「東京・歩く・見る・食べる会」
第四回 本郷編  三月十一日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2006.3"#008040"
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 久し振りにすっきり晴れ上がった。暖かくなりそうだ。
「だからさ、五日も前の予報に一喜一憂してもしかたがないんだよ。どんどん変わるからね。直前でなければ、実際の予報なんて難しいの。」
 科学を知らない私を気象予報士は諭してくれる。一昨日までは確実に雨が降ることに決まっていて、随分心配していたのだ。不思議なことに低気圧は速度を急に上げ、一日早く昨日降っただけで通り過ぎてくれた。「佐藤さんの念力ですよ」と松下さんがおだててくれるが、私としては、前回調子の出なかった江口さんの力が復活したことにしておきたい。
 千駄木駅団子坂方面改札口前は、ちょうど風が通りぬける道筋にあたっていて、結構寒い。「外の方が暖かいから早くいこうぜ」と三澤さんが急き立てるが、集合時刻にはまだ少し間があるし、到着していない人もいる。余り急がせないで欲しい。
 平野さん、三澤さん、鈴木さん、新井さん、江口さん、村田さんは前回に続く参加。松下さんは、このシリーズで名前だけは何度も上がっていたが、やっと参加してくれた。「本郷は私のホームグランドです」と言うから心強い。「東京を歩くんですから、埼玉とはちがいます」と服装まできちんと決めている。今日は東大構内の地図を人数分用意してくれた。
 今日は初参加の人が多くて賑やかになる。大川さんは「ふるさと」で何度か一緒になっているが、ずいぶん物静かな人だ。猪早さんは、平野さんが「エンジョイハイキング」で知り合った。新井さんとも知り合いのようで挨拶を交わしている。
 私もあちこちで言い触らしているから、埼玉県外から二人参加した。石坂敬一さんは、その風貌から昔「お茶の水博士」と呼ばれていた。江戸明治の風俗史に詳しいから、この分野に関しては、石坂さんが注文するのを参考に、私は自分で買う本を決める。『武江年表』『嬉遊笑覧』等がそうだ。関野悟朗さんは日本棋院で正式に五段を許された囲碁の達人で、いつまでたっても初段の壁を破れないでいる私にしてみれば神様の様な人だ。写真も専門家の域に入っていて、今日も立派なカメラを持参している。世田谷在住で街中をマウンテンバイクで駆け抜ける。こうして総勢十二名が集まった。

 谷中方面に向かって「いせ辰」からスタートする。前回の谷中編では、大円寺を出て全生庵に向かうところで、あっちゃんが「この辺に江戸小物を売ってる店があるんですよ」と未練な声を上げていたのだが、あの日は降りしきる雨の中、目的地を目指すのが精一杯で、寄り道する気力もなくなっていた。私は店の名前も知らなかったが、その後、江口さんが調べた結果、是非行ってみたいという。「菊寿堂いせ辰」は元治元年(一八六四)、初代辰五郎が伊勢屋惣右衛門に暖簾分けを許され開業した。江戸千代紙や紙工芸品、手拭、風呂敷などを売っている。コンクリート作りの店構えを見ると、「昔はもっと風情があったんですよ」と松下さんが慨嘆する。
 店の前の狭い歩道にはひっきりなしに自転車が通って危ない。ほとんど男ばかりの集団が、この狭い店頭でうろうろしているのも気が利かないね。こういう店は女性が何人かいなければ盛り上がらないのだ。誰も買わないだろうと思っていたが、三澤さんが何かを買った。この人は顔に似合わず、小物を買うのが好きだ。

 振り出しに戻って団子坂を登る。「結構きつい坂だね」と石坂さんの息が弾む
。  団子坂はもと千駄木坂と言った。「千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ、此坂の傍に昔より団子をひさぐ茶店ある故の名なり」という説のほかに、足場が悪くて転ぶと団子のようにころがることから来たとも言う。幕末、江戸府内各地で菊人形が盛んになったが、中でも安政三年(一八五六)に始まった団子坂の菊人形はとりわけ人を集めた。明治中期には東京中の人を集める一大イベントに成長し、『三四郎』の中でも印象深い場面になっているのは誰も知っている。四三年、両国国技館に電気仕掛けの菊人形が登場し、衰退した。現在この地の菊人形を、谷中大円寺が復元している。大円寺で、私は笠森お仙のことしか頭に入っていなかったが、あの坊主はそんなこともやっていたのだ。
 「『D坂殺人事件』はどんな話だったかね」と石坂さんに聞かれるが、残念ながら私は乱歩のものは殆んど読んだことがない。坂の頂上付近にある観潮楼跡は鴎外記念本郷図書館となっているが、「移転のため」と記されていて中には入れない。明治二五年(一八九二)から大正十一年に六十歳で死ぬまで、鴎外が住んだ。

 当代の碩学森鴎外先生の居邸はこの道のほとり、団子坂の頂に出やうとする処にある。二階の欄干にたたずむと市中の屋根を越して遥かに海が見えるとやら、然るが故に先生はこの楼を観潮楼と名付けされた。(永井荷風『日和下駄』)

 しかし、実は鴎外自身もここから海を見たことがない。実際に見えたとすれば、どの辺の海だろうか。地図によって団子坂とほぼ直角に南に線を引けば、上野の山と江戸城とのちょうど間を抜けて築地の辺りに辿りつく。団子坂は別名汐見坂(潮見坂)とも呼ばれたから、鴎外の時代には無理でも、江戸時代には見えたのだろう。
 この脇から根津神社へ降りていく道は藪下通りと名前が付いている。今朝、松下さんは集合前にここを歩いてきたそうだ。「昔とは随分違ってしまったけど、それでも風情がありますよ」。たぶん、荷風が書いているのはこの道のことではないか。

 根津の低地から弥生ケ岡と千駄木の高地を仰げばここも亦絶壁である。絶壁の頂に添うて、根津権現の方から団子坂の上へと通ずる一条の路がある。私は東京中の往来の中で、この道ほど興味ある処はないと思っている。片側は樹と竹薮に蔽われて昼猶暗く、片側はわが歩む道さえ崩れ落ちはせぬかと危ぶまれるばかり、足下を覗くと崖の中腹に生えた樹木の梢を透して谷底のような低い処にある人家の屋根が小さく見える。されば向は一面に遮るものなき大空かぎりもなく広々として、自由に浮雲の定めなき行衛をも見極められる。左手には上野谷中に連なる森黒く、右手には神田下谷浅草へかけての市街が人目に見晴らされ、其処より起る雑然たる巷の物音が距離の為に柔げられて、かのヴェルレエヌが詩に、
 かの平和なる物のひびきは/街より来る・・・・・・と云ったような心持を起させる。(『日和下駄』)

 団子坂の頂上からそのまま真っ直ぐ西に歩くと、この通りは「大観音通り」だ。小さな寺を見つけて三澤さんが入ってくれたお蔭で、思いがけなく「東都六地蔵第二番」に巡りあうことができた。松下さんが、「あれっ、ちょっと違うんじゃないかな」と首を傾げる通り、普通言われる「江戸六地蔵」とは異なって、「始めの六地蔵」と呼ぶ。前回の「谷中編」で報告したが、皆さん覚えていてはくれないようだ。「だって右から左だよ」と純粋理科系の平野さんが笑うから、もう一度繰り返す。

 金仏立像八尺なり。慈済菴空無上人勧化の助力をもって建立あり。元禄四年に開眼供養せり。是を始めの六地蔵という也」(『続江戸砂子』)。
 慈済菴空無上人、勧化して造る所の金銅立像の六地蔵開眼ありて、江戸六所に分つ(『武江年表』)

 「新しそうだね」「復元したのかな」などと感想が入る。「高さ一丈ある」と私はうろ覚えで言ってしまったが、八尺の立像だ。いま私たちが見ているのが専念寺で、はじめからこの地に存在する。前回断念した浄光寺(日暮里、文化十年再建)の他に、瑞泰寺(向丘、昭和六一年再建)、心行寺(現・府中市紅葉丘、もとは池之端から移転)、福聚院(現・上野公園、地蔵は消滅)、正智院(現・浅草、地蔵は消滅)にあった。

 深川の沙門(世に地蔵坊といふ)正元、金銅(丈六)の地蔵尊六体を造立す (『武江年表』宝永五年(一七〇八)の項)

 これが有名なほうで、「後の六地蔵」と呼んで区別する。正元の依頼により、神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀が鋳造し建立したもの。六街道の江戸への出入り口に安置された。これは全て坐像になる。一番海照山品川寺(東海道)、二番霞関山太宗寺(新宿・甲州街道)、三番医王山真性寺(巣鴨・中仙道)、四番東禅寺(浅草・奥州街道)、五番道本山霊巌寺(深川・水戸街道)、六番大栄山永代寺(深川・千葉街道)。

 この辺から曲がりましょうと、路地を左に入り適当に歩けば、日本医科大学の向かいに漱石「猫の家」を発見することができる。塀の上に歩いている猫のオブジェ。当時の家は戦災にも無事で、今は愛知県犬山の明治村に移設されている。漱石は知らなかったが、ずっと前、鴎外が先妻登志子と離婚した後、明治二三年秋から二五年一月まで住み、この家を千朶山房と名付けていた。鴎外は家に命名することが好きですね。
 明治三六年三月三日、神経衰弱を抱えてロンドン留学から帰った漱石が、三九年暮れまでここに住んだ。当時の町名は本郷区駒込千駄木町五十七番地、家賃二十五円。家の西側には郁文館中学があり、不機嫌な漱石は中学生を怒鳴りつけ、隣に住む車夫と喧嘩した。

 この(三七年)六、七月、夏の始めごろかと覚えております。どこからともなく生れていくらもたたない小猫が家の中に入ってきました。猫嫌いのわたくしはすぐに外へつまみ出すのですが、いくらつまみ出しても、いつかしらんまた家の中に上がってきております。(中略)
 「なんだか知らないけれども家へ入ってきて仕方がないから、誰かに頼んで捨ててきてもらおうと思っているのです」と申しますと、
 「そんなに入ってくるんならおいてやったらいいじゃないか」
 という同情のある言葉です。ともかくも主人のお声がかりなので、そんならというわけで捨てることは見合わせました。(夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』)

 こうして漱石は『吾輩は猫である』を書くことになる。

 根津神社には裏門から入る。縁起に日本武尊創建という。因みに「日本武尊」は日本書紀の表記で、古事記では「倭建命」と書く。ヤマトタケル伝説は、日本神話の中でも一種異様に悲劇的な雰囲気を漂わせている。おそらくヤマト族の列島制圧の歴史を、一身に象徴させたものだが、父に疎まれた悲運の王子の流浪の物語は、ギリシア悲劇にも匹敵するのではないか。死んで白鳥になって飛び去ったタケルは、まさに悲劇の主人公に相応しい。西征の旅から帰ってすぐ、また東征を命じられたタケルは嘆く。

 天皇既に吾に死ねと思ほす所以か、何しかも西の方の悪しき人等を撃ちに遣はして、返り参上り来し間、未だ幾時も経らねば、軍衆を賜はずて、今更に東の方十二道の悪しき人等を平けに遣はすらむ。これによりて思惟へば、なほ吾に死ねと思ほしめすなり。(『古事記』岩波文庫版)

 文明年間、太田道潅が社殿奉建。もとは団子坂の方にあったもので、五代将軍綱吉が現在の地に社殿を奉建した。祭神は須佐之男命・大山咋命・誉田別命・大国主命・菅原道真。大山咋命いうのはどう読むのか分らない。松下さんは「オオヤマツミ」ではないかと言い、それならば相州大山神社に関係があるかも知れないと推理する。調べてみた。
 大山神社の主神は大山祗大神(オオヤマツミノカミ)、またの名を大水上御祖神(オオミナカミノミオヤノカミ)とも、大水上神(オオミナカミノカミ)とも言う。古事記で「大山津見」と表記される神は、イザナギ、イザナミの生んだ一十四島、三十五神の中に入っている。
 一方、大山咋命はオオヤマクイと読む。淡海国(近江国)日枝の神と言うことが分った。大国主の国造りに協力した少名彦が常世に行ってしまった後、「海を光して依り来る神ありき」これが三輪山の神なのだが、その裔にあたる。
 誉田別命は応神天皇で八幡神。八幡は源氏の氏神だから徳川氏が祀る理由はある。スサノオはアマテラスによって高天原を追放された神。朝鮮半島出身だとの説が有力だ。オオクニヌシは天孫族に国を奪われた謂わば亡国の王、道真もまた恨みをのんで死んだ政治的敗者。スサノオ以下の三人をみれば、天皇国家(西国)に対する、東国の意地がここに見えないか。
 権現造りの社殿・唐門・楼門・透塀等。こういう用語を聞いても、建築史の基礎知識がないから説明を鵜呑みにするだけだ。六代将軍家宣が祭礼を定め、正徳四年江戸全町より山車を出し、俗に天下祭と呼ばれる壮大な祭礼を執行した。現存する大神輿三基は、この時家宣が奉納したもので、同じ格式による山王祭、神田祭とあわせ江戸の三大祭と言われる。私はまだどの祭りも実際に見たことがない。
 本殿の右側には紅梅が、左には白梅がそれぞれ一本ずつ咲いている。五月になれば全山、躑躅が咲き乱れる筈だ。

 つつじ待つ 根津権現の 朱の御門   快歩

 江口宗匠の句だが、「快歩」は俳号ですか。稲荷の向こうに三澤さんが二階建ての民家を見つけた。二階は回廊とでもいうのか、縁側が部屋の周囲を囲んでいる様子が見える。

 根津神社を出て、「お化け階段」を通っていく積りだったのだが、道を間違えた。鴎外命名のS坂を歩きながら、松下さんに先頭に立ってもらった。今日の本当のリーダーはやはり松下さんだった。地震研究所の門には三角と丸を組み合わせたオブジェが載っている。地震計を表しているのだと平野さんが説明する。
 小さな寺を見つけると必ず三澤さんが入っていく。浄土宗願行寺。出世不動尊がある。「もう誰も出世には縁がないよ」と誰かが言うが、真っ先に、まだ望みを捨てない鈴木さんが入って行った。皆さん信心のある人ばかりのようで、ちゃんと賽銭をあげて拝礼する。門に「東大禅会道場」の看板がかかっているのを見つけた。浄土宗の他力と禅の自力では、そもそも世界観が全く違うのではないか。どう折り合いをつけているのだろう。

 農学部正門前で松下さんの説明。もと第一高等学校がここにあり、後、駒場の農学部と敷地を交換した。この門は一高の門だった。地名は向ケ丘。「向ヶ丘にそそり立つ五寮の健児意気高し」この本郷通りは岩槻に向かうが、日光御成街道とも言われた。門のほぼ正面から分かれていくのが中山道。街道の分岐点だから、ここは追分と言う。
 農学部と工学部の間の道(言問い通)を根津方面に戻ってみる。道路わきに「弥生土器発掘ゆかりの地」碑が建っている。明治十七年三月二日、まだ学生だった有坂?蔵、坪井正五郎、白井光太郎が貝塚を調査中発見した。東大周辺の開発のため、すでに発見当時の場所は特定できなくなってしまい、ここに碑を建てた。
 坪井正五郎は日本人類学の祖になるのだが、二〇年に日本先住民コロボックル説なる不思議な説を唱えたことでも知られている。コロボックルはアイヌの神で小さな人だ。
 暗闇坂に入ると、立原道造記念館と弥生美術館が並んでいる。入場料が必要だから私たちは入らない。弥生門から東大構内へ。「なんだ、裏口から入るのかよ」と三澤さん。

 昼は学生食堂にしようと、三澤さんが提案する。第二食堂を目指して松下さんが案内してくれるが、どうやら休みのようだ。階段をのぼりながら悩んでいる私たちに親切なおじさんが、中央食堂の場所を教えてくれる。学食なんて何十年振りだろう。ハムエッグをフライにして豚汁のついた定食が五百十円。この値段ならば味については文句は言えない。小さな子供をつれた若夫婦らしい家族も飯を食っている。
 ここで村田さんは用事があるというので弥生門まで案内し、根津駅の方角を教えてお別れ。折角だから「竹久夢二も見ようよ」三澤さんが言うので中に入るのかと思えば、やはり入口を見るだけだった。弥生美術館は夢二の美術館も兼ねているのだ。
 学部建物をいくつか松下さんが説明してくれるが、すぐに忘れてしまう。「あそこで気象予報士の年次総会があるんだ」と平野さんが教えてくれたのはどの建物だったろうか。安田講堂だけは、あの事件は私が高校生の頃の出来事だから、関心がある。
 三四郎池を巡る。「こんなところにはカワセミがいるんじゃないかと思うよ」と三澤さんが言う。本当だろうか。「鯉があんなにいるってことは、小魚もいる。それを狙ってカワセミがいる。」何でも知っている三澤さんのいうことだから信用しなければならない。樹木が多い。三澤さんがメジロやヒヨドリを見つける。これだけの広い構内と樹木や池に囲まれた大学は他にない(筈だ)。
 東大グッズを販売している洒落た店には,コミュニケーションセンターと書かれている。店員はなかなか熱心に商売をしている。「次のノーベル賞候補者、某先生の発明した防臭シート」「これもやはりノーベル賞間違いない何とか先生のつくった」。これだけの団体が入って誰も何も買わないかと思えば、ここでも三澤さん一人だけが何かを買った。「これで大きな顔ができますね」と関野さんが言う。

 それじゃ行こうと店を出ると、総合研究博物館の「アフリカの骨・縄文の骨」展示会ポスターを見つけて、是非行きましょうと平野さんが先頭に立つ。無料。はっきり言って私は余り興味がない。松下さん、関野さんもどうやら私と同じだが、鈴木さんは平野さんの説明を熱心に聞きながら一緒に回っている。化石、骨格標本、石。地質や地学は平野さんの専門分野だから仕方がない。次のコースもある。平野さんには申し訳ないが、そろそろ切り上げよう。「今度ゆっくり来なくちゃ」と平野さんは名残惜しそうだ。しかし、鈴木さんもこういうものが好きなのだね。パンフレットを貰ったから、少し引用しておかなければ申し訳ない。

 遥かラミダスを望む。「化石の研究は、ロマンの追及ではなく、過去の真実解明へのあくなきチャレンジである。」「化石から人類の起原と進化をどう読み取るのか?」「人類の系譜が一気に六百万年前まで遡ることとなり、目下その全貌の解明が進行中である。」

 赤門の前に来ると、「松と梅鉢があるだろう」と三澤さんが薀蓄を示す。「目出度さは松から梅への花の嫁」。将軍家の松平から梅鉢の加賀への嫁入りを表す。しかし実は目出度くなんかない。前田藩は仕方なく、家斉の娘溶姫を嫁にもらった。将軍の娘が三位以上の大名に嫁入りした時だけ、赤門が許される。前田家は従三位権中納言の資格がある。赤門は、火事で焼失すれば再建が許されない。名誉というよりも寧ろ厄介なものなのだが、加賀藩は周囲の町家を取り払って、消防組織を作った。それが加賀鳶と言われる大名火消しで、赤門を守るだけのために誕生した。
 門を出て本郷通りを渡った路地の正面に法真寺がある。寺の隣、今は駐車場になっている辺りに一葉一家の家があった。明治九年四月(満四歳)から十四年七月(満九歳)まで住んだ。後に一葉が回想して「桜木の宿」と呼ぶことになる。まだ父則義が東京府に勤めていた頃で、二百三十二坪の土地に四十五坪の屋敷が建ち、借家ではなく五百五十円で購入した。(森まゆみ『一葉の四季』)

 かりに桜木のやどといはばや、忘れ難き昔しの家にはいと大いなるその木ありき、狭うもあらぬ庭のおもを春はさながら打おほふばかり咲みだれて、落花の頃はたゝきの池にうく緋ごいの雪をかづけるけしきもおかしく、松楓のよきもありしかど、これをが庭の光りにぞしける。」(『雑記』)

 この後、一家は貧困に苦しむから、僅かに残る平和な時代への追憶が哀しい。

 ここから本郷通りを離れて細い道に入っていく。落第横町。おそらく昔はもっと安い飲み屋が連なっていたのではないだろうか。今では、ラーメン屋が数件あるだけで、ここで遊んでいても別に落第するような気遣いはない。まず菊富士ホテル跡を目指す。下見の時に私が探し出せなかった場所だが、今日は松下さんが一緒だから大丈夫だろう。長泉寺を目指せばよい。松下さんは近藤富枝『本郷菊富士ホテル』の巻末に掲載してある地図を頼りに、「もう何十年ぶりだから、随分様子が変わっていますよ」と言いながら、ちゃんと見つけてくれた。高台の上の狭い駐車場の脇に石碑が立って、主な宿泊者三十人ほどの名前が記されている。どういう順番なのか、大杉栄と伊藤野枝の名前が離れているのを見て、「ちゃんと並べてやれよな、可哀そうじゃないか」と言うのは三澤さんだ。今気がついたのだが、関野さん、猪早さん、大川さんは、碑や案内板を見つけるたびに、 きちんと写真を撮っている。松下さんが見せてくれる『本郷菊富士ホテル』の表紙を見て、実際はこんなものだったのだと想像するしかない。
 今日の松下さんは、この他にも野田宇太郎の文学散歩シリーズの一冊と、司馬遼太郎『街道をゆく・本郷界隈』、新潮社『江戸東京物語・山の手篇』を持ってきている。実はあとの二冊は私のバッグにも入っているが、私のものはどちらも文庫本で、松下さんのは刊行当初の単行本という違いがある。つまり、年季が違うということだ。

 赤心館跡も、塀に案内板が掛けられているばかりだ。北海道放浪中の啄木は、四一年四月、「文学的運命を極度まで試験する」大決意で、家族を函館の大四郎宮崎郁雨に託して上京する。初めに転がり込んだのが、金田一京助が下宿していた「赤心館」だ。しかし収入の道のない啄木は家賃を払えない。啄木を追及する家主に憤慨し、九月になって京助が蓋平館を見つけ出し、一緒に引越した。
 この付近には小さな旅館がいくつも並んでいる。松下さんの説明では、昔は修学旅行の生徒を収容して繁盛したとのことだ。
 蓋平館別荘はいま大栄館旅館になっている。玄関前に、「東海の小島の磯の白砂に」の歌碑が建つ。「一緒に」と言うが、全て京助が段取りを組み、啄木は「ぼくも連れて行ってくれ」と懇願したに過ぎない。小説を書こうとしても書けない。売れない。春が来て、啄木はローマ字で日記を書き始める。妻に読まれたくないという気持と、俺は妻を愛しているという言い訳とを論理的に結合できないままに。

 ときどき、津軽の海の彼方にいる母や妻のことが浮んで、予の心を掠めた。春が来た。四月になった。春!春!花も咲く!東京へ来てもう一年だ。が、予はまだ余の家族を呼び寄せて養う準備ができぬ!近頃、日に何回となく予の心の中をあちらへ行き、こちらへ行きしてる問題はこれだ。(『ローマ字日記』表記は桑原武夫訳のものを少し改めた)

 しかし、妻子を東京に呼ぶために、啄木はどんな努力をしたか。何もしなかった。しなかったどころか、

 いくらか金のあるとき、予は何の躊躇うことなく、かの、淫らな声に満ちた狭い、汚い町に行った。予は去年の秋から今までに、およそ十三、四回も行った。そして十人ばかりの淫売婦を買った。ミツ、マサ、キヨ、ミネ、ツユ、アキ・・・・・・名を忘れたのもある。予の求めたのは、暖かい、柔らかい、真っ白な体だ。体も心もとろけるような楽しみだ。

 啄木がこんなことをしている間、函館では、宮崎郁雨の節子への同情は愛に似たものに変わろうとしている。「可哀そうだたァ惚れたってこと」と『三四郎』の与次郎も言っているではないか。
 「地図を見ると徳田秋声の家もありますよね」と、江口さんが追及してくるが、申し訳ない、端折ってしまった。硯友社門から自然主義に移ったこの作家に、私は全く関心がないのだ。

 ずいぶん急な坂道には「新坂」の案内板。いったん言問い通りに出てすぐに菊坂に曲がる。ゆるやかな坂道の途中には、伊勢屋質店が白壁土蔵を残したまま現存していた。個人の家でよくこれだけ保存しているものだ。一葉は竜泉寺町に引越してからも、頻繁にこの伊勢屋を訪れた。一葉葬儀(斎藤緑雨が取り仕切り、参会者数人。鴎外が騎馬で随行を希望したが、妹邦子が断る)の際、伊勢屋は一円の香典を出した。
 狭い路地を覗き込めば、急な石段を見上げる位置に井戸が残っている。明治二三年(十八歳)から、竜泉寺町で小店を開く決心をする二六年七月まで、一葉一家がここに住んだ。ただし初めは、菊坂七十番地(本郷四―三二―三)、二五年に六十九番地(本郷四―三一―九)に移転。今日歩いた道に明治の建物は残されていないから、当時の雰囲気を想像するのはかなりの努力が入るのだが、伊勢屋とこの井戸周辺には明治の面影が色濃く残っている。ポンプはおそらく大正の頃に付けたものではないだろうか。一葉の時代には釣瓶でくみ上げていたのだと思う。「お隣の家は気の毒だね、入れ替わり立ち代り、観光客でうるさいだろう」関野さんが同情する。

 我が家は細道一つ隔てゝ上通りの商人どもが勝手とむかひ合居たり。されば、口さがなきものどもが常にいひかわすまさなごとどももいとよく聞ゆるに(日記)

 父が東京府を辞め(リストラにあった)、事業にも失敗、病没する中で、一家は裁縫や洗い張り、蝉表内職で生計を立てた。蝉表というのは、籐を細く裂いて編み、駒下駄の表面に貼るものだ。一葉は極度の近眼でこれらの内職はてんで不得意だが、邦子は近所でも評判の上手だった。
 小説で身を立てる決意をし、友人野々宮きく子の紹介で半井桃水に出会う。「一葉と桃水は男女の関係があったのかな」と誰かが無遠慮な質問を投げかけるが、私は断固「否」と言う。一葉は美男好みで、日記によく男の容貌を記している。桃水のほかにも川上眉山、馬場孤蝶などが美男と評された。しかし晩年の一葉が最も親しんだのは、決して美男とは言えない斎藤緑雨だった。紅葉、露伴、子規、漱石と同じく、慶應三年に生れた。鴎外、露伴とともに「目さまし草」を運営し、指導的な批評家でもあったが、辛辣な批評と狷介な性格で文壇人の多くに嫌われた。江東みどり、正直正太夫とも称した。「筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし」

 この男、かたきに取てもいとおもしろし、みかたにつきなば猶さらにおかしかるべく、眉山、禿木が気骨なきにくらべて一段の上ぞとは見えぬ。

 その緑雨が一葉全集を世に出した。日記草稿も邦子から預かっていたが、刊行を実現できずに、結核で三十七年四月十三日、貧窮の中で没した。緑雨から一葉日記草稿を託されたのが孤蝶で、鴎外の反対など種々な障害を越えて日記刊行を実現した。
 今では緑雨のことなど知る人も少ないだろう。自分で口述筆記させた死亡広告が翌日「万朝報」に掲載された。引用しておこう。

 僕本月本日を以て目出度死去致し候間此段広告仕候也 緑雨齊藤賢

 炭団坂に曲がる前に、宮沢賢治も見ておきたい。ただ崖に案内板があるだけなのだが。大正十年(二五歳)家出上京し、本郷菊坂町七五番地、稲垣方に下宿した。前年十一月に入会した国柱会(田中智学創始)の活動に従うのが主な目的だった。街頭布教や奉仕活動に従事していたが、文芸によって法華経の教えを広めるように勧められ、本格的に創作活動を始めた。石原莞爾が熱烈に信仰したこともあるが、近代日本思想史において、国柱会は独特な影響力をもっている。国柱会のホームページを開くと(今も存続していることに驚いてしまう)、坪内逍遥、高山樗牛、中里介山、北原白秋、武見太郎などにも影響を与えたと書いてある。このメンバーにどんな共通点を見つければ良いのか悩んでしまう。

 国柱会は、その創立当初から今日に至るまで、言論に、文書に純正日蓮主義を鼓吹する宣伝活動を行ってきました。主義・主張に少しも加水することなく、純乎として純なる日蓮主義を、一貫して宣伝してきたという意味で、それは他に比類なき栄光の歴史であります。とくに文書伝道の中心をなしたのが、夥しく出版された教書と機関誌の発行であります。

 八月、妹トシ病気のため賢治は帰郷する。トシは日本女子大学時代にも一時入院したことがあるが、卒業後、母校の花巻高等女学校の教諭心得になっていた。翌年十一月二十七日、トシ死去。『永訣の朝』を書く。

 けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ/みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ/(あめゆじゆとてちてけんじや)/うすあかくいつさう陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる/(あめゆじゆとてちてけんじや)/青い蓴菜のもやうのついた/これらふたつのかけた陶椀に/おまへがたべるあめゆきをとらうとして/わたくしはまがつたてつぽうだまのやうに/このくらいみぞれのなかに飛びだした/(あめゆじゆとてちてけんじや)(後略)

 「佐藤さん、(あめゆじゆとてちてけんじや)を翻訳してください」と関野さんが攻め立てる。私も花巻弁を知っているわけではない。熱に冒されたトシが、雨雪を取ってきて欲しいと賢治に頼むのだ。とて(取って)ちて(来て)けんじゃ(くだされ)かな?

 急な炭団坂を登った崖の突端に坪内逍遥旧宅・常磐会があった。今は階段になっているが、昔はたぶん、ただの坂道だったのではいだろうか。炭団屋があったとも、炭団のように転がったからだとも言うのは団子坂と同じだ。今は日立の研修所の建物になっている。崖の突端に立って向こうを見渡せば、一葉の井戸のあたりは谷底を覗き込むような場所にある。昔はもっと家並みが低かったから、もっと向こうの坂まで見通せただろう。旧町名は真砂町だ。
 明治一七年、逍遙は寄宿舎風の家屋を新築し、学生をこの家に住まわせた。逍遥塾、「春廼舎」とも言う。学生を育てるのが好きだった。逍遙自身はこの場所裏手に自宅を構え、明治二二年まで住んだ。
『婦系図』では真砂町の先生が主税とお蔦を引き裂こうとする。現実に紅葉は鏡花と芸者桃太郎の仲を死ぬまで許さなかった。しかし、この真砂町に住んだ逍遥は、根津遊郭の花魁、花紫を妻に迎えた。根津遊郭は、大学の側に遊郭があるのは怪しからんという理屈で、洲崎に移転させられる。
 ここに住んだ時期、逍遙は『小説神髄』(明治一八年)や『当世書生気質』を発表。町内に住んでいた長谷川辰之助もいくたびか訪れ、処女作『浮雲』(二〇年)を逍遥の名で出版した。日本近代文学史はここから始まる。
 近代日本文学を創始した名誉は、二葉亭自身にとっては迷惑なことで、その志は別にあった。自らの才能と達成した事業の偉大さを信じられず、客観的には最も不向きな政治を志した。引き裂かれた魂が近代精神の典型的なあり方ならば、最も早くその悩みに捉えられたのが二葉亭だった。(もちろん鴎外もその一人だろう)特に対ロシア問題がもっとも重大な関心事だったが、朝日新聞特派員としてロシア滞在中病に倒れ、帰途ベンガル湾上で没した。明治四二年五月十日、享年四十五歳。
 逍遥が移転した後は旧伊予藩主久松家の育英事業「常盤会」所有となり、旧藩出身の子弟を預る寄宿舎となった。内藤鳴雪が舎監として明治二三年から四〇年末まで在住。正岡子規、河東碧梧桐、高浜虚子が学生時代過ごした。伊予松山は俳人ばかり発生させた、と言うより子規の影響力の強さと言ったほうが良いか。年下の学生に影響され、舎監までが俳人になってしまったのだ。
 明治文学はこの坂の多い狭い地域で集中的に生産された。大雪の日、桃水に会いに行く一葉の姿は日記の中でも特に印象深いのだが、こんな坂道を、下駄を履いて歩いていったのだね。

 文京ふるさと歴史館であっちゃんと待ち合わせることになっている。「入館料百円は六十四歳まで、それ以上は無料ですよ」と松下さんが得意そうに言う。払ったのは私、江口さん、鈴木さんだけだ。「文の京の写真店・なつかしい昭和を訪ねて」という企画展が開催されている。ここは実に親切な場所だ。モノクロの昭和の写真をポストカード八枚に仕立てた立派なパンフレットもくれるし、「ワンポイント講義」というチラシでは「文京の武家屋敷」を説明してくれている。百円では運営経費も出ないだろう。「無料で入った人にもちゃんと資料をくれて、特別企画展も見せるって言うのは、問題ですよ」後で酔っ払った鈴木さんが思い出して悔しがる。
 松下さんはすぐに地下の展示室に下りていき、あっちゃんを見つけ出した。ちょっと待たせてしまったようだ。七輪や手回しのミシンなど懐かしい道具を見つける。大体今日のメンバーなら、誰でも知っているのだが、三澤さんがお得意の講釈を始める。
 ケースの中には一葉全集の初版や啄木自筆の手紙などが展示されている。「うちに、こんな本が沢山あって」。あっちゃんのお祖父さんは相当な蔵書家だったようで、ディケンズ『デビッド・カッパフィールド』なんかも、彼女は明治の頃の翻訳(登場人物を日本名に翻案)で読んだそうだ。

 さて出発しようと外に出ると石坂さんがいない。江口さん、鈴木さんが中に戻って探してみるが見当たらない、どうしたのだろう。何かの加減で先に出てしまったのかもしれない。これから行くコースは知っているしどこかでまた合流するだろう。携帯電話の番号を後で教えますよと、さっき言っていたばかりだったのだが、あの時、すぐに登録しておけばよかった。
 お七の墓にいってみようかと松下さんが提案するが、やはり最初の予定通りのコースにしたい。どうも松下さんは朝からお七に執着している。「お七は純粋ですよ」と言うが、私に言わせれば、恋に狂った小娘の狂気の仕業としか思えない。ところで、江戸六地蔵の正元坊主が、実はお七の恋人であったという説もある。
 春日通を横切って、大きなクスノキを見た。樹齢は書いていないが実に大きい。巨樹のことなら鈴木さんに聞けばよい。クスノキは南方の木だから生長が早い。だから案外、樹齢はそれほどでもないかも知れないとのことだ。マンションの窓に触れないよう、窓に接した枝は切ってある。「日照権がうるさいんだよ」しかし、マンションより先にこの木が立っていたのだ。それを承知で住んだのではないか。

 赤と青がぐるぐる回る懐かしい床屋を探せば、そこが喜之床跡だ。アライ理容店の名で今も営業をしているが、勿論建物は当時のものではない。春日通りの拡幅にあって、やはり明治村に移設された。窓には、その当時の建物の写真が飾られている。一度、明治村に行かなければならない。私がそう言うと、松下さん、鈴木さん、あっちゃんの三人は既に見ているのだ。悔しいね。
 四二年六月、啄木がやっと家族を呼び寄せる決心をする。以前から母がせっついている。節子が強行して函館から盛岡に移動した。もう猶予はない。しかし金はない。蓋平館には滞った下宿代が残っている。結局、頼りは函館の郁雨しかいない。

 宮崎君から送ってきた十五円で、本郷弓町二丁目十八番地の新井という床屋の二階ふた間を借り、下宿の方は、金田一君の保証で百十九円余を十円ずつの月賦にしてもらい、十五日に発ってくるように、家族に言い送った。十五日の日に蓋平館を出た。・・・・十六日の朝、まだ日の昇らぬうちに、予と金田一君と岩本と三人は上野駅のプラットフォームにあった。汽車は一時間遅れて着いた。友、母、妻、子。車でうちに着いた。(『日記』)

 宮崎郁雨の外套を脱がせ、甲斐甲斐しく世話をする節子の姿を見て、啄木は嫉妬するが、もともと郁雨に節子を預けて長い間放っておいた啄木が悪い。疑われた節子は潔白を証明するため髪を切る。この情景をなんと言えば良いか。郁雨は、信じられないほど啄木に尽した。明治四二年、節子の妹と結婚し、後、函館図書館啄木文庫を創設し啄木顕彰に努めるともに、石川一家の墓所を立待岬に定めた。郁雨と京助がいなければ、啄木はもっと早く死んでいたか、あるいは犯罪者になっていただろう。
 家賃は六円だが、蓋平館への月賦払い十円が残っている。啄木は少し前に朝日新聞社の校正係に採用され、今は二葉亭の全集校正の仕事をしている。二葉亭の遺言は貧窮による一家離散の宣言だったが、友人達が全集刊行の印税で家族を救おうと考え、これが啄木の仕事になったのだ。月給は二十五円、夜勤手当が月平均七円ほどになっていたが、真面目に家賃と月賦を支払えば残るのは僅かに十六円。まして浪費癖のある啄木が、一家の家計を支えるのはほとんど不可能と言って良い。
 その年の秋、啄木は記憶している借金の全てを書き出してみた。合計千三百七十二円五十銭。年収のおよそ四年分に相当し、百年かかっても返せる筈はない。
 因みに、四十年に朝日新聞社に入社する際、漱石が出した条件は、月給二百円に賞与夏冬一ヶ月ずつだから、年収二千八百円になる勘定だ。啄木(盛岡中学中退)や一葉(青海小学高等科四年修了)がいくら頑張っても、帝国大学を卒業した者との間にある隔絶した差は埋められない。明治の頃の社会的格差はこれほど大きなものだった。
 せっかく家族が揃ったものの、四四年、啄木の異様に膨れ上がった腹は結核性腹膜炎と診断され、腹水を除く手術をした。退院しても熱が下がらず出社できない。妻節子は肺尖カタル、母カツは腸カタルと、貧しい家にさらに医者薬代の負担がかかってくる。貧困が病を誘発し早死にするのは、一葉や緑雨を見るまでもなく、この頃の文人にとって宿命のようなものでもあった。
 家主の新井コウは病人だらけの下宿人に恐れをなし、滞納家賃二か月分を放棄する条件で退去通告をした。炎天下、病熱を押して節子が家を探し、八月小石川区久堅町に移転する。翌四五年四月十三日死。数えで二十七歳。それまで付き添っていた京助が、勤務先の国学院大学に出勤した数分後だった。父、妻、若山牧水が臨終を看取った。(この辺の事情はほとんど関川夏央『ただの人の人生』による)
 生前、ごく一部の熱狂的愛読者(郁雨がそうだったのだろう)を除いて一般にはほとんど評価されず、寸借詐欺まがいの生活を繰り返した啄木だが、その詩は後世の少年たちに愛唱された。「石をもて追われる如く」故郷を離れ、「そのかみの神童の名」をたった一つの恃みにし、放浪した挙句の短い人生だった。実際に身近に生きて借金を申し込まれるのは勘弁して欲しいが、確かに啄木は詩人として輝いていた。文明批評家としての力量も時代の水準を超えていたのは、『時代閉塞の現状』を読んでもわかる。

 啄木に長く関わりすぎた。本郷三丁目の交差点角に「かねやす」がある。古川柳に「本郷もかねやすまでは江戸のうち」という。本郷は「武蔵野国豊島郡本郷村」で、この辺りが江戸市内(御府内)と郊外とを分かつ境界になっていたようだ。ここから赤門の辺りまでの道は「見送り坂」と名が付いているように、江戸を離れる者を見送る所だった。江戸の町並みは防火のため本郷まで瓦葺きの家が続き、中山道に入ると板や茅葺になった。江口さんに聞かれて、かねやすを背にして、ここから向こうが江戸だったんだよ、と私は手を広げてみる。

 元禄時代、兼安祐元なる町医者が何と何を調合したものか、赤い色の爽かな歯磨粉を発明して売り出したところ、非常な勢いで時好に投じ『かねやす』といえば、直ちに歯磨粉を連想し、若い気障なのが、咥え楊枝で神田雉町の丹前風呂へ通う道々、赤いつばを地上に吐くことを、一種の見栄にしたのはあまり感心しない。(矢田挿雲『江戸から東京へ』)

 矢田の本は巷説、流言が入り混じって、そのまま史実と信じられない挿話が多いのだが、この程度の記事ならば引用しても良いだろう。歯磨き粉は乳香散という。中山安兵衛がこの店の看板を書いたというのは本当らしい。

 この辺で新井さんの万歩計は一万九千歩を超えた。十キロを超えたことになるか。私の見積もりでは七、八キロだったからやはり計測が甘い。しかし見積もりが五割も違っていては、これは甘いとは言わないね。仕事で目標値をこれだけ狂わせては処分されてしまう。頭脳に欠陥があるのかも知れない。「谷中の時もそうでしたよね」とあっちゃんに笑われてしまう。
 春日通りを麟祥院に向かう。私は知らなかったのだが、新井さんが教えてくれた。春日通りが、そもそも春日局に因んでいることさえ気付かなかったのだからどうかしている。垣根がからたちだったので枳穀寺(からたちでら)と言う。 ところが既に門は閉ざされ、私たちは入門を拒否された。三時で終りというのは余りに早すぎませんか。最初にここに来ておけばよかったと、新井さんが残念がる。仕方がないので調べたことだけ記しておこう。
 春日局が、妙心寺七十四世単伝士印の法孫、鍋島勝茂の子碧翁を請じて創建した。寛永十年(一六三三)家光がその地にあった天神社を鎮守として春日局のために創建したとも、十一年に春日局が子稲葉正勝の死を悼んで興したともいう。家光が将軍になった翌寛永元年、局は隠居してこの寺で余生を送った。当初は現在の花園高等学校の敷地内にあり、明治三十年(一八九七)に現在地に移建された。墓石の形が変わっている。丸い墓石は卵塔という。柱に空いている孔は、死んでからも天下を見守るため、黄泉の国から地上を覗く穴をあけよとの、春日局の遺言によったという。
 一方、この麟祥院は東洋大学に縁がある。明治二十年(一八八七)九月、井上円了が麟祥院内に「哲学館」(東洋大学の前身)を設立したことになっている。私塾のようなものだったのだろうが、寺の中にどうして作ったのか。哲次郎円了は新潟の真宗大谷派寺院に生れ、仏教と東洋哲学の融合に努めたということになっている。妖怪研究で名高い。

 湯島天神の前に石坂さんがしょんぼりと立っていた。ふるさと歴史館で、私たちが先に出たものと勘違いして、急いで歩いてきたらしい。「もうすっかり見物してしまった」と、ちょっと疲れているようだ。何はともあれ合流できて良かった。
 湯島天神は雄略天皇の二年(四五八)創建と伝えられ、天之手力雄命を奉祭したのが始まり。天岩戸に隠れ篭ったアマテラスを引き出そうと、神々は芝居を打つ。ウズメのストリップに一同笑い転げているのを不審に思ったアマテラスが、ちょっと岩戸を開けた瞬間、その岩戸をこじ開けて引っ張り出した怪力の持ち主が、タヂカラオだ。
 しかし普通の人にはこんなことは余り関係ない。なんと言っても受験の神様、菅原道真と湯島の白梅でなければならない。正平十年(一三五五)、菅原道真怨霊鎮護のため、文道の大祖と崇め奉祀した。息子の受験の時には、妻もここに合格祈願に来ているが(私は来ない)、結果をみれば、受験の神様の霊験があったとは思えない。信仰薄いせいか。
 恨みをのんで死んでいった政治的な敗者は世に祟るから、それを鎮めなければならないというのが御霊信仰。正平十年といえば南北朝時代だ。道真が死んだのは延喜三年(九〇三)だから、随分経っている。この頃、楠木正成も怨霊になっているし、時代の混迷は怨霊の祟りと考えられたのだろう。
 文明三年、太田道灌が再建し、天正十九年十一月、徳川家康が豊島郡湯島郷の内五石の朱印地を寄進し祭祀料とした。現在の社殿は平成七年造営のもの。
 あっちゃんは「湯島通れば思い出す・・・・歌も知ってますよ」と自慢する。残念ながら鏡花は私の関心から外れている。今でも読む人がいるのだろうか。新派という演劇自体が旧派(歌舞伎)に対する演劇改良運動だったことも、今では忘れられてしまっているだろう。
 白梅が満開で、おまけに合格祈願成就のお礼参りに並ぶ人波もあって、境内は混雑している。店の前で梅昆布茶を無料で配っていて、これを貰って飲む。何人かが酒饅頭を買った。猪早さんは、高校がすぐそばだったのに、天神には初めて来たと言っている。そんなものかな。「そんなもんだよ」と平野さん。

  梅匂ふ 湯島参りや 酒まんぢゅう   快歩

 江口さんは、江戸百景「湯島天神坂上眺望」と比べて、これはどこからの眺めだろうと聞いてくる。私は一所懸命地図で位置関係を見てみるが良く分からない。そもそも、いまこの天神のどこにいても不忍池なんか見えはしない。

 湯島天神から南に下る。坂には必ず名前がついている。三組坂上から左手を見下ろして「ずいぶん高台になってるんですね」と関野さんも驚いている。山と谷。清水坂に入って、地図を見ながらあっちゃんが「たぶんこの辺から曲がるんじゃないかしら」と言った途端、関野さんが、目敏く案内板を見つけてくれた。妻恋神社は、あっちゃんお薦めの神社だ。「皆さん愛妻家だから、相応しいでしょ。」夢枕で有名らしいが、小さな神社で本殿がコンクリート造りになっているのは、少し寂しい。
 ここもヤマトタケル伝説に因む神社だ。タケルが三浦半島から房総へ渡るとき大暴風雨に会い、弟橘姫が身を海に投げて海神を鎮めた。途中船はこの地に着いたというから、この辺は入り江になっていたのだろう。郷民がタケルとオトタチバナを祭ったのがこの神社の起こりと伝える。後、稲荷明神(倉稲魂命)を祭り関東稲荷の総社として栄えた。「オトタチバナが身を沈めたのは浦賀水道の走水じゃないかな」と松下さんの知識は正確だ。

 神田明神には裏参道から入る。「なんだ、今日は裏口ばっかりだな。根津神社も東大も。それに湯島天神は横から入っちゃったし」三澤さんが悪態を吐く。あっちゃん「試験受けてないから仕方ないですよ。」それにしても急な階段だ。

 明神も 裏より参り 春うらら  快歩

 慶長八年江戸城を築城するにあたって、柴崎村(現大手町・平将門首塚の地)の神田明神を神田山(駿河台鈴木町)へと移転させた。更に秀忠が元和二年に現在地である湯島台へと移し「江戸総鎮守」とした。もともと平将門の御霊鎮めのための神社だが、江戸中期、大己貴命(オオナムチ)を奉祭、将門は主神の位置から転落した。神々の名前は錯綜していて分り難いが、大己貴命は大国主の別名でもある。維新後、将門は朝敵であると祭祀を禁じられ、茨城県大洗磯崎神社の小彦名命を移した。スクナヒコナはオオクニヌシの国造りに協力したから関連が深いのだ。

 将門のように、関八州を制圧して、天位を僭称したものは、それまでには無論なかったし、その後にも現れなかった。明治以来、日本最大の悪人として糾弾されたのは当然である。しかもいわゆる「即位」から服誅まで二ヶ月足らずという短さである。天皇位を覗う大悪人の末路はかくのごとし、と万世一系を誇るよい機会でもある。「神皇正統記」「大日本史」以来の名分論であるが、天慶三年(九四〇年)二月の服誅以来、朝野における将門像の変遷を見ると、事態はそれほど単純ではない。(中略)とにかく、時の権力に向かって、敢然と立ち上がった行為によって、民衆的英雄として、あがめられる要素を持っていた。(中略)つまり武家に取っては、将門は決して悪逆無道の叛逆者ではなく、むしろ朝廷の全国支配に抗して、関東を武家の根拠地とする構想を立てた、偉大なる先駆者ということになるのである。(大岡昇平『将門記』)

 江戸時代までは将門を祭ることは何ら禁止されてはいない。むしろ歌舞伎や伝奇物語によって超人的な英雄として畏れられていたのだが、明治維新によって引き摺り下ろされた。戦後、漸く皇国史観の呪縛が解け、将門が復権した。
 銭形平次の大きな石碑と傍らに小さな八五郎。神田明神下の親分が、こうして石碑になっているのだ。野村胡堂も夢にも思わなかっただろう。後世、平次も伝説の人となって、実在を思わせることになるかも知れない。寄進した人たちには、作家の他に歴代、平次を演じた役者の名前も並んでいる。あれは東映だ、あれは日本テレビだったと、皆詳しい。
 猪早さんが、「そう言えばどこかで姿三四郎決闘の碑というのを見たよ」と教えてくれる。そういうものなのか。会津出身の西郷四郎をモデルに富田常雄が創作したのが姿三四郎。今日は二人の三四郎が話題に上ったことになる。
 神田明神に来たからには甘酒を飲まなければならない。三澤さんが断固として主張する。それが江戸っ子というものだと、神田生れの三澤さんに言われれば仕方がない。正面の鳥居をくぐって、古い由緒のありそうな店に十二人が入った。誰かがメニュを見ようとしたが、面倒なので私が独断で全員甘酒に決めた。小皿に盛ってあるのは金山寺味噌だろうか。私は甘酒について論評する資格をもってはいないが(何十年ぶりに飲むだろう)、生姜がつくのが普通ではないのかな。とにかく甘い。何故かお富与三郎の話で盛り上がっている。
 店を出て、新井さんはカラオケ教室の例会に出なければならず、ここでお別れだ。

 湯島聖堂は門を閉ざしている。五時閉門だがまだ五時にはちょっと間がある。冬は四時と書かれてあるので皆が憤慨する。「もう春じゃないですか、立春を過ぎれば」確かに弥生は春だと私も思う。元禄三年、徳川綱吉によって建てられた孔子廟。三度の江戸の大火、関東大震災、空襲によって焼失・改修を繰返して現在に至る。もとは寛永九年、林羅山が上野忍が岡(現在の上野公園)に建てた孔子廟「先聖殿」を移築したもの。寛政九年、松平定信の朱子学奨励(寛政異学の禁)に伴い昌平坂学問所が創立された。高等師範と女高師があったと教えてくれるのはやはり松下さんだ。

 高野あゆみさんが上中里から御茶の水に向かっているはずだから、時間調整も兼ねてニコライ堂に寄って見る。日本ハリストス正教会の東京復活大聖堂というのが正しい。ギリシャ正教の総本山だ。「私はどんな宗教でも、寺院に入れば礼拝します、モスクでもシナゴーグでも」と松下さんが言って礼拝する。「ギリシャ正教の十字架には余分な装飾がついているんだね」と石坂さん。
 屋根の鐘を見て「ニコライの鐘って歌がありますよね」とあっちゃんが言う。確かにあったようだが記憶が甦らない。思い出そうとしながら「ああ、どうしても長崎の鐘になってしまうわ、悔しい」あっちゃんが悩む。「東京ラプソデーにあったんじゃないかな」と松下さんが言うので小声で歌ってみる。「花咲き花散る宵も/銀座の柳の下で」一番を歌い終わってまだ「ニコライ」が出てこない。たぶん二番の歌詞にあるのだろう。ハミングしながらやっと「ニコライの鐘が鳴る」のメロディが出てきたが前後が分らない。私も悔しいから、帰宅後調べた。門田ゆたか作詞、古賀政男作曲『東京ラプソディー』(昭和十一年)二番にある。二・二六事件の年に、こんな能天気な歌が生まれているのも不思議だ。

 うつゝに夢見る君の/神田は思い出の街/今もこの胸にこの胸に/ニコライの鐘が鳴る/恋し都恋の都/夢のパラダイスよ花の東京

 空に浮ぶ月を指差して、「皆さん、これが十一日の月」と松下さんが説明する。気象天文を専らにする平野さんを前に大胆な発言だが、松下さんの意図は違っていた。平野さんも「七日を過ぎて十三日にはまだなっていない」と断言する。松下さんは旧暦が好きで、月齢に詳しいのだそうだ。月の周期は二十九日とちょっとだから、大の月、小の月を組み合わせても当然端数が生じ、調整するためには閏月を挿入しなければならない。たぶん、五、六年ほども経てば三十日ずれる筈だと私は思っていただけだったが、どこに挿入するか。当然ルールがあるのだが、私はそれを知らない。松下さんが嬉しそうに説明する。この人の教養と言うのは、実に底が知れないが、耳で聞いただけでは良く分らない。
 旧暦とは太陰太陽暦を言う。月の周期は二十九・五三日。一方、太陽の運行を基準に一年(三六五・二四二二日)を正確に二十四分したのを二十四節季という。立春や夏至などがそれで、節気と中気とに分かれる。月の周期を十二倍してズレが生じたところには、十九年に七回、閏月を置けば良い。これは単純な算数の問題だから計算すれば分る筈だが、そこからが問題だ。中気のない月を閏月とすることになる。そうですか。しかし節季と中気の意味が分らない限り、この問題は解決しない。折口信夫の孫弟子で純粋文科系を自称する松下さんだが、数学は得意だと自慢する。
 理屈は良く理解できないが、「それではそろそろ如月の望月の頃になるんだな」と言えば響くように、あっちゃんが「西行ですか」と笑う。
 願わくは花の下にて春死なんこの如月の望月のころ 
   そう言えば明日がちょうど三回忌だったと私は思い出す。二年前の明日、大事な人が亡くなった。ここから連想する歌がある。丸谷才一『新々百人一首』で知った。
 去年の春散りにし花は咲きにけりあはれ別れのかからましかば   赤染衛門


 さて、今日のコースは終了した。それぞれJRや地下鉄で帰宅する三澤さん(絶対に飲まない人)、大川さん、関野さん(飲めません)、石坂さん(昨日、私と飲んだばかり)、猪早さん(飲みたそうだがこの後予定を抱えている)を見送っていると、ちょうど電話が鳴った。御茶の水駅の改札の内側で高野さんが電話している姿が見える。「あっ、見えました」と声を上げて、あゆみさん登場だ。四時まで仕事をして漸く合流した。
 駅からすぐそばの沖縄料理屋「おきなわ軒」に入る。最初の予定では松下さん推薦のすき焼き「江知勝」かうなぎ「伊豆栄」と思っていたのだが、私たちの財布の事情では、少し重すぎる。分相応にしようと決めたのだった。結局一緒に酒を飲むのは、松下さん、平野さん、江口さん、鈴木さん、あっちゃん、私。それに高野さんの七人となった。
 生ビールの後は泡盛のボトルを二本。今回は仕事で残念だったが、いつか自分でも歩いてみたいという高野さんに、今日のコース予定表、本郷近辺と東大構内の地図を渡す。今度は一緒に歩きましょう。次回五月はあっちゃんが「芝から銀座編」を担当する。七月は江口さんの「新宿編」。九月には松下さんが小石川周辺を案内してくれることが決まった。