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    東海林の人々と日本近代(二)明治篇②

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2022.07.30

    二十九年(一八九六)六月に三陸大津波が起きたかと思えば、八月三十一日は六郷地震(秋田・岩手両県にまたがるため陸羽地震とも)がおきた。マグニチュード七・二。死者二百九人、負傷者七百七十九人、家屋全壊五千七百九十二戸、半壊三千四十五戸、山崩れ九千八百九十九箇所。当然、湯沢小林区で働く利穎の業務にも大きく影響した筈だ。

    九月、妹タマの夫小野長吉死去。翌年三月にはタマも死んだ。不幸は一度に押し寄せてくる。そしてその遺児、ヨシと利兵衛の養育が問題になり、利穎はヨシを引き取ることし、利器に一方的に通告した。


    利兵衛は家を継ぐ大事の一人、これは親類中にて徳行才智の人を選び、その成長を頼むべし。われははたしてこれに当るや。親類の目にみさだむべし。ヨシは女子なれど、父母なき子として、人並みに育てんには、また難きわざになんある。然れども、この子を養ふは、小枝を養ふと同じければ、あまり難きこともあらざらん。いつれも親類のはかるにまかせん。十一郎人となれは利兵衛くるか、ヨシくるか、われもよく人の子を育つるものぞ。これも何かの因縁ならんと覚悟しにければ、これはつらくもあらじ。くる子には、あまりつらきめ、みせたくなきものなり。家内の難儀は思ひやれど、われか、そもじか、長吉(タマの夫)どのや、たまのしあわせにあわぬにくらべなば、いと易し。この心にてはぐくまん、はぐくむものと、あきらめ給へ。


    秋になった頃、二十六歳の田山花袋は渋谷村に住む二十七歳の国木田独歩を訪ね、その机に二葉亭四迷訳・ツルゲーネフ『かた戀』を発見した。独歩は留守だったので花袋はその部屋に寝そべって『かた戀』を読んだ。そして翌日、独歩に手紙を書いた。


    昨日は君は留守だったが、『かた戀』があったので、それを読んで、静かに君の家で半日暮らした。いろいろなことを考えた。忘れられない一日だ。(田山花袋『東京の三十年』)


    『かた戀』には表題作の他、『寄寓(めぐりあひ)』と『あひびき』が収録されていた。新しい文体が生まれ始めていたが、まだ花袋も独歩も世に出る前である。独歩は『あひびき』)に深く影響され、雑木林の美しさに目を開かれた。後に『武蔵野』(明治三十一年)を書くことになる。独歩が感激したのは次の文体である。そして文体は同時に人生であることも彼らは了解したのである。


    秋九月中旬というころ、一日自分がさる樺の林の中に座していたことがあッた。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生ま煖かな日かげも射して、まことに気まぐれな空ら合い。あわあわしい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思うと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、むりに押し分けたような雲間から澄みて怜悧さかし気げに見える人の眼のごとくに朗ほがらかに晴れた蒼空がのぞかれた。自分は座して、四顧して、そして耳を傾けていた。木の葉が頭上で幽かすかに戦いだが、その音を聞たばかりでも季節は知られた。それは春先する、おもしろそうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌でもなかッたが、ただようやく聞取れるか聞取れぬほどのしめやかな私語の声であった。そよ吹く風は忍ぶように木末を伝ッた。照ると曇るとで、雨にじめつく林の中のようすが間断なく移り変ッた。あるいはそこにありとある物すべて一時に微笑したように、隈なくあかみわたッて、さのみ繁くもない樺のほそぼそとした幹は思いがけずも白絹めく、やさしい光沢を帯び、地上に散り布いた、細かな、落ち葉はにわかに日に映じてまばゆきまでに金色を放ち、頭をかきむしッたような「パアポロトニク」(蕨の類い)のみごとな茎、しかも熟えすぎた葡萄めく色を帯びたのが、際限もなくもつれつからみつして、目前に透かして見られた。(『あひびき』)


    しかし利穎にはその時代思潮は届いていない。おそらく利穎が文学書を手にすることなどなかっただろう。「読売新聞」には尾崎紅葉が文語体の小説を掲載していたから、そういうものは読んでいた可能性がある。この五月には樋口一葉の『通俗書簡文』が博文館から刊行された。当時の人々の通常の文体感覚はまだそういうものだった。

    十一月二十三日、樋口一葉が本郷丸山福山町の家で死んだ。銘酒屋、安待合の並ぶ新開の色街の真ん中である。肺結核、二十五歳であった。十一月の初め、馬場孤蝶が勤務先の彦根(中学の英語教師)から見舞いに帰京した時、冬休みに会うときは「石にでもなつて居ませうか」と重態の一葉は答えた。鷗外が騎馬で棺側に従いたいと申し出たが、妹邦子が断った。

    葬儀の手配や残された家族を支援したのは斎藤緑雨である。緑雨は文壇の嫌われ者であったが、最晩年の一葉が特に信頼した男である。生涯、言文一致体には背を背け、独特なアフォリズムを残した。

    三十年(一八九七)一月、海南新聞社員の柳原極堂が松山で『ほととぎす』を創刊した。雑誌名は正岡の俳号「子規」に因んだ。選者は正岡子規(慶應三年生)、高濱虚子(明治七年生)、河東碧梧桐(明治六年生)、内藤鳴雪(弘化四年生)であった。鳴雪は旧藩主久松家の常盤会の寄宿舎の監督時代、寄宿生として入寮してきた二十一歳下の子規の弟子になったのである。

    六月、利器が利生の任地皆瀬村で同居を開始するため移転した。この直前の利頴と利器との間の手紙のやり取りが記録されている。例によって平仮名を少し漢字に改めてある。


    ○夫より妻へ。 明治三十年四月十七日付。
    (前略)会ひ会ふこともこの春と、心にしめて、待ちにしを、ゆくりなく妹の不孝(タマ三月十日死)、ひきこし(妻の任地移転)とても、いかにすべきよ、またまたひとつの考へところなり。まづ、母上と子供三人(小枝、節、利生)亀田にあらば、何ほどの入り目なるや、此方にてもひと竃月々四、五円のいり目となる。亀田にてもまた四、五円のいり目となれば、行くも帰るもならぬなり。そもじ引越しは、このいり目をきめたる上のことと、諦めくださるべし。しかるに一、二ヶ月参り候ことはいつにても差し支へなし。その路用は(省略)三円のいりめなる。われも会ひたきこともあり、そもじも語りたきこともあらは、参らるべく、まいらるるやういたさるべし。(下略)

    ○六月十三日付の妻への手紙
    ここへまいられ候との事にて、いろいろ心掛け、待ちにまたれ候ことは、葉書にても見まいらせ候。送金も(中略)近きころ、送りつかはすべし。(中略)相談のみにて、立かへるなれは、荷物もいらざれど、ともすれば近くおるということなり。寝道具は、持ちまいらるべし。道すぢは、天気見はからひ、本荘より稲庭まで。車にて通すべし。(中略)稲庭の太三郎のおくらは、なにも頼みおけば、はばかりなく相談なさるべし。もし金のふたくなどしたるときは、このものならで相談するものなし。(中略)あとは金おくるとき申しつかはすべし。あらあらめてたくかしこ ひで
    六月十三日 おりきとの江

    ○妻へ旅路指導  六月廿三日付
    一筆申入まいらせ候。しかれは廿一日の玉つさ見まいらせ候ところ、この月のはじめより、いろいろ心配かけ候こと、くわしく申きけられ、お気の毒にぞんじ候。このたびは、いよいよ金六円おくりさし上候まま、天気見はからひ出立なさるべく候。くわしきことは、あい見ての、のちに申べく候。(中略)秋田通りなれは国道筋、十文字まで参り、それより増田へ半里、増田より八面へ一里、八面より稲庭へ二里なり。また本荘通なれば、本荘より老方へ七里、老方より雄勝郡大沢まて四里、大沢より平鹿郡浅舞まで二里半、浅舞より十文字まて一里半なり。ゆゑに本荘より稲庭まで十八里ばかり。本荘より湯沢まで十七里はかりなれは、なるべく本荘より一日にまいるやうにすべし。(中略)道中子をつれたる女旅なれは(利生三歳同伴)、よくよく心つけらるへし。悪く辛抱して、人に憎まれぬやう、また、うかうかして人にだまされぬやうにすへし。車引きへも一宿一銭か二銭の酒手を惜しむなかれ。舘合より大沢の山越は三、四銭の酒代も惜しむなかれ。酒代も、ならば前はらひすべし。しかし、はらひかたの上手下手はその人の機転なり。よくこころせよ。又利生のくひものは用意すべし(下略)


    実に情緒纏綿として、移動の道筋にも細かな気配りを見せている。これが結婚して六年経った夫婦の手紙である。もともと利頴が筆まめだということもあるが、利器にしても良く書いている。皆瀬村は湯沢の南東方面にあり、今でも鉄道は通じていない。その道を三歳の利生を抱えて徒歩または人力車で行かなければならない。亀田にはタツ、節、ヨシが残った。

    この年は足尾鉱毒被害農民が大挙して東京に陳情に来る(押出)等、鉱毒被害が世間の関心を惹き起こした。政府は数度に渡って鉱毒予防令を発したが効果はない。農商務大臣陸奥宗光の次男潤吉が古河市兵衛の養子になっているのだから、抜本的な対策を打つ積りはない。明治二十四年(一八九一)に帝国議会での田中正造の質問に答えたのも陸奥である。

    二十六歳の島崎藤村が『若菜集』を出版した。日本浪漫主義を代表する詩集で、「初恋」は私の好きな詩である。「信州りんご発祥の里」と称する〈やまだい農園〉によれば、信州におけるリンゴの栽培はこの年から始まったとしている。リンゴはまだ珍しい果物であり、作中にリンゴをあしらったのはハイカラでもあった。


    三十一年(一八九八)七月三十一日、次男利雄(トシタケ)が生まれた。三十二年(一八九九)七月、本家の遺児で利頴が義弟のように可愛がって育てた十一郎利道が、秋田師範を卒業して象潟小学校の訓導の職を得た。

    男子は、二十歳から三年間は現役兵として強制徴兵される。十一郎は戸主であった筈だが、二十二年(一八八九)の徴兵令改正で、戸主に対する免除規定が廃止されていた。しかし教員に対する優遇措置があって、師範学校卒業生で教員となった者は、現役六週間の優遇措置があった。

    これで漸く肩の荷が下りたと思ったのも束の間で、僅か一年後の三十三年(一九〇〇)七月、十一郎が二十一歳で死んだ。六週間現役召集の終業とともに腸チブスに罹ったのだ。


    腸チフス、サルモネラの一種であるチフス菌 (Salmonella enterica var enterica serovar Typhi) によって引き起こされる感染症の一種である。感染源は汚染された飲み水や食物などである。潜伏期間は七~十四日間ほど。衛生環境の悪い地域や発展途上国で発生して流行を起こす伝染病であり、(後略)(ウィキペディア)


    当時の軍隊の衛生環境がいかに劣悪であったか。三十二年には全国的に赤痢が流行し、死者は二万三千七百六十三人に上っている。三十年四月に伝染病予防法が公布され、五月に施行されてはいたが、まだ日本全体に衛生思想は普及していなかった。

    東海林本家を絶やさないため、利頴は利雄を十一郎の養子とし、東海林本家十代当主と定めた。と言っても東海林本家は実体がなく、三歳の利雄の生活は今までと変わらない。


    日清戦争後、繊維工業を中心として、この頃に日本資本主義が本格的に成立したとみられるが、それと並行して各地で労働運動が多発していた。これに対し三月、政府は治安警察法を制定した。

    四月には二十八歳の与謝野鉄幹(明治六年生)が『明星』を発刊した。ここから北原白秋、石川啄木、木下杢太郎、吉井勇等が輩出する。八月には鉄幹が講演会に出席するため大阪の平井旅館に止宿した。そこに二十三歳の鳳晶子と二十二歳の山川登美子が訪れた。この頃、鉄幹には籍は入れていないが林滝野という妻がいて妊娠中だった。そして『明星』発刊の費用は滝野の実家から出ていたのである。

    八月十四日、義和団と清国兵が北京の列国公使館を攻撃した時、六十余日の籠城戦の実質的総司令官となったのが北京駐在武官だった柴五郎中佐で、その沈着冷静な指揮が各国から賞賛された。この時に英国公使の知遇を受けたことが、後の日英同盟締結の際に大きな力となった。帰国後、五郎は講演を行い、それが『北京籠城』(平凡社・東洋文庫)に収められている。


    戦略上の最重要地である王府で日本兵が守備の背骨であり頭脳だった。日本を補佐したのは頼りにならないイタリア兵で、日本を補強したのはイギリス義勇兵だった。日本軍を指揮した柴中佐は、篭城中どの仕官よりも優秀で経験も豊かであったばかりでなく誰からも好かれ尊敬された。当時日本人と付き合う欧米人はほとんど居なかったがこの篭城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範としてみんなの目に映るようになった。日本人の勇気と信頼性そして明朗さは篭城者一同の賞賛の的になった。城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本人だけである。(ピーター・フレミング「北京籠城」、村上兵衛『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』より)


    八月二十五日、三十二歳の石光真清は念願のロシア留学がかない、ウラジオストックに到着した。田村怡与造大佐、武藤信義大尉、町田経宇大尉と相談の上、東部シベリアのロシア軍根拠地のあるブラコヴェヒチェンスクで学ぶことに決めた。


    私はこの地に留学するについて、特別任務を志願したわけではなかった。しかし歴史の流れ、時のゆきがかりは、疾風のように私を巻き込んでしまったのである。私を馬賊の群に投げこみ、女郎衆を友として、或る時は苦力に、ある時は洗濯夫に、またある時はロシア軍の御用写真屋になって全満州に辛酸の月日を送ろうとは、夢にも思わなかった。それを考えると、歴史の起伏のうちに漂う身一つは、黒竜江に流れる枯葉一葉にも当らない思いがするのである。(石光真清『城下の人』)


    この年、徳富蘆花が「国民新聞」に『不如帰』の連載を開始した。蘆花は誰がモデルであるかすぐ分るようにあからさまに書いたので、世間はこれを大山家のスキャンダルとみて囃し立てた。特に悪役にされた捨松への誹謗や陰口が酷かった。捨松の曾孫に当たる久野明子は書いている。


    私の祖母留子もおしゃまな末娘「駒子」として登場する。祖母は時々「国民新聞」に連載されたこの小説を読み、世の中には随分と自分と似た境遇の人もいるものだと思ったという。しばらくして、既に嫁いでいた次姉の芙蓉子から「ママちゃんには決して見せてはいけませんよ」とそっと渡された本を読んで初めて大山家の人々がこの小説のモデルとなっていたことに気付いたのである。そして、祖母は小説の中で余りにも捨松が悪く書かれすぎていることにひどく傷つけられ怒りを覚えたという。

    生涯日本語の読み書きに苦労した捨松が『不如帰』を読んだかどうかは疑問であるが、小説の内容をそのまま信じ込んでいる世間の人達の陰口や中傷は、いやでも捨松の耳に入ってきた。日本の社会は「出る釘は打たれる」の諺通り、捨松のように人と違った経験をし、優れた能力を持った人間、とりわけ女性に対しては拒絶反応を示しひどく風当りが強いところである。この『不如帰』騒動で捨松はそのことをいやというほど思い知らされ、晩年になるまで心に深い傷として残った。(久野明子『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』)


    十一月十五日、押川春浪(明治九年生)が『海島冐險奇譚 海底軍艦』を出版し、好評を得てシリーズ化する。ジュール・ヴェルヌ『海底二万マイル』の翻案で、日本海軍が秘匿する潜水艦に少年が乗り込んで、海軍軍人と共に冒険する物語だ。日本SF小説と冒険小説の先駆であるが、ロシアを仮想敵国とする設定は、反ロシア感情を子供たちに植え付けたと言ってよいだろう。


    大沢良雄の「押川春浪と冒険小説」(〈オール読物〉昭和十八年二月号)には、「この一篇が当時の青少年の心をどんなに強く捕へたか、それは今日では全く想像も出来ない程大きなものがあつた。第一当時の人々は心からこのやうな痛快な物語を求めていたのである。(中略)斯る秋に当たりこの痛快な物語が公にされたのだから全国の青少年が争つて貪り読んだことは云ふ迄もない」とあるが、この言葉は決して、オーバーなものではなかったろう。(横田順彌・会津信吾『快男児・押川春浪』)


    九月には三十七歳の津田梅子が一番町に女子英学塾を開いた。初年度の生徒は僅か十人であった。


    三十四年(一九〇一)四月、利生は学齢に達したので亀田に帰郷し亀田小学校に入学した。この学校は創立以来百四十年を経過し、平成二十六年(二〇一四)三月末日を以て閉校する。

    四月、成瀬仁蔵(安政五年生)が日本女子大学校を開校した。大学校とは言うものの、高等女学校を卒業した者を受け入れる修業年限三年の専門学校である。この大学校から後に『青踏』が生まれる。この頃、全国の高等女学校は五十二校、生徒一万二千人であった。余程恵まれた家庭の者でなければ、大学校には入学できなかった。

    八月、亀田の家でタツに育てられていた節が死んだ。九歳であった。利器の日記を見てみる。利器は三年前から利穎の勧めで日記を書くようになっていた。


    明治三十四年九月(夫四十二歳、婦三十三歳)三日 
    亀田より小包着せり(中略)節の身あか(垢)つきたる、このほど大きくなりたる着物を見て、胸いっぱい又ふさかるばかり。母上様は御なんぎしておそだて下されし。今ここにその人ならで、ぬきからを見る事、只かなしくあはれなり。今日夫は機嫌よからず。昨夜より、なににもかににもここと(小言)いわれ、立所なきまでかなしく、一と入あわれなり。あまりあまり、かなしめば、又夫に叱られるかと思ひ、なみたを忍びてこらへ居り。此も皆私のふつつかよりおこるならんと思へと、心ぼそい為、しるしおく。数年たたば、子供等に見せしもかなと思ふ。(下略)


    八月十五日、与謝野晶子『みだれ髪』発行。晶子の歌は和泉式部の熱情、奔放に通じるだろう。道徳的に受け入れられないという批判が轟々と起こったが、上田敏は「詩壇革新の先駆として、又女性の作として、歓迎すべき価値多し」と評価した。『青踏』の先駆けでもあった。発行時は鳳晶子だったが、十月には正式結婚して与謝野晶子になる。


    その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな
    清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき
    やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君
    むねの清水あふれてつひに濁りけり君も罪の子我も罪の子
    くろ髪の千すじの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる
    人の子の恋をもとむる唇に毒ある蜜をわれぬらむ願ひ


    この頃、旧派と呼ばれた主流派は幕末の香川景樹に繋がる桂園派(高崎正風が復興)であり、古今和歌集を重んじて平易な調べを重視した。一葉の師の中島歌子は系譜とすれば江戸派(賀茂真淵直系、萬葉集を重視)に属する筈だが、歌風としては桂園派に近い。

    江戸時代の和歌は古今伝授によって煩瑣なルールが定められ沈滞していた。江戸の短詩系文学の代表は俳句であって和歌ではなかった。そこに景樹は、自然な心持を平易に歌って良いと宣言した、当時の改革派であった。三浦雅士は、『八犬伝』の登場人物が頻りに懐旧の情を催すのと同じく、景樹は故郷や懐旧の情を発見したのだと言う。


    景樹の歌は確かに、素直すぎ、平板にすぎる。かくして、明治の唱歌の基調を形成したこの景樹の歌の調べは、文学史の上では抹殺されたわけだが、しかし、明治の唱歌から大正昭和の流行歌へと流れてゆくのである。(三浦雅士『青春の終焉』)


    しかしはっきり言って、この派の歌は面白くない。一葉の読者でも、その歌を読む人は殆どいないだろう。利穎の歌は明らかにこの旧派であった。そして次第に新派の勢力が盛んになってくる。


    明治三十三年頃の歌壇の情勢は、落合直文の浅香社がすでに自然消滅し、そこから派生して「明星」を出していた与謝野鉄幹の新詩社と、佐佐木信綱の竹柏会と、「日本」に拠る正岡子規の根岸短歌会とが中心をなしていた。(中略)これ等の歌人たちは、それぞれ和歌の革新を志していて、各派の間の対抗意識はあったが、それはまだ表面化していず、友好的な間柄にあった。(伊藤整『日本文壇史』)


    十二月十日、明治天皇臨席のもと第十六回議会の開院式が終了し、議事堂を出た天皇の列に田中正造が直訴状を奉じて飛び出した。田中は即座に取り押さえられたが、狂人の仕業として罪に問われることはなかった。文章は幸徳秋水が下書きしたものである。


    伏しテ惟ルニ、東京ノ北四十里ニシテ足尾銅山アリ。近年鉱業上ノ器械洋式ノ発達スルニ従ヒテ其流毒益々多ク其採鉱製銅ノ際ニ生ズル所ノ毒水ト毒屑ト之レヲ澗谷ヲ埋メ渓流ニ注ギ、渡良瀬川ニ奔下シテ沿岸其害ヲ被ラザルナシ。加フルニ比年山林ヲ濫伐シ煙毒水源ヲ赤土ト為セルガ故ニ、河身激変シテ洪水又水量ノ高マルコト数尺、毒流四方ニ氾濫シ、毒渣ノ浸潤スルノ処茨城・栃木・群馬・埼玉四県及其下流ノ地数万町歩ニ達シ、魚族斃死シ、田園荒廃シ、数十万ノ人民ノ中産ヲ失ヒルアリ、営養ヲ失ヒルアリ、或ハ業ニ離レ飢テ食ナク病テ薬ナキアリ。老幼ハ溝壑ニ転ジ、壮者ハ去テ他国ニ流離セリ。如此ニシテ二十年前ノ肥田沃土ハ今ヤ化シテ黄茅白葦田間惨憺ノ荒野ト為レルアリ。


    十二月三十一日、皆男が生まれた。皆瀬村で生まれたから皆男と言う実に安直な命名である。

    三十五年(一九〇二)利穎は横堀小林区に転勤し、横堀保護区官舎に住んだ。皆男の記憶では奥羽街道の本通りに出れば湯沢町にも近く、環境も生活も豊かになっていた。

    この年、小学校就学率が漸く九十パーセントを超えた。翌年からは国定教科書が使われることに決まった。前田愛『近代読者の成立』は、この少し前頃から日本人のリテラシーが向上し、音読から黙読へと、読書のあり方が変化したと言っている。明治二十年代前半まで、家長が声を出して読み、それを家族が聴いているのが一般的な家庭の読書に対する態度であった。利穎は『太平記』が好きだったと皆男が証言しているが、家族を前に読み聞かせていたのだろう。黙読の成立は、茶の間から個室へと移って個人の独立にもつながって行く。

    九月十九日、正岡子規が根岸の家で死んだ。三十六歳。漱石は英国留学中だった。子規は、ほとんど忘れられていた蕪村を再発見し、古今集ではなく万葉集を高く評価した。ただ万葉以降は源実朝のみと言い切るのは、少し無理があるだろう。子規の根岸短歌会は後の『アララギ』に継承される。


    十八日の頃であったか、どうも様子が悪いという知らせに、胸を躍らせながら早速駆けつけた所、丁度枕辺には陸氏令閨と妹君が居られた。予は病人の左側近くへよって「どうかな」というと別に返辞もなく、左手を四五度動かした許りで静かにいつものまま仰向に寝て居る。余り騒々しくしてはわるいであろうと、予は口をつぐんで、そこに坐りながら妹君と、医者のこと薬のこと、今朝は痰が切れないでこまったこと、宮本へ痰の切れる薬をとりにやったこと、高浜を呼びにやったかどうかということなど話をして居た時に「高浜も呼びにおやりや」と病人が一言いうた。依って予は直ぐに陸氏の電話口へ往って、高浜に大急ぎで来いというて帰って見ると、妹君は病人の右側で墨を磨って居られる。(河東碧梧桐『子規言行録』)


    やがて妹の律が紙と筆を持ってきた。これに子規が書いたのが絶筆三句である。


    糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
    痰一斗糸瓜の水も間に合わず
    をとひのへちまの水の取らざりき


    子規の仕事の内、『日本』俳句欄の選者は碧梧桐が、『ホトトギス』は虚子が引き継いだ。しかし二人は後に対立して別れ、碧梧桐は自由律を追い求めることになる。虚子は経営者としての手腕を発揮し、碧梧桐は純粋に芸術しての俳句を追求した。碧梧桐の実験がなければ、放哉も山頭火も生まれなかった。


    十一月、盛岡中学五年生の石川啄木十七歳は、代数の試験で落第点を取ったのに憤慨して中退し、最初の上京を試みる。渋谷村の新詩社を訪ねて与謝野鉄幹、晶子の知遇を受けた。啄木は既に天才少年と目されていた。ただ病を発症して半年で盛岡に戻った。

    長谷川伸は十九歳。明治三十二年に父が土木建築業の下請け人として独立してから、伸はその手代として働いていた。この年、父が渥美半島の新田後事を引受けたが金繰りがつかず、そのため地元の業者の反感を買った。父が金策に行っている間、伸は寝込みを襲われ日本刀で斬りつけられ右手にけがをした。更に林の中に誘い込まれ、猟銃で三発狙撃されたが幸い弾丸は逸れた。この事件で父は倒産する。

    黒岩涙香(文久二年生)訳『噫無情』が出版された。「万朝報』はスキャンダルを種にすることで部数を伸ばしてきた。涙香はこれまでに『鉄仮面』、『白髪鬼』、『幽霊塔』、『巌窟王』等を『万朝報』に掲載し、人気を博していた。涙香は多趣味で、五目並べを「連珠」と名付け、競技カルタのルールを定めたりもした。

    三十六年(一九〇三)三月一日、四男弥生が誕生した。しかし利器の乳の出が悪く、乳母に預けざるを得なかった。皆男は利穎の日記を引いる。


    三月三日 晴 弥生の三日の産湯にて朝まだきより産婆と専太郎の妻と来り、すべてのものことを整へ、ととこほりなく祝ひ済みぬ。夫(自分利頴のこと)は今日の昼より役所にいで日くれにかへる。三日の産湯をおへたるに産婦は乳の張りたらぬとて向の奥山なにがしの婦の乳あるを頼み弥生にのませたり。もしもの用意に、メルキ(練乳)と哺乳器とをかひととのへ、この夜はそれをもちひて産児の呟音をととめたり。

    三月七日 晴 けふは弥生の七夜なれば、向の専太郎の妻に手紙をたのみ、ものこしらへして祝をなす。産婆も来りて母子にゆあひさせたり。


    結局、弥生が預けられたのは、院内銀山で働いていた塩谷吉松の家である。これが弥生の人生を決定した。


    母の日記によると、吉松の家とは、たえず往来している。弥生乳母と共に遊びに来たとか、食いそめに来たとか、また当方からは弥生の家に寄って日をくらしたとか、弥生は吉松と祭り見物にきたとか、頻繁に行き来している。乳母の名はおさよといった。それにおかねという人がいた。乳母とおかねはよく同道して来た。おかねは、どういう関係の人か判らないが、弥生の生家では、ともに気安く、留守や手紙を頼んでいたようである。

    明治三十七年一月になると、父利頴は横堀から湯沢小林区に転勤となり、湯沢町の官舎に引っ越した。自然、弥生の家との往き来は、少し間がのびたが、それでも二タ月に一度くらいは、弥生の家から訪ねてきている。乳母代は月二円であった。日記には、ちちけ代二円払うと記している。「ちちけ代」とは乳を呉れてやる代金という意味である。弥生の吉松とか、横堀の吉松とか、近しい呼称でその来訪を日記に記している。(皆男『鵜沼弥生』)


    十月三十日、尾崎紅葉が死んだ。明治十八年に硯友社を立ち上げ、まだ江戸以来の戯作や講談速記本などで満足していた文学界に新しい波を起こした。勿論その先駆は坪内逍遥だが、文学は大学を出た者が生涯をかけるに足るものであることを、一部の若者に普及した功績は大きい。しかし二葉亭に始まり、独歩や花袋によって更に新しい文学運動がおこり、紅葉は既に古びてしまっていた。

    数ヶ月前から紅葉重態の噂が流れていた時、丸善の事務所に内田魯庵を訪ねて紅葉がやって来た。魯庵は三十四年から丸善『学燈』の編集長になっていた。紅葉が丸善に来たのはブリタニカを買うためだったが在庫がなく、センチュリーを買った。その三ヶ月後、紅葉は死んだ。


    普通ならば医者から三月しか寿命のないのを申し渡されて死後を覚悟すべき時である。(中略)病気のためにも病床の慰みにも将た又死後の計の足しにもならないこういう高価の大辞典を瀕死の間際に買うというは世間に余り聞かない噺で、著述家としての尊い心持を最後の息を引取る瞬間までも忘れなかった紅葉の最後の逸事として後世に伝うるを値いしておる。(内田魯庵『思い出す人々』)


    三十七年(一九〇四)二月、日露戦争が勃発した。前年六月に戸水寛人や国際法学者など七博士が、日露開戦を唱える建白書を桂内閣に提出し、六月二十四日にはその全文が新聞紙上に掲載されたが、この時点では開戦論は少数派だった。万朝報では幸徳秋水、内村鑑三、堺利彦が非戦論の論陣を張っていた。しかし次第にメディアの論調は開戦論一辺倒となっていく。

    そして横須賀の海軍造船工廠で木工部の見習い工として働いていた十八歳の寒村荒畑勝三は、幸徳、堺の「万朝報退社の辞」に感激して社会主義者の道に踏み込んでいく。


    ・・・・・・今や、社会主義は私にとって見ぬ恋ともいうべき憧れの的となり、わずかに一斑をうかがい知ったにすぎぬその思想すら、すでにキリスト教によって大いに動揺ながらなお今日まで私の心に燻っていた忠君愛国の観念を、天来の霊火をもって灼きつくすような感激と熱狂を湧き立たせた。(『寒村自伝』)


    『万朝報』を退社した幸徳や堺は『平民新聞』を発行する。その中で幸徳秋水は書いた。


    行矣(ゆけ)従軍の兵士、吾人今や諸君の行を止むるに由なし。
    諸君今や人を殺さんが為めに行く、否ざれば即ち人に殺されんが為めに行く、吾人は知る、是れ実に諸君の希う所にあらざることを、然れども兵士としての諸君は、単に一個の自動機械也、憐れむ可し、諸君は思想の自由を有せざる也、躰躯の自由を有せざる也、諸君の行くは諸君の罪に非ざる也、英霊なる人生を強て、自動機械と為せる現時の社会制度の罪也、吾人諸君と不幸にして此悪制度の下に生るるを如何せん、行矣、吾人今や諸君の行を止むるに由なし。


    嗚呼従軍の兵士、諸君の田畆は荒れん、諸君の業務は廃せられん、諸君の老親は独り門に倚り、諸君の妻兒は空しく飢に泣く、而して諸君の生還は元より期す可らざる也、而も諸君は行かざる可らず、行矣、行て諸君の職分とする所を尽せ、一個の機械となって動け、然れども露国の兵士も又人の子也、人の夫也、人の父也、諸君の同胞なる人類也、之を思うて慎んで彼等に対して残暴の行あること勿れ。


    嗚呼吾人今や諸君の行を止むるに由なし、吾人の為し得る所は、唯諸君の子孫をして再び此惨事に会する無らしめんが為に、今の悪制度廃止に尽力せんのみ、諸君が朔北の野に奮進するが如く、吾人も亦悪制度廃止の戦場に向って奮進せん、諸君若し死せば、諸君の子孫と共に為さん、諸君生還せば諸君と與に為さん。(『平民新聞』明治三十七年二月十四日)


    二月から五月にかけて実施された旅順港閉塞作戦は失敗する。旅順攻略戦は、乃木将軍の愚劣な二〇三高地攻撃命令で多大な死者を出した。

    四月十三日、本所横網町の陋屋で齋藤緑雨が死んだ。三十七歳。この頃馬場孤蝶は一葉日記の刊行について相談するため、度々緑雨を訪れていた。死の前々日、孤蝶を呼び出し、『万朝報』への死亡広告を口述した。「僕本月本日を以て目出度死去致候間此段広告仕候也。」もしかしたら翌日幸徳秋水が来るかも知れないというので、念のためもう一通を孤蝶が書いた。

    そして緑雨は樋口邦子から預かっていた一葉の日記や草稿を孤蝶に託した。その二日後に緑雨は死んだ。戒名は幸田露伴が「春暁院緑雨醒客」と付けた。

    私たちが一葉の日記を読むことができるのは、緑雨と孤蝶のお蔭である。


    不遇と言い切ってさしつかえのないその短い生涯の故に、緑雨の才の大部分を、シニカルな屈折した精神を土台として求める試みが、これまでの緑雨観の殆どすべてであったように思うが、私には、緑雨が好んだ江戸の風味というものを基盤として、もう一度その文章を見直したとき、そこには意外なほど明るくのびやかな、遊び心がのぞいているように思われてならない。(中野三敏『緑雨警語』)


    十一月十五日、三女カツが生まれたが、翌一月に死んだ。

    三十八年(一九〇七)一月、利穎は荷揚場小林区に転出。四月、利生は高等小学校に上がった。明治の学校制度は改変が多くて分り難いが、この当時は尋常四年、高等四年の制度である。

    軍事面でも財政面でも戦争遂行が困難になっていた日露戦争は、九月九日、何とか講和条約調印に結びつけた。戦争中のメディアは挙って圧倒的勝利の報道をしており、多くの負担を強いられてきた国民は講和の条件に不満を抱いた。そしてその内容に憤り、日比谷焼き討ち事件を惹き起こす。メディアについてはこんな指摘もある。


    当時、最も早くニュースを伝達するメディアは新聞しかなかった。新聞が家族に一紙以上と言う形で読まれるようになり、一戸一戸に早朝配達されるシステムも、国民全体を巻き込んだ総力戦としての日露戦争の中で確立されたのである。

    各新聞社は、電信網や電話網といった最新の電気通信メディアのネットワークを、戦場と主要都市の間で整備し、新型の大量印刷用の機会を導入する等、莫大な設備投資を行った。しかし、それを回収しないうちに、戦争が終わってしまったのである。桂首相系の『国民新聞』をのぞいて、新聞各社が日露戦争の講和に反対したのは当然のことであった。(小森陽一「近代国家の形成と文壇ジャーナリズム」伊藤整『日本文壇史』十一巻解説)


    民衆の不満の種は単純である。戦争は儲かるものではなかったのか。富国強兵の国家目標とは何であったか。これによって国民の意識に大きな変化が生まれた。歴史学は、この日比谷焼き討ち事件を大衆の登場とし、やがて護憲運動、普選運動へつながるものとする。

    松本三之助『明治精神の構造』から徳富蘇峰の論評を孫引きする。


    日本は三十七八年戦役迄は、所謂る国是なるもの、厳然として存在したりき。官民を問筈、文武を論ぜず、凡そ日本国民として、以心伝心的に、此の国是の遂行に、孜々汲々として、努力猛進するを以て、其の職分と心得ざる者なかりし也。具体的に云へば、二十七橋年役後の国民的屈辱を雪ぐは、我が国家□面の目的にありつる也。而して其の結果は、之を三十七八年やくに於いて見たり。是と同時に、我が日本帝国は、殆ど其の国是を失墜去れり。(徳富猪一郎『大戦後の世界と日本』)


    そして松本は、蘆花や二葉亭の言葉を引用しながら、次のように結論付ける。


    たしかに四〇年間張りつめ続けた緊張が、今ここで結びの意図が切れたように一挙に弛緩しはじめたというところであろう。精神の弛緩と思想の攪拌。戊辰詔書(明治四一年一〇月)が発せられ、国民道徳論や家族国家論が唱導されるのは、そうした時代状況の克服をめざす政府側の必死の試みを示すものであった、もはやそこから多くを期待することは困難であった。(中略)それははからずも明治の終焉を告げる弔鐘となった。(松本三之助『明治精神の構造』)


    九月、十九歳の荒畑寒村は紀州田辺の『牟呂新報』記者になった。月給十円で、六円の下宿に住んだ。翌年一月、六歳年上の菅野須賀子がやってきた。そして寒村が『平民新聞』記者として上京するのと交代するように編集主任となる。上京後、須賀子から何度も手紙を貰い、たまらなくなって寒村は田辺に赴き須賀子と関係するのである。将来、寒村と秋水が絶交するに至る原因はここに発するのだが、二人にはまだそれが分っていない。

    十月十五日、五男揚五郎誕生。荷揚場の地名から採った名前である。十一月十一日、亀田の家族を荷揚場の官舎に呼び寄せて同居を開始した。しかし弥生は相変わらず乳母の元に置かれたままだった。このことは皆男にも不審に思われた。


    なお弥生だけは横堀に置かれたままとなった。はたしてその後、小学校に入学するまで長期間、乳母と生活することになる。三十八年一月二十五日の日記に、「横堀の弥生、親子三人来り、荷の手つたいをたのむ」と、まるで他人事のように一言書いてあるだけである。親子の情愛がなくなったのか。いや、そうではない。乳母の方で情愛が高まり、手離せなくなったためと思われる。生まれてから一年十ヶ月、可愛い盛りといえばそうであろう。いつか母リキから、乳母が手離せなくなったというので、と聞かされたこともある。それにしても、日記にひとことも残さないというのは、どうしたことであろう。


    この年、夏目漱石が「ホトトギス」に『吾輩は猫である』を連載し、国木田独歩が『独歩集』を出した。


    いずれもその新しさにおいて画期的なものであったが、夏目は英文学者であり、国木田は前に多くの短編を発表していたとは言え、まだ明確な地位を文壇の中に持っていなかった。いわば、二人は小説の素人であり、その仕事は文士たちの間で認められていなかった。この明治三十八年に既成作家として最も注目を浴びていたのは、この年の三月から「読売新聞」に長編小説「青春」を連載していた小栗風葉であった。(伊藤整『日本文壇史』)


    私たちが習った文学史では小栗風葉(明治八年生)なんて作家はまず出てこない。硯友社の出身だが、この頃紅葉の影響から脱しようとしていた。種本はツルゲーネフの『ルージン』(二葉亭の翻訳があった)だとされる。帝大生関欽哉が恋人の女子大生小野繁の妊娠に驚くが責任を取る気は全くない。繁は堕胎薬を飲んで瀕死の状態になり、欽哉は警察に逮捕され収監されるのである。この当時、堕胎罪というものがあった。『青春』は圧倒的な人気を得た。三浦雅士によれば「青春」と言う言葉が普及したのは、この小説のお蔭である。


    風葉の『青春』につづき、藤村の『春』が、漱石の『三四郎』が、鷗外の『青年』が刊行される。日本の二十世紀初頭は青春の文学の花盛りの様相を呈した。一九一〇年に創刊された『白樺』は青春の生き方を模索する雑誌にほかならなかった。

    これが、小林秀雄と中原中也が強いこだわりを見せた青春という言葉の沿革である。新しく生み出された言葉が、人の生き方を支配するまでにいたったのだ。さらに文学をまで支配するにいたった。それこそが日本近代文学の実質であるとさえ考えられるにいたったのである。(三浦雅士『青春の終焉』)


    三十九年(一九〇六)三月、三十五歳の島崎藤村は『破戒』を自費出版した。初版千五百部、費用は五百十五円九十一銭。全て借金である。それ以前、執筆期間も収入は全くなく、妻の父から借用した金の中から月三十円を生活費に充てていた。娘が二人いる中、三人目の男の子が生まれ、その生活は極貧状態だったと言われるが、しかし月に三十円は東海林利穎の収入より多いのである。初版出版後、妻は栄養失調による夜盲症になった。五歳の次女孝子が急性腸カタルで死に、七歳の長女緑はハシカが悪化して脳膜炎を惹き起こして死んだ。

    四月、啄木は渋民村小学校尋常科の代用教員に採用された。二年生を受け持ち、月給は八円であった。

    利生は秋田市の高等小学校二年に転校した。利穎も七月には秋田小林区に転出し秋田市川口新町の官舎に入るので、予めそれを知って備えていたのだろう。川口新町は川本小川町か旭南三丁目の辺りになる。

    四十年(一九〇七)一月、日露戦争のバブルが崩壊する。株価が暴落し、全国で三十以上の銀行で支払い停止や取付があった。労働争議や暴動も頻発した。二月には夏目漱石が一切の教職を辞め、朝日新聞社に入社した。月給は二百円、これに盆暮れの賞与各一ヶ月分も出すことが条件だった。利穎の収入の十倍である。

    二月、足尾銅山で大暴動がおこった。荒畑寒村はすぐさま現場へ赴いた。『平民新聞』記者では官憲に阻止される恐れがある。伝手を辿って『二六新報」記者の肩書を借りた。鉱夫の間では、各新聞の特派員が全て古河市兵衛に買収されたという噂が広まっていた。

    三月、小学校令の一部改正により、尋常小学校の修業年限が四年から六年に延長された。これに伴い、高等小学校の一、二年生が尋常小学校の五、六年生となり、三、四年生が新高等小学校の一、二年となった。つまり利生は新高等小学校の一年生になったのである。

    八月、荒畑寒村は『谷中村滅亡史』を刊行したが、即発売禁止処分となった。寒村二十一歳、熱血の書である。


    ああ谷中村は遂に滅亡したるか、二十年の久しき、政府当局の暴状を弾劾して、可憐なる村民のために尽瘁して来れる、老義人田中正造翁が熱誠は、空しく渡良瀬川の水泡と消え去るべきか。而してまた、流離し、顛沛し、落剝して、なおかつ墳墓の地を去るを拒める村民が苦衷は、巴波川の渦まく波と共に滅び去るべきか。ああ然るか、真に果たして然るか、或いは然らん。されども吾人は信ず、たとえ谷中村にして亡び終わるとも、田中翁にして死するとも、はたまた村民ことごとく四方に離散し去るとも、宇宙に歴史あり、人類に言語あるの間、断じて亡びず、厳として存在するの事実あることを。


    十月、長女小枝が村井次郎に嫁いだ。次郎には先妻との間に賢太郎がいた。

    四十一年(一九〇八)一月、皆男を石山峰五郎(利器の弟)の養子とする旨の約束がなった。四月、四女伸が生まれる。これで利穎の子供は全て揃った。

    この頃、二十三歳の石川啄木が小説で身をたてようと上京したが思うに任せなかった。小説は一向にできず(できても売れず)、家族を呼び寄せる余裕はない。吐き捨てるように歌だけが無限に生まれてきた。六月二十三日に国木田独歩が死んだその日から三日間で二百四十六首を詠んだ。啄木の浪費は続き、四年後に死ぬまで啄木は貧乏に苦しむことになる。

    二葉亭四迷は東京朝日新聞社特派員の肩書でロシアへ出発する。旅費と三ヶ月分の手当て、通信費合計千八百五十円は朝日から貰った。二葉亭長谷川辰之助は、己が日本文学に寄与した業績を信じず、文学は男子畢生の仕事ではないと思っていた。


    四十二年(一九〇九)四月、利生は秋田工業学校機械科に入学した。当時秋田県の中学校は秋田、大館(明治三十一年創立)、横手(明治三十一年)、本荘(明治三十五年)の四校、高女は秋田高女(明治三十四年)、実業学校も秋田工業(明治三十七年)があるだけだった。家計を考えれば実業学校しか選択肢はない。明治三十二年の実業学校令は、入学資格を十四歳以上で高等小学校卒業程度、修業年限三年(四年に延長可)と定めている。

    四月二十九日、弥生は亀田尋常小学校に入学するため、乳母に連れられて秋田の家に来た。生まれて六年、初めて家族と暮らすことになったのである。数年振りに迎えた利器の日記を引いてみる。


    〇四月二十九日 雨 弥生くるとの電報来り、よって午後三時着の汽車へむかひに利雄と共に来る。弥生と乳母とその子と三人来り、雨ふられたれば人力車をたのみ、のせて、自分も利雄と乗りて帰りたり。

    〇四月三十日 晴 今日は御客さまを取り扱ひて只居る。夜は乳母といろいろの話をして十二時まておきて居り。弥生は子供らとなれてよくあそぶ。

    〇五月一日  晴 乳母と弥生をつれて公園(千秋公園)を見せてくる。帰りに同人のはかまを買ってきた。(弥生入学のため)

    〇五月四日  晴 弥生を今日より学校に出し、夫と乳母とおくり行く。乳母は同人(弥生)のさがりまで待って居てつれてくる。

    〇五月六日  雨 今日はおまつりにて生徒一同参拝に出るため、朝早くより仕度して子供らを出す。おさよ(乳母)、子(自分のつれてきた子)と共に自分も行き、ひるにかへる。

    〇五月八日  雨 今日はおまつりなりとて、子供ら三人つれにて行く。おさよどの土崎へ行きたり、夜はおさよどのといろいろはなしをして十二時まておきて居る。

    〇五月九日  今日はおさよいよいよ帰るとて、停車場までおくり行く。


    弥生は余程この乳母(さよ)に可愛がられていたようだが、この後二度と会うことがなかった。弥生の記憶によれば、塩谷家はこの後、院内銀山閉山と共に山形県大鳥鉱山に転属となり、その後新潟県葡萄鉱山に再転属したらしいが、その時点で連絡が途絶えた。

    院内銀山は慶長十一年(一六〇六)に改竄され、江戸時代を通じ日本最大の銀山として久保田藩の財政を支えた。明治に入り小野組が経営権を握り、小野組が解散した明治十七年(一八八四)に古河市兵衛に払い下げられた。古河はここで得た利益によって足尾銅山を買収したのである。しかし明治末期には銀が暴落して採算が悪化したため、大正年間に規模を大規模に縮小、大正九年(一九二〇)には一時閉鎖された。弥生の記憶する「銀山閉鎖」はこの時のことだと思われる。

    同じように五歳まで里子にだされて実家にもどされたのが荒畑寒村であった。


    私が五歳に達した時、ブンという妹が生まれた。それと同時に、私の身の上には思いも寄らなかった一大事が持ち上がったのである。私ははじめて、自分が白居家の実子ではなくよそから預かっている里子なのだが、もう五歳にもなった上に家には女の子まで生まれたので、実の親から返してもらいたいといって来ていることを知らされた。(略)里親は私を手放すのが身を切られるよりも辛いと、泣きの涙で事情を語ってきかせたが、もとより私に理解できることでもなければ素直に納得するわけもない。泣いてあばれてさんざん里親をテコずらせたが、結局は生木をひき裂くようにして実家にもどされてしまった。(『寒村自伝』)


    利穎は六月に農商務省を休職となってしまい、月給二十二円が失われた。官舎は出なければならず、十月に秋田市川口上裏町三十一番地一に転居。これは旭南一丁目か三丁目の辺りになる。

    五月十日、帰国の途次シンガポール沖海上で二葉亭四迷が死んだ。四十六歳。遺書に、先妻つねの二人の子はすぐさま学校をやめ奉公に出ること、母親は名古屋の実家を頼ること、妻柳子は二人の子を連れ実家に戻り機を見て再婚すること、などが指示されていた。明治人には常に貧困の問題が付きまとっているのである。東京朝日新聞社は二葉亭の全集を刊行して、その印税で遺族の生活を支えることに決めた。全集の校正は啄木に任された。


    二葉亭はこういう人物であった。小説家であって一向小説家らしくなかった人、政治家を志しながら少しも政治家らしくなかった人、実業家を希望しながら企業心に乏しく金の欲望にたんぱくな人、謙遜なくせにすこぶる負けず嫌いであった人、ドグマが嫌いなくせに頑固に独断に執着した人、更に最う一つ加えると極めて常識にとんだ非常識な人――こういう矛盾だらけな性格破綻者であって、この矛盾のために竟に一生を破壊に終わった人であった。(内田魯庵『思い出す人々』)


    十月二十六日、哈爾濱駅頭で伊藤博文が安重根に射殺された。安重根はロシア官憲に逮捕され、日本の関東都督府に引き渡され明治四十三年に処刑される。

    十二月、五十歳の利穎は職を求めて北海道に渡った。この頃の五十歳は隠居してもおかしくない年齢だが、東海林家はまだ利穎の働きだけが頼りである。別れの悲しみに暮れる利器へ、利穎は小樽の旅館から手紙を書く。


    我等出立の後は泣き悲しみ居らるる由、何たる未練ぞや。夫婦親子の遠離は人情として好ましからぬ事乍ら、常職なきものは(官吏など)一端其職を罷めらるれは、他の職に就くまでは困窮に陥るは当然の事。世間には親族朋友にも告げずして、跡を晦まし逃奔する者さへあり。然れ共、其内好運に向へば、妻子を迎へ昔日の困難を忘るるまて成功する者少なからず。われらは行先を明らかにし、借債の門には夫々に申訳をなし出立したるものなれば、何も悲しむ事もなき筈なり。又我等秋田にあればとて、無能の人間にして死人も同様なり。左すれば、子供等の学修もならず、果ては親子八人の乞食するまでなり。今のところ辛抱しても、六、七年を過ぎ、利生利雄給金を得るに至れば、老衰の身を此者に託し、一家取纏めの策も出づべく。又その弟妹学修の資を得べく、其時には今の苦しみ却て楽しみの話の種ともなるべし。六、七年の辛抱出来ずして涕をこぼすなどは頼もしからぬことなり。謹み給へ。

    人は人事を悲観すれば厭世の心を生じ、厭世の心にある者は萬事成就せず。人事は辛抱と勉強とにて回復し得るものぞ。我は此嶋に渡りてよりは、七十年の長寿を期し、東海林家再興の大願望を立てたり。見給へ。必ず一廉の仕事を為し遂げん。


    天塩で木材業を営む和田忠吉(妹ミワの夫)の紹介で、十二月二十二日付で北海道庁雇、上川営林署天塩分署在勤、月俸十八円の辞令を得た。これならば慣れた仕事である。和田忠吉も村井次郎も木材業を営んでいた。天塩は、天塩川舟運によって運ばれた、流域の森林や開拓地から切り出した木材の集積地であり、木材産業が栄えていたのである。


    「原野一般ニ富ミ建築及薪炭ノ用自(おのずか)ラ足レリ」(明治二四年=植民地選定報文)、あるいは「全道中尤も材木に富み沿海の山脉(脈)は蝦夷松交生し、天塩川に沿ふて起伏せる諸山及び原野より産出する木材其幾許なるや量り難く……到る所蝦夷松の大樹あらざるはなく天塩産物中の第一を占むるは木材ならん」(明治二九年=小樽新聞)と書かれた天塩の原野ゆえに、農業開拓もまずは樹林伐出からという状況におかれていました。

    その天然の大資源に本格的な開発の手が及んだのは明治三〇年を迎えるころからで、「明治三〇年代後半から四〇年代を天塩材時代と呼ばれた」(日本産業史大系)というほどの隆盛を示し、水産物を抜いて移輸出一位の座を占めていたのです。当時の木材は本州・朝鮮・中国・小樽への移輸出材が主で、明治四〇年ごろからは王子製紙工場の苫小牧林業もかかわるようになり、天塩木材(株)・躬行社・天塩製材所・北海道木材(株)・滝木材店などの林産企業が相次いで進出して冬山造材・天塩川流送を行い、天塩港に木材積取船が船足繁く来航した。この木材景気で急激に人口が増え、商業の繁昌を招き、「天塩市街ハ今ヤ戸六百余、口(人口)三千余ニ達シ木材事業隆盛ノ為メ事業家、商人、其(その)他労働者ノ来往スルモノ約壱千余人ヲ以テ算シ、毎年五月ヨリ十月マデ船ノ輻輳多ク……」(明治四五年)と綴られています。

    この木材景気は大正年代中期から冷え込み、天塩の経済は低迷期に入ったが、それは第一に村内の資源枯れ、第二に天塩線鉄道(現宗谷線)の開通(大正一〇年代)により天塩港への奥地からの集材が消えたことに基因しており、脱木材への模索が始まったのです。(北海道天塩町「天塩の歴史」)


    この当時の利穎の月給二十二円あるいは十八円はどの程度の金額だったか。養わなければならない家族は、母タツ、妻利器、利生、皆男、弥生、揚五郎、伸。本人を入れて八人である。

    例えば啄木と比べてみる。啄木は明治四十二年三月に朝日新聞社の校正係として入社し、月給二十五円、夜勤手当を含めて三十円になる。六月には北海道から母克子、妻節子、娘京子を東京に呼び寄せた。啄木は類を見ない浪費家だったから簡単に比較できないが、常に家計は不如意で借金が絶えなかった。利穎の収入は啄木よりも少ないのである。東京とは物価が違うとは言っても、どうやって暮らしていけたのだろう。

    因みに東京物理学校を出て四国の中学校の数学教師になった「坊っちゃん」の月給は四十円。学校を辞めた坊っちゃんが東京に戻って街鉄の技手になった時の月給は二十五円であった。

    関川夏央は、明治四十年代の一円は一九九〇年代初めの日本の七千円程度ではないかと推定している。それならば利穎の収入は十四、五万円でしかない。これで九人の生活を支え、長男を中等学校に進学させたのである。

    利穎が北海道に渡った時から、亀田の家では利生が家長代行の役を負うようになってしまった。


    利生は、私たちの生家、東海林の長男である。長男という身は、当時として、いかなる責務を負わされていたか。

    まず第一に、家族に衣食を給することである。第二に両親に孝養を尽くすことである。第三に弟妹を守護しなければならない。半世紀前の家庭では、こういうことが理屈なしの常識であった。

    利生は親の訓えに順って、よくその責務を守り通した。真正直で自らお人好しと称し、道を踏み外すことはなかった。しかし、それを実行するためには、自らの犠牲を必要とする。たとえば職業を択ぶにも、他の人のように都会に出て、条件のよい職を自由に択ぶことができない。父母や弟妹の傍にいて一家を護らなければならない。学業を進めるにも同様である。自由に都会の学校に進むわけにはいかない。まず生家の地において、事を運ぶことを要する。(皆男『東海林利生』)


    質屋の出し入れ、米屋、八百屋の支払い、弟妹の学費、慶弔の付き合いなど、収支のすべてに母の相談に乗る。その他、弟妹の成績管理も利生の役目であった。翌年七月の利生の日記にはこんなことが書いてある。


    明治四十三年七月廿九日 今日は、弟等の通信簿を受けてくる日。僕は之を見るのを無上の快楽としている。三男(皆男)は白眉である。次は二男(利雄)。四男(弥生)は三弟中一番成績が悪いのである。今後入学する五男(揚五郎)、四女(伸)は如何なる成績を見せるであろう。はやく成績を見せてくれ。頼むぞよ。


    弥生の成績が一番悪いのは、六歳まで育てられた環境の差が大きい。兄弟三人が競い合う家と、里親の元では知的環境が違い過ぎるだろう。利生は弟たちに、とにかく日記をつけるよう督励していた。

    利穎との手紙のやり取りも増えてくる。利生からは家計に関する相談や報告、弟妹の成績報告が主だろう。これに対して利穎からは細かな指示とともに生活上、人生上の訓示も書かれてきた。これから十年間、父子の往復書簡はそれぞれ数百通になったと言う。驚くべき数ではないか。

    さすがに親密な親子、親孝行な息子と賞賛すべきだろうか。ちょっと変だと私が思うのは時代が違うからだろう。父への反抗、家郷からの脱出上京こそが、近代文学と日本の青年を形作った。結局それは家計に責任のない次男三男だから出来た事なのかもしれない。長男は否応なく家に縛り付けられた。利穎の頭の中は、儒教倫理の「孝」だけに占められていて、責任感の強い利生はそれに反抗することができない。


    明治四十三年(一九一〇)四月、学習院を卒業した世間知らずの若者たちが『白樺』を創刊した。創刊メンバーは武者小路実篤、志賀直哉、木下利玄、正親町公和、細川護立。後に有島武郎、有島生馬、里見弴、長與善郎、柳宗悦、園池公致、児島喜久雄、郡虎彦らが参加した。

    同じ四月、前年に福岡県糸島村の高等小学校を終えて上京していた伊藤野枝(利生と同年)が、一年飛び級で上野高女の四年編入試験に合格した。野枝の家は祖父の代に没落し、父の貧乏も底をついていた。東京に住む伯父に懇願して上京させてもらったのである。

    五月二十五日、宮下太吉、新村忠雄が爆裂弾製造所持で逮捕され、政府はこれを機に大逆事件をでっち上げた。六月一日には幸徳秋水、菅野須賀子が湯河原で逮捕される。堺利彦、荒畑寒村、大杉栄、山川均は赤旗事件で収監中だったため、逮捕を免れた。

    しかし皆男の記録には政治関連の記事は一切出てこないため、東海林家の人びとがこの当時どんな考えを抱いていたかは分からない。

    八月二十二日、「韓国併合ニ関スル条約」が調印され、二十九日に発効した。韓国の王族は日本の皇族に準じる王公族に封じた。そして大韓帝国最後の皇太子李垠には、大正九年に梨本宮方子が降嫁した。

    啄木は大逆事件弁護人である平出修から裁判記録を極秘に借り出し、熱心に研究した。そして朝日新聞文芸欄に掲載された魚住折廬の文章への反論として、「時代閉塞の現状」を書いたが、紙面には掲載されなかった。


    時代閉塞の現状は啻にそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、大体に於て一般学生の気風が着実になつたと言つて喜んでゐる。しかも其その着実とは単に今日の学生のすべてが其在学時代から奉職口の心配をしなければならなくなつたといふ事ではないか。さうしてさう着実になつてゐるに拘らず、毎年何百といふ官私大学卒業生が、其半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしてゐるではないか。しかも彼らはまだまだ幸福な方である。前にも言つた如く、彼等に何十倍、何百倍する多数の青年は、其教育を享ける権利を中途半端で奪はれてしまふではないか。中途半端の教育は其人の一生を中途半端にする。彼等は実に其生涯の勤勉努力を以てしても猶且三十円以上の月給を取る事が許されないのである。無論彼等はそれに満足する筈がない。かくて日本には今「遊民」といふ不思議な階級が漸次其数を増しつつある。今やどんな僻村へ行つても三人か五人の中学卒業者がゐる。さうして彼等の事業は、実に、父兄の財産を食ひ減す事と無駄話をする事だけである。


    八月から九月にかけ雄物川が氾濫して大洪水になり流失・全壊戸数六戸、床上浸水五千二百四十七戸、床下浸水二千七百七十戸の被害を齎した。利器が後日、利穎に報告した長文の手紙が残されている。平仮名を漢字に改めた部分もある。


    去月廿八日より雨ふりて本月一日に至りますます強くなり、ついに三日にいたれり。その日午後三時すぎ、となりの竹村方へ一寸行き候処、秋木会社の人夫来り床をかけに来たれりといふ(床上浸水対策のため一メートル余の高さに仮の床をつくり家財を上げる)。皆々びっくりして何ゆゑと申せしに、仙北水くるから用意すべくとあり(雄物川中流の洪水で下流の秋田市へ押しよせる)。わしはすぐ家に帰りたれど、利生はまだ下校いたさず、相談すべき人もなし。力と労すべき者もなく、あっけにとられ一時は腰をぬかしたが、自分ながらかくありては如何せん、これではならんと気を励まし、裏合せのコバ割小屋に至り見れば、仕事をやめ取り片付ける風に見えしゆゑ、そこへ声かけ「お頼みです。わしは主人もおらず女一人、子供六人の者。お助けをして、どうぞ床をかけて下さる事を願ひたし」と、申したれば、早速引受くれ、「よろしゅう御座います、危ない時は呼んで下さい。御手伝いをしてあげます。だんな様も留守居にてはさぞ心配でせう」となさけをもらい、まづ安心して家に入る。その人来りて、今に来るから、まだ大丈夫と申し、帰る。すぐに晩めしを五時ころ食さしめんとせし時、雨はしきりに降り、水かさは家の前の堰の幅をこえて内庭に半分来りたり。その床かける人来り、どうせ上るにきまった、早く仕度をなさんとて来たれりと申す。よって隣家竹村の雪囲い道具を借り受け、その人運び居る内、御飯も子供のみ食らい、自分は食べるどころか、胸の混雑いふべくもあらず。まず何ものもつづらに入れ、箱に入れ、荷物と一緒に床の上に人も居る積りの処、床はあぶない。床の出来上がった頃は午後七時頃、その人もまつこれにて、もしまたここに戻れる時は呼びくれと申すにより、力と思ひ、おがみ申した。どふでもよろしくと帰しやる。生(なる)と雄(たけ)とに手伝わせ、床にものを運ぶ。伸は乳を呑むと泣く。揚はねむいとて泣く。弥生はねむかきする。そのあはれさ、お察し下されたい。やうやう午後九時ころまで物は片付けた。水屋道具はあちこちにある。それもだんだん片付けて居る内、雨はますます降る。水は遠慮もなく、踏み段にのぼり来る。その時、弥生と揚五郎を床上にねせ、伸を背負いたりしも、下隣の加藤より声をかけられ、子供等の小さい方を当方の床に預かるから、つかわせとの事にて、それならどふぞと利生は揚と弥生を二度に背負ひ、股まで漕いで隣へたのみ来る。雨はざあざあ、着物皆ぬれにぬれ、水はますますふへてくる。そのあはれ、たまに人音すれば、助けてくれと叫べども、誰一人くる人もなし。十時頃いよいよ根太の上に水のぼり来り、さみしくて、生、雄、皆、自分(伸を負い)と、立ち居るものの、これではかなわぬ、ゆゑに裏のおど(床がけしてくれた人)へ行くと申し、生と雄と腰まで漕いでおどを頼み来り。何処に逃げてよろしやと問ひしに、その人の家も早や水あがるなり、どうすると思案するまもあらばこそ、水に追はれる苦しさよ。又も加藤に叫びて、何とぞわれわれも夜明けるまて、助け舟の来るあいだ、床にかたせて(隅に一緒に)くださいとたのみ、利生は腰まで漕いで行きたれど、あとの者は、その加賀屋(加藤?)の主人に背おひもらい行く。雨は車軸の雨、傘をさす事も出来ず。軒場伝ひにやうやく加藤の床に逃げ込みたり。なおもおどは、いつとなく、道具の見回りを為すにより案じるなと申しくれ、実に有難き人と思居候。床に上りおれば水の増すこと、二寸、三寸とずんずん増える。もう十二時になり、蚊はおる、子供らをねせて蚊をほろき、伸は背中でむつかるに、せまいところに、その難儀といたら、昨年の水の時、平野井(ふだん世話うける近所の主婦)へ逃げた時などは殿様とでもいふか、くらべものにならず。その心のいたむ事、此の上どうなるかと心配いたしおる処へ、四日午前二時、東海林さんと声かけられ、たれと思ひしに、竹村の家内なり。今われわれは会社の舟にて馬喰町酒井方へ逃げ行くなり。舟も広ければ乗らぬか、と言われたり。それで加藤の主人と相談して、夜明けまてここにおることにいたし、竹村へこの事を頼むため、生を水の中へおろし、雨戸に出して、どうぞ、夜明けを待ちてその舟を借して下されと叫ぶ。ああよろしゅう御座います、又今朝吉(竹村主人)も家に居るし、人夫も一人おるから、危ないときは叫びなさいなどと、深き情けをかけられ、まづ少しは安心いたしおり、蚊をほろき(蚊を追うこと)かをほろきしているうち、四時二十分になれり。はるかに舟のおと聞こゆ、加藤さん加藤さんと呼ぶ。同家の主人水に入りていらへを為したれば、東海林さんの人々を迎へに来た。行くなら乗せると竹村よりの舟なりと、まづ嬉しいやら、かなしいやら、舟に乗りても、何処へゆくべきかを、われに問ひ、われに答へ、上野(当時川尻村)の石塚に逃げ込み、気の毒なから七人馳走になりて、その夜一泊。翌五日午前八時半頃より、利生利雄を馬喰町畷より家の模様見に遣わしたれば、根太より水落ちたりとて、大体内庭の水にて洗い来たりとて、わしを迎ひに来た時は午前十一時。それよりすぐ皆々つれて帰る。石塚の息子は揚五郎をおぶひくれ、利生は風呂敷包みを背おひて、かづかづ漕いで来て、馬喰町の小路より裏町に入る。次第に水高し。家に入れば未だ内庭には水あり、家の前未だ舟あるく。それより、濡れたる炉に火を焚きつけんとせしも、薪しめりてつかず。たらひのあぐ(灰)に火を起こし。利生は馬喰町の角まで皆男迎ひに一ぺん。石塚の息子は弥生をおぶってつれて来る。冷や飯のおはちを出し、握りて手に手に与へ、漬物にて昼飯を食す。むこうよ、ここよと、片付けるうち、午後七時に至り、水くると触れ来り。竹村に会社の電話を借り、警察に聞きもらひたるに、警察署へは何の事もなきゆゑ、多分うそだろうとの事を聞きたれとも、その晩も寝ずの番。子供のみ寝かし、蚊をほろき、夢中になりて起きておる。雨はまだ止まず、なさけない雨と恨みおる。四時になるを楽しみにし、夜明くるを待つ。利生の先生、見まひに来てくれる。鋳物の先生のうちよりたき出しをもらひたり。市役所より一ぺんもらひたり。其外たれも来てくれる人もなし。他家ではたき出しや漬物、菓子などなんぼも来る。知人も親類もなきは、かくもあはれなものかと思ふ。

    あくる日六日、雨も止まず、干物もできず、利生もあまり疲れ、床に登って休めおる処へ、町内世話方役高橋といふ人、又々ふれ回り来り、晩には大雨暴風くるから要心しろとのこと。またも胸おどろき、いかなればかくやと、実に泣き度、どこの家でも床のかけ直しやら、子供をねかしたり、要心厳重なれども、何ともほかにいたし方なく、食事もならぬまでの心いたみ、その晩も又々、利生と二人寝ずの番。しかるに風は海上を通過したりとて、まづ無事明く。

    七日、やうやう天気となり、今日より利雄と弥生は学校に出る。利生は八日、皆男は十日より出校。八日、九日と天気、十日より十二日までまた雨。今日(十三日)やうやう天気なれとも、此家の根太板は松のため、水しみて乾かず。今も床を吊り、その上にものを置く、そして昨日あたりより寒さ甚しく(中略。あと片付けには人夫とカネが要ること)しかれとも、たくさん物ぬらした人よりは良く、また誰もけがもなく、病気もいたさねば、何よりと思ひあきらめ申居候。じつに此度は九死に一生の思ひとは此事に御座候。


    明治四十四年(一九一一)一月二十四日、幸徳秋水以下計十二名が処刑された。死刑が執行されたのは秋水のほか管野スガ、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新美卯一郎、内山愚童である。山縣有朋の社会主義に対する恐怖がこの事件をでっち上げたと言われている。山縣に社会主義の講義をしたのは鷗外であった。徳富蘆花は一高で講演をした。


    諸君、僕は幸徳君らと多少立場を異にする者である。僕は臆病で、血を流すのが嫌いである。幸徳君らに尽く真剣に大逆を行る意志があったか、なかったか、僕は知らぬ。彼らの一人大石誠之助君がいったというごとく、今度のことは嘘から出た真で、はずみにのせられ、足もとを見る暇もなく陥穽に落ちたのか、どうか、僕は知らぬ。舌は縛られる、筆は折られる、手も足も出ぬ苦しまぎれに死物狂いになって、天皇陛下と無理心中を企てたのか、否か。僕は知らぬ。冷静なる法の目から見て、死刑になった十二名ことごとく死刑の価値があったか、なかったか。僕は知らぬ。「一無辜を殺して天下を取るも為さず」で、その原因事情はいずれにもせよ、大審院の判決通り真に大逆の企てがあったとすれば、僕ははなはだ残念に思うものである。暴力は感心ができぬ。自ら犠牲となるとも、他を犠牲にはしたくない。しかしながら大逆罪の企に万不同意であると同時に、その企の失敗を喜ぶと同時に、彼ら十二名も殺したくはなかった。生かしておきたかった。彼らは乱臣賊子の名をうけても、ただの賊ではない、志士である。ただの賊でも死刑はいけぬ。まして彼らは有為の志士である。自由平等の新天新地を夢み、身を献て人類のために尽さんとする志士である。その行為はたとえ狂に近いとも、その志は憐むべきではないか。(中略)

    諸君、幸徳君らは乱臣賊子となって絞台の露と消えた。その行動について不満があるとしても、誰か志士としてその動機を疑い得る。諸君、西郷も逆賊であった。しかし今日となって見れば、逆賊でないこと西郷のごとき者があるか。幸徳らも誤って乱臣賊子となった。しかし百年の公論は必ずその事を惜しんで、その志を悲しむであろう。要するに人格の問題である。諸君、我々は人格を研くことを怠ってはならぬ。(徳富蘆花「謀叛論 草稿」)


    荷風はこう書いた。


    明治四十四年慶應義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折々市ヶ谷の通で囚人馬車が五六台も引続いて日比谷の裁判所の方へ走って行くのを見た。わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云うに云われない厭な心持のした事はなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだ為め国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者と共に何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた。わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来ようが桜田御門で大老が暗殺されようがそんな事は下民の与り知った事ではない――否とやかく申すのは却て畏多い事だと、すまして春本や春画をかいていた其の瞬間の胸中をば呆れるよりは寧ろ尊敬しようと思立ったのである。(永井荷風「花火」)


    佐藤春夫は「愚者の死」を書いた。大石誠之助は慶應三年生まれの四十五歳。熊野病院の医師であった春夫の父豊太郎とは、文学趣味を同じくして親しく交際していた。大石の死刑は全く交通事故にあったような冤罪である。


    千九百十一年一月二十三日
    大石誠之助は殺されたり。

    げに厳粛なる多数者の規約を
    裏切る者は殺さるべきかな。

    死を賭して遊戯を思ひ、
    民俗の歴史を知らず、

    日本人ならざる者
    愚なる者は殺されたり。

    「偽より出でし真実なり」と
    絞首台上の一語その愚を極む。

    われの郷里は紀州新宮。
    渠の郷里もわれの町。

    聞く、渠の郷里にして、わが郷里なる
    紀州新宮の町は恐懼せりと。
    うべさかしかる商人の町は歎かん、
    ——町民は慎めよ。
    教師らは国の歴史を更にまた説けよ。


    四月、伊藤野枝は上野高女に英語教師として着任した辻潤(明治十七年生)と出会う。瀬戸内晴美はこれを運命的な出会いとし、こんな風に書く。


    幸徳秋水たちの大逆事件の処刑が、一月二十五日に行われ、まだ二カ月しか経たず、折からの万朶の花の色にも、春風にも、死臭と血腥さを感じるような、かつてない不気味な底冷たい春だった。(瀬戸内晴美『美は乱調にあり』)


    利穎の北海道での生活は一年半で終わり、五月には福島県林業技手の職を得て内地に戻った。月俸二十二円で退官当時と同額である。この時、村井次郎の先妻の子、賢太郎を伴って来た。天塩には中等学校がなく、内地の学校へ入学させるためである。

    利穎は収入の上昇を求めて九月には辞職し、秋田県の神宮寺製材会社に雇用され二十五円の月給を得ることになった。それなのに、この会社は翌四十五年(一九一二)四月に事業不振で休止となり、利頴はまたも職を失ってしまう。

    ただ生活は貧しくとも家族には笑いが絶えなかった。利器の性格は厳格だったが、結構娯楽にも出かけていることが分る。大病して以来、ストレス発散の必要があったようだ。


    明治四十四年五月から大正六年八月まで、天塩村井家の長男賢太郎を預り、小学校から中学三年中退まで、兄弟同様に勉学生活をした。また大正四年一月から五年三月まで、亀田の縁故者に頼まれ、遠藤文哉が中学卒業まで同居した。家庭は賑やかで笑いが絶えなかった。

    母は貧乏世帯を切り回しながら、適宜に気ばらしをしている。浪花節、芝居、活動写真、曲馬など、月に何べんも出かけている。多くは利生を同伴し、利生もまた浪花節党になった。なにか祝い事があると、母も進んで盃を採り、気分を朗らかに導いた。父の及ばぬ芸当である。芸能見物は気保養に病気勝ちの母に父も容認していた。


    浪花節がブームになるのは日露戦争後のことである。江戸以来のチョボクレ、チョンガレ、デロレン祭文などを源流に、東京で浪花節組合が結成されたのが明治十年頃である。しかしまだ市民権を得るまでには行かず、相変わらず蔑まれた存在だった。芸そのものが上等でないと思われたこと、また芸人が貧民窟の出身だったことなどがその理由だ。少なくとも武士の家族が楽しむものとは考えられていない。それが桃中軒雲右衛門の登場によって、劇場で鑑賞される芸、華族の前でも演じられるものに変わった。利器は特に赤穂義士伝が好きだった。


    こうして明治四〇年代の空前の浪花節ブームが到来するのだが、雲右衛門の義士伝人気にあやかって、ほとんどの浪花節語りが義士伝をレパートリーにくわえた。出演者が義士伝ばかり語るのに閉口した席亭が、楽屋に「義士伝お断り」の貼り札を出したことさえあったという。(兵頭裕己『〈声〉の国民国家』)


    ただラジオ放送が始まるのは大正十四年(一九二五)のことで、蓄音機は高価だから、この当時の利器はドサ廻りの浪花節芸人の芸を聴いていただろう。

    九月には平塚明(らいてう)、保持研子、中野初子、木内錠子、物集和子が発起人となり、『青踏』が創刊された。創刊号の表紙は長沼智恵子が描いた。好奇や嘲笑など様々悪意に満ちた噂をたてられたが、日本で初めてフェミニズムを標榜した功績は大きいと言わざるを得ない。与謝野晶子が創刊号に詩「そぞろごと」を寄せた。


    山の動く日來きたる。
    かく云へども人われを信ぜじ。
    山は姑く眠りしのみ。
    その昔に於て
    山は皆火に燃えて動きしものを。
    されど、そは信ぜずともよし。
    人よ、ああ、唯これを信ぜよ。
    すべて眠りし女今ぞ目覺めて動くなる。


    らいてうは明治十九年(一八八六)二月の生まれだから、この時二十七歳。長沼智恵子も同年である。大正二年に高村光太郎と出会ったことが智恵子の生涯を悲劇に結びつける。

    この年、大阪の立川文明堂が「立川文庫」シリーズを開始した。講談の速記は既に流行していたが、速記者を使わずに講談を直接筆記する方法を発明したのである。これが後に大衆文芸となって行くはずだ。

    明治四十五年(一九一二)三月、利生は秋田工業学校機械科を卒業し、東京高等工業学校(現東京工業大学)付設工業教員養成所を受験することになった。これは利穎の強い希望でもあったようだが、その収入で長男を進学させるのはかなり思い切った決断だったろう。


    規則書を取り寄せ、入試上京、下宿等の世話を先輩卒業生で東京高工在学中の山本勇氏(この人は常盤小学校で石山伯父の生徒)に頼み、入学後の学費については親戚の長沢浩気に育英会の世話を頼み、上京当座の学資は叔父の石山峰五郎(皆男の養父)に依頼し三月から十円の送金を受けている。

    まず入学試験。利生は三月三十日東京へ出立、短期の予備校に通った。工業学校は三ヵ年制で英語は格別の勉強を要する。果たして五月十六日、英語で落第した。


    秋田工業時代の利生の成績は悪くなく、一学年末の席次が十二番、二学年末が七番、三学年は一学期四番、二学期が一番、三学期二番(八十九点)となっている。しかし受験には失敗した。

    元々、実業学校から私立大学や高等工業を含む上級学校への進学率は極端に低い。四年後の大正四年の例だが、秋田工業から進学した者は現役十四名、浪人八名である。そのうち高等工業へ進学した者は現役一名、浪人五名でしかない。利生の成績から言って合格ギリギリのラインであろう。

    現役・浪人を含めて進学先を見れば、私立大学六名(これは裕福な家庭であろう)、高等商業一名、医専一名、鉱山専門学校二名、旅順工科学堂一名、美術学校一名であった。就職した者と死亡者を合わせて三百七十名だから、進学はごくまれなことなのだ。

    県内他中学から高等工業へ進学した者は、秋田中学から現役三十六名・浪人二十名、大館中学から現役二名・浪人五名、横手中学から現役三名・浪人八名、本荘中学から現役四名・浪人七名(『秋高百年史』より)。

    受験に失敗した以上、就職しなければならない。就職の世話は恩師の斎藤教諭に頼み、その世話で六月五日に秋田瓦斯会社の常務辻良之助を訪問し面接を受けた。六月七日に再訪して雇員(月給十三円)の辞令を受け取り、翌日から勤務することになった。当時の秋田瓦斯は石炭を焚いて都市ガスを造り、それを配送する会社である。

    辻良之助は秋田の富豪、辻兵吉の長子である。この後も何度も利生に関わって来るので、『人事興信録 第四版(大正四年版)』(こういうものがネットで見られるのである)を引いておこう。


    職業  辻合資會社代表社員、秋田瓦斯株式會社常務取締役、秋田木材株式會社取締役、淺野製材株式會社監査役

    略伝  君は秋田縣の實業家辻兵吉の長子にして明治八年十一月十二日を以て生る現時辻合名會社代表社員にして秋田瓦斯株式會社常務取締役及秋田木材株式會社取締役淺野製材株式會社監査役を兼ぬ

    家族は尚ほ二男勇之助(明三四、三生)三男富之助(同三六、一一生)四男信之助(同四三、一一生)長女ヨシ(同四四、一〇生)あり


    四月十五日に貧窮の中で石川啄木が死んだ。金田一京助が勤め先の國學院に行った間に急変し、妻、父、若山牧水の三人だけが看取った。


    四月十三日に香典が百二十円集まった。翌日には二十六円きた。合計百四十円は啄木の生涯最後にして最大の収入だが、合計二千円ほどの借金を考えるならば、彼の人生の家計簿はついに大赤字のままで終わった。(関川夏央『ただの人の人生』)


    利生の給料だけでは家族が生活することはできない。六月一日、五十二歳になった利穎は再び職を求めて北海道天塩に渡った。今度は和田長吉の周旋で代書屋を営むことにしたのである。和田からは子供を二人連れてくるよう言って来た(口減らしのためか)が、尋常小学校四年生の弥生だけを連れて行った。行く々々は、和田の養子にする積りがあったようだ。


    母リキの日記に、五月二十八日「和田より子供を二人つれてこいと又々電来り、それで弥生をやることにする。弥生おおよろこび」とある。重大問題が、いとも軽々と決められて行く。そこになんの悲壮感も現れていない。弥生おおよろこび、という一句にも、さすが他人の間で育ってきた男の子の持ち前が出たような気がする。

    さて出発は、わずか三日で用意が出来た。これもまたすこぶる簡単。六月一日二時過ぎの汽車で出立した。見送りは利生と利雄と二人だけ、母の日記にはそれだけしか書いていない。(石山皆男「鵜沼弥生」)


    利穎は海岸通りに住居兼用の店を構えて自炊し、弥生は天塩町山手通六丁目の和田の家で暮らした。借家だったらしいが、八畳が二間、六畳が四間もある広い家だった。生まれて十年、実の母と暮らしたのは僅か三年で、弥生は再び他人の家で暮らすのである。母親に「弥生おおよろこび」と思われた時の心情はどんなものだったか。


    七月三十日、明治天皇睦仁が糖尿病の悪化で死んだ。大喪の日、乃木希典・静子が殉死した。漱石は『こころ』の「先生」を自殺させた。


    私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。

    それから約一カ月ほど経ちました。御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐わって、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。

    私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪とられて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日こんにちまで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。 それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由がよく解らないように、あなたにも私の自殺する訳が明らかに呑のみ込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。あるいは箇人のもって生れた性格の相違といった方が確かかも知れません。私は私のできる限りこの不可思議な私というものを、あなたに解らせるように、今までの叙述で己おのれを尽つくしたつもりです。(夏目漱石『こころ』)


    「先生」は「明治の精神」に準じると言う。しかし「明治の精神」とは曖昧な概念である。既に日露戦争の所で松本三之助の論考を参照し、日比谷焼き討ち事件によって大衆の時代が始まったと記した。徳富蘇峰も、日露戦争によって「国是」が失われたと慨嘆していた。とすれば、「明治の精神」とは大衆化以前の時代と言うことかも知れない。


    国家体制の整備が進んだことにより、明治前期のような立身出世主義の一挙的達成の可能性が乏しくなり、「立身出世」は国家官僚になるための競争に典型的に見られるような厳しい試験と競争を必要とする困難で閉塞的なものとなったのである。一方、日清・日露戦争の勝利によって明治維新以来の「富国強兵」という国家目標がある程度達成されたように受け止められ、青年層の関心が「天下国家」から「個人」の問題へと移行するという「社会的弛状態」も見られ始めていた。

    こうして青年層の「堕落」や「煩悶」がしきりに問題にされだしたとき、状況打破のために登場してきたのが、清沢満之・綱島梁川・西田天香・蓮沼門三・田澤義鋪・野間清治らの修養主義者であり、修養書であった。そしてこの修養主義思想のなかで特に強調されたのが「人格の向上・完成」であった。「修養」とは様々な手段を通して「努力して人格を向上・完成させること」だったのである。(筒井清忠編『大正史講義・文化篇』)


    漱石自身が日露戦後の作家であり、三四郎や坊っちゃんなどの、「明治の精神」とは異なる新しい精神を描いたのである。『白樺』や『青踏』に集った者たちもまた、三四郎と同じ世代の新しい青年であった。

    関川夏央はこれらの新しい青年を「明治十五年以後生まれの青年」と規定する(『白樺たちの大正』)。彼らは日露戦争時に二十歳前後だった。蘇峰の言う「国是」には全く関係なく、自我の独立と拡張だけを願った。

    明治十五年には金田一京助、斎藤茂吉、野口雨情、滝田樗陰、鈴木三重吉、野村胡堂、山本鼎、種田山頭火。

    十六年に秋田雨雀、志賀直哉、高村光太郎、北大路魯山人、北一輝、汪兆銘、諸橋轍次、土肥原賢二、嶋田繁太郎、細川護立、植芝盛平、安倍能成。

    十七年に辻潤、中島知久平、山村暮鳥、永田鉄山、三浦環、小宮豊隆、長谷川伸、山本五十六、荻原井泉水、東条英機、竹久夢二、石橋湛山、下村湖人。

    十八年に大杉栄、尾崎放哉、板垣征四郎、北原白秋、田辺元、中里介山、正力松太郎、野上弥栄子、武者小路実篤、中勘助、土岐善麿、木下杢太郎、若山牧水、柳原白蓮、山下奉文。

    十九年に石川啄木、平塚らいてう、長沼智恵子、中野正剛、井上日召、山田耕筰、早川雪州、岡本一平、今村均、谷崎潤一郎、佐々木喜善、吉井勇、萩原朔太郎、藤田嗣治、大川周明。

    二十年に折口信夫、阿南惟幾、中山晋平、南雲忠一、荒畑寒村、小原國芳、石井鶴三、松本治一郎、山本有三、片山哲、重光葵、九条武子、蒋介石、芦田均。

    この連中が大正の文化を形成していくのである。『白樺』『青踏』の他、『赤い鳥』の童心主義、自由教育、修養主義、現代詩、大衆文芸がある。そして昭和の戦争に大きな責任を持つ軍人がいる。