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    東海林の人々と日本近代(四)大正篇②

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2022.07.30

    大正五年(一九一五)『中央公論』一月号に、吉野作造(三十八歳)「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」が掲載された。君主国においては主権を運用する方法として民本主義があると論じたものである。天皇を戴く日本で、主権の所在を論じるのは危険だった。Of the people, by the people, for the peopleのうち、Of the peopleを棚上げにしたのである。


    民本主義といふ文字は、日本語としては極めて新しい用例である。従来は民主主義といふ語を以て普通に唱へられて居ったようだ。時としては又民衆主義とか平民主義とか呼ばれたこともある。然し民主主義といへば、社会民主党などといふ場合に於けるが如く、『国家の主権は人民にあり』といふ学説と混同だれ易い。又平民主義といへば、平民と貴族とを対立せしめ、貴族を敵にして平民に味方するの意味に誤解せらるるの恐れがる。独り民衆主義の文字丈けは、以上の如き欠点はないけれども、民衆を『重んずる』といふ意味があらわれない嫌がある。我々が視て以て憲政の根柢と為すところのものは、政治上一般民衆を重んじ、其間に貴賎上下の別を立てず、而かも国体の君主制たるとを問はず、普く通用する所の主義たるが故に、民本主義といふ比較的新しい用語が一番適当であるかと思ふ。(中略)

    いはゆる民本主義とは、法律の理論上主権の何人に在りやといふことは措いてこれを問はず、ただその主権を行用するに当たって、主権者は須らく一般民衆の利福並びに意嚮を重んずるを方針とす可しといふ主義である。即ち国権の運用に関してその指導的標準となるべき政治主義であって、主権の君主に在りや人民に在りやはこれを問つところでない。


    二月、天塩の村井次郎・小枝夫婦に紀子(モトコ)が生まれた。カズの十四歳上の従姉に当たり、カズや利孝はモトコ姉さん、私はモトコおばさんと呼んでいた。私の学生時代は東京で看護婦をしており、時々利孝の車でドライブしたり、三人麻雀をやったりした。生涯独身を通した。年齢の割には若々しく、シャキッとした人だった。

    三月、利雄は秋田工業を卒業した。一年次は四、五番、二年次には稀有の高点で一番となり、卒業式には在校生を代表して祝辞を読んだ。三年次には学費免除の特待生にもなっている。この成績なら東京高等工業への進学も夢ではないし、辻良之助に相談することも可能だったかも知れないが、利雄は芝浦製作所に就職して上京する。利雄は戸籍上、本家の戸主である。この際、利穎の元から離れて独立自活したいというのが本音ではなかったろうか。

    芝浦製作所は当時としても大企業であり、おそらく学校推薦の枠があったのではないか。工業学校卒業生だから単なる職工とは違って、中堅技術者として入社したのだろう。その後、昭和十四年(一九三九)に東京電気と合併して東京芝浦電気(後、東芝に改称)となる。

    皆男が四年生になった秋田中学では、大正天皇即位の御大礼記念事業として八月に図書室が新設された。同窓会員からの寄贈も受け一応の形は整ったが、十一月現在の蔵書の内訳は下記の通り貧弱だ。

    第一部「雑書」一七六冊、第二部「倫理哲学」一二三冊、第三部「文学語学」二三九冊、第四部「歴史地理」二五七冊、第五部「法制経済」三九冊、第六部「数学理化学」七三冊、第七部「諸学校規則」六四冊。この当時の図書室の蔵書は貧弱である。他に雑誌は『中学界』、『学生』、『少年』、『少年世界』、『ジャパンタイムズ学生号』、『同少年号』、『英語倶楽部』を揃えた。辞書はウェブスター大辞典、漢和大辞典等十一種。


    九月一日、工場法(明治四十四年三月二十九一公布)が施行された。職工十五人以上の工場に適用されるもので、十二歳未満者の就業禁止、十五歳未満者と女子の十二時間労働制(十五年間は二時間の延長を認める)が決められた。

    九月十一日には河上肇(明治十二年生)『貧乏物語』が『大阪朝日新聞』で連載を開始した。


    富を有する者はいかにせば天下のためその富を最善に活用しうべきかにつき、日夜苦心しなければならぬはずである。ぜいたくを廃止するはもちろんのこと、さらに進んではその財をもって公に奉ずるの覚悟がなくてはならぬと思う。


    随分と甘いことを言っている。素人が考えても、こんな甘い結論では仕方がないと思うが、翌年出版されると意外なことに大ベストセラーとなった。

    九月十六日、神奈川県三浦郡葉山村の日蔭茶屋で、神近市子(二十九歳)が大杉栄(三十二歳)を刺した。神近市子は長崎県北松浦郡佐々村生まれ。津田英学塾を卒業後、この時は東京日日新聞の記者となっていた。

    この年、伊藤野枝(二十二歳)は辻潤(三十三歳)との間にまこと(大正二年生)と流二(大正四年生)を儲けながら大杉のもとに走っていた。大杉には妻保子(三十四歳)と市子がいる。大杉はフリーラブの実践なのだと言っているが、保子も市子も納得できない。


    市子が怒ったのは、ざっと二百円に余る金を市子から大杉が持ち出しながら、後藤新平から三百円の金を入手したのに、五十円を保子に渡し、三十円で野枝の着物を質からだし、市子には百円しか入手しないと偽り、だからもう手許に金がないと言って、一円しか渡さなかったことだった。

    市子がそのことをどんなに怨みに思ったか、大杉は気がついていなかった。今までの市子の寛大さ、金の出しっぷりの良さから、大杉は市子がそこまで金に困っているとは考えもつかなかったのだろう。事実、これまでの市子は、働きさえすれば、四人の中では誰よりも多い確実な収入があった。(瀬戸内晴美『諧調は偽りなり』


    後藤新平が金を出したのは、アナキストたちが暴発しないよう手名付けるのが目的で、代々の内務大臣の引継ぎ事項であった。

    大杉は軽傷だったが、殺してしまったと思った神近市子は自首し、殺人未遂罪で二年の懲役刑に服した。野枝は『青踏』を放り出し、自然に雑誌は廃刊になった。流二は若松家に里子に出され、まことは辻潤の元にあったが、辻は子供の面倒を見るような男ではない。まことは頻繁に大杉の家で飯を食った。大杉は子供好きであった。

    明治二十九年生まれの吉屋信子(二十一歳)が『少女画報』に「鈴蘭」を投稿して採用された。これが『花物語』の始まりで、大正十三年まで『少女画報』に(挿画は亀高文子・清水良雄・蕗谷虹児)、大正十四年には『少女倶楽部』(挿画は中原淳一)に場所を変えながら五十編以上の短編を発表し続けた。この辺から「エス」という言葉が生まれてくる。大正十年に秋田高女に入学する伸は、これを愛読した可能性がある。

    一九九〇年代以降、少女マンガ、アニメ、ライトノベル等に女性の同性愛を描く作品が多く現れ、「百合」と呼ばれるジャンルが生まれる。この言葉は男性同性愛者の雑誌『薔薇族』の対義語と言われるが、信子はそのはるかな先駆者であった。

    利生は軍隊生活を真面目に過ごした。精励恪勤と言えるだろう。おそらく、何事にも真面目に取り組む人だったろうと思う。


    ○十月十三日 雨(対抗演習を終え角館町に入る)
    今日我ノ殊ニ感ジタリシハ、沿道ニ家五、六軒ヲ有スル一小村アリ。我等ガ部隊ヲ歓迎セント熱誠溢ルレド立ツヘキ国旗ナシ。半紙四枚ヲ継キ日ノ丸ノ国旗ヲ作レリ。出ス旗竿ナシ。物干竿ヲ用ヒタリ。一村悉ク之なりき。我之ヲ見テ感謝ノ念禁ズル能ハズ。思ハズ感涙ヲ催シタリキ。
    ○十月十四日 晴(明治四十四、五年、父の在勤した故地、生保内を立ち岩手への山脈を越える)
    今日ハ有名ナル仙岩峠ヲ越ユル日ナリトテ、各人ノ脳裏ニハ半バ恐ロシク感ゼシメタリ。午前四時出発。生保内ヨリ直チニ登リトナル。上ヲ見レハ山ハ絶壁ニシテ、下ヲ見レハ数十丈ノ奇岩怪石、ソノ間ニ清流ハ激シ。ツヅラ折ノ山路ニハ軍隊長蛇ノ如ク登リ行ク。絵ニモアル如キ絶景ナリ。我思ヘラク、古ノ沸帝ナポレオンノアルプス越モカク有リケント。
    ○十一月一日 曇(所定の演習を終わり、東北線尻内駅から汽車輸送で帰隊する途次)
    コレヨリ米代川ニ沿ヒテ走ル。午后四時機鉄(今の東能代)駅着。途中左ニ見エシ荷揚村ハ、我十一才ヨリ十二才ニ亘ル間住居セシ所ニテ、コノ村ノ東端ニアリテ山本、北秋両郡ノ堺ヲナス徯后坂(きみまちざか)ハ、夏時弟等ト共ニ遊ビシ景勝地ナリ。又村ノ中央ニアル踏切ハ、当時祖母様(タツ)ガ皆男(六歳)ニ伴ハレテ時々汽車ヲ見ニ来リシ所ナリ。当時ノ状況、目ニチラツクを覚ユ。彼処ニ見ユル筈ナル小西ノ家ハ即チ我等ノ住家ナリシ。今ハ見当スル能ハサリキ。
    切石ノ鉄橋を渡リテ米代川ノ左岸ニ出ツレバ、富根駅ナリ。コノ向岸ナル常盤村ハ、先年マデ伯父ノ校長トシテ住メル村ナリ。我等ノ父、母、弟等ト時々遊ビニ行キシモノナリ。


    年末には一年志願の期間が満了し、陸軍歩兵軍曹として退営する。少尉任官までには残り二回の演習に参加する義務がある。しかし利生の心は晴れやかではない。諦めた事ではあるが、やはり進学できない無念は残るのである。利雄が既に上京し、皆男もいずれは上京する積りなのは分っている。同じ道を歩めない己の不運を嘆いた。


    いつもながら、星霜の移り遷り早く、我目的の之に随伴して遂げられざるは遺憾に不堪処なり。徒に年歯のみ更けり行きて、秋田の片田舎に生を終わるかと思へば実に残念なり。即ち我は、努力によりて此の不足を補はんとするなり。(利生の大正六年正月の日記)


    十二月九日、夏目漱石が死んだ。五十歳。明治四十三年(一九一〇)八月には修善寺の菊屋旅館で大吐血し、意識を失った。意識が戻るまでの三十分は、漱石にとっては一秒の隙もなく連続していたのであったが、まさにその時、漱石は死んでいたのである。


    十二月九日午後五時過ぎ、漱石はひどく苦しみはじめ、自分の胸をあけて、

    「早くここへ水をぶっかけてくれ。死ぬと困るから」

    というような意味のことをいい、看護婦が水を含んで吹きかけると、「有難う」といい、そのあと意識を失ってしまった。(山田風太郎『人間臨終図巻』)


    葬儀では友人総代として狩野亨吉(慶應元年生)が弔辞を読んだ。東京府一中時代に幸田露伴、尾崎紅葉、沢柳政太郎、上田万年と同級であり、漱石とは帝大時代に知り合った。子規没後の漱石にとっては子規と同様の存在になったと言われる。『吾輩は猫である』の苦沙弥先生、『三四郎』の広田先生(但し広田先生のモデルは岩本禎という説もある)、『それから』の代助のモデルと言われる。


    もともと科学の畠から出られた先生は、・・・・「文学は僕には分らん」と言っていられた。親友の漱石がどのような小説を書いているのか、そんなことには、全くの無関心だった。

    「いつか、何とかいう小説を漱石がくれて、この中には君も出てくるから読め、というものだから目を通したが、どれが僕やらわからなかったよ」などと、のんきなことをいって、澄ましておられた。(森銑三『明治人物夜話』)


    そして青年層の一部、学歴エリートたちの間に「漱石神話」が形成される。「則天去私」を拡大したのは小宮豊隆で、更に教養主義を主導した安倍能成、阿部次郎などが加わって、漱石は教養主義の神のような位置に置かれるのである。

    この年、第四次『新思潮』のメンバー、芥川龍之介、成瀬正一、久米正雄、松岡譲が東京帝大を卒業した。芥川が第四次『新思潮』創刊号に載せた「鼻」を漱石は絶賛していた。

    津田左右吉『文学に現はれたる我が国民思想の研究』。森鴎外「渋江抽斎」(『東京日日新聞』)、夏目漱石「明暗」(『東京朝日新聞』)、芥川龍之介「鼻」(『新思潮』)、中条百合子「貧しき人の群」(『中央公論』)、倉田百三「出家とその弟子」(『生命の川』)。


    大正六年(一九一七)一月二十二日、浅草六区の根岸興行部「常磐座」でオペラ『女軍出征』が上演され、大ヒットとなり、「浅草オペラの時代」が始まった。関東大震災で浅草が壊滅するまで、清水金太郎(シミキン)、田谷力三、藤原義江、石井漠、榎本健一(エノケン)などが生まれてくる。『ベアトリ姐ちゃん』、『恋はやさし』、『コロッケの唄』、『女心の唄』等が一般にも流行した。


    この浅草オペラが多く、コミック、オペレッタで大衆を吸い寄せたとしても、浅草の地が歌劇と大衆の接点となったこと、そしてバレーやオペラが日本中にひろがるの端緒をなしたことは、大きな意味がある。そばやの出前持ちが自転車をこぎながら「風の中の、羽根のように」とうたっていたことが語り草となったほどに、多くが演歌され流行歌となった。(添田知道『演歌の明治大正史』)


    二月、三十二歳の萩原朔太郎が『月に吠える』を刊行した。内務省から発行人の呼び出しがあり、室生犀星が出頭すると、「愛憐」と「恋を恋する人が」風俗壊乱の恐れがあると指摘された。やむなくこれを削除して製本し直して出した。印刷部数五百部、二百部を寄贈に宛てたため、実勢に流通したのは三百部である。


    萩原君。

    何と云つても私は君を愛する。さうして室生君を。それは何と云つても素直な優しい愛だ。いつまでもそれは永続するもので、いつでも同じ温かさを保つてゆかれる愛だ。此の三人の生命を通じ、縦よしそこにそれぞれ天稟の相違はあつても、何と云つてもおのづからひとつ流の交感がある。私は君達を思ふ時、いつでも同じ泉の底から更に新らしく湧き出してくる水の清すずしさを感ずる。限りなき親しさと驚きの眼を以て私は君達のよろこびとかなしみとを理会する。さうして以心伝心に同じ哀憐の情が三人の上に益々深められてゆくのを感ずる。それは互の胸の奥底に直接に互の手を触れ得るたつた一つの尊いものである。(北原白秋『月の吠える』序)


    三月、弥生が高等小学校を卒業して六年振りに家族の元に戻った。家族の間では、弥生の成績では上級学校進学は難しいと考えられた。家の資力も乏しい。そこで利器の判断で秋田市茶町梅之丁(現・大町四丁目)の石黒自転車店への年季奉公が決められていた。自転車店の主人、石黒五郎は亀田出身で、日常から親しくしていた。またその弟で奉公人の三浦忠治は利雄や皆男にしょっちゅう書籍を貸してくれる人だった。たぶん『少年倶楽部』(大正三年刊)や『中学世界』(明治三十一年刊)ではないか。この時の皆男の日記。


    今日、弥生が来るといふので、母と兄(利生)は停車場に、直行に間に合ふやふに行くと、アゴ(ダメなこと)であったといふので、戻って来た。晩飯中デンポーが来た。曰く「イマノタ ムカヘタノム ヤヨ」(今、汽車に乗った、迎えたのむ、弥生)といふのである。そんならば仕事をして後、迎えに行くことが出来る。弟に会ふことが、いま数時間後だと思へば、なんとなく嬉しさの情に堪えない。そこで喜び勇んで(学校の)勉強をする。

    十時半、家を出て、月夜の夜風にふかれ乍ら停車場に行く。我と母と兄と三人で。待つこと小一時間ばかり、十二時、急行はプラットフォームに入った。兄も我も見つけなかったが、母が見て「ゐたゐた」と呼び返したので、やっと見つけた。手には信玄袋を持ち、帽子を脱いで一礼した。顔はもう殆ど分らなかった。とにかく改札口を出て、荷物を受取り、俥三台をやとひ、兄と荷物、母、我と弟とに分乗して、広小路から帰途についた。

    よく一人で来たもんだ、流石は男だと母はほめた。少し北海道弁をまじへて、汽車汽船の乗降、切符の購入、宿屋の一泊(函館)、一飯、小樽、函館、青森を見物したなど、皆、ふけた人でなければ為せない所だ。よく万事都合よくやって来た。

    顔も立派に、丈も中々高くなった。発音明快に、亳も臆した所もなく、以前にくらべ、全く立派になってゐた。母も殊のほか喜んだ。ましてや、行李、寝具、着物まで皆、用意して来たとは、そして残金の六円を母に出した。

    函館からだとて、三十銭のみやげ昆布菓子を出したなどは、中々ふけてゐる。たしかに思想、常識、行儀作法の発達を示すものである。あゝ、まことにうれしい。


    弥生が家族と暮らしたのは小学校一年から三年生までの三年間でしかない。文通はしていたにせよ、十五歳(満で十三歳)の弥生にとっては殆ど他人の家である。かなり緊張していただろう。「ふけてゐる」は「老けている」、大人びているの謂いである。大人びた印象を与えたのはその緊張感からきたものではなかったか。ただ弥生は天塩のミワによく育てられていたようだ。皆男は日記に書いた。


    言語明晰、身の回り品のととのえなどは、思うに、第二の育ての親たる工藤の叔母が深く気を遣ったものであろう。五年間のしつけの成果が問われる、との思いがあったに違いない。

    旅にあたっての対処の仕方についても、叔母たちはよく知っていたと思う、それを噛んで含めるように教えたに違いない。もちろん父もそばにいたが、これらの教えは、叔母の方に重心があったと思う。皆男の日記には、なお次のような、感じ入りの文言がある。

    (四月十日)弟の常識の発達は、ちょっと地理など聞けば分るし、行儀の発達は処作、進退、返事ハイでよく分る。決して昔の分らずやボッポク頭ではない。

    (四月十一日)母は、(弥生の)天塩に書きたる手紙を見て、その文面のよさに感じ、且つ大いに喜び居たり。弟はまたよく手伝す。


    これなら実業学校へ進学することはできたのではないだろうか。この後の勤務振りからすれば、秋田工業の機械科で充分通用したと思われる。家に金がないと言っても利雄が独立したのだから、多少は余裕が出ていたのではないかと思うが、しかしそれを言っても仕方がない。

    奉公の話が決まってから、石黒からは弥生の到着はまだかと催促されていた。年季奉公は住み込みだから、弥生は帰宅した二日後には家を出なければならなかった。

    三月、ロシア革命(二月革命)が起こり、十月にはレーニンのボルシェヴィキが権力を握った。二十世紀世界を覆う共産主義の呪縛が始まったのである。この間、六月から八月一杯、利生は第一次勤務演習に就き、歩兵曹長となった。少尉になるためにはまだ演習を受ける必要がある。

    この年、大阪の坂田三吉八段が東京で関根金次郎八段と対局、四勝二敗と勝利した。澤田正二郎が芸術座を脱退し、劇団「新国劇」を結成した。

    西田幾多郎『自覚に於ける直観と反省』。菊池寛「父帰る」(『新思潮』)、岡本綺堂「半七捕物帳」巻の一(『文藝倶楽部』)、志賀直哉「城の崎にて」(『白樺』)、佐藤春夫「病める薔薇」(『黒潮』)。


    大正七年(一九一八)一月、利生は工務部主任代理に昇格した。軍隊を下士官以上で退役した場合、民間会社の人事でもある程度の優遇措置は広くみられる。このことによる昇格だったかも知れない。

    この年、世界中をスペイン風邪が襲った。最初に記録された患者は、カンザス州のアメリカ陸軍ファンストン基地で発見された。ファンストン基地ではその後数日以内に計五百二十二人の罹患が報告されることとなった。ここはヨーロッパ派遣軍の大規模訓練基地であり、この結果、ヨーロッパ各地に大流行を惹き起こした。大戦中のことで各国とも正確な情報を提供しなかったことも、パンデミックを阻止できなかった理由でもある。

    三年間で世界の感染者は五億人、死者は五千万人とも一億人に達したとも言われる。東京都健康安全研究センターによれば、日本では感染者二千三百八十万人、死者三十九万人とされる。日本人の死亡率は世界でもかなり低い方に位置しており、これは今回のコロナでも同様だ。

    十一月に島村抱月が、先に発症した須磨子を看病中に感染し四十八歳で死んだ。二ヶ月後に松井須磨子が後追い自殺する。ほかに村山槐多、大山捨松、 竹田宮恒久王、 徳大寺実則、辰野金吾、末松謙澄等が死んでいる。国外ではグスタフ・クリムト、マックス・ヴェーバー、ギヨーム・アポリネール、エゴン・シーレ等。

    一高生の川端康成(二十歳)は感染が広がる東京を避け、伊豆修善寺から湯河原、天城へ旅行をした。この時の経験が『伊豆の踊子』になる。二十歳の学生が、茶屋の婆さんに「だんな様」と呼びかけられ、川端はそのことに何の違和感も覚えない。

    与謝野晶子の家では子供が一人小学校で感染した結果、十一人の子供全員に広がった。


    政府はなぜいち早くこの危険を防止するために、大呉服店、学校、興行物、大工場、大展覧会等、多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのでしょうか。


    三月、皆男は秋田中学を卒業し上京を考えている。この当時は、在学中から就職活動をし、卒業と同時に就職するという仕組みは余りなく、卒業してから徐に職を探すのが一般的であったようだ。利雄の場合が特別だったと思われる。

    そして揚五郎が秋田中学に入った。おそらく高橋完助の意向であろう。これで利穎の男児五人のうち、弥生を除いて四人が中等学校(秋田中学二人、秋田工業二人)に入学したことになる。弥生の気持ちは分らない。


    このような場合、とかく子供はグレるものであるのに、弥生はそうはならなかった。自分を卑下もせず、兄弟をうらやみもせず、更に親をうらみもせず、自力で勉強していった。

    私たちの覚えで、弥生から差別を訴えられた記憶は一度もない。むしろ私たちの中で、別格扱いの目をしていたのではないかと、今さら反省の念が起こるのである。

    たとえば学業で、私らは常に平均甲なのに、弥生はいつも乙である。この学差は、始めから客観的に存在するものとして意に介せず、これを指導し引上げてやる努力に欠けるものがなかったか。商売は、私らには門外のことであるとはいえ、これをもっと尊重し、何か与える努力を怠ったのではないか。そういうことも、今さらながら心に浮かんでくるのである。(皆男『鵜沼弥生』)


    皆男は終生、弥生にある種の負い目のようなものを感じていた。客観的に見て、弥生一人だけが差別されたのは間違いない。その責めは利穎が負うべきだろう。皆男はどちらかと言えば感情が表に出にくく、冷たく感じられることはあった。


    年季奉公の時代は弥生にとって修養と読み書き勉強の時代であった。もちろん、職人としての技倆も優秀に達した。この間に、兄皆男によこした手紙をたどってみると、思想を錬り、労使に悩み、雑誌や本を読み、習字をし、成長していく姿がよくわかる。(皆男)


    弥生が読んだ雑誌は何だったろう。年齢を考えると八年創刊の『改造』には手が出ないだろう。明治二十八年創刊『少年世界』、三十一年創刊『中学世界』、大正九年創刊『新青年』(『冒険世界』の後身)あたりではないか。とりわけ『中学世界』は進学できなかった若年労働者をも対象に、独学を薦めてもいたらしい。

    七月頃から全国に米騒動が広がった。大戦景気は米の消費量の増大をもたらした。しかし一方、工業労働者の増加、農村から都市部への人口流出の結果、米の生産量は伸び悩んでいた。大戦の影響によって米の輸入量が減少したことも米価上昇の原因となった。更に政府がシベリア出兵を宣言したことで、戦争特需における価格高騰を見越した投機や売り惜しみを加速させた。


    八月十五日。残暑甚し。・・・・・市中打壊しの暴動いよいよ盛なりといふ。但し日中は静穏平常の如く、夜に入りてより蜂起するなり。政府はこの日より暴動に関する新聞の記事を禁止したりといふ。(永井荷風『摘録断腸亭日乗』)


    竹久夢二(明治十七年生)の『宵待草』(多忠亮作曲)がセノオ楽譜から発刊され、全国的なヒットとなった。この頃は最初の妻たまきと別れ、彦乃と一緒になっていた時期である。明治三十八年には荒畑寒村の紹介で『直言』にコマ絵を掲載したのをはじめに、『少年文庫』などにも発表した。四十二年に出した『夢二画集-春の巻』がベストセラーになり、夢二の人気は不動のものになっていた。


    夢二は、敬愛する藤島武二の影響を強く受け、また青木繁も愛好し、二人の画家の表現に際立つ浪漫主義や世紀末芸術の影響を受けながら、様式的にはアール・ヌーヴォーを基調とした装飾性を作画に反映させ、時には異国情緒の趣が加わり、「大正ロマン」の視覚面におけるイメージを形成した。加えて自由恋愛を実践し、漂泊の人生を送ったロマンチストだったことからも、夢二は「大正ロマン」を象徴する存在として、今日も強く印象づけられている。(石川桂子「竹久夢二と宵待草」筒井清忠編『大正史講義 文化篇』)


    八月に日本はアメリカの要請によってシベリアに出兵した。レーニン政府がドイツと講和したことによる影響である。当初、在ウラジオストック邦人保護を名目に出兵を考えたがそれはアメリカによって拒否された。それが今度はチェコスロヴァキア軍団とアメリカ政府の要請を受けたのである。マサリクが指揮するチェコ独立運動を援助することは、大戦の敵国であるオーストリア・ハンガリー帝国の瓦解を促進することに繋がるというのがアメリカの思惑である。名目は独墺俘虜軍団(ロシアにいる独逸、オーストリアの俘虜)に迫害されているチェコ軍団の保護である。

    実際に出兵すると独墺俘虜軍団は存在しなかったが、パルチザン(赤軍)の攻撃にあうチェコ軍団を助けて極東三州を制圧する。もはやチェコ軍救出の目的は達したのだから、この時点で撤兵すべきだった。しかし日本軍は占領行政を円滑にするため、アレクサンドル・コルチャークを代表とするオムスク政府を承認した。一九二〇年にはコルチャークが暗殺され政権は崩壊し、各地で蜂起が続く。

    そして尼港(ニコラエフスク)事件が起きる。港を占領していた日本軍はパルチザンに包囲され、捕虜となった日本人居留民、兵士約七百人と、反革命派ロシア人の多くが虐殺された。撤兵には代償が必要だと原内閣は宣言する。そして赤軍が西に撤退した間隙を縫って極東共和国が建てられた。代償の交渉はこの極東共和国との間で行われることになる。

    ボルシェヴィキ、反政府派、日和見派が入り乱れる内戦状況に、利権だけを目的に介入した日本軍の方針は支離滅裂であった。交渉役を命じられた石光真清少佐は翻弄された。


    「部隊の整備をするでもなし、それかといって実力のあるロシア反共軍の援助もせず、崩壊寸前の州政府の経済救済もやらないとすれば、その結果はもう明らかなことです。しかも日本軍は出兵の目的を認識しておらず、ロシア市民を敵にして小競合が絶えません。一体シベリア出兵の目的が何であるか私にもわからなくなりました。」

    「君は一体・・・・何を報告にきたのかね。」(中略)

    ・・・・このようなざまでロシアの軍官民を掌握できないまま、中途半端な軍事行動をとっていることは根本的な誤りであり、国家にとっても重大な損害になるであろうこと、またこれ以上の行動が出来ないならば、この際は潔く撤兵すべきであると述べた。すると大井司令官は顔面を真赤にして立ち上がった。

    「もう聴かんでもええ!」(石光真清『誰のために』)


    こうして石光は解任されるのである。

    九月二十七日、政友会の原敬(安政三年生)が首相になった。原は南部盛岡藩側用人を勤めた原直治の子である。「平民宰相」と呼ばれてこの言葉は流行語となった。本来は士族であるが、実家の籍を離れて独立した時、平民を選んだのである。国民の期待は大きく、特に盛岡ではかつて朝敵の汚名を受けた地からついに首相が生まれたと、盛大な祝賀行事が行われた。ただ原敬の評価は難しい。


    ・・・・・彼が発揮した政治手腕は、時に強引であり、狡猾に映り、「独裁的」「権威的」「非立憲的」とあまたの批判にさらされた。そのためであろう、初の本格的政党内閣を樹立した平民宰相という栄誉とは裏腹に、当時の原は驚くほど不人気だった。

    政治家の人気とは何なのだろうか。西郷隆盛、大隈重信、犬養毅、尾崎行雄、浜口雄幸と、戦前に人気を博した政治家の名前を挙げてみると、政治上の実績を残した者が少ないことに驚かされる。この中で具体的な実績を挙げられるのは浜口だけだろう。

    その浜口は原をきわめて高く評価した。浜口は、原が国民の政治に対する関心を喚起し、国民が参加する政治の道を拓いてきたとして、自らの政権は原が創った基盤の上に立脚していると述べている。それは責任ある政治家としての評価といえよう。(清水唯一朗『原敬』)


    但し原は普選運動には一貫して時期尚早と反対の立場を取っている。

    五十九歳になった利穎が北海道生活を切り上げ秋田に帰って来た。当時としては老年である。長年の独身生活による疲労が蓄積していたか、帰宅後の利穎は体調を崩した。石山峰五郎が亡くなり、皆男は石山末家十代当主となった。

    利生は在郷軍人会旭南副会長に選ばれた。在郷軍人会は明治四十三年(一九一〇)十一月三日、予備役・後備役軍人の軍人精神向上、傷痍軍人・軍人遺族の救護等を目的に発足したものだ。当初は陸軍のみだったが、大正三年(一九一三)には海軍も加わった。事業は下記である(ウィキペディアによる)。


    ・勅語、勅諭その他の奉読式、四大節その他における遙拝式

    ・軍人精神の鍛錬、軍事学術の研究および演練その他

    ・毎年の陸海軍記念日における祝典、戦没者の祭典、廃兵、戦死者および公傷病兵の遺族に対する慰藉

    ・会員の応召準備整頓、召集事務幇助、徴兵志願兵検査および簡閲点呼参会者の指導

    ・入営者その他に対する軍事教育

    ・青年訓練所の訓練幇助、青少年団の指導協力

    ・風紀改善の協力、社会公益事業の幇助、公安維持ならびに非常時における救護事業の援助

    ・会員の親睦、相互扶助

    ・精神修練および軍事一般知識の普及に関する講演、機関誌として『戦友』および『我が家』の発行その他


    九月から十一月一杯、利生は第二次予備役演習に召集された。その間、秋田瓦斯が安田系資本に売却されて会社は解散し、演習を終えた利生も十二月十五日に解職された。前年の正月に「努力によりて此の不足を補はんとするなり」と決意したにも関わらず、会社が消滅しては仕方がない。新会社への移籍の話もあったが、辻良之助の紹介で十二月十八日には新しく出来た秋田製紙の技手(月俸三十円)に採用された。秋田製紙は秋田財界の出資により、稲藁を原料として厚いボール紙を製造する会社として設立された。

    秋田中学では安岡又三郎校長の辞任を求めて四年生を中心に同盟休校が行われた。『秋田魁新報』十月十九日付け記事にはこうある。(『秋高百年史』より)


    ・・・・断然生徒の要願を拒絶しかば、かねて校長の処置を否認しつつある学生等は、今はこれまでなりと退校し、あくまで校長を排斥せずんばやまざる決心をにて、辞職勧告書を贈り、昨十八日は重立者等は天徳山上に会して、これまで校長の学生に対する非違を列挙し、断じて現校長のもとに立たざる長文の宣言書を決議するに至れりといふ。

    是非はともかく、本県教育界の大不祥事といふべし。なほ宣言書列記の項を挙ぐれば左の如し。

    一、 某教諭転任送別会を私情を以て許可せざりし事。

    一、 私憤を以て操行学力共優良の五年生を退学せしめし事。

    一、 総ての会合に圧迫を加ふる事。

    一、 当地方人を指して不徳義なりとののしりし修身教諭を不問に附し置く事。


    これも大正デモクラシーや労働争議頻発の風潮の中で起きた事件であったろう。この当時、全国各地で同様の騒動が頻発した。一年生の揚五郎は何を感じたか。『秋高百年史』から当時の生徒(大正九年卒在京者)の回想座談会を見る。


    土井 ストライキの直接動機は、校長の子供に頭の悪い者がおり、五年生の石塚千里がその子供をからかったのを校長が知り、職員会議にもかけないで石塚君を放校処分にした。先生方もこれには義憤を感じ、各新聞をはじめ世論は、このストライキを大義名分の立ったものとして指示した。

    渡辺 五年生の石塚が退校されたのにたいして、四年生の全員がストをやったのは、五年生は、退校した際に転校できない、ということもあったようだ。

    小西 安岡校長は土佐の人で、心にはスパルタ式の教育をしようという心情があったかも知れないが、スポーツは抑える、臨時テストで攻める、いたずら盛りの生徒に何かミスがあると叱る、罰するの一本やり、最後は感情的になって生徒を職員会議にかけないでヤミに葬ったのだから、あのストライキは少しも恥じるところがなかったと思う。

    花田 だから、同窓会幹部の岡忠精先生などが中心になって斡旋し、一人の犠牲者も出なかった。宣言文の外にも父兄にも声明書を出し、最後に終了の声明書も出した。


    十一月、連合国とドイツとの間で休戦協定が結ばれ第一次世界大戦は終わった。翌年一月には講和会議が開かれた。そして二月には、国際連盟規約案が提出された。この会議で日本側代表は殆ど発言することなく、「サイレント・パートナー」と呼ばれた。僅かに発言したのは軍縮問題と人種平等条項の挿入(アメリカで日系移民差別が拡大していた)だけであった。


    あの第一次世界戦争といふ大事件に会ひながら、私たちは政治に対しても全く無関心であつた。或るひは無関心であることができた。やがて私どもを支配したのは却つてあの「教養」といふ思想である。そしてそれは政治といふものを軽蔑して文化を重んじるといふ、反政治的乃至非政治的傾向をもつてゐた、それは文化主義的な考へ方のものであつた。(三木清『読書と人生』)


    三木清は明治三十年(一八九七)生まれで、第一次大戦はその第一高等学校時代に当たる。後にマルクス主義に接近し、近衛のブレーンとして昭和研究会に参加、大政翼賛会を画策する(取り込まれる)三木でさえ、こうであった。一歳上の林達夫は「歌舞伎劇に関するある考察」を書いて日本文化と決別し、第一高等学校を中退して翌年には京都帝大哲学科選科生となって三木、谷川徹三と巡り合う。それはともあれ、この頃の青年に「教養主義」が蔓延していた。高校生や大学生にマルクス主義が浸透して来るのはもう少し後のことになる。

    明治末期に修養という理念が生まれていたが、そこから「教養」が分化し、特に高等教育を受けている者に浸透していった。つまり「教養」はエリート文化であった。この観点で「教養」という言葉を最初に使ったのは和辻哲郎であり、それを広めたのが岩波書店だった。

    岩波茂雄は明治十四年(一八一八)長野県諏訪郡中州村に生まれた。一年浪人して第一高等学校に入学したが、人生に対する煩悶のため(橘孝三郎の例にもある)二年続けて落第して除籍処分になった。旧制高校を卒業していなければ帝国大学の本科生にはなれない。明治三十八年(一九〇五)に東京帝国大学哲学科選科に入学した。

    大正二年(一九一三)神田に間口二間、奥行き三間の古本屋を開業した。出版社としての出発は夏目漱石『こころ』を出版してからである。一高時代、帝大時代の友人関係が役に立った。岩波書店の出版物を並べてみれば、阿部次郎『三太郎の日記』(大正三年)、『哲学叢書』(大正四年刊行開始)、雑誌『思潮』創刊(大正六年)、倉田百三『出家とその弟子』(同)、西田幾多郎『自覚に於ける直観と反省』(同)、和辻哲郎『古寺巡礼』(大正八年)、倉田百三『愛と認識との出発』(大正十年)等である。

    利雄と皆男はこれらを読んでいた可能性がある。「哲学叢書」と西田幾多郎を除けば、これらは昭和四十年代前半でも書店の棚に並んでいたから私も高校時代に読んだ。しかし昭和四十五年(一九七〇)頃を境にして消滅していく。

    またこの年、三木三重吉が童話童謡雑誌『赤い鳥』を創刊した。日本における「子どもの発見」であり、「童心」を礼賛した。三重吉に促されて北原白秋、西條八十、野口雨情、清水かつら、加藤まさを等が参加した。そして全国の子供たちから投稿作品を募った。綴方は三重吉、自由詩は白秋、自由画は山本鼎が担当した。

    この成功を見て、翌八年には『おとぎの世界』(山村暮鳥等)、『金の船』(野口雨情等)、『こども雑誌』等が相次いで創刊された。しかしこれらは都市中産階級の子供を相手にしたものである。地方の子どもには殆ど無縁であった。勿論、地方の教員が生徒に向かって読み聞かせた場合もある。


    これらの童謡には、尋常でない懐古趣味が感じられる。過去は美しい。ひるがえっていうと、現在は不本意なのである。

    「やさしい」という形容がしばしば登場する。明治の男性性に対して再評価されたものは女性性ではなかった。むしろ「母性への回帰」であり、それは「改造への衝動」と並ぶ大正の時代精神の特徴であった。(関川夏央『白樺たちの大正』)


    武者小路実篤(三十四歳)が宮崎県児湯郡木城町に「新しき村」を開いた。これまで農業なんてまるで知らなかった素人が、実篤の「理想」に共鳴して村人になった。耕作作業は苦しい。土地の所有者が肥沃な土地を手放すわけはなく、農耕には全く向かない土地であった。実篤も耕したが「半人分位いきり」しかできなかった。米や麦は離れた町で購入して背負って運んでくる。


    麦が四分米六分の飯だが、若い男が多いから米だけでも一日ひとり当たり五合の勘定になった。それを沢庵か生味噌だけで食べるのである。

    初期数年間の「新しき村」の食事の貧しさは、当時の農村・山村の一般的レベルからみてもはなはだしかった。(関川夏央『「白樺」たちの大正』)


    「僕たちは現社会の渦中から飛び出して、現社会の不合理な歪なりに出来上った秩序から抜け出て、新しい合理的な秩序のもとに生活をしなおしてみたいと云う気もするのだ」と実篤は言った。

    誰もが労働を強制されず、毎月五の日は休み、村の創立記念日、ロダン生誕記念日、トルストイ生誕記念日等、農繁期で休んではならないときでも決められた休日は実行された。誰が考えても成功する筈はなく、有島武郎は「むしろ失敗を願う」と手紙を書いた。


    大正中期の日本人、ことに青年たちは生活改造への情熱に浮かされていたのである。それは、世界大戦景気に活況を呈しながらも混乱する経済のなかで、近代化以来の半世紀ですでに自由競争と資本主義は限界を迎えたのではないかと疑い、しかるに自らの進路を決めかねていた彼らの焦燥感のあらわれであった。(関川、同書)


    「自由競争と資本主義は限界を迎えたのではないか」という疑念は現在の私たちの関心とも共通する。少し時代が下るが橘孝三郎(明治二十六年生)が昭和四年に愛郷会、六年に愛郷塾を設立して青年の教育に当たろうと決意したのも同じ文脈である。実篤がトルストイ流のヒューマニズムに拠り、橘が農本主義に拠ったのと違いはあるけれど。

    添田啞蝉坊が演歌組合〈青年親交会〉を設立し、歌本の出版をすると同時に機関誌『演歌』を創刊した。

    鳥居龍蔵『有史以前の日本』、田辺元『科学概論』、室生犀星『愛の詩集』、『抒情小曲集』。葛西善蔵「子を連れて」(『早稲田文学』)、島崎藤村「新生」前編(『東京朝日新聞』)、芥川龍之介「地獄変」(『東京日日新聞』)。


    大正八年(一九一九)三月、利生は予備役陸軍歩兵少尉に任官した。前年の演習の成績は第一席だったと新聞報道がなされた。

    九月、皆男が山下合名会社実務教習所に入り上京した。これはどういう会社か分らないが、山下財閥(山下亀三郎)の山下汽船(現商船三井)の別会社かとも思われる。実務教習所と言うからには、企業内学校の一種であったろうか。


    一九一七年(大正六年)五月には山下汽船合名会社を資本金一千万円の株式会社に改組拡充して別会社の山下合名会社をつくり、(ウィキペディア「山下亀三郎」より)


    上京した後、利穎から、利生の恩を忘れるな、そして「名を後世に揚げて、以て父母を顕はす孝の終にあり、之を勉めよ」との訓戒の手紙が届いた。


    特に記せよ、乃(なんじ)兄利生は明治四十五年春、秋田工業学校第六回の卒業、而も優等成績なれば、之を他郷に售(う)らば、其収入敢て人後に落ちざるべきも、当時の家逼迫して他郷に送るべからず。僅かに郷里の小会社に勤勉して糊口の資を助けたり。此補助なくば、利雄も皆男も中等学校入校も六ケ敷かるべく、家も秋田に安堵せしや量るべからざるものあり。然れば、其許等二人は、利生の犠牲に負ふ所少からず。利生は、身を殺して仁を為すとか、己れは達せんと欲せば先づ人をして達せしめよと、孔子の言を実行したる貴重の行為たるを。


    利雄も皆男も、こんなことは言われるまでもなく分っていた筈だ。利穎の訓戒はくどくないだろうか。ここでも利穎の思想が儒教倫理に基づいていることが分る。


    大正中期、第一次大戦の影響で日本が異常な好況に見舞われ大戦バブルの様相を呈したとき、生活向上と中等教育の普及とともに、市井の青年たちは自我拡大を強く意識した。彼らは、何のために生きるか、どう生きるかを真剣に考え、生活の「改造」を模索した。(関川夏央『白樺たちの大正』)


    利雄、皆男が上京するのも、こうした時代背景が影響しただろう。

    十一歳の大岡昇平(明治四十二年生)は従兄の大岡洋吉の勧めで童謡「赤りぼん」を『赤い鳥』に投稿し入選作品として掲載された。


    「赤りぼん」の載った号から三重吉の「古事記」の書き替えがはじまっている。「女神の死」でイザナギ、イザナミの国造りと黄泉の国下りが性的な意味を除いて語られた。「海幸山幸」や「豊玉姫物語」は、それまでに教えられた「天の岩戸」や「ヤマタの大蛇」より、幻想的で面白かった。と同時に、日本の神々を清水良雄の感傷的な挿絵そっくりの無気力な「人間」にしてしまった。これは大正の文学一般にある傾向だが、テーマを失った純文学作家が「童心」を口実にして創作した幻想物語が、少なくとも私に与えた効果は、故知らぬ悲しみだったのである。(大岡昇平『少年』)


    例えば有島武郎の『一房の葡萄』は『赤い鳥』大正九年八月号に掲載されたものだが、非常に曖昧な作品である。「テーマを失った純文学作家が「童心」を口実にして」という大岡の批評がそれ程的外れでもない。

    ただ、『赤い鳥』が始めた自由作文(綴り方)運動は、全国の少年少女に大きな影響を与える。投稿して入選すれば自分の作文が印刷される。文章を書いて生きていたいという願いは、大正末期から昭和初期に登場する地方出身の作家たち、とりわけ高等教育を受ける機会のなかった女性に共通する。

    第一次世界大戦の結果、民族自決や独立の機運が高まってきて、三月一日、京城(現ソウル)のパゴダ公園で民族代表の名で独立宣言文が発表され、公園に集まった人々は「独立万歳」を叫んで市街に繰り出した。そして朝鮮全土に独立運動が広がって行った。

    六月二十八日、ヴェルサイユ条約が調印された。しかしウッドロウ・ウィルソン米大統領の「民族自決」はヨーロッパ諸国の植民地を考慮に入れていたが、そこに朝鮮人は含まれていなかった。そして植民地の独立もイギリス、フランスの反対で認められず、ヨーロッパ内部でのロシア帝国とハンガリー=オーストリア帝国からの分離独立にとどまった。

    「民族自決」は美しい言葉だが、特にソ連崩壊後は、自明と思われていた「民族」とはそもそも何かという難問を世界に突き付けて現在に至っている。「民族」はパンドラの箱であった。

    十一月、利雄が飯田ヤスと結婚した。天塩のミワが病気療養のため東海林家に寄寓していたところ、十二月に亡くなった。弥生にとっては育ての親の二人を失ったのである。


    大正八年十二月二十八日付、弥生からの皆男への手紙


    寒気益々激しきの候、兄上様には御壮健に遊さるる由大賀奉候。小生お蔭を以て無事働き居り候ヘバ他事乍ら御休心被下度候。

    先日故叔母の一七忌に実家に赴き、兄上よりの結構の下され物有難く拝領仕候。包紙にお認めの件、万々相守るべく、小生も日記帳は買ふべく心掛居候矢先とて、嬉しく拝領したる次第に候。

    叔母の突然の死につき小生も実に驚き申候。あれほど受けたる御恩の万分の一も返さざるうち逝かれたるは遺憾千万にて、殊に先晩父上(利頴)より遺言料として金拾円也分けられたる時などは何となく悲しく思はれ候。子、養はんと欲すれバ親待たずの言、しみじみ心に感じ大いに得る処有之候。先は御礼かたがた所感申述候。年賀状は差控へます。


    この時、弥生は十七歳である。高等小学校しか出ていない少年がこれだけの手紙を書く。天塩から戻って以来、利雄や皆男に日記を書け、本を読めと督励され、また兄弟子の三浦忠治から本を借りただろう。相当に努力した結果である。

    長く家を離れていた利穎はなかなか新しい環境に馴染めない。利器の方が家庭も近所付き合いも巧みで、利穎は何となく疎外されるような感じをもった。帰宅以来、夫婦は何かと意見が合わず口論するようになる。皆男の日記から。


    〇大正八年一月十三日の皆男日記(夫六十歳、婦五十一歳)

    母と父と生活問題につき議論すれども、父は国家を基とし、母は一家を基とす、到底合致すべくも非ず。(皆男はこう判定している。このときは母は小野という皆男の女の学友の家へ近所つきあいで難を避けた。皆男はあとで迎えに行った。)

    〇大正九年八月九日の皆男日記

    夕食後の休み時より、父と母に意見の衝突あり。母はあくまで気丈に口答へす。父あくまで自己の意見を吐き通す。遂に世間の悪世帯に見る狂態、云ふべき言葉もなし。

    (このときは、石山、東海林にて納骨法要のため、帰省中であった。)  


    前年末に東京帝大に新人会ができ、この年の末には東京帝大助教授森戸辰男が『経済学研究』に発表した「クロポトキン社会思想の研究」が筆禍を受け、森戸は休職を命じられ復職はかなわなかった。最初の赤化教授処分である。これが、大学、高校生の間にマルクス主義を広げるきっかけになったのは皮肉なことである。


    「嘗て、森戸事件は、支配階級が大学教授の赤化を防止するために試みたお灸であつたが、一面に於ては、従来ゴロツキ仲間の思想の如く見られてゐた社会主義思想が大学教授たちの間に食ひ入つたことによつて、社会主義は著しく男前を上げた。」(『学生社会主義運動史』)

    社会主義は壮士あがりのならず者やごろつき集団まがいの矯激な運動あるいは在野知識人の運動ではなく、知的青年の社会思想や社会運動に格上げされたのである。(竹内洋『教養主義の没落』)


    そして新人会のオルグによって全国の大学、高校に社会思想研究会が生まれてくる。大正期を覆うかと思われた教養主義が、マルクス主義に取って代わられるようになった。


    大正時代の終わりには、もっとも頭の良い学生は「社会科学」つまりマルクス主義を、二番目の連中が「哲学宗教」を研究し、三番目のものが「文学」に走り、再会に属するものが「反動学生」と呼ばれた。昭和初期には、ジャーナリズム市場はマルクス主義者によって独占されているとか、左翼化すればするほど雑誌が売れるといわれるようになる。(竹内・同書)


    少し後の関東大震災の頃になるが、岩波茂雄が『教養叢書』を出版しようとしたとき、小林勇(明治三十六年生)が反対した。もはや「教養」という言葉は黴臭くなって今では流行らないというのである。


    ・・・・・インテリの黎明期などともいわれた時だが、このインテリゲンチャなる輸入語の流行が、一種のエリート意識を伴っていたことも争えない事実である。〈蒼白きインテリ〉という嘲笑語もできた。その頃の映画で題名は忘れたが、華族出の女優入江たか子が汚れ役の女工で、男性のなまくら幹部にタンカを切る場面があった。「なんだい、この、蒼白きインテリ野郎が」とやる、その一駒で客席におこった爆笑と、スクリーンへの拍手まであったのが筆者の印象に刻まれている。観念の操作にとどまる知的感度と、具体の感得とが密着したものとはならなかったのだ。(添田知道『演歌の明治大正史』)


    この年の高等学校令によって七年制高等学校が生まれることになる。官立では東京高等学校(大正十年)、台湾総督府台北高等学校(十一年)、公立では富山県立富山高等学校(十二年)、大阪府立浪速高等学校(大正十五年)、東京府立高等学校(昭和四年)、私立では根津財閥の武蔵高等学校(大正十一年)、甲南高等学校(十二年)、三菱が支援した成蹊高等学校(十四年)、沢柳政太郎の成城高等学校(十五年)である。

    高田保馬『社会学原理』、津田左右吉『古事記及び日本書紀の研究』。武者小路実篤「友情」(『白樺』)。雑誌『キネマ旬報』創刊。喜田貞吉が「特殊部落研究号」(『民族と歴史』)以降、一九二〇年代を通じて被差別部落の研究に取り組む。


    大正九年(一九二〇)正月、弥生は小遣い月に三円の辞令を受けた。給料ではなく小遣いである。月床屋代は、銭湯代は自分で負担すること、毎月必ず貯金をすることが条件になっていた。この年の薮入りには二円の小遣と十円程の反物を貰っている。

    三月十五日、東京株式市場の株価大暴落に始まり、大阪、横浜に企業倒産、銀行取付が波及し大混乱に陥った。六月にはアメリカに恐慌が起こり世界恐慌となる。これによって中小企業の大企業への吸収合併が促されて行く。

    六月、南秋田郡八郎潟町一日市に石黒自転車支店(支店長三浦忠治)が開設され、それに伴い弥生は一日市に転属となる。七月、羽越線の秋田・亀田間が開通した。

    この年二月五日、改正大学令によって慶應義塾大学、早稲田大学の設立が認可された。この後十五年までに全国で二十の私立大学が認可される。


    五月に辻潤訳・スチルネル『唯一者とその所有』が日本評論社から出版された。その献辞に「この書をわが敬愛する武林無想庵兄にささぐ」とある。辻潤や無想庵の名前を知っている人は殆どいないだろうが、おそらく大正の時代精神が典型的に現れた人物ではないか。

    辻潤は伊藤野枝との恋愛問題で教師を辞めてからは職に就くことをせず、放浪の挙句、太平洋戦争敗戦の前年に餓死する。一九七〇年頃に再評価の機運があったのではなかったか。数巻の著作集が書店の棚に並べてあるのを学生時代に見た記憶がある。調べてみると、昭和四十四年から四十五年にかけて、オリオン出版社から『辻潤著作集』(全六巻+別巻)がでている。

    無想庵は大蔵経全巻を読破し、芥川龍之介や谷崎潤一郎に舌を巻かせるほどの膨大な知識をもちながら、その才能はついに創作には向かわなかった。僅かに数編の翻訳で知られている。


    武林無想庵の博識ぶりは幸田露伴の話相手がつとまるといったら分かりやすかろう。露伴は東洋に明るく西洋にはそれほどではない。無想庵は西洋に明るくそれも多岐にわたっている。ことに数学に及んでいるところが世の常の文士とちがうところである。(山本夏彦『無想庵物語』)


    異母妹を妊娠させ、裕福な実家の金を当てに暮らす性格破綻者でもあった。この頃、鵠沼の旅館に宿泊し、鎌倉のある人妻と密会を重ねていた。しかし女は離婚する積りなど一切なく、無想庵は悶々としている。札幌の実家の土地を売って三万円を手にしており、辻潤と一緒に世界旅行に行く積りだった。そこに中平文子が現れた。


    文子は辻さんの代わりに私をつれてってくれと冗談のように言いだした。つれは辻でなくても誰でもいい。女ならなおいい。いっそ結婚して二人で行ったほうが何かにつけて便利ではないかと、うそから出たまことと言うが信じがたいことを言いだして、それじゃ辻さんに悪いわ、なに辻はそんなことで怒るような男じゃない。(山本夏彦『無想庵物語』)


    文子は明治二十一年生まれ、この時三十三歳である。若くして二度結婚して三児を生んだが離婚し、女優を志願して芸術座に入った。その後は新聞記者として潜入ルポを書いて名を知られていた。新聞社を辞めたのは、社長とのスキャンダルである。その取材方法や暴露的な記事内容から、いわば「札付き」と見られていた。


    無想庵との結婚は二人とも本気じゃなかったのよ。なりゆきの、今でいう契約結婚というものだったのね。あっちは女にふられってがっくりしていたし、わたしの方は、もうさんざんなめにあって、くたびれていたしね。(中略)向こうへ行ったら別れるつもりで、道中だけ夫婦でいようということにしたの。(瀬戸内晴美『諧調は偽りなり』)


    翌年二人は田山花袋(あるいは島崎藤村)の仲人で盛大な結婚式を挙げ、パリに向かう。文子はパリで女優になる積りだ。出発前に文子の妊娠が発覚したが、パリで出産してすぐに里子に出せば良い。ところがイヴォンヌ(日本名は五百子)が生まれてみると、可愛くて別れられなくなった。その後誰の子か分らない子を妊娠中絶する。日本料理店の経営者と愛人関係になり、その店の経営が危うくなるとあっさり捨てようとしてピストルで撃たれた。撃たれた傷痕は頬にエクボのように残った。妻を寝取られた無想庵は『「Cocu」のなげき』を書く。事件は日本にも伝えられてスキャンダルになった。それでも無想庵との婚姻関係は十年以上続いていく。

    昭和九年にはエチオピア皇太子が日本の華族の娘と結婚するという報道を知り、自分が現地報道をして世間を驚かせてやると決め、アントワープの宮田耕三を訪ねた。宮田はエチオピアと貿易上の関係があったので、便宜を図ってくれないかと頼み込んだ。皇太子の話は御破算になったが、「無想庵と別れるなら結婚してもいい」と宮田に言われ、即座に無想庵に離婚届に判を押させ結婚した。文子四十七歳、宮田四十歳の時である。文子は四度目の結婚で、一生遊び暮らせる金蔓を手に入れた。とにかく自由奔放、破天荒な人生を送った女性である。

    宮田耕三もかなり興味深い人物だ。戦後の一時期日本に帰国したが、生涯の大半をベルギーで暮らし日欧貿易に従事した。当時パリで暮らしに困ったら宮田を頼れと言われ、多い時には二十人の居候を抱えていたという。大戦景気が終わり、恐慌の中で円安は海外で暮らす日本人に打撃を与えたのである。

    宮田は、最初は森三千代(金子光晴の妻)に惚れこんで随分尽くしたが三千代は遂に靡かなかった。そのほとぼりが冷めた頃、接近してきた文子にプロポーズしたのである。文子は三千代に似ていたらしい。そして意外なことに文子が死ぬまで彼女を愛し続けた。文子は世界各地を飛び歩いた。旅先では必ず金が足りなくなって宮田に電報を打てば必要な金はすぐに送金してくれた。晩年の文子は帝国ホテルの一室に住んだ。戦後、文子の親友になったのは宇野千代である。


    最後に文子が、帝国ホテルの自室で倒れ、翌日病院で死去したとき(昭和四十一年六月)、当時ベルギーのブラッセルにいた夫君の宮田耕三が、ブラッセルから東京の病院へ駆けつけ、文子の小さな体を抱き上げて号泣した。

    私は男が号泣するのを初めて見て、どんなに感動したか。どこか古武士のような面影のある宮田耕三の、人前も、なり振りも構わず号泣している姿は、人々の眼に何と映ったか。その一瞬、こんなにまで一人の男に愛せられることのできた宮田文子を、私はどんなに羨ましく思ったことか。(宇野千代『生きて行く私』)


    十月、急に決まった師団対抗演習に際し、利生は在郷軍人会の副会長だったから宿舎割を決めるために奔走をした。東海林家では五名を引受けることとなり、その経費は二十五円を要した。この時の軍隊野営の影響でガス需要が三割も増え、秋田瓦斯ではその製造に苦心したという。


    廿五日夕、野砲兵第八連隊の急の二泊となり、隊は旭南分会に頼りたるにより、利生は勤務を早退して奔走し、旭南学区内に二カ中隊と大体本部二ヵ所を宿泊させた。あいにく当日は大雨、兵の濡れ物の乾燥に父は二夜を明かした。馳走向には手伝婦を頼み我家の経済では至れり尽くせりと自認せり。父の兵隊好遇の意思が躍如としている。


    十二月、皇太子の婚約者久邇宮良子女王の家系に色覚異常の遺伝があると、山縣有朋が婚約に異議を唱え、これに杉浦重剛等が反論した。薩長閥の対立や反藩閥勢力の動き、皇太子の外遊計画への反対運動も絡んで宮中から政界右翼を巻き込む騒動となった。宮中某重大事件と呼ぶ。翌年二月に、皇室は結婚問題に変更なしと結論を出す。このことで山縣は謹慎に追い込まれた。

    この年、谷崎潤一郎は大正活映株式会社脚本部顧問に就任し、妻千代の妹せい子(十九歳)を葉山三千子として女優デビューさせた。『痴人の愛』のナオミのモデルであり、千代と離婚を決意する動機になった女性である。翌年三月には佐藤春夫に千代を譲渡する約束をしながら、せい子が谷崎との結婚を承諾しなかったので、約束を破棄した。これが小田原事件である。そして十一月に佐藤春夫は「秋刀魚の歌」を書く。「人に捨てられんとする人妻」は千代、「妻にそむかれたる男」は春夫、「愛うすき父を持ちし女の児」は谷崎鮎子である。

    柳宗悦「朝鮮の友に贈る書」(『改造』)、賀川豊彦「死線を越えて」(『改造』)、菊池寛「真珠夫人」(東京日日新聞』)。


    大正十年(一九二一)二月、小牧近江(二十八歳)、金子洋文(二十九歳)、今野賢三(二十九歳)が『種蒔く人』を創刊し、プロレタリア文学運動の先駆となった。編集は東京で行われたが、印刷は秋田県土崎で行ったので、「土崎版」と称される。金子洋文は高等科卒業後、一時東京で職工をしていたが、帰京して秋田工業機械科に入学した。利生の一、二年前に卒業しているので、面識があったと思われる。

    三月三日、皇太子裕仁が六か月に及ぶ欧州各国歴訪の途に着いた。筒井清忠『天皇・コロナ・ポピュリズム』は、裕仁が英国王ジョージ五世からウォルター・バジョットの『イギリス憲政論』を学んだことが、後の昭和天皇としての行動を律したと言う。立憲君主には「諮問に対して意見を述べる権利」、「奨励する権利」、「警告する権利」があるという議論で、とりわけ「警告する権利」が重要である。それならば、天皇は太平洋戦争を回避することもできた筈だ。


    ・・・・・一九二九年七月の田中義一内閣の総辞職は、直接的には天皇の「逆鱗に触れ」たことによる面会謝絶と言う、非常にはっきりとした「警告する権利」の発動によるものであった。(中略)

    また一九三九年八月、平沼麒一郎内閣が倒れ、次の阿部信行内閣が成立するプロセスでは、陸軍が三長官会議で決めた多田駿陸相を、「どうしても梅津か畑を大臣にするようにしろ」と天皇は指名までして阿部新首相に変更を迫り・・・・

    ・・・・一九三九年三月、大島浩駐独大使・白鳥敏夫駐伊大使が日独伊三国同盟締結を強硬に進めるのをやめさせようとした天皇は、二人がいうことを聞かないなら辞めさせると平沼首相に約束させ(略)(筒井清忠『天皇・コロナ・ポピュリズム』


    しかしそもそも憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定められ、また第九条に「天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス」とある。英国の「君臨すれども統治せず」とは本来的に制度が違っているのである。昭和天皇が主観的には「君臨すれども統治せず」を信念とし、天皇機関説を信じたとしても、憲法の規定によって天皇自身が決断を下すことはできるのである。


    三月末、二十一歳の皆男が山下合名を辞め(実務研修所が満期になったか)、ダイヤモンド社の記者として採用された。ダイヤモンド社は、新潟県西蒲原郡曽根村出身の石山賢吉が、大正二年(一九一三)に月刊誌『ダイヤモンド』を創刊したことに始まる。財務報告を基に会社を分析する手法が斬新で、創刊四年後には大雑誌に上り詰めている。石山賢吉の慶應人脈によって、福沢桃介、松永安左衛門、小林一三、藤原銀次郎、武藤山治等の支援もあった。


    大まかに言えば『東洋経済新報』は日本経済など経済のマクロ的な側面(公経済)、『ダイヤモンド』は会社評論などミクロ的な側面(私経済)に力を入れていたが、『ダイヤモンド』も企業業績に影響を与える財政経済の記事を掲載するようになるなど、両誌の誌面構成は次第に似たようなものになっていった。(牧野邦昭「経済メディアと経済論壇の発達」筒井清忠編『大正史講義 文化篇』)


    還暦を迎えた利穎はこう詠んだが意味がよく分からない。「捨てらるる世」とは何か。「神の心」とは何か。


    捨てらるる世をなつかしみ永らえへば 神の心に身をばつくさむ  利穎


    四月には末っ子の伸が秋田高女に入学した。利雄、皆男が就職して家を離れたことで、家計もやや楽になってきたのだろう。秋田県立秋田高等女学校は三十二年二月の高等女学校令(尋常中学校から分離)に基づき、明治三十四年(一九〇一)に開校していた。


    高等女学校令制定について樺山文相は、三十二年七月の地方視学官会議において、女子高等普通教育に関して次のように説明した。高等女学校は「賢母良妻タラシムルノ素養ヲ為スニ在リ、故二優美高尚ノ気風、温良貞淑ノ資性ヲ涵養スルト倶ニ中人以上ノ生活ニ必須ナル学術技芸ヲ知得セシメンコトヲ要ス。」ここでは、女子の高等普通教育が中流以上の社会の女子の教育であり、その特質がいわゆるのちの「良妻賢母主義」の教育にあることを明らかにしていた。

    高等女学校の修業年限は四年を基本とし、土地の状況によって一年の伸縮を認めた。また二年以内の補習科を置くことができるとした。その入学資格は従来、修業年限四年の尋常小学校卒業者であったのを改め、男子の中学校と同様に年齢十二歳以上で高等小学校第二学年修了者とした。さらに高等女学校においては技芸専修科、専攻科を置くことができるとした。四年を基本型とし、三年から五年にわたる多様な修業年限を認め、補習科のほか技芸専修科、専攻科の課程を設置するとしたことは男子の高等普通教育とは異なった編制をとったものであり、多様な要望を考慮した女子のための特有な中等教育制度としたのである。特に修業年限の点で、中学校より程度の低いものとして位置づけたこととなる。(文部科学省「学制百年史 二 高等女学校令の制定」)


    この年に高等女学校令が改正され、修業年限が五年に決められた。「良妻賢母主義」は当時の新思潮で、娘たちに進学する機会(親を説得する材料)を与えたのだと、斎藤美奈子は『モダンガール論』で言っている。現実にこれをきっかけに女子の進学率は急上昇する。大正二年には学校数二一三校、在校生六八三六七人だったものが、この大正十年には四一七校、一五四四七〇人となり、更に昭和二年には六九七校、三一五七六五人と増えている。と言っても高女の卒業生は、大正十四年の時点で同年齢の女子人口の十パーセント程度に過ぎない。伸は恵まれた女性であった。


    女学校教育の転換、それは良妻賢母思想が国家レベルのそれに昇格したことである。

    こんどのきっかけも戦争だった。第一次世界大戦である。大戦中、欧米諸国では、出征した男子にかわって銃後の女子が、傷病兵の慰問、看護、寄付、貧窮者保護、戦争孤児の養育、代替労働など、さまざまなかたちで社会活動に従事した。イギリス、フランス、アメリカ、ドイツなどの「各国婦人の活躍」を、日本の新聞雑誌もしきりに報道した。

    おお、海の向こうの婦人は偉いものではないか。ひるがえって、わが国の婦人は何だ。家にこもって、ぼやぼや裁縫なんかしている場合ではあるまい!

    かくして教育界は、あわてて女性の能力開発研究に乗り出した。(斎藤美奈子『モダンガール論』)


    秋田高女の制服がセーラー服に定められるのは昭和三年のことだから、伸はまだ行燈袴で通学していただろう。それにしても秋田高女(戦後は秋田北高等学校)が、平成二十年には男女共学になるとは思いも寄らないことであった。

    四月十四日から五月十七日、利生は在郷軍人会主催による朝鮮満州の日清日露戦跡視察旅行に出た。大枚の費用はかかるが、なによりも世界を見てみたいという願いが強かった。利生にとっては生涯最大の喜びではなかったかと皆男は言う。


    小型のノートに、例により克明に記録してある。その見学地をたどるだけでも、釜山、京城、仁川、平壌、新義州、本渓湖、奉天、撫順、遼陽、首山、大石橋、営口、金州、旅順、大連の多くに達する。日清・日露の両戦役の名だたる戦地は網羅されており、併せて歴史、文化、工業の全般を知るに足る。

    ノートには諸経費を詳細に記録してある。全経費三百十二円。原資は(在郷軍人会)分会長加賀谷氏借用五十円(これは大正十二年三月三十一日返済)、自分貯金百二十円、工藤(金助)より百円、その他餞別などによる。


    利生の頭には植民地問題は全く影を落としていなかった。これは利生だけの罪ではなく、明治四十二年(一九〇九)秋に一ヶ月半ほど満州、朝鮮を旅行した夏目漱石でも変わらない。利生の感想は漱石とほぼ同じであったろう。


    歴遊の際もう一つ感じた事は、余は幸にして日本人に生れたと云ふ自覚を得た事である。内地に跼蹐してゐる間は、日本人程憐れな国民は世界中にたんとあるまいといふ考に始終圧迫されてならなかつたが、満洲から朝鮮へ渡つて、わが同胞が文明事業の各方面に活躍して大いに優越者となつてゐる状態を目撃して、日本人も甚だ頼母しい人種だとの印象を深く頭の中に刻みつけられた 同時に、余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた。(夏目漱石「満韓所感」)


    利生にとっては大満足の旅行だったが、その影響を受けて天塩の利穎からは「当方鮮満視察の余弊を受け頗る窮屈」と二十円の用立てを皆男に頼んできた。借用金の明細に利穎の分は書かれていないので、この当時はむしろ利生から利穎へ仕送りをしていたのかも知れない。それが旅行のために滞ったのであろう。

    世論の「常識」に反して、『東洋経済新報』は八月六日と十三日の社説に、石橋湛山「大日本主義の幻想」を掲載した。東洋経済新報社が前主幹の三浦銕太郎以来引き継いできた小日本主義を、数値を挙げて論じたものである。植民地主義はコストに合わないこと、それよりも平和を促進して貿易の利を挙げるべきだというものだ。


    朝鮮台湾樺太も棄てる覚悟をしろ、支那や、シベリヤに対する干渉は、勿論やめろ。之実に対太平洋会議策の根本なりと云う、吾輩の議論 (前号に述べた如き) に反対する者は、多分次ぎの二点を挙げて来るだろうと思う。

    (一)我国は此等の場所を、しっかりと抑えて置かねば、経済的に、又国防的に自立することが出来ない。少なくも、そを脅さるる虞おそれがある。

    (二)列強は何れも海外に広大な殖民地を有しておる。然らざれば米国の如く其国自らが広大である。而して彼等は其広大にして天産豊なる土地に障壁を設けて、他国民の入るを許さない。此事実の前に立って、日本に独り、海外の領土又は勢力範囲を棄てよと云うは不公平である。

    吾輩は、此二つの駁論に対しては、次ぎの如く答える。第一点は、幻想である、第二点は小欲に囚えられ、大欲を遂ぐるの途を知らざるものであると。


    九月二十八日、安田善次郎が大磯の別邸で暗殺された。犯人朝日平吾(三十二歳)は斬奸状を残して割腹した。橋川文三は朝日の遺書の「吾人ハ人間デアルト共ニ真正ノ日本人タルヲ望ム。真正ノ日本人ハ陛下ノ赤子タリ、分身タルノ栄誉ト幸福トヲ保有シ得ル権利アリ。シカモコレナクシテ名ノミ赤子ナリトオダテラレ、干城ナリト欺カル。スナワチ生キナガラノ亡者ナリ、ムシロ死スルヲ望マザルヲ得ズ。」に注目する。


    ともあれ、朝日の遺書全体を貫いているものをもっとも簡明にいうならば、何故に本来平等に幸福を享有すべき人間(もしくは日本人)の間に、歴然たる差別があるのかというナイーブな思想である。そして、こうした思想は、あえていうならば、明治期の人間にはほとんど理解しえないような新しい観念だったはずだというのが私の考えである。朝日というのが、いわば大正デモクラシーを陰画的に表現した人間のように思われてならないのはそのためである。(橋川文三『昭和維新試論』)


    日比谷焼き討ち事件、護憲運動、米騒動等によって生まれた「平等」の観念が、富を貪るものへの憎悪を生む。吉野作造が朝日平吾に同情的な論説を書き、マスコミや新聞も挙って英雄視した。「至誠」さえあれば、手段の是非を問わないという危険な感情が生まれている。五一五事件、二二六事件の首謀者若手将校への同情論と同じだ。

    またこの「平等」の観念が左に触れればマルクス主義に行きつく。つまり右も左も、実は同じ観念の土壌に産み出されたのである。そして当然、男女平等の観念も進んでいった。

    朝日平吾は満川亀太郎(明治二十一年生)の猶存社に関係していた。猶存社には大川周明が(明治十九年生)参加し、少し後には北一輝(明治十六年生)も加わって来る。満川は「国内改造に向けた純然たる実効的思想団体」を目指していた。その八大綱領は以下のものである。(一)革命的大帝国の建設運動、(二)国民精神の創造的革命、(三)道義的対外策の提唱、(四)亜細亜解放の為めの大軍国的組織、(五)各国改造状態の報道批評、(六)エスペラントの普及宣伝、(七)改造運動の連絡機関、(八)国柱的同志の魂の鍛錬。

    昭和維新運動の源流とみるべきであるが、(六)のエスペラントがよく分からない。明治三十八年(一九〇五)フランスのブローニュで第一回世界大会が開かれて以来、エスペラントは各国に広まっていた。国際連盟の作業言語にエスペラントを加えようとする動きもあったが、フランス代表の猛反対で潰れていた。

    この間、十月二十日、九州の炭坑王伊藤伝衛門(万延元年生)の妻柳原白蓮(明治十八年生)が、滞在先の東京で出奔し、宮崎龍介(明治二十五年生)のもとに走った。新聞紙上に白蓮から伝衛門への絶縁状が公開され、世間は驚いた。『白蓮夫人の歌』という演歌までが作られた。龍介は宮崎滔天の息子である。白蓮との恋愛が世間の噂になった頃、新人会では伯爵令嬢でブルジョワ夫人である白蓮との恋愛を裏切り行為と見なし、四月には龍介を除名していた。


    曰く、日本のノラが出現した。曰く莫連女だ。これに先立っては、浜田栄子が政略結婚を強いられて、愛人に遺書して自殺した件が、やはり演歌になっていたが、こうした女性の抗議が、あるいは古来の敗北型であれ死を以てされる一面、果敢な断行においても示される、そんな動きがしきりに目に映ってきた。

    〈職業婦人〉の語が行われはじめたのも、女性の自覚促進の意欲からだろう。断髪が流行し、モダンガールの名の流布は、たちまちモガの略称となり、それがモボまでひき出した。(添田知道『演歌の明治大正史』)


    十一月十四日、東京駅で原敬が暗殺された。犯人は大塚駅転轍手であった中岡艮一(十九歳)だった。六十六歳。中岡の供述では、原が政商や財閥中心の政治を行ったと考えていたこと、普通選挙法に反対したこと、また尼港事件が起こったことなどが理由だとされる。中岡の思想的背景は分らない。ワシントンでの国際軍縮会議が開かれた直後のことで、条約反対派の動きとみる説もあるが真相は不明だ。

    十一月二十五日、大正天皇の病状悪化に伴い、皇太子裕仁が摂政宮となった。裕仁は明治天皇の再来と期待された。

    十二月二十五日、利生は亀田町の佐藤憲輔の長女タツミと結婚した。佐藤憲輔はどういう人か分からないが、昭和七年から十五年まで亀田町長を勤めた人にこの名前がある。同名異人の可能性は勿論ある。いずれにしろ親戚か知人の紹介によるものだ。新居は川尻村の秋田製紙社宅である。これを機に利穎は家庭の権限を利生に譲ること(竈譲り)を考えたが、なかなかすぐにはいかない。明治の家長のプライドは強いのである。

    天野貞祐訳『純粋理性批判』上、北一輝『支那革命外史』、石原純『相対性原理』、倉田百三『愛と認識との出発』、佐藤春夫『殉情詩集』。志賀直哉「暗夜行路」前編(『改造』)。