番外 赤穂浪士編  平成二十一年二月七日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2009.2.13

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 今日は旧暦一月十三日。赤穂浪士討ち入りからほぼ一月遅れで、講釈師が「番外編」として計画した。忠臣蔵は講釈師得意の演目で、吉良邸から泉岳寺までを歩くのだ。いつものことだが、この人は本編の企画はいやだが番外編ならやるという天邪鬼である。私は忠臣蔵事件の細部について知らなかったので、大急ぎで野口武彦『忠臣蔵―赤穂事件・史実の肉声』を読んできた。以下特に断らない限り、忠臣蔵の知識のほとんどはこの本による。
 両国駅西口につくと、「集まりが遅いよ」と講釈師がひとり、やや不機嫌そうな顔で迎える。だってまだ早いじゃないか。定刻にはちゃんと集まってくる。宗匠、長老、碁聖、住職、モリオ、ダンディ、若井夫妻、あっちゃん、大橋、胡桃沢、サッチー、橋口、私。名簿にチェックして十四人と報告したが、人数を確認していた宗匠に「十五人いるよ、誰か書き漏れてないの」と注意された。あっ、肝心のリーダーをチェックし忘れていた。
 実は今日は高校の同期会とぶつかってしまって私は参加を迷っていた。でもこっちの方が先に決まっていたし、何しろ講釈師の企画である。優先しない訳にはいかないではないか。「横の会」幹事の諸君には申し訳ないことであった。ただできれば同期会は夜にやってほしいものだ。

 国技館通りの力士像を見ながら回向院に向かう。両国は相撲の町である。「立浪部屋の先代は誰でしたかしら」橋口さんに聞かれて「確か羽黒山」と答えると「思い出した、安念山よ」と言う。確かに安念山であるが、現役晩年に、師匠の横綱羽黒山の四股名を襲名している。双羽黒に殴られた(?)師匠として悪名高い。「名門立浪もすっかり駄目になってしまって」橋口さんは相撲にも関心があるのだった。
 回向院の門は鉄製で随分新しいもののようで、昔来たことのある人は驚いているが、私はこの形しか見ていないので驚くことはない。明歴三年(一六五七)の大火(振袖火事)の犠牲になった十万を超える無縁仏を弔うため、「万人塚」を築き、念仏法要のための堂を建てたのが回向院の始まりである。宗匠が「千住にもあったよね」と聞いてくる。小塚原のほうは、この両国回向院の別院で、寛文七年(一六六七)に刑死者を供養するため開かれたものだ。
 門の「回向院」の額のちょうど真ん中あたりに、細い枝が二三本伸びて紅梅が咲いている。「この寺は赤穂浪士が入ってくるのを拒否したんだよ。幕府の御咎めを恐れたんだな」回向院側の言い分は、「暮れ六つから明け六つまでの間、門を開けてはならないのが幕法である」というものだ。不定時法だから季節によって異なるが、真冬のその時期、暮れ六つは十七時頃、明け六つは六時頃にあたる。つまり、吉良上野介を打ち取ったのは午前六時より前だったことになる。
 岩瀬(山東)京伝、京山墓の案内板を過ぎて鼠小僧の墓を見る。天保三年(一八三二)八月十九日、市中引き回しの上、小塚原で処刑された。だから千住回向院の方にも墓がある。「教覚速善居士」の墓石の前には、打ち欠くことができるように白い石が置かれている。「これじゃ粉々になってしまうんじゃないの」若井夫人が言うように、上手く打ち欠けるような石ではない。なんだか石膏を固めたような形に見える。
 数人でわいわい言っているうちに、気がつくと私たち六人を除いて本隊の姿が見えない。講釈師は私たちを置き去りに、早々と出発していたのだ。「これってサバイバル・ゲームなのかしら」遅れるものは容赦なく捨てられ、最後に残ったものだけがゴールに辿りつく。スタート早々脱落してしまった私たち。そして誰もいなくなる。

  梅が香や惑ひ残され回向院  眞人

 「まだその辺にいるんじゃないの」碁聖が偵察しても、もう姿が見えない。仕方がない。どうせ吉良邸に行くのだからそちらに向かおう。私の記憶はあいまいでちょっと迷ったが、美女がちゃんと道を知っていて、無事に吉良邸に到着する。そこに本隊のほうに入っているモリオと連絡が取れた。彼らは両国橋の袂の大高源吾句碑の方に向かっているようだ。宗匠と美女は源吾の句碑に未練があるがやむを得ない。「中に入って待ちましょう」
 小さな敷地を海鼠塀が囲んでいて、門の外には「赤穂義士遺蹟・吉良邸跡」の石碑が建っている。
 南北約三十四間余、東西約七十三間余の長方形の土地は二千五百五十坪。建屋は、本家三百八十坪、東西と南側の塀の内側に沿って長屋が四百二十六坪、その他合わせて八百四十六坪である。塀を接して北側には、西に土屋主税(旗本三千石)、東に本多孫太郎(越前福井藩家老)の屋敷が隣接していた。屋敷地の西側、裏門からは通りを隔ててすぐ回向院になる。

大石が御家再興運動や堀部らとの論争をしている頃、江戸幕府では吉良家に対して厳しい処分を下し始めていた。まず元禄十四年八月十九日(一七〇一年九月二十一日)に吉良家の屋敷が江戸城のお膝元呉服橋から当時江戸の外れといわれていた本所(現東京都墨田区両国三丁目)の松平登之助の上ゲ屋敷に屋敷代えとなり、さらにその直後の八月二十一日には、庄田下総守(浅野を庭先で切腹させた大目付)、大友近江守義孝(吉良義央と親しくしていた高家仲間)、東条冬重(吉良義央の実弟)の三名を同時に呼び出して「勤めがよくない」などと咎めて役職を取り上げた。(ウィキペディア「元禄赤穂事件」より)

 人はここに幕府の吉良への悪意を感じた。江戸の真ん中に赤穂浪士が討ち入ったのでは幕府の面目が潰れる。新開の場末であれば問題ない。いつでも討ち入りをどうぞ、というようなものだろう。当時の地名では本所一ツ目回向院裏。武家地に町名はないから、松坂町という名はまだ生まれていない。ダンディが宮部みゆき『平成お徒歩日記』が面白いというので読んでみると、深川の住人、宮部は「本所二ツ目」と書いている。これは何かの勘違いだろう。
 言うまでもないことだが、本所、深川は低湿地や海を埋め立てた地域である。両国橋がかかるまでは下総国に属している。振袖火事によって江戸市内の三分の二が焼失した結果、都市計画の見直し、拡充が必要になった。江戸近郊で残された土地は本所深川である。

万治三年(一六六〇)、幕府に本所奉行という役職が置かれ、徳山五兵衛重政と山崎四郎左衛門重政の二人が任命されました。そして、竪川や横川、源森川を開通させ、小名木川を整備し、掘り下げた土で湿地を埋め立て、隅田川の東側に土地を築きました。こうしてできあがった更地に屋敷割をすることがふたりの任務であったといわれます。(江東区江戸深川資料館「資料館ノート第七二号」)

 ところが天和二年(一六八二)十二月二十八日、駒込大円寺に発した大火は深川にまで及び、芭蕉は海に浸かって辛くも逃げ延びた。

 深川の芭蕉庵、急火にかこまれ、翁も湖にひたり烟をのがれしといふは、此時の事なるべし(「武江年表」)
 深川の草庵急火にかこまれ、潮にひたり苫をかづきて煙のうちに生きのびけん、是ぞ玉の緒のはかなき初め也。(其角「枯尾華」)

 私が其角の本を読んでいるわけは勿論ないので、ネットのお蔭である。無常を感じた芭蕉は、その四年後「奥のほそみち」の旅に出る。八百屋お七は、避難先の白山円乗寺(駒込吉祥寺、正仙院など諸説あり)で出会った吉三郎(または生田庄之助)と恋に落ちた。しかし、これは忠臣蔵とは関係ない。
 それはともあれ、火事の結果、本所深川に折角開いた武家屋敷、町家も撤去され田圃に戻された。その禁制が解けて再び武家屋敷が建てられ、町家が構成されたのは元禄元年(一六六八)のことである。それからまだ十三年しか経っていない。
 「元禄」といえば絢爛に浮かれたイメージを思い浮かべるが、それはバブルに乗ったごく一部の富豪の世界だけだったようだ。年表を見れば決してそんな暢気な時代ではない。元禄八年の貨幣改鋳によって貨幣価値は下落しインフレが進行していた。そもそも浅野内匠頭はインフレによる貨幣価値の下落を知らず、勅使馳走役として必要な費用を改鋳以前の金額を前提にして見積もっていたから、最初から吉良の不信を買っていたのだ。
 市場の貨幣流通量を増やすのは現代でも行われる政策だから、この改鋳を一概に悪とは決め付けられない。ただし江戸時代は、金、銀、銅銭の三通貨が併用されている。整合性を上手く図らなければ、為替相場は急激に変化する。私は経済に弱いので、こんな記事を参照してみた。

 徳川幕府は元禄八年(一六九五)、貨幣供給量の拡大および貨幣発行益の獲得を目的として改鋳に踏み切った。元禄小判は、大きさや重さはそれまで流通していた慶長小判と変わらなかったが、品位は約五十七%と慶長小判(八十四〜八十七%)の三分の二にまで引き下げられたほか、銀貨の品位も八十%から六十四%に落とされた。元禄小判の場合、品位の低さに加え、慶長小判との交換に際し当初は百両につき一両の割増金しか支払われなかったため、町人などからの評判が悪く、引き替えは順調にはいかなかった。その後、割増金が二十両に引き上げられた結果、引き替えも何とか目標を達成するまで進んだ。
 このようにして元禄の改鋳は、所期の目的を一応達成したが、その一方で、金銀貨の品位引き下げが均衡を欠いていたため、金銀貨の流通や一般物価に悪影響が及んだ。金貨との比較で品位引き下げが小幅にとどまった銀貨が退蔵されるなかで、銀貨の対金貨相場が高騰するとともに一般物価も上昇したのである。そのうえ元禄十六年(一七〇三)になると、南関東大地震により出費がかさんだため、一時立ち直った幕府財政も再び逼迫するようになった。こうした事態に対応すべく幕府では宝永三年(一七〇六)以降、銀貨の改鋳を四度にわたって断行し、正徳元年(一七一一)に鋳造が開始された四ツ宝銀の品位は二十%と元禄銀貨の三分の一にまで引き下げられた。また、金貨については宝永七年(一七一〇)以降、品位が八十四%に引き上げられた一方、量目が約二分の一にとどめられた結果、純金含有量が元禄小判をさらに下回る宝永小判が発行された。これら一連の改鋳により幕府財政の再建は大きく進んだが、銀遣い圏においては低品位の銀貨が主に支払手段に利用されたこともあって物価が急騰し、庶民生活が困窮する事態も生じた。
 以上のような事情を背景として、元禄・宝永の改鋳は非常に評判が悪かった。しかし、その一方で、元禄・宝永の改鋳は、通貨不足の緩和に大きく寄与したほか、三貨制の全国への浸透や徳川幕府による政治権力の強大さを示すものとして興味深い。ちなみに、幕府が改鋳金銀貨の通用強制を狙いとして元禄八年(一六九五)に発出した領国貨幣使用禁止令を契機に領国金銀貨と幕府貨幣との引き替えが完了し、十七世紀末には名実ともに三貨制(金・銀・銭)が完成したのであった。(日本銀行貨幣博物館「貨幣の散歩道」)

 インフレや為替相場の混乱だけではない。元禄八〜九年、十四〜十六年にかけて、東北を中心に飢饉が襲った。地方で食えなくなった農民は江戸へ流れてくる。ルンペンプロレタリアートが溢れかえっていた筈だ。流民は特に場末の新開地に集まってくる。「秋深し隣は何をするひとぞ」場所柄と人柄によって、このあたりは近所づきあいも薄い地域であった。だから赤穂浪士が紛れ込んでも誰も不思議に思わない。吉良上野介が賜ったのはそんな江戸の外れ、場末の吹き溜まりのような土地だった。
 ところで「本所」の地名由来だが、中世荘園制度に由来するようだ。

 本所が支配した土地を「本所」と称することもあり、日本各地の本所地名の由来となっている。特に東京都墨田区の本所 (墨田区)が著名(ウィキペディア「本所」)

 歴史学で「本所」といえば荘園体制の本所領家を意味し、その領家の支配地をも称した。でもこんな場所に荘園があったというのは本当かしら。しかしこれを補強する記事がある。

 また、古くからこの界隈を総称し、下町の人々に親しまれた本所という地名の起源は定かではありませんが、その後、この地に伊勢神宮の荘園があったことから本所と呼ばれたという説が有力です。(「本所松坂町由来」)
 http://www.ryogoku-city.co.jp/content/about/pdf/09_2002_02_honsho.pdf

 更に別の記事で、下総国葛飾郡には確かに伊勢神宮の荘園(夏見御厨)があることを確認した。葛西御厨というのも確認できるから、確かにこの辺には伊勢神宮の荘園があったようだ。(ウィキペディア「下総国」より)
 こんな草深い田舎に、と思ったのは迂闊な話で、熊野を中心とする海運が房総半島、武蔵国にいたる定期航路を確立していたのを忘れていた。だから伊勢から遠く離れたこんな場所に荘園があってもおかしくない。太田道灌の力だって、この海運を利用する商品流通に支えられていたのであった。

 連想があちこちに飛んで長くなってしまう。漸くリーダーの姿が現れた。「遅れる奴は置いて行くんだ。甘い顔なんかしないから」
 「吉良家家臣二十士」として小林平八郎を筆頭に名前が並んでいる。「討ち死にしたのは十七人だ」講釈師は言う。野口の本では十六人、即死でなく後で死んだ者も含んでいるのだろうか。書かれている二十人の死者の名は次の通り。
 小林平八郎、清水一学、新貝弥七郎、斎藤清右衛門、牧野春斎、森半右衛門、権十郎、曽右衛門、大須賀次部右衛門、左右田孫八郎、小堀源次郎、大河内六郎右衛門、鳥井理右衛門、須藤与一右衛門、鈴木元右衛門、笠原長太郎、榊原平右衛門、鱸松竹、杉山三左衛門、清水団右衛門。
 野口の本で「吉良本所屋敷検使一件」の名簿と照らしてみると、曽右衛門、大河内六郎右衛門、杉山三左衛門、清水団右衛門の四人が入っていない。
 「清水一角ってほんとに二刀流を使ってたのかしら」若井夫人が講釈師に尋ねる。「ほんとかどうか分からない」講釈師にも見ていないことはあった。

 元禄十五年(一七〇三)は寒い冬であった。十二月十四日(太陽暦一月三十日)、今風に言うなら十五日未明だが、当時は夜明けによって一日が始まるから、十四日でよい。前日の雪は止み、未明の霜を満月が照らしていた。討ち入り時刻は三時から四時頃の間と証言が一致しない。なにしろ不定時法であり夜中でもあることだから、証言があいまいになるのは仕方がないか。「十四日夜七つ時分(四時頃)、上野介殿御屋鋪へ取掛」(寺坂筆記)、「昨十四日八つ半過(三時過ぎ頃)上野介並に拙者罷在侯処」(吉良左兵衛口上鶴書)。
 第三者である隣家の土屋家の証言などから、討ち入りは七ツ、寅の上刻、つまり四時頃だということになる。吉良方の証言による時刻が早いのは、できるだけ長く抵抗していたと主張したいためだろうと、野口は推測している。
 当時吉良邸にどれほどの人間がいたのか。幕府の検死役の書に「中間小物共八十九人」、桑名藩所伝覚書には「上杉弾正から吉良佐平様へ御付人の儀侍分の者四十人程。雑兵百八十人程参り居り申し候よし」と、かなりの開きがあるが、後者の侍分四十人に雑兵百八十人、合計二百二十人はかなり誇張されているとみるべきだろう。
 赤穂浪士は手向かいしない者は相手にしていないから、吉良方で抵抗したのは死んだ二十人(この公園の説明に準じる)と負傷者二十三人の合計四十三人でしかなかった。残りは長屋の戸を閉じ込めて眠ったふりをしていたか、すぐさま降伏したということになる。だいたい中間小者なんていうのは、今で言えば派遣労働者のようなもので、僅かな給金と引き換えに命を落とす義理はない。抵抗せず長屋に閉じこもっていた連中の弁解はこんなものである。

 昨夜八ツ半自分、長屋々根にて騒がしく火事御座候由を申すに付き、早速罷り出で見候処に、槍抜き大勢罷り越して押し込み申に付き、また小屋の内え這入り申し候処、そのうち外より戸をたて、出し申さず候。何人参り候やその段見分申さず候。重ねてお尋ね候とも、このほか申し上ぐべき様御座なく候。以上

 吉良方で最も奮戦したのは鳥井理右衛門で、お馴染みの清水一学はあまり大した働きをしていないようだ。赤穂方では不破数右衛門が第一である。この不破は、江戸詰めの頃辻斬りを繰り返していたという説もあり、要するに殺人の大好きな男であった。平時には何の役にも立たず、というより危険なだけの男だが、戦場ではこういう男が一番役に立つ。本人だって分かっているから、死に花を咲かせたい思いの典型だったろう。
 邸内に侵入してから一時間弱で制圧し、後の一時間ほどは上野介の所在探索に苦労した。
 「それでは出発致そう」講釈師の掛け声で私たちは吉良屋敷を後にする。最短距離を行くなら両国橋を渡ればよいのだが、そう言う訳にはいかない理由があった。

 道筋の儀は、町筋は御禮日之儀に御座候故差控へ、御船蔵の後通り、永代橋より鉄砲洲へかかり、汐留橋筋、金杉橋、芝へ出候て、泉岳寺へ参候。(原惣右衛門『討入実況覚書』)

 「華蔵寺ってどこにあるの」宗匠が聞いてくるが、それは何ですか。「あそこの壁に書いてあった。吉良の墓があるらしい」観察力が粗雑な私は気づかなかった。宗匠は三月の江戸歩きを中野方面で検討していて、吉良上野介の墓所も見学コースに組入れている。そちらの寺の名前は萬昌院功運寺であって、華蔵寺ではないのだ。調べて見ました。
 萬昌院功運寺は萬昌院と功運寺とふたつの寺が合併したもので、今回の主役は萬昌院のほうである。天正二年(一五七四)今川義元の三男、今川長得が永平寺の佛照圓鑑禅師を招いて半蔵門の近くに開創した寺である。何度か移転を繰り返して、この頃には牛込にあった。今川、吉良ともに足利の支流であり、ちょうど萬昌院回送の頃に両家に婚姻があったことから、吉良の菩提寺になったという。
 吉良の首は泉岳寺から吉良家に渡って、菩提寺である萬昌院に葬られた。同時に分骨されて、領地である三州吉良の華蔵寺にも葬られた。だから両方にあるというのが正解である。
 吉良町観光協会は、上野介と吉良仁吉、尾崎士郎でもっているようで、とりわけ上野介には力を入れている。そのホームページから引用する。

 華蔵寺は山号を片岡山(へんこうざん)といい、義央公の曾祖父義定によって吉良家が再興された際、父義安の菩提を弔うため慶長五年(一六〇〇)に創建されました。
 華蔵寺の吉良家墓所には義安以下、代々の墓が建ち並んでいます。毎年、吉良公の命日である十二月十四日には毎歳忌法要が行われ、たくさんの参拝客が訪れます。

(義央木像は)華蔵寺御影堂に先祖義安、義定像と並んで祀られています。義央公五十歳の姿を刻んだものといわれ、自ら彩色を施したと伝えられています。衣冠束帯(いかんそくたい)姿のその表情からは物語で語られるような人物像は全く感じられず、温厚で気品があり知性的な印象を受けます。

 萬昌院のほうは大正に入ってから中野区高田に移転し、昭和になって功運寺と合併して今に至る。義央のほか、水野十郎左衛門(但し、寺のHPでは、十郎ではなく重郎)、歌川豊国(初代〜三代まで)、林芙美子などの墓がある。
 また、延宝八年(一六八〇年)六月二十六日に、四代将軍徳川家綱葬儀中の増上寺において長矩の母方の叔父にあたる内藤和泉守忠勝も永井信濃守尚長に対して刃傷に及んでいるのだが(私は知りませんでした)、その永井尚長の墓もある。ついでだから、そっちも知っておこう。

永井 尚長(ながい なおなが)は、丹後宮津藩の第二代藩主。永井家宗家四代。(中略)
延宝八年(一六八〇)五月に第四代将軍・徳川家綱が死去すると、六月二十五日に芝の増上寺で法会が行なわれ、尚長はその奉行に任じられた。ところが六月二十六日、志摩鳥羽藩主で同じく奉行を務めていた内藤忠勝に背後から脇差で刺殺された。享年二十七。
尚長には嗣子が無く、また殺害された経緯から改易に処された。しかし後に弟の永井直円に一万石が与えられ、大和新庄藩主として復興している。
尚長は学問を好んだことから、文人藩主と称された。殺害された理由は忠勝の狂気のためと史料には記されているが、忠勝との不和が原因ともいわれる。(ウィキペディア「永井尚長」)

 このことから内匠頭には狂気の血が流れていたとする説があるが、検証されていない。
 街の所々には高札の形の立札が立っている。作成者は「ぶらり両国街かど展実行委員会」である。吉良邸正門跡。「こんなところまで屋敷があったんだ。
 「本因坊屋敷跡」の前で講釈師が立ち止まる。これは碁聖に語ってもらいたいところだ。第一世本因坊算砂はもと日蓮宗の僧侶で日海と称し、寂光寺の住職を勤めていた。その塔頭に本因坊があり、それに由来する。幕府は囲碁将棋を奨励し、ほかに井上、林、安井を加えて囲碁の家元四家としたが、本因坊家はその筆頭の地位にある。道策・丈和・秀和・秀策・秀栄などを輩出した。二十一世本因坊秀哉が名人を引退してその名跡を日本棋院に寄贈したことで、現在、本因坊は三大棋戦のタイトルになった。秀哉の引退碁の相手は木谷實、その模様を川端康成が『名人』に書いている。
 「赤穂浪士には関係ありませんが」塩原太助炭屋跡も見る。「青との別れだ」「講談ですね」「円朝です」前原伊助宅跡もすぐそばにある。こんなものを見ながら一之橋に辿りつく。万治二年(一六五九)、竪川が開削されたとき、隅田側に近い方から順に一之橋から五の橋まで橋をかけた。一般には一ツ目橋などと呼ばれ、地名もその通りに、このあたりは本所一ツ目なのである。
 次の見学先は江島杉山神社である。墨田区千歳一―八―二。江ノ島弁才天と杉山和一を祀る。杉山和一は幼くして失明し、江戸に出て山瀬琢一に鍼術を学び、更に江ノ島弁天の岩屋にこもり鍼術の一つである管鍼術を授かった。その後、京都の入江豊明にも鍼術を学び、再び江戸に戻り鍼の名人として有名になった。その名声を聞いた五代将軍徳川綱吉が、和一を扶持検校として召し抱え、日夜自分の治療に当たらせた。綱吉に「何かほしいものはないか」と問われたとき、「一つ目が欲しい」と返答したため、綱吉は元禄六年、この本所一ツ目に千坪程の屋敷を与えた。
 「和一が江ノ島で修業した洞窟を復元したものだ」暗い洞窟の中を講釈師が懐中電灯を照らして案内してくれる。「怖いの」「大丈夫、怖くない」
 「これは珍しいだろう」洞窟の行き止まりに人頭蛇身の弁天が祀られているのだ。とぐろを巻いた蛇の上に頭が載っている。この形は最近読んだ山本ひろ子『異神』で知ったばかりで、初めて見た私は嬉しくなってしまう。これを宇賀神という。宇賀神弁天の一般的な形は、弁天女の頭の上に人頭蛇身の老翁が載っているらしいのだが、こういう人頭蛇身だけのものもある。

 近代に入ってから、この宇賀神に注目し、その原像を探り当てようとしたのは喜田貞吉であった。喜田は「宇賀神考」で、宇賀神を「諸福神の通称」として捉え、その原型を記紀にみえる「ウカ」「ウケ」「ケ」などの名に負う諸神に求めた。そして宇賀神は「もと穀物の神」であり、天野信景と同様に、のち仏教徒がこうした「御食津神」に付会させて福神として祀ったと結論する。
 たしかに「宇賀神」なる名称成立の背景を尋ね当てようとするとき、記紀にみえる食物の神との脈絡を問うことは不可避の作業といえよう。だが、本稿で縷々述べていくように、中世における宇賀神の諸形態は、それが決して「宇迦之御魂」(倉稲魂)などに“還元”しえないことを雄弁に物語る。宇賀神とは何よりも、弁才天の一種、つまり造作され案出された弁才天であったことを確認しておく必要があるだろう。

 こういうふうに引用していると長くなるので、キーワードだけにしてみよう。「神は蛇体で垂迹するという本覚思想」「蛇身は衆生と共通する三毒極成ノ体」「宇賀神の所在は吉祥の方位・戌亥(乾)であった。その対面辰巳の方にいる三悪神」。
 荒神や愛染明王と習合したり、かなりややこしい怪しい神である。吉野裕子によれば、古代日本人は蛇を山の神として信仰した。まず「秀麗な弧を描く円錐形の山容に、彼らは大地にズッシリと腰を据えてトグロを巻く祖神を感じ」、また「ウネウネとつづく山の峯の連なり、すなわち山脈もまた蛇に見立てられた」(吉野裕子『山の神―易・五行と日本の原始蛇信仰』)どうも、赤穂浪士に関係のない話ばかりになってしまって、これでは講釈師に叱られてしまう。もう一度だけ山本を引いて、これはお終いにする。

 宇賀弁才天。宇賀神将、如意宝珠王。龍宝神王。さまざまな名称で身を飾った異貌の尊格。メタモルフォーゼする姿に幻惑されつつも、行法と言説を往還させることによって謎に満ちていた(後略)

 神社を出てすぐに「あっ、量り売りをしていますよ」ダンディが気づいたのは酒屋である。「今頃、お酒の量り売りですか」「そう言えば岳人がいませんね」「山に行ってるのかしら」酒屋を見れば必ず酒を買う彼がいないのはおかしい。

  不参加を酒屋の前で気付かされ  《快歩》

 リーダーは私の顔を見ながら、鼻を蠢かせてしきりに空を指さしている。それを見てダンディが笑う。そうです。こんなに天気が良いのはすべてリーダーのお蔭である。「俺が計画して雨が降ったことがない」仰る通りです。企画すれば必ず雨になると噂されている私は、言うべき言葉もない。
 新大橋にかかるちょっと手前に御船蔵跡の碑が立っている。戦国時代から江戸時代前期にかけて、「安宅(あたけ)船」と呼ばれる戦艦があった。ここは四千八百九十坪という広大な場所に、その戦艦を係留していたのだ。ただ安宅船は、龍骨がないという弱さ、大きすぎて機動性に欠けるという点で、やがて廃止される。
 安宅(アタケ)から、この辺りはアタケと呼ばれている。近くの建物の外壁に広重の江戸名所「大はしあたけの夕立」が嵌め込まれているので写真を撮る。「トイレなんですけどね」美女が言うとおりここはトイレであった。トイレに向かってカメラを向けていると変質者と間違われるかもしれない。
 新大橋。「新といっても、当時の新ですからね」ダンディの言うとおり、隅田川にかかる三番目の橋として、当時「大橋」と呼ばれた両国橋より新しいという意味だ。深川に住んでいた芭蕉は、この橋にはかなり感謝している。

初雪やかけかかりたる橋の上  芭蕉
ありがたやいただいて踏むはしの霜

 ただし、現在の位置にあったのではない。破損、流出、焼亡を二十回も繰り返した。現在の場所になったのは明治四十五年、アールヌーボー風の高欄に白い花崗岩の親柱に特徴があったが、今では犬山の明治村に移築されている。現在の橋は昭和五十二年建造になる。
 「この辺に芭蕉庵があったんじゃないか」モリオの記憶通り、すぐに芭蕉記念館につく。「今日は入らないよ」講釈師はどんどん歩いて行く。たまたまそこにいたご婦人が、「花が咲いているのよ」と教えてくれるのを見れば、入口の脇に立っている芭蕉に大きな黄色の花がひとつ咲いているのだ。「俺、初めて見たと思う」私が言えば、「そんなことありません、何度も見てますよ」と美女に叱られる。そうかなあ。本来は夏の花らしく、今時咲くのは珍しい。
 芭蕉とバナナの違いは何であるか。「食べられる実がつくのがバナナなんじゃないか」私の言葉を宗匠は笑うが、何かの本で読んだような気がする。ここでもウィキペディアを開くと、間違っていないじゃないか。

バナナ(甘蕉、芭蕉実、学名 Musa spp. )はバショウ科バショウ属のうち、果実を食用とする品種群の総称。幾つかの原種から育種された多年草である。

 そこを過ぎると「旧新大橋跡」の石柱が立っている。「旧新っておかしい」美女が笑う。芭蕉が感激した橋は本来この辺にあったのだ。
 今日は忠臣蔵しか頭にないようだったが、講釈師は芭蕉稲荷には立ち止まった。「芭蕉が神様になってるんですね、知らなかったわ」小さな稲荷で、中に「古池や」の句碑が立つ。「古池はあちこちにありますよ。江戸川の方にもあったんじゃないですか」ダンディは見ているそうだが、私は関口の芭蕉庵はまだ行っていないので何とも言えない。年譜で見れば、「古池」の句は関口から深川に移転してきた後に詠んだものだ。もちろん、眼前にある池を詠んだとは限らず、過去様々な場所で見た古池を連想したのだとしてもおかしくはない。

萬年橋の北詰松平遠州侯の庭中にありて、古池の形今も存せりという。延宝の末桃青翁伊賀の国よりはじめて大江戸に来り癜翌フ家に入り剃髪して素宣とあらたむ。また癜落qより芭蕉庵の号を譲り受け、これより後この地に庵を結び泊船堂と号す。(『江戸名所図会』)

 芭蕉庵の正確な位置は分からない。たまたま大正六年の大津波の後、芭蕉遺愛とされる石の蛙が発見されたので、ここであったろうと推定した。大正六年の大津波とは何か。毎度おなじみウィキペディアのお世話になる。

一九一七年九月三十日、静岡県沼津市付近に上陸した台風は、関東地方から仙台市方面へ移動する中で各地に集中豪雨をもたらした。東京湾接近時には、折しも満潮の時刻と重なり、深川 (江東区)、品川 (東京都)で高潮が住宅地に押し寄せ五百人以上が溺死した。また、横浜港でも三千百隻以上の船舶や艀が風浪により転覆、多数の沖仲仕(港湾労働者)や水上生活者が犠牲となった。同港が日本の経済活動の要所であった時代だけに、日本全体の経済活動も大きな打撃を被ることとなった。死者・行方不明者数千三百二十四人、全壊・流出家屋約三万六千五百戸、床上・床下浸水約三十万三千戸。一九一〇年の大水害とは異なり、沿岸部での高波による被害が目立った水害となった。
千葉県浦安町は全町が水没、江戸時代を通じ、幾多の水害をくぐり抜けてきた行徳塩田も、当水害で塩田の堤防が完全に破壊され、東京湾で行われてきた数百年の製塩業の歴史は事実上幕を閉じた。

 この地帯がいかに水に弱かったかが分かるのだ。
 その向かいの堤防脇から石段を登れば芭蕉庵史跡展望庭園である。庭園というほどのものではないが、川が一望できる場所で、芭蕉像がある。説明によれば、杉山杉風が描いた絵を忠実に模したものだという。坐像である。「草加の像は立っている」草加の住人である講釈師は比較しないではいられない。草加の方は奥の細道の旅途中だから、当然立っている。

 冬うらら隅田の川を眺めをり  眞人

 万年橋は片側工事中だ。橋の袂に「川船番所跡」の説明板が立っている。「船番所を前に見たのはどこだったかしら」橋口さんが思い出そうとしているのは中川船番所であった。小名木川を上って来た商品は、江戸に入る直前この番所で検査されたのだ。

川船番所は、幕府により設けられた番所で、万年橋の北岸に置かれ川船を利用して小名木川を通る人と荷物を検査しました。設置の年代は明らかではありませんが、正保四年(一六四七)に深川番の任命が行なわれていることから、この頃のことと考えられます。江戸から小名木川を通り利根川水系を結ぶ流通網は、寛永年間(一六二四〜四四)には既に整い関東各地から江戸へ運ばれる荷物は、この場所を通り、神田・日本橋など江戸の中心部へ運ばれました。こうしたことから、江戸への出入口としてこの地に置かれたことと思われます。建物の規模などは不詳ですが、弓・槍がそれぞれ五本ずつ装備されていました。明暦三年(一六五七)の大火後、江戸市街地の拡大や本所の掘割の完成などに伴い、寛文元年(一六六一)中川口に移転しました。以後中川番所として機能することとなり、当地は元番所と通称されました。(江東区教育委員会)

 「ケルンの眺め」と称する説明板も設置されている。何がケルンであるか。「ここから前方に見る清州橋は、ドイツ、ケルン市に架けられた吊橋をモデルにしております」ということだ。ドイツ文も併記されていて、ダンディがこれを読んで「大体読めました」と笑っている。元の橋は太鼓橋である。北斎「富岳三十六景・深川萬年橋下」が嵌め込まれている。
 黄色の花を前にして、宗匠、モリオ、橋口さんが私を呼んでいる。「これ何かしら」橋口さんは誤解しているのではないだろうか。私に分かる筈がない。鑑定は美女の役目である。「これはアカシア、違う、ミモザです」「家にあるから知っています」というのはダンディだ。葉の裏が白く、花はまだ完全に開いてはいない。
 こういうものは調べないと何も分からない。ウィキペディアによれば、ミモザにはどうやら二つの意味がある。原義は、「マメ科オジギソウ属の植物の総称(オジギソウ属のラテン語名およびそれに由来する学名がMimosa)」のことである。 もうひとつは次のようなものである。

フサアカシア、ギンヨウアカシアなどのマメ科アカシア属花卉の俗称。イギリスで、南フランスから輸入されるフサアカシアの切花を"mimosa"と呼んだ事から。アカシア属の葉は、オジギソウ属の葉によく似るが、触れても動かない。しかし花はオジギソウ属の花と類似したポンポン状の形態であることから誤用された。今日の日本ではこの用例がむしろ主流である。鮮やかな黄色で、ふわふわしたこれらのアカシアの花のイメージから、ミモザサラダや後述のカクテルの名がつけられている。

 清澄公園の外側を通る。「清澄庭園はもともとこの辺りまで広がっていたんだよ」本邦セメント発祥の地で浅野総一郎の像を見る。浅野セメント、現在は太平洋セメントの中央研究所になっている。

此地ハ元仙台藩ノ蔵屋敷跡ニシテ明治五年大蔵省土木寮ニ於テ始メテセメント製造所ヲ建設セリ。

 そうか、この南側を流れるのは仙台堀である。仙台藩蔵屋敷に因むのが当たり前のことだった。その官営工場の払い下げを受けたのが浅野総一郎であった。「本邦初って言ったって、場末だからこんな工場ができたんだろう」モリオが言う。明治になっても、深川のこの辺は場末だったに違いない。しかし隣にある読売新聞の大きなビルは何故だろう。
 安政の大地震、関東大震災。大規模な地震が起こればこの辺りは壊滅的な打撃を受けた。そもそも海を埋め立てた土地で、地盤は軟弱である。マンション群も見られるが、私はこんなところに住みたくない。この意見には美女も賛成する。
 地震の話題が出たので、唐突だが連想することがある。元禄十六年十一月二十三日、房総半島南端を震源地とする、マグニチュード八・一と推定される地震が襲ってくる。江戸市内の被害はそれほどでもなかったが、日本橋を中心に一メートルの津波があった。特に房総、相模に甚大な被害を齎し、小田原城下は壊滅的な打撃を受けた。庶人は、この年二月に切腹した赤穂浪士の恨みによるものと噂した。
 ここから隅田側の方に進路を取ると「かみのはし」である。住所表示は佐賀町。「この辺は空襲に遭わなかったんだ」だから大正時代の古い建物が残っているのだと、講釈師が説明する。確かに、コンクリート二階建ての古めかしい建物が残っている。道路の向こう側を見て、宗匠が「ミモザが咲いている」と声を出す。さっき見たのはまだ花開いていない蕾の状態だったが、向こうに見えるのは、黄色い花が満開に咲いているようだ。
 ビルの前に「赤穂義士休息の地」の黒い御影石の大きな碑が立つ。江東区佐賀一丁目。「義士なんですね」美女はこの表現に不満だ。「義士」という言葉には価値判断が含まれる。野口もこの言葉を避けて「浪士」と言う。

赤穂義士休息の地
 赤穂四十七士の一人大高五子葉は俳人としても有名でありますが、ちくま味噌初代竹口作兵衛木浄とは其角の門下として俳界の友でありました。
 元禄十五年十二月十四日討入本懐を遂げた義士達が、永代橋へ差し掛るや、あたかも当所乳熊屋味噌店上棟の日に当り、作兵衛は一同を店に招き入れ甘酒粥を振る舞い労を犒らったのであります。大高源五は棟木に由来を認め、又看板を書き残し泉岳寺へ引き上げて行ったのであります。
 昭和三十八年二月
  ちくま味噌十六代   竹口作兵衛識

 味噌屋の主人が其角門下で大高源吾と同門であったという縁によるのだそうだ。子葉は源吾の俳号で、両国橋袂に「日の恩や忽ちくたく厚氷」句碑が立っている。今日の九人は見ているはずだ。宗匠と美女は悔しい思いをしている。ただ源吾が其角と親しかったのは確からしいが、門下であったかは定かでない
 「味噌汁っていう説もあるよ」と講釈師は主張する。私だったら甘酒より味噌汁のほうが良い。そんなことは良いが、上杉方の襲撃があるかも知れない忙しいとき、棟木に由来を認めるような余裕があったのかどうか。講釈師は自分だけ読むとさっさと出発してしまう。後になって胡桃沢さんが「あそこは何だったの」と聞くと、「書いてあったじゃないか、味噌屋だよ。何も読んでないんだな」と叱り飛ばす。「だって読む前に出発しちゃうんだもの」これは講釈師が理不尽である。
 この味噌屋は今でも別の場所で立派に営業している。そのホームページによれば、「ちくま」の商号は、伊勢国乳熊郷(ちくま)郷(現在の三重県松阪市中万町)に由来している。昆布だし味噌が評判になったようだ。歌舞伎に詳しいダンディなら知っているだろうか。『四千両小判梅葉』の中に、「道理で味がいい。味噌はちくまにかぎるのう」と言う台詞があるそうです。
 「何人かはここで町駕籠を手配して乗っていった」原惣右衛門と神埼与五郎は、吉良邸の長屋門を越えるとき、屋根瓦に積もった雪で滑り落ちて足を挫いていたから、当然駕籠に乗り込んだと思われる。
 とにかく今日のリーダーは足が速い。サッチーだけはピタリとその脇についていくが、そのほかは遅れがちになり、運がよければ信号待ちの間にやっと先頭に追いつく有様だ。遅れて到着すると「足の弱い奴は置いて行くんだ」と怖い顔をする。「そんな奴は誘わないよ」「誘ったのはあなたでしょう」と宗匠が小さな声で反論する。
 永代橋から隅田川を渡り、江戸府内に入る。鍛冶橋通りを歩くと、ビルの前に仲良く寄り添う道祖神の石がある。
 高橋の上から向こうの橋を眺めて、「あの辺に安兵衛、堀部になる前の中山安兵衛が住んでいた」と講釈師が教えてくれる。何でも知っている人だ。この橋の袂にはJR八丁堀駅の入口がある。「こんなところにJRの駅があるんですか」「京葉線です」川には、舫い船が数艘浮かんでいる。

高橋は亀島川に架かり、鍛治橋通りで八丁堀と新川を結ぶ。地区では古くから記録に残っている橋。江戸城と深川を結ぶ道であったと思われる。船舶の出入りが激しかったので、橋台の高い橋、つまり高橋という
http://homepage2.nifty.com/makibuchi-2/kyodoshi/rekisi_map/rekisi_map_kaisetu02.ht

   次は鉄砲洲稲荷神社だ。港区湊一―六―七。

鐵砲洲の名の由来には、堀岸と海に挟まれた埋立地の形状が種子島に似ていた。また、寛永十二年(一六三五)に、大筒をつくって幕府に納めていた井上氏、鉄砲方をして仕えていた稲富氏が大筒や鉄砲の試し撃ちをした場所。海岸に沿って鉄砲のような形の町に見えた等の諸説がある。(鉄砲洲の黎明)
http://teppozujinja.or.jp/jinja/reimei.shtml

 神社の由緒はこうである。

鐵砲洲稲荷神社の「生成太神(いなりのおおかみ)」は、一五五四年に始まる足利義輝の治世に形成された京橋地区一帯の土地生成の産土神(うぶすなのかみ)である。
 それよりさかのぼる八四一年、平安時代初期に、この地の住民が、うち続く凶作に教えられるところがあって、自らの産土の国魂神を祀り、万有の命を生かし成したまえる大御親神生成の大神として感謝し、日々の御守護を祈願したものである。
 その後、埋立てが進み、現在の京橋あたりに御遷座になり、さらに一五二〇年代末に氏子崇敬者の願いによって、新しい海岸であった今の新京橋へ遷座し、八町堀稲荷神社と称した。室町時代の末期であった。
 徳川幕府が開かれ、いよいよ埋立てが進み、寛永元年一六二四年、これまた氏子崇敬者の願いによってこの鐵砲洲に生成太神を御遷座申し上げ、それまであった八幡神社を摂社として今日の鐵砲洲稲荷神社の基礎を築いた。たび重なる海側への御遷座は、そもそも御鎮座の地に湊があったからである。
 江戸時代に至っては、米塩酒薪炭を初めほとんどの消費物資は鐵砲洲の湊へ入ってきた。このため、鐵砲洲生成太神の名は船乗人の海上守護の神として全国に広まり、今なお、冬至開運祈願祭に授与する「金銀富貴」の神礼は日本中の人々から拝戴されているのである。(鐵砲洲稲荷神社御由緒)

 明石町に入り、聖路加病院を回り込むと「浅野内匠頭邸跡」の標柱が立っている。聖路加病院と河岸一帯を含む八千九百坪の土地が浅野家上屋敷であった。「当時は竹矢来で囲まれて入ることもできなかったんだ。内蔵助ははらはらと涙を流して」「どこで見てたの」「俺は野次馬の中に紛れ込んで見てた」
 五メートルも離れていないところに芥川龍之介生誕の地碑。
 そろそろ腹が減ってきた。築地本願寺には北門から入る。「リーダー、裏口ですよ」今日のリーダーは一切聞く耳を持っていない。ここでは間新六の供養塔を見るだけだ。この男だけが本願寺に葬られた。なぜかは分からない。浄土真宗の熱心な信者であったため泉岳寺(曹洞宗)ではいけなかったのだろうかとも考えてみる。親鸞の絶対他力を信仰していれば、自力の禅は別物ですからね。帰真釈宗貞信士。
 昼食のために講釈師が最初に連れて行った本願寺のレストランは休み。外に出て「更生庵」という蕎麦屋に入る。蕎麦の事なら講釈師に任せておけばよい。しかし十五人が一度に入った店ではパニック状態に陥った。注文を受ける女性の声が裏返って、やたら甲高い声で注文を聞く。
 住職は何を思ったか、「上天丼」千九百五十円也を注文している。それに引き連られて宗匠は「並天丼」千三百五十円を注文した。どう違うか。「上」は海老が一本多い。味噌汁ではなく澄まし汁である。漬物が、並みは白菜の浅漬けだけだが、「上」になると沢庵、柴漬け、胡瓜が加わるのだ。

上天丼違いは箸も袋入り 《快歩》

 私は、鮪丼に蕎麦のセットで千百円也。「コストパフォーマンスが良いじゃない」並天丼に千三百円も使って後悔した宗匠が愚痴を言う。「せいぜい千円くらいかと思ってたんだ」天麩羅は注文を聞いてから揚げるようで、一番遅れる。最後になったのがダンディと長老の天麩羅蕎麦だった。
 この店では、土曜日に千円以上使った人には特製の「おこし」が提供される。「土曜日は客が来ないんだ」土曜日のこの時間、店にとっては特需に出会ったようで、全員にこれをくれた。千円未満の人もいたのだが、住職の「上天」が効いたのだ。七百五十円のザル蕎麦を食べた若井夫婦が住職に礼を言う。
 「これからは急いでよ。ぐずぐずしていると間に合わなくなっちゃう。」上杉方の襲撃も心配しなければならないから、講釈師は忙しい。

 晴海通りを行けば、歌舞伎座は浅野大学の屋敷跡である。外桜田の上杉家屋敷からは直線一キロほどしか離れていない。浅野本家お預けの後、綱吉死後の大赦で許され、わずか五百石に落とされたとは言いながら浅野家の血脈は続いた。それに引き替え吉良家は不幸であった。
 元禄十六年二月四日、四家へ赤穂浪士への沙汰を伝える上使が派遣された同じ日に、吉良左兵衛は領地召し上げ、信州高島藩諏訪安芸守へお預けの命令を受けた。理由は「浅野内匠頭家来共、上野介を討ち候節、左兵衛仕方不届きに付」というものである。これは気の毒ではないか。いきなり押し込み強盗に襲われた被害者が、抵抗が弱かったために処罰されるのである。
 髭を剃るのも許されない軟禁状態のまま日を送り、宝永三年(一七〇六)一月二十日、左兵衛は二十三歳で死んだ。断絶した吉良家に引き取り手はなく、上杉家からも何の動きもなかったため、地元の法華寺に埋葬された。
 昭和通りに入ると、歩道橋の下に「建物の礎石(汐留遺跡)というプレートが嵌め込まれた石が置かれている。仙台藩伊達家上屋敷の御殿土台の石だそうだ。
 「汽笛一声新橋だよ」講釈師が一言だけ言ってもう歩いて行く。ちょっと待って欲しい。旧新橋停車場跡地で、これはその駅玄関を復元した建物であった。私たちが写真を撮っていると、「この建物は何ですか」と聞いてくる人がいる。

・駅舎等の本物は現存しませんが、外観については、当時の鮮明な写真、駅舎基礎など信頼性の高い資料が残っており、これを基に可能な限り正確に、本物が存在した「場所」の上に当時の「外観」を再現しました。
・史跡となっている駅舎の基礎石から正確に寸法を計測し、当時の鮮明な写真等から平面・立面的な規模、窓の大きさ及び外壁材の寸法等を算出しました。(東日本鉄道文化財団)

 ところで、『鉄道唱歌』は全五集、三百三十四番にも上るって知ってましたか。第一集「東海道篇」だけでも六十六番まであるのです。全部歌える人なんかいるんだろうか。「泉岳寺の線香が見えたのかな」そんな歌詞はないけれど。
 この辺りは元の汐留駅を再開発したところで、やたらに高層ビルが建っていて、慣れていないもだから道筋が良く分からない。日本テレビのところには仙台藩上屋敷表門跡の説明板が設置されている。赤穂浪士はここで粥のもてなしを受けたというのである。仙台名産の糒(干し飯)を湯で溶いたものだ。
 今日の講釈師はひたすら前を目指して歩いて行く。「今日は口数が少ないよ」と住職が笑う。「ストレスがたまってるんじゃないの」「私なんか怒られちゃって口も利いてくれないの」「ロダンがいないからでしょう」口喧嘩の相手がいないから、そのストレスがたまるのではないか。風もない穏やかな日で、しかも歩く速度が速いから、碁聖はジャンバーを脱いでしまっている。大橋さんも「早すぎる」とややおかんむりだ。私は最近、悟りを開いてしまったので怒ることはない。
 田村右京大夫屋敷跡は素っ飛ばした。右京大夫は陸奥一関藩、仙台伊達藩の支藩である。
 先頭からはずいぶん離れたところで、この辺で住職の足どりが重くなった。私でさえちょっと早すぎるのではないかと思うほどだから、住職にはちょっときついだろう。ダンディ、美女、橋口さんが一緒に、地下鉄で泉岳寺に向かうことにした。
 三菱自動車の前には、勝海舟、西郷南州会見の地の丸い石碑が建っている。水野監物屋敷跡は慶応通り商店街を入り、居酒屋や小料理屋がひしめく狭い路地の一角にある。その説明版の横で枝垂れ梅が一本花をつけている。商売でしょっちゅうこの辺を歩いているはずのモリオが「知らなかった」というように、これは知っているひとでなければ気づかないだろう。
 細川越中守(熊本藩)が内蔵助以下十七人、松平隠岐守(松山藩久松家)が大石主税以下十人、毛利甲斐守(長府藩)が岡嶋八十右衛門以下十人、この水野監物(岡崎藩)は間十次郎以下九人を預けられた。

「アル書ニノス。此時御預リ四家ノ優劣ヲ詠ゼシ歌アリ云、細川ノ水野ナガレノ清ケレドただ大甲斐ノ隠岐ゾ濁レル」―― 落首の絵解きをしてもあまり芸がないが、細川家も水野家(自藩)も評判がよいが、ただ大海の沖――毛利家の甲斐守と久松松平家の隠岐守の評判が悪かったという大意である。(野口武彦『忠臣蔵』)

 しかし、この落首を採録したのは水野家の記録だから、自藩に都合の良いよう適当に改竄している可能性がある。ただ、別の落首からも、細川家の待遇の良さに比べて、水野以外の二家はかなり評判が悪かったことが分かる。水野家は、良くも悪くもない、まず無難な対応をしたのだろう。
 ここで美女から連絡が入った。「今どこですか」「田町を過ぎて、ちょうど札の辻の交差点です」「ずいぶん早いですね」「脇目も振らずに歩いています」地下鉄利用組はいま泉岳寺に到着したところらしい。
 札の辻は「指名手配の似顔絵を張り出したところだ」と講釈師が適当なことを言う。お触れ、法令を張り出した高札があったのである。鈴ケ森の刑場が出来る前は、このあたりに刑場があったらしい。すぐそこに元和切支丹殉難碑があるが、今日は余計な場所には寄らないのだ。元和九年(一六二三)、原主水ら五十余人が火刑に処せられた。
 次は御田八幡神社だ(港区三田三―七―一六)。鳥居の向こうには石段が続いているが、私たちは登らない。講釈師によれば、この神社の前で高田郡兵衛が祝い酒を用意して待っていたという。ホントかね。仮にそうだとすれば、情報が事前に洩れていたことになる。
 神社由来によれば、和銅二年(七〇九年)、東国鎮護の神として牟佐志国牧岡の地に祀られたのに始まる。寛弘七年(一〇一一)、武蔵国御田郷久保三田に遷座し、嵯峨源氏渡辺一党の氏神として尊崇された。延喜式神名帳には「武蔵国荏原郡 稗田神社(ひえだじんじゃ)」として記載されている。徳川家康の江戸城入城の際に奇瑞があったことから、現在地である荏原郡上高輪村海岸を開拓して社殿を造営し、寛文二年(一六六二年)八月に遷座が行われた。(ウィキペディア「御田八幡神社」より)
 国道を挟んでちょうどその向いに何やら怪しげな銅像らしきものが見える。「あれ、何だい」「笹川だよ」モリオは昔営業でこの辺を歩き回っていたのでよく知っている。笹川記念会館(港区三田三丁目)だ。五十九歳の笹川が、八十二歳の母親を背負って金比羅さんの石段を登った姿であるという。全国の競艇関係の施設には同じものがいくつも立っているらしい。一日一善おじさんで有名になったが、大陸ではどれだけ悪いことをやったか分からない。

 孝行の虚像の上に冬日さし  眞人

 高輪の大木戸跡の石垣も、講釈師は知らん顔で通り過ぎるが、宗匠は初めて見るようだった。伊能忠敬が全国測量の基点としたとされている。

東海道から江戸府内の入り口として、宝永七年(一七一〇) 札の辻から移して高札場と大木戸を設けた。両脇に長さ五間(九メートル)、幅四間(七・二メートル)、高さ一丈(十尺=三メートル)の石垣を築き、間に柵と門がついた街道警備の要崖である。
http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/tam/tama/meg/m017/m017t.htm

 ダンディの事前の調査で、泉岳寺駅のそばに「さくら水産」があると聞いていたから、あたりを見回して見る。「俺はこの辺よく歩いているが、あったかな」モリオは疑る。しかし確かにあったのだ。ダンディの調査は行き届いている。今日はこれで安心だ。
 やっと泉岳寺に到着したのは三時をちょっと回った頃である。「意外に早かったね、四時過ぎるかと思ってた」と宗匠。「なにしろ後半は脇目も振らずに歩いたからね」しかし赤穂浪士はおよそ三時間で到着している。私たちのように寄り道をしなかったとはいえ、二時間にも及ぶ戦闘の後の三里である。かなり早い。ちなみに、『平成お徒歩日記」の宮部隊は、十一時に回向院を出発して泉岳寺に着いたのは五時半過ぎであった。
 さて、先陣組はどこにいるだろう。携帯電話を取り出したときにダンディの呼ぶ声が聞こえた。四人は甘酒屋でゆっくり休憩を取っていたのだ。酒の飲めない住職はもう真っ赤な顔をしている。

さて、泉岳寺は慶長十七年(一六一二)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院です。(現在のホテルオークラの近く)しかしながら寛永十八年(一六四一)の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転してきました。時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ、高輪に移転した泉岳寺は出来上がったのです。浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。
 一般的には赤穂義士のお墓があることで有名ですが、創建時より七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶二百名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三か寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていました。(泉岳寺HP)

 中門を潜ると山門右脇に、着流し姿で連判状を手にした内蔵助の像が建っている。「昔はなかったわよね」「初めて見ます」という声が聞こえてくる。泉岳寺のHPを見れば、大正十年十二月十四日に除幕式を行ったと書いてある。別の場所に建っていたのだろうか。
 「主税の梅」には白い花が咲いている。この梅の木の下で主税などが切腹したのだそうだ。移植したものである。「遥池梅」というのは、遥泉院が堀部妙海尼に与えた鉢植えの梅を移植したものである。紅梅、白梅がそれぞれに花を開いていて美しい。

泉岳寺匂ひをこせる梅の花 《快歩》
梅の花三里の道を駆け抜けて  眞人

 浅野内匠頭、遥泉院、内蔵助、主税はそれぞれ独立して立っているが、それ以外は、墓所の周辺に綺麗に並んで葬られている。戒名の頭には全て「刃」の文字が記されている。 「この端の墓は、刃の字体が少し違うだろう、後から追加されたんだよ」講釈師の説明だが、どう字体が違うのか区別がよく分からない。

赤穂義士は元禄十六年(一七〇三年)二月四日に切腹した後、直ちにこの地に埋葬されました。ただし間新六の遺体は遺族が引き取っていきました。また寺坂吉右衛門は本懐成就後、瑶泉院など関係者に討ち入りを報告して廻り、のち江戸に戻って自首しましたが赦され、麻布・曹渓寺で八十三才の天寿を全うしました。現在も曹渓寺に眠っています。泉岳寺にある間新六の供養墓は他の義士の墓と一緒に建立されましたが、寺坂の墓は慶応四年(明治元年・一八六八年)六月に供養のために建てられたものです。また、いわゆる四十七士の他に、本人は討ち入りを熱望したものの周囲の反対に遭い討ち入り前に切腹した萱野三平の供養墓があります。(明和四年(一七六七年)九月建立)
したがって泉岳寺の墓碑は四十八あります。(泉岳寺HP)

 「お棺をどうやって埋めたんですか。当時は土葬でしょう」碁聖がリーダーに質問している。寝棺ではなく座棺だとしても、これだけ整然とならべるのはスペース的に無理があるのではないかという疑問である。それに、以前ここに来たことのある人たちによれば、昔はもっと狭い場所だったという。それならば新しく改葬したのである。内蔵助や主税は屋根のある立派な場所だが、それ以外は適当にごちゃ混ぜにしたんじゃないだろうか。
 「ぞくぞくしてきちゃった」橋口さんは霊感が強いのである。小塚原でもそうだったが、霊なんてものを見たことも触ったこともない鈍感な私は、全く何も感じない。
 天野屋利兵衛の墓もある。「天野屋利兵衛は男でござる」講釈師はお得意の見得を切るが、まずこれは眉唾であろう。

天野屋利兵衛は、赤穂藩お出入りの大阪商人で、商人ながら義に厚く、吉良邸討ち入りの支援をしたと伝わる人物。実在の人物だが、赤穂藩とのつながりは確認されていない。名は直之(なおゆき)。
元禄時代の大阪の商人に天野屋利兵衛は確かに存在している。しかし天野屋がお出入りになっていたのは熊本藩細川家と岡山藩池田家の大阪屋敷だけである。元禄三年の「平野町宗旨改帳」に天野屋利兵衛は北組惣年寄となっているのが確認できる。また元禄七年には天野屋の通しの称である九郎兵衛を襲名しており、これ以降は天野屋利兵衛ではなく天野屋九郎兵衛になっていた(元禄十四年の赤穂事件の際にも)。元禄八年になると遠慮を申し渡されており、このときに惣年寄も解任されたようだ。のちに松永土斎と称し、享保十八年(一七三三)八月六日に死去した。享年七十三。京都の昆陽山地蔵院(椿寺)に墓がある。(ウィキペディアより)

 記念館の前に、細い金属の棒を浪士の陣立てに見立てたものが作られている。「もう見物人が一杯で大変だった」浪士引き取りを命じられた四家からは、細川家七百五十人、松山藩久松松平家約三百人、長府毛利家から約二百人、水野家から百五十人、合計千四百人がひしめきあった。それに加えて野次馬の数である。さすがの講釈師でも良く見えなかったに違いない。
 ここに収められている浪士所縁の品は、ほとんどが「伝」とある。つまり真贋の判定がつかないものだ。四十七士木像も見たが、これは忙しい人は見なくても良い。
 高輪台中高等部との間の狭い路地(こんな所をよく知っている)を抜け、坂道を登る。上りきったところの道路脇に「川端玉章」という割に大きな石碑が居座っている。「これ調べておいてよ」講釈師の命令なので調べて見た。

川端 玉章(かわばた ぎょくしょう、天保十三年三月八日(一八四二年四月十八日)― 大正二年(一九一三年)二月十四日)は、日本画家。京の生まれ。蒔絵師左兵衛の子。本名・滝之助。
中島来章に学び、画論を小田海僊に学ぶ。一八六六年江戸に移り高橋由一に油絵を学ぶ。一八八二年第一回内国絵画共進会、一八八四年第二回で銅賞。一八八九年東京美術学校に円山派の教師として迎えられる。一八九六年帝室技芸員、一八九七年古社寺保存会委員、一八九八年日本美術院会員、文展開設以来審査員を務める。一九一〇年川端画学校を開設。(ウィキペディア「川端玉章」)

 左に曲がってすぐ、マンションの入口に「大石良雄等自刃ノ地」という大きな碑がたち、そこを抜ければ細川邸跡につく。以前来たときには、魚籃坂下からもっときつい坂を登ったので、こんなに近いとは思わなかった。浪士を遇すること最も手厚かった細川家である。塀で囲まれた小さな庭を覗き込むが、別に何が見える訳でもない。
 「それじゃ、もう一度泉岳寺に戻ります」同じ道を引き返す。「ロダンが来なかったから、あいつのためにお土産を買うんだ」やはり口喧嘩の相手がいないのが淋しかったのだ。私は妻のために(珍しいと冷やかす声が聞こえてくる)、火事装束に身を包んだハローキティの携帯ストラップをひとつ買う。「そこに四十七人いるだろう、俺は全部そろえたよ」私は店先にあるものを無造作に取ったのだが、店内にはちゃんとそれぞれ違うらしいキティがおいてある。そういえば、講釈師はストラップの収集も趣味にしていたのだった。
 「これで無事本懐を遂げることが出来ました。有難うございました」講釈師の挨拶で今日のコースは終了した。生き残りを賭けた過酷なゲームになるかと思われたが、全員が無事にゴールを迎えたのは何よりである。赤穂浪士だって駕篭に乗った者がいるのだから、地下鉄を利用したメンバーがいても、一向に差し支えない。宗匠の万歩計で二万三千歩。

 品川駅を目指すという若井夫妻、大橋さん、胡桃沢さんがここで別れ、残る十一人は甘味屋に入る。甘味(!)生まれて初めて入る店で、私が口にできるものがあるのかどうか。狭い敷地に無理やり作ったような店で、狭い螺旋階段を上って二階に上がり、椅子をひとつ出してもらって、なんとか全員が席についた。中年のアベックが餡蜜のようなものを食っているが、私たちの集団に恐れをなしたか、そそくさと出て行った。
 住職は講釈師に倣って葛餅を注文する。「何でも俺の真似するんだから」さて私は何を頼もうか。「トコロテンがあるよ」それしかない。「黒蜜ですか、生姜ですか」と聞かれても、黒蜜なんて思いもよらない。トコロテンは酢醤油に生姜と決まっている。あっちゃんと橋口さんは杏餡蜜である。「アンズの分だけ高いのよ」
 トコロテンが最も点数を獲得した。「無くなっちゃうんじゃないの」と長老が心配する。それは大丈夫だったが、器が揃っていない。久しぶりに食べたトコロテンはそれほど不味いものではないが、五百円払ってもう一度食べようとは思わない。
 「さくら水産」が待っている。行かねばならぬ、御放し下され梶川殿。誰も止めてはいない。今回は橋口さんが参加してくれて、男性四人、女性二人の会となった。私たちの本懐はここで遂げられるのだ。

眞人