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    東海林の人々と日本近代(九)昭和篇 ④

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2022.10.08

    昭和十三年(一九三八)利器七十歳、タツミ三十七歳、祐十三歳、カズ十歳、利孝八歳(亀田小学校入学)、ミエ五歳、利雄四十一歳、石山皆男三十八歳、鵜沼弥生三十六歳、高橋揚五郎三十四歳、田中伸三十一歳。


    一月十五日、落語家や漫才師の前線慰問団「笑わし隊」第一陣が中国戦線へ出発した。吉本興業と朝日新聞社が共同したもので、「荒鷲隊」(陸海軍の航空隊)のもじりである。北支那班は柳家金語楼(班長)、花菱アチャコ・千歳家今男、柳家三亀松、京山若丸のメンバー。下関から大連行きの扶桑丸に乗り込んだ団員たちは『露営の歌』を合唱したが、これは毎日新聞が選定した歌だったので、見送りの朝日社員は驚いてやめさせようとした。

    中支那班は石田一松、横山エンタツ・杉浦エノスケ、神田盧山、ミスワカナ・玉松一郎であった。中でもミスワカナ(玉松ワカナ)の人気が高かったという。

    一月十六日、近衛首相は「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず」と余りにも愚劣な声明を発表した。前年十一月頃からドイツの駐中国大使トラウトマンの仲介で蒋介石との間で和平工作が進められていたにも関わらずである。この工作には石原莞爾も関わっていた。


    ・・・・・日中戦争史上最も実現可能とみられた最大の政略的和平工作であったが、この工作もまた、蒋介石が日本との和平談判を開く前提条件として、はっきりと申し入れていた筈の「和平談判以前に両軍の停戦」という条件を、日本軍が無視して南京まで進軍し、これを攻略したために、談判は行き詰まり不成功に終わった。

    工作の発端は、参謀本部作戦部長石原莞爾少将であった。石原少将はその年の七月三十一日の天皇への御進講のなかで、「なるべく速やかに外交折衝によって、兵を収むるの機会をうること刻下の急務」と申上げ、天皇も同感の意を表明されたといわれているが、その一か月後の九月上旬ごろ、当時参謀本部付であった馬奈木敬信中佐に非公式に依頼したことに始まったといわれている。(松本重治『近衛時代』)


    南京占領の戦況を見て、近衛内閣は更に強硬な条件を出してしまった。国民政府が全面降伏しない限り、傀儡政権を擁立して対処するという強硬方針である。それが声明の背景だった。昭和研究会のメンバー酒井三郎は、この声明を聞いて「まったく青天の霹靂ともいえる事件」と驚いた。

    松本重治はこの和平工作の当事者だったから、無念の思いは強い。松本は昭和七年(一九三二)の暮に聯合通信上海支局長に赴任して以来、各国のジャーナリストや外交官、国民政府要人との人脈を築いていたのである。


    一九三〇年代の中葉に於いては、上述のように、上海は年ごとにますます東アジアの政治、経済、外交に関する一大中心地になっていた。だから、アジア一般の研究に感心を持つもので、一度は上海を訪れたいという意欲に駆られないものは、ほとんどなかったであろう。だから、学者も、著述家も、ジャーナリストも、次々に上海に来たものであった。そして、私が着任してから一年も経つと、これら上海へのヴィジターのうちで、私にも会いたいといってくる人が少なからざる数に上った。日本からの訪問客も多かったが、アメリカからの来客もだんだんとふえていった。(松本重治『上海時代』)


    戦後、近衛は「この声明は識者に指摘せられるまでもなく、非常な失敗であった。余自身深く失敗なりしことを認むるものである」と回想している。この程度の人物が首相であった。

    この後も、軍の一部識者、松本等と中国側の一部和平論者との間では極秘で和平工作が進められるのだが、結局うまく行かない。石原は和平工作を理由に関東軍参謀副官に左遷された。しかも参謀長は犬猿の仲である東条英機だった。

    またこの時から、「満州青年移民実施要項」に基づき、満蒙開拓青少年義勇軍の募集が始まった。要件は小学校を卒業し、数え年十六歳から十九歳までの身体強健なる男子で、父母の承諾を得た者である。建前としては自由応募が原則だが、実際には当局から各都道府県へ割り当て、各都道府県からは各学校への割り当て数が決められていた。青少年義勇軍については、小学校教師の責任が大きいのである。

    彼らは内地で三ヶ月、満州で三ヶ月の訓練を経て、一般の移民よりも厳しい環境の開拓地に送り込まれた。そして昭和二十年八月までに送り出された青少年は八万六千人に上る。そしてこの年から「大陸の花嫁」募集も本格化する。


    開拓移民が入植した土地は、国土総面積の一四・三%にあたるという。最初は、満州開拓公社が現地の中国人農民の土地を時価の半値以下で安く買いたたき、集団移住させるケースが多かった。・・・・

    また、斡旋された土地が荒蕪地だったこともかなりあったという。これは日本政府の宣伝に偽りがあったことになろう。(鈴木貞美『満州国』)


    土地を奪われた満州の農民は苦力になるか、別の荒蕪地を開拓するかしかない。抗日パルチザン(日本では「匪賊」と呼んだ)になる者も多かった。

    『タンク・タンクロー』の作者阪本牙城は翌年、満州開拓総局の広報担当嘱託として渡満、義勇隊の訓練所を訪ねて少年たちにマンガを教えることになった。『タンク・タンクロー』は後の益子かつみ『さいころコロ助』の先祖とも言うべき漫画である。牙城は実見した満州の生活を文章にした。その中の一文を大塚英志『大東亜共栄圏のクールジャパン』が引用している。


    「いくつだ」「十三」「学校は?」「先生が揃はないから時々団長さんが教へてくれる」「時々か」「学校なんか不自由でいいんだ」「どうして?」「昔は学校なんか無かつた。吉田松陰だつて東郷元帥だつて、みんな不自由して勉強したよ」「団長さんがいつたのか」「この間きた牙城先生といふ漫画家がさういつた」「内地へ帰りたくないか」「ここだつて、内地だよ。内地の延長だよ」「面白いか」「馬に乗れるもの、愉快だよ」「馬は好きか」「百姓には、馬は家族の一員さ。日本馬は寒さに弱いが、満馬は野晒しで平気だ」「満馬の小屋はないんだね」「はじめあつたのだが、小屋の板をヒツペ返して燃して了つたのさ。俺たちやあダメだよ」(阪本牙城「少年拓士」)


    牙城は恐らく意識していないが、学校教育も受けられない厳しさが充分伝わって来る。また、戦後のエッセイでは屯墾病によって訓練所から脱走する事例を紹介している。


    屯墾病とはホームシックのことである。これにかかると、飯も食わずにふさぎこむのも居るし、加藤寛治を斬ってしまうとあばれるのもいる。いよいよ病が昂じると、脱走するのがいる。日本内地へ帰るつもりなのだが、訓練所は概ね僻地で、汽車の駅まで何十キロという処もある。夜半ひそかに宿舎を抜け出すのだが、大きな冒険である。翌日、全隊員で捜したが、リュックサックだけ見つかったのに、本人の姿はまるで見当たらぬ。多分狼にやられたのだろうということになった例もある。とにかく義勇隊はきびしい。宿舎の建設、農耕、教練と日々是重労働の明け暮れで、しかも索漠たるものだ。(阪本牙城「タンク・タンクロー満蒙を行く」)


    二月十八日、石川達三「生きている兵隊」(『中央公論』三月号)が発売禁止となった。石川が中央公論特派員として南京従軍した作品で、南京での虐殺の実態も記録されている。発表される際、無防備な市民や女性を殺害する描写、兵隊自身の戦争に対する悲観などを含む四分の一が削除されたにもかかわらず、「反軍的内容をもった時局柄不穏当な作品」と判断され、石川は禁固四か月、執行猶予三年の刑を受けた。

    三月二十八日、日本軍により南京に中華民国維新政府が成立し、北洋軍閥系の梁鴻志が行政院院長となった。この頃から汪兆銘を擁立して再度和平を計ろうとする動きも出てきた。しかしこれは困難な道で、汪兆銘に悲劇を齎すことになる。

    四月には国家総動員法が公布された。第一次世界大戦以来(日露戦争以来と言う考え方もある)、戦争は総力戦となり、それを具現化するのは国家総動員である。唯一の無産政党である社会大衆党(安倍磯雄委員長、麻生久書記長)はこの法案に賛成した。社会大衆党は陸軍統制派と革新官僚に接近して、前年の党大会では全体主義を原則とした。この法案の背後にある国家社会主義思想が資本主義打倒に至るのではないかと希望的に誤認したのである。

    様々な統制が行われ、弥生の商売にも影響が出てくる。

    九州若松の沖仲士「玉井組」の二代目・玉井勝則伍長は徐州会戦に従軍した。応召前に同人誌『文学会議』に載せた『糞尿譚』がこの二月に芥川賞を受賞して、陸軍内部でも火野葦平の名は知られていた。上海上陸から南京を攻略し、そこで勝利する筈だったのに、「見渡す限りの青々とした麦畑が、何時までも、何処までも続き」、どこまで行けば勝てるのか分からない。陸軍は芥川賞作家の火野に徐州作戦の従軍記を書かせ、『改造』に掲載した。『麦と兵隊』である。この小説はベストセラーになり、映画にもなった。


    「徐州々々と 人馬は進む
    徐州居よいか 住みよいか」
    酒落れた文句に 振り返りゃ
    お国訛りの おけさ節
    ひげがほほえむ 麦畠(略)

    行けど進めど 麦また麦の
    波の高さよ 夜の寒さ
    声を殺して 黙々と
    影を落して 粛々と
    兵は徐州へ 前線へ


    私たちには東海林太郎が歌ったこの歌の方が馴染みがある。藤田まさと作詞、大村能章作曲。名曲だと思う。


    徐州会戦は「支那事変」といふ戦争の正確に一時期を画し、日本軍の作戦に決定的な変更を強ひた戦闘である。日本軍にとって、それは、もはや決戦といふ思想を放棄せざるを得ない局面に立たされたことを意味した。

    持久戦といふ思想を日本軍はもつたことはない。その最高教育機関である陸軍大学の作戦戦術学においても、持久戦を研究課題としたことはない。

    徐州会戦の作戦目的は微妙に揺れ動いてゐた。徐州を占領することが目的なのか、徐州一帯に予期を上回つて出現した中国の大軍を殲滅することが目的なのか。二ヶ月にわたる大規模な戦闘で二兎を追ひ、結局徐州占領といふ一兎を獲たが、包囲殲滅による決戦の失敗が、徐州占領の勝利を上回つて印象づけられた。(桶谷秀昭『昭和精神史』)


    戸辺良一他『失敗の本質』にも、日本陸軍の重大な欠陥として、短期決戦思想しかなく持久戦の発想がなかったこと、作戦目的が曖昧で上級司令部と現地との間で常に齟齬が生じていたことなどを挙げている。

    同じ戦線に武田泰淳も輜重兵として従軍していた。武田が兵士として優秀だったとは到底思えないが、輜重兵ならば納得できる。輜重輸卒が兵隊ならば蝶々トンボも鳥のうち。日本軍はついにロジスティクスの重要さに気付くことがなかった。武田はこの経験から『司馬遷』を書くことになる。


    私が、「史記」について考え始めたのは、昭和十二年、出征してからである。はげしい戦地生活を送るうち、長い年月生きのびた古典の強さが、しみじみと身にしみて来て、漢代歴史の世界が、現代のことのように感じられた。歴史のきびしさ、世界のきびしさ、つまり現実のきびしさを考える場合に、何かよりどころとなり得るものが、「史記」には有る、と思われた。(武田泰淳『司馬遷 史記の世界』)


    恐らくこの徐州作戦中のことだと思われるが、四月二十九日、高橋揚五郎(三十四歳)が戦死した。後には妻富子と幼児新太郎(三歳か四歳)が残された。葬儀の執行、遺産の処理をはじめ、富子と新太郎が平鹿の田根森(富子の実家)に引揚げるまで、弥生が万端を仕切った。新太郎は戦後、大学(記録にはないが、おそらく秋田大学だと思う)を出て教員になる。

    大黒柱を失った家族の生活はどうなるか。戦死者の遺族には一時金として死没者特別賜金が支給される。


    賜金額については規程中に定額は示されていないが、賜與の実例に徴すれば、戦死又は之に準ずる場合は、上等兵は一四〇〇円、軍曹は一八〇〇円、曹長は二〇〇〇円、少尉は三〇〇〇円程度を(中略)夫々の階等に応じて賜與されている。(都立中央図書館レファレンス事例)

    https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000034223


    揚五郎が伍長なら千六百円というところだろうか。当時の百円は現在の十五万円から二十万円程度と説明するサイトがある。最大二十万円で換算すれば三百二十万円である。これで残された家族が暮らすことができるか。母子二人の最低生活費が月に三十円とすれば、一年で尽きてしまう。但し別に恩給があり、この金額は分らないが何とか生活はできたらしい。


    恩給法施行後の 一九二六年以降判任官と兵の平均受給額は男子職工平均年収を常に 二〇〇円から五〇〇円程度上回った。(略)

    この期間に恩給を受給していた軍人とその遺族は、金銭面からみて、一九二〇年代から一九三〇年代初頭と同程度の生活水準を維持できたと評価できる。(今城徹「戦前期日本の軍人恩給制度」『大阪大学経済学』六十四巻二号)

    https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/57048/oep064_2_087.pdf


    利器は「揚五郎は御名御璽に生まれ、天長節に死んだ。はじめから、国に捧げた運命だった」と皆男に語った。御名御璽とは明治二十三年十月三十日発布された教育勅語のことだ。揚五郎の出征は同じ月日である。また天長節とは四月二十九日の天皇裕仁誕生日を指す。揚五郎の戦死の日と同じなのだ。


    六月九日には文部省が「集団的勤労作業運動実施に関する件」を実施する。日中戦争拡大に伴って国内労働力が不足となり、中等学校以上の生徒・学生を工場や農村に動員するのである。


    作業の実施期間は、夏季休暇の始期終期その他適当な時期において、中等学校低学年は三日、その他は五日を標準とし、その対象としては農事・家事の作業・清掃・修理・防空施設や軍用品に関する簡易な作業・土木に関する簡易な作業を選んだ。これは当時の実践的な勤労教育の考え方に基づいたものであった。(文科省「学徒動員」)


    この時点では夏季の三日か五日だけだったが、翌十四年三月には集団勤労作業を「漸次恒久化」し、正課に準じて取り扱うことを指示する。十六年二月の「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」では、「国策ニ協カセシムル実践的教育」であるとし、「一年ヲ通ジ三十日以内ノ日数ハ授業ヲ廃シ」て作業日数を授業日数とカウントすることになる。


    七月、弥生は、加賀谷誠治氏が秋田市茶町扇の丁三番地(現・大町一丁目)に建てた車庫付き住宅を借り、やよひ自動車商会を移転した。その後、昭和二十年には車庫住宅など建物を買い取り、昭和二十二年に土地も買収登記完了する。ここが戦時の合同タクシー時代、戦後の中央交通時代、あさひ自動車時代を通じて、自宅兼車庫、事務所、発着所となった。現在では弥生の夫婦養子として鵜沼を継いだ武光と久子が住んでいる。

    竿灯大通りから繁田園の角を南に向かうのが茶町通りである。一本東側が羽州街道(赤れんが通り)、更に一本東が飲み屋街の川反である。幼い頃の私は、お茶の繁田園があるから「茶町」なのだと思い込んでいた。しかし繁田園は文化十二年(一八一五)武州狭山(現在の埼玉県入間郡)に創業していた。東北地区への狭山茶販路拡大のため大正五年(一九一六)、秋田市茶町扇ノ丁に秋田店を開店したのである。


    「茶町とぎくて(遠くて)…」。

    この言葉を聞いて懐かしく思うかたもいらっしゃるのではないでしょうか。

    この表現は、お茶受けの甘いものを切らしたときなどに、秋田ならではの風情ある言い訳として便利に使われてきました。

    藩政時代、茶町には、砂糖類の専売権が与えられ、それ以外の町では、砂糖類の販売ができませんでした。そのため、不意のお客さんをもてなす、煮豆やボタモチなどのお茶受けの甘みが足りないとき、「自分の住む町が茶町から遠くて砂糖を買いに行けず、十分な甘みが出せなかった」という言い訳を、しゃれた言い回しで表現しました。

    茶町の町名も大町になったのは、昭和四〇年。旧町名が残るこのあいさつは、これからも大切に語り継がれていくことでしょう。(「くぼた旧町名物語(1)商業のまち『大町・茶町』」編広報あきた二〇〇四年五月一四日号No.1577)


    八月、石原莞爾は予備役願いを出したが、植田関東軍司令官は願いを却下して、病気療養の帰国を命じた。そして十二月には舞鶴要塞司令官に任じられる。石原は既に意欲を失っていた。

    八月十六日、ヒトラー・ユーゲントの一行三十名が来日し、十一月十二日まで滞在した。日本滞在中、一行は近衛文麿首相以下文部・外務・陸軍・海軍の各大臣と接見し、富士登山、全国青少年団連合歓迎大会への出席等の各種行事をこなし、北海道・東北から東海・近畿・中国・九州地方を視察旅行し、各地で歓迎を受けた。

    この期間には日劇ダンシングチームがヒトラー・ユーゲント来日を歓迎して、「ハイル・ヒトラー」というショウを上演する。写真を見ると、全員が軍服を着てハーケン・クロイツの旗をなびかせている。


    八月二十四日、「学校卒業者使用制限令」が公布された。国家総動員法における労務統制の始まりである。産業界では技術者の不足が著しく、工鉱業系の新規学校卒業者の争奪戦が激化していた。これを解決し適正配置を図るために、工鉱業関係新規学卒者の割当による雇入れ制が採用された。就職先を自由に選択することもできなくなったのである。

    九月、「従軍ペン部隊」が大陸に出発した。軍には、二月の石川達三『生きている兵隊』事件への反省があった。新聞社や通信社の記者ではなく、文化人を採用して軍の統制下においてのみ従軍させ、発表を許す趣旨である。

    そして武漢作戦は格好のプロパガンダの舞台であった。陸軍班(久米正雄、丹羽文雄、岸田國士、林芙美子、佐藤惣之助、川口松太郎)、海軍班(菊池寛、佐藤春夫、吉屋信子)、陸軍省嘱託としてのレコード班(西條八十、古関裕而、佐伯孝夫)、海軍省嘱託として長谷川伸、海音寺潮五郎、衣笠貞之助。これが後の日本文学報国会(昭和十七年)に繋がって行く。林芙美子は「漢口女流一番乗り」で一躍有名になる。帰国後に書いたのは『北岸部隊』だった。


    『北岸部隊』は率直にいってあまりおもしろくない本である。林芙美子の場合、自分か自分に似た女が主人公にならないと書けないのである。・・・・

    芙美子のいうごとく、戦場に「女の書くべきこと」はたしかにあったのだろう。しかし「林芙美子の書くべきこと」はなかったのである。彼女にとって戦争は民族や国家の運命を左右する歴史の沸騰ではなく、ひとりの男、ひとりの女の運命に干渉する事件と認識されたから、読むに価する彼女の戦争の物語は戦後にあらわれるはずであった。(関川夏央『女流 林芙美子と有吉佐和子』)


    十月二十七日、日本軍は武漢三鎮(武昌、漢陽、漢口)を占拠した。既に中国戦線には二十三個師団七十万の兵が投入されている。引くに引けない戦争となったのである。

    この頃の日本軍は毒ガスを使用していた。閑院宮参謀総長から寺内寿一北支那方面軍司令官・蓮沼蕃駐蒙兵団司令官に対し、次の命令(大陸指一一〇号)が出された。


    「左記範囲ニ於テあか筒軽迫撃砲用あか弾ヲ使用スルコトヲ得
    使用目的 山地帯ニ蟠居スル敵匪ノ掃蕩戦ニ使用ス
    (2)使用地域 山西省及之ニ隣接スル山地地方
    (3)使用法 勉メテ煙ニ混用シ厳ニ瓦斯使用ノ事実ヲ秘匿シ其痕跡ヲ残ササ          ル如ク注意スルヲ要ス


    「厳ニ瓦斯使用ノ事実ヲ秘匿シ其痕跡ヲ残ササル如ク」とわざわざコメントしているように、ジュネーヴ議定書(一九二五年)で禁じられた科学兵器である。「あか筒」「あか弾」はクシャミや嘔吐を催すもので、化学物質名はジフェニルシアノアルシン、ジフェニルクロロアルシン(どちらも砒素化合物)である。内閣府のHPには、中国大陸で遺棄された化学兵器が説明されていて、因みに「きい」は糜爛剤、「あお」は窒息剤である。平成九年(一九九七)四月二十九日に発効した化学兵器禁止条約に基づき、日本は大陸での遺棄化学兵器を調査、廃棄処理を行う義務が生じた。そこで調査された内容が下記である。


    中国における遺棄化学兵器の特徴

    遺棄化学兵器には、きい剤(びらん剤)、あか剤(くしゃみ(嘔吐)剤)等様々な種類があり、砒素を含有する化学剤が多く使用されている。

    上記化学剤を充填した遺棄化学兵器には、化学砲弾、化学爆弾、有毒発煙筒、化学剤入りのドラム缶状容器などがある。

    化学砲弾及び化学爆弾にはピクリン酸が伝火薬または炸薬として使われている。

    (内閣府・遺棄化学兵器処理担当室「遺棄化学兵器等」)


    武漢を攻略することで戦争は終結すると予想していた日本軍だったが、蒋介石は重慶に逃れてしまったので、戦争終結の予測は見事に外れた。これによって、十一月十三日には、第二次近衛声明「東亜新秩序建設の声明」が発表された。


    今や、陛下の御稜威に依り帝國陸海軍は、克く廣東、武漢三鎭を攻略して、支那の要城を戡定したり。國民政府は既に地方の一政權に過ぎず。然れども、尚ほ同政府にして抗日容共政策を固執する限り、これが潰滅を見るまで、帝國は斷じて矛を收むることなし。

    帝國の冀求する所は、東亞永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。今次征戰究極の目的亦此に存す。

    この新秩序の建設は日滿支三國相携へ、政治、經濟、文化等各般に亘り互助連環の關係を樹立するを以て根幹とし、東亞に於ける國際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、經濟結合の實現を期するにあり。是れ實に東亞を安定し、世界の進運に寄與する所以なり。(以下略)


    初めて日本の戦争目的が「東亜新秩序建設」にあると表明し、下記の条件を示すことによって汪兆銘との提携の可能性を示唆したのである。


    帝國が支那に望む所は、この東亞新秩序建設の任務を分擔せんことに在り。帝國は支那國民が能く我が眞意を理解し、以て帝國の協力に應へむことを期待す。固より國民政府と雖も從來の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更生の實を擧げ、新秩序の建設に來り參ずるに於ては敢て之を拒否するものにあらず。


    何故日本が「新東亜秩序」の盟主でなければならないのか。つまり何故日本人は他のアジア民族の上に位置しているのか。ジョン・ダワーは、人種に対する偏見、差別主義の観点から日米戦争を分析したが、西欧人と異なる日本人の人種意識を取り上げている。ダワーの所論に全面的に賛成するわけにはいかないが(日本人の朝鮮人差別、中国人差別の問題が抜けている)、一つの見方であろう。しかしこれを読んでも、日本人が何故そういう観念をもつに至ったかは理解できない。


    ・・・・西洋における人種主義は、他の人々を侮辱することに際立った特徴があったのに対し、日本人は、・・・・・「日本人」であるということが真に何を意味するのか、いかに「大和民族」が世界の諸民族と諸文化の中でユニークであるか、このユニークさがなぜ彼らを優秀にしたか、といった問題と取り組むことにより多くの時間を費やした。

    この激しい自己への没頭は、結局は手の込んだ神話的な歴史の普及となり、日本の皇統という神授の起源と日本国民の異例な人種的、文化的な均質性を強調することになった。(ジョン・ダワー『容赦なき戦争』)


    十一月九日夜から十日未明にかけ、ドイツ各地でユダヤ人居住区やシナゴーグ等が襲われ、百人を超える人名が失われた。ナチスによる官製の暴動であった可能性が高い。〈水晶の夜〉と呼ぶ。七日、ポーランド系ユダヤ人ヘルシェル・グリュンシュパンが、ドイツ大使館へ赴き、三等書記官エルンスト・フォム・ラートを銃撃した。これに対する報復である。原因はナチスがポーランド系ユダヤ人を無理やりポーランドに追放したこと、ポーランドが受け入れを拒否して、ユダヤ人は国境付近で放浪を余儀なくされていたこと。ヘルシェルのテロはこれへの抗議であった。

    そしてこの事件以後、ナチスはユダヤ人を追放することではなく、殲滅へと大きく舵を切っていくことになる。そのためには、もっと違う種類の暴力装置が必要だった。〈水晶の夜〉は「効率性」に欠けるのだ。


    ユダヤ人の商店やシナゴーグや家屋が、暴徒化した、しかし、公に承認され、密に組織された群衆によって襲撃されたのだった。(中略)

    ナチスによるユダヤ人の処置が〈水晶の夜〉やそれに類似した事件だけから成り立っていたのであれば、リンチ集団や征服した街で略奪にはしり、強姦を犯す兵士たちの狂乱心理を歴史的に扱った何冊にも及ぶ研究叢書の、わずか一パラグラフ、あるいは、よくても一章ほどを占めるにすぎなかったであろう。しかし、実際はそうではなかった。(中略)

    完全なる殺人を徹底的・包括的に行うには、暴徒ではなく官僚制度が必要であり、激怒の共有ではなく権威への服従が必要である。必須とされる官僚制度は強硬、穏健両極端の反ユダヤ人主義者によって構成され、潜在的にそうした人材のたくわえを大きくふやしていけばより効率的である。それは構成員の行動を感情の高揚でなく、ルーチン形成によって統制する。(ジグムント・バウマン『近代とホロコースト』)


    ホロコーストが官僚制によって綿密に行われたことは、ハンナ・アーレントも指摘している。ナチズムを支える官僚制は、官僚は何も考えず前例を遵守し、ただ上からの命令を忠実に効率的に実行するだけになってしまう。一九二四年に死んだフランツ・カフカが『審判』や『城』で迷い込んだ、不可解でグロテスクなものにならざるを得ない。安倍長期政権下の官僚も同様の世界に迷い込んでしまった。森友問題における公文書改竄や文書廃棄はまだ正しい決着を見ていない。

    十二月十七日、ドイツのオットー・ハーンとリーゼ・マイトナーが、中性子によるウランの核分裂を発見した。但しマイトナーはユダヤ系だったため、ナチスから逃れてスウェーデンに亡命していた。そのためにハーンは自分一人の発見であると主張し、ノーベル化学賞も一人受賞した。

    ここまでの研究を辿ってみると、一七八九年にドイツのクロプロートが「ウラン元素」を発見したことに始まる。一八九六年、フランスのアンリ・ベクレルがウランの「放射線」を発見。一九〇〇年初頭にキュリー婦人が「放射能」の研究を始める。一九一一年、ハンス・ガイガーとアーネスト・マースデンが「原子核」を発見。一九三二年、チャドウィックが「中性子」の存在を明らかにする。そしてハーントマイトナーである。天然の原子の中で最も重いウランの原子核に中性子をぶつけると、中性子が吸収され、核分裂反応により、中性子と共に大きな熱エネルギーを放出することを突き止めたのである。

    翌年八月、アインシュタインはルーズヴェルト大統領に書簡を送り、すぐさま研究に着手するよう促した。「確信は持てませんが、非常に強大な新型の爆弾が作られることが、十分に考えられます。この爆弾一つだけでも、船で運んで爆発させれば、港全体ばかりかその周辺部も壊すことができるほどの威力を持っています」と。後にアインシュタインはこの書簡を後悔し、マンハッタン計画には加わらなかった。人類史上初めての原爆実験は昭和二十年(一九四五)七月二十六日であった。それからわずか半月で最初の原子爆弾は広島に落とされる。


    十二月十八日、近衛声明に応じて汪兆銘は重慶を脱出してハノイに入った。この年の春頃から、陸軍省軍務局長影佐禎昭大佐の高宗武(国民政府外交部前亜州局長)を通じる汪兆銘との和平工作が進んでいた。条件は日本軍の撤兵である。日本人の中にも撤兵やむなしと判断できる人材はいたのである。


    日本側では影佐大佐を中心に同盟通信上海支局長の松本重治、大使館の清水薫らがこれに参画していて、七月末に蝋山政道らと私(酒井三郎)が上海に行った時には、相当動きが顕著になっていた。(酒井三郎『昭和研究会』)


    そして十二月二十二日第三次声明を出す。この声明には、汪兆銘側との事前協議で合意した「二年以内の完全撤兵」が抜けていて、影佐は失望した。しかし三十日には汪兆銘が「和平反共救国声明」で応じた。その結果、年が明けた元日、中国国民党は汪兆銘を除名する。汪兆銘は実に危険な悲劇的な道を選択したのである。


    ・・・・汪兆銘を全面的に支持し、軍官が干渉を避けて、汪のやりやすいようにすることが絶対条件になった。松本重治は、日本軍の侵略行為を中止させること、汪を漢奸たらしめないことを影佐に約束させ、その信頼関係に立って汪の脱出をはかったのであった。もしそれが実行されなければ汪をただ犬死させてしまうことになるのをおそれたのである。しかし事実はまた、おそれていたとおりになってしまった。(酒井三郎『昭和研究会』)


    この年、各種の代用品が出回った。陶製の鍋、竹製スプーン、木製バケツ、スフ(ステイープル・ファイバー)等。つまり金属は全て軍用に回されたのである。


    中原中也『在りし日の歌』、高群逸枝『母系制の研究(大日本女性史第一巻)』、火野葦平『麦と兵隊』、小川正子『小島の春』、マルタン=デュ=ガール『チボー家の人々』。

    この年十一月、『岩波新書』が発刊した。編集長は吉野源三郎で、ペリカンブックスの判型を参考にした。発刊の辞は編集部の草稿が気に入らず、岩波自身が全面的に書き直した。かなり激しい調子である。岩波もまた一個の国士であった。


    「岩波新書を刊行するに際して」岩波茂雄

    天地の義を輔相して人類に平和を与え王道楽土を建設することは東洋精神の神髄にして、東亜民族の指導者を以て任ずる日本に課せられた世界的義務である。日支事変の目標も亦茲にあらねばならぬ。

    世界は白人の跳梁に委すべく神によって造られたるものにあらざると共に、日本の行動も亦飽くまで公明正大、東洋道義の精神に則らざるべからず。東海の君子国は白人に道義の尊きを誨ふべきで、断じて彼等が世界を蹂躙せし暴虐なる跡を学ぶべきではない。

    今や世界混乱、列強競争の中に立って日本国民は果たして此の大任を完うする用意ありや。吾人は社会の実情を審にせざるも現下政党は健在なりや。官僚は独善の傾きなきか、財界は奉公の精神に欠くるところなきか、また頼みとする武人に高邁なる卓見と一糸乱れざる統制ありや。

    思想に生きて社会の先覚たるべき学徒が真理を慕ふこと果して鹿の渓水を慕ふが如きものありや。吾人は非常時に於ける挙国一致国民総動員の現状に少なからぬ不安を抱く者である。

    明治維新五箇条の御誓文は啻に開国の指標たるに止らず、隆盛日本の国是として永遠に輝く理念である。之を尊奉してこそ国体の明徴も八紘一宇の理想も完きを得るのである。然るに現今の情勢は如何。

    批判的精神と良心的行動に乏しく、ややともすれば世に阿り権勢に媚びる風なきか。偏狭なる思想を以て進歩的なる忠誠の士を排し、国策の線に沿はざるとなして言論の統制に民意の暢達を妨ぐる嫌ひなきか。これ実に我国文化の昂揚に微力を尽くさんとする吾人の竊に憂ふる所である。

    吾人は欧米功利の風潮を排して東洋道義の精神を高調する点に於て決して人後に落つる者でないが、驕慢なる態度を以て徒らに欧米の文物を排撃して忠君愛国となす者の如き徒に與することは出来ない。近代文化の欧米に学ぶべきものは寸尺と雖も謙虚なる態度を以て之を学び、

    皇国の発展に資する心こそ大和魂の本質であり、日本精神の骨髄であると信ずる者である。

    吾人は明治に生れ、明治に育ち来れる者である。今、空前の事変に際会し、世の風潮を顧み、新たに明治時代を追慕し、維新の志士の風格を回想するの情切なるものがある。皇軍が今日威武を四海に輝かすことかくの如くなるを見るにつけても、武力日本と相竝んで文化日本を世界に躍進せしむべく努力せねばならぬことを痛感する。

    これ文化に關與する者の銃後の責務であり、戦線に身命を曝す将兵の志に報ゆる所以でもある。吾人市井の一町人に過ぎずと雖も、文化建設の一兵卒として涓滴の誠を致して君恩の萬一に報いんことを念願とする。

    曩に学術振興のため岩波講座岩波全書を企画したるが、今茲に現代人の現代的教養を目的として岩波新書を刊行せんとする。これ一に御誓文の遺訓を體して、島国的根性より我が同胞を解放し、優秀なる我が民族性にあらゆる発展の機会を與へ、躍進日本の要求する新知識を提供し、岩波文庫の古典的知識と相俟って大国民としての教養に遺憾なきを期せんとするに外ならない。

    古今を貫く原理と東西に通ずる道念によってのみ東洋民族の先覚者としての大使命は果たされるであろう。岩波新書を刊行するに際し茲に所懐の一端を述ぶ。

    昭和一三年一〇月靖国神社大祭の日


    田坂具隆監督『五人の斥候兵』、『路傍の石』、山本嘉次郎監督『綴方教室』、野村浩将監督『愛染かつら』。洋画はチャプリン『モダン・タイムス』、『舞踏会の手帳』。

    淡谷のり子『雨のブルース』(野川香文作詞、服部良一作曲)、霧島昇・ミスコロンビア『旅の夜風』(西條八十作詞、万城目正作曲)、渡辺はま子『支那の夜』(西条八十作詞、竹岡信幸作曲)、東海林太郎『麦と兵隊』(藤田まさと作詞、大村能章作曲)。


    昭和十四年(一九三九)利器七十一歳、タツミ三十八歳、祐十四歳、カズ十一歳、利孝九歳、ミエ六歳、利雄四十二歳、石山皆男三十九歳、鵜沼弥生三十七歳、田中伸三十二歳。


    一月四日、近衛内閣は閣内不一致のため総辞職した。大した理由がある訳ではなく、やる気を失ったのが実際の所だろう。一年に満たずに政権を放り出した細川護熙は近衛に似たのだろうか。護熙の母は近衛文麿の次女である。


    どうして近衛さんは、せっかく汪兆銘が重慶から出てきて、「さあ、これから和平運動をやろう」としているとき、それも汪さんが出て来てからまだ二十日になるかならぬうちに、自分で辞表を出して、内閣を投げ出してしまったのか。これじゃあ、まるで自分で汪さんの梯子をはずしたようなもので、全然頼むに足る姿勢ではないじゃないか、と私は近衛さんに甚だしい不満を持った。これでは、和平運動は駄目だ、と私は思った。(松本重治『近衛時代』)


    後継として平沼麒一郎内閣が成立した。平沼は名うての国粋主義者であるが、政策や人事は殆ど近衛内閣を踏襲する。

    この頃、ドイツから日独伊三国同盟の提案があった。昭和天皇が反対するなか、政府内では賛成派が多かったが、米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長の三人だけが徹底的に反対している。後に井上成美は、昭和十二年から十四年までは三国同盟対策にかかりっきりだったと回想している。

    この問題を討議するため、平沼首相は五相会議(首相、外相、陸相、海相、蔵相)を始めるが、ドイツが英米と戦った場合に、日本が自動参戦するか否かで紛糾した。日本に英米と戦う力はないというのが、海軍トリオの主張である。

    一月十五日、大相撲春場所四日目、双葉山が前頭四枚目の安芸ノ海に敗れ、連勝記録は六十九でストップした。「未だ木鶏に及ばず」は安岡正篤に送った電文の一節である。木鶏は『荘子』達生篇の中にある。


    紀渻子、王の為に闘鶏を養う。十日にして問う、鶏已にするか、と。曰く、未だしなり。方に虚憍にして気を恃む、と。

    十日にして又た問う。曰く、未だしなり。猶嚮景に応ず、と。十日にして又た問う。曰く、未だしなり。猶疾視して気を盛んにす、と。

    十日にして又た問う。曰く、幾(ちか)し。鶏鳴く者有りと雖ども、已に変ずること無し。之を望むに木鶏に似たり。其徳全たし。異鶏敢て応ずる者無なく、反りて走る、と。


    双葉山は法華信仰の人であるが、戦後の一時期、璽光尊(長岡良子)に帰依した。この怪しげな宗教団体に、双葉山と共に呉清源(当時八段)も入信したのである。双葉山は後に「自分は余りに無学であった」と後悔しているが、この件について呉清源は何も語らなかった。

    この頃、中国戦線から帰還した兵士の言動に、軍が神経をとがらしていた。実際に大陸で闘った兵士たちの間で、略奪、強姦、虐殺が日常的に行われていたことが証明されるのである。そして特別に通達を出さなければならないほど、それは多数に上っていた。


    昭和十四(一九三九)年二月六日付けの陸軍次官の通牒「支那事変地ヨリ帰還セル軍隊及軍人ノ言動指導取締ニ関スル件」によれば、帰還兵のなかに「穏当ナラザル言動ニ出ズルモノ」が少なくなく、「特ニ帰還将兵ノ帰郷後ニ於ケル不穏当ナル言辞ハ、流言飛語ノ因トナルノミナラズ、皇軍ニ対スル国民ノ信頼ヲ傷ケ、或ハ銃後団結カ隙ヲ生ゼシムル等其ノ弊害極メテ大ナルモノアリ」といった状況だった。


    同通牒は、「不穏当ナル言辞」の事例をつぎのように挙げている。


    「戦争ニ参加シタ軍人ヲ一々調ベタラ皆殺人、強盗、強姦ノ犯人許リダロウ」。
    「日本軍ハ多クノ支那人間諜ヲ使役シ必要ガナクナレバ全部殺シテ居ル」。
    「戦地ニ於ケル我軍ノ略奪ハ想像以上ニシテ占領地ニ対スル宣撫ハ僅カ一部分ニシカ行ワレアラズ」。
    「モウ二度ト戦争ナンカニ行キタクナイ。戦争デ死ンダ者ハ実ニ悲惨ナモノダ」。(井上寿一『日中戦争』)


    戦場に行かなければごく普通の父親や夫であった男たちが、戦場では容易に略奪者、強姦者、殺人者に変貌する。そして略奪はそもそも日本軍の「自活」(現地調達)方針に基づくものであった。補給できないから現地調達で凌げ、というのは略奪して生き延びよということである。そして略奪には必ず殺人、強姦が伴うであろうことは容易に想像できる。昭和二十年八月に突如満州に侵攻したソ連軍、現在戦われているウクライナ戦争におけるロシア軍の所業も合わせ見れば、人間の本性はそもそも、こうした残虐を好むのではないかと思われてくる。

    三月二十八日、フランコ軍がマドリッドを占領し、スペイン内戦が終わった。人民戦線という実験は完全に敗北し、フランコは一九七五年まで独裁政権を維持するのである。

    三月三十一日、警視庁検閲課が、『鏡地獄』(春陽堂)に収録されていた乱歩の『悪夢』(後『芋虫』に改題)の全編削除を命じた。これにより各出版社は乱歩は危ないと感じ、乱歩作品の重版をやめた。『芋虫』は戦場で四肢を失い更に五感も失って「芋虫」のようになった帰還兵と、その妻の物語である。後に一九七〇年、山上たつひこが近未来ディストピア漫画『光る風』にこのエピソードを利用する。


    出版界は検閲にひっかかりそうなものをいままで以上に警戒し、自主規制していく。乱歩の場合、全篇削除となったのは『悪魔』一篇だけなのに、この作家は危ないという出版社側のブラックリストに載ってしまったのだ。乱歩は探偵小説の代名詞的な大作家なので、探偵小説全般へも出版界の自主規制が働き、作家たちには「探偵小説ではないものを」という依頼になっていく。内閣情報局が「探偵小説は禁止」と公の場で発表したことはない。探偵小説は消えてしまう(中川右介『江戸川乱歩と横溝正史』)。


    「自主規制」は退却に至る第一歩である。これ以後、軍部に睨まれそうなものは一切出版されなくなる。

    四月七日、国民精神総動員委員会が設置された。昭和十二年(一九三七)十月十二日、古参の軍人・官僚を幹部とする「国民精神総動員中央連盟」が設立されていたが、これをさらに推進するための官側の組織である。六月には、遊興営業の時間短縮、ネオン全廃、中元歳暮の贈答廃止、学生の長髪禁止、パーマネント廃止などの「生活刷新案」を決定し、九月一日以降、毎月一日に「日の丸弁当」を奨励する興亜奉公日が設けられた。悪しき精神主義は、最も悪しき形式主義に陥る。この時代の日本が正にそうであった。

    四月十二日、米穀配給統制法が公布された。


    半官半民の国策会社日本米穀を設立して民間の米穀取引所を廃止し、政府による実物配給機構の整備、および移入台湾米管理を目的とした。米穀統制法施行による米穀取引所の取引急減の救済策として構想されたが、戦時下の配給統制の機能を強めて成立。施行時には需給関係が激変していたため機能せず、四二年食糧管理法成立により廃止。 (『山川日本史小辞典』改訂新版)


    四月十七日から、日本軍は大陸打通作戦を実施した。中国大陸にある連合国軍航空基地を占領して日本への空襲を阻止すること、大陸を南北に連結して仏領インドシナへの陸上交通路を確保することを目的とした大規模な作戦で、十二月まで行われた。日本軍の投入総兵力五十万人、戦車八百台、騎馬七万を動員し、作戦距離は二千四百キロに及んだ。日本陸軍史上最大規模の作戦であった。

    国民政府軍は苦戦し大量の戦死者、投降者を出したが、蒋介石の抗戦意欲は衰えない。日本軍は航空基地を占領して目標は達した(だから勝利とも言える)が、連合国は基地を更に奥地に移転したし、マリワナ諸島が陥落して、日本本土への空襲が可能になったことから、実際の効果は少なかった。日本の戦病死者も十万(内戦死者一万千七百四十二)を数えた。戦病死者がいかに多かったか。

    五月十一日、満州とモンゴルの国境付近ノモンハンで、武力衝突が起こった。それ以後の作戦を決定して強引に進めたのは関東軍参謀辻政信少佐と主任参謀服部卓四郎中佐であった。そもそもソ連は満州国を認めていない。国境線については、清朝とモンゴルが定めたものを中華民国も踏襲しており、日本軍が勝手に引いた国境線など関係ないのである。しかも遊牧民に国境の概念はない。東京の参謀本部は不拡大方針だったが、辻が殆ど独断で拡大し、服部がそれを許可した。


    ノモンハンは、・・・・・その作戦失敗の内容から見て、大東亜戦争におけるいくつかの作戦の失敗を、すでに予告していたと考えられる。そこでは作戦目的があいまいであり、しかも中央と現地とのコミュニケーションが有効に機能しなかった。情報に関しても、その受容や解釈に独善性が見られ、戦闘では過度に精神主義が誇張された。これらの点を含む日本軍のさまざまな組織特製や欠陥は、あとで見るように、大東亜戦争開始後の重要な作戦でも、程度の差こそあれ、一様に繰り返されたのである。(戸辺良一他「失敗の本質」)


    七月一日には関東軍は一万七千の兵力をもって総攻撃をかけたが、七月三日に敗退し、暫く両軍のにらみ合いが続く。

    七月八日、国家総動員法第四条の規定に基き、国民徴用令が公布された。徴兵の「赤紙」に対して徴用は「白紙」とも呼ばれた。

    この間にも五相会議は継続している。八月に入り、陸軍は最終決着を図るべく五相会議に臨んだが、この場でも三国同盟を決定することができなかった。実はこの頃、ヒトラーとスターリンの間で不可侵条約締結の秘密交渉が始まっていた。

    世間では陸軍が海軍を襲撃するとの噂が流れた。山本、井上は万一の場合、陸軍との戦いを覚悟して横須賀鎮守府に陸戦隊一個大隊を配備、大阪にあった連合艦隊の主力艦を東京湾に回航するよう命令を出す。同時に海軍省内に武器、弾薬、食料、非常電源装置を準備し、三千人の籠城体制も作り上げた。

    しかし事態は急変する。八月二十日、ソ連軍はノモンハンで大攻勢を開始した。八月二十三日、独ソ不可侵条約が締結された。平沼麒一郎は狼狽するばかりで、「欧州の天地は複雑怪奇」と声明して内閣を放り出した。


    ・・・・ともあれ、こうして締結された独ソ不可侵条約はソ連の内外に強烈な反響を齎した。出し抜かれたイギリスとフランスの指導者は強い衝撃を受けた。(中略)しかし、衝撃を受けたのは彼らだけではなかった。ソ連国内の共産党宣伝員やコミンテルンの活動家たちも、彼ら同様に事態の急転に言葉を失った。大衆の前に立つ共産党員たちは、昨日まで多くの人々にドイツこそ世界で最も侵略的な国家だと説明していたのに、今や、独ソ不可侵条約はソ連がとる最も適切な処置だと説かねばならなくなったのである。(横手慎二『スターリン』)


    それまでコミュニストであったヴァルター・ベンヤミンはこれを聞いてコミュニズムに絶望した。ナチスと提携する体制に未来はない。

    平沼内閣の後継は阿部信行陸軍大将と決まったが、昭和天皇は厳しい注文を出した。一は英米との協調、二は陸軍大臣を梅津美治郎か畑俊六にせよ、の二つである。海軍大臣には山本五十六の声もあったが、ここで山本を昇格させると暗殺の恐れがあると米内光政が危惧して、連合艦隊に転出させたと言われている。

    ノモンハンは九月十二日に停戦協定が成立し、国境線はソ連、モンゴルの主張する戦に決まった。日本軍の戦死者七千七百二十人、戦傷者八千六百六十四人、その他を含め合計一万九千七百六十八人が死傷した。これは出動五万八千九百二十五人に対して三分の一に当たる。

    かつては日本軍大敗の典型例として語られることが多く、確かに日本は大きな損害を出して敗北したのだが、実はソ連軍にも大きな損害があったことが分かって来た。ソ連・モンゴル軍は合計二万四千九百九十二人の戦傷者だから、日本軍より被害は大きい。スターリンのソ連では国民の命は余りにも軽かった。圧倒的な火力の差があるのだから、上手く戦えばこんなに死傷者を出す事はなかった。


    当時の関東軍は、満州国の内省指導権が関東軍司令官に与えられていることを理由に、しばしば政治に干渉し、満人官吏の任免や土建業者の入札にまで関与していた。対ソ戦争の準備に専念すべき各地の師団も政治経済の指導に熱中し、また治安維持のために兵力を分散配置し、対ソ訓練はほとんど行われなかったといわれる。当時の関東軍の一師団に対する検閲後の講評は、「統帥訓練は外面の粉飾を事として内容充実せず、上下徒に巧言令色に流れて、実戦即応の準備を欠く、その戦力は支那軍にも劣るものあり」というものであった。また関東軍の作戦演習では、まったく勝ち目のないような戦況になっても、日本軍のみが持つとされた精神力と統帥指揮能力の優越といった無形的戦力によって勝利を得るという、いわば神憑り的な指導で終わることがつねであった。

    ノモンハン事件は日本軍に近代戦の実態を余すところなく示したが、大兵力、大火力、大物量主義をとる敵に対して、日本軍はなすすべを知らず、敵情不明のまま用兵規模の測定を誤り、いたずらに後手に回って兵力逐次使用の誤りを繰り返した。情報機関の欠陥と過度の精神主義伊より、敵を知らず、己を知らず、大敵を侮っていたのである。

    また統帥上も中央と現地の意思疎通が円滑を欠き、意見が対立すると、つねに積極策を主張する幕僚が向こう意気荒く慎重論を押し切り、上司もこれを許したことが失敗の大きな原因であった。(戸辺良一他『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』)


    「つねに積極策を主張する幕僚が向こう意気荒く慎重論を押し切り、上司もこれを許した」のが、満州事変以来の陸軍の体質である。ノモンハンやポートモレスビー、ガダルカナルにおける辻政信、盧溝橋、インパールにおける牟田口廉也はこの体質の象徴であろう。


    戦争が終わってから、「ノモンハン事件研究委員会」が設置され、軍による反省が行われました。

    「戦闘の実相は、わが軍の必勝の信念および旺盛なる攻撃精神と、ソ連軍の優秀なる飛行機、戦車、砲兵、機械化された各機関、補給の潤沢との白熱的衝突である。国軍電灯の精神威力を発揮せしめ、ソ連軍もまた近代火力戦の効果を発揮せり」(中略)

    「ノモンハン事件の最大の教訓は、国軍電灯の精神威力をますます拡充するとともに、低水準にある火力戦能力を速やかに向上せしむるにあり」(半藤一利『昭和史』)


    しかし、「低水準にある火力戦能力」はこの後も改善しなかった。服部卓四郎、辻政信は本来統帥を乱した張本人であり予備役編入が当然だが、服部は千葉歩兵学校付、辻は第十一軍(在漢口)司令部付への転属で終わった。そして服部は昭和十五年十月に、辻は十六年七月に参謀本部に帰って来るのである。この二人の「指導」の下に日米戦争が戦われる。

    九月一日、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、英仏がドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まった。この間隙を縫って、ソ連は、独ソ不可侵条約によってドイツが占領しないことになっていた西ウクライナとベラルーシをポーランドから「解放」し、ソ連に編入する。そしてエストニア、ラトヴィア、リトアニアの三国との間で、軍事基地を置く協定を締約し、「自発的に」ソ連に加盟させた。歴史は「繰り返す」のだろうか。

    九月、岩波書店は自社の本の買い切り制を実施した。返本を一切認めないということで、つまり町に根ざした中小零細書店は岩波の本を置けなくなったのである。逆に言えば、岩波文庫をある程度揃えている書店は格が高いと見做された。


    本の買切制は版元の理想で、ただ実行できないでいたことである。昭和十四年は本が最も売れて倉庫はからっぽになりつつある時である。借金はなくなり岩波の預金は七十万円(当時大金)以上になった。創業以来の好況で、返品は殆どない。この機に懸案の買切を実行したのである。

    昭和十四年はノモンハンで大敗した年だが、国民は負けたとは知っていてもあんな大敗だとは知らなかった。後継黄なのはむろん出版界だけではない。たいがいの商売は好景気だったからバー、カフェ、ダンスホールは満員で夜は浮かれ歩くものが多かった。戦前はひたすら暗かったと言うものが多いから念のために書いておく。(山本夏彦『私の岩波物語』)


    この頃、昭和研究会での討議を基に三木清がまとめた「新日本の思想原理」が発表された。日中戦争を前提として受け入れたとき、日本の取るべき道は何かと言う問題は、当時の知識人全般が抱える問題であった。当初から「日中戦争」を前提とするのだから、結論は決まったものになるしかない。日中和平派の言うように、中国からの撤退を論ずる雰囲気は全くなかった。


      新日本の思想原理
      一 支那事変の意義

    今や支那事変を契機として、日本の政治、経済、文化のあらゆる方面に於て大いなる変化が生じつつある。新日本の思想原理はこの事変の意義の認識に基いて確立されることが必要である。

      イ 其の日本に対する意義

    支那事変の発展は、国内改革なしには事変の解決の不可能であることを愈々明瞭ならしめるに至つた。事変の解決と国内改革との不可分の関係は、国内改革の問題も単に国内的見地からでなく日満支を含む東亜の一体性の見地から把握さるべきことを要求してゐる。思想並びに文化の問題もまさにこの立場から考察されねばならぬ。(中略)大陸への進出は日本の文化そのものの発展にとつて重要な意義を有してゐる。文化の地域的な拡大は同時にその質的な変化を結果するものである。逆に云へば、従来地理上並びに歴史上諸種の事情に基いて比較的閉鎖的であつた日本文化はこの際質的な発展を遂げることによつて初めて真に大陸への伸長を遂げ得るのである。日本文化の大陸への進出は、古来多く一方的に支那文化から影響されてきた日本文化が今度は積極的に支那文化に影響することになり、かくして東亜に於ける文化の全面的な交流が可能になり、これによつて東亜文化の統一の基礎が与へられることになるのである。

      ロ 其の世界史に於ける意義

    支那事変の世界史的意義は、空間的に見れば、東亜の統一を実現することによつて世界の統一を可能ならしめるところにある。これまで「世界史」といはれたものは、実はヨーロッパ文化の歴史に過ぎなかつた。それは所謂「ヨーロッパ主義」の立場から見られたものであつたのである。

    一九一四-一九一八年の所謂世界戦争は、西洋の思想家たちも云つたやうに、このヨーロッパ主義の自己批判の意義を有した。ヨーロッパの歴史即世界史ではないといふこと、ヨーロッパの文化即世界文化ではないといふことが自覚されるに至つた。ヨーロッパ主義の崩壊はヨーロッパ思想にとつて同時に世界史の統一的な理念の抛棄となつたのである。(以下略)


    川合貞吉はこの頃、尾崎秀実が語ったことを憶えている。コミンテルンの指示によって、川合が尾崎、リヒァルト・ゾルゲ、アグネス・スメドレーと協力を約束したのは昭和六年の十月のことだった。川井はゾルゲ、スメドレーとは初対面だったが、コミンテルンの指示であれば疑う余地がなかった。それ以来、主に大陸での情報収集を担当していた。しかしコミンテルンの目的はソ連防衛の一点であり、そのため日本の情報を収集し対ソ戦を防ぐことである。


    僕たちは、今度こそは非常な決意をもって臨んでいるんだよ。日本の党は、まだまだ力が弱くて、とても下からの革命なんて今のところ考えられもしないよ。強いのは軍だけだ。今の日本は軍だけがオールマイティだ。そこで、軍は自分たちの力を過信して、政治でもなんでも強引に引きずろうとしているがあのプーアな政治理念ではやがて行き詰って投げ出すに決まっている。そして結局最後の切り札はやはり近衛だよ。その時はだね、今度こそは軍に横車を押させないだけのはっきりとした条件をつけて近衛を出す。いわゆる東亜新秩序の理念をそのまま社会主義理念に切り替えてゆくつもりなんだ。むろんソ連や中国の共産党と緊密な提携の上に立ってだよ。しかし、近衛の力でそれを最後までし遂げられるとは、もちろん僕だって思ってはいない。近衛はね、結局はケレンスキー政権だよ。次の権力のための橋渡しさ。僕はいま近衛の五人のブレーンの一人になっているんだが、一おうはこのケレンスキー政権を支持して、やがて来る真の革命政権のために道を開く--僕はそんなつもりでいまやっているんだ。(川井貞吉『ある革命家の回想』)


    十月一日、映画法が制定実施され、外国映画の上映が制限された。


    ・・・・その施行令第四二条に‶常設の映画興行において興行を為す映画興行者は、一映画興行に付一年を通じ五〇本を超えて劇映画たる外国映画を上映することを得ず〟という一項が挿入され、興行面からも外国映画の営業が制限された。(中略)

    ・・・・日中事変の進行とともに、国内輿論の統一をはかるための‶必要〟から、この種の鎖国論に出たものとみられる。しかし、外国映画が次第にその数量を減ずるに従い、封切映画の一つ一つが貴重品のように愛惜されたのもまた人情であった。(田中純一郎『日本映画発達史』)


    十月十八日、価格統制令によって賃金・物価などを九月十八日の価格に強制的に停止させた。九・一八ストップ令と言う。九・一八価格に凍結された物品にはマル停マーク(停)が付けられた。価格統制令以後の新しい商品には、マル新マーク(停)が付けられた。業者の組合で九・一八価格と異なる価格を協定し、当局の認可を受けた商品には、マル協マーク(協)が付けられ、認可価格品には(許)マークが付けられた。

    こうして「公定価格」が定められたのだが、根本原因は物資不足だから、ヤミが横行した。前年八月に経済警察制度が発足していて、その時から昭和十六年(一九四一)三月までの間に闇取引などで検挙された者は、全国で四十六万人にも及んだ。

    十一月一日、大杉栄を虐殺した甘粕正彦が満州映画協会の理事長となった。大正十五年に仮出獄し(服役期間僅か三年弱)、陸軍の予算でフランスに留学した。昭和五年に満州に渡って特務工作を行い、昭和七年には東條英機の支援を受けて民政部警務司長(警察庁長官に相当)に抜擢され、それ以来地位を固めて来ていた。満映理事長になるに当たっては、満州国国務院総務庁弘報処長武藤富男と総務庁次長岸信介の尽力があった。前年に満映に正式入社していた李香蘭は、怖い人だと思っていた甘粕の意外な人間性を見て驚いた。


    新京市長公邸で開かれた日満要人の集まった宴会で満映の女優たちがお酌をさせられたのに憤慨し、「女優は芸者ではない。芸術家だ。もう一度、女優たちを主賓にした宴会を開いてねぎらってくれ」と市長に要求し、実現させた。私も理事長の命令で内外の要人を招待した席に何度か招かれたが、お酌を強要されたことはなく、〝満映の誇る女優〟として紹介された。(中略)

    ふっきれた感じの魅力のある人だった。無口で厳格で周囲から恐れられていたが、本当はよく気のつく優しい人だった。ユーモアを解しいたずらっ子の一面もあるが、その度が過ぎると思うことも度々だった。酒に酔うと寄せ鍋に吸殻の入った灰皿を入れたり、周囲がドキリとするような事をいきなりやった。(『李香蘭 私の半生』)


    また甘粕の満映は日本国内に居場所を失っていたリベラリストや左翼、満州浪人を積極的に受け入れた。映画研究所の所長には木村荘十二を採用した。監督に鈴木重吉、内田吐夢、加藤泰。シナリオ作家に八木保太郎、カメラマンに杉山公平。他に慶應のピッチャー浜崎真二、大森ギャング事件の大塚有章等である

    上海では川喜田長政が中華電影を設立した。当時、新京に甘粕正彦の国策映画会社「満映」、北京にも満映系の「華北電影」があったが、上海、南京など華中地方には国策映画会社がまだなかった。そこで陸軍の中支派遣軍は、川喜田長政に白羽の矢を立てたのである。


    満映と中華電影が、同じ日本の国策映画会社でありながらソリが合わなかったのは、甘粕正彦、川喜田長政という二人の日本人の肌合いのちがいをそのまま表していた。甘粕さんは大杉栄らを虐殺したと言われる人物で、満州国建国の工作者である。川喜田さんは親の代からの親中国派でリベラリストだった。(『李香蘭 私の半生』)


    十一月二十六日、ソ連はフィンランドに侵攻した。フィンランド側からソ連に対して発砲があったという理由だが、これは虚偽であることが判明している。歴史はあちこちで似たような事件を惹き起こす。兵員物量で圧倒的なソ連は簡単にフィンランドを降伏させられると考えていたが、フィンランドは良く抵抗した。


    このときスターリンは、コミンテルンで活躍していたフィンランド人のクーシネンを首班とするフィンランド民主共和国を設立し、軍事援助の要請を出させていた。疑いもなく、戦争を正当化するばかりか、勝利した後の後継政権にしようと目論んでいたのである。(横手慎二『スターリン』)


    世界各国からフィンランドに武器の供与も行われた。この戦争によってソ連は国際連盟から追放される。

    最終的には領土の一部をソ連に割譲することで翌年三月に停戦合意がなされたが、ソ連側の戦死者十二万以上(二十万ともいう)、フィンランド側戦死者二万三千をだした。冬戦争と呼ばれる。


    この戦争でともかくも勝利したソ連は、カレリア地峡全域とハンコ岬、ラドガ湖北部などをフィンランド側に割譲させた。これでレニングラードは見かけ上は安全になった。しかし、この成果が軍事的には無益であったことは、一九四一年に独ソ戦が始まるとすぐに明白になる。これだけの成果を得るためにソ連側が支払ったのは人的損失と軍事面での評判だけではなかった。ソ連は一九三九年一二月一四日に国際連盟から追放されたのである。(横手慎二『スターリン』)


    およそ八十年前のこの戦争を、私たちは令和四年になって思い出すことになる。戦後のフィンランドはモスクワを刺激しないよう長く中立を国是としてきたが、プーチンのウクライナ戦争をきっかけにNATO加盟を申請するのである。

    十二月二十六日、朝鮮総督府が朝鮮人に対し創氏改名を「許可」した。「強制」ではなかったという説もあるが、植民地人に対する有形無形の圧力は当然あったと考えなければならない。史上、どんな帝国主義もこんな乱暴な政策をしたことはなかった。日本では明治以降、欧米の習慣を取り入れ、苗字(ファミリー・ネーム)を採用し、これに合わせようとしたのである。しかし東アジアの儒教文化圏では祖先の祭祀のために本貫と姓は血統で決まる。従って夫婦別姓が基本になる。創氏改名に当たっては、妻は自動的に夫の氏を名乗らざるを得なくなる。つまり朝鮮人のアイデンティティの根幹を踏み躙る暴挙であった。

    二〇〇三年六月、麻生太郎(自民党政調会長)は、「朝鮮の人が苗字をくれといったのが最初だ」と、いつもの虚偽の談話を発表した。差別から逃れるため、あるいは日常生活を円滑にするため、日本風の苗字を必要とした者はいるだろう。しかし、朝鮮人差別がなかったなら、わざわざ父祖の氏を変えようと思うものは一人もいない。一九九〇年代頃から、歴史の修正、歪曲が始まっていた。


    羽仁五郎『ミケルアンヂェロ』。羽仁五郎(当時三十九歳)は根っからのアジテーターであった。この時代にこんな本を書くのは、彼一流の抵抗である。


    ミケルアンヂェロの‶ダヴィデ〟は、ルネサンスの自由都市国家フィレンツェの中央広場に、その議会の正面の階段をまもって、立っている。身には一糸をつけず、まっしろの大理右のまっぱだかである。そして左手に石投げの革を肩から背にかけ、ゴリアを倒すべき石は右手にしっかりとにぎっている。左足はまさにうごく。見よ、かれの口はかたくとざされ、うつくしい髪のしたに理知と力とにふかくきざまれた眉をあげて眼は人類の敵を、民衆の敵を凝視する。


    本庄睦男『石狩川』、天野貞祐『学生に与ふる書』、宮沢賢治『風の又三郎』、谷崎潤一郎『源氏物語』開始。

    島津保次郎監督『兄とその妹』、熊谷久虎監督『上海陸戦隊』、田坂具隆監督『土と兵隊』、吉村公三郎監督『暖流』、内田吐夢監督『土』。洋画は『ハリケーン』、『望郷』、『格子なき牢獄』。

    ディック・ミネ『上海ブルース』(北村雄三作詞、大久保徳二郎作曲)、『愛馬進軍歌』(久保井信人作詞、新城正一作曲)、『父よあなたは強かった』(福田節作詞、明本京静作曲)、岡晴夫『上海の花売り娘』(川俣栄一作詞、上原げんと作曲)。

    上海を舞台にした歌が二つも登場する。上海は阿片戦争によってイギリスが強奪した土地で、各国の租界(外国人居留地)が醸し出す、一種のモダンな、「東洋のパリ」とも呼ばれる怪しい雰囲気に満ちた都市であった。「魔都」とも呼ばれた。『上海ブルース』の歌詞を引いておく。


    涙ぐんでる上海の
    夢の四馬路(スマロ)の街の灯
    リラの花散る今宵は
    君を思い出す
    何にも言わずに別れたね 君と僕
    ガーデンブリッジ 誰と見る青い月

    甘く悲しいブルースに
    なぜか忘れぬ面影
    波よ荒れるな碼頭(はとば)の
    月もエトランゼ
    二度とは会えない 別れたらあの瞳
    思いは乱れる 上海の月の下


    徳川夢声の『宮本武蔵』の放送が九月に始まり、翌年四月まで放送された。NHK放送史によれば、「戦意高揚のために、武蔵とお通の恋物語は省略し、専ら剣の極意を目指す武蔵の姿を中心に語りを進めた」と言う。