文字サイズ

    東海林の人々と日本近代(三)大正篇①

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2022.07.30

    明治四十四年(一九一一)春、松山省三(明治十七年生)と平岡権八郎(明治十六年生)によって銀座に〈カフェー・プランタン〉が開業し、八月には築地精養軒経営の〈カフェー・ライオン〉、十二月にブラジル・コーヒーの〈カフェー・パウリスタ〉が続く。カフェーはコーヒー、洋酒に加えてライスカレーやオムレツなどの西洋料理を提供する店だった。『東京朝日新聞』が松崎天民によるルポを連載したことからカフェーの認知が広がった。

    〈パウリスタ〉では「銀ブラ」の語源は「銀座をぶらつくこと」ではなく、「銀座でブラジル珈琲を飲むこと」だと主張しているが、『三省堂国語辞典』の編集委員を務めた飯間浩明は、この説を「珍説」と呼び、〈パウリスタ〉がその根拠として挙げる資料からは、その結論が出てこないと、完璧に論破した。飯間は、一九九〇年代に〈パウリスタ〉が店の宣伝目的として広めたものであると結論付けている。

    因みに〈パウリスタ〉はブラジル殖民事業を手掛ける水野龍(安政六年生)の経営になり、店で使用するコーヒー豆はブラジル国サンパウロ州から無償で提供された。黒人奴隷制度を廃止したブラジルでは、コーヒー農園での人手不足が深刻だったのである。水野がサンパウロ州と交わした契約では、移民は家族移民に限る(出稼ぎではなく定住者を望む)条件だったが、家族移民はなかなか集まらず、偽装結婚、偽装家族も多かった。明治四十一年から大正九年まで、水野の送り出したブラジル移民は約三千人になる。

    小会社が乱立していた映画界では、四十五年三月に横田商会、吉沢商店、福宝堂、エム・パテー商会が合併して「日本活動フィルム株式會社」が作られ、九月十日に「日本活動冩眞株式會社」(日活)と改称した。この頃から漸く日本映画が実質的に生まれてきたと言って良いだろう。


    ・・・・明治期における一五年間の映画の足跡は、長いようであるが、すべては試みのうちにあった。活動写真作者は映画劇と舞台劇との相違を発見しようとせず、カメラ・メカニズムの君臨に一切が委ねられていた。それは日本もヨーロッパもほとんど同様であった。そして映画劇の発見者アメリカはまだ揺籃の中にあった。(田中純一郎『日本映画発達史』)


    そして大正改元の頃からアメリカのキーストン会社の喜劇の輸入が始まった。その中で最も人気を得ることになるのがチャプリンであった。おそらくヨーロッパと異なるアメリカ文化というものが、日本の庶民の眼にも明らかになったのがこの頃であろう。


    ・・・・ヨーロッパの室内喜劇とちがって、ボロ自動車が往来の真中で滑稽な衝突をしたり、公園の追い駆けがあったり、牛の尻尾へぶら下がったり、場面は俄然として屋外へ飛躍し、眼まぐるしいほどの珍無類な光景の連続となった。そこには、一片の思考も理屈もないかわりに、それこそ三歳の幼童も声をあげて歓喜する面白さがあった。(田中・同書)


    四月には吉本吉兵衛・せい夫婦が天満天神近くの寄席「第二文芸館」で、寄席経営の第一歩を踏み出した。吉本興業の発祥である。その後、吉本は現代社会に大きな影響を与えることになる。

    一方、日露戦争後から政府が進めてきた神社合祀政策によって、民俗や生態系が破壊されてきた。明治四十四年年八月には、南方熊楠がこれに抗議する書簡を柳田國男を通じて松村任三(東京帝国大学植物学教授)に送った。柳田がこれを『南方二書」として印刷し、関係者に配布したことから一般の関心が高まった。エコロジー思想の先駆である。

    つまり大正的なるものは実質的には日露戦争後から始まっていた。そして昭和から現在に繋がるものもこの時代に芽を出しており、大正は混沌としていた。

    東海林利穎とその家族は相変わらず苦しい生活に耐えていた。


    大正に改元して八月五日(又は十五日)、千代田区有楽町「タクシー自動車株式会社」がT型フォード六台で営業を開始したのが、メータ付きタクシーの始まりとされている。それ以前に運転手付きの貸し自動車(ハイヤー)は存在したが、タクシーの流し営業が始まったのである。

    九月、高橋完助の望みにより、小学一年生の揚五郎が高橋家に養子として引き取られた。但しまだ籍は入れていない。五月頃に話が始まった時、新しい勉強道具を買ってやるとか、春服を新調してやるとか、利器と利生は説得につとめたが、自分は兄のおさがりの古いものでよいから行くのはイヤだと泣いた。最後に承諾したのは、おそらく利穎の養子論を利生に説かれて了解したのだろうと皆男は推測している。しかし実際に揚五郎を手放すと、利器は泣いた。


    母親の日記によると、九月九日に揚五郎をつれて御目見得に置いてきている。しかも九月十三日には「今日より長く揚を高橋にやる」という物悲しい文言が書かれている。荷物は皆男が持って同行した。いかにも短兵急な断行である。

    果然、強行のウラには、母親として忍び難い心情があった。内証ごとのそのことは、秘密にしたというか、日記にはかかれていない。ただ皆男が実見したところによる。

    ある夜、床に入って寝入りばなのころ、大きな声に目をさました、利生の声である。「おかあさん!あした高橋へ行って揚五郎をつれてくるから・・・・・」という。思うに母親はふとんの中でむせび泣きをしていたと思う。夜があけて人の心は冷静となり、取り戻しの事は実行されなかった。(皆男)


    この年、荒畑寒村と大杉栄は社会主義運動の「冬の時代」を破るべく『近代思想』を創刊した。大杉の評論や荒畑の小説などを中心に、マックス・スティルナー、クロポトキン、ウェデキントなどの思想を紹介したもので、明治初期社会主義を、『近代思想』は学術・文芸の面で引き継いだ。


    ・・・・三十二ページ定価金十銭という薄っぺらなものであったが、とにかく大逆事件以後、沈黙雌伏を強いられていた社会主義者が運動史上の暗黒時代に、微かながら初めて公然とあげた声である。(中略)

    大杉が創刊号にのせた評論『本能と創造』は、短い感想風のものだが、彼の生涯の大きな特長であった行動哲学の本質がうかがわれて興味深い。とにかく、大杉は『近代思想』によって一どきに彼の学問的蘊蓄、文学的才能を発揮した観がある。(『寒村自伝』)


    しかしやがて、大杉のアナルコ・サンディカリズムと寒村のマルクス主義との対立が大きくなって行く。

    労働運動の場で引き継いだのは鈴木文治(明治十八年生)の友愛会だった。ただ結成当初は労働者同士の相互扶助が目的で、性格は共済組合である。澁澤栄一の援助も受けているので労使融和的であった。やがて第一次世界大戦の下で急増する労働争議に多く関係して、労働組合としての性格が強くなる。大正八年(一九一九)には大日本労働総同盟友愛会に、十一年(一九二一)には日本労働総同盟に改称された。

    石川啄木『悲しき玩具』(土岐善麿編集)、島崎藤村『千曲川のスケッチ』。


    大正二年(一九一三)二月十一日、大正政変で桂太郎内閣が総辞職した。第二次西園寺内閣が陸軍の二個師団増設要求を蹴ったことにより、軍部大臣現役武官制を楯に陸軍が大臣を出さず内閣は総辞職した。次に立ったのが第三次桂太郎内閣だ。


    この政変は、外観的・短期的には、陸軍が軍部大臣現役武官制の規定を利用して、陸軍に非協力的な内閣を倒閣した、いわば陸軍の「勝利」に終わったかのように思われた。しかし、その最終的な結末は陸軍にとってみじめなものとなった。陸軍の横暴に怒った「大衆」は議会を取り囲み(第一次護憲運動)、倒閣の黒幕と見なされた桂内閣はわずか二カ月間で退陣に追い込まれた。増師も当然ながら棚上げである。(高杉洋平「『軍縮期』の社会と軍隊」筒井清忠編『大正史講義』所収)


    犬養毅の立憲国民党と尾崎行雄の立憲政友会が先頭に立ち、「憲政擁護」、「閥族打破」を合言葉に倒閣運動を繰り広げた。国会前に集まった群衆は、かつての日比谷焼き討ち事件の様相を帯び、これを目撃した桂は辞職に追い込まれたのである。群衆=大衆の力が内閣を倒した。これを第一次護憲運動と呼び、いわゆる大正デモクラシーの時代に入っていく。

    しかしそれが本当にデモクラシーの名に値したのか。政党は党利党略に走るばかりである。むしろポピュリズムが政治の動向に大きく作用した。戦争さえもが、大衆の承認が得られなければ遂行できない時代になったのである。とすれば、昭和の戦争を惹き起こしたのは大正デモクラシーであったと言っても良いのだ。


    四月には利雄(十六歳)が秋田工業、皆男(十三歳)が秋田中学に入学した。利雄の場合は利生と同じで職業教育を身に着けるためだったが、皆男は養父石山峰五郎の希望によった。当時峰五郎は朝鮮会寧(現・北朝鮮)の郵便局長として羽振りが良く、入学費用として三十円を送金してくれた。

    三歳違いの兄弟が同時に中等学校に入学したのは何故か。当時の秋田工業の入学資格は満十四歳、高等小学卒業が条件である。修業年限は三年だから、小学高等科の二年間が予科の扱いになるのだろう。

    中学入学資格は尋常六年卒業が条件だが、皆男の年齢を計算すれば更に一年早く五年修了で飛び級入学したことになる。当時の秋田中学には高等科終了から皆男のような五修までが同時に入学し、クラスは年長組と年少組とに分けられた。

    利雄、皆男の入学にどれだけ費用がかかったか、利生が「新入学ニツキ消費高」として利穎に報告した明細がある。


    利雄
    洋傘(一円三十銭)、靴下(十銭)、英語読本(三十五銭)、方眼手帳(十四銭)、物理教科書(一円)、英習字帖(九銭)、修身書(三十銭)、国語読本(四十銭)、定規一組(三十銭)、弁当箱(十六銭)、革草履一足(三銭)、帳面(三十五銭)、印紙(三銭)、保証人証明手数料(十銭)、絵具(七十銭)、絵筆(二十五銭)、画手本(二十八銭)、工場服上下(二円)、ゲートル(五十五銭)、制服修繕代(三十銭)、靴一足(二円)
      合計十一円五十三銭


    皆男
    洋傘(一円二十銭)、カバン(六十八銭)、靴下(十銭)、シャツズボン(七十銭)、手帳(四銭)、下駄(十一銭)、修身教科書(二十銭)、地理附図(四十銭)、地理教科書(五十銭)、植物学教科書(四十七銭)、動物学教科書(四十六銭)、算術教科書(六十銭)、習字手本(二十五銭)、中学読本(二十五銭)、英習字帖三冊(二十七銭)、漢文読本(二十五銭)、歴史教科書(二十八銭)、英語読本(二十八銭)、中学図画帖(二十三銭)、インキ及びペン(六銭)、草履一足(二銭五厘)、帳面六冊(三十九銭)、罫引洋紙(六銭)、通信簿(十八銭)、在学証明印紙代(三銭)、保証人証明手数料(十銭)、校友会入会費(五十銭)、絵具(七十銭)、画筆(二十五銭)、鉛筆(六銭)、色鉛筆(十五銭)、筆入及び眞書筆(十銭)、襟章(二銭五厘)、制服代(十一円)、制帽代(一円五十銭)、ゲートル(五十銭)、習字筆一本(二十五銭)、解剖器博物学用(九十銭)、英和辞典(一円八十銭)、靴一足(一円九十銭)
    合計二十七円七十五銭


    利生は分類が苦手なのだろうか。洋傘や靴下は最初の方に挙げられているのに、靴一足は最後になる。私が書き出すとすれば、教科書代、教材、文具、衣服と履物、日用品等のカテゴリーで分ける。

    利雄の制服修繕代三十銭は古着を買って繕ったもので、他にも使えるものは殆どそれを利用した。教科書も利生のものがかなり使えたのではないか。教科書代が少ないのはそれが理由だろう。皆男の制服代十一円は新調である。石山から三十円送金されたための恩恵である。

    この当時からゲートルが必須だったとは知らなかった。皆男の一学年上の生徒の回想が『秋高百年史』に載っている。


    すべて軍隊式というか、ゲートルの着用を正装とするようになったことがある。それまではゲートルのまま教室に入ると、神聖な教室であるからとのことで叱られたようだが、そんな服装に関する決まりなどは、校長の考えによって変更されたものであったろうか。(大六卒・池見元一)

    軍隊から払い下げられた古い鉄砲、弾倉などが、四年以上に全員にもたせる量が備わっていて、一年に二回くらい、新屋の割山の射撃場で、連隊からきた教官の指導のもとに、一人五発ずつ実弾射撃の練習をしました。(大六卒・物部長照)


    普通の年表では中等学校における軍事教練は、大正十四年(一九二五)の「陸軍現役将校学校配属令」によって配属将校が配置されたことを初めとしているが、実は強制される十年以上前から行われていたのである。秋田中学でのゲートルは当時の児玉實徳校長(大正元年十月~四年九月)の時代に始まった。海軍式の白のズック製で、土足泥まみれの靴で教室に入り、一日中ゲートルを外さなかったと言う。

    また皆男の二年上級には東海林太郎が在籍していた。音楽は勿論だが、体操が得意な生徒として有名だった。


    彼が頭角をあらわしてきたのは三年の中ごろからである。

    跳び越し台がずば抜けて旨い。体操の「山蜘蛛」(小室先生)が、「太郎、きさん(貴様)、バカにうまい(上手い)ねが」ときたものだ。

    さらに驚くに至ったのは、彼の器械体操の技術であった。二級先輩に武藤鉄城さんがいた。この人は、まずまず当時鉄棒の名人であった。ところが、東海林君がこの先輩や多数の人々のなかで、堂々と大車輪をやってのけた。当時の生徒としては全く驚異に値するものであったのだ。(大正五年卒・大島清蔵)


    七月、小林一三(明治六年生)が宝塚唱歌隊を結成した。第一期生十六人を採用し、十二月に四人を加え、「宝塚少女歌劇養成会」と改称した。当時人気を博していた三越少年音楽隊(明治四十二年創設)を模したものだったらしい。明治四十四年には白木屋少女音楽隊、大正元年には大阪三越百貨店と京都大丸百貨店も少年音楽隊を作っていた。第一回公演は翌年である。

    小林は箕面有馬電気軌道株式会社の専務(社長不在なので実質的な代表)として、路線の開業した明治四十三年には、池田で当時珍しかった月賦方式による住宅分譲を開始した。箕面に日本最大級の広さを誇る箕面動物園、四十四年には宝塚に新温泉を開いていた。昭和四年には日本初のターミナルデパート阪急百貨店を創業する。阪神間モダニズムが始まったのである。

    七月四日、前年以来争われていた桃中軒雲右衛門のレコード著作権に関する裁判が決着した。レコード吹込みをした直後、雲右衛門は自らの著作権をドイツ人に譲渡していたが、それを知らないレコード会社が複製販売した。これに対してドイツ人が著作権侵害だと訴訟を起こした。これが日本における音楽著作権訴訟の最初である。レコード会社にしてみれば実に心外な事件であった。問題は、①浪曲は著作物であるか否か、②浪曲が著作物ではないとしたら、浪曲を記録したレコードは著作権の対象になるか否か、であった。大審院の結論は、浪花節は著作物ではなく、そのレコードには著作権は及ばない、というものである。そもそも当時の著作権法が対象にする範囲には、次のように音楽及びその演奏は含まれていなかったのである。


    第一条 文芸演述図画建築彫刻模型写真その他文芸学術もしくは美術の範囲に属する著作物の著作者はその著作物を複製するの権利を専有す。文芸学術の著作物の著作権は翻訳権を包含し各種の脚本および楽譜の著作権は興行権を包含す。


    これが問題になって、著作権法の改正が行われ「演奏歌唱」を著作物の例に加えることになるのは大正九年のことになる。

    八月二十一日、東北帝国大学理科大学が女性四名の受験を許可し、三名が帝国大学初の女子学生として入学した。黒田チカ(東京女子高等師範卒)、牧田らく(同)、丹下ウメ(日本女子大学卒)。入学試験実施中、文部省は「元来女子を帝国大学に入学せしむることは前例これ無きことにて頗る重大なる事件にこれあり大いに講究を要し候」と大学に事情説明を求めたが、東北帝大はそれを無視した。


    その後黒田は母校東京女高師(のちのお茶の水女子大学)の教員となりやがてオックスフォード大学等へ留学。帰国後は恩師真島利行のもとで理化学研究所の嘱託を兼ね、紅花の色素に関する研究等で業績を上げました。昭和四年(一九二九)には、日本国内では二番目の女性理学博士として、本学の学位を得ています。なお本学理学研究科では、こうした黒田の業績に因み、優れた業績を挙げた大学院生に対する賞として「黒田チカ賞」を平成十一年(一九九九)に設けています。

    また丹下は大学院進学後米国に留学。帰国後は母校日本女子大の教授となる一方やはり理化学研究所に入所し鈴木梅太郎のもとでビタミンの研究に従事、農学博士となっています。

    牧田は黒田同様母校女高師に教員として戻りますが、洋画家・金山平三との結婚を機に退職、孤高の画家と呼ばれた金山を支える後半生を送りました。(「東北大学 女子学生入学百周年事業 女子学生の歴史」)http://morihime.tohoku.ac.jp/100th/rekishi.html


    この当時、帝国大学は東京、京都、東北、九州の四大学しかない。勿論女子学生が入学してくることは全く想定されていなかった。東京女高師、津田英学塾、日本女子大など質の高い教育機関(専門学校令による専門学校)が充実してきており、女子の受け入れは東北帝大初代総長・澤柳政太郎の門戸開放路線によった。その後、北海道帝国大学(大正七年)、京都帝大(八年)、東京帝大(九年)も選科に限って女子学生の受け入れを決める。

    九月四日、栃木県吾妻村下羽田(現佐野市)の庭田清四郎方で田中正造が死んだ。七十三歳。運動資金援助を求めるため七月から古参の支援者らへの挨拶回りの旅に出ていたところ、八月二日、庭田清四郎宅で倒れたのである。枕元の信玄袋に入っていたものは、日記三冊、「苗代水欠乏、農民寝食せずして苦心せるの時、安蘇郡および西方近隣の川や細流巡視、及びその途次に面会せし同情者の人名略記」と題した報告書の草稿、新約聖書、帝国憲法とマタイ伝を白糸で綴りあわせた小冊子、鼻紙少々、石ころ数個であった。鉱毒問題に文字通り全てを擲った生涯であった。


    ・・・・明治三十四年の直訴事件が翁の思想的限界であって、単純素朴なデモクラットに過ぎないというような、翁よりもモット高級のイデオロギーに基づく批評もあった。そうに違いない。翁は社会主義者でもなければ、共産主義者でもなかった。だが、鉱毒被害地四県の人民のために翁のいわゆる「政府・資本家共同の罪悪」とたたかうこと三十年、奥さんの名をさえ忘れたほど家を顧みず、産を治めず、日夜奔走尽力した翁の如き人物が、思想的には翁よりモット高級な社会党員や共産党員の間に居るだろうか。

    田中正造翁はたしかに一デモクラットに過ぎないであろう。しかし翁は孟子のいわゆる「民を貴しとし、社稷これに次ぎ、君を軽しとす」る底の、土から生えたデモクラットであった。(『寒村自伝』)


    十二月十二日夜十一時頃、利器が突如として下血、気絶三度に及んだ。父は不在、利雄十六歳、皆男十三歳、責任を負うのは十九歳の利生しかいない。


    まず向い家の妻にきてもらい、皆男を起して西田に走らせ(妻女の手伝い依頼)、利雄は加藤に走らせ広瀬医師に電話をかけてもらう。気絶を呼びさまし水を口に含んで顔に吹き付ける。医師きて注射、すでに十三日になる。利雄を薬とりにやる。利生と西田は夜詰めをする。五時より西田は朝飯の支度をし、弟らを学校にやる。利生は会社に行き欠勤の許可をとる、十時ごろまた差込とふるえ来たりしも気絶に至らず。漸次平穏の様子。


    幸い大事には至らず利器は回復したが、現代の十九歳(満十八歳)の少年が、これだけ手際のよい処置をとれるものか。そして利器の体調はこれ以後余り芳しくない。病気の原因は分らない。

    この年九月から、二十九歳の中里介山(明治十八年生)が『都新聞』に『大菩薩峠』の連載を始めた。この後十年以上にわたり発表舞台を変えて書き続かれる、実に気の遠くなるような小説である。ニヒルな剣士はその後の時代小説に大きな影響を与えたが、途中から机龍之介はどうでもよくなり、ユートピア建設の夢を抱きながら挫折する。

    森鴎外訳『ファウスト』第一部、徳富蘆花『みゝみずのたはこと』、中勘助『銀の匙』、斎藤茂吉『赤光』、和辻哲郎『ニイチェ研究』。雑誌『郷土研究』(柳田國男・高木敏雄)創刊。


    大正三年(一九一四)一月、利生(二十歳)は秋田瓦斯の技術員に昇格したが、月俸十三円は変わらない。米価で比較して、大正三年に米十キロが一円ちょっと、現在五千円とすれば、十三円は六万五千円にしかならない。女子高校生がマクドナルドでアルバイトして時給千百円、一日三時間働くだけで二十日で六万六千円になる。悲しくなってしまう金額ではないか。

    二月十四日、前橋駅前で萩原朔太郎(二十九歳)と室生犀星(二十六歳)が初めて出会った。前年、白秋主宰の『朱欒』(ザンボア)に掲載された犀星の「小景異情」や「青き魚を釣る人」等に朔太郎が感激し、熱烈な手紙を送って文通が始まっていた。

    二人が出会うきっかけになった『朱欒』は明治四十四年(一九一一)十一月から大正二年(一九一三)五月まで、全十九冊を刊行し終えた。『朱欒』が終刊したのは、白秋の姦通事件未決拘留の影響であろう。木下杢太郎、吉井勇、『明星』『スバル』系の文学者たちが主に執筆し、『白樺』、『三田文学』、『新思潮』の新進作家も寄稿して、反自然主義の牙城となっていた。


    大正二年の春もおしまひのころ、私は未知の友から一通の手紙をもらつた。私が當時ザムボアに出した小景異情という小曲風な詩について、今の詩壇では見ることの出來ない純な眞實なものである。これからも君はこの道を行かれるやうに祈ると書いてあつた。(室生犀星「萩原朔太郎『月に吠える』跋文」 )


    犀星は朔太郎の金を当てにし、一ヶ月でも二ヶ月でも食わせてもらおうと前橋にやって来たのである。


    ・・・・・前橋の停車場に迎えに出た萩原はトルコ帽をかむり、半コートを着用に及び愛煙のタバコを口に咥えていた。第一印象は何て気障な虫唾の走る男だろうと私は身ブルイを感じたが、反対にこの寒いのにマントも着ずに、原稿紙とタオルと石鹼をつつんだ風呂敷包一つを抱え、犬殺しのようなステッキを携えた異様な私を、これまた何て貧乏くさい痩犬だろうと萩原は絶望の感慨で私を迎えた。と、後に彼は私の印象記に書き加えていた。(室生犀星『我が愛する詩人の伝記』)


    朔太郎の父親は文学を毛嫌いしているから家に泊めることはできない。利根川沿いの下宿屋に犀星を泊めた。勿論金は全て朔太郎が出し、期間は一ヶ月に及んだ。裕福な開業医の息子である朔太郎と違い、犀星は金沢に私生児として生まれ高等小学校三年で中退した。全く境遇の違う二人がこの一ヶ月で生涯の盟友になる。


    三月十五日に強首(こわくび)地震(秋田仙北地震)が起きた。マグニチュード七・一。震源地は神宮寺付近と推定される内陸直下型地震であった。死者九四人、負傷者三二四人、住家全壊六四〇棟。数年前の六郷地震のとき、湯沢で受けた揺れと殆ど似ていると利器は感じた。


    ・・・・彼の夜は小生も非番にて家にあり、十五日夜、すわ地震と起き立てばバッタリ倒れて、ようやくにして母の床に至り、伸を抱き母を助けんとせしに、母はいきなり我に抱きつき、死なば諸共と・・・・。ようやく片手に伸をつかみ、片手に母を起こして立ち、他の弟等と共に外に出でたりけり。外は昨夜来寒気激しく一面の銀世界、寝まき姿にて出たる故、その寒きこと一方ならぬなり。(利生から利穎へ)


    「死なば諸共」とは只事ではないが、利器は前年暮以来介抱療養中であり、心が挫けそうだったかも知れない。

    前年から夫婦不和になっていた和田忠吉とミワが四月に離婚した。これで弥生を養子にする話は御破算になった。ミワは十二月に工藤金助と再婚する。工藤もやはり木材業だったようだ。


    山口県玖珂郡横山村に生まれ岩国高女を卒業した宇野千代(十八歳)は、川上村小学校の代用教員となって、月給八円を貰った。二年前の女学校時代には、義母の姉の長男(藤村亮一)と結婚したが僅か十日で破綻していた。そして同僚教師との恋愛が問題にされ、千代は翌年には解雇される。

    六月二十八日、サラエヴォ事件が起こった。ユーゴスラヴィア民族主義者ガヴリロ・プリンツィプが、サラエヴォへの視察に訪れていたオーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公を暗殺したのである。七月二十八日、オーストリア=ハンガリー帝国がセルビア王国に宣戦布告し、ロシアが総動員令を発したことで第一次世界大戦が勃発した。

    八月二十三日、日本もドイツに宣戦布告した。山東地域のドイツ租借地を押さえ、更に南洋諸島のドイツ領を獲得するためである。井上馨が大隈首相に送った意見書に「大正新時代の天祐」と書いたように、この機会に乗じて東アジアでの権益を拡大することは国民の声でもあった。


    東海林家では利器の健康問題もあって、何かと物入りが続いていた。


    今回の御送金十六円、父上様にても格別に奮発被下候段誠に難有・・・・・母の健康につき、これより寒気に入ればまた種々なる病の発生せぬということもなければ、転ばぬ先の杖にと思ひ、今月より毎日牛乳五勺づづ飲む事と致し候。父上様もその為にとて特に多くの送金を被下たれば母は有難さを身にしみて悦んで養生致居候。かく致したらんには昨年の如きことはよも有間敷と存居候。

    父上様にも出来得る限り御養生御自愛なされ、何でも長命を保ち下され度。我ら兄弟は充分成長して父母様に安楽に暮させ度、それのみの処に候間、何卒然くなる以上、大隈伯の百二十五歳までも長命を父母共に保たれん事を祈上候。」(大正三年十月二日付、利生より父への手紙)


    「大隈伯の百二十五歳」とは、大隈重信が人間の寿命は百二十五歳と主張していたことだ。大隈は一度政界を引退していたが、この頃の大隈の国民的人気は絶大だった。何故、それ程の人気を得ていたのか、今ではその雰囲気が分り難い。早稲田大学の総長に就任したのをはじめに、様々な協会等のトップに立ち、新聞雑誌メディアに登場して多彩な言論活動を行っていた。

    十六円の送金が「格別の奮発」だから普段はもっと少ない。それにしても利生の月給十三円と併せて合計二十九円での生活は楽なものではない。さっきの計算を適用すれば、現在の十四万五千円でしかない。それなのに東海林家では、陸軍機密演習に参加する軍人のための民宿を、身銭を切っても引受ける。勿論、利穎の指示である。


    ・・・・・(陸軍は)戦後に発生した日比谷焼打ち事件をはじめとする一連の都市騒擾期を通じて、「民衆」という政治主体の登場をも目の当たりにすることとなった。すなわち、陸軍にとって地域住民は戦時における重要な動員対象であると同時に、軍や国家の秩序に対する脅威ともなりうる存在であった。このように新たな歴史的段階を迎えた陸軍は、帝国在郷軍人会の結成に象徴される一連の思想動員政策に着手するなど、国民思想の動向に強い関心を示すようになった。(中略)

    以上のような状況下で展開された軍事演習においては、地域との関係が重要な規定要因となっていった。まず日露戦後段階においては、遺族・廃兵の処遇や「郷土部隊」意識の酒養など、地域における衛成部隊の求心力を維持し、共同体内の対立を予防することを意図した演習が実施された。(中野良「日本陸軍の軍事演習と地域社会 : 軍—地域関係史 の一試論」東北大学文学博士論文要旨)


    陸軍による演習と民泊の意図は、地域住民との交流によって軍への好感度を醸成するというものだった。そして地域の側からはどうだったか。


    ・・・・・演習に伴う地域の負担は実に大きなものがあった。

    そのことは陸軍も理解しており、さまざまな形で思想動員や負担軽減を図ったのであるが、少なくとも地域有力者層はそのような意図に同調し、自らの地域統合にも演習を活用しようという意識があった。また、それ以外の住民にとっても、物質的待遇問題を見る限り、基本的に演習部隊は歓迎すべきものと認識されていたようである。しかし、演習歓迎をめぐる民意は陸軍の理想としたものとは大きくかけ離れており、また結果的に負担を増加させかねないものでもあった。(同)


    十月二十五日には騎兵二名の宿泊を引受けた。東海林家に近い馬口労町には、馬のセリ市の馬繋場があり、その関係で騎兵の宿を頼まれたらしい。二名の兵を接待するため、兵が持参した食料とは別に、料理と酒八合を出した。これは軍の意図とはかけ離れた過剰接待ではないか。東海林の家計ではかなりの負担だったと思われる。更に十一月四日には兵三名の宿泊を引受ける。


    こうして兵隊を快く接待することは、父を貫く武士の精神と、これを承ける母の陽気な性質とから、男の子達が無意識のうちに、そうした家風を身につけたものと思う。(皆男)


    皆男も、大阪在住中の昭和二年十二月には、篠山七十連隊の宿舎割に応じ、名古屋地方の特別大演習に向う歩兵二名の宿泊を引受けている。軍隊が好きな家族である。これを「父を貫く武士の精神」と言うのか。

    その他に東海林家に特徴的なことに祭神や儀礼があった。


    祭神はもとは屋敷内の氏神堂に祀っていたもので、三神ある。稲荷大明神、蔵王大権現、青弊熊野大権現の三神である。明治以後、祭事も衰微したが、母は留守宅においてもよくその礼を守り、ささやかながらお祭りしていた。稲荷さんは十一月廿六日、権現さんは十二月十二日、別当をよんでのりとをあげたり、あづき飯を供えたりした。

    右のほかに恒例の儀礼がある。正月の春新祷、大晦日の素焼きの餅食い、これは、先祖が倹約して白焼きの餅を食べたところ、神助があったとて、倹約の美風を伝えるものである。また利生の誕生日一月廿三日に、木村吉松の萬歳を催し、近所の人たちも来観する。これは母が留守宅経営に創始した例事であった。


    七月八日、孫文が上野精養軒で中華革命党成立大会を開催した。辛亥革命後、袁世凱の独裁強化を抑えるため、中国同盟会は国民党を結成し、議会によって抑えようとしたが効果なく、反袁の第二革命(一九一三・七)にも敗れていた。孫文は敗因が組織の散漫さにあるとみて、彼に絶対服従する秘密結社を必要としたのである。いわば中国革命におけるボルシェヴィキであったが、しかし殆ど実効性は持たなかった。


    十一月十一日、鵜沼国義の嫡子である国寧(三十二歳)が満州で死んだ。国義はタツの弟で、国義の妻ツキは利器の姉にあたるから、利穎にとっては叔父であり義兄でもあり、東海林家との付き合いは深い。鵜沼家の系譜を見ると、鵜沼喜惣兵衛の長女スミの婿養子に入ったのが源三郎であり、国義は源三郎の養子として鵜沼家を継いでいた。

    ネットを検索していると、鵜沼源三郎の名が戊辰戦争の「三崎口先鋒賞罰調査書上」に見つかった。https://nakadasyasinnkan.blogspot.com/2021/04/blog-post_37.html


    鵜沼源三郎
    右者八月二十九日君ケ野於戦争之節勉励決戦討死致し候


    これによると、八月二十九日の戦死は源三郎一人だけのように見える。その他重傷、手傷を負った者には褒章を、「心得違い」、「不覚」の者へは「お叱り」を与えるための調査報告である。三崎口とは、庄内第三番隊と亀田の岩城内記隊とが合同で秋田藩と戦った地域で、この戦闘に敗れた結果、亀田隊は亀田に戻って新政府軍に降伏することになる。

    国義は嘉永六年(一八五三)五月村田應感の次男として生まれた。鵜沼の養子に入るのは二十歳前かと皆男は推測しているが、源三郎の戦死による末期養子となったのではないだろうか。それならば国義十六歳である。

    鵜沼で最も有名なのは、亀田藩の大目付、家老、明治になって亀田県権大参事、明治二十二年の町村制施行に伴う初代町長の亀田国蒙だ。この家との関係は分らない。ただ菩提寺の正念寺は同じだし、名前に「国」が共通するのは一族の可能性を示すのではないだろうか。国義の名は、鵜沼に入ってからの名乗りだと私は思っている。

    また鵜沼の姓について、全国の三分の一が福島県いわき市に分布しているという(「鵜沼」の苗字の由来https://www.folklore2017.com/10000/10000/10305.htmより)。それならば岩城氏が本貫の地を支配していた時代から仕えてきた家柄かも知れない。

    国寧は関東州の民生局で警官をしていた。関東州は日露戦争後のポーツマス条約で獲得した、遼東半島先端部と南満州鉄道附属地を併せた租借地である。当初は軍政が敷かれたが、明治三十九年(一九〇六)九月に民政に移管され、関東都督府が設置された。だから国寧の所属は正しくは関東都督府民生部警務課だったと思われる。この時の関東都督は福島安正中将、民政長官は白仁武であった。


    大正年間、第一次世界大戦を前後して、多くの日本人の青年が、徒手空拳で大陸に渡った。彼らは、大不況後の移住者たちのように、内地での生活の行きづまりのため渡航したのではなく、ロマンティックとしか云いようのない――「僕も行くから君も行こ、狭い日本にゃ住みあいた、波隔つ彼方にゃ支那がある、支那にゃ四億の民が待つ」という「馬賊の歌」の身も蓋もない歌詞に投影されている動機も目的もあきらかではないだけに暴力的な気分といったような――感情にとりつかれていた。(福田和也『地ひらく――石原莞爾と昭和の夢』)


    福田が引用しているのは『馬賊の歌』であるが、歌詞が私の記憶(海の彼方にゃ支那がある)と少し違う。調べてみると添田知道『演歌の明治大正史』がこの歌詞を採用しているから、これが本筋なのだろう。


    宮崎滔天作と伝えられたがその真偽はともかく、大陸での浪人歌が内地に流れこんで歌われたのは、どういうことだったろうか。〈せまい日本〉を実感すれば、広漠の自由を夢想する、そこまではわかる。しかしそれが〈雄飛〉なるヒロイズムに通ずるところに問題が生ずる。だがそうした浪人的大言壮語とはうらはらの、さまよい心の潜みをもつのが衆庶の一般であった。(添田知道『演歌の明治大正史』)


    演歌師の宮島郁芳が新しい曲を付けて歌詞も変更し、大正十一年にレコード化したのが現在流布しているものである。宮島は『金色夜叉』や『流浪の旅』も作っている。この頃の演歌師は民権運動時代の壮士ではなく、苦学する学生出身だった。ヴァイオリンを用いる者が出てきたのもこの頃である。

    添田知道が掲載している歌詞は以下である。


    僕も行くから君も行こ 狭い日本にゃ住みあいた
    浪隔つ彼方にゃ支那がある 支那にゃ四億の民が待つ
    俺に父なく母もなく 別れを惜しむ者もなし
    ただ傷はしの恋人や 夢に姿を辿るのみ
    国を出た時や玉の膚 今ぢゃ槍傷剣傷
    これぞ誠の男の子ぢゃと ほほ笑む面に針の髯(以下略)


    一方ネット上で見ることのできるのは宮島郁芳作詞・作曲者不詳とされるものだ。


    俺も行くから君も行け 狭い日本にゃ住み飽いた
    海の彼方にゃ支那がある 支那にゃ四億の民が待つ
    俺には父も母もなく 生まれ故郷にゃ家もなし
    慣れに慣れたる山あれど 別れを惜しむ者もなし
    嗚呼いたわしの恋人や 幼き頃の友人よ
    いずこに住めるや今はただ 夢路に姿辿るのみ(以下略)


    伊達順之助(明治二十五年生)が大陸に渡ったのもこの頃である。順之助は男爵伊達宗敦の六男であるが、実に何とも無茶苦茶だった。中学をいくつ中退転校したか分らない。慶應中学時代には出刃包丁を隠し持っていた。立教中学在学中に縄張り争いで相手の不良学生を射殺したが(銃弾二発命中)、伊達家弁護人の活躍で執行猶予を得ている。善隣書院(院長は宮島大八と川島浪速)では「満蒙決死団」を組織し、安田善次郎を暗殺した朝日平吾や小磯国昭少佐が参加した。大陸に渡ってからは張作霖爆殺計画や、川島浪速の第二次満蒙独立運動等にも加わった。満州国軍の将軍になり、終戦後は上海で戦犯として処刑される。彼を主人公として檀一雄は『夕日と拳銃』を書いた。

    また全馬賊の総頭目とも呼ばれた小日向伯郎(明治三十三年生)が大陸へ渡ったのはこの二年後のことだ。小日向は押川春浪の冒険小説や郡司成忠大尉(幸田露伴の兄)の千島探検によって海外雄飛の夢を抱いたらしい。

    実は『馬賊の歌』はもう二つある。ひとつは昭和十二年、野村俊夫作詞、古関裕而作曲、伊藤久男歌。


    高粱しげる野の果てに/赤い夕日のしずむとき
    駒をとどめて興安嶺(ヤマ)からの/風に故郷の空を見る


    未練のなみだ ふりすてて/男意気地の 青龍刀
    今日は東よ 明日あすは西/風にまかせた このからだ


    もうひとつは昭和三十一年の東映映画『夕日と拳銃』(主演・東千代之介)の主題歌で、佐藤春夫作詞、古関裕而作曲、伊藤久男歌。明らかに戦中の歌詞だと思うが、昭和三十一年の時点で馬賊にヒロイズムを見るのは何故か。昭和三十一年の年表を見ると、「愛国者団体懇親会」第一回会合(右翼団体結成)、公職追放第一次解除、赤尾敏が中心となって大日本愛国党を結成(右翼団体復活)、A級戦犯の減刑・釈放などがあった、いわゆる「逆コース」と言われた時代だ。


    黒龍江に水かいて/馬は荒野のつむじ風
    蹄は亜細亜揺すぶりて/鞭に風切る憂さ晴らし
    赤い夕陽を身に浴びて/夢は歴史を駆け巡る


    鞍に百花の散りきたり/我は万里の野の覇王
    仁あり義あり力あり/悲歌慷慨の友多し
    赤い夕陽を身に浴びて/夢は歴史を駆け巡る


    国寧は明治四十一年十一月(二十六歳)には写真を送ってきて「人物上等ナレドモ写真師ガ技術ガ下手ナル為メ化物ノ如ク写ッタ」なんて冗談を添えていた。


    当清国ハ、皇室の凶事ノ為メ人心動揺、革命ノ気風満々、政府ハ戒厳益々厳、虚報頻リニ伝ヘラレ人心不安ノ極ニ達シ居リ、内乱又ハ他国ノ開戦ハ避ク可カラザルモノト思ヒ居ルガ如シ。小職等目下民心ノ慰撫ト戒厳ニ、日夜奔走中也。

    一昨年二十日大連カラ石本署長及森上金州支署長、管内巡視ノ為メ来所ノ報ニ依リ種糟署長ニ随行シ、署長一行ヲ金州ニ出迎ヘ普蘭店マテ随行、仝の同所ニ点検訓授アリ、昨日一番上リ列車ニテ帰所。本日馬賊三名逮捕ス。近況マテ草々不一


    「皇室の凶事」とは清朝十一代皇帝光緒帝の崩御である。後の調査では光緒帝の遺髪から大量のヒ素が発見され、毒殺であることは間違いない。溥儀『わが半生』は袁世凱を犯人としているが証拠はない。

    「日夜奔走中」の元気な男が病に倒れたのである。職を失い、最期は行き倒れとなって行路病院で亡くなった。遺書が哀切である。


    七八月ノコロ脚気ニ罹リシガ、自活ニ追ハレ静養スル暇ナカリシ処、十月初ヨリ腎膵炎ニカカリシガ、療養シ度モ金ナシ。無理ニ押シ来リシ処、今ヤ全身腫レ、自由ニ歩行ヲ失ヒ、食事ハ全ク出来ジ。服薬ナドハ無論出来ジ、日ニ険悪トナリ。此分ニテ押シ行カバ、余命長カラサル事ト存ジ候。三十二年ノ長キ月日、海山ナラヌ御厚恩ヲ謝シマス。不幸ニ不幸ノミ重ネ此ノ始末。不悪御許被下。今居ル青木サンニハ少カラス世話ニナリマシタ
    申上度事ハ沢山アリマスカ先立ツモノハ涙ノミ
        体ハ・・・・・・・・・書キキレマセヌ
    オトウサン ドーソ カンニンシテ下サイ サヨナラ
        父上様           国寧


    関東州民生局からは、入院費用、葬儀費用、遺骨送料合計五円五十銭を払えと言って来た。国義六十二歳、金はない。親戚に縋るしかない。年金制度のない時代、孤独な老人が生きていくのは奇跡のようなものである。


    本月七日より行路病院に入院致候得共、手おくれに相成、薬力効無く本月十一日午前十時三十分死亡ニ付、当署に於て葬儀執行屍体火葬ニ致す。右費用左の通り。

    七日より十一日迄日数五日間一日四十銭づつ、葬儀料金三円五十銭、遺骨送付料三十銭、合計五円五十銭納付可致事と申参り候ニ付、実に当惑致候。

    此件石山熊次様へ、正念寺(鵜沼の寺)秋田市へ用事出来ニ付参り、石山へ相談致呉れ候処、早速金六円被下候ニ付、直に民政署へ送金致候間、他日遺骨回送着致候得ば、送葬致候間、其節御通知申上候也。
        十一月二十三日  鵜沼国義
      東海林利頴様
         おみわ江 (利頴妹ミワ)
           おさへ江 (利頴長女サエ)
    二伸 申上度事 山々御座候得共 兎角先立つものは なれたナイ


    末尾の意味は不明だ。明治十九年に妻ツキに先立たれた時は三十四歳で、国義はそれ以後独身を続けてきた。三十六年二月に養母スミが死に、そして六十二歳で一子国寧の死にあうのである。


    十一月には講談社が『少年倶楽部』を創刊した。同種の先発に博文館の『少年世界』(明治二十八年創刊)、時事新報社の『少年』(明治三十六年創刊)、実業之日本社の『日本少年』(明治三十九年創刊)などがあった。『少年倶楽部』は昭和三十六年まで続くから、少年への影響は大きい。利雄、皆男、弥生もどこかで借りて読んだに違いない。

    特に大正十四年(一九二五)頃から佐藤紅緑・吉川英治・高垣眸・大佛次郎等一流作家に長編小説を書かせたことが当たった。田川水泡『のらくろ』(昭和六年)、島田啓三『冒険ダン吉』(昭和八年)で更に読者を広げていく。

    二十七歳の平塚らいてうが二十四歳の奥村博史(「若いツバメ」と噂された)と同棲を始め、十一月号を最後に『青踏』の編集長を伊藤野枝に譲った。創刊以来、世間の反発は強く、この頃には「新しい女」は「ふしだらな女」と見做されるようになり、部数も落ち込んでいた。らいてうは飽きたのであるが、後年には、野枝に押し切られた形で編集を譲ったと告白している。野枝は「私に全責任を負わして頂いて私の仕事としてもよろしう御座います」と言ったのだ。

    この年、芸術座第三回公演で『復活』が上演され、三十歳の松井須磨子の歌う『カチューシャの唄』が爆発的に流行った。作詞は島村抱月(四十四歳)と相馬御風(三十二歳)、作曲は中山晋平(二十八歳)である。蓄音機は高価でまだそれほど普及していない。二万枚以上売れたというレコードの影響よりも、街頭や空き地で演歌師が歌い、歌本を売ったことの方が大きかった。


    ・・・・日露戦後の東都遊学熱で、書生人口が増えたことがある。苦学生も多かったが、それを好感をもって迎える空気が東京にあった。(中略)

    こんなアルバイトには、夜間の小時間ですむところから、演歌が好適だった。書生姿が歌って本を売る処から、かつて演歌を壮士節とよんだ市民は、こんどは書生節と呼びならわすようになっていく。(添田知道『演歌の明治大正史』)


    ・・・・中山は当時抱月の書生をしながら、小学校の教師をしていたが、学校唱歌調とおなじヨナ抜き長音階のこの歌は、たちまち当時の若い世代を魅了して全国にひろがっていき、小学生に歌うことを禁止する布令が出されるに至る。これは偶然の成功ではなく、中山は早くから、唱歌調による民衆的な歌を作ることを考えていたと言われる。(見田宗介『近代日本の心情の歴史』)


    須磨子は明治十九年(一八八六)、長野県埴科郡清野村(現・長野市松代町清野)士族小林藤太(旧松代藩士)の五女(九人兄妹の末っ子)、小林正子として生まれた。六歳で上田町の長谷川家の養女となったが養父の死に伴い実家に戻った。十七歳の春、麻布飯倉の菓子屋〈風月堂〉に嫁いでいた姉を頼って上京し、戸板裁縫学校(現・戸板女子短期大学)に入学する。その後、坪内逍遥の文芸協会演劇研究所第一期生となって『人形の家』の主人公ノラを演じたが、抱月との恋愛が問題視され、前年に島村抱月と共に芸術座を立ち上げていた。

    須磨子は近代女優の一号とされるが、一方、明治四年生まれの川上貞奴もまた近代女優一号とされる。貞奴は川上音次郎とともに明治四十一年に帝国女優養成所を設立し、女優の育成を始めていたところだった。新劇と新派の対立の源流である。

    芸術座の劇中歌からは、『ゴンドラの唄』(北原白秋作詞・中山晋平作曲)、『さすらいの唄』(北原白秋作詞・中山晋平作曲)が生まれている。『さすらいの唄』にはロシア文学というより股旅物(勿論、「股旅」という言葉が発明されるのはもっと後であるが)の匂いがあるが、後の『流浪の旅』の荒んだ気分は入っていない。


    行こか戻ろか
    北極光(オーロラ)の下を
    露西亜は北国 はて知らず
    西は夕焼け 東は夜明け
    鐘が鳴ります 中空に


    長谷川伸も三十歳になった。『都新聞』記者として在籍しながら初めての小説『横浜音頭』を山野芋作名義で連載し、翌年に単行本として出版する。事実上の処女作であるが、著者が抹消作としたので内容は分らない。最底辺を生きてきた長谷川がやっと生涯をかけて悔いない仕事を見つけたのである。

    明治四十四年十二月に『都新聞』に入社する前は兵役の後、横浜の小さな新聞社の外報記者をして経験を積み、時には連載小説の穴埋め仕事も頼まれていた。ただ夜の街の一部では、長谷川は少し危ない、愚連隊の一味であるように思われていた。

    二十六歳のある日、友人の文次(おそらく野崎迂文)の頼みで、横浜の娼館〈ニッコーハウス〉の娼婦の自由廃業に手を貸した。かなり危ない目にもあい、恐喝取材のようなこともやり、十三人の娼婦の解放が実現した。しかしその結果はどうだったか。


    新コが経過はどうであろうとも、恐喝取材に該当しそうなことまで、出来上らせたこの一件の十三人の女のうち、文次とクウ公と伸コが一人ずつ引取ったうち、一人は自殺し、一人は病死、一人は立ち去り、満足な結果は遂にない、三人の男のそれぞれが、一人に一人ずつの然るべき男ではなかった故です。その他の十人のうち、単独自廃のキチシーのお澄と、合意廃業のお松を除いて、故郷へ帰らせたのが二人、男に引き取らせたのが六人、併せて八人のその中からも、二人の自殺者と、異人屋よりもっとひどい処へいったものが三人あります、どうなったか判らないのが三人です。(中略)

    恵まれて新コは、前いった五十円の不義なる入手がバレず、熱心だった安藤警部のホシ稼ぎの材料ともならず、事なく過ぎて今に到ってはいるものの、自廃の結果、三人の自殺者を出しなどしたことと併せて、我が負債(オイメ)の重さを忘れかねています。


    長谷川伸の主人公たちは、いずれも何がしかの負い目を抱え込んで生きている。その理由がここにあるだろう。

    前年、『講談倶楽部』が浪花節特集を出したことに講談師が反発した。浪花節と同列に見られることへの憤りであり、この頃でもまだ浪花節の地位が低かったことが分る。速記講談を掲載する計画だった講談社は講談師や速記者と対立し、速記講談を廃し文士による書き講談(新講談)を始めることを宣言していた。

    吉川英治(明治二十五年生)は二十四歳、吉川雉子郎の名で川柳を作っていた。この年、『講談倶楽部』に『江の島物語』を投稿して三等に入選するが、生活は向上しなかった。吉川英治も小学校(高等科)を中退して様々な職業を転々としていた。


    『講談倶楽部』において〈新講談〉と命名され、大々的に宣伝された結果、新たに誕生したジャンルとしての認識が広まった。それは一雑誌の売上に貢献するとともに、速記講談からの転換を期待する雰囲気を、活字メディア界全体に行きわたらせたに違いない。(牧野悠「時代小説・時代劇映画の勃興」筒井清忠編『大正史講義 文化篇』)


    子ども向けでは、猿飛佐助が立川文庫(第四十編)の主人公として登場したのが、この年の二月か三月頃である。奥付では二月十五日となっているが、立川文庫を考証した足立巻一によれば、初期の立川文庫の発行日付はかなり好い加減で、そのまま信じるわけにはいかないらしい。

    それ以前にも忍術と言うものはあったが、悪玉が使う卑怯な術で最後には正義の味方に倒される。その忍術が正義の主人公が使う技になった。少年文化に対する影響は非常に大きい。これによって、大阪の丁稚が中心だった読者が一気に全国に広まった。足立は、『真田三代記』と『西遊記』の合成ではないかと指摘している。猿飛佐助は孫悟空、三好晴海入道が猪八戒、霧隠才増が沙悟浄、真田幸村が三蔵法師である。


    『立川文庫』の成功は、くりかえせばその形式にもあったが、猿飛・霧隠らの忍術を造出したことにあって、忍術旋風によって爾余の大衆読物を圧倒したのである。そのことは、大正にはいって相次いで出た亜流講談本を見ればすぐわかる。形式・定価が同一であるだけでなく、発行書目のほとんどに忍術があらわれ、『忍術文庫』のように全編忍術といえるようなものも出た。(足立巻一『立川文庫の英雄たち』)


    田中智学の立正安国会が、この年国柱会と改称した。「八紘一宇」は「掩八紘而為宇」から智学が造語したとされている。その日蓮主義と国体主義は、大正末期から昭和前期にかけて非常に大きな影響を持った。宮沢賢治のことは措いても、とりわけ石原莞爾への影響は昭和を考えるうえで外すことができない。


    近代日本を、信仰の面から云えば、法華の時代であるとも考えることもできる。(略)

    たしかに近代日本には、いくつもの宗教的な力が開花した。明治維新の原動力となった国学運動を背景とした神道の復権。禁制が覆されて、多彩な宗派が流入することで、知識層に大きなインパクトを与えたキリスト教。そして天理教、大本教からオウム真理教にいたる、さまざまな意味でパワフルな新宗教群。(略)

    法華信仰のもつ、侵攻と現実改革のダイナミズムが、さまざまな形で、日本の政治や社会、文化を揺すぶってきたことは事実であり、その影響を是とするか、非とするかは別にして、時に決定的な影響を与えてきたことも事実なのである。(福田和也『地ひらく 石原莞爾と昭和の夢』


    内藤湖南『支那論』、阿部次郎『三太郎の日記』、米川正夫訳『白痴』、中村白葉訳『罪と罰』、高村光太郎『道程』。夏目漱石「こころ」(『東京朝日新聞』)。


    大正四年(一九一五)一月十八日、第一次大戦のドサクサに乗じて日本政府は袁世凱政府に対し、二十一カ条要求を突き付けた。日本の最大の目的は満州の権益維持である。日露戦争後に獲得した旅順、大連の租借権、南満州鉄道の経営権の内、早いものは八年後に期限が切れることになっていた。欧州列強からも非難を浴びる中で交渉の結果、日本も若干の妥協をして五月には妥結する。吉野作造でさえ、この要求は正当なものだと考えていた程だから、国民一般の反応は記すまでもない。

    一月二十三日付で、院内銀山町の塩谷吉松から、天塩村山手通五丁目の弥生宛に、乳母さよの訃報が届いた。手紙を見る限り、塩谷は無学な鉱夫ではなかった。


    拝啓寒気益々相増し候処、御家内様には皆々御壮健ニテ御座被遊候段、大慶至極に存候。
    降而拙者妻、先月二十日午前七時、横堀実家ヘ参リテ医師ノ養治ニ相懸リ候得共、養生方之薬用其ノ効ナク病死仕候。右御知セ申候。然ルニ自宅出棺ノ後ハ院内銀山ニ於テ葬式執行致候間、葬式ノ儀ハ明二十四日ノ午後弐時ニ候間、依テ知セ申候。
    次ニ病死前ニ電報ヲ以而御通知差上ベキノ処タレ共、実ハ萬事本人之病気ノ多忙ニ取紛レ是迄過行候段平ニ御免下度先ハ御知セ迄。草々。
    尚、委細の儀後便ヲ以テ申上度候。
           大正四年一月二十三日  塩谷吉松
         東海林弥生様


    弥生がさよと別れてから六年が経っていた。尋常六年生の弥生は貰い溜めた小遣銭の中から五十銭を出して香奠とした。秋田からも利器の名義で五十銭を送った。

    三月、利生に再び東京高等工業受験の機会が巡って来た。石山熊次(石山本家第九代、利器の兄)のもとに、辻良之助から人を介して、利生の東京高工進学に学資を提供すると申し入れがあったのである。もし進学後の家計が困るなら、月五円くらいは別途増給してもよいとの好条件である。秋田瓦斯での利生の精勤振りを目に留めてくれたのではないだろうか。


    其許秀づる期に遇ひて、之を萎縮せしむるは、親子の人情として忍ぶ能はざるにより、此儀は歎願しても辻氏の許容あらんことを希ふに決せり。家計の前途については、充分の送金要求額に足るか足らぬかの境にあり、自炊以来たとひ三銭のカレイを三食に分食するにしても一日三銭の粗費を要す。送金額に充たざるは明かなり。辻氏は月々補助くださるとあるが、厚顔にも受くるをいさぎよしとせず。就ては我自ら辻家の小使いなり門番なりとなって補助の資を得れば報謝の意に当るべし。石山伯父にも話し、機を見て交渉を試みることを希望す。


    利穎ははしゃぎ過ぎである。「我自ら辻家の小使いなり門番なりとなって」と言うが、それでは現在の北海道での収入はどうするのか。その理屈が分らない程舞い上がっていたものか。

    しかし卒業後三年経過し、受験するとなれば一年くらいは予備校に通う必要がある。その費用をどうするか。父からの送金が十円も増せば何とかやって行けそうだが、同時に母がこれまで以上に難儀するのも目に見えている。弟妹たちの学業も多端だ。それに今年は徴兵検査があり、その猶予手続きも必要になる。

    悩んだ挙句、今年は徴兵検査を受け、もし兵役を外れたなら来年四月より上京すると決めた。その頃には利雄も卒業して家計の負担が減ずるであろう。返事は徴兵検査後まで待ってもらいたいと伝えた。

    四月、利穎は利器にこう書き送った。子供の成績が良いのは肩身が広い、それは利器の教育の成果だと誉めているのである。


    此春の試験に子供等打そろひて、いづれも上出来なりしは、御互のよろこびこの上やある。それに加えて利生の友愛に厚き誠に以て感心なり。然して利生の通信には、各自奮発努力に依るなれども、父母の有形無形の教訓も又大いに与りて力あるなりと。そもじこそ児輩を膝下に養育して頗る功労あれ共、我は遠く離れて何時も小言のみ云ひおくるなり。愚鈍の子なりせば口喧敷親父なりと怨嗟もすべけれど、幸に智能善良なれば、我の小言も教訓なりと守らるるこそ幸なれ。

    さて御互にかくの如き子供を持ちて世間に肩身を広くするは、子の親となりたる夫婦の幸福之に過ぎず、我初めよりの心願は、一生金銭に縁薄くして清貧に終るとも、生るる子は太平の孝子、乱世の忠臣を授けしめ給へと、神や仏か将た祖先の御霊にや祈念しつつありしなり。此の願感応ありしか、我れ今知命の半をすぎて尚ほ清貧、儋石の貯だもなし。然共、幸に不孝の子あらず、成年に達したるものに之を徴して其他を推測するに、利生の如きは平素の言行により、父母に孝に兄弟に友に、誠に頼遺の趣旨を克く理解せるものなるを見る。若し緩急のことあらんか、必ず義勇奉公の滅私を尽すや明らかなり。弟妹之に倣ひ実践躬行せば、必ず不孝の人とならず。我之を思ひ之を見れば清貧亦苦しからず。

    夫れ斯の如き子孫を遺すを得ば、夫婦の大幸なるべし、死して天堂に登らば、天神の前をも憚らざるべく、冥土に入らば閻魔の庁前を闊歩すべし。なんと面白き一生ならずや。此末三十年を在世するも難ければ、二十年位は清貧の裏にありて、子孫の養育に骨折り給はるべし。貧者は衣食住の贅を専らにする能はざるも、天道は平等なり。春花秋月の娯楽は貴賎男女の別なし。同じく世人と共に笑ひ楽しみて、此世を終るを得るなり。思念せよ、思念せよ。

    終わりに、此の楽しみに此の喜びを口づから問答するを得ず、海山隔絶、之を文字にて云はずばならぬは、実に残念なり。故に所志を尽さず、推量あれ、推量あれ。可祝。


    「若し緩急のことあらんか、必ず義勇奉公の滅私を尽すや明らかなり」とは正に教育勅語が国民に要求したことである。それを疑いもなく受け入れているのは、やはり明治人なのだろう。

    五月二十日、徴兵検査で利生は甲種合格。抽選の結果「歩兵十番」が当たり、入営は確実になった。入営は十二月一日である。もはや進学は諦めなければならない。利穎からは、それなら一年志願するようにと指示された。徴兵で取られれば三年の兵隊生活が、志願ならば一年で済む。しかし衣服食費はすべて自弁で百円以上を要した。徴兵令(明治二十二年改正)を確認しておこう。


    第十条  二十歳ニ至ラスト雖モ満十七歳以上ノ者ハ志願ニ由リ現役ニ服スルコトヲ得
    第十一条 満十七歳以上満二十六歳以下ニシテ官立学校(帝国大学撰科及小学科ヲ除ク)府県立師範学校中学校若クハ文部大臣ニ於テ中学校ノ学科程度ト同等以上ト認メタル学校若クハ文部大臣ノ認可ヲ経タル学則ニ依リ法律学政治学理財学ヲ教授スル私立学校ノ卒業証書ヲ所持シ若クハ陸軍試験委員ノ試験ニ及第シ服役中食料被服装具等ノ費用ヲ自弁スル者ハ志願ニ由リ一箇年間陸軍現役ニ服スルコトヲ得但費用ノ全額ヲ自弁シ能ハサルノ証アル者ニハ其幾部ヲ官給スルコトアル可シ
    前項ノ一年志願兵ハ特別ノ教育ヲ授ケ現役満期ノ後二箇年間予備役ニ五箇年間後備役ニ服セシム


    明治二十六年の規定による百円の内訳は、被服、弾薬等の費用と兵器修理費として六十二円、糧食費として三十八円である。但し諸物価の高騰で規定は変えられたのだろう。この時は前納金額百八円となっていた。

    利頴が用意できたのは五十円だけだった。親戚の荒木(利器の姉トミの嫁ぎ先)から三十円借り、残金は銀行やその他の親族から借りてどうにか捻出した。志願の申請書を市役所に届け出た際には、その資産収入があまりに低すぎると書き直しを命ぜられている。つまり志願兵制度は、ある程度の資産を有する者を対象にしたものであった。貧乏人が志願するのは想定の外である。


    八月、豊中グラウンドで行われた第一回全国中等学校優勝試合(現在の甲子園大会)決勝で、秋田中学は京都二中と対戦した。皆男は関心があっただろうか。余りスポーツには関心がなかったように思われる。この時の出場校は東京(早稲田実業)、東北(秋田中)、東海(山田中)、京津(京都二中)、関西(和歌山中)、兵庫(神戸二中)、山陽(広島中)、山陰(鳥取中)、四国(高松中)、九州(久留米商)の十校である。


    大阪朝日新聞社主催全国中等学校優勝試合最後の決戦たる秋田対京都二中野球戦は昨日午後二時より開始したるが、互に相伯仲し第六回終わりに至るまで両軍とも無得点のままにて試合を継続、第七回秋田軍一点を占め、第八回には京都二中一点を占めて同点となり、九回に入るも勝負つかず、十回も双方無得点にて十一回に入りしもなほ勝負決せず、十二回も勝負決せず、つひに十三回目京都一点を占め、二対一にて京都の勝。(『大阪朝日新聞』大正四年八月二十四日付け)


    僅か四年前には『東京朝日新聞』が野球害毒論の一大キャンペーンを張り、それに対して押川春浪一派が『読売新聞』に拠って徹底的に戦っていたことを考えれば、世の中の野球に対する態度は一変したのである。横田順彌・会津信吾『快男児・押川春浪』が「野球害毒論」の経緯を記している。


    ・・・・・明治四十四年八月二十九日、それまでにも、野球や、博文館が明治四十三年に上野不忍池畔で開催した全国学生大競争会などに対し、悪意を持った記事を掲載していた〈東京朝日新聞〉が、「野球と其害毒」という記事を発表したのだ。(中略)

    野球関係者に対してきわめて挑戦的なまえがきではじまるこの記事には、新渡戸一高校長談として、次のような文章が続いていた。

     私も日本の野球史以前には自分で球を縫つたり打棒を作ったりして野球をやつた事もあった、野球と云ふ遊技は悪く言えば巾着切の遊戯、相手を常にペテンに掛けやう、計略に陥れやう、塁を盗まうなど眼を四方八方に配り神経を鋭くしてやる遊びである。故に米人には適するが英人や独逸人には決してできない。(略)

    この「野球と其害毒」は単発記事ではなかった。(中略)延々二十二回にわたって、このキャンペーン記事は掲載された。


    新渡戸稲造とも思えない議論だが、これには伏線がある。明治三十九年の早慶戦で両校の応援が過熱し暴力沙汰に及んだ結果、それ以来十九年に渡って早慶戦が中止になる。早稲田の応援団長吉岡信敬(虎鬚彌次将軍。春浪の盟友である)が馬にまたがり、日本刀を抜いて慶應グランドに乗り込んだという伝説が生まれるほどだった。

    これに押川春浪が怒った。当時野球に好意的と目された読売新聞に徹底抗戦の申し込みをし、勝ち目があると踏んだ読売が、十七回に渡って朝日への反論記事を掲載した。こちら側には高田早苗(早稲田大学長)、鎌田栄吉(慶應義塾長)、嘉納治五郎(東京高師校長)などがついた。この戦いは客観的に見て春浪側の圧勝に終わった。

    それから四年、中等学校野球の全国大会が開かれたのである。春浪の得意思うべしと言いたいところだが、春浪は前年十一月に死んでいた。アルコール中毒が進行しており恐らく肝臓病ではないかと思う。三十九歳。


    十一月二十八日、亡命中のインド革命の志士ラス・ビハリ・ボースに対し国外退去命令が出された。日英同盟によるイギリス政府の要請によるものだったが、ボースは頭山満邸に逃げ込み、相馬愛蔵(明治三年生)の新宿中村屋に匿われた。

    愛蔵は札幌農学校で養蚕を学び、郷里の信州安曇野で養蚕業を営む傍ら禁酒運動を行い、井口喜源治(明治三年生)の私塾「研成義塾」に協力していた。しかし妻の黒光(明治九年生)は養蚕業に馴染まず健康を害したため夫婦で上京し、中村屋を始めた。

    当時中村屋は若い芸術家、荻原碌山、中村彝、高村光太郎、戸張弧雁、木下尚江、松井須磨子、会津八一、ロシアの亡命詩人ワシーリー・エロシェンコ等のサロンとなっていた。愛蔵・黒光の長女俊子は中村彝の裸婦のモデルにもなり(十六、七歳の頃)愛し合っていたが、黒光の反対で結婚できなかった。


    もともと俊子は孤独の影法師に伴われているような娘で、 野性的で健康でありながら無口で、滅多に感情を表出するようなことはなかった。だからこそ一層、彼女のなかにかきたてられた病める彝への深い静かな尊敬といたわりとが、より強く感ぜられたのかも知れなかった。黒光の目をかすめて、俊子はしばしば屋根づたいに彝のアトリエと往来した。そん なあいびきから帰っても、口では何も語らなかったが、彼女の頬は紅潮し、眼はいきいきと光を増したかに思われるのだった。(臼井吉見『安曇野』)


    「少女」や「少女裸像」に描かれた俊子はルノワール風で、健康そうな豊満な少女だ。臼井吉見の『安曇野』は黒光に対してかなり悪意を感じる本だが、結核を病んでいる貧乏画家に喜んで娘をやる親は少ないだろう。ボースは日本に帰化し、大正十二年に俊子と結婚する。中村屋にインドカレーが生まれるのはこの縁である。大正十三年十二月に彝が死に、翌年には俊子も死ぬ。


    大正末、百貨店の新宿進出に中村屋は少なからず脅威を感じていました。また、お客さまから「買い物の時一休みできる場所を設けてほしい」とのご要望を以前からいただいていました。そこで愛蔵は喫茶の開設を検討。しかし喫茶のようなていねいなお客扱いは容易にはできないだろうと尻込みしてしまいます。ボースは祖国インドの味を伝えるため、「喫茶部を作るならインドカリーをメニューに加えよう」と提案しました。そして一九二七(昭和二)年六月十二日、喫茶部(レストラン)を開設。同時に、純印度式カリーが発売されました。(中村屋「純印度式カリーの誕生」)

    http://www.nakamuraya.co.jp/pavilion/products/pro_001.html


    この頃、岡田虎二郎(明治四年生)の「岡田式呼吸静坐法」がブームになっていた。最も安定した正しい姿勢を確立し、長く鼻から吐く呼吸を行いながら下腹丹田を充実する坐法で、静坐すれば心の平和を得、泰然たる静寂も、不敵の胆力もこれから生まれるという。

    その信奉者には、木下尚江、田中正造、相馬黒光、高田早苗、天野為之、浮田和民、岸本能武太、坪内逍遥、東儀鉄笛、閑院宮・東伏見宮夫妻、徳川慶久、安田善次郎、徳川慶喜、渋沢栄一、中里介山、島村抱月、村井弦斎、郭沫若、中原悌二郎、芦田惠之助、筧克彦、福来友吉、柳田誠二郎、岡田完二郎、橘孝三郎、八代六郎、今岡信一良、小山東助、星島二郎、足利浄円、加藤高明、西田天香、宮澤賢治、正田貞一郎、後藤新平、夏目鏡子、佐保田鶴治、倉田百三、寿岳文章等著名人が多かった。精神修養と同時に健康法として行われたが、岡田自身は四十九歳で死ぬ。一日三時間の睡眠と過労が原因だと言われている。

    十二月一日、利生は一年志願兵として秋田歩兵第十七連隊に入営した。成績は良く六ヶ月で上等兵に昇格(この時の昇格者は二名のみ)する。

    この頃から第一次大戦による好況が始まり、大正成金と言う種族が生まれた。しかし好況によるインフレに賃金上昇は必ず遅れるから、庶民の生活は楽ではない。大正十年(一九二〇)の卸売物価は大正三年(一九一三)の約二・六倍になるのである。富裕層と庶民との経済的格差は広がって行く。

    この年、橘孝三郎(明治二十六年生)は卒業を目前にして一高を中退し、茨城県常盤村の三町歩の荒れ地の開墾をたった一人で始めた。昭和四十四年に橘に面会した桶谷秀昭の回想によれば、後年の橘は「私の一高時代といふのは、漱石の三四郎なんだ、それがやがてミレエの晩鐘を理想とするやうになつた」と穏やかな口調で語った。


    ・・・・・「真面目に生き」ようとする意思が、「空虚」感に襲はれ、「偽らざる自我の叫びに目覚める」といふのは、明治国家の正統的人間像が経験しない、或る奇怪な情操のはたらきにほかならなかつた。

    とりわけ求道者的資質の強い青年にとつて、明治国家ともろもろの制度の関連が生み出す価値観や倫理から切れた「空虚」な場所で、個人の内側から倫理をつくりあげ、絶対的なものを求める、ほとんど宗教的な希求は、橘孝三郎の一級上の倉田百三にも共通してゐたし、井上日召の手記『梅の実』の内面的彷徨もまた同じ性質のものとみていい。(桶谷秀昭『昭和精神史』)


    西田幾多郎『思索と体験』、吉井勇『祇園歌集』。夏目漱石「道草」(『朝日新聞』)、芥川龍之介「羅生門」(『帝国文学』)、正宗白鳥「入江のほとり」(『太陽』)。