番外 栃木編  平成二十年十月四日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2008.10.15

原稿は縦書きになっております。
オリジナルの雰囲気でご覧になりたい方はこちらからダウンロードしてください。
   【書き下しオリジナルダウンロード】

 栃木は遠い。五月の里山ワンダリングの会では、両毛線に乗って来て美女にバカにされたから、今日は別ルートを調べてきた。七時三十九分に鶴ケ島駅を出て、川越から大宮へ回り、八時二十二分の快速ラビット(宇都宮行き)を使って久喜で各駅停車に乗り換える。栗橋に着いたのは八時四十七分で、ちょうど隣の車両から降りてくるダンディと賈さんに合流した。東武日光線は九時二分の発車だからちょっと待たなければならない。
 東武線の電車の中で、窓の外を見ながら「一部分だけ刈り取りを残している田んぼがありますね。効率が悪いと思うんですけどね」とダンディが考えながら、「栗ですね」と呟いた。「どれですか」「あの緑の」「丸い?」賈さんは栗が生っているのを見たことがないらしい。いくらなんでも、中国に栗が生えていない訳はないと思う。彼女は余程の都会に育った人なのだろうか。
 私は賈美人に「下野国」の由来を説明してみる。古代、このあたり一円は「毛の国」と呼ばれていた。

 封國は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰躬ら甲冑を?き、山川を跋渉し、寧處に遑あらず。東は毛人を征すること五十五國、西は衆夷を服すること六十六國、渡りて海北を平ぐること九十五國。王道融泰にして、土を廓き畿を遐にす。(『宋書倭國伝』(岩波文庫)

 もうひとつ、今度は『舊唐書倭国伝』から。

 日本國は倭國の別種なり。其の國日辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。或は曰ふ、日本は舊小国、倭國の地を併せたりと。其の人、入朝する者、多く矜大、實を以て對へず。故に中國これを疑ふ。又云ふ、其の國の界、東西南北各々数千里あり、西界南界はみな大海に至り、東界北界は大山有りて限りを為し、山外は即ち毛人の國なりと。(岩波文庫)

 後の文にはいろいろ問題が含まれているのだが(日本と倭国は別の国であったとか、嘘ばっかり言うものだから、中国人は日本人の言うことを信じない等)、それに触れているとややこしくなってしまう。
 大和族に従わない種族は土蜘蛛とか毛人、蝦夷と呼ばれた、その「毛」であろう。東北まで含めて毛人の国であった。やがて大和朝廷に服属した地元の豪族は「君」の称号を与えられ、その支配地は上毛野国(カミツケノクニ)、下毛野国(シモツケノクニ)と呼ばれた。
 日本書紀では崇神天皇の第一皇子、豊城入彦命がこの地に入って毛野国を建国し、毛野氏の祖となったとされているが、こんなことは信じない方が良いだろう。地元の豪族が氏を飾るのはよくある話だからだ。時代が経るに連れ、「毛」の文字が嫌われて、読み方はそのまま、上野(カミツケからコウヅケへ転訛)、下野(シモツケ)と表記されることになる。
 すべての国名を佳字二文字で表記するようにという命令があったかどうか。「紀伊はもともと木の国でした」ダンディが補足してくれる。「津は摂津に、泉は和泉に変わりました」肥前、肥後は阿蘇山を持つ「火の国」だった。面白いのは略して言うとき、上野は「上州」なのに、下野は「下州」ではなく「野州」と称されることだ。
 栃木市はなぜ栃木県の県庁所在地でないのか。県と同じ名をもつ市で、県庁所在地でないのはここだけだろう。古代には下野国の国庁がおかれ、まさに国の中心であったはずだ。
 明治四年の廃藩置県によって下野国北部(河内郡、塩谷郡、那須郡、芳賀郡)には宇都宮県が、下野南部(都賀郡、寒川郡、安蘇郡、足利郡、梁田郡)と上野国の南東部(山田郡、新田郡、邑楽郡)とを合わせて栃木県が発足した。明治六年、宇都宮県と栃木県が合併して県庁は栃木市におかれたが、明治九年、旧上野国の三郡が群馬県に編入され、明治十七年に、県庁が宇都宮に移された。栃木市民の悔しさはいかばかりであったろう。県南部は自由民権運動が盛んであったため、時の政府に嫌われたのだという。

 栃木駅着九時三十三分。電車を降りるとき、向かいに座っていた男に挨拶されたような気がして、おかしいなと思いながら、二三歩歩いてやっと気がつく。久しぶりの住職の顔ではないか。近眼なので許してほしい。思ったより元気そうで安心した。「栗橋でずいぶん待たされちゃったよ。接続が悪いんだよね」とぼやいている。
 大橋さんはいつも早い。「講釈師はもう来ている筈ですよね」「いつも一番早く来てますから」とダンディと辺りを見回してみたが姿が見えない。ノンちゃんは「ここで良かったのよね、皆に会えて良かった」と、安心したように改札を出てきた。そのうち、「いや、早く来すぎちゃってさ」と、どこからか講釈師が現れた。あっちゃんは四十八分着。「遅れると除名されちゃうんだもの。五百円払って特急に乗ってしまいましたよ」十時三分着の電車まで待っていると、胡桃沢サンも降りてきて九名が集まった。
 今日の会の趣旨はなんであろうか。
 「栃木は川越、佐原とならんで小江戸と呼ばれますから、今日は江戸歩きの番外編でしょう」ダンディの言葉に「えーっ、私はてっきり里山の番外編かと思っていました」と美女が驚く。五月に里山ワンダリングの会で歩いた時は、午前中に太平山に登り、町中を歩いたのは午後の二三時間しかなかったから、この町の魅力を堪能するまでにいたらなかった。今日はその補遺を兼ねてはいるのだが、「里山は隊長が主催するんですから。隊長の許可なくて勝手に里山を称することはできませんよ」というダンディの主張が通り、本日は江戸東京歩きの番外編と決まった。こんなことはどうでも良いようだが、私の作文でどちらのシリーズにするかは大事な問題なのだ。江戸歩き番外編「栃木」のリーダーは講釈師である。

 爽やかな秋晴れに恵まれた。「鈴木さんは良かったわよね。これまであまり天気にめぐまれなかったものね」今日は一泊で那須岳に登っている筈の岳人の無事をノンちゃんが祈る。彼女自身は明日、やはり一泊で尾瀬の方にいくのだそうだ。女岳人である。
 駅前の山本有三の碑の前が最初の見どころである。賈さんがこの作家を知っているのには驚いてしまう。日本人だって今どき誰が有三の小説を読むだろう。私たちが小学生の頃、『路傍の石』は必読書だったし、映画にも何度かなっているから、古い人間は知っている。「私は、あの押しつけがましい説教調が嫌いです」と言うのはダンディだ。
 駅を離れればすぐに川に出る。巴波川である。巴波と書いてウズマと読む。渦巻きの転であり、文字は宛て字だろう。道路の下に一段低くなっているところが道のようになっていて、「これが綱手道って言うんだよ」と講釈師の今日の講釈が始まる。船が川を遡るとき、両側から綱を引くための道である。「水深が浅いから、船の底が平らなベカ船を使ったんだよ」「べか舟って、浦安で有名だよね」「そうだよ、そのべか舟だよ」
 ちょうど岸に小舟が舫ってある。「俺の子供の頃は田舟って言ってたようだよ」と住職が思い出す。「親父が釣りに連れて行ってくれたりしたいね」住職の子供の頃といえば、昭和十年代前半のことか。田んぼまで行くのに利用されたものだ。用水路は狭くて水深が浅いから、必然的に喫水線の浅い小さな船になる。農作業の道具を積み、仕事を終えた帰りには鮒釣りなんかもしたかも知れない。だから「田舟」と言う。一方、講釈師の言う「べか舟」は『大辞林』にはこう書いてある。

(一)薄板で造った一人乗りの小舟。軽量で、艫に縛り付けた櫂でこぐ簡単な構造のもの。東京湾で海苔採集に用いた海苔べかはその典型。
(二)江戸時代、利根川支流の渡良瀬川・思川などで商品輸送に使われた長さ十五メートル、幅二・五メートル程度の川船

 山本周五郎『青べか物語』は当然(一)そのものだが、住職の言う「田舟」も同じようなものだったに違いない。巴波川で利用された舟は正に(二)に当たる。だから、同じ「べか舟」と言っても大きさが違う。
 江戸時代は海運と同時に河川舟運が物資輸送の最大の手段であり、そのためには利根川大東遷事業が必要だった。
 周辺から集積した物資は巴波川を下って古河の辺りから利根川に入り、関宿で江戸川を下って、新川に入る。そして中川船番所で荷を改めたうえで、小名木川から江戸へ運ばれた。三月に美女の案内(第十六回「小名木川編」)で中川船番所跡に立ち寄ったのを思い出す。(これでどうやら、江戸歩き番外編の趣になってきた)
 江戸の物資は逆のコースをたどって栃木に集められた。ただし、江戸へ輸送されるものは、廻米(年貢米)、日光御用荷物、大麻、筵、薪炭、石灰などで、むしろ江戸からの下り物が圧倒的に多かった。だから栃木の町は江戸からの物資集積の基地として栄えた。(「わかりやすい小江戸栃木巴波川舟運」より)蔵の町並みを見れば、現在は知らず、幕末から明治にかけては相当繁栄していただろうということが想像される。

 相生橋の袂の柱には「みつわ横町・歌麿通り」と記されている。喜田川歌麿は栃木の町の豪商に招かれて何度も滞在したことがあるそうだ。当代一流の江戸の絵師を招いて、長逗留させるためには、どれほどの費がかかったか。
 すぐそばに煉瓦造りの洋館が建っている。「一番古い写真館だよ」片岡写真館(明治二年創業)である。ただ現在の建物自体はそんなに古くない。かつて県警のものだったのをモデルに立て直したのだと、この店の女主人(?)が言う。管内には幕末から明治初期の古い写真が展示されている。
 幕末の写真師としては下岡蓮杖が有名だ。慶応三年(一八六七)に横浜で営業写真館を開いたのが関東で最初のこととされているから、それからすれば明治二年というのは、僅か二年後のことだから実に古い。あるいは蓮杖の弟子だったのだろうか。  雛人形が飾られていて(三人官女はいるが五人囃子はいない)、許可を得て写真を撮る。栃木の町ではちょうど「お蔵の人形さん巡り」というイベントが開催されている真っ最中だった。パンフレットを見れば、実に八十一か所もの商店、銀行などが雛人形を展示している。
 重陽の節句に雛を飾る「後の雛」という習慣がある。重陽の節句と言えば菊祭りとしか私の意識にはなかったから、これは新知識である。今日は旧暦九月六日で、重陽の節句、九月九日はもうすぐだ。雛祭りがあるのですか。
 こういうことは、たぶん喜多村?庭(信節)『嬉遊笑覧』が考証しているだろうと調べて見るとちゃんと書いてある。ついでに言うが、喜多村信節は、斎藤月岑の『武江年表』の補訂も行っている考証家だ。天明三年(一七八三)に生まれ安政三年(一八五六)に死んだ。『嬉遊笑覧』は江戸の事物風俗起源百科事典ともいうべきもので、きちんと読めば実に啓発されるところが多いのだが、私の学力ではまだ充分に読みこなせない。

 ○後の雛は、『滑稽雑談』(正徳三年撰)、「今また九月九日、菊絵櫃、御台匙、おつぼある事、三月節句に同じき由」のみ有て、雛のことはいはず。是は「貞享戊辰重九日」とあれば元禄元年なり。「此ころ雛を賞すること余りに今めかしく、記すべき程ならず」とみえたり。(中略)
 『続五元集』中巻、「穴いちに塵打はらひ草枕、ひゝなかざりていせの八朔」。また『入子枕』(正徳元年草子)、「二季のひゝな祭り」と有。

 つまり、重陽の節句に雛を祭る風習はちゃんとあったのだ。また、八朔(八月一日)にも行われていた。しかし、「今も京師・難波には後の雛あるよしなれど」と言っているので、この風習も幕末の江戸では既に廃れていたのだろう。
 駅前で仕入れたパンフレットを見ると、この催しものは「第七回」と記されている。おそらく「町興し」として近年になって始まったものだろう。それぞれの商店が、蔵にしまって大事にしている雛人形をこの時期に展示し、それを見せてくれるのだ。あとで気づいて惜しいことをしたのは、交番にも飾ってあることだ。交番に雛人形を飾り、自由に観覧させるなんて、栃木だけのことではないだろうか。
 「男雛は天皇、女雛は皇后」私は中国の美女に説明しようと、こっちが左大臣と言って失敗した。案の定、ダンディがすかさず訂正する。「逆ですよ。左大臣は向かって右側、天皇の左に位置するのです」そうであった。右近の橘、左近の桜。紫宸殿の左近桜は、もとは梅だったものを、遣唐使の廃止に伴う国風の意識が高まりかけた承和の頃、桜に変えられたのだ。

 秋の雛異国の美女を見上げたり  眞人

 日本の美女はここで写真十二枚入りの絵葉書を買う。
 講釈師は説明を済ますとさっさと出発してしまい、中をゆっくり見ていると「やってらんないよ」と怒られてしまう。路地の入口には朱塗りの鳥居が立ち、「?庚申」の額が掲げられている。「塩の旧字体です」「中国の人なら知っているんじゃないの」「今の中国は簡体略字になってますから」「台湾の方なら、このままでしょう」天文五年(一七四〇年)、巴波川大洪水の際、猿形の御神石が流れ着いたので、塩売七衛門が屋敷に祀って稼業の塩を供え、火防の神体として信仰したという。天文五年は庚申の年だったので、その名を持っているのだろう。庚申塔とは関係なかった。
 鳥居を横目に見ただけで歩いていけば銭湯が見えてくる。「中将湯」という暖簾が下げられた「金魚湯」である。昔懐かしい(昭和三十年代にはよく見かけた)建物がよく保存されていて、今でも現役で働いているのだ。「中将湯って懐かしいような気がする」美女の言葉に「女性の血の道に効果があったんですよ」とダンディが説明すれば、「私はどうしてそんなこと知ってるのかしら」と美女が苦笑いをする。「可愛い」美女がカメラを向けるのは、屋根瓦に泳いでいる二匹の金魚だ。
 もう少し行くと、「元遊郭のあったところだよ、入口が二つあるだろう」と講釈が始まる。遊郭かカフェかよく分からない。「道に出てくると客引きになって捕まっちゃうから、店の中から、ちょいと、お兄さん、なんか言うんだよ、俺もよく誘われちゃってさ。まいっちゃうよ」
 路地に入りこめば、店先のフェンスに「世界一うまい!ジャガイモいり焼きそば どうぞ召し上がれ ガーデン喫茶巴波の小歴」と書かれた紙が貼られていて、庭に設置されたテーブルでは大勢の客がそれらしいものを食べている。「これは旨いよ」と言いながら、「だけど、俺は旨いと思うって言ってるだけだからね。人にはそれぞれの味覚ってものがあるからさ」珍しく講釈師の口ぶりが謙虚だ。ジャガイモ入りの焼きそばなんて、世界の他の国はもとより、日本だって、この栃木の町以外にはないのではないか。「あとで食べるから」と言うリーダーに従って私たちは前に進む。
 路地の角に、もうそろそろ終わりかけようとする彼岸花が咲いている。今朝、彼岸花を説明したコピーを講釈師が配ってくれたのをやっと思い出した。甘い香りが漂っているのは金木犀、あるいは銀木犀だ。黒い板塀を回り込めば、川に沿ってその板塀が長く続いている。廻船問屋「塚田屋」である。板塀の内部にはいくつも蔵が建っているのが見える。豪商だ。

  掘割に蔵影揺れて彼岸花  眞人

 向こう岸では、巴波川に直角に流れ込む小さな掘割の上の橋で、親子がのんびりと鯉に餌をやっている。この川には鯉が多い。「藻の色がきれいですね」ダンディの感想に、しかし「外来種なら地元の生態系に影響があるんです」と生態系保護協会の要人である美女が漏らす。「だけど私が言うと風情がなくなっちゃうのよね」
 土蔵の屋根を見上げて「どの瓦にも渦巻き状の紋が入ってるんですね」と感心するが、これは家紋や屋号というのではない。渦巻きは水の象徴であり、従って火除けの呪いになる。別に日本固有の信仰ではなく、この文様はギリシアから中央アジア、中国を経てきたもののようだ。蛇がとぐろを巻いた形のようでもあり、唐草文様にも変化する。しかし縄文土器にも渦巻き形が見られるからには、伝来というよりも、古代人一般に水への信仰があったのかもしれない。
 「向こうに見えるのは、ぱんぱすです」あっちゃんが指をさす。「パンパース?」「それはオムツですよ、あれはパンパス」箒を逆さに立てたようなススキである。「活花に使うのよね」ノンちゃんは活花に詳しいのだった。ドライフラワーにするらしい。
 黒塀の尽きた角のところには、法被を着た若い連中が集まって声をかけてくる。塚田歴史伝説館に客を呼び込もうとしているのだ。「私、前に見ました」と美女が言うのは、「ハイテクロボット蔵芝居」というものらしい。「面白かったですよ」「有難うございます」講釈師はそんなことには構わず、さっさと橋を渡って向こう側の道を逆に歩いて行く。そちらに渡って黒板塀を眺めれば、塚田家の全体像がはっきり分かる。
 「来月の江戸歩きは玄冶店にも行こうと思ってるんですよ」美女の言葉を何ともなしに聞き流してしまった私は実に勘が鈍い。「粋な黒塀、見越しの松に、仇な姿の洗い髪」(山崎正作詞、渡久地政信作曲『お富さん』)ではないか。賈さんはこんな歌謡曲は知らないだろうね。しかし、元になった歌舞伎『与話情浮名横櫛』の方は知っているかもしれない。歌舞伎の方では、「源氏店」になっているが、そのあたり一帯に、江戸時代初期、幕府のお抱え医師、岡本玄冶法眼の拝領屋敷があったことで、玄冶店と呼ばれた。
 余計なことではあるが、歌詞には「仇な」と書かれているが、これは語法の誤りであると西沢爽が批判している。(なんだか、話題は栃木の町から離れていってしまう)日本語研究者の美人がいるので、日本語の勉強のため、引用する。

 だが、「仇な姿」は誤りである。仇はカタキで、古くはアタと言った。いまはムダの意味などに慣用されているが、ムダは「徒」(アダ)で「徒花」(アダバナ)というように「むなしい」ことである。
 色っぽい意味なら、婀娜とすべきか、平仮名で「あだ」と書くべきであろう。もとは委蛇とも書かれ、くねくねしたさまを言った。(『雑学艶歌の女たち』)

 綱手道の説明板の角から少し引っ込んだ路地に吉屋信子の記念碑がある。
 信子は新潟に生まれたが、明治三十五年に栃木に転入し、四十一年に栃木高等女学校に入学したらしい。ダンディは「『女人平家』は面白かった」と言うが、私はあまり関心がない。吉屋信子なんて、少女小説ではないかというのが私の偏見で、これは公平な見方ではないかも知れない。
 「私はあの絵を思い出すんですよ」美女が何かを思い出そうとしているのだが、なかなか名前が出てこない。ここでも私の勘は働かない。少女マンガのことだろうか。「男?女?」「もちろん男ですよ、綺麗な絵で」あとで調べてみた。『花物語』の挿絵を描いている中原淳一のことだろうか。
 この一角には鬼瓦が並んで展示されている。それほど古いものではない。「栃木瓦」についての説明によれば、江戸時代末期から、栃木市北部の箱森、野中、泉川、新井町などで生産が始まった。土の質があっていたこと、燃料用の材木を切り出す山を後背地にもっていたこと、大消費地である江戸への輸送網が発達していたことによるようだ。鬼瓦は魔除けと装飾を兼ねたもので、沖縄のシーサなんかも同じ趣旨で発達したものと考えれば、その源流は当然、中国に求められるだろう。

 和菓子屋「もめん弥」にも雛人形が飾られている。女性陣は(そして住職も)お土産の菓子を買うのに夢中だが、私たちを置いて講釈師はどこかに出て行ってしまった。この店には「路傍の石」という菓子がある。丁稚姿で荷物を背負い、街燈に凭れかかっている人形は吾一の積りだろう。「吾一って何」『路傍の石』の主人公の名前だと、賈さんに教える。
 雛人形とは別に、月と兎の小さな飾りもガラス棚の上に置かれている。これは月見の季節に相応しい。「日本では月に兎がいるんですよ」と私が説明したのは、実に無学を証明している。その起源は中国にあるのは当たり前ではないか。
 「天文民俗」(http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/afmain.htm)という面白いページを見つけた。典拠も示してくれているので参考になる。本来月には蛤がいたらしいのだが、それがやがてウサギに変わっていったものらしい。引用してしまう。

 ○月の満ち欠けと潮汐は関係がありますことから、月は水の精と考えられておりまして、白で丸い蛤(漢語で「蚪蛤」トコウ)が住んでいたと考えられていたそうです。これは古代中国の原始信仰であるそうです。  楚辞・明治書院・聞一多説より
 ○蛤の古音を二字にしますと蝦蟆(カバ)又は蟾蜍(センジョ)となります。これで蛤から蝦蟆(オタマジャクシ)又は蟾蜍(ガマガエル)に変身しました。  中国神話の起源・貝塚茂樹著・角川文庫より
 ○蟾蜍の当て字として「蟾菟」と書き替えられまして、蟾と菟がともに月に住むようになったようですね。  中国神話の起源・貝塚茂樹著・角川文庫
 ○天寿国曼茶羅繍帳残欠(国宝)には月が描かれ下左横に兎が両手を上げており、中央に薬壺が描かれています。六六二年。推古天皇の三十年。聖徳太子の逝去をしのび橘大女郎が作らせたものとあります。左上に月が描かれ、右に桂樹、中央に薬壺、右に兎が描かれております。これは古代中国において、月で兎が不死の薬を搗くと考えられていたものが、日本に伝わってからは餅を搗くと変化したしたものと云われているそうです。変化の理由は「満月」を「望月」と云いますが、これが「餅搗き」と転化したとのことです。

 ようやく店の外に出ると、リーダーは二三軒置いた隣の「山本総本店」から出てきた。そちらのほうは「火防の最中」というのが有名なのだそうで、ちゃんと土産の袋を手に持っている。「火防」「火伏」と言えば各地で地蔵や大黒天に仮託しているが、この辺のものは、シーサーのような鬼のような石造物になっていて、この形を最中にしてあるのだ。それならその店にも入らなければならない。
 この店の雛人形には昭和三十年代のものとの説明がついている。ちょっとモダンでかわいらしい小型のものだ。「私の家にあったのも同じだわ。あの頃流行ったのかしら」ノンちゃんが言うが、我が家にはお雛様なんかなかったから、私は覚えがない。
 教会が運営しているらしい「おたまじゃくし文庫」に入って、雛人形を見る。私たちが見ている間にも、老婦人がパソコンに向かって熱心に点字翻訳の作業を続けている。「文庫」には昔懐かしいような日本文学の全集が並んでいて、美女が喜ぶ。
 「倭橋って何て読みますか」ダンディが聞いてくる。栃木の地名は知らないが、普通に考えればヤマトバシか。「コビトバシって誰かが言っていました」小人の場合は、矮人(ワイジン)であろう。偏が違う。

 さてお待ちかねの栃木市郷土参考館である。(待ちかねていたのは私だけかも知れない)格子のくぐり戸を入るとすぐに帳場がある。ここは公設質屋を営んでいた坂倉家の主屋と土蔵で、約二百年前の江戸時代の建物だ。坂倉家の先祖は、三重県四日市市(旧馳出村)出身で諸国修行の旅をしていた僧であったといわれ、質屋のかたわら真言宗の布教活動をもしていたらしい。
 太鼓腹で貫録充分のおじさんが案内してくれるのだ。五月に来た時、最後に法螺貝を吹いてくれたのを思い出した。法螺貝は山伏のもつ楽器だから、真言密教と習合した山岳信仰の遺産だろう。私は棟梁と呼ぶことに決めた。「毎日、何百人も来るもんだからさ(それは大袈裟な)、顔を覚えてねえんだよ。ごめんな」
 「時間はどのくらいあるんだい」「五分だけ」と講釈師は惚けたことを口走るが、「そんな、せめて二十分お願いします」と美女が頼む。「二十分じゃ大したことは説明できねえけんどな」「木遣もお願いします」「木遣も聞きてえってか、それじゃますます二十分じゃ無理だっぺ」それでも棟梁は嬉しそうに説明を始める。
 この家はもともと質屋であった。質屋と言っても現代の(と言ってもあまり見かけなくなっているが)質屋を想像してはいけない。両替商であり、おもに布帛錦繍を取り扱った。もともとは伊勢の商人である。折角説明しているのに、講釈師、大橋さん、胡桃沢さんは帳場に座り込んでスタンプを押すのに忙しくて、全く聞いていない。
 蔵の最大の目的は何であるか。「防火」、「盗難よけ」、「そんなもんじゃない、そんなものは他に防ぎようがある。一番は虫だ」質屋だから証文と預かった商品が虫食いにあえばお終いだ。だから、蔵の入口には蓬を焚いて虫を防ぐ穴があいている。それから中の戸を閉めて、サル(かまちや桟に取付けた棒状材を鴨居や敷居に差し込んで留める物)が自動的に掛って戸閉まりをする様子を実際に見せてくれる。なぜ「サル」か。「蔵を出るってのは、ここからサヨナラすることだ。サヨナラのこと、なんて言うんだっけ。去るだっぺ。だからサルだ」この説明は怪しい。
 「ちょっとそこの美人ふたり、ここに立ってみな。別に触る訳じゃねんだけどよ」あっちゃんが前に立ち、賈さんがその後ろに立つ。蔵に対して斜め四十五度の角度になるよう、棟梁は二人の肩を触って位置を取らせる。やはり触りたかったようだ。
 観音開きの重い扉の左を閉め、「それじゃいいかい、ちゃんと確認するんだぞ」と右の扉を閉める。「どうだや」「風が来ました」「それじゃ開けてみな」
 今閉められた扉を美女が引っ張っても扉は開かない。棟梁が代わって、取っ手の輪を何やら動かすと簡単に開く。「なしてだか分かるかい」「真空になったんじゃないの」住職が正解を出す。
 「それじゃ二階に上がって見ておくれ」狭い階段を上る。この蔵の天井を支える梁は長さ八間(十四・四メートル)もある巨大な一本の松の木で作られている。これを見ただけでも価値がある。雛人形、甲冑、古文書、版木など様々なものが展示されている。
 すぐに棟梁も下から上がって来た。「忘れっちまってた。木遣も聞きたいんだってか」嬉しそうに、自分が木遣保存会の重要な役職を占め、教育もしているのだが、なかなか後継者が育たないことを栃木弁で喋る。諏訪神社の宮大工の二つの流派のうち、どちらかの流れを汲むのだとも言っているようだ。
 「それじゃまず、合いの手を練習してもらうからな」私は五月に続いて二度目だから大丈夫だ。木遣の節の合間に「ヨーイトコ巻いて梃子巻いて」と入れていくのだ。この合いの手に合わせて、巨大な梁を引き上げる。残念ながら木遣自体は歌い出しの「巻いてー、巻いてー」の他は何を歌っているのかさっぱり分からない。錆びていながら艶のある声は確かに素晴らしいと思う。江戸火消し、深川木場、諏訪宮大工など、木遣にもさまざまな流儀があるらしいのだが、私はまだ分からない。
 階下に降りても、棟梁はまだ講釈したそうだが、苛々が嵩じた講釈師が急かせてくるので、お礼を言って表に出る。講釈師は他人が講釈するのを嫌う。「だって、俺はもう何度も聞いているから」初めて聞く人もいるのだが。

 秋桜や蔵に流るる木遣り唄  眞人

 手造り家具の店「丸三」の暖簾を見ながら山車会館の裏から表に回れば、さっきの「火伏」の石像が立っている。その前にはイベントの机が設置され、背中に「映蔵」の文字を染め抜いた黒い法被姿の若い衆が大勢屯している。市内のあちらこちらで、映画上映の会があるらしいのだ。「蔵の街かど映画祭」と言う。案内を見れば去年から始まったイベントだ。人口八万三千の栃木市には映画館がない。味噌蔵、麻の蔵、古民家、古い講堂などを利用して、ミニシアターを開くのだ。もちろん今日はそんなものを見る時間がない。
 着物姿の若い女性の姿が目に付くようになった。さすがにもう浴衣ではなく袷になっているが、足元を見れば素足に下駄をつっかけている。

 ペディキュアに下駄を鳴らして秋節句  眞人

 大通りを渡れば山本有三会館だが、これは昼食の後に入ることにして、リーダーは「壱番館」という蕎麦屋に連れて行ってくれる。
 講釈師、胡桃沢さん、大橋さん、ノンちゃん、賈さんは、例のジャガイモ入り焼きそばを注文する。これはソース焼きそばに、茹でたジャガイモを一緒に混ぜた代物だ。「ほんとにさ、俺は旨いと思うって言うだけだからね。無理強いしてるんじゃないよ」講釈師が念を押す。
 あっちゃんはキノコ蕎麦、住職は掻揚げとせいろ蕎麦、ダンディは焼きそばとせいろ蕎麦と二つ。私は御飯が食べたいので、鰻のミニ丼にセイロのセットで千二百円も使ってしまった。賈さんがこれらをカメラに収める。
 「ジャガイモを食べるとビールが欲しくなる」ダンディの言葉にあっちゃんも、「ジャガイモは偉いですよね」と相槌を打つ。隣の卓では老夫婦らしい観光客が二組、案の定ビールを注文している。しかし私は満腹してしまって腹が少し苦しい。
 「どう、食べられた?」講釈師は賈さんに気を使って、ジャガイモ入りの焼きそばの味を確認している。「大丈夫、美味しかったです」彼女は持ち帰りまで考えたらしいから、気に入ったのだろう。大橋さん、胡桃沢さんも美味しいと言ってくれたから、講釈師の面目は立つ。

 良い加減満足した後は山本有三生誕の地である蔵造りの店に入る。外から建物を見て、「二階を見てよ、窓の形が右と左じゃ違っているだろう。蔵を二つくっつけたんだ」講釈師は何でも知っている。確かに、向かって左側の窓は引き戸形式で、右側は観音開きになっていて、屋根のつなぎ目のところが少し歪んでいるようにも見える。
 一階の奥には有三が使った机と椅子が置いてあり、壁には「心に太陽を持て」が掲げられている。唇に歌を持て。
 あっちゃんが暗唱を始める。私も小学校の国語の時間に習った。「えっ、そうなの。全然知らないわ」ノンちゃんが声を上げる。戦後は国定教科書ではなく、どの出版社のものを選ぶかは地方教育委員会の裁量に任されていたが、国語の教科書に載るような詩は、大概どこの出版社でも同じようなものだった筈だ。たぶん忘れてしまったのだ。
 「俺なんかさ、暗記しろって前の日に言われて。だけど当てられても全然覚えてないんだ。それで教室の一番後ろに立たされちゃった」講釈師も知っているとすれば、戦後すぐから、少なくとも昭和三十年代半ばまでは、この詩は国語の教科書に採用されていたということになる。今でも載っているかどうかは知らない。
 「私はこういう教訓めかしたものは嫌いです。むしろ宮沢賢治のほうが良い」ダンデイが批評する。『雨ニモ負ケズ』は、賢治の熱烈な法華経信仰によると思うのだが、さて、『心に太陽を持て』とどちらを選ぶかと言われれば、なかなか微妙な気持ちになってくる。
 調べてみると、これは昭和十年、「日本少国民文庫」(新潮社)の一冊として『心に太陽を持て 胸にひびく話二十篇』を刊行したとき有三が訳したもので、原作者はドイツのツェーザル・フライシュレンであった。昭和十年という時代にこの詩を訳して子供たちに示そうとしたのは、彼の見識であったと今更ながら思えてくる。敬意を表して引用しておこう。

 心に太陽を持て。
 あらしが ふこうと、
 ふぶきが こようと、
 天には黒くも、
 地には争いが絶えなかろうと、
 いつも、心に太陽を持て。

 くちびるに歌を持て、
 軽く、ほがらかに。
 自分のつとめ、
 自分のくらしに、
 よしや苦労が絶えなかろうと、
 いつも、くちびるに歌を持て。

 苦しんでいる人、
 なやんでいる人には、
 こう、はげましてやろう。
 「勇気を失うな。
 くちびるに歌を持て。
 心に太陽を持て。」

 しかし昭和十年代の日本は、有三の願うようには進まなかった。十一年二月には二・二六事件が起こり、十一月には日独伊防協定が成立した。十二年七月七日、盧溝橋で日中両軍が衝突し、十三年一月、広田弘毅は「爾後、国民政府を対手とせず」と声明する。四月、国家総動員法が公布される。中国大陸を滅茶苦茶に破壊しながら、日本は暗黒時代に突入していくのだ。(ダンディ、講釈師、隊長はこの年に生まれたのですね。)
 狭い箱階段は日本人の収納の知恵であるが、これも賈さんには初めて見るものだ。二階に上がってみれば有三の著作集が並んでいる。そう言えば、小泉純一郎が「米百俵」なんて馬鹿な話を持ち出していたことがあったが、その本もある。ここが有三生誕の地であり、戦争中に疎開していた場所でもある。戦後の国語改革によって当用漢字が制定され、現代仮名遣いという論理も何もないものが採用されるにあたって、有三の果たした罪は大きい。
 「表記をローマ字にしろなんていう主張もありましたね」もっとバカバカしいのは、結局誰も相手にしなかったが、日本語を廃してフランス語にしろなんて主張した連中もいたことだ。確か志賀直哉ではなかったか。「そうそう、たぶん志賀直哉だと思います」探し出して腹が立ってきたので、長いけれど引用する。栃木には何の関係もないのだが。

 國語を改革する必要は皆認めてゐるところで、最近その研究會が出來、私は發起人になつたが、今までの國語を殘し、それを作り變へて完全なものにするといふ事には私は悲觀的である。自分にいい案がないからさう思ふのかも知れないが、兔に角この事には甚だ悲觀的である。不徹底なものしか出來ないと思ふ。名案があるのだらうか。よく知らずに云ふのは無責任のやうだが、私はそれに餘り期待を持つ事は出來ない。
 そこで私は此際、日本は思ひ切つて世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとつて、その儘、國語に採用してはどうかと考へてゐる。それにはフランス語が最もいいのではないかと思ふ。六十年前に森有禮が考へた事を今こそ實現してはどんなものであらう。不徹底な改革よりもこれは間違ひのない事である。森有禮の時代には實現は困難であつたらうが、今ならば、實現出來ない事ではない。反對の意見も色々あると思ふ。今の國語を完全なものに造りかへる事が出來ればそれに越した事はないが、それが出來ないとすれば、過去に執着せず、現在の我々の感情を捨てて、百年に百年後の子孫の爲めに、思ひ切つた事をする時だと思ふ。
 外國語に不案内な私はフランス語採用を自信を以つていふ程、具體的に分つてゐるわけではないが、フランス語を想つたのは、フランスは文化の進んだ國であり、小説を讀んで見ても何か日本人と通ずるものがあると思はれるし、フランスの詩には和歌俳句等の境地と共通するものがあると云はれてゐるし、文人逹によつて或る時、整理された言葉だともいふし、さういふ意味で、フランス語が一番よささうな氣がするのである。私は森有禮の英語採用説から、この事を想ひ、中途半端な改革で、何年何十年の間、片輪な國語で間誤つくよりはこの方が確實であり、徹底的であり、賢明であると思ふのである。
 国語の切換へに就いて、技術的な面の事は私にはよく分らないが、それ程困難はないと思つてゐる。教員の養成が出來た時に小學一年から、それに切換へればいいと思ふ。朝鮮語を日本語に切換へた時はどうしたのだらう。(『國語問題」「改造」昭和二十一年四月』

 これが、かつて「小説の神様」と呼ばれた作家のことばである。己一生の仕事の根幹をなした日本語に自信を失って、たわごとを口走った。「外国語に不案内な私」が「フランス語が一番よささう」と下らない感想を持つのは勝手だが、それを国語にしろと主張して怪しまれないほど、当時の日本人は愚かだっただろうか。「国語が完全でない」のなら、志賀はどうやって小説を書いていたのであろう。ことは論理の問題である。最後の一節、「朝鮮語を日本語に切り替へた時はどうしたのだらう」に至って、この作家の民族とか文化に対する無神経が暴露された。とにかく、論理の衰弱、無定見、無神経としか言いようがない。
 志賀が「完全でない」と断言する日本語が、用いる人によっては、実に明晰で透徹した美しい文章にもなりうることは、林達夫の名前を挙げるだけで充分だろう。林のような文章を書きたい。それは蟻が象を願うような大それた望みだが、夢をもつことだけは許されるだろう。
 林の文章の引用はしない。私が下手に切り貼りしてその魅力を台無しにしてしまうのが怖いからだ。私はただ推薦するだけにする。著作集全七巻(平凡社)は手に入りにくいかもしれない、「中公クラシックス」に『歴史の暮方』が、「平凡社ライブラリー」にいくつか、岩波文庫からは『評論集』が出ている。
 ただし山本有三について言えば、『日本少国民文庫』というシリーズの中で、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』を書かせたことは有三の功績として歴史に残る。

 路地を歩けば「寺内萬年筆病院」という看板が掲げられている古い建物に出会う。万年筆がまだ貴重であった時代、修理しながら大事に使った古い日本の記憶をそのままに残している。巴波川に戻れば、川沿いにイベントのテントが設営され、学生だろうか、焼きそばを作っていて勧めてくれるが、私たちは昼食をとったばかりだ。「そうですか、残念ですね」女学生が心から残念そうな声を出す。
 交差する細い掘割に「入船橋」という橋柱があるからには、ここまで船を引き入れていたのだ。川の水はきれいで、栃木の町はこの維持に力を注いでいることが分かる。
 二階建の瓦屋根の建物の両側が大きな蔵になっている。入口も二つに分かれていて、一方には「横山共立銀行」の看板が掛かり、格子戸の方には、「栃木町麻直縄商組合・請願巡査派出所」なんて細長い木の看板が掛けてある。左半分で銀行を、右半分で麻問屋を営んでいたものだ。ここは横山郷土館になっているが、入館料が五百円要るので外から建物を眺めるだけにする。「だってさ、こういうところに全部入ってたら、何千円もかかっちゃううんだぜ」
 県庁堀には、木造二階建てで薄緑のペンキを塗った建物が、まだ市役所別館として今も使われている。「ほら、ここの入口のところ。昔の市役所そのままだろう」講釈師の言う「昔」はいつ頃のことか定かではないが、言われればそんな気がしてくる。
 ここでまた山本有三の文学碑にお目にかかる。こちらは『路傍の石』の一節を刻んでいる。
 「そう言えば、今日はお寺に行きませんね」ダンディが気づいてしまった。「ほんとに、見事にお寺を避けているのね」この町に寺がない訳はない。一日歩いて、お寺の影も見えないコースを探すのは大変だったろう。講釈師の意図は明らかだ。
 「今日は運が良いよ、門が開いている」講釈師が連れて行ってくれたのは栃木高校だ。正門を入って右手にあるのが、木造二階建て、白地にピンクの縁取りで彩った洋館だ。玄関の上には「記念図書館」の額を掲げている。明治四十三年九月、当時の皇太子(大正天皇)来校を記念して、大正三年に建てられた。この町は関東大震災も空襲にも縁がなかったのだ。正門左手の方にも似たような建物があり、「向こうも見てみたい」と美女が残念がるが、講釈師はそちらの方には目もくれず、歩き出す。
 栃木病院もやはり大正二年に建てられたもので、二階のバルコニーの柵が特徴的な形をしている。昭和三十年代後半以降には、木造と言ってもモルタル塗りが大勢を占めていたはずだが、これはほんとうに木造の板張りである。腰板の辺りのペンキがかなり剥げている。正面左の壁面には小さな窓がついていて、「これが受付だったんだよ」と、これは説明されなくても想像がつく。「本当によく知っているよね」「そうそう、余計なことも言うけどね」大橋さんと胡桃沢さんが小さな声で話しているのが聞こえる。
 この町が、こうした古い建物を壊さずに今でも利用していることに驚く。「町興し」という考え方はそれほど古いものではないし、そんな言葉が使われるずっと前から、こうした街並みの景観を保存していたとしか思えない。この町は、日本列島改造もバブルも、そんなものとは全く無縁に続いて来たんじゃないか。逆に言えば、戦後日本の経済発展から取り残されたのが幸いしたのではないかと思えてくる。時間が止まった町かも知れない。

 秋の空時よ止まれと蔵の町  眞人

 道路脇に日光例幣使街道の標柱が立つ。
 倉賀野宿(群馬県高崎市)で中山道から分かれ、玉村宿(佐波郡玉村町)、五料宿(玉村町)、柴宿(伊勢崎市) 、境宿(伊勢崎市)、木崎宿(太田市)、太田宿(太田市)、八木宿(栃木県足利市)、梁田宿(足利市)、天明宿(佐野市)、犬伏宿(佐野市)、富田宿(下都賀郡大平町)、栃木宿(栃木市)、合戦場宿(下都賀郡都賀町)、金崎宿(上都賀郡西方町)、楡木宿(栃木県鹿沼市)、奈佐原宿(鹿沼市)、鹿沼宿(鹿沼市)、文挟宿(日光市)、板橋宿(日光市)今市宿(日光市)を通って日光坊中に至る。総距離数は三十一里十町(およそ百十八キロメートル)となる。京都から倉賀野までが約四百三十キロ、合わせて五百五十キロメートル弱の道中を、京都から十四泊十五日かけて歩いた。

 一行(五十人前後)は四月一日に京を発ち、近江草津宿から中山道を進み、倉賀野宿から「日光例幣使道」に入りました。四月十一日は玉村宿に宿泊、翌十二日は太田宿大光院を参拝し昼食、楡木宿で「壬生道」に合流し、今市で日光道中に合流、四月十五日鉢石に到着しました。十四泊十五日の旅です。翌十六日は幣帛を奉納し、帰路は日光道中で江戸に出て、東海道で京に戻りました。
 http://www.geocities.jp/gkhyagi/5kaido/go-28reiheisi.htm

 例幣使の不法、非道については時代小説が良く書いているところだ。

 日光例幣使は普段は貧乏な下級公家であるが道中では朝廷と幕府の権威を一身に背負ったため大変な権勢を誇った。公務であるため宿場や助郷村は無賃で道中に協力させられ大変な迷惑をこうむったという。以下のような話が伝わっている。
 ・駕籠が少しでも揺れると自ら駕籠の中から飛び出して「人足の不調法で駕籠から落とされた、この無礼を幕府に訴える」と主張し宿場や人足から示談金をせしめた。
 ・大量の空の長持を用意しそれに対し六人持ち(人足六名で担ぐ)、八人持ち(人足八名で担ぐ)などと指示を行い宿場が用意できる人数を大幅にこえる人足数をそろえるよう主張した。これは不足した人足分について宿場側より補償金をせしめるためである(例幣使側が直接人足を雇用したという建前)。勿論宿場側もしたたかであり値引きの交渉も盛んに行われた。(ウィキペディア「奉幣」)

 町並みは確かに古い街道の面影を残す。こんなところにまだ人が住んでいるのかと思われるような家もあるが、大半はまだちゃんと生活が営まれ、商いも行われているのだ。麻問屋の店は玄関が開け放たれて、板敷のところに麻の束が積み上げられている。
 「理髪店」の看板を出す店はもう営業はしていないのだろう。その角を曲がっていくと、代官屋敷跡にたどり着く。入場料三百円を払って中に入る。受付の脇の部屋には雛人形が飾られていて、この家の主婦と思われる女性が、これは江戸時代のものだと説明してくれる。五人囃子が、稚児髪をした童子の姿になっているのは珍しいのではないだろうか。(最初にも言ったように、私は雛人形をまともに見たことがないし、知識がないので分からないのだけれど)女性は説明したそうにしているが、「早くしようぜ」とリーダーが急かせるので、まず屋敷内を見ることにする。
 さっき通りから見た床屋の内部がここに公開されている。栃木で一番初めにできた床屋で、平成元年まで営業していたというので驚いてしまう。洗面設備もないし、照明は電球ですよ。子供用の椅子が木馬の形になっているのが楽しい。壁に貼られた料金の推移表を見ると、明治四年には二十五銭、そのあと、十銭、六銭五厘、八銭、四銭などと上下動をしながら安値になっていく。大正三年には二十銭、その後も上下動を続けながら、昭和十八年の八十銭まで、まだ円の単位が出てこない。昭和二十年に三円五十銭、戦後のインフレにより毎年のように値上げを続け、二十三年には二十五円、二十五年に六十円、二十八年に百四十円と、戦後の八年間だけで、実に四十倍に値上がりをしたのだ。
 「栃木で一番古い自動販売機」なんて代物も置いてある。日東紅茶の「キャンテコ」と言う飲み物のようだが、だれか知っている人はいるだろうか。
 床屋はそれくらいにして、敷地内にある建物を巡回する。麻を加工していたらしい工場跡、文庫蔵と称する土蔵、甲冑や武具を置いた蔵。蔵だけでもかなりの数がある。奥まった細い道を抜けていけば、代官陣屋の建物が続いている。

 岡田家は五百五十年以上の歴史をもつ旧家で、江戸時代に未開地を開墾して村民に生活の基礎を作り指導し安定した村落づくりに貢献したという。 以来、当主の名を取り、この地を嘉右衛門新田(現嘉右衛門町)と称した。同家は例幣使街道沿いの現在地に居宅を構え代々嘉右衛門襲名している。
 高家畠山氏の領地時代、元禄元年(一六八八)から、この地に陣屋が設けられたが、それらの建物が現在も約四千平方メートルという同家の広い敷地内に保存されていることから代官屋敷とも呼ばれて、往時の姿を偲ばせている。
 館内の三棟の蔵には栃木県指定文化財の富岡鉄斎筆の韓人堪忍図をはじめ、文人の松根東洋城や陶芸家の板屋派山、竹工芸家の飯塚琅?斎の作品等、丘だけの宝物が展示され一般に公開されている。(栃木県観光協会)

 畠山氏四千四百九十三石、十三箇村の惣名主として村を治め、傍ら回漕問屋として財をなしたことで、代官職を兼ねたものだ。現在の当主は二十六代目であり、駅前で皮膚科耳鼻咽喉科のクリニックを開業している。
 帰りかけると、さっきは気付かなかったが木犀の甘い香りが漂っている。奥さんが出てきて、金木犀みたいだが、これは銀木犀であると断言する。「家はもともと京都の公家だったんだけど、南北朝時代に足利に従ったのよ」それが本当なら七百年の歴史があることになるが、本当だろうか。南北朝時代が終焉したのは一三九二年、その時から数えたとしても六百十二年になる。南北朝並立の始まりを一三三六年とすれば、六百七十四年になる。この家は公式には五百五十年以上と言っているから、確実に資料で確かめられるのは戦国期になってのことだろう。
 鋳物のタヌキを指さして、「これはオスかメスかわかるかしら」とおかしなことを聞いてくるので、私は一瞬タヌキの足の付け根を確認してしまった。「そうじゃないのよ」女は毎月アカジ(赤血、赤字)を出す。だから商売しているところに雌のタヌキを置くわけがないのだそうだ。

 木犀の薫る戸口に狸かな  眞人

 門扉に取り付けられた薄い碗型の突起に、直角に曲がった釘が植え込まれている。「これは何だと思うか」よほど閑なご婦人である。「乳首になっているの、子供が母親に縋るようにね。母親と同じように頼りがいのある家じゃないと、駄目なの。これをそんじょそこらの家には付けられない。」本当かな。寺の山門の扉にもよく見られる。乳釘と呼ばれるものなら、現在は装飾の一種になっているが、本来は蔵の修理の足場として、土蔵の白壁に取り付けられるものだ。賈さんが不思議そうな顔をしているので、これは「おっぱい」であると説明する。彼女が笑う。
 「去年、蔵の中から百五十年分の日記が出てきたの」なんでも国学院の先生が部分的に解読して、慶応の先生に出版を相談したところ、その慶応の先生が論文に発表してしまったのだという。「盗まれたようなものよね」(真偽不明であるが、夫人の言葉をそのまま載せた)
 夫人はまだ話し足りない顔をしているが、「早く行こうぜ」リーダーの号令を機に出発する。

 途中、道端の大きな石の庚申塔に細い注連縄が巻かれている。これは文字だけだから、「三澤さんがいませんね」とダンディが笑う。「えっ、何のこと」美女は分からない。よく青面金剛に踏みつけられている邪鬼を描いた庚申塔を見ることがある。それを見て講釈師自身が「この天邪鬼は俺のこと」と言ったことがあるのだ。本当にアマノジャクな人である。
 天明年間に創業された味噌屋「油屋傳兵衛」がリーダーの次の目的地だった。「天明の改革」とダンディが間違える。水野忠邦の復古反動緊縮財政による改革の方は「天保の改革」だ。天明と言えばまず飢饉を思い出すだろう。天明三年(一七八三)、浅間山の大噴火に端を発し、全国に甚大な被害をもたらした。東北地方を中心にして、全国で推定三十万から五十万人が餓死した。人肉を食らった記録も残されている。
 様子が分からないまま、リーダーに引率されて店内に入る。「座敷に上がろうぜ」という声で、「靴脱ぐのが面倒くさい」と口々に言いながら小上がりに上がれば、言いだしっぺの講釈師は、土間の椅子席に腰掛けている。ズルイ、と思ったが脱いでしまったものは仕方がない。大橋さん、ノンちゃん、あっちゃん、賈さんと一緒に畳に座る。残りの人は椅子席に落ち着いた。
 「映画を見る人はいませんか」「いません」そう言えば店の入口にはマリリン・モンローの写真が飾ってあった。ここでも「映蔵」の行事が行われているのだ。
 「盛り合わせの方は何人ですか」店員が声を掛ける。「盛り合わせ」とは何であろう。「里芋、こんにゃく、豆腐です」「メニューはそれだけですか」「そうです」「盛り合わせじゃないのって何ですか」「それぞれ単品で」ということであった。大半の人は盛り合わせを頼み、私は豆腐を頼んだ。実は私は田楽味噌のあの甘ったるいのが好きではない。座ってしまったから仕方がなく注文するのだ。
 田楽が出てくる間、美女はラムネを注文する。賈さんはラムネを知らないだろう。出てきたラムネ瓶を開けようと、日中の美女二人が苦労している。栓抜きとは言わないのだろうが(栓を抜くのではなく押し込むのだから)、何というのか分からない。この頃のそれは、プラスチックでできていて、まず、その余分な部分を除去しなければいけないらしい。昔は、店に備え付けの木製のもので、お店の人が開けてくれたのだ(と思う)。賈さんは恐る恐る指で押そうとするからうまくいかない。「分かった、こうしてね」と美女が力を込めるとラムネ玉は無事に押し込まれた。
 「この味は知っています」「ソーダ水ですよ」中国には「汽水」というものがあるらしい。賈さんが電子辞書で引く「ソーダ」の中国語表記は全く読めない。?打。これでソーダか。
 しかし、味噌はそれほど甘くはなかったから私も食べられた。実はあっちゃんも私と同じだったらしい。彼女は里芋を注文したが、やはり甘すぎなくて美味しいと喜んでいる。私は喜ぶほど旨いものだとは思わない。昼のウナギに加えて、お腹に膨満感がある。

 モンローも里芋食ふや蔵の見世  眞人

 この店にも雛人形が飾られている筈だが、リーダーがさっさと歩き始めるので見ることができない。「残念」美女が嘆く。
 また銭湯に出会った。実は講釈師は銭湯が大好きなのだ。「銭湯浪漫」の暖簾がかかり、横のほうからは脱衣場と浴場が開け放して見える。賈さんは銭湯なんか見たことがないだろう。「こっちからよく見えるよ」「大丈夫ですか」と脇から入って行った彼女だが、脱衣場のところに人がいたらしい。あっちゃんも気付かずに見に行き「すみません」と謝っている。「裸だった?」「ううん、服を着てた」それは良かった。中国では銭湯も温泉もないんじゃないかと思ったのは、私の早とちりだろう。「温泉水滑らかにして凝脂を洗ふ」(『長恨歌』)の一節もあるからな。

 春寒くして浴を賜う華清の池    春寒賜浴華清池
 温泉水滑らかにして凝脂を洗う   温泉水滑洗凝脂

 「私、この町好きです」と賈さんが感想を漏らす。彼女はダンディと知り合ったことで、たぶん、普通の留学生が経験する以上に日本の風景を経験したはずだ。私たちも、もっと早く彼女と知り合っていれば良かった。もう来月には中国に帰ってしまうのだ。
 大通りに出て、さっきの山本有三記念館や壱番館を通り過ぎると「下野新聞社」も蔵造りの二階建の建物だった。「下野新聞」は、明治十一年(一八七八)創刊の「栃木新聞」を前身として、現在まで続く新聞だ。明治十二年には田中正造が編集長になっている。それを知ってしまえば、渡良瀬川鉱毒問題、谷中村の運命についても思い起こさなければならない。田中正造は義人である。
 正造の伝記はいくつか刊行されているが、私は荒畑寒村『谷中村滅亡史』を思い出す。田中正造の生涯を賭けて敗れ去った戦いのクライマックスが見事に描かれている。それよりも何よりも、この文章は明治から大正昭和を生き抜いた社会主義者、寒村若き日の情熱であります。ついでだから引用しておこう。

 ああ鉱毒問題最後の運動地たる谷中村は、遂にかくのごとくにして滅亡せり。然り矣、明治政府の権力と、資本家の金力とは、彼等の希望通り、彼等の計画通り、遺憾なく谷中村を滅亡せしめ終れるなり。(中略)
 谷中村を記憶する者、また実に田中正造翁を記憶せざるべからず、翁や老齢すでに耳順を超え、しかもなおかつ正義人道のために、迫害嘲罵の裡に立って悪戦す、誰れかその志の悲壮なるに泣かざらん。ああ、翁の初めて第二議会に鉱毒問題を叫んでより、星霜移ることここに十有六年。この間実に一日のごとく、東奔西走ほとんど寝食を忘れたりき。しかして明治三十七年七月二十九日、その刑余の老躯を挺して谷中村に入り、爾来今日に至るまで奮闘一日といえどもやみしことなし。下野日日新聞(或いは下野新聞)は、かつて翁が同志数名と創設せしもの、しかも鉱毒問題以来、東奔西走に日も惟れ足らず、ために未だかつて、一葉の新聞紙を精読したることなしと云えり。ああ社稷の傾危に赴むいては、十年家を省みず。しかも半生の事空しく志と違うて、老来また何処にか適帰せん、ああ名花色褪せて風なきに散り、志士凄涼窮途に老いんとす。老義人が心情もまた悲しからずや。

 この建物は、江戸中期から続いた肥料・麻苧問屋の見世蔵だったものを、修復したものだ。「下野新聞」創刊百十五年の記念として、新聞社支局としたと言う。(案内板より)
 栃木観光館でもお土産を仕入れる。私は店員のおばさんお勧めの胡瓜の「たまり漬け」を買った。この二階には、山車のミニチュアが展示されていて、賈さんが「静御前」と声を出す。「静御前を知ってるんですか」ダンディが尋ねると、歌舞伎『義経千本桜』を見たのだと言う。私はテレビで部分的にしか見たことがない。「狐が出ていたでしょう、佐藤さんの親戚です」そうか、佐藤忠信狐はわが先祖であったかも知れない。神武天皇、仁徳天皇、桃太郎もいる。
 講釈師によれば、この人形山車は江戸型と呼ばれる形式に属している。山王祭、浅草三社祭、神田祭など、「将軍上覧」のために江戸城内に入城できる山車や神輿があった。
 江戸型山車である理由は、山車会館のパンフレットを見れば分かることになっている。そもそも栃木の山車は、明治七年(一八七四)、倭三丁目が、日本橋町内の山王祭出御の山車を購入したことに始まる。それが静御前であり、やがて三国志人形、桃太郎、弁慶などが追加されたのだ。
 この店に飾られている雛人形は男雛が向かって左に、女雛が右に座っている。「関東と関西では違うんですよ」と言う言葉に、ダンディが反論する。「本来、男と女の座る位置に関東も関西もありません。男は向かって右と決まっています。逆になったのは西洋の影響です」「そうだったんですか」と、女店員は、簡単に雛を摘んで左右を逆にする。こんなに簡単で良いのかしら。

 内裏雛は内裏の宮中の並び方を模している。中国の唐や日本では古来は「左」が上の位であった。人形では左大臣(雛では髭のある年配のほう)が一番の上位で天皇から見ての左側(我々の向かって右)にいる。ちなみに飾り物の「左近の桜、右近の橘」での桜は天皇の左側になり、これは宮中の紫宸殿の敷地に実際に植えてある樹木の並びでもある。明治天皇の時代までは左が高位というそのような伝統があったため天皇である帝は左に立った。しかし明治の文明開化で日本も洋化し、その後に最初の即位式を挙げた大正天皇は西洋式に倣い右に立った。それが以降から皇室の伝統になり、近代になってからは昭和天皇は何時も右に立ち香淳皇后が左に並んだ。
 上記について補足すると、即位礼では天皇は正殿真中に立ち、皇后は向って右に立つ。左右どちらが上位であるか以前に真中が上位である。天皇が皇后の右に立つ理由は、少なくとも即位の礼においては西洋に倣ったわけではなく、真中・向って右に並ぶのであって、左・右に並んでいるわけではない。中国では西太后・皇帝・東太后と並ぶが、日本では西太后に当る地位がないので、言ってみれば、(空席)・天皇・皇后となるのである。 つまり、関東雛の雛の位置は真中を考えずに、左右の現象だけで判断された結果と推察される。
 それを真似て東京では、男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多くなった。永い歴史のある京都を含む畿内や西日本では、旧くからの伝統を重んじ、現代でも男雛を向かって右に置く家庭が多い。社団法人日本人形協会では昭和天皇の即位以来、男雛を向かって左に置くのを「現代式」、右に置くのを「古式」としどちらでも構わないとしている。(ウィキペデイア「雛祭り」)

   上方人のダンディは皇室のことに詳しい。つまり、関東と関西との違いではなく、ヨーロッパ式に転向した時期の違い、程度の違いによるのだった。
 「おい、住職の姿が見えないぞ」下に降りれば住職はちゃんと待っている。住職にしてみれば、私たちのほうが遅かったと文句を言いたいのではあるまいか。
 本日最後のお菓子屋は「松屋」である。ここでも女性陣は大量に土産を買いこんでいる。「今日は随分お金使っちゃった。明日からどうしよう」「今日のお菓子を飯代わりにするんだよ」「そうか、お弁当にお菓子を詰めて」バカなことを言っている。

 秋の日や和菓子に走る蔵の町  眞人

 「それじゃ、今日のコースは本当にここが最後です。見るべき所はほとんど寄ったと思います。あとは駅に向かうだけ」講釈師の挨拶に一同御礼を申し上げ駅に向かう。
 切符を買って改札を入ったのに、電車到着まではまだ三十分もある。ホームのベンチに腰を掛けて待つ。東武日光線は一時間に二本くらいしかないようだ。両毛線だって本数は少ないし、栃木のひとはこれでよく生活ができる。もしかしたら、この町のひとは、この町だけで充足していて、他所の町に行こうなんて思わないのだろうか。
 臨時快速だが、特急列車並みの二人掛けの座席で、私は賈さんと並んで座る。美人は難しい質問を連発するので上手く答えられない。現代文学は何を読むかと聞かれても困ってしまう。ここ二十年程の作品はほとんど読んでいない。思い余って、樋口一葉、太宰治なんて言う名前を出したのは嘘ではない。
 「ハルキはどうですか」「大江はどうですか」と聞かれても本当に困ってしまうのだ。ただ、大江健三郎は嫌いだ。『見る前に跳べ』『遅れてきた青年』などの初期の作品は、なによりもまず、タイトルにいかれたものだ。表現された若者の鬱屈や不満は、あの頃の私たちにはかなり親密な感情だったように思う。しかし、今や何を言っているのか分からない(と言うより簡単なことを、わざと捻くりまわして言っているだけで)、何やら荘重めかした朦朧とした文体は嫌いだ。「日本語が下手なんじゃないか」「でもそれが表現のひとつの方法だとも言えるのではないですか」賈さんの方が私より詳しい。実は私は大岡昇平のファンであった。大岡の魅力はなによりも追及の厳密、論理の明晰、そしてそれを支える文体にある。
 「日本の親子関係について質問しても良いですか」これも私には難しすぎる。日本の親子関係は冷たいのではないかというのが、彼女の感想だ。しかし日本人を代表して答弁する資格が私にはない。
 「夕日でしょうか」賈さんの言葉でカーテンを揚げると、朱色の太陽が真正面に光っている。稲刈りを終えた田んぼ、手前の川と遠くに見える緑の山並み、そして赤い夕日。これが日本人の思う「ふるさと」の典型的な風景ではないだろうか。ウサギ追ヒシカノ山、小鮒ツリシカの川。
 「栗橋、通り過ぎちゃったよ。次で降りなくちゃ」と講釈師が慌てた声で席を立ってくる。栗橋でJRに乗り換えて大宮に出るはずだった私たちだが、仕方がないので春日部経由に変更する。「春日部も止まらないかもしれないから、東武動物公園で降りなくちゃ」そこに運よく社内放送が聞こえてきた。東武動物公園の次は春日部に止まるのだ。
 春日部で、そのまま乗っていく講釈師、大橋さん、ノンちゃんと別れて電車を降りる。「私、すぐその先なんですけど」美女は果敢ない抵抗を試みるが、大宮で飲むと決めたのだ。東武線では住職の隣に賈さんが座り、なんだか、お祖父さんと孫のような雰囲気で話し合っている。胡桃沢さんは岩槻で降りていった。大宮駅で、住職、賈さんと別れて、ダンディ、美女、私の三人はお馴染み「さくら水産」に向かうのだった。

眞人