文字サイズ

    東海林の人々と日本近代(六)昭和篇 ①

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2022.09.06

    昭和二年(一九二七)利穎六十八歳、利器五十九歳、利生三十三歳、タツミ二十六歳、祐二歳、利雄三十歳、石山皆男二十七歳、鵜沼弥生二十五歳、揚五郎二十三歳。伸二十歳。年齢は数え年による。


    神戸で薬局を営みながら探偵小説を書いていた横溝正史は、前年、江戸川乱歩に無理やり誘われて、『新青年』の編集長に就いた。『新青年』は初代編集長森下雨村の下で探偵小説作家を発掘育成する、探偵小説作家の牙城になっていた。編集長になった横溝は乱歩に『パノラマ島奇譚』を書かせた。そしてこの頃から、読者対象を都市青年層に絞ったモダニズムと洒落たユーモアを基本に据えるようになる。後の金田一耕助シリーズに見る土俗のおどろおどろしさとは裏腹であるように思える。ただ乱歩はモダニズムが嫌いだった。

    『新青年』は戦後乱歩が再建する『宝石』の先駆に当たるだろう。また開高健や山口瞳の『洋酒天国』(サントリーの広報誌)、小林信彦の『日本版ヒッチコックマガジン』等にも影響を与えた筈だ。

    一月二十二日、田辺茂一が紀伊國屋書店を開業した。売場面積三十八坪の木造二階建て、階上にギャラリーを併設した。従業員は茂一のほか、番頭、店員二名、小僧の計五名だった。新規開業のため一般雑誌を置くことができず、同人誌や文芸誌、文学書や学術書などを中心とし、他書店との差別化をはかった。紀伊國屋書店は中村屋と並んで、一時期の新宿文化発信の中心となる。


    三月、石山皆男が荒木君江と結婚し、四月にはダイヤモンド社大阪支局に転勤になった。君江は利器の長姉トミ(荒木雄一郎に嫁す)の息子房治の長女である。背筋の伸びた女性であった。昭和五十五年(一九八〇)四月二十七日の私の結婚披露宴には皆男が体調不良だったため、親族代表として挨拶してもらった。


    三月十四日、衆議院予算総会で片岡蔵相が「本日、東京渡辺銀行が破綻した」と発言したことから金融恐慌が始まった。関東大震災後の経済対策として打ち出した震災手形問題を審議している最中である。震災手形の決済は九月の法定期限を目前にして到底完了しないことが明らかとなり、野党が追及していた矢先のことだった。

    翌日東京渡辺銀行が休業し、預金者は他の諸銀行にも取り付けに殺到した。休業に追い込まれる銀行が続出して、日本銀行は非常貸し出しで混乱の収拾に当たった。

    三月末には一応鎮静化しつつあったが、四月五日に神戸の鈴木商店の破綻が明らかとなり、また巨額の融資をしていた台湾銀行が同月十八日に休業するに至った。鈴木商店は第一次大戦中に投機的な事業拡大によって、一時は三井物産の貿易取扱高を上回るほどになっていた。しかし大正九年の恐慌、更に関東大震災によって大きな赤字を背負い、この年四月には借金残高四億円弱に達した。当時の国家予算の四分の一に当たる。台湾銀行への救済策を枢密院で拒否された若槻礼次郎内閣は倒れ、田中義一内閣がこれに代わった。蔵相に就いた高橋是清は三週間のモアラトリアムを実施、金融恐慌を収束した。この時、片面だけの二百円札を大量に印刷するという破天荒な政策を実行して銀行の店頭に積み上げることで預金者を安心させた。

    四月一日、小田原急行電鉄の新宿・小田原間が開通した。同じ日、徴兵令が廃止され、兵役法が公布された。これにより現役期間が一年短縮された。

    四月十二日、上海で蒋介石(国民党右派)が反共クーデターを起こし、武漢政府(国民党左派)に対し十八日に南京政府を樹立した。武漢政府も六月には反共政策に転換し、九月には合流する。

    五月二十七日、東洋モスリン亀戸工場の女工が要求書を提出し翌日妥協した。これによって、女工の自由外出が初めて認められたと知れば茫然とする。各地で労働争議や小作争議が続いている。

    五月二十八日、居留民保護を名目に山東省に出兵した(第一次山東出兵)。出兵の名目はいつの場合でも居留民保護である。実際には蒋介石の北伐への牽制であった。

    六月二十七日から七月七日にかけて、東方会議が開かれた。田中義一首相兼外相と森恪外務政務次官(実質的な外相)の主導で開かれた会議である。森は、東洋のセシル・ローズを自認する帝国主義者である。若槻内閣における幣原外交を「軟弱外交」と批判し、強硬外交方針を決定した。基本方針の一つは、満蒙を中国から切り離し、その治安維持のために日本軍が責任を持つこと。二つ目は中国の内戦が激化した場合には国民党と結んで共産化を阻止することである。


    六月、石黒自転車が実用タクシーに買収されると同時に弥生は転属し、運転手長に昇格した。


    円本の流行は弊害も生んだ。類似企画が多く質が低下したこと、また全集は巻を重ねるほど売り上げ数も減るのは当然だから、売れ残りのゾッキ本が一円を切る値段で地方の書店や古本屋に流れた。

    これに対して七月、岩波茂雄(四十七歳)は岩波文庫を創刊する。夏目漱石『こころ』、幸田露伴『五重塔』、樋口一葉『にごりえ・たけくらべ』、島崎藤村『藤村詩抄』、トルストイ『戦争と平和(一)』、チェーホフ『桜の園』、プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』など二十二冊、五日遅れてカント『実践理性批判』一冊を刊行してスタートした。これによって、外国文学や哲学書が安価に手軽に読めるようになり、旧制高校生や大学生の「教養」の基礎となるのである。

    百ページを★一つとして二十銭である。私の学生時代は★一つが五十円だった。しかし「分売を許さず読者を繋縛して数十冊を強うるがごとき」と言いながら、岩波自身、その『講座哲学』は全巻予約販売であった。

    山本夏彦は、岩波文庫の翻訳による日本文への影響を意地悪く語る。


    昭和二年岩波は文庫創刊に当たっていくらよくできた翻訳でも重訳はとらない、原語からの忠実な、あるいは奴隷的な逐語訳に限った。他社も次第に岩波にならった。わが国の文学は大正年間はトルストイの、昭和になってからはドストエフスキーの影響下にあった。みな米川正夫、原久一郎、中村白葉の翻訳で読んだ。ロシア語の出来る人が稀だったから、この翻訳がわが国の文章に及ぼした影響ははかり知れない。・・・・岩波は外国語の出来るだけの人を重く用いてその人の日本語能力を問わなかった。・・・・

    岩波茂雄はあふれるその善意にもかかわらず、事は志とちがって思いもかけず国語を昏迷におとしいれる元凶になった。(山本夏彦『私の岩波物語』)


    山本は欧文直訳体のことを言っているのだが、これ以降の日本の小説家の文体は全て昏迷に至ったか。むしろ大正時代の「新感覚派」の文体の方に、「昏迷」は明らかに見られるだろう。そして一時期、辛口、毒舌、小言で有名になった山本夏彦自身の文体はどうか。山本は漢文脈、和文脈のみで充分だという意見らしいが、欧文脈の導入は日本語に新しい可能性を与えたことは間違いない。

    七月二十四日、芥川龍之介が田端の家で服毒自殺した。三十六歳。「或旧友へ送る手記」にこう書いていた。「旧友」は久米正雄のことだとされる。


    誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは自殺者の自尊心や或は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであらう。僕は君に送る最後の手紙の中に、はつきりこの心理を伝へたいと思つてゐる。尤も僕の自殺する動機は特に君に伝へずとも善い。レニエは彼の短篇の中に或自殺者を描いてゐる。この短篇の主人公は何の為に自殺するかを彼自身も知つてゐない。君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。(後略)


    従来の文学史は芥川の死をもって大正文学の終焉とするのが通例だった。宮本顕治『敗北の文学』や平野謙『昭和文学史』等は、芥川の「ぼんやりした不安」は、マルクス主義を理性としては肯定し、にも関わらず「民衆」に同化できない芥川の葛藤を原因とするとした。

    芥川の「貴族趣味」は「大衆」を嫌悪しただろう。レーニンを評して「誰よりも民衆を愛した君は誰よりも民衆を軽蔑した君だ」(レーニン 第三)と書いた。オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』がスペインで出版されるのは昭和四年(一九二九)のことであり、既に「大衆」問題は世界へ広がっていた。

    しかし桶谷秀昭は、それとは少し観点の異なる野口富士夫の説を紹介する。野口が考えるのは「マス・メディアの発達に伴う大衆文学の進出」である。円本の普及は大量の読者を生み出し、出版界は大量の作品を必要とした。


    ・・・・大正末期からの新聞発行部数の増大にともなふ新聞小説に、菊池寛、久米正雄はもとより、宇野浩二や佐藤春夫まで長編小説を書くやうになつたのに、短編しか書けぬ芥川は、出版市場の拡大にともなふ量産が不可能で、経済的な不安も「ぼんやりした不安」の一因子をなしてゐたのではないか。

    野口氏の叙述は微に入り細をうがつてゐるから、詳しくは原文に当つてもらふしかないが、以上がその概略である。(桶谷秀昭『昭和精神史』)


    この頃、甘粕正彦が結婚したばかりの妻を伴ってフランスに旅立った。日本に居られては面倒なので、陸軍が金を出した。この時期の甘粕について、山口昌男は角田房子『甘粕大尉』を引用して書いている。


    パリでの甘粕は暗く味気ないものだったらしい。当時パリに駐在していた甘粕の陸士の同期の澄田睞四郎少佐は、「天粕はもともと無口で、面白おかしく談笑する男でなかった。フランスについての知識を得たいという気もないらしく、私の雑談を暗い顔つきで黙々と聞いていた」と回想している。(山口昌男『「挫折」の昭和史』)


    甘粕が帰国するのは昭和四年一月のことで、その年には辻潤がまこと(野枝の息子)を伴ってパリにやって来る。もし甘粕の帰国が少しずれていれば、パリの狭い日本人社会では大きな噂になったことだろう。

    九月六日、汪兆銘の武漢政府が南京の蒋介石政府に合流した。九月八日、日本は山東派遣軍の撤兵を完了する。

    十二月一日、日本共産党拡大中央委員会はコミンテルンの「二七年テーゼ」による党再建を討議し承認した。テーゼの最大の問題は、日本の大陸進出を帝国主義戦争と明確に規定したこと、「君主制の廃止」による民主主義革命を強調したことである。これは明治維新の評価に関わる問題でコミンテルンは判断を二転三転させるのだが、このテーゼでは、日本の天皇制は封建的残存物と規定された。従って民主主義革命を経て共産革命へと続く二段階論が示された。しかし治安維持法が施行されている日本で、「君主制の廃止」なんて主張できるわけがない。

    コミンテルンの側では、山川イズム派(労農派)も日本共産党の一部と考えていて、労農派の荒畑寒村を中央委員として選出したが、寒村は拒絶した。結局、第二次共産党は旧福本イズム派がそのまま看板を替えて再出発したようなものだった。山川均は、現在の日本資本主義は上昇過程あり、すぐに革命ができる状態ではない、広く左派を結集する統一戦線によって支持者を拡大することが必要だと考えていたのである。


    ここで注意すべきは、山川イズムもマルクス主義の立場にたっていたということである。福本イズム(にかぎらず、戦前の共産党の主張がすべて)はマルクス・レーニン主義こそ、マルクス主義の唯一の正統的な発展であるという立場に立っていた。

    それに対し、山川イズムは、レーニン主義はマルクス主義がロシアの特異な条件の中で発展させられた理論であって、日本の革命はそれを無条件に移植してくることによってではなく、日本の社会条件にあわせて独自にマルクス主義を発展させた理論によらなければならないとした。そして、レーニン主義的世界党・コミンテルンの指令によって世界の革命運動が導かれるというのは誤りで、世界各国の革命運動は、それぞれの国の指導部がそれぞれの国の条件にあわせて自主的に発展させた理論によって推進していくべきものとした。(立花隆『日本共産党の研究』)


    十二月二日、第十五回ソ連共産党会は第一次五か年計画を承認するとともに、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフの除名を決定した。スターリンとブハーリンの連合に負けたのである。この三人ともユダヤ人であった。ジノヴィエフとカーメネフは後に復党するが、一度スターリンに睨まれた者は生きていけない。ブハーリンも加えて後に処刑される。


    十二月には揚五郎の兵役が満期となり、下士官勤務適任証を得て除隊した。適任証は成績優秀者に与えられ、伍長勤務上等兵(後の兵長)の資格を得たことになる。そして鉄道省秋田建設事務所に就職した。


    この年、佐藤紅緑が『少年倶楽部』編集長加藤謙一の求めによって、『あゝ玉杯に花うけて』の連載を始めた。紅緑にとっては初の少年小説だった。家が貧しいために進学できずに豆腐屋の手伝いをしている少年チビ公が、やがて私塾に通い、第一高等学校に入学する出世譚である。そこには友情があり、スポーツがあり、克己修養主義がある。また加藤謙一は戦後『漫画少年』に投稿欄を設けることで藤子不二雄、石森章太郎、赤塚不二夫等のトキワ荘グループの登場を促すことになる。

    明治文化研究会編『明治文化全集』刊行開始。林不忘「新大岡政談」(丹下左膳シリーズ第一作『東京日日新聞』)、芥川龍之介「或阿呆の一生」(『改造』、「歯車」(『大調和』)、藤森成吉「何が彼女をさうさせたか」(「改造」)、平林たい子「施療室にて」(『文藝戦線』)。

    伊藤大輔監督『忠次旅日記 三部作』、林長二郎デビュー作『稚児の剣法』、『角兵衛獅子』(嵐寛寿郎の『鞍馬天狗』第一作)


    ・・・・いよいよ時代劇全盛の幕が切って落とされるのだが、伊藤大輔は「長恨」についで、「怒髪」「韋駄天吉次」を立て続けに撮り、彼の畢生の名作ともいうべき「忠次三部曲」を、この年に完成した。殊にその「信州血笑篇」と「御用篇」は、主人公忠次の、落莫の人生に託した哀切号泣の叫びが、完璧に近い映画構成と共に、渾然として凝結し、人間大輔の詩と情熱をあふるるまでに吐き出して、空前の芸術作品となった。・・・・・

    弱冠十九歳の林長二郎は、芸道一代の浮沈をこの一作に賭け、精魂を傾倒した。松竹の圧倒的大宣伝の効もあった。女形で修練した水もしたたり美丈夫振りは、女性ファンの心胆を奪った。(田中純一郎『日本映画発達史』)


    童謡唱歌では『昭和の子供』(久保田宵二作詞・佐々木英作曲)、『赤とんぼ』(三木露風作詞・山田耕筰作曲)が作られ、また鹿地亘が『ワルシャワ労働歌』に歌詞を付けた。因みに『インターナショナル』が現在の歌詞(佐々木孝丸・佐野碩)になったのは昭和四年頃らしい。左翼は元気であったが、コミンテルンの支配下にある限り未来はない。

    大正末から昭和初めにかけて新民謡運動が起こっていて、前年にレコード発売された『佐渡おけさ』が全国的に流行した。昭和十三年(一九三八)の東海林太郎『麦と兵隊』(藤田まさと作詞、大村能章作曲)に「洒落た文句に振返りゃお国訛りのおけさ節」と歌われるのはその反映であろう。  


    一九二三年、雨情作詞・中山晋平作曲の『須崎小唄』が作られ、雨情は『磯原節』、「三朝小唄』、『波浮の港』などを作り、白秋は『ちゃっきり節』を作る。一九二八年には日本民謡協会が設立され雑誌『民謡詩人』が創刊される。続けて長田幹彦の『祇園小唄』『天龍下れば』も作られ、それは大きな運動となって日本全体を包み込んでいった。(中略)

    八十は、新民謡に関しては次のように言っている。江戸時代以来の古民謡は歌詞がほとんど同一で高い共通性を持っている。「めでためでたの若松さまよ」という歌詞は日本中の民謡に入っている。その土地独自の景趣や人情を詠ったものがきわめて乏しいのだ。新民謡が初めてその土地独自のものを歌ったのである。近代の方が地域的差異化を希求したからであり、それは「民衆の大逆襲」(藍川由美)なのであった。前近代社会の方が共通性が高く、近代社会の方が知識的独自性を望みそれが高いというのは当然のことなのだが、近代社会の方が統合性・画一性が高くなるという観念図式では歴史・社会の実像がとらえられない典型例だといえよう。(筒井清忠「西條八十――大衆の抒情のために生きた知識人」『昭和史講義 戦前文化人篇』)


    昭和三年(一九二八)利穎六十九歳、利器六十歳、利生三十四歳、タツミ二十七歳、祐三歳、利雄三十一歳、石山皆男二十八歳、鵜沼弥生二十六歳、揚五郎二十四歳、伸二十一歳。

    二月、普選法に基づく最初の国政選挙が行われた。有権者が一気に増大した(それまでの三百三十四万人から千二百五十四万人に)ことでポスターやレコードが積極的に活用された。選挙費用も制限選挙下でのそれよりも格段に増え、買収の金額も桁外れになった。また与党による厳しい選挙干渉が行われた。選挙干渉を行うため内務官僚を与党に取り込むことが恒常的に行われる。


    民主主義を理想とする立場に拠るならば、制限選挙を撤廃した(但し、男性に対してだけであったが)民政党の政策は、まさにリベラルな、進歩的で合理的なものであると評価されてしかるべきかもしれない。

    だが、当時の、大衆社会に移行しつつあると同時に、明治以来の体制が徐々に時代遅れになり、当事者能力を失いつつあった時点において、普通選挙を実施することは、民主政治の基盤を拡大することにより国家政府を安定させるというよりも、むしろ出現したばかりの大衆とその作りだす世論という大きな不安定要因を導入することになり、その点で政府の機能不全をさらに拡大するという性格を強くもっていたのである。(福田和也『地ひらく』)


    原敬が時期尚早ととらえたのも同じ見通しがあったからだと思われる。しかしそれなら、「時期尚早」でない時期とはいつだったのだろう。民主主義とポピュリズムは二〇二二年の世界にとっても実にアクチュアルな問題である。

    この選挙に共産党が候補者を立てた。但し公然と共産党と名乗ることはできないので、労農党として立候補した四十人のうち、十一人が共産党員であった。資金はコミンテルンから三万円以上貰った。勿論当選者を出すことなど期待もしていない。ただ共産党の存在を一般に知らしめて党勢拡大が出来ればよいとの判断である。しかしそれは徹底的弾圧に繋がった。


    ・・・・すでに間庭から押収した文書で、上海会議の直後から、党再建の動きがスタートしていることを当局は知っていた。そして中央委員クラスにはいっていたとおぼしきスパイによって、すでに二月段階で再建党大会があったことを知っていた。その場所が五色温泉であったこともつきとめ、新指導部がモスクワでコミンテルンから二七年テーゼを貰っているころには、すでに宿帳まで調べられていた。そして指導者とおぼしき人物たちが、いずれも日本国内に見当たらないので、やきもきしているところである。そこへ共産党のほうから、非合法活動の準備もしないで跳びだしていくことは、まさに飛んで火にいる夏の虫だった。(立花隆『日本共産党の研究』)


    三月十五日、警察は全国一斉に捜索を行い、日本共産党(第二次共産党)、労働農民党、日本労働組合評議会、マルクス書房、東京市従業員組合本部、産業労働調査所、無産青年同盟本部、希望閣、他五十か所等の関係者が検束された。野坂参三(後に脱走、国外へ)、志賀義雄、河田賢治等幹部をはじめ検挙された者は千六百人に上るが、当時の共産党員は精々四百人程度である。そして四百八十八人が起訴された。

    渡辺政之輔、福本和夫、鍋山貞親、佐野学、市川正一、国領伍一郎、中尾勝男、河合悦三、三田村四郎、岩田義道、山本懸蔵、村尾薩男、門屋博、浅野晃等の幹部は逮捕を免れた。しかし中尾勝男が逮捕され暗号党員名簿が押収されると、逮捕を免れた者の名前が全て明らかになった。そもそも非合法活動をする組織が、暗号であれ党員名簿を持っていることがおかしい。

    この頃、大岡昇平(二十歳)は成城高校の国語教師村井康男の紹介で、東大在学中の小林秀雄(二十七歳)にフランス語の個人教授を受け始めた。小林に近づけば中原中也が必ずやって来る。そして大岡は一挙に文学的青春に投げこまれるのである。


    どっかの支那そば屋かなんかだった。僕を入れて四人で飲んでいるうちに、いつの間にか中原と泰子が喧嘩になっていた。中原は泰子をなぐった。小林は終始黙って下を向いていたが、ここにいたって、卓子の向こうから中原の両手をつかみ、卓子の上に抑えつけた。力は各段に違うから、中原は無論動けない。小林は下を向いたままだった。中原は放心したような眼を天井に向けていた。抑えられて、うれしいともとれる表情だ。

    どんな話だったか憶えていないが、とにかく僕はそれからドストエフスキーの会話を読んでも、長いとも不自然だとも思わぬのである。

    十八歳の少年にとって、この場合の印象は強すぎた。飲みなれない酒も手伝って、僕は思わず貰い泣きをした。小林は店を出る時、「君の涙を自分で分析して見給え」といった。(大岡昇平「わが師わが友」)


    この当時の小林は詩や小説を書いて行き詰まっていた。泰子との関係が小林を批評家にする。中原は生まれついての詩人であり、大岡はまだ何者でもない。


    三月、二十六歳の弥生は禁酒を宣言し、こんな葉書を印刷して関係方面に配った。しかしこの禁酒がいつまで続いたか分からない。


    拝啓、寒冷未だ身に沁む昨今、御一同様如何御起居遊され候や御伺い申上候。私事異状なく業務に専念致し居り候間乍他事御休心被下度候。

    次に、先般行はれ申候わが国最初の普選を記念として更始一新の道に進むべく、私の弥生なる名に縁故深き第二十六回の誕生日、即ち三月一日を期して断然禁酒致すべく候。医師のすすめ等も有之、尚ほ身は世人交通機関として必要欠くべからざる自動車の従業員として、最も緊急なる事と存じ、右の如く覚悟致し候へば、何卒御含みの程願上候。就ては今後とも宜敷御引立御愛顧御声援被下度、右ご挨拶申上度如斯に御座候。末筆ながら御一同様の御健康を祈り奉り候。                     敬具


    昭和三年三月 秋田市土手長町上丁 二〇番地
               秋田実用タクシー商会内
                      鵜沼弥生


    秋田市土手長町上丁は、現在の千秋明徳町と千秋矢留町に当たる。千秋公園(久保田城跡)の近くで、秋田県庁と市役所もあった区域である。二〇番地は明徳町になるが、タクシー会社としての立地は抜群であろう。この頃、土手長町上丁から土手長町末丁を結ぶ軌間約一キロの電気鉄道「秋田電車」が計画された。昭和三年四月に特許を取得したものの、八年八月に失効して、結局実現しなかった。

    大正十三年に大阪で始まった円タク(市内一円均一)が、この頃に東京に広まった。おそらく秋田でも同様であったろう。そして次第に過当競争も激しくなってきた。その中で、一身の決意を述べたものか。


    ・・・・東京市内だけでも四千台のタクシーが走って、台数の激増による過当競争が激しくなり、折からの経済不況から、円タクどころか客が値切って乗る銭タクへの道を辿りはじめた。(西澤爽『雑学東京行進曲』)


    春頃から秋田木材の経営も厳しくなってきた。人員整理が実行され、利生は五月に解職された。一所懸命働いているのに、いつでも会社の都合によって職を失う。不運の人であった。しかし人員整理の対象になるにはそれなりの理由があるだろう。優秀であれば会社が手放す筈はない。真面目な人が必ずしも職業上の能力に恵まれているとは限らない。

    今回は、皆男が阪急の小林一三を訪ねて訴えた。小林はダイヤモンド社とは親しい関係にあった。しかし小林ほどの大物が、一記者の身内の就職問題に関与してくれるのは余程稀なことではなかろうか。皆男が既に小林にある程度の知遇を得ていたとしか思えない。そのお蔭で六月には阪急系の浪速瓦斯への就職が決まった。不運ではあるが、その都度誰かが助けてくれるのは、逆に運が良いことでもあるだろうか。

    翌年には梅田駅ビルに、日本最初のターミナル・デパートとされる阪急百貨店が開業する。「帝都」東京に対して「民都」大阪の発展時期であった。


    六月四日、張作霖の乗る列車が爆破され、日本政府は「満州某重大事件」と称した。関東軍司令官村岡長太郎中将が発案し、河本大作大佐の指示で実行されたものだったが、その事実は伏せられている。蒋介石と共産党に対抗する勢力として、北方軍閥の統領である張作霖は日本軍にとってこれまで利用価値があったが、この頃ではむしろ邪魔になっていたのである。


    河本は、戦後『文藝春秋』に寄せた手記「私が張作霖を殺した」の中で、当時の、関東軍参謀としての自分の立場を、説明している。

    「関東軍は、万一のことがあれば、腹背に敵を受けねばならない。奉天はまだ好いとしても、全満に瀰漫した排日は、事あった際は燎原の火の如く燃え旺り、排日軍は一斉に蜂起するであろうことも予想しなければならない。又一度、奉天と我軍と、その敗残兵との間に干戈を交えんか、惧るべき市街戦となって、奉天在住の日本人はどんな目に遭うか判らない。(中略)かかる奉天軍の排日は、専ら張作霖等の意図に出た。ところで、真に民衆が日本を敵とすると云う底のものではない。唯、欧米に依存して日本の力を駆逐して、自己一個の軍閥的勢力の伸長を計り、私腹を肥やさんとするのみで、真に東洋永遠の平和を計ると云う風な信念に基づいていないことは明らかであった。一人の張作霖が倒れれば、あとの奉天派諸将と云われるものは、バラバラになる。」(福田和也『地をひらく』)


    六月二十九日、治安維持法改正案が勅令で公布された。大正十四年の条文は「第一條 國体ヲ變革シ又ハ私有財產制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス」であって、「国体の変革」と「私有財産制度の否認」が一つにまとめられて最高刑は懲役十年であった。これを分割し、最高刑を死刑にしたのである。


    第一条
    第一項 国体を変革することを目的として結社を組織したる者又は結社の役員その他指導者たる任務に従事したる者は死刑または無期もしくは五年以上の懲役もしくは禁固に処し、情を知りて結社に加入したる者または結社の目的遂行のためにする行為を為したる者は2年以上の有期の懲役または禁錮に処す。
    第二項 私有財産制度を否認することを目的として結社を組織したる者、結社に加入したる者または結社の目的遂行のためにする行為を為したる者は十年以下の懲役または禁錮に処す。


    それに合わせて、七月一日には、特高警察を全国に拡充するため、特高警部百五十人、特高刑事千五百人が増員された。

    七月二十八日、第九回オリンピック大会(アムステルダム)開会。三段跳びで織田幹雄、二百メートル自由形で鶴田義行が金メダル、陸上八百メートルで人見絹枝(二十二歳)、競泳男子八百メートルリレーで銀メダルを獲得した。三年後、人見絹枝は肋膜炎から乾酪性肺炎を引き起こして急死する。

    八月から翌年にかけて、林芙美子は長谷川時雨主催の『女人藝術』に『秋がきたんだ――放浪記』を連載し評判を得た。その意味で長谷川時雨は芙美子にとって恩人であるが、芙美子は時雨をバカにしていた。実は時雨は『放浪記』が理解できなかった。掲載を強く推し、タイトルを付けたのは時雨の「夫」三上於菟吉であった。芙美子は大正十五年に手塚緑敏という生涯の伴侶に出会っていた。中流女性の多く集まる『女人藝術』の中で芙美子は異風であり、異物感さえあった。


    尾道市立高女時代、同級の女の子たちと対等に付き合うため、帆布工場で働きながらバイオリンを手に入れたように、芙美子が「女人藝術」の空気に耐えたのは、それが世に出るための踏み石だったからだ。『放浪記』の評判は同人たちの眉をひそめさせながらも日に高まった。二年後の三〇年七月、改造社から「新鋭文学叢書」の一冊として刊行されるとよく売れ、十一月には『続放浪記』がやはり改造社から出た。(関川夏央『女流 林芙美子と有吉佐和子』)


    芙美子を『女人藝術』に誘ったのは平林たい子である。たい子は前年に「施療室にて」(『文藝戦線』)を発表して新進のプロレタリア作家として認められていた。私生活では小堀甚二と見合結婚をした。芙美子はプロレタリア文学には何の興味ももたなかったが、たい子は恐らく文壇においてたった一人の芙美子の理解者だった。またこの年には、佐多稲子が中野重治に励まされて「キャラメル工場から」(『プロレタリア藝術』)を発表した。稲子も大正十五年に窪川鶴次郎と結婚している。大正中期に文筆に憧れながら最底辺を生きて来た女性三人に、漸く希望が見えてきたのがこの時期である。

    九月、曽我廼家五郎劇に対抗して、大阪角座に曽我廼家十吾(十郎の元弟子)と二代目渋谷天外が松竹家庭劇を創設した。後の新喜劇、藤山寛美を生み出すことになるのだから重要である。ここに至るまでには、明治三十七年(一九〇四)曾我廼家五郎・十郎の大阪浪花座での旗揚げから、大正四年に十郎と五郎が別れるところまで遡らなければならないのだが、人間関係がややこしく、詳細は小林信彦『日本の喜劇人』を見て貰わなければならない。ただ小林が次のように言っているのは重要であろう。


    さて、日本の喜劇の始祖である五郎と十郎の決裂が、〈人情喜劇〉と〈ファース〉をめぐっておこなわれたのは、まことに象徴的である。五郎は〈涙と割の人情喜劇〉に固執し、十郎は〈ファース〉もしくは〈ナンセンス喜劇〉を主張した。(小林信彦『日本の喜劇人』)


    渋谷天外が脚本創作の上で、曾我廼家十吾が演技の上で十郎の弟子だとすれば、松竹家庭劇は本来ナンセンス喜劇を目指す筈のものだった。

    十月八日、蒋介石が国民政府主席に就任した。十二月には張学良が降伏を宣言し、第三次北伐も終了する。満蒙を中国本土と切り離すことが日本軍最大の目的だったが、これにより中国統一の機運が出始めたことに危機感を強めていく。

    そして石原莞爾(四十歳)が関東軍参謀に就任した。石原に求められたのは、張作霖爆破事件後の混乱した満州情勢の収束と、今後の軍事行動の立案である。


    軍事についてならば、石原よりも戦史に通じていた学者はいただろう。あるいは第一次世界大戦が切り開いてみせた、国家対国家が死力を尽くして戦う総力戦の実態と問題点についても、くまなく知悉していた軍政家もいた。あるいは動員計画や、一局面の作戦計画について石原よりもすぐれた参謀はいた。何人もいたに違いない。

    だが、それらのすべての要素を結び付けて、日本の未来と、世界史の趨勢とへの理解と洞察に基づいて戦略を立てられる参謀は、ただ一人、石原莞爾しかいなかった。その点で、この時期に石原が関東軍の参謀として大連に赴任したことは、天の配剤としか云いようがない。それが、結果としてどのような事態を日本と東アジアにひき起こしたとしても。(福 田和也『地をひらく』)


    十月十二日、東京松竹楽劇部が設立し、水の江滝子が参加した。日本の女性歌劇史上初めて男性の様に断髪した男役で、ターキーの呼び名と「男装の麗人」が全国に広まった。

    十一月一日、大礼記念としてラジオ体操放送「国民保健体操」が開始した。郵便局員が振り付けを全国に普及させたという。

    十二月、張作霖爆破について天皇から調査報告を求められていた田中義一首相は、半年も経って、張作霖爆殺は「関東軍参謀河本大佐が単独の発意にて、其計画の下に少数の人員を使用して行いしもの」であり、関係者に厳正な処分を求める軍法会議を行う旨の上奏を行った。これが田中義一を追いつめることになる。

    陸軍や重臣が処罰と公表に強硬に反対し、白川義則陸相は三回に亘り関東軍に大きな問題はない旨を上奏した。左官クラスの将校が陸軍内部を説得して軍内の世論を作り出し、一方では小川平吉鉄道相が閣内を説得して処分反対で一致させた。

    この年、ソ連は第一次五か年計画を始めた。徹底的な重工業化により、全工業生産高について二五〇パーセント増、重工業は三三〇パーセント増を果たすという計画である。資金を稼ぐために穀物を安く買い上げ輸出に回し、その利益を工業化へ投資する。レーニン生存中から「クラーク」と呼ばれる「富農」の抹殺・撲滅(百八十万人の強制移住)が進められ、ウクライナでは飢饉(ホロドモール)が発生し、六百万人以上が餓死した。しかしその内実は殆ど知られることはなく、計画経済による驚異的な経済成長率だけが語られたのである。これがナチスの四ヵ年計画(一九三三から)や満州の五か年計画(一九三七から)に影響し、近衛体制での統制経済にもつながって行くことになる。


    十二月には揚五郎が正式に高橋家に入籍した。


    この頃、銀座を歩くモボの間に、揉み上げを伸ばすこととセイラー・ズボンが流行った。揉み上げはルドルフ・ヴァレンチノの真似であり、セイラー・ズボンは裾の開いたラッパ・ズボンである。但しセイラー・ズボンは西欧での流行から数年遅れていた。昭和五年にヒットする二村定一『洒落男』に「山高シャッポにロイド眼鏡/ダブダブなセイラーのズボン」とあるのは、流行遅れの田舎者をからかったものだろう。またモガの間では膝上十センチのショート・スカートが流行した。


    ・・・・古来より伝承された日本の女の「秘めたる色気」は、この昭和初期、はじめて「露出する色気」へと、歴史的な大転換を果たしたのである。(中略)

    ただ、この時代の男たちを喜ばせたショート・スカートは、昭和四十年代のそれよりも期間が短く、昭和二年から五年までがその流行期で、六年に入ると少しずつスカートは長めになり、やがて、ロング・スカートの流行へと移ってゆく。(西澤爽『雑学東京行進曲』)


    狩野亨吉が「安藤昌益」(『岩波講座世界思潮』)を発表したのはこの年だった。十年後だったら発表もできなかったろう。しかし既に『自然真営道』の原本は関東大震災で焼失してしまっている。


    明治三十二年の頃であつた。私は自然眞營道と題する原稿本を手に入れた。此本は元來百卷九十二册あるべきところ、生死之卷といふ二册が缺けて居た。九十二册の内初めの二十三册は破邪之卷、第二十四册は法世之卷、第二十五册は眞道哲論、第二十七册以下は皆顯正之卷となつてゐた。生死之卷もこの顯正之卷の内である。毎卷に確龍堂良中著と記し、寶暦五年に書いた自序の末に鶴間良龍と推讀される書印があつた。其頃は寶暦書目を參考することに氣付かなかつたので、多分鶴間が本名であると思ひ心當りを尋ねて見たが分らう筈がなく、其間に左傾派の人にも洩傳はり、幾分宣傳用に使はれたかとも思はれる。是程の見識を持つてゐた人の本名が知れないのは殘念と思つて、最後の手段として原稿本の澁紙表紙に使用された反故紙を一々剥がしながら調べて見ると、幸ひにも其中から手紙の殘闕が二三發見せられ、其内容から本名が安藤昌益であると推定されたのである。

    自然眞營道の原稿本は大正十二年の春東京帝國大學に買上げられ、其年の大震災に燒けてしまつた。かういふ事にならうとは夢思はなかつたので、私も又私から借りて見た二三の友人も、誰あつて抄寫して置かなかつた。彌々なくなつて見ると、複本を拵へて置けば善かつたと悔んだが始まらない。然るに翌年幸ひにも又安藤昌益の著した統道眞傳と云ふ書物を得ることが出來た。其本は原稿ではなく門人が寫したと思はるるもので、五册あるが完本ではない。(中略)

    安藤曰く、かの農民を見よ。農民は自ら直に耕して食ひ、以つて獨立の生活を營むもので、端的に此大切なる事實を實現しつつあるのではないか。さうした生活の模範を示すところの直耕の農民は、道理の上から須く一番貴まれなければならない筈であるのに、常に下にしかれて貧乏に苦しんでゐる。之に反し自ら耕さずして他人の耕したものを贅澤にも貪る如くに食つて生活する徒食者は、獨立しては立行けぬもので、實に憐むべきものである。しかるにも係らずさうした不耕貪食の徒は常に農民の上に位し、安逸な樂みをなしてゐる。實に不公平な不都合なことで、全く面白くない世相である。かう安藤は觀察したものである。ところが世界孰れの國に在つてもこの面白くないことが行はれてゐるといふことに氣付いて見ると所謂教だの政だのいふものは一體何所を目標としてゐるのかと憤慨して見たくなるのである。此見地に立つて安藤は治國平天下の代表者聖人孔子を罵り、救世の代表者世尊釋迦をも呵り付けるのである。もし彼が此特色ある問題を提げて起つたとすれば彼は歐米の主義者の先驅者となつたであらう。


    ただ安藤昌益の名が一般に知られるのは、戦後昭和二十五年にハーバート・ノーマンが『忘れられた思想家 安藤昌益』を出してからのことだ。

    林芙美子「放浪記」(『女人藝術』)、佐多稲子「キャラメル工場から」(『プロレタリア藝術』)、小林多喜二「一九二八年三月十五日」(『戦旗』)、谷崎潤一郎「蓼食ふ蟲」(『大阪毎日新聞』)。

    伊藤大輔監督『新版大岡政談 第一話』(大河内伝次郎の丹下左膳)、マキノ正博監督『浪人街 第一話』。

    藤原義江『出船』(勝田香月作詞・杉山長谷夫作曲)、佐藤千夜子『波浮の港』(野口雨情作詞・中山晋平作曲)、二村定一『君恋し』(佐々紅華作詞・作曲)。この頃、二村定一の人気は凄かったようだが現在の私たちには実感できない。


    私の子供の頃、彼は流行歌手の鼻祖といわれた。まことに適切ないいかたで、鼻が異様に大きい。・・・・

    それまでのオペラ式の、声をふるわせる唱法と反対に、二村のテノールは口を大きく開いて歌詞をはっきり歌う。そうして華やかさにつきもののペーソスがあった。

    ところがなぜか、数年で二村の時代は去り、二村に刺戟されて流行歌を歌いだした藤山一郎の古賀メロデイの天下になってしまう。藤山の唄は清潔感があったが、やはり歌詞をはっきり歌う人で、これは二村の影響だろうか。(色川武大『なつかしい芸人たち』)


    昭和四年(一九二九)利穎七十歳、利器六十一歳、利生三十五歳、タツミ二十八歳、祐四歳、利雄三十二歳、石山皆男二十九歳、鵜沼弥生二十七歳、高橋揚五郎二十五歳、伸二十二歳。

    一月十六日、ソ連ではトロツキーが国外追放処分になった。

    フランスではリュシアン・フェーブルとマルク・ブロックが『社会経済史年報 Annales d'histoire économique et sociale』を創刊した。新しい歴史学創設の宣言であり、アナール学派の誕生であった。


    歴史とは人間を対象とする学問です。従って、取り扱う事実はもちろん人間的な事実。そこで歴史家の任務は、これらの事実を生きた人びと、および、のちにこれらの事実を解釈するため自らの観念を頼りに、その中に分け入った人びとを見出すことだといってよい。

    確かに文書記録を用います。だが、人間的な文書記録を。文書記録を構成する言葉自体にも人間の血が脈打ち、すべての言葉はそれぞれ固有の歴史をもち、時代に応じて異なった響きを発します。しかも事実を意味する場合でさえ、同一の実在や同一の性質を指すことはほとんどないのです。

    文書記録と申しました。しかし、それはすべての文書記録でなければならない。ある者が古文書を評し、それは現実に対して無頓着な歴史家の有効な全知識である人名、地名、日付をひきだすためにもっぱら使われているものだといっていましたが、これらの古文書だけを用いるのではありません。詩、絵画、戯曲も、我々にとって記録であり、生きた歴史の潜在的な思想と行動で満ちみちた証拠です。

    ・・・・歴史は、とりわけ新しい学問、例えば統計学、人民が君主の座を奪う限りにおいて系譜学にとって代わる人口学、メイエとともにすべての言語事象は文明を表現しているとする言語学、個人の研究集団・大衆の研究へと対象を移す心理学などの実り豊かな努力が与える資料を用います。(略)(リュシアン・フェーヴル『歴史のための闘い』)


    二月十一日の紀元節に大阪池田の利生宅で、利頴の古希、利器還暦を祝賀し宴会が催された。


    このとき、東海林の子女たちの状況は、長兄の利生は前年六月、浪速瓦斯会社に新職を得て、大阪府下池田の社宅にあり、生活もようやく安定して両親もそこに居る。皆男はダイヤモンド社の大阪支局に勤務していたが、春になれば東京本社に戻る予定になっている。揚五郎は前々年末に軍隊勤務を終え、鉄道省秋田建設事務所に雇用されて勤務の安定を得、前年十二月には、養子入り十六年目で入籍し、高橋姓を名乗ったところである。弥生は結婚相談のため大阪に来るという話もあるし、一層のこと、利雄にも北海道の村井にも勧めて、兄弟全員で両親祝賀の会を催そうということになった。(皆男)


    村井小枝は息子の賢太郎を代理として参列させたが、他の子女六人は全て集まった。それに利生の妻タツミ、皆男の妻君江を含めて十一人である。

    子供たちから利穎には錦入袷と羽織、利器には御召袷と縮緬羽織が贈られた。費用は兄弟姉妹で分担し、村井十三円、利生十九円六十二銭、利雄十六円、皆男十二円、弥生十五円、揚五郎一円の計七十六円六十二銭である。伸は無収入なので裁縫を担当した。

    祝宴の膳は、池田町「うを幸」の仕出しを頼んだ。メニューは口取、焼物、つくり、たき出し、吸物、茶碗むし、酢のもの。一人当たり二円五十銭、合計二十七円五十銭は利生が負担した。これができるようになったのである。当日の利生の挨拶要領は以下の通りである。


    本日紀元節の佳辰に当り、茲に父の古稀及び母の還暦の祝をするは、我々兄弟の此上なき悦びである。殊に、出席の殆ど不可能を予想し居りし北海道(村井)からまで参加を得たるは、望外のことである。尤もこれは賢太郎が姉(小枝)の代理となってきたのではあるけれども、賢太郎君はもともと我が宅に寄食し、兄弟同然に育ちたる仲なれば、代理とはいえ誠に機宜の参列者である。

    古来より、父母の恩は山よりも高く、海よりも深しと云ふ。我等若少の頃、両親の労苦や、筆舌に尽し難きものありしも、幸に一同落伍することなく今日に至りしは、皆これ両親の恩である。父母上もまた、曽ては一時絶望とまで思はれし大患も癒え、それよりも年を閲すること父は五年、母は十五年の永きに及び、しかも今日なお矍鑠として此席に列するを得たるは、定めし歓喜極まり無からん。

    我等今日に於て、未だ報恩に酬ゆる処甚だ薄く、慙愧の至りなれど、ただ我等の心情を諒とせられたし。尚ほ甚だ些少乍ら、茲に兄弟心をあはせ、力をまとめて、若干の祝品をつくり、両親に呈上せんとす。また本日の小宴は、物質的に計りて甚だ粗末のものなれど、精神的には十二分の満足にして、一同茲に歓を尽して遊ばんことを希ふ。」(前述のとおり、宴は午前二時半に及んだ、)


    皆男の要約だから実際の言葉とは違うだろうが、家族だけが集まる会で、こんな格式ばった挨拶をする。挨拶する利生は感極まって言葉は途切れ途切れになり、女たちは啜り泣いた。利穎もまた歓喜の涙に溢れ、漸く次のような挨拶をした。


    今日この席に列りて、歓喜の余り殆ど云ふ処を知らず。ただ、此際一同に語り度き処は、我家は元来夭逝の家にて、我の父も四十台、祖父も四十台にて亡くなれり。然れば自分もまたそのとおりなるべしと覚悟し居りし処、天なるかな、運なるかな、茲に古稀の齢を娶り、次々に子を生みしも、最初続けざまに女にてしかも皆夭逝し、悲嘆此上なかりし処、三十六歳にして長男利生を生めり。然る処、次々と男の子ばかり生まれしかば、茲に於て四十台では到底死ねぬと思ひ、否、死んではならじと覚悟し、茲に於て神仏に誓って六十まで死なぬ願を立てたり。(此処で感涙はふり落ちて暫く無言)

    それはつまり、六十になれば、長男が兵役を了へるというつもりなりき。ところが、いずくんぞ計らん。五十も丈夫、六十も丈夫となれば、いよいよ命が惜しくなりて、遂に今日この祝宴に接せり。

    仍で自分は昨年来、一つの事業を了へんことを思ひ立ちたり。それは元来、系図の整理にありし処壮年時代の不注意にて、最早考証の手段もなく、到底、事の成り難きを思ひ、自分の一代記を作成することに変更したり。


    この挨拶が皆男に一族の記録をまとめる契機となったのである。弥生の結婚も、何の異論もなく認められた。当日の利穎の歌。


    七十ち(ナナソジ)をおこたり来にし夢さめて のこるいのちのいとおしぞおも夫

    那々そ地に七たりの子もよめ孫も みなつとひ来てうたけ賑ふ  


    没落した士族の家庭の生計を維持するため、様々に職を変え、北海道まで出稼ぎに行った利穎にとって、この日が人生最良の日であったことは間違いない。それにしても、この当時、古希の祝とはこれほどのものであったかと、既に古希を過ぎた私は感慨に堪えない。


    三月五日、労農党の代議士山本宣治(四十一歳)が、衆議院本会議で治安維持法改悪反対の演説を行う予定だったが、立憲政友会の動議により強行採決され、討論できないまま可決された。山本はその夜、神田の旅館〈光栄館〉で「七生義団」の黒田保久二に刺殺された。黒田は殺人罪で懲役十二年の実刑判決が下されたが、六年で出所する。「七生義団」とは殆ど論評にも値しない右翼だが、その陰に特高の動きがあったとされている。

    山本は生物学者であり、マーガレット・サンガーに共感して産児制限や性教育啓蒙に力を入れていた。産児制限は当時は危険思想であった。その講演が警察の怒りを買って京都帝国大学理学部を追放され、左翼社会運動に近づくことになった。

    山本の墓碑銘には前日の全国農民組合大会での演説の一節が、大山郁夫の筆によって刻まれている。官憲によってセメントで塗りつぶされても、その都度誰かがセメントを剥いだ。


    山宣独り孤塁を守る! だが私は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから


    四月十六日、共産党員一斉検挙で、市川正一、鍋山貞親等幹部多数が検挙された。起訴された者三百三十九名である。


    五月には皆男がダイヤモンド社の東京本社に転勤となった。

    六月二十四日、大阪府豊能郡池田町五六五〈増本病院〉で東海林利生・タツミの次女カズが生まれた。祖父母の古希還暦の賀に因んで、「賀寿」の字を宛てた。色の黒い女の子であった。


    当時としては、病院出産は珍しいことで、母の体調が悪かったせいか、生れた私は、色が黒くて、目と口ばかり大きい子供で、初めて対面した祖母は、腰を抜かしたという伝説もまことしやかに伝わっている。(カズ)


    母親の体調によって赤ん坊の色が黒くなるものだろうか。長女の祐と弟の利孝はどちらかと言えば色白で、妹のミエはカズと似たような顔色だった。

    同年生まれに岸田衿子、時実新子、フランキー堺、黛敏郎、草間彌生、犬塚弘、色川武大、前田武彦、小沢昭一、オードリー・ヘプバーン、わたなべまさこ、若山セツ子、なだいなだ、アンネ・フランク、藤山寛美、若山富三郎、向田邦子、奈良岡朋子等がいる。


    六月、張作霖爆破事件の結果について、田中義一首相は前言を翻し、「陸相が奏上致しましたように関東軍は爆殺には無関係と判明致しましたが、警備上の手落ちにより責任者を処分致します」と行政処分を上奏した。天皇は「それでは前と話が違ふではないか、辞表をだしてはどうか」と田中を叱責した。


    それで田中は辞表を提出し、田中内閣は総辞職をした。聞く処に依れば、若し軍法会議を開いて尋問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云つたので、軍法会議は取止めと云ふことになつたと云ふのである。(中略)

    この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる事に決心した。(『昭和天皇独白録』)


    それならば、軍に様々な謀略があることを昭和天皇は認識していたということだ。田中義一に対しては君主としての「警告する権利」を発動したと考えて良い。それによって田中は辞職するのである。


    イギリス式の立憲君主方式を理想とする西園寺に、「自分の意見を直接に表明すべきでない」と戒められた昭和天皇は、後に、「あの時は自分も若かったから・・・・・」と鈴木侍従長に述懐したが、このこと以後、次第に政府や軍部の決定に「不可」をいわぬ「沈黙する天皇」を自らつくりあげていった。(『昭和天皇独白録』半藤一利の注)


    しかし、西園寺の考えは英国式(あるいは天皇機関説)に偏り過ぎているのではないか。「君臨すれども統治せず」の英国にあっても、君主には「警告する権利」がある。いわんや明治憲法では統治権は天皇にある。私はそう考えるが、それについては次のような異論もある。


    天皇は、統帥大権があった以上、戦争の拡大を防ぐことができた筈だ。この主張は、明治憲法に関する初歩的な誤りを犯している。明治憲法の制定者たちは、天皇に具体的な政策判断の責任が及ばないように、天皇親政を否定することで、天皇の「神聖不可侵」性を守ろうとしたからである。(井上寿一『日中戦争』)


    しかし一切「不可」を言わないのであれば、戦後の「象徴天皇制」と全く同じになってしまうではないか。明治憲法下の天皇制は明らかに違うのである。この結果、無限に無責任な体制が作られて行くのである。


    昭和の日本においては、権力の中枢は、不動の一点として構築されることはなく、陸海の軍部、各省庁、政党、財界そして皇室とその周辺の元老といった領域に分散しており、それらの関数の変動によって国の進路が決められてきた。しかも、その決定は、決定として機能することは稀で、ほとんどの場合、特に危機に際しては、硬直と責任回避の結果としての破綻としてしか現れなかった。田中義一の味わった孤独と挫折は、昭和の政治史を先取りしているともいえる。(福田和也『地ひらく』)


    七月、妻の稲子に去られた萩原朔太郎は馬込の家を離れ、娘二人を連れて前橋の実家に帰った。十歳の葉子はそこで圧倒的に権勢をふるう祖母や親族の虐待を受ける。「淫乱な母の血をひく醜女」と罵られ、食事も別、洗濯盥も別にされ、父は祖母に逆らえず見ぬ振りをするばかりだ。少女時代の恨みは深く、後に『蕁麻の家』を書く。

    朔太郎一家が馬込に住み始めたのは大正十五年のことで、三好達治、堀辰雄、梶井基次郎等の門下生に囲まれていた。ただ朔太郎の家で殆ど毎晩のように開かれるダンス・パーティが問題だった。


    ・・・・・私が馬込で暮らしていた頃、あの銀杏返しに結ったりしたこともある自分の髪を、或るとき、短く切って、おかっぱにした。ひょっとしたら、この髪が、自分の年齢をどれほど若く見せることに役立つか、そんなことを考えたのかもしれない。まだ、断髪と言うものが流行しない、一番最初の頃であったので、私のこの大胆な行為は人々を驚かせた。悪いことに、萩原夫人も私の真似をして、髪を切った。それだけならよかったのに、夫人はその直後、ダンスの仲間である或る若い男と駆け落ちした。

    髪を切ったことが悲劇の原因になるなどと言うことは、現在では信じられないことである。髪かたちのことくらい、とは言えない。どんなことでも、人のしていないことをするのは異端者である。私は萩原夫人にすすめて髪を切らせた、と言う噂話をそのまま信じ込んだ室生犀星が、私に対して激怒した。(宇野千代『生きて行く私』)


    前年まで吉屋信子も馬込に住んで宇野千代と親しくしていたので、信子の断髪も宇野千代の影響だったろうか。断髪はモガの象徴であり、あやしげな女と見られていたのである。

    折角古希の祝をしたのに、八月十六日、利穎が亡くなった。数えで七十歳、満で六十九歳と五カ月であった。


    利頴は四十二歳の厄年に辞世の歌を詠んで六十歳の起請をかけ、五十歳で七十歳までの命を願望して、結局その通りになった。

    六十一歳で「還暦の述懐」を詠んで、聊か寂寥を示し、六十四歳でかまどゆずり、六十六歳で半ば覚悟の長病を患ったが天運強く回復、先祖のことで聞きたいことは申出よと元気である。この年に「愛孫誕生記」を完成した。先祖に対する思想と系譜の集大成である。皆男が先祖の記録をつくるためにも、各所に基本的な資料として役に立っている。七十歳で「古稀述懐」を詠んで子女に頒ち、先祖記録の及ばなかったことで子孫を戒めている。


    『改造』九月号が懸賞評論の入選者を発表した。二十八歳の小林秀雄は当然、第一席になると疑わず賞金分を前借して飲み尽くしたが、『様々なる意匠』は第二席だった。第一席は二十三歳の宮本顕治(東京帝大経済学部在学中)の『「敗北」の文学』である。ミヤケンの論文はナイーブでとさえ言える若々しさで『革命』を高らかに謳い上げ、小林の分り難さとは対照的だった。

    中条百合子はこの論文を読んで宮本に惹かれる。宮本顕治は翌年共産党に入党し、プロレタリア文学を指導していく。小林は「批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか」と記して、唯一無二の批評家として歩み始める。小林は最初から「文芸批評」を書くつもりはないのである。

    十月二十四日、ニューヨーク株式市場大暴落「暗黒の金曜日」、世界恐慌が始まった。井上準之助大蔵大臣のデフレ政策と昭和五年(一九三〇)の豊作による米価下落により、農業恐慌は本格化した。六年には一転して東北地方・北海道地方が冷害により大凶作に陥った。青田売りが横行して欠食児童や女子の身売りが深刻になって行く。

    十一月二十九日、弥生が、大町のカフェーで働いていた青森県人の松田タマと結婚した。皆男は業務多忙だったため結婚式には君江を代理とし、利雄と共に参列させた。後に皆男は、自分は冷たい人間ではないかと悔いることになる。


    この年、円本の印税(春秋社の『世界大思想全集』第二十九巻)を手にした辻潤は、読売新聞社の第一回文芸特置員(名目だけ)として一年程パリに滞在した。辻に連れられてこられたまこと(十七歳)は、武林イヴォンヌ(無想庵の娘・九歳)とよく遊んだ。イヴォンヌと言ってもハーフではなく、歴とした日本人文子と無想庵の娘だ。

    アメリカのトーキー映画が輸入されたが、興行成績は良くなかった。殆どの日本人は意味が解らないのだから仕方がない。この年五月、日活が『東京行進曲』(溝口健二監督)を公開した。原作は講談社の『キング』に連載された菊池寛の小説だが、この頃、『キング』の売上は百五十万部を超えていた。当初はトーキーとして計画していたが音と画面のズレが調整できず、結局無声映画として公開したから興行的には失敗だった。

    しかし佐藤千夜子歌う主題歌『東京行進曲』(西條八十作詞・中山晋平作曲)が大流行した。はっきりと映画の主題歌として作られた歌の第一号で、レコードはビクターから出て二十五万枚を売り上げた。但し「歌詞は小説に関係のないものでいいから、流行るものを書いて欲しい」と。西條八十は日活映画の樋口宣伝部長に依頼された(西澤爽『雑学東京行進曲』より)。

    流行歌が演歌師によって生み出された時代が終わったのである。唖蝉坊の息子の添田知道が『演歌の明治大正史』や『流行歌明治大正史』を書き、「昭和史」を書かなかったのは理由があるのだ。

    第一連「ジャズで踊ってリキュールで更けて/明けりゃダンサーの涙雨」。東京の有名なダンスホール(日米、ユニオン、フロリダ等々)が続々と開業したのもこの年である。

    第四連の冒頭、「長い髪してマルクスボーイ/今日も抱える赤い恋」が「シネマみましょか お茶飲みましょか/いっそ小田急で逃げましょか」に変わったことは有名である。つまりこの昭和四年の時点でもマルクスは流行であった。モボが銀座を闊歩する一方、彼らは髪を伸ばして薄汚いルバシカを身にまとっていた。

    「赤い恋」のアレクサンドラ・コロンタインは、社会主義フェミニズムの先駆者だというが、当時その問題が日本で正確に理解されることはなく、「自由恋愛」とか「性的放埓」の面でしか関心を持たれなかった。

    また七月には浅草公園水族館の二階に、カジノ・フォーリーが旗揚げした。しかしこれは二ヶ月で解散し、十月に榎本健一を代表として第二次カジノ・フォーリーが発足する。これが浅草レビュー発展の端緒である。川端康成が『浅草紅館』(『東京朝日新聞』連載)に描いたこともあって、大いに流行った。


    深刻な不景気に対するヤケッパチであるかのように、エロとギャグとドタバタと、とにかく、カジノ(カシノ、演芸場)・フォーリー(フォリイ、バカ騒ぎ)と名乗るパリの劇場カシノ・ド・パリと、フォリイ・ベルジュールをくっつけた合成語の一座で、浅草オペラ時代、柳田貞一の弟子であったエノケン(榎本健一)は、ここからやがて不世出の喜劇王への道を踏み出すのである。(西澤爽『雑学東京行進曲』)


    大佛次郎『赤穂浪士』、レマルク『西部戦線異状なし』、島崎藤村「夜明け前 第一部」(『中央公論』)、小林多喜二「蟹工船」(『戦旗』)、徳永直「太陽のない街」(『戦旗』)、宮本顕治「敗北の文学」(『改造』)、小林秀雄「様々なる意匠」(『改造』)、川端康成「浅草紅団』(東京朝日新聞』)。『コンサイス英和辞典』。

    小津安二郎監督『大学は出たけれど』(松竹キネマ)。東京帝大卒業者の就職率が三十パーセントと言う大不況の時代であった。伊藤大輔監督『斬人斬馬剣』、野村芳亭監督『母』(高峰秀子出演)、辻吉郎監督『沓掛時次郎』、辻吉郎監督『傘張剣法』、溝口健二監督『都会交響楽』

    この頃から映画界には「傾向映画」と呼ばれる一群が発生した。プロレタリア文学の映画版である。


    傾向映画の名で、時代劇の中に、階級闘争をテーマとした作品が、逸早く作られたのと同様に、その時代相の中に生まれたのが、あの内田吐夢の「生ける人形」である。・・・・この種の題材が、映画に取り上げられたことは珍しく、興行的にも非常な好成績を上げたので、撮影所長は・・・・左翼映画製作を積極的に許した。(田中純一郎『日本映画発達史』)


    昭和五年(一九三〇)利器六十二歳、利生三十六歳、タツミ二十九歳、祐五歳、カズ二歳、利雄三十三歳、石山皆男三十歳、鵜沼弥生二十八歳、高橋揚五郎二十六歳、伸二十三歳。

    一月十一日、浜口内閣(井上準之助蔵相)は金解禁(金本位制復活)を実施した。第一次大戦時の金輸出制限から各国が金解禁に踏み切っており、日本は遅れていた。国際信用力を回復するためには金を解禁して日本経済の信用を高める必要があったのである。しかし時期が最悪だった。世界大恐慌の真っただ中で経済は疲弊しており、デフレに耐える体力がなかった。城山三郎は、『男子の本懐』で浜口と井上を顕彰しているが、客観的に見てこの政策は失敗だった。

    四月にロンドン軍縮会議が調印された。主な内容は、主力艦の代艦建造を一九三六年まで休止すること、補助艦保有量の制限比(米英を一〇として本は六・九七五)とすることである。これを倒閣の手段として、野党政友会(犬養毅・鳩山一郎)が「政府が軍令部長を無視し、または軍令部長の同意を得ずして決定したのは統帥権干犯である」と政府を攻撃した。これに加藤寛治軍令部長が態度を変えて呼応すると、問題が一大事件として発展した。東郷平八郎や伏見宮も条約の破棄を主張するようになる。「統帥権干犯」は北一輝が発明し、犬養や鳩山に教えたという。


    このとき野党であった政友会の行動が、政党政治没落の途をひらいたものと後世批判の的となった。当時の政友会にとっては、民政党内閣打倒のためには軍部や枢密院と政府との対立を利用することが必要と考えたのであった。(中略)

    ・・・・元老西園寺公望の秘書的存在であった原田熊雄はその日記に、「加藤軍令部長の強硬な言動の背後には末次次長、その背後には枢密院の平沼麒一郎がいる」と述べているが、政友会の最大会派を率いていた鈴木喜三郎や幹事長の森恪も平沼との関係は緊密であったので、政友会が火をつけた浜口内閣の倒閣運動は、広範囲にわたる勢力の連携によるものだったといえる。(畑野勇「ロンドン海軍軍縮条約と宮中・政党・海軍」筒井清忠編『昭和史講義』)


    美濃部達吉が浜口内閣を擁護したこともあり、最終的には枢密院の審議で条約締結の諮詢は決定され、十月二日に批准された。軍部内の強硬派や枢密院の抵抗にも拘らずそれを押し切って条約締結を実現したのは、浜口雄幸の功績である。しかし政友会が「統帥権干犯」論を持ち出したことは後の日本の運命を変えることになる。そして美濃部の天皇機関説に対する反発も激しさを増してくるのである。これを機に、海軍内部の条約派が予備役に編入され、強硬派(艦隊派)が主導権を握るようになった。

    六月、大阪のカフェ〈美人座〉が銀座に進出して濃厚なサービスを提供した。カフェー業界にはこの頃から大阪資本が押し寄せてきて、エロを競うようになってきた。いつでも性的な「風俗」は大阪からやって来る。銀座の表通りは従来通り上品なカフェーが残ってはいたが、裏通りに入ると全く様相が違ってくる。


    ことに銀座二丁目、西裏あたりは銀座玉の井といわれ、オラガ銀座、ナイト、ギンガ。マネキン、コロンビヤ、ヒデミ、ラッキイ、ライトなどの小暗いバーがひしめき合い、表を通ると断髪や耳かくしの女給が門口で、「ちょっと寄ってかない?」とか何とか云う。(『銀座細見』、西澤爽『雑学東京行進曲』より孫引き)


    七月、二十三歳の伸が田中基二と結婚した。伸は小柄で、面持ちは弥生によく似ていた。私が高校二年の修学旅行で大阪に立ち寄った際に、息子の基穎と一緒に会いに来てくれた。私が初めて会ったのは恐らく前年(昭和四十二年)の弥生の葬儀の時だと思うが、殆ど初対面のようなものである。何を喋ればよいか全くわからず、私はただ困惑するばかりだったと思う。伸にしてみれば、幼くして父親を失った姪カズの息子だと思えば感慨しきりだっただろうが、事情を全く知らない高校生にとっては、申し訳ないことだが有難迷惑でもあった。


    八月十八日、谷崎潤一郎が千代を離婚、千代は佐藤春夫と結婚することを三人の連名で発表して世間を騒がせた。千代の純愛が実ったようだが、大正九年の小田原事件の後、千代は和田六郎(筆名:大坪砂男)と恋愛をしていた。


    二人の恋をモデルにした〝蓼食ふ蟲〟は実に現実の恋愛事件と同時進行形で新聞に書かれていたという事実である。潤一郎は千代に六郎との恋を認めるかたわら、千代から六郎との恋の成行を詳細に報告させていたらしいことである。〝蓼食ふ蟲〟は実に恐ろしい小説である。(瀬戸内晴美『つれなかりせばなかなかに』)


    そして千代が和田との子を妊娠中絶すると、和田は去って行った。そこで佐藤春夫が再登場したのである。和田六郎は戦後の探偵小説界では香山滋、島田一男、高木彬光、山田風太郎と共に、江戸川乱歩から戦後派五人男と呼ばれた。都築道夫はその弟子である。

    谷崎は昭和二年に知り合った根津松子(船場の根津商店の御寮人さん)に夢中であり、一刻も早く離婚したかった。ただ松子はまだ根津清太郎と離婚に至らず、谷崎はいったん古川丁未子(文藝春秋社『婦人サロン』の記者)と結婚する。松子が清太郎と離婚し谷崎と同棲するのは四年後にことだった。

    松子に捨てられた根津清太郎のその後は惨めである。繊維問屋兼貿易商「根津商店」のボンボンである。宗右衛門町で遊んで財産を蕩尽し、経営の才がなく根津商店を倒産させ、地所(大阪の靭公園の殆ど、複数の別荘地、東大阪市善根町稲荷山の遊園地)の殆どを伊藤忠兵衛 (二代)に売却した。小樽で造船業を始めて失敗。食いつめた挙句、昔世話をした日劇ミュージックホールの丸尾長顕を頼ってヌードダンサーの世話をしているうち、小林富佐雄(小林一三の長男)から宝塚歌劇団東京宿舎の住み込み舎監の職を世話された。再婚したもののすぐに脳溢血で死んだ。


    この頃、山本夏彦(十五歳)は武林無想庵に伴われてパリに来た。夏彦の父山本露葉は無想庵の親友であった。昭和四年、「ゾラ全集」を出してくれる出版社を探すため、無想庵は七年振りに帰国した。『世界大思想全集』で当てた春秋社がOKを出したが、ゾラの全集が売れる時代ではない。一冊だけ出して頓挫した。続巻出版の催促のため昭和五年に再び帰国し、友を訪ねたら露葉は昭和三年に死んでいて、露葉によく似た子がいた。

    友の子は友だとの理屈で、東京案内をさせ、相州二宮の旅館でゾラの翻訳の口述筆記をさせた。その間に夏彦の自殺未遂を知り、「そんならいっそ私がパリへつれて行って突き放して生きる稽古をさせてみようか」と、文子とイヴォンヌ(十歳)のいるパリに夏彦を伴ったのである。辻まことは既に帰国していたから、この時まことと夏彦は出会っていない。


    無想庵はかたくなに口をつぐんで語らない私をどうするつもりだったのだろう。武林の日記によるとまずホテル・ミュラーに落ち着く。このホテルはホテル・アメリカンといって、床にはリノリウムをしいた新式の安ホテルである。無想庵は困るとここに泊まったから、私も泊まった。下の階はホテルだが上の階は自炊してもいいようになっている。無想庵はまず地図を買わせパリの地理をおぼえさせた。ここでひと月自炊させて、物価とふだんの会話を覚えさせるつもりだと書いている。いっぽう日本人クラブの秘書に相談すると自分が預かってもいいという。

    武林は何はともあれイヴォンヌに会いに行く。イヴォンヌ(十一歳)は夏以来田舎に預けぱなしにされている。「パパ」と言ってとびついてくれたのはうれしいが、日本語をあらかた忘れている。あわててパリへつれて帰る。(山本夏彦『無想庵物語』)


    文子が秘書氏に強引に承知させ、夏彦は日本人クラブの秘書の部下になった。しかし全く口を利かない夏彦はすぐにお払い箱になり、無想庵親子の住むメエゾン・ラフィエットの居候になる。そして二年半のパリ滞在中、夏彦はアルバイトをしながら学校に通い、初歩の数学や国語でフランス語を学んだ。ユニヴェルシテ・ウヴリエールという社会主義の学校で授業料はただだった。

    半年後、文子(四十三歳)は日本でひと稼ぎしようと大阪まで飛んだ。東海道を自動車で踏破する計画をジェネラルモータースの知人に打診した。断髪で大振袖のドライバーは珍しいから宣伝になる。話は決まった。


    一文なしではあるけれど、定宿は帝国ホテルである。弱みを見せてはいけない、仕事と金は必ず舞いこむと待っているとはたして舞い込んだ。日活で映画を撮る仕事である。ギャラは千円、村田実監督、原作主演武林文子、市川春代、宇留木浩「一九三二年の母」である。文子はこれをあとでパリで上映するつもりである。・・・・文子は明治二十一年生まれだから私の母とほぼ同時代人である。すでに五十に近い。丈は五尺に足りない。なで肩で体は貧弱である。ただ声は高く若々しい。イヴォンヌは十二になっている。(山本夏彦『無想庵物語』)


    この当時、パリには多くの日本人がいた。金子光晴と森三千代もいた。翌年には『続放浪記』の印税を貰った林芙美子もパリにやって来る。外山五郎を追いかけてきたのだが、外山は会ってくれない。姪こま子の妊娠によって日本を脱出した島崎藤村もいた。多少時期は前後するが、吉屋信子と門馬千代、森本六爾(考古学者)、藤田嗣治、海老原喜之助、鳥海青児、土方定一、渡辺一夫、白井晟一(建築家)、田嶋隆純(真言宗の学僧)、沢木四方吉(美術史)、郡虎彦、水上滝太郎、濱田青陵、野口米次郎、河上肇、小杉未醒、山本鼎等がいた。


    当時のパリはブラックボックスのようであった。得体の知れない、または目的のない日本人がわだかまっていた。なぜパリがそんな役割をになったかは研究に値するが、林芙美子は金子光晴、森三千代とはパリで会わず、山本夏彦の存在は知らなかった。(関川夏央『女流 林芙美子と有吉佐和子』)


    パリに遊ぶ日本人は例外中の例外である。日本国内では九月に米価大暴落(大正八年以来最低)、生糸大暴落(明治二十九年以来の安値)の最悪の状態だった。


    農業のあらゆる指標が昭和五年を期にぐんと下落する。・・・・農産物価格は昭和四年が三四億七千万円、五年が二三億円、六年が一九億六千万円である。中米の標準相場(一石)は二年三十一円、三年二十九円、四年二十七円、五年十八円、六年二十一円という下りようで、一石の生産費が三十一円だから、つくればそれだけ損をすることになる。恐慌はアメリカ市場に依存していた生糸から始まったが、春繭相場を見ても昭和四年を一〇〇として、五年には白繭五三、黄繭五四、六年には白繭四一、黄繭四一である。(中略)

    五年の夏には野菜が暴落した。全国六十六カ村の農民代表が農林省や各政党本部に陳情したが、ある代表は「キャベツ五十個が敷島(一個二十五銭)一つにしかならない。カブは百把でなければバットは買えない。これでは肥料代を除くと何が残りますか」と泣いた。(保阪正康『五・一五事件 橘孝三郎と愛郷塾の軌跡』)


    十月二十七日、台湾のセデック族三百人が、台中州霧者で抗日暴動を起こした。村落酋長の息子のタダオ・モーナが、村の結婚式の酒宴の場に、たまたま通りがかった日本人吉村巡査を宴席に招こうとして巡査の手を取ったところ、不潔な宴席を嫌うあまり、手を払い持っていたステッキでタダオを二度殴打した。現地習俗の無理解によるものだが、これを侮辱と受け取り、その報復として、霧社各地の駐在所を襲った後に霧社公学校の運動会を襲撃した。当時の公学校には一般市民の日本人と漢人(大陸からの移住者)の家族子弟が集まっており、部族民は和装の日本人を標的として襲撃、結果日本人百三十四人と和装の台湾人二人が惨殺された。軍が鎮圧に出動し、年末までに制圧したが、原住民五百人が死んだ。

    十一月十四日、東京駅で浜口雄幸が、愛国社(玄洋社系)社員の佐郷屋留雄(二十七歳)に狙撃され、弾丸は骨盤を砕いた。東京帝国大学医学部附属病院に搬送され、腸の三十パーセントを摘出する大きな手術を受けて一命を取り留めたものの、翌年四月に内閣総辞職、八月には死んだ。佐郷屋は銃撃の理由を統帥権干犯だと主張したが、統帥権干犯とは何かと問われて答えることができなかった。

    留雄の兄巌は「新しき村」の住人だった。留雄も十五歳の頃に村に住んでいたこともあり、武者小路実篤は「留ちゃん」として記憶していた。一年程で村を出て汽船会社で働いたのち、満州に渡り、帰国後、玄洋社に関係したようだ。犯行に使われたモーゼル式八連発拳銃は、かつて川島芳子が所有し、岩田愛之助(愛国社創設者)に譲られたものであった。この頃芳子は上海駐在武官の田中隆吉少佐と愛人関係にある。

    未曽有の不景気の状況を、西沢爽『雑学東京行進曲』が拾って列挙している新聞記事から少し抜き出してみる。


    東京復興事業完了と共に六万人の失業群(中外商業新報・一月)、
    農村の貧しい娘が十名、二十名と連日のように、福島方面の製糸工場へ売られてゆく(山形新聞・二月)、
    東京の失業者、七万八千余人、失業率、八・二パーセント(国民新聞・三月)
    中小農工の経済苦の救済不能(中外商業新報・三月)
    津波の如く全国を襲う失業地獄を何と見る(朝日・三月)
    知識階級の失業群、就職率一・三パーセント(朝日・三月)
    鐘紡、二十三パーセントの減給(朝日・三月)
    中小商工業者の税金滞納・倒産相次ぐ(朝日・五月)
    失業百万(朝日・五月)
    デパートの売上、十五パーセント減(東京日日・六月)
    東京市内、二万世帯が生活保護を要する(朝日・七月)
    六十工場一斉に休業(群馬)、七千の男女工失業(山陽新報・七月)
    郷里へ帰る失業群(朝日・九月)・・・・


    勤め人は失業する。更に農村の疲弊は甚だしかった。戦争になれば景気が良くなるのではないか。むしろ兵隊にとられれば三食白米が食べられる。食えない農村からみれば天国のようではあるまいか。小隊や中隊で農村出身兵士に接する下級将校に、農村への同情と世の中の仕組みに対する怒りが生まれるのは必然であった。


    林達夫・山田吉彦(きだ・みのる)『ファーアブル昆虫記』、野呂栄太郎『日本資本主義発達史』、九鬼周造『「いき」の構造』。大佛次郎「ドレフュス事件」(『改造』)、長谷川伸「瞼の母」(『騒人』)、山中峯太郎「敵中横断三百里」(『少年倶楽部』)、直木三十五「南国太平記」(『東京日日新聞』)。

    伊藤大輔監督『侍ニッポン』、鈴木重吉監督『何が彼女をさうせたか』、牛原虚彦監督『大都会・労働篇』、小津安二郎監督『お嬢さん』。洋画では『西部戦線異状なし』。

    横山エンタツ・花菱アチャコが大阪玉造三光館に初出演。清水金一、榎本健一、淡谷のり子等、浅草玉木座で〈プペ・ダンサント〉旗揚げ。

    浅草の永松武雄が初めて平絵式紙芝居を製作、年末に鈴木一郎作・加太こうじ画『黄金バット』が登場する。


    昭和六年(一九三一)利器六十三歳、利生三十七歳、タツミ三十歳、祐六歳、カズ三歳、利雄三十四歳、石山皆男三十一歳、鵜沼弥生二十九歳、高橋揚五郎二十七歳、田中伸二十四歳。

    二月、利生・タツミ夫婦には次男(長男が夭折したので実質的な長男)利孝が生まれた。


    三月、橋本欣五郎中佐(参謀本部ロシア班班長)の桜会が大川周明・清水行之助と共謀し三月二十日にクーデターを起こす計画が未遂に終わった(三月事件)。参謀本部第2部長・建川美次少将、二宮治重参謀次長、小磯國昭軍務局長も賛同していたとみられる。

    大川周明が立てた計画では、第一段階として大行社(代表:清水)が警視庁を襲撃し、橋本から借り受けた擬砲弾三百発を使用して東京で動乱を起こす。第二段階として、社会民主党の亀井貫一郎・赤松克麿によって一万人を動員し、開催中の帝国議会へ押しかけさせ、陸軍将校が議会封鎖して浜口内閣を辞任させるというものだった。

    浜口内閣を倒して宇垣一成内閣樹立をめざしたものだが、宇垣の了解が得られなかった。そもそも浜口は前年の狙撃事件以来体調が悪化しており、いつ辞任してもおかしくない状況だった。そのため宇垣は時期尚早と判断したとも考えられる。現に浜口内閣は首相の病気悪化を理由に四月十三日に総辞職している。この事件では誰も処分されず、陸軍は緘口令を布いて事実を隠蔽した。

    四月一日、重要産業統制法が公布された。政府が指定する重要産業十九分野の企業統制の強化とカルテル結成を認めたものである。これにより独占化が進んでいく。全体主義的な意味での統制という言葉が法律で初めて使用され、後に国家総動員法及び重要産業団体令の中で統制会社、統制団体などとして使用されるきっかけとなった。

    四月十五日、橘孝三郎が水戸市郊外に愛郷塾を設立した。正式には「自営的農村勤労学校愛郷塾」と言う。


    塾生は甲種、乙種、研究生に分れ、甲種が中心であり、高等小学卒の者を入れ、三年で卒業させるというのであった。授業は数学、歴史から農学、農業簿記に及び、屋外授業として農作業を系統だって教える。三年生になれば哲学入門、心理学入門、美術、音楽など芸術にも力を入れる筈だった。塾生の生活は委員組織で自主性が尊重されるとなっていたが、孝三郎の理想社会とする〝完全全体国民社会の自治農村共同体社会〟にふさわしい構成員としての教育がなされる筈だった。(保阪正康『五・一五事件』)


    しかしこの頃から橘と井上日召との関係ができ始めた。日召は大洗の護国堂で青年たちを集めていたが、その一人古内栄司が橘に接触してきた。やがて古内は休日ごとに橘を訪ねてくるようになり、北一輝の『日本改造法案大綱』を薦め、日召が国家改造運動に乗り出したことを話すのである。


    六月二十七日、参謀本部員中村震太郎中尉らが農業技師と身分詐称して調査中、張学良配下の満州奉天省興安屯墾隊によって殺害された(但し公表されたのは八月十七日である)。関東軍は、現役参謀本部将校が殺害されるのは前代未聞と重大視した。

    背景には幣原喜重郎外相の国際協調路線を「軟弱外交」として批判する世論の存在があった。この年の一月、帝国議会において松岡洋右が幣原外交を詰問したとき、松岡が使用した「満蒙は日本の生命線」という言葉が大流行した。そこに起きた中村中尉事件である。世論は沸騰し、満州事変を支持する空気が充満していた。

    もう一つ、対中国強硬策を世論が支持することになったのは、七月に吉林省長春で発生した朝鮮人移民と中国人の衝突(万宝山事件)である。前年間島地方で蜂起鎮圧された朝鮮人農民三百余人が関東軍の指示で万宝山付近に移殖した。中国人地主から一千町歩の土地を十年間の期限で借りたものの水がない。そこで賃借権のない土地を通って灌漑工事を行ったのが反感を生み、およそ五百人の武装中国人農民が襲ったのである。この事件によって中国側では反朝鮮人感情が高まり、日本と朝鮮では反中国感情が高まった。

    九月十八日、関東軍が南満州鉄道の線路を爆発(柳条湖事件)したことから、戦線は満州全土に広がって行く。満州事変の始まりである。今では爆発事件は、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と作戦参謀石原莞爾中佐が首謀したものと分っている。列車転覆は中国軍の破壊工作だとして、軍事行動の口実を作るためである。

    二十四日に政府は事態不拡大の方針を決め、陸軍中央も局地解決の方針をたてたが、石原莞爾の作戦計画に従う現地軍の独走を止めることが出来なかった。

    当時、張学良の奉天軍は正規軍に公安隊を加えて四十万、それに対して関東軍は僅かに一万六百である。奉天軍には五十機の飛行機があったが、関東軍にはない。数からいえば圧倒的に張学良軍が有利であった。しかし張学良軍はあっけなく敗走した。


    活躍したのは、軍だけではなかった。戦闘の開始とともに、郵便局、電信局は、徹夜の態勢で、軍の通信に協力するとともに、中国側や各国報道機関などの通信を妨害した。満鉄は、兵員輸送のためにダイヤを急遽編成し、大車輪の輸送スケジュールを組んだのみならず、馬車や車両などの輸送機材、要員などの調達にも幅広い協力をした。(中略)

    見逃せないのは、中国側の金融機関や郵便局などに勤務している日本人の協力で、彼らが率先して押収、監視の要点を教示してくれたことが、憲兵隊の行動を効率的ならしめたのである。

    まさしく、軍と民とのへだてない、満州の日本人全体の一致協力があったのである。

    ・・・・かくも鮮烈な形で張学良軍を撃滅できたのは、関東軍が、軍勢そのものは少なくても、満鉄をはじめとする交通機関、通信機関や。在満同胞の社会的、組織的支援を動員出来たためである。(中略)

    石原の戦略は、満州という国際的な交通空間のポテンシャルを総動員することを念頭に立てられたものであり、その点で第一次世界大戦の戦訓を十分に消化した、最先端のものだったと云えるだろう。(福田和也『地ひらく』)


    民間人の協力は、主に山口重次(四十一歳)や小澤開作(三十五歳)の満州青年連盟の働きによった。彼らは五族協和の理想を心から信じており、石原莞爾の思想に共鳴したのである。しかし他国を土足で踏み躙っている日本人の主導で「五族協和」を言うおかしさには気付いていなかった。因みに小澤はその三男に、板垣征四郎の「征」と石原莞爾の「爾」を採って名付けた。つまり指揮者の小澤征爾である。


    青年連盟の理念は、蒋介石-張学良の半日民族主義による攻勢に対して、満州で暮らす日本人が与えられた特殊権益を守るために、多民族の共存共栄を唱えた気味が強い。だが、そこに、国際連盟による平和維持の思想、諸民族の相互尊重の精神の影が射していることも否めない。・・・・

    さらにいえば、青年連盟の理念は、それまで社会の現場に携わってきた人々が、労働現場における民族間の協力体制を活かそうとするものだった。・・・・関東軍の奉天占領のさなか、省政府の伝記廠出型楽中国人技師を説得し、発電を続けさせたことや、山口重次自ら事変以来、運休していたイギリスとフランスの共同経営の瀋海線(瀋陽—海口)に働く中国人技師と掛け合い、安全を保障して、復興させたりしたことに、それはよく現れている。(鈴木貞美『満州国』)


    そして年末までには、関東軍及び朝鮮軍部隊(司令官林銑十郎の独断で越境した出兵だが、事後的に「増援派遣」とされた)によって満州全域が占領された。昭和二年の東方会議で決定した、満州の中国からの分離独立が実現したのである。石原莞爾の当初からの予想通り、ソ連は五か年計画の途上で余裕がなく、世界大恐慌後の経済再建に追われる欧米列強も介入の余裕がなかった。そして関東軍の電撃的な作戦に、奉天政権はほとんど抵抗らしきものをしなかった。

    満州事変が一個師団、五ヶ月で勝利したことが「成功体験」となった。これが後に、日中戦争は三個師団、三ヶ月で勝てるという幻想を関東軍にもたらした。

    石原莞爾の目的は何だったのか。昭和維新運動を担った他の将官と違って、石原には日蓮主義の信仰に基づく文明観があった。それは信仰だから科学的論理的な反論を許さない。将来の世界は西洋の代表たるアメリカと、東洋の代表たる日本との持久戦から最終殲滅戦争となり、そこで日本が世界の盟主となる。そして世界の永遠平和が必現するというのが、石原の構想である。


    世界の決勝戦というのは、そんな利害だけの問題ではないのです。世界人類の本当に長い間の共通のあこがれであった世界の統一、永遠の平和を達成するには、なるべく戦争などという乱暴な、残忍なことをしないで、衅らずして、そういう時代の招来されることを熱望するのであり、それが、われわれの日夜の祈りであります。しかしどうも遺憾ながら人間は、あまりに不完全です。理屈のやり合いや道徳談義だけでは、この大事業は、やれないらしいのです。世界に残された最後の選手権を持つ者が、最も真面目に最も真剣に戦って、その勝負によって初めて世界統一の指導原理が確立されるでしょう。だから数十年後に迎えなければならないと私たちが考えている戦争は、全人類の永遠の平和を実現するための、やむを得ない大犠牲であります。

    われわれが仮にヨーロッパの組とか、あるいは米州の組と決勝戦をやることになっても、断じて、かれらを憎み、かれらと利害を争うのでありません。恐るべき惨虐行為が行なわれるのですが、根本の精神は武道大会に両方の選士が出て来て一生懸命にやるのと同じことであります。人類文明の帰着点は、われわれが全能力を発揮して正しく堂々と争うことによって、神の審判を受けるのです。(石原莞爾『最終戦争論』)


    そこには田中智学の日蓮主義が反映している。


    田中智学が最終的にめざしていたのは、「世界統一」であった。この「世界統一」とは、日蓮の言葉である「一天四海皆帰妙法」を智学が言いかえたものである。(中略)

    智学が世界統一を主張したのは、「世界の平和」を実現するためである。『世界統一の天業』によれば、世界には多数の国があり、利害が衝突するゆえ争いがなくならない。それで人は安心して暮らすことができない。わが身の幸福を根底あるものとするためにも、世界の永遠平和が必要である。そのためには、すべての人が、天が生じた道義的世界統一の実行者と指導者のもとに赴き同化することによって、世界が一つの国とならなければならない。その実行者が神武天皇であり、指導者が日蓮である。(藤村安芸子『石原莞爾――愛と最終戦争』)


    最終戦争の決勝戦で東洋の代表となるためには、まず満蒙を確実に確保して国力を付けることが必須である。当初は中国人に統治能力はなく、日本が領有すべきだと考えていたが、やがて満州国独立論に傾いていく。

    満州事変勃発後、政府が不拡大方針を決定したことに不満を持った陸軍急進派がクーデターを計画した。要所を襲撃して首相以下を暗殺し、荒木貞夫中条を首班とする内閣を樹立する目的で、三月事件と同じ橋本欣五郎の桜会が中心になり、大川周明、北一輝、井上日召等が加わっていた。この計画が陸軍省に洩れ、中心人物が一斉に検挙され未遂に終わった。十月事件である。しかし首謀者の橋本は重謹慎二十日の処分で終わった。


    十月、ルー・ゲーリッグ(この年、打率三割四分一厘、ホームラン四十六本で本塁打王、一八四打点で打点王)等を要する米大リーグの選抜チームが来日、日本の六大学チームや実業団選抜チームと十七戦し、全勝した。

    十一月十日、清朝廃帝溥儀が、関東軍特務機関の手で天津を脱出し大連に向かった。満州国建国のための布石である。

    十二月十一日、若槻内閣は閣内不一致で総辞職した。十三日に成立した犬養内閣(高橋是清蔵相)は、即日金輸出再禁止を決定する。既に九月にはイギリスが金本位制を離脱し、各国がこれに追随していたのである。この時期の金解禁は誤っていたというしかなく、それを修正しなければならなかった。高橋是清は政府支出の増大、大規模な公共事業(時局匡救事業)によって世界最速でデフレから脱出させたと評価される。

    十二月三十一日には淀橋区角筈にムーラン・ルージュ新宿座が開場した。玉木座の支配人をしていた佐々木千里が個人で開いた劇場である。開場時の文芸顧問には龍胆寺雄、吉行エイスケ、楢崎勤、島村竜三(前カジノ・フォーリー文芸部長)がいたが、二三年の間は経営も思わしくなかった。有島一郎、望月優子、森繁久弥、三崎千恵子、由利徹等が活躍するのは戦後のことになる。


    金田一京助『アイヌ叙事詩ユーカラの研究』、柳田國男『明治大正史 世相篇』。田河水泡「のらくら二等兵」(『少年倶楽部』)、長谷川伸「一本刀土俵入り」(『中央公論』)。平凡社『大百科事典』(木村久一編集長)刊行開始。

    流行歌では徳山璉『侍ニッポン』(西條八十作詞・松平信博作曲)、藤山一郎『酒は涙か溜息か』(高橋鞠太郎作詞・古賀政男作曲)、藤山一郎『丘を越えて』(島田芳文作詞・古賀政男作曲)。

    伊藤大輔監督『続大岡政談・魔像篇』、内田吐夢監督『仇討選手』、五所平之助監督『マダムと女房』、衣笠貞之助『黎明以前』(衣笠が滞欧二年の旅から帰国第一作)、稲垣浩監督『瞼の母』。洋画は『モロッコ』(初の字幕入り)、『巴里の屋根の下』。


    「マダムと女房」が日本トーキ-の最初の金字塔ともいうべき栄光を背負って発表された昭和六年は、われわれにとって、まことに記念さるべき年である。(田中純一郎『日本映画発達史』)


    「モロッコ」は、映画としても感銘の深い佳作である上に、画面の右、あるいは左側に、俳優の科白が日本文となって、縦に白く浮き出すという、外国トーキー最初の新機軸が成功して、興行的に大成功を得た。(中略)

    これで、とにもかくにも、外国トーキーが一応は理解される、ということになると、今まで影の形に添うように、付随してきた数百、数千の説明者の失職という映画界空前の社会問題に発展する可能性がある。新聞紙は、早くもこれを書き立て、各地の映画説明者は、死活問題とあって、パラマウント当事者に、厳重な抗議を申し込んだりした。(田中純一郎・同書)