番外 サザエさん一行世田谷を歩く編 平成二十一年二月二十一日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2009.2.27

原稿は縦書きになっております。
オリジナルの雰囲気でご覧になりたい方はこちらからダウンロードしてください。
   【書き下しオリジナルダウンロード】

 久しぶりに小田急線に乗って豪徳寺駅に着く。もう大方の人数が揃っていて、定刻には十七人が集まった。
 今日のリーダーはサザエさん(あっちゃん)である。和尚、ロダン、長老、岳人、碁聖、モリオ、ダンディ、ドクトル、講釈師、大橋さん、チョウコさん、胡桃沢さん、ハイジ(ノンちゃん改め)、橋口さん、三木さん、私。和尚とチョウコさんは本シリーズ初登場である。和尚は里山歩きのように、パイプ椅子を括りつけたリュックを背負っている。チョウコさんは遠野で河童と遊んでいた姫であって、和尚の弟子でもある。リーダー、橋口さん、三木さんが大きなマスクで顔を隠しているのは、毎年この時期恒例になっている。花粉症対策である。岳人は二三日前までインフルエンザで寝込んでいたというが大丈夫だろうか。
 会う早々、「講釈師に貰ったのはこれですよ」とロダンが携帯電話のストラップを嬉しそうに披露してくれる。先日来、楽しみにしていたのだ。山鹿流の陣太鼓を模したもので、前回の「赤穂浪士編」のお土産である。ところがロダンの電話にはもうひとつ、これも講釈師がくれたというストラップがぶら下がっている。二人は固い絆で結ばれていた。

 北風が冷たくなるという予報に反して風もほとんどなく、日差しは穏やかでちょうど良い散策日和だ。ところどころに招き猫を飾る商店街を抜け、世田谷線の脇を通って豪徳寺の山門に至る。左右に「大谿山」「豪徳寺」と書き分けた石造りの門の上には、立派な狛犬が鎮座している。
 「今日は中には入りません」とリーダーが宣言する。去年第十七回の岳人・ダンディ共催「豪徳寺・太子堂・駒場編」で、大抵の人は見ているからだ。ただし初めてのチョウコさんに、ここは井伊家の菩提寺であると説明しておきたい。「おおっ、そうなんですか」遠野の姫の感動は予想外に大きい。「井伊クンっていう友達がいるんです。彦根の出身で直系なんですけど、豪徳寺のことなんか聞いたことなかった」
 そこからすぐに世田谷城址公園に出る。戦国時代の世田谷吉良氏居城跡である。「空濠の跡が見られます」「そうか、これが空濠ですか」ロダンが感心していると、「当り前じゃないか。これが空濠でなくて何なんだよ」講釈師の今日の悪口が始まる。石垣なんかは最近になって補修したものだろうが、土塁や空濠の形は残っているようだ。美女は用意周到で、資料に基づいて説明する。「もっと詳しい説明するのかい」とドクトルがニヤニヤしながら私に聞いてくる。「それは作文で」と逃げた結果は以下である。

世田谷城は経堂台地から南に突き出た舌状台地上に占地し、城域の三方を取り囲む様に麓を烏山川が流れ天然の堀を成していた。
開発が進み旧態は詳らかでないが、豪徳寺付近に本丸を置き、現在の世田谷城址公園付近まで城域が拡がっていたものと考えられている。(ウィキペディア「世田谷城址」)

 烏山川も暗渠になっているから、今では地形の想像が難しい。吉良氏とは何であるか。通りに面した石碑には「世田谷吉良氏ハ三河吉良氏ヨリ岐レ奥州に居住(略)治家ニ至り上州飽海郡ニ移り」と記されている。いくつかの資料で若干記述が違っていて困ってしまうが、とりあえずウィキペディア「吉良氏」や「武家家伝」などを参照すると、ほぼこんな具合である。
 鎌倉時代初期の足利義氏(足利家三代)から足利宗家を継いだのは泰氏であるが、庶長子の長氏と、四男である義継から吉良氏が始まる。二人とも、三河国碧海郡吉良荘を本拠としたので吉良を名乗ったが、長氏の系統は古矢作川の西部に拠って西条吉良、義嗣の系統は東部に拠って東条吉良とも呼ばれた。西条吉良からは遥か後年、吉良上野介が出てくるし、足利康氏の子の国氏からは今川氏が始まる。しかし私たちの当面するのは東条吉良である。
 貞和六年(一三四五)、畠山国氏と共に吉良貞家が奥州管領に任命されたことから、東条吉良は奥州吉良氏と呼ばれるようになった。実際に奥州に住みついたかどうかは定かではない。南北朝時代には、奥州から常陸にかけて北畠親房、顕家親子が頑張っていたから、たいした活躍はできなかったのではないだろうか。当時幕府内は観応の擾乱(一三五〇〜一三五二)前夜であった。畠山国氏は尊氏・師直派で、吉良貞家は直義派であり、尊氏の勝利が確定すると奥州吉良氏の勢力は衰える。
 足利幕府が成立して後、関東公方の足利基氏がその危機を救う。基氏は京都の中央政権への対抗を画していたから、反尊氏派であった奥州吉良の力を必要としたものと考えられる。治家(義嗣から数えて五代目、貞家の孫?)が上野国碓氷郡飽間郷に領地を与えられ、関東公方の御一門として勢力を伸ばしていった。この治家が世田谷のこの地に居住したとするものもあるが、史料的には確認できていないようだ。
 確実に言えるのは、成高(治家から六代目)の時代になって武蔵国荏原郡世田谷に城を構えたことだ。また成高は反公方派(この頃、関東公方は鎌倉から古河へ脱出して古河公方となっている)の扇谷上杉持友の娘を娶って、関東管領上杉家の縁戚としても重要な位置を築いていく。

 戦国武将吉良成高としての側面を、太田道灌が文明十二年(1480)に高瀬民部少輔に与えた『太田道灌状』から知ることができる。それによれば、まず道灌は成高を「吉良殿様」と敬称をもって呼んでいる。続いて、「吉良殿様は江戸城に御籠城になって、御命令になっていたので、城下の軍勢はそれに従って数ケ度合戦を致して遂に勝利を得た」と記している。
 この合戦は、扇谷上杉氏と姻戚関係にある吉良成高が、扇谷上杉氏の重臣である道灌の有力な協力者として、江戸城内に在城して督戦に努めた。そして、勝利を得たことを道灌から感謝されたのである。これが、吉良氏が戦国武将として実戦に臨んだ最高のかつまた最後の記録である。これによって、武蔵の吉良氏が戦国大名として名実ともに繁栄し、東国群雄のなかにその名をとどめたのは、吉良成高の時代であったということになる。(「武家家伝・吉良氏」http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kira_k.html)

 しかし、北條氏が関東を制覇するとその支配下に入って、吉良氏の活躍の形跡はあまりない。小田原滅亡後は世田谷城も廃城となり、吉良頼久は天正十二年、上総国寺崎郷(千葉県長生郡)に所領を与えられた。その後、千四百二十石を領する高家としてなんとか命運を繋いでいくことになる。但し最初は蒔田を称し、赤穂事件で三河吉良家が断絶した後に吉良姓への復帰を認められた。蒔田を称したのは、成高の時代に武蔵國久良岐郡蒔田(現在の横浜市南区)も領有していたことによるらしい。
 徳川幕府には名門への憧れ(?)があったのではないだろうか。足利一門である吉良氏のほかにも、織田信長の子孫、滅びた守護大名や公家の末裔などを高家として採用している。ついでに名を上げておこう。(こういう余計なことまで首を突っ込むから作文が長くなる)
 吉良家はお馴染みの三河吉良と世田谷吉良がともに高家になった。有馬家(公家久我)、一色家(公家唐橋)、今川家(足利一門)、上杉家(清和源氏)、大沢家(藤原北家)、大友家(豊後、大友義澄の裔)、織田家、京極家(宇多源氏)、品川家(今川の傍流)、武田家(甲斐)、長沢家(藤原氏)、土岐家(美濃の守護大名の裔)、戸田家(公家六条)、中条(藤原北家)、畠山家(室町幕府三管領)、日野家(藤原北家)、前田家(菅原氏)、前田家(藤原北家)、宮原家(足利氏、古河公方の裔)、最上家(清和源氏)、由良家(清和源氏、自称新田)。これだけの数を一挙に採用したのではない。時代とともに増えていったものだ。(ウィキペディア「高家」より)
 もし「名門への憧れ」があったとすれば、例の家康賤民説がなんとなく現実味を帯びてくる。その当たりの詳しいことは、隆慶一郎『影武者家康』を読んでもらおう。
 家康の江戸城建築にあたっては、この城の石材も利用されたということである。「全国から取り寄せたんじゃないの」「近場で廃物利用と言うのもあるんじゃないか」私は適当にごまかしてしまう。

 狭い路地を歩くので地図を確認しようと出してみたものの、私の持っている『大きな字の地図で東京歩こう』には、この辺りは載っていない。世田谷は上北沢から三軒茶屋、柿の木坂の辺りまでが収録されていて、豪徳寺は範囲外である。この地図の出版社、人文社の感覚では「東京」ではないのだ。「世田谷村ですからね」ダンディが断言する。
 「御府内じゃないから番外編なんですよ」と美女も言うが、これまでだって江戸府内の外であっても、品川宿、板橋宿、千住宿など平気で本編を実行している。「番外編」の意味は、単に奇数月の例会ではないというだけの理由である。
 世田谷線を上町駅のところで横切り、歩いて行くとボロ市通り商店街という文字があちこちにひらめいている。ボロ市は天正六年(一五七八)、北條氏政が楽市を開いたのに始まるというから歴史は古い。世田谷城廃止によって城下町としての世田谷は衰亡していくが、近郊農村の市としての機能は江戸時代になっても続いてきた。

 楽市として世田谷宿に開かれた市は、徳川時代になって市町という名のもとに開かれていましたが、後に農家の作業着のつくろいや、わらじになえこむボロが安く売られるようになって、いつとはなしにボロ市の名が生まれました。ことにわらじをボロといっしょになうと何倍も丈夫になるというので、農民は争って買いました。大部分の農家にとって農閑期の夜なべのわらじ作りは、大切な現金収入の副業だったのです。
 明治中頃までの市の最盛期には、ボロ専門の店が十数件も出て、午前中にはほとんど売切れになったといいます。もちろんボロ市といってもボロを売る店ばかりではなく、農具、日曜雑貨などの店が、道の両側のところせましと並んでお客をよびこんでいました。
 大正の大震災以後、世田谷は急激に発達し、都市化されたため農家がだんだんと減りはじめ、昭和十二、三年頃には、市にボロを売る店がほとんどなくなりました。農家の需要が減ったためです。しかし出店数は八、九百店から多いときは二千店にもおよび、昭和のはじめ頃から見世物小屋や芝居小屋までかかりました。商品の売買と共に娯楽の対象でもあり、親戚、知人の旧交をあたためる時でもありました。
 しかし、近頃は交通量の増大と共に出店数も六、七百店に減り、場所もせばめられました。商品も農機具、古物などボロ市的な特徴あるものはほとんどなくなり、かわって食料品、玩具、装身具等が多く、ことに植木類が多く売られています。古着類がわずかにボロ市の名を保っているといえましょう。(東京商工会議所世田谷支部「世田谷のボロ市」)

 「その頃カタカナってことはないですよね。ボロって漢字でどう書くんですか」ロダンの疑問に「ランル」と答えたものの、私は字が書けない。「電子辞書は、あっ今日は宗匠がいない」しかしダンディの電子辞書がある。「襤褸です」「漢検一級なら書けるんじゃないですか」ああいうものは雑学クイズの一種だから、あまり信じないほうが良いというのは、私の負け惜しみだ。
 ボロ市は現在では毎年一月十五、十六日、十二月十五、十六日に開かれるのだそうだ。「何度も来ました」昔世田谷に住んでいた橋口さんが言う。相当な人出になるらしい。通りの向かいにある石碑を見つけてダンディが走って行った。文字を読んで「短歌です」と教えてくれるので私も道を渡って見に行く。

ボロ市に冬はまずしき道のしも桜小学に通ふ子らはも

 署名は読めなかった。ところが桜小学校を検索して見ると、この小学校の校歌の歌詞を北原白秋が補作していることが分かった。桜小学校ホームページには、その校歌の手書きの額の写真が掲載されていて、その末尾の「白秋書」の筆跡と似ている。だからもし間違っていたら申し訳ないが、取り敢えず、白秋作としておきたい。(宗匠が調べてくれて、確かに白秋の歌碑であることが確認できた)
 白秋は四十四歳から五十五歳までの十二年間、世田谷区内に在住していた。昭和三年四月、馬込(例の文士村です)から若林三丁目に移転してきたのが最初で、六年春には砧に引っ越しているから、ほぼ三年をこの近辺で過ごしたようだ。若林というのはもうちょっと東、松陰神社の方だから、旧居跡ということではない。ただ白秋歌碑であれば、もう少し何か説明があっても良いのではないかと思う。大した歌ではないという判断だろうか。下の句の「通ふ子らはも」がなんだか万葉風の出来損ないのようで、ぴったりしない気がするのは私の感度が鈍いか。

  白秋の歌碑知らぬげに梅の花  眞人

 そしてその向かいにあるのが世田谷代官屋敷跡だ。茅葺の門や中の建物は豪農の家屋敷の構えである。元文二年(一七三七)、七代目当主大場六兵衛盛政によって建て替えられたもので、大場氏の居宅で代官事務を取り扱っていたのだ。門には今でも大場氏の表札が掛かっている。門の中には受付のような小さなプレハブの建物があて、おじさんが所在なげにしているが、ここで料金が要るのではない。どうやら駐車場の管理人のようだ。
 寛永年間、彦根井伊家が関東での賄い料として二万石の加増を受けたとき、世田谷二十ケ村二千三百石もその中に含まれていた。代官である大場氏は、もと吉良家に仕えた豪農であって、井伊世田谷領の代官として起用され、合力米七十俵を受けた。つまり武士ではない。惣名主にでも相当する、在所の豪農だったのだと思われる。
 「代官っていうのは幕府が任命するんじゃないんですか」碁聖がびっくりしている。天領の場合はそうでしょう。しかしここは彦根井伊家の領地だから、国家公務員でなくても良い。
 ちなみに一俵を四斗とすれば、七十俵は石高にして二十八石程か。五公五民として計算すると、井伊家世田谷領の税収は千百五十石になる。税収総額のおよそ二・四パーセント程度で地方行政を委託したということか。江戸時代後期になれば、財政難でほとんど破算状態に陥った大名家や旗本家の多くは、財務管理を村や豪商に丸投げする事態を生じるようになる。井伊家の内証がどれほどだったか分からないが、少なくとも初期の段階ではそれほどの事態にはなっていないだろう。単に、吉良氏時代から続く地縁と資力を当てにしたのだと思われる。
 業務を受託しているからには、越後屋と結託して甘い汁を吸うなんて、あくどい仕業はできない。すぐに委託契約を解約されてしまうだろう。二十ケ村の支持もなくてはならない。
 「お代官様のお白州はどこにあるのかしら」確かに柵で小さく囲んだ白州跡は残っている。玉砂利は当時のものであるが、場所がここだったかどうかはよく分からないらしい。「ここに蓆を敷いてその上に正坐させるんだよ」講釈師が説明しているが、チョウコさんのように、大岡越前や遠山金四郎、江戸町奉行所のお白州を連想してはいけない。村内で発生した軽微な犯罪の初審は代官の役目のひとつである。
 十代当主弥十郎景運が天明の飢饉の復興に功績があって、大場氏はようやく士分に取り立てられる。

 建物の中には入れない。「この建物は国の重文化財になっています」とサザエさんが報告する。白梅の咲く庭を眺めながら、屋敷地に続いているは世田谷区立郷土資料館に入る。玄関前の片隅には地蔵尊、青面金剛、馬頭尊、庚申塔、大山道標が並び、足の折れた狐像も数匹まとめられている。区内各所から集められたものだろう。中に入ると二階が展示室になっている。入館料は無料だ。「偉い」とサザエさんは感動する。
 空襲の跡を赤で示した地図を見れば、東端の一部を除いて、世田谷区全域はほとんど空襲に遭っていない。「だから狭い道が残っているんだよ」講釈師は空襲についても知らないことがない。戦前、この辺りはほとんど畑や田圃で、その農道に面して家が建っていたのではないだろうか。今の狭い路地は当時の農道の跡だろう。
 「キリークって何かしら。バンって何」橋口さんと三木さんから声をかけられた。種子を彫った板碑が展示してあったのだ。これは宗匠のほうが詳しいのだが、彼は今日、来月予定の本編の下見に行っている。聞かれた以上答えなければならない。
 様々な仏を梵字一字で表したものを種子(しゅじ)と言う。真言、つまり呪言である。そしてキリークは阿弥陀如来を、バンは金剛界の大日如来を表す。キリークという説明とともに展示してあるのは「阿弥陀三尊種子」で、阿弥陀の下には小さく、勢至菩薩(サク)と観音菩薩(サ)が並んでいる。バンのほうは大日一尊種子板碑である。
 吉田松陰の肖像の前で、ダンディが「国士舘は松陰と関係があるんです。だから松陰神社のそばに建てた」と言う。それは知らなかったので早速調べてみた。もともと玄洋社の流れを汲む青年大民団が母体であって、松陰との直接の関係はないんじゃないか。大正六年に柴田徳次郎が私塾国士舘を起こしたときの設立趣意書に「大正維新の松蔭塾たる効果あらん」と書いてあるだけだ。

而して此の道場は大自力を孕むの契機たるを期す、陋隘僅かに膝を容るるの一小寺小屋たりと雖も、大正維新の松蔭塾たる効果あらん、一心足つて萬能始めて用ゆべし、我が道場の期する處は、心學なり活學なり、信念の交感なり、理を説いて理に堕せず、術を語つて術に溺れず、舌頭萬有を吐呑して方丈裏に風雲を捲かんとするに在り。(ウィキペディア「国士舘大学」より)

 大学自体のホームページにはこう書いてある。

創立者たちの狙いは、「国士舘設立趣旨」で謳(うた)われているように、吉田松陰の精神を範とし、日々の「実践」のなかから心身の鍛練と人格の陶冶をはかり、国家社会に貢献する智力と胆力を備えた人材を養成することにありました。

 ドクトルは世田谷城址を含む古い地形図がないかどうか、館員に尋ねているが、どうやらはっきりしたものはないようだ。江戸時代に既に分からなくなっていたのだろう。
 展示してある土器や考古学的な遺物には興味が湧かないので、みんなより早く外に出て煙草を吸っていると、橋口さんと三木さんが出てきてお煎餅をくれる。いつもいつも申し訳ないことである。館内のガラス窓からそれを見ていた連中も、お煎餅につられてやってくる。

 資料館で手に入れた「周辺施設めぐりマップ」を見ながら、桜新町に向かって南に歩く。そのマップでは、桜新町駅の南側にサザエさんが顔を出した家が描かれている。実は美女が企画した最初の目的は、長谷川町子美術館を中心としたサザエさんコースを歩くことだったのだが、あいにく今月は後半の半月ほどが休館日になっている。随分長い休館で、残念ながら当初の目的は中止になってしまったが、その最初の趣旨に敬意を表して、今日のリーダーをサザエさんと呼んでいる。
 ところで、サザエさんに関する書籍や情報ってこんなにあるのかと驚くほどだ。ちょっと調べれば磯野家の間取りも、登場人物の年齢から関係まで全て分かることになっている。サザエさんと現代日本社会の問題についても各種の論考があるが、ここでは触れない。
 磯野波平五十四歳、フネ四十八歳なんて知っていただろうか。「私たちの子供のころ、五十代の人って、みんなお爺さん、お婆さんに見えましたよね」私たちもその年齢になっているのだが、果たして今の子供たちはどう見ているだろう。
 それよりもっと衝撃的だったのは、カツオが生まれたのは昭和十三年だと言うことだった。講釈師、ダンディ、今日はいないが隊長も含めて同い年である。「それじゃ、カツオくんトリオじゃないの」とハイジが喜ぶ。言われてみれば、講釈師はカツオがそのまま大きくなったようでもある。今日に限っては、講釈師をカツオくんと呼んでしまいたい。
 ついでだからカツオ以外にも磯野一家の生年を調べてみた。波平は明治二十八年、フネは三十四年、サザエ大正十一年、マスオ大正六年、ワカメ昭和十七年、タラオ昭和二十一年(または二十二年)の生まれである。タラちゃんは団塊の世代のトップランナーだったのだ。彼らは昭和二十四年を最後に、年を取らないことに決めた。
 「タラちゃんも私たちより年上なの」そうなのだ。長谷川町子自身は大正九年生まれだから、ほぼサザエさんと同年代ということになる。
 この『サザエさん』方式を踏襲している『ちびまる子ちゃん』一家はどうであろう。『ちびまる子ちゃん』の祖父、友蔵は何歳であろうかと調べてみると、明治三十一年(一八九八)の生まれである。まる子が昭和四十年(一九六五)生まれで現在小学校三年生であるならば、テレビアニメの時代は昭和四十九年(一九七四)である。(私が入社した年だ)それならば友蔵は七十六歳ということだ。おばあちゃんは明治三十七年(一九〇四)の七十歳、父親ヒロシは昭和九年(一九三四)で四十歳である。こんな下らないことを調べてしまったが、なんだかおかしい。

 十七人もいると、どうしても列が長くなる。珍しく岳人が最後尾に位置しているのは、病み上がりだからだろうか。「リーダー、早いよ。長老なんか早過ぎるって怒っている」カツオくんの抗議には「そうですか、前回の赤穂浪士よりも早いですか」とサザエさんが応じる。長老は正直だから、にこにこしながら「前回の方が早かった」と笑う。
 左手にちょっと変わった建物が見えてきた。柵に「双子の給水塔」という看板が掛けられていて、「どこが双子なんだい」というドクトルの声が後ろの方から聞こえる。「ここからがよく見えます」サザエさんの声でみんなが集まってくる。狭い道で車の往来が頻繁だから気をつけなければならない。マンションの駐車場入り口で固まって見上げていると、駐車場に入ろうとする車が待っている。円筒形の煉瓦色の建物が二つ並んでいる。建物の上部のドームを、王冠をイメージしたように、照明器具が取り囲んでいる。「ライトアップするのかい」そんな無駄な経費は使わないのではないだろうか。
 もともとは渋谷へ水を供給する目的で作られたもので、第二号給水塔が大正十二年(一九二三)三月に、第一号給水塔が同じ十一月に建てられた。なぜか第二号の方が早いのだ。単なる歴史的な建造物ではなく、今でも現役で活躍している。だから正門は鍵で閉ざされ、その前の歩道にも侵入を禁止して鎖が張り巡らされている。ダンディの制止にもお構いなく、カツオくんはその鎖を跨いで、門の格子の間から写真を撮っている。

 水源は多摩川とし、当時の「東京府北多摩郡砧村字鎌田地先」の多摩川の川底に「集水埋渠)」という装置を構築して取水します。これは多摩川の川底を流れる伏流水(地下水)を採るしくみです。採った水は、同河畔の砧浄水場(現在の砧下浄水所)で濾過した後、ポンプで東京府荏原郡駒沢村字新町に設置した駒沢給水場内の給水塔に送られ、給水塔からは渋谷町の町内に自然流下で配水します。給水区域は渋谷町全域とし、給水量は一人一日最大約百十リットルになります。」
 ※ちなみに、計画給水人口は、第一期給水予定人口が十五万人、第二期給水予定人口が二十万人だったそうです。用途は水を貯めるためのものですが、外観は古典主義的な趣向を取り入れた装飾的なものです。
 周りの壁は鉄筋コンクリート製で、十二本のピラスター(付け柱)が給水塔の上部まで伸び、頂上部には直径五十三センチの薄紫色のグローブ(竣工当時はガラス製、現在はポリカーボネート製)が取り付けられています。この意匠が給水塔をして「丘上のクラウン」とハイカラに呼んだゆえんなのです。
 こうしたお洒落な塔を二基並べ、間をトラス橋で繋いでいます。外周には「清冽如鑑(セイレツカガミノゴトシ)」、「滾々不盡(コンコントシテツキズ)」などの銘文が埋め込まれていて、当時の関係者の思いがひしひしと伝わってきます。
 屋根は外からは見えませんが、平均十センチの厚さの鉄筋コンクリートで覆われ、塔の内部中央に六本の支柱を立てて、屋根を支持しています。さらにその上に和風の四阿(あずまや)を形どり、屋根を欧風のドーム状にふき上げたパーゴラを設置しています。塔にあたかも中世古城の面影を与えているのが実はこの塔頂のデザインで、ここにも単なる施設に対する関係者の思い入れと遊び心を感じます。(駒沢給水塔風景資産保存会)

 ここからは「新大山道を辿ると首都高三号線沿いに歩くことになり、つまらないので緑道を歩きながら三軒茶屋を目指します」というサザエさんの意向で、私たちは緑道を歩くことになる。狭い道だが、四つ角に掛かるごとに頻繁に橋の名前を表示したポールが立っていて、暗渠になっているが確かにかつては細い川が流れていたことが分かる。
 美女のタイムスケジュールからは少し遅れているようだ。「資料をみんなにあげちゃって、自分で予定が分からなくなっちゃった」しかし「想定の範囲です」と言いながら、予約していたレストランに到着予想時刻と人数を連絡してくれたから安心していられる。やがて前方に目的のキャロットタワーが見えてきた。ニンジン色だと言うが、そんな色ですか。「それに形だってニンジンに似せなくちゃ」環七通りを渡ればすぐに三軒茶屋の駅前に出る。
 最上階まで、エレベーターに全員が乗れるかどうか。「乗れない奴は歩くんだな」とか「ブザーが鳴ったらリュックをその辺に置いて行けばいいんだよ」とカツオくんは無茶なことを言うが、エレベーターは二十四人乗りで、全員が充分に乗れる広さだった。さてキャロットタワーとは何者であるか。

 キャロットタワーは、東京都世田谷区太子堂にある商業、ホール施設併用のオフィスビル。三軒茶屋駅周辺の再開発により、一九九六年十一月に完成した。東急世田谷線に直結、東急田園都市線三軒茶屋駅にも徒歩圏内である。周囲に中低層の建物が多い中でニンジン色のひときわ目立つ建物で、周辺のランドマークになっている。
 キャロットタワーの名称は公募から選ばれたもので、建物の色がにんじん(英語でキャロット)色に見えることからその名が付いた。世田谷区内の中学生の命名である。
 タワーはオフィスフロアーとしての一面の他に、講習会、講演会、ギャラリーとして使える「生活工房」、中規模ホールの「世田谷パブリックシアター」等の文化施設。TSUTAYAなどの商業施設。さらに、住民票の写し等の発行を行う行政窓口が備わった複合施設となっている。
 最上階は入場料無料の展望スペースになっている。エフエム世田谷のサテライトスタジオが設置されており、公開放送が行われている場合もある。同階にあるレストラン「スカイキャロット」からは都心を望むことができる。(ウィキペディア「キャロットタワー」)

 「レストラン・スカイキャロット」に到着したのは十二時十五分である。リーダーの計画から十五分の遅れで済んだ。私がネットで調べていたところでは、「お席のみのご予約はできません」となっていたのだが、ここは世田谷区、サザエさんの実力をもってすればできないことは何もない。十七人分の席だけの予約で私たちは入ることができ、六、六、九人と別れた窓際の席に案内された。「わっ、東京タワーがあんなに小さい」しかし案外近くに見える。「あれが新宿だろう」「あれが六本木ヒルズ」と喧しい。「ロダンはカツオくんの隣に座ってくださいね、淋しがるから」ロダンはカツオにおけるナカジマクンである。
 さて、メニューを見てちょっと値段が高いと思うのは、最上階からの眺望もそれに含まれているからだろう。値頃だと思ったワッパ飯八百八十円なりは限定三十食と記されている。ランチタイムは十一時からだからもう無理だろう。私は勝手にそう判断して、天麩羅定食千五百五十円也を注文した。注文を聞きに来た男は「てんぷら定食でよろしかったですか」と復唱する。間違いではない。確かに私は天麩羅定食を注文した。
 ところが、この「限定三十食」というのはどうも怪しい。これを注文した人が結構いるのにちゃんと出てきたのだから。公式案内と実質が違うのか、それともこれもサザエさん力の賜物であるのか。「私は先日の住職に倣って、一番高いものを注文しました」ダンディは千八百五十円のランチである。
 洋食系統にはコーヒーか紅茶が付く。あいにく何かのパスタを注文してトイレに行ってしまった碁聖の代わりに紅茶を注文する。「ストレートでよろしかったですか」その他に何があるのか。「レモンとミルクがございます」チョウコさんと目を見合わせて、碁聖ならレモンティーであろうと勝手に判断した。「レモンでよろしかったですか」
 どうもこの「よろしかったですか」の過去形疑問語法?が癇に障る。こんな話し方がこの店のマニュアルになっているのだとすれば、私は日本語の将来に深く絶望しなければならない。
 厨房の手順はどうなっているのか、料理は六人の席から運びこまれ、私の座った九人席が最後に回されているようだ。六人席のカツオくんが食べ終わっても、私の料理は出てこない。「私たちのはもう来たよ。ずいぶん高級なものを注文したんじゃないの」隣の六人席でワッパ飯を食べている大橋さんが笑っている。結局一番後になったのが私であった。そう言えば、前回の築地の蕎麦屋でも天麩羅系統は最後であった。うっかりしていた私が悪い。しかしこの天麩羅は旨かった。
 「それじゃサヨナラ」いつものようにカツオくんはさっさと出て行く。レストランを出たところが展望スペースになっているから、そこで景色を見ているのだろう。全員が食べ終わって展望スペースで暫く外を眺める。ソファに座り込んでお弁当を食べている女性もいる。なんだか少し恥ずかしい。目の下には世田谷線の玩具のような電車が通って行く。「世田谷線って単線じゃなかったんですね」チョウコさんがやや失礼なことを口走る。下高井戸に向かって行った車両は青色で、こちらに向かってくるのは紫色だ。さっき、上町駅では黄色い車両も見たようだった。色がそれぞれ違っているのは何故だろう。
 ロダンは、サテライトスタジオの中の美人ディスクジョッキーの顔を眺めて、落合惠子を思い出す。「レモンちゃんですよ」岳人はポケットからラジオを取り出して、彼女の放送が聞こえるかどうか、一所懸命周波数を合している。それにしても、こんな衆人環視の中、時間を計りながら冷静に、しかもニコヤカに放送が出来る人って、どんな神経をしているのだろう。

 また全員が一度に乗れたエレベーターで下に降り、大山道標を見る。交差点の狭い場所に十七人が集まると、通行の邪魔になるが仕方がない。なんでも見ているダンディが初めて見るというのも不思議だ。道標を守る鎖の枠に自転車が止めてあって、写真の邪魔になるとドクトルが文句を言う。最近悟りを開いた私は怒らない。四角柱の道標に鎮座している座像は、火炎を背負っているようだ。不動明王であろう。
 左側面「右富士・世田谷登戸道」、右側面「此方二子通」は読めたが、背面は確認できなかった。案内板に記すところを書いておく。背面には「天下太平国土安穏  石工 江戸本木材町八丁目。寛廷二年 石田屋□□□(花押)建立。文化九年 昭和三十一年丙申三月吉日石工席崇□建。五穀成就萬民家楽」とあるのだ。

年代 寛廷二年(一七四九)、文化九年(一八一二)再建
 大山道は、矢倉沢往還の俗称である。この道標は、旧大山道(代官屋敷前経由)と、文化・文政期ごろに開通したといわれる新大山道(桜新町経由)との分かれ道にあった石橋楼(三軒茶屋の地名の起こりの茶屋の一つ)の角に建てられていた。
 大山は、古い民俗信仰である石尊信仰と山岳仏教の信仰とが結合し、相模の修験道場として重きをなし、将軍をはじめ多くの人々に尊崇された。とくに文化文政期以降は江戸町人などの大山詣りが盛んになり、その案内のため大山道沿道に多くの道標が建てられた。
 この道標は、玉川電車の開通や、東京オリンピックの道路の拡幅などにより点々と移されたが、昭和五十八年五月に三軒茶屋町会結成五十周年記念事業のひとつとして、元の位置近くに復された。
備考
一、この道標は、本来は渋谷方面に向いて建てられていた。
一、相州通・二子通は、ほぼ現在の玉川通りである。
一、富士・世田谷道・登戸道は、ほぼ現在の世田谷通りである。

 「町内で集まってさ」講釈師が大山講の説明を始める。江戸時代の大山詣ではこんな風だったようだ。

早朝、江戸を出発。大山街道(矢倉沢往還、現在の厚木街道)を三軒茶屋、二子、溝口(みぞのくち)と進み江田か長津田で一泊後、鶴間(現町田市)、下鶴間(現大和市)、厚木と歩き伊勢原で二泊目。三日目は大山に登り大山阿夫利神社を参詣。下山後、大山道を藤沢宿目指して歩き始める。夕方藤沢宿に着き三泊目。四日目は江の島に入り江島神社と岩屋を参詣した後鎌倉に向かい鎌倉の寺と鶴岡八幡宮を参詣。その後、切り通しを抜けて金沢(かねさわ)に向かい六浦(むつら)の景観を楽しんだ後、金沢八景の称名寺(しょうみょうじ)を参詣。金沢(かねさわ)宿で四日目の宿をとる。最後の日は途中、川崎大師を参詣。品川宿に宿をとり品川遊郭で精進落しをする。翌日、江戸に帰る。金沢遊郭で精進落としをして翌日一気に江戸に帰る事もある。(http://mirabeau.quu.cc/)

 遊郭であんまり暴言無礼が過ぎると、酔い潰れている間に頭を剃られて置いてけぼりを食ってしまうのは、落語「大山詣で」であった。
 雨降山大山寺のホームページから引用する。

 大山寺は、奈良の東大寺を開いた良弁僧正が天平勝宝七年(七五五)に開山したのに始まります。行基菩薩の高弟である光増和尚は開山良弁僧正を継いで、大山寺二世となり、大山全域を開き、山の中腹に諸堂を建立。その後、徳一菩薩の招きにより、大山寺第三世として弘法大師が当山に入り、数々の霊所が開かれました。大師が錫杖を立てると泉が湧いて井戸となり、また自らの爪で一夜にして岩塊に地蔵尊を謹刻して鎮魂となすなど、現在は大山七不思議と称される霊地信仰を確立しました。
 また日本古来の信仰を大切にし、尊重すべきとのお大師様のおことばにより、山上の石尊権現を整備し、伽藍内に社殿を設けるなど神仏共存を心掛け手厚く神社を保護してきました。
 元慶八年には天台宗の慈覚大師の高弟・安然が大山寺第五世として入山。伽藍を再興し、華厳・真言・天台の八宗兼学の道場としました。これより大山は相模国の国御岳たる丹沢山系の中心道場として各地に知られ、別当八大坊をはじめとする僧坊十八ケ院末寺三、御師三百坊の霊山として栄えました。
 しかし明治初年の廃仏毀釈により、現阿夫利神社下社のある場所から現在の場所に移りました。

 いろいろ書いてあるが、修験道の聖地として崇められたのである。「阿夫利」は「雨降り」の当て字だろう。江戸時代に入って、修験者たちは御師と呼ばれる職能集団となって、講を育成、新規開拓したので大山詣でが盛んになった。御師集団は、現在の旅行会社のようでもあった。標高千二百五十二メートル。いつか番外編として大山詣ではどうだろう。
 ここからまた狭い道を十五分ほど歩けば、西澄寺(世田谷区下馬二丁目)に到着する。「なんだ、また裏門から入ったんじゃないか」いつものカツオくんの台詞が聞こえてくる。「前回の築地本願寺だって裏門でしたよ」「あれは裏門じゃなくて、横だった」
 境内を通り抜けて改めて山門を見る。阿波蜂須賀家の三田中屋敷の門を移築したものだ。上野を歩いた時に美女が武家屋敷の門を開設した資料を配ってくれていて、それを岳人が思い出して、両脇の出番所の形を克明に観察している。「あの資料を持てくればよかった」「私も持ってきてません」
 切妻造り、両出番所両潜戸付き。江戸時代の武家屋敷門の特徴をよく伝えるものとして東京都の文化財に指定されている。徳島藩は表高二十五万七千石の格式である。藍、煙草、塩などの商品流通を加算すれば四十数万石にもなったと言われるから、相当に裕福な藩であった。鬼瓦に入っている丸に卍が蜂須賀家の紋所である。
 ただ、銘文にはこう書いてあるそうだ。

仰々此門ハ徳川三代将軍ノ治世砌仙台公江戸邸宅ノ門タリ明治二十二年麻布區蜂須賀邸ノ門ニ譲リタリ昭和三年五月市區改正の為是ヲ林常太郎氏の照會ニ依リ西澄寺ニ譲リ受クル事トナリタリ 

 これを信じれば、元は仙台藩邸の門だったことになるのだが、表高六十二万石の仙台藩の格式ならば、門の形はもう少し違う筈だ。
 瓦の渦巻き紋を指さして、「火伏せ」の呪いであると講釈するのは、カツオくんの役目だ。「どこの蔵だって、この文様があるだろう、これは水を表しているんだ」山門をくぐると本堂や薬師堂、鐘楼が堂々としたたたずまいを見せている。敷地はそれほど広くはないが、落ち着いた雰囲気の良い寺だ。真言宗智山派で幕末には無住となっていたが、明治二十五年(一八九二)に再興された。
 「智山派なら我が家の宗旨ですから」と西欧派のダンディがお参りする。(これは私の聞き違いで、ダンディから異議申し立てがあった。「老生の宗派は、真言宗ですが智山派ではなく御室派(仁和寺が本山)です。仁和寺は皇族が代々門跡となった格式あるお寺です。智山派は新義真言宗の一派で、上方には殆んど無く東国に多いようです。お間違えなく」ということである)
 鐘楼の周りを囲むように、水子地蔵が数体立っている。熱心に梵鐘を撮影している人がいるので近づけない。
 「あれは何」目敏い人が鳥を見つける。「インコだよ」ウグイス色の鳥が二羽、木の間を飛んでいる。「飼っていたのが野生化したんだな」鳥のことになれば、カツオくんには一家言がある。

 「それではボケの実を見に行きます」今日はあちこちで赤いボケが咲いているのを見た。しかし実というのは今まで見たことがない。「普通のおうちの庭先ですから静かにしてくださいね」これはカツオクンに言わなければならない。静かな住宅地を、大声を出しながら歩いている十七人。私たちは地元の人の顰蹙をかっているかもしれない。寺を出て少し歩くと、本当にその実が生っていた。黄色い、蜜柑程の大きさの実が一つだけ生っている。みんなが珍しいと言っているのに、講釈師は「別に珍しくもない」と主張する。「木に一個だけ生る時もある。二三個のときもある。実のなったところに、翌年また実がなるとは限らない」なんだか専門的のような気がする。「俺だって知ってて今まで言わなかったことだってあるんだ」もともと木に生る瓜というのが語源であるなら、実が生っていても不思議はない。今日はツバキ(随分大きな花弁)、ツツジ(もう今頃)、ミモザアカシア(前回深川で教えてもらった)、ヒイラギナンテンの花を見た。

  路地裏の日は穏やかに木瓜の花  眞人

 世田谷公園に入る。「子供の頃、凧揚げとか野球をやりにきましたよ」少年時代を世田谷で過ごしたのは岳人である。「昔はただ、だだっ広いだけだったような気がする」一九六五年、東京都から世田谷区に移管された後、老朽化した施設の改修計画を一般から募集し、一九七四年に完成したものだという。岳人子供の頃は、東京都の管理下で「老朽化」した公園だったのだろう。
 今では中央に噴水の池があり、子供たちに火や刃物の使い方を教えるエリアがあったり、ミニSLが走っていたりする。みんなの一番の関心はこのミニSLにあるようで、なかなか前に進まない。「昔はこんなのなかったな、乗ってみたいですね」「でも、ほら。みんな子供を抱いてるわよ」「そうか大人だけだと駄目なんだな」
 トイレ休憩をとる間に、お煎餅、飴、チョコレート、スモークチーズなんかが大量に出てくる。だから女性陣は大きなリュックを背負っている。「もっと食べてちょうだいよ」と言われても、お腹がいっぱいになってしまった。「チーズが出てくるとビールを飲みたくなっちゃう」とサザエさんが言えば、「焼酎のお湯割にするか、熱燗にするか」と和尚が真剣に悩む。これは人生の大問題であるか。

 宿山の庚申塔(目黒区上目黒五丁目五)。真ん中には延宝三年(一六七五)記銘の地蔵庚申、それに向かいあうように左に宝永五年(一七〇八)記銘の青面金剛、右にも青面金剛。三基の石像の更に右端には観音のように見える石像が立っている。地蔵庚申は目黒区唯一ということだ。「地蔵庚申」と言うのを初めて知ったので、今まで単なるお地蔵さんだと思っていたものでも、庚申塔として建てられたものがあったのかもしれない。ただし「地蔵庚申」であるためには庚申供養である旨を記した銘文か三猿などが必要らしい。地蔵を見かけたときには確認が必要だ。
 「今日はいないですね」とダンディが指摘すると、「俺だって、いつもいるわけじゃないよ」と憮然とした答えが返ってくる。意味が分からない長老とチョウコさんに、青面金剛に踏みにじられる天邪鬼のことを説明すると、ふたりとも納得したように笑っている。しかし磨滅していて良く分からないが、左の方の青面金剛の足元には、もともとは天邪鬼がいたような形跡も見える。以前、目黒を歩いた時(第十九回)にも指摘しておいたが、目黒区には庚申塔が多く残っている。目黒区の広報によれば、区内には七十基を数えるそうだ。

  早春の路地に隠れて天邪鬼  眞人

 ここからはあまり見るべきものがないからサザエさんの足は速くなるが、忙しいはずの美女が途中で「メジロです」と指さす。確かに木の間にウグイス色の鳥が見える。「それで句はできたのかい」ドクトルがニヤニヤしながら私に聞いてくるが、そんなに簡単に俳句はできない。宗匠ならその場で詠めるかも知れないが、今日はいないのだから仕方がない。「私は二三日しないと駄目ですよ」
 サザエさんが無理やり「メジロ一羽一羽ほどの暖かさ」と捻り出した。これは何であるか。「リーダーは率先してバカなことを言わなくちゃいけないんです」
 春には青いめじろ追い、秋には赤いとんぼとり。これは青木光一『柿の木坂の家』(石本美由起作詞)だ。
 三十分ほど歩いたところで目黒川を渡り、ちょっとした坂道にさしかかった。サザエさんはどんどん行ってしまうが、カツオくんが足を止めたので、付き合ってみた。中に庭園があるような門の中に、「明治天皇行幸所・西郷邸」の石柱が立っている。あれっ、ここに入るんじゃなかったのか。リーダーの目的はもう少し上にある西郷山公園だったのだ。私たちを待っていたサザエさんに「リーダーを無視して勝手な行動をとっちゃダメだって、みんなに言っておいた」とカツオくんが報告する。
 真っ直ぐに登る石段と、迂回してだらだら歩く道と二つある。「見所が多いのはどっちだい」ドクトルやダンディは確認してダラダラ道を行く。ハイジ、岳人は当然石段を登る。チョウコさんも続いて行く。「なんだ、すぐ着いちゃった」私でも登れるのだから大した石段ではなかった。岳人とハイジが山男、山女なんて話し合っているものだから、つい私は「山姥」なんて口にして「あんまりじゃない」「それはないですよ」とチョウコさんにも叱られる。「ハイジって呼んでくれる筈じゃなかったの」そうであった。彼女はハイジ、アルプスの少女である。
 「何時ですか」「ちょうど三時になったとこ」「私の計画通りじゃありませんか」後半の急ぎ足が効いた。「建物は明治村にあるよ」カツオくんの足跡は犬山にも及ぶ。ここにあった邸宅は確かに犬山の明治村に移築されているようだ。リーダー作成の資料から抜き書きすれば、元々は、江戸時代末期、豊後竹田城主・中川修理太夫の抱え屋敷(別邸)であった。二万坪の屋敷には、三田用水から水を引き美しい庭園を誇っていた。明治になり西郷従道が隆盛を迎えるために、この地を手に入れ庭園と邸宅を構えたが、隆盛はここに来ることもなく西南戦争で死んだ。
 「西郷従道は、ホントは隆道なんですよ。リュードーって発音が、薩摩弁だからジュードーに聞こえたんです」私が言うと、ダンディが疑わしそうな顔をする。「『坂の上の雲』にもそんなことは書いてありません」しかし、何かで読んだ記憶があるのだ。典拠は思い出せないが、ちょうどウィキペディアに載っているのを見つけた。

名は維新後に太政官に名を登録する際、「隆道」をリュウドウと呼んで口頭で登録しようとしたところ、訛っていたため役人に「ジュウドウ」と聞き取られ、「従道」となってしまった。本人も特に気にせず結局「従道」のままであった。ちなみに西郷隆盛も本名は「隆永」で、「隆盛」とは彼らの父の名前であり、同志の吉井友実が勘違いして登録してしまった。自分の名前に無頓着なところがこの兄弟にはあった。(ウィキペディア「西郷従道」)

 西郷隆盛の方も違っていたとは知らなかった。だいたい、普段、仲間内では吉之助、慎吾と呼び合っていただろうから、維新後大官になって偉そうな名前をつけても、身についていないのだ。
 「西南戦争のとき、西郷もそんなに無理しないで良いんだよって言ったのは誰でしたっけ。ああ、思い出せない」「知らないよ。発言する時は、ちゃんと結論を考えてから口を開くんだ。考えている間に日が暮れちゃうじゃないか」「そんな、分からないから聞いてるんじゃないですか、もう」カツオくんとナカジマくんが、お馴染みの言い合いを繰り広げる。ただ、ロダンの疑問の回答は誰だろう。海舟なら言いそうでもあるが(海舟は西郷が大好きだったから)、少なくとも『氷川清話』には出てこない。
 濃いピンクの花は河津桜だ。伊豆の河津で、この桜が通り一面に咲いているのを見たときには、ちょっとあくどいように感じたが、一本だけ丘の頂上に立っていると、なかなか素敵な色に思えてくる。こういうきつい色は、量が少ない方が良いのではないか。

 本日の見どころはここまでだ。坂を下りて目黒川に沿って中目黒駅を目指す。川にはカルガモが数羽泳いでいる。「あんがい綺麗じゃないか」ドクトルが感心している。「この水は、再処理したものか、それとも自然な水なのかい」どうも専門的なことを言われると弱い。しかし、こういうこともウィキペディアで教えてもらえることになっている。

上流の北沢川と烏山川の両河川と合流後から、国道二四六号の大橋までの数百メートルの区間が暗渠化され緑道として整備されており、カルガモや鯉、ザリガニなど様々な生物が住み着いている。大橋より下流は開渠となっている。現在、目黒川を流れる水の大部分は新宿区の東京都下水道局落合水再生センターで下水を高度処理したものを導いている。

 両岸は桜並木になっている。会社が目黒に移転したのは去年の五月だから私はまだ見ていない。今年は通勤途上で毎日桜を楽しめるはずだ。歩きながら和尚がまだ「熱燗にするか、焼酎お湯割りにするか」と呟いている。お酒の飲めない碁聖は不思議な生き物を見るように和尚を眺める。
 中目黒の駅に近づいて、最初に様子をみた喫茶店は満員で、次にロダンが偵察にいったドトールも駄目だった。「駅の向こうにあったじゃないか」九月に歩いたとき、駅向こうのビル二階の喫茶店に入った。あそこなら大丈夫ではないか。講釈師はどんどん先を歩いて行く。「よく憶えてますね、私なんかちっとも憶えてない」ダンディが溜息をつく。私も思い出した。コロラドである。
 椅子を追加して六人席を二つ並べ、五人の席だけが離れてついた。コーヒーは四百三十円だ。これにしようかと思っていると、チケット十二枚綴りを買うと一枚当たり三百五十円になることを、ロダンが発見した。偉い。ここにちょうど十二人いる。しかしサザエさんはコーヒーが飲めない。五人の席からコーヒーを飲む人と交代して、この一角はコーヒー十二人でまとまった。
 普通、こういうチケットというのは、一人に対して十二回のサービスで、十二人一度にというのではないのではないだろうか。気が小さい私は躊躇してしまうが、ダンディが頼むと大丈夫であった。この店のウェイトレスは笑顔が可愛い。「大丈夫ですよ、是非ご利用ください」こういう娘がいる限り、若い世代も捨てたものではない。
 四時十五分になれば、もう良いだろう。「さくら水産」は恵比須にある。私は歩いて行かなければならないと思っていたが、地図を見ればちゃんと地下鉄日比谷線が通じているじゃないか。「知らなかったのか」モリオがびっくりしたように聞く。知らなかった。「恵比須本社に勤務していたんじゃないのか」いなかった。どうも恵比須の辺りは弱い。ネットで検索しただけだから辿りつけるかどうか、実は心もとない。
 ハイジは明日、早朝から山へ柴刈に行かねばならないので「今日は失礼するわ」と帰って行った。岳人は「明日は天気次第ですね」と言うけれど、インフルエンザの病み上がりで無理して山に登ってはいけない。
 日比谷線に乗って恵比須駅で降り、取り敢えずJR駅の方に出る。「ホントにあるのかい」とモリオが疑わしそうにする。「だって恵比須でさくら水産に入ったことないぜ」少し不安になりながら昔あった会社とは反対方向に歩けば、おお、懐かしい「さくら水産」の看板が見えた。ダンディ、ドクトル、和尚、モリオ、ロダン、岳人、美女、チョウコさん、私。反省をするのは九人であった。

眞人