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    東海林の人々と日本近代(五)大正篇③

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2022.07.30

    大正十一年(一九二二)一月十日、弥生と鵜沼国義との養子縁組が整った。孤独な老人のため、様々親戚と折衝した上での結論である。利穎が皆男に事後承諾を求めた手紙がある。父親が三男に「事後承諾を求」めると言うのも少し変だ。


    事後承諾を求むるは体裁上欠点も有之様なれとも、鵜沼国義(国寧父)儀、本年は七十歳の高齢になりたれとも嗣子無之、国寧死亡以来、諸方へ周旋致し候へ共、貧乏の独身老爺、中々来援の養子無之困却致居候。われらも亀田の鶴岡沢住居中は、向合せの懇意、殊に亡母とは兄弟の間柄なれば、極めて親しく交際致居る次第、其程互いに鶴岡退散致候へ共、交際従前の通り少しも変更無之候へば、右養子のことは十分配慮も致候。

    昨秋も村田敬吉(国義の実家)に照会せしも之にも余子無之、石山熊次(国義の妻の実家)へは三男武を懇望致候へ共、是も一家の都合申訳に相成、此上は当家へ一人の無心に御座候。当方とても余子といふ程には無之も差当り弥生と致し候。弥生は亡妹の関係も有之また本人の意思も如何と考申候。幸に昨年末当家の祝儀(長兄利生の結婚)に手伝に参り候故、その帰店に臨み、我希望を申聞け、また利生は老人を養ひ衰家を勃興するの人生の本義を諭したるに、弥生に於ても覚悟する所ある者の如く快諾致候。

    就ては本年御用始に市役所へ出頭、利生の婚姻届作成に参る序でなれば、右養子縁組届出も作成せしめ、亀田鵜沼へ差回し候処、本月十日亀田町役場へ届出たるに些の故障も無く受理相成候とて大悦の礼謝申来候間、弥生事本月十日より鵜沼の養嗣子たることと御承知下度。体裁上より決定前ご相談の義は欠礼致候へ共、不悪御承知被下度候。(後略)」


    弥生は天塩に行く時でも、高等小学校卒業後に年季奉公に入る時でも、いつでも利穎の頼みならば即断、「おおよろこび」「快諾」するのである。それが心からのものなのか、長く他家で育てられたことによる忖度なのかは分からない。


    鵜沼家に養子のことと決定致候。功労ある鵜沼家断絶を憂ふるの余り父は遂に我をとの事にて、長兄も勧められ、母上も承諾したれば、小生も異存なく、旧正月の休暇を利用して養子父対面のため亀田に参るべく候。(弥生から皆男へ)


    二月、利生は秋田製紙の工場長代理となる。入社して三年ちょっとだ。利生は勿論真面目に働いただろうが、人材が不足しているとも言えるのではないか。実はこの頃から秋田製紙の経営は危うくなっていたようだ。

    二月一日、山縣有朋が死んだ。八十五歳。石橋湛山は「死もまた社会奉仕」を発表した。葬儀は国葬として執り行われたが、それに似つかわしくない貧弱なものだった。一万人の参列者を予想し斎場には二棟のテントが建てられたが、実際には「二棟で一千にも満たず雨に濡れた浄白な腰掛はガラ空き」という状態であった。

    前年の十一月十一日から開かれていたワシントンでの軍縮会議が、二月六日に終わった。最も大きな点は英米日仏伊の主力艦保有率を五:五:三:一・六七:一・六七と定めたことである。当初の日本の主張は英米日七割であったが、実質的には不満の無い決定である。特に英国の大戦による疲弊が酷く、軍拡競争への歯止めとなった点で各国とも満足できる結果であった。

    大陸問題でも、パリ講和会議以来の懸案がほぼ解決した。二十一か条要求は事実上無効化されたが、山東半島の旧ドイツ権益をめぐる日中の対立が決着した。満蒙における日本の特殊利益も事実上承認された。

    三月三日、京都市岡崎公会堂にて全国水平社の創立大会が行われ、水平社創立宣言を採択した。発起人は奈良の西光万吉、阪本清一郎、駒井喜作、米田富、京都の南梅吉、桜田規矩三、近藤光、福島の平野小剣。日本最初の人権宣言といわれる。


    宣言

    全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。

    長い間虐められて来た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々とによつてなされた吾等の為めの運動が、何等の有難い効果を齎らさなかつた事実は、夫等のすべてが吾々によつて、又他の人々によつて毎に人間を冒涜されてゐた罰であつたのだ。そしてこれ等の人間を勦るかの如き運動は、かえつて多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際吾等の中より人間を尊敬する事によつて自ら解放せんとする者の集団運動を起せるは、寧ろ必然である。

    兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、実行者であつた。陋劣なる階級政策の犠牲者であり男らしき産業的殉教者であつたのだ。ケモノの皮剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥取られ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖い人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の悪夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあつた。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が来たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が来たのだ。

    吾々がエタであることを誇り得る時が来たのだ。

    吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行為によつて、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦はる事が何んであるかをよく知つてゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求礼讃するものである。

    水平社は、かくして生れた。

    人の世に熱あれ、人間に光あれ。


    宇野千代は最初の十日間だけの夫の弟、藤村正と結婚して札幌に暮らしていた。二月に小説「墓を暴く」を書きあげて『中央公論』の滝田樗陰に送ったのに一向に返事が来ない。四月になって直接話を聞こうと上京して面会すると『中央公論』五月号に掲載されていて、その場で原稿料も貰った。そこで紹介された尾崎士郎と意気投合してすぐに同棲する。札幌を出てきた時は二、三日で帰る積りだったのに、それっきり夫の元に帰ることはなかった。千代を見た男は誰でも夢中になってしまうようで、梶井基次郎との仲が原因で後に尾崎と別居すれば(籍は尾崎のまま)すぐに東郷青児(結婚はしなかった)が現れ、東郷と別れれば北原武夫(結婚した)が出現する。

    この年七月、有島武郎は北海道狩太村(現ニセコ町)の有島農場を、全小作者(七十戸)に無償で開放した。実篤の「新しき村」には批判的だった有島だが、この一月『改造』に「宣言一つ」を書き、プロレタリアートになれない己の階級的立場の悩みを告白していた。


    生産の大本となる自然物、すなわち空気、水、土のごとき類のものは、人間全体で使用すべきもので、あるいはその使用の結果が人間全体に役立つよう仕向けられなければならないもので、一個人の利益ばかりのために、個人によって私有さるべきものではありません。しかるに今の世の中では、土地は役に立つようなところは大部分個人によって私有されているありさまです。そこから人類に大害をなすような事柄が数えきれないほど生まれています。それゆえこの農場も、諸君全体の共有にして、諸君全体がこの土地に責任を感じ、助け合って、その生産を計るよう仕向けていってもらいたいと願うのです。(有島「小作人への告別」)


    これに基づき、十三年の夏には、産業組合法の枠組で、有限責任狩太共生農団信用利用組合(狩太共生農団)の設立が認可される。定款には、土地や建物、水車等は農団の共有資産であり、組合がこれを経営する。農耕馬の共同放牧なども行われ、各農家は平等な立場で出資金と、利用に応じた経営費を公平に拠出する等が定められた。

    幾多の苦難を抱えながら共生農団は戦後まで生きのびたが、戦後の農地改革で、個人ではなく農団が所有する形態が問題視された。結局農団の構成員個人ずつに農地が売り払われ、この組織は解散する。


    七月九日、森鷗外が死んだ。六十一歳。腎萎縮、肺結核であった。文学上の啓蒙活動については言うまでもなく評価しなければならない。樋口一葉、与謝野晶子、平塚らいてう等女性作家を積極的に支持した。自然主義全盛の時に反自然主義の旗頭でもあった。しかし晩年の史伝三部作は『渋江抽斎』だけが読めるもので、『北條霞亭』に至っては、石川淳がどれほど詭弁を弄して賞賛しようと失敗であったことは間違いない。北條霞亭の小人物振り、卑小さは鷗外自身のものでもあった。結局、山縣有朋の鼻息を窺う官吏であった。

    幸田露伴は鷗外に対して手厳しい。小林勇『蝸牛庵訪問記-露伴先生の晩年』にこんな言葉が出てくる。


    死んでしまった人のことをいうのもいやだが、森という人は恐ろしく出世したい根性の人だった。

    森は蓄財の好きなやつさ。心は冷たい男だ。なにもかも承知していて表に出さぬ。随分変なことがあったよ。


    森銑三は井上通泰(慶應二年生)に鷗外の印象を訊いた。井上は柳田國男(明治八年生)の兄であり、医学博士である。歌人として山縣有朋の常盤会の選者を勤めた。鷗外とは若い頃からの親友である。


    ・・・・・井上先生は、山縣公と一座する時など、森はいいたいこといわずに控えているのが、卑屈ともいいたいほどで、歯がゆかった、と言われた。鷗外の遠慮深さが、おのずとそうした態度を執らせたものだったろうと思う。

    この話をいつか柴田宵曲子にしたら、それはそのはずでしょう。井上さんは山縣公の歌のお師匠さんだったのだから、平気で何でもいわれたでしょうが、軍人でもあった鷗外には、山縣公は上官になるのだから、そう無遠慮な口はきけませんよ、といった。(森銑三『明治人物夜話』)


    七月十五日には日本共産党が結成された。創立メンバーは堺利彦・山川均・荒畑寒村・渡辺政之輔・徳田球一・佐野学・鍋山貞親・野坂参三・浦田武雄、吉川守圀等である。十一月にはコミンテルン第四回大会に代表(河内唯彦、高瀬清)を送り、コミンテルン日本支部として承認された。しかし翌年六月に一斉検挙にあうことになる。

    コミンテルンは結局スターリンの一国社会主義を守るため各国共産党を支配するのだが、戦後まで続く日本共産党の度重なる方針変更や混乱は、コミンテルン至上主義から脱却できなかった日本共産主義者の罪である。

    この年、七月から八月にかけてレコード各社が野口雨情作詞、中山晋平作曲の『船頭小唄』を発売して大流行した。歌手は演歌師の鳥取春陽や芸者など様々である。翌年には松竹が粟島すみ子主演で映画化した。こういう身も蓋もない歌が流行するのは何故なのだろう。流行というもののメカニズムは私には遂に謎である。関東大震災の後、幸田露伴はこう書いた。


    このたびの大震大火、男女多く死する前には、「おれも河原の枯れ芒・・・・」といふ謡が行はれて、童幼これをとなへ、特に江東には多く唄はれ、或ひはその曲を口笛などに吹くものもあつた。その歌詞曲譜、ともに卑弱哀傷、人をして厭悪の感をいだかしめた。これは活動写真の挿曲から行はれたので、原意は必ずしもこのたびの惨事を予言したものでもなんでもないが、大震火災が起つて、本所や小梅、至るところ河原の枯れ芒となつた人の多いにおよんで、唄ふものはパツタリとなくなつたが、回顧するといやな感じがする。(『東京日日新聞』二三年一〇月三日夕刊)


    この年、尾道高女を卒業した林芙美子(二十歳)が岡野軍一を追って尾道から上京した。岡野は因島の素封家の息子で、明治大学商学部に進学していた。二人の関係は岡野家の猛反対を受け、翌年軍一は日立造船所因島工場に就職し、親の決めた娘と結婚する。芙美子は捨てられた。

    流行歌の世界では宮島郁芳作詞作曲『流浪の旅』がこの年に出ている。シベリアから東南アジアまで、日本人の活動範囲が広がっていた。「海外雄飛」と称する棄民政策が既に始まっていたのではないか。


    流れ流れて 落ち行く先は
    北はシベリヤ 南はジャバよ
    いずこの土地を 墓所と定め
    いずこの土地の 土と終らん


    長谷川如是閑『現代社会批判』、小泉信三『労働価値説と平均利潤率の問題』、阿部次郎『人格主義』。十一月にはアインシュタインが来日し、相対性理論ブームが起こった。


    大正十二年(一九二三)一月、吉屋信子(二十八歳)は国民新聞の金子(山高)しげりの紹介で、門馬千代(二十五歳)と出会った。千代は女学校で数学の天才と謳われ、東北帝国大学に行くのかと誰もが思っていたが、家庭の問題で女学校の数学教師をしていた。翌年かその次の年か、同棲するために千代を養子にしようかと信子は提案する。それを千代は拒否する。


    私たちが何も社会的に結合を認識して貰はなくたつて、ちつともかまはないぢゃないの、まさか内縁ぢやなし、二人とも独立した人間であるほうがどんなにいいか。(略)私達には私達自身の独自の結合の形式があり、それは社会の如何なる力、これを認識し或いは否定する――それらの力に依りて左右されることのない、つまり社会的形式を無視して、社会的勢力の外にありたいと思ふの。(田辺聖子『夢はるか吉屋信子』より)


    中条百合子(二十五歳)と湯浅芳子(二十八歳)が出会うのは翌年のことだが、代表的なレズビアンのカップルがこの時期に誕生したのも時代の流れであろう。

    三月、荒畑寒村は党の指令でソ連に入った。長崎から上海に渡り、そこでコミンテルンの連絡員と落ち合って、モスクワへ行くのだ。英語はなんとかできるがロシア語は全くできない。聊か不安だったが、モスクワには片山潜がいるし、何とかなるだろうとの思いもあった。このおかげで六月の検挙を免れた。

    この頃、尾崎士郎と宇野千代が馬込に移り、「都新聞」学芸部長の上泉秀信の紹介で土地を見つけて家を建てた。尾崎と宇野が別れるまで、ここが馬込文士村の拠点となり、毎晩のようにダンスパーティが開かれた。石坂洋次郎、稲垣足穂、川瀬巴水、川端龍子、北原白秋、倉田百三、小林古径、榊山潤、佐藤惣之助、添田知道、萩原朔太郎、三好達治、村岡花子、室生犀星、吉屋信子。

    七月、有島武郎と波多野秋子(三十歳)が軽井沢の別荘で縊死しているのが発見された。実際に心中を遂げたのは一ヶ月前の六月九日であった。波多野秋子は波多野春房(烏峰?)の妻で、『婦人公論』の記者であり、有島は二人の関係を知った春房に恐喝されていた。秋子の遺書を見ると、自分勝手に了解しているだけで、本心がどこにあるのか分からない。この頃の「新しい女」の行動は分らないことが多すぎる。


    春房さま

    とうとうかなしいおわかれをする時がまゐりました。○○おはなし申上げた通りで、秋子の心はよくわかって下さることとぞんじます。私もあなたの お心がよくわかってをります。十二年の○ 愛しぬいてくだすつたことをうれしくもつたいなくぞんじます。

    わがままのありつたけをした揚句に あなたを殺すやうなことになりました。それを思ふと堪りません。あなたをたつた独りぼつちにしてゆくのが可哀相で可哀相でたまりません。(〇は判読不明)


    波多野秋子は明治二十七年(一八九四)の生まれだから利生の一歳上になる。実業家の林謙吉郞が新橋の芸者に生ませた庶子である。実践女学校を卒業した後、波多野春房が教師をする英語塾を訪問したのが、春房との始まりであった。


    その塾の教師の波多野春房はアメリカで苦学して帰った男だった。美男子で女蕩しで、鼻眼鏡をかけ、派手なハイカラな服を着こなしていた。十九歳の秋子は三十三、四歳だった春房にたちまち誘惑され、家を勘当になり、春房の許に走った。春房はこれも人妻を誘惑してすでに結婚していたが、その女を追い出し、秋子と同棲した。(瀬戸内晴美『諧調は偽りなり』)


    六月五日、共産党員五十人が検挙された(第一次共産党事件)。この時、荒畑寒村はまだソ連にいて帰国するのは大震災後の十一月である。検挙を免れた佐野文夫、赤松克麿、北原竜雄等によって仮執行部が作られたが、寒村の知らないところで党の解散論が高まっていた。

    八月、弥生は兵隊検査(丙種)が終了し自転車職人に昇格した。成年に達すれば年季は明けるが、御礼奉公としてそのまま一日市で勤務を続けている。

    九月一日、関東大震災。利雄と皆男は東京在住だが、特に大きな被害には会わなかったようだ。それとは関係ないが秋田製紙は解散し利生はまたしても職を失う。実に利生と言う人は運が悪い。そして秋田瓦斯も秋田製紙も辻良之助が関係している会社だと思えば、辻には経営の才がなかったのではないか。しかし窮地を救ったのはまた辻良之助であった。利生から皆男宛て書簡。


    震災突発の日、小生にも震災突発致し候。即ち秋田製紙も近く解散につき、今日より退社せとの命を重役より受け候。目下会社の実情は十分承知し居る自分としては命に従うより外なく候。退職しても一文も貰へず、それに二ヶ月も只食い致し候まま(後述の)大阪へ行く旅費すらなき次第、之は何とか工面いたし申すべく候。去る三日には石山伯死亡し、且つ東京方面の事も心配にて、当時の我心中は何にたとへん様も御座なく、内憂外患一時に至るの感有之候。

    その後、石川信輔重役、辻良之助等に就職の周旋を依頼いたし候処、辻氏の世話にて今日やうやく極まり候。会社は秋田木材大阪支店勤務に候。秋田を去る三百里外に行くものに候。然れども我は今まで井底の蛙、世間知らずなりし故、一度は世間を見ねばならず、同じ離るるなら、一年でも若き内に如かずと考へ、大阪へ参ることに決心致し候。先ず茲一二年は我一人大阪に行き、其後一家まとめる考えに候。


    秋田木材は、明治四十年に能代挽材株式会社、能代材木合資会社、秋田製材合資会社を合併し、秋田県能代市に設立された会社だ。昭和十八年に秋木工業株式会社に社名変更。昭和五十八年には経営危機を迎えるが、秋田県知事らが当時の西北ベニヤ工業 井上博社長に再建を正式に要請。支援を決定。五十九年に現在の新秋木工業株式会社となる。

    支度金百円を支給され、利生は十月末に単身赴任で秋田木材の重役・清水栄次郎宅に寄寓した。月給八十円。この頃の大学卒サラリーマンの初任給が五十~六十円。小学校教員の初任給が二十円程度。当時の大卒は社会の上層に位置していたから、それを考えれば、八十円はそれ程悪くはない。

    清水栄次郎は清水財閥の当主である。慶応大学時代の先輩である井伊直幹が秋田木材を設立すると、栄次郎は大金を出資して大株主、役員となっていた。また小林一三の鉄道事業にも出資していたと言う。次男雅は小林一三の右腕として阪急百貨店の初代社長、東宝社長などを務める。この当時は自宅を独身社員の寮として提供していたものと思われる。

    最初の月は八十円の給与の中から六十円を留守宅に送金し、自分の費用は十八円五十一銭だと、留守宅に報告している。しかし十八円五十一銭は「大阪界隈は勿論、日本全国にも稀らしき辛抱生活なり」と利穎は感謝する。


    関東大震災の犠牲者についても記さなければならない。地震による被害はさることながら、「朝鮮人や共産主義者が井戸に毒を入れた」というデマが流れ(一部は軍や警察によって)、官憲や自警団等が多数の朝鮮人や共産主義者を虐殺した。流言飛語が乱れ飛び、人は簡単に信じ込んだ。虐殺された朝鮮人の数は今では正確に算定することができないが、吉野作造が算出した二千六百三十人から六千人を超えるともみられている。そしてその加害者の殆どは「自警団」と称する「普通」の日本人であった。

    流言飛語を信じ込んだ日本人には、朝鮮人への罪の意識があったと、吉村昭は言う。罪の意識が逆に、相手から報復されるのではないかという恐怖を生み出す。やられる前にやってしまえ。それなら日本人には二重に罪がある。


    日本の為政者も軍部もそして一般庶民も、日韓議定書の締結以来その併合までの経過が朝鮮国民の意思を完全に無視したものであることを十分に知っていた。また統監府の過酷な経済政策によって生活の資を得られず日本内地へ流れ込んできていた朝鮮人労働者が平穏な表情を保ちながらもその内部に激しい憤りと憎しみを秘めていることにも気づいていた。そして、そのことに同情しながらも、それは被圧迫民族の宿命として見逃そうとする傾向があった。

    つまり、日本人の内部には朝鮮人に対して一種の罪の意識がひそんでいたと言っていい。ただ社会主義運動家のみは朝鮮人労働者との団結を意識し、前年末には朝鮮人労働者同盟会の創立を積極的に支援していた。(吉村昭『関東大震災』)


    上野下谷(当時東京の最貧民窟)で焼け出された啞蝉坊(五十二歳)の家族九人が、知り合いを頼って避難して行くとき、知道(二十二歳)が目撃したのは朝鮮人の連行である。この一家も社会主義者として殺される危険もあったのだ。


    千葉県我孫子在の叔父の旧友をたよって行く途次、サスマタなどいう古い捕物道具の一式でとり囲まれたこと、帝釈天の宿舎で白刃をつきつけられたことなど、わが身にふりかかる危険もあったが、それよりも鮮明に刻みつけられた情景がある。避難民の列にまじって線路を行く。金町に近いあたり、田圃の中の一筋道の彼方から、馬蹄の音がしてきた。見ると、二人の騎乗兵が左右から、縄尻を取った男を中に引きずって来る。男は血まみれ。それを一組として、つぎつぎに十余組がやって来るのだ。近づくにつれ、地上をひかれるのが朝鮮人とわかったが、どれも血だらけの、中には股間を夥しく染め、すでに蒼白の面に、歯をくいしばり、胸を張ってくるのもいた。が、馬を早めると、徒歩の血をたらす人は綱の長さだけ後方から、吊られてゆく形となる。人間が人間に、こういうことができるものだろうか。目をそむけ、つむってみても、灼きついた映像ははなれない。(添田知道『演歌の明治大正史』)


    そして社会主義者が殺された。亀戸警察署では平澤計七等十三人が習志野騎兵第十三連隊に銃殺され、平澤は斬首された。大杉栄、伊藤野枝、大杉の甥(妹の子)の橘宗一が、憲兵隊司令部で甘粕正彦憲兵大尉によって扼殺された。


    九月一日の地震のあと、近所隣と一つに凝まって門外で避難していると、大杉はルイゼを抱いて魔子(七歳)を伴れてやって来た。

    「どうだったい。エライ地震だネ。君の家は無事だったかネ?」と訊くと

    「壁が少し落ちたが、大した被害はない。だが、吃驚した。家が潰れるかと思った。」(中略)

    九月の上半は恐怖時代だった。流言飛語は間断なく飛んで物情キョウキョウ、何をするにも落付かれないで仕事が手に付かなかった。大杉も引き籠って落ち着いて仕事をしていられないと見えて、日に何度となく乳母車を押しては近所を運動していたから、表へ出るとは番毎に邂逅った。(中略)

    九月の十六日の朝九時頃、大杉は野枝さんと二人連れで、二人とも洋装で出掛けるのを家人は裏庭の垣根越しにチラと見た。直ぐ近くの聖書学院の西洋人だろうと思ってると、丁度遊びに来ていた魔子も後影を見ると周章てて垣根の外へ飛び出したが、すぐ戻ってきて、「家のパパとママよ」といった。

    その日の午後魔子は来て「パパとママは鶴見の叔父さん許へ行ったの。今夜はお泊りかも知れないのよ」といった。

    それぎり大杉は姿を見せなかった。(内田魯庵『思い出す人々』)


    不安な数日を経るうち、二十四日の号外に第一師団軍法会議検察官の談話が発表された。「甘粕正彦憲兵大尉は本月十六日夜、大杉栄外二名の者を某所に同行し、これを死に至らしめたり。」


    朝の食卓は大杉夫婦を知る家族の沈痛な沈黙の中に終わった。今日も魔子は遊びに来るかも知れないが、「魔子ちゃんが来ても魔子ちゃんのパパさんの話をしてはイケナイヨ、」と小さい児供を戒めた。何も解らない小さい児供たちも何事か怖ろしい事があったのだという顔をして黙って点頭した。

    暫くすると魔子は果たして平生の通り裏口から入って来た。家人を見ると直ぐ「パパもママも死んじゃったの。伯父さんとお祖父さんがパパとママのお迎えに行ったから今日は自動車で帰って来るの」といった。


    やっと揺れも落ち着いた頃、乳母車を押した大杉栄が寒村の留守宅を尋ねて来た。「お玉さん、寒村がいないでも、僕らがついているから心配ないヨ」と言った翌日、大杉は殺された。

    大杉の短い晩年にはアナ・ボル論争で互いに対立する立場で論戦を繰り広げていた寒村と大杉だが、友情は続いていた。それにしても寒村は運が良かった。大逆事件の際にはたまたま刑務所に収監中だったため連座を免れ、今回もまた海外にいたのが幸いした。日本にいれば大杉と同じ目に遭った可能性もあった。


    大杉が殺された。南葛労働組合の同志が殺された。あちこちで朝鮮人の大量虐殺があった。そんな風説を耳にするごとに妻は私の不在を喜んでいたが、やがて私が敦賀に上陸して殺されたという報に接した。その時は悲しいなどという感情よりも、彼女の口吻をかりれば「あのバカが、何だってこの騒ぎの中に帰ってきたんだろう」と思う、口惜しさが先だったそうである。しかし、その後も私が上野公園で煽動演説をしているところを殺されたり、アチコチで殺されたうわさが立ったので、初めて、「これじゃ荒畑は日本に帰ってきていない」と確信しヤッと安心したのだそうだ。(『寒村自伝』)


    子供たちは野枝の叔父(父の妹の夫)代準介が引き取った。代準介は頭山満の親戚であり、玄洋社の金庫番でもあった。野枝が上野高女四年生に飛び級で入ったのは、代の娘千代子(野枝の一歳上)が四年生になっていたからである。下記は、代の曾孫と結婚した矢野寛治の講演記録である。昭和四十八年に結婚するとき、義母に「うちは伊藤野枝を育てた家である」と言われ、代の自伝『牟田乃落穂』を渡されたという。大杉と玄洋社がこんなところで繋がっていた。


    代準介が来るということで新宿駅では特高の車が迎えに来ています。これについて私は、頭山満が裏から動いたのかと思っておりましたが、そうではないようで、特高としては福岡県警からも言われているし、便宜上用意したということです。新聞には、当時の東京の各新聞社が六〜七台の車でその後ろをついて回ったと書かれています。新聞社が、特高が車を動かさないときは自分たちの車を使ってくれと提供してくれたと書いていますので、(代準介は)頭山満の子分ではもちろんあるけれど、当時はそこそこ名前が売れていたのだと思います。(略)

    (遺体の安置場所に)訪問した日には遺体を引き取れないので、頭山とか三浦観樹陸軍中将とかその辺を動かして遺体を引き取るということをやります。遺体を引き取り、荼毘にふして、そして遺骨を大杉家と分けて、中仙道経由で遺児たちを連れて帰るのですが、当時の湯浅警視総監は非常に憲兵隊に対して怒っていたんですね。どうも警視総監の文言を読むと大杉さんは嫌いじゃないらしいんですが、憲兵隊がなぜ勝手に殺すのだということを後藤新平内務大臣に対してクレームを出すんです。(略)

    九州に遺児を連れて帰るときですが、長野県塩尻までは警視庁の刑事が三人つきました。この際、赤子(長男ネストル)を抱いていたほかに魔子(真子)とエマ(笑子)がおり、代準介のほかにはお手伝いさんと叔母の坂口モトと神戸の大杉の弟進がいました。何が大変かと言うと、行くところ行くところ新聞記者がきてインタビューされたということです。

    (【講演再録】矢野寛治氏 「伊藤野枝と代準介と千代子」)http://cira-japana.net/pr/?p=662


    大杉の死によって日本のアナキズムはほぼ息の根を止められた。残党の一部はマルクス主義に、あるいは国家社会主義に、また右翼へと転身していく。

    軍法会議は、甘粕大尉を懲役十年、森曹長に同三年、本多・鴨志田の二名は命令に従ったのみとして無罪、見張りとして関与した平井伍長は証拠不十分により無罪の判決を下した。

    九月末、石光真清の家を朝鮮独立党幹部の権郷と名乗る人物が尋ねて来た。石光は大正十年八月で満五十五歳の後備役満期となり、軍との関りを一切断っていた。「朝鮮人に理解のある方と受けたまわって、突然ながら参上しました」と言う。長らく大陸で諜報活動に従事していた石光が、「朝鮮人に理解のある方」と認識されていたのである。人柄であろう。


    これを機会に権郷は親しく私を訪ねるようになり、子供たちとも友人になった。彼の同志とも会ううちに、在留朝鮮人ばかりでなく、朝鮮に関する日本人の認識を高めるためにも朝鮮人協会を設立する必要を痛感し、翌月十月末日の日付で「大正十二年東京附近大震災に際し行われたる朝鮮人虐殺事件に鑑み在日朝鮮人協会設立の急務」と題する意見書を作って関係方面を説き、翌月十一月二十八日創立案、その翌月には予算案を作成して政府に助成を要求したが、私の無力の故であろうか、話は少しも進まず、朝鮮については相変わらず弾圧一本鎗の政策がとられていた。(石光真清『誰のために』)


    十一月十日、斎藤実内閣は「国民精神作興に関する詔書」を公布した。干支をとって、「癸亥詔書」とも言われる。震災による社会不安を契機に、国民に対して、災害後の国力回復や道徳振興を呼びかけたものである。


    朕惟フニ國家興隆ノ本ハ國民精神ノ剛健ニ在り之ヲ涵養シ之ヲ振作シテ以テ國本ヲ固クセサルヘカラス是ヲ以テ先帝意ヲ教育ニ留メサセラレ國體ニ基キ淵源ニ遡り皇祖皇宗ノ遺訓ヲ掲ケテ其ノ大綱ヲ昭示シタマヒ後又臣民ニ詔シテ忠實勤儉ヲ勤メ信義ノ訓ヲ申ネテ荒怠ノ誠ヲ垂レタマヘリ是レ皆道憶ヲ尊重シテ國民精神ヲ涵養振作スル所以ノ洪謨ニ非サルナシ爾來趨向一定シテ効果大ニ著レ以テ國家ノ興隆ヲ致セリ朕即位以來夙夜兢兢トシテ常ニ紹述ヲ思ヒシニ俄ニ災變ニ遭ヒテ憂悚交々至レリ


    輓近学術益々開ケ人智日ニ進ム然レトモ浮華放縦ノ習漸ク萠シ軽佻詭激ノ風モ亦生ス今ニ及ヒテ時弊ヲ革メスムハ或ハ前緒ヲ失墜セムコトヲ恐ル況ヤ今次ノ災禍甚夕大ニシテ文化ノ紹復國カノ振興ハ皆國民ノ精神ニ待ツヲヤ是レ實ニ上下協戮振作更張ノ時ナリ振作更張ノ道ハ他ナシ先帝ノ聖訓ニ恪遵シテ其ノ實効ヲ擧クルニ在ルノミ宜ク教育ノ淵源ヲ崇ヒテ智徳ノ竝進ヲ努メ綱紀ヲ粛正シ風俗ヲ匡勵シ浮華放縦ヲ斥ケテ質實剛健ニ趨キ軽兆詭激ヲ矯メテ醇厚中正ニ帰シ人倫ヲ明ニシテ親和ヲ致シ公徳ヲ守リテ秩序ヲ保チ責任ヲ重シ節制尚ヒ忠孝義勇ノ美ヲ揚ケ博愛共存ノ誼ヲ篤クシ入リテハ恭儉勤敏業ニ服シ産ヲ治メ出テテハ一己ノ利害ニ偏セスシテカヲ公益世務ニ竭シ以テ國家ノ興隆ト民族ノ安榮社會ノ福祉トヲ圖ルヘシ朕ハ臣民ノ協翼ニ頼リテ彌々國本ヲ固クシ以テ大業ヲ恢弘セムコトヲ冀フ爾臣民其レ之ヲ勉メヨ


    橋川文三は「昭和維新」に繋がる源流を探索しているが、その中で政府内における危機感が一つの原因だとみている。


    ・・・・その全体の印象を端的にいうならば、あたかも国家瓦解の危機感に恐怖した支配層の悲鳴が聞こえるようだといえなくはない。(中略)そして、事実、もっとも古い日本の最高支配者たちの脳裡には、日本国家の現実の危機を直視するごとに、かつて彼らが作り上げた明治国家の輝かしいイメージが対照的に思い浮かび、それがかえって老年の彼らを絶望的に脅かすということがあったのではないだろうか。(橋川文三『昭和維新試論』)


    支配層の危機感を、加藤陽子は「帝国国防方針」の変遷を踏まえながら、三つの要因として挙げている。ただこの指摘では、支配者層は余りにもナイーブだと言わざるを得ない。全て日本自体が惹き起こしたことの結果である。


    具体的には、一つ目は、日本が第一次世界大戦に参戦する際にイギリス・アメリカとの応酬があったのですが、その事実が帝国議会で暴露されたとき、激しい政府批判が社会に巻き起こったということ。次に、戦争が終わった後、パリ講和会議で日本が直面した、中国とアメリカからの対日批判に、深く日本側が衝撃を受けたということ。そして最後に、日本統治下の朝鮮で三・一独立運動がパリ講和会議の最中に起こってしまう、この脅威です。第一次世界大戦以来、日本はさまざまな苦悩を体験し、それによって大きな主観的危機感に迫られるのです。(加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』)


    十二月二十七日、摂政宮裕仁が貴族院開院式に行くべく赤坂離宮から議事堂に向かう途中、虎ノ門に差し掛かった時、群衆の中から難波大助(二十五歳)が走り出て、車の中にステッキ銃で銃弾を撃ち込んだ。支配者層の危機感は当たっていた。山本権兵衛内閣は総辞職し、関係諸官が処罰される中に正力松太郎(警視庁警務部長)が含まれていた。正力はこれによって官僚としての出世を諦め、新聞界に入ることになる。


    判決言渡日に判決文朗読が了つてから、半時間もかかつた言渡を神妙に静聴していた大助は例の無表情の顔をくるりと傍聴席に向け両手を高く挙げて大声で、日本無産労働者日本共産党萬歳、ロシア社会主義ソビエツト共和国萬歳、共産党インターナシヨナル萬歳、と萬歳を三唱した。(山崎今朝彌「虎ノ門(難波大助)事件の真相」)

    https://w.atwiki.jp/forsale-lawyer/pages/189.html


    十二月二十九日、秋田の留守宅で長男利庸(トシツネ)が生まれた。利生の日記。


    十二月三十一日 月 晴れ
    在郷軍人会旭南分会長加賀谷氏より、多年の尽瘁に対する感謝状と銀盃一組送付せらる。役員一同より餞として十一円送付あり、光栄なり。昨夜は男子出生の着電、今朝は分会より感謝状と餞別金送られ、会社には夜業手当二十二円。実によき事続くものかな。此の勢にて、来るべき大正十三年を押し通し、家族を全部大阪に迎えて、温かき家庭を作らんかな。


    この銀盃は利庸の正月の祝に添えるようにと、秋田に送った。利穎の思想を真っ直ぐに受け継いだことが良く分る。


    主意は、この盃により祝意せよとは、忠孝一致の道により将来利庸をして国に忠に、祖先に孝たらしむべく、今より教えおくとの意なり。この児は必ずや将来国家有用の人物となるべし。あゝ面白し。


    しかし秋田と大阪と二世帯に分かれていては生活の維持は難しい。会社の上司からも、家族をまとめて大阪で暮らすようにと勧められている。引越費用なども会社で融通できそうな気配もある。しかし一家挙げての大阪移住は両親の了解がなければならない。

    この年、林芙美子は新劇俳優の田辺若男と出会って同棲する(芙美子の言い方では「結婚」)。当時の芙美子はセルロイド工場に勤めていた。日払いの女工で日給は六十銭、その金を握りしめてイワシを買って帰る毎日だった。


    なぜ?
    なぜ?

    私たちはいつまでもこんなバカな生き方をしなければならないのだろうか?いつまでたってもセルロイドの匂いに、セルロイドの生活だ。朝も晩も、ベタベタ三原色を塗りたくって、地虫のように、太陽から隔離された歪んだ工場の中で、コツコト無限に長い時間と青春と健康を搾取されている。若い女達の顔を見ていると、私はジンと悲しくなってしまう。(林芙美子『放浪記』)


    そして田辺の行きつけのレバノンという飲み屋で、萩原恭次郎、坪井繁治、岡本潤、高橋新吉、辻潤と知り合い、また壷井栄、平林たい子、友谷静栄と親しくなった。芙美子は天性のアナキストとも言うべきだが、ここで初めてアナキストやダダイストの現物に出会ったのである。

    諏訪の貧農に生まれ、高等女学校(四年制)を出てすぐに上京した平林たい子は、東京中央電話局の見習い交換手となったものの、勤務中に、女学校時代から憧れていた堺利彦に私用電話をかけて馘首された。堺の紹介で日独商会の店員となり、アナキストの山本虎三と知り合い同棲する。この頃は二人で「リャク」に精を出していた。「リャク」はプルードンの「財産とは略奪なり」からきた言葉で、銀行や一流会社に押しかけて金を強請ることで、大杉栄もこの常習犯であった。平林たい子は十八歳であった。

    同じ頃、二十一歳の佐多稲子は丸善の化粧品部の女店員として働いていた。向島小学校を五年生で中退してから、キャラメル工場、中華そば屋、池之端の料亭〈清凌亭)の小間使い、メリヤス工場、再び〈清凌亭)の座敷女中などを転々とし、新聞広告で丸善に入ったのであった。


    五時過ぎの日本橋の表どおりをゆく足音に朴歯の音のまじるのは、縞の着物の店員たちの足音である。女店員も日和下駄を履いている。この頃は英文タイピストといえば幅が利き、あとは女店員などが職業婦人という範疇を代表していたときだった。三越や松坂屋などの百貨店で大量に採用したせいであろう。風俗に一目でそれと分るものがあって、あとから女店員を使い始めた丸善でも、女店員は女店員とこの型にはめようとしていた。まわりを丸くふくらませた束髪にして、いったいに胸高にメリンスの帯などをしている。店頭ではこれに紫メリンスの事務服を着て、胸には番号入りのマークをつけていた。(佐多稲子『私の東京地図』)


    彼女たちはこんな生活のなかでも、原稿を書いて生活することを夢見ていた。大正は女性の社会進出の時代であった。その中で文筆を目標とする女性の背後には、投稿雑誌が増えていたことが挙げられる。少女を対象として、『少女界』(金港堂書籍)、『少女世界』(博文館)、『少女の友』(実業之日本社)、『少女画報』(東京社)、『少女倶楽部』(講談社)などが相次いで創刊されていた。『赤い鳥』で自由作文が奨励されていたことも刺激しただろう。

    林芙美子と平林たい子の二人が、どちらも貧困の家に生まれながら高等女学校を卒業することができたのは、熱心な教師の恩恵によるものだろう。二人とも、小学校の教師にその文才を認められたからこそ、なんとか高女に行けた。

    そしてこの年、北一輝『日本改造法案大綱』が出版された。


    ・・・・だが『改造法案』をよく吟味するとき、ましてやそれを『国体論及び純正社会主義』との関連で読みとくとき、北の天皇観、すなわちそれを革命の道具として抱き込み、いわば革命の志尊なる捕虜とする指向が、見えてこないはずはない。『改造法案』は偽装された不逞思想ではないか、という疑いは、北が刑死する以前から、彼のまわりに渦巻いていた。

    北が日本ファシズムの指導者となりえなかったのは、大資本と天皇制を止揚する断固たる意志が、その教説に秘められていたからである。(渡辺京二『北一輝』)


    この年、狩野亨吉は姉と住む小石川音羽町の家に「明鑑社」の看板を掲げた。書画、骨董、刀剣の鑑定売買である。膨大な数の春画や枕絵を蒐集し、春画の収集では世界一の折り紙も付けられた。「明鑑社」の名は青江舜二郎『狩野亨吉の生涯』にあるが、実際にその家を何度も訪ねた森銑三『明治人物夜話』には「精鑑社」とある。

    青江が紹介する座談会(『安藤昌益と自然真営道』所載座談会)に以下の会話が収録されている。


    鈴木 狩野先生は自分で私は鑑定業者だとか、私は古本屋だとかとういうことを平気でおっしゃっていたようですが。

    渡辺 そういうことを自分でおっしゃっても、やはり昔学長だとか、一高の校長で通った方が、そういう鳥打帽を被ってよく古道具屋へ出入りされたりしたわけですから・・・・

    鈴木 幸田露伴でしたか、狩野先生に鑑定してもらうと厳密過ぎてみんな贋物になってしまうんで、みんなあまり持っていかないんじゃないかって・・・・(笑)物凄く丹念に調べて鑑定書を作られるから、あれではちっとももうかっていないと(笑)、労力からいってね。(青江舜二郎『狩野亨吉の生涯』)


    明治四十年に京都帝国大学文科大学長を辞任して後、皇太子裕仁(昭和天皇)の教育掛に推されて断り、東北帝大総長に推されても固辞した。株に手を出し、怪しげな会社に大金を出資して会社の経営が困難になると負債を一身に背負った挙句の鑑定屋である。十万八千冊に上る蔵書は既に東北帝国大学に売却していた。東北帝大初代総長の沢柳政太が狩野の生活を支援するために申し出たことだ。普通に業者に売れば二十万円と言われ、東北帝大は十万円を提示したが、亨吉は三万円で売却した。ただ一つの条件は散逸してくれるなである。東北大の「狩野文庫」はこれであり、現在、東北大ではデジタル化事業を進めている。


    先生の住まいは、八畳(青江によれば六畳)と三畳との二間きりらしかった。当時の私の交遊中で、一番お粗末な、安い家賃の家に住んでいる人はと言ったら、第一に先生を挙げなくてはならぬ。(中略)

    先生の椅子の後には、飴色に塗った木製のカード箱が置いてあって、その中には書物のカードが、ぎっしり詰まっていた。蔵書はとうに手放されて、ただそのカードだけが残してあるのだった。死児の齢を数えるようで、最初は痛ましい感じがせぬでもなかったが、先生は平然たるもので、「その本なら以前持っていた」などといって、話の中途で、箱の中からカードを抜いて示される。そのカードは、一枚一枚が先生のいやしくもせぬ楷書で、整然と書いてあるのだから、私はびっくりしてしまった。

    「その本ならあるよ」といって、先生は時にカード箱の上に置いた鍵を取って、窓を跨いで外へ出られる。狭い空地に板塀を背にして、鶏小屋見たような片屋根の物置の造ってあるのが、先生の書庫で、その中から本を取出して来て示される。(森銑三『明治人物夜話』)


    膨大な学識を持ちながら単行本は一冊も出さなかった。論文でさえほとんど残されていない。一個の畸人であったと言えるだろう。畸人とは中野三敏(『近世新畸人伝』)の定義では、単なる奇人変人ではなく、荘子の「無為の真人」である。

    美濃部達吉『憲法提要』、山本宣治『性教育』、土田杏村『新社会学』、高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』、知里幸恵編『アイヌ神謡集』。宇野浩二「子を貸し屋」(『太陽』)、江戸川乱歩「二銭銅貨」(『新青年』)、横光利一「日輪」(『新小説』)、滝井孝作「無限抱擁」(『改造』)。

    樺島勝一「正チャンノバウケン」(『東京朝日新聞』)、麻生豊「のんきな父さん」(『報知新聞』)連載開始。


    大正十三年(一九二四)一月二十日、広東で開かれた国民党第一次全国代表大会で、「連ソ」「容共」「扶助工農」の綱領が明示され。第一次国共合作が成立した。陳独秀や毛沢東等中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合作の形を取ったものである。

    一月二十一日、レーニンが死んだ。前年三月に三度目の脳卒中発作に見舞われて以来、会話の能力も徐々に失われていた。残されたのはトロツキー、スターリン、ジノヴィエフ、カメネフ、ブハーリンである。この五人について、桶谷秀昭は次のように評している。

    トロツキーについては「第一級の西欧的知性と絢爛たる才能をもちながら傲岸不遜の孤雁といつた性癖」。スターリンは「ボリシェヴィキの経歴においてもつとも冴えず、その個性と知性において、暗鬱で鈍重」。ジノヴィエフは「嫉妬深い意地悪さ」「陰険、執拗な性格」。カメネフは「動揺常ならぬ性格に由来すると思われる二枚舌」。そしてブハーリンを最も評価している。


    ブハリンはその西欧的教養においてトロツキーを凌ぐといはれてゐるが、それはレエニンの遺書で「党の最も貴重な、また最大の理論家」と述べられてゐるのにてらしてもうなづける。レエニンはさらに「全党の寵児」といつた評価をしてゐるが、これはたぶんブハリンの人柄のよさを暗示してゐるであろう。(桶谷秀昭『昭和精神史』)


    しかしブハーリンにしても政策的にはスターリンとそれほど違っていた訳ではない。トロツキーは昭和二年に全役職を解かれ昭和四年に国外追放される。ジノヴィエフとカメネフは昭和十一年に、ブハーリンは昭和十三年に銃殺され、スターリン独裁が完成するのである。


    三月、揚五郎が秋田中学を卒業した。入学から卒業まで六年かかっており、どこかで一年落第したことが分る。同時に卒業した者の中に、鈴木健次郎(秋田高校第二十八代校長)、小畑勇二郎(元秋田県知事・六期)がいるが、揚五郎は戦死してしまうので彼らの将来は知らない。小畑はこの縁で、鈴木を秋田高校長に招聘するのだ。

    鈴木は昭和五年に東京帝大法学部法律学科を卒業するが、未曽有の不景気で就職先が見つからない。七年十二月に大日本連合青年団事務所の嘱託として採用され、ここで下村湖人に兄事する。戦後は文部省で公民館運動に専念した後、福岡県教育委員会社会教育課長として八年を過ごし、日本教育テレビ(現テレビ朝日)に転職する。この会社の認可条件は教育番組五十パーセント以上、教養番組三十パーセント以上というもので、社会教育に貢献できると考えたのである。この日本教育テレビ時代に秋田高校長に招聘されることになる。

    東海林家は秋田市川口下裏町に転居する。四月には村井小枝が上方観光に来阪し、利生はその案内を勤めた。

    四月二十日、宮沢賢治が『心象スケッチ 春と修羅』を出版した。生前刊行された唯一の詩集である。一般には殆ど知られることがなかったが、辻潤が激賞し佐藤惣之助も評価したほか、草野心平、中原中也、富永太郎に大きな影響を与えた。

    六月、関東大震災で廃刊になった『種蒔く人』の後継雑誌として『文藝戦線』が創刊した。十月に創刊した新感覚派の『文藝時代』とともに、昭和初期にかけての大きな潮流となる。この背景については、ウィキペディア「文藝時代」が簡略にまとめている。


    この頃は、プロレタリア系の青野季吉、平林初之輔、前田河広一郎などの論客が頭角を現わし、他方では耽美派の谷崎潤一郎、新思潮系の芥川龍之介、詩人の佐藤春夫といった花形作家が才華を競い合っていた。大手文芸雑誌の『新潮』『改造』『中央公論』も、そうした人気の中堅作家や、志賀直哉ら白樺派など大家の作品で占められ、なかなか無名作家の出る幕がなかった。

    そうした文壇に対し「上がつかえている」という閉塞感を持っていた「文士のタマゴ」の青年たちは、後輩の面倒見の良い菊池寛を慕って集まっていた。


    そして菊池寛の庇護により新興の『文藝春秋』に作品を掲載し始めていた川端康成や横光利一が中心になって、『文藝時代』を創刊する。

    七月、高畠素之によって初めて『資本論』の完訳が大鎧閣から刊行された。この翻訳は高畠自身満足打出来るものではなく、翌年、新潮社から改訳版が出される。昭和二年にはそれに修正を施した改造社版(五冊本)を出し、それを定本とした。ただ高畠は国家社会主義者であった。


    八月十五日から九月四日にかけて、利生は後備役演習召集で秋田に帰った。その際に事前に大阪移住の件を両親に打診した。しかし利穎がなかなか承知しない。やむなく利生は秘密で皆男に訴えた。


    父は「妻子(たつみ及び利庸)を同道するは、此方より発議しても即行せられ度と考へ居れど、父母伸の三人は、父母の責任上、伸の学校卒業までか、或いは縁付けるまでは秋田に居残るを至当とす、これら病人を大阪まで連れ行きて、たつみ一人の手に負へなくなりたる節は下女でも頼まねばならず、左すれば其許の収入にては到底暮し行く見込みなし」と。

    父不賛成の理由として、伸のことは一応尤もなるも、たつみを大阪につれて来て、老父母と病弱の伸(秋田高女三年生のとき脊髄カリエスに罹り休学。この時は再度の三年課程にあった)と三人を残すことは、甚だ不安心にして、到底出来ざる相談なり。且つまた母は、何としても今度、一所にまとまらねば暮しがつかぬと強硬に主張し、父は、(利生が)所志を断行すれば我一人の覚悟あるのみと云う。茲に於て我の取るべき道如何。御意見を乞ふ。

    父母の意見の相違は事毎にかくの如く、我は非常に苦しき立場に候(敢て此件のみならず)、母は我なくては一日も生きて居られぬといふ程にて、今では父などどうでもよい、我さへあればよいという位に候。また父の思想と母の思想とは余りに懸離れて居て、到底一致点を見出す能はず。且つ父の言ふ意味を母は或る時は誤解して之に反抗することもあり。かかる時我は口に出して「それはかくかくの意味で決して父は悪意あるに非ず」と云へば、「お前まで父と一緒になって私を苦しめるか」などと逆に泣き出す事さへあり。兎に角、私の苦衷を御察し下され度し。

    今迄此事は誰へも言はざりしも、お前にだけ、私の苦しい立場を訴へたに過ぎぬ故、誰へも決して口外せぬこと願上候。何れ来月面会の節ゆるゆる御話申上べく候。


    父に逆らったことのない利生が、激越なる言を吐くことに皆男は驚いた。悩んだ挙句、利生は一家挙げての大阪移住希望を断念すると父に伝えた。ところが案に相違して、父からは全員移住を了承する返事が返って来た。生活費を稼ぐ者の意見には従わざるを得ない。

    利生はまず費用を会社から借入れることを頼み、九月から貸家探しを始めた。そして十月十六日に一家は大阪府西区鶴町三丁目一三五番地に移転した。伸は二度目の高女三年生の途中だから中退したのだろう。東海林家が漸く貧乏の苦しみから脱出したと言えるだろう。

    この頃、大阪は小林一三によって大きく変貌していた。箕面有馬電気鉄道を創業し、沿線での住宅地・家屋の販売、電灯・電力の供給、宝塚の新温泉や宝塚歌劇場などの娯楽施設、梅田駅での百貨店など、大阪における小林の功績は大きい。渋沢栄一より早いのではないか。利生は初めて大都会での生活を経験することになった。

    利雄と皆男は東京、利生が大阪に移転してしまえば、秋田に残る親族の世話は弥生一身の背にかかってくる。


    こうして生家東海林の親戚の面倒は、ひとり弥生が代表して、その事に当ることになった。弥生はよくその役目を果たした。各親戚もまた、深く弥生をたよりにし、いろいろな相談ごとやら、とにきは金銭上のことも持込んでくる。弥生はよくこれに応じている。各家々とも、親たちの世代が過ぎ、子らの時代に移り、就職、分散、引越などの事件が起こる。頼りにされるのは弥生である。

    生家の親戚といっても、父方は秋田市にいない。いるのは母方の兄弟系である。石山、永沢、荒木の三軒。あとは私ら兄弟関係、これは大阪、東京、秋田に散らばっている。そういう遠方の血縁まで、必要に応じて弥生はよく世話をした。

    石山、長沢、荒木とも、父親を亡くした家族である。大事な問題は、すべて弥生が相談相手になる。子らの就職仕度、病気、戦争中は応召あり、戦死あり。その上、事業のほうには戦時統制がある。キリキリ舞いする中で、よくも庇護の役目を尽くしたものと、我々は感嘆し、常に感謝の念を持っていた。


    この間、九月に石黒自転車店が自動車部を作り、弥生は運転助手となった。日本のタクシーは大正三年以降全国に波及し、前年には全国で千二百五台が稼働していた。この大正十三年には大阪で円タク(大阪市内一円均一料金)が登場し、漸く庶民の足として確立したと思われる。

    十一月二十八日、神戸商業会議所外五団体の主催で、神戸高等女学校講堂において孫文が講演した。この時既に孫文は日本に絶望していた。


    今私が大亜細亜主義を講演するに当って述べたことは、これを簡単にいへば文化の問題である。東洋文化と西洋文化との比較と衝突の問題である。東方の文化は王道であり、西方の文化は覇道である。王道は仁義道徳を主張し、覇道は功利強権を主張する。(中略)

    故にわが大亜細亜主義を実現するには、わが固有の文化を基礎とせねばならない。

    固有の文化とは仁義道徳である。仁義道徳こそは大亜細亜主義の基礎である。(中略)

    覇道を行ふ国は、他洲と外国の民族を圧迫するばかりでなく、自洲及び自国内の民族をも同様に圧迫してゐる。大亜細亜主義が王道を基礎とせねばならぬといふのは、これらの不平等を撤廃せんが為である。米国の学者は、民族の解放に関する一切の運動を文化に反逆するといふが、吾々の主張する不平等排除の文化は、覇道に背反する文化であり、民衆の平等と解放とを求むる文化である。


    この年から、左翼陣営内部を福本イズムが席巻した。福本和夫はドイツ留学から帰国し山口高等商業の教授に就任したばかりだった。結合の前に分離せよというもので、理論闘争によって異分子を徹底的に排除するものである。それまで誰も知らなかった原典を自身の翻訳で大量に引用した論文スタイル(引用の間に僅かな本文が挿入される)に誰もが驚かされた。要するに多くの連中がハッタリに騙されたのである。ただ福本イズムは昭和二年(一九二七)にはブハーリンによって徹底的に批判される。その結果がコミンテルンから指示された「二七年テーゼ」であるが、これも日本の現実を無視したものであった。


    その難解なペダンチックな論文を、私は辛抱してふたたび読み直さなければならなかったが、私の得た印象では、レーニンが『何をなすべきか』の中で強調した「結合の前の分離」論のお粗末な複製に外ならない。レーニンはロシア社会主義運動の修正派、経済派といわれた合法主義者と分離して、職業的革命家の秘密組織を主張したのであるが、福本イズムと呼ばれるようになったこの議論は、労働組合や当時の無産政党のような大衆運動にこの原則を適用し、そしてそれを実践に移した結果は、当時既に起りつつあった無産政党の分裂を助長し、労働組合運動に二重組合主義の弊をもたらし、ひいては党自身を孤立におとしいれて一般無産階級の勢力を弱めるだけであろう。(『寒村自伝』)


    寒村は堺利彦、山川均と同じく、現状の日本では大衆運動の幅広い統一戦線が必要だと考えていた。

    モルガン・高畠素之訳『古代社会』上、内藤湖南『日本文化史研究』、内村鑑三『羅馬書の研究』、伊波普猶『琉球聖典 おもろさうし選釈』、宮沢賢治『春と修羅』、『注文の多い料理店』。谷崎潤一郎「痴人の愛」(『大阪朝日新聞』)、白井喬二「富士に立つ影」(『報知新聞』)。

    帝キネの『籠の鳥』がヒット。十一年にレコード化されていた歌(千野かおる作詞・鳥取春陽作曲)が大ヒットした。


    それにしても「籠の鳥」の流行は猛烈で、小学生がこれをうたのには先生たちも弱ったが、教育家、学者、識者の眉をしかめた歌唱禁止運動がおこった。そして小学校ではこれを禁じた。映画を禁じたところもある。だがこうした差し止め工作には、あわてふためく滑稽感だけがあって、なぜ、そんな唄が流行するかの、分析や検討、反省はさらになかった。

    この唄の発想源は、民謡「おわら節」の中にあったもので、男女間の欲求不満状態を描いているのだが、この籠の鳥の緊縛感は、何もそこに抽出されている男女間の嘆きに止まらないのである。その奥に、それをうたう民衆全体に通ずる欲求不満の訴えがひそんでいた。(添田知道『演歌の明治大正史』)


    大正十四年(一九二五)三月二日、普通選挙法が修正可決(四月公布)され、それと引き換えに七日には治安維持法が修正可決(五月公布)された。普通選挙法では確かに納税要件は撤廃されたが、「公私の救恤を受ける」者へは選挙権を付与しない規定が盛り込まれた。

    この時の治安維持法では、「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」だったが、昭和三年の改正により「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮」となる。最高刑が死刑とされるのである。

    三月十一日、鵜沼国義が七十三歳で死んだ。晩年は天涯孤独で、しかも貧窮に耐えて暮らしていた。


    大正九年八月、私ら家族が仏事で亀田にいったとき、国義老人は裃にチョンマゲ姿で案内に立ってくれた。私皆男は今でもその姿に、まざまざと好感を覚えるのである。

    養父の死は弥生二十三歳である。石黒自動車部開設で転属住込の身であったが、葬儀や遺産の処理に立向った。総費用四十五円に対し残金十円を出し親戚の助力は不要だった。1早くもその商才的独力に感嘆する。(皆男)


    三月十二日、孫文(六十歳)が北京で死んだ。遺骸は南京城外の中山陵に葬られた。三十一日、国民政府中央党部で告別式を行い、国賓の礼を以て渡支した犬養毅が祭文を朗読し、柩は犬養毅、頭山満の両名が先発して迎え、イタリア主席公使と蔣介石と共に廟後の墓の柩側に立った。国民党の汪兆銘は広東国民政府を樹立し、七月には国民革命軍が創設され蒋介石が総司令官に就任する。北方は袁世凱の死後、馮国璋、徐世昌、段祺瑞等が北京政府を存続させていたが、この当時は既に軍閥の分裂状態になっていて、第一次国共合作の中で蒋介石の主目標は北伐に絞られた。

    三月二十二日、東京放送局が東京芝浦の仮放送所でラジオ放送を開始した。しかしこれはまだ実験的なもので普及するには数年かかる。この年の年末時点でのラジオ聴取契約数は、東京一三万一三七三、大阪四万七九四二、名古屋一万四二九〇である。

    四月、弥生は秋田県甲種自動車運転免許証を取得し、石黒自動車部運転手となった。甲種は、全車種が運転できる免許である。

    四月には陸軍現役将校学校配属令も公布されている。官公立の師範学校、中学校、高等学校、専門学校等では、配属された陸軍現役将校の直接指導下に学校教練を修めることが必須となったのである。総動員に供えて若年者の軍事教練を進めることが目的だが、削減される四個師団分の人員(九万六千四百人)の雇用確保も目的の一つとされていた。

    京都の立命館中学を三年で中退した中原中也(十九歳)が、マキノ・プロダクションの大部屋女優だった長谷川泰子(二十二歳)を伴って上京したのは、この四月のことである。富永太郎(二十五歳)が前年夏から半年ほど京都に滞在し、毎日のように会っていたが、結核の悪化で年末には帰京していた。富永に会うことと、どこかの大学を受験することが目的であったが、上京早々、太郎の友人の小林秀雄(二十四歳)に会うことで、大学受験はどうでもよくなる。そして十一月には、泰子は中原を捨てて小林と同棲する。この事件が中原を「口惜しい男」にし、小説を試みていた小林を批評家にする。


    この年、講談社は『キング』を創刊した。吉川雉子郎は初めて吉川英治の名で『剣難女難』を発表したが、まだ新人である。但し翌年には『鳴門秘帖』で一躍名を高める。

    秋になり、白井喬二の提唱で大衆作家の親睦会として、廿一日会が結成された。メンバーは本山荻舟、長谷川伸、国枝史郎、平山蘆江、江戸川乱歩、小酒井不木、正木不如丘、矢田挿雲、土師清二、白井喬二、直木三十三(後に三十五)。乱歩、不木、不如丘以外は時代小説の作家である。翌年、会の同人誌として『大衆文藝』を創刊する。

    会の目的は、通俗と侮られていた我らの小説の質の向上である。白井は、広く一般民衆へ解放された文学を目指していた。長谷川伸は都新聞を退社し、筆一本で生活することを決めた。やがて彼らの作品が新興の映画の原作に採用され、時代劇が生まれてくる。映画との相乗効果で小説も売れる。

    一方で新聞、婦人雑誌、娯楽雑誌などの大量出版物に掲載された現代ものの小説(菊池寛、久米正雄等)は通俗小説と呼ばれたが、まだいわゆる純文学との区別は明確ではない。

    武者小路実篤の「新しき村」は、苦戦していた。経済的な面だけでなく、女王のように振舞う妻房子の存在が村の人間関係を壊していた。


    「新しき村」はあいかわらずの状態である。水路は不調で、せっかく開田下水田に水はかからない。結局収穫率の悪い陸稲しか栽培できず、実篤が注ぎこむ金の大半は米の購入に費やされる。耕地は陸稲三反五畝、麦一反五畝、野菜が四反七畝、合計一町歩ほどで数年前と大差がない。(関川夏央『白樺たちの大正』)


    もはや村の将来に何の希望ももてなかった。十二月二十日頃、実篤は村を離れた。それでも村に資金を送り続けた。

    アメリカの移民法改正でビザが下りず、五年間のアメリカ放浪生活から帰国した二十七歳の長谷川海太郎が、谷譲次の筆名で『新青年』に「めりけん・じゃっぷ」物を書き始める。後に林不忘の名で「丹下左膳」、谷譲次の名で怪奇犯罪実話物を書き分けて流行作家となる始めである。

    平野義太郎『法律における階級闘争』、レーニン・青野季吉訳『帝国主義論』、萩原朔太郎『純情小曲集』、堀口大学訳『月下の一群』。梶井基次郎「檸檬」(『青空』)、葉山嘉樹「淫売婦」(『文藝戦線』)、国枝史郎「神州纐纈城」(『苦楽』)。

    東京神田日活館でチャプリン『黄金狂時代』封切。阪東妻三郎プロ『雄呂血』。この頃、映画界は無声映画の黄金期を迎えていた。特にマキノ映画の阪東妻三郎の人気が確立したのはこの時期で、その主演作は『鮮血の手形』、『血桜』、『雲母坂』、『討たるる者』等である。


    ・・・・人気を高めてきた阪東妻三郎が、単なる剣劇俳優ではないと見られてきたのは、「討たるる者」あたりから、人間性を多分に盛り込むようになったからである。(田中純一郎『日本映画発達史』)


    マキノ雅弘の回想『映画渡世』によれば、チャンバラ映画の剣戟は、澤田正二郎の影響を受けたものだという。


    大正十五年(一九二六)一月、利庸が死んだ。死因について皆男は「今でいう空気の公害だったと思う」と書いている。三代続けて嫡子が誕生したと利穎が歓喜していたのも空しく終わった。揚五郎が前年の徴兵検査を甲種合格となり、この一月十日に入営した。一般現役兵の入営期日は徴集年の翌年一月十日が通常である。二年間の兵役を務めなければならない。

    利生は八月には大阪府港区鶴町四丁目一八八番地に転居、十二月には長女祐(サチ)が誕生した。

    一月十五日、京都学連事件で初めて治安維持法が適用された。大正七年(一九一八)に東京帝大で新人会が結成されて以来、全国の大学にマルクス主義的な傾向が強まっていた。大正十三年頃には社会主義研究会を名乗る団体が全国で三十にも及び、十四年七月の学連第二回全国大会では、マルクス・レーニン主義が正式に方針として採択された。その中での京大社研と同志社大社研への摘発であった。しかし都会の若者を中心にマルクス主義はファッション化しており、マルクスボーイは最先端の流行だったのである。マルクスボーイを略して「マボ」、エンゲルスガールを略して「エガ」という言葉も生まれた。


    ・・・・教養主義とは、万巻の書物を前にして教養を詰め込む預金的な志向・態度である。したがって、教養主義を内面化し、継承戦略をとればとるほど、より学識をつんだ者から行使される教養は、劣位感や未達成感、つまり跪拝をもたらす象徴的暴力として作用する。(中略)

    マルクス主義へのコミットメントはこうした教養主義的空間における罠やしこりを一挙に解除した。マルクス主義を象徴的武器に、教養主義を観想的であり、ブルジョア的であり、プロレタリア革命の敵対分子であると決めつけ、象徴的暴力関係の逆転を齎してくれるものだった。マルクス主義は十分な学識という「貯金」を貯めこまずに象徴的暴力を振えるという意味では、教養主義の荒技ともいうべきものだった。(竹内洋『教養主義の没落』)


    三月十八日、六十日間続いた共同印刷争議が終結し、千七百人が解雇された。労働者側の完全な敗北である。この争議の中心に二十八歳の徳永直がいた。

    四月、本郷動坂のカフェ〈紅緑〉の女給となっていた佐多稲子(二十三歳)は、『驢馬』を創刊したばかりの若い詩人たちと知り合った。中野重治(二十五歳)、堀辰雄(二十三歳)、窪川鶴次郎(二十四歳)、西沢隆二(二十四歳)、宮本喜久雄(どんな人物か知らない)、田端に住む若者たちである。堀辰雄以外は日本プロレタリア芸術連盟に参加している。同じ田端に住んだ芥川龍之介と室生犀星が後見人のような立場に立っていた。

    萩原朔太郎も犀星を追って田端にやって来た。この頃の田端は作家や詩人たちの他、小杉未醒(放庵)を中心とした太平洋画会の〈ポプラ倶楽部〉、板谷波山を中心とする香取秀真、吉田三郎等の彫刻・彫金グループが集まって、一種の芸術村となっていた。


    大正末期は恐らくわが国で文学青年が印刷費を持ち寄って、同人雑誌を刊行する習慣の固定した時期である。「白樺」「新思潮」も無名作家の集団であるが、それぞれ学習院とか帝大とかを背景にもっていて、それ等最高学府の文科生が書くと言うこと自体、江湖の注意を惹くに十分であった。富永のような二高中退、外語休学中の学生が、十円の同人費で、発表機関を持つという幸運にめぐまれたのは、関東大震災、プロレタリヤ文学運動、文芸春秋創刊、新感覚派結成、築地小劇場開場等々、何となく時代が新文学勃興の機運の裡にあったからである。(大岡昇平『朝の歌』)


    大岡昇平は、富永太郎等が参加した『山繭』(大正十三年十二月創刊)や、後に中原中也を中心とした『白痴群』(昭和四年四月創刊)を念頭に書いているが、『驢馬』でも同じことだろう。

    稲子には前夫との間に娘が一人いたが、七月に窪川と同棲を始める。稲子に『キャラメル工場から』(昭和三年)を発表することを勧めたのは中野である。稲子の働くカフェーは後のスナックのような雰囲気であった。女給が客と体を密着させるように隣に座り、エロを売るような形態は、まだこの当時の東京では現れていないようだが、大阪では徐々にそうした「サービス」が広がって来る。


    今ほど、酒場と喫茶店がはっきり分かれていない頃で、カフェーといえば、酒を飲むところである。カツレツやチキンライスなど洋食の一皿料理で腹ごしらえをしてお気兼ねなくお客様で通り、またはコーヒー一杯で、ぱちりと十銭銀貨をひとつ卓の上において帰ることもできなくはない、そんな安直さがあった。まして町内のことだから、昼は働き着のままコーヒーを飲みに来て夜は風呂がえりにビールを一本、それにハムサラダ一皿で冗談を言ってかえるなどというそんなものが、女給たちと仲よしのしゃれた客であった。(佐多稲子『私の東京地図』)


    林芙美子は前年には勤めるカフェーを後輩の女と一緒に逃げ出し、玉ノ井に身を沈めようかと本気で考えた。一時詩人の野村吉哉と住んだ世田谷太子堂の墓地裏の二軒長屋の隣には壷井繁治・栄夫妻、二階に平林たい子が住んでいた。たい子は芙美子にならってカフェーの女給になってはみたものの、一年程で辞める。芙美子は愛嬌があり客あしらいも上手かったが、たい子はひたすら暗いのである。

    この頃は野村と別れた後だが、本郷でばったり出会って踏み倒した金のことで追われた挙句、知り合いの画学生手塚緑敏の部屋に飛び込み、緑敏の寝ている布団に潜り込んだ。芙美子にとって男を変えるのは引っ越しのようなものだったが、緑敏とはこの年に結婚して生涯を共にする。放浪記の時代が終わったのである。

    八月六日、関東大震災の義援金で設立された同潤会が、東京市押上本所に日本初の公営鉄筋アパート「中之郷アパートメント」を建設した。


    十二月、改造社が一冊一円の『現代日本文学全集』全三十八巻(後六十三巻に)の刊行を開始し、昭和四年までの間に三百種以上の円本が企画されることになる。

    この企画は雑誌『改造』の不振で経営が悪化した山本実彦がカナダ産製紙の暴落に着目して挑んだ起死回生策だった。これに先立って、大学令・高等学校令によって高学歴人口が急増していたこと、関東大震災によって個人蔵書が焼失したこと等により、教養書の新たな需要が望まれていたと、佐藤卓己「ラジオ時代の国民化メディア『キング』と円本」(筒井清忠編『大正史講義 文化篇』所収)は言う。

    『現代日本文学全集』の第一回配本の予約は七万部、総部数は二十万部。新潮社の『現代世界文学全集』予約四十八万部でスタートした。これは驚くべき数である。春陽堂の『明治大正文学全集』(全五十巻)、新潮社『現代長篇小説全集』(全二十四巻)、平凡社の『現代大衆文学全集』(全四十巻)、更に漱石、蘆花、独歩、啄木等の個人全集も続々刊行された。予約制によって出版社の経営が安定した結果、著作権や印税が整理された。

    作家の貧乏が解消され、多額の印税によって洋行を果たす文士が多数出現した。翌年以降のことになるが、秋田雨雀や中条百合子・湯浅芳子はモスクワに行った。正宗白鳥はアメリカに、その他林不忘(谷譲次)夫妻、三上於菟吉、長谷川時雨夫妻、与謝野寛・晶子夫妻、佐藤春夫、中村星湖、本間久雄、木村毅、辻潤等が、それぞれ西欧や中国へと旅立った。それも多くは短期滞在ではなく一年から数年単位での滞在であった。明治の文士には考えも及ばないことである。


    しかし円本が投げかけた問題の核心は、高畠や青野の指摘した出版の資本主義化もさることながら、その結果として顕在化した厖大な享受者層そのものの中にあった。すでに講談社の「キング」は大正十四年一月の創刊号で七十万部を超える発行数を記録し、新潮社の「世界文学全集」は五十八万の予約読者を獲得する。改造社の広告が「民衆」というシンボルを執拗に繰り返した事実が端的に示しているように、出版機構の自由に操作しうる〈大衆〉が登場したのである。それは円本によって、また講談社文化によって「啓蒙」されようとしている〈大衆〉である。(前田愛『近代読者の成立』)


    読書する大衆が大量に登場したのは初めてのことだった。「出版機構の自由に操作」されるとは、メディアにも「自由に操作」される層である。

    十二月二十五日、浜松高等工業教授高柳健次郎が、世界で初めてブラウン管に「イ」の文字を写した。

    この日、大正天皇が死んだ。四十八歳。暗愚と噂された天皇であったが、原武史『大正天皇』はその通説を覆し、病気さえなければ実は聡明な人間であったという。好奇心溢れる幼少期に詰め込み教育によってストレスを発した。有栖川宮が東宮輔導になって教育方針が転換されたのが功を奏し、地方巡啓では溌剌とした姿を見せる。明治の最後の十二年間は皇太子として全国巡啓し、産業施設や学校、名所旧跡などを回り、各地の産業や学芸を激励する役割を果たした。一般人にも気軽に声をかけるなど、異風ではあったが異常ではなかった。漢詩に才があった。要するに明治天皇の嫡男として生まれたこと自体が悲劇だった。
    南方熊楠『南方随筆』、三木清『パスカルに於ける人間の研究』、末広厳太郎『労働法研究』、矢内原忠雄『殖民及殖民政策』。川端康成「伊豆の踊子」(『文藝時代』)、大佛次郎「照る日曇る日」(『大阪朝日新聞』)、吉川英治「鳴門秘帖」(『大阪朝日新聞』)、江戸川乱歩「一寸法師」(『大阪朝日新聞』)