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    番外編 国府台~野菊の墓~矢切の渡し~柴又へ
                        平成二十二年八月七日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2010.08.18

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     「今日は熱中症に気をつけてくださいよ、ちゃんと水分を補給して。」鶴ヶ島駅前のセブンイレブンで、いつもの女性がそう言いながら、マイルドセブンの三ミリを出してくれた。銘柄を言わなくても良いのは面倒がない。取り敢えずお茶のペットボトル二本と、「男梅」という乾燥梅干しを仕込んだ。塩分補給のためである。「気をつけて行ってらっしゃい。」妻は弁当は作ってくれるが、こんな言葉はかけてくれない。
     日暮里駅の京成電鉄乗り場はなんだか分かりにくい。下りホームに行くと不安そうな表情の画伯が現れた。「どこから乗るの。」「ここで良いんですよ。」「会えて良かったよ。何度も行ったり来たりしちゃった。」私は妻の実家が勝田台にあるので京成線は何度も利用しているのだが、以前はもう少し分かりやすかったような気がする。
     「京成って東京と成田のことかな。」「そう、成田山の参詣客を運んだのが始まりです。」 家を出たのが七時半で、国府台駅に着いたのは九時半だ。予想通り既に講釈師、ダンディ、チロリンが待っている。いつもは五分前に登場するあんみつ姫も、今日はリーダーだから早く来ている。この暑さの中で人が集まるかと姫は心配していたようだが、ほぼ想定通りの人たちが集まった。正確に数えれば、姫、画伯、宗匠、チイさん、碁聖、スナフキン、ダンディ、講釈師、チロリン、クルリン、カズちゃん、蜻蛉。十二人である。ロダンは所用、桃太郎は転勤のための家探しで欠席だ。
     「今日はアメリカの麦わら帽子です」というダンディの帽子はカウボーイハット、シャツはブルガリアである。「本当に着くのか不安になって、何度も乗り換えしちゃったよ。」連日の飲みすぎで疲れた顔のスナフキンがぼやいている。上野に生まれた東京っ子の彼がこの方面の地理に疎いのは不思議だが、これは日本橋に生まれた小林信彦の感覚と似ているかも知れない。

     ぼくは東京の下町の生れだが、柴又というと、「はるかに遠い世界」という気がする。ぼくの感覚では、柴又を下町とは呼びがたい。(小林信彦『おかしな男 渥美清』)

     今年の暑さは昨年までとは明らかに違うと誰もが言う。異常であるが、気候の異常と人心の異常とは相関関係があるのかどうか。生きているべき百歳以上の高齢者が、実は三十年も前に自宅で死んでいたという事件や、何人もの高齢者が実は行方不明であった事実が明らかになるなど、この国の人の心の在り方が、少しづつおかしくなっている。「おかしいよな、普通じゃ考えられないだろう」と講釈師もチロリンも強調するが、普通ではないからニュースになる。それに「普通」という観念が既に共通概念ではなくなってきつつある。
     「あんまり売ってないんだよ。近所のスーパーにないんだ。」「男梅」を見つけて講釈師が悔しそうに言う。なんだか自慢したくなるような気分であるが、別に私の手柄ではない。
     最初から国府台の読み方に疑問が集まる。

    国府台 総寧寺の辺より真間の辺までの岡を、すべてかく称するなるべし(『北条五代記』(三浦浄心、一六四一)に云く、「古き文には国府台(こくふのだい)、小符台(こうのだい)、鴻岱(こうのだい)とも書きたり。いま所の者にとへば高野台と書くといふ」と見えたり。)按ずるに、鴻台は武州栗橋の西にありて、このところをいふにあらず。『和名類聚抄』(源順、十世紀)に、「下総の国府(こう)は葛飾郡にあり」と記せり。よつて考ふるに、国府の近き辺りにあるところの丘山なれば、国府台とは号したりしなるべし。(『江戸名所図会』

     真間川に沿って、最初は「いちかわ文学の道」を行くと、ところどころに看板が立っているのに姫が注意を促す。表側には作品の一部、裏面には作者の経歴が紹介されているものだ。最初に見たのは歌人三人が一緒になった看板だが、神作光一、高野公彦、日高堯子は残念ながら私には余り親しいひとではなかった。
     「歌人だけで生活できるのか」とスナフキンが疑問を持つ。「生活できないだろう。」古くは、伊藤左千夫は牧場経営をしていたし、斎藤茂吉は医者だった。啄木や牧水の貧苦は言うまでもない。歌を歌っているだけで生活できるほどのマーケットは、現代でもない筈だ。
     小さな弁天様のそばに「名妓の碑」という石碑が立つ。碑文自体は残念ながらまるで読めないので、下記の記事を探し出した。

    にほどりの葛飾野は万葉のむかし美女手児奈を生めり そのえにしありてか古来市川にいくたの名妓研を競ひ 伎芸神に入りて浮世の塵にまみれむわれらをしばしば忘我の境にいざなひそのこころ纒綿として桃源のおもひあらしむ よりてここに石文を刻みて追憶のよすがとなさむ
    http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000035406

     市川が有数の花柳の地であるとは知らなかった。もし本当なら、これは市川が交通の要衝であったことを示すだろう。
     ところで、川の名にもなっている「真間」とは何だろう。姫の案内文には「崖・土手などの傾斜地を意味する言葉で、ここでは国府のあった国府台南端の台地斜面をさす」と書かれている。これは広辞苑の説明とも符合するが、ここが崖であろうか。同じ疑問を持つ人がいるようで、通説に疑義を唱える記事を見つけた。原文は長いので要約してみる。典拠は下記である。
     http://linguisticrootsofjp.web.fc2.com/expressiontowonder/exptowonder_65.html日本言語協会
     「まま」というのは全国で一般的にみられる地名であり、特に有名なのが市川真間、桐生の大間々であるが、いずれも村落の名である。通説に言う「崖」であれば村落が成り立つ筈はない。通説にはいくつかの矛盾があるが、結論すれば、「まま」はまるい、球形の、マウンド状の領域、土地であり、最高位の部位はなだらかで周辺に行くほど傾斜がきつくなる地勢を持つ場である、と言うのである。但しこれは各種辞書ではまだ採用されていないので、真偽は不明だ。また、こういう記事もある。

    戦前と戦後で地形が大きく変わった地域に、国府台付近の江戸川河岸および真間の入り江がある。明治一九年(明治一三年測量)と大正八年に作成された地形図を見ると、江戸川の河岸は国府台のふもとで現在に比べて内陸に及んでいて、松戸街道もその川岸を迂回するように走っている。また真間の入り江も、この当時にはまだ形を残していて、浮島弁天もその名の通り島になっている。http://poesie.web.fc2.com/mamagawa.html

     これを読んでも、「まま」が崖を示すとは素人考えでも無理なような気がする。川岸が内陸部まで入りこんでいるなだらかな地形ではないか。

      葛飾の真間の入江にうちなびく玉藻駆りけむ手児名し思はゆ  山部赤人

     入江は湊であろう。古代から太平洋沿岸航路が開発されていた。これは下総と上総との地理的関係からみれば明らかで、都に近くて「上」と呼ばれたのは海を経由した千葉県南部(上総)である。下総には利根川の舟運があり、入江が入りこんでいたこの地に国府が設けられたからには、やはり交通の要衝であったと推測されるのだ。そして湊には必ず女がいる。つまり、妓女がいたということになる。
     それはともあれ、文学の道は続く。「途中までしか行きませんが」と言う姫の言葉に続いて、井上ひさしが現れ、ついで宗左近、山本夏彦、中野孝次三人が一緒になった看板が出現する。井上ひさしが市川に住んでいたのは有名なことだが、他の三人が市川にゆかりがあるとは知らなかった。と言うよりも、宗左近と中野孝次のものを私は全く読んでいない。山本夏彦ならば、小言の多い、気難しい老人をイメージするが、『夢想庵物語』を読めば少しそのイメージが改められる。この中では珍しく夏彦が自分を語っている。

      蜻蛉飛び文学語る真間の川  蜻蛉

     今年四月に七十五歳で亡くなった井上ひさしの最高傑作は『ひょっこりひょうたん島』であると言えば、識者に叱られるだろうか。一九六四年四月から六九年三月まで放映されたから、私の中学から高校にかけての時代にあたる。勿論部活があるから完全には見られないが、できるだけ見るために、私は急いで学校から帰った。

     茫洋たる海原。ひょうたん島、むこうからすごいスピードで突進してくる。あわやカメラと衝突!と思いきや、ひょうたん島、カメラの前で急停止する。(ブレーキの音)ひょうたん島、九十度、旋回、方向を転じて、またスタート。(音楽「テーマソング」)

    なみをジャブジャブ
    ジャブジャブかきわけて
    (ジャーブ、ジャーブ、ジャーブ)
    くもをスイスイ
    スイスイおいぬいて
    (スーイ、スーイ、スーイ)
    ひょうたん島はどこへ行く
    ぼくらを乗せてどこへ行く(略)

     画面はこのように始まる。そして今読み返してみると(ちくま文庫の復刻版を見ている)、第一回から既にマシンガン・ダンディが登場し、そして最大のヒーローであるドン・ガバチョは第四回から登場するのであった。あのいかがわしい政治家ドン・ガバチョを知ったことで、私たちの世代の政治感覚は鍛えられたか。検証していないから、とりあえずの思いつきである。
     「私は伊能忠敬を描いた『四千万歩の男』が好きです」とダンディが言う。これはロダンも愛読書だと言っていた。姫は「『頭痛肩こり樋口一葉』が見たいんですけど」と舞台の方を言う。「それならビデオが一杯あったろう。」スナフキンが思い出したのは、この舞台をビデオとして売り出した商品のことだ。「ずいぶん寄贈したよ。」確かにわが社の倉庫には売れ残りのビデオが大量に残っていて、去年の棚卸で全部処分した筈だ。
     「この辺で文学の道からは離れます」と姫は宣言するが、ついでだから市川に住んだ荷風と露伴についてもちょっと触れておきたい。
     空襲で麻布偏奇館を焼け出された荷風は、知人を頼って点々としていたが、昭和二十一年一月、従弟の杵屋(大島)五叟一家と共に市川に住んだ。紅灯の巷を愛した荷風だったが、五叟や弟子の弾く三味線、ラジオの音に耐えられなかった。蔵書を五叟の娘に盗まれて売り払われる事件などもあって、やがて二十三年暮れに菅野一、一四二番地に家を買って独立する。「平屋瓦葺家屋十八坪金参拾弐萬円。登記印紙代二千四百円。登記証記載金髙五万円。」こうして荷風は死ぬまで市川に住むことになる。
     一方露伴は小石川蝸牛庵を空襲で焼かれた後疎開していたが、二十一年十一月、文子がやっと見つけた「すが野という処、八畳、四半、二畳という極々の借家、天井も畳も壁も、何も彼もかしやである標本みたようなうち、然しいま一戸一ト所帯でいられるのは有り難いのオンの字」の家に移り住んだ。しかし既に露伴の身は重体であり、死を間近に控えた露伴と娘の文子との葛藤は、幸田文『父、その死』に詳しく描かれている。二十二年七月三十日、露伴は死に、荷風はその告別式に向かった。

    八月初二。晴。午後二時露伴先生告別式。小西小滝の二氏と共に行く。但し余は礼服なきを以て式場に入らず門外に佇立してあたりの光景を看るのみ。(『断腸亭日乗』)

     戦後まだ二年しか経っていない頃、礼服を持たないのは何ら恥じることではないと思うが、これが荷風のダンディズムであろう。
     姫は川の向こうに渡って、住宅地の路地に入って行く。「ここには寄りません」と言うので、真間稲荷神社という小さな社は横目でにらむだけにする。
     そして少し行けば亀井院に着く。法事にやってきた家族連れが怪訝そうに私たちの集団を見る中、姫は境内の奥に入って行く。「下見のときに大勢で見学するってお願いしてありますからね。」見学すべきは「真間の井」である。手児奈が水を汲んだという伝説に拠る。

    鈴木院といふ草庵の傍らにあり。手児奈が汲みける井なりと伝ふ。中古、この井より霊亀出現せしゆゑに、亀井ともいふとなり。(『江戸名所図会』)

     木枠と釣瓶は勿論万葉の頃からあったものではない。割に新しいから最近補修されたものだろう。「この井戸に身を投げたの。」それは違うんじゃないか。「違います、水を汲んだんです」と姫が断言する。

     勝鹿の真間の井を見れば立ち平し水汲ましけむ手児奈し思ほゆ  高橋虫麻呂

     高校時代に手児奈を知って、大学進学とともにすぐにここを訪れたと言うダンディは、虫麻呂に対抗する。

      いにしへの手古奈恋しき秋立つ日  泥美堂

     私は手児奈のことなんか習った記憶はない。仮に習ったことがあるにしても、万葉は私の感受性にほとんど影響していない、と言うより殆ど分かっていなかった。ダンディは、随分古い『東京文学地図』を二冊持ってきていて、表紙見返しには高校、大学時代のクラスまで記入しているから、本当に若い頃からこういうことに関心があったのだ。
     「あの頃はこんな風でした」ダンディが見せてくれるのはモノクロ写真で、五十年以上前のこの辺りの光景がよみがえる。「こんな風だったんですね。鄙びてるのね。」私は歴史的なものが好きだった癖に、なにかを読んでもその現場を歩いてみようなんていう気にはまるでならなかった。要するに現実に立脚せずに理屈を捏ねる若者だったのである。ここ五年間の江戸歩きで、私はその性癖を後悔し、修正しているところだ。
     この亀井院の庫裡の六畳間に、大正五年五月から一カ月半程の間、北原白秋と江口章子が住んでいたことがある。桐の花事件でやっと一緒になった松下俊子とは大正三年に離婚して、白秋の生活がもっとも苦しい時期だった。(実は私は江口章子と江間章子とを混同していた。『夏の思い出』の江間章子には申し訳ないことであった)。歌碑があるが、文字の書き方が飛び飛びになっているものだから、判読に苦労する。

     蛍飛ぶ真間の小川の夕闇に鰕すくふ子か水音立つるは  北原白秋

     「裏から入りますけど」と姫が弁解しながら入って行ったのは手児奈霊堂である。「また裏口からか、いつもだな」講釈師の言葉もすっかりおなじみになってしまった。コースの組み立てと言うものがあるのだから、仕方がないのだ。
     手児奈は万葉の頃に既に伝説になっていた東国の美女である。何人もの男に言い寄られ、それを恥じて身を投げた。あるいは一つの説によると、手児奈は国造の娘で近隣の国へ嫁いだが、勝鹿の国府と嫁ぎ先の国との間に争いが起こった為に逆恨みされ、苦難の末、再び真間へ戻った。出戻りの運命を恥じて実家に戻れぬまま我が子を育ててながら静かに暮らしていたのだが、男達は手児奈を巡り再び争いを起こし、これを厭って真間の入り江に入水したと伝えられている。

    手児名が墓の跡なりといふ。後世祠を営みてこれを奉じ、手児名明神と号す。婦人安産を祷り、小児疱瘡を患ふる類、立願してその奇特を得るといへり。祭日は九月九日なり(伝へいう、文亀元年辛酉九月九日、この神、弘法寺の中興第七世日与上人に霊告あり。よつてここに崇め奉るといへり。)(中略)
    『清輔奥義抄』に云く、「これは昔、下総国勝鹿真間の井に水汲む下女なり。あさましき麻衣を着て、はだしにて水を汲む、その容貌妙にして貴女には千倍せり。望月のごとく、花の咲めるがごとくにて、立てるを見て、人々相競ふこと、夏の虫の火に入るがごとく、湊入りの船のごとくなり。(略)(『江戸名所図会』)

     飛んで火に入る虫のように男たちが群れ寄ったのである。「チロリンみたいだ。」「そんなに言い寄られてみたいよ。」

        葛飾の真間の娘子の墓を過ぐるとき作る歌    山部宿禰赤人
     いにしへに ありけん人の 倭文幡の 帯解きかへて 伏屋立て 妻問ひしけん 葛飾の 真間の手児名が 興津城を こことは聞けど 真木の葉や 浅くあるらん 松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみもわれは 忘れえなくに
        反歌
     われも見つ人にも告げん葛飾の真間の手児名が興津城処

     葛飾と言えば、現在では東京都葛飾区にその名を残しているが、もともとは、西は墨田区・江東区、東は千葉県船橋市、北は埼玉県久喜市・茨城県古河市にまたがる広大な郡であった。下総国葛飾郡であり、下総国の国府が市川国府台におかれた。墨田区や江東区がかつては下総国に所属していたのも念頭に置いておきたい。
     その他にもこんな歌がある。

     足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通わむ   読み人知らず

     さだまさしが寄進した「縁結び 桂の木」なんてものがある。鬘ではない。今度は正面から出れば、民家の塀には万葉の歌を記したプレートが貼られているのが目につく。しかし、万葉というだけで、特にこの市川真間にゆかりの歌ではない。「苦しくも降りくる雨か三輪が崎」なんて言うのまである。こういうものは要らないのではないか。
     「一気に登って上で休憩しましょう。」姫は石段を見上げるだけで溜息をついている。弘法寺は確かに見上げるほどの石段の上に建つ。真間山弘法寺、日蓮宗である。
     石段の途中でワイシャツ姿の高校生だろうか、男女の区別も分からないが三人がくっつきあって座り込み、小さな画面を見てはしゃいでいる。最近の若者は不気味だ。
     石段を登った所に建つ仁王門に掛る「真間山」の額は、弘法大師空海の筆によるというのだが、本当だろうか。それに仁王についてもちゃんと見なければいけない。(実は私はちゃんと見なかった。本当に予習をしておかなければいけないと思うのは、こんなときだ)

    楼門(石磴の上に聳ゆ。左右の金剛力士は仏工運慶の作なりといへり。全体黒色にして、他に異なり。楼上に掲くる額に「真間山」と題す。弘法大師の真筆なりといへり)(『江戸名所図会』)

     もともとは真言宗だったが、建治二年(一二七六)日蓮宗に改められたと言う。

     ここ真間山、弘法寺(ぐほうじ)は奈良時代、天平九年(七三七)、行基菩薩がこの地にお立ち寄りになられた折、里の娘、手児奈の哀話をお聞きになり、いたくその心情を哀れに思われ、一宇を建てて「求法寺」と名づけ、手厚くその霊を弔われた。
     それからおよそ百年ほど経た平安時代、弘仁十三年(八二二)に弘法大師(空海)が教えを弘められるためにおいでになられた時、求法寺を七堂伽藍に再建され、寺運を一新して、「求法寺」を「弘法寺」と改称された。(弘法寺公式ページより)

     姫の案内文にも『江戸名所図会』から引いた弘法寺全景の絵が載せられている。ちくま学芸文庫版では三ページにまたがる絵だ。ただし現実の境内はいやにだだっ広く、なんだか空間がもったいなく思われてしまうほどだ。それに本殿はコンクリート造りで、余り愛想がない。ここで二十分ほど休憩するとリーダーが宣言する。
     仁王門の右手の少し小高くなったところの鐘楼がなかなか素敵だ。仁王門とともに焼け残ったもので、年代は分からないがかなり古そうな建物だ。みんなが休憩している間に、左の奥に行ってみると、古めかしい赤門に「人間学校」の看板が掲げられている。余り手入れをしているようには見えないが、門は正式には朱雀門と言い、推定で五百年ほど前の建造物と言われている。その奥では何やら植木の手入れや掃除をしているので、無暗に入りこむのは憚られる。明日の施餓鬼会の準備をしているらしい。「明日なんだ。」「一日ずれているのかな。」これらの言葉は私には分からない。道場と称される建物も木造で風情がある。
     人間学校とは何をやる所か。瞑想と唱題行、辻説法などは寺院に相応しいが、その他にコーラスグループ、俳句の会、折り紙教室、はがき絵教室などもやっているところから想像すれば、要するに地域の公民館の代行である。境内に句碑を見つけた。

     真間寺で斯う拾ひしよ散紅葉  一茶
     梨咲くと葛飾の野はとのぐもり  水原秋櫻子
     まさをなる空よりしだれざくらかな  富安風生

     秋櫻子には『葛飾』という句集がある。葛飾に関係する句を少し引いてみる。

     連翹や手古奈が汲みしこの井筒
     葛飾や桃の籬も水田べり
     草餅や帝釈天へ茶屋櫛比
     葛飾や浮葉のしるきひとの門
     しづみ見ゆ手古奈の宮や蘆の花

     「こんな所で変なんですけどね。」墓地の脇で全員が集合するのを待って出発する。千葉商科大学のキャンパスを回りこむように歩いて行くと、テニスコートでは、この暑いさ中、数人の若者が一所懸命ボールを打っている。「若いですね。」「私の頃は女性はみんなスコートだったのに。後ろから見ると区別がつかないわ。」私たちは若くなくなってしまった。
     和洋女子大学は妻の母校(但し短大)である。敬意を表して写真を撮る。東京医科歯科大学の教養部はこんなところだっただろうか。三十年前には営業でこの辺に毎週きていたのだが、もう記憶が定かではない。
     三差路の角に里見公園まで三百二十メートルの看板(オブジェ)が見えた。このオブジェの上には裸の子供の像が乗っている。何を意味しているのか分からない。ここを左に曲がって路地に入り込む。
     路地の途中には千葉県指定無形文化財「式正織部流茶道」の案内板を掲げた民家がある。「調べがつきませんでした」と姫が言う。庭は手入れがなされているようだが、家自体は何の手入れもしていない。茶室のにじり口だと思えるものも、ずいぶん長い間開けた形跡がないようだ。
     古田織部に始まる茶道を、古田氏の傍系が連綿と伝え、その後古田家を離れて十五代原鉄石、十六代秋元瑞阿弥が継承した。これが「式正織部流茶道」というもののようで、その秋元氏が千葉県指定無形文化財保持者に指定された。この家はその秋元氏の家だったのではないか。

     ひと気なき茶室庵へと秋の風  閑舟

     ラーメン屋の前に自動販売機が設置されている。この辺りで朝仕入れてきたペットボトル二本は消費しつくして、もう一本補給する。しかし、ラーメン屋の壁には「エビスビールあります」と書かれている。「エビスビールがありますよ。」「ビールなんか飲んだら除名だ。」

      城跡へ麦酒恋しと足をとめ  蜻蛉

     里見公園の入り口を通りすぎて、まず総寧寺に立ち寄ってみる。山号は安国山である。

    曹洞派の禅林にして、関東の僧禄司三箇寺の一員たり(いはゆる常陸富田の大中寺、武蔵越生の竜穏寺、当寺はこれなり)。(中略)当寺往古は近江国にあり。天正三年乙亥(一五七五)北条氏政、当国関宿の地に移す。されどしばしば洪水の患ひあるにより、寛文(一六六一~七三)中つひにこの地に引くとなり。(『江戸名所図会』)

     境内には見るべきものは余りない。立派な百日紅が赤い花を満開に咲かせているのが目立つ程度だ。この寺の壮大な境内は、となりの里見公園にほとんど取られてしまったから、残るものはないのである。だからすぐに里見公園に入ることになる。
     ここは国府台城址である。太日川(江戸川)と坂川の合流地点に隣接する。標高では二十から三十メートルほどの河岸段丘上にあって、連郭式の平山城を構えるのに適した場所であるという。

    国府台古戦場 総寧寺の境内、すべてその旧跡なり。文明十一年(一四七九)七月、北総の一揆臼井の城に楯籠りける頃、太田持資(道灌)兵を発して、このところに陣城を取り立て、件の一揆を攻め落としけるほどの究竟の要害なりければ、天文六年(一五三七)にも(あるひはいう、七年)小弓(また生実に作れる)御所足利左兵衛佐義明(?~一五三八)兵を起こし、小田原を攻めんとし、いまだ事ならざるに洩れて、その聞こえありければ、同年十月四日、北条氏綱および氏康、小田原を進発し、同五日鴻の台の陣を責むる。戦ひ利なく義明父子並びに舎弟基頼ともに討ち死にす。また永禄七年(一五六四)には太田新六郎(安資)兄弟の輩小田原に背き、同苗美濃守資正入道三楽斎および里見安房守義弘らとこの地に屯しければ、小田原より討手として、遠山丹波守、同じく隼人佐をむかはしむ。ゆゑに、太田兄弟相図相違して、武州岩附へ落ち行きけり。(後略)(『江戸名所図会』)

     天文六年(又は七年)と永禄七年の二度に亘った国府台戦争のことを言うのであるが、私は里見氏と言えば八犬伝の世界しか知らない。しかたがないので、ウィキペディアのお世話になってしまう。適当に要約するとこんな風になる。
     八犬伝の世界(これは里見氏にあっても伝説の時代である)が過ぎ、戦国時代に入ると、里見氏は関東副将軍を自称して安房一国を確実に掌握する。やがて古河公方の内紛の結果、小弓公方なんていうものも生まれてくるのだが、里見氏は小弓公方を奉じて、後北条氏に対抗する。しかし里見家内でも内紛が起き、天文の内訌(稲村の変)に際して、後北条の力を借りた里見義堯が家督を継ぐ。この辺りは下剋上であり、たまたまその時の力関係でどちらと手を組むかは分からない。
     その後、再び後北条と敵対するのだが、二次にわたる国府台戦争で大敗する。やがて越後の上杉氏、甲斐の武田氏と組みながら下総まで勢力を伸ばしていくものの、天正五年(一五五七)、北条氏政と和睦し、下総から撤退する。(ウィキペディア「里見氏」より要約)

     「玉が飛び散るんだ。」「犬に約束したんだよね。」講釈師と画伯の間で八犬伝の話題が賑やかだ。自慢する訳ではないが(と言いながら自慢するのが私の悪癖である)、曲亭馬琴『南総里見八犬伝』を私は三度通読しているから、かなり詳しい積りだ。但しそのお蔭で「幻の関東大戦争」を実際にあった歴史のように思いこんでしまいやすい。注意しなければならない。
     「陸軍の病院があった」講釈師はこういうことについて特に詳しい。明治以降、千葉商科大学、和洋女子大学も含めてこの高台の辺り一帯が陸軍の所有になったのである。

     余り知られていないが、市川市の国府台には、明治時代に大学をつくろうという構想があった。用地買収など、ある程度具体的な動きになっていたのだが、それは、通勤、通学の便などの理由から中止となった。
     そこで、その用地に目をつけた陸軍が、当時東京市内に分散していた陸軍教導団(明治期の陸軍下士官養成機関)を国府台に移し、病院を併設したのである。一八八五年(明治一八)から翌年九月のことで、一八八五年五月、歩兵大隊が配備されたのを皮切りに、兵舎などの施設も建設されていった。そして、教導団病室も真間山弘法寺内に仮設され、同じ年、教導団病院が現在の里見公園内に建設されるが、その教導団病院は現在の国立精神・神経センター国府台病院である。(「市川市の戦争遺跡」)
     http://blog.goo.ne.jp/mercury_mori/e/41a94744e6ce93ada12a0e7be2501862

     ここで昼食休憩だ。江戸歩きとしては初めての弁当持参のコースである。
     宗匠が「楽京美人」というラッキョウの塩漬けを提供してくれた。鳥取砂丘のお土産だ。私は塩のラッキョウというのをはじめて食うが旨いものである。「無茶苦茶暑かった」と宗匠が言う。もう夏休みを取ったのだね。チロリンはグレープフレーツをくれる。カズちゃんは煎餅をくれる。有難いことである。姫が取りだした瓦煎餅は甘いものだから私は戴かない。「エーッ、瓦煎餅もダメなんですか」ダメである。チイさんは柚子を配ってくれた。

     城跡や握りしめたる柚子ひとつ  蜻蛉

     弁当に入れてきた保冷剤がまだ半分凍ったままで、これをバンダナで包んで首筋に巻くと気持ちが良い。「それって新兵器じゃないの」と宗匠が笑う。実は朝、そうしろと妻に言われてきたのである。
     「それじゃ出発します。」公園の中は日陰が多く気持が良い。芝生の上を蜻蛉が飛んでいる。白秋が小岩に住んでいた頃の旧居「紫烟草舎」が復元されている。「蜻蛉さんに相応しい家ですね。」もう悠然と紫煙を燻らす時代ではなくなった。タバコを吸う人間は人目を気にして、非国民のように、おどおどと暮しているのである。「案外広いお家じゃないですか。」資産家の離れだった平屋の建物だが、一軒家としても通用する。姫は、移設した市川市が偉いと言う。

       華やかにさびしき秋や千町田のほなみがすゑを群雀立つ  白秋
     広大無辺な田園には、黄金色の穂がたわわに実りさわさわと風にそよいで一斉に波うっている。その穂波にそってはるか彼方に何千羽とも数知れない雀の群れがパーッと飛び立つ。この豪華絢爛たる秋景のうちには底無き閑寂さがある。むら雀の喧騒のうちにも限りない静けさがある。逆に幽遠な根源が眼前にはたらき形のない寂静が華麗な穂波や千羽雀となって動いている。
     大正五年晩秋、紫烟草舎畔の「夕照」のもとに現成した妙景である。体露金風万物とは一体である。父、白秋はこの観照をさらに深め、短歌での最も的確な表現を期し赤貧に耐え、以降数年間の精進ののち、詩文「雀の生活」その他での思索と観察を経て、ようやくその制作を大正十年八月刊行の歌集「雀の卵」で実現した。その「葛飾閑吟集」中の一首で手蹟は昭和十二年十二月月刊の限定百部出版「雀百首」巻頭の父の自筆である。
     一九七〇年 佛誕の日   北原隆太郎 (案内板より)

     そこに碁聖が息を切らせて走ってきた。置き去りにされそうになったのである。「行方不明になっちゃダメだよ。江戸歩きに行ってから三十年間、帰ってきません、なんてさ」「大丈夫、講釈師の声が聞こえている限りははぐれないから」蝉しぐれが降り注ぐ。

     城跡や息せき切つて蝉しぐれ  蜻蛉

     本当に城跡だったような石垣が残り、土の地面が足に心地良い。こういう石垣を見ると、江戸時代も城があったとしか思えないが、実は江戸時代には廃城になっているから、この石垣がいつの頃のものかは分からない。
     小さな天満宮の境内では「辻切り行事」を説明する看板を見て、新しい知識を得ることができた。「辻斬りではありませんからね」と姫が念を押す。「草加でもみただろう」と講釈師が言い、確かに縄で大蛇を作ったものを草加や越谷でも見たと思いだす。見たときにはその趣旨がよく分かっていなかった。

     辻切りというのは人畜に害を与える悪霊や悪疫が集落に侵入するのを防ぐため、各集落の出入口にあたる四隅の辻を霊力によって遮断してしまうことから起こった呼び名で、古くから行事として伝えられてきたものです。
     遮断の方法は注連縄を作って道に張るとか、大蛇を作ってその呪力によって侵入してくる悪霊を追い払うというような方法がとられていますが、千葉県では南部の地方では注連縄を張る集落が多く、北部の地方では大蛇を作る集落が多かったようです。 (市川市公式ページより)

     つまり結界を巡らすのである。石の信仰があった時代には、サエノカミや道祖神をおいたのだろう。私は民俗学に疎いが、中世密教の影響か、あるいは近世になってからの風習ではあるまいか。
     ここから少し、何もないところを歩かなければならない。「大丈夫ですか、二キロちょっとありますが」大丈夫であろう。少し下っただけなのに、平地に下りれば、今降りてきた背後の丘がかなり高いように感じられる。
     左手には水道局の広大な敷地が広がり、「市民に開放すれば良いのに」とスナフキンが主張する。何のために、綺麗に整地してあるのか分からない。無駄な空間なのか、それとも地下によほど重要な何かがあって、これだけの空間を確保しなければならないのか。「だけど、ここを開放しなくても、山に登れば遊び場はいくらでもありそうですね」と姫が笑う。
     民家の垣根にゴーヤが生っていて、案の定チロリンが手を伸ばす。私は証拠写真を撮っているが公開はしない。平地からまた上りの坂道に入れば、道端に大井戸之碑が置かれている。地形から見て湧水が豊富だったのではないかとも思える。それほど広くもない坂道を自動車やバイクがしきりに通って行く。「バイクが来ます。」姫の言葉にダンディが反応する。「英語の堪能な姫がバイクというのは変ですね。バイクは自転車のことです。」和製英語や外来語について二人の間で頻りに議論がなされるのがおかしい。
     かなり登って高台の上に立てば野菊の墓文学碑がある。土屋文明の筆になる『野菊の墓』の一節が大きな石碑になっている。私も数十年振りに読んでみた。

     僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切の渡を東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所。矢切の斎藤と云えば、この界隈での旧家で、里見の崩れが二三人ここへ落ちて百姓になった内の一人が斎藤と云ったのだと祖父から聞いて居る。屋敷の西側に一丈五六尺も廻るような椎の樹が四五本重なり合って立って居る。村一番の忌森で村じゅうから羨ましがられて居る。昔から何ほど暴風が吹いても、この椎森のために、僕の家ばかりは屋根を剥がれたことはただの一度もないとの話だ。家なども随分と古い、柱が残らず椎の木だ。それがまた煤やら垢やらで何の木か見別けがつかぬ位、奥の間の最も煙に遠いとこでも、天井板がまるで油炭で塗った様に、板の木目も判らぬほど黒い。それでも建ちは割合に高くて、簡単な欄間もあり銅の釘隠なども打ってある。その釘隠が馬鹿に大きい雁であった。勿論一寸見たのでは木か金かも知れないほど古びている。(中略)
     僕は小学校を卒業したばかりで十五歳、月を数えると十三歳何ヶ月という頃、民子は十七だけれどそれも生れが晩いから、十五と少しにしかならない。痩せぎすであったけれども顔は丸い方で、透き徹るほど白い皮膚に紅味をおんだ、誠に光沢の好い児であった。いつでも活々として元気がよく、その癖気は弱くて憎気の少しもない児であった。(伊藤左千夫『野菊の墓』)

     左千夫は容貌魁偉なひとで牧場経営者でもあるが、子規没後は根岸派歌人のリーダーとなり島木赤彦、斎藤茂吉、土屋文明などを育てた。ただ私は左千夫の歌は良く分からない。実は「アララギ」系統の歌はまるで分からない(感動しない)というのが本音のところだ。

      牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いに起る  左千夫

     どうも『野菊の墓』とは余りにも印象が違うのである。

     「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き……」
     「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好もしいの。どうしてこんなかと、自分でも思う位」
     「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
     民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。二人は歩きだす。
     「政夫さん……私野菊の様だってどうしてですか」
     「さアどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」
     「それで政夫さんは野菊が好きだって……」
     「僕大好きさ」

     実に可憐な小説である。余りにも可憐過ぎて、いまどき読む人はいないだろう。こういう小説を恥ずかしさを感じることなく読めるのは、何歳くらいまでだろうか。
     「史跡国府台の戦争」という大きな案内板の横に、左千夫の歌を記した板が三枚立てかけられていて「実に暑苦しい歌ですね」とダンディが評する。確かに今日のような暑い日に読みたい歌ではないが引用してみよう。

      釜たぎる湯気の煙のおぼろげにみかべみゆらくわが恋ふれかも  左千夫

        あと二枚は、板が欠けていたり、墨がにじんでいたりして良く読めない。隣接する野菊苑展望台には水道記念碑が立ち、たぶん、水を引くのに尽力した人の銅像もある。この高台では水に苦労したのだろう。山を降りると小さな川に出る。
     「これが矢切りの渡しなの」とチロリンが叫ぶ。こんな小さな川で渡し舟が必要な筈はない。現に私たちは橋の上に立っている。地図を見ると、江戸川の支流の坂川というものようだ。橋の袂やあちらこちらには、『野菊の墓』からイメージしたレリーフが置かれている。西の方には建設中のスカイツリーがはっきりと見える。
     矢切の地名は、第二次国府台戦争で敗北した里見軍の矢が切れたことに由来するという説がある。安房に本拠を置く里見氏は、このあたりにとってはそれほど親しみのある存在ではない筈で、それが、里見に由来する地名があったりするのはどうしてだろうか。
     「この辺に野菊が咲くんだよ」と講釈師が教えてくれる。野菊なんか、そこいらじゅう、どこにでも咲くのではないか。「野菊というのは総称です」と姫が言う。
     青々とした田圃にはまだ水が湛えられ、畑には巨大なカボチャが生っている。「食べられるのかな。」「食べられる筈ないじゃないか。ハロウィンでカボチャのお面つくるじゃないか、中をくりぬいて。あれだよ。」

     やはらかに稲穂こすれる小路かな  閑舟

     「野菊のこみち」と名付けられた道を行けば、矢切の渡しの看板が見えてきた。土手の手前でトイレ休憩をする間に、止まっている自動車のオジサンにかき氷を注文する。「コオリスイ」とスナフキンが注文するが、そんなものはない。イチゴ、レモン、オレンジなどが二百円。カルピスは二百二十円である。私は何十年振りかで食べてみたい誘惑に負けて、オレンジを注文した。スナフキンは高給取りだからカルピスである。冷たい。しかしこれは失敗であった。ジュースの原液をかけているせいだ。昔はそんなことはもったいないから、もっと薄めていたのではないだろうか。どんなに暑くてもカキ氷なんか食うものではない。口の中がいつまでも甘くて、お茶を飲まなければ耐えられない。結局三本目のペットボトルはこのために消費してしまい、四本目を買わなければいけなくなった。
     「それじゃ行きましょうか。」「アッ、チイさんがいない。」そのチイさんは、土手の途中の看板が立っている日陰に腰をおろして休んでいた。麦わら帽子にサングラスをつけて草むらに座り込んでいると、豪農なのかマフィアなのか判定がつかなくなってしまう。土手を上がれば渡し場の休憩所になる。
     今こちらに向かってくる船が見える。子供づれを含めて二十人ほどが乗っている。モーターもついてはいるが、昔通りに櫓をこいでいるのが嬉しい。船頭は黄色いタオルを向う鉢巻のように坊主頭に巻きつけている。
     大人百円、子供は五十円である。ここで講釈師はカズちゃんに五十円だと嘘を言い、彼女に怒られている。「だから、俺の言うこと、全部信用しちゃだめだ。たまには嘘を言うことだってあるんだから。」「十中八九ウソでしょう」と碁聖が茶化し、「千三つと言う言葉もありますよ」とダンディも追及する。

    この渡しは江戸時代初期に江戸幕府が地元民のために設けた利根川水系河川十五ヶ所の渡し場のうちのひとつであり、観光用途に設けられたものではない。かつては官営だったが、その後民営となり、代々個人により運営されている。(ウィキペディア「矢切の渡し」)

     遠くの空に見える白い雲が、なんとなく秋を思わせる。少し風が出てきたようだ。「大丈夫でしょうか」姫は揺れる舟が怖いので一所懸命船べりにつかまって笑っているが、実はやや顔が引きつっているのが分かる。
     舟に揺られながら講釈師が『矢切の渡し』(石本美由紀作詞、船村徹作曲)を歌い出す。「それ、何ですか」教養人ダンディは歌謡曲なんか、まるで関心がないのである。しかしこれは名曲である。「演歌」と呼ばれるものが現代人の心にどれだけの位置を占めるのかという問題はある。滅びに向かうジャンルであると考えても良い。それらの問題を留保して、この歌は名曲である。そして歌謡曲(を含む大衆芸能は全てそうだと思うのだが)は、曲と詞だけで生きているのではない。歌手を含めて評価されなければならない。そして世間では誤解している人も多いから強く言っておかなければならない。これはちあきなおみによって名曲となった。細川たかしの『矢切の渡し』は駄作である。第三連だけを引く。

     「どこへ行くのよ・・・」
     「知らぬ土地だよ・・・」
     揺れながら櫓がむせぶ矢切りの渡し
     息を殺して身を寄せながら
     明日へ漕ぎだす別れです

     故里を捨て、行方も知れぬ道に踏み出す男女の哀切な決意とは裏腹に、空はあくまでも明るい。私たちは大声で笑いあう。「講釈師なら『大利根月夜』を歌ってほしいですよ」と姫が囁く。

      立秋の川面をすべる渡し舟  千意

     岸に着けばここは葛飾柴又である。寅さん映画でおなじみの江戸川べりの光景が広がっている。

      寅さんの戻る気配や秋の土手  閑舟
      旅人が肩で風切る土手の秋   蜻蛉

     柴又に来たからには帝釈天に行かねばならぬ。実は私は初めて来た。正しくは経栄山題経寺、日蓮宗である。二天門には増長天、広目天が立つ。門の前で、浴衣の娘と甚平の若い男が写真を撮って貰っている。甚平で外出するというのが、私は実は分からないのである。浴衣を着ればよいではないか。別の若い娘は浴衣にビーチサンダルを履いている。
     本堂では若い僧侶が読経をしており、その声がマイクを通じて外にまで響いてくる。笠智衆は勿論いない。
     「欄間を見よう。」講釈師が私たちを引っ張って行く。本堂の周りを巡らす欄間には様々な彫刻が施されている。「安永八年春庚申帝釈天出現の図」なんていうものもある。これは何かと帝釈天の公式ページを見てみれば、こんな風である。

     世は安永が九年で終わり、次いで天明となり、あの飢饉、大疫蔓延の年即ち天明三年を迎えた。日敬上人は災難に遇っている人々救うはこの時にありと、この板本尊を自ら背負い、江戸をはじめ下総の国の諸処を訪れ、感得した一粒符を多くの病者に施与し、本尊を拝ませて不思議な御利益を授けたということである。
     こうして江戸を中心とした帝釈天信仰が高まり殊に江戸時代末記盛んであった「庚申待ち」の信仰と結びついて、「宵庚申」の参詣が盛んになった。
     明冶初期の風俗誌には『庚申の信仰に関連して信ぜらるるものに、南葛飾郡柴又の帝釈天がある。 帝釈天はインドの婆羅門教の神で、後、仏法守護の神となったが、支那の風俗より出た庚申とは何の関係もない、 此の御本尊は庚申の日に出現したもので,以来庚申の日を縁日として東京方面から小梅曳舟庚申を経て、 暗い田圃路を三々五々連立って参り、知る人も知らない人も途中で遇えば、必ずお互いにお早う、 お早う、と挨拶していく有様は昔の質朴な風情を見るようである。』と書いてある。

     渡り廊下の途中には、「これより有料になります」の札が掛けられている。その有料の彫刻ギャラリーには姫と碁聖だけが入って行った。私はケチだから行かなかったが、やはり行けばよかった。小さな金を惜しんで後悔するのは私の常である。「良かったですよ。」「お茶も飲めたし。」二人は庭園にもいったらしい。
     「帝釈天って毘沙門天の仲間でしたか」ダンディは西欧派の教養人だからこういうことは苦手なのだ。「違います」帝釈天は古代インド最強の神でインドラと言う。

    『リグ・ヴェーダ』の宗教における最大の神はインドラであり、実に全讃歌の約四分の一が彼に捧げられている。元来、雷霆神の性格が顕著で、ギリシアのゼウスや北欧神話のソールに比較し得るが、『リグ・ヴェーダ』においては、暴風神マルト神群を従えてアーリヤ人の敵を征服する、理想的なアーリヤ戦士として描かれている。(上村勝彦『インド神話』)

     ただインド神話は難しくて、最強の神であった筈のインドラも、ただの好色神のような逸話もあったり、評価が難しい。神よりも修行者の方が力が強い場合もあるのである。私たちが考える「善悪」なんていう価値基準とはまるで違うところでインド世界は存在している。仏教に取り入れられて帝釈天になると、梵天(ブラーフマン)とともに、二大護法神となった。毘沙門をはじめとする四天王を配下として、須弥山頂上の忉利天に住んでいる。

     門前町を歩いて、寅さん撮影の現場にもなったという団子屋にはいった。チイさんはトコロテン、講釈師は勿論クリームソーダを注文する。チロリンとカズちゃん、碁聖はアイスコーヒー、クルリンはあんみつ、あんみつ姫はクリームあんみつを注文する。黒い蜜が気持ち悪い。「エーッ、そんな顔をしなくても」その他の男はビールを注文する。ただしダンディだけは生ビールではなく瓶ビールである。「量が多いから」量だけではなく値段も百円違う。それにしても団子屋でダンゴを注文する者が誰もいないのは、店に対して失礼ではなかろうか。

      寅年に寅さん訪ね我も寅  泥美堂

     確かに今日は寅年の男が四人いる。ダンディと講釈師、チイさんとスナフキンとは一回り違うけれど。
     壁には、『男はつらいよ』の写真が何枚も飾られている。「何作まであったんだっけ」私は寅さん映画の熱心な観客ではなかったから分からない。私の四十数年来の相棒「コウタ」ならば即座に答えただろう。彼は全作、しっかり見ていた筈だから。

    三十作を超えた時点で世界最長の映画シリーズとしてギネスブック国際版にも認定された。ただしこれは作品数においてであり、年数では『ゴジラ』シリーズの方が長い。渥美の死去により、一九九五年に公開された第四十八作『寅次郎紅の花』をもって幕を閉じた。その後、ファンからのラブコールが多かったとの事で、『寅次郎ハイビスカスの花』を再編集し、新撮影分を加えた『寅次郎ハイビスカスの花 特別篇』が一九九七年に公開された。

     「浅丘ルリ子がよかった」とダンディが言う。山田洋次の登場人物には(特にヒロシには)民青の匂いがして、ちょっとどうかと思うところもあったけれど(それが私が全作を見ていない一つの理由でもある)、浅丘ルリ子のリリーは良かった。リリーの映画は私も三作を見ている。
     そして、それを思い出せば相棒コウタも同じことを思い出すに違いないのは、新宿歌舞伎町にいたリリーのことだ。六十九年から始まった『男はつらいよ』シリーズは、私たちの「青春」と重なっていて、その頃に纏わる微妙な事情までが一度に思いだされてしまうのだ。しかしそれは別の物語である。

     門前町は賑わっている。柴又駅前には「フーテンの寅」の銅像が立ち、カズちゃんは、それを背景にして姫に写真を撮ってもらう。車寅次郎は銅像になったのである。
     役者渥美清にしてみれば不本意なことであるかもしれない。もっと幅広い、多彩な役を演じたかった、そして演じることのできる人であったが、人が期待するのは寅さんだった。しかし、それだって渥美清の選んだ道である。

     「時代遅れの男のおかしさ」と「モダニズム」が彼のセールスポイントだとぼくは前に書いたが、「拝啓天皇陛下様」の成功によって、彼は「モダニズム」を切りすて、もっぱら「時代遅れの男」を熱演するようになる。(小林信彦『おかしな男 渥美清』)

     「フーテンって何なの」とチロリンが首を捻る。大槻文彦『言海』によれば、瘋癲とは「モノグルヒ。気違ヒ。狂気」である。本来の日本語ではこういうことだが、六十年代末、カタカナになって「フーテン」と書かれると、永島慎二の傑作マンガ『フーテン』になる。これは、職もなく終日ブラブラと過ごしている若者たちで、和製ヒッピーとも呼ばれたが、要するに執行猶予期間にある甘ったれた若者たちのことであった。別にテキヤ(香具師)やヤクザの間で、寝ぐらの定まらない風来坊の隠語としても使われていたようだ。寅次郎の場合、渥美自身の俳号である「風天」と書くのが最も相応しいように思える。雲に任せて行き先知らずの旅にでる。
     ついでだから風天(渥美清)の句をいくつか拾っておこう。

     枝豆の皮だけつまむ太い指
     お遍路が一列に行く虹の中
     うつり香のまま脱ぎすてし浴衣かな
     草しげり終戦の日遠く飛行雲 (森英介『風天 渥美清のうた』より)

     宗匠の万歩計で一万六千歩は、この暑さの中では歩いた方だろう。金町経由で帰る講釈師、チロリン、クルリンと別れ、残りは高砂経由で日暮里を目指すことになる。高砂で京成本線に乗り換えるのに改札を通らなければならないのが不思議だ。支線とはいえ同じ経営の下にあるのではないか。
     今日の反省会は日暮里「さくら水産」だ。店に到着したのは四時ちょっと前だったが、土日は昼の十二時から開店する店である。偉い。今日は碁聖も参加する。碁聖はカラオケに行きたいのである。反省会は一人二千二百円也。
     そして、いつもは嫌だと言っているダンディも実はカラオケが嫌いではないということが分かった日であった。
     

     
    眞人