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    東海林の人々と日本近代(十)昭和篇 ⑤

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2022.11.07

    昭和十五年(一九四〇)紀元二千六百年。利器七十二歳、タツミ三十九歳、祐十五歳、カズ十二歳、利孝十歳、ミエ七歳、東海林利雄四十三歳(死)、石山皆男四十歳、鵜沼弥生三十八歳、田中伸三十三歳。


    ヘーゲルはどこかで(『歴史哲学講義』)、全ての世界史的な大事件や大人物は二度現れる、と言っている。だが、こう付け加えるのを忘れた。一度は悲劇として、もう一度は茶番として、と。(カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』)


    今私たちがウクライナで見ているのは、何度も繰り返し現れる「茶番」であろうか。第三次世界大戦への前奏曲(あるいは既に始まった)であろうか。そしてウクライナだけではない、戦前期の日本を改めて見直すと、ポピュリスト政治家の登場や同調圧力、有事(危機)の強調等、まるで現在を見ているようでもある。


    金鵄輝く 日本の
    栄ある光 身にうけて
    いまこそ祝へ この朝
    紀元は二千六百年
    ああ一億の 胸はなる

    歓喜あふるる この土を
    しつかと我等 ふみしめて
    はるかに仰ぐ 大御言
    紀元は二千六百年
    ああ肇国の 雲青し

    荒ぶ世界に 唯一つ
    ゆるがぬ御代に 生立ちし
    感謝は清き 火と燃えて
    紀元は二千六百年
    ああ報国の 血は勇む

    潮ゆたけき 海原に
    桜と富士の 影織りて
    世紀の文化 また新た
    紀元は二千六百年
    ああ燦爛の この国威

    正義凛たる 旗の下
    明朗アジア うち建てん
    力と意気を 示せ今
    紀元は二千六百年
    ああ弥栄の 日はのぼる


    神武天皇即位を紀元前六六〇年とするのは、明治五年(一八七二)の「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ行フ附詔書」の六日後に、神武天皇即位を紀元とするという布告によって定められた。元号と干支だけでは不便なことは言うまでもないが、それなら西暦を採用しなかったのは、水戸学の影響があったのだろう。藤田東湖は天保十一年(一八四〇)、つまり丁度百年前に、「鳳暦二千五百春 乾坤依旧韶光新」の漢詩を作ったという。文明開化と復古と二つの方向が混在していた。


    昭和十五年という年は、この歌(『紀元二千六百年』)で明け、この歌で暮れたといっても過言ではない。(中略)当時、唯一の電波マスコミである日本放送協会のラジオは、ことある毎にこれを放送し、レコード各社も、自社のA級スターを並べて一斉に競作した。(山中恒『ボクラ少国民と戦争応援歌』)


    一月公布の陸運統制令により秋田県内のバス会社は、秋田市交通局(秋田市内)、秋北乗合自動車(県北部)、秋田中央交通(中央部)、羽後鉄道(県南部)の四社に統合された。

    「陸軍身体検査規則」が改正され、徴兵検査の基準が大幅に緩和された。従来の基準では兵士の補充が難しくなったのである。吉田裕『日本軍兵士』によれば、「身体または精神にわずかな異常があっても」軍務に支障なしと判断されれば、「できるだけ徴集の栄誉に浴し得るよう」基準を甘くしろということだった。十六年十一月の「兵役法施行令改正公布」では、丙種とされた者でも徴兵するようになった。

    この結果、兵士の平均体重は従来の五十六キロ程から、五十キロに低下し、走力、持久力も確実に低下した。辛うじてカタカナが書ける程度の知的障碍者も徴兵されることになる。従って小説の中ではあるが、大西巨人が描くこんな喜劇的な問答も起きたであろう。


    ――日本は、いま、どこと戦争しとるか。

    ――はい、その、米英であります。

    ――「米」はどこのことか。

    ――はい、それが、その、「米」はイギリスであります。

    ――けっ、そんなら「英」というのはどこか。

    ――はい、忘れました。

    ――うぅぅぅ。この、お前の言うことを聞いとると、なさけのうて、涙がズルよ。

    ――あ、わかったであります。敵は、米英のほかに、支那と、それからアメリカであります。

    ――ふっ。最前お前は、イギリスのことも言うたじゃないか。

    ――「イギリス」?ああ、それで揃いました。米英と支那とアメリカ、イギリス、その四つが日本の敵であります。(大西巨人『神聖喜劇』)


    この頃から中国大陸での日本軍は、「高度分散配置」態勢に移行していた。広大な大陸に小規模陣地を分散配置し、それぞれに小兵力の部隊を置くのである。いつ終わるとも知れぬ戦争に、友軍の姿も見えぬまま、日本軍兵士はゲリラや共産軍の襲撃に備える。補給はほとんど期待できないから、頻繁に近隣の部落を襲う。中国人もただ略奪に任せる訳はなく、食料などを隠して逃亡する。


    「現地自活」の強化は、すでに常態化していた中国民衆からの略奪を一層強化することを意味した。日中戦争の勃発後、一九三七年一一月には天皇直属の最高統帥機関である大本営が設置されていた。その大本営に直属する野戦経理長官部(長官は陸軍省経理局長の兼任)は、一九三九年三月に、『支那事変の経験に基づく経理勤務の参考(第二輯)を発行しているが、その第四項、「住民の物資隠匿法とこれが利用法」は、事実上、略奪の「手引き」となっている。中国民衆が日本軍に奪われることを恐れて「隠匿」している食料などの物資を、どのようにして発見するかが、この冊子の主題だからである。「北支における住民の物資隠匿慣用手段左の如し」として列挙されているもののなかから一つだけ要約して引用する。


     煉瓦造り建物の室内外の小入り口を煉瓦で閉鎖して、その内部に隠匿し、あたかも入口がないように偽装していることがある。これらはもともとの壁と新造の壁とを比較してみれば、容易に見抜くことができる。また前方に煉瓦壁を設けその後方の家屋、倉庫などの全体を「掩蔽」していることもある。この場合には壁を破壊する必要がある。(吉田裕『日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実』)


    前年の八月三十日に成立した阿部信行内閣が総辞職し、一月十六日、昭和天皇の意向によって米内光政内閣が成立した。つまり天皇は三国同盟に反対だったのである。しかし畑俊六に大命が下されるものと信じていた陸軍は、裏切られた思いを抱いた。米国との協調を維持し、三国同盟に反対する米内内閣は組閣早々、倒閣運動に直面する。

    二月二日、斎藤隆夫の「反軍演説」が問題視され、三月七日には衆議院議員の除名が決議された。「反軍演説」と言われているが、一時間半に及ぶ「支那事変処理を中心とした質問演説」であり、この泥沼化した戦争の結末をどうつける積りなのか、と質問したのである。


    (日本軍の撤兵、賠償金を要求せず等)かように汪兆銘氏は声明しておりまするが、これを近衛声明と対照しますると、少しも間違いはないのであります。しかる以上はこれより新政権を一欲に和平工作をなすに当りましては、支那の占領区域から日本軍を撤退する、北支の一角、内蒙付近を取り除きたるその他の全占領地域より日本軍全部を撤退する、過去二年有半の長きに亘って内には全国民の後援のもとに、外においては我が皇軍が悪戦苦闘して進軍しましたところのこの占領地域より日本軍全部を撤退するということである。

    これが近衛声明の趣旨でありますが、政府はこの趣旨をそのまま実行するつもりでありますか。これを私は聴きたいのであります。総理大臣は言うに及ばず、軍部大臣においてもこの点についてご説明を煩わしておきたい。(中略)

    (以下、官報速記録より削除せられた部分の末尾)

    繰り返して申しまするが、事変処理はあらゆる政治問題を超越するところの極めて重大なるところの問題であるのであります。内外の政治はことごとく支那事変を中心として動いている。現にこの議会に現われて来まするところの予算でも、増税でも、その他あらゆる法律案はいずれも直接間接に事変と関係をもたないものはないでありましょう。それ故にその中心でありまするところの支那事変は如何に処理せらるるものであるか、その処理せらるる内容は如何なるものであるかこれが相当に分らない間は、議会の審議も進めることが出来ないのである。私が政府に向って質問する趣旨はここにあるのでありまするから、総理大臣はただ私の質問に答えるばかりではなく、なお進んで積極的に支那事変処理に関するところの一切の抱負経綸を披瀝して、この議会を通して全国民の理解を求められんことを要求するのである。(拍手) 私の質問はこれをもって終りと致します。(拍手)


    斎藤はこれ以前にも、二・二六事件の後の「粛軍演説」、昭和十三年の国家総動員法案への反対等、軍部への抵抗を続けて来た。筒井清忠『天皇・コロナ・ポピュリズム』で斎藤隆夫『解雇七十年』の中の言葉を引用し、「筆者と同じ認識を持っており、筆者が主張したいことと同じことを当時言っているように思われる」と評している。


    元来我が国民にはややもすれば外国思想の影響を受け易い分子があるのであります。ヨーロッパ戦争(第一次世界大戦〉の後において「デモクラシー」の思想が旺盛になりますると言うと、我も我もと「デモクラシー」に趨る、その後欧州の一角において赤化思想が起こりまするというと、またこれに趨る者がある。あるいは「ナチス」「ファッショ」のごとき思想が起こるというと、またこれに趨る者がある。思想上において国民的自主独立の見識のないことはお互いに戒めなければならぬことであります。


    ロンドン条約は統帥権の干犯であるということを言うておりますが、憲法上から見てどこが統帥権の干犯になるかということは少しも究めておらぬ、天皇親政、皇室中心の政治と言うようなことを言うが、一体どういう政治を行わんとするのであるかというと、さっぱり分かっておらぬ。ただある者が今日の政党、財閥、支配階級は腐っていると言うと、一途にこれを信ずる、・・・・国家の危機目前に迫る、直接行動の他なしと言えば、一途にこれを信ずる、かくの如くにして(中略)複雑せる国家社会に対する認識を誤りたることが、この事件を惹起すに至りたるところの大原因であったのあります。


    除名案に賛成した者は二百九十六、棄権・欠席が百四十四、反対が七であり、必ずしも大多数が除名に賛成したわけではない。むしろこれによって政友会、民政党とも内部分裂の動きが始まっていく。各政党からは解党論が生まれ、近衛文麿の新体制運動への合流が図られた。


    昭和十五年(一九四〇年)春ごろから秋にかけて新体制運動が日本政治を大いに動かしたのであったが、それには、近衛文麿という一政治家が、断然光っている人気者であったからである。近衛さんの人気は空前のものであった。これに引きかえ、既成の政治家や既成の諸政党は、国民の眼から見ると、人気を持たず、既成政治家や既成政党にとっては、全然将来性を持たなかった。これを何とかしなくてはならないと最初に着眼して、近衛さんをキャップに新党を作ろうと考えついて、実行し始めたのは久原房之助であった。(松本重治『近衛時代』)


    近衛文麿が何故それほどまでに人気を得ていたのか私にはさっぱり分からない。五摂家筆頭と言う「貴種」であること、若いこと、長身(身長一八〇センチ、あるいは一八五センチの説もある)でスマートであることが理由だったろうか。それならば日本新党を立ち上げた時の細川護熙のようでもあったのだろうか。近衛をポピュリストと規定すれば、ポピュリスト出現の要因である、国民の間の根強い治不信が存在したのである。


    たとえば、戦前においては、まず「党利党略」に憂き身をやつしているように見えた「政党政治」への幻滅(戦後風に言えば、政官財の密室政治への失望)が、逆に、党から「中立的」であると考えられた天皇・革新官僚・警察・軍部などに期待するムードを醸成することになります。そして、そのムードのなかに登場してくるものこそ、議論ばかりして全く前に進まない「政党政治」を、「天皇親政」によって一気に乗り越えようする青年将校たちの「超国家主義」(五・一五事件や二・二六事件)であり、また、その皇道派に人脈を持ちながらも、清新で革新的なイメージを備えた近衛文麿(と松岡洋右)のポピュリズム政権であり、さらに、既成政党批判を介して政治の無極化を成し遂げていく「大政翼賛会」への道だったのです。(浜崎洋介「『元祖ポピュリスト』の肖像――近衛文麿という悲劇」)
    https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20191104/


    二月から三月にかけ、津田左右吉『古事記及日本書紀の研究』、『神代史の研究』、『日本上代史研究』、『上代日本の社会及び思想』が発売禁止となり、津田と岩波茂雄は出版法第二十六条(皇室ノ尊厳冒瀆)の違反で起訴された。美濃部達吉の天皇機関説事件や、滝川幸辰、大内兵衛らの追放と同じく、きっかけは狂信的な天皇主義者(あるいは日本主義者)である蓑田胸喜や三井甲之等の「原理日本」一派の告発であった。


    二月十六日、長く病床にあった利雄が四十二歳で死に、妻ヤス、英(フサ)、利明(トシハル)、利悦、浜子、鶴子、タマ子が残された。利器は長男、五男に続き次男にも先立たれたのである。


    次兄利雄の死にあたって、弥生が示した嘆きには、今でも忘れることのできない印象がある。昭和十五年二月十六日東京蒲田区で死去。翌晩の通夜席に駆け込んできた弥生は、「なして死んだ!」というなり、ありったけの大声で号泣した。文字通りの号泣、それが暫く続く。私(皆男)は死者と対面の泣き場を何べんも見ているが、多くの人前も憚らず、男であれほどの号泣をきいたことがない。それほど親身が深いのである、私などには、まねのできない心情をもっている。

    利器は七十四歳の比較的長命ではあったが、長命に比例するように、子たちの凶事に際会している。昭和十年八月には長男利生が病死、十三年四月には五男揚五郎が戦死、さらに十五年二月には次男利雄が病死した。何物にも換え難き三人の男の子を次々と失って、いうべき言葉もなかったに違いない。(中略)

    二男利雄の死は利器にとって別の感慨があろう。秋田工業創設以来の記録的な学業成績を挙げ、東京の芝浦製作所(現在の東芝の前身)に採用されて直ちに上京、職業に励む。多技多能で将来の発展を期待していたのに、壮齢で病にかかり、退職の不運となる。子女も多くて、暮らしに難儀したようである。このことを利器は此上なく悲しむ。死去にあたって、長女英(ふさ)に口伝した辞世のうたを、利器は日記に書きとめてある。

    「利雄のじせいの歌  私を思ってのこせしもの。
      母上につくす事なく先立ちて せめてよみじはお手をひかなむ」


    このように老人を取り巻く系族が、次々に世を去っていくと、老者はどう思ったか。耐え難い寂しさに襲われることが、屡々であったと思う。何かの思い出につれて、ふと強烈な淋しさが、我が身を襲うことがある。利器は、この淋しさを消すために、大阪、東京、秋田、天塩と、機会を求めては親類縁者を回訪している。


    三月、内務省より、不敬に当たる芸名やカタカナ芸名を改名せよとの通達が出された。藤原釜足は藤原鶏太、ディック・ミネは三根耕一、ミスワカナは玉松ワカナ、コロンビア・ローズは松原操に改名した。

    三月十二日、ソ連とフィンランドの講和条約が調印され、「冬戦争」が終わった。ソ連軍戦死者は二十万以上と言われ、フィンランドも二万七千人を失った。講和条約の結果、フィンランドは国土面積のほぼ一割に相当するカレリア地峡の割譲を余儀なくされた。カレリアは産業の中心地であり、人口の十二パーセントにあたるカレリア地峡の四十二万人が、十日間の期限内に故郷を離れて移住するか、ソ連市民となるか、選択を迫られた。

    過酷な講和であったがフィンランドは独立を維持し、ソ連にとっては不本意な結果でもあった。ヒトラーはこれを見て、ソ連軍が劣弱であることを充分に確信した。


    林達夫はふと鶏を飼おうと思い付き、実際に飼い始めてみるとこれが大変であった。まともな飼料が入手できない。農林省が定める配合飼料は、余りにも粗悪で鶏に有害な綿実粕も混入し、それを使った養鶏場では鶏の斃死が続出したと言う。


    去年の秋、わが国の養鶏界では二羽の白色レグホーンと同じく二羽の横斑ブリマス・ロックが一年三百六十五日を一日も休まずに玉子を産み続けてついに世界待望の輝かしい記録をつくった。ちょうどそれを合図のように、日本養鶏界の全面的崩壊が始まったのである。たった三、四ヶ月のうちに、たちまちにして五千万羽もいた鶏が最小限に見積もってもその二、三割を失った。(中略)

    満州からは苞米(唐もろこし)も高粱も大豆粕もろくろく来ない。しかも大豆粕たるや漁粉とともに無機質肥料逼迫のため慌てて作られた有機質肥料会社との争奪の的である。仏領インドシナやジャワや南米の苞米、カナダの小麦屑が殆ど輸入できなくなったゆえにこその飼料難だから、そこから何かを期待することもできない。(林達夫「鶏を飼う」『思想』三月号)


    人間の食糧だけでなく、鶏の飼料もこんな状態であった。五月三日になれば、東京市は、米屋へ外米六割混入米の配給を始める。日米戦争を始めるまでもなく、既にアメリカの経済封鎖が効いて来たのである。

    三月三十日、汪兆銘が南京に中華民国政府を樹立した。先に頓挫した、陸軍の影佐禎昭を中心とするグループの和平工作の一環である。


    陸軍参謀本部支那班長、支那課長、謀略課長、上海駐在武官を歴任した影佐の履歴が端的に示しているように、この政権は軍の謀略によって生まれた傀儡だった。

    更に、皮肉なことに、この謀略に従事した陸軍関係者が、陸軍のなかでも例外的に中国をよく理解していた。

    ・・・・今井(武夫・支那班長)は汪兆銘側との信頼関係を築き、傀儡とみられないような政府をつくることに腐心している。今井の回想によれば、「当時日本では、一般に支那事変によって生じた犠牲の代償として、従前の通り、領土や賠償金を獲得しようと考え勝ちであった」。対する今井は「侵略主義的象徴である賠償の要求を行わぬは勿論、租界の返還や、不平等条約の撤廃まで、進んで公約しようという趣旨で、陸軍省の同意を求めた」という。

    要するに日本側では、謀略を企てた当事者たちが中国との和平に最も積極的だった。(井上寿一『日中戦争』)


    これは石原莞爾の唱える「東亜連盟」論とほぼ同じ立場である。しかし日本政府にとっては蒋介石政府との和平こそが本線であり、汪兆銘政権は蒋介石との和平の捨て石だった。

    汪兆銘は日本側との間で有利な条件を引き出し、それを蒋介石と共有しようとしていた。蒋介石との和解を果たして、日本との和平実現を願っていたのだが、それは漢奸の名を甘受する道であった。しかし汪の人格の高潔さについてはいくつもの証言がある。


    汪兆銘は今日なほ、国民党側からは「叛逆者」、中国共産党側からは「漢奸」の汚名で呼ばれてゐるが、彼の「和平救国」の思想はさういふ非難とは別に考へる必要がある。孫文の弟子として最古参のこの革命家の理想は、失敗にをはつた。昭和十五年三月に南京に汪兆銘新中央政府が実現したが、人心を掌握することはできなかつた。しかし、日本軍占領下に汪の政権が実現したことを理由に、それをただちに傀儡政権と非難するのは当を失してゐる。

    民国二十七(昭和十四)年作と推定される「杜鵑花」といふ七言絶句は「昏クニ啼クハ暁ニ到リ恨ミ涯無シ」という第一句ではじまる。その第三句に、「血涙已ニ枯レテ心尚ほ赤シ」といふ。

    日本軍の容喙と中国民衆の冷眼のはざまにあつて、事こころざしに違ひ、血涙をしぼり尽くして、なほ一片の赤心を抱きつつ、大戦末期に日本で客死した。(桶谷秀昭『昭和精神史』)


    四月二十七日、ドイツのハインリヒ・ヒムラー内相が「アウシュヴィッツ強制収容所」の建設を命じ、親衛隊主席警備隊長のルドルフ・ヘス大尉が所長に任命された。アウシュヴィッツとは、ポーランド南部オシフィエンチム市郊外につくられた収容所群の総称である。こうしてナチスのユダヤ人絶滅計画が本格化していく。

    しかし、このホロコーストを否定する者が存在する。あったことをなかったことにする。あるいは、あったとしてもごく矮小化する連中である。こうした歴史修正主義、歴史捏造主義に対しては断固として戦わなければならないのだが、学術的な論理では彼らには響かない。どう対抗したら良いのか、今の私には分らない。

    大陸では、上海の「阿片王」里見甫が関東軍のルートで阿片売買を拡大し、その利益が関東軍の戦費や汪兆銘の南京政府の財政に貢献したことも明らかになっている。これは阿片中毒「救済」のための漸禁政策と称し、実は専売によって巨利を上げるものである。里見機関の活動によって、岸信介と児玉誉士男や笹川良一等との地下人脈が築かれた。

    ここに陸軍主導で、三井、三菱、大蔵の三者の出資で作られた昭和通商と言う会社が大きく関わって来るのだが、この会社については不明な点が多すぎる。設立目的は「兵器工業の維持と健全な発達、陸軍所要の海外軍需資源の一部輸入、国産兵器の積極的海外輸出と、陸軍所要の外国製兵器の輸入など」であるが、諜報活動とアヘン取引が主な仕事であった。

    岸信介、東条英機も密接に関わったとの説もある。このことと関係があるのかどうか、細川護貞『細川日記』に下記の記述がある。東條内閣崩壊後のことではあるが、満州を動かした二キ三スケ(松岡洋右を除く)の噂が登場する。


    (昭和十九年九月四日)伊沢多喜男氏、父(護熙)を訪問され、「岸は在任中、数千万円少し誇大に云へば億を以て数へる金を受け取りたる由、然もその参謀は皆鮎川にて、星野も是に参画しあり。結局此の二人の利益配分がうまく行かぬことが、(東条)内閣瓦解の一つの原因でもあった。

    (十九年十月十六日)朝、川崎豊君を訪問、談たまたま東条に及びたるに、彼は昨年中華航空にて現金を輸送せるを憲兵隊に挙げられたるも、直に重役以下釈放となりたることあり、是はその金が東条のものなりしを以てなりとのことにて、以前より里見某なるアヘン密売者が、東条に屡々金品を送りたるを知り居るも、おそらく是ならんと。


    当時の一億円は現在の一千億円を超えるだろう。児玉や笹川が戦後日本の保守政界に隠然たる力を発揮したのは、阿片売買その他の不法手段で得た巨額な金を日本に持ち込んだからであり、戦後の日本民主党(鳩山一郎)結成の際の資金にも投入された。当時、児玉の手元には一億七千五百万ドル相当のプラチナやダイヤがあったとされる。そして笹川が文鮮明の国際勝共連合の名誉会長を務めたことはよく知られている。岸信介から安倍晋三に続く系譜に統一教会が深く関わっているのは当然なのだ。


    ・・・・山家さんは私をフランス租界のはずれにある有名な賭博場につれて行った。抜身のピストルを手にしたガードが右往左往している玄関に一歩足を踏み入れると、甘く物憂い匂いが漂って来た。潘家で阿片吸飲者の給仕掛をつとめたことのある私には、奥の間に阿片窟があることはすぐに分かった。山家さんも阿片中毒にかかっていた。(『李香蘭 私の半生』)


    山家亨は派遣軍報道部少佐(最終階級は大佐)であり、李香蘭の満映デビューにも関わった人物である。陸軍の高級軍人が阿片中毒者なのだ。

    またこの頃、川島芳子暗殺の動きがあった。このことは上坂冬子『男装の麗人 川島芳子伝』にも書かれているが、ここでは李香蘭が山家から直接聞いた話を記しておく。軍に相手にされなくなった川島芳子が、日本軍の大陸における行動を批判した文書を、東條英機、松岡洋右等に配布したことが、多田駿中将(北支派遣軍司令官・最終階級は大将)の逆鱗に触れたらしい。芳子は一時、多田と愛人関係にあった。


    中将が芳子を相手にしなくなり、いまやうとんじていることへの私怨もあるが、あの文書には彼女なりの日本軍に対する失望の気持ちもこもっている。いずれにしても中将は、このまま芳子を放置するとますます厄介なことになるので、〝処分〟することを決断した。そしてその命令がボクのところにきた。ボクとの昔のことを知っていてのいやがらせ半分の下命だろう。(『李香蘭 私の半生』)


    山家亨は芳子の初恋の相手である。山家は暗殺ではなく、笹川良一の世話で芳子を九州に逃がした。芳子はこの当時は笹川を「オニイチャン」と呼ぶような付き合いである。笹川は大日本国粋大衆党(一時、児玉誉士男が部下としていた)の活動の宣伝に芳子を利用していたようだ。その九州のホテルで李香蘭は芳子と再会した。語り合ったその夜中、枕元に分厚い封筒が置いてあるのを見つけた。芳子の手紙だった。


    振り返ってみるとボクの人生は何だったのだろう。非情にむなしい気がする。人間は、世間でもてはやされているうちがハナだぞ。だが、その時期には、利用しようとする奴がやたらと群がって来る。そんな連中に引きずられてはいかん。キミはキミの信念をとおしたまえ。いまが一番わがままのいえるときだ。人に利用されてカスのように捨てられた人間の良い例がここにある。ボクをよく見ろよ。自分の苦しい経験から、この忠告をキミに呈する。現在のボクは、茫漠とした曠野に陽が沈むのを見つめている心境だ。ボクは孤独だよ。ひとりでどこへ歩いていけばいいんだい。(『李香蘭 私の半生』)


    日本陸軍は、中国人を人として扱わなかった。川島芳子の悲劇はそれに翻弄されたことである。山家については山口淑子の好意的な感想はあるが、多田、田中隆吉(最終階級は少将)、笹川等、芳子を愛人として利用した連中はろくでもない奴らばかりであった。芳子自身は川島浪速の養女として日本国籍を得ていると信じていたが、戦後の裁判で川島の戸籍に入っていないことが判明した。川島浪速にとっても、芳子は単なる玩具であった。そして芳子は日本人ではなく「漢奸」として処刑されるのである。


    山家亨さんは、川島芳子さんの死の二年後、一九五〇年(昭和二十五年)一月末、山梨県の山中で自らの生命を絶った。二人は、ともに中国大陸を舞台に諜報謀略工作に従事しながら、愛と憎しみの関係を保ち続けたが、一人は刑死、一人は自殺と、いずれも非業の最期を遂げている。(『李香蘭 私の半生』)


    芳子は清朝粛親王善耆の第十四王女であった。明治三十九年(一九〇六)または四十年の生まれである。粛親王は正妃に三男二女、第一側妃に四男四女(三人の女子は命名以前に死去)、第二側妃に四男三女、第三側妃に三男三女、第四側妃に七男三女を儲けていた。

    大陸浪人の川島浪速が粛親王と親しくなるきっかけは義和団の乱であった。義和団と言えば柴五郎の名を思い浮かべるが、川島はこの時かなりの活躍をしたらしい。義和団事件の後、各国の軍隊は撤退したが、川島は北京の治安維持のために警察官養成のための警務学堂を創設した。二葉亭四迷が一時この学堂の事務長として、意外な事務的才能を発揮している。川島は東京外国語学校の支那語科卒で、ロシア語科の二葉亭と親交があった。

    やがて粛親王の信頼を受け、清国の二品銜客卿(日本の正二位に相当)の位階を得るのである。清朝滅亡後は満州で粛親王と義兄弟の契りを結んだと言うが、芳子の同母(第四側妃)兄憲立は「義兄弟」説を否定している(上坂冬子『男装の麗人 川島芳子』より)。いずれにしろ、その関係から王女を川島に与える約束ができたのであった。


    粛親王と川島浪速とはニュアンスの違いはあるにせよ日支提携して世界の中での地位を占め、さしあたってロシアの侵略を防ぐという点で意気投合したものと思われる。

    旅順での王家の生活費は月々三千円に上ったと伝えられるが、当初はこのほとんどを川島の才覚によって賄ったらしい。(中略)

    ・・・・また川島の伝記によれば、

    「粛親王北京脱出に際して、川島は密に岩崎男(岩崎久弥男爵)へ只一通の電報をとばしただけで、多額の資金を容易に調達し得た」

    とも記してある。(上坂冬子『男装の麗人 川島芳子』より)


    ドイツの電撃作戦は続き、五月十四日にオランダが降伏、十七日にはベルギーの首府ブリュッセルが陥落。ドイツ軍はマジノ線(仏独国境での仏側の防衛ライン)を突破した。

    六月十四日、ドイツ軍がパリに無血入城、ペタン親独傀儡政府成立した。首都をヴィシーに置いたのでヴィシー政権とも呼ぶ。六月初旬にチャーチルがフランスを助けるようアメリカに救援を求めたが、アメリカの輿論は中立政策維持を支持していたため拒否されていた。情報将校として従軍していたマルク・ブロックは、フランスは負けるべくして負けたと分析した。古びた戦術、他部門への無関心をはじめとする官僚制の腐敗、誤謬だらけの指揮、劣悪な装備。


    ドイツの勝利は本質的には頭脳の勝利である。(中略)両陣営はそれぞれ歴史上まったく異なる時代に属しているかのようにみえた。われわれは長年の植民地拡張のうちに、投げ槍対ライフルの感覚で戦争をとらえる習慣がしみついていた。しかし今回、未開人の役に回っているのはわれわれのほうである。


    私はベルギー領にある燃料集積所についてはあきれるほど不十分な情報しかないことに気づいていた。ドイツ軍がベルギー国境を侵犯したら、即座にベルギーに進撃するという周知の任をもつ軍としては、恐ろしいほどの情報欠如である。いくつかの個人的関係を通して、私はこの件に関する書類を補充し、大幅に制度を増すことができた。これには大いに奔走しなければならなかったが、参謀部という環境にあった経験は、ずいぶんと役に立った。このとき特に私が学んだのは、異なる部署の関係者のあいだで、しかも彼らが礼儀正しい場合、きちんとしたフランス語で単純に「自分に関係ないことにかかわる」というのをどう表現するか、ということだった。結局のところ私が率先して行なった調査は、結果がいかに有益であろうと、私の通常の任務の領分ではなかったからだ。私がしたことは、笑いを押し隠した表現で『精力的だ』と言われるのだ。(マルク・ブロック『奇妙な敗北』)


    十八日、ロンドンに亡命したド・ゴールが対独抗戦を呼びかけ、自由フランス委員会を設置する。フランス国内に向けては対独レジスタンスを呼びかけた。

    フランスには多くのユダヤ人が亡命していたが、もはやフランスも安全な地ではなくなった。五月から、フランス政府はドイツ出身者(十七歳から五十五歳までの男性全てと未婚又は子供のいない女性全て)を適性外国人として出頭させ、男女別々の収容所に抑留した。


    われわれはユダヤ人であるがゆえに、ドイツから追放された。だが、何とか国境を越えてフランスに逃れると、われわれは「ドイツ野郎」に転じた。それどころか、われわれは、本気でヒトラーの人種理論に抵抗するつもりなら、この呼び方をうけいれなくてはならないとまでいわれた。七年のあいだ、われわれは、フランス人――少なくとも将来のフランス市民――になろうとするばかげた役を演じた。戦争がはじまるとすぐ、われわれは相変わらず「ドイツ野郎」として抑留された。(ハンナ・アーレント「われら難民」。矢野久美子『ハンナ・アーレント』より孫引き)


    ピレネー山脈近くのギュルス収容所(女性専用収容所)に収容されていたハンナ・アーレントは、ドイツ軍パリ入城の混乱に乗じて収容所を脱出した。

    この時に脱出できなかったユダヤ人はナチスの絶滅収容所に送られた。なんとか夫ハインリッヒ・ブリュッヒャーと再会し、マルセイユのアメリカ領事館でビザの取得を申請している時、先にマルセイユに来ていたヴァルター・ベンヤミンと再会した。ベンヤミンはスペイン通過とアメリカ入国のビザを取得していたが、フランス出国のビザが取れていなかった。

    ベンヤミンはアーレント夫妻と一緒に行動したかったが、スペイン通過ビザの期限が残り少なくなっていた。夫妻と別れたベンヤミンは苦労してピレネー山脈を越えたが、無国籍者はスペイン国境を通過できないという新ルールによって、フランス側に引き渡されることを知り自殺する。


    一九四〇年九月二十六日、アメリカへ移住しようとしていたヴァルター・ベンヤミンは、フランスとスペインの国境でみずから生命を絶った。それにはさまざまの理由があった。すでにゲシュタポがかれのパリのアパートメントを押収していたが、そこには蔵書(かれは蔵書のうち「より重要な半分」をドイツ国外に持ち出すことができた)とノート類の多くが置かれていた。かれはまたパリから非占領地区フランスにあるルアードへ飛び立つ前、ジョルジュ・バタイユの好意によって他のノート類を国立図書館に置いてきたが、かれはそれについての心配もしていた。蔵書なくしてどうして生きられよう。かれのノートに収められた引用文や抜粋の厖大な収集をなくしたら、どうして生計をたてうるのか。(中略)

    ・・・・ただ、明らかに心臓の容態に悩まされていたベンヤミンにとっては、わずかな距離を歩くことさえ大きな努力が必要であったため、かれが国境にたどり着いたときには、消耗しつくした状態であったに違いない。しかも、かれが加わっていた亡命者の一行がスペイン国境の町に着いたとき、かれらが知りえたことは、その同じ日にスパインは国境を閉鎖したこと、国境の警備官はマルセイユで作成されたビザを尊重しないことだけであった。亡命者たちはその翌日に同じ道を通ってフランスへ戻るものと思われていた。その夜、ベンヤミンはみずから生命を絶ったのである。(ハンナ・アーレント『暗い時代の人びと』)


    ベンヤミンの文章は膨大な引用を駆使する、引用の織物ともいうべきもので、おそらく早過ぎたポストモダンなのだろう。だからこそ、蔵書やノートを失ったことは致命的なことだった。アーレント夫妻がニューヨークに辿り着くのは翌年五月のことだ。ナチスの権力の由来を分析したアーレントは、「自分で考える責任を回避した瞬間、凡庸な悪が生まれる」と言っている。


    道徳の問題が発生するのは、「強制的同一化」の現象が発生してからのことです。恐怖におびえた偽善からではなく、歴史の〈列車〉に乗り遅れまいとする気持ちが、早い時期に生まれるようになってからです。この気持ちが生まれたからこそ、生活のすべての分野において、文化のすべての領域において、公的な人物の大部分がまさに一夜にして、自分の意見を変えたのです。それも信じられないほど簡単に意見を変えたのです。それは生涯にわたる友愛の絆を断ち、破壊したのでした。要するにわたしたちを困惑させたのは、敵の行動ではなく、こうした状況をもたらすために何もしなかった友人たちのふるまいだったのです。

    こうした友人たちは、ナチスが権力を握ることについては責任は負っていませんでした。ナチスの成功に感銘を受けただけであり、目前にした歴史の〈判決〉に抗して、独自の判断を下すことができなかっただけだったのでした。ナチス体制のこの初期の段階において、個人的な責任ではなく、個人的な判断力がほとんどすべての人において崩壊したことを考えなければ、実際に起きたことを理解することはできないのです・(ハンナ・アレント「独裁体制のもとでの個人の責任」『責任と判断』所収)


    六月二十四日、近衛文麿が枢密院議長を辞任し、新体制運動を推進すると表明した。軍部と「革新右翼」は米内内閣打倒と近衛内閣樹立に向けて活動を活発化させる。「バスに乗り遅れるな」の標語によって、我先に新体制への協力を表明するようになる。アーレントは「歴史の〈列車〉に乗り遅れまいとする気持ち」と言った。日本でも同じことが起きているのだ。


    ・・・・この「バスに乗り遅れるな」こそこの時代の同調主義圧力を象徴する言葉であり、日本の大衆社会性を代表する言葉であった。この言葉こそ、この年大政翼賛会を成立させ、日独伊三国同盟を締結させ、日本を決定的に太平洋戦争の方向に向けさせた事態を象徴するキータームなのであった。(筒井清忠『天皇・コロナ・ポピュリズム』)


    この頃、林達夫は『帝国大学新聞』(六月三日号)に「歴史の暮方」を発表し、「絶望の唄を歌うのはまだ早い、と人は言うかも知れない」と書いた。


    ・・・・・出口のない、窒息するような世界の重荷に喘いでいる人間の絶望の声、諦念、血路を拓こうと必死になっている痛ましい努力--それが見えない、または見えても見えないふりをしている思想家や作家は、少なくとも私には縁なき衆生である。私はいつも哲学や文学からは、いわば裏街の忍びやかな唄声を聞き取りたいと願っていた。bêtise humaineの哀歌を! 華麗な大道の行列や行進には、全く趣味を持たなかった。哲学や文学が行進のプログラムになっては、もはやそれは哲学でも文学でもない。(中略)

    そんな気持でいるとき、文学者や哲学者が俄かづくりの政治的サロンを開いて、煙草の吸殻と冷えた紅茶茶碗の前にもっともらしい顔をして坐っている。いったい何を談義しているのだろう。何を「協賛」しているのだろう。それは文学の貧困と政治の貧困との苟合の漫画ではないか。西洋の「サロン」の政治的また文学的な複雑な意義を多少ともその深度において知っているものにとっては、これほど噴飯を催さしめる茶番もない。「虚々実々」といううまい言葉が、我々のところにはあったっけ。それも忘れられた小唄のように、今は耳に遠い。儀礼と社交との背後で激しく火花を散らして闘われるもの――我々の政治学は大人の心理学にさえなっていない。社会学にさえなっていない。何のことはない。小学校の修身とお作法の程度に過ぎない。(林達夫「歴史の暮方」)


    七月十六日、陸軍の主導で畑俊六陸相が単独辞職したことで米内内閣は崩壊した。二・二六事件の後、広田内閣が軍部大臣現役武官制を復活したことが、ここで効いてきたのである。日独伊三国同盟を阻止する勢力が排除された。ヒトラーの「バスに乗り遅れるな」の輿論が高まっていたのも米内内閣倒壊の理由である。三国同盟がなれば、それは日米戦争への道に繋がることは誰もが承知していた。その意味で広田弘毅の罪は重いだろう。

    そして輿論の大歓迎を受けて第二次近衛内閣が成立し、内閣の目玉として松岡洋右が外相となった。


    近衛さんは松岡をどういう風に見ていたかというと、「ちょっと危ないかも知れないが、型破りの外交をやれるのは松岡以外にはないだろう」というのであって、今までの有田外相などはあまり評価していなかった。従って外相に松岡と決めて、新内閣の中核にしたわけであった。

    一方松岡さんは松岡さんで、外交は自分がやるんだ。外交の戦略は首、外、陸、海の四相会議で決めてもらうが、外交の戦術は「外務大臣」松岡に一任されていると考え、どんどんやったわけだ。(松本重治『近衛時代』)


    「型破り」というだけで松岡を採用する。そこに将来の見通しは何もない。ただの博奕ではないか。こんな首相を、人々は期待し、持ち上げていたのだ。

    各政党は近衛新党への合流を目指して解党を進めていく。それにしても近衛文麿の人気というのは何だったのだろう。重要な場面で決定的な失言をしてしまうし、飽きっぽいと思われる程簡単に放り出してしまう。松本重治や酒井三郎の回想や『細川護貞日記』等、何を読んでもそれ程の人気を得た理由が分らない。


    昭和十五年(一九四〇)春ごろから秋にかけて新体制運動が日本政治を大いに動かしたのであったが、それには近衛文麿という一政治家が、断然光っている人気者だったからである。近衛さんの人気は空前のものであった。これに引きかえ、既成の政治家や既成の諸政党は、国民の眼から見ると、人気を持たず、既成政治家や既成政党にとっては全然将来性をもたなかった。これを何とかしなくてはならないと最初に着眼して、近衛さんをキャップに新党をつくろうと考えついて、実行し始めたのは、久原房之助であった。(松本重治『近衛時代』)


    ・・・・後藤(隆之助)はのちに反省して、次のように語っている。

    「国民は、新体制運動を要望した。その情勢に動かされて、僕は逡巡していた近衛公を踏み切らせてしまった。これが第一の誤りであった」

    後藤はまた、新政治力の統領としての近衛について語っている。

    「近衛公は、群峰の間に高くそびえたつ富士の秀峰を思わせる存在であったが、馬を陣頭に進めて群雄を駕御してゆく統率者ではなかった」

    確かに、近衛は群雄を統率してゆく資格に欠けていた。しかし、あの当時、近衛のほかにだれがいたかといえば、なかなか適任者は見当たらない。新党結成を目指していたほとんどのグループは、近衛を統領として考えていた。そこに近衛の悲劇があり、日本の悲劇があった、といえよう。(酒井三郎『昭和研究会』)


    本当に近衛しかいなかったのだろうか。

    六月、大都市では米、味噌、醤油、塩、マッチ、砂糖、木炭など十品目が切符制になった。十一月からは全国に広がり、マッチは一人一日五本、砂糖は一人月に三百グラムなどの制限が決められる。七月には奢侈品等製造販売制限規則が公布され、絹織物、指輪、ネクタイなどの製造が禁止される。八月には「ぜいたくは敵だ」の立て看板が東京市内に千五百本設置される。

    しかし昭和モダンは辛うじて浅草に生きていた。


    奇妙な関係の叔父と甥が足を向けつつある浅草六区の興行街は、これまた奇妙なことに――〈新体制〉であるにもかかわらず――アメリカ的なステージ・ショウが爛熟期を迎えていた。

    アメリカ本国ブロードウェイにおいてとっくに時代遅れになったレビューやヴォードヴィルは、ハリウッド映画の中にのみ姿を残していた。そしてフレッド・アステアに代表されるレビュー映画、マルクス兄弟やW・C・フィールズに代表されるヴォードヴィル映画が続々と日本で公開されることによって、一般大衆のアメリカニズムへの熱病に近い憧れが高まり、拍車をかけられた。時局は急速に軍国主義化しているにもかかわらず、ジャズ、ライン・ダンス、タップ・ダンスが質量ともに盛んになるという、当局が看過しえない現象が生じていた。(中略)

    さらにつけ加えれば、いや、こちらのほうが重要な理由なのであるが、欧米、とくにアメリカからの娯楽映画の輸入が、外貨節約や大衆のアメリカ化の防止といった理由で制限され、洋画上映館の上映本数が絶対的に不足しているのである。つい先月、七月には、今年の夏から秋にかけて公開されるアメリカ映画はわずか四本であることが発表され、大衆を嘆かせたが、こうした洋画不足を補うのが、アステア風の、あるいはエディ・カンター風の黄色人種によって演じられるステージ・ショウ、アトラクション、実演であった。(小林信彦『ぼくたちの好きな戦争』)


    小説ではあるが、実際の浅草風景だと信じて良いだろう。「ぜいたくは敵だ」さえギャグにしてしまう芸人の姿も描かれている。


    七月、関東軍防疫部は「関東軍防疫給水部(通称号:満州第659部隊)」に改編された、その本部が「関東軍防疫給水部本部(通称号:満州第731部隊)」である。部長は石井四郎(当時大佐、最終階級は陸軍軍医中将)。飛行機によるペスト菌散布のほか、様々のおぞましい人体実験(被験者をマルタ=丸太と称した)を行った。

    「731部隊の真実 ~エリート医学者と人体実験~」(「NHKスペシャル」二〇一七年八月十三日放映)を再構成した記事には、実験の実態の証言が引用されている。


    「昭和一八年の末だと記憶しています。ワクチンの効力検定をやるために、中国人、それから満人(満州人)を約五〇名余り人体実験に使用しました。砂糖水を作って、砂糖水の中にチブス菌を入れて、そしてそれを強制的に飲ませて細菌に感染をさせて、そして、その人体実験によって亡くなった人は、一二~一三名だと記憶しています」(731部隊 衛生兵 古都証人)

    「ペストノミ(ペストに感染させたのみ)の実験をする建物があります。その建物の中に約四~五名の囚人を入れまして、その家の中にペストノミを散布させて、そうしてその後、その実験に使った囚人は全部、ペストにかかったと言いました」(731部隊 軍医 西俊英)

    「吉村技師から聞きましたところによりますと、極寒期において約、零下二十度ぐらいのところに監獄におります人間を外に出しまして、そこに大きな扇風機をかけまして風を送って、その囚人の手を凍らして凍傷を人工的に作って研究しておるということを言いました。」(731部隊 軍医 西俊英)

    「人体実験を自分で見たのは、一九四〇年の確か十二月頃だったと思います。まず、その研究室に入りますと、長い椅子に五名の中国人のその囚人が腰を掛けておりました。それで、その中国人の手を見ますと、三人は手の指がもう全部黒くなって落ちておりました。残りの二人は指がやはり黒くなって、ただ骨だけ残っておりました。吉村技師のそのときの説明によりますと凍傷実験の結果、こういうことになったということを聞きました。」(731部隊憲兵班 倉員証人)

    「その死体の処理に『少年隊、来い』って言って引っ張られて行って、死体の処理を各独房から引っ張り出して、中庭で鉄骨で井桁組んでガソリンぶっかけて焼いたわけ。焼いて全部焼き殺して骨だけにして、今度骨を拾うの。『いや、戦争っていうのがこんなものか』と。戦争ってのは絶対するもんじゃないと。つくづくそう思いましたね。ほんとにね、一人で泣いた」(三角さん)

    https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/blog/bl/pneAjJR3gn/bp/pL7yDJJ0BW/


    「実験」を行ったのは、京大、東大をはじめとする、少なくとも十の機関から集められた四十人の研究者である。その精神状態は、おそらくナチスの絶滅収容所を運営していた官僚とほぼ同じであったろう。人間の精神は簡単に麻痺するのである。

    彼らはソ連の侵攻前に満州を脱出して日本に戻り、裁かれることはなかった。石井は本来、最も悪質な「人道に対する罪」で裁かれるべき人間だが、GHQに詳細な研究資料を提出することで訴追を免れたと言う。


    七月二十五日から八月二十六日まで、杉原千畝リトアニア領事代理が、外務省の訓令に反してユダヤ系難民に旅券を発行した。発行枚数は番号を記録したものだけで二千百三十九枚、実際には数千枚に上るという。

    リトアニアから国外脱出を果たしたユダヤ人たちは、シベリア鉄道に乗り、ウラジオストクに到着した。次々に極東に押し寄せる条件不備の難民に困惑した外務省は、「行先国に入る手続きが終わっていることを証明する書類を提出させてから、船に乗る許可を与えること」と、ウラジオストクの総領事館に厳命した。しかしウラジオストク総領事代理・根井三郎は、杉原が一度発行したビザを無効にはできないと、本省の指示を無視し、日本行きの乗船許可証を発給して難民の救済にあたった。杉原に比べて、根井の名前は余り知られていないのではないか。


    社会大衆党、政友会中島知久平派の解党に続き、民政党の永井柳太郎が近衛新党に合流する意志を表明したが、民政党の大多数は独自路線を歩みそうであった。


    ところが八月十五日になると、俄然、民政党そのものが解党を決定してしまった。解党した民政党員はみんな、新体制運動に参加しそうであった。これは、近衛さんたちにとって、一大事件であった。一国一党ともなれば、ナチス党のようになりそうになった。観念右翼からは、近衛さんたちの新体制運動のありかたが、幕府的存在になるのではないかと手痛い批判が出てきた。近衛さんの従来主張してきた政党主義の政治が出来なくなってしまう。これは近衛さんにも風見さんたちにも、全く予期しなかった事態となった。

    近衛さんとしては充分考え抜いた新体制運動を初めから考え直し、やり直すより他なくなった。(松本重治『近衛時代』)


    八月二十三日、日本軍が北部仏印へ武力進出を開始した。

    そして松岡洋右外相の積極的な交渉の結果、九月二十七日、日独伊三国同盟が締結された。米内、山本、井上があれほど強硬に反対していたにも関わらず、及川古志郎海相は近衛、松岡の説得に応じた。以前から問題になっていた「自働参戦」は曖昧なままにされた。ヨーロッパ戦線におけるドイツの電撃的な勝利によって、欧州の秩序体制は決定的に変化するとの見通しが、国民の間でも支持されていた。ヒトラーの人気は日本でも高かった。経済封鎖政策を取るアメリカへの敵意も次第に増している。


    日本はアメリカの経済封鎖によつて、現状のままならぢり貧に追ひこまれるのは必至であつた。また蒋政権の抗日意思を背後から物心ともに援助してゐるのもアメリカである。アメリカとの戦争はあくまで避けるとしても、対決の緊張を持続しつつ、その交渉において血路をひらくには、欧州に新秩序をもたらしつつある独伊と結び、ドイツを仲介にしてさらにソ連と結び、欧州圏、ソ連圏、東アジア圏の各ブロックが同盟して、英米支配圏を圧迫、憲政する以外に道はない。


    この考へ方は、親英米派の重臣、財界人の反対があるとしても、かなり広い国民層の共感を得たやうに思はれる。(桶谷秀昭『昭和精神史』)


    松本重治は、松岡が何を考えていたかつぎのように推測する。これが本当なら、余りにも甘い、勝手な読みを松岡はしていたことになる。


    松岡外相の考え方としては、三国同盟をやって、一定の力のポジションをつくりながら、南方への進出をはかる、そしてそれでもアメリカとの戦争はしない、鍔ぜりあいの外交談判で、石油をはじあめ、日本の欲しいなにか南方資源を確保することはできないか、ということであった。近衛さんもこの考え方に賛成だった。・・・・松岡さんだって日米戦争をやる気はない。だから三国同盟、あるいは四国協商をやれば、アメリカはますます参戦することには躊躇するだろう、と予想していたのだった。だから、三国同盟ができ、そのうえにソ連との融和についてはドイツが正直な仲介人になってくれる、というのだから、松岡さんにとっては満足できたので、三国同盟条約の調印にふみきったのである。(松本重治『近衛時代』)


    秋田市内ハイヤー業者(十五社五七台)が統合され、秋田合同タクシー株式会社が設立され、弥生はその代表取締役に就任した。小さな業界でも、弥生に人望があったと言うことだと思われる。この頃から弥生は、県内の運輸業者の中に名を挙げて行ったようだ。


    九月十一日、商工省は営業バスの七割を代用燃料車に、タクシーもなるべく代用燃料車に転換するよう指示を出し、更に翌年九月十一日からはバス、タクシーの営業許可は代用燃料車に限ることとした。既にガソリンの購入は難しくなっており、石炭や木炭を使用した自動車への改装が加速した。

    同日、内務省の訓令「部落会町内会等整備要領」によって隣組が制度化された。但し、徳山璉が歌う『隣組』(岡本一平作詞、飯田信夫作曲)は既に六月に「国民歌謡」で放送されていた。東京市では昭和十三年五月十四日、「東京市町会規約準則」のなかに、「隣組」という一章が設けられた。条件は、隣接する五世帯乃至二十世帯、五世帯異常を収容するアパート、その他五世帯異常を収容すると見做されるものである。つまり実質的には既に始まっていたものを、行政の末端組織(下請け機関)として制度化したのである。

    役割は、上意下達的な情報の伝達、食糧その他生活必需品の配給、防空防火、資源回収、国民貯蓄、体位向上・厚生等である。月に一、二回行われる常会には世帯から一人必ず出席しなければならなかった。常会は通例、夜八時頃に開かれた。三時間もかかることがざらであり、主婦にとっては負担が多かった。


    時間があまりに長びくのは、誠につらい。夜分など、三時間にもわたるようなことがあったら、子持ちの家庭ではたまったものではない。たいてい出場するのは主婦である。主婦の手一つで世帯の用事を切り回している家などでは、常会の晩には十二時近くになってから、夜食のあとかたづけをすることになる。(村岡花子「私の隣組」)


    常会はこんな風に進行した。●開会挨拶●宮城遥拝●黙祷(靖国の英霊に対し)●国歌奉唱●「市町村是」等の斉唱●伝達報告(市役所等からの通達。配給なども含む)●協議懇談申し合わせ(隣組内の問題)●講話●和楽(お喋り、歌、隠し芸等。軍歌や国民歌謡の練習も)●閉会挨拶(次回日程決定)

    『隣組』の第四連だけ引用しておく。


    とんとん とんからりと 隣組
    何軒あろうと 一所帯
    こころは一つの 屋根の月
    纏められたり 纏めたり


    もはや所帯単位でのプライバシーもない。全て組で共有しなければならず、自主的な密告、通告が奨励されるのである。

    十月十二日、大政翼賛会が生まれた。しかしこれは近衛が構想していた新体制運動とは似て非なるものだった。近衛構想の、特に資本と経営の分離(民有国営)は構想の経済面での眼玉であった。


    さうであるならば、昭和研究会のメムバアでありマルクス主義者の尾崎秀実が、近衛新体制内閣にケンレンスキイ政権を類推したのもおかしくない。また中野正剛ら革新右翼が、ナチズムの影響を受けてゐて、新体制の実現形態にナチス流の一党独裁を主張したのもむりはないであろう。(桶谷秀昭『昭和精神史』)


    ケレンスキー政権からナチスまで、近衛に期待する者の幅は余りにも広すぎるが、左翼と革新右翼は統制経済の点で意外に近いのである。近衛は既成政党ではない、全く新しい党を立ち上げる積りだったが、一国一党は憲法違反ではないかとの批判もあり、幸か不幸か、その目論見は中途半端に終わる。全ての政党が解党して流れ込んできた以上、それは既成勢力の混雑物でしかなかった。


    ・・・・それでも、いよいよ最後にどうなるかとかすかな期待をもって、私たちは最終決定を待っていた。しかし、十月十二日、新体制の発会式が終わって、憮然とした表情で帰って来た朝日の緒方竹虎から、私たちは、いろいろ議論があったが、近衛は挨拶の中で、

    「本運動の綱領は、大政翼賛の臣道実践ということにつきる。これ以外には綱領も宣言もない」

    と言った、ということをきかされた。会の名称も「大政翼賛会」ということになってしまった。私たちは、それをきいてがっかりし、これでいよいよだめだ、と思った。それまでまだ意欲を持っていた連中も、この話をきいて翼賛会入りを断念した。(酒井三郎『昭和研究会』)


    蝋山政道、新明正道、矢部貞治、尾崎秀実等、それぞれの立場で新体制運動を企画し、期待していた勢力は失望した。昭和研究会の大半は翼賛会に吸収され、十一月十九日、昭和研究会は解散する。三木清は最後まで会の存続を主張したが通らなかった。


    ・・・・・近衛総理が、その総裁に選ばれ、中央本部の事務総長に有馬頼寧が就任した。大政翼賛会の地方組織をいかにすべきかが問題となったが、内務省がその権力を保持するために、知事を県地方組織の委員長としたので、県単位以下の町内会や隣組などまでその組織も知事の指揮下になり、経済新体制を具体化するために、産業(工・鉱業)報国会や商業報国会などに組織し、各企業に公益優先が協調されたが、臣道実践を唱えても、めしは食えず、赤化のレッテルをはられ、経済新体制を「赤だ」といわれて、強い反対論が激しくなった。軍も在郷軍人会の組織の改組に反対し、予備役の在郷軍人は「個人としては」大政翼賛会に入ってもよいが、地方の在郷軍人会という組織は、大政翼賛会の傘下に入ってはならぬという方針を新聞紙上に発表して、軍部を抑えようとする企図は抹殺されてしまった。(中略)

    主として経済界からの「赤呼ばわり」で翌一九四一年四月は、有馬が事務総長を辞め、代わりに石渡荘太郎が総長になったが、近衛・有馬・風見などが「軍の横暴」を抑えようとした新党の夢は。はかなく消えてしまった。(松本重治『近衛時代』)


    大政翼賛会に文化部が設置され岸田國士が文化部長に就任した。岸田はフランス演劇を吸収したモダニストではあるが、幼年学校、士官学校を経て陸軍少尉に任官(後、予備役)した。軍部にとっては都合の良い人物だったと言えるが、岸田自身は「防波堤」となる覚悟だったと思われる。


    翼賛会の文化部としては、現在まで政府が実行して来た文化政策といふものゝ全体に亘つて、一応どういふことが今日までなされて来てをり、またそれがどういふ結果を生んでゐるか、更にまた政府がどういふ方向に導いてくれゝば、一層国民全体の間に文化が向上するか、さういふやうな問題に就て研究をしてをります。

    この文化政策といふ言葉は、今日まで実際政治の現実面では余り使はれてゐなかつた言葉でありますが、今度近衛さんが総理大臣になられた際に於る声明及び翼賛会の総裁としての声明のなかに、まつたく珍しくこの言葉が使はれてをります。つまり経済政策と並んで文化政策といふことが云はれてゐるのでありますが、これは、日本の現代文化、更に将来の新しい文化といふことを考へて、所謂政治の上に全面的に文化政策といふものが取上げられた、恐らく最初のものではないかと思ひます。(中略)

    ところが、大体文化部門といふのは比較的狭い意味で考へられてゐる。またこの翼賛会の中の文化部も、狭い意味での文化を担当してゐる処と考へられてゐるのでありますが、大体政治にしろ、経済にしろ、外交にしろ、軍事も含めて、それは一国の文化の一つの現れであると見てよろしい。さういふ意味の文化は、結局国の力そのものといふことにもなるのであります。狭い意味の文化部門といふことになりますと、やはり経済或は政治といふやうなものと並んだ一つの国民生活の部門でありまして、いま文化部としては、経済や政治は大体翼賛会のこの部に属しない部門と考へて、次のやうなものが、われわれの仕事の対象になつて来るのではないかと思つてゐます。即ち教育、宗教、科学、技術、文学、芸術、新聞、雑誌、放送、出版、それから厚生の方面では、労働問題は経済の一部門と見做すことにして、その他の部門、即ち医療、保健、体育、娯楽、これだけ入れゝば、大体文化部門として文化部の取扱ふ範囲にはひると思ひます。(中略)

    元来日本民族は科学性といふ点に於て、弱点があるやうに云はれてをりますが、日本民族そのものは科学性をもたない民族ではないと思ひます・・・・さういふ意味で明治初年の政治家はやはり文化性をもつてをつたやうです。例へば国民に対する告示にしても、文章は立派であるし、またそのなかには確乎たる見識があつた。決して人に書かせたものを読むといふやうなことはしなかつたのぢやないかと思ふ。政治家の情熱が国民に直ぐ伝つて行く。これがつまり芸術性で、さういふ点をよほど考へなければならぬのではないかと思ふのです。それから、例へば音楽と美術に就ては官立の学校がありますけれども、いろいろ民間に起つてをります文化運動に対して、政府はもう少し関心をもたなければならぬのぢやないかと思ひます。勿論その中にはいゝものも悪いものもありますが、いゝものほど苦労してゐる実情ですから、そのいゝものを助成し、これを育てるといふ意図を政府が示して、補助とまでは行かないまでも、さういふものゝ存在を認めて、それに眼をつけてゐるといふことをはつきり感じさせる、かういふ政府の政治的態度が国民に非常な希望を与へることになる。この点に就ては、私は今まで実際にさういふ運動(新劇運動を指す)に関係してをりましたけれども、実に無関心だつたと思ひます。(中略)幸にしてかういふ大政翼賛運動が起る新たな体制になつて、われわれが協力努力すれば、社会といふものはもつと理想に近いものになる途がついた、といふことが云へると思ひます。(後略)(岸田國士「大政翼賛会と文化問題」)


    翼賛会から予算を引き出し、少しでも文士の自由を確保したいというのが、岸田のギリギリの願いだったと思われる。そしてできれば軍部に抵抗したい。しかしそんなことが上手く行く筈がなかった。


    ・・・・私の見解では、近い過去において、知識階級にとってもっとも重大な決定的時期だったと思われるのは、一般に考えられているように十二月八日ではなく、むしろいわゆる大政翼賛運動がはじまったときであるが、実はこの時の知識階級の行動決定のさまを見て、私はそのとき既に万事休すと見透しを付けてしまった人間であります。

    その当時、私は自分のつとめている大学の講演会で、「新秩序と哲学の動向」という無理にあてがわれた題目で意見を述べさせられたことがあります。私は新体制運動なるものについてはきわめて懐疑的だったので、私としてはわりに率直に、呪術的な政治の命令的言葉によって人は軽々しく行動を起こすべきではないこと、真の哲学はもはや終わったこと、今後は新スコラが哲学を代用するにすぎないこと、思想家の今後に残された道は、牢獄と死とのソクラテスの運命を甘受するか、でなければデカルトのように仮装された順応主義のポリティークをとる以外にはないことなどを述べたのでした。(林達夫「反語的精神」)


    十月三十一日、東京のダンスホールが閉鎖された。

    十一月十日、宮城外苑ほか全国各地で紀元二千六百年奉祝祭が開かれた。尋常小学校五年生のカズは秋田市内で開かれた合唱コンクールに出場した。


    当時、神奈川県平塚市の第二尋常小学校三年生であった私も、学校で、その日(十一月十日)のために、日の丸を作り、『紀元二千六百年』(増田好生作詞・森義八郎作曲)の歌を習い、当日は学校で式のあと、神社に参拝し、五、六年の女子生徒が奉納する「浦安の舞」を見てから、町内の旗行列にくり出した。(山中恒『子どもたちの太平洋戦争』)


    この月からタバコが配給制になった。成人男子一人当たり一日に「金鵄」六本を、隣組を経由して配給する。男子に限るのだが、隣組の融通によっては女子にも認められたところがあるらしい。二十年五月には一日五本、八月には一日三本と減って行く。また紙巻きタバコが不足すると、葉と手巻き用の紙が別々に配給されるようになる。紙が不足すれば、辞書(特にコンサイス)の頁を破って自分で煙草を巻く。

    十二月二十九日、アメリカのローズベルト大統領が、連合国を支援するためアメリカが民主主義国の兵器廠となる旨の談話を発表した。アメリカが孤立主義から舵を切り替えた瞬間であった。そして翌年三月にはレンドリース法(武器貸与法)が成立する。その成果は、総額五〇一億USドルに上り、うち三一四億ドルがイギリスへ、一一三億ドルがソビエト連邦へ、三二億ドルがフランスへ、一六億ドルが中国へ提供された。そして令和四年(二〇二二)四月、「ウクライナ民主主義防衛・レンドリース法案」がアメリカ上院で全会一致、下院でも賛成多数で可決される。


    高見順『如何なる星の下に』、織田作之助『夫婦善哉』、田中英光『オリンポスの果実』、会津八一『鹿鳴集』、斎藤茂吉『萬葉秀歌』。この時代の万葉解釈はほとんど、茂吉に代表される「アララギ」によって作られ、その影響は大きい。そして学徒出陣に赴いた学生の間で特に愛読された。

    伏水修監督『支那の夜』(長谷川一夫、李香蘭)、豊田四郎監督『小島の春』、阿部豊監督『燃ゆる大空』、吉村公三郎監督『西住戦車長伝』。洋画は『民族の祭典』(ベルリン・オリンピック)、『駅馬車』、『大平原』。

    『民族の祭典』については、ナチスのプロパガンダであると言う批判と、それにも関わらず芸術的に素晴らしいという評価と二つある。監督のレニ・リーフェンシュタールは、多くのドイツ人(ユダヤ人以外)と同じように、ヒトラーが悪だとは思ってもいなかった。普通の人びとがナチスを支えたのである。

    ドイツで公開されたオリジナルには水泳の前畑の画面がなかったため、日本では輸入元がニュース映画を挿入して上映したと言う。淀川長治の解説がある。


    『民族の祭典』これは本当に今考えてもぞっとするぐらい立派でしたね。そのオリンピック、ベルリンオリンピックの実写ですけど実写、それと言えないね。これが本当のニュースと言えないぐらいに劇的なんですね。凄いんですね。

    これもう『美の祭典』と言う続編作りましたけれど見事なんですね。で、これ観てますと勝負、勝ち負けの勝負どころかスリル、サスペンス以上にキャメラ、キャメラが凄い。キャメラが四〇台あったんですね。そうしてこのキャメラがもう見事に見事にその瞬間撮ったんですね。そうしてもっと凄いのは運動場に穴開けて地下から上向けて撮ったりしたんですね。だから走っていく男の脚、パーっと上がる脚も全部撮ったんですね。遠くから来る男、それが目の前で飛び越していくんですね。そういう凄い凄い場面撮って映画のシンフォニー、まさに映画のキャメラが本当にシンフォニー。キャメラだけで目がくらむくらいに良かったですね。(中略)

    それでこの『民族の祭典』と続く『美の祭典』は本当に美しい美しいキャメラ、映画の芸術ですね。ところがこれをこんなにまで立派に仕上げたのは、誰がこれを応援したか?ヒットラーだったんですね。ヒットラーがもうレニ・リーフェンシュタールの為なら何でもしてやると言ったんですね。で、レニ・リーフェンシュタールはもう思う存分ヒットラーの命令であらゆる事したんですね。だからこの『民族の祭典』観た日本人は本当にドイツに酔っぱらったんですね。ドイツはこんなに美しいのか思ってびっくりした。これはドイツに傾いた見事に映画が本当に国民を動かした位の作品ですね。

    で、この『民族の祭典』出た頃、『美の祭典』が出た頃、日本人は全部ドイツに傾いちゃったんですね。「ドイツは偉い国だ!ドイツは立派な国だ!ドイツはええな。」と言うのでみんなドイツ語流行ったんですね。という訳で映画の力は怖いですね。で、これはこの映画観た後で日本はドイツと組みましたね、戦争で。日本人はそれは当たり前と思いましたね。それぐらいドイツに惚れ込みましたね。レニ・リーフェンシュタールの力は凄いですね。で、私はこれ観て驚いて何ていうキャメラは凄いか思いましたけど、後で、レニ・リーフェンシュタール言う人とヒットラー言う人がこれを作ったと思いますと少し嫌気がさしましたね。けれども嫌気を除けてこの映画の美しさ、映画の美は本当にこれこそ映画でしたね。(ICV『世界クラシック名画選集』「民族の祭典」解説)


    映画『支那の夜』(西條八十作詞、竹岡信幸作曲)は、渡辺はま子のレコードがヒットしたため、それを主題歌にして作られた映画である。映画では李香蘭が歌った。


    この映画でもっとも忘れられないのは、李香蘭扮する少女・桂蘭が日本人船員・長谷哲夫(長谷川一夫)に殴られるシーンである。他人様から殴られたのははじめてで、本当にびっくりしてしまった。(中略)

    その平手打ちの痛かったこと! 眼から火花が飛びちるというのは本当だと、思い知った。耳がジーンとして、何も聞こえなくなった。カメラはまわっているから演技はつづけなければならず、忘れかけたセリフは何とか辻つまを合わせたが、撮影のあと長谷川さんは「つい本気で殴ってしまった。ごめん、ごめん」としきりにあやまった。

    私はこの四十数年前のシーンを痛さの記憶だけからおぼえているのではない。漢奸裁判で問題になったシーン、日本と中国の習慣のちがいを象徴した例として、いまだに忘れることができないのである。

    戦前の日本では、男が女を殴ることも一種の愛情表現で、殴られた女が殴った男の強さや思いやりに感激し、改めて愛に目ざめるという場面は、芝居やスクリーンでよく見うけられた。しかし、それは日本人だけにつうづる表現だった。長谷川一夫が山口淑子扮する日本人女性を殴り、そのシーンを見ている観客が日本人であれば問題はなかったが、『支那の夜』で日本人男性に殴られたのは、李香蘭扮する中国娘で、それをみて問題にしたのは中国人だった。

    殴られたのに相手に惚れこんでいくのは、中国人にとっては二重の屈辱と映った。そして、その行動様式を、侵略者対被侵略者の日中関係におきかえてみた一般の中国人観客は、日本人のように一種の愛情表現とみなして感動するどころか、日本人に対する日ごろの憎悪と反発がさらに刺激された。映画の教宣目的は全くの逆効果で、抗日意識をいっそうあおる結果となったのである。(山口淑子『李香蘭 私の半生』)


    『駅馬車』(原題 Stagecoach)がジョン・ウェインの出世作であることは周知だろう。淀川長治がユナイテッド・アーティスツ日本支社の宣伝部勤務になって最初に担当した作品であり、『駅馬車』という邦題を考えたのも淀川であった。

    『紀元二千六百年」(増田好生作詞、森義八郎作曲)、霧島昇『誰か故郷を想はざる』(西條八十作詞、古賀政男作曲)、高峰三枝子『湖畔の宿』(佐藤惣之助作詞、服部良一作曲)、渡辺はま子・李香蘭『蘇州夜曲』(西條八十作詞、服部良一作曲)。

    『湖畔の宿』は佐藤惣之助が榛名湖をモチーフにして作詞した。当時の榛名湖はまだ山奥の人里離れた湖で、湖畔には一軒宿の「湖畔亭」があるのみだったという。ヒットしたが、戦時下の時世に適さないという理由でやがて発売禁止となった。