「東京・歩く・見る・食べる会」
第一回 深川編  九月十日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2005.09


十一時、富岡八幡宮おみこし陳列館前集合というのが約束だ。門前仲町には少し早めに着いたので一人で横綱力士碑、巨大力士碑などを見ているところで三澤氏(草加市在住)から声をかけられる。氏は神田の生まれで、若い頃この近辺は営業で隋分回っていたとのことでとても詳しい。この裏にトタンが敷かれ死体がたくさん並んでいたと、東京大空襲の記憶を語ってくれる。やがて平野氏(狭山市)、鈴木氏(春日部)、池田氏(武蔵嵐山)も到着。私(川越市)を含み、これで全員揃った。山田氏(新座市)は突然のギックリ腰で参加できず。池田敦子女史(越谷市)は途中から参加の予定。
さて私たちの、この見ようによっては少し胡乱な集団は、余所目にはどんな風に見えるだろう。第一回だから、この集団の背景と登場人物の紹介をしておかなければならない。

埼玉県生態系保護協会という何やら厳めしい名の団体が主催する「彩の国ふるさとの道自然散策会」のメンバーが私たちだ。毎月第四土曜日に、埼玉県内各地の駅に集合して七、八キロほどの行程を、樹木草花野鳥を観察し、神社仏閣史跡を見てのんびり歩く会で、だから当然高齢者が多い。私(五十四歳)が「若手」と呼ばれているくらいだから、六十歳代後半が主体で最高齢者は七十五歳になる。一度秩父の山道で手をひいてあげたことから、私は七十歳ほどの姉様に頼りにされ、ちょっとした坂道に入ると手を繋いで歩くことに決まった。
世の中には実に物知りが多いのです。この会にいると、私は自分の無学を恥じるばかりだ。草花について知らないものがない人がいる。その話を聞いていると、「雑草」などというものはない、万物全てにその名があると教えられる。命名することで世界は生れた。「命名」から連想すれば、名を名乗ることにも重大な意義がある。「隼人の名に負う夜声いちじろくわが名は告りつ妻と頼ませ」。名乗ることは愛を受け入れることでもありました。だから「夜這い」は本来「呼ばい」であって、求愛を意味することでもあったと、乏しい知識を披露する。
こういう人たちは、歩いていて必ず何かを発見する。その場に立ち止まって、その名を連呼しながら長々と観察しているから、いつも列の最後尾に位置することになる。野鳥を見つけては教えてくれる鳥博士もいるが、私はメモもしないから、三歩も過ぎればすっかり忘れてしまう。ちゃんとメモをとっていながら、少し経って「あれ、なんでしたっけ、さっき見ましたよね」と聞いてくるのは川崎氏(さいたま市)だが、私に聞くな。
生態系保護協会が元野鳥の会から出発したことから、当たり前のことだが自然観察の好きな連中が集まっている。そこに、ここ数年リーダーとして活躍してきた亀田氏が歴史(というより考古学、民俗学)専門だから、社寺史跡の説明を加えることになり、歴史が好きな者も次第にその存在を主張するようになった。やがて植物派、鳥派、史跡派などいくつかの派閥が生れる。勿論派閥は自由横断的だから、複数に所属するものがあっても一向に構わない。亀田氏の説明で「庚申塚」の話は何度聞いたことか。私は、生齧りの「歴史派」と「一杯飲む派」に属している。この「一杯飲む派」は十人くらいを数え、勢力拡張を願っているが、なかなか人数は増えず、ほぼ固定してきた。会全体の中では少数派閥だが、顔と態度の大きさは会中で目立ってしまう。
たまたま杉浦日向子の死がきっかけになって、杉浦ファンだという江口氏(川口市)が口を切り、「一杯飲む派」常連のメール網で江戸情緒や時代小説の話題が盛り上がった。それでは江戸東京散歩と洒落こもうと、第一回を池田氏が企画した。次からは交代で企画せよとの命令で。その口切の江口氏が不参加なのは納得がいかない。この機会に私も勉強しようと、種村季弘『江戸東京奇想徘徊記』を読んできた。しかし、江戸東京関連本は実に多く出版されていますね。なんだか、久し振りに流行に乗っているようです。新潮文庫『江戸・東京物語』は便利な本で「下町篇」「山手篇」「都心篇」の三冊を揃えた。

会長とも組長とも呼ばれる池田氏は、七十三歳になりながら体力は会中最も強靭で、ウォーキング大会があると聞けば北海道から九州まで、その足跡の及ばない地はない。今日も札幌学院大学などという名の入った手提げ袋を持っている。先週札幌に行き、歩いてもらってきたそうだ。二十キロ以上でないと歩いた気がしないらしい。抜群の体力に任せていまでも人一倍肉は食うし、酒は飲む。もともと自然に関心のある人ではなく、史跡派に属す。
平野氏は気象予報士だ。昆虫や樹木草花に詳しいが、あくまでも専門は気象天文にあり、昆虫は余技だと謙遜している。さすがに今日は捕虫網を持ってはいない。私たちのまとめ役だ。星菫派と言えば失礼か、やや純情の趣がある。
三澤氏は何でも知っている。歴史、樹木草花、昆虫、野鳥なにひとつ知らないものはない。というより、何にでも口を出す。講釈師見てきたような嘘を言い。時代小説、時代劇をそのまま史実と思い込んでいるふしもあるが、いつも手離さない小さな手帳には、見聞きしたことが全て書き込まれている。呼吸がいきなり止まってしまう奇病で倒れ、奇跡的に生き返った。三ヶ月ほど前から会に復帰したばかりだが、以前より更に口数が多くなっている。休んでいるときは静かだったのに、と私達はよくからかう。この人を「何派」に分類すれば良いか、私は悩んでしまう。
鈴木氏はこの会では最年少男性ということになる。頑丈な身体で、喧嘩になったらまず私に勝ち目はないが、眼鏡の奥の小さい目が優しい大男。巨樹観察を専門とするのは体格に相応しい。酒は一番強いし、なにしろ付き合いが良い。但し飲んだときの約束は注意が必要だ。六月に同じようなメンバーで一泊旅行をした際には、待ち合わせ場所に現れず、連絡もつかなかった。一週間間違えていたと、あとでしきりに謝った。今日はいつもと違って町歩きだから、私と同じでアウトドアサンダルを履いている。植物派。
敦子女史は生態系保護協会の越谷支部長。美人だがやや鼻にかかった喋り方は独特の魅力がある。ご亭主とは趣味があわず、旦那はテニス、自分は生態系とそれぞれ勝手にやっているそうだ。酒を飲み始めると長い。彼女と八谷女史(桶川)がそろうと、解放してもらうのが容易ではない。自然、文学、歴史とその守備範囲は広いが、主とするフィールドは何と言ってもエコロジーであることは間違いない。環境派と言ってしまおう。
今回欠席の山田氏(新座市)はバードウォッチング派。毎回の会の様子をデジタルカメラで撮影しA4版二枚にまとめた「山田新聞」を発行し、みずから社長と名乗る。口うるさい癖に足が弱いのが難で、すぐに疲労を訴え休憩を提案する。山田新聞では、今日集まっている私達は「池田組長とその組員」と表記される。氏が不参加だと、写真をとるものがいない。
江戸東京なら任せなさいと豪語していた松下氏(さいたま市)は、長年大事にしてきた痔を先月切り取ったばかりで参加できず。年間四、五回もヨーロッパ旅行に出かける優雅な人。私に種村季弘の本を教えてくれた。音楽芸術文学に造詣が深く、歴史派に属す。

さて、深川散歩は始まった。自然はおろか人文地理についても全く無知な私は、本を頼りに復習することで、この散歩を実り多いものにしたいと思う。この機会に購めた『定本武江年表』で年代を確認しながら、このスケッチは私の学習の途中段階を表す事になる。
深川と言えば深川芸者、辰巳芸者とも羽織芸者とも言うが、今回のコースでは芸者に出会う機会はない。「粋」と「張り」を誇りに「きゃん(侠か?)」だったという深川芸者は、男言葉で男名前。宇江佐真理『髪結い伊佐次』シリーズのヒロイン文吉を私は贔屓にしているから、残念なことだ。

八幡宮では結婚式をあげていた。余所者にとっては「観光地」の有名な神社だが、地元にしてみれば産土の神ということだろう。寛永元年(一六二四)長盛法印(真言宗)が霊夢を感じて永代島に八幡を勧請した。長盛上人は埋め立て土木工事に腕を振るい、開いた土地をそのまま拝領し、惣境内六万百八坪の規模で富岡八幡神社が創建されたのは寛永四年のことだ。「永代島」と言うとおり、この深川の地はもともと島だった。江戸時代は埋め立て開拓による拡張の時代だ。仏教僧が神社を勧請するというのはなかなか分かりにくい。八幡の祭神は応神天皇だが、八幡大菩薩でも知られるよう、仏教信仰と融合しているのだ。この富岡八幡から富籤が発生したのだよと三澤氏が言うが本当かしら。『武江年表』にも「神社仏閣の富興行、文政中殊に盛にして、数十ケ所に及びしが」とあるが、始まりについては記事がない。池田氏も「この屋根には道教の影響がある」と断言するが、これも調べてみないと分らない
横綱の碑には、確かに初代明石志賀之助から朝青龍までその名が刻まれている。明治二十八年、横綱陣幕久五郎の奔走で建てられた。重さ二十四トン。この陣幕が幕末、西郷吉之助と相撲を取っている(丸谷才一のエッセーで読んだ)。あと何人分名前を入れられるか、将来足りるのだろうかと余白を数え始めたが、何、もう一基あった。真ん中が初代から始まる最も古いもの、その左にはやっと裏面に入って武蔵丸、朝青龍が刻まれ、ほぼ片面一杯に余白が残っているもの。右がまだ空白。三基あるのだ。大相撲がこの先いつまで生き延びるか分らないが、まず百年は大丈夫だろう。
私は相撲と言えば回向院と思い込んでいたが、江戸勧進相撲はこの富岡八幡宮で始まった。それまでも寛永年中から寄相撲(何?)は時折興行されていたが、貞享元年(一六八四)「勧進寄相撲御免被仰付候に付き、深川八幡宮境内にて始めて興行す」。二年前の大火で焼失した本殿再建が目的だ。
佐川急便寄進の大神輿は製作費十億円、重さは四・五トン。本当にこんなものが担げるのか。深川八幡祭は、寛永十九年(一六四二)に始まる。元禄十一年(一六九六)永代橋が架けられ八月一日、往来が許されてからは江戸有数の祭りとなった。「此橋のかからざる前は船渡しにて有りし也。」
隔年で催されていた八幡祭が喧嘩のために暫く中止され、文化四年(一八〇七)十二年ぶりに許された。八月十五日の予定が雨で延ばされ十九日、祭り好きの江戸人が「江戸中はいふに及ばず、近在より見物出て」大挙して押し寄せた。霊巌島の山車が永代橋の東詰めまで来たとき、橋が真ん中から崩れ、千五百人ほどが死んだ。「一つ橋殿通行有て後、橋落ち。」また、「橋上群集にて、橋の落たるをしらねば、押かけ押かけ行とき」一人の武士が刀を抜いて振り回したので群集を救ったとも言う。

伊能忠敬の立像。平野氏は井上ひさし『四千万歩の男』を読んで感動した。忠敬の旅は子午線の長さを測ることが主な理由だったから、天文気象を本業とする平野氏には感動する理由がある。像の後に深川飯屋があるが、ここには入らない。
八幡宮の東側に小さな橋が架けられている。川はない。これが日本最古の鉄橋・八幡橋で、国の重要文化財に指定されている。明治十一年、工部省赤羽製作所が作った国産の鉄橋で中央区の楓橋にかけられた弾正橋。昭和四年にこの場所に移設された。
深川不動尊では護摩を焚き太鼓を叩いてなにやら法要か。かつて、民衆はこの大音響と護摩の火に恍惚となったに違いない。真言密教にはなにやら怪しい気配が漂うが、ロックミュージックの江戸版ではないだろうか。ただしこの不動堂は明治になってから、成田山を勧請して作られたもの、江戸時代にはない。江戸の頃には出開帳で人を集めていたのだ。「出開帳」という言葉も初めて知ったのだが、地方の寺社からその本尊などを出張させ、人を集めて拝ませ金を集めるのが、江戸時代には各寺院で盛んに行われた。芸能人の地方「営業」と変る所がないが、そんなものが面白かったのだろうか。
小さくなった永代寺に全員で手を合わせる。八幡宮の別当永代寺の境内は現在の深川公園のほとんどを占めていた筈だ。永代寺の寺内に町屋を開くことが許されたのは承応二年(一六五三)。だから永代寺門前仲町と言った筈だが、今、この町と寺の関係は全く逆転しているかに見える。維新後、公園を作らなければ西欧人に馬鹿にされると思い込んだ政府は、廃仏毀釈の政策もあって、永代寺の広大な敷地を深川公園にしてしまった。今の寺は、なんと言うか普通の民家ほどの広さしかない。可哀そうな永代寺。私は神にも仏にも無縁な人間だが、この廃仏毀釈は明治新政府のとった大きな愚策のひとつに数えて良いだろう。平安以来の日本人の精神構造に大きな断絶をつくった。西欧のシンクレティズムとはちょっと違う、日本の神仏習合は、なにやら不思議で今になっては少し残しておきたかったような気もする。

ちょっと早めの昼食は永代寺そば「六衛門」で深川丼。深川丼とあさり飯の違いは何かと聞けば、ぶっかけと炊き込みの違い。本来はそんなご大層なものではなく、漁師や地元民の手軽な食い物だっただろうに、今では「有名な」観光地用のものになってしまって、千円もする。深川の名物は本来うなぎと蕎麦だというのも種村季弘の本で教えられる。三澤氏は飲まないので四人でビール中瓶二本を開ける。

冬木弁才天は深川七福神の一つで、材木商冬木家が竹生島からその別邸に勧請したものだ。その邸宅の一部なのだろう、弁天様の小さな祠と池だけが残っている。冬木家は尾形光琳のパトロンとしても知られ、光琳が冬木の妻女のためにデザインしたのが「冬木小袖」。江戸の七福神で最も古いのは谷中だが、蜀山人が撰した浅草七福神が有名になった。ここ深川のものはある本に、わざわざ見に来るほどのものではない、と書かれている。規模が小さすぎるのか。余り可哀相だからその名を記録しておきたい。恵比寿神(富岡八幡宮)、弁財天(冬木弁天堂)、福禄寿(心行寺)、大黒天(円珠院)、毘沙門天(龍光院)、布袋尊(深川稲荷社)、寿老人(深川神明宮)

紀伊國屋文左衛門墓、法乗院の閻魔、心行寺(六角堂)と寺を巡る。霊巌寺はその名の通り、もともと霊巌島にあったものが移された。この辺の地名「白河」は寛政の改革を進めた松平定信に因むのだろうか。その定信の墓、江戸六地蔵の一つがある。六地蔵というのは、新宿、品川、巣鴨その他にあるのだそうだ。
間宮林蔵墓を見つけるのはちょっと迷った。大震災か大空襲の影響によるものか、この辺は寺院と墓が別々になっている。墓はかなり大きな共同墓地(塀の各所にあいている入口が別々の寺院の名称になっている)で、格子越しに「間宮家代々の墓」を見つけたがこれは関係ないだろう。池田氏と三澤氏が、どちらが道を間違えたかでちょっと言い争っている。地元の住民に尋ねても「なにしろ墓と寺ばっかりだから」と要領を得ない。間宮海峡発見の功績とともに、スパイだったのではないかとの疑いも持たれている林蔵だが、その墓は東京府指定史跡になっている。この一角には各宗派の寺院がありそうだが、目に付いたところでは浄土宗寺院が多い。必ず法然幼き頃の像(勢至丸)が建っている。

江戸深川資料館は小ぢんまりしているがちょっと良い。長屋の屋根に寝そべっている猫が敦子女史のお気に入りだそうだが、長屋のサイズを実感できる。大川端に猪牙船を浮かべた船着場のセットがなかなか風情あり。無料配布の資料を大量にもらう。「資料館ノート」四十九号から五十八号まで。主に木場の話題が中心だから、今回のコースには直接関係がない。
喫茶店で一服。

清澄通りを歩き始めると、採茶庵跡(仙台堀たもと、杉山杉風別宅)の芭蕉像が道の向かいに見える。杉風(さんぷう)は幕府御用達の魚屋。芭蕉はここから船で北千住まで行き、奥の細道の一歩を開始した。馬琴生誕地。
道路を渡って清澄公園。もと紀伊国屋文左衛門の別邸跡だとの伝説がある。関宿藩主久世大和守の下屋敷を、明治になって岩崎弥太郎が買収、全国から集めた奇岩名石で作庭した。六十五歳以上はシルバー料金になっていて、平野氏「嘘じゃないですよ、本当です」と弁解しながら支払っていた。伊豆の石が多いようだ。池にはやたらに亀が多い。鯉は人擦れしていて、人の気配を察すと餌を期待して大きな口をあける。自然派の平野氏はこういう人工の庭園には余り興味がない。
万年橋を渡って芭蕉稲荷。小さなお社で、芭蕉の文字が書かれていなければ、単なる路傍のお稲荷さんだろうと、通り過ぎてしまう。土手を上ると芭蕉庵史跡庭園。ここから見る隅田川の景色は良い。清洲橋の下を水上バスが通っている。芭蕉像の前で記念写真。(三澤氏がカメラを持ってきていたのだ)。すぐそばに新大橋が架けられたとき芭蕉が詠んだのは「ありがたやいただいて踏むはしの霜」。隅田川に沿う土手を歩いて少し北側にある芭蕉記念館は、土手側から入り、表の道路までただ通過しただけだ。入場料を支払いたくない、吝嗇な集団だから入り口を見ただけで失礼したが、「子ども俳句教室」のような催しをしていた。
清澄通りを歩いていると、道の向こう側に不思議な建物を発見し、三澤氏が「神保町にもあるんだ」と指をさす。鉄筋造りなのか二階建ての建物の屋上に、瓦を葺いた平屋の家が建っている。池田氏と三澤氏は清澄通りに都電が走っていた頃の思い出を語り合う。私が大学に入るために上京したのは四十九年だが、そのときにはすでに廃止されていたのではないか。種村季弘は四十五年頃「よく門前仲町まで都電に乗って遊びに行った。まだ佃島がまるごと見えて、洲崎側は越中島の海。佃大橋はもう架かっていたが、都電の車窓から望む海は青々として」と回想している。
深川神明宮(コンクリート造りで風情なし)を経て地下鉄森下駅到着。ここで敦子女史と落ち合い大江戸線で上野御徒町へ。彼女は午前中越谷で子どもたち相手に自然を教えるボランティアをしてきたのだが、本当はもう少し早く合流する筈だった。いま、この逆のルートを来たばかりでまた戻る。これなら御徒町で待ってもらってもよかった。しかし、こうして合流できるのも携帯電話のお蔭です。三澤氏は日比谷線に乗り換え帰宅する。「酒飲む奴の気が知れないよ」と悪態をつきながら、三澤氏は別れていった。

今日はここまでだが、深川にはまだ見ておきたいものが沢山ある。木場、干鰮場跡、洲崎神社、猿江恩賜公園、田川水泡のらくろ館など。これらは又の機会にしたい。

今日のもうひとつのお目当ては寄席だ。鈴本演芸場の夜の部開場は五時、開演六時とのことで一時間ほど時間がある。今夜の演目を確認したが、余り知っている名前がない。昼の方が少しは有名人がでている。この時間に開店している店は少なく、やっと見つけた沖縄料理屋でミミガー、沖縄ラッキョウをつまみに生ビール二杯。グラスが通常の中ジョッキより少し小振りですぐ飲んでしまう。なにしろとても暑い日だったのだ。
「出演者も知らない人ばっかりだから、ここで飲んでいようか」と平野氏が言うが、「それじゃ私、お酒飲むためだけに来たの」と敦子女史。そういえば去年の暮れに大宮で、三軒目に入った沖縄料理屋で「帰りたくない」と駄々をこねていたのが彼女だった。だから酒だけが目的でも勇んで参加したとは思うのだが、それでは今日のコースを立案した池田氏の面目が立たない。

寄席は三十年ほど前に新宿末広に行ったことがある程度だから、大層なことを言える資格はないが面白かった。若手前座の「てんしき」、二つ目の落語は大したことはない。名前も忘れてしまったひとりは、なんだかドスを利かせた声だけが印象に残る。初めて空巣に入った気弱な泥棒が、逆に身ぐるみ剥がれて退散する噺。歌武蔵というのは元武蔵川部屋の取的だったそうだが、相撲界の話題のみ、これは落語ではなく漫談。やたらに相撲界は「バカばっかりですから」というのが売りになっている。色物が結構面白い。曲独楽。太神楽。紙きりの正楽は、太った人の印象があったがあれは先代か。敦子女史は太神楽がお気に入り。
柳家紫文の三味線漫談も馬鹿馬鹿しくて良い。声が小さいので初め何を言っているのか分からなかったが、あんまり馬鹿馬鹿しいので記録しておく。「火付け盗賊改役長谷川平蔵がいつものように両国橋のたもとにさしかかると、こちらからは今日の商いを無事に終えたか納豆屋が、向こうからは水商売風の女。すれ違うと見ていると男が前のめりに倒れかかる。もし納豆屋さん、だいじょうかえ。へえ、なっとーもねえ。」「火付け盗賊改役長谷川平蔵がいつものように」と繰り返しながら、これが瀬戸物屋になると、茶碗が「万事急須」。蕎麦屋は女の顔を見て「もしやお前はおつゆ?」。葬儀屋は「もしやお前はおつや」。飛脚屋に対して「お前さん、佐川さんにも黒猫さんにもみえないが」「あっかぼうよ」(赤帽よ、あったぼうよ)。
真打は入船亭扇好。初めて見る顔だが、色気があってなかなか良い。ただし、この男を「色気がある」とみることには平野氏が徹底的に反対する。平野氏は志ん朝を基準にするから、ハナから勝ち目はない。較べては扇好が可哀そうではないか。志ん朝を基準に合格する噺家はどれだけいるか。「八五郎出世」という題で記憶していたが、別に「妾馬」(メカウマ)ともいう噺です。殿様にタメ口を利きながら飲んでいた八五郎がやがて酔いが回るに連れ、お世取りを生んだ妹のつるに向かって、「おっかあがよ、身分違えのせいで、可愛い孫の顔をみることもできねえって、泣いてやがった」としみじみ語るあたりに来ると、平野氏、鈴木氏は涙が出てきたと言った。
私は昨日からの風邪のせいで、昼間は治まっていた鼻水が急に止まらなくなり、どうも気勢が上らない。ポケットティッシュ四つも費消してしまいました。八時半終演。
池田氏に引率されてJR御徒町駅まで歩き、「九時までなんですよ」とあんまり嬉しくなさそうに言う越後屋に強引に入り込む。ヘギ蕎麦をつまみに日本酒を少し飲んで十時ちょっと前に解散。私の鼻水が止まらない。