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    東海林の人々と日本近代(七)昭和篇 ②

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2022.09.06

    昭和七年(一九三二)利器六十四歳、利生三十八歳、タツミ三十一歳、祐七歳、カズ四歳、利孝二歳、利雄三十五歳、石山皆男三十二歳、鵜沼弥生三十歳、高橋揚五郎二十八歳、田中伸二十五歳。

    一月十八日、関東軍高級参謀板垣征四郎の指示を受け田中隆吉少佐が工作して、上海で日本人僧侶を中国人に襲撃させた。東京裁判での田中の証言(全面的には信用し難いというのが定説)によれば、川島芳子(愛新覺羅顯㺭)もこの事件に関与した。

    これを口実に二十八日、海軍陸戦隊が上海で中国第十六軍と戦闘を開始した。上海事変である。板垣の目的は、満州から世界の眼を逸らすことだったとも言う。停戦協定が成立するのは五月五日であり、その間に「肉弾三勇士」(江下武二、北川丞、作江伊之助)が生まれ、戦死者七七〇名、負傷者二三〇〇名以上の激戦であった。

    尚、三勇士の名称は、当時陸軍大臣の荒木貞夫が「爆弾三勇士」と命名し、『大阪毎日新聞』、『東京日日新聞』がこれを使い、『大阪朝日新聞』、『東京朝日新聞』が「肉弾三勇士」と称した。新聞やラジオの報道が過熱し、映画では新興キネマ『肉弾三勇士』等六作品(以上)、歌は『爆弾三勇士の歌』(与謝野鉄幹作詞、辻順治作曲)等数十篇が作られたという。


    廟行鎮の敵の陣 我の友隊すでに攻む
    折から凍る如月の 二十二日の午前五時


    命令下る正面に 開け歩兵の突撃路
    待ちかねたりと工兵の 誰か後をとるべきや


    中にも進む一組の 江下 北川 作江たち
    凛たる心かねてより 思うことこそ一つなれ(以下略)


    二月九日、前蔵相井上準之助が本郷駒本小学校前で小沼正(三十二歳)に射殺された。三月五日、三井合名理事長團琢磨が三井本館前で菱沼五郎(二十一歳)に射殺された。犯人たちは井上日召の元に集まって血盟を交わした集団である。だから血盟団事件と呼ぶ。井上日召は三月十一日に自首した。

    井上日召は、民間人が政界・財界の重要人物を殺害し、続けて海軍の協力者らが決起して、天皇を中心とした国家への革新を成立させるのだと考えていた。海軍への根回しは藤井斉がやってくれる筈であった。藤井は昭和維新運動の海軍における指導者である。しかし上海事変に出征し、二月五日に戦死した。同じ海軍側の同志、古賀清志、三上卓は五・一五事件を惹き起こすことになる。

    この間、三月一日には満州国の建国が宣言された。石原莞爾は朝日新聞社が主催した座談会でこんな風に言っていた。


    私は、個人としては独立国家になる以上、都督制とかなんとかは、やるべきではないと思う。それは、いままでの日本は暴戻なる〝シナ〟軍閥のために付属地内に屛息させられていたのであるが、今度は日華両国民が新しい〝満州〟を造るのだから、日本人、中国人の区別はあるべきでない。

    したがって付属地関東州も全部返納してしまって、関東長官は失業状態ですな。そして本当に一緒になってやるのでなければならない。日本の機関は最小限度に縮小し、できる新国家そのものに日本人も入り、中国人も区別なく入っていくのがよろしいと思う。それができなければ〝満蒙〟新国家も何もないと思います。(青江舜二郎『石原莞爾』より)


    しかしそんな石原の「理想」が実現する筈もなかった。三月九日、溥儀が執政となる。溥儀はこの「執政」に拒否反応を示し、「皇帝」に固執したが押し切られた。


    「私は貴国の熱誠なる援助に深く感謝しています。しかしほかのことはともかく、この執政制だけは受け入れるわけにはいきません。皇帝の呼称は私の祖宗が残したものです。もし私がそれを取り消したならば、不忠不孝です」
    「この執政と申しますのは、過渡的なものにすぎません」板垣は十分な同感を示しながら言った。「宣統帝が大清帝国の第十二代の皇帝陛下であられることは、明らかなことです。将来、議会が成立いたしましてから、かならず帝制回復の憲法をかけつするものと信じます。したがいまして、現在の執政は、あくまで過渡期の便法にすぎません」(中略)

    われわれは言い争ったが、ついに一致した結論には達しなかった。(愛新覚羅溥儀『わが半生』)


    五月九日、神奈川県大磯町の坂田山で男女の心中死体が発見された。男は慶応大の学生で、華族調所広丈の孫。女は素封家の娘で二年前まで頌栄高等女学校に通っていた。三光教会の祈祷会で知り合い交際を始めたが、女の両親の反対にあった。そのための心中である。遺体は遺族が引き取りにくるまで、町内の寺の墓地に仮埋葬された。

    ところが翌日、女性の遺体が紛失しており事件は死体盗難事件へと発展するのである。仮埋葬した辺りには女性の衣服が散乱していた。十一日になり、墓地から三百メートル離れた海岸で発見され、火葬場職員が逮捕された。亡くなった女性の遺体はきれいだったという警察の発表により、新聞各紙は二人がプラトニック・ラブを貫いて心中したことを盛んに報じた。特に東京日日新聞は「純潔の香高く 天国に結ぶ恋」の見出しを掲載した。

    こういう事件は必ず模倣を生む。これ以降、昭和十年までに坂田山で心中した者は未遂も含め二百人に上ったという。また翌々月には勝海舟の養嗣子(徳川慶喜の十男)伯爵勝精が愛妾水野マサと心中した。海舟の養嗣子と言っても、海舟の子で早世した小鹿の娘伊代子の婿である。

    五月十四日、チャプリンが来日した。前年に公開した『街の灯』が大好評だったので、十六カ月の長期休暇をとってヨーロッパ旅行を決行し、その休暇を延長しての日本訪問だった。事前に「熱狂嫌い」と宣伝していたにも関わらず、熱狂的なファンに囲まれた。


    ・・・・当日の夕刊は第一頁のほとんど彼のために割愛して、さながら国賓待遇の歓迎ぶりを示し、東京駅に出迎えた群衆は一万名を突破し、揉みくちゃにされたチャップリンは、四百名の警官に守られて死地を脱する思いでホテルへたどり着いた。(田中純一郎『日本映画発達史』)  


    そして翌日、五・一五事件が起きる。この日、チャプリンの歓迎会が首相官邸で催されると新聞報道がなされており、チャプリン殺害も含めて犯行者はこの日を狙ったのである。チャプリンは社会主義者とみられていたのである。しかしチャプリンは首相との面会をキャンセルし、両国国技館に相撲見物に行ったお蔭で助かった。

    翌日チャプリンは首相官邸の現場を見に行ったり刑務所の実情を知るため小菅を視察したりしながら六月二日に離日した。持参した『街の灯』は試写もしなかった。

    襲撃計画は何度か変更されたが、第五次案では、第一組が首相官邸、第二組が牧野内府官邸を襲撃しその後警視庁を襲撃して東京憲兵隊に自首する。第三組は政友会本部を襲撃する。愛郷塾の別動隊は手榴弾で変電所を襲撃することになっていた。当初、愛郷塾の役割は東京市内で爆弾を破裂させることだったが、被害を最小限にとどめるため橘が変電所襲撃に替えたのである。

    首相官邸を襲った第一組は三上中尉、黒岩予備少尉、陸軍士官学校本科生の後藤映範、八木春雄、石関栄の表門組、山岸宏海軍中尉、村山格之海軍少尉、陸軍士官学校本科生の篠原市之助、野村三郎の裏門組である。警備中の田中五郎巡査は撃たれて二十六日に死亡する。犬養首相は「話せばわかることだ」と三上を説得しようとしたが、山岸宏が突然「問答無用」と叫び黒岩勇が犬養の左頭部を撃ち、続いて三上も右頭部を撃った。この第一組はこの後二手に分かれて警視庁、日本銀行を襲うが何の成果も得られずに、憲兵隊に出頭した。

    牧野内府邸には第二組の古賀清志中尉以下五名が向かった。古賀が邸内に手榴弾一発を投げ込んで爆発し、警備警官を撃ち負傷させた。手榴弾はもう一発投げ込まれたが不発だった。

    政友会本部は第三組の中村義雄海軍中尉以下四人が襲った。玄関に、向かって手榴弾を投げ込んで不発、もう一発投げ込んで玄関の一部に損傷を与えただけである。

    奥田秀夫(明治大学予科生で血盟団の残党)は単独三菱銀行本店の裏庭に向かって手榴弾を投げ、外壁の一部に損傷を与えた。首相官邸を襲ったグループ以外は、やる気が無かったとしか言いようがない。

    血盟団員の川崎長光は西田税宅を訪問し、機を見て発砲し、西田に重傷を負わせた。

    犯人が憲兵隊に逃げ込んだと知った丸の内署が署員二十名で憲兵隊に乗り込むと、秦憲兵司令官は「国士として扱え」と命令した。

    愛郷塾の別動隊有志七名は東京府下の変電所六ヶ所(尾久の東京変電所、鳩ヶ谷変電所、淀橋変電所、亀戸変電所、目白変電所、田端変電所)を襲った。配電盤を破壊し、配線を切断するなどの破壊活動を行なったが、単に変電所内設備の一部を破壊しただけに止まり、停電はなかった。変電所に関する知識が不足していたのである。


    私は青年将校たちには何の共感も抱かないが、民間人として事件に加わった愛郷塾の橘孝三郎には関心がある。農村が酷く疲弊していたのは間違いない。

    橘孝三郎は明治二十六年に茨城県東茨城郡常磐村(現水戸市)で生まれた。第一高等学校に入るが中退して郷里で農業に従事する。てエドワード・カーペンター、クロポトキンなどのアナキズム、トルストイ、白樺派、柳宗悦、康有為、とりわけアンリ・ベルクソンの「エラン・ヴィタル」(生命の飛躍、創造的進化)に大きな影響を受けた。単なる右翼ではない。

    大正六年には林正三(孝三郎の妹と結婚)、次兄徳次郎が孝三郎の農場に集まり、近在の人から「兄弟村」と呼ばれるようになる。この頃、「新しき村」にも関心を持つが、実際に農地を耕し、研究して収穫を上げている孝三郎にとっては、所詮都会のインテリのお遊びでしかなかった。孝三郎が開墾を始めた時に三町歩だった耕地は、七町歩にまで広がっていた。兄弟村はやがて愛郷塾に発展する。その基本理念は農本主義に基づく共産的生活である。資本主義に飲み込まれてはならない。


    ・・・・この年の三月迄には、兄弟村を中心に県で支部二十八ヶ所、支部員五百六十名に及ぶ愛郷会ができてゐる。「大地主義」、「兄弟主義」、「勤労主義」をモットオとする「愛郷道」の「精神的開発機関」として農村青年を対象とする啓蒙教化運動である。それに留まらず愛郷畜産購買販売利用組合を本部に作り、肥料、日用品の共同購入、農産物の共同販売をはじめてゐた。(桶谷秀昭『昭和精神史』)


    困難ではあるが、農村の自力更生の道を模索していたのである。この篤実な人が五・一五事件で直接行動に出なければならなかったのは何故か。前年十一月、権藤成卿、農民自治会の下中弥三郎、農民協議会の長野朗、法政大学の小野武夫、武者小路実篤、今東光等と共に、農本主義者の共同戦線「日本村治派同盟」の結成に参加していた。平凡社の下中はこの頃国家社会主義者であった。同盟の共通認識は「反都市」「反資本主義」「反近代」であるが、橘と長野はこの年の二月に脱会している。目指す路線が違っていたのだろう。

    権藤成卿や井上日召からは、青年将校の企てに参加するなと忠告を受けていたにも関わらず、古賀の説得を受けた。井上日召は、「破壊の後の建設」を橘に託したかったようだ。


    古賀の話は執拗を極めた。農民のだれかが起ちあがるのが、このさい必要だともいった。――古賀はのちに、「文藝春秋」(昭和四十二年六月号)に書いている。・・・・「陸軍、海軍、それに、民間と、三者が一体となって改新のために立ち上がることが、私たちの行動に大義名分を付することであった。とくに苦しんでいる農民が止むに止まれず蜂起したという態勢にすることが必要だった。この行動に与える影響がそれで大きくちがってくる。愛郷塾の人たちを仲間に加えたのは、私が無理に引っ張り込んだ、といっていいと思う。」

    孝三郎からみて、古賀はたとえ孝三郎が反対しても実行すると思えた。(中略)この青年を犬死させてはならないと思ったとき、孝三郎の答ははっきりと決まった。(保阪正康『五・一五事件』)


    そして翌日、挙国一致内閣として斎藤実内閣が成立する。政党内閣が終わったのである。

    軍側の裁判では古賀、三上、黒岩に死刑、中村、山岸、村山に無期禁錮等が求刑され、それに対して全国から六十九万にのぼる(あるいは百万以上とも言う)減刑嘆願書が送られた。結局、犬養首相を殺した三上卓をはじめ多くの青年将校が禁錮十五年以下の判決となった。罪は重いが憂国の至情は諒とするという判決理由であった。実際には特赦によって七年程度で出所する。

    これに対し、変電所の一部損傷だけで殺人も犯さなかった橘孝三郎だけが無期懲役となった(昭和十五年に恩赦で出獄)。それ以外も懲役十年から十五年と、海陸軍の犯人に比べて余りに重い。


    橘孝三郎の罪状は、「爆発物取締罰則違反、殺人及殺人未遂」である。しかし彼は勿論、別動隊の愛郷塾生らは誰も殺してゐない。過酷な判決であり、しかし橘孝三郎は控訴せずに服役した。(桶谷秀昭『昭和精神史』)


    七月には第十回オリンピック・ロサンゼルス大会が開かれ、日本人選手百三十一人が参加し、金メダル七個を獲得した。

    十月、拓務省第一次農業移民四百九十一人が満州へ出発した。移民推進派の加藤完治、石原莞爾、東宮鉄男(張作霖爆破のスイッチを押した)等によって、武装する退役軍人を試験移民させる計画である。マスコミが「行け満蒙の新天地」「満州で一旗揚げよ」とマスコミが煽り立て、在郷軍人会が主体となって「満州試験移民」が募集された。資格は三十五歳以下の独身の在郷軍人で農業従事中の者である。

    開拓地は半ば強制的に買収した。この第一次移民は佳木斯(ジャムス)」の弥栄村に移住し、佳木斯屯墾軍第一大隊と呼ばれる。翌年七月には「新日本の少女よ大陸へ嫁げ」と、「大陸花嫁」を募集した。募集は昭和十年まで四次にわたった。


    不慣れな気候風土のなかで、「満人」農民に伍して農作物商品を産出するには、いくつもの問題を打開することが必要だった。①匪賊の襲撃に対する防御の構え、②融資、③耕作地から鉄道への輸送距離の問題、④土地に適した農具と農業技術の習得、⑤何世帯もの集団生活は習慣上の違いからトラブルを抱えがちなこと、等である。移住者たちは、④にはかなりの農業技術の指導が必要なことを訴え、苦力を雇って工作させているのが実態で、⑤も、かなりの障壁となり、初期の移民の四割近くは脱落、離農して不在地主になる人々が出ていたことが報告されている。(鈴木貞美『満州国』)


    十月六日、日本共産党の大塚有章(三十六歳)、西代義治、中村隆一が拳銃をもって川崎第百銀行大森支店に押し入った。奪った金額は三万一千円。この当時の共産党はスパイM(飯塚盈延、変名松村昇)を最高指導者としており、このギャング事件もその指導の元で実行されたのである。Mの目的は共産党を壊滅させることだが、一方ではスパイとして存在するためには党が存続しなければならず、勢力拡大に励んで党員を増やしていた。スパイを操っていたのは特高課長毛利基である。ロシア革命期、サヴィンコフ(ロープシン)のエスエル戦闘団を操ったアゼフを彷彿させる。

    これより以前、三月に日本プロレタリア文化連盟(コップ)が手入れを受け四百名が検挙され、共産党は主要な資金源を失っていた。そこで武器調達資金獲得のために戦闘技術団を作り、強盗、恐喝、詐欺、美人局、エロ写真販売などあらゆる手段を考えていた。大塚有章は河上肇夫人の弟でありまた末川博夫人の兄である。また現金運搬に協力した河上芳子は河上肇の次女で、井上礼子は京都市長であった井上密の次女であった。大塚は懲役十年の刑に服した後、昭和十二年に満州に渡り満映に入る。著書に『未完の旅路』がある。

    このギャング事件は、三十二年テーゼ(天皇制打倒)を受けて党大会を開催するための資金集めを目的としたのではないかと、立花隆『日本共産党の研究』は推測している。十月三十日の熱海には、党中央の幹部は出席を取りやめ、地方党員だけが集まった。熱海伊藤別荘には警官隊が突入して全員が検挙された。東京に残っていた幹部も次々と逮捕された。風間丈吉(共産党委員長)は松村昇と同時に逮捕されたため、その後も長く松村がスパイであることに気付かなかった。

    風間も松村も、モスクワのクートヴェ(東方勤労者共産大学)留学生である。クートヴェ留学生に劉少奇、鄧小平、ホー・チ・ミンがいる。日本人では風間、松村の他に山本正美(リンチ共産党時代の委員長)、野坂竜(参三の妻)、春日庄次郎、袴田里見、国崎定洞(モスクワ在住中スパイとして処刑)等。

    地方での検挙も続き、この時期の逮捕者は全国で千五百人を超えた。こうして非常時共産党は壊滅し、スパイ松村の役目も終わった。


    十二月、鈴木健次郎(二十六歳)が日本青年会館を訪れて面接を受け、大日本連合青年団事務所の嘱託として採用され、雑誌『青年』を担当することになった。鈴木は明治四十年(一九〇七)、秋田県南秋田郡土崎港本山町十三番地に生まれた。私の父の本籍が本山町九番地である。秋田中学を卒業後、山形高校から東京帝国大学法学部法律学科に入学した。在学中にカトリック本郷教会で洗礼を受ける。帝大を卒業した昭和五年は就職難の時代で、鈴木もまともな職業に就くことができず、アルバイトを続けながら糊口を凌いでいたのである。

    下村湖人が大日本青年団講習所の所長になるのが翌八年、「次郎物語」を『青年』に発表するのは昭和十一年で、その時から鈴木は下村に兄事することになる。鈴木が青年教育や戦後の公民館運動に身を捧げる下地はこの時にできた。

    十二月二十六日、東京日本橋の白木屋で出火。地上八階建て、日本初の高層ビル火災である。死者十四人。和服の女店員がロープを使って避難する際、裾の乱れを気にして転落した(とされる)ことから、以後ズロース着用が一般化したという伝説が生まれた。しかしそれは新聞が広めた俗説で、ズロースの着用が一般化されるにはまだ数年かかるという証言がある。

    この年、東北北海道を中心に欠食児童が増加した。全国で二十万人とも言われる。


    大塚金之助・野呂栄太郎・平野義太郎・大森盛太郎編『日本資本主義発達史講座』刊行開始。大槻文彦『大言海』刊行開始。武田麟太郎「日本三文オペラ」(『中央公論』)、林房雄「青年」(『中央公論』)、山本有三「女の一生」(『朝日新聞』)、横光利一「上海」(『改造』)。

    徳山璉・四家文子『天国に結ぶ恋』(西條八十作詞・松平信博作曲)、藤山一郎『影を慕ひて』(古賀政男作詞作曲)。

    稲垣浩監督『弥太郎笠』、小津安二郎監督『生まれては見たけれど』。洋画では『三文オペラ』。


    昭和八年(一九三三)利器六十五歳、利生三十九歳、タツミ三十二歳、祐八歳、カズ五歳、利孝三歳、利雄三十六歳、石山皆男三十三歳、鵜沼弥生三十一歳、高橋揚五郎二十九歳、田中伸二十六歳。

    一月九日、伊豆大島三原山火口に実践女子専門部生徒真許三枝子(二十一歳)が投身自殺し、同級生の富田昌子が見届けた。そして二月七日には松本貴代子(二十一歳)が自殺し、またしても冨田昌子が見届け人となった。このことが報道され、三原山は自殺のメッカになって、五月まで五十人の自殺者を出した。また冨田昌子はメディアの悪意ある報道から精神に異常をきたし、四月二十九日に変死する。

    政府は自殺や厭世観を煽るものとして二月に、ダミアの『暗い日曜日』の発売を禁止したと『昭和史年表』(小学館)や他の資料に記載されているが、ハンガリーでオリジナルの歌Szomorú vasárnapが発売されるのがこの年、ダミアがSombre Dimancheを録音発売するのは昭和十一年(一九三六)だから、二月に発売禁止になる筈がない。何かの混乱がある。

    一月三十日、ヒトラーがドイツ首相となった。第一次世界大戦後、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の党首として人種主義と反ユダヤ主義を掲げ、大正十二年(一九二三)にはミュンヘン一揆をおこして投獄された。出獄後は合法的な選挙により勢力を拡大していた。「人種」「民族」はすぐに全体主義に行きつく。そしてドイツ国民は(中産階級を中心に)ヒトラーを「合法的に」選んだのだ。

    二月十二日、長谷川伸(五十歳)が四十七年振りに「瞼の母」三谷かう(七十二歳)と再会した。かうが再婚した三谷宗兵衛は大正七年に死んでいた。この再会を十五日から各紙が大きく取り上げて記事にした。『東京朝日新聞』の見出しは「奇遇小説以上・互に慕う四十七年・長谷川伸氏と生母・皮肉な運命に勝って再会」であった。


    十二日午後、母のまします家を牛込に尋ねた。尋ねあてて遉に一時ためらったが、駒留めの柵ある門を開き、表玄関に立ってベルを三度押した。やがて内から開かれた硝子格子戸の内にある老婦人を、これぞ母なるべしと直覚した。
    「突然に伺い、お驚かせいたしました。私は長谷川でございます」(長谷川伸『ある市井の徒』)


    しかし母の顔に何の感動も動揺もない。実は聞こえない方の耳に向かって挨拶を言ったこと、また当日、別の長谷川氏が来訪する予定だったことから、母は伸二郎だと認識しなかったのである。認識した後はその夜二時過ぎまで歓談した。母の異なる姉は三谷民子(女子学院院長)、父の異なる弟は三谷隆正(一高教授)、三谷隆信(外交官、後宮内庁侍従長)、妙子は三高教授山谷省夫人、田鶴子は後の東京府知事・日赤社長川西実三夫人。「腕で叩いて独りのぼってきた私の作業境界とは、目にみえねど大きく世界は別だった」が、すぐに兄弟姉妹の交わりが始まった。


    二月二十日、小林多喜二が築地署で虐殺された。直接手を下したのは中川成夫特高係長、毛利基特高課長(戦後、埼玉県警幹部)、山県為三警部(戦後、スエヒロを経営)の三人であった。この日、小林は共産党員三船留吉(特高のスパイ)と会う予定で赤坂の連絡所に赴いたところを逮捕されたのである。

    夜はビラや原稿を書き、昼は官憲の目を盗んでビラを撒いた。その合間には同志との連絡があり、党に入りこんだスパイの調査もしなければならない。捕まらないように頻繁に下宿も変えなければならない。


    私は自分の出掛けて行く処によって、出来るだけ服装をそこに適応するように心掛けた。充分なことは出来なかったが、それは可なり大切なことなのだ。私達はいずれにしろ、不審訊問を避けるためにキチンとした身装りをしていなければならなかったが、然し今のような場所で、八時というような時間に、洋服を着てステッキでもついて歩くことはかえって眼について悪かった。で、私は小ざッぱりした着物に無雑作に帯をしめ、帽子もかぶらずに出たのである。(中略)

    ――私は今一緒に沈んでいるSやNなどの間で、「捕かまらない五カ年計画」の社会主義競争をやっている。それは五カ年計画が六カ年になり七カ年になればなる程、成績が優秀なので、「五カ年計画を六カ年で!」というのがスローガンである。そのためには、日常行動を偶然性に頼っていたのでは駄目なので、科学的な考顧の上に立って行動する必要があった。(中略)

    私はこの頃、どうしても仰向けにゆッたりと寝ることが出来なくなった。極度の疲労から身体の何処どこかを悪くしているらしく、弱い子供のように直ぐうつ伏せになって寝ていた。(中略)

    私にはちょんびりもの個人生活も残らなくなった。今では季節々々さえ、党生活のなかの一部でしかなくなった。四季の草花の眺めや青空や雨も、それは独立したものとして映らない。私は雨が降れば喜ぶ。然しそれは連絡に出掛けるのに傘をさして行くので、顔を他人に見られることが少ないからである。私は早く夏が行ってくれゝばいゝと考える。夏が嫌だからではない、夏が来れば着物が薄くなり、私の特徴のある身体つき(こんなものは犬にでも喰われろ!)がそのまま分るからである。早く冬がくれば、私は「さ、もう一年寿命が延びて、活動が出来るぞ!」と考えた。たゞ東京の冬は、明る過ぎるので都合が悪かったが。(小林多喜二『党生活者』)


    警察は心臓麻痺と発表したが、戻された遺体の状態は余りにも酷かった。全身が拷問によって異常に腫れ上がり、特に下半身は内出血によりどす黒く腫れ上がっていた。母セキは遺体を抱きしめて「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか!」と叫んだ。


    「おやあ、この子、俺にほれたなア」

    ようやく人見知りを覚えた女の子が、覗かれた顔を母親の胸に臥せると、小林多喜二はそう言って笑った。そして数日後に身体中を無情な紫色に滲ませて殺されて帰った。久し振りに、しかし変わった姿で自分の部屋に帰ってきた小林多喜二は、私たちのシャツを脱がす下から、胸も両股も全体紫色に血のにじんでしまっている苦痛の後を、私たちの目と電灯の下にさらした。高円寺馬橋の小林の家に集まるものは、全く逆に警察に検挙されてゆき、葬式にさえ私たちは加わることが出来なかった。(佐多稲子『私の東京地図』)


    佐多稲子の回想を見れば、『党生活者』がそのまま小林の生活ではないとは思うが、党に要請されるの(社会主義リアリズム)はこうした生活だっただろう。小林は革命のためと疑わなかったが、人間としての生活を一切捨てて完成する革命とは何であるか。志賀直哉に嘱望された才能ある作家が、こうした生活の中で文学も痩せ衰えさせていった。

    弁護士団は告訴に向けて遺体解剖を三カ所の大学病院に頼んだが、いずれも解剖されなかった。特高が病院に圧力をかけたか、あるいは病院側が特高を恐れたか。


    二月十四日、国際連盟十九人委員会がリットン報告を採択した。賛成四十二、反対は日本の一、棄権はタイの一である。松岡洋右は採択の結果を受けて演説し、議場を退出した。そして二十七日、正式に国際連盟脱退を通告するのである。しかしリットン報告書はかなり日本に妥協的であり、政府の方針は曖昧にしたまま時間を稼ぐことだった。脱退は松岡の独断、スタンドプレーである。


    日本政府は今や極東に於て平和を達成する樣式に關し、日本と他の聯盟國とが別個の見解を抱いて居るとの結論に達せさるを得ず。然して日本政府は日支紛爭に關し國際聯盟と協力せんとする其の努力の限界に達したことを感ぜざるを得ない。


    三月三日、宮城県金華山沖で、マグニチュード八・一の巨大地震が発生し、高さ二十八・七メートルの津波が襲った。昭和三陸沖地震と呼ばれる。この地震の死者行方不明者は三千六十四人に及んだ。

    四月、新「小学国語読本」が採用され、国語教科書は「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」に変わった。一年生の最初に、単語(以前は「ハナ ハト マメ」)ではなく文章を教えるのが画期的だとされた。但し、サクラ ガ サイタに続くのが「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」であった。

    エノケンの人気独走を恐れた松竹の計画で、浅草六区の常盤座では、古川緑波を中心に徳川夢声、大辻司郎等が《笑の王国》を結成し、旗揚公演を行った。「エノケン・ロッパ」時代に入り浅草軽演劇の黄金時代となる。

    また文京区の護国寺内幼稚園で海沼実が〈音羽ゆりかご会〉を発足させた。川田正子・孝子姉妹が入会するのは昭和十七年である。

    五月二十六日、京都帝大の滝川幸辰教授の『刑法講義』、『刑法読本』を赤化傾向として、文官分限令により休職処分となった。これに抵抗して、法学部教授三十一人に副手を含む全員が辞表を提出した。総長が辞職に追い込まれ、後任の松井元興総長は辞表を出した教授の内、佐々木惣一、宮本英雄、森口繁治、末川博、宮本英脩の六名のみを免官とし、他は辞表の却下とした。しかし却下された教授陣は分裂し、恒藤恭等八名が辞職した。この事件は、弾圧の対象がマルクス主義だけでなく、自由主義にも及んだことを露わにした。

    六月七日、佐野学と鍋山貞親が獄中から「共同被告同志に告ぐる書」(転向声明)を発表し、左翼陣営に衝撃を与えた。但し正確には「転向」とは言えず、コミンテルンとの絶縁宣言と言うべきものであった。三十二年テーゼを批判し、コミンテルンとの絶縁、一国社会主義への転換、天皇制打倒の誤り、戦争の一定肯定が柱である。大東亜共栄圏へ向かう萌芽もあるが、この時点ではある程度は妥当なところだろう。


    その両面を的確に評価できたのは、左翼社会民主主義者たちだった。山川均は、『中央公論』に寄せた「共産党両巨頭の転向」の中で、コミンテルンの指導の誤りは自分たちがつとに指摘していたことで、偶像崇拝者だけがこれを認めようとしなかっただけではないかといい、佐野・鍋山がそれに遅まきながら気づいたことを評価はするものの、コミンテルンにしたがって日本の無産運動をめちゃくちゃにしておいてからコミンテルンの誤りを発見するのは、家を火事で丸焼けにした後で豚の丸焼きの作り方を学ぶようなものだと揶揄した。そして、二人の一国社会主義論はむしろ日本的社会主義論と言うべきで、その中身は、社民党を脱退して「日本国家社会党」を設立した赤松克麿の国家社会主義論ときわめて類縁関係が強いことを指摘した。(中略)

    山川均、河野密が見たように、佐野・鍋山の二人はこれ以後ますます日本主義的傾向を強めていき、「共同被告同志に告ぐる書」にはあった節度を失って、そこに見られた危険な萌芽を全面的に開花させていくのだが、それはもう少し後の話だ。「(立花隆『日本共産党の研究』)


    この結果、「転向」者が続出した。収監されていたものだけでなく、文化人作家の中からも多くの転向者を出した。そして真面目であればあるほど、己の「転向」によって心に深い傷を負った。河上肇は転向声明書を「この一文を以て自らを葬る弔詞となす」と結んだ。中野重治は『村の家』を書いた。


    「それぢゃさかい、転向と聞いた時にゃ、おっ母さんでも尻餅ついて仰天したんじゃ。すべて遊びじゃがいして。遊戯じゃ。屁をひったも同然じゃがいして。(中略)

    お前らア人の子を殺いて、殺いたよりかまだ悪いんじゃ。ブルジョアじゃ何じゃいうても、もっと修養のできた人間は仰山ある。(中略)

    お父つあんらは、死んでくるものとしていっさい処理してきた。小塚原で骨になって帰るものと思うて万事やってきたんじゃ……。」

    「お父つあんは、そういう文筆なんぞは捨てべきじゃと思うんじゃ」(中野重治『村の家』)


    マルクス主義を知らない父親の批判は、裏切りに対する倫理的な批判である。その倫理に、中野の論理はどう対抗できるか。それでも中野は今後も小説を書いていきたいと決意する。


    それは昭和の精神史が孕む思想劇に根ざした或る解きにくいものを暗示している。中野重治は『村の家』においてそれを暗示的に描いた。そしてそれを解くために、父親藤作への負ひ目と畏敬の念をひそかに抱きながら、治安維持法の網の目の張りめぐらされた戦時下の日本を生きなければならなかつた。(桶谷秀昭『昭和精神史』)


    「非転向」を貫いた宮本顕治や徳田球一は何の反省もしなかった。反省しなかった彼らが戦後の共産党を再建するのである。同じマルクス・レーニン主義を抱きながら日本社会党左派(労農派)と日本共産党と、二つの党が出来る原因であった。


    七月十一日、弥生(三十一歳)は熊谷自動車商会を買収し〈やよひ自動車商会〉を設立し独立開業した。高等小学校を卒業して十六年経っていた。住所は秋田市茶町扇ノ丁二十番地。市内随一の繁華街「川反通り」に近く、酔客や芸者衆の需要が見込まれただろう。店舗及自動車譲受に必要な千三百円は弥生の貯金で賄った。増車一台即時払いの二千円は兄弟より借入れた。内訳は村井三百円、利生三百円、利雄五百円、皆男九百円である。


    八月から石坂洋次郎が「若い人」を『三田文学』に連載し、これが石坂の出世作になる。この当時の石坂は秋田県立横手中学の教員である。農村の疲弊は続いているが、小説にその影響は見られるだろうか。ヒロインに観念的なセリフを連発させる、学究委員会のような小説が、何故、六十年代半ばまで映画やテレビドラマに頻繁に登場したのか、私自身は長い間不思議に感じていた。最近、三浦雅士がこんなことを書いている。無条件で承認するわけではないが、一つのヒントとして記しておく。


    ・・・・もし『青い山脈』が戦後民主主義的であるならば、石坂は戦前の昭和八年すなわち一九三三年、「三田文学」に『若い人』初回を発表した段階で、すでに戦後民主主義的だったことになる。雰囲気から何から、『青い山脈』は『若い人』にそっくりなのである。いちばんそっくりなのは、女性こそ日本の主役だと思い込んでいる、作者のその思い込みの強さがそっくりなのだ。(中略)

    ・・・・戦後民主主義的だったのは石坂だけではない。小説発表直後に映画化を望み、それを喜んで見に行っていた日本の一般大衆がじつはすでに十分に戦後民主主義的だったのだ、ということを意味する。(三浦雅士「石坂洋次郎 マルクス主義と民俗学の対立を生きる」筒井清忠編『昭和史講義 戦後文化篇』より)


    その内実は、朝日平吾に見たように平等化、平準化への熱望であり、それによって生まれる同調圧力であったのではないか。それを三浦のように、「戦後民主主義的」なるものとするならば、それは正しいだろう。

    東海林家も生活の余裕ができたようだ。大阪暮らしにも慣れ、利生(三十九歳)は趣味のグループに加わっている。池田界隈や瓦斯会社の仲間が集まり、雑俳、狂歌、情歌などを作る。利生の作は下記のようなものである。作品の良し悪しは言う必要がないだろう。


    松風君送別狂歌  松が枝の梢を渡るそよ風は君萬歳と吹き送るらん
    雑俳折り ムクイ 六つの花花壇の枯木を生かしけり
    雑俳 カサ    添ひとげて見れば左程でなかりけり


    八月九日には第一回防空大演習が実施された。こんなものは全く役に立たないと、桐生悠々「関東防空大演習を嗤ふ」(『信濃毎日新聞』)が痛烈に批判した。これに対して信州郷軍同志会が『信濃毎日新聞』の不買運動を展開したため、桐生悠々は退社を強いられた。


    だから、敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである。この危険以前に於て、我機は、途中これを迎え撃って、これを射落すか、またはこれを撃退しなければならない。戦時通信の、そして無電の、しかく発達したる今日、敵機の襲来は、早くも我軍の探知し得るところだろう。これを探知し得れば、その機を逸せず、我機は途中に、或は日本海岸に、或は太平洋沿岸に、これを迎え撃って、断じて敵を我領土の上空に出現せしめてはならない。与えられた敵国の機の航路は、既に定まっている。従ってこれに対する防禦も、また既に定められていなければならない。この場合、たとい幾つかの航路があるにしても、その航路も略予定されているから、これに対して水を漏らさぬ防禦方法を講じ、敵機をして、断じて我領土に入らしめてはならない。


    こうした作戦計画の下に行われるべき防空演習でなければ、如何にそれが大規模のものであり、また如何に屡しばしばそれが行われても、実戦には、何等の役にも立たないだろう。帝都の上空に於て、敵機を迎え撃つが如き、作戦計画は、最初からこれを予定するならば滑稽であり、やむを得ずして、これを行うならば、勝敗の運命を決すべき最終の戦争を想定するものであらねばならない。壮観は壮観なりと雖も、要するにそれは一のパッペット・ショーに過ぎない。特にそれが夜襲であるならば、消灯しこれに備うるが如きは、却って、人をして狼狽せしむるのみである。科学の進歩は、これを滑稽化せねばやまないだろう。何ぜなら、今日の科学は、機の翔空速度と風向と風速とを計算し、如何なる方向に向って出発すれば、幾時間にして、如何なる緯度の上空に達し得るかを精知し得るが故に、ロボットがこれを操縦していても、予定の空点に於て寧ろ精確に爆弾を投下し得るだろうからである。この場合、徒らに消灯して、却って市民の狼狽を増大するが如きは、滑稽でなくて何であろう。


    時事新報社が主催し、東京市が後援した「東京音頭盆踊り大会」が芝公園で開催された。大正末期から全国に「新民謡」が続々と作られていた。それまで東京に盆踊りはなく、前年に『丸の内音頭』として作られたが、美松百貨店のCMソングであり、盆踊りには美松百貨店で揃いの浴衣を買った者しか参加できなかった。この年にその詞を改めて『東京音頭』(西條八十作詞・中山晋平作曲)と作り変えられ、大ヒットした。今度は百貨店の縛りがない分、地方出身者が多数参加した。


    九月、利雄が病を得て芝浦製作所を退職した。何の病であったか分からない。妻のほか子女六人の大家族である。生活の困窮が予想された。

    秋になりカズが疫痢に罹った。疫痢は二歳から六歳頃の幼児が罹り、肺炎と並んで幼児死亡の二大原因だったという。


    やっと命を取り留めたのだと、成長してから聞かされた。入院中、回復期になって窓の外の赤い柿の実をみたのが、鮮明に記憶に残っている。多分物心ついてからの初めての記憶であろうか。(カズ「生い立ち」)


    この頃、利器は五年程も中断していた日記を再開しようと、洒落たデザインの縦罫のノートを買い、一ページ目に書いた。


    私は三十歳の年より、夫のすすめによって日記を付けましたが、六十歳の十二月(昭和三年)、皆男の家の昭男(テルオ)産れるとて手つだいに行きました。その頃より、もう隠居ゆゑに、めんたうな日記などやめやうと思って、その年いっぱいで止めて居りまして、今年六十五歳になりますが、年老るにつれ、何となく、心ぼそいやうな淋しいやうなかんじがするので、又今年九月一日よりはじめます。此れは一に淋しさを志のぎ、また物わすれしてこまるから、何によらず書ておき度と思ひ、日記をはじめました。此れはよきに付、あしきに付、よろこび事も心ぱい事も、人の来た事も、孫等の事も、各地より手紙が来た事も、又此方より出したことや、いろいろ自分の思ったことなどを志るし、其日々々の私のともと思ふのです。


    この年、台北高等学校長を昭和六年に辞めていた下村湖人(明治十七年生)が、田澤義鋪(明治十八年生)が主催する日本青年館別館「浴恩館」に設置された大日本青年団講習所の所長となった。当時、大日本連合青年団本部の編集部に所属していた酒井三郎は、下村が入って来た時のことを回想している。


    私が入って間もなく、下村虎六郎と言う人が、青年講習所所長として入ってきた。私たち若い者は、こんな老人に青年の指導ができるものか、と言い合った。この人は、のちの『次郎物語』の作者下村湖人で、作品年譜を見ると、青年団に来たのは、まだ四十代であった。私たちは四十台を相当な年齢と見るほど若く、気負っていたのだ。(酒井三郎『昭和研究会』)


    田澤、下村の人脈と、後に近衛文麿のブレーンとなる後藤隆之助、酒井三郎の人脈がここで交差することになる。

    田澤は明治末期の地方改良運動に携わった少壮内務官僚である。二十五歳で静岡県安倍郡へ出向し郡長に任命されて以来、疲弊した地方農村の立て直しのために人的育成が急務であると考えた。学校教育とは無縁の地方勤労青年のための育成組織として、大日本青年団を作ったのである。実践のあり方とその風貌は、下村湖人『次郎物語 第五部』に「田沼先生」として描かれる。


    田沼さんというのは、朝倉先生が学生時代から兄事し崇拝さえしていた同郷の先輩で、官界の偉材、というよりは大衆青年の父と呼ばれ、若い国民の大導師とさえ呼ばれている社会教育の大先覚者で、その功績によって貴族院議員に勅選された人なのである。次郎はまだ一度もその風貌に接したことはなかった。しかし、朝倉先生の口を通して、およそその人がらを想像していた。先生のいうところでは、「田沼さんは、聖賢の心と、詩人の情熱とをかねそなえた理想的な政治家」であり、「明治・大正・昭和を通じて、日本が生んだ庶民教育家の最高峰」だったのである。(中略)

    田沼先生は、塾財団の理事長という資格で、開塾式にのぞみ、一場のあいさつを述べたのであるが、次郎は、仏像の眼を思わせるようなその慈眼と、清潔であたたかい血の色を浮かしたその豊頬とに、まず心をひきつけられ、さらに、透徹した理知と燃えるような情熱とによって語られるその言々句々に、完全に魅みせられてしまったのであった。

    「錦を着て郷土に帰るというのが、古い時代の青年の理想でありました。もしそれで、郷土そのものもまた錦のように美しくなるとするならば、それもたしかに一つの価値ある理想といえるでありましょう。しかし事実は必ずしもそうではなかったのであります。錦を着て郷土に帰る者が幾人ありましても、郷土は依然としてぼろを着たままであり、時としては、そうした人々を育てるために、郷土はいっそうみじめなぼろを着なければならない、というような事情さえあったのであります。今後の日本が切に求めているのは、断じてそうした立身出世主義者ではありません。じっくりと足を郷土に落ちつけ、郷土そのものを錦にしたいという念願に燃え、それに一生をささげて悔いない青年、そうした青年が輩出してこそ、日本の国士がすみずみまで若返り、民族の将来が真に輝かしい生命の力にあふれるのであります。」


    橋川文三は、明治末期の地方改良運動の背景にある、国家的な危機感が、後の「昭和維新」に繋がって行くのではないかと見ている。


    ・・・・・田沢の政治思想を系統的にたどる必要はここではない。ただ昭和維新の思想に対して田沢がどのような姿勢をとったかを簡単に言えば、維新というよりも立憲主義の擁護とその拡充こそがその根本精神であった。その意味では大正・昭和期を通して軍部の威圧やマルクス主義の圧倒的風潮のいずれにも屈することのなかった強健なリベラリストの系譜に数えてもよいし、明治の健全な進歩主義を継承した人間の一人とみなしてもよい。(橋川文三『昭和維新試論』)


    満州国建国と共に開局した奉天放送局では、役者として不遇で満州に渡っていた森繁久彌がアナウンサーをしていた。そしてこの年、中国人への宣撫のために「満州新歌曲」と名付ける国民歌謡番組が企画された。


    新番組「満州新歌曲」は、古くから中国に伝わる民謡や流行歌をアレンジしたり、新曲を募集したりして、満州国の国民歌謡に指定してくりかえし放送する「日満親善」「五族共和」を唱道する教宣活動の一環だった。(李香蘭・藤原作弥『李香蘭 私の半生』)


    奉天放送局は専属歌手を探していたが、その条件は、中国人少女であること、北京官話を話す事、日本語が話せることだった。しかしそんな中国人少女はいない。このためにスカウトされたのが十四歳の山口淑子だった。父は満鉄に勤務し、淑子に中国語を徹底的に教育した。淑子はこの頃、肺湿潤を回復し呼吸器を鍛えるためにマダム・ボドレソフにクラシック歌曲を習っていて、年に一度のマダムのリサイタルの前座を勤めたのを放送局員が見ていたのである。

    父親は、淑子を政治家の秘書官か通訳にしたいと考えていたが、歌が好きだし「お国のため」だからと母親が勧めた。父が親しくしていた中国人が、李香蘭の名を付けてくれた。


    ・・・・満州国が日本人の手で作られた。一九三三年、その満州国の国策である「満州新歌曲」をうたう歌手・李香蘭がデビューしたが、その正体は山口淑子である日本人の私だった。何も知らぬ少女だったとはいえ、私も満州国同様に、日本人の手で作られた中国人だったのである。(『李香蘭 私の半生』)


    この年、皆男はダイヤモンド社編集局石山皆男名義で『我等の誇り』(ダイヤモンド社)を出している。皆男の名義は、編集局の代表としてのものであろう。目次だけを見るとこんな内容だ。


    第一編 我等の手に輝く産業日本
    一、 我國は既に輕工業を完成し重工業、化學工業の國となつた
    二、 我が産業はどうして斯くも偉大になつたか、其の直接原因
    三、 諸君は大いに自己の力を誇れ、先輩が爲し遂げた數々の偉業
    第二編 努力して群を拔いた實例


    日本はちょうど第二次産業革命期で、軍需産業の隆盛にともなって軽工業から重工業への転換が進み、機械や金属産業、化学産業が発達した。というより、農村の疲弊を代償にして重工業を発展させていく時期である。

    この年、ヨーヨーが大流行し、各地で競技会が開かれた。最盛時には月に五百万個製造したという。但しこの流行は一年限りで終わった。

    柳田國男『桃太郎の誕生』。尾崎士郎「人生劇場」(『都新聞』)、石坂洋次郎「若い人」(『三田文学』)、谷崎潤一郎「春琴抄」(『中央公論』)、宇野千代「色ざんげ」(『中央公論』)、広津和郎「風雨強かるべし」(『報知新聞』)。

    溝口健二監督『滝の白糸』(入江たか子主演)、『祇園祭』、伊藤大輔監督『丹下左膳』。洋画は『制服の処女』、『巴里祭』。

    小唄勝太郎・三島一声ほか『東京音頭』(西條八十作詞・中山晋平作曲)、小唄勝太郎『島の娘』(長田幹彦作詞・佐々木俊一作曲)、松平晃『サーカスの唄』(西條八十作詞・古賀政男作曲)、ミス・コロンビア『十九の春』(西條八十作詞・江口夜詩作曲)。


    昭和九年(一九三三)利器六十六歳、利生四十歳、タツミ三十三歳、祐九歳、カズ六歳、利孝四歳、利雄三十七歳、石山皆男三十四歳、鵜沼弥生三十二歳、高橋揚五郎三十歳、田中伸二十七歳。

    一月、東京日比谷に東京宝塚劇場が開場した。地上六階、地下一階、収容人数二千八百十人。前年には日劇、翌月には日比谷映画劇場が開場し、有楽町が新しい娯楽街となった。

    秋田工業学校ラグビー部が、第十六回全国中等学校ラグビー・フットボール大会で初優勝した。参加十二校、秋田工業は第一回戦シード、二回戦で慶應普通部、準決勝で神戸二中、決勝で京城師範を破っての優勝である。初出場以来これまで五年連続出場しており、これ以後出場回数六十九回、優勝回数十五回はともに全国最多を数えている。この頃は花園ではなく甲子園南運動場で行われた。OBとして利生は応援に行っただろう。

    二月、利生三女ミエ(大塚)が生まれた。三月には揚五郎が高橋富子と結婚した。同じ高橋姓だが別の家である。

    ダイヤモンド社が出版部を設立し、皆男が初代出版部長に就任した。


    石山(賢吉)は「雑誌経営五十年」の中で、「なにぶんにも出版は難事業である。雑誌も難事業だが、出版はそれ以上である。雑誌は発行して軌道に乗ると毎月の変化はそれほど激しくはない。だが出版は出す一つ一つの書籍がことごとく一本勝負である。売れると思って出したものがさっぱり売れないと倒産せねばならない。また、出した書籍が売れても、印刷部数に比較してある程度売れなければやはり損である。この損がいくつも重なればやはり倒産せねばならない。出版は、いかなる書籍を出すかが第一にむずかしい。その印刷部数を決定するのもむずかしい。これに成功するには出版の知識と経験が必要で、その人を得なければならない」と語っている。

    初代の出版部長は石山皆男が担当し、産業全書シリーズ、実務全書シリーズを出し当てたが紙の統制が行われ中絶してしまった。(ダイヤモンド社「石山賢吉物語」)


    三月一日、溥儀を皇帝に、満州国が帝政を開始した。溥儀は喜んで、清朝皇帝の竜袍(光緒帝が身に着けたもの)を北京から取り寄せたが、関東軍から拒否された。


    ・・・・ところが関東軍は、日本が承認したのは「満州国皇帝」であって、「大清皇帝」ではない、したがって私は清朝の竜袍を着てはならない、関東軍の指定する「満州国陸海空軍代大元帥正装」を着ることができるだけだ、と言った。(愛新覚羅溥儀『わが半生』)


    関東軍は、これが清朝の再興ではなく、新国家の誕生であることを強調したいのである。ただし天に祀る儀式だけは認めたので、早朝長春郊外杏花村に土盛りした「天壇」を作り、竜袍を纏って天に報告した後、戻って大元帥の正装に着替えて即位式に臨んだ。

    四月に入ると、帝国人絹会社の株式売買をめぐる贈収賄疑獄事件が起こった。帝人社長はじめ大蔵省幹部などが逮捕され、斎藤実内閣は七月に総辞職する。後に関係者は全て無罪となるのだが、これは平沼麒一郎の使嗾で若手検事が捏造した事件だと言われた。

    四月二十一日、渋谷にハチ公の銅像が建てられ、ハチ公も除幕式に参列した。ハチ公が待ち続けた飼い主上野英三郎は大正十四年五月二十一日、帝大農学部教授会の後、脳溢血で急死していた。この年、尋常小学校二年の修身教科書に「恩ヲ忘レルナ」としてハチ公のエピソードが採用された。

    六月、陸軍省がカーキ色を国防色とした被服統一運動を開始した。

    八月には同潤会江戸川アパートが新宿区小川町に完成、東洋一と言われた。六階建ての一号館と二号館からなり、エレベーターや集中暖房、ラジオや電話等を完備し、娯楽室や共同浴場なども備え、中には部屋にガス風呂が備えた部屋もあった。アパートの中央には広い庭があり、世帯向け百二十六戸、単身者向け百三十一戸。家賃は十六円~四十五円と高めだったが競争率は十二倍となった。

    八月二日、ドイツのヒンデンブルグ大統領が死去、ヒトラーが大統領を兼任しやがて総統へと駆け上って行く。

    吉本興行が東京新橋演舞場で「特選漫才大会」を開催した。吉本の東京進出の初めで、アチャコ、エンタツの「しゃべくり漫才」が人気になった。しかしアチャコ、エンタツのコンビの命は短かった。


    大阪の漫才は、大阪弁と切りはなすことのできないローカルなものである。

    それを初めて全国的なものにしたのは、横山エンタツ・花菱アチャコのコンビの功績であった。

    コンビの正式な発足は昭和五年、新橋演舞場での成功が昭和九年八月二十一日、解散がその直後だから、私はナマのエンタツ・アチャコを知らない。

    アチャコの自伝によれば、八月二十一日から十日間、演舞場の「特選漫才大会」で演じた『早慶戦』は、大阪に戻ってすぐ、法善寺花月から最初の寄席中継として全国の流され、レコードにもなって、全国的なヒットとなった。ラジオの中継をすますと、アチャコは直ちに中耳炎で入院した。

    アチャコがひと月入院しているうちに、エンタツは杉浦エノスケと組んで漫才をやっていた。アチャコはやむなく、千歳家今男と組み、エンタツ・アチャコという空前の名コンビハ、エンタツ・エノスケ、アチャコ・今男という二組に別れることになる。(小林信彦『日本の喜劇人』)


    九月二十一日、室戸台風が大阪に上陸した。死者行方不明者三千六十六人、家屋全半壊四万二千戸。大阪市の小学校の七割以上が大破倒壊した。利生の長女祐は小学校一年生だから、それに遭遇したかも知れない。

    十月一日、「国防の本義とその強化の提唱」(いわゆる「陸軍パンフレット」)が発行された。池田純久少佐、四方諒二少佐が作成し新聞班の検討を経たのち、永田鉄山軍務局長の承認、林銑十郎陸軍大臣の決裁を得たものだ。つまり統制派メンバーによって、国家社会主義、計画経済推進が公に論じられたのである。本来、軍人は政治に関与すべきでないというのが建前であったが、それが一転して堂々と国策に介入したのである。

    十一月、満州国では新京~大連間の七百一キロを八時間半で結ぶ、特急あじあ号が運行された。平均時速は八十キロ、最高速度は百二十キロとも百五十キロとも言われる。全車冷房完備、食堂車や展望車両も備え、将来的にはシンガポールまでの開通の計画があった。

    十一月二日、ベーブルースやルー・ゲーリックら米大リーグの選抜チームが来日した。日本の選抜チームとの対戦成績は、アメリカ大リーグチームの十戦十八勝で、前回に引き続き日本は手も足も出ない。ただ第九戦に先発した沢村栄治(十八歳)はゲーリッグにソロ本塁打を浴びたものの九奪三振、〇対一と好投した。これをきっかけに日本で初めてのプロ野球が誕生する事になる。

    十二月二十六日、大日本東京野球倶楽部創立。総監督は市岡忠男、監督が三宅大輔と浅沼誉夫、投手に沢村栄治、青柴憲一、スタルヒン、畑福俊英、捕手は久慈次郎、倉信雄、内野手が永沢富士雄、津田四郎、三原修、江口行男、水原茂、苅田久徳、外野手が二出川延明、矢島粂安、中島治康、堀尾文人、新富卯三郎、山本栄一郎、夫馬勇。

    東北地方は明治三十八年以来の大凶作、岩手では欠食児童が二万四千人と発表された。秋田県では欠食児童救済のため、いなご、どんぐりなどの調理研究を実施した。その一方、国産パーマネント機第一号が売り出され、一般家庭婦人にパーマが広がっている。東北の農村と都会との落差が拡大していると言えるだろう。


    後藤隆之助が昭和研究会を発足させた。正式には昭和十一年に設立趣意書を発表することになる。将来近衛文麿が内閣を樹立する時のための国策研究機関であり、近衛と後藤が相談して、研究部門の代表に蠟山政道を据えた。

    発起人には、蝋山のほか有馬頼寧、河合栄次郎、佐藤寛次(農学者)、那須皓(農学者)、前田多門(朝日新聞論説委員)、後藤隆之助(大日本連合青年団)、井川忠雄(大蔵官僚)、酒井三郎(大日本連合青年団)がなり、この中から推薦されて加わったのは、新木栄吉(日銀)、河上丈太郎、松岡駒吉(労働運動)、関口泰(朝日新聞論説委員)、田澤義鋪(大日本連合青年団理事長)、田辺加多丸、東畑精一(農業経済学者)、田島道治(銀行家)であった。資金は志賀直方が援助した。やがて高橋亀吉、三木清、尾崎秀実等各分野の論客が参加して来る。

    ここに挙げた殆どは、大日本連合青年会の本部に設けられた農村問題研究会と青年の思想研究会に集まっていた仲間である。大日本連合青年会(初代理事長・一木喜徳郎、二代理事長・後藤文夫、三代理事長・田澤義鋪)は影響が大きいのである。

    近衛と後藤の交遊は京大時代に始まった。同期だった一高時代には殆ど接触はなかったらしい。


    ふたりが接触を持ったのは、近衛が一高を出てから京大に行き、後藤もまた落第を重ねて後を追う形で、京大に入学してからのことであった。ある日、共通の友人が後藤に「近衛はひとりぼっちで、かわいそうだから遊びに行ってやれよ」と言った。その「かわいそうだから」という言葉が妙に耳に残ったので、後藤が出かけて行ったところ、近衛は留守であった。それから数日後、今度は近衛が後藤を訪ねてきて、初めて言葉を交わし、その後食事に呼ばれたりして、交際が始まった。(酒井三郎『昭和研究会』)


    平野義太郎『日本資本主義社会の機構』、亀井勝一郎『転形期の文学』、中原中也『山羊の歌』、林房雄『青年』、萩原朔太郎『氷島』、和辻哲郎『人間の学としての倫理学』、広津和郎『風雨強かるべし』。小林秀雄「ドストエフスキーに関するノオト」(『文学界』)。

    阪本牙城「タンクタンクロー」(『幼年倶楽部』)

    野村芳亭監督『婦系図』、五所平之助監督『生きとし生けるもの』、小津安二郎監督『浮草』。洋画は『街の灯』、『会議は踊る』、『にんじん』。

    東海林太郎『赤城の子守歌』、『国境の町』、ミス・コロンビア『並木の雨』、ディックミネ『ダイナ』、松平晃『急げ幌馬車』


    昭和十年(一九三四)利器六十七歳、利生四十一歳、タツミ三十四歳、祐十歳、カズ七歳、利孝五歳、ミエ二歳、利雄三十八歳、石山皆男三十五歳、鵜沼弥生三十三歳、高橋揚五郎三十一歳、田中伸二十八歳。

    二月十八日、貴族院本会議で菊池武夫(男爵・元陸軍中将)が美濃部達吉の天皇機関説を攻撃した。菊池は前年には中島久万吉商工大臣が雑誌「現在」に載せた「足利尊氏」で、「逆賊」である尊氏を礼賛しているとして、議会で糾弾し辞任においこんだ。菊池は姓で分るように南朝の臣の裔である。先祖の仇を討とうとしたか。

    二十五日には美濃部本人が機関説の正統性を論じたが、右翼と政友会も批判に同調し問題になった。政友会は内閣を潰す機会があれば材料は何でもよいのである。結局政府は八月には「天皇機関説はわが国の国体に悖る」とする国体明徴声明を出すことになる。昭和天皇が機関説を受け入れていたことはよく知られている。

    丸谷才一『文章読本』がこの問題に対する大内兵衛の文章を紹介している。


    美濃部博士の学説といえば、大正八年より昭和十年までの日本における、政府公認の学説である。という意味は、この一五年間に官吏となったほどの人物は、十中八九あの先生の憲法の本を読み、あの解釈にしたがって官吏となったのである。そしてまた、その上司はそれを承知して、そういう官吏を任用していたのである。これは行政官だけのことではない。司法官も弁護士も同様である。しかるに、いったん、それが貴族院の一派の人々、政治界の不良の一味、学界の暴力団によって問題とされたとき、全ての法学界、とくにそれに直接した人々がどういう態度をとったであろう。上は貴族院議員、衆議院議員、検事、予審判事、検事長、検事総長等々より、下は警視総監、警視、巡査にいたるまで、彼らのうちの一人も、みずから立って美濃部博士の学説が正当な学説であるというものがなかった。いいかえれば、自分の学説もまたそれであり、自分は自分の地位をかけても自分の学説を守るというものがなかった。もう一度いいかえれば、美濃部先生の学説はその信奉者たる議員、官吏のうちにさえ、その真実の基礎をもたぬものであった。だからこそ、彼らは、上から要求されれば自己の学説をすてて反対のことをやったのである。そしてそれについて自己の責任を感じなかったのである。なんともバカらしい道徳ではないか、何ともタワイのない学問ではないか。そんなことから、私は固く信じている、日本の法学は人物の養成においてこの程度しかなしえなかったのであると。同時に、そういう学問ならば、いっそないほうがよいのではないか。そのほうが害が少ない。(大内兵衛『法律学について』)


    三月、保田與重郎が『日本浪漫派』を創刊した。創刊メンバーは神保光太郎、亀井勝一郎、中島栄次郎、中谷孝雄、緒方隆士。他に同人として伊東静雄、太宰治、檀一雄、駒田信二、浅野晃、中河與一が参加した。戦後、竹内好などごく一部を除いて殆ど黙殺されて来たこの雑誌を取り上げるのは、橋川文三『日本浪漫派批判序説』があるからだ。

    保田與重郎の文章が、ある世代の知識人予備軍(例えば大正十一年生まれの橋川文三)に与えた衝撃の大きさは、今では想像もできない。保田の文章で私が手に取ったのは僅かだが、その晦渋な、意味不明な日本語はとても読み続けることができなかった。しかし橋川は、その背景に当時の時代背景としての「挫折感」と、後の三島由紀夫に通じるものを見ているのである。


    ・・・・この時代に、我国の思想史にこれまで見られなかったような型の反知性主義の浸潤が見られた。それは、一般にロマン主義とよばれる明治以降の文学・思想現象ともことなり、その徹底性と急激性において極度の集約性を帯びていた。この事情は、思想史的に十分に究明されていると思われないものであるが、かりにその傾向の典型的代表者を小林秀雄とすることは間違いないであろう。(中略)

     「・・・・昭和初年にはジャーナリズムを風靡し、天下の青少年を傘下にした〔社会主義〕運動も昭和七八年ごろ青年の生活が最悪あの失業状態を経験したとき、この青年のヒュマニズムに立った運動はじつに極端に頽廃化し、デスパレートとなり、そのデスパレートなものを、真向に権力に向かって叩きつけるすべを見失っていたのである。青年のデスパレートな気持は、その時代よりずっと最近にまでつづいた。・・・・・即ち日本浪漫派の運動は・・・・時代に対する絶望を生き抜くために、文芸の我国に於けるあり方を発見したということが、最大の身上であると私は考える。(『近代の終焉』所収「我国に於ける浪漫主義の概観」)

    これらの文章にいわれる「青年のデスパレートな気持」「一等若い青年のあるデスパレートな心情」というのは、実は戦争、敗戦、戦後の次期を通じて、つねに再生産されたなつかしい昭和精神史の基音にほかならない。(中略)

    ここで、私のひそかな仮説をいえば、私は日本ロマン派は、前期共産主義の理論と運動に初めから随伴したある革命的なレゾナンツであり、結果として一種の倒錯的な革命方式に収斂したものにすぎないのではないかと考えている。・・・・・少なくとも、現実的に見て福本イズムに象徴される共産主義運動が政治的に無効であったことと、日本ロマン派が同じく政治的に向こうであったこととは、正に等価であるというほかはないのはないか? いずれもが、大戦後の急激な大衆的疎外現象――いわゆる、マス化・アトマイゼーションをともなう二重の疎外に対応するための応急菜「過激ロマン主義」の流れであったことは否定できないのではないか? (橋川文三『日本浪漫派批判序説』)


    カズは幼稚園に通いだした。小学校に通う祐と一緒に通園した記憶があるというから、私立の小学校付属幼稚園だったか、あるいは大阪府池田師範学校付属小学校に幼稚園が付属していたか。

    利生は前年八月に胃潰瘍で入院し一度は退院していたが、三月頃から再発の兆が現れた。しかし仕事が忙しく休養もせず、六月に診断を受け胃癌と分った。皆男始め家族はどうすることもできなかったが、弥生だけは奇跡を信じていた。


    (昭和十年六月二十一日付 弥生発利生宛て)

    十八日御差出の御手紙正に拝見、兄上の容態を知りただただ驚くの外なく、母上始め姉上等の心労誠に誠にお察し申上べき言葉も無之次第、只、此上は何かにすがりても、兄上の一命をつなぐべき方法を講ぜねばならぬと存じます。

    その方法を申上る順序として私の容態から申上げます。始め五月二十日頃より小便の出が悪くなり、腰が引つり痛み、赤十字の診断では腎臓炎らしいとのことで、服薬したるもけたる処、三日目位より快方に向ヒ、二週間にして殆ど全治し、今日から普通の仕事をしております。全く不思議といはねばなりません。

    就ては兄上も、右の藤井療法を受けらるる様、切に希望いたします。(中略)

    想像するに、大阪には兄上の体を治してくれる医者はないものと断定いたします。藤井療法以外に頼みとするものはありませんから、必ず治すものと信じて下さい。(中略)

    私は兄上の体はこの療法で必ず治ると信じて居ります。(中略)母上もそう信じて、誰が何というても、万難を排して決行して下さい。若し母上が、他の療法を受けさせた場合は、弥生は一生うらみとします。


    (六月二十七日付)

    兄上はまだ藤井療法にかかる気持ちはありませんか。日夜心配で、とてもとても気持がイライラしてなりません。私の気持を何卒、察して下さい。何とかして兄上の身体を回復さして見度いと思うのです。周囲の皆様も看病でおつかれと思いますが、離れて気をもんでいる私は尚更苦しいのです。私は一日午後七時三十分、大阪駅へ着きます。私の行く前に、何とかして治療して下さることは出来ませんか。


    藤井療法とは何か。『藤井療法の真価と輝く寿像』(昭和十二年に藤井会から刊行)があり、国会図書館デジタルコレクションに含まれているが、見ることができない。いずれ怪しげな民間療法だと思われるが、弥生が信じ込んでいるので止むを得ない。何をしても手遅れだと知っているから、皆男たちも弥生に任せることにしたのだろう。亀田に住むタツミの母親からも弥生に手紙が届いていた。要旨は以下の通り。


    亀田富田に住む貧しいばばで、祈祷うらなひをする人がいる。よく当るので今日も参り、ローソクを神前に供える。その燃え方で判断する。私の方はよく燃えない、弱弱しい。曰く、この人は大病人である。だが、とぼり方は絶望でない。次に残片をねじ盆におき、その上に幣束をかざすと、残片が飛び付くが、また落ちる。この判断も、重病ではあるが絶望でない。また不思議なことに、ある人は医者以外の者を頼んで手当をしようとしている。これがきくと回復する、とそのばばが云う。

    こんなことに迷うものはよくないが、あなたの大阪への申入れの件も、大阪の人達は必ず実行するよう重ねておすすめ下さい、病人はあきらめて居るとの判断です。


    そして弥生は大阪に赴いて利生を秋田に連れ帰すこととした。七月十六日の三等寝台車で大阪駅を出発し、十七日朝品川駅着。一日だけ皆男宅で休憩し、十八日夜ふたたび三等寝台車で上野を発ち、翌十九日秋田駅に着いた。上野から秋田までは村井紀子が付添に加わった。紀子は東京で看護婦をしている。


    その年の夏、父発病、胃潰瘍との病名だが、たぶん癌ではなかったか。暑さをのがれて、秋田の弟(鵜沼)の家で療養する。祖母が付き添っている。療養の甲斐なく、僅か四十一歳の若さで八月十六日死去、奇しくも祖父と幼いときに死亡した長男の命日だったのも、不思議な思いだ。それより先、危篤の報に親子五人秋田へ急ぐ。三等車の堅い板の感触が長旅への不安を一層かきたてた。(カズ)


    兄を自宅に引取ってから、弥生は思うとおりの治療を施した。その点は弥生によって満足であったと思う。しかし、天命ついに及ばず、八月十六日息を引き取った。父利頴の命日とまさしく同月同日であった。

    八月十六日正午死去。十七日火葬、十九日亀田太平寺で葬儀埋骨した。会葬者は廿九名、全親族が集まった。

    謙光院大應利生居士、行年四十一歳。浪速瓦斯では池田岡町出張所主催により池田大広寺で盛大な追悼会を九月五日催して個人を弔った。(皆男)


    この結果、利生の家族は離散した。利器と長女祐(満十歳)は東京の石山皆男の家に、次女カズ(満六歳)は秋田の鵜沼弥生の家に、妻タツミと二男利孝(満五歳)、三女ミエ(満二歳)は亀田のタツミの実家(佐藤憲輔方)に身を寄せた。

    幼いカズには、気が付いたら母親の姿が見えなくなっていたという記憶しかない。残念ながらわが祖母タツミについては、どんな女性だったのか何も分からない。

    秋田はカズにとって初めての土地だが、家では秋田弁を話していた筈だから、言葉の点で悩むことはなかったと思われる。カズはカトリックの幼稚園に通うことになった。

    利器を引き取った皆男は、初日から酷く叱責された。


    茶の間における母の居場所を定めるに当って、皆男は、押入れの物の出し入れの便宜を主としてきめた。それは部屋の回りの廊下に接するところであった。母はそれを見て、一挙に厳命した。「そこは一家の祖母が据わる所でない。外から来た客が見たら、女中の居場所に祖母がすわっていると笑われる」という。皆男はこの叱責に一言もなく、押入れの中身を動かし、祖母は神仏棚と、用箪笥の前に、火鉢と共にすわることに直した。


    これが士族の妻の感覚であった。利器は、皆男の長男昭男(テルオ)によく忠臣蔵を読み聞かせた。おそらく浪花節で覚えた義士伝の類であろう。この時代、ラジオで最も人気の高い番組は浪花節だった。昭和十五年に始まる「新体制」では、内閣情報局の肝入りで、文壇作家を動員して「愛国浪曲」を作らせるまでに至る。


    祖母は忠臣蔵が大好きだった。小学校一年生の私にむかって、忠臣蔵の話をせっせとしたものです。そのころ、私が住んでいた東京目黒の家の茶の間には、冬になると長火鉢がおかれ、鉄ビンの湯がいつもコトコトいっていました。祖母はその鉄ビンからお湯をとっては、お茶をのみ、キャベツの塩づけの漬物をよく食べていました。そして、長火鉢をはさんで、祖母から孫への話がはじまります。

    祖母から、くりかえし聞かされた忠臣蔵の話から、いま記憶に残っているものを、私なりに書いてみると、次のようになるでしょう。

    家のために浅野内匠頭はよーく我慢した。浅野はりっぱだが、その浅野に理屈に合わないことを要求した吉良上野介は本当に悪い奴だ。家来は、その主君のため家のために本当に苦労した。大石が京都で遊びくらしたときの心の中は、どれほどの苦しみだったか。天野屋利兵衛も、四十七士のために苦労を重ねて武器を調達し、子どもを殺すといわれても、なんにも言わなかった、大石たちの願いを実現するために、男らしくがんばったえらい奴なんだ。大石たちは浅野家の再興のために苦心した。ただの仇うちじゃないんだよ。

    幼かった私が、胸をときめかしたのは、スリル満点の天野屋利兵衛のくだりや、討ち入りのために義士たちがそば屋に集ってくる前後とか、堀部安兵衛の仇討ちとかでした。しかしいま、鮮明に思いおこすのは、祖母の話し方です。「主家をおこす」ために苦労した四十七士の苦心の所になると、本当に熱が入りました。子供心にも感動して涙が出たのをおぼえています。(石山昭男「祖母の思い出」『利穎と利器』所収)


    昭男は昭和三年生まれ、小学一年から中学二年までを利器と共に過ごした。昭和五十年代の頃の昭男は、皆男とは違って小太りで酔うと禿げあがった頭を真っ赤にして、ベランメー口調で捲し立てる人であった。ベトナム戦争時には従軍記者としてベトナムに行き、『ベトナム戦争と民衆 民族の誇りを守りぬいて』(汐文社)、『ベトナム解放戦史』(三省堂新書)を書いた。正確な年月は覚えていないが、五十代で亡くなった。


    八月十二日、陸軍軍務局長永田鉄山、皇道派の相澤忠三郎陸軍中佐に斬殺された。八月の人事異動で真崎甚三郎が教育総監を更迭されたのが、永田の陰謀によるものと相澤は考えた。これも「統帥権干犯」に関わる問題で、陸軍の人事権は陸軍大臣林銑十郎にある。しかし内規では、将官に対する人事は、陸軍大臣、参謀総長、教育総監三者の合意が必要だというのが真崎の言い分だった。天皇を輔弼する三者の内二人が一人を排除するのは独裁的であり、統帥権を干犯するものだというのである。二・二六事件の「蹶起趣意書」でも蹶起理由に「所謂元老重臣軍閥官僚政党等ハ此ノ国体破壊ノ元凶ナリ、倫敦海軍条約並二教育総監更迭ニオケル統帥権干犯」と挙げている。

    永田鉄山について山口昌男は、軍人には珍しい合理的な判断をする人物だと言う。満州視察旅行の後、「軍人は国防面のみなら指導的立場を取ってもよいが、政治は全て満州人にやらせることが肝要だ」と言った。これは石原莞爾とも共通する認識だ。また朝鮮についても同じく「政治はすべて朝鮮人にやらせるべきだ」と主張した。軍人は一般に社会的常識がかけているとして、それを補うために財界人や官僚とも積極的に交遊した。これが、財界との癒着と誤解されたのだろうと山口は言う。


    さて、永田鉄山と石原の欠陥は、共に理知に長けすぎて、廻りの人物群とのコミュニケーションに欠けていたところにあったというのはほとんどの人の意見の一致するところである。永田が、彼に対する中傷に論駁する取り巻きを持たず、派閥で固めていた真崎に踊らされた刺客に斬殺されたのも、石原が、参謀本部で中国戦線拡大に反対して孤立無援の状態に追い込まれ、みすみす東條らに足払いをかけられてしまったのも、派閥形成能力の欠如、つまりよき副官の欠如の故と言わざるを得ない。(山口昌男『「挫折」の昭和史』)


    九月一日、第一回芥川賞、直木賞が発表されたが世間の注目を集めるほどではなかった。芥川賞に石川達三『蒼氓』、直木賞は川口松太郎『鶴八鶴次郎』。太宰治は『逆行』が候補になったが、川端康成に「作者、目下の生活に厭な雲あり」と、作品と全く関係ないことを言われて激怒した。

    十二月八日、大本教の出口王仁三郎等幹部が不敬罪・治安維持法違反で逮捕された。第二次大本教事件であり、戦前の大本教はここに完全に息を絶たれた。この時点で大本は支部千九百九十、信者百万から三百万人と言われ、その三割は大学卒業者であった。更に政治家・軍人をその中に含んでいた。知識人がカルト宗教に入会する不思議を私たちはオウム真理教の場合で知ったが、既に大正から昭和にかけての時代からあった事なのである。

    大本教はクニノトコタチ(アマテラスより上位)を主神とし、「世直し」を標榜する団体であり、国家にとっては危険な存在であった。因みに治安維持法が宗教団体に適用された初めである。昭和十七年の控訴審判決では治安維持法違反は無罪として、不敬罪のみが適用される。戦前であっても検察の無理がそのまま通ることがなかった。その後被告側、検察側双方とも大審院に上告したが、敗戦により無罪が確定する。

    戦後生まれる新宗教には、大本に由来するものが多い。浅野和三郎の「日本心霊科学協会」、浅野と共に大本を脱退した谷口雅春の「生長の家」、岡田茂吉の「世界救世教」、岡田玉光の「世界真光文明教団」と玉光の死後分裂した「崇教真光」、出口和明の「愛善苑」等である。


    高垣眸「解決黒頭巾」(『少年倶楽部』)、吉川英治「宮本武蔵」(『朝日新聞』)、坪田譲二「お化けの世界」(『改造』)。

    尾崎士郎『人生劇場 青春篇』、島崎藤村『夜明け前 第二部』)、室生犀星『あにいもうと』、石川達三『蒼氓』、宇野千代『色ざんげ』、小林秀雄『私小説論』、和辻哲郎『風土』。

    伊丹万作監督『忠次売り出す』、島津保次郎監督『お琴と佐助』、衣笠貞之助監督『雪之丞変化』。洋画は『最後の億万長者』、『外人部隊』、『未完成交響楽』。

    伊藤久男『雪の国境』(高橋掬太郎作詞、大村能章作曲)、東海林太郎『野崎小唄』(今中楓溪作詞、大村能章作曲)、児玉好雄『無情の夢』(佐伯孝夫作詞、佐々木俊一作曲)、ディック・ミネ、星玲子『二人は若い』(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)、新橋喜代美『船頭可愛や』(高橋掬太郎作詩、古関裕而作曲)。