれ。三位の入道、渡邊長七唱を召して、「我が首討て」と宣へば、首の生首を討つたんずる事の悲しさに、「仕つとも存じ候はず。御自害候はば、その後こそ賜り候はめ」と申しければ、げにもとや思はれけん、西に向ひ手を合せ、高殸に十念唱へ給ひて、最後の詞ぞあはれなる、
     うもれ木の花さく事もなかりしに身のなるはてぞ悲しかりける
     これを最期の詞にて、太刀のさきを腹に突き立て、俯しざまに貫かつてぞ失せられける。その時に歌詠むべうはなかりしかども、若うよりあながちに好いたる道なれば、最後の時も忘れ給はず。その首をば長七唱が取つて、石に括り合せ、宇治川の深き所に沈めてげり。(『平家物語』橋合戦の事)

     これは佐藤謙三校注(角川文庫版)によるが、下河辺藤三郎清親が仲綱の首を床に投げ入れて隠し、頼政の首は渡辺長七唱が石に括って宇治川の深いところに沈めたとされている。
     神社を出ると静かな住宅地になる。「ずいぶんたくさん生っていますね。なんでしょうか。」ギンナンより少し小さめの薄黄緑の実が鈴なりになっている。姫の鑑定ではセンダンであり、スナフキンとダンディがそれぞれ辞書を引いてそれを確認する。
     「双葉よりカンバシ、の方ではありません。」センダン科センダン属で、別名で楝(あふち)と呼ばれる。栴檀は双葉より芳しの方は、ビャクダン(白檀)を言う。漢字が伝わってきたとき、日本の似たような木に当てはめたから、時折全く別の種類をさしてしまうことがよくあるのだ。

     次は永井寺(えいせいじ)だ。龍渓山大雄院、曹洞宗。古河市西町九番三十三。寛永三年(一六二六)、古河藩主永井直勝の開基になる。虹梁と向背柱の彫刻が見事だ。「目が全部ありますね。」龍も獅子も目玉を埋め込んである。「あの先っちょの鼻の長い動物、なんだか知ってる?」先っちょというのは木鼻である。「象かな?」「バクなんだ。」「そうですか、あの想像上の。ああ、そうですか。」アンマリ大袈裟に感心されると、少し照れてしまう。古い梵鐘が地面に置かれたままになっている。
     十九夜塔には如意輪観音が鎮座している。「永井さんのお墓があるんですが、下見してません。見たいですか?」特に永井家には関心がないので見なくてもよい。「それじゃ行きましょう。」しかし調べてみると、永井直勝のはるか後に荷風が生まれるのだから、まるで関心を持たなくてもよい家ではなかった。直勝の庶子(長子だが家を継がなかったともいう)が尾張に土着し豪農となり、その子孫は儒者として尾張藩に仕えた。禾原永井久一郎はその十二代、荷風は十三代にあたる。また久一郎の弟・阪本釤之助の子に高見順がいる。
     姫の資料では次の順番が田中正造遺徳の碑になるが、先に雀神社に寄ることに決まった。ここにトイレがあるというので嬉しい。少し前から膀胱が張ってきていたのだ。北に少し歩くと神社の角にトイレが見えたので、正面の鳥居に向かう皆には申し訳ないが、脇から入る。ヨッシーも続いてきた。古河市宮前町四番五十二。少し暖かくなってきた。
     雀の名は、この辺りが「雀が原」と呼ばれたという説、「鎮め」の転訛だとの説がある。しかし、雀宮は他の地域にもあり、「雀が原」説はあてにならない。渡良瀬川の水害を鎮めるのが本義であろう。創建は古く、社伝によれば、崇神天皇の時、豊城入彦命が東国鎮護のために勧請したという。また別に、清和天皇の貞観年間(八五九~八七七)に出雲大社の分霊を祀ったとする伝承もある。主神は大己貴命で、少彦名命と事代主命が配祀されている。
     大きな岩に乗った獅子は赤茶けた色をしている。鳥居の額は「正一位雀大明神」である。拝殿前に置かれた元禄十四年の狛犬は面白い表情をしている。拝殿から左右の弊殿まで渡り廊下が続く。右側の渡り廊下を潜って本殿を眺めれば流造の様式だ。大ケヤキはもともと二本だった木が合体したもので、夫婦欅と呼ばれる。幹周り八・八メートル、高さ二十五メートル。
     ここで少し休憩する。ヨッシーからはチョコレート(小枝)が配られる。「蜻蛉には特別に。」特別にあられ煎餅を戴く。有難いことである。姫も煎餅をくれる。休憩している間、クルリンとドクトルは土手に上った。後で行くのだが、気付かなかったらしい。日陰で座り込んでいるとまた寒くなってきた。二人が戻って来て、お菓子を分配したところで立ち上がる。
     神社の裏手から土手に上がれば、真っ青な空に白い雲が浮かび、その下にゴルフ場が広がる。「景色がいいですね。」神社からも見えていたのが万葉の大きな歌碑である。

    まくらがの許我の渡りのからかじの 音高しもな寝なへ児ゆえに
    麻久良我乃許我能和多利乃可良加治乃 於登太可思母奈宿莫敝兒由恵尓

     私はこれよりも田中正造の碑がみたい。「すぐ近くにあるそうですよ。」やや南の方に大きな碑がある。「あれじゃないか。」土手下の古河ゴルフリンクスの建物を背に、ゴルフ場を向いて「田中正造翁遺徳之賛碑」があった。このゴルフ場の向こうに谷中村が水没しているのだ。
     碑は高さ二七五センチ、巾四四〇センチ。黒タイルの壁面にブロンズのレリーフが嵌め込まれている。画面中央には羽織袴で土下座して直訴状を手にする正造がいる。その右には蓑笠を纏い抗議する鉱毒被災農民たちと、刀を振るう警官。画面左には、故郷を追われて他国へ出る家族だろう。大八車に家財道具と子供を乗せて引く家族、杖を突きぼとぼと歩く老人たち。画面左下ではカラスが枝に止まっている。「真に迫ってるね。」「この蓑なんかスゴイじゃないか。」
     レリーフの手前の台には直訴状本文が陽刻されたプレートが嵌め込まれている。「読みにくいですね。」しかし読まなければいけない。

     謹 奏
       田 中 正 造
     草莽ノ微臣田中正造、誠恐誠惶頓首頓首、謹テ奏ス。伏テ惟ルニ、臣田間ノ匹夫敢テ規ヲ踰エ法ヲ犯シテ
    鳳駕ニ近前スル其罪実ニ万死ニ当レリ。而モ甘ジテ之ヲ為ス所以ノモノハ洵ニ国家生民ノ為ニ図テ一片ノ耿耿竟ニ忍ブ能ハザルモノ有レバナリ。伏テ望ムラクハ、
    陛下深仁深慈、臣ガ至愚ヲ憐レミテ少シク乙夜ノ覧ヲ垂レ給ハンコトヲ。
     伏テ惟ルニ、東京ノ北四十里ニシテ足尾銅山アリ。近年鉱業上ノ器械洋式ノ発達スルニ従ヒテ其流毒益々多ク其採鉱製銅ノ際ニ生ズル所ノ毒水ト毒屑ト之レヲ澗谷ヲ埋メ渓流ニ注ギ、渡良瀬川ニ奔下シテ沿岸其害ヲ被ラザルナシ。加フルニ比年山林ヲ濫伐シ煙毒水源ヲ赤土ト為セルガ故ニ、河身激変シテ洪水又水量ノ高マルコト数尺、毒流四方ニ氾濫シ、毒渣ノ浸潤スルノ処茨城・栃木・群馬・埼玉四県及其下流ノ地数万町歩ニ達シ、魚族斃死シ、田園荒廃シ、数十万ノ人民ノ中産ヲ失ヒルアリ、営養ヲ失ヒルアリ、或ハ業ニ離レ飢テ食ナク病テ薬ナキアリ。老幼ハ溝壑ニ転ジ、壮者ハ去テ他国ニ流離セリ。如此ニシテ二十年前ノ肥田沃土ハ今ヤ化シテ黄茅白葦田間惨憺ノ荒野ト為レルアリ。
     臣夙ニ鉱毒ノ禍害ノ滔滔底止スル所ナキト民人ノ痛苦其極ニ達セルトヲ見テ、憂悶手足ヲ措クニ処ナシ。嚮ニ選レテ衆議院議員ト為ルヤ、第二期議会ノ時初メテ状ヲ具シテ政府ニ質ス所アリ。爾後議会ニ於テ大声疾呼其拯救ノ策ヲ求ムル茲ニ十年、而モ政府ノ当局ハ常ニ言ヲ左右ニ托シテ之ガ適当ノ措置ヲ施スコトナシ。而シテ地方牧民ノ職ニ在ルモノ亦恬トシテ省ミルナシ。甚シキハ即チ人民ノ窮苦ニ堪ヘズシテ群起シテ其保護ヲ請願スルヤ、有司ハ警吏ヲ派シテ之ヲ圧抑シ誣テ兇徒ト称シテ獄ニ投ズルニ至ル。而シテ其極ヤ既ニ国庫ノ歳入数十万円ヲ減ジ又将ニ幾億千万円ニ達セントス。現ニ人民公民ノ権ヲ失フモノ算ナクシテ、町村ノ自治全ク頽廃セラレ、貧苦疾病及ビ毒ニ中リテ死スルモノ亦年々多キヲ加フ。
     伏テ惟ミルニ、
    陛下不世出ノ資ヲ以テ列聖ノ余烈ヲ紹ギ、徳四海ニ溢レ、威八紘ニ展ブ。億兆昇平ヲ謳歌セザルナシ。而モ輦轂ノ下ヲ距ル甚ダ遠カラズシテ、数十万無告ノ窮民空シク雨露ノ恩ヲ希フテ昊天ニ号泣スルヲ見ル。嗚呼是レ聖代ノ汚点ニ非ズト謂ハンヤ。而シテ其責ヤ実ニ政府当局ノ怠慢曠職ニシテ、上ハ陛下ノ聡明ヲ壅蔽シ奉リ、下ハ家国民生ヲ以テ念ト為サザルニ在ラズンバアラズ。嗚呼四県ノ地亦また陛下ノ一家ニアラズヤ。四県の民亦陛下ノ赤子ニアラズヤ。政府当局ガ
    陛下ノ地ト人トヲ把テ如此ノ悲境ニ陥ラシメテ省ミルナキモノ、是レ臣ノ黙止スルコト能ハザル所ナリ。
     伏テ惟みルニ、政府当局ヲシテ能ク其責ヲ竭サシメ、以テ
     陛下ノ赤子ヲシテ日月ノ恩ニ光被セシムルノ途他ナシ。渡良瀬河ノ水源ヲ清ムル其一ナリ。河身ヲ修築シテ其天然ノ旧ニ復スル其二ナリ。激甚ノ毒土ヲ除去スル其三ナリ。沿岸無量ノ天産ヲ復活スル其四ナリ。多数町村ノ頽廃セルモノヲ恢復スル其五ナリ。加毒ノ鉱業ヲ止メ毒水毒屑ノ流出ヲ根絶スル其六ナリ。如此ニシテ数十万生霊ノ死命ヲ救ヒ、居住相続ノ基ヘヲ回復シ、其人口ノ減耗ヲ防遏シ、且ツ我日本帝国憲法及ビ法律ヲ正当ニ実行シテ各其権利ヲ保持セシメ、更ニ将来国家ノ基礎タル無量ノ勢力及ビ富財ノ損失ヲ断絶スルヲ得ベケンナリ。若シ然かラズシテ長ク毒水ノ横流ニ任セバ、臣ハ恐ル、其禍ノ及ブ所将サニ測ル可ラザルモノアランコトヲ。
     臣年六十一、而シテ老病日ニ迫ル。念フニ余命幾クモナシ。唯万一ノ報効ヲ期シテ、敢テ一身ヲ以テ利害ヲ計ラズ。故ニ斧鉞ノ誅ヲ冒シテ以テ聞ス、情切ニ事急ニシテ涕泣言フ所ヲ知ラズ。伏テ望ムラクハ、聖明矜察ヲ垂レ給ハンコトヲ。臣痛絶呼号ノ至リニ任フルナシ。
      明治三十四年十二月
       草莽ノ微臣田中正造誠恐誠惶頓首頓首

     明治三十四年(一九〇一)十二月十日、国会開会式の日であった。前夜、幸徳秋水を訪れて書いてもらった直訴状に、決行の直前、正造自身で数カ所に朱を入れた。後に公表された本文を見て、秋水は不満を漏らしている。政府は狂人が馬車の前によろめいただけだとして、正造の罪を問うことがなかった。
     しかし狂人の所業と思われることは正造にとって最も恐れたことだった。最初の段落の末尾「陛下深仁深慈、臣ガ至愚ヲ憐レミテ少シク乙夜ノ覧ヲ垂レ給ハンコトヲ」の「至愚」は、秋水の案では「狂愚」となっていたのである。

     君よ。
     僕が聴いて欲しいのは、直訴後の田中正造翁だ。直訴後の翁を語らうとすれば、直訴当日の記憶が、さながらに目に浮ぶ。
     明治三十四年十二月十日。この日、僕が毎日新聞の編輯室に居ると、一人の若い記者が顔色を変へて飛び込んで来た。
     『今、田中正造が日比谷で直訴をした』
     居合はせた人々から、異口同音に質問が突発した。
     『田中はドウした』
     『田中は無事だ。多勢の警官に囲まれて、直ぐ警察署へ連れて行かれた』
     翁の直訴と聞いて、僕は覚えず言語に尽くせぬ不快を感じた。寧ろ侮辱を感じた。
     やがて石川半山君が議会から帰つて来た。開院式に参列したので、燕尾服に絹帽だ。僕は石川と応接室のヴエランダへ出て、直訴に対する感想を語り合つた。通信社からは、間もなく直訴状を報道して来た。引きつゞき、直訴状の筆者が万朝報の記者幸徳秋水であることを報道して来た。直訴状と云ふものを読んで見ると、成程幸徳の文章だ。
    『幸徳が書くとは何事だ』
     僕は堪へ得ずして遂にかう罵つた。(中略)
     幸徳は徐ろに直訴状執筆の始末を語つた。昨夜々更けて、翁は麻布宮村町の幸徳の門を叩き起した。それから、鉱毒問題に対する最後の道として、一身を棄てゝ直訴に及ぶの苦衷を物語り、これが奏状は余の儀と違ひ、文章の間に粗漏欠礼の事などありてはならぬ故、事情斟酌の上、筆労を煩はす次第を懇談に及んだ。――幸徳の話を聴いて居ると、黒木綿の羽織毛襦子の袴、六十一歳の翁が、深夜灯下に肝胆を語る慇懃の姿が自然に判然と浮んで見える。
     『直訴状など誰だつて厭だ。けれど君、多年の苦闘に疲れ果てた、あの老体を見ては、厭だと言うて振り切ることが出来るか』
     かう言ひながら幸徳は、斜めに見上げて僕を睨んだ。翁を返して、幸徳は徹夜して筆を執つた。今朝芝口の旅宿を尋ねると、翁は既に身支度を調へて居り、幸徳の手から奏状を受取ると、黙つてそれを深く懐中し、用意の車に乗つて日比谷へ急がせたと云ふ。
     『腕を組んで車に揺られて行く老人の後ろ影を見送つて、僕は無量の感慨に打たれた』
     語り終つた幸徳の両眼は涙に光つて居た。僕も石川も、黙つて目を閉ぢた。(木下尚江『臨終の田中正造』)

     この時はまだ谷中村を水没させる計画は動いていない。三十六年に谷中村を貯水池にする案が栃木県会で廃案になったが、危機感を募らせた正造は翌三十七年から谷中村に移り住んだ。栃木県は堤防工事の名のもとに堤防を破壊し、谷中村民を追い詰めていく。三十九年、谷中村は強制廃村とされたが正造は住み続ける。以前にも触れたことがあるが、二十歳の荒畑寒村が『谷中村滅亡史』を書いた。寒村若き日の血の迸るような文章である。
     碑の裏側に回ると、全面に剥がしたような形跡がある。「どこかからもって来たんじゃないの?」それにしてはおかしい。ここには寄付者名簿があったらしいのだが、どうしてそれを外してしまったのか。

     古河ゴルフリンクスの建物の端に煉瓦色の大きな煙突が残されている。ここはもともと明治二十年(一八八七)に創業した須藤製糸があった場所だから、この煙突は製糸工場のものである。

     古河市にある県内唯一の製糸会社、須藤製糸(同市松並二丁目、須藤盛夫社長)が、六月十五日で製糸事業から完全撤退することが二十六日、分かった。生糸価格の下落や安価な輸入品の流入で需要が減退し、長年赤字が続いているため、撤退に踏み切った。同社は従業員約三十五人を解雇する方針。今後は不動産事業などに経営資源を集中させ、工場跡地を有効利用する考え。かつて国内の基幹産業として繁栄を極めた製糸業だが、同社の撤退で国内に残る器械製糸所は二工場のみとなる。
     須藤製糸は一八八七(明治二〇十)年の創業。関東近県の養蚕農家から生繭を仕入れ、生糸を生産。最盛期には従業員約一千人を抱え、市内二カ所、埼玉県幸手市の計三カ所に工場を保有し、「糸の町・古河」の一時代を築いてきた。(「茨城新聞」二〇〇五年四月二十七日より)

     「旧谷中村下宮三社 下宮八幡宮・牛頭天王社・下宮稲荷神社」が左百二十メートル先の左にあるらしいが、今日は寄れない。
     正定寺。証誠山宝地院。浄土宗。古河市大手町七番一。寛永十年(一六三三)、土井利勝の開基になり、土井氏歴代の菩提寺となった。「塀もなくて、なんだかだだっ広い境内ですね。」
     黒門(薬医門)は土井家江戸下屋敷の門を移設したものだ。実はこれは裏門であった。「また裏から入るのか。イヤダヨ、もう。」弁天堂には白蛇が祀られている。「宇賀神とは違いますね。」宇賀弁才天のように老人の頭にとぐろを巻く形は見たことがあるが、蛇そのものだけを弁天として祀るのは珍しい。
     由緒が記されているらしい石碑は、表面が剥落していて全く判読できない。元々土井家の墓所は浅草誓願寺にあったが、関東大震災の後、昭和二年にここに改葬されたのである。土井氏初代利勝には家康の落胤だとの噂がつきまとっている。その利勝像もある。
     赤門から出ると、巨大な石垣の上から鐘楼が見える。この石垣も大したものである。参道入り口には、左後ろを振り返る真っ白い如来像が立つ。衣装からしてこれは釈迦だと思うが、こういう姿は初めて見る。
     そして渡良瀬坂通りに戻り、姫が入った店蔵は永井路子の旧宅だった。古河市中央町二丁目六番五十二。江戸町通りと呼ばれ、古河城下で最も繁盛した町であった。十九世紀初めに初代永井八郎治が葉茶屋「永井屋」を開業し、後には陶漆器、砂糖を商い質屋も兼ねた店である。今は古河文学館の別館として公開されている。
     店内にはボランティアの婦人が二人待機していて、靴を脱いで上がれと言う。店の奥は居住空間になっているが、縁側の奥にあった部屋がなくなり、永井路子の生活していた頃よりは大幅に縮小されている。
     さっきも記したように、私は永井路子に関しては全く無知である。実父は来島清徳、母は永井智子であるが、子のいない本家の永井八郎治の長女として入籍されることが誕生前から決まっており、実母のことは「お姉ちゃん」と呼んで育った。古河高女から東京女子大学国語専攻部を卒業し、戦後は東大で日本経済史を学ぶ。当時の女性作家としては異例な経歴になるし、経済的には何不自由なく育ったと思われる。
     私が興味あるのは実母の永井智子の方だ。路子誕生の二年後、清徳と死別した後は歌手としてムーランルージュやエノケン一座、浅草オペラ館で歌った。昭和十三年には、永井荷風原作の歌劇『葛飾情話』に出演した。同じ永井でも縁戚関係はない。

     五月十七日。晴。歌劇『葛飾情話』初日なり。午前一時に起き浅草に走せ赴く。菅原君楽座に立ちて指揮をなし、正午『情話』の幕を揚ぐ。意外の成功なり。器楽の演奏悪しからず。テノール増田は情熱を以て成功し、アルト永井は美貌と美声を以て成功し、ソプラノ真弓は誠実を以て成功をなしたり。(後略)(『断腸亭日乗』昭和十三年)

     この出演をきっかけに、智子は二度目の夫と別れて作曲家の菅原明朗と一緒になった。昭和二十年、偏奇館が空襲で焼け落ち、荷風は中野の菅原家に逃げた。その家も空襲にあったため、菅原の縁で智子と三人で明石から岡山に逃れる。荷風も「菅原君夫婦」と書いているが、どうやら正式な結婚はしていなかったらしい。下記の記事を見つけた。残念ながら筆者の名前が分からない。

     妻の祖父は作曲家で、名前を菅原明朗(一八九七~一九八八)という。
     東京音楽学校に作曲科がまだなかった時代、帝国音楽学校の作曲科主任教授(昭和五年)として日本の音楽学校で作曲を教えた最初の人だった。
     (「考える葦笛」http://hornpipe.exblog.jp/17216920)
     菅原と永井智子は「夫婦」と紹介されることが多く、ウィキペディアには「結婚した」と書かれているが、誤りである(他にも誤りが多い)。菅原は二十一歳で梅原幸と結婚し、十人の子供がいる。その三女が私の妻の母である。
     ※明朗と智子は戦後もずっと一緒に暮らし、一女をもうけた。明朗は家を出た人間だが、子供たちと絶縁状態にはならず、結婚して目黒に住んでいた私の義母の所に明朗と智子はよく訪ねて来た。おかげで私も明朗に何度か会う機会を得た。
      (http://hornpipe.exblog.jp/17282686より)

     また初代永井八郎治は小谷三志(鳩ヶ谷三志)の高弟で、不二孝の先達だった。恐らく不二孝の講義をしているのだろう、八郎治の肖像画(原本は古河歴史博物館所蔵))が壁に掛けられている。三志については鳩ヶ谷を歩いた時に触れている。
     篆刻美術館は外側から見るだけだ。古河市中央町二丁目四番十八。大正九年に建てられた三階建の石蔵である。古河の篆刻家・生井子華(いくい・しか)の作品を展示する施設として構想・開館したものだ。
     河鍋暁斎誕生の地碑は、いばらきIT人材開発センターの隅にひっそりと立っている。サザンカが赤い。古河市中央町二丁目三番五十。碑の前に車が止められているので邪魔くさい。「お墓も記念美術館も見ましたね。これで完結しました。」記念美術館は蕨、墓は谷中で見ている。生誕地と言っても暁斎が生まれたのは天保二年(一八三一)、翌年には父が定火消同心の株を買って江戸に移転したため、暁斎自身に古河の記憶はないだろう。
     「あれは何だい?」姫の計画には入っていないが、曲がり角の左に、黒板に漆喰の塀が長く伸びているのが見えた。なにやら由緒ありげな建物ではないか。「武家屋敷ですね。行ってみましょうか?」横山町一丁目七番。塀越しに中をのぞいてみると、普通の民家があって人が住んでいるようだ。「覗いちゃダメですよ。」
     川魚料理「武蔵屋」(建物が登録有形文化財。古河市横山町一丁目二番十五号)の向かいの「はなももプラザ」(地域交流センター)駐車場の前に若杉鳥子文学碑(『帰郷』の冒頭部分)が立っている。古河市横山町一丁目二番二十号。

    松が段々まばらになった處から、亜鉛屋根の低い家並や、製絲工場の煙突が見えて來て何 處にもよくありさうな田舎街の外郭が現れて來た。(『帰郷』冒頭)

     若杉鳥子を私は全く知らなかった。古河の豪商鳥海新右衛門が下女に生ませた子である。母の名はよし、戸籍上は田上徳五郎の長女として届けられた。美貌のブロレタリア作家だったらしい。

     一八九二(明治二十五)年、東京下谷で妾腹に生れる。一歳の時、茨城県古河町の芸者置屋の養女となり、更に里子に出される。「女子文壇」への投稿を始め、横瀬夜雨に師事、十六歳の時、中央新聞記者となる。水野仙子、今井邦子、生田花世らと交友を深める。「創作」「珊瑚礁」等を経て、一九二五年「文芸戦線」で作家として評価を受ける。「戦旗」「若草」「婦人公論」等に作品を発表。プロレタリア作家同盟に加盟、宮本百合子、佐多稲子らと「働く婦人」の編集に参画。またモップルで活躍、一九三三年、治安維持法違反で拘留。一九三七(昭和十二年)四十五才で病死。(林幸雄)
     (青空文庫:人物についてhttp://www.aozora.gr.jp/index_pages/person331.htmlより)

     長塚節が横瀬夜雨の家で鳥子の写真を見て、まだ見ぬ彼女に恋歌を贈った。横瀬夜雨も鳥子本人とは会っていない。もっぱら投稿添削を中心とした手紙による指導だった。節は鳥子を桃の花に見立てた。(http://culture.city.ibaraki-koga.lg.jp/bungaku/tushin/6.htmより)

     まくらがの古河の桃の木ふゝめるをいまだ見ねどもわれこひにけり
     紅のしたてにほふもゝの樹の立ちたる姿おもかげに見ゆ

     大正四年(一九一五)に節が死んだとき、鳥子は歌を返して夜雨に送った。既に人妻である。

    み歌今われなき家の文筥に忘られてあり身は人の妻 
    まくらがの古河の白桃咲かむ日を待たずて君はかくれたまへり

     鳥子が十九歳で結婚した相手は、当時『萬朝報』の記者だった板倉勝忠である。勝忠は男爵板倉勝弼(備中松山藩五万石の嗣子)の妾腹の子で、後に『読売新聞社』の記者を経て外務省に勤めている。翻訳もして、岩波文庫で二冊出したが今では絶版だ。
     小林多喜二の死にあたって、多喜二の母セキへの義捐活動が治安維持法にひっかかって拘束された。横瀬夜雨に師事して華族の子と結婚した鳥子が、どうした加減でプロレタリア文学に進んだものか。青空文庫に短編が十三作公開されているので、『文芸戦線』に発表して評価を受けたという『烈日』を大急ぎで読んでみた。しかしこれは痛々しくて辛い。プロレタリア文学の多くは歴史的な史料としての価値以外に、今も読むに堪えるものは少ない。
     ここは横町柳通り。碑の立っているのはかつて置屋があった場所だろう。鳥子の文学碑に並んで「古河提灯竿もみ祭り発祥の地」碑も立っている。竿と提灯と言えばすぐさま思いつくのが秋田の竿灯であるが、それとは違うようだ。「先週土曜日にあったんだね。」そのポスターがまだあちこちに残っている。二十メートルほどの竿の先に提灯をつけ、二十組ほどが競って他の提灯を消そうと揉みあうものらしい。
     その脇には、屏風のように石が三枚立てられている。その石の上半分は濃く、下半分の色が薄く、色が斜めに区切られている。ドクトルの見立てでは珍しいものらしい。
     和風甘味「はつせ」。「白糀赤味噌」の小澤糀店。土蔵を持つ黒板壁の店構えが続く。一階の半分だけモダンな外装に変えたのが晩食屋「ひとみ」だ。「晩食っていうのがおかしいじゃないか。」漱石『門』に、「晩食に傾けた酒」、柳北『航西日乗』に「第一時第二鈴ニテ午飯六時に晩食ス」とあるらしい(ざっと眺めてみたがどこにあるか発見できない)から、新しい言葉ではなかった。要するに晩飯である。私は「晩ご飯」とか「夕飯」と言うと思っていたが、最近の連中は「夜ご飯」なんて、おかしな言い方をする。
     正麟寺は麒翁山長時院、曹洞宗である。古河市横山町三丁目六番四十九。「どこでしょうかね?」鷹見泉石の墓が見つけられずにいると、オカチャンが何かの作業をしていた男に尋ねてくれた。「そこのお地蔵さんのところだそうです。」しかし分からない。そこに男から声がかかった。私たちが見ている反対側にあったのだ。「大夫泉石鷹見府君之墓」である。表面を細長く窪ませて、そこに名が彫ってある。「こっちも鷹見だ。」「これも。」ここは鷹見家累代の塋域で、端には鷹見久太郎の墓石も端にあった。「家紋が珍しいね。」鹿角紋と呼ぶものらしい。
     野木まで行くには少し急がなければならない。次は本成寺。古河市横山町三丁目十番四十三号。黒御影に「古河城北赤門の寺」と記した碑が立っている。延宝年間(一六七三~一六八〇)、古河城主・土井利益の母・法清院の菩提を弔うために、現在地に移転したと考えられている。鬼子母神堂があるのは日蓮宗だからだ。「あそこの塔がある所ですよ。」それが法清院殿の墓所であった。玉垣に囲まれた立派な塋域である。
     墓地を出ようとした時、「水戸藩故永井芳之助外四名仮埋葬之跡」碑が立っているのに気が付いた。永井は水戸藩与力で天狗党の蜂起に加わり、元治元年(一八六四)鹿島に落ちた後、下総国葛飾郡小堤村で捕えられ古河で斬罪となった。

     三時半。「どうしましょうか?」姫は悩むが、野木まで行けばちょうど良いのではないか。三キロもないのだから一時間もかからない。「そうですね。」街道に戻って北を目指す。最初に目指すのは塩滑地蔵である。
     姫がガイドブックからコピーしてくれた地図を見れば、古河駅と野木駅との間は十五センチ。これが三キロ弱だとすれば、この交差点から塩滑地蔵まで二センチだから四百メートル程だろう。しかしすぐに着くかと思ったのに、なかなか現れない。「次の信号を越えた辺りなんだよね。」その信号がないのだ。漸く信号が見えた辺りで、セブンイレブンで数人がトイレを借りる。「先に行って地蔵の所で待ってて下さい。」
     信号を越えたがすぐに見える筈の地蔵はいない。百メートルも行っただろうか。「この辺で待ってようか。」その時、オカチャンが発見した。道の西側にカナル・ハウス(古河市松並二丁目十八番二十)という結婚式場があり、その向かいの民家の間にある狭い道が地蔵堂への参道だった。突き当りに宝形造りの小さな堂がある。格子の隙間から覗いてみると、地蔵の顔面には赤い布をかぶせてあり、胴体の表面が崩れている。つまり塩が溶けているように見えるのだ。三時四十三分。暫くしてコンビニ組も到着した。松並の住所の通り、この辺りは松並木があった所だ。
     少し行って次の信号の手前を左に曲がれば旧下野煉瓦製造会社の煉瓦窯に行きつく筈だ。しかしこの街道は信号の間隔が長い。地図が信じられなくなってくる。なかなか信号が現れないと聊か不安になってきた頃、漸く左に曲がれそうな道が見えてきた。この辺で茨城県から栃木県に入ったようだが、そんな標識はどこにもなかった。「曲がりましょうか。」姫と話している間に、先頭を歩いているオカチャンとヨッシーは既に左に曲がっている。
     煉瓦窯まで、地図を見れば四百メートル程だろうか。畑の真ん中の何もない道を歩くのは疲れる。「この辺を曲がれば野木神社に着きそうだね。」「後でここで曲がりましょう。」更に歩き続ける。これが四百メートルとはとても思えない。腿の内側が少し張って来た頃、漸く煙突が見えてきた。「でもまだ遠いですよ。」それでも見えていればいずれは着く。到着したのは四時五分だ。煉瓦塀が長く続くのは渡良瀬北斗乗馬クラブの馬場であった。栃木県都賀郡野木町野木三三二四。後で正確な地図で図ると、さっきの曲がり角から約九百メートルである。ハンドライティングの地図の距離感がおかしいのだ。
     修復工事のためだろう、ダンプカーが出て行く。中には入れないので外観を撮影する。十六角形と言うのはほぼ円形だと思ってよく、十六個の窯がリング状に並んでいるのだ。遠目にはモンゴルのゲルのような形の中央から高く伸びた煙突が美しい。周囲百メートル、煙突の高さは.三十四・三メートルある。

     明治二十一年(一八八八)十月、赤煉瓦製造のために「下野煉化製造会社」が設立された。出資者は、三井物産の三井武之助・益田孝・馬越恭平を中心とし、旧古河藩主土井利与や古河城下の豪商・丸山定之助らも参加した。初代理事長は丸山定之助であった。明治二十二年(一八八九)には、野木村大手箱で赤煉瓦の製造が開始される。隣接する旧谷中村(現在は渡良瀬遊水地)では、原料となる良質な粘土が産出し、思川・渡良瀬川の水運により、製品輸送も容易であったため、煉瓦製造に適した立地であった。
     当初、赤煉瓦焼成窯は登り窯一基だけであったが、明治二十三年(一八九〇)六月十日に、「ホフマン式輪窯」と呼ばれる当時最新鋭の煉瓦窯(東窯)が完成し、続いて、明治二十五年には同じホフマン式の西窯が完成して、赤煉瓦製造が本格的に開始された。このうち、ホフマン式の東窯が現存している。(略)(ウィキペディア「旧下野煉化製造会社煉瓦窯」より)

     東京駅の煉瓦は主に深谷の日本煉瓦製造のものが使われたが、一部はこの下野煉瓦製造のものも使われたらしい。足尾銅山もこの窯の煉瓦を使った。日が大分傾いてきた。
     もう一度来た道を戻って、さっきの道を左に曲がる。「あれだと思うんですよ。」オカチャンは以前来たことがあるらしい。しかし小さな神社は雷電神社だった。「違いました。」案内板を見れば、これは旧谷中村から移設した神社である。時間があれば寄ってみたいが先を急がなければならない。「あそこに鳥居が見えるよ。」
     「あっちですね。」それが野木神社の鳥居だった。しかしここからの参道が長い。「戻ってくるのかい?」「来ますよ。」ダンディ、講釈師、ドクトル、クルリンはここで待つと言う。相当くたびれた顔をしている。長い参道だ。焚火の煙が霧のように広がる。「今時、焚火なんて珍しいな。」「禁止されてるだろう。」本殿に着いたのは四時二十二分である。都賀郡野木町野木二四〇四。推定樹齢千二百年と言われるイチョウの巨木が立っている。
     祭神は応神天皇の皇太子だった莵道稚郎子命(夭折)で、誉田別命(応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)、宗像三女神を配祀する。講釈師がぶつぶつ言うのが聞こえそうなので、早々に鳥居まで戻る。講釈師の代わりにヨッシーはスタンプを押してきた。
     「もう灯りがついちゃったよ。」既に四時半、日の落ちるのは早い。「これじゃ、駅に着くのは六時になっちゃう。」地図では、街道まで四百メートルほどあるが、さっきの塩滑地蔵の四百メートルとは違って、すぐに街道に着く。
     ここから駅に曲がる角までは八センチ。一・六キロか。二十分で着く距離だが、今はこの地図が信用できない。地図には「歩道のない道」と書かれているのに、ちゃんと歩道はある。ただ、東側の歩道は最近作られたようで、拡幅しているのである。
     暫く行くと左側の民家のブロック塀に「野木宿入口」の立札が立っている。「この場所に木戸が設置されていた」とある。満願寺門前には十九夜塔が立っている。この辺は十九夜講が盛んだったようだ。下都賀郡野木町野木二〇二九。地図に「満福寺」とあるのがどうやらこの寺のことで、それならば向いの辺が脇本陣のあった所だ。
     浄化センター交差点の向かいの植え込みに一里塚跡の立札が立っている。日本橋から十七里、日光街道最後の宿場の鉢石までは残り十八里強である。四時四十分。「六時までに着けるでしょうか?」別に急がなければならない理由は何もないが、講釈師がブツブツと文句を言っている。
     途中の自動車修理工場でヨッシーが道を訊いた。三つ目の信号の所にマクドナルドがあり、そこを右に曲がればすぐに駅らしい。しかし信号がなかなか.現れない。一つ目が漸く現れた。「まだあるね。」ダンディとクルリンははるか先に行ってしまい、もう姿が見えない。「クルリンは大丈夫でしょうかね?」「だって、あんなに早く行ってるからね。大丈夫じゃないか。」
     漸くマクドナルドが現れたのが友沼交差点だ。これを右に曲がるのだ。前を行く講釈師の足が遅くなっている。相当疲れているのだろう。暫く行くとクルリンがダウンしていた。「目の前でフラフラしてるんだ。」講釈師とヨッシーが見守っている。ダンディのスピードに無理に合わせ過ぎたのであろう。
    「ちょっと休憩しましょう。」しかしクルリンはちょっとしか休まず、大丈夫だからと歩き始める。「ゆっくり歩きましょう。」やがて正面に遠く、イルミネーションの青い光が見えてきた。「あれが駅だと思うよ。そして電飾の他には何もない駅に着いたのは五時二十五分だ。人影はなく商店らしいものも見当たらない。それなら、この電飾は誰のためのものだろう。「五時三十六分の上りがある。」それはちょうど良い。

     青白き電飾ばかり冬の駅  蜻蛉

     二万八千歩。ヨッシーと姫の万歩計は三万を超えたが、ここではスナフキンの万歩計を採用すると、十七キロほど歩いた勘定になる。「昼にはまだ六千歩だったんだ。午後がきつかった。」昼食後に二万二千歩とは普段のペースではない。最後は強行軍だったから、クルリンがばててしまったのも無理はない。「私は肉刺ができてしまいました。」姫もこんなに歩くとは思ってもいなかっただろう。
     後で確認してみると古河宿と野木宿との間は二十三町、二・五キロだが、宇都宮線の古河駅と野木駅との間は四・七キロある。二十三町というのは、古河の北外れから野木の南外れまでの距離だったのかも知れない。
     クルリンは久喜で東武線に乗り換え春日部経由で帰ると言うが、岩槻までなら大宮から野田線に乗り換える方が簡単だと、姫が説得した。野田線は始発だから座っていける。「絶対その方がいいよ」と講釈師も断言する。その講釈師は久喜で降りる。オカチャンは白岡で降りる。池袋まで行くヨッシーを除いて大宮で降りた。ダンディは京浜東北線に乗り換えると言う。あんみつ姫、スナフキンと一緒にクルリンを野田線の改札口まで送って行き、南銀座通りの庄やに入る。
     「お腹がすいちゃった。」座席についてすぐに姫はおにぎりを注文する。姫が生ビール、スナフキンと蜻蛉は瓶ビールにした。寒いし、今日はジョッキで飲む気分が余りしない。「普通の酒がいいんだけどね。」「ここにあるじゃないか。」メニューには高清水に「普通酒」と注意書きがしてある。「初めて見るよ。」酒飲みのスナフキンも知らない表記だ。取り敢えず温燗を頼むと、確かに普通の酒であった。私が普段家で飲んでいるのと余り変わらない。その後は「庄や大徳利」にする。これが一番安いのだ。
     後で調べると、「普通酒」は酒税法による分類であり、吟醸酒、純米酒、純米吟醸酒、本醸造酒(これらを特定名称酒という)以外のものをさす。色々細かな規定はあるようだが、結局、醸造用アルコールを白米重量の十パーセント以上使用したものと考えて良いらしい。昔の酒は一級酒も二級酒もすべてこれに相当していた。

    蜻蛉