「東京・歩く・見る・食べる会」
番外 築地・佃島・浜松町編   平成二十年七月十九日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2008.07.29

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 先週の「早稲田・神楽坂編」に続き、今日はあっちゃん企画の番外編コースである。この暑いのにご苦労なことだが、リーダーの最初の計画では「かしまし娘編」として女性だけを対象にしたものだったが、思いもかけず物好きな男どもも参加したから、予想以上の人が集まった。
 指定された集合場所は築地駅「進行方向一番前の改札口」ということだった。ところが私と碁聖は逆方向から来たものだから、一番後ろの本願寺方面と記された改札を出ると、集合場所とは違ってしまう。いったん外に出て、道路を横断してもう一度地下鉄の入り口から降りて合流した。
 あっちゃん、橋口、ノボたん、悠子、大橋、胡桃沢、のんちゃん、講釈師、ダンディ、碁聖、モリオ、私の十二人だ。モリオはいつものように昨日の酒が抜けていない。「昨日も静岡で飲んで帰ってきたんだぜ」営業は大変だ。私のほうは、昨日はあんまり蒸し暑くて能率が上らず、結局半休をとったことにして四時で終わってしまったから調子は良い。
 しかし今日も暑い。

 地下鉄の階段を上り、本願寺通りに設置してある地図を前に美女が今日のコースについて説明を始めると、プロの観光ガイドだと思ったのではないだろうか。外国女性が魚市場の場所を尋ね、美女はちゃんと英語で答える。さすがに英文科は違う。しかし今日の彼女はただ一点失敗した。「熱中症予防に帽子を。そして飲み物を充分に用意して下さい」と言うのが、自分自身で作成した案内文なのに、そのリーダーが帽子を忘れている。これはまずいんじゃないか。
 最初は本願寺である。築地本願寺は、元和三年(一六一七)、横山町に創建されたが明暦の大火(一六五七)で消失し、代替地として八丁堀海上が下付された。海上をもらってもそのままでは何もならない。佃島の門徒が中心となって大火で発生した瓦礫や土を盛り、海を埋め立てて土地を築き、延宝七年(一六七九)本堂の再建がなった。それが築地の地名の起こりになる。私たちが今見ている本堂は、その江戸時代の建物でないのは一目瞭然で、関東大震災で崩壊したものを伊東忠太設計によって昭和九年に落成したものだ。
 「伊東忠太は、不思議な動物を飾るのが好きだったんです」リーダーが説明する通り、狛犬には羽根が生えている。グリフィンであろうか。本堂に入れば更に様々な動物が見られるらしいが「今日は時間がないので行きません」そう言っているのに講釈師はさっさと本堂の中に入ってしまう。他人の話を聞いていない。なんでも珍しいパイプオルガンがあるようで、講釈師はそれを紹介したかったらしい。約二千本の管をもつもので、毎月一回、ランチタイムコンサートが開かれるのだ。
 一見してお寺という建物ではない。このイメージはなんだろう。シルクロードにでもあったか、あるいはインドにでもある宮殿のような、さらにはパルテノン神殿のような不思議な建物だ。
 私はこの分野に関しては全く無知なのだが(と言うよりも、知っている分野のほうがはるかに狭いのだが)、伊東忠太は建築史家として、法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に立証したという。そんな学問的なことよりも「松岡正剛の千夜千冊」が『伊東忠太動物園』(筑摩書房)を紹介していて、これを読んだだけでも面白そうな建築家だと思う。
    築地本願寺や湯島聖堂や平安神宮を設計した伊東忠太の、建造物に付与された動物装飾だけに焦点をあてたおもしろい一冊だ。いかにも藤森照信の企画っぽい。(中略)「予は何の因果か、性来、お化けが大好きである」に始まる伊東の怪物文様学の論文もいつくか収録されている。(中略)
    伊東はただちに洋風一辺倒の明治建築に対抗し、ユーラシア全域を背景とする建築にとりかかる。しかしその建築作品と建築思想はいまなお、アジア主義の成果だとか、国粋主義的な建築物だとか、国威掲揚に走ったとか、いやいやその造形力は日本建築史でも屈指の独創性をもっているとか、毀誉褒貶がはなはだしい。(中略)
    伊東が執着した動物たちは、すべて異形のものたちである。その異形にはそれぞれ土地と歴史と民族の記憶とが生きている。しかし、いつしかそれらは交じり合い、変形しあって、ついにそのイコンとしての機能を近現代になって喪失していった。
 浄土真宗の宗派は込み入っていてちょっとややこしいのだが、築地本願寺は西本願寺の別院である。「東本願寺は浅草にあります」とダンディが説明する。私の実家の宗旨は東本願寺の系統だと、数年前、伯母の法事のときに土崎湊・明称寺のおっさんが言っていた。ちょっとまとめておきたい。
 本願寺(通称西本願寺)を本山とする本願寺派、真宗本廟(通称東本願寺)を本山とする真宗大谷派が末寺の数で他を圧倒しているが、それに高田派(三重県津市の専修寺)などを加えて真宗十派連合を形作る。
 一方、東本願寺のお家騒動に端を発して、大谷派から独立したのが浄土真宗東本願寺派で、これが浅草にある東本願寺だ。それでは我が家のお寺は、どちらについたのだろうか。ほかにも大谷家の兄弟がそれぞれ独立して東本願寺東山浄苑、大谷本願寺などがあるらしいが、一般の人間にはこんな騒動は関係ない。親鸞自身は寺というものを認めなかったんじゃなかったか。初期真宗教団は「道場」しか持たなかった筈だ。それに親鸞の血を引く一家が数百年にも亘って教団を支配するようなことも、親鸞本人にとっては、与り知らぬことであろう。
 そもそも本願寺が東西に分裂したのは、石山戦争敗北後の政治情勢が深く絡み、家康の宗教政策に教団内部の抗争もあったためだ。本願寺を盟主とする真宗教団(一向一揆)は中世最大の宗教勢力であり、世俗的にも戦国大名と拮抗する一大勢力であった。要するに大きくなりすぎたために、信長に徹底的に弾圧された。また一揆を構成する現場と、教団維持だけを願う中枢との方針の齟齬も大きくなりすぎていた。と言うよりも、一揆の目指す原理(その構成員によって様々な目的があったのだが)と、教団を維持する原理との相克は、中世一向一揆の最大の問題だった。とにかく家康の庇護のもとに、かつての一揆とはまるで違う形に変質した真宗教団は、貴族との婚姻を重ねることで生き延びた。
 ただし、明治の仏教再生を志した清沢満之が大谷派の僧侶だったから、親鸞の思想自体には何か見るべきものがあるはずだ。(数年前に『清沢満之語録』は買ってはみたものの難しくて手に負えないでいる)
 信仰心はないが、高校生私は『歎異抄』をかなり真面目に読んでいたようだ。現在の真宗教団にはあまり関心がないが、本棚から古い岩波文庫を引っ張り出してみた。
    念仏は、まことに浄土にむまるゝたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄に落ちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう。

    善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこゝろかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこゝろをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるゝことあるべからざるをあはれみたまひて、願ををこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よく善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき。
 今でもそうだが、高校生私は実に「煩悩具足」の人であった。リーダーが境内を案内してくれる。芭蕉句碑が建つが碑の表面は摩滅して何を書いているのかまるで分らない。それなのに、説明するものが何もない。「説明板を設置するひとにも読めなかったんじゃないか」最初の文字は変体仮名の「可」であろうかと橋口さんが悩む。宗匠がいたら判読できたかもしれない。「か」で始まるならば、あるいはこれであろうか。

 鎌倉を生きて出でけん初鰹  芭蕉

 芭蕉は一時、魚河岸の魚屋、杉山賢水(杉風の父親)のところに住んでいたことがあるようだ。魚河岸ならば初鰹の句に相応しい。深川の芭蕉庵は杉風の別宅だったから、この親子には相当世話になっている。ただ、この句はどうやら違う。横浜市戸塚区富塚八幡宮に句碑があるそうだ。
 土生玄碩(私は無知で知らなかったが、シーボルトから眼科治療法を学んだ人物で、後シーボルト事件に連座した)、酒井抱一(姫路藩主の次男として生まれたんだよね、関東各地で抱一の絵を見るから、かなり各地を歩いた人物だ)、間新六(赤穂浪士)、森孫右衛門(日本橋魚市場の開祖)などの墓石や供養搭が並ぶ。
 九条武子の歌碑もあるが余り興味が沸かない。ただ、武子が西本願寺第二十一代門主・明如(大谷光尊)の次女であることが分れば、大谷家が天皇家や公家と姻戚関係を作り上げてきた歴史を思い出せば良い。一応、記録しておこう。

 おほいなるものの ちからにひかれゆく わがあしあとの おぼつかなしや

 本願寺を出て、真っ直ぐ行けば築地市場の真ん中に突入する筈だが、そちらは「誘惑が多いので左に曲がります」と言っているのに、講釈師は構わず真っ直ぐ進み、数人が遭難しそうになった。わずか十二人の集団でも遭難の危機に見舞われる。リーダーの指示はきちんと聞かねばならない。
 チラシを配っているので何気なく貰うと、「築地場外市場案内」である。波除通りと晴海通りを両端に、その間にある店舗の案内図になっているのだが、「鮨・特上ネタセットで大サービス二千五百円」と買いてある。上トロ・中トロ・ウニ・イクラ・ぼたんエビ・ズワイガニ・ホタテ貝・鯛・カンパチ・玉子・鉄火巻き・お椀。これがセットになっているのは、「鮨処つきじや」である。チラシによれば、通常の相場は三千五百円相当のものである。高いか安いかと言われれば、確かに安いのだろう。道すがら、寿司屋の値段を見てみると、だいたい相場は三千円から三千五百円というところか。これを食べるために、交通費をかけて人は築地まで来るのだろう。
 私は口腹の欲が薄い。よく、なんとかが旨いから並んだ、とか、なんとかを食べたら普通のものは口にできない、なんて人がいる。そんなものか。私にはそういう感覚が分らないのだ。(味覚が鈍いのだろうか)昔は物が旨い、不味いなんて、男は口に出さなかった筈だ。どういう加減か知らないが、こういうことになると私は途端に儒教倫理の人になってしまう。
 外人の観光客もかなり歩いている。今日から小学校が夏休みに入ったようで、家族連れの姿も多く見られる。私達は場外市場に沿って歩いているが、道路には市場の男たちが操るターレ(ターレットトラック。ばたばた等と称するものらしい)がひっきりなしに、しかもかなりのスピードで通るから、ボヤボヤしてはいられない。ターレットトラックというのは株式会社朝霞製作所の登録商標だが、一般名詞のように使われているらしいから、この世界でもシェア・トップの位置を占めているのだろう。ほかに、富士重工ではモートラック、日本輸送機ではエレトラック、関東機械センターではマイティカーなどの製品名称を使っている。(いつものようにウィキペディアより)
 「引越しは大変だろうね」誰にともなくノボたんが呟く。築地市場移転の話はどう決着がついたのだろうか。「昔、ヤッチャバの引越しのときも大変だったからね」青物市場も移転したことがあるのか。ダンディの証言では、昔秋葉原にあったという。「はるか昔になりました」ダンディの感慨である。
 魚河岸は江戸時代からここにあったのではない、もとは日本橋北岸を中心に海岸沿いに分散してあったものを、関東大震災後、海軍省所有地であったこの築地に移転したものだった。世界最大規模を誇る卸売市場だが、手狭になったこともあり、豊洲の東京ガス跡地への移転計画が持ち上がっている。ただし土壌汚染問題が明らかになって、情勢は定かではない。

 魚河岸水神社。この場所は松平定信の庭園「浴恩園」があった所だとリーダーが説明する。寛政の頃には別荘地として相応しい土地だったということだ。敷地一万七千坪の回遊式庭園であったという。
 波除稲荷。「波除」という文字から、築地一帯の埋め立てに関係すると分る。万治年間(一六五八〜一六六〇)の創建。鳥居を潜った境内には、大きい獅子頭が二つ、向かい合わせに鎮座している。三年に一度の例大祭で、この獅子頭が練り歩くので獅子祭と呼ぶ。すし塚、海老塚、鮟鱇塚などの石には注連縄が張られている。
 門跡橋跡には、「昭和三年六月・復興局建」と書かれた親柱が埋まっている。「建」の下の文字が見えないが「建造」だろうか。大震災の後に造られたのだろう。この下には築地川から分かれた小田原河岸があったそうだが、昭和三十九年に埋め立てられている。
 大体、この辺り一帯は縦横に掘割がめぐらされていたはずだが、それもほとんど全て埋めつくされた。跡地は緑地公園になっている。時折吹く風が、暑さの中にも涼しさを運んでくる。聖路加病院の十字架が見えたところで、「『夢淡き東京』って知ってますか」とあっちゃんが皆に問いかける。知らないことがあろうか。柳青める日ヒバリが銀座に飛ぶ日。「ヒバリではありません、ツバメです」しまった。こんなところで間違えたのは悔しいから以下に引く、サトウハチロー作詞、小関裕而作曲。昭和二十二年に藤山一郎が歌った。つまり、この歌に聖路加病院が登場していると美女は言っているのだ。
    柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日
    誰を待つ心 可愛いガラス窓
    かすむは春の 青空か
    あの屋根は 輝く聖路加か
    はるかに朝の 虹も出た
    誰を待つ心 淡き夢の町東京
 芥川龍之介生誕の地。京橋区入舟町八丁目。この地は隣接する新栄町七丁目とともに、外国人居留地の予備地になっていたが、父の新原敏三が耕牧社を営んでいた。乳牛を飼い、牛乳やバターを製造したのは、外国人居留地に近いためだっただろう。「新原は何と読むんでしょうか」ダンディが読み方を知らなかった。美女も知らない。そして私も知らなかったが、父親の名は「にいはらとしぞう」と読む。
 後、米国聖公会が一帯の土地を入手することになる。外国人居留地は明治三十二年(一八九九)七月に御廃止され、そのときに住所表示が改められて京橋区明石町となった。現在では勿論中央区明石町である。
 長男なのになぜ、芥川家に行ったのか。生後六ヶ月で実母フクが発狂したためだ。フクの兄が芥川を継いでいて、そこに実子がなかったため、十二歳で芥川の籍に入った。ちょうど昨日、芥川の遺書が自宅で発見されていた(らしい。私は毎日新聞は読まないので知らなかった)「偶然なんですよ、今日ここに立ち寄ること分っていたので、何か縁があるのかしら」詳しいことは私にはまだ分らないが、下書きのようなものだろうか。
 浅野家上屋敷跡。ほぼ聖路加病院の敷地と重なるだろうか。築地鉄砲洲と呼ばれた地に、浅野家は八千九百坪の屋敷地を構えていた。「ここから出勤してたの」というのは悠子さんだ。出勤ね。「江戸城はどっちの方角かしら」地図を真剣に調べていたあっちゃんが、向うのほうと指を差す。それほど遠いわけではない。「今度は赤穂浪士のコースを辿りましょうか」「そうそう、本所松坂の吉良屋敷から始めようぜ」忠臣蔵の話になれば講釈師の口は滑らかになる。「両国橋を渡らないで、永代橋を渡ったのはさ」当日は江戸城登城の日に当たって、混みあう両国橋を通るのを遠慮したのだと言う。ただ、本所松坂町から泉岳寺に向おうとして、途中でこの浅野家屋敷跡を通ろうとすれば、永代橋を渡る道筋が一番便利だろう。正確な道筋は知らないのだが。こんど、講釈師の案内でそのコースを辿れば分るだろう。

 聖路加病院の敷地に入れば、ロータリーには、アメリカ公使官邸跡がある。「聖路加は聖公会ですよね、立教もそうじゃないか」何でも知っているダンディが言うが、私は知らなかった。トレイスラー記念館。慶応義塾発祥の地、蘭学事始の地の石碑が並んで、「近代文化事始の地」の石碑もある。中津藩奥平家の中屋敷があったから、その一角でひっそりと福沢諭吉が始めたのが慶応義塾の始まりだし(ただし、慶応義塾の名称は、その後芝新銭座に移った時が慶応四年だったので、そのときに用いられた)、ターヘルアナトミア翻訳を主導した前野良沢も中津藩の医師だったから、それぞれを顕彰する碑が建っていてもおかしくはない。ただ、このことで、「近代文化事始」と言われても、私は困る。
 良沢は青木昆陽の弟子である。昆陽は近代文化に入らないのか。もちろん、これは良沢を貶めているものではない。天才的な語学力を誇り、『解体新書』刊行の際に自らの名を記すのを拒否した良沢の、後進への影響は大きい。たとえば一世代後の蘭学を主導する大槻玄沢は、杉田玄白と前野良沢を師と仰いで、両方の名を貰った。(玄沢の家では太陽暦の正月を祝って「おらんだ正月」というものをやった。森銑三に『おらんだ正月』という随筆がある。『言海』の大槻文彦はその家から出た。)
 千住小塚原での観臓の翌日、良沢、玄白、中川淳庵の三人がここに集まって、「櫓・舵なき船の大海に乗り出せし如く」(『蘭学事始』)、翻訳作業が開始された。少し遅れて桂川甫周も参加した。だから蘭学発祥の地、または洋学発祥の地と言われればまだ納得できるのだが。
     会読をする同士は、その場から「蘭学」という言葉を発明し、「親試実験」という実証主義的な態度を貫いた。玄白がオランダ医学の開祖者とすれば、良沢はオランダ語学の開祖者であった。(金子務『江戸人物科学史』)
 思いがけず「立教学院発祥の地」碑を見つけたので、義理があるから写真を撮る。明治二年、この地が外国人居留地に定められてからも、横浜居留地の外国商社は横浜を動かず、主に宣教師の教会堂やミッションスクールが入った。このため、青山学院や明治学院、女子聖学院がここで生まれている。
 「佐藤さんは文学部ですか」「文学部史学科日本中世史専攻」と言いたいのだが、恩師藤木久志先生に聞かれれば、何を偉そうに言っているかと叱られてしまうだろう。大学時代は全く勉強しなかったからね。「聖書も勉強しましたか」「しません」「礼拝は」「しません」チャペルになんか一度も足を踏み入れたことがない。私は立教の歴史にも疎いので、こんなことも知らなかった。最初から池袋にあったと思い込んでいたのだから。
    一八七四(明治七)年二月三日、米国聖公会のウィリアムズ主教は築地で学校を開いたが、これに「立教学校」の名称が与えられたのは学校が京橋区新栄町五丁目一番地の家屋に移ったあとのことである(移転は、おそらく一八七四年十二月)。その後、ウィリアムズ主教は一八八〇(明治十三)年二月に居留地二十六、三十七および三十八番、また一八八二(明治十五)年二月に二十五、三十九および四十番の六つの地所を入手したが、立教学校は新栄町五丁目から京橋区築地一丁目二十二・二十三番地に移ったあと、一八八二年十二月、三十七番の新校舎に入った。はじめての自前の校舎であったが、三階建てで三階が寄宿舎となっていた。(中略)築地の一角には立教関係の洋館が立ち並び、会館の高塔から鳴り渡るチャイムの音とともに築地名物にかぞえられていた。(川崎晴朗『芥川龍之介の生誕地をめぐって――耕牧舎の跡地と立教中学校』)
 築地居留地跡。ここに建てられた築地ホテルについて、『武江年表』慶応三年九月の項は次のように記している。
    鉄砲洲海岸、築地船松二丁目・十軒町続御軍艦操練所の跡へ、異国人の旅館を建てられ、且貿易のところとせらる。(蛮名ホテルといふ)。翌年夏の頃に至り大抵成就し、大廈、甍を列ね、丹漆黝堊を以て装飾す。其中央なる楼上の突兀たる、海岸に著しく、茲に登れば、西には江城の巍々たる、遠は富嶽函嶺を瞻仲し、南には芝浦より品川迄、長汀曲浦の風趣を望み、東南は海面にして遥に房総の群山、波上に汎び、衆船の来往は眼下に遮り、北には筑波・二荒の高岳、空に聳ゆ。(後略)
 校訂者の今井金吾の注によれば、築地ホテル館、敷地面積七千坪、部屋数は本館一階三十七、二階三十九、附属館二十六、計百二室あり。ただし明治五年、和田倉門から出火して、銀座・築地一帯を類焼した火事で、このホテルも焼失した。
 タイムドーム明石は中央区郷土資料館で、プラネタリウムを併設している施設になる。入場料は百円である(プラネタリウムを見ない場合)。魚河岸の模型が展示されている。岸田吟香の名を見て「山田風太郎の『明治断頭台』は読みましたか」と美女が尋ねてくる。勿論読んでいる。吟香はヘボンの弟子で、『和英語林集成』編集を手伝い、ヘボン直伝の眼薬「精リ水」の販売を許された。一種独特の怪男児で、維新後は「東京日々新聞」主筆を勤めたりしたが、晩年は薬屋を開いた。英語学史、ジャーナリズム史、薬学史、東亜問題史にまたがる。画家の岸田劉生はその四男にあたる。風太郎は結構この吟香が好きで、『断頭台』のほかにもいろいろ登場させていたと思う。
 「中央区と文学」というコーナーには、築地、日本橋に所縁の文学者を示す。長谷川時雨が大きく取り上げられているが、私は『女人藝術』の主催者であると言う程度しか知識がない。谷崎潤一郎、藤村、透谷がいる。「藤村、透谷は泰明小学校ですね」
 そんな文学者の名前を見ていると、「長谷川かな女はお祖母ちゃんの従姉妹なの」と、のんちゃんが驚くべき事実を教えてくれる。それなら、のんちゃんが俳句を捻るのはその影響だろうか。「かな女は浦和に住んでましたよね」ダンディは何故そんなことを知っているかと思えば、別所沼公園に句碑があるというから、それならダンディの散歩コースだった。講釈師は即興で詠んだと、のんちゃんに自作の句を教えている。私には見せてくれない。「能ある鷹は爪を隠すだろう」実は発表したくて仕方がないのに違いない。「そのまま詠めば良いんだよ」それができれば苦労はしないのだ。
 折角だから、かな女の句を少し捜してみた。
    呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉   かな女
    ほとゝぎす女はものゝ文秘めて 
    羽子板の重きが嬉し突かで立つ
    曼珠沙華あつまり丘をうかせけり
    西鶴の女みな死ぬ夜の秋
 こういう句を読むと絶望的な気分に襲われる。私たちの遊びとはまるで違う。
 聖路加病院と聖路加タワーの間の通りには「平和の橋」と名付けられた歩道橋が架けられている。日野原重明命名による。登り口のところは螺旋状になっているから、「目が回っちゃうよ、平和になるのも大変だよ」ノボたんの口調はおかしい。すぐ隣に横断歩道があるから、わざわざ歩道橋を歩く人はいないのではあるまいか。ダンディと胡桃沢さんだけは、「話のタネに」と歩道橋を渡る。これはビルの二階にそのまま繋がっているらしく、それなら雨の日には便利なのだろう。
 食事をするのは聖路加ガーデン一階の「信州そば処そじ坊」。五月の三軒茶屋でも「そじ坊」だった。「お店が広いから」美女はこの店を選んだ。私は知らなかったが、モリオによれば、各地に展開しているチェーン店である。株式会社グルメ杵屋が展開する。そば屋には、そじ坊のほかに、「信州そば野」「そば酒房寄り屋」「結月庵」「そば茶屋さなさ」。うどん系では、「杵屋」「あめん坊」「きねや」「手打ちうどん工房穂の春」「讃岐うどん・みのり」「讃岐つるり」「讃岐うどん麦まる」。和食には「自然の恵み旨季茶菜さとのや」「薩摩豚彩かつ里」その他。洋食、エスニックまで、なんでも揃えているのは合併吸収によって成長してきた会社の戦略の成果なのだった。
 この店は突き出しにカリカリに素揚げした蕎麦が出てくる。こんなものを出されたらビールが飲みたくなってしまう。
 カツ丼セットが九百五十円なり。講釈師は、三軒茶屋のときと同じく、ざる蕎麦定食を選び(これには生山葵がつき、余ったものはビニール袋で持ち帰ることができる)、碁聖はざる蕎麦二枚を頼む。

 大川端に出れば川風が体に優しい。佃大橋を渡る。橋の途中ではリーダーが何度も「松下さん、ちょっと速度を緩めて下さい」と言わなければ、列がどんどん長くなってしまう。今日のダンディは先週とは違っていつもの鉄人ぶりの健脚を示しているのだ。
 佃大橋は、昭和三十六年に着工して三十九年に竣工した。それまでは渡し舟しかなかったのだ。「ポンポン船だよ」講釈師の言葉に、のんちゃんが「子供の頃にNHKのテレビドラマでなかったかしら、飯田蝶子が出てくるの」と記憶を手繰ろうとする。『ポンポン大将』だ。(実は私は『ポンポン船長』と記憶していたが、今回調べて記憶違いが明らかになった)主演は桂小金治である。小柳徹なんかも出ていたと思う。「飯田蝶子って、むかしからお婆さんだったよね」
 昭和三十五年の夏、我が家に初めてテレビがやってきて、その年の九月から三十八年の四月まで放送された。だから全部見ているはずだ。
 主題歌を見つけた。(http://jp.youtube.com/watch?v=mtXLkndn0OI)菜川作太郎作詞、小川寛興作曲。キング児童合唱団である。懐かしいね。川崎ロダンが泣いて喜びそうだ。

  少年の記憶辿るや夏の川  眞人

 ただしダンディは当然知らないだろうね。東大新聞の記者としては、こんな子供番組を見ている余裕はない筈だ。昭和三十五年は一九六〇年だから。
    かわ風ふけふけ 船々はしれ
    船がゆれれば 白い輪もゆれる
    ポンポンポン ポンポンポン
    船長さんは朗らか ポンポン大将
    今日もとおるよ あの橋の下
    ポンポンポン ポンポンポン
 佃島に入ってすぐに「お土産を買う人は後で時間を作りますから」と最初は住吉神社に入る。NHKの朝の連続ドラマがこの近辺を舞台にしているので、社務所にはその写真が飾られている。このドラマのファンは講釈師とノボたんだった。「私は見てないから」というのは大橋さんで、放送時間帯に家にいるはずがない私は、土曜日にちょっとだけ見たことがある。
 住吉神社は、いうまでもなく摂津国住吉大社を分祀したものである。家康によって摂津国佃の漁夫が江戸に下って佃島を形成したとき、故郷の神を祭った。祭神として掲げられている底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命の住吉三神と、息長足姫命(神功皇后)は、「同じですね」と言いながらダンディが嘆くのは、最後に「東照御親命」(徳川家康)が祀られていることだ。「余計なのが入っている」上方人ダンディの家康嫌いは徹底している。
 「伝東洲斎写楽終焉の地」なんて石碑が立っているのには驚いてしまう。だれが写楽の終焉に立ち会ったというのだろうか。写楽に比定された人物は無闇に多くて、何を信じてよいやら分らないはずだ。(と私は思っていたが、中野三敏『写楽』を読んでいたことをすっかり忘れていた)
 以下、中野の本によるのだが、写楽については、江戸時代の記述「天明寛政年中の人。俗名斎藤十郎兵衛、居江戸八丁堀に住す、阿波候の能役者也。号東洲斎」(斎藤月岑追補『増補・浮世絵類考』)から出発するしかない。そして、阿波蜂須賀家お抱えの能役者である、斎藤何某が実際に八丁堀に住んでいたことが明らかになる。細かな論証は中野の本を参照していただきたいが、寛政の頃、喜田流のワキ師に斎藤十郎兵衛が実在していた。そしてこの斎藤十郎兵衛の過去帳が、現在は越谷にある法光寺(もとは築地にあった)で発見された。没年は文政三年三月七日、行年五十八歳、戒名「釈大乗院覚雲居士」、俗姓「八丁堀地蔵橋、阿州御内、斎藤十郎兵衛」。八丁堀に住んで、築地の寺に埋葬されたのならば、この佃島に終焉の地があるのは、充分に考えられることだろう。
 「明治は遠くなりにけりです」あっちゃんが指差したのは、境内の隅っこにある黒い石碑だった。草田男の「ゆる雪や」ではなく、「明治は遠くになっても江戸が残る佃の夏祭り  きんざ」とある。何者であろうか。こういうことも書いている人がいるから有り難い。石井きんざという。明治四十二年に佃で生まれ、日本橋魚河岸での小僧時代を経て、仲卸の海老問屋の旦那となり、激動の市場の歴史とともに生きた。都々逸作者であり、郷土史研究家でもあったようだ。「綺麗に色どる花火の裏に見える浮世の浮き沈み」がある。
 (http://www.tsukiji.or.jp/nikki/0308/0308.html)
 「明治は遠くに」の句はどうもリズムがおかしいと思ったが、七七七五の都々逸の、頭句が八になっていたのだった。

  片陰や江戸の名残りの都々逸に  眞人

 「今年は本祭りかな」講釈師が考える。三年に一度、本祭が執り行われるのだ。今年の大祭行事日程を見ると、行事はこんな風に進行する。
 八月一日、午前十時に大幟旗を一斉に掲げ、十一時、大祭式が施行される。十四時四十五分、御仮屋で大御輿清祓い、十八時手打ち式。
 二日九時、獅子頭清祓い、十時半、獅子頭宮出し、十一時半、獅子頭、各町神輿連合渡御(佃一丁目出発)、十五時、佃一丁目帰着後町内巡行のち納め、二十時、宮神輿御霊移し。
 三日五時四十五分、出社祭、六時、宮神輿宮出し、船渡御(七時出船予定)、六時四十五分頃海上祭(これが昼ごろまで続くらしい)、十二時四十分、宮神輿御旅渡御、十四時二十分、御旅所到着。
 四日十五時、大神輿各部合併にて担ぎ町内巡行、十七時、神輿御仮屋へ納める、十九時二十分、宮神輿佃二丁目まで出迎え、神社に納める。宮入後御霊移し。四日間もかけてずいぶん大掛かりに催されるようだ。

 屋根の形にダンディが注目する。切妻造りの屋根の途中に切込みがあるものだ。調べてみると、住吉造りの特徴は三つあって、一、柱・垂木・破風板は丹塗り、羽目板壁は白胡粉塗りであること、二、屋根は桧皮葺きで切妻、三、出入り口は直線型妻入り方式であること、とされている(『図説歴史散歩事典』山川出版社)。この神社は、これらの特徴には全く当てはまらない。屋根はおそらく銅版葺きだし、木造部分は全て焦げ茶色になっている。入り口も妻入りではなく、平入りである。
 神社を出てくると、葦簾を張って即席で作った屋根のある構造物が建っている。これは囃子殿になるようだ。その脇の奥に、佃島渡船の石碑が建つ。「佃の渡しは、置いて逃げてよって言うんだ」のんちゃん、信じてはいけない。「連れて逃げてよって言うのは矢切の渡しで」講釈師の冗談はときどき、とても草臥れる。「あつ子さん、蝶が」虫愛ずる姫の頭上を真っ黒な蝶が飛ぶ。

  夏蝶や川を渡りて揺らめきて  眞人

 その隣にある、かなり大きな木造の構造物が分らない。骨組みの一部でもあるのか、船に関わりがあるだろうか。あっちゃんが、犬を連れたおじさんに訊いて見る。「分らない?」「すみません、無学なもので」これは祭りのとき、住吉神社の大幟を固定するためのものであった。幟は六ヶ所に立てられる。「それなら、さっきの絵だったのね」住吉神社に入る前に、美女が広重「佃しま住吉の祭」の絵(住吉大明神の幟がはためく)を掲げて説明したばかりだった。この絵は、「あそこの鳥居があるだろう」おじさんは指を差し、「あそこの上から見たとところなんだ」と教えくれる。「おれは漁師だ」漁師のおじさんは、今日の漁を終えてのんびりしているのか、それとも原油価格高騰のあおりで漁に出られないのか。是非、ここの祭りを見ろと薦めてくれる。漁師のおじさんでも地元を描いた広重の絵をちゃんと知っているのだ。郷土愛であろうか。

  祭待つ佃の風に犬と人  眞人

 その通りには佃煮屋が「天安」(天保三年創業)と「田中屋」(これも天保年間創業)と二軒並んでいる。後で調べるともう一軒、「丸久」という店も並んでいたらしいのだが、気がつかなかった。ここで佃煮を買う人たち。私はちょっと苦手なので買わない。この後の水上バスの時間もあるから、そんなにのんびりはしていられない。
 水門を通って灯台につく。「中には入れません」とあっちゃんが言うように、単なる灯台の形をしたトイレであった。
 石川島人足寄場跡。ご存知鬼平が建言し、寛政二年(一七九〇)に出来上がった。無宿人のうち、微罪で刑が確定した者(入墨、敲き)、無罪が確定した者の社会復帰のための施設である。「船の時間があるので行きましょう」リーダーが声をかける。

 大橋を戻って、水上バスの船着場に向かう。船の発着所は扉に鍵がかかって入れない。日差しを遮るものが何もないのも、すこし不親切ではあるまいか。隅田川明石町防災船着場。本当に船が止まってくれるのだろうか。「電話で確認しましたから、大丈夫ですよ」リーダーは断言するが、「でも来なかったら文句言っちゃうわ」と多少不安な気持ちもないではないらしい。
 大橋さんは体格に見合った可愛らしい扇子を広げている。ダンディの漢詩の書かれた扇子(読めなかった)は異常に大きく、「風がいっぱいきますよ」と自慢する。大橋さんがそれを借りて扇いで見るが、「手がだるくなっちゃうよ」とすぐに返す。
 すこし予定時間を過ぎた頃、やと船が近づいてきた。甲板には人が一杯だ。全員が乗れるだろうか。船から下りてきた女性が鍵を開けてくれるから大丈夫なのだろう。
 船の下のほうは、前方部分の椅子席は満席だが、後方はまだ充分に席がある。一番後ろの席に座ると、跳ね上がる波飛沫が爽快だ。甲板に出てみるとすこし揺れる。下では気づかなかったが、ガイドが右を見ろ、左を見ろと指図している声がちゃんと聞こえる。勝鬨橋を潜ると、全員が上を見上げる。ポンポン大将の船は、ここを通っていたのだ。昭和二十八年までは日に五回程度は開閉していたが、次第に回数が減り、昭和四十二年、船の通行のためとしては最後の跳開が行われた。
 十分ほどで到着だ。下船のとき、前方部にちょっと足を踏み入れると、そこは冷房が効いているのだ。当然こちらのほうから席は埋まる。近づいてくる船を見て満席に見えたのはそういうわけだった。

 船を下りるとまたお金を払う。「また払うのか」乗降の都度、水上バスの金を払うのかとモリオが不満気に言うがそうではない。浜離宮恩賜公園の入園料である。三百円なり。六十五歳以上は半額だ。船着場で座り込んでチケットを販売しているオバサンが、「むずかしくて分らない」と悩んでいるから、「若者一名」と言いながらお金を出す。
 公園の中では、集合場所と時間を決めて自由行動になる。リーダーの使命に疲労している美女は、その間、茶屋で休憩を取るのだ。「三澤さんが連れて行ってくれますよ」「ヤダよ、こんな大勢、金魚の糞みたいに」心にもないことを言いながら、講釈師は私たちを引き連れる。「早く来なくちゃ、置いてっちゃうよ。ついて来ないやつは除名だ」
 汐入の池では魚が銀色に光って飛び跳ねる。「ボラだよ」三百年の松は、どこが本当の幹だか枝だか分らないほど、枝が這うように縦横に広がっているが、何箇所も支えていなければ崩れ落ちてしまう。その前の木陰では、「江戸大神楽」と書かれた幟を立てて、パフォーマンスをやっている。三味線を弾く男はきちんと着物を着ている。パッチに紋付を尻端折りにしている若い男が、水の入ったグラスを長い棒の先に載せて、口で咥えて支えているのだ。あるいは、その棒を糸の上に載せたり、要するに寄席でよく見る芸だが、こんな炎天下で見るのは珍しい。
 集合場所は木陰になっていて風が通り抜けると心地よい。そろそろ時間だが、十一人揃ったのにリーダーがなかなか現れない。「もう行っちゃおうぜ、遅い奴は除名だよ」気の短い講釈師が動き出す振りをしたとき、電話がなった。「すみません、除名して下さい」リーダーを除名する訳にはいかない。お茶を飲んで甘い和菓子を堪能しているうち、時間が過ぎていたのだ。
 それから五分ほど待つと、やっと姿が見えてきた。「今度は曲がり角間違えちゃって」「どうしたの、心配でさ、迎えに行こうかって話してたんだよ」講釈師の態度はさっきと全然違う。中の御門(浜松町口)から外に出る。
 「遠山金四郎は割愛します」遠山左衛門尉景元の屋敷跡は、「だって何もないですから」

 次に向かったのは芝離宮恩賜公園。紀州徳川家の浜屋敷であった。入園料は若者が百五十円、老人は七十円、誕生日年齢まで申告する必要はない。こぢんまりした回遊式の庭園だ。「浜離宮より狭いから安いのね」
 「萩が咲いているんじゃないですか」橋口さん、それはないんじゃないか、季節が違いますよと言おうとした途端、「ほら、咲いている」小さな赤い花が、まだそれほど多くはないが、確かに咲いている。「季節感がおかしくなってしまうわ」確かにそうだ。桔梗も紫色の花を充分に開いている。まだ七月、旧暦で言えば今日は六月十七日だ。これも温暖化の影響だろうか。そのくせ、百日紅にはまだ花が咲いていない。金糸梅は鮮やかな黄色の花を咲かせている。
 「歩きながら句を詠んでらっしゃるの」そんなに大層なことはできない。たぶん、宗匠なら歩きながら句を発想しているだろうが、私は駄目だ。みんながゆっくり歩いている間、出口付近の東屋で休憩すると風が気持ちよい。屋根に下げられた風鈴が風に揺れる。
 全員が集合していったん外に出たとき、「集合写真を撮るのを忘れちゃった」それなら、そこの門の前でどうだろう。しかし碁聖と講釈師は受付に頼んでもう一度中に入らせてもらう。藤棚の前のベンチに腰を下ろすと、「藤が咲いてるよ」とノボたんが上を見上げ、「ちゃんとカメラを見なくちゃ駄目だ」と講釈師が叱る。返り花というのか、やはり季節がおかしい。

 喫茶店を探して国際貿易センタービルの地下に入る。ちょうど二十二人が入れそうな店があった。店員が席の準備をしている間、私は店頭に掲げられている値段表を見てしまった。一番安いコーヒーが七百五十円である。これでは私たちには入れない。折角席を用意してくれた店員に言い訳をして外に出て、安い店を探して収まった。オレンジジュース三百二十円。
 まだ四時前だ。さくら水産はありそうにもない。仕方がないから貿易センタービルに入り店を探す。ビール半額につられてワインバーに入ったのは、ダンディ、あっちゃん、モリオ、私の四人である。ビールとワインの店である。おにぎりはないし、胡瓜の漬物もないが、キャベツの浅漬けがあったから、美女もなんとか持ちこたえられる。プレミアムモルツを一杯、ハーフアンドハーフを一杯飲んで、ハウスワインをデキャンタで貰う。それが赤ワインから白ワインへとお代わりが重なっていく。英文学、キリスト教。なんて教養に満ちた話題に終始したことか。
眞人