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    東海林の人々と日本近代(八)昭和篇 ③

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2022.10.08

    昭和十一年(一九三六)利器六十八歳、タツミ三十五歳、祐十一歳、カズ八歳(秋田市立旭北小学校入学)、利孝六歳、ミエ三歳、利雄三十九歳、石山皆男三十六歳、鵜沼弥生三十四歳、高橋揚五郎三十二歳、田中伸二十九歳。


    一月、江戸川乱歩が「怪人二十面相」(『少年倶楽部』)の連載を開始した。この年、『少年倶楽部』は部数七十五万部に達する、最大の少年雑誌である。買えない子供も友人に借りて読んだから、実際の読者数はこの数倍になるだろう。編集部では当初、乱歩は「良風美俗」に反するのではないかとか、乱歩と少年小説とは畑違いではないかとの意見もあった。畑違いの点では、かつて佐藤紅録に少年小説を書かせた経験もあり、名探偵明智小五郎と小林少年を配することで、最終的に企画が通った。この『少年探偵団』シリーズが合計で二十六の長編になり、児童書史上最大のヒットシリーズになるのである(中川右介『江戸川乱歩と横溝正史』より)。

    戦後、ラジオドラマから始まり、何度もテレビドラマ化されたから、実に幅広い年代層に受容される。私たちの世代が最初に覚えた歌の一つは、昭和三十一年のラジオドラマの主題歌『少年探偵団の歌』(檀上文雄作詞、白木義信作曲)だっただろう。

    一月十三日、東京で日劇ダンシングチーム(NDT)が「ジャズとダンス」でデビュー公演を行った。これで宝塚歌劇団、松竹歌劇団(SKD)と三大チームが揃ったことになる。まだ昭和モダンは続いている。

    十五日、松竹が蒲田から移転し、神奈川県大船に大船撮影所を開所した。当時の新聞では「日本のハリウッド 大船」と報道された。「松竹大船調」を確立したが、二〇〇〇年六月を以て完全閉鎖。現在は鎌倉女子大学と鎌倉女子大学短期大学部の大船キャンパスとなっている。


    二月二十六日、皇道派の陸軍青年将校が、歩兵第一連隊、歩兵第三連隊、近衛歩兵第三連隊、野戦重砲兵第七連隊等の一部下士官・兵およそ千四百名を率いて蜂起し、政府要人を襲撃するとともに永田町や霞ヶ関などの一帯を占拠した。二・二六事件である。岡田啓介首相と間違えられた松尾伝蔵(内閣嘱託・陸軍歩兵大佐)、高橋是清(大蔵大臣)、斎藤実(内大臣)、渡辺錠太郎(教育総監・陸軍大将)の他、警察官五名が殺された。鈴木貫太郎侍従長は瀕死の重傷を負ったが、止めを刺されなかった(安藤輝三大尉が鈴木夫人の説得に応じた)ことで命を取り留め、後に終戦時の首相となることができる。

    前年の相澤事件の結果、皇道派が多く所属する第一師団の満州派遣が決定しており、事件はその派遣の前に実行された。この結果、皇道派はほぼ一掃され、統制派が軍部の権力を握り、政府をコントロールするシステムが作られて行くのである。

    事件の初期段階から昭和天皇が激怒していたことは有名だった。しかし軍部は穏便に済ませるべく「陸軍大臣告示」を出した。「一、蹶起の趣旨に就ては天聴に達せられあり 二、諸子の行動は国体顕現の至情に基くものと認む(以下略)」である。しかしこんな話は、天皇には全く関係なかった。天皇の判断は最初から「叛徒」と一貫していて、時間の経過とともに苛立ちが強くなってくる。


    朕が股肱の老臣を殺戮す、此の如き凶暴の将校等、其精神に於ても何の恕すべきものありや
    朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて、朕が首を絞むるに等しき行為なり
    朕自ら近衛師団を率ゐ、此が鎮定に当たらん


    後の回想(『昭和天皇独白録』)ではこう語っている。


    当時叛軍に対して討伐命令を出したが、それに付ては町田忠治を思ひ出す。町田は大蔵大臣であつたが金融方面の悪影響を非常に心配して断然たる処置を採らねばパニックが起きると忠告してくれたので、強硬に討伐命令を出す事が出来た。

    大体討伐命令は戒厳令とも関連があるので軍系統限りでは出せない、政府との諒解が必要であるが、当時岡田(啓介首相)の所在が不明なのと且又陸軍省の態度が手緩るかつたので、私から厳命を下した訳である。


    事件に北一輝の『日本改造法案大綱』の影響があることは間違いない。北自身はこの事件に関係ないとも言えるし、知っていて黙許したとも言える。そもそも反乱の成功を信じていなかった。この当時の北は法華経三昧の生活を送っていた。しかし北と西田税を死刑にするのは当初からの方針であった。

    北の目指したのは一種の国家社会主義であり、名目上は天皇を上に抱く天皇機関説でもある。そしてそれを実現するための海外膨張策であった。青年将校等は北の説く社会主義と海外膨張策には希望を見たが、天皇に対する態度は完全に逆であった。誤読したのではないか。

    磯部浅一は最後の最後に天皇に対する呪詛を書き連ねた。昭和四十五年(一九七〇)の三島由紀夫の思想はこれに通じているだろう。


    一、天皇陛下 陛下の側近は国民を圧する奸漢で一杯でありますゾ、御気付キ遊バサヌデハ日本が大変になりますゾ、今に今に大変なことになりますゾ

    二、明治陛下も皇大神宮様も何をしておられるのでありますか、天皇陛下をなぜ御助けなさらぬのですか

    三、日本の神神はどれもこれも皆ねむっておられるのですか、この日本の大事をよそにしているほどのなまけものなら日本の神様ではない、磯部菱海はソンナ下らぬナマケ神とは縁を切る、そんな下らぬ神ならば日本の天地から追いはらってしまうのだ、よくよく菱海の云うことを胸にきざんでおくがいい、今にみろ、今にみろッ

    ——磯部浅一、八月六日

    今の私は怒髪天をつくの怒りにもえています、私は今は 陛下をお叱り申上げるところに迄 精神が高まりました、だから毎日朝から晩迄 陛下をお叱り申しております、天皇陛下 何と云ふ御失政でありますか 何と云ふザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ、

    ——磯部浅一、八月廿八日


    後継内閣の首班に西園寺公望は近衛文麿を推したが、近衛は健康不安を理由に断った。三月九日、広田弘毅内閣成立。真崎甚三郎や荒木貞夫の復活を防ぐためとはいえ、軍部大臣現役武官制を復活したのは大きな失政であった。陸軍大臣には寺内寿一が就いた。十一月に日独防共協定を締結したのも広田の責任である。ただそれが、東京裁判で文官として唯一死刑を宣告される程の罪だったとは到底思えない。

    事件当時、将軍クラスの多くが日和見的態度を取ったことから、彼らの威信は下落し、大将七人、中将八人、少将七人が予備役に編入された。陸軍内部で実権を握ったのは、反乱軍討伐強硬派の梅津美治郎中将(陸軍次官)、石原莞爾大佐(参謀本部作戦課長)、武藤章中佐(軍務局軍事課高級課員)であったが、武藤は六月の異動で関東軍第二課長に転出する。私たちは後に石原と武藤の確執を見ることになる。

    渡辺京二は五・一五や二・二六事件の背景に、日本の資本主義に対し、それに圧殺されようとしている農村共同体や下町共同体(これを渡辺京二は基層民という)の「共同性への飢渇」があったと捉えている。青年将校等の心情は、これら基層民のものに著しく近かった。


    ・・・・基層民の眼に、支配エリートの欧米協調派の体質が、自分たちを無間地獄につきおとしつつある資本制市民社会の論理を体現するもののように見えたからである。欧米協調の国策は、それが財閥・重臣・特権官僚層の思想的体質であると考えられたために、基層民の指示を得ることはできなかった。それに反し、帝国主義的自立の国策は、財閥・重臣・特権官僚層の欧米市民的社会的感性を敵とするものとみなされたぶんだけ、基層民の共感を勝ち得た。(中略)英米追随の伝統に立つエスタブリッシュメントたちは、自分たちの基層民統合の装置であった天皇制協同体神話が、このような思いもかけぬ逆流を開始して、支配層中の新興反英米派と結びついてとき、なすすべを知らなかった。

    この結びつきは昭和前期の周知の騒乱、一般に天皇制ファシズムとして概括される諸動乱にいきついた。(渡辺京二『北一輝』)


    しかしこれはヨーロッパに資本主義が誕生して以来、何度も繰り返されてきたことでもある。富はごく一部に集中的に所有され、大多数の貧困層を支配する。大多数の人間は孤独と絶望に打ちのめされ、憎悪を形成する。エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』は、ルターやカルヴァンの時代に既にこれが起きていると指摘している。

    格差拡大によるエスタブリッシュメントへの憎悪を、私たちは二〇一七年のアメリカ大統領選で見ることになった。ヒラリー・クリントンの敗北はまさにそれが原因であり、トランプの登場は未だに続く悪夢のようなものである。

    平成二十年(二〇〇八)の秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大(二トントラックで交差点に突っ込み、十七人をナイフで殺傷した)、平成二十八年(二〇一六)相模原障害者施設「津久井やまゆり園」事件の植松聖(十九人を刺殺し二十六人に重軽傷を負わせた)、令和三年(二〇二一)の京王線刺傷事件の服部恭太(刃物で他の乗客を切りつけた上液体を撒いて放火し、十八人が重軽傷を負った)、大阪北新地ビル放火事件の谷本盛雄(心療内科クリニックで火をつけ、二十七名が死んだ)等の無差別殺人者たち、令和四年(二〇二二)安倍晋三を銃撃した山上徹也。これら事件の社会的精神的な背景との類似はあるか。


    四月、カズは秋田市立旭北小学校に入学する。子供の足で歩いて十五分程度の距離になるだろう。この頃、同級生と一緒に日本舞踊を習いに通った。高等小学校を出て以来、自助努力によって生活を向上させてきた弥生には、中産階級の生活を実現する思いがあっただろう。タマは優しかったろうか。私が知っているタマは、いつも不機嫌な顔をして子供を可愛がるような人ではなかったように思う。ただそれは中年以降の体調不良が原因だったかも知れず、若い頃のタマについて、私は何も言う資格はない。

    五月十八日、東京尾久の待合で、阿部定が石田吉蔵の局部を切断して逃走する事件が発生した。二・二六事件、それに七月に起きた上野動物園黒豹脱走事件と合わせ、昭和十一年の三大事件と呼ばれる程、衝撃的な事件だった。定は五月二十日に逮捕され、東京刑事地方裁判所は殺人および死体損壊罪で懲役六年の判決(求刑十年)の判決を受け服役。昭和十五年(一九四〇)紀元二千六百年」の恩赦で残りの刑期が半分に減刑され、昭和十六年五月十七日に出所した。

    六月、皆男はダイヤモンド社の取締役に就任した。この年、皆男名義で『旅窓に学ぶ 東日本篇』(ダイヤモンド社)という旅行案内が出た。翌年には『中日本篇』、十四年には『西日本篇 附・満州国篇』と続く。観光旅行が流行っていたのだろうか、


    月曜から土曜の五分間番組として「国民歌謡」の放送が始まった。同じ歌曲を一週間続けて放送するのである。カズはこの種の歌が好きだったから、毎週好んで聴いただろう。第一週は『日本よい国』(今中楓渓作詞、服部良一作曲)だが、歌詞も実に内容空疎で、これでは日本とは絶海の孤島ではないかと思ってしまう。作曲を担当した服部良一が気の毒になってくる。作詞の今中楓渓は大阪の女学校の教員の傍ら和歌報国運動をしていたという。流行歌では『野崎小唄』(大村能章作曲)を作っている。


    日本よい国 み神の国よ
    何を荒波 いはほは不動
    どんとうつ波 さつとうち返す
    意気だ豪気だ 久遠の国だ
    こゝに日が照る 月も照る


    『日本よい国』にはもう一つ、松原操が歌った別の歌がある。作詞作曲は中央教化団体連合会である。国民の思想の善導と社会の改善をする、文部省の認可を受けた団体である。これも一番の歌詞を掲げておこう。


    日本よい国 東の空に
    昇る朝日は
    日の御旗 日の御旗
    大和ごころを一つに染めて
    いつもほのぼの夜があける


    第二週は詩吟特集のため休み、第三週は『朝』(島崎藤村作詞、小田進吾作曲)。七月には、東海林太郎『椰子の実』(島崎藤村作詞、大中寅二作曲)、昭和十二年、渡辺はま子『愛国の花』(福田正夫作詞、古関裕而作曲)等が続く。


    『国民歌謡』『詩の朗読』『物語』等々、一九二〇~三〇年代の大阪中央放送局を舞台に奥屋熊郎が開拓した番組は枚挙に暇がない。野球中継やラジオ体操を初めて実現させたのも奥屋だった。

    この稀代の放送人・奥屋熊郎の哲学の核心は、放送の「指導性」である。当時、ラジオで最も人気が高かったのは浪花節だったが、奥屋の考えでは大衆は浪花節が好きだから浪花節の放送を聴くのではない。ラジオが放送するから浪花節を好きになるのである。「ラジオがラジオ大衆を作り出す」のである。放送によって大衆文化の向上を実現しようとした奥屋は、「(放送は)時代文化の特質を容易に変質させる力でさえある」とまで言うのだ。

    だが、奥屋の「指導性」の強調の仕方に私たちはある既視感を覚える。本シリーズ第3回で焦点を当てた逓信省の田村謙治郎は満州事変から日中戦争へと向かってゆく時代の中で「ラヂオは最早、世情の流れに引き摺られてプログラムを編成する時代ではない」のであり「民衆をして追随せしむる」ものでなければならないと主張していた。

    大衆文化の向上を目指す奥屋の「指導性」と、国民を戦争協力に導こうとする田村の「指導性」は、やがて近接し重なりあってゆくことになる。(大森淳郎「シリーズ 戦争とラジオ〈第5回〉〝慰安〟と〝指導〟」NHK放送文化研究所『放送研究と調査』69(12))

    https://www.nhk.or.jp/bunken/research/history/pdf/20191101_10.pdf


    「大衆は浪花節が好きだから浪花節の放送を聴くのではない。ラジオが放送するから浪花節を好きになる」という思想は重要である。そうしたラジオの特性を最も効果的に利用したのがヒトラーだった。

    『椰子の実』は南方共栄圏への関心や好感(日本と南方の一体感)を醸成するものになった。国民歌謡はやがて戦時色を強めていき、昭和十二年『愛国行進曲』(森川幸雄作詞、瀬戸口藤吉作曲)や『海ゆかば』(信時潔作曲)になっていく。昭和十五年『隣組』(岡本一平作詞、飯田信夫作曲)は隣組制度(総監視と連帯責任社会)の普及のために作られた。


    七月十七日、モロッコでフランコ軍が、マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府に反乱を起こし、スペイン市民戦争が始まった。第一次世界大戦後、スペインでは左右両派の対立が激化していた。それに加えて、カタロニアやバスクの独立運動の動きもあって国情は不安定だった。昭和六年(一九三一)には左派が選挙で勝利し、王制を廃止して第二共和政が成立した。しかし左派政権の政策は多くの国民に失望を与え、昭和十一年(一九三六)の総選挙でアナキストを含む人民戦線政府が成立した。前年にコミンテルンが人民戦線戦術を採択していたのである。


    ・・・・スペイン市民戦争は、それが勃発するやただちに、単なるスペインだけの危機ではなく、ヨーロッパの危機になったのである。それは政策の危機であったのと同じく、良心の危機でもあった。ヨーロッパだけでなく世界中の世論にとって、この戦争に賭けられたように思われた問題は、全く様々の仕方で見ることのできるものであった--無神論に対するキリスト教、反動に対する自由民主主義、ファシズムに対する共産主義(あとで判明したことだが、こうした定義づけは、どれひとつとして正確ではなかった)。とくに政治についていえば、一方ではヒトラー、ムッソリーニおよびサラザール(ポルトガルの)、他方ではスターリンとメキシコのカルデナス大統領が、スペインにおける二つの側の、かくれもない擁護者となり、その間、ボールドウィンとチェンバレンのもとにあった英国、ブルムその他第三共和国指導者のひきいるフランス、およびルーズヴェルトのもとにあったアメリカ合衆国は、不運な非干渉委員会をうまく操作しようとして、その態度の客観性に程度の差はあったが、とにかく無益なこころみを行っていた。(中略)

    同時にスペイン戦争は、欺瞞と宣伝の闘争であった。多様な国籍の人々が、当時彼らが高貴なものと信じていた主義のために、戦い、募金し、演説を行ったが、しかし彼らは現在、もし彼らが生存していれば、彼らの多くが、そうした主義も要するに冷笑を浮かべ名があやつられていたものであったと信じている。(ヒュー・トマス『スペイン市民戦争』日本版の序)


    フランコ側にはドイツ、イタリア、ポルトガル、日本が加担し、共和国側には欧米文化人も「国際旅団」義勇兵として多く参加した。アンドレ・マルロー(『希望』)、アーネスト・ヘミングウェイ(『誰がために鐘は鳴る』)、ジョルジュ・ベルナノス (『月下の大墓地』)、アーサー・ケストラー(『スペインの遺言』)。ジョージ・オーウェルもその中の一人だ。オーウェルは「新聞記事でも書こうと思って」スペインに入ったが、すぐにPOUM(マルクス主義統一労働者党)の民兵組織に参加する。

    ピカソはドイツ空軍の都市無差別空爆に抗議して『ゲルニカ』を描いた。焼夷弾が本格的に用いられた最初であり、世界初の都市無差別攻撃であった。死者の数はフランコ側の主張する二百人から、バスク自治政府の千六百五十四人、ヒュー・トマスの千人まで大きく幅が振れているが、おそらく千人以上が殺された。当時のゲルニカの人口は六千から七千人と推定されている。『タイムズ』の記者ジョージ・スティアは次のように報じた。


    バスク地方最古の町であり、その文化的伝統の中心であるゲルニカは、昨日午後、反乱軍空襲部隊によって完全に破壊された。戦線のはるか後方にあるこの無防備都市の爆撃は、きっかり三時間十五分かかったが、その間、三機種のドイツ機、ユンカース型およびハインケル型爆撃機、ハインケル型戦闘機からなる強力な編隊は、四百五十㎏からの爆弾と、計算によれば三千個の一キロアルミニウム爆弾とを町に投下しつづけた。他方、戦闘機は屋外に避難した住民たちを機銃掃射するために、町の中心部上空に低空から進入した。


    フリードマン・エンドレのいわゆる「崩れ落ちる兵士」がアメリカの『Life』に掲載されて一躍注目を浴びた。署名がロバート・キャパだったので、フリードマンはその後、キャパを名乗ることになる。「キャパ」は元々フリードマンと恋人ゲルダのユニット名であった。

    しかしこの写真は演習中(あるいはただ転んだ瞬間)を撮影したものであり、被写体の兵士は死んでおらず、また撮影者もキャパではなく、ゲルダ(スペイン戦争中に死亡)ではないかとの指摘もある。

    人民戦線は様々な思想を持つ者の混成であり、戦術面でも内部に齟齬があった。更にコミンテルンの支配が強まると、共産党員以外は粛清される運命にあった。オーウェルはコミンテルン側の秘密警察によってファシストとして家宅捜査を受け、人民戦線側の敗北が既に濃厚になった時期にスペインを脱走した。


    私たちは徹頭徹尾調べられたが、私の除隊証明書以外には嫌疑をかけられそうなものは何も持っていなかった。しかも私を取り調べたカラビネロ(税関警察隊)は、第二十九師団がPOUMであることを知らなかった、こうして私たちは国境をすりぬけて、ちょうど六カ月ぶりで再びフランスの土を踏んだ。(中略)

    塹壕の匂い、はるか後方に広がっていく山の夜明け弾丸の冷たくパチッという音、爆弾の轟音と尖光もそうなら、バルセロナの朝の冷たく澄んだ光、あの十二月、みんながまだ革命を信じていた頃、夜の兵舎で靴を踏み鳴らす音もそうだ。それに食料品を買う、人の列、赤と黒の旗、スペイン人民兵の顔もある。民兵たちの顔のなかでも――私が前線で知った兵士たち、ある者は戦死し、ある者は不具になり、ある者は獄舎に、知る由もないまでに散り散りになっている彼等――その大部分が今もなお無事で健康であることを私は願う。みんなの幸運を祈る。そして彼らがこの戦争に勝って、外国人を全部、ドイツ人もロシア人もイタリア人も同じようにスペインから追い出すことを私は願う。私が無益な役割を演じたこの戦争は、大体においてひどく悪い記憶を私に残しはしたが、それでもなお私にはそれを後悔する気持にはなれない。(オーウェル『カタロニア讃歌』)


    オーウェルはこの経験から、スターリンの全体主義がファシズムより悪であるとの認識を強くする。『カタロニア讃歌』や『一九八四年』はその結果である。

    昭和十四年、バルセロナが陥落してフランコ軍の勝利が決定的になる。コミンテルン主導による人民戦線戦術は破綻すべくして破綻した。現在の日本において、自民党に対抗する別な形の人民戦線の可能性はないのだろうか。私は共産党を含む野党連合のあり方を夢想しているのである。

    ヒトラーにとっては、第二次世界大戦の予行演習のようなものであったかも知れない。それならば令和四年現在戦われているウクライナ戦争は、第三次世界大戦の前哨戦ではないのか。


    スペイン市民戦争は、その残忍さにおいて、たいていの国家間の戦争にまさるものであった。しかし被害の程度は、一般に気づかわれたほどではなかった。戦争によってもたらされた死亡総数は、ほぼ六十万と思われる。そのうち約十万人は、殺害または即決の処刑によって死んだものと考えて良い。おそらく二十二万人もの人々が、戦争に直接起因する病気または栄養失調のために死亡したようである。戦闘中に死んだものは、たぶん、三十二万ほどであった。(ヒュー・トマス『スペイン市民戦争』)


    八月一日、第十一回「ベルリン・オリンピック」が開催した。ヒトラーは当初乗り気ではなかったようだが、プロパガンダになると説得されて了承したらしい。オリンピアで採火し、松明で会場まで運ぶリレーは、この時に始まった。アテネで採火された火がバルカン諸国やハンガリー、オーストリア等七ヵ国を経由し、ナチスの国威発揚に貢献したのである。ゲルマン民族こそがヨーロッパ文明の源流たるギリシア文明の正統の後継者であるとの宣言であった。そしてルート決定の道路調査は、後にドイツ軍が侵攻する際の重要なデータになった。このトーチ・リレー(torch relay)が第二次世界大戦後も継続したのは何故だろうか。「聖火」リレーと呼ぶ日本人は、この歴史に余りに無知であろう。

    英米などにボイコットの動きがあり、それを回避するためオリンピックの前後には一時的にユダヤ人迫害を緩和した。そのため参加国は過去最多となったが、オリンピックが終わってしまえば、それまで以上に迫害を強めていく。

    マラソンは朝鮮人の孫基禎が「日本人」として金メダルを取った。余り知られていないが、同じ朝鮮人の南昇龍(孫基禎と同年)も銅メダルを取った。二人とも、掲げられた日章旗を見るのは屈辱だった。

    その他、日本人の金メダルは遊佐正憲・杉浦重雄・田口正治・新井茂雄(競泳男子八百メートル自由形リレー)、前畑秀子(競泳女子二百メートル平泳ぎ)、葉室鐵夫(競泳男子二百メートル平泳ぎ)、寺田登(競泳男子千五百メートル自由形)、田島直人(陸上男子三段跳び)。第十二回(昭和十五年)は東京で開催される筈だった。


    八月十五日から二十九日まで、カリフォルニアのヨセミテ国立公園内で、太平洋問題調査会(IPR)の第六回大会が開かれた。参加国は米・日・中・英・仏・蘭・豪・ニュージーランド・加・比・蘭印・ソであり、テーマは「太平洋地域に於ける経済政策、並びに社会政策の目的と結果」であった。日本代表団には西園寺公一、牛場友彦と共に尾崎秀実も入っていた。牛場と尾崎は第一高等学校の同級生、西園寺はオックスフォード大学で牛場の一年後輩である。尾崎は当時随一の中国問題専門家であり、ここで西園寺と親しくなったのは尾崎にとって大きな収穫だったと、尾崎秀樹は評価している(尾崎『ゾルゲ事件』)。近衛に近づくチャンスが生まれるのである。但しこの会議で、日本側は中国の胡適から徹底的な批判を浴びて孤立する。


    略称IPR。一九二五年ホノルルでの民間研究機関・学者の国際会議で設立された民間研究討論機関。アメリカを中心に太平洋の十四か国(イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、フランス、オランダ、インド、ソ連、フィリピン、日本、中国、後のインドネシアとパキスタン)で構成、ただしソ連は戦後、中国は中国革命後は不参加。第二次世界大戦終了まではその研究業績・政策立案は参加諸国の政策に寄与したが(ことに連合国の対日占領政策などで)、そのため戦後反動期にIPR関係者はマッカーシズムの攻撃を受け、その醵金者も減り、IPRの活動そのものも衰退したが、いまも存続し、機関誌『パシフィック・アフェアーズ』(季刊)は出ている。(『日本大百科全書ニッポニカ』「太平洋問題調査会」の解説)


    八月には亀田で利生の一周忌が執り行われた。祐十一歳、カズ八歳、利孝十歳、ミエ七歳。


    その夏、墓参のため亀田で一年ぶりに母と会う。帰りの駅のホームで母の袖を力一杯にぎりしめ、皆を困らせた思い出がある。以来、母や弟妹とは六年間会うことがなかった。(佐藤カズ「生い立ちの記」)


    六年後に母や弟妹と会うのは、昭和十七年の利器の葬儀の時かも知れない。カズが秋田高女に入学する年である。当時は三回忌とか七回忌とかには、特に拘らなかったのだろうか。


    この頃モスクワでは、ジノヴィエフ、カーメネフその他十六人に対する反逆罪の裁判が開かれた。ジノヴィエフとカーメネフはレーニン側近であり、レーニン死後の集団指導体制のメンバーでもあった。彼らの罪はトロツキーの秘密指令に従って国家転覆を図ったというものである。判決の翌日には銃殺刑に処せられたが、これがその後に続く大粛清の幕開きであった。


    ・・・・大粛清の犠牲者はスターリンの潜在的敵とはみなし難い人々も多数含んでいた。この結果、一九三六年から一九三八年までの間に政治的理由で逮捕された者は一三四万人に達し、そのうちの六八万人余りが処刑された。

    ・・・・・大粛清のすべてを単一の原因で説明することが不可能なことは明らかである。

    しかし、こうした議論を推し進めることによって、大粛清の責任はスターリンにはなかったとする結論までひき出すのはバランスを失しているように思われる。農業集団化の悲惨な結果が出発点にあり、その責任を糊塗する過程で多数の指導層を正当な理由もなく逮捕し、処刑したことがこの過程の本筋だとする素朴な解釈は、今でも十分に説得的だと思われるからである。(横手慎二『スターリン』)


    九月二十五日、帝国在郷軍人会令公布。民間の私的機関から陸軍大臣・海軍大臣の所管する公的組織となったのである。

    十一月二十五日、日独防共協定が成立した。これも広田内閣の大きな罪である。ソ連南進に対する脅威と、ヒトラーへの驚嘆があった。ナチズムを礼賛し、手本にしたいと考える勢力がかなりの数でいたのである。そして「北守南進」政策が決められ、これからの日本は、対ソ戦を極力避けながら、東南アジアへと向かっていくのである。その結果はいずれ日米戦争に行きつくだろう。公表されなかった秘密附属協定は以下の通りである。こんな協定(特に第二条)はヒトラーにとっては紙屑にも等しいものであったことが、後に証明される。


    第一条 

    締約国の一方がソビエト連邦より挑発によらず攻撃・攻撃の脅威を受けた場合には、ソビエト連邦を援助しない。攻撃を受ける事態になった場合には両国間で協議する(対ソ不援助規定)。

    第二条

    締約国は相互合意なく、ソビエト連邦との間に本協定の意思に反した一切の政治的条約を結ばない(対ソ単独条約締結の禁止)。


    十二月十二日、蒋介石が西安で張学良に拉致監禁される事件が起こった。張学良は共産党と接触していて、国共合作のために蒋介石を説得しようとしたのである。


    張学良が蒋介石を軟禁したと中国共産党に伝わると「ただちに、銃殺刑に処すべし」という意見も強かったのですが、周恩来が「国民党を代表するカリスマ的な存在を殺すようなことになると抗日民族統一戦線が結成できなくなる」といって、まあ、この辺のところは微妙なのですが、ともかく命を助けるかわりに蒋介石に共産党への攻撃をやめさせ、一緒になって日本に対抗するべく手を組むという約束をさせるのです。

    十二月二十六日、助けられた蒋介石が無事に南京に戻りますと中国民衆は大歓声でこれを迎えました。清国が倒れて以来、互いに構想して絶えず分れるに分裂を重ね、内戦に明け暮れていましたから、この瞬間にいわば新しい中国が誕生したと言えるんですね。西安事件とは、中国のナショナリズムが一つになって誕生する、まさに抗日抗戦を可能にする歴史の転換点だったのです。

    しかし日本は、この情報が伝わってきたにも関わらず、中国が今や一つになろうとしていることをまったく理解しませんでした。・・・・・西安事件は、非常に驕慢な軍閥の統領の張学良が、中国名物ともいえる「下剋上」、権力闘争を引き起こしたのだという程度の観察で、対岸の火事視していたのです。この辺に日本の軍部、外交も含めた「中国蔑視」、中国を馬鹿にするという基本の姿勢があって、そこに、統制派が天下をとった陸軍の「対中国市激論」がくっつくわけです。(半藤一利『昭和史』) 


    張学良が出した八項目の要求は以下の通りで、蒋介石がそれを飲むことによって第二次国共合作がなったのである。


    一、南京政府の改組、諸党派共同の救国
    二、共産党の討伐停止
    三、政治犯の釈放
    四、政治犯の大赦(刑罰の消滅)
    五、民衆愛国運動の解禁
    六、言論集会の自由
    七、救国会議の即時開催
    八、孫文遺嘱の遵守


    その後、張学良は反逆罪の罪で国民政府に逮捕され、懲役十年の判決を言い渡された。翌年には特赦を受けたが、戦中は南京で、戦後は台湾で、蒋介石が死ぬまでおよそ五十年間軟禁状態に置かれた。張学良の評価は中国共産党と台湾とでは、真二つに分かれている。中国共産党では、抗日統一戦線結成のきっかけを作った「救国の英雄」とされる。しかし台湾では、共産党を生きのびさせた張本人だと評価する者が多い。つまりこの時点で国共合作がなされなければ、早晩、国民政府は共産党を打ち破った筈だというのである。

    十二月二十五日、ナチスはエーリッヒ・ケストナーの『エミールと探偵たち』の映画の広告を出した。ケストナーは一九三三年にその著作を焚書され、ドイツ国内での出版を禁じられていた。


    同じ年のクリスマスに、ナチスの最高の機関誌「国民観察者」に奇妙な広告が出た。「エミールと探偵たち」の映画を、「ドイツ警察の日」に「子どもたちのためのお楽しみに」上映する、というのである。ケストナーの名はもちろん示されなかったが、人もあろうに、逮捕歴のある禁止された作家の映画が麗々しくナチスの総本山によって広告されたのである。そして一九三七年一月方々の大映画館で上映された。(高橋健二『ケストナーの生涯』)


    ナチスが焚書にしても、子供たちの間でケストナーの人気が高かったことを意味しているだろう。ケストナーはユダヤ系であるが、最後まで殺されなかったのも、そうした理由からではないだろうか。

    吉川英治『宮本武蔵』は、殆ど事績不明だった武蔵の生涯を創作し、日本人の武蔵観を決定づけた。そこにあるのは克己、修養、成長である。『五輪書』なんていう与太話が、いかにも人生の指南書であるかのように扱われるのはそのためである。尾崎秀樹は、この小説が当時の若者たちにとって「一個のビルドゥンクス・ロマン」として受け取られたと言う。


    この武蔵像は、吉川英治の青春ともかさなるものだ。乱世の時代を経て、徳川の体制が固まるにつれて、青年武蔵は剣の求道者へ変わってゆくが、そこには作者自らの心理的軌跡が託されると同時に、当時の大衆の息づかいが反映していた。武蔵の生きかたに‶人生の指針〟をもとめる読者が、戦中戦後をとおして多いのも、そのためではないだろうか。(尾崎秀樹『大衆文学の歴史』)


    かつてエリート大学生のためにあった教養主義が、この時代には大衆化したのである。『宮本武蔵』がビルドゥンクス・ロマンであったという尾崎の指摘を受けて、三浦雅士はこう言う。


    下村湖人が・・・・雑誌『青年』に『次郎物語』を連載しはじめたのは一九三六年である。これもまたビルドゥングス・ロマンいわゆる教養小説にほかならなかった。

    さらにつけくわえれば、尾崎士郎の『人生劇場』の「青春篇」が発表されるのが、一九三五年、山本有三の『真実一路』が一九三五年、『路傍の石』が一九三七年である。一九三〇年代は、教養小説の花盛りの観を呈していたというほかないが、・・・・(三浦雅士『青春の終焉』)


    『人生劇場』がそうであったとは気づかなかったが(映画の『飛車角と吉良常』や佐藤惣之助作詞の歌の印象が強すぎて)、確かに青成瓢吉の成長物語であった。それなら五木寛之『青春の門』も同様である。また、武蔵、お通、城太郎の三人の構図は、その後の時代小説(例えば柴田錬三郎『剣は知っていた』『孤剣は折れず』等)の骨格に大きな影響を与えた。冨田常雄『姿三四郎』(昭和十七年)はほとんど『宮本武蔵』の模倣であろう。お通と武蔵のすれ違いは菊田一夫『君の名は』か。

    太宰治『晩年』。第一回芥川賞の選に漏れた太宰の第一創作集。太宰が「描写の背後で寝ていられない」非常に意識的で技巧的な作家であることが、この時点で既に十分に分る。本人はパビナール中毒の最中で、「『晩年』は、私の最初の小説集なのです。もう、これが、私の唯一の遺著になるだろうと思いましたから、題も、『晩年』として置いたのです」と書く。


    「生まれて、すみません」という表現に含まれる諧謔は、規範としての青春を揶揄している。・・・・・

    太宰治には謝罪する白樺派というようなところがある。この作家は、むろん僭越を承知のうえだが、世界に代わって人間に謝罪しようとしたのであり、そのために必死になってふざけるほかなかったのである。根源的な笑いともいうべき地点にたどりついたのはその結果にほかならなかった。(三浦雅士『青春の終焉』)


    高見順『故旧忘れ得べき』。高見も第一回芥川賞候補者である。中島健蔵が「高見順の時代があった」という言い方をしたことがある。高見、太宰の二人とも時代の精神を象徴する作家であった。高見順はその父を「私を彼女に生ませた、彼女の夫ではない私の父親」と言っている。福井県知事だった阪本釤之助が三国町で評判の美女高間古代に産ませた私生児が高見であり、生涯それを恥じていた。古代は、三国町を訪れる名士の夜伽に出されるような女性であった。因みに阪本釤之助は荷風の父永井久一郎の弟であるが、荷風は釤之助を軽蔑していた。

    山本有三『真実一路』、北條民雄『いのちの初夜』、坪田譲治『風の中の子供』(善太と三平)。十二月に河合栄次郎編の『学生叢書』が開始した。


    ・・・・マルクス主義が弾圧されると、教養主義は息を吹き返す。昭和十一(一九三六)年から昭和十六年にわたって、河合栄次郎(一八八九~一九四四)を編者として全一二冊の『学生叢書』が刊行される。前年、河井の『第一学生生活』が刊行され、好評だった。版元の日本評論社は柳の下の泥鰌をねらった。(中略)

    『学生と教養』は発行三年後に二四刷、『学生と生活』は発行三年半後に三三刷を数えている。『学生と読書』も発行後一年で二万九〇〇〇部にもなった。出版社の目論見は大成功だった。『学生叢書』には必読文献や辞書、年鑑、文章の書き方、学生がどのような本を読んでいるかなどの実態調査の情報も添えられていた。教養主義のマニュアル本といった趣であったが、そうであればこそ読者を教養主義のライフ・スタイルや教養書の読書に誘うことになった。『三太郎の日記』が大正教養主義のバイブルだとすれば、『学生叢書』は昭和教養主義のバイブルとなった。(竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』)


    内田吐夢監督『人生劇場』、伊丹万作監督『赤西蠣太』、溝口健二監督『祇園姉妹』。洋画は『ミモザ館』、『白き処女地』。

    藤山一郎『東京ラプソディー』(門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)は、昭和モダンの最後の輝きだったかも知れない。


    花咲き花散る 宵も
    銀座の 柳の下で
    待つは君ひとり 君ひとり
    逢えば行く ティルーム
    楽し都 恋の都
    夢の楽園(パラダイス)よ 花の東京

    現に夢見る 君の
    神田は 想い出の街
    いまもこの胸に この胸に
    ニコライの 鐘もなる
    楽し都 恋の都
    夢の楽園よ 花の東京

    明けても暮れても 歌う
    ジャズの 浅草行けば
    恋の踊り子の 踊り子の
    黒子(ホクロ)さえ 忘られぬ
    楽し都 恋の都
    夢の楽園よ 花の東京

    夜更けにひととき 寄せて
    なまめく 新宿駅の
    彼女はダンサーか ダンサーか
    気にかかる あの指輪
    楽し都 恋の都
    夢の楽園よ 花の東京


    渡辺はま子『忘れちゃいやよ』(最上洋作詞、細田義勝作曲)、美ち奴『ああそれなのに』(星野貞志作詞、古賀政男作曲)、東海林太郎『椰子の実』(島崎藤村作詞、大中寅二作曲)


    昭和十二年(一九三七)利器六十九歳、タツミ三十六歳、祐十二歳、カズ九歳、利孝七歳、ミエ四歳、利雄四十歳、石山皆男三十七歳、鵜沼弥生三十五歳、高橋揚五郎三十三歳、田中伸三十歳。


    満州では産業開発五か年計画が始まった。元々はソ連の第一次五か年計画を模倣した石原莞爾の構想によるものだったが、石原はまだ東京におり、この頃の満州を牛耳っていたのは「二キ三スケ」である。東条英機(関東軍参謀長)、星野直樹(満州国国務院総務長官、第二次近衛内閣の企画院総裁、東條内閣の内閣書記官長)、鮎川儀介(日産コンツェルン創立者、満州重工業総裁)、岸信介(満州国産業部次長、東條内閣の商工大臣)、松岡洋右(満鉄総裁、第二次近衛内閣の外務大臣)の五人である。

    岸信介については戦後、昭和天皇が石橋湛山首相に「何故、岸を閣僚に任命したのか。岸は東條以上に太平洋戦争に責任がある」と述べたことが、湛山が岸に宛てた書簡から判明した。

    五か年計画は、総合企業の満鉄を解体して、国営の満州重工業(満業)に再編することから始まった。しかし総体的にこの計画は成功しなかった。官僚には企業経営はできないのである。その後の国内の新体制運動、総力戦体制がうまく機能しなかったのも同じ理由だ。


    そもそもは、産業開発五か年計画自体が抱えていた深刻な構造的矛盾が一挙に噴き出たというべきではないか。「満州国」の総人口の圧倒的多数を占める「満人」は、農業従事者が大半を占めていた。当初より工業生産に必要な技術者および労働者を確保する目算が立っていなかったのである。工業生産に携わる労働者には、職場のルールの遵守などに一定の教育水準、いわゆる平均的労働力が不可欠である。(中略)

    しかも、植民地における経験労働者育成のノウ・ハウを蓄積してきた総合企業・満鉄を解体し、それを持たない満業に工場経営を委ねたため、技術者の育成はままならなかった。(鈴木貞美『満州国』)


    二月、「死なう団」(「日蓮会殉教衆青年党」)の五人が国会議事堂前など東京各所で割腹自殺。但し、刃先だけしか腹に入れていないので(つまり自殺のデモンストレーション)死には至っていない。事件自体は大きな影響を持つものではなかったが、ここにも日蓮主義が出てくるのである。日蓮主義は過激化しやすい。

    この団体が最初に知られたのは、昭和八年七月に、「死のう死のう」と集団で叫びながら行進して逮捕された時である。江川桜堂(忠治)が設立した日蓮会である。最盛期には信者数五百人程になったというが、その中の先鋭部分が血盟書を作り書名血判したのが殉教衆青年党であった。諸々の不満が積もっており、「死のう、死のう」と叫ぶことで陶酔感を得たようだ。

    カルト集団はカリスマに帰依することによって生まれる。江川桜堂はそれ自体がカリスマであったろう。カリスマに帰依する人たちの心情を理論的に把握しようとしても難しい。オウム真理教や統一教会信者についても同じことが言える。ヒトラーのナチスやカルト集団を「カリスマ」の面から考察したのはチャールズ・リンドホルムだ。


    ・・・だが、ウェーバーが考えたようにカリスマは合理化によって消滅させられるのではなく、カリスマ的啓示は合理化によってますます歪められ狂信的になってきている。今日におけるカリスマの過剰なあらわれは、交感を求める人間の根源的な欲求を社会システムがみたしえないでいることの反映である。愛が憎しみに、平和が暴力に、エクスタシーがパラノイアに変化すること、ひどく気の滅入るようなこういうカリスマ運動の宗教的部分は、カリスマそれ自体から生じる帰結ではなく、社会構造的要因から生じる帰結である。すなわちそれは、その暗さによってわれわれ自身がおかれているディレンマの輪郭をくっきりと縁どる影なのである。(チャールズ・リンドホルム『カリスマ』)


    「交感を求める人間の根源的な欲求を社会システムがみたしえないでいることの反映である」との結論は、大正末期から頻発した政治的なテロにも同様なことが言えるであろう。


    二・二六事件以降、陸軍では統制派が中央を握り、海軍でも対英米強硬派が主流派となった。米内光政、山本五十六、井上成美等が親独に傾くことの危険を訴えてはいたが、国民の間でも反英国感情が増してきた。

    それを反映して昭和十二年から十五年にかけて、反英本が多数出版された。石山皆男篇『英国反省せよ』、松井賢一『打倒英国』、サハイ・高岡大輔『英帝国破るるの日』、那須肇『世界に暗躍する英国第五列を暴く』、明石順三・文泰順『邪悪「英米帝国」解剖と信仰の眞意義』等である。

    四月三日、嵯峨侯爵家の浩と愛新覚羅溥傑の結婚式が九段の軍人会館で執り行われた。関東軍では当初、皇族との結婚を目指していたが皇室典範の規定でそれがならず、当人にも嵯峨家にも意向を聞かず、本庄繁大将が嵯峨浩に決めた。


    この日、竹田宮と妃殿下の他に、列席を希望される宮様方がありました。が、陸軍省からの横槍でいっさい禁じられてしまいました。また、式典の費用は関東軍から出たと言うことですが、出席者を五百名におさめるため私どもの親戚や知人の出席を極力減らすよう要求され、親戚はほんの近しい人だけ、友人も五人、恩師も七人までという軍の指令に従わざるを得ませんでした。

    これを知らされたとき、私は暗澹たる思いでした。満州国と日本国を結ぶ親善結婚なら、ほかの皇族方も出席してくださってこそ日満融和ができるはずです。だいいち、頭ごなしに私どもの関係者を排除するとは、いったいだれのための結婚式でしょうか・・・・。(愛新覚羅浩『流転の王妃の昭和史』)


    結婚後も関東軍の干渉は続いたが、幸い溥傑は浩にとって理想的な夫であった。戦後、ソ連に抑留された溥傑と離れざるを得なくなったこと、愛娘慧生を天城山心中で失ったことなど、悲しい出来事は続いたが、それでも浩は日中親善に尽くした。

    四月十五日、ヘレン・ケラーが来日し、二十六日には渋谷の温故学会を訪れ、塙保己一を偲んだ。塙保己一は偉人であるが、当時アメリカにまで知られていたのは驚きである。そして一ヶ月に亘り全国で講演を行った。温故学会には今も『群書類従』の版木が大切に保管されていて、それは見るだけで感動的だ。


    定刻の午後四時すこし前、二台の自動車が玄関に横づけされ、トムソン嬢に介添えされたケラーは静かに敷石の上に降り立った。

    講堂に入ると、「塙保己一像」や「塙保己一愛用の机」に触れ、トムソン嬢とケラーの指とがしきりに動いて会話している。満員の参加者は何事も見逃すまいとこの光景を眺めていた。

    かくして、心ゆくまで保己一の偉業に接したケラーはトムソン嬢から森岡通訳を経て、次のように感想を述べた。

    「私は子どものころ、母から塙先生をお手本にしなさいと励まされて育ちました。今日、先生の像に触れることができたことは、日本訪問における最も有意義なことと思います。」(塙保己一資料館「ヘレン・ケラーの来会について」)

    http://onkogakkai.com/aboutonkogakkai/hellen_keller/


    この頃、尾崎秀実が朝日新聞論説委員の佐々弘雄の紹介で、昭和研究会に参加した。支那問題研究会に所属したが、責任者の風見章が六月に成立した近衛内閣の内閣書記官長に就いたため、その後任となった。

    五月三十一日、文部省は「国体の本義」を作成し、全国の学校に配布した。天皇機関説批判と国体明徴運動の中で、「日本精神ノ聖書経典トモ称スベキ簡明平易ナル国民読本ヲ編纂シ之ヲ広ク普及セシムル」(思想対策協議委員幹事会)必要が生まれていたのである。そこには危機感があった。語られるのは万世一系たる天皇の統治の正統性の主張と、西欧個人主義に由来するあらゆる思想への批判である。自慢できるのは、日本では易姓革命がなく「万世一系」の天皇の血統が連綿と続いたということしかない。会沢正志斉『新論』が藤田幽谷の教えを引き継いだと言うのも、結局これである。


    現今我が国の思想上・社会上の諸弊は、明治以降余りにも急激に多種多様な欧米の文物・制度・学術を輸入したために、動もすれば、本を忘れて末に趨り、厳正な批判を欠き、徹底した醇化をなし得なかつた結果である。抑々我が国に輸入せられた西洋思想は、主として十八世紀以来の啓蒙思想であり、或はその延長としての思想である。これらの思想の根柢をなす世界観・人生観は、歴史的考察を欠いた合理主義であり、実証主義であり、一面に於て個人に至高の価値を認め、個人の自由と平等とを主張すると共に、他面に於て国家や民放を超越した抽象的な世界性を尊重するものである。従つてそこには歴史的全体より孤立して、抽象化せられた個々独立の人間とその集合とが重視せられる。かゝる世界観・人生観を基とする政治学説・社会学説・道徳学説・教育学説等が、一方に於て我が国の諸種の改革に貢献すると共に、他方に於て深く広くその影響を我が国本来の思想・文化に与へた。(中略)


    即ち今日我が国民の思想の相剋、生活の動揺、文化の混乱は、我等国民がよく西洋思想の本質を徹見すると共に、真に我が国体の本義を体得することによつてのみ解決せられる。而してこのことは、独り我が国のためのみならず、今や個人主義の行詰りに於てその打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。こゝに我等の重大なる世界史的使命がある。乃ち「国体の本義」を編纂して、肇国の由来を詳にし、その大精神を闡明すると共に、国体の国史に顕現する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、以て国民の自覚と努力とを促す所以である。


    六月四日、第一次近衛内閣が成立した。この時、昭和研究会の後藤隆之助が組閣作業を行い、記者会見で閣僚名簿を読み上げた。


    「あれは何者かね」

    昭和十二(一九三七)年六月四日、第一次近衛内閣が成立し、その閣僚名簿を読み上げる人物を見て、内閣記者クラブの連中は、いっせいに注目してささやきあった。眼光の鋭い、短躯、容貌魁偉、今まで殆どの記者が知らない顔であった。これが組閣参謀であった後藤隆之助であった。(中略)

    青年宰相の出現に対して、全国のあらゆる方面から、いっせいに歓迎の声があがった。軍部や右翼も、政党も、ファッショ反対の知識人も、それぞれの立場から、近衛の清新さと知性と革新性に期待した。「近衛内閣成立の報は、積雲はれて青天白日を望む心地を、我等国民に与えた」と徳富蘇峰は祝福し、近衛の父篤麿のもとに出入りしていたホトトギス派の俳人五百木瓢亭は「五月晴れの富士の如くにあらあせられ」という句を近衛に贈った。期待が大きかっただけに、近衛は身心の引き締まる思いを深くした。(酒井三郎『昭和研究会』)


    後藤は京都帝大で一緒になって以後、近衛や志賀直方(直哉の叔父)と親交を深めてきた。大学卒業後は日本青年会に入って青年団運動に従事した。酒井三郎と一緒に青年団を辞め、昭和研究会を組織したのは近衛内閣を樹立するためであり、この日はいわば「満願の日」であった筈だが、実態は違っていた。


    牛場友彦 ・・・・・近衛さんが昭和十二年に内閣を組織したときは、すでに、日本の総理大臣がすることはもうなんにもないんだというんだ。万事ちゃんと決まっているんだというんだ。軍がセットしてくれる、軍ということはいわなかったけれども、ちゃんと決まっているんだと。総理大臣の権力は人事だけにあると、そういう諦観をもっていたんだ。諦めですよ。そうれはもう公にはいわんけど。(略)
    松本重治  二・二六事件のあとの粛軍が、まったく半分の粛軍なんだよね。虚の粛軍なんだよ。皇道派だけを粛軍しちゃって、後の半分、統制派を粛軍しないんだから、それで軍における両派の勢力比が、それまでと逆になっちゃった。近衛さんを支持し、近衛さんも頼りにしていた皇道派の連中がねこそぎ粛清されてしまった。これで近衛さんはガッカリしちゃった。近衛さんのつくった「憲法研究会」には、よく皇道派の連中が出入りしていたよ。(松本重治『近衛時代』)


    近衛内閣成立の少し前、次女(温子)の細川護貞との結婚式前日、近衛の自邸でごく親しい人を呼んでパーティが開かれた。その仮装パーティで近衛はヒトラーに扮している写真を、半藤一利が紹介している。


    そのころ、ヒトラーの率いるドイツは自給自足経済を確立し、ヨーロッパ最大の空軍と機械化陸軍を擁する大国。そしてイギリスのチャーチル下院議員の叫んだように国土拡大と「戦争精神の鼓吹」を大声でつづけている国になっています。日本軍部のなかには憧憬の眼差しで見ている将校たちも多くなり始めていたのです。(半藤一利『世界史の中の昭和史』)


    七月七日、盧溝橋事件が起こり宣戦布告なき支那事変(日中戦争)が始まった。事件は偶発的なもので、現地軍も四日後には停戦協定を結んだ。近衛内閣はいち早く不拡大方針を明らかにしたものの、同じ日、増派を決定するという矛盾する政策を取った。兵力を強化すれば中国は簡単に屈服するだろうとの甘い読みである。後にインパール作戦で悪名を流す牟田口廉也連隊長(大佐)が指揮する現地軍は暴走を続ける。

    八月三日には、日本軍は北京、天津を越えて上海まで進出した。第二次上海事変である。この当時蒋介石軍はドイツの軍事顧問団から様々な指導と武器の供与を受けており、短期決戦ではなく、多少の犠牲を払っても日本軍を奥地へ誘い込む持久戦を考えていた。

    石原莞爾参謀本部第一部長(作戦)は戦争拡大に反対だった。しかし武藤章作戦参謀から「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と反論されるだけだった。石原の主観的な思惑がどうであれ、統帥を無視して満州事変を惹き起こしたことが、その後の先例になったのであった。明らかな統帥違反を適切に処罰できなかったことが、アジア太平洋戦争における大量の無残な死者を作り上げるのである。


    国民も戦争に協力している。国家が国民をマインドコントロールしていたからではない。これまでの研究によれば、昭和七(一九三二)年五月の政友会の犬養(毅)内閣崩壊後も、国民は政党内閣の復活を望み、昭和一一(一九三六)年二月、昭和一二(一九三七)年四月と総選挙のたびごとに、民政党に第一党の地位を与え、社会大衆党を躍進させた。社会民主主義的な改革を目標に掲げる「昭和デモクラシー」が確実に進展していた。

    盧溝橋事件が起きたのは、「昭和デモクラシー」が発展する過程である。したがって、この事件をきっかけとして、国家が急に国民をマインドコントロールできるようになるはずがなかった。国民の戦争協力は、国家が強制したのではなく、まちがいなく自発的なものだった。(井上寿一『日中戦争』)


    何故、国民は自発的に戦争に協力したのか。国民は戦争したかったのである。マスメディアの報道にも原因があるが、それだけではない。井上は、二二六事件において天皇が鎮圧の意思を明確に表示したこと、それは明治憲法下にある天皇の役割が揺らいだことであり、政治体制が大きく揺らいでいる時期だったからではないかと言う。政治体制が揺らいでいたことは確かである。しかしそれが、「二二六事件において天皇が鎮圧の意思を明確に表示したこと」をきっかけとしたというのはどうだろう。むしろ、それ以降も天皇は意思を明確に示すべきだったにも関わらず、それをしなかったのが原因ではないか。

    同時に問題になるのは、軍部における下克上の風潮であろう。満州事変を起こした石原莞爾にしても、それを模倣して支那事変を起こした武藤章等の中堅幕僚が何故、上部の意見を無視してまで無謀なことを起こすことができたのか。その背景に、山縣有朋、寺内正毅、田中義一と続いた陸軍の長州閥の力が衰えたことがあると、筒井清忠は分析している。岡山の宇垣一成の宇垣閥、上原勇作、真崎甚三郎等の九州閥が対立する中で、永田鉄山や東条英機等の中堅幕僚が力を持つようになる。


    ・・・・能力主義によるところの日本の、よりオープンで近代的な人材選抜システム、業績主義的な人材配分システムのほうが、昭和期に問題を起こしやすい体制になっていた。日本社会で将校として生き残ろうとすると、大正軍縮以降、学校にいるときには学校の成績を上げ、職に就いたらあらゆる機会をとらえて自分の能力を発揮して高い地位に就こうとするようになる。あるいは少なくともそういう衝動が生じやすいようになっていた。当時の軍人にとって自己の能力を最大限に見せる機会といえば戦争ということになる。いわば当時の日本の陸軍の昇進システムそのものが、満州事変その他の一連の下克上的な事件を起こしやすいものとして存在しており、結局は太平洋戦争につながっていきやすいものとして存在していたのである。(中略)

    ・・・・日本の陸軍は年功序列的なシステムになっていたとか、あるいは上からの権威主義的な体制であったために戦争に進んでいったとか言うのは大きな誤解であると言えよう。それは、ある種の近代的な人材能力システムがあってこそ生じた現象なのである。軍人に関しては‶横並び主義〟よりは‶競争主義〟が問題の真因なのだ。(筒井清忠『天皇・コロナ・ポピュリズム』)


    八月、増派に伴って、揚五郎が中国戦線に召集された。下士官適任証書保持者は、召集時にはほぼ自動的に伍長となる規定があった。下士官は最も損耗の激しい立場である。

    「支那事変」勝利に、街は旗行列や提灯行列で、戦勝ムードに沸き立った。東京日日・大阪毎日新聞社が新軍歌の歌詞を一般公募し、入選作をレコード化した。A面は第一席の『進軍の歌』(陸軍戸山学校音楽隊作曲)、B面は第二席の古関裕而作曲『露営の歌』だった。しかし発売当初は余り売れなかった。


    発売後、約二ヶ月たったある日、東京日日新聞の夕刊に、「前線の勇士『露営の歌』を大合唱す」との見出しで、上海戦線で兵士たちが、ポータブル蓄音機を囲んで手を振りながら合掌している写真が載っていた。そして従軍記者は次のように記していた。

    「最前線の勇士たちは『進軍の歌』が届くとさっそく、ポータブルにかけて聞いた。兵士たちは、『進軍の歌』よりも『露営の歌』を好み、何回もかけてついに聞いている兵士が全員合掌した」(古関裕而『鐘よ鳴り響け 古関裕而自伝』)


    この曲が空前のヒットとなったのは、兵士の心情にあっていたということだ。揚五郎も歌っただろう。この一曲によって古関裕而は軍国歌謡の第一人者となった。


    勝って来るぞと 勇ましく
    ちかって故郷を 出たからは
    手柄たてずに 死なれよか
    進軍ラッパ 聴くたびに
    まぶたに浮かぶ 旗の波

    土も草木も 火と燃ゆる
    果てなき荒野 踏みわけて
    進む日の丸 鉄かぶと
    馬のたてがみ なでながら
    明日の命を 誰が知る

    弾丸もタンクも 銃剣も
    しばし露営の 草まくら
    夢に出て来た 父上に
    死んで還れと 励まされ
    さめて睨むは 敵の空

    思えば今日の 戦闘に
    朱に染まって にっこりと
    笑って死んだ 戦友が
    天皇陛下 万歳と
    残した声が 忘らりょか

    戦争する身は かねてから
    捨てる覚悟で いるものを
    鳴いてくれるな 草の虫
    東洋平和の ためならば
    なんで命が 惜しかろう


    以降『海行かば』、『愛国行進曲』、『麦と兵隊』、『父よあなたは強かった』、『愛馬進軍歌』、『九段の母』、『日の丸行進曲』、『出征兵士を送る歌』、『荒鷲の歌』、『空の勇士』等の軍国歌謡が続々と作られて行く。慰問袋や千人針がさかんに作られた。


    ・・・・・戦争の力学によって、国家は、家族制度が解体する前に、銃後を戦争に動員するために、慰問袋を政治的手段として利用していた。国家は、慰問袋に対して、たとえばつぎのような美談仕立てで政治的な機能を与えている。

    『朝日新聞』(昭和一二年一一月二〇日)は、「慰問袋が結んだ一佳話/一少女と勇士/病院で感激の対面」との見出しで、「想いを戦場に再起の熱情を胸に秘めて静かに戦傷の療養につとめる勇士達を見舞うて日毎牛込の第一陸軍病院を訪れる一少女の姿」を伝えている。木下部隊小山田勝雄一等兵と精華高女附属小学校六年「福島ルリ子ちゃん」との慰問袋の手紙をきっかけとした対面から、新聞は「美わしい挿話」を作り上げた。

    この新聞記事は、小山田一等兵に「一日も早く快くなって是非もう一度戦線へ行き度い」と語らせることを忘れていない。慰問袋は、兵士たちを慰めるだけではなく、ふたたび戦場へを駆り立てることになった。(井上寿一『日中戦争』)


    慰問袋に入れられた写真を見て、恋文を書く兵士もいた。慰問袋の大流行は思いがけずデパートの売上に大きく寄与した。農村の疲弊とは裏腹に、都会では戦争景気が始まっていた。本来は家庭で手拭を縫って巾着袋を作り、手紙や何かを入れるものであった筈だ。


    慰問袋は、軍当局の示した目安によれば、一円前後で作ることができるはずだった。ところがたとえば三越デパートは、五円、四円、三円のいわば「松・竹・梅」の慰問袋セットを売っていた。大阪の大丸は、一・五円、二円、二・五円、三円、四円、六円の六通りの詰め合わせがあった。これらのデパートは、慰問袋の趣旨から外れた豪華な既製品を売っていた。(井上寿一・同書)


    千人針はシラミの温床になったという証言が多くある。また中国人はこれを見て、日本人は神仏を頼む迷信深くて神経脆弱な民族だと判断した。昭和十九年六月の末、大岡昇平は、急な出征に間に合うように神戸から駆け付けた妻が、汽車の乗客に頼んで縫って貰った未完成の千人針を受け取った。妻はギリギリの時刻に品川駅で大岡に会えたのである。この時の情景を「大岡、かあちゃん、品川駅頭涙の別れ」と揶揄われた。大岡はマニラに向かう輸送船の上からこの千人針を海中に投じた。


    いずれこれは私の好まぬ迷信的持物であったが、何か記憶に残らない発作にあったのであろう。強いていえば私は前線で一人死ぬのに、私の愛する者の影響を蒙りたくなかったといえようか。国家がその暴力の手先に男子のみを必要とする以上、これは純然たる私一個の問題であって、家族のあずかり知るところではない。

    私はそれを雑嚢から取り出すと、何となく拡げて海に抛った。夕方はまだ明るかった。布はあるとも見えない風にあおられ、船腹に沿って船尾の方へ飛んで行った。

    ざわめきが目白押しに欄に並んだ兵の間に起こった。「ああ、ああ」と叫びに交って「千人針やないか」という声が聞こえた。私は自分の順然たる個人的行為が、こんなに大勢に注意を惹いてしまったのに少し慌てた。(大岡昇平「出征」)


    この頃、十八歳の山口淑子は天津の日本人租界松島街にある〈東興楼〉で開かれたパーティで、川島芳子に初めて会った。〈東興楼〉は芳子の経営する店である、既に軍事的政治的に利用価値のなくなった川島芳子に、軍はこの店をあてがっていたのだ。淑子は北京の中国人学校〈翊教女学校〉に通っていた。


    背はあまり高くはないが、均整のとれた肢体を包む男性用の黒い旗袍姿は、あでやかな女形の美しさだった。

    七三に分けた断髪、柔らかそうな短い髪が軽くなでつけてあった。視線とともに移動するまなざしや、やや大きめの口ブルからいたずらっぽい愛敬がこぼれる。(略)

    私の中国語を黙って聞いていた川島さんは、「ヨシコ? ヨシコとは奇遇だ。ボクと同じ名前だね。よろしく」と、驚いたことに今度は日本語の男言葉で言った。

    「ボクは小さいころ〝ヨコチャン〟と呼ばれていたよ。だから、きみのことも〝ヨコチャン〟と呼ぶからね。ボクのことは、〝オニイチャン〟と呼べよ」(中略)

    しだいにわかってきたのだけれど、彼女の生活は既に金璧輝司令のそれではなくなっていて、自堕落な放蕩三昧にすぎなかった。「東洋のマハタリ」と騒がれた好奇の眼も「東洋のジャンヌ・ダルク」ともてはやされた栄光もすでになく、日本軍からも満州国軍からも、右翼大陸浪人グループからも相手にされなくなっていた。(山口淑子・藤原作弥「李香蘭 私の半生』」


    九月には内閣訓令「国民精神総動員実施要綱」が出された。翌年からは学生の長髪が禁止され、パーマネントが廃止された。九月一日には「日の丸弁当」が奨励(強制)される興亜奉公日が制定される。この運動によって「ぜいたくは敵だ!」(昭和十五年)、「欲しがりません勝つまでは」(昭和十七年)、「進め一億火の玉だ」(昭和十七年)、「遂げよ聖戦 興せよ東亜」等の標語が作られた。


    ・・・・一般家庭の状態はそれほど逼迫したものではなかった。商店にはまだ、溢れるように商品が並んでおり、〈国民精神総動員運動〉なども開始されたが、じつのところ国民一般は、なぜそんな運動をはじめなければならないのか理解していなかった。大陸で日本軍が苦戦しているという情報は軍の規制ではいって来なかったことが逆効果となり、国民一般は時局にそれほど積極的な関心を寄せていなかったのである。(山中恒『ボクラ少国民と戦争応援歌』)


    この「ぜいたくは敵だ」が上から押し付けられたものとばかりは言えず、国民の要求に基づいたものでもあったと、井上寿一『日中戦争』は言う。


    対等化・平準化を求める労働者の主張は、政治的経済的レベルだけでなく、社会的レベルにまで及んでいる。日本労働組合会議は、昭和一三(一九三八)年七月、政府関係者に対してある要請書を提出する。それは「白米食禁止令」と「新聞雑誌の頁数の制限令」の実施を求めるものだった。

    当時、食料事情は必ずしも逼迫していなかった。それにもかかわらず、この要請書が提出されたのは、労働者たちが社会的レベルでの平等化を求めたからである。この要請書は、白米禁止が必要な理由を「貧富貴賤、老若男女の別なく全国民をして普く消費節約を実行せしめ且つ之によつて常に時局認識強化の為の善き刺戟を与え、臥薪嘗胆の意識を深め国民精神総動員の実を挙ぐるの良策」だからである、と述べている。


    十月二十二日、中原中也が鎌倉養生院で死んだ。三十一歳。小林秀雄三十六歳、大岡昇平二十九歳。小林はこんな詩を書いた。


    あゝ、死んだ中原
    僕にどんなお別れの言葉が言へようか
    君に取返しのつかぬ事をして了つたあの日から
    僕は君を慰める一切の言葉をうつちゃつた

    あゝ、死んだ中原
    例へばあの赤茶けた雲に乗つて行け
    何んの不思議な事があるものか
    僕たちの見て来たあの悪夢にくらべれば


    長谷川泰子(三十四歳)は昭和五年に左翼演劇人の山川幸世の子を産み(望んだ妊娠ではなかった)、中也が茂樹と命名した。前年には石炭商の中垣竹之助と結婚し、茂樹も中垣の籍に入った。中垣は昭和十四年から三年間、泰子が提案した中原中也賞に出資した。受賞者には立原道造、高森文夫、杉山平一、平岡潤がいる。

    大岡は中原の死に立ち会えなかった。病床を見舞ってはいたが、死の前日に所用で東京に出掛けていて、中村光夫からの電話で中原の死を知った。「しまった。しまった。」死の瞬間には傍にいるべきだと考えていたのである。大岡の「青春」は小林と中原にあったから、大岡は自己を点検するためにも中原の伝記を書かなければならなかった。


    我々は二十歳の頃東京で知り合った文学上の友達であった。我々はもっぱら未来をいかに生き、いかに書くかを論じていた。そして最後に私が彼に反いたのは、彼が私に自分と同じように不幸になれと命じたからであった。・・・・・

    私の疑問は次のように要約されるであろう。――中原の不孝は果たして人間という存在の根本的な条件に根拠を持っているか。いい換えれば、人間は誰でも中原のように不幸にならなければならないものであるか。おそらく答えは否定的であろうが、それなら彼の不幸な詩が、今日これ程の人々の共感を指起こすのは何故であるか。(大岡昇平『中原中也』)


    十月二十五日、企画庁と資源局を統合して企画院が発足した。国家総動員の中枢機関と位置づけられ、平時、戦時における総合国力の拡充運用に関する計画の立案上申、国家総動員計画の設定、遂行についての各省庁の調整統一をその職務とした。国家総動員法案、生産力拡充計画、物資動員計画などを作成し、興亜院の設置なども行った。統制経済は資本主義からの脱却であり、国家社会主義に向かう道である。ナチスの正式名称が、国家社会主義ドイツ労働者党であることを言うまでもないだろう。

    ジョージ・モッセ『大衆の国民化』は、フランス革命からナチスに至る大衆文化と政治の様相を、大衆を国民化する過程と見る。そのため翻訳した佐藤卓己は、「国家Nation」を「国民」と訳している。つまり国家社会主義ではなく、国民社会主義である。

    この間、盧溝橋に始まった支那事変は拡大の一途を辿っていた。上海を占領すると蒋介石政府は南京に逃れる。


    後藤(隆之助)は北京から上海に回った。松井石根将軍指揮下の中支那派遣軍はすでに蘇州を経て、南京に向かって進軍中であった。その時後藤と会った同盟の上海支局長松本重治の紹介により、中国の要人徐新六と会見した。松本は徐の警告に基いて、

    「日本軍は決して南京を陥落させ、これに入城して、中国人のメンツを失わせてはならない。南京を包囲しておいて、これを落とさず、蒋介石と和議を結ばなければ、事変は中国全土に拡大されて、結局収拾の道がつかなくなるであろう。これは和平の千載一遇の好機である」

    と進言した。後藤は直ちにこれに賛成し、時期を逸してはならないと急いで帰国した。そして帰途十一月二十七日、たまたま京都にいた近衛と都ホテルで会見し、この絶好の機会を失ってはならないと強く進言した。近衛は、後藤の言葉を首うなだれて傾聴していたが、やがて後藤に向かって、「今の自分には、もはやそうする力がない」と答えた。後藤はその一言をきいてがっかりし、夜行列車で帰宅したが、その夜は車中で一睡もできなかったという。(酒井三郎『昭和研究会』)


    十二月十三日、和平派の願いも空しく日本軍は南京を占領した。日本では南京陥落の祝賀パレードで沸き返った。山中恒『ボクラ少国民と戦争応援歌』によれば、昼の旗行列では『進軍の歌』、夜の提灯行列では『露営の歌』が歌われたという。小学二年生の東海林カズも、こんな行列に動員された筈だ。しかし昭和研究会のメンバーは失望していた。


    ・・・・(昭和研究会のメンバーに)五摂家の筆頭近衛関白への期待が強かったことは否定できない。少なくとも他のいかなる人物よりも、彼が決断すれば反対は少なく、事を成就し得ると考えていた。それだけに昭和研究会の会合には熱気があふれ、集まる人びとの顔には張りがあった。

    しかし、このようなひたむきな期待を裏切り、近衛個人に頼るのはむりではないかと感じさせることが間もなく起こった。考えてみると、事変不拡大の方針を持ちながら、これを止めえなかった責任者の一人は首相近衛であった。近衛は日本軍の南京入城を止めえなかった。(酒井三郎『昭和研究会』)


    報道はされなかったから国民は知らなかったが、この時およそ二ヶ月に亘って大虐殺事件が起きた。中国側は被害者数三十万人と主張し、歴史修正主義者はこの事件を「なかったもの」、あるいはごく僅かなものだったと主張する。三十万人という数は現在では検証できないが、しかし当時の日本軍関係者の証言からも、少なくとも数万の中国人の虐殺が行われたのは明らかである。

    半藤一利『昭和史』が偕行社による『南京戦史』から引用している部分が、最低限の数字だと思われる。偕行社は言うまでもなく旧陸軍の集まりだから、できれば犯行を小さく見せたいはずであるが、それでも合計三万人と言っているのである。


    中国軍捕虜・便衣隊などへの撃滅、処断による死者約一万六千人、一般市民の死者約一万五千七百六十人


    蒋介石は南京を捨てて漢口に移る。これにより、日中戦争は全面的な持久対峙戦へと入っていく。焦土作戦に持ち込んでも抗日を果たそうとする蒋介石と、一刻も早い平和を願う汪兆銘との間で、やがて対立が生まれてくる。

    一方ソ連では、スターリンの大粛清が始まっていた。粛清は文官だけでなく軍にも及んだので、実質的にソ連は戦争を遂行する能力を決定的に欠いていた。


    ・・・・強迫観念に囚われたスターリンは、内務人民委員部麾下の秘密警察を動員し、おのが先輩や仲間を含む、ソ連の指導者たちを逮捕・処刑させた。粛清は、文官のみならず、赤軍幹部にもおよび、その多くが「人民の敵」として、あるいは銃殺され、あるいは逮捕東国されていった。

    この大粛清が示す数字は、見る者を慄然とさせる。一九三七年から三八年にわたって、三万四三〇一名の将校が逮捕、もしくは追放された。そのうち、二万二七〇五名は、銃殺されるか行方不明になっており、実態は今も判然としない。また高級将校ほど、粛清の犠牲者が多くなっており、軍の最高幹部一〇一名中、九一面が逮捕され、その中の八〇名が銃殺されたという。(大木毅『独ソ戦』)


    宮田文子が送って来たイヴォンヌの写真を無想庵がPCL映画(後の東宝)の社長に見せたことで、イヴォンヌを百円の給料で女優として迎える話がついた。その矢先、イヴォンヌが失恋から自殺未遂を起こし、急遽、無想庵がパリに飛んで日本に連れて帰った。旅費は宮田耕三(既に文子と結婚している)が出した。日本に着いた早々、イヴォンヌは辻まことを探し出し、次いで山本夏彦の下宿に現れた。


    私は素人下宿の二階にいた。下でけたたましい声がする。「あたしぃ、おぼえていらっしゃってぇ?」とよそゆきの言葉である。日本へ来ておぼえたものにちがいない。

    おぼえていらっしゃって? と言われたって、そりゃメエゾン・ラフィットでは一年近く一緒にいたのだものおぼえているに決まっている。けれどもあのときは小学六年生だった。ディック(子犬)が死んでなげき悲しむ子供だった。それがいますくすくと育って一六三センチの天女のような娘になって、とりすましていれば美人で通るものを相好をくずして笑っている。(山本夏彦『無想庵物語』)


    まことは絵が売れず、喫茶店のマネージャーのようなことをしていたが、給料はない。夏彦は三流出版社の編集を転々としている。まともな給料取りはイヴォンヌだけである。これ以来、イヴォンヌ、まこと、夏彦は毎日のように犬コロのようにじゃれ合いながら遊び歩き、頻繁にイヴォンヌの部屋に泊まるのである。イヴォンヌの部屋は二階にあり、一階では無想庵が身じろぎもせず、上の様子を窺っている。ある日、無想庵がイヴォンヌを伴って前橋の萩原朔太郎を訪れた。


    父は「友達になるとよい」と、応接間から私を呼びに来た。心の中でおじぎができないからいやだと思いながらも私は、がまんして挨拶に行った。父は同じ年ごろの娘同士ならきっと話も合うだろうと思ったらしく、「娘です」と、私を紹介して二人を取りもとうとしていた。アメリカから帰ったばかりだというイヴォンヌさんは、色白の華やかな顔立ちで、年もずっと私より上らしく落ち着いて座っているのだが、私はイヴォンヌさんをちょっと見ただけで変なぎこちなさを覚え、おどおどしてしまった。おまけに日本語がよくわからないというイヴォンヌさんは、一言も、ものを言ってくれないのだ。父は二人をうち解けさせようとして、しきりに話題を探して、イヴォンヌさんに話しかけるのだが、「そうです」とか「いいえ」と言うきりでおしまいになってしまう。私の方もおなじなのだ。父はさも困ったようにしているが、イヴォンヌさんは退屈そうにマニキアをほどこしたきれいな指先で、ハンカチをいじっているだけなのであった。(萩原葉子『父・朔太郎』)


    まことや夏彦とはフランス語交じりで会話をしていたのだろうか。イヴォンヌは、まことと夏彦とどちらと結婚して欲しいかと無想庵に尋ねたが、翌年九月にまことと結婚し、馬込のアパートに住む。

    イヴォンヌについては長谷川洋という人(中部大学女子短期大学部?)が「武林イヴォンヌ年譜」を作っている。無想庵の死(昭和三十七年)、ブリュッセルでのイヴォンヌの死(昭和四十年・四十五歳)、文子の死(昭和四十三年・七十九歳)、まことの死(昭和五十年・六十三歳)、ブリュッセルでの宮田耕三の死(平成元年・八十九歳)まで実に詳細である。

    十二月十四日、北京に日本の傀儡地方政権「中華民国臨時政府」成立、行政委員長は王克敏。

    この年、石油資源確保のためタクシーの流し営業が禁止され、代用燃料への転換も進められていく。弥生の商売も順風満帆とはいかない。


    石坂洋次郎『若い人』、火野葦平『糞尿譚』、川端康成『雪国』、永井荷風『墨東奇譚』、豊田正子『綴り方教室』は教師・大木顕一郎の指導による豊田の作文だが、大木顕一郎・清水幸治編著の名義で出版されたため、印税は一切豊田には渡らなかった。山本有三「路傍の石」(『朝日新聞』)。正木ひろしの個人雑誌『近きより』開始。戦時下の雑誌として稀有なものである(文庫復刻版をもっていたのに、今探してみるとなくなっている)。

    山本有三の『日本少国民文庫』最終巻として吉野源三郎『君たちはどう生きるか』が刊行された。吉野源三郎は昭和六年に共産党シンパとして治安維持法違反で逮捕された経験を持つ。昭和十年に『日本少国民文庫』の編集主任となり、山本有三の病気によって、山本が執筆する筈だった最終巻を引受けたのである。他の編集者には石井桃子、吉田甲子太郎等がいた。丸山真男が絶賛した本だが、新自由主義経済による格差拡大が止まらず、本人の意欲と努力だけでは報われない時代に入れば、それなりの批判も出てくる。


    現在の視点で読んでみると、主人公の属する階級も含めて、雲の上の人の話としか思えず(最も丸山眞男も「ずいぶん上流だなアと私には思わせるものがありました」と言っているが)、どう生きるかを主体的に選びうる「君たち」というのが、実は少数の特権的な男の子たちだけを指していたことが良く分かる。(高田里惠子『グロテスクな教養』)。


    それなら、平成二十九年(二〇一七)に羽賀翔一によってマンガ化(マガジン・ハウス)され、二百万部を超えるベストセラーになるのは何故だろう。マガジンハウスによれば、当初は六十代男性が中心で、それが二十代、三十代に広がった。親から子、孫へプレゼントされるなどの需要もあった、と言っている。それならば、古い世代の郷愁である。しかし斎藤美奈子はもう少し希望を見ている。


    『君たちはどう生きるか』は正確にいえば、小説でも児童文学でもありません、出版されたのは日中開戦の年。タイトルが端的に示しているように、ファシズムに向かう時代に抗い、知識人が知識人予備軍の少年たちに向けて「知識人いかに生くべきか」を説いた書だった。だから説教臭くて鼻持ちならない部分があるのです。しかしここにはひとつのヒントがある。・・・・ニヒリズムを気取っているだけが能ではない。絶望をばらまくだけでは何も変わらない。せめて「一矢報いる姿勢」だけでも見せてほしい。読者が求めているのは、そういうことではないでしょうか。(斎藤美奈子『日本の同時代小説』)


    田坂具隆監督『真実一路』、山中貞雄監督『人情紙風船』、島津保次郎監督『浅草の灯』。洋画は『オーケストラの少女』。山中貞雄は翌年召集され戦死する。

    ディック・ミネ『人生の並木道』(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)、藤山一郎『青い背広で』(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)、淡谷のり子『別れのブルース』(藤浦洸作詞、服部良一作曲)、上原敏『裏町人生』(嶋田磬也作詞、阿部武雄作曲)、『露営の歌』(籔内喜一郎作詞、古関裕而作曲)。この時代に『青い背広で』が流行するのが分らない。

    『別れのブルース』は本牧のチャブ屋を舞台にした歌である。発売当初は全然売れなかったが、満州の兵隊たちの間で火が付いた。淡谷のり子の戦線慰問で最も人気のあった曲で、兵士にリクエストされると、淡谷は憲兵隊の逮捕を覚悟して歌ったという。


    この曲が発売されたのは一九三七年(昭和十二年)七月で、その直後に盧溝橋事件が起こり、戦かは中国大陸全土へとひろがっていった。したがって満を持して発売したコロンビアも頽廃ムードの歌を積極的に宣伝するわけにいかず、頭を抱えていた。ところが、ほとんど宣伝しなかったにもかかわらず、中国大陸の出征兵士のあいだでまず望郷の歌として歌われ始めた。「窓を開ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える 夜風汐風 恋風のせて 今日の出船はどこへ行く むせぶ心よ はかない恋よ 踊るブルースの 切なさよ」

    戦場から町へ、街から港へ、そして海を渡って本土に逆上陸してきた。下関、神戸、大阪、名古屋と、日本内地で流行し出してからは、一日五万枚のペースで売れたという。また漢口の前線から汗と涙のまじった兵隊の合唱がNHKの電波に乗ってきて日本全国に紹介され、これが「別れのブルース」の初放送となった。(『李香蘭 私の半生』)