番外 三の酉  平成二十年十一月二十九日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2008.12.7

原稿は縦書きになっております。
オリジナルの雰囲気でご覧になりたい方はこちらからダウンロードしてください。
   【書き下しオリジナルダウンロード】

 新宿三丁目。JR新宿駅から歩いてきて改札の辺りでウロウロしていると、隊長、サッチー、カズちゃんが現れた。「集合はどこでしょうかね」「そこに案内が出てるよ」隊長が見つけてくれたので階段を降り、同じような格好をした連中がうじゃうじゃ集まっている中に入り込んだ。こんなにいるのか。申込書兼地図を受け取って、隊長と同じ用紙に名前と電話番号を記入し、「最後尾」の札を掲げたところに並ぶ。通路の右半分はこの連中でいっぱいだ。漸く受付で申込書を渡し、ピンクのリボンを受け取ると、前方でダンディが待っている姿が見えた。
 九時集合の約束だがまだ少し時間がある。ダンディの話では、ノンちゃんは朝早いのが苦手だから来られないとのことで、それなら岳人を待つだけだ。「ほんとに来るかしら。おにぎりで頭が一杯だから、もう入谷に行っているんじゃないですか」「だけど連絡がないんだから来るでしょう。九時五分まで待ちましょう」
 今回のタイトルは「三の酉」である。それなのに私たちは何をしているかと言えば、東京メトロ主催の沿線ウォーキングという催しに参加するところなのだ。乃木坂の国立新美術館まで九・五キロを歩くコースだ。どこに三の酉があるのか。
 今日(旧暦では霜月二日)は鷲神社の三の酉。午後入谷に集まって、「金太郎」のおにぎりを食い、縁起の熊手を買いましょうというのが岳人の目論見だった。とにかく「金太郎」のおにぎりを食わなければいけない。しかしそれでは午前中がもったいないと、ダンディがこのメトロの会に参加することを提案した。かくて、この会は急遽「江戸歩き」番外編に昇格した。
 「もしかしたら三人だけになるかも知れない」とダンディは危ぶんでいたが、カズちゃんもサッチーも参加してくれたから賑やかになる。九時五分になっても岳人は現れない。コースの地図は持っている筈だからどこかで合流するだろうと、私たちは出発することにした。

 階段を二階分上がって外に出る。歩き始めてすぐ右手に花園神社があるので折角だから寄ってみる。恥ずかしいから言わなかったが、実は私は初めて来る。すぐそばまでは何度も来ているのに、花園神社だけはなんだか縁がなかった。鳥居を潜ると正面の拝殿の上には、提灯が縦六段、横は四十個位だろうか、ぎっしり並んでいる。正面左右の大提灯には「大鳥祭」と書かれている。酉の市である。熊手を売る店もあるが、まだ午前中早い時間だから屋台も少ない。
 ここでカズちゃんが岳人に連絡すると、受付でずっと待っていたとのことだ。もう外にでたからすぐに来るだろう、と言っているところに現れた。オーバーを着こんで毛糸の帽子を被った姿がダンディにからかわれる。「昨日、頭を刈ったんで寒くて仕方がないんですよ」ダンディは相変わらずジャケットひとつだけ、それに隊長も今日は洒落たジャケットを着こなしていて、いつもと様子が違う。
 花園神社は江戸開府以前から存在しており、内藤新宿が開かれた後はその総鎮守として祀られていた稲荷である。はじめは今の伊勢丹の辺にあったようだが、寛政年間、この地に移転した。尾張藩下屋敷の一部で花が咲き乱れていたことから、花園稲荷、あるいは四谷追分稲荷と呼ばれるようになったという。末社として境内に大鳥神社を祀っていたことから、明治になって酉の市が始まった。(花園神社HPより)
 岳人がいつものように丁寧に拝礼するのを見て、それから出発する。不信心な私は彼を見るといつも感心してしまう。

 靖国通りを渡り、新宿通りも横切って左に曲がる。新宿御苑の外側を回りこんで歩くことになる。「ここは信州高遠藩内藤家の屋敷地でした」ダンディがカズちゃんに東京案内を始める。同じく拝領地を割いて新しい宿場を作ったから内藤新宿である。公孫樹の落ち葉が黄色い絨緞になって心地よい。園内に入らなくても充分に紅葉が楽しめる。
 交差点のところで右の方に四谷大木戸と水道碑を眺め、「ここまでが江戸の府内、外側が内藤新宿です」と指を差す。「四谷大木戸なんて時代劇みたいね。鬼平とか」私たちの話を聞いていた老婦人(?)が二人で囁いている。私たちだけなら、ちょっと寄って確認するのだが、この会はただひたすら目的地を目指して歩くだけのようだ。
 歩道には無慮数万もの人が(大袈裟である)同じ方向に向かっているので、進行が遅い。なるべく人のいない側の歩道を歩こうかと思っても、要所々々に係員がいて誘導しているから、勝手に動くわけにもいかない。「このペースだと、どのくらいでしょうか」「三時間かかりますかね」入谷でノンちゃんと出会うためには、却ってちょうど良いかもしれない。
 創価学会の建物はどこでも大きい。野口英世記念館(新宿区大京町二六番地)にはちょっと入って見たかったが、学会のために入ることができない。普段は入館料五百円で、展示室に入ることができる。
 中央線を潜って、右に見える東京体育館に「貸切」の案内が張り出してある。「あんな大きな場所を貸切るなんて、どこが借りてるんでしょうか」「創価学会かな」
 国立競技場にやってくると嘉納治五郎の碑が立っている。「私は姿三四郎を思い出す」「三四郎のモデルは知ってますか」「西郷四郎でしょう、会津藩。私だって半分は会津の血が入っていますからね」そうであった。ダンディを単なる上方人と侮ってはいけない。ここに碑があるのは、オリンピック委員会の初代日本代表であり、体育協会の初代会長でもあるからだ。
 「確か実家は上方の造り酒屋でした」ダンディは実によく知っている。調べて見ると確かにそうで、治五郎の祖父の代まで、嘉納家は摂津国御影村(現在の東灘区)で酒造、廻船問屋として繁盛した家である。父治朗作は養子に入った人で、家督は祖父の実子に譲り、自分は廻船問屋を営んだ。
 「ボクは講道館に通ったことがあるんだ。三船十段にも会ったことがある」隊長の言葉に、「それじゃ、黒帯ですか」とダンディが慌てる。「いやあ、白帯です」「よかった。私も柔道やったけど投げられると痛いからやめてしまった」そこに「私は剣道三段ですよ」とサッチーが言い出した。彼女とは喧嘩しない方がよい。軽率に失礼なことを口走る講釈師なんか、特に注意が必要だ。

 日本青年館の建物を指さして「由緒あるんですよ」とダンディが注意を促す。「確か下村湖人の先生だったか」と私も記憶が甦る。調べて見るとやはり田澤義鋪である。大正十年、文部省の認可を受けて財団法人日本青年館が設立された。初代理事長は名目上近衛文麿をたてたが、田澤が理事の中心となって運営した。青年団のための会館である。私はずっと、青年団というと在郷軍人なんかと同じように、日本ファシズムに深く関わったかのように思っていたのだが、一度下村湖人のことを調べたついでに田澤を知って認識を改めた。
 青年団の本来の趣旨は、高等教育を受けることが出来ない青年のため、社会教育(だけでなく全人教育)を施すことにあった。下村湖人『次郎物語』で朝倉先生の友愛塾を支援する「田沼理事長」は田澤がモデルだ。橋川文三『昭和維新試論』は、開明派官僚のひとつの典型として田澤について項を立てている。大正から昭和初期の民間運動を理解するためには欠かせない人物である。田澤は明治十八年七月二十日、佐賀に生まれ、昭和十九年十一月二十四日に亡くなった。青年教育と政治教育そして選挙粛正に一生を捧げた。とりわけ青年団運動及び青年教育に尽力した活動が知られており、「青年団の父」と称された。

 田澤は青年団を「自然に発生した創立者なき団体」「郷土を同じくする青年の友愛の情を基盤とする共同生活の集団」と定義づけていた。また、青年教育について「画一主義や注入主義を払拭し、自由創造の精神をもって青年には自ら考えさせ、自ら修養させ向上させるべき」という持論があり、自己を磨き自己を成長させるのは、結局は自身による修養しかないという事を愛情を持って気づかせることが教育者の使命であるとした。(中略)
 田澤の青年教育論の根底にあったのは「全一論(思想)」と呼ばれる人生観であった。すなわち、人の人生は一個の人生でなく、祖先より子孫に伝承される「縦の永遠の命」であり、また家族・職場・地域ひいては国や民族といった「横の繋がり」の中で相互に影響しあい、ともに営んでいく人生であるという思想である。そして、個々の存在が充分に個性を発揮しつつ、その存在を立派に認められながら渾然たる全体の調和の中に立つとし、個性の充実こそが全体の充実に繋がり、ともに成長発展していくと考えていた。(ウィキペディア「田澤義鋪」より)

 しかし、近衛文麿の翼賛運動が始まれば、味噌もくそも一緒にさせられてしまう。『次郎物語』は、朝倉先生や田沼理事長がそうした翼賛体制に果敢無い抵抗を決意するところで中断した。現在でも青年団と言うものが存在するようなのだが、その意義はなんだろうか。単なる自民党の外郭団体に陥っているのではないかしら。

 神宮球場。「私もよく応援に来ましたよ。佐藤さんもそうでしょう」私は残念ながら野球の応援に来たことがない。「だって強かったのは、長島、杉浦、本屋敷の時代でしょう。俺の頃は全然」「強い、弱いじゃありませんよ。母校を応援する気持ちです」それはそうだが、実は私は野球にほとんど関心がないのだ。ラグビー場前を通り抜け青山通りに入る。
 青山通りから銀杏並木に入っていく。公孫樹は綺麗に色づいていて、歩く人から歓声が上がってくる。贅沢を言えばあと一週間と言うところだろうか。ほとんどが黄色一色と言ってよいが、やや青みがかった葉も少し残っている。「形がクリスマスツリーみたい」先端を細く刈り込んでいるから炎が燃え上がるような形に見える。
 車道にはみ出して写真を撮っていると、危ないから止めろと言いながらパトカーが走って行く。カズちゃんも携帯電話のカメラで撮影に余念がない。歩道は黄色に染まっている。やや滑りやすいが、端の方の低い植え込みの緑に黄色の葉が散っているのも楽しいし、それを覆い隠すようにふんわりと積もっているのも綺麗だ。ギンナンは余り見当たらない。「良かったわ。今日はこれだけでも来た甲斐があります」とカズちゃんが喜んでいる。
 銀杏並木の由来を説明する看板がたつ。並木の総本数は百四十六本、内雄木四十四、雌木百二本あるという。看板は平成二年十一月十二日に立てられている。

 この外苑の銀杏樹が、この世に実生えたのは、造園界の泰斗・折下吉延博士(外苑造成時の庭園主任技師・昭和四十一年八十一歳で没)が、新宿御苑に奉職中の明治四十一年(一九〇八)新宿御苑在来木の、銀杏樹から銀杏を採集し、これを種子として代々木の宮内省南豊島御料地内(現在の明治神宮内苑)の苗圃に蒔いたことによります。その後、苗圃の木々はすくすくと成長し、その数一六〇〇本にもなりました。
 外苑造苑に当り、この銀杏樹を採用することになり、既に樹高六メートル内外に成長していた、これら多数より候補樹を選抜し、更に並木として適格になるよう、年々樹形を整えてきたものを、大正十二年(一九二三)に植栽したものです。
 道路四条の並木と、途中西折して女子学習院正門(現秩父宮ラグビー場)に至る二条の並木も同時に植えられております。最高二十四メートル、目通り周り二メートル八十センチ、最低十七メートル、目通り周り一メートル八十センチのものを、樹高順に青山口より降り勾配に従って植えられております。絵画館を眺む見事な遠近法の活用です。

 説明を読み終わって気がつくと女性二人の姿が見えない。「どこに行っちゃったんでしょう」「迷子になったか」信号が青になって動き出した人混みの向こうで、サッチーが手を振るのが見えた。突き当りの広場には屋台店が立ち並んでいて、信号を渡って近づけば、二人は鯛焼きを手にしている。
 「コロッケがありますね」日本一旨いと称するコロッケである。今日の昼飯は少し遅めになりそうだから、ここで小腹に入れておくのも悪くない。私とダンディはコロッケを買い、隊長は女性に合わせて鯛焼きを買っている。「座って食べますか」「いいえ、歩きながらにしましょう」

 鯛焼や公孫樹落葉を踏みしめて  眞人

 權太原の信号から東へ進む。この坂は安鎮坂、付近に安鎮大権現の小社があったことに因むといわれる。歩いていると暑くなってくる。カズちゃんはジャンバーを脱ぎ、岳人もオーバーを大きなショルダーバッグにしまい込んだ。それにしても大きなバッグだ。
 右手に東宮御所の長い壁を見る。「当然、もとは大名屋敷だったんでしょうね」迎賓館も含めて広大な敷地は紀州藩上屋敷である。十四代将軍家茂はここで生まれた。赤坂プリンスホテルのところは中屋敷になる。
 左にはみなみもと町公園が広がり、江戸名所図絵の看板が立っている。江戸以前は一面に葦の生える沼沢地だったが、外堀工事の残土で埋め立て、町になったという。ここから坂は鮫河橋坂になる。湿地帯だった頃、赤坂溜池に流れ込む川が鮫川と呼ばれていた。
 「この先に学習院初等科があります」ダンディの言葉にカズちゃんが喜ぶ。「愛子さまが通ってるんですよね」
 「向こうに高く聳えているのはニューオオタニです」今日のダンディは、カズちゃんの東京案内を買ってでているのだ。右に大きく曲がっていくと、中に入ることはできないが、柵の外から迎賓館を見ることができる。「ヴェルサイユ宮殿を模したものです」ダンディの言葉をよそながら聞いていたらしい二人連れが、「ヴェルサイユだって」とささやいている。紀伊国坂は小泉八雲『むじな』(のっぺらぼうの話)の舞台である。
 カズちゃんは前を歩く人の間をすり抜けるように走りぬいて行く。そんなに急がなくても良いじゃありませんか。サッチーも早い。それに気付かず、すぐ前を歩いている女性の手に触れて隊長が声をかけた。怪しい男に手を触られたご婦人は憤然と睨み返す。「スミマセン、間違えました」カズちゃんと間違えたのだが、帽子もセーターも全然色が違う。「第一、背が違うじゃありませんか。よほど目が悪くなってますよ」とダンディが冷やかす。
 紀伊国坂から御用地に沿って曲がるところで、七人そろうのを待つ。そこから集団の列は曲がらずに真っ直ぐ弾正坂の方に歩いて行くが、左に九郎九坂を行けば豊川稲荷だ。それを教えると、カズちゃんは飛ぶように歩いて行く。「愛知県出身の人にはお馴染みでしょう」ダンディが言うので漸く気がついた。サッチーは地元の人だったのだ。
 門を潜り境内に入ると、巫女に「ここはお寺なのか神社なのか」と聞いている男がいるので、私はお節介にも「お寺である」と口を出してしまう。少しばかりの知識をひけらかすのは余り良い趣味ではないね。ここは荼吉尼天を本尊とする曹洞宗の寺院である。「いや、私はお参りするとき、拍手を打ったらよいのかどうか、気になるものだから」なかなか律儀なおじさんであった。
 カズちゃんには、もと大岡忠相の屋敷に祀られていたものであることを教える。さっきまっすぐ行ってしまった集団も、結局回りこんで境内に入ってきたようだ。
 青山通りを渡って「虎屋」の角から下って行く。「私は本郷の藤むらの羊羹のほうが旨いと思う」ダンディは甘いものも得意だからね。私はそういう方面には全く疎い。昔、関西に出張する時、虎屋の羊羹を土産に持参しないと機嫌が悪くなる役員が大阪にいたのを思い出した。
 この坂は薬研坂。擂り鉢のようにいったん下がってからまた上る。これが薬研の形を想像させた。江戸は坂の町である。何かで読んだ記憶があるのだが、地方から上京してタクシーの運転手になった者には、まず坂を覚えろという。大阪ならば川(あるいは橋)を覚えろという。坂を覚えるために、様々に名前を付けたのは江戸人の知恵だろう。
 この辺りは第十一回「赤坂編」で歩いたから私も地理感覚が残っている。ここを右に急な坂(三分坂)を下りて行けば、坂道の途中に雷電の墓のある封土寺があるが、今日の私たちはTBSの前を左に曲がる。
 赤坂サカス。「あかさかさか」その名前がおかしいとサッチーが笑う。私はこういう新しい街にまるで弱い。ウィキペディアでみると、桜を「咲かす」という意味と、坂がたくさんあるから、坂の複数形を意味しているという。またローマ字表記をして逆に読めば、サカ・サカ・サカになるのだそうだ。
 ついでにこんなことも知っておかなければならない。

 計画当初は「TBS赤坂五丁目再開発計画」と呼ばれていたもので、一九九四年にTBS放送センターへ本社演奏所が移転した後のTBS旧社屋跡地の再開発を目的に、土地所有者であるTBSとディベロッパーである三井不動産によって行われた計画である。二〇〇八年三月二十日にグランドオープンした。
 お台場のフジテレビ(レインボータウン)、汐留の日テレ(汐留シオサイト)、六本木のテレビ朝日(六本木ヒルズ)に続き、赤坂サカスが完成することで、在京民放キー局はテレビ東京を除きいずれも社屋移転時に放送局を中心とした「街」を作り、またそのいずれもが東京の新名所となっている。また、各局の移転・新築に関連した都市再開発事業としては唯一放送局主導で行われた計画であり、一九九一年のTBS開局四十周年記念の一大プロジェクトは赤坂サカスの完成により実現を見た。(ウィキペディア「赤坂サカス」)

 ここにある六本木ヒルズもレインボータウンも汐留サイトも、私は足を踏み入れたことがない。要するに時代についていけない種類の人間なのだと思う。
 「TBSはこれで儲けたんですよ」この辺のテナントなら家賃は相当に高いだろう。従って料金も当然高い。TBSストアという店を見つけて岳人が入って行くので、カズちゃんもそれに続く。私も足を踏み入れては見たが、どうやら私には縁のない店だ。戻ってきた岳人が「『渡る世間に鬼はない』饅頭がありました」と報告してくれる。「それで買ったの」隊長が迫るが、さすがに買わなかったようだ。ここで暫し休憩をとる。樹木には電線が張り巡らされているから、夜になるとライトアップするのだろう。勿体ない。
 赤坂通りに出て、大部分の人は左側を歩いているが私たちは信号待ちのタイミング悪く、右を歩いて赤坂小学校前の信号を左に曲がる。
 檜町公園には長州藩中屋敷の跡地であることを説明する案内板が立っている。長州戦争の際に幕府に召し上げられたと書かれてあり、ダンディと顔を見合わせる。もうすぐ明治維新である。藩邸召し上げなんて言っている時代ではなかったのだが、まだ気が付いていない。
 東京ミッドタウンを見上げながら回り込んで歩く。サッチーとカズちゃんは二人で話しこみながら、どんどん先を行ってしまう。「折角、東京案内をするつもりだったのに」とダンディがぼやいている。芝生の向こうの方はビルを背景にして紅葉が美しい。歩道脇の植え込みには南天の赤い実がたくさん生っている。ツワブキの花は盛りを少し過ぎた。赤紫の躑躅が咲いているのには驚いてしまう。狂い咲きであろうか。
 ダンディと二人で写真を撮りながらゆっくり歩いていると、岳人からダンディに連絡が入った。私とダンディが最後尾で、女性二人は岳人たちの更にその先を行っているらしい。一本道だしみんなが同じコースを歩いているのだから、どこかで合流するだろう。
 暫くして信号を待っているところで合流した。「カズちゃん、南天の実見なかったでしょう」「気付かなかったわ」「ツワブキは。ツツジは」「見てない。だって話に夢中になっちゃって」

 実南天新しき街彩りて  眞人
 花も見ず何を急ぐか冬の道

 国立新美術館ではゴッホの展示会をやっている。建物を回りこんで、美術館の入り口がゴール地点だ。十二時ちょうど。九・五キロを正味二時間半ほどで歩いたことになるだろうか。「この距離だと、里山なら三時ころまでかかりますよね」だって、どこにも寄っていないのだ。今日のコースなら、少し道を外れたりしながらゆっくり見ておきたいところはいくつもある。
 ゴールで参加賞のボディタオルを受け取って、乃木坂駅に入る。入谷には霞ヶ関で千代田線に乗り換えなければならない。霞が関から入谷までは所要時間は二十二分と表示されている。十二時三十三分発ならば、ノンちゃんとの待ち合わせにちょうど間に合う。車両のどの辺に入ればちょうど良いのか。岳人は先頭の方が良いと考えたが、着いてみると違っていた。真ん中辺りから逆のホームに出なければいけないのであった。
 入谷駅の改札口でノンちゃんが待っていた。「岳人も歩いてきたの、偉いわね。新宿に九時集合なんて通勤みたい」と笑っている。出口では既に酉の市を目指すらしい人が、駅員の指示で右に曲がって行くが、「近道しましょうか」という岳人の言葉で私たちは左に曲がる。ノンちゃんは菩提寺がすぐそこにあって、だからこの近辺にはかなり詳しいようだ。
 鷲神社の正面に見える人波はそれほどでもなさそうだ。と思ったのは勘違いで、近づくと二重三重に並んでいるようで、右からやってくる人はいったん鳥居を左に通りすぎで、また戻ってくるようになっているらしい。「一の酉のときは平日だったから、こんなに混んではいなかった」とダンディが言う。

 さて、酉の市とは何であろうか。「関西にはありません」とダンディがいう。そういえば秋田にもなかったようだから、これは関東特有のものであろう。何しろ私は始めてこの神社にきたとき、ワシ神社だとばっかり思っていたのだから無学が知れる。ここは鷲神社、目黒には大鳥神社、また別に大鷲神社もあり、どの文字を書いても、オオトリと読む。ヤマトタケルの白鳥伝説を縁起にもっていて、それならば鷲宮神社もオオトリとは読まないが同じ系統に入る。
 ヤマトタケルの死んだ日が十一月の酉の日であったということらしい。(こんなことは日本書紀にも古事記にも書かれていないけれど)そのため十一月の酉の日に行われるから、二回、また年によっては三回開かれる。本来は旧暦で言うのだろうから、江戸の頃にはもっと寒い時期に開かれていたものだろう。

 酉の市の由来は、神道と仏教の双方から、それぞれ異なる解説がされる。
 神道の解説では、大酉祭の日に立った市を、酉の市の起源とする。大鳥神社(鷲神社)の祭神である日本武尊が、東征の戦勝祈願を鷲宮神社で行い、祝勝を花畑の大鷲神社の地で行った。これにちなみ、日本武尊が亡くなった日とされる十一月の酉の日(鷲宮神社では十二月の初酉の日)には大酉祭が行われる。また、浅草・鷲神社の社伝では、日本武尊が鷲神社に戦勝のお礼参りをしたのが十一月の酉の日であり、その際、社前の松に武具の熊手を立て掛けたことから、大酉祭を行い、熊手を縁起物とするとしている。
 仏教(浅草酉の寺・長国寺)の解説では、鷲妙見大菩薩の開帳日に立った市を酉の市の起源とする。一二六五年(文永二年)十一月の酉の日、日蓮宗の宗祖・日蓮上人が、上総国鷲巣(現・千葉県茂原市)の小早川家(現・大本山鷲山寺)に滞在の折、国家平穏を祈ったところ、金星が明るく輝きだし、鷲妙見大菩薩が現れ出た。これにちなみ、浅草の長国寺では、創建以来、十一月の酉の日に鷲山寺から鷲妙見大菩薩の出開帳が行われた。その後一七七一年(明和八年)長国寺に鷲妙見大菩薩が勧請され、十一月の酉の日に開帳されるようになった。(ウィキペディア「酉の市」)

 この説は二つとも怪しい。
 長沢利明『江戸東京歳時記』によれば、酉の市はもともと「鶏の市」であった可能性が高い。鶏は大鳥神の神聖な神使であり、これを奉納し、祭りが終われば浅草寺観音堂の前に放したという。また酉の市は純然たる江戸東京独自の祭りであって関西にはない。関西の十日戎が似ているが、熊手ではなく福笹を縁起ものにする。静岡県の三嶋大社の酉の市は江戸のものが齎されたものであろうと推測している。以下、すべて長沢の本による。
 さて江戸最初の酉の市は花又村(足立区花畑町)の大鷲神社で行われた。江戸の初期に始まったようだが詳しいことは分からない。もともとは農民相手の農具市で、文化文政期(一八〇四〜三〇)には、大小の熊手、芋八頭、笊、箒など、市で売られるものはすべて魔除け効果を信じられていたらしい。
 この市が浅草田圃の鷲神社に飛び火して、花又の大鷲神社を「本酉」、こちらの方は「新酉」と呼ばれた。明和から安永の頃から、浅草の「新酉」の方が盛んになった。新吉原を背景にして人の賑わいがはるかに多かったためだろう。
 熊手は主に埼玉県や足立区の職人の家で製造される。酉の市で売れ残ったものは、各地の神社の祭りで売り出され、特に大宮氷川神社の十二月十日の大湯祭には、東京中の熊手屋が集まるのだそうだ。

 人混みを横目で睨みながら「金太郎」に到着した。店の前では焼き鳥を焼き、おにぎりを売っていて、若い連中が忙しそうに手伝っている。「出没!アド街ック天国」(テレビ東京・十一月十五日放送)の案内にはこんな風に紹介されている。

「おにぎり金太郎」居酒屋。
気の利いたつまみでお酒も楽しめますが、もちろん締めは、ふわりと仕上がったホカホカのおにぎりで。また「酉の市」の日には、特別に「山菜おにぎり」を販売。さらに、ご縁があるようにと「五円入り大入り袋(※飲食をした方のみ)」をプレゼント。おにぎりが結ぶご縁があるかもしれません。

 「あらいらっしゃい。済みませんね、こんな小さな店に」女将は忙しそうで手も休めずにお愛想を言ってくれる。カウンター席は七つあるが、「座敷に上がって頂戴」の言葉で小上がりに上がる。狭いがちょうど七人が入れる。まずビールを三本頼む。
 大根を細く切った浅漬けが旨い。三本のビールはあっという間になくなり、追加は「その冷蔵庫から自分で取ってください」と声がかかる。冷蔵庫はちょうどサッチーの右に鎮座していて、開けるためには、彼女は顔をのけぞらせなければならない。
 ノンちゃんは小さなグラスに一杯飲んですでに目の周りが染まって色っぽい。「これしか飲めないのよ、詰まらないでしょう」詰まらなくない。

 小春日や薄くれなゐに頬を染め  眞人

 おでんも旨い。「ここに通うの分かるような気がする。家庭の味だものね」岳人期待のおにぎり(確かに山菜おにぎりだ)が山盛りの皿ででてきた。良縁を求める人は必ず食べなければいけない。私とダンディ以外は皆その資格、あるいは義務(?)がある。

金太郎の御握りが美味しいのは握る技術も有るでしょうが、それに加えママさんが食べる人のために気持ちを込めて握っているからでは無いでしょうか?
基本的に殆どが常連客なので注文をした客の顔を見ながら独身者には早く良縁が見つかると良いね、既婚者には家族仲良くしてね、健康に気を付けてねとか思いを込めて握ってくれているのだと思います。(岳人談)

 ビールは腹が膨れるだけだからお酒を冷で頼むと、「自分で申告してね」と一升瓶を渡されてしまった。その間にもモツ煮込み、つくね、ソーセージなど、おかみが適当に選んだものが出される。「ちょうど、お醤油かけないで食べてもらいたいお豆腐があるのよ」と出してくれたのは、ねっとりと質感のある、中身の濃い豆腐だ。塩も出してくれたが本当に醤油をかけなくても旨い。うれしくなった私は酒の追加が増え、それを見ていたダンディも岳人も酒に切り替える。隊長も飲み始め、その都度「一杯追加」「これで七杯目」と申告をしていたが、「面倒ですよ。全部飲んじゃいましょう」というダンディの言葉で、結局お酒一升まるごとということで決着をみた。
 途中、私はグラスをひっくり返してしまい、サッチーのジーンズに零してしまったところを、さっき貰ったボディタオルで一所懸命拭く。しかし、このタオルは全然水を吸わないから余り効果がない。「駄目だよ。そんなに触っちゃ」隊長の言葉で、私はわざとらしく彼女の太腿の辺りを拭ってみせる。隊長は悔しそうだ。もらった大入袋には、「平成二十年・三の酉・おにぎり金太郎」と書かれてあった。

 金太郎に別れを告げて、さて岳人は熊手を買わなければならない。しかしここはラビリンス。電灯に照らされて大きくて派手な熊手が無数に煌めいている。どの店が良いのかまるで見当がつかない。この雑踏の中で迷子にならないよう、私たちは高校生のように手を繋いで歩く。隊長はサッチーと、ダンディと岳人はノンちゃんと、私はカズちゃんと。「だけど、サッチーは手袋してるから詰まらない」隊長がぼやいている。

 人混みに手を繋ぎ合ふ酉の市  眞人

 これではあんまり面白くないので、酉の市を詠んだ句を探してみた。

 雑踏や熊手押しあふ酉の市   正岡子規(これ鷲神社境内に句碑がある)
 吉原ではぐれし人や酉の市   子規
 たかだかとあはれは三の酉の月   久保田万太郎
 ぬかるみに下駄とられけり酉の市  高橋淡路女

 あちこちで、シャンシャンとご祝儀の手締めを行っている。どういう基準で決めたのか、岳人はある店で熊手を買った。教科書どおりに「負けてよ」と言うのだが、おじさんは「この値段じゃな、もっと高いものならいいんだけど」とこちらの期待する返事をしてくれない。「負けてもらった分、ご祝儀で戻すんですから」と口を添え、やっと「それじゃ五百円」の返事をもらった。あんまり安すぎたのか、シャンシャンはしてくれなかった。それでも「今日はおにぎり食べたし、熊手も買ったし。もう本当に最高でしたよ」と喜んでいる。

 今日もうひとつの目的地は一葉記念館だ。「お酒飲んでる人は入っちゃいけないんじゃないの」とノンちゃん。ちょっと前の十一月二十三日は一葉の命日だ。少し遅れた供養と思えば許してくれるのではないか。飛不動にちょっと寄ってから記念館に入る。
 萩の舎の発会式で全員集合している写真の中で、一葉の右手が覗いていることに岳人が注意を促す。明治二十年二月二十一日の有名な写真で、何度も見ている筈なのに、私は忘れていた。注意力が散漫である。身丈に合わない着物のせいではないかと岳人は推理する。

 明治時代の中流以上の女性がキモノ姿で写真を撮るときには、袖のなかに手をおさめておくのがたしなみとされていたらしい。一葉といっしょにうつっている萩の舎塾の華族の令嬢たちもそのほとんどがこの「作法」を守っている。(前田愛『樋口一葉の世界』)

 岳人の言う通りで、この日、華族令嬢たちが華やかかに着飾っている中、一葉が着ていたのは、母親が知人から借りてきた「どんすの帯一筋、八丈のなへばみたる衣一重」の古着であった。このとき一葉は満で十五歳に満たない。

 いとどはづかしとはおもひ侍れど、此人々のあやにしきき給ひしよりは、わがふる衣こそ中々にたらちねの親の恵とそぞろにうれしかりき。

 この年の六月、父則義は警視庁の職を辞め、年末に長兄の泉太郎が死んだ。これから樋口家の貧窮が始まって行く。
 五歳から九歳まで住んだ本郷法真寺裏の「さくらぎの宿」、竜泉寺に移る前にいた本郷菊坂の狭い路地裏の写真。そしてここ竜泉寺の小さな二軒長屋の模型。駄菓子屋の隣に車屋が接している。下町に来るのは望まなかった一葉だが、山の手の住宅は値が高く、思うような家が見つからなかった。

 (明治二十六年七月)十七日 晴れ。家を下谷辺に尋ね、国子のしきりにつかれて行ことをいなめば母君と二人にて也、坂本通りにも二軒斗見たれど気に入けるもなし、行々て龍泉寺町と呼ぶ処に間口二間奥行六間斗なる家あり、左隣は酒屋なりければ其処に行きて諸事を聞く、雑作はなけれど店は六畳にて五畳と三畳の座敷あり、向きも南と北にして都合わるからず見ゆ、三円の敷金にて月壱円五十銭といふにいさゝかなれども庭もあり、其家のにはあらねどうらに木立どものいと多かるもよし、(後略)(につ記)

 二十日、本郷菊坂の家を引き払い、八月五日に下谷区役所で菓子小売の鑑札を受け、一葉は荒物雑貨駄菓子屋を始めた。しかし相変わらず本郷の質屋「伊勢屋」には毎月のように通わなければならない。子供相手の小商いは長く続かない。翌年三月の日記には移転の決意までの心の動きが書かれている。

 (前略)いでさらば分厘のあらそひに此一身をつながるゝべからず、去就は風の前の塵にひとし、心をいたむる箏かはと、此あきなひのみせをとぢんとす。
 国子はものにたえしのぶの気象とぼし、この分厘にいたくあきたる此とて、前後の慮なくやめにせばやとひたすらすゝむ、(中略)されども年比うり尽し、かり尽しぬる後の事とて、此みせをとぢぬるのち、何方より一銭の入金もあるまじきをおもへば、こゝに思慮はめぐらさゞるべからず(後略)(『塵中につ記』)

 そして五月には本郷丸山福町、銘酒屋や安待合のある色町に引っ越した。わずかに一年に満たない生活だったが、ここに住んだことで『たけくらべ』(二十八年一月から「文學界」に連載)が出来上がることになるのだ。そして二十九年十一月二十三日に没した。
 「もっと長生きしてたらどうだったでしょう。もっとすごい作品を書いたか、それとも駄目になったか」岳人が考えている。読者の願いとしては、もっと長生きしてほしかった。ただ、その後どんな作品が生まれたかは分からない。

 吉原神社にも寄ってみる。鳥居の提灯に灯が入っている。吉原遊郭に祀られていた五つの稲荷社を明治八年に合祀して、吉原神社と称した。新吉原ができる以前から千束村に祀られていた玄徳稲荷、遊郭の四隅を守護する明石稲荷・開運稲荷・榎本稲荷・九郎助(黒助)稲荷のことだ。関東大震災の後、現在地に移り、そのときに花園池(弁天池)あった吉原弁財天も合わせて祀ることになったのだ。
 小野照崎神社に辿りついた頃には、もうすっかり日が落ちている。確か富士塚があった筈だが私の勘違いだったろうか。しかしダンディが「ありますよ」と確認してくれた。記憶は間違っていなかった。暗くて良く見えない。この神社の祭神は小野篁である。

 小野篁公が御東下の際に上野照崎の地に安らぎを得て、居を構え、里人たちを親しく教育して上野殿と尊称され、御遺跡を留められたことから、篁公がご逝去された仁寿二年(八五二年)に地元の人々が渇仰して、小野照ア大明神と祀ったのが起源とされています。江戸時代に上野寛永寺を建立する為に、幕府から兼務していた坂本村の長左衛門稲荷神社(現在の鎮座地)に移るよう下命があり、遷祀されました。
 江戸末期に回向院より御配神である菅原道真命御手刻の尊像を遷祀し、江戸二十五社天神の一つとして尊崇されています。(小野照崎神社「御由緒」)

 因みに、「上野」の地名は、この篁が上野国の国司であったことに由来するとも言われている。上野国司として下向したというのは本当だろうか。いくつかネットで検索してみたが、そういう記事を発見できない。若い頃父親に伴われて陸奥に赴いたとことはあるようだが、それと混同されているのだろうか。また小野小町がその孫だったとも言われているが、じつはこれには確証がない。
 篁の歌が百人一首に採用されている。遣唐副使に任ぜられながら遣唐大使の藤原広嗣と喧嘩して乗船せず、嵯峨上皇の怒りを買って隠岐に流された時に詠んだ。

 わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ海人の釣舟

 鶯谷駅で女性たちと別れ、「ノンちゃんと一緒に帰りたい」というダンディの意見は無視して、男四人は来た道を少し戻って「和民」に入り込む。焼酎一本を空けた後、岳人は「金太郎の手伝いに行きます」と夜の街に消えていった。

眞人