文字サイズ

    東海林の人々と日本近代(一)明治篇①

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2022.07.30

     手元に、石山皆男が書いた『東海林の両親 利頴と利器』『東海林利生』『鵜沼弥生』の三冊がある。もう二十年以上前に母カズから手渡されたもので、皆男が手書きで書いて一族にコピーを配ったもの(B4版袋綴じ、縦書き、簡易製本)である。皆男は他にも『東海林利雄』、『高橋揚五郎』等兄弟の事績を纏めたものがある筈だが、皆男からカズには渡されなかったため読むことができない。当時、私は「佐藤清也とその一族」に取り掛かっており、カズは、それなら母方の歴史もまとめて欲しいと思っていたのではないだろうか。
     東海林利穎と利器から、夭逝した者を除けば東海林利生、東海林利雄、石山皆男、鵜沼弥生、高橋揚五郎、田中伸が生まれた。カズは利生の次女で、利生没後は鵜沼弥生の養女になった。先祖の記録をまとめるのは利穎の志であったが果たさず、遺訓として皆男が託されたのである。

     皆男は利頴の遺訓を身にしみて感得した。しかし、三十歳、四十歳の壮年に、こうした後をふり返るような仕事は容易になじめない。また実際にも、社会における職務は盛りのときであり、これをなげうって、家系を遡るような仕事はできない。そうしているうちに戦争が激しくなって、尚さらその仕事は縁遠いものとなった。
     問題はそれら原資料の保持である。東海林は本家別家とも家長が死に、その保管は重荷でもある。生家東海林の系図書類は、利器の来住とともに皆男が預かっていた。本家東海林の系図書類は、利雄の遺児が守っていたが、空襲に遭っても利雄の遺訓に従って、之を持出し焼失を免れた。焼け出された家族はこれを皆男に委託した。こうして家歴に関する基本資料は、期せずして皆男の処に集まる。皆男はこれらの系図に、先代までの事実を追記し、破損修理など施した。
     実際に、先祖記録の大業を始めたのは、ダイヤモンドを退社したあとである。六十五歳であった。父利頴の年齢とくらべ、追い立てられるようなあせり心地で仕事を進めた。(石山皆男『東海林の両親 利穎と利器』)

     先祖の記録をまとめ上げた後、皆男は両親兄弟妹の生涯の記録を書いた。この家族は日記手紙をこまめに書いており、その膨大な資料が皆男の手元に集められていた。それは維新で没落した東北の小藩の武士の家族が、奮闘努力しながら明治・大正・昭和を生き抜いた記録である。
     基本資料は皆男の文章だが、残念ながら家族以外についての記述が殆どない。経済ジャーナリストとして社会に関心がない筈はなく、敢えて書かなかったとしか思えない。最大の関心事は家の継続である。仕方がないので、その時々で私は想像するしかない。『岩城町史』やその他を参照しながら、また同時代を生きた人々の証言を交えることで、皆男が書かなかった、日本近代史を生きた無名の家族の背景にあるものを追いかけてみたい。

     東海林の読みについても書いておかなければならない。この苗字が最も多いのは山形県で、秋田他東北諸県に分布する。山形では九割以上がトウカイリンと読み、秋田県では九割以上がショウジと読むと言う。私たちは東海林太郎を知っているから当然のようにショウジと読み、トウカイリンには違和感があるが、ショウジはかなり特殊な読みである。知らなければ絶対に読めない。本来は庄司、荘司だったと想像される。荘園の現地徴税人、在地の小領主であろう。
     埼玉県立久喜図書館のレファレンス事例は、荘園の管理をする「庄司(しょうじ)」を務めた「東海林(トウカイリン)」氏が漢字を変えずにそのまま「ショウジ」を名乗ったとの説を紹介している。
     また東海(日本海)を渡って来た渡来人「林」氏であるという説もあるが、これはなんとなく嘘くさい。

     一族の歴史は亀田に始まる。秋田市から羽越線を南におよそ二十キロメートルのところ、江戸時代は岩城氏の治める二万石の城下町であり、羽州浜街道(国道七号線)の宿であった。駅から城下までは歩いて二十分程の距離になるだろう。松本清張『砂の器』で亀田の町を記憶している人はもういないだろう。結局、亀田は事件には無関係だったが。これは昭和三十年代前半の亀田の様子である。

     ・・・・・本荘で乗り換えて、亀田に着いたのは、十時近かった。駅は寂しかった。だが、その前の町並みは家の構造がしっかりしていた。古い家ばかりである。想像していたより、ずっと奥ゆかしい町だった。雪国なので、どの家も廂が深かった。(『砂の器』)

     明治八年(一八七五)八月十三日、亀田城下三十町が合併して亀田町が生まれた。その後、周辺の村との合併再編を繰り返し、昭和三十年(一九五五)七月、道川村と合併して岩城町となった。私が知っているのはこの岩城町時代で、平成十七年(二〇〇五)三月に、由利郡の周辺市町村と合併して由利本荘市の一部となった。
     一帯は出羽国由利郡であり、南に鳥海山を境にして庄内地方とはほんの地続きになる。この地方には広大な広がりを持つ平野がなく、また鳥海山を除けば標高の高い山もない。低い丘陵状の山地によって分断された盆地が散在する地形になっている。
     出羽の名は、和銅元年(七〇八)越後国の「出端(イデハ)」として庄内地方に出羽郡が置かれたのが始まりで、和銅五年に陸奥国の最上郡と置賜郡を合わせて出羽国としたものである。この地方は当初は飽海郡に所属したが、平安時代末期に飽海郡の北部三郷および河辺郡南部の川合、中山、邑知、田郡、大泉の五郷を割いて由利郡を建郡した
     戦国前期以来、安東氏、小野寺氏、大宝寺氏、最上氏の支配領域の間にあって、郷程度の領域を支配する由利十二頭といわれる武士団(矢島氏、仁賀保氏、赤尾津氏、潟保氏、打越氏、子吉氏、下村氏、玉米氏、鮎川氏、石沢氏、滝沢氏、岩屋氏、羽川氏、芹田氏、沓沢氏等)が分立し、時代によって勢力を消長しながら安東氏や最上氏に属したり離れたりしていた。
     関が原の功によって由利郡は最上氏が領有したものの、元和八年(一六二二)に最上氏は改易された。開城の使節として赴任していた本多正純が突然失脚し(理由は宇都宮城の無断修理)、宇都宮藩十五万五千石から由利の五万五千石へ減知とされたが、正純はこれを固辞して秀忠の逆鱗に触れ改易される。僅か千石を与えられて長男共々、久保田藩の佐竹義宣に預けられ、横手城に幽閉され一三年後に死んだ。本多正純の失脚は初期幕政時代の謎の一つであるが、宇都宮城の釣り天井等は事実無根のデマと考えて良い。秀忠側近となった土井利勝、酒井忠世等との権力争いが原因である。

     そして由利郡は分割され、佐竹義宣の甥・岩城吉隆が川中島一万石から亀田二万石に加増転封、常陸石岡府中一万石の六郷政乗が本荘二万石に加増転封、更に寛永十七年には讃岐十七万石を没収された生駒高俊が一万石の「賄料」で矢島に配流され、幕藩体制下での各藩が揃うことになる。
     大名には国主(国持大名)、準国主、城主、城主格、無城と格式が分けられる中、岩城氏は無城とされた。従って亀田城は正確には陣屋である。城主格に昇格するのは嘉永五年(一八五二)八代藩主・隆喜の時であり、幕末になって漸く亀田城と呼んでも良いことになった。
     藩主岩城の名の通り、岩城氏本貫の地は陸奥国の南部(福島県いわき市)で、戦国時代には伊達氏と佐竹氏との間で複雑な動きを強いられた。佐竹氏が関が原の戦いの後に久保田へ転封された後も佐竹氏とは関係が深く、初代亀田藩主の岩城吉隆は伯父である佐竹義宣の養子となって久保田藩二代佐竹義隆となる。逆に義宣の弟が岩城藩を継いで宣隆を名乗る。但しこの系統の血が絶えた時、仙台伊達藩から養子を迎えたのが四代、五代を継いだため、佐竹藩よりは仙台藩との結びつきを強めていく。これが戊辰戦争での亀田藩の去就を難しいものにした。
     二万石の大名にはどのくらいの家臣団がいたのか。『岩城町史』(岩城町教育委員会・一九九六年)によれば、寛永六年(一六二九)の記録で知行取り七十五人(内、百五十石以上の一騎衆が十五人)、足軽二百人、扶持米取り三十一人、御馬添衆四十九人、御女房衆三十六人、江戸定番之衆二十二人、その他鷹師、大工など十八人。合計で四百三十一人となる。一騎衆は騎乗を許される。大工も「家臣」の数に数えられている。
     五十三年後の天和二年(一六八二)には、知行取り百四人(内一騎衆が四十五人)、扶持米取り百九十七人、足軽二百十一人、江戸屋敷十八人、御料理方三十人、その他鷹師・大工等二十三人、あわせて五百八十三人と増えている。東海林正信もこの家臣増加に合わせて採用されたのであろう。
     知行は当初五ツ成高(収穫の五割)で与えられたが、寛文年間(一六六一~一六七三)の頃から四ツ成高に切り替えが行われた。そして時代を下るにつれて藩財政は逼迫の度を上げていく。

     宝暦十一年(一七六一)、三人の重臣を含む百人以上の亀田藩士が脱藩して久保田藩に逃げ出すという前代未聞の事件が起きた。百人以上と言えば家臣のほぼ四分の一に達する大事件で、亀田藩士秋田退散事件と呼ぶ。藩財政逼迫による俸禄削減への不満が原因である。久保田藩の調停で脱藩藩士等は帰藩したが、帰藩したものは処分しないとの久保田藩との約定を亀田藩が守らなかったため、十数年の間、両藩は絶縁状態に陥った。
     文政十一年(一八二八)から天保四年(一八三三)頃まで続く凶作(天保の飢饉)は、亀田藩をも例外なく襲った。天保五年正月、内黒瀬村からは「去年秋の内に根花・野老も掘り尽くし、松皮を食料にしたいから御立山の松の皮を下げて欲しい」と申請が出された(『岩城町史』より)。松の皮をどうやって食うのだろう。藩も様々な救済策を取ったが財政は苦しく、家中扶持方の一割上納も命じられた。
     この間、文政十三年(一八三〇)六月には、シーボルト事件に連座して幕府預かりとなっていた馬場為八郎の身柄が亀田藩に送られてくる。最初は座敷牢に幽閉したが、後には妙慶寺裏に小宅を建てて住まわせ、城下の人々との交流も許したという。馬場は長崎に生まれた通詞で、文化八年(一八一一)に蛮学世話係、十年(一八一三)に大通詞となっていた。遺骨は長崎に送られたが、妙慶寺境内に碑が建っている。

    和蘭大通詞馬場貞歴先生通称為八郎貞斎ト号ス 肥州長崎ノ人 資性俊敏ニシテ情誼二厚ク人ノ為二謁ツテ倦ムヲ知ラス
    嚢二幕命二依リ松前二航シ対露交渉ノ重任ヲ膺リ 英艦闖入ノ事アル毎二克ク其ノ機先ヲ制シテ甲比丹ヲシテ危地ヲ脱シムル等国際紛争ノ解決二致セル先生ノ功洵二大ナリ
    後年シーボルト事件二連坐シ文政十三年五月永牢申付ケラレ羽州亀田藩主岩城伊予守隆喜ニオ預ケノ身トナル
    爾来岩城家ノ厚遇馬場為八郎ヲ享ケ亀田人士ト交リ時二蘭書ヲ講ジ蘭医方ヲ授ケ家事食品二至ルマデ泰西文化ヲ我邦二伝ヘタル事蹟頗ル多シ
    天保九年十月十九日七十歳ヲ以テ逝ク

     出羽国の小藩に蘭学の香りを伝えた最初の人ではないか。ただ亀田での蘭学の系譜がこの後どうなったかは分からない。
     嘉永六年(一八五三)、ペリー来航に際して幕府は諸大名に意見を求めたが、亀田藩主隆喜は「不肖之私儀何分申上候存付も無之奉恐入候」と、考える能力がないことをあからさまに白状した。おそらく佐竹や伊達の指示に従うだけで生きてきたのだろう。この後も幕末維新の混乱の中で出羽国の小藩は時代の波に翻弄されて行く。
     但し幕末の岩城氏には気の毒な面もあった。嘉永六年に隆喜が死に、嗣子の隆永が家督を継いだものの翌年二十歳で死去。弟の隆信が養子となって跡を継いだが、その年の内に死去。弟の隆政が継いだものの文久元年二十歳で死去。家臣の養子になっていた隆邦十八歳を戻して藩主に付けた。数年の間に藩主がこれだけ代わると言う異常な時代に入っていた。

     わが東海林(ショウジ)家は、寛文の頃(一六六〇年代)に亀田藩三代藩主岩城重隆に徒士として仕えた東海林正信を初代として数える。最上氏の遺臣であったろうか。重隆の父は岩城宣隆、母顕性院は真田信繁の娘でありかつ豊臣秀次の孫である。明暦二年(一六五六)七月二十五日、父・宣隆の隠居により家督を相続した。
     仕官がかなった時、東海林正信の身分は僅かに二人扶持であった。一人扶持は一日当たり玄米五合、年間で一石八斗(俵に換算すれば五俵)を支給される。だから二人扶持は年間三石六斗である。ただ重隆の息女が大和柳生藩五代藩主俊方に継室として輿入れした時、正信の娘(宝珠院)が局として同行したことから運が開けていったようだ。藩主からその宝珠院の名跡をたてることを命ぜられ、二代正次は次子の正定を東海林本家三代目とし、長子の利正を東海林別家三代目と決めた。つまり別家は宝珠院の名跡ということになるのだろうか。
     これが元禄十五年(一七〇二)頃で、わが母はこの別家の血筋にあたる。カズは、藤原鎌足に始まる系図を見たことがあると笑っていたが、信じていた筈はない。江戸時代、家系を飾りたい大名や武士の要求に応じて系図を偽作する商売があったのは歴史の常識である。皇族や貴族と紐づけて粉飾するのである。
     取り敢えず、本家と別家の系図を写しておくことにする。皆男は過去帳や墓石、藩の記録を丹念に調べているから、これは信じて良いと思われる。東海林家の人は名前の読み方が難しい。通字には「正」か「利」が使われる。

     初代正信、二代正次は先に記した。
     本家三代 利正(正次の次子、五人扶持)
     四代 利雄(トシタケ、利正嫡男、用人・小頭・組頭)
     五代 左右兵衛利般(トシツラ又はトシハツ。玉山定好次男、家老永席五百石、岩城の苗字と家紋を許される。不調法退役減知三百石)
     六代 利年(トシカズ、左右兵衛六男、寺社奉行・小姓頭、「婿養子不届き」のため半地召し上げ百五十石)
     七代 利紹(トシツグ、白土祐蔵弟、寺社奉行・小姓頭、二百石)
     八代 利義(トシアキ、大□彦衛門次男)
     九代 利道(利義嫡男、十一郎。利義死後、別家の利穎に育てられた)
     十代 利雄(トシタケ、利頴次男)
     十一代 利明(トシハル、利雄嫡男)と続いた。

     別家の方は、
     三代 正定(二代正次の長子)
     四代 正國(正定の子、二人扶持)
     五代 正善(佐々木助之丞弟)
     六代 正茂(マサモチ、鈴木八郎兵衛弟)
     七代 正吉(マサヨシ、首藤清蔵弟)
     八代 利正(渡辺儀左衛門弟、中小姓)
     九代 利知(左右兵衛七男、百石高。但し本家不始末のため七十石減知)
     十代 利章(トシフミ、左右兵衛十男、大目付・郡奉行)
     十一代 正成(奥村省五三男、藩主上洛に従う、戊辰戦争で大砲奉行、維新後「蔀」と改名)
     十二代 利頴(トシヒデ)
     十三代 利生(トシナル、私の祖父)
     十四代 利孝(トシタカ、私の叔父)で絶えた。

     別家は八代利正が中小姓に立身して以来ほぼ百石前後、奉行になれば百五十石程度と考えてよいだろう。一騎衆に入るかどうか。上級ではないが、中級家臣の上位に位置すると考えられる。

     亀田藩は、北は久保田藩(佐竹氏)、南側は子吉川を挟んで本荘藩(六郷氏)、更に東は子吉川上流の矢島藩(生駒氏)と境を接している。このため、江戸期を通じて子吉川の舟運のいざこざも含めて国境の争論が絶えなかった。
     寛文十年(一六七〇)、亀田、矢島、秋田三藩の領地が入り組んでいる大沢郷での争論が幕府の裁決を受けた。延宝六年(一六七八)には秋田領女米木村と亀田領繋村との間にある牛厩館の田畑の帰属に関して争論が起こった。天和四年(一六八四)には真木山で亀田領の「女老・子供」が本荘領の川口村の住民といざこざを起こした。
     天明七年(一七八七)に本庄藩との子吉川舟運の役銭取立てに関して久保田藩、本荘藩との争論が起こった。寛政元年(一七八九)に幕府の裁定が出されたが、これを勝利に導いたのは、本家五代左右兵衛利般である。石山皆男は「オール東海林の偉人」と呼ぶ。

     この事件を担当したのが東海林左右兵衛であった。左右兵衛利般は天明五年に御本方役となり、寛政元年に子吉川争論が起きると事件の処理を命じられ、有利な裁決に持ち込んだ功績によって五十石の加増を受けた。その後大平庄兵衛の事件に関与するが、寛政十一年には家老二百五十石、享和元年一代御一門格三百石、同三年に五百石、文化二年には御一門席に列し、藩主隆恕の、恕の字を賜って恕利と名乗った。さらに同五年には隆の字を許されて隆利となり、同七年には遂に岩城の称号と家紋の使用を許可されるに至った。この間に真木山・女米木の各争論を有利に展開させて異例の出世を遂げたものであった。(『岩城町史』)

     しかし理由が分らないが、左右兵衛は晩年には失脚し蟄居を命じられた。九代利知の「本家不始末」とあるのは、左右兵衛失脚の影響だと思われる。
     万延元年(一八六〇)閏三月九日、東海林正成の家は喜びに沸いた。待望の男子が誕生したのである。東海林(別家)では五代正善から十一代正成まで、養子で家を繋いできた。それが漸く実子が生まれたのである。後の東海林別家第十二代利穎(トシヒデ)である。但し幼名は利行だったらしい。その後、利民、武治、武二と変えているが、明治十八年一月に利穎と改名し、その後はこの名で通した。煩雑なのでこの文章では利穎で通すことにする。
     七代も養子続きであった。家を守るというのはこういうことで、日本の家制度というのは、実はほとんど母系によって支えられてきたのではないか。これを思えば、万世一系なんていう神話を維持するためには、どれだけの魔術的な操作をしなければならなかったか。
     それがようやく男子が生まれた。第四代正国が死んだのが一七四七年、利穎の生まれたのが一八六〇年、この間まさに百十三年に及ぶ。
     この年、安政七年一月十八日、日米修好通商条約批准書交換のため、新見正興を正使とする遣米使節団が米軍艦ポーハタン号に乗って品川沖を出港していた。副使は村垣淡路守範正、監察に小栗豊後守忠順が同乗。護衛艦の咸臨丸は木村摂津守喜毅を司令官とし、艦長は勝海舟、木村の従者に福沢諭吉、通訳方にジョン万次郎が乗り込んだ。
     利穎誕生のおよそ一ヶ月前の三月三日には桜田門外で井伊直弼が暗殺され、安政から万延への改元がなされていた。十月十八日には孝明天皇が和宮の降嫁を勅許した。尊王攘夷運動の中で、公武合体派、討幕派が微妙に絡み合いながら幕末の混乱が深まっていく。出羽国由利郡までその空気が届いていたかどうか。

     利頴が生まれた百日余り後、生母豊(第十代利章の養女)は産褥熱で六月九日に死亡した。十八歳であった。十月には後添えとして直が入り、文久三年に娘の登喜が生まれた。しかしその妹も三歳で亡くなり、どんな理由があったか、直は慶應元年(一八六五)九月に離縁され、十二月には村田平兵衛應感の長女タツが三人目の母として家に入った。
     この頃の利穎の心情は、明治三十年三十八歳の時、亀田へ帰省した際の紀行文「みはかまうで(御墓詣で)」によく表れている。利頴の文章は国学者流の平仮名の多い雅文と、漢文脈のものと二つあって、私はこういう平仮名の多い雅文系統の文章は苦手だ。従って引用する際には適宜漢字に変え、改行を施すこともある。

     みはかまうで(御墓詣で)
     明治三十年一月廿二日午前九時頃湯沢町をうち立ち、故郷にむかひぬ。おのれ利頴生まれて百日はかりにして母に別れ、乳房の恵みいとうすく、祖母のふところに養しなはれ、乳母の乳房にはくくまれ、三つの年には乳母にはなれ、もはら祖母の恵みに人となれり。
     しかのみならず。生まれし年の霜月と聞きつれ、ままははを迎へられて四つの年に、いと美しき妹を儲けられ、中むつましく遊び暮らししを、六つと三つとになりにし年に、もかさの疫病はやりて、はらから枕を並べて、重き病ひに苦しめり。おのれは、死ぬるはかりの苦しみにたえたえて、僅かに生き残りしも、いと慈しめる妹は、かへらぬ道に旅立ちぬ。
     春は垣根に花をあさり、夏は青葉の中に遊び、秋は木の実をたもとに拾ひ、冬は白雪をもて遊びしを、思ひかへせは、幼なこころにも、いとかなしくて、もの憂かりき。病はよくも癒えず、かなしみはまだうすからぬ中に、六とせはくくまれし母は、夫婦のなさけ、まどかならぬにや、はたまた異なるわけのありつるにや、えにしの中たえて、別れいなんと聞きつれは、父に詫び、母に乞へとも、その甲斐もなく、きぬきぬの別れをこそ、なされぬ。
     その年の師走はかりなりけん、今の母(タツ)のきませるのちは、父母仲むつましくて、今の二人の妹も生まれいてぬれは、われもはらから睦びあひて、たのしき月日を、おくりむかえつ、年十五の春より祖母病の床に臥したれは、夜昼のけぢめなく、父母共に看取りつれと、定まれる命数にや、薬師祈祷の甲斐もなく、そのふみ月に、みまかり玉ひぬ。あはれ悲しきかも、母に遅れしみなし子の、やや人心つきぬれは、山より高く海より深き、恵みを報くはん心さわなるに、そのときを待たて、みまかりたまふは、なにゆゑにや、天に叫び、地に呼べとも、顕幽遠離、こたふるものなし。宇宙にさまよふ魂魄も知るや知らずや、御墓に詣づれは、秋風梢をはらふて物憂く、寺門をたたけは晩鴉声さびしく、ふちころもはぬきつれと、こころ晴れやかならず、七々の弔ひをおふれと、家門にまた笑ひをきかず、はるか内の恵みの、いたれるしるしならん。

       三十八歳で幼時を回顧し、これだけ纏綿たる文章を書く。ただ、この文体で人の心情を細やかに正確に語るのは、二十七八年の樋口一葉の天才のみが実現できたことで、一葉の死によって終わった筈だ。新しい文体は二葉亭四迷が発明し(『浮雲』明治二十年)、『あひびき』は独歩や藤村等若い文学志望者に衝撃を与えた。二十六年の国木田独歩『欺かざるの記』は自然主義の萌芽となり、三十年には尾崎紅葉『金色夜叉』が出ている。
     ただ新しい文体はまだ一般に普及してはいない。文章を綴る人の多くは、依然として旧来の文体を使っていたのだろう。時代とはいえ、「天に叫び、地に呼べとも、顕幽遠離、こたふるものなし」とか「秋風梢をはらふて物憂く、寺門をたたけは晩鴉声さびしく」等、形容が紋切り型で類型的であり、私は余り感動しない。私は近代主義に毒されているだろうか。
     利頴は生涯正成の三人目の妻になる継母タツに尽くした。ところで年齢については、戦前戦中は原則数えで、戦後は満年齢で表記する。
     三歳で夭逝した妹登喜の生まれた文久三年(一八六三)は、庄内の清川八郎が浪士組を組織して壬生に到着し、その分裂の中から新撰組が生まれた年でもある。八月から九月にかけては天誅組事件が起こった。登喜の亡くなったのが慶応元年で、明治維新はすぐそこにきているが、利頴の回想にはそうした時代の慌しさのようなものはまるで感じられない。
     しかし会津は違う。利穎誕生の一年前、安政六年には会津藩の上士・柴佐多蔵の五男として柴五郎が生まれていた。晩年になって五郎は回想する。

     慶應元年、余七歳の幼年のころなり、水戸浪士の一派、上野日光地方に騒擾すると聞き、父は南方日光口守備のため出陣せられる。邸内に多数の部下士卒あつまりて準備にせわしきさまを記憶す。(石光真人編著『ある明治人の記録』)

     慶應三年(一八六七)は明治文化史における八犬伝的な年であった。夏目漱石、宮武外骨、南方熊楠、幸田露伴、正岡子規、尾崎紅葉、斎藤緑雨が生まれたのである。勿論世の中の誰もこの時は知る筈もない。
     慶應四年(一八六八)四月、亀田藩主岩城左京大夫隆邦は新政府の上洛命令に応じて明治天皇に拝謁した。この時、利穎の父正成も随行している筈だ。亀田藩士が京都に上洛する機会は実に稀なことだと思われるが、記憶には何もでてこない。
     そして戊辰戦争が勃発した。戊辰戦争はどう考えても薩長の会津庄内に対する私怨であり、名分の立たないものだった。しかし名分にこだわり続けた東北は敗れ去る。

     この大義名分にたいする遵法精神というのが東北人の気質なのかも知れない。それに比して、西南雄藩の人間とか公卿たちは、そういう大義名分というものがだれかの都合によってデッチ上げられたものであることをよく知っていた。だからこそ自分たちがその「大義名分」を作り上げ、偽勅も作れば錦の御旗も尤もらしい顔をして織り上げて使った。
     そのある意味では権威蔑視精神の欠如が東北人を権謀術数の世界から遠ざけ、融通無碍な現実適応の才能を軽薄と看做して排斥させた。東北の自然の厳しさが人智の小賢しい抵抗を圧伏し、人間はひたすら自然との強調諧和に生きる道を求めるしかなかったための歴史的性格だったのであろうか。(綱淵謙錠『戊辰落日』)

     亀田藩の場合、確かに権謀術数の世界は遠かった。しかし遵法精神や名分と言うよりも、ひたすら強者の間で振り回されただけであった。佐竹と同様、当初は奥羽越列藩同盟に参加したが、五月になって総督府が久保田領に入ったことから情勢が変わって来る。秋田の佐竹は総督府に加担することになり、七月には亀田藩も同盟を脱退して庄内討伐軍に編成される。この間、亀田藩はひたすら自藩を「小国」と卑下し、小藩微力であり、かつ中世以来の友好と隣藩の誼で全て久保田藩の指示に従うと言ってきた。
     亀田藩は新政府軍の一員として慶応四年(一八六八)七月十日、庄内討伐を目指して出陣した。十三日、三崎山の庄内軍と交戦して死傷者八名を出す。十四日、沓掛松原で負傷者一名、十六日には三崎陣屋の総攻撃で十二名の死傷者を出し、中ノ沢まで撤退した。八月一日、庄内軍の急襲を受けて五名の死傷者を出し子吉の宮内まで撤退する。さらに各地に転戦するが戦況は回復しない。
     城下を戦火に晒さないため八月七日には、藩主を庄内藩へ預けること、秋田攻撃の先鋒を勤めることの条件で降伏を決定。藩主岩城隆邦は鶴岡城下に入り、庄内軍は十四日に亀田に入った。
     八月十八日、今度は庄内軍と一緒になって羽川村の秋田隊を攻撃、撃退したが、肥前隊の応援を得た秋田軍に押し戻され、道川まで後退した。十九日の勝手村での戦闘では亀田隊の大砲隊が活躍して敵を撃退した。正成は大砲奉行とされているので、この戦闘に参加していたと思われる。
     九月八日、明治と改元。薩摩藩兵が船川に上陸、十一日、椿台、十日、長浜で庄内軍は敗退した。列藩同盟でも九月五日に米沢藩、十日に南部藩、十五日に仙台藩が降伏した。十六日、庄内軍は撤退を開始し、二十一日、亀田城が焼き払われた。二十七日、岩城隆邦は総督府に降伏を申し入れ、ここ亀田藩の戊辰戦争は終わった。この経緯によって二万石のうち二千石を没収され、一万八千石となった。しかしこれは軽い処分である。会津藩二十三万石(実高四十万石)は明治三年に斗南三万石(表高)に移されたが、実高は僅かに七千三百石程度でしかなかった。
     この年、利頴は数えで九歳であり、何事かを感じた筈だが皆男の記録には現れない。皆男の記録に依拠する限り、この一族には政治的な方面への関心が余りないように思われる。
     柴五郎は十歳で戊辰戦争に遭遇し、生涯戊辰の恨みを忘れなかった。祖母、母、姉妹が自害し、会津降伏の後は極寒の斗南で極貧の生活を送らなければならなかった会津の少年と、城下が戦火に会わなかった亀田の少年とでは、戊辰戦争が人生に及ぼした影響は大きく違う。五郎は亡国の涙を流した人であった。

     余幼くして煩瑣なる政情を知らず、太平三百年の夢破れて初めて世事の難きを知る。男子にとりて回天の世に生まるること甲斐あることなれど、ああ自刃して果てたる祖母、母、姉妹の犠牲、何をもってか償わん。また城下にありし百姓、町人、何の科なきにかかわらず家を焼かれ、財を奪われ、強殺強姦の憂目をみたること、痛恨の極みなり。

     明治二年(一八六九)七月の廃藩置県で、秋田県内には秋田県、亀田県、本荘県、矢島県、岩崎県(湯沢)、江刺県(南部領域)が誕生したが、十一月にはその全てが統合されひとつの秋田県になった。明治の改革は急で武士はその職を失った。亀田藩士族二百二十五戸、卒族三百五十五戸。卒族とは、同心や足軽など名称は様々だが、要するに下級武士である。
     家族歴史研究家・歴史家・固有名詞学(人名学)・系図学研究者を称する岸本良信のホームページに、明治二年の「亀田藩五等士籍」『亀田藩分限帳・御侍中順帳 第1集』(岩城町教育委員会編 岩城町史編集委員会 一九七八年より)が掲載されている。
    https://www.kishimotoyoshinobu.com/%E4%BA%80%E7%94%B0%E8%97%A9/
     これは公族上士(御家門)三名、準上士一名、上士三十一名、中士四十二名、準中士七十五名、下士百八十一名、合計三百三十三名の名簿だ。この数字は、上述の士族二百二十五戸とずれがあるが、親子で士族に勘定される者がいると考えれば良いようだ。
     私の作文に登場する人物を探してみると、上士の中の十二位に町田義質(利器の初婚の相手町田義教の父か)、二十五位に東海林利紹(本家七代)、三十位に東海林利義(本家八代)、中士一位には後の亀田県権大参事・初代亀田町長の鵜沼国蒙、九位に村田應感(利穎の継母タツ、鵜沼国義の父)、二十三位に東海林蔀(別家十一代、利穎の父)、二十四位に奥村省吾(蔀の父)の名がある。また下士の四位に石山久成(利器や峰五郎の父)もいる。鵜沼は国蒙の他に七名記載されているが通称が多く特定できない。
     通称しか書かれていないのは下士に多く、まだ若い(家督を継いだばかり、あるいは部屋住みの)者の多くがここに位置していたのかと推測される。

     二年八月、妹のタマが生まれ、四年(一八七一)十一月にミワが生まれる。この頃柴五郎は下北の極寒の地で空腹に喘いでいた。

     「やれやれ会津の乞食藩士ども下北に餓死して絶えたるよと、薩長の下郎武士どもに笑われるぞ、生き抜け、生きて残れ、会津の国辱雪ぐまでは生きてあれよ、ここはまだ戦場なるぞ」と、父に厳しく叱責され、嘔吐を催しつつ犬肉の塩煮をのみこみたることを忘れず。「死ぬな、死んではならぬぞ、堪えてあらば、いつかは春も来るものぞ。堪えぬけ、いきてあれよ、薩長の下郎どもに、一矢を報いるまでは」と、自ら叱咤すれど、少年にとりては空腹まことに堪えがたきことなり。

     七月十四日、廃藩置県が命じられた。これにより羽後国には秋田県、岩崎県、本荘県、亀田県、矢島県、松嶺県が設置された。藩は県となり知藩事(旧藩主)は免職となり東京への移住が命じられた。そして各県には知藩事に代わって新たに中央政府から県令が派遣された。
     この時、青森県大参事になったのが熊本細川藩士の野田豁通(ヒロミチ)である。藩の物産方頭取・石光文平の三男として生まれ、野田淳平の養子となった。兄の子に石光真清、真臣がいる。有為の少年の育成に心を砕き、柴五郎(後陸軍大将)、斎藤実(仙台水沢藩士の子・後海軍大将)、後藤新平(水沢藩)などを庇護育成した。いずれも戊辰戦争の敗者の子である。
     斗南藩の選抜を受け、柴五郎は新たに設けられた青森県庁の給仕に採用された。これが野田との出会いであり、柴五郎の運の始まりであった。五郎は終生、野田の庇護に感謝を繰り返している。
     明治四年(一八七一)十一月、岩倉使節団に同行して上田俤子(安政二年生)、吉益亮子(安政二年生)、山川捨松(安政七年生。利穎と同年)、永井しげ(文久元年生)、津田うめ(元治元年生)がアメリカ留学に旅立った。上田と吉益は体調を崩して翌年には帰国する。五郎が初めて上京した時、その服装の余りのひどさに、山川浩の妻は捨松の着物を裁断して男子用に作り直して(但し柄は明らかに女子用)与えている。
     明治五年(一八七二)十一月、太陽暦の採用が決定し、十二月三日が明治六年一月一日となった。相当な混乱があっただろうが、元々、二十四節季七十二候は太陽暦に基づいていた。カレンダーはどうあれ、特に農村の生活にはそれ程違和感はなかったのではないか。江戸時代では早く寛政六年(一七九四)、大槻玄沢の芝蘭堂では西暦の元日に「おらんだ正月」を祝う会を開催していた。
     この年八月、「学事奨励に関する被仰出書」が出され、「学制」が発布され、大学。中学・小学の三段階が定められた。それに伴い亀田藩でも旧藩校〈長善館〉は廃止され、小学校設置までの繋ぎとして敬業義塾が作られた。しかしそれは僅かな間で、六年(一八七三)十一月には亀田、七年(一八四四)八月に二古、十一月に内道川等に小学校が設置された。
     教員資格を持ったものはどこにもなく教員は不足している。正成(改名して蔀)が小学校の教員(おそらく補助教員)となったのは、この教員不足のお蔭だ。武士として儒学漢学の素養があれば、取り敢えず間に合わせの教員になれたのだろう。
     教員資格者を早急に育成するため、秋田では六年(一八七三)五月に日新学校(九月に洋学校と改称)、十月に伝習学校(小学教員養成所)が設立された。但し日新学校と洋学校については、記録がやや混乱して、『秋校百年史』(昭和四十八年)によれば、県としての記録は残っていない。秋田高校関連の下記があるだけだと言う。

    〇六年二月始めて秋田東根小屋町六十一番地ニ変則小学一校ヲ設置シ、九月一日之ヲ変則英語学校トナシ日新学校と称す。(『秋田中学校校史』)
    〇明治六年九月一日、秋田市東根小屋町日新学校内に洋学科を増設、同月十七日、秋田市上中城町旧藩士邸にあった秋田伝習学校に合併。これが本校濫觴である。(『秋田県立秋田高等学校要覧』)
    〇明治六年九月一日本県に変則中学校を旧場内に設け日新学校と称す。是本校の濫觴なり。(『秋田中学校創立五十年記念号』)

     いずれにしろ伝習学校と洋学校は明治七年に統合して太平学校となり、校舎は東根小屋町明徳館(藩校)跡に新築された。伝習科(後の秋田師範学校)と洋学科(翌年、変則中学科に改め後の秋田中学)の二本建てである。
     六年四月、十四歳の柴五郎は新設の陸軍幼年学校に入学した。資産のない武士の子が軍人の道を志すのは王道であったが、まともに勉強したのは戊辰戦争が始まる前の十歳までである。その後は極寒の斗南での生活、青森県給仕、東京での下僕生活と、最底辺を生きてきた五郎は合格に一抹の不安を持っていた。合格の報を聞いて、受験から合格発表まで寄寓していた山川大蔵(元斗南藩大参事)も喜んだ。

     紺色のマンテルの裾、四月の風に翻り、桜花また爛漫たり。道往く人、めずらしき少年兵の姿を、とどまりて眺めささやくを意識し、得意満面、嬉しきことかぎりなく、用事もなきみ街々を巡り歩き、薄暮にいたりて帰隊す。余の生涯における最良の日というべし。

     創成期の国軍は、幕末から引き続いて全てフランス式を採用していた。教師はフランス人、教科書もフランス語である。
     慶應三年に生まれた漱石たちは、この一、二年で最初期の小学生になった。一方文久二年(一八六二)土佐国佐川町に生まれた牧野富太郎は、明治七年(一九七四)十四歳で佐川小学校に入学するも二年で中退する。それまでに名教館で受けていた教育と比べて余りにもレベルが低過ぎた。牧野の生涯の業績については今更触れるまでもないだろう。
     また明治三年(一八七〇)阿波徳島に生まれた鳥居龍蔵は、九年(一八七六)寺町小学校に入学したが高等小学の途中で中退する。自伝では尋常科を中退したとしているが、後に尋常科の卒業証書が発見された。鳥居の名は牧野富太郎ほど有名ではないかも知れない。二十一歳で坪井正五郎を頼って上京。明治二十六年(一八九三)二十四歳で東京帝国大学人類学教室の標本整理係に就いて以来、日本人のルーツを求めて東アジア各地を調査する。帝国大学理学部助教授(人類学教室主任)から新設の上智大学文学部教授となった。

     私は学校卒業証書や肩書で生活しない。私は、私自身を作り出したので、私一個人は私のみである。私は、自身を作り出さんとこれまで日夜苦心したのである。のみならず、私の学問も私の学問である。そして、私の学問は妻と共にし子供たちと共にした。これがため長男龍雄を巴里で失った。 かくして私は自ら生き、またこれからもこれで生きんと思う。かの聖人の言に《朝に道を聞いて夕に死すとも可なり》とある。私は道学者ではないが、この言は私の最も好む所で、街の学者として甘んじている。(鳥居龍蔵『自伝』。中薗英助『鳥居龍蔵伝』から孫引き)

     二人の無学歴者に追加すれば、慶応二年(一八六六)陸奥国鹿角郡毛馬内(南部藩)に生まれた内藤湖南は、秋田師範卒業の学歴で京都帝国大学文科大学教授になる。これは京都帝国大学文科大学長の狩野亨吉(大舘出身、慶應元年生)の招聘によるもので、狩野は幸田露伴、西田幾多郎なども招いている。
     そして秩禄処分が行われた。これまでは武士の家禄は減ぜられたとはいえ継続していたのだが、それが全面的に整理されることになったのである。当初は家禄を奉還したものに秩禄公債を与えたが、九年には金禄公債(一時金)を与えることで、以後一切の秩禄が廃止された。
     九年(一八七六)、利頴は蔀の命で小学校教員になるため太平学校に入学する。軍人か官吏でなければ、士族にとって手っ取り早いのは巡査か教員である。ただ巡査は余り人気がなかった。利穎は十七歳。おそらく十四歳までは旧藩校と敬業義塾で学んでいたと思うが、それから三年間はどうしていたのだろう。
     五月に入学して十一月には下等小学伝習科を終了して、直ちに湯沢の三梨小学校に四等訓導補として就職した。師範学校がまだ整備されていないとき(秋田師範ができるのは明治十一年)、伝習科の課程は下等(六ヶ月)、上等(八ヶ月)の促成教育であった。上等は下級修了者の中から選抜する。秋田師範ができてからは、小学師範科の修業年限は二年に改正される。
     訓導は現在の教諭に相当する。ただ文科省『学制百年史』によれば、当時の小学校教員免許には一等から三等までしかない。しかも年齢満二十歳以上と規定されている。四等訓導補とは、即席で育成された代用教員のことかと思われる。いずれにしろ三年限りの免状だから、正規の教員として生きるためには改めて師範学校に入り直さなければならない筈だ。

     明治五年の学制には、小学教員は年齢二十歳以上で師範学校卒業免状あるいは中学免状を有するものとしているが、これは目標を示すもので数年の後をまってこれを行なうとしていた。七年七月大約二十歳以上の者に全科の試験を行ない学力に応じて第一等・第二等・第三等の免許状を与えることとしたが、これを三年限りの証書とした。これが教員資格検定制度の最初であった。(『学制百年史』四 教員の資格・待遇)

     なお小学校八年間のうち最初の四年間を「下等小学」、残りの四年間を「上等小学」と言う。明治十九年の小学校令では尋常科四年と高等科四年になる。下等の課程は半年単位で八級に分かれている。一年生が八、七級、二年が六、五級、三年が四、三級、四年が二、一級である。一年生の最初の半年(第八級)でどんなことを教えたか。

    一日五字一週三十字ノ課程 日曜日ヲ除ク
    綴字(カナヅカヒ) 一週六字 即一日一字
    習字(テナラヒ) 一週六字 即一日一字
    単語読方(コトバノヨミカタ) 一週六字 即一日一字
    洋法算術(サンヨウ) 一週六字 即一日一字
    修身口授(ギョウギノサトシ) 一週二字 即二日置キニ一字
    単語諳誦(コトバノソラヨミ) 一週四字

     この程度ならば、武士の子として半年程度の促成教育でも対応できたのだろう。これが四年生にもなれば、万国地誌、日本史略、万国史略、手紙文(草書)、分数などになってくる。
     とにかく小学校の教員として利頴は収入の道を得た。まだ就学率は低く、亀田における明治九年の就学対象児童数は四百九十人、それに対して就学者数は二百五人でしかない。しかし今後急増することは目に見えていた。
     十月には神風連の乱、秋月の乱、萩の乱が続けざまに起こり、維新の余燼はまだ燻ぶっている。失業武士の不満は充満していた。しかし西郷と呼応する筈の計画が、西郷の逡巡と政府の挑発によって分散的に起こさざるを得なかったのが(そのように仕向けた大久保政府の策略)、決定的な敗因である。
     十年(一八七六)一月二十九日、西南戦争が勃発した。戊辰戦争の敗者の側からは、西郷軍に加担するもの、政府軍に加わるものと判断が分れた。日本を揺るがす大騒乱だと思うが、利穎には何の影響も与えなかったように見える。一歳上の会津の少年の思いは全く違う。

     真偽未だ確かならざれども、芋征伐仰せ出されたりと聞く。めでたし、めでたし。(中略)
     はからずも兄弟四名、薩摩打ち懲らしてくれんと東京にあつまる。まことに欣快これにすぐるものなし。山川大蔵、改名して山川浩もまた陸軍中佐として熊本県八代に上陸し、薩軍の退路を断ち、敗残の薩軍を日向路に追い込めたり。かくて同郷、同藩、苦境をともにせるもの相あつまりて雪辱の戦いに赴く、まことに快挙たり。千万言を費やすとも、この喜びを語りつくすこと能わず。(柴五郎)

     熊本の石光真清(慶應四年生まれ)は十歳、熊本城攻防戦の最中に戦争を見ようと薩摩陣地に迷い込み、薩軍二番隊長の村田新八に、「早く家に帰れ」と諭されている。真清の息子真人は、父の手記四部作(『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』)を纏め、柴五郎の遺書『ある明治人の記録』を編集刊行した。

     本山から迎町にかけては、大変な騒ぎで、長六橋に来てみると、附近は人で埋まっていた。
     おお炎々と燃える天守閣!窓から凄まじい火焔を吹いて、強風が黒煙を竜巻きのように、空高く巻きあげ、城下の街々へ火の粉を降らしている!強風にあおられて火勢はますますつのるばかりである。暫くすると天守閣全体が、一つの火の塊となって昇天するかのようである。(中略)二日にわたる大火で、城下の殆どが灰燼に帰してしまった。(石光真清『城下の人』)

     後、真清は士官学校に入るべく上京するのだが、士官学校の予備校受験に余り乗り気でない真清を心配した野田豁通の命で、既に任官していた柴五郎(近衛師団砲兵連隊付中尉)に預けられる。
     十一年(一八七八)二月、利穎は下浜の羽川(ハネカワ)小学校訓導となる。
     五月には内務卿大久保利通が紀尾井坂付近の清水谷において暗殺された。実行犯は石川県士族島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文、島根県士族の浅井寿篤であった。前年五月に死んだ木戸孝允を含め、ここに「維新の三傑」は全て死に、明治は新しい時代に入っていく。

     余はこの両雄(西郷と大久保)維新のさいに相謀りて武装蜂起を主張し「天下の耳目を惹かざれば大事成らず」として会津を血祭りにあげたる元凶なれば、今日いかに国家の柱石なりといえども許すこと能わず。結局自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情も涌かず、両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べり。(柴五郎)

     十二年(一八七九)二月、長浜小学校訓導。当時の小学校教員は町村当局と一年毎に契約することになっていて、待遇についての基準はなかった。利穎の場合、赴任先の町村によって月給は異なり、また資格や経験に応じて五円から九円まで変化した。同じ頃、十年から十二年の間、文久二年(一八六二)生まれの牧野富太郎は、佐川小学校の授業生(後の代用教員)として月俸三円を得たと言う。
     十三年(一八八〇)一月二十四日、父蔀が四十五歳で急死した。当時利頴は長沢小学校(湯沢)の訓導で、蔀は滝小学校の補助教員であった。滝というのは川大内村の最奥の僻地にあって、蔀は家族と離れて一人で赴任していた。二十歳の利穎は駒泣峠(現・由利本荘市岩城上黒川)の深い雪を踏んで遺体引取りに向かった。また滝からは大久保弘人(蔀の兄)が遺体を途中の新沢まで運んでくれた。
     蔀は甘いものに眼のない人で、普段から甘いもの食い競争などをしていた。それが胃潰瘍の原因になったのだと思われる。正月に餅食い競争をしたことが胃潰瘍を急激に悪化させた。新沢で人夫六人を雇って、橇に死骸を載せ山越えし、二十六日午前二時頃に亀田の実家に辿り着いた。

     自分の父(蔀)は江戸勤番並に禁裡守護などにて、相当の功績を挙げし筈なるも、それすらいまや拠るべき資料なし。元来自分の父は、丹念に日記をつけ居りし人にて、それが数多存在せしも、自分の不注意にて、転々居所を変へるとき一々持参せず。また考証複製為さず。そのうち亀田に残せし母の宅にて、如何様に扱はれしか、おそらく雨戸障子の張り紙となりしと思ふが、斯くして自分の幼少時代の資料は、遂に永久に雲散霧消したり。
     元来持ち歩きても、大した嵩でもなかりしに、たかだか自分の不注意により、この結果を招けり。注意はよく注意せよ。今日斯くの如き行事は、何人かよく記録に止めて、後世迷ふ処無からしめよ。(昭和四年、利穎古希の宴での挨拶より)

     利穎の関心はひたすら家の記録のことだけに向いているが、亀田藩が「禁裡守護」になったことはない筈だ。藩主上洛の際に随行したのをこう記憶していたものだろうか。
     このとき母タツ三十七歳、妹タマ十二歳、ミワ十歳。それに前年末に東海林本家が没落して、生まれてまだ十四ヶ月の遺児十一郎を引き取っていたから、利頴の肩に掛かる荷は重い。十一郎を引き取ったのは、本家再興の責任を負う決心をした蔀の遺志であった。

     我この時に至り、漸く父の死を覚悟し、生前の行為に徹して其志を継かんと欲し、之を告けんとするも亡者聞えず、母と妹は我必ず扶育して一人前に為すべし、安心あれと述ふるも亡者語らず。百感胸に沸き、百疑心に浮かぶ。覚むるも涙、迷ふも涙、涙尽きて血出つるも情尽きず、棺に椅りて号泣止むべからず。泣涕に泣涕を重ね、遂に棺側に倒れ寝たり、夢また亡父を逐ふて何処に至れる。(『利穎と利器』)

     利穎は徴兵年齢に達したが、父の死によって戸主となったため免除となった。また改正教育令によって、これまでの下等四年、上等四年の初等教育が、初等科三年、中等科三年の六年制になって、更にその上に二年間の高等科が設置された。七月から松本小学校に半年ほど勤めた後、明治十四年(一八八一)二月には亀田小学校に転任。
     これより以前、全国各地に民権結社が結成されていた。五日市では千葉卓三郎(村立小学校勧能学校長)が深沢権八等と私擬憲法「日本帝国憲法」を起草した。他にも全国で六十以上の存在が知られている。民権運動の潮流は亀田には波及していなかったか。しかし六月には秋田立志会の蜂起計画(秋田事件)が摘発されている。ウィキペディアによって概要をみることにする。

     事件をおこした秋田立志会は、明治十三年(一八八〇年)八月十日に設立され、秋田県の士族・農民二六〇〇人を組織し、国会開設運動に参加するなど東北において自由民権運動の有力な拠点となっていた。事件の中心人物となる柴田浅五郎は、一八八〇年三月十七日に愛国社が発足した国会期成同盟に参加するなど、自由民権運動に積極的に取り組んでいた。柴田を中心に明治十四年(一八八一年)五月頃から蜂起する計画を立て、資金調達のために銀行強盗を行い、同年六月十六日を期して地元秋田県横手付近の豪家を襲い警察署・郡役所・県庁を占領する予定であった。しかし計画が発覚し、明治政府は政府転覆を口実にし、柴田ら地元有志を検挙した。柴田は政府転覆の罪名で禁獄十年に処せられ、同じ罪名で十三名が一年から三年の軽禁錮の処分となり、さらに強盗罪で数名が無期徒刑に処せられた。
     計画を主導した柴田は平民農であり、実行の主体も貧農であった。柴田は農民の救済を実現するために蜂起計画を立てたと見られている。また、この事件は、自由民権運動の中で最初の蜂起計画と言われている。秋田立志会は弾圧で解体したが、後に秋田自由党が結成され、党員四〇〇人中三二〇人は柴田の出身地である当時の平鹿郡(現在の横手市)の農民であった。

     前田愛『近代読者の成立』によれば、明治十四年の政変で大隈重信が政府から追放されると、民権運動への対抗として儒教漢学が奨励された。上級学校進学をめざして上京した地方青年は、相次いで漢学塾に入り、出版界では漢籍の復刻が流行する。夏目漱石も東京府第一中学正則科を二年で中退し、この年には漢学私塾二松學舍に入っている。それに少し遅れて江戸戯作の翻刻ブームがやってくる。つまりこの当時の青年は漢籍や戯作を読んでいた。
     十五年(一八八二)五月、二十三歳の利頴は玉山虎之丞実信の長女クニと結婚した。左右兵衛の実家が玉山だからその縁者であろう。明治二年の亀田藩士の一覧の準中士に玉山実信の名が見える。しかし翌年八月には離婚すると同時に、何故か内道川小学校を依願免職した。理由は分らない。前年に定められた教員の能力検定が理由だったろうか。

    十四年一月三十一日「小学校教員免許状授与方心得」を定め、小学校教員の検定について規定した。これによって、学力の検定により初等、中等もしくは高等の小学科の免許状を授与し、有効期限を五年とすることを定めた。(『学制百年史』)

     この頃、教育に関わる法令や要領の改正が立て続けになされた。教育令の公布・実施(明治十二年)、師範教育における教職教養・教科専門・実地経験の重視(同)、集会条例の公布・実施による教員の政論禁止(明治十三年)、小学校教員心得の公布・配布(明治十四年)、学校教員品行検定規則の公布・実施(同)、教員免許の法的整備・実施(同)、現職小学校教員講習の奨励(明治十六年)。次第に促成で得た免許では通用しなくなっていったと思われる。
     十六年(一八八三)一月、妹のタマが小野長吉に嫁いだ。小野長吉がどういう関係になるか分からない。四月、内藤湖南が秋田師範学校に入学した。
     七月には鹿鳴館が落成した。会津藩山川浩の妹の捨松(大山巌と結婚)が「鹿鳴館の貴婦人」と謳われた。捨松は以後、「日本赤十字篤志婦人会」の発起人、華族女学校の設立準備委員、津田梅子の女子英学塾設立資金募集にあたる委員会の会長などを勤め、女子教育の発展に大きく関与することになる。
     利穎は一年間の無職の間に新たに追加の教員免許(種類は不明)を取得して、十七(一八八四)年七月に岩谷小学校に採用された。この小学校には五年間勤めることになる。ただ、それまで九円だった給料が五円に下っているから生活は苦しかっただろう。常識的に考えて二十歳を出たばかりの青年の給料で一家六人の生活を支えるのは容易ではない
     貨幣価値の比較は難しいのだが、いくつかの資料を参照すると、十円が今の十五万円程度ではないかと思われる。利穎の月給が五円とすれば七万五千円、七円でも十万五千円である。これで六人が暮らすのは無茶である。この年、亀田鶴岡沢の先祖伝来の居宅を手放したのは、収入不足をなんとか補うためだったのではないか。後に利穎はこのことを悔やんでいるが、生きて行くためにはやむを得ない措置であった。
     参考までに当時の物価を参照してみれば、明治十五年、白米十キログラムの値段が八十二銭という記録がある。但し二十年では四十六銭だから、十五年が異常に高く、普通の年であれば五、六十銭で白米十キロが買えた。しかし苦しかったのは東海林家だけだはなかった。

     十三年に米価の騰貴があって(中略)、さらに十二年十一月の火災(金兵衛火事)で二二七戸(士族一七〇戸)の延焼があり、十四年九月の火災(文四郎火事)では二〇〇余戸(士族六〇戸)が延焼してしまって、町全体が不景気に陥ったため金融も滞り、士族の窮状は「惨酷名状す可カラサル」状況を呈したとある。また士族五六〇名のうち自活し得る者三四八名(うち一〇五名は他所へ移住)、自活できない者二一二名(うち四十一名移住、扶助を受けたり離散する者二十三名)、商業に転じた者二十八名、工業は四十八名、農業二名と報告されている。(『岩城町史』)

     十七年(一八八四)三遊亭円朝『怪談牡丹灯籠』の速記版が刊行された。これ以降、人情噺や講談の速記本が盛んになる。これがやがて言文一致体に導かれて行く。
     十八年(一八八五)一月、これまで使用していた名前武二を利頴に改め、改名届けを提出し、二月にはクニと復縁する。松方正義のデフレ政策による不況がピークに達した。この年、東京女子師範の制服が洋服になった。
     五月、大井憲太郎らが朝鮮での革命を計画し(大阪事件)、六月には資金確保のための強盗を企画した大矢正夫に誘われた十八歳の北村透谷(明治元年生)は断り、民権運動から脱落した。そして夏には石坂ミナ(慶應元年生)と出会う。これが日本における西欧的「恋愛」の初めであった。後に島崎藤村等に強い影響を与える「恋愛」観念を、斎藤緑雨はバタ臭い野暮なものだと見做していた。緑雨にしてみれば、日本にあるのは色恋沙汰である。ミナの弟公歴(透谷と同年)は翌年大学予備門の受験に失敗しアメリカに渡ることになる。
     十九年(一八八六)三月、男子が誕生するが早世。同じ三月、帝国大学令公布、四月には師範学校令・小学校令・中学校令が公布された。
     二十年(一八八七)、長谷川伸(明治十七年生)の母親(かう)は子供二人を置いて家を出た。夫の寅の助が妾を家に入れる、しかも妻妾同居を持ち出し、その母親と喧嘩状態になっていた。母親は嫁に何と詫びれば良いかと悩みぬいていた。そこで伸の母は自ら身を引いたのである。伸(本名伸二郎)は四歳、三つ上の兄は秀(本名日出太郎)。長谷川伸が「瞼の母」に再会するのは四十七年後のことであった。

     祖母がいったのは、(中略)いつも言うことだが別れた母が恋しくなったら秀の顔を見ろ、秀はお前の母にそっくりだ、秀はああいう子だから大人になっても心配がないが、お前はそうでない、今のようでは行く末、畳の上では死ねなかろうと、涙声で言ったことです。(中略)
     母と秀の別れがどんなだったか、新コは知らない。新コは母と別れたときの憶えがない。(長谷川伸『ある市井の徒』)

     二十一年(一八八八)九月、二十七歳の森鴎外がドイツ留学から帰国した。追いかけて来日したエリスとの結婚は、両親(特に母親)の猛反対にあって断念せざるを得ない。留守家庭では既に海軍中将赤松則良の長女登志との縁談が進んでいた。母に逆らい家を裏切ることはできない。鷗外は儒教倫理と家長制度の中で苦しむ人であった。ところでエリス・ヴァイゲルトとして知られた彼女の本当の名は、二十一歳のエリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルトであることを、六草いちか『それからのエリス いま明らかになる鴎外「舞姫」の面影』(二〇一一年)が証明した。
     明治二十二年(一八八九)二月十一日、大日本帝国憲法が発布された。各地で生まれた私擬憲法は参照されることがなかった。その内容が発表される前から国民は沸き立ち、至る所に奉祝門が飾られ提灯行列が催された。民権家の多くもこの内容を評価したが、ひとり中江兆民だけは違った。

    全国の民歓呼の沸くが如し。先生嘆じて曰く、吾人賜与せらるゝの憲法果たして如何の物乎、玉耶将た瓦耶、未だ其実を見るに及ばずして、先づ其名に酔ふ、我国民の愚にして狂なる、何ぞ如此くなるやと、憲法の全文到達するに及んで、先生通読一編唯だ苦笑する耳。(幸徳秋水『兆民先生』)

     三月、長女小枝誕生。四月、黒瀬簡易小学校に転じるが半年で辞め、十二月にはどういう伝手があったものか、森林監守見習、秋田大林区在署、月俸七円の身分になった。最末端ではあるが農商務省の官吏である。一年契約の小学校の訓導では、いつになっても生活が安定しない。官吏ならば昇給も見込めるということで、これは家族にとっても有り難いことだった。しかし一方で営林署勤務は県内の山林のどこにでも転勤するから、一家揃った生活は難しくなり、必然的に二世帯を維持することにもなった。利頴三十歳であった。大林区、小林区については下記を参照する。

     国有林は、明治二年(一八六九)の版籍奉還により、それまで各藩が所有していた藩有林が、明治四年(一八七一)の社寺上知により、社寺有林が明治政府に編入され成立しました。明治六年(一八七三)の地租改正の一環として進められた「山林原野等官民区分処分法」により、明治九年(一八七六)から山林所有区分を明確化する官民有区分が実施され、我が国の森林の近代的所有権の導入が進められ、国有林は明治十四年(一八八一)に農商務省が創設され同省山林局の所管となりました。その後、明治十九年(一八八六)から二十二年(一八八九)にかけて、内務省所管の北海道国有林、宮内省帝室林野局所管の御料林がそれぞれ分離独立しました。
     農商務省所管国有林では、明治十九年(一八八六)に、大小林区署制度が制定され、京都、兵庫、静岡、三重、岐阜、岡山、広島、山口、福岡、大分、宮崎、鹿児島、和歌山、高知、愛媛、木曽、石川、茨城、宮城、秋田、青森の二十一大林区署、その下に百二十七の小林区署、六十七の派出所が整備され、本格的な国有林の管理と経営組織の整備が始まりました。なお、大林区署は長期施業案の編成、小林区署の監督等を実施し、小林区署は植栽、伐採、林道等の事業実行等を実施することとされており、それぞれ概ね現在の森林管理局、森林管理署に相当するものといえます。(林野庁『明治期の国有林野事業について』)

     二十三年(一八九〇)一月、女子が誕生するがこれも早世した。この後、二十四年九月に利器と再婚するまでの間に再びクニと別れるのだが、その年月日は皆男が記録していない。結局クニとの間にできた子で生き残ったのは、後に村井次郎に嫁いで北海道に渡る小枝だけだ。三人中二人が夭逝しているのだから乳幼児死亡率が非常に高い。
     二十九歳の鷗外が『国民之友』一月号に「舞姫」を発表したが、読者数は多くなかった。特に田舎では書店自体が珍しい存在だった。高等小学校一年に通う大杉栄(明治十八年生だから二十五六年頃か)が当時の新潟県新発田の書店について証言する。

     新発田から三四里西南の水原と云ふ町に、中村萬松堂と云ふ本屋があつた。そこの小僧だか番頭だかが、新発田に来て、或る裏長屋のやうなところに住んでゐた。それをどうして知つたのか、僕が多分殆ど最初のお客となつて、何にかの本を買ひに行つた。店も何んにもなくて、ただ座敷の隅に数十冊の本をならべてあつただけだつた。しかし、それまで本屋と云ふもののまるでなかつた、ただ或る一軒の雑貨屋が教科書と文房具との店を兼ねてゐるだけの新発田では、それでも十分豊富な本屋だつたのだ。僕はひまがあると其の本屋へ遊びに行つて、寝転んでいろんな本を読んで、何にか気に入つたものがあると買つて来た。(大杉栄『自叙伝』)

     大杉の父は陸軍将校で家庭は裕福だったから、本は何でもツケで買うことができた。これは当時としてはかなり恵まれた境遇である。
     明治十三年に岡山県倉敷に生まれた山川均は、「同志社に入って、私は初めて読書というものを学んだ」と言っている(前田愛『近代読者の成立』から)。同志社尋常中学校が創立されたのは明治二十九年である。その頃でも地方では本に触れることは稀であった。
     長谷川伸は横浜の公立吉田学校に入学したが二年で中退する。これが長谷川の唯一の学歴である。この後十五歳まで、横浜第二ドックの住み込み小僧、現場小僧、出前持ちなど様々な職業を転々とする。

     或る時、新コを大工の弟子にさせたらどうか、あんな者は、そうでもしてやらぬと将来が可哀そうだと、現場掛りがムダ話をやっているのを聞きました。あんな者といったのが、新コの癪にさわった。だれがクソ大工になんかなるかと決心しました。それでは何になると訊く人はなかったが、訊かれても新コは答えられない。志望をもつことを自分で発見するには、あまりに何も知らなかった。教えてくれる人もなかった。大人の中のこの独り小僧は、そういう意味では孤独でした。(『ある市井の徒』)

     反抗心から読書の習慣がつき、一時は夜学に通って漢文の読み方を習い、ルビ付きの新聞を読んで漢字を覚えた。
     利穎は一月には石見小林区署第三号官舎詰め、五月、森林監守。七月には判任官六等、月報十円と昇給する。これまでで最も給料の高い地位に就いたことになる。ただこの「判任官六等」が分らない。判任官は高等官(勅任官、奏任官の総称)の下に置かれ、一等から四等に分けられているので六等はあり得ない。「森林監守ハ判任官ノ待遇ヲ受ク」と規定されているが、期限数年の契約である。一般に巡査や下士官が判任官相当とされている。
     営林主事補、収入官吏、燐酸物品会計管理、林産物取扱主任と、順調に昇格した。
     藩政時代から秋田県は杉を重要な資源としており、能代挽材合資会社(後に秋田木材株式会社)は全国有数の木材会社となって、第一次大戦後はその所在地能代市は「東洋一の木都」とも称されるようになる。その供給源である森林を管理するのだから、産業に乏しい秋田にあっては、その社会的地位は比較的高いものと思われる。但し森林の国有化はかつての入会権を否定することにもなった。
     九月二十四日、石山次右衛門久成(石山本家八代)の娘である利器と結婚した。利器は明治二年五月三日生まれ、母は石山本家第七代次右衛門久毘の次女である。利頴三十一歳、利器二十二歳だった。
     利器も初婚ではない。はじめ町田義教と結婚して一男を産んだが、この子は二十四年五月に三歳で死んでいる。それが原因だったか、町田と別れた経緯は分らない。亀田に義母タツ、妹ミワ、本家継嗣の十一郎、長女小枝を置いて、利頴と利器は暫く岩見で新婚生活を送る。因みに利器の戸籍上の名はリキであり、漢字は利頴が与えたものだ。利発で器量よしということだろうか。実家の石山本家は藩政時代、勘定頭や祐筆を出した家柄で、維新後は戸長をも勤めた。

    そういう経歴だけに、利器の父親は、極めてやかましいキチンとした人であった。利器はその訓育を受けて家政では何事もキチンと処理し、他人に負けない強い気性をもっていた。後年、夫の留守する家庭を経営するに当り、親族からの褒辞と、夫からの訓翰と、こもごも至って、はては夫婦論議のもとにもなったようである。(皆男)

     先走って書くが、先代蔀正成の唯一人の男子として生まれた利頴は子宝に恵まれた。先妻クニとの間には小枝を儲け、利器との間には、五男三女を、儲けた。ただ、三女のうち、次女節(九歳で死)、三女カツ(生後七十日で死)の二人は早世した。五人の男子のうち、長男利生は家を継ぎ、次男利雄は本家を継ぎ、そのほかの三人は他家に養子に出ることになる。利頴の心情を皆男はこう書いている。

     これに対してひとり息子の利頴は、幼時、登喜と共に疱瘡にかかったが、命運強く生き残り、しかも十一人の子女を得た。六男五女を算する。このうち、幼児の早世は一男二女、ほかに九歳で早世した二女節を除き、五男二女の七人がよく育った。父利頴は、このことを心底から喜んでいた。自分は一家の経営に貧を極めたが、幸いに七人の子女を育て上げ、その数はまさに、先祖七代の養子の数に匹敵する。先祖に対し、報恩の一端を尽した、と喜ぶ。
     利頴の理論はさらに発展する。先祖に報恩したあかしとして、五男のうち継嗣の長男利生を残し、他の四男は後嗣に困却している縁者に養子として遣わす。この方針を次第に形成していった。
     二男利雄は数え歳三歳で本家東海林十一郎急死の後嗣に、三男皆男は明治四十一年(一九〇八)小学校一年のとき母リキの実弟末家石山峰五郎の養子に、四男弥生は大正十一年(一九二二)二十歳の時、母リキの姉の夫鵜沼国義の養子に、それぞれ提供した。また五男揚五郎は明治四十二年(一九〇九)小学一年のとき高橋完助氏の望みに応じ身柄ともども養家の生活に供与した。
     父利頴の子女養子入りは、生活の目的ではない。養子にやっても、それは概ね戸籍上のことで、子らの養育は依然として貧乏くらしの自力の中で育てた。世に対する奉仕の意味が根底にある。(皆男)

     十月三十日、教育勅語が発布された。利穎の観念は下記に抜き出したような内容に合致しただろう。儒教倫理が骨まで染みついた人であった。

    (前略)爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ(略)

     安倍政権時代、閣僚や右派有力政治家が、教育勅語を道徳の資料にしたいとか、教育勅語は普遍的である等と世迷言を言い出した。上に抜いた部分だけを見れば、取り立てて問題にすべき点はないように思えるし、自民党右派の唱える「伝統的」家族観に合致している。しかし勅語全体は、「我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」に始まり、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」の結論を導くものであることは誰が見てもすぐに分る。だから、戦後国会の議決で勅語は廃止されたのである。その時の衆議院の決議は、「主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ國際信義に対して疑点を残すもととなる」と断言したのだ。

     二十五年(一八九二)四月、羽根山小林区、十月本荘小林区と異動は頻繁に行われた。この間、八月二十三日には秋田市内の旭川が氾濫して大洪水をもたらしているが、県南地方には影響がなかったと思われる。
     二十六歳の夏目金之助は、大学生への徴兵猶予期限の直前に、北海道後志国岩内郡に戸籍を移した。この当時、北海道と沖縄は徴兵令の適用外とされており、徴兵逃れのためと見られている。漱石の名が、送籍の洒落だという説もある。

     理は此方にあるが権力は向うにあると云う場合に、理を曲げても一も二もなく屈従するか、又は権力の目を掠(かす)めて我理(わがり)を貫くかと云えば、吾輩は無論後者を択ぶのである。(『吾輩は猫である』)

     この年、長谷川伸(九歳)の祖父新造が死に、駿河屋は倒産した。父は伊勢佐木町近くに煙草屋兼小間物荒物の店を出し、伸が店番をしたが上手くいかない。兄は生糸問屋の小僧、祖母と継母は住み込みで働きに出た。ある日伸が目覚めると父はおらず、見知らぬ夫婦が店の主になっていた。父は店を居抜きで売り払って伸に告げずにどこかに出て行った。伸はそのまま店で働くことになった。
     二十六年(一八九三)二月、次女節が誕生し、四月には西明寺小林区に異動する。半年単位で異動はするものの、生活は順調に安定するかと思われた。
     ところがこの年一月に政府が提出した予算案は、軍艦建造費を大幅に削減することで衆議院議了。政府はこれに不同意を表明した。内閣弾劾上奏案が可決されるなど議会は荒れたが、二月七日、「在廷ノ臣僚及帝国議会ノ各員ニ告ク」詔勅が出され、「内廷費を除き六年間毎年三十万円下付、文武官俸給一割の同期間納付により建艦費の補助とする」ことが決定した。つまり、官吏の俸給人員を一割削減して軍艦を建造するということで、翌年始まる日清戦争を準備するためであった。
     おそらくこれにひっかかったに違いない。二十七年(一八九四)四月、利頴は休職を命ぜられた。判任官とは言っても実は数年期限の契約社員と同じである。おそらく秋田師範に通って本科準教員の免許を得た。準教員とは正教員を補助する者である。これでもまだ準教員だから、教員として出世する見込みはない。

     二十三年の小学校令では本科教員と専科教員、正教員と准教員との区別について規定した。これに基づいて二十四年五月八日正教員、准教員の区別による従来の免許状の移行措置について定め、同年十一月十七日には小学校教員検定等に関する規則を定めた。この規則によって、検定は甲種認定と乙種試験に区分し、認定の対象者、試験の科目とその程度などを詳細に定めた。また正教員免許状は終身有効、准教員免許状は七年有効とした。(文科省『学制百年史』)

     七月二十五日には日清戦争が開戦した。宣戦の詔勅は「朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ」と、朝鮮の完全な独立開放を目的とすると謳ったが、単なる文飾に過ぎないことは誰にでも分かる。朝鮮を日本の傘下に組み入れ、権益を拡大することが目的である。しかし当時の日本人の殆どはそんなことは考えていない。メディアが報ずる勝利の戦闘や幾多のエピソードに熱狂するばかりだった。

     私はもう七歳にたっしていたのであるが、戦争そのものに関する記憶ははなはだ漠然としている。私は例の絵双紙で原田重吉の玄武門破りや、安城渡で戦死したラッパ卒白上源次郎や牛荘の紫外線で左手に支那人の捨て子をかかえ右手に剣をふるう大寺少将の雪中奮戦の光景を想見し、また学校で習った黄海の海戦、水雷艇の旅順口夜襲などの軍歌によって、わずかに戦争のありさまを想像したにとどまっている。(荒畑寒村『寒村自伝』)

     十歳になった大杉栄の父・大杉東は大隊副官として出征した。その父から手紙が届いた。

     或る日僕は学校から帰つて来た。そしていつもの通り「ただ今」と云つて家にはいつた。が、それと同時に僕はすぐハッと思つた。母と馬丁のおかみさんと女中と、それにもう一人誰れだつたか男と、長い手紙を前にひろげて、皆んなでおろおろ泣いてゐた。僕はきつと父に何にかの異常があつたのだと思つた。僕は泣きさうになつて母の膝のところへ飛んで行つた。
     「今お父さんからお手紙が来たの。大変な激戦でね。お父さんのお馬が四つも大砲の弾丸に当つて死んだんですつて。」

     幸い父は負傷もせずに凱旋する。死んだと思った馬も傷を負っただけで戻ってきた。
     この頃、樋口一葉は小説でなんとか母子三人の生活を維持しようと苦労していたが、原稿はなかなか売れない。下谷龍泉寺町に荒物屋兼子供相手の駄菓子を売る小店を開いたが、毎月の収入は平均して七円がやっとであった。

     一家三人で月七円という樋口家の生活水準は、もはや貧民の域にあるといえる。しかし、一葉をして貧民街に堕さしめず、きわどく市井に踏みとどまらせたのは、士族の娘としての、あるいは没落したプチブルの家長としての誇りであり、文筆の才能へのひそかな自恃であった。(関川夏央『二葉亭四迷の明治四十一年』)

     松原岩五郎が東京の貧民窟の凄惨な実情を報告したのは前年のことである。日雇労働者の賃金は平均して一日十八銭、二十五日働いて四円五十銭にしかならない。煮炊き用の薪も少量で買えば相対的に高額になるから、残飯屋の供する残飯を待つ。岩五郎が働いたのは、士官学校から出る残飯を仕入れて貧民窟に運んで売りさばく店である。ある時、仕入れるべきものが全くなかった時は、こんなものまでも仕入れた。貧民窟に運べば、ちゃんと売れるのである。

     「もし汝がさほどに乞うならば、そこに豚の食うべき餡殻と畠を肥やすべく適当なる馬鈴薯の屑が後刻に来るべく塵芥屋を待ちつつある」と。余がそれを見し時に、それは蔗類を以て製せられたる餡のやや腐敗して酸味を帯びたるものと、洗いたる釜底の飯とおよび搾りたる味噌汁の滓にてありき。(松原岩五郎『最暗黒の東京』)

     日雇仲間にて妻子あるものは、瘦世帯ながら家を持ちて裏店に蟄居し、日々の庖厨に事を欠きながらも一家の主人として世に立つなり。その日計をいえば日に二十銭、白米二升五合の代にして薪の高き折には大把五束、これにて家族三人の口を育う。

     日に二十銭で二十五日働けば月に五円。これに女房の内職を足して六円、七円になるかどうか。しかし一葉の七円と言う金額は利穎の月給とそれほど大きく違わない。家族の数は利穎の方が多い。東京と秋田の物価の差が大きいのだろうか。

     休職中の二十八年(一八九五)一月二十三日、嫡男利生(トシナル)が生まれた。東海林の家を繋ぐ大事な長男だが、失業している時に子供が生まれた父親というのは、どんなことを考えるのだろうか。同年の生まれに、きだみのる、伊藤野枝、谷川徹三、金子光晴、翌年には林達夫、翌々年に三木清がいる。
     東京では樋口一葉が「文学界」に『たけくらべ』の連載を始めていた。前年十二月の『おおつごもり』から数えて、一葉奇跡の十四ヶ月が始まった。
     二月、妹のミワが和田忠吉に嫁いだ。一人生まれて一人出て行ったわけだが、とにかく就職しなければならない。岩谷小学校準訓導の辞令まで出たが、四月には農商務省から森林監守の辞令を受けて湯沢小林区に赴任する。一年間で済んだとはいうものの、休職期間は給与がないし復職後の月俸も八円に下ったから、利頴一家の生活は相変わらず苦しい。
     これから十年間に及んで湯沢小林区管内の県南勤務が続く間に、森林監守から営林主事補、森林主事と昇進していった。漸く生活は安定した。文章家としても知られ、いずれは湯沢小林区の署長になるのではないかという周囲の噂を皆男が記録しているが、身内の贔屓目か本当にそうだったかどうかは分らない。ただ利頴には朝寝坊の癖が抜けず、それが理由で署長の道は達成されなかったとも書いている。

     利頴の学や書は、当時、同輩のなかでも秀でていたようである。書については古今和歌集をきれいな字で上下二冊に写本したのが残っている。文については、公式の文書で多くの下書きが残っている。明治二十年二十八歳から、廿八年三十六歳にいたるまで、祝辞、式辞の勤務先の公文案や、趣味の紀行文など、これを一括して「俟斧鄙文」と題し保存している。そういう頼まれ文章は、引退後の大正十五年まである。文は自ら好むところであり、勤務先にも大いに貢献したようである。後に明治四十四年福島県庁に林業技手の職をえたとき、斡旋してくれた先輩の手紙に、相手の人は「東海林君なら学のある文章家だと聞いている」という次第で、斡旋にも有力と報じている。利頴の文章技倆は、営林関係の人たちの間でも、かなり広く知られていたようである。

     この時代の「文章家」とは、定型文の型に従って、挨拶文や祝辞などをうまく書ける人と言うほどの意味だと思われる。意地悪く言えば、紋切り型を使いこなす人である。勿論それは良い意味にもなる。現代文明の大きな問題の一つは型(規範)が失われたことでもあるのだ。
     四月十七日、日清講和条約が締結された。李氏朝鮮の清国への服属を解消、遼東半島などの割譲、賠償金支払い等の成果を得て、戦争は儲かると日本人の意識に植え付けた。賠償金は七年年賦で二億両(約三・一億円)である。当時の国家予算が八千万円だからその四倍である。

     かの政府の挙動は兎も角も、幾千の清兵はいずれも無辜の人民にして、これを鏖にするは憐れむべきがごとくなれども、世界の文明進歩のためにその妨害物を排除せんとするに、多少の殺風景を演ずるは到底免れざるの数なれば、彼等も不幸にして清国のごとき腐敗政府の下もとに生れたるその運命の拙きを、自から諦むるの外なかるべし。(福沢諭吉「日清の戦争は文野の戦争なり」)

     清国兵を殺すのは「世界の文明進歩のためにその妨害物を排除せんとする」ことだという福沢の説は余りにどうかと思えるが、殆どの日本人は日清戦争を肯定した。しかし勝海舟は違った。

     日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も喰はないヂやないか。たとえ日本が勝ってもドーなる。支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分からぬに限る。支那の実力が分かったら最後、欧米からドシドシ押し掛けてくる。ツマリ欧米が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。(勝海舟『氷川清話』)

     一方、三国干渉によって遼東半島の領有は反故になり、「臥薪嘗胆」の気分も醸成された。そして清国が「眠れる獅子」ではないことが、西欧列強に充分に認識されたのも、この戦争の結果であった。

     国民はどんな艱苦欠乏を忍んでも、いつかは今日の国辱をそそがなければならぬという気概に燃え、臥薪嘗胆というスローガンがもっとも卑怯な者の精神をも奮い立たせた。日本は強くならなければならぬ、それには大いに実業を興して国を富ませなければならぬと、富国強兵が一代の支配的な世論となるに至った。私の燃えやすい心がこのような風潮に刺戟されて熱烈な忠君愛国主義に傾いたことはいうまでもない。(『寒村自伝』)