「東京・歩く・見る・食べる会」
番外 向島編   平成二十年二月九日(土)
隅田川七福神を中心に

投稿:   佐藤 眞人 氏     2008.02.09

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 日頃、リーダーなんか嫌だと言っている講釈師が珍しく積極的に企画した。この人は七福神に格別の趣味があるようで、一月五日には川越七福神巡りを実施している。(尤もこのときは、川越市シルバー人材センター主催の会に参加したのだけれど)。
 今日は「江戸歩き」奇数月の例会ではないので、「番外」と言う位置づけになるのは仕方がない。七福神をだしにして、江戸から明治大正の文士が愛した向島を巡る散策コースを経験する良い機会だ。
 明治年間向島の地を愛してここに林泉を経営し邸宅を築造した者は尠くない。思出るがままにわたくしの知るものを挙げれば、華族には榎本梁川(武揚)がある。学者には依田学海、成島柳北がある。詩人には伊藤聴秋、瓜生梅村、関根痴堂がある。書家には西川春洞、篆刻家には浜村大?、画家には小林永濯がある。俳諧師には其角堂永機、小説家には饗庭篁村、幸田露伴、好事家には淡島寒月がある。皆一時の名士である。(永井荷風『荷風随筆』)
 ただ、荷風は「向島は既に雅遊の地ではない」と言っていて、昭和の初期にはもう江戸の風情は失われていた。それでも私たちは今目の前にある向島を歩くしかない。
 枕橋のほとりなる水戸家の林泉は焦土と化した後、一時土砂石材の置き場になつていたが、いまや日ならずして洋式の新公園となるべき形勢を示している。吾人は日比谷青山辺に見るが如き鉄鎖とセメントの新公園をここにも亦見るに至るであろう。(中略)兎に角隅田川両岸の光景は遠からずして全く一変し、往昔の風致は遂に前代の絵画文学について見るの外全く想像しがたきものとなつてしまうのである。(同書)
 さて、実際に歩いてみればどうであろうか。
 出発は堀切だが、埼玉県人の私達には分りにくいという理由で集合場所は南越谷駅になった。男は講釈師、ダンディ、隊長、貢、私の五人だ。貢は私よりも一本前の武蔵野線に乗っていたようで、「珍しく遅刻しなかったじゃないの」と言うと、「俺はまだ二回目の参加だよ。珍しいなんておかしい、一勝一敗だよ」と文句を垂れる。
 女性の参加者が多いのは講釈師の人徳と言うべきだろうか。あっちゃん、橋口さん、三木さん、サッチーは江戸歩きでは御馴染みだ。清水さん(第十回「千住編」以来)、胡桃沢さん(第九回「赤坂編」以来)は久し振りに会う。里山ワンダリング(平野隊長主催・毎月第四土曜日開催)のメンバーから篠田さん、寺山夫人、一柳さん、佐藤さん、高橋さんが参加して、女性が十一人になった。女性の多さに「男には声かけなかった」と講釈師が喜ぶ。しかし、彼の指令でメールを発信したのは私だから、特に選んだわけではない。
 ロダンは二三日前に参加が微妙になったとメールしてきた。「奥さんの了解が得られなかったんですね」ダンディが笑う。たぶん仕事が忙しいのだろう。宗匠が来ないと上手い句が貰えないのでちょっと淋しい。岳人はどうしたのだろう。「昨日、飲みすぎたかな」とダンディが電話を入れてみるが通じない。山に行ったのかしら。
春は名のみの風の寒さや (『早春賦』作詞:吉丸一昌、作曲;中田章)
 立春をすぎたが実に寒い日で、午後からは雪が降ることになっている。私はずいぶん着膨れてしまって、なんだか体を動かすのが大儀なくらいだ。ほとんどの人がそんな風なのに、ダンディだけは相変わらず薄着で本当に頑健な人だ。雪は嫌だが、「俺がやれば絶対に晴れる」といつも豪語して、私を「雨男」と非難する講釈師も、多少は言い方を変えるかも知れないと、少しは期待するような気分もある。
 しかし清水さんは「大丈夫よ、雪になるのは三時過ぎだから」と自信あり気に断言する。「雪は田舎から降ってくるのよ」と越谷の美女が言うから、「それなら越谷からか」と私が応じ、「鶴ヶ島からでしょ」と叱られる。
 リーダーは「隅田川七福神参拝のご案内」という資料を大量にコピーしてきていた。里山の女性たちは「会費はいくらかしら」と尋ねてくる。里山の会は隊長の個人的、献身的な労力に頼っているからその下見や資料にかかる費用が必要だが、こちらは持ち回りの企画で特に会費は要らないのだ。とにかく十六人が集まったところで、東武伊勢崎線に乗り込む。
 佐藤さんと寺山夫人の会話がどうも噛み合っていない。どうやら佐藤さんは京成電鉄の堀切菖蒲園を連想していたので、路線と地理の感覚がうまく繋がらなかったらしいのだ。こういうとき講釈師は「常識だろう」とバカにするが、実は私も事前に地図を調べておかなければ間違えるところで、やはり堀切を集合場所にしなかったのは正解だった。北千住で準急から各駅停車に乗り換え、すぐ堀切に着いた。

 駅舎を出れば目の前には荒川が広がる。この駅は全国でも珍しい借地なのだとあっちゃんが教えてくれ、確かに線路脇には「占用地」を示す看板が立てられている。もとの綾瀬川だと講釈師が教えるところには綾瀬橋がかかる。「新座のほうにも綾瀬川がある」と貢は言うが、柳瀬川と間違えていないか。本来は綾瀬川の本流だったのに、荒川放水路の開削によって、本流から分断され、現在の旧綾瀬川は荒川と隅田川を結ぶ形で、全長四百五十メートルしかない。
 いかにも下町らしい狭い路地を通って歩く。「下町らしい」と書いてしまったけれど、狭苦しい路地、古めかしい木造の家並みなどからそんな風にメージするのは、下町に対する私の差別感ではあるまいか。軒先にはそれぞれ工夫を凝らした花が飾ってあって、手入れは行き届いている。
 ここのところ寺山さんの姿が見えないので、「お父さんは大丈夫?」と夫人に聞けば、今日は高校の同窓会に行っているということだ。貢も同じ高校だと教えると、夫人は「エーッ、そうなの」と驚く。

   多聞寺に着く。真言宗智山派、隅田山と号す。もともとは隅田川神社の別当寺で、場所も隅田川神社の近くに位置していた。本来は不動明王を本尊としていたが、天正年間(一五七三〜九二)にここに移って、なぜか本尊を毘沙門天に変えた。七福神巡りと言っても、開帳は正月七日の間だけだから、本尊は見ることが出来ない。
 隅田川七福神は向島七福神とも呼ぶ。文化文政の頃、谷中七福神にあやかって百花園の佐原鞠塢や太田南畝らがでっち上げたものだ。
 七福神信仰そのものは室町末期に始まった。こういう縁起物の信仰というか、神頼みには商業の成立、貨幣流通の発達が前提にならなければならないだろう。それが形成されてきたのがその時代だった。室町後期はもちろん戦国時代に当り、戦乱に疲弊した庶民がいる一方、商業の発展によって富裕層も生まれている。
 一般に広く広まったのは江戸時代中期以降、江戸の庶民に余力と余暇ができたからだろう。谷中七福神のほうが由緒は古いが、寺町の中だけを歩くよりは、隅田川沿いの初春の散策コースとして、こちらのほうが盛んになった。江戸時代には、この谷中、隅田川ともうひとつ、山手七福神の三つのコースがあった。
すっかりスタンプラリー、もしくは寺社の副業収入機会と化してしまった今のそれは別として、発生器期の七福神参りは、どのような信仰的動機に裏付けられていたのであろうか。それを考えてみるには、当時の三コースが、どれも江戸の庶民たちの生活領域である下町のテリトリー内にではなく、その外側の郊外地域に設定されていることに注目してみればよい。そこはいずれも、江戸っ子たちが行楽・遊興・墓参などの機会におとずれるヒンターランドであって、折々の季節に花をめで、田園風景を楽しみ、神仏の御利益をさずかってくるためのレクリエーション・エリアであった。彼らはそこから、生きるための活力のみならず、信仰のエネルギーをも持ち帰ってきたのであろう。(長沢利明『江戸東京歳時記』)
 境内の前には庚申塔がいくつも並んでいて、サッチーはこういうものが好きだ。山門は茅葺の屋根をもつ四脚門で、慶安二年(一六四九)に建立されたものの享保三年(一七一八)に焼失。すぐにその年に再建されて今に続く。墨田区内最古の建造物になる。
 三月十日の東京大空襲で焼けた浅草国際劇場の鉄骨が説明板とともに置かれている。狸塚なんていうものがあって、これにちなんで狸寺とも呼ばれるらしい。こういうバカバカしい話は多聞寺のホームページから引くしかない。
 昔々、多聞寺がある辺りは、大きな池があり樹木や雑草が生い茂り、狸や狐たちの住処で、村人や旅人たちにいたずらし続けていました。鑁海(ばんかい)和尚さんは、お堂を建てて妖怪狸たちを追い払うことにしました。
 まず大きな松の木を切り倒し、穴をふさぎそれから池を埋めてしまいました。すると大地がとどろき空から土が降ってきたりといたずらは激しくなるばかりです。和尚さんはご本尊の毘沙門天に祈り続けました。ある夜のこと和尚さんの前に大入道が現れ「ここはわしのものじゃ。さっさと出ていけ!」とおどかすのです。和尚さんは一心にご本尊さまを拝んでいると、毘沙門天に仕える童子が現れて大入道を打ちのめしました。翌朝、2匹も大狸が庭で死んでいました。和尚さんは哀れに思い、切り倒した松の木の根本に狸を葬り、塚を築いて霊をなぐさめたそうです。これが多聞寺の狸塚の由来です。
(http://www.sumidasan-tamonji.or.jp/midokoro.html)
 「佐藤さんの好きな六地蔵」とあっちゃんが指差すほうには、座像の六地蔵が並んでいる。並んで座っているのは初めて見る。
 議論がやかましくなったのは、「映画人ノ墓碑」を見たからだ。裏面には「映画を愛し 平和と民主主義を支え人間の尊厳を守った人々ここに眠る」とあって(ダンディの嫌いな左翼の匂いがする)、大勢の人名が並んでいる。赤字で刻まれているのは生存者だろう。新藤兼人は赤字、隣の乙羽信子、殿山泰司は黒字、と言う具合だ。それはそれで良いのだが、年代別に彫られているので、たとえば一九九〇年のところに赤字で名前を彫っているは何故だろうというのが問題になる。まさか、その年に亡くなる予定であったなんてことはない。寄付をした(名前を登録した)のがその年だ、ということではあるまいか。サッチーは「眠る」という文言が気になって仕方がない。「赤い字は生きてる人だよ」講釈師の言葉に「そんなことは分ってるの。眠るってあるでしょ」つまり、生きているのに「眠る」と書かれてあるのが気に召さないのだ。

 寺を出て路地を歩き始めると、金網で囲った空き地の向こうにカネボウの建物が見える。「カネボウの発祥の地です」ダンディは詳しい。カネボウもともとは「鐘ヶ淵紡績」で、ここの地名は鐘ヶ淵だった。「カネボウって関西じゃなかったんですか」「知らなかった」みんなが感心する。
 鐘ヶ淵の地名由来にはいくつかの説があるようで、普通は寺の鐘を誤って川に落としてしまったということらしい。ところが幸田露伴『水の東京』は違うと言うのだ。これは新潮社『江戸東京物語』からの孫引きになる。
予の考をもてすれば鐘が淵は曲尺が淵にて、川の形曲尺の如く曲折するによりて呼びたる名なりと判ず。
 墨堤通りに出てすぐに、「あそこが案内所になってる」と講釈師が指差す方を見れば、「生粉亭」という手打ち蕎麦の店だ。店は閉まっているが、店先にチラシが置いてあるのでもらってくる。講釈師がさっき配ってくれた資料はこれをコピーしたようで、裏面には地図が載っているので便利だ。
 通りの西側には川に沿って高層の都営アパート群が広がっている。道路のすぐ脇には「ここが隅田川神社の参道だった」と講釈師が説明する狭い道が平行に続いている。確かに「隅田川神社参道蹟」の小さな石標があった。
 私は不思議なのだが、堤防のこちら側とは言え、もともとは隅田川の河川敷というよりも、川がちょっと氾濫すればすぐに水浸しになってしまう土地だったのではないか。アパートのすぐそばの梅若公園には梅若の石碑が立てられているから、川はこのすぐそばまであったに違いない。そんな場所に高層の建物を建てて大丈夫なのか。
 大礼服に身を包んだ榎本武揚の像を見る。晩年を向島で暮らした武揚だが墓は駒込の吉祥寺にある。吉祥寺の武揚の墓所の前で、蝶を追いかけていた隊長の姿を思い出す。
 団地の中を抜けるとき、防水壁のようなものが見えた。つまりこの団地は、隅田川氾濫の際には水を防ぐ壁となるように作られているらしい。と思ったが、これは東京都が防災拠点として再構成した地域なのだ。防水壁と思ったのは、防火壁であった。
都営白髭団地は住宅でありながら、高度な消火設備を持った施設です。この施設は延焼遮断帯としての働きをすると同時に、非難場所を提供しています。大災害時には、白髭団地東側に広がる住宅密集地で起きた火災を白髭団地西側にある避難活動場所へ延焼させないため、白髭団地は十棟すべてが横につなぎ合わされており、これによって防災壁が形成されています。
http://inpaku.dpri.kyoto-u.ac.jp/jp/think/town/example/e_japan/shirahige/shirahige.html
 前方に隅田川神社の鳥居が見えてきているのに、講釈師はそこを素通りしてどんどん右の方に向かって先を歩いていく。ちょうど公衆トイレが見えるので、ここで休憩するのかと思えば、どうやらその先の寺に向かっているようだ。「これじゃ遠回りじゃないんですか」あっちゃんがダンディと笑い合う。ダンディはこの会とは別に「下町探訪会」というのを組織していて、美女と一緒に以前このあたりを歩いているからだ。「前は、逆から歩いてきましたよね」

 講釈師が入って行ったのは梅若塚で知られる木母寺だ。天台宗、梅柳山隅田院と号す。塚の隣には念仏堂がガラス張りの建物の中に保護されている。謡曲「隅田川」が有名で、観世十郎元雅による能のほかにも、近松門左衛門の浄瑠璃や多くの物語があるようだ。それらいくつかの物語を要約すれば梅若伝説はこんな話になる。
 吉田少将惟房卿の一子梅若丸は、人買いの信夫の藤太に攫われて奥州へ下ったのだが、この地まで来て重病に罹り、足手まといを嫌った藤太によって隅田川に投げ込まれた。どうにか里人に助けられたものの、
 尋ね来て問はば応へよ都鳥 隅田川原の露と消へぬと
 という歌を遺して息絶えた。天延二年(九七四)三月十五日、梅若は十二歳だった。里人が梅若丸を哀れんで塚を築いて柳を植えたのが、隅田山梅若山王権現と呼ばれる若梅塚である。
 一方、我が子の行方を尋ねてこの地にたどり着いた梅若丸の母は、たまたまその一周忌の法要にあって我が子の死を知り嘆きの余り出家した。名を妙亀と改め、庵をかまえて梅若丸の霊をなぐさめていたが、ついに世をはかなんで近くの浅芽が原の池(鏡が池)に身投げてしまった。
 「第十四回 板橋宿・旧中山道編」で志村の総泉寺に立ち寄ったのを覚えている人もいるだろう。あの寺は妙亀山と号して元々橋場にあったもので、その山号はこの母親「妙亀尼」に由来する。さっき団地のそばの梅若公園に梅若の碑が建っていたが、木母寺はもともと塚とともにそちらのほうにあった。それが、この一群の高層住宅の建築によって現在地に移転した。
 境内には多くの碑が建てられている。三遊塚、浄瑠璃塚、川柳(その下の文字が読めない)。「天下之糸平」は高さ五メートル、幅三メートルと言う巨大なもので、碑文は伊藤博文のものだ。本名田中平八。知識がないから「糸」の字から繊維関係の業界かと思っていたが、実は違う。ウィキペディアから要約する。

 田中平八は天保五年に生まれた。本姓は藤島。幼名は釜吉。名は政春。
 信州に生まれ、生家は資産家であったが米と綿相場で失敗し没落。三男であった平八は魚屋に丁稚奉公に出された。嘉永二年頃に魚屋として独立。嘉永六に田中はると結婚し、田中家の養子となり田中姓を名乗る。その後、名古屋・伊勢町や大阪・堂島の米相場に手を出すが大損をする。
 その後、江戸の斎藤弥九郎の練兵館の門下生となり、吉田松陰や清川八郎らと交わったとされる。水戸の天狗党の乱に参加、捉えられ小伝馬町に投獄された。この投獄によって剣に生きることは諦め、商売に生きることを決意したという。
 慶応元年、横浜で大和屋の後ろ盾を得て「糸屋平八商店」を開業。生糸・為替・洋銀・米相場で巨利を得た。通称「糸屋の平八」「天下の糸平」と呼ばれた。
 慶応四年に、四日市から横浜に茶を運ぶ途中に船が難破し全財産を失うが、明治五年、横浜金穀相場会所を設立し頭取となった。また洋銀相場会所を設立。その後、相場師の諸戸清六、今村清之助と組んでイギリス人貿易商や清国人商人を相手に仕手戦を仕掛けるが、負けそうになったことから、偽札を作り見せ金とすることによって勝利。しかしこれが露見し横浜の商売から手を引くことになった。
 明治九年に東京で田中組(後の田中銀行)を創立。明治十一に渋沢喜作を発起人として東京株式取引所の設立し、同時に大株主となる。
 明治十六年に東京米商会所(後の東京米穀取引所、現在の東京穀物商品取引所)の初代頭取に就任。この米商会所の株式を上場。これも仕手戦と化し、田中は大もうけしたという。
 相場師というのが相応しい。今ではインサイダー取引が問題になるが、そんなものではなくもっと悪どい手口で儲けた。横浜「富貴楼」の女将お倉という女傑がいて、伊藤博文始め明治の高官に可愛がられたが、これは糸平の妾だった。
 一階部分が小さく、その上に大きく四角い二、三階部分が乗っている建物がある、ちょっと不思議なデザインだが、講釈師の説明によれば、若井さんの弟さん(お兄さんだったかな?)の設計になるものだそうだ。

 寺を出て公園内を少し歩く。「七番」の火消し纏の碑が建つ。「いろは」でないのがよくわからないが、東京の大区制度の名残りではないだろうか。大五区第七番というようなものか。鳥居の上を首都高速が走っている。鳥居の脇の小さな石碑は、「水神社・船霊社」と書かれている。
 隅田川神社は白梅がちょうど見頃に咲いていて、顔を近づけて「少し香るようよ」と一柳さんが教えてくれるので、私も貢も鼻をつけてみる。
 狛犬の位置には亀が鎮座している。頼朝が、亀に乗った水神を見て、その霊験を信じて建立したといわれる。「月夜の神社って行きましたか?」清水さんに聞かれるが私はまだ行ったことがない。「あそこは兎だった」。狛犬、唐獅子以外にも亀、兎そのほか、色々あるのだ。蛙を見たのはどこだったろう。
 ここは、かつては隅田川に突き出していて浮島とも言われた。在原業平がここで例の歌を詠んだという伝説から、言問岡とも呼ばれた。
 京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡守に問ひければ、これなんみやこどりといふをききて、
   名にしおはばいざこととはむ都鳥 我が思ふ人はありやなしやと
 とよめりければ舟こぞりてなきにけり。(『伊勢物語』)
 都にいない鳥なのに、なぜ都鳥なのか。ネットをあちこち検索していると、こんな記事を見つけた。他にも色々説はありそうだが、その中のひとつだ。
 幸田露伴が『音幻論』という本で、伊勢物語の都鳥は「ミヤと鳴く小鳥」のことである と説いています。nyaがmiyaに、nがmになる例証としてあげています。 ニャーと猫みたいに鳴く小鳥を「みや小鳥」と言ったというわけです。 (中略)
 また、ユリカモメは、 しわがれた声でギュウーイ、ギュウーイと鳴き、ニャーとは鳴かないのですが、 同じカモメの仲間のウミネコと混同されたのではないかと思います。
 ミヤコドリはむしろ日本で見ることの少ない鳥なのですが、ユリカモメも平安時代の京都では見られなかった鳥とされています。
 http://www004.upp.so-net.ne.jp/miikun/ise/ise5-9.html
 今では、神社の裏側というような位置になっているが、川に向かったところにも鳥居がある。かつては川から参詣する人が多かったことを示すのだと講釈師が説明してくれる。
 水神の森跡という看板には、この辺りが隅田川の落ち口(終点)で、ここから入り江が始まったことから、「江戸」の語源になったと書かれている。
 珍しく隊長が鳥居の形に興味をもって、貫が柱を貫通するところにくっついているのは何かと聞かれる。ちょうど『図説歴史散策事典』をもっていたから開いてみれば、なんのことはない、そのままに「楔」という。昔、木で作るしかなかった時代、柱に開けた穴から貫が緩まないように、楔を打ったものだろう。それがコンクリートになった今でも形としては残っている。隊長は頻りに「珍しい、はじめて見る」と言うが、これはどこにでもあるような気がする。たぶん隊長は、鳥居なんか今まで真剣に見たことがないんじゃないか。
 ちょうど清水さんも聞いているので、鳥居について解説を試みるが、実はそのとき私は間違って「稲荷系」と言ってしまった。鳥居の形は大きく分ければ、神明系と明神系に分類される。神明系は伊勢神宮に代表され、最もプリミティブな形式で、全てが直線で構成される。ここの鳥居は笠木の左右が少し反り上がって、貫が柱を貫通している。笠木と貫の真ん中には額束があり、柱は垂直ではなく八の字形に開いているから、これは「明神鳥居」の一般的な形だ。「稲荷系」はこれと基本的には同じ形なのだが、柱が笠木に触れるところに台輪というものがついているのだ。この鳥居にはそれがない。
 鳥居なんて全く関心がなかったのに、芝神明宮の鳥居の前であっちゃんが鳥居の資料を配ってくれたのがきっかけで、それから私も基本的な形だけは覚えて見るようになった。

 墨堤通りに出て歩けば、貢が信号機の表示を目敏く見つけて文句をつける。日本語では「白鬚橋東詰」、ローマ字では Shirahigebashi Higashi とあって、「詰」はどこにいくのか。分らないよ。表示板のサイズというものがある。車から見えやすい文字の大きさと言うものもある。だからサイズとして入りきらなかったんじゃないか。しかし、もう少し歩けば、今度はちゃんとローマ字でも入りそうなのに、やはり省略してある表示板を見つけたから、この意見は却下される。
 白鬚の「鬚」の文字についても隊長と貢が不思議がるが、これは顔のどの部分に生えるかで、表記が違うのだ。「鬚」は顎ヒゲ、「髭」は口ヒゲ、「髯」は頬ヒゲを表す。英文科のあっちゃんが英語にも区別があると断言する。悔しいから後でこっそり調べると、顎ヒゲはbeard、口ヒゲはmustache、頬ヒゲはwhiskerかな。whiskerは猫の頬ヒゲなんて書いてあるから違うかも知れない。これでは英文科の美女に笑われてしまう。
 白鬚橋のちょっと手前を右に曲がれば大正通りで、東武伊勢崎線を突っ切って玉の井いろは通りに続いていく筈だが、今日はそちらには行かない。
 そんなことをしているうちに白鬚神社にやってくる。やっと今日ふたつめの七福神に辿り着いたことなるのだが、ただし祭神は猿田彦で、本当のことを言えば七福神の寿老人には関係がない。この界隈に七つを揃えようとしても寿老人だけがどうしても見つからなかったため、白鬚から老人を連想し「寿老神」とした。蜀山人たちも結構適当にやっているが、もともと洒落で始めたものだろうから、目くじらを立てることはない。
 「隅田三絶」の碑というものもあるが、全く読めない。看板の説明をそのまま引けば、隅田川の風物を詠じた佐羽淡斎の詩に大窪詩仏が筆をとった。五言絶句とか七言絶句とか言葉は出てきても、漢詩の教養がないとこういうのはまるで分らない。それにこの二人の名前も知らないから情けない。
 空からは小さな白いものがちらちらしてくる。昼食は百花園で摂ることになっていて、すぐ近くだから、講釈師は急ぐ。

 百花園の入場料は百五十円。六十五歳以上は七十円になる。こういうとき高齢者は得だ。「我々は顔でごまかせないか」と貢は言うが、私たちにそれは無理だろう。ここには福禄寿だ。「春夏秋冬花不断。東西南北客争来」の門を潜る。気の早い桜が咲いているのは彼岸桜か。紅梅が美しい。
 百花園の創始者は北野屋平兵衛こと佐原鞠塢、仙台から出てきて骨董商で財を成した。多少のマガイ物も商ったらしい。旗本多賀氏から三千坪の土地を買い受けて梅千本を植えた。梅の名所はすでに亀戸の梅屋敷がある。そこで新梅屋敷または花屋敷ということにした。
 やがて鞠塢は、蜀山人、亀田鵬斎、村田春海、加藤千蔭といった文化人たちに声を掛けて庭園設計を依頼した。ところがいずれも一家言のある教養人。おらが天下で統一プランがまとまらない。そこでめいめいに一区画ずつ設計してもらった。だから各パートがてんでバラバラなのだ、ともいわれるが、そんな分裂気質的な庭園配置も悪くはないではないか。もっとも何度か代替わりしたので、いずれにせよ今の百花園から当時の原型は想像し難い。(種村季弘『江戸東京《奇想》徘徊記』)

 この百花園が、一度は全く荒廃状態に陥ったことを昭和二年に荷風が書いている。

 わたくしが鞠塢の庭を訪うのも亦斯くの如くである。老人が眼鏡の力を借るが如く、わたくしは電車と乗合自動車に乗って向島に行き、半枯れかかっている病樹の下に立って更に珍しくもない石碑の文をよみ、また朽廃した林亭の縁側に腰をかけては、下水のような池の水を眺めて、後且つ倦まずに半日を送る。(中略)
 梅は次第に枯死し、明治四十三年八月の水害を蒙ってから今は遂に一株をも存せぬようになった。(永井荷風『荷風随筆』)
 明治四十三年の水害というのは、八月八日から十一日にかけ、東海から東北にかけての豪雨による大洪水で、東京府下の浸水家屋十九万四千戸に及んだ。明治期、東京の水害として最大の規模だった。
 三ヶ所くらいに分かれて昼食だ。四阿の前には牡丹の植木鉢が置かれていて、白と濃いピンク色(赤紫と言うのかも知れない)との二種類が咲いている。寒牡丹と言うか。種類は普通の二季咲きのものだが、人為的に細工することによって冬に花を咲かせる。それを見ながら弁当を広げるが、座っていると足の先から腰まで冷えてくる。ただ、さっき落ちかかってきた雪はあれだけで、すぐに止んだ。
 寒牡丹ただ一瞬の粉雪かな  眞人
 貢が体の芯から温まる、匂いのある水をペットボトルに詰めてきたので、魔法瓶の蓋に一杯貰う。
 講釈師は自分一人だけ、急須にお茶を入れたお盆を持ってくる。茶店で手に入れられるのだろうが、ずるい。あっちゃんが蜜柑をくれた。サッチーが林檎をくれた。貢は九州土産だという煎餅を取り出す。しかしこの煎餅は甘い。私は甘いものを煎餅とは呼びたくないが、ダンディによれば上方では甘いほうが主流らしい。食事を済まして園内を歩きだす。萩のトンネルが綺麗なんだと説明しただけで講釈師はすぐ出発だと声をかけるが、まだ良く見ていない。石碑がいくつもあって、それをちょっと見るだけの時間をやっともらえた。
 山上憶良「秋の七草の歌碑」。芭蕉「こんにゃくのさしみも些しうめの花」、「春もややけしきととのう月と梅」。大窪詩仏「画竹碑」。其角堂永機「朧夜やたれをあるじの墨陀川」。日本橋石柱。等など。
 もうちょっと時間をかけてみたいところだが、リーダーは天気を気にしているのだろう、やたらに急がせる。門を出て講釈師はどんどん歩き始めるが、気がつくと貢の姿が見えない。受付の女性に許してもらって中に戻ると、胡桃沢さんと貢がゆっくりと歩いてきた。
 頻りに寒がる貢に、高校時代を思えばこんな気温はなんでもなかったじゃないかと若かった頃を思い出す。冬の体育の授業は大抵サッカーと決まっていて、雪のグラウンドを裸足で走り回って風邪もひかなかった。胡桃沢さんも信州の出身だそうで、「そうよね、あの寒さを思えばね」と笑う。
 道の途中に「西川春洞・寧住居跡」の案内板を見て、寺山夫人が「見ていきたいよね」と悔しそうに話しかけてくる。なにしろ今日の講釈師は歩く速度が早い。構わずどんどん先を行ってしまう。「寧先生にはとっても世話になったのよ」どうやら書家のようで、それなら寺山夫人は書を良くするのだろうか。確か橋口さんも書道をやっている筈だ。どうもこの年代の女性は凄い。何も知らない私は調べてみるしかない。
 (西川春洞は)江戸の生まれ。名は元譲。字は子謙。春洞は号。別に絵・篆刻用に如瓶人・大夢道人・茄古山民と号す。肥前唐津藩士元琳の子。
 初め祖父亀年の手本によって手習いを始めた。嘉永四年(一八五一)五歳のとき中沢雪城の門に入り書法を学んだ。六歳のときに楷書で〈千字文〉を書き、また方六尺の〈奇秀〉の二大字を書いた。さらに万延元年(一八六〇)一四歳のときには楷書・行書・草書の三体の〈千字文〉を書いた。
 慶応元年(一八六五)十九歳の頃から唐の法帖・拓本の臨書に努めた。明治元年(一八六八)二十二歳のとき大蔵省に出仕したが、まもなくやめた。そしてその後は文墨に専念した。多趣味にして多芸多能の人であり、俳句・狂歌・都都逸・端唄・三絃・月琴などを善くし、さらに絵も描いた。
 十三年、楊守敬が来朝して、六朝碑学の新しい動向を紹介した。これがきっかけとなって、十五年に中林梧竹が清国へ行き潘存に書法を学び、二十四年には日下部鳴鶴も清国へ行き呉大徴・楊見山に益を受けたが、春洞は清国へも行かず、専ら拓本・法帖によって中国の書法を学ぶことに努めた。春洞の門下から豊道春海をはじめ、すぐれた弟子が輩出している。西川寧は春洞の三男。
 http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/syuuzouhin/kaisetu/jiku-japan/108%20nisikawa2.htm
 寺山夫人が「寧先生」と呼ぶ人は、昭和の三筆、「書の巨人」とも呼ばれる。指摘されなければそのまま通り過ぎてしまっただろう。誰かと一緒に歩くから、こういうことに出会うのだ。
 墨堤通りから、ちょっと下るような道の頂上になるだろうか、角のところに子育て地蔵があって、石碑には御詠歌が記されている。一応書いておこう。
    濁らじとねがひをかけむ地蔵坂 しほのみちひに変わるときかな

 地蔵坂通り商店の幟がはためいている。さっきよりは少し暖かくなってきた。昼食時が一番寒かったかもしれない。小さな児童公園は「露伴児童遊園」と名付けられている。蝸牛庵の跡だ。ただしこれは第二蝸牛庵で、明治四十一年から大正十三年に小石川伝通院そばに転居するまで露伴はここに住んだ。明治三十年から住んだ第一蝸牛庵は、少し離れたところにあって、娘の文もそちらで生まれた。
 「あそこの酒屋の親父さんは、文さんを見たことがあるって言ってたよ」講釈師が説明する。しかし、ここで文を見かけるには、大正十三年に物心付く年齢になっていなければならない。とすれば現在、少なく見積もっても九十歳は越えているだろう。なんとなく怪しげな話だ。
 掃いたり拭いたりのしかたを私は父から習った。掃除ばかりではない。女親から教えられるであろうことは大概みんな父から習っている。パーマネントのじゃんじゃら髪にクリップをかけて整頓することは遂に教えてくれなかったが、おしろいのつけかたも豆腐の斬りかたも障子の張り方も借金の挨拶も恋の出入も、みんな父が世話をやいてくれた。(中略)
 はっきりと本格的に掃除の稽古についたのは十四歳、女学校一年の夏休みである。教育は学校の時間割のように組織だってしてくれたというのではない。気の向いた時に教えてくれるのだが、大体十八位までがなかなかやかましく云われた。処は向嶋蝸牛庵の客間兼父の居間の八畳が教室である。(幸田文『あとみよそわか』)

 カタツムリの遊具が置いてあり、「露伴文学碑」が建つ。

 世おのずから数というもの有りや。有りといへば有るが如く、無しと為せば無きにも似たり。洪水天に滔るも、禹の功これを治め、大旱地を焦がせども、湯の徳これを救へば、数有るが如くにして、而も数無きが如し。『運命』より
 私は露伴の読者ではないので、この文章は知らない。しかし「禹」とは何であるかと胡桃沢さんに聞かれれば、答えなければならない。尭・舜・禹と続く、古代中国の伝説の皇帝である。治水に功績があって、舜の後の王に推された。ここまでは良い。しかし口が滑って私はまたうろ覚えの好い加減な知識で嘘を言う。「三皇五帝っていう、その三皇のひとりだよ」実にバカですね。ちなみにこの頃、「皇帝」という称号はまだない。秦始皇帝によって始まる。
 伏義・神農・太昊を三皇と称す。炎帝・黄帝・少昊・??(センギョク)・?(コク)を五帝と言う。その後に尭・舜・禹・湯と続く。禹は夏王朝の始祖と考えられ、湯は、その夏王朝最後の桀を滅ぼし、殷王朝を創始したことになっている。

 「ここが鳩の町」と講釈師が左斜めに通る路地を指差す。
 「吉行淳之介の『原色の街』がそうだよね」珍しく講釈師の口から文学作品の名が飛び出す。『原色の街』なんて高校時代に読んだだけで、さっぱり忘れている私は、滝田ゆう『寺島町奇譚』を口にする。「この道抜けられます」ダンディはわざわざその看板を見に来たことがあるそうだ。「銘酒屋なんて、ネーミングが良いですね。そんな良い酒なんか出さないんでしょうにね」
 銘酒屋は明治の末から関東大震災の頃まで、浅草十二階(凌雲閣)の北あたりにあった私娼窟だ。公然と遊郭とは名乗れないから、酒を売るという看板を出したものだろう。大正の半ば、東京全体では千件を越える銘酒屋のうち、その半数がそこに集まっていたと言われる。関東大震災で焼け出され、川を越えて集まったことから墨東の色町の歴史が始まった。それが玉の井で、後に太平洋戦争で罹災した業者が移転して開いたのが鳩の街ということのようだ。
 商店街の表側には店の看板が並んでいるが、その裏側の路地は、店やアパートの裏側に当っていて、いかにも裏寂れた風景が続いている。首都高速と高層団地ばかりの向島に、漸く墨東らしい気分が漂ってきた。

 講釈師が前のほうで何かを言っているが、良く聞こえない。なんだかラーメン屋がどうとか言っているようだが、私の前を歩いている一柳さんにも聞こえないらしい。今日の講釈師は、女性陣を率いてどんどん先を歩きながら、女性にだけ分るように話しているから、いつもの講釈が聞こえない。
 確認すると、右手の空き地で王貞治が練習していたこと、隅堤通りの反対側にはその生家のラーメン屋があったということだ。確かに空き地の入り口には「隅田公園少年野球場」の看板が掲げてあって、ゲートの左右には投手と一歩足の打者のレリーフが嵌め込んである。これが王貞治なのだろう。
 言問い団子の店はコンクリート建築だから、昔を偲ぶものは何もない。三木さんが店に入って団子を買った。

 「見番通り」という横丁に入り、長命寺に着く。ここは弁財天だ。細長い卵塔のような形の石(というよりも何か別の形を現しているのだろう)には「好色院道楽宝」とあり、講釈師が嬉しそうに(そして、いやらしそうに)、女性陣に説明する。杯の形の円形の碑には「好酒院杓杯□居士」とある。「二つとも男子の本懐」隊長の言葉に、「まだ大丈夫ですか」とダンディが冷やかす。木の実ナナ「風のように踊り花のように恋し水のように流れる」という碑もある。
 成島柳北の大きな顕彰碑には、肖像が彫られている。柳北の墓は成島家中興の祖である錦江とともに、雑司が谷墓地にある。顔が馬のように細長いと言うのを誰かの文章で読んだ気がするが、その通りだ。しかし文学少女は柳北を知らない。
   柳北の顔の長さや梅の花  眞人
 墨田区教育委員会名義の看板には、「幕末明治の随筆家であり、実業家です」と書かれていて、「実業家」という文字には違和感がある。荷風が尊敬した柳北のイメージに合わない。
 柳北は幕府奥儒者の家に生まれ、徳川家定、家茂に侍講するが、献策が採用されないため狂歌で批判し、解職された。洋学を学び、儒者としては異例なことに武役に抜擢された。説明板には「慶応元年以来重んぜられ外国奉行となり」と書かれていて、あれっ、騎馬奉行だったんじゃないかと年表を開いてみれば、確かに最後の外国奉行に就任している。
 幕府瓦解後は明治政府に使えることを拒み、「朝野新聞」に拠って政府を風刺する筆を執った。文筆家として『柳橋新誌』『花月新誌』が有名だが、この漢文は私には読めないのが悔しい。荷風は遺族から柳北日記の原文を借り入れ全文筆写するほど尊敬した。森銑三はこんな風に書いている。
 附けていう、『柳橋新誌』『京猫一斑』などの著者としての柳北は、風流に韜晦した才子だったようにも見られるが、その柳北に、いかに敬重すべき一面のあったことは、「柳北全集」一冊を熟読することによっても知られよう。柳北はもとより才人であったが、ただ才だけの人ではなかった。肚に涙があった。そして操觚者としての柳北は、弱者の味方として立っている。そうした心構えが、その文をして品格のあるものたらしめている。その文は、技巧の裡に真実の蔵されたものとなっている。その文には、柳北の生命の宿っていることを感ずる。(森銑三『明治人物夜話』)
 説明板には、生命保険制度の母体である「共済五百名会社」の創設に参加したことで、実業家としての柳北の功績を記念すると書いてある。こんなことは全く知らなかったし、繰り返すが、柳北と実業とは似合わない。強いて言えば、旧幕の江戸っ子、文人、漢詩人というのが柳北に相応しい。
 ほかにも「五狂歌師辞世之句連碑」というのもあるらしいが、講釈師が急かせるからゆっくり探している暇がない。
 講釈師に率いられて桜餅を売っている店の方に行っていた女性たちが帰ってきて「空いてたからすぐ買えるわよ」と言うが、誰も買った気配が無い。正岡子規の年譜の明治二十一年(二十一歳)のところに、「夏休みを、向島長命寺境内の桜餅屋月香楼に過ごし、藤野古白らと俳句や短歌のほか随筆を書く。」とある。(ちくま日本文学全集「正岡子規」)

 弘福禅寺は、今日の七福神めぐりでは最も立派な寺だ。屋根の形が中国風だと講釈師が指摘する。黄檗宗。山門の屋根の左右の鉾はどうやら龍だ。道路を渡らないとカメラに入りきれない。本堂のほうは魚のようだから、しゃちほこなのだろう。右側の奥に布袋が見え、折角だから写真に撮ってみるが、硝子越しだとよく映らない。「布袋様って何の神様なの」三木さんと橋口さんが話している。唐末の時代の禅僧で名を契此(カイシ)と言う。七福神のなかでは唯一実在とされる。大きな袋は喜捨を受けるためで、これを担いでどこでも放浪した。
 「咳の爺婆」。風外和尚が彫ったので、風邪に利くだろうというのだ。「私は四十年来、風邪なんかひいたことがない」とダンディは豪語する。
 鴎外の墓は三鷹の禅林寺にあるが、亡くなったときにはその遺志で弘福禅寺に葬られたという。
 横丁を歩けば向嶋墨堤組合見番なんて建物を見る。ここは三業地なのだね。「さて、三業地とは何ぞや」貢は答えられない。料理屋、芸者置屋、待合を三業と言い、これらが集まっている街が三業地だ。時折吹き付ける風が冷たい。
     探梅や風吹きつける向島  眞人
 三囲神社の鳥居を見れば、清水さんが「さっきの鳥居とおなじですね」と気がつく。その通り全く同じ形式だ。ここには大国神と恵比寿がいて、これで七福神が完成する。燈籠のような石造物に、「最古の記年銘」と案内が書かれている。そうなのか、裏に回ってよくよく観察しているうちに、「宝永三年(一七〇七)の文字を貢が見つけた。伊賀上野の藤堂家が寄進したものだ。
 三角石鳥居というのが珍しい。三井家(越後屋)にあったもので、柱が三本、上から見ると三角形になる鳥居がある。角度によっては普通の鳥居のようにも見え、「お化け煙突みたい」と橋口さんたちが笑っている。三井の信仰が篤かったようで、三越マークの石がある。
 講釈師が急がせるからゆっくり見学もできない。お蔭でいつもならたっぷり聞かされる講釈も、今日は耳に入らない。元禄六年(一六九三)、日照りで雨を待つところに其角が訪れた。雨乞いの句を詠むように頼まれた其角はすぐさま短冊に書いた。
夕立や田をみめぐりの神ならば  其角
 これで、当面の目的である七福神めぐりは完了したが、この界隈にはまだ見るべき場所がいろいろある。
 神社の裏手には竹屋の渡しの跡。「島倉千代子の『すみだ川』にでてくるんじゃないの」というのが貢の記憶だ。歌ではなく間に入る科白の部分だろうが、私は知らない。もともとは東海林太郎の歌のはずで、それには科白なんか入っていないからね。

 隅田公園の一角、牛島神社に入る。祭神はスサノオ。もともと地名が牛島というから牛島神社だ。当て鉄砲で推測すれば、スサノオは牛頭天王と看做され、それが牛島の地名と習合して、スサノオを主神としたのではないか。(全く根拠がないけれど)
 柵で囲まれたところには「浮島の牛牧」の説明板がある。
 文武天皇(七〇一〜七〇四)の時代、現在の向島から両国辺にかけての牛島といわれた地域に、国営の牧場が設置されたと伝えられ、この周辺もかつては牛が草を食んでいたのどかな牧場で、当牛嶋神社は古代から牛とのかかわりの深い神社であったといえます。
 大宝元年(七〇一)、大宝律令で厩牧令が出され、平安時代までに全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が三十九ヶ所と、天皇の意思により三十二ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置され、この付近(本所)にも官牧の「浮嶋牛牧」が置かれたと伝えられています。
 「撫牛」をみんなが触っている。普通の牛の大きさで、赤い涎掛けをかけている。
 公園には「堀辰雄住居跡」の看板が立つが、こんな公園になってしまっていては、当時の様子がどうだったかなんて、全く分らない。
 明治四十年、向島土手下の小さい煙草を商う家に、堀辰雄は、祖母と母親にまもられ、かぞえ年四歳になっていた。隅田川の橋を渡って浅草公園に、いつも母親と遊びに行ったが、やはり子供を遊ばせている母親達が辰雄の顔を見ながら、つくづく言った。
 「このお子さんは何という俳優のお子さんですか。」(室生犀星『我が愛する詩人の伝記』)
 気づいたのは隊長と私と数人で、ほとんどの人は知らずに通り過ぎたのではないだろうか。「富田木歩終焉の地」と書かれた、割に新しい綺麗な柱が立つ。
かそけくも咽喉鳴る妹よ鳳仙花  富田木歩
 名前に記憶はなかったが句は見覚えがあるような気がする。実はつい二三日前に読んだばかりなのに、すっかり忘れていた。
 木歩は明治三十年本所向島小梅町に生まれ、大震災の時向島枕橋畔料亭八百松近くの堤の上で行方不明となった。貧家に生まれ、二歳にして足なえとなり、小学教育も受けることができなかったが、「いろはがるた」と「どんめんこ」でわずかに字を習い覚えた。四人の姉妹と一人の聾唖の弟があったが、姉妹は次々に苦界に身を沈め。そのうち妹一人と弟とは胸を患って死んだ。(中略)
    かそけくも咽喉鳴る妹よ鳳仙花
 大正七年作。弟の利助を亡くした彼は、この年また妹まき子に死なれた。この妹は幼にして女工となり、六年には身を売って向島新松葉の半玉となった。「桔梗なればまだうき露も有りぬべし(わが妹の一家のために身を売りければ)」「居眠りもせよせよ妹の夜寒顔(身を売りし妹の朔日の宿下りとて来たれども、奉公なれぬにやいたく窶れしさま哀れなり)」などの作がある。(中略)
 二十歳代にしてこのような特異な完成した境地を打ち立てた作家は、後に不器男が現れるまでは誰もいないのだ。だが青春俳句というには、あまりにも悲しくすんでいる。(山本健吉『定本現代俳句』)
 わずか十七文字の俳句に境涯を語る。足が動かないから「木歩」か。享年二十七。隊長が「妹は恋人のことではないか」と言う。確かに万葉の頃にはそうだったが、これは明らかに実際の妹のことだ。「かそけくもとは?」かすかに、淡く。幼くして身を売られた妹が、結核を病んで傍に寝ている。その妹の喉が、ヒューヒューと力なく、か弱く鳴っているのだ。ついでだから木歩の句を少し拾っておきたい。
  背負はれて名月拝す垣の外
  我が肩に蜘蛛の糸張る秋の暮
  床ずれに白粉ぬりぬ牽牛花
  涙湧く眼を追ひ移す朝顔に
  死装束縫ひ寄る灯下秋めきぬ
  面影の囚はれ人に似て寒し
 この公園は水戸藩下屋敷だと講釈師が言い、蔵屋敷が正しいのではないかとダンディが異を唱える。川沿いにあったのなら蔵屋敷かもしれない。ダンディは古地図をもとにして大名屋敷にはずいぶん詳しいのだが、いろいろ調べてみればやはり、ここは下屋敷だったようだ。水戸藩上屋敷は初め江戸城内松原小路、のち本郷小石川に移る。中屋敷は本郷駒込、そして下屋敷が本所小梅(つまりここだ)にあった。別に「小梅屋敷」とも呼ばれる。
 「正気歌碑」は藤田東湖だ。現在の後楽園のところにあった水戸藩邸で、安政二年の大地震で死んだ。「天地正大氣、粹然鍾~州。秀爲不二嶽、巍巍聳千秋。注爲大瀛水、洋洋環八洲。發爲萬朶櫻、衆芳難與儔(後略)」に始まる詩で、私には読めない。
 東湖は、水戸藩重臣として藩政改革に着手したが、弘化元年(一八四四)、斉昭が幕命によって謹慎を申し付けられると、東湖もまた江戸の小梅村にあった藩邸下屋敷(つまりここだ)に蟄居幽閉の身となった。 そこで、ここに碑があるのだが、私には読めないこの漢詩が、幕末の志士を鼓舞したことになっている。
 私は幕末水戸藩の余りにも極端な尊攘思想が実は良く分らないのだ。水戸藩は尊皇攘夷の先駆けになったが、天狗党に至るその凄惨な抗争は、水戸の独特な風土とどう関係があるのだろうか。このため明治維新なったとき、水戸藩は有為な人材をほとんど失った。川崎ロダンを見ていると、こんな過激な土地に生まれた人だとは到底思えない。イデオロギーが人を殺す。
 「春」(春のうららの隅田川)の歌碑。「雪の日の隅田は青し都鳥」子規の句碑がある。どうしたわけか、時折日が差してくる。講釈師が「どうだい」と自慢するのがおかしい。
 言問橋を渡る。「川鵜だよ」隊長の声に私は「あー」と気のない返事をして叱られる。どうも鳥は苦手だ。空を一瞬よぎる鳥の影を、よく見つけ、そして種類を鑑別するものだ。
 川を渡れば墨田区から台東区にはいるのだが、この辺で私のカメラは充電が切れたし、私自身もそろそろ疲れてきたので、記憶が曖昧になる。順序が間違っているかもしれない。左に待乳山を眺めながら、講釈師の足はまだ北に向かう。「浅草に向かうんじゃないの」と驚くのは寺山夫人だ。

 今戸神社は招き猫発祥の地だ。天保の頃、今土焼きに型物というのが流行り、力士不知火を模したものや、九郎助稲荷用の狐、口入稲荷用の狐など、特殊の考案を加えたものを出していた。その中に招き猫もあったのが、初めになる。あっちゃんが本殿の前で集合写真を撮ってくれる。
 花川戸公園には「姥ケ池旧跡」の碑がある。池は小さくて、伝説にあるようなおどろおどろしいものではない。その伝説とはどういうものか。
 浅草観音の周辺がまだ草深い田舎の昔、その一隅の一軒家に一人の娘を持つ夫婦が住んでいた。
 夫婦は娘に旅人の袖を引かせ、いつも石の枕という石があるところに案内させた。旅人が娘に夢中になっていると、夫婦が忍び寄ってきて旅人の頭を砕いて衣類などをはぎとった。
 娘は次第に後悔の念にさいなまれるようになった。
 あるとき、彼女はまた旅人をさそったと両親に告げ、自分が男の格好をして石のところに横たわった。それとは知らない両親はいつもの行動に出た。殺されたのは、当然娘だった。夫婦はようやく悪事を悔い、それから娘の菩提をとむらうようになった。(新潮社『江戸東京物語』)
 別に、前非を悔いた老婆が池に飛び込んだという説もあるようで、それが姥ケ池の名前になったというものだ。
 助六にゆかりの雲の紫を弥陀の利剣で鬼は外なり  団洲
 助六歌碑だ。花川戸の助六。団洲は団十郎。私は全く知識がなく、こんな本で教えられるのだ。
 江戸っ子に最もよく知られていた歴史上の人物は誰か。曽我五郎である。(中略)正月はどの大芝居に行っても、曽我物を上演していたのである。(中略)
 江戸の庶民が最も愛した作品は助六(市川團十郎が上演する時の名題は「助六由縁江戸桜」)である。この助六劇の主人公、助六も実は曽我五郎で、侠客に身をやつし吉原に通っている、という設定だ。(中略)
 たとえば、現代のすし屋も醤油を「紫」と言っている。昔は「助六」と言った。紫は助六の鉢巻の色で、イメージカラーになっていた。(中略)
 また、巻きずしと揚げずし(稲荷ずし)を組み合わせた弁当を「助六ずし」という。巻きずしの海苔を助六の鉢巻に見立て、揚げと巻きを助六の恋人である太夫の揚巻に懸けて名付けたようだ。(赤坂治績『江戸っ子と助六』)
 こんな風に江戸っ子の代名詞にもなっている助六だが、実際は上方起源になるというから、話はややこしい。上記の書によれば、助六・揚巻の心中事件を劇化した作品が宝永年間(一七〇四〜一一)、上方歌舞伎にでてくるらしいのだ。これを江戸にもってきて潤色したものだ。

 待乳山聖天。「どこに山があるのかしら」と胡桃沢さんが悩むが、上まで登って下を見れば、確かにここは山らしいと思えるから不思議だ。海抜九メートル半、千坪の丘陵をなしている。待乳山本龍院名義のパンフレットを見れば、万治、寛文の頃(一六五八〜一六七二)までははるかに大きな山だったと推測される。昔は「真土山」と書かれていたらしい。関東大震災の後、防災上の見地から周囲をコンクリートで固めたそうだ。
 大根が名物らしい。同じパンフレットに「大根は人間の深い迷いの心、瞋の毒を表すといわれており」なんて書いてある。本当かね。大根を供えると聖天様がこれを洗い清めてくれるのだそうだ。
 二股大根が交わっている碑。戸田茂睡の歌碑「哀れとは夕越えて行く人も見よ 待乳の山に残す言の葉」。築地塀。「谷中でも見たでしょう」と隊長に言っても、どうやら記憶が曖昧だ。貢の質問に、聖天は歓喜天だとダンディが教える。グーグルで「聖天」を検索すると、第一番にウィキペディアの「歓喜天」が出てくる。
 長い鼻をもつ象頭人身の像で、日本では男女二体の像が向き合って抱擁している形に表わすものが多い。他に単体のものや多臂像(腕が四本または六本)もあるが、造像例は少ない。男女抱擁像のいわれは、もともと乱暴な神であった歓喜天の欲望を鎮めるために、十一面観音が天女の姿に化身して抱擁したというものである。こうした像の性格上、歓喜天は秘仏とされ、一般には公開されないのが普通である。
 聖天の南側に思いがけず「池波正太郎生誕の地」の石碑があった。随分新しいのはそのはずで、去年十一月にできたばかりだ。大正十二年一月二十五日、池波正太郎が生まれたときの住所表示は、東京市浅草区聖天町六十一番地だが、関東大震災で焼失した。

 南に向かえば浅草寺。人が一杯だから迷子にならないよう、全員が固まって歩かなければならない。仲見世の途中から伝法院通りを右に曲がり鎮護堂に入る。通称「お狸様」と呼ぶ。柵の向こうに伝法院の庭園が僅かに見える。
 「歌舞伎の手形があるんだよ」と講釈師が連れて行ってくれたのは、浅草公会堂の前の歩道で、「スターの広場」と名付けられ、平成十九年二月の時点で二百六十九名の芸能人の手形が押されている。美空ひばりの手は小さい。左手を押しているものもいる。「押し方で性格が分るような気がする」とあっちゃんが言う。強く押し付けているもの、浅く遠慮しがちなもの。手相まではっきり見えるものもある。名前だけで手形がないのはエノケンだ。台東区発行の『スターの広場』に趣旨が書かれている。
 台東区の誇る庶民の盛り場(浅草)は、江戸の昔から、猿若三座の名で知られる江戸歌舞伎をはじめ、オペラ、映画など大衆芸能のメッカとして、多くのスターを世に送り出してまいりました。
 区では、大衆芸能の振興に貢献した芸能人の功績をたたえ、その業績を後世に伝えるために昭和五十四年より手形とサインを「スターの広場」に設置しております。(台東区長・吉住弘)
 これは見るだけで飽きないが、何しろ人通りが多いからゆっくりしていられない。人力車の車引きが客に説明している。この混雑のなかを人力車に乗って観光するとは優雅と言うか、どちらかといえばバカではあるまいか。(差別的表現)
 仲見世はいつ来ても人ごみで歩きにくい。私の腰が少し痛くなってきた。雷門の大提灯には「松下電器」の名前が書かれていて、「パナソニックに作り直さなくちゃ」と貢が笑う。提灯の底(なんというのだろう、正式な名称があるはずだよね)には龍の彫り物があって、これは初めて見る。
 観光案内所でパンフレットを仕入れ、「甘酒を飲みにいく」という講釈師が全員を引き連れて歩く。その甘酒は、寺山夫人たちの期待とは違って立ち飲みの店だったから、ここで里山の女性陣は別れていった。講釈師、あっちゃん、貢の三人が甘酒を飲む。私は本当の酒が飲みたい。
 不思議なことに、雪は昼時に一瞬散らついたように落ちたが、予想に反して全く濡れることなく全コースを終了した。講釈師の得意思うべし。
 酒を飲まない講釈師と別れ、私たちは反省会を実施するため店を探す。神谷バーのそばの「和民」はまだ開店していないが、通りの向こうの「つぼ八」が土曜日は十二時からやっている偉い店だった。隊長、ダンディ、貢、私、あっちゃん、サッチー。いつもと変わらぬメンバーで浅草の夜となる。二次会も恙無く終了し、店を出ると漸く東京は雪になっていた。