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    東海林の人々と日本近代(十一)昭和篇 ⑥

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2022.11.07

    昭和十六年(一九四一)利器七十三歳、タツミ四十歳、祐十六歳、カズ十三歳、利孝十一歳、ミエ八歳(亀田小学校入学)、石山皆男四十一歳、鵜沼弥生三十九歳、田中伸三十四歳。


    一月八日、陸軍大臣東条英機の訓示「戦陣訓」が発表された。「本訓その二」の中の「第八 名を惜しむ」にある「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」が大きな問題になるのである。この訓示はどれほど、日本兵の意識を拘束したのだろうか。

    捕虜になる可能性が最も高いのは、退却時に単独歩行できない傷病者である。傷病者を保護するために、「戦地軍隊における傷病者の状態の改善に関する条約」(赤十字条約)があり、日本政府もこれを批准し、昭和十年には公布していた。その第一条に、退却不能な傷病兵には衛生要員つけ、その場に残置し、敵の保護下に入ることができると定められていた。日本軍もおおむねそれを遵守していたが、ノモンハンが大きなきっかけになった。


    ・・・・・協定成立後、捕虜となった日本軍将兵が日本側に送還されてきた。このとき陸軍中央は、「捕虜を禁じる法律的根拠はないから、軍法会議の前に将校には自決させて戦死の『名誉』を与え(自決すれば戦死とみなすということ)、下士官兵は軍法会議で審理し負傷者は無罪、そうでないものは『抵抗または自決の意思がなかった』と見なして「敵前逃亡罪」を適用」するという厳しい方針で臨んでいる。(吉田裕『日本軍兵士――アジア・太平洋戦争の現実』)


    それ以来、歩行不能な傷病兵には自殺を奨励し(命じ)、拒否すれば「処置」(殺害)することが行われるようになっていく。これを決定的にしたのが「戦陣訓」であった。日本軍の自殺率の高さは世界一であったという。自殺の原因はそれだけではない。内務班での古年次兵による理不尽な暴行に堪えられずに精神を病んだ者も自殺した。

    俘虜になった多くの兵士が、帰国すれば死刑になると思い込んでいたと、大岡昇平は『俘虜記』で語っている。二十年一月ミンドロ島サンホセで、マラリアで歩けなくなった大岡は手榴弾で自殺しようと試みたが、不発のため失敗した。銃口を額に当て、右足の親指で引き金を引こうとしたが上手くいかなかった。人事不省に陥り捉まって俘虜収容所に収容されると、そこには大勢の日本人俘虜が(大岡のような知識人から、全くの無学者まで)いた。


    俘虜収容所で私はよく米兵から「君は降伏したのか、捉まったのか」と訊かれた。(彼等は日本人が降伏するより死を選ぶという伝説を確かめたかったのであろう)私はいつも昂然として「捉まったのだ」と答えるを常としていた。

    彼等はまたきいた。「君は我々が俘虜を殺すと思っていたか』私は答えた。「私はそんな軍部の宣伝を信じるほど馬鹿ではない」「そんなら何故降伏しなかったのか」「名誉の感情からである。私は降伏について別に偏見を持っていないが、しかし敵の前に屈するのは、私の個人的プライドが許さない」

    しかし囚人の自尊心が私を去った今、よく考えてみれば、私はこの銃を向けられた時進んで抵抗を放棄したのであるから、やはり「降伏」していたのである。白旗を掲げて敵陣に赴くのと、包囲されて武器を捨てるのと、その間程度の差に過ぎない。(大岡昇平『俘虜記』)


    一月十六日、大日本青少年団が発足したが、余り知られていないのではないだろうか。私は山中恒『ボクラ少国民』で知った。山中が引用する『大日本青少年団史』によれば、こんな組織である。


    従来存在していた青少年団(大日本連合青年団=大日本青年団)と女子青年団(大日本連合女子青年団)少年団二つ(日本少年団連盟、帝国少年団協会)--この四つの団体がわが国における最大の青少年団であった--が戦時体制に即応して統合し、一つの団体となり大日本青少年団と称したのである。大日本青少年団は簡単にいうと小学校三年生以上の少年少女全部と、中等学校に通学しない男女勤労青少年で満二十五歳までを団員とする(戦時中女子は女学校在学者や卒業生が多く加わった)非常に大きな団体であって、文部大臣が団長となり各道府県の青少年団を傘下において指導統制したのである。


    ヒトラー・ユーゲントの模倣でもある。下村湖人は既に昭和十二年に大日本連合青年団講習所長を辞任していたが、新しい組織は下村や田澤義鋪が目指したものとは全く違うものであった。五年生のカズ、三年生の利孝も強制的に加入したのである。

    やはり山中が引用する佐野美津男「子どもと戦争と平和――赤さび色の焼け跡とひとりの浮浪児のイメージ」はこう書く。


    戦中のぼくらは組織されていた。赤いワシを二羽重ねたマークが、ぼくらの胸にはりついていた。「われら大日本青少年団」の歌を歌いつつ閲兵式さながらに更新した日の輝かしきことよ、憧れは大空へと羽ばたいていたのだ。敗戦はぼくらの組織を破壊し、憧れの翼をへし折った。ぼくは浮浪児として焼跡に放り出されたのだ。とすれば、ぼくらもまた、ヨーロッパの心ある人びとがナチズムとその親衛隊を憎悪したように、日本軍国主義と大日本青少年団を激しく憎む必要があったのではないか。


    佐野美津男(昭和七年生)は浅草に生まれ、三月の東京大空襲で両親を失い孤児になった。長じていわば「闘う児童文学者」になる。佐野は「赤いワシ」と書いているが、山中恒(昭和六年生)は単に「大小の赤い鳥二羽」としている。かつての少年団にはボーイ・スカウト風の制服があった(自弁だから制服を誂えることができる家庭の子供が自主参加した)が、今度の組織には制服はなく、この鳥のマークを胸につけることになっていた。それは「ボクラ少国民」にとっては得意満面になる場面でもあった。

    空襲が酷くなり疎開が行われるようになれば、こんなことはしていられない。実質的には僅か三年程の活動であるが、学校単位で強制的に参加する仕組みだったから、当時の少年には大きな影響を与えたと思われる。


    ・・・・ぼくらはその団章のついた団旗を仰ぎ、レコードデスピーカーから流される団歌の行進曲で、分列行進をした。運動家の中でのページェントである。もっともこの種のページェントは毎月一回の興亜奉公日(後に八日の大詔奉戴日)にはしばしば行われていた。そのとき、ぼくらは〈ヒトラー・ユーゲント〉にも負けない気概で胸を張り、頬をそめて行進した。それは〈銃後ノ少国民〉というよりは〈闘フ少年団員〉であった。近い将来、戦場へ必ずおもむくことを誓った〈天皇ノ若ク幼イ兵士〉であった。(中略)

    ・・・・青少年の生活から、〈自由主義・民主主義的ナモノヲ排除シ〉ひたすら〈天皇ニ帰一シ奉ル〉ように、その〈全生活ヲ教養訓練トシテ具現〉する統制機構が、大日本青少年団だったのである。もはやそこには服従することしか残されていない。命令によって励むことしかない。(山中恒『ボクラ少国民』)


    一月から四月にかけて、企画院事件が起こった。前年十月に企画院が発表した「経済新体制確立要綱」が、財界などから赤化思想の産物として攻撃されたのである。原案作成にあたった稲葉秀三・正木千冬・佐多忠隆・和田博雄・勝間田清一・和田耕作ら中心的な企画院調査官および元調査官(高等官)が治安維持法違反容疑で逮捕され、検挙者は合計十七名となった。


    企画院事件は、結局何のためにあのようにデッチあげられたのだろうか。その大きな理由の一つは、近衛新体制と、平沼および保守的財界との争いという政治的背景があったからだといわれている。・・・・新体制の中で目指されたものは、政治面では新しい国民組織で、経済面では経済新体制や農業の新体制、労働新体制などであったが、この経済新体制の根幹的かつ具体的な内容をなすものは、資本と経営の分離であった。そしてこれを推進するものが近衛であり、また、その中ある役割を果たしたのが昭和研究会であったが、この経済新体制案については、前にも述べたように、財界その他の保守派から強い反発があったのである。(酒井三郎『昭和研究会』)


    前年の映画『支那の夜』で人気を呼んだ李香蘭が二月に来日した。「日満親善のため」紀元節から一週間、日劇で公演するためである。映画は通俗的なものだった(中国大陸ではほとんど上映されなかった)が、李香蘭が歌う『支那の夜』や『蘇州夜曲』等の甘美なメロディが日本人に受け入れられた。『蘇州夜曲』(西條八十作詞)は服部良一が李香蘭のイメージに合わせて作曲したものだという。


    君がみ胸に 抱かれて聞くは
    夢の船唄 鳥の唄
    水の蘇州の 花散る春を
    惜しむか柳が すすり泣く

    花を浮かべて 流れる水の
    明日の行方は 知らねども
    今宵うつした 二人の姿
    消えてくれるな いつまでも

    髪にかざろか 接吻しよか
    君が手折りし 桃の花
    涙ぐむよな おぼろの月に
    鐘が鳴ります 寒山寺


    蘇州は長江の南側にあり、長江デルタの中心部、太湖の東岸に位置する。かつて呉の都であった。私たちは張継の七言絶句『楓橋夜泊』を思い起こせば良いだろうか。


    月落烏啼霜満天  月落ち烏啼いて霜天に満つ
    江楓漁火対愁眠  江楓漁火愁眠に対す
    姑蘇城外寒山寺  姑蘇城外の寒山寺
    夜半鐘声到客船  夜半の鐘声客船に到る


    開場を待つ観衆の列は日劇の周りを七回り半し、李香蘭自身が楽屋に入るのも苦労するほどの大混乱が生じた。


    〝日劇七まわり半事件〟について全貌を知ったのは翌日以降で、当日は、はじめてのワンマン・ショウをとちらずに演じとおすために、ただただ無我夢中だった。(中略)

    ・・・・どの新聞も〝事件〟としての大騒動を伝えていた。とりわけ本社が日劇に隣接していた朝日新聞は被害をこうむった腹イセか〈佳節を汚した観客の狂態〉という見出しで、きびしい調子の批判的な記事を掲げていた。〈十一日紀元節の朝、帝都丸之内の某映画劇場の前で演ぜられた観衆の雑踏と混乱、今なほ改まつてをらぬ一部市民の国民道徳の薄つぺらさ、規律の弱さ、その欠陥をマザマザと見せつけられたこの一時は遺憾であつた。それを筆にすることは物悲しいが、こんな混雑はもうこれでおしまひにといつた意味で読んで下さい〉と、書き出しからしてお説教だった。(中略)

     ・・・・翌日からの新聞紙上で展開されたのは、もっぱら紀元節という‶佳節〟に起こった不祥事件をめぐる「けしかる」「けしからん」の是非論争だった。(中略)

    ・・・・日劇七まわり半事件は、しばらくのあいだ、非常時における国民道徳講座の教材に使われた感があったが、東京帝国大学では綿貫哲雄教授(社会心理学)が期末試験の課題に、「日劇七まわり半事件について記せ」という問題を出した。当時、法学部四年生だった宮沢喜一氏(現大蔵大臣)は、「自由を求める大衆の心理を如実に示す実に痛快な出来事である」という答案を出して〈優〉をもらったという。(『李香蘭 私の半生』)


    この公演の後、李香蘭は「大学生 松岡謙一郎」と署名されたファンレターを受け取った。当時東京帝大法学部の学生だった松岡洋介右の息子である。やがて李香蘭が東京に来る時にはデートを重ねるようになる。淑子自身は内心プロポーズされることを願っていたが叶わなかった(現実にプロポーズされたのは戦後になってからのことで、既に淑子の心は離れていた)。


    三月、国民学校令が出され、小学校尋常科を国民学校初等科(六年)、高等科を国民学校高等科(二年)と称することになった。これは上級学校へ進学しない者の義務教育年限の延長を意味した。五年生以上には武道(剣道または柔道)が必須になり、女子には薙刀が取り入れられた。小学生は少国民と呼ばれ、徹底的な皇国教育を叩きこまれた。カズ六年生、利孝四年生、ミエ一年生。国民学校令の第一条はこうである。


    第一条 国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ日的トス


    「皇国の道」とは「教育勅語」に示された「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ」から「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」に示された「皇運扶翼の道」であると解説された。

    しかし新聞を読まない庶民の中には「皇国」を知らない者もいた。大西巨人『神聖喜劇』ではコウコクを知らない兵がいて主人公始め内務班の全員が唖然とするのだが、山中恒は「コウコクって何ですか、広告ですか」と質問する者もいたと紹介している。朝日新聞が国民学校の歌詞を募集し、米山愛紫の歌詞が採用され東京音楽学校が作曲して『国民学校の歌』が作られた。


    皇御国に 生まれ来た
    感謝に燃えて 一心に
    学ぶ 国民学校の
    児童だ われら朗らかに
    輝く歴史 うけついで
    共に進もう 民の道

    大御訓(おおみおしえ)を いただいて
    智徳の力 身の力
    磨く 国民学校の
    児童だ われら高らかに
    尊い御代を ことほいで
    共に進もう 民の道

    日の丸掲げ まっしぐら
    御国の明日の 弥栄を
    担う 国民学校の
    児童だ われら健やかに
    春秋八年 手をとって
    共に進もう 民の道


    ドレミファソラシドがハニホヘトイロハになった。ドレミはイタリア語に由来する。当時イタリアは同盟国だから、この時点でドレミを禁ずる意味がよく分からない。ただ、ハニホヘトを教えることによって、ハ長調とかト音記号の意味が分かるようになる(小学生の私は分らなかった)。


    ・・・・初等科一年に入学した弟が、『ヒノマル』を「ヘヘトトイイト、イイハハニニハ、ニニハハイヘト、ハハイヘトイハ」とやるのを聴いて、なんだか屁をして笑っているみたいだとからかって、母にこっぴどく叱られた。(山中恒『ボクラ少国民と戦争応援歌』)


    敵性語禁止に法的根拠はなく、一部民間やマスコミの主導によって流布されたものであったようだ。現にプロパガンダのためのグラフ誌に『FRONT』と名付けている。英語教育をやめるべきだとの意見に、東条首相は「英語教育は戦時において必要である」としている。つまり英語は禁止された訳ではない。因みに出版社の旺文社は、元は欧文社であった。

    四月一日、生活必需物資統制令公布。六大都市で米穀配給通帳制、外食券制が実施され、一般成人の米は一日二合三勺と定められた。これは大人の従来の平均摂取量に比べて二十四パーセントの削減であった。まだ日米戦争は始まっていないのである。それでもこんなことになる。この程度の国力でアメリカと戦うと言うことが信じられない。

    昭和十四年には朝鮮米が不作に襲われ、この十五年には旱魃によって、年間九百万石の米が不足している状況だった。不足分は外米に頼るしかないが、アメリカの経済封鎖によって仏印とタイからの輸入が困難になっていたのである。


    子どもたちの社交場でもあった「一銭みせや」と呼ばれた駄菓子屋でも、甘味が次第に姿を消しはじめ、「一銭みせや」の名前に反して、一銭で買える品物が少なくなっていった。金属製だった玩具はセルロイド製にかわり始めていた。いまほど精巧ではないが、金属製のミニ・カーや軍艦・飛行機などのミニチュアが売られていたが、それがセルロイド製になった。鉄製のベエゴマなども、子供が「いもの」と呼んでバカにした、まぜものの多い鋳造品になった。これは外見は従来の鉄製と変わらなかったが、実はやけに軽くて、うまく回ってくれなかった。どうかすると、なにかのはずみで、ぱかっと割れ、その割れ口は瓦のようであった。(中略)

    気がついてみると、駄菓子屋に限らず、どこの菓子屋のケースもがらんとしていて、おいてあるのは、やけに高いゼリー類だけで、店の表のガラス戸には「キャラメル、ビスケット今月分の割当ては売り切れました。つぎの入荷は〇月〇日です」などと貼り紙がしてあった。(山中恒『子どもたちの太平洋戦争』)


    五月から、駐米大使野村吉三郎とアメリカのハル国務長官との間で交渉が始まった。日本側の条件は、(一)アメリカは中国から手を引くこと、(二)日本は三国同盟を厳守すること、(三)日本の南方進出に当たって武力を行使しないとは保証しない、というものである。


    それに対してハルが示した非公式案は、(一)全ての国家の領土と主権の尊重、(二)内政不干渉、(三)通商上の機会均等を含む平等原則、(四)太平洋の現状維持、を原則とするものだった。両国の思惑は最後まですれ違いのままになった。


    六月二十二日、ナチス・ドイツがソ連攻撃を開始し、独ソ戦争が始まった。報告を受けたスターリンはそれを信じず、ドイツ大使館に確認するよう命じた。そして開戦が事実だとわかった時、彼はショックを受けた。ソ連側では祖国大戦争と呼ばれる、史上最大の絶滅戦争の始まりである。両国とも厖大な死者を生んだ。


    こうした悲惨をもたらしたものは何であったか。まず、総統アドルフ・ヒトラー以下、ドイツ側の指導部が、対ソ戦を、人種的に優れたゲルマン民族が「劣等人種」スラブ人を奴隷化するための戦争、ナチズムと「ユダヤ的ボルシェヴィズム」との闘争と規定したことが、重要な動因であった。彼らは、独ソ戦は「世界観戦争」であると見做し、その遂行は仮借なきものでなければならないとした。(中略)

    ヒトラーにとって、世界観戦争とは「みな殺しの闘争」、すなわち、絶滅戦争にほかならなかった。(大木毅『独ソ戦』)


    前述したように、ソ連軍の内部はほぼ空洞化していた。ヒトラーはソ連を破るのは簡単だと考えていた。ウクライナはすぐに陥落するとプーチンが考えたように。具体的な計画は何であったか。


    東部総合計画は、戦争終結後の最初の四半世紀において、ポーランド、バルト三国、ソ連西部地域の住民三一〇〇万人をシベリアに追放し、死に至らしめると定めていた。一方、残された「ドイツ化」できない住民一四〇〇万人は、「民族の境界線」を数千キロ東方へ動かす任にあたるゲルマン植民者のために、奴隷労働に従事することになる。(大木毅『独ソ戦』)


    この戦争に、百万人を超えるソ連女性が従軍した。しかもそのほとんどは志願によるものである。革命以来、ソ連共産党は男女平等を実現していたから起きたことである。アヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』によれば軍医、看護婦は勿論、戦闘員として狙撃兵、機関銃兵、斥候兵、飛行士、土木工兵、航空整備士、運転手等々に従事した。彼女たちはなぜ志願したか。


    でも、私の思いはただ一つ。前線へ、前線へ、でした。今は博物館入りしてしまった、あのポスターよ。「母なる祖国が呼んでいる!」「君は前線のための何をしたか?」少なくとも私にはとても大きな影響を与えたわ。歌だってあったでしょう?「立ち上がれ!広大な国よ・・・・決死の闘いに立ち上がれ・・・・」(軍曹・航空整備士)

    何度も何度も徴兵司令部に通ったわ・・・何回目だったか、門前払いにせんばかりに言われたの。「何か専門でもあればな。看護婦とか運転手とか。何ができるんだ?戦場に行って何をしようってんだ?」と。私たちは理解できなかった。何をするかなんて疑問を持たなかった。戦いたかっただけ。(軍曹・看護婦)

    私は銃を撃ちたい。私はもうその気になっていました。私たちの学校には、国内戦の英雄やスペイン市民戦争で戦った人たちがよく講演に来たものです。女子は男子にひけをとらないと思っていました。男女の別はありませんでした。それどころか、小さいころから、「少女たち、トラクターの運転を!」「少女たち、飛行機の操縦を!」という呼びかけを聞きなれていました。(軍曹・狙撃兵)

    「どうしておまえは戦争に行くの?」と母が訊きます。「おとうさんの敵討ちに」(中略)

    私は部隊の電話交換手をしていました、何より憶えているのは隊長が受話器に向かって怒鳴っていたことです。「援軍を! 援軍を頼む! 援軍を!」それが毎日でした。(軍曹・通信兵)

    間もなく、ドイツ軍が街に、十キロくらいのところまで迫って来て、銃の連射音が聞こえて来た。私たち女の子はみな徴兵司令部に駆け込んだ。「私たちも国を守らければならないわ。」もちろんみな一緒にと。全員は受け入れてもらえず、体力があって十八歳になっている子がまず採られた。(曹長・戦車大隊衛生指導員)〈彼女は年齢が足りず採用されなかったが、他の仲間と一緒に戦車大隊本部行きのトラックに紛れ込んで、なんとか採用される〉


    六月二十五日、大本営政府連絡懇談会が「南方施策促進に関する件」を決定し、南部仏印への進駐を正当化した。北部仏印進駐を果たしたものの、援蒋ルートの遮断は思うように進まなかった。更に際南部仏印に軍を進めることで、米英蘭と中国との結びつきを早急に断つ必要があるというのが、軍部の掲げる目的だった。更にタイ米、ゴムなどの南方資源を確保することも急務だった。

    七月、中島敦はパラオ南洋庁国語編修書記の職を得てパラオに渡った。日本政府の南進策を受けて委任統治領であるパラオ、サイパン、トラック、ポナペの住民を「皇民化」すべく、新たな国語教科書を編集することになったのである。喘息の転地療養として就職した中島の任務は、そのための現地調査である。しかし中島はこの仕事の意義を認められなくなって来た。手紙にこう書いている。


    十一月五日付(妻宛)・・・・・さて、今度旅行をして見て、土人の教科書編纂という仕事の、無意味さがはっきり判って来た。土人を幸福にしてやるためには、もっともっと大事なことが沢山ある。教科書なんか、末の末の、実に小さなことだ。(中略)昔は、彼等も幸福だったんだろうがねえ。パンのミ・ヤシ・バナナ・タロ芋は自然に実り、働かないでも、そういうものさえ喰べていれば良かったんだ。あとは、居眠り、と踊りと、おしゃべり、とで、日が暮れて行ったものを、今は一日中こき使われて、おまけに椰子もパンの木も、どんどん伐られて了う。全く可哀そうなものさ。(今の有様については、くわしく書くことを禁じられているから、これは、もう之でやめる)

    十一月六日付(父宛)・・・・今の時局では、土民教育など殆ど問題にされておらず、土民は労働者として、使いつぶして差し支えなしというのが為政者の方針らしく見えます。之で、今まで多少は持っていた、此の仕事への熱意も、すっかり失せ果てました。(中島敦『南洋通信』)


    これが「大東亜共栄圏」の実態であった。公学校では威嚇と威圧による教育が行われていた。中島自身、場合によって威圧が効果的な場合もあると認めたうえで、しかしそれでは、三年も五年も南洋にいても、南洋の人の心は分らないだろうと考える。翌年、喘息の悪化で辞職し帰国したが十二月に死んだ。『名人伝』、『弟子』、『李陵』は没後発表されたものである。

    また南方への日本語教育(プロパガンダ)について、大塚英志『大東亜共栄圏のクールジャパン』は、内務省警保局長・スマトラ軍政幹部の大塚准精の言葉を記録している。こういう程度の低い文章が公にされるのである。


    歌とおどりが南方共栄圏の人々の二大好物であるが、ちょうど今は「愛国行進曲」と「荒城の月」が、非情な流行で、十分に意味はわからずに歌って居るものも少しはあるかも知れないが、それこそ町に氾濫して居る。この方も、ぜひ力強い皇国の姿を思わせる勇壮な調子の曲や、レコードが、南方へドシドシ贈られることを私は願って居る。

    熱い土地のことであるから、簡単な歌を伴奏として、住民は終始おどりをやって居る。(「南方各地の日本語へのあこがれ」『国語運動』七巻六号、一九四三年)


    七月十八日、第二次近衛内閣が総辞職したのは松岡外相を辞めさせるためであった。松岡はアメリカから反感を持たれており、これ以上アメリカを刺激したくなかったのである。そして第三次近衛内閣が成立した。しかし日米交渉は進展する筈もなかった。

    二十八日、日本軍が南部仏印(ベトナム南部)に侵攻を開始した。これによりアメリカが対日石油輸出の全面禁止に踏み切った。ABCD包囲網が築かれ、日本は否が応でも石油資源を求めて南方への侵攻を加速させていく。

    この月、石橋湛山は「百年戦争の予想」と題する論説を三回に分けて発表した。その中で官僚主導による計画経済を批判した一節がある。古来、官僚による経済運営が成功した例はない。社会主義経済が失敗するのも同じ理屈である。


    経済においても、政治においても、その運営を担当する者に必要な第一の条件は、責任を負わねばならぬ立場にあることです。近代の資本家企業家は、もし事業に失敗すれば、大切な資産を喪い、場合によっては身を亡ぼすまでに至ります。彼らはかようにして責任を負わされていました。従って彼らは、善にせよ、悪にせよ、自分の仕事に真剣ならざるを得ませんでした。(中略)


    責任を負わせるのには、繰り返して申す如く、失敗すれば死活に関するのでなければなりません。しかるに経済は計画経済で、政府が総てこれを指図する。その政府は、官吏の寄合所帯で、もし或る仕事に失敗しても、他に転任すれば、咎めもなく済ましていられるという仕組みでは、責任の負い手はない。それで政治も経済も、真剣に運営せられるわけはありません。今日の我が国は現にややさようの観を呈しています。


    八月二十七、二十八日には総力戦研究所での机上演習の結果報告が行われ、日本必敗の結論がでた。これは猪瀬直樹『昭和十六年の敗戦』に詳しい。総力戦研究所はこの年の四月に、総理大臣直轄の組織として作られた。研究員は武官なら陸大卒の少佐、大尉クラス、文官ならば四等官、五等官、民間人ならそれに準ずる経歴を持つ者で、年齢はなるべく三十五歳位までであった。そして何よりも「人格高潔、知能優秀、身体強健ニシテ将来各方面ノ首脳者タルベキ素質ヲ有スルモノ」に限られていた。

    四月一日に入所した第一期研究生は、官僚二十七名(文官二十二名・武官五名)、民間人八名の総勢三十五名。その後四月七日、閑院宮春仁王(陸軍中佐。当時、陸軍大学校学生)が特別研究生として追加入所した。

    数ヶ月の教育の後、研究員は模擬内閣を作ってシミュレーションを行った。その結果は、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に日本の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられないというもので、正に現実の歴史はその通りに進行する。

    しかしこれに対して東条英機陸軍大臣は「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というものは、君達が考えているような物では無いのであります。日露戰争で、わが大日本帝国は勝てるとは思わなかった。然し勝ったのであります。あの当時も列強による三国干渉で、やむにやまれず帝国は立ち上がったのでありまして、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかった。戦というものは、計画通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がっていく。したがって、諸君の考えている事は机上の空論とまでは言わないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものをば、考慮したものではないのであります。なお、この机上演習の経緯を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということであります。」とコメントした。


    帰り際、新聞記者の秋葉(同盟通信社・模擬内閣の情報局総裁)は、持ち前の勘で〈青国閣僚〉(模擬内閣)たちに解説してみせた。

    「東条さんの考えている実際の戦況は、われわれの演習と相当近いものだったんじゃないのかい。じゃなければ、‶口外するな〟なんていわんよ」

    研究生たちには思い当たることがあった。演習の間、しばしば、東条陸相は、総力戦研究所の講堂の隅に陣取り〈閣議〉を傍聴していた。そういうことが一再ならずあった。

    東条は総力戦研究所の本来担うべき役割について、深い関心を寄せていた数少ない首脳の一人だったからである。・・・・・

    そうであってみれば、机上演習を「机上の空論」と断定してみたものの。その結論はその後の、東条の脳裡に暗い雲のように重くのしかかっていたはずである。(猪瀬直樹『昭和十六年夏の敗戦』)


    皆男は経済記者である。昭和研究会にはダイヤモンド社からも委員を出していたし、対米戦争がいかに無謀なものであるかは、充分に認識していた筈だ。まともな判断力と分析力を持つ者ならだれでも、アメリカと戦争して勝てるとは思っていなかった。それは東条英機にしても同じであっただろう。しかしそれでも戦争は起きる。

    八月、林芙美子は下落合に新築した新居に入った。今、林芙美子記念館として公開されているが、家を建てるに当って、芙美子は自ら参考書を二百冊も買って読んだ。第一の条件は東西南北から風が入ること、第二は客間には金をかけなくて、茶の間、居間、台所、風呂、厠には十分金をかけること、第三は一流の建築家と一流の大工に依頼することである。設計したのは山口文象であった。

    一棟当たり三〇・二五坪とする建築規制のため、二棟を建てて、一棟は緑敏の名義のアトリエとした。母屋で書斎に予定していた部屋は明るすぎ、納戸の積りだった部屋を書斎にした。寝台車のような二段ベッドを設えた女中部屋があり、トイレは自家用浄化槽をもった水洗だった。この時代でも、金さえあればこうしたモダンな(「文化的な」)生活を楽しむことができた。


    九月六日、御前会議において「帝国国策遂行要領」が決定された。外交交渉の期限を十月上旬、戦争準備完了を十月下旬として、事実上の日米戦を決めたのである。御前会議の前日、永野修身軍令部長が戦争の計画書を天皇の元に持ってきた。天皇はこれを見て及川海相に、軍令部長交代を要求したが通らなかった。夕方五時ごろ、近衛が戦争の決意を決める御前会議の案をもってきた。その際、近衛は天皇に、参謀総長と軍令部総長を呼んで納得いくまで質問するよう願った。九月五日の天皇と両総長との問答について『近衛手記』はこう記している。


    陛下は杉山参謀総長に対し、「日米事起こらば、陸軍としてはいくばくの期間に片付ける確信ありや」と仰せられ、総長は「南洋方面だけは三ヶ月位にて片づけるつもりであります」と奉答した。陛下はさらに総長に向かわせられ、「汝は支那事変勃発当時の陸相なり。その時陸相として、‶事変は一ヶ月位にて片付く〟と申せしことを記憶す。しかるに四ヵ年の長きにわたりまだ片付かんではないか」と仰せられ、総長は恐縮して、支那は奥地が開けており予定通り作戦しえざりし事情をくどくどくと弁明申上げたところ、陛下は励声一番、総長に対せられ、「支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか。如何なる確信あって三ヶ月と申すか」と仰せられ総長はただ頭を垂れ答うるをえず・・・


    これだけの問答をして尚、天皇が戦争案を了承した理由は何か。内閣と統帥が一致した意見については意義を立てないのが天皇の方針であったというが、軍の責任者が的確に返答できない事案を了解するのは余りにも無責任であろう。納得するまで追求するのが職務ではないか。

    近衛は同時に日米戦を回避するため、ルーズベルトとの頂上会談に望みをかけていた。しかしルーズベルトは応じなかった。当然であろう。


    牛場(友彦) ・・・・・第一次近衛内閣のさい同じ首相秘書をやった岸道三君と二人で、それを聞いたときに、

    「総理、それじゃ総理はかりに横浜へ帰って来られてもその途端に暗殺されますね」

    と言ったら、

    「それは覚悟の上だ」

    と近衛さんは言った。(中略)

    松本(重治) 山本五十六海軍大将もつれて行くつもりだった。

    牛場 有田前外相なんかに言わせれば、近衛さんにそんな意気込みがあるならば、ルーズベルトに会わないで国内で出兵をやめさせりゃいいんじゃないかと言った。陸軍はいくら言ったってやめないよ、陛下を利用してもかまわないから、やめさせりゃいいじゃないかということを言ってるけどね、それは理屈だ、と私は思うよ。

    松本 頂上会談というテコを使わないと、詔勅は出ない?

    牛場 あのときの国内情勢からいってもとっても無理だよ。やっぱり頂上会談というひとつの劇的場面を利用して、百八十度の政策転換をしようとしたのだ。(松本重治『近衛時代』)


    田川水泡「のらくろ」(昭和六年から連載)が『少年倶楽部』十月号で突然打ち切りになった。この件について、田川の義兄である小林秀雄が書いている。


    (軍を退役して)のらくろ大尉は悶々として満州に渡った。大東亜の共存共栄が、当時の政府の掲げた理想であり、「五族協和」は満州の憲法であった事は、誰も知るところだ。勢い、『のらくろ』も、満州に行くと、仲間以外の付き合いもしなければならず、といって、作者としては、構成上、人間を出すわけにはいかず、ロシア人めいた熊や朝鮮人めいた羊や中国人めいた豚を登場させる仕儀となった。或る日、作者は情報局に呼びだされて、大目玉を食った。ブルジョア商業主義にへつらい、国策を侮辱するものである。特に、最友好国の人民を豚とは何事か。翌日から紙の配給がなくなった。

    何故、私がこういうことを知っているかというと、田河水泡は、私の義弟だからである。私は、弟の仕事にたいした関心を持っていなかった。洒落や冗談を飛ばしながら、楽しそうに仕事をしているのを見て、時々、うらやましい気持ちになっていたぐらいだ。(小林秀雄「漫画」『考へるヒント』)


    十月十五日に尾崎秀実、十八日にはリヒァルト・ゾルゲが検挙された。いわゆるゾルゲ事件である。特に尾崎は昭和研究の重要なメンバーであり、近衛にも近い人物だった。ゾルゲも駐日ドイツ大使オットの信頼厚い側近である。官憲には衝撃が走った。ゾルゲは表向きはナチス党員で、大使館に深く食い込んでいたが、実際はソ連赤軍参謀本部情報総局の所属である。

    きっかけは宮城与徳(未決拘留中獄死)の逮捕である。特高はアメリカ共産党の日本人党員の名簿をつかんでおり、宮城与徳や北林トモを内偵していた。まさかこんな事件になるとは予想もしていなかったに違いない。逮捕されたのは川井貞吉(懲役十年)、北林トモ(懲役五年)、九津見房子(懲役八年)、小代好信(懲役十五年)、田口右源太(懲役十三年)、水野成(懲役十三年)、山名正実(懲役十二年)、船越寿雄(懲役十年)、秋山幸治(懲役七年)、河村好雄(未決勾留中獄死)、菊池八郎(懲役二年)、ブランコ・ド・ヴーケリッチ(無期懲役)マックス・クラウゼン(無期禁錮)、アンナ・クラウゼン(懲役三年)。

    執行猶予がついたのは安田徳太郎(懲役二年、執行猶予五年)と西園寺公一(懲役一年六か月、執行猶予二年)であった。尾崎にゾルゲを紹介したとされるアグネス・スメドレーはアメリカ在住である。但し、秀実の供述で、最初の紹介者はアメリカ共産党員の鬼頭銀一だと言うことが分っている。

    尾崎は確信犯である。己の行動が必ずや将来の日本のためになると信じていた。しかしこの確信がコミンテルンへの信頼によって生まれたのだと思えば、尾崎ほどの聡明な人物が何故、と思わざるを得ない。尾崎秀樹『越境者たち ゾルゲ事件の人びと』から、尾崎秀実の言葉を引用する。


    深く顧みれば、私がアグネス・スメドレー女史や、リヒァルト・ゾルゲに会ったことは私にとってまさに宿命的であったと言いえられます。私のその後の狭い道を決定したのは結局これらの人との邂逅であったからであります。これらの人びとはいずれも主義に忠実で、信念に厚く、かつ仕事に熱心で有能でありました。もしもこれらの人びとが少しでも私心によって動き、あるいはわれわれを利用しようとするがごとき態度があったならば、少なくとも私は反発して袂を分つにいたっただろうと思いますが、彼ら、ことにゾルゲは親切な、友情に厚い同志として最後まで変わることなく、私も彼に全幅の信頼を傾けて協力することができたのであります。(第一回上申書)


    尾崎を売ったのは誰か。実弟である尾崎秀樹は『生きているユダ』『ゾルゲ事件』によって、徹底的に伊藤律を弾劾した。松本清張『日本の黒い霧』も伊藤律犯人説を支持しているが、戦後に新発見された資料によって、伊藤は冤罪だったというのが定説になったと思われる。


    大政翼賛会の成立に日本の「社会主義」化の可能性を賭けた尾崎秀実は、日米開戦の直前に、ソ連のスパイ容疑で逮捕され、死刑判決を受ける。

    それでも尾崎は、国内「革新」をあきらめなかった。尾崎は、上告中に上申書を作成している・・・・関心が向かうのは、「なぜ尾崎は戦争を支持しつづけたか」である。(中略)

    尾崎のみるところ、社会の平準化は確実に進んでいた。「政府は現に社長の徴用制までは進みました。」あとは「資本と企業(経営)の分離に進み、又取締役の国家的任命に及ぶ」ことになれば、資本の国有化=「社会主義」化が完成する。(井上寿一『日中戦争』)


    尾崎秀実とゾルゲは昭和十九年十一月七日に処刑された。昭和二十一年に出版された尾崎の獄中書簡『愛情は降る星のごとく』はベストセラーになった。書名は、書簡の中の下記の一節から採ったものである。


    思えば私は幸福な人間でした。この一生いたるところに深い人間の愛情を感じて生きてきたのです。わが生涯を省みて、今燦然と輝く星の如きものは、実に誠実なる愛情であったと思います。友情はそのうちに一等星のごとく輝いています。


    一方、日米交渉は辛うじて続いており、交渉の最大の条件である中国からの撤退と、三国同盟破棄について、近衛は何度も東条と激論を交わした。しかし東条は承諾しない。

    十月十六日、東条陸相は断固反対を主張し続け、手の打ちようがなくなった近衛は内閣を放り出す。後継には皇族内閣をと願ったが、それは内大臣の木戸幸一の反対にあった。

    倒閣を企てた東条を後継首班として推挙したのは、木戸幸一であった。軍を押さえるには軍人の内閣をつくらなければならない。いくつかの決定的な場面で木戸の判断の誤りが見られるが、この時が最大だった。そして天皇の判断も甘かった。


    東条といふ人物はさきに陸軍大臣時代に、大命に抗して北仏印進駐をした責任者を免職にして英断を振つた事もあるし、又宮中の小火事事件に田中(静壱)東京警備司令官、田尻(利雄)近衛師団長、賀陽宮(近衛混成)旅団長以下を免職した事もあり、克く陸軍部内の人心を把握したのでこの男ならば、組閣の際に、条件をさへ付けて置けば、陸軍を抑へて順調に事を運んで行くだらうと思つた。・・・・

    時局は極めて重大なる事態に直面せるものと思ふと云ふ事は、九月六日の御前会議の決定を白紙に還して、平和になる様、極力尽力せよと云ふ事なのだが、之は木戸をして東条に説明させた。(『昭和天皇独白録』)


    東条は天皇には非常に忠節な軍人だった。その東条に内閣を任せ、九月六日の御前会議の決定(十月上旬までに交渉がまとまらなければ開戦する)を白紙に戻して再考するように求めたのである。東条ならば天皇の意思に逆らわないだろうとの思惑である。しかし結論は変わらなかった。


    実に石油の輸入禁止は日本を窮地に追込んだものである。かくなつた以上は、万一の僥倖に期しても、戦つた方が良いといふ考が決定的になつたのは自然の勢と云はねばならぬ、若しあの時、私が主戦論を抑へたらば、陸海に多年錬磨の精鋭なる軍を持ち乍ら、ムザムザ米国に屈服すると云ふので、国内の世論は必ず沸騰し、クーデタが起つたであらう。実に難しい時であつた。(『昭和天皇独白録』)


    クーデターへの恐怖は、二・二六事件が天皇に植え付けたものであった。東久邇宮は、東条が開戦論者であることは天皇も木戸も知っている筈なのに、何故東条を後継内閣の首班に推したのか理由が分らないと、日記に記した。

    十一月二十二日、国民勤労報国協力令公布。十四歳から四十歳の男子、十四歳から二十五歳未満の女子の勤労奉仕義務を法制化したものである。

    十一月二十六日、「ハル・ノート」が野村・来栖両大使に手交された。十二月一日の御前会議で開戦決定は承認された。


    昭和十六年四月にはじまつて以後八か月に及ぶ日米交渉は、奇妙な外交交渉であつた。

    双方がたがひに和解しがたい前提を固辞しつつ、交渉の糸口だけはほそぼそとして絶たれず、しかも交渉の経過につれて糸はもつれていき、つひに切れた。切れてみれば、その八か月に支払つた外交努力は、何のためといふ、唖然たる疑問が唯一の置きみやげであつたかの感がある。(桶谷秀昭『昭和精神史』)


    そして十二月八日午前一時三十五分、マレー半島第一次上陸部隊がコタバル陸岸へ進発した。一方その二時間後、ハワイ時間の一時三十分には日本海軍が真珠湾を攻撃し、戦争が始まる。対米最後通告が予定時刻を遅れたのは、駐米大使館員の怠慢であるが、実は野村大使へのサボタージュであった可能性が高い。野村吉三郎は海軍大将であり、外務省にとっては余所者であった。

    開戦の詔書に閣僚として名を連ねたのは、内閣総理大臣兼内務大臣兼陸軍大臣 東条英機、文部大臣 橋田邦彦、国務大臣 鈴木貞一、農林大臣兼拓務大臣 井野碩哉、厚生大臣 小泉親彦、司法大臣 岩村通世、海軍大臣 嶋田繁太郎、外務大臣 東郷茂徳、逓信大臣 寺島健、大蔵大臣 賀屋興宣、商工大臣 岸信介、鉄道大臣 八田嘉明である。

    そのいずれも、日米戦争勝利の道筋は見えていない。日本軍特有の、短期決戦によってアメリカの戦意を喪失させ講和にもっていくというものである。アメリカ人は緒戦の敗北ですぐに厭戦気分に陥る筈だという、抜きがたい楽観論に囚われていた。

    当時は大東亜戦争と呼び、戦後は太平洋戦争あるいは十五年戦争と呼ぶ。「太平洋戦争」では大陸との戦争との連続性が薄くなってしまう。何と言っても原因は大陸にある。満州事変以来の「十五年戦争」は理屈としては分るが、内実が伝わらない。私は中国戦線を含めて「アジア太平洋戦争」と呼ぶのが適当ではないかと考えているが、まだ確信には至っていない。


    ・・・・午後一時出かけると田中家のラジオが日米の戦争、ハワイの軍港への決死的大空襲をしたこと、タイに進駐したこと等を報じている。はっと思い、帰るかと考えたが、結局街の様子を見たくて出かける。(家のラジオはこわれている。)・・・・

    ・・・・人々があまり明るく当たり前なので、変に思われる。・・・・

    バスの客少し皆黙りがちなるも、誰一人戦争のこと言わず。自分のそばに伍長が立っていて身体を押し合う。鉄ブチの眼鏡をかけた知的な青年なり。押しながら「いよいよ始まりましたね」と言いたくてむずむずするが、自分だけ昂ふんしているような気がして黙っている。・・・・

    ・・・・日比谷にてバスのそばで新聞に皆たかって買っているので自分も下り四枚買う。・・・・それをカバンに入れ、小便をしに日劇地下室に入る。割にしんとしていて、皆がラジオを聞き、新聞を開いている。ラジオで軍歌、「敵は幾万ありとても」をやるとわくわくして涙ぐんでくる。(伊藤整『太平洋戦争日記』)


    伊藤整(三十六歳)によれば、都内の状況はこんな風である。皆が戦争を話題にするようになるのは、真珠湾奇襲の戦果が報じられた翌日以降のことだった。この日の日記の最後に伊藤はこう記した。


    はじめて日本と日本人の姿の一つ一つの意味が現実感を限ないいとおしさで自分にわかってきた。


    山田誠也が日記を書き始めるのは翌年十一月だから、この日の感想はリアルタイムではない。開戦一周年の十七年十二月八日の日記で回想している。開戦当時、風太郎十九歳、上京する前である。


    去年の十二月八日を思い出す。あの朝、自分は春眠暁をおぼえずといった感じで、ウツラウツラと半覚醒のまま、床中の暖をむさぼっていた。すると下で、あわただしい節の声と、「旦那さま、旦那さま」と叔父を呼ぶ声が聞こえた。

    「日本が、西太平洋でアメリカとイギリスと戦争を始めましたって!」

    自分は愕然として眼を大きく見開いた。ついにやったか!

    痛快とも何とも云いようのない壮大感に圧倒され、身体はしばらくぶるぶると震えていた。起きると東天に微光あり、白雲は西へ流れて天空一碧。(山田風太郎『戦中派虫けら日記』)


    十一歳の山中恒はこう語る。


    ・・・・私たちにとってこの開戦のニュースは、寝耳に水というほどのものではなかった。というのは、例の朝礼や儀式の校長訓話や担任の話で、対米英戦があるかもしれないということを繰り返しきかされていたからである。・・・・したがって、大東亜共栄圏を建設するためにはどうしても米英を撃たねばならない、というのである。だから、そのときが来てしまったのだと思うだけだった。(山中恒『子どもたちの太平洋戦争』)


    泥沼化する日中戦争の先行きが見えない中、国民は何でも良いから劇的な変化を求めていたのだろう。翌日から新聞の天気予報欄が廃止された。

    同じ頃、日本が頼みの綱としていた独軍は、例年より早い冬将軍の到来に苦しみ、モスクワ攻撃をあきらめざるを得なかった。アメリカから武器供与を受けたソ連軍は強力になり、独軍はナポレオン同様、命からがら撤退を始める。ここでも歴史は繰り返す。

    十二月九日、ラジオ「幼児の時間」で童謡『たきび』(巽聖歌作詞、渡辺茂作曲)が放送された。当初は三日間連続の予定だったが、軍から「焚き火は敵機の攻撃目標になる」「落ち葉は風呂を炊く貴重な資源だからもったいない」と批判を受け、二日で放送を止めることになった。貧すれば鈍す。

    十二月十日、マレー沖海戦。グアム島占領。フィリピン上陸。

    この年、大日本製薬がヒロポンを売り出した。ヒロポンは覚醒剤であるが、疲労回復、眠気予防を謳って市販されたのである。やがて軍の中で使用されて行く。


    下村湖人『次郎物語 第一部』、山本有三『路傍の石』(未完)、三木清『人生論ノート』、高村光太郎『智恵子抄』、堀辰雄『菜穂子』、石川淳『森鴎外』。小林秀雄「歴史と文学」(『文学界』)。

    小津安二郎監督『戸田家の兄妹』、山本嘉次郎監督『馬』、稲垣浩監督『江戸最後の日』、島耕二監督『次郎物語』。洋画では『勝利の歴史』、『スミス氏都へ行く』(戦前最後のアメリカ映画)。

    流行歌に見るべきものはない。『月月火水木金金』(高橋俊策作詞、江口夜詩作曲)、霧島昇・松原操・李香蘭『さうだその意気:国民総意の歌』(西條八十作詞、古賀政男作曲)。


    昭和十七年(一九四二)利器七十四歳(死)、タツミ四十一歳、祐十七歳、カズ十四歳(秋田高女入学)、利孝十二歳、ミエ九歳、石山皆男四十二歳、鵜沼弥生四十歳、田中伸三十五歳。


    元日以降、様々な物資が配給制に組み込まれて行く。一月一日、食塩配給制・ガス使用量割当制実施。一月二日、毎月八日を大詔奉戴日に決定(興亜奉公日を廃止)、各戸に国旗掲揚などを義務付ける。

    この日、日本軍がマニラを占領した。三月二十日にはマッカーサーがオーストラリアに逃れ、「I shall return」と発言した。この後四月にはミンダナオ、五月六日にはバターン半島を落とし、六月九日には在フィリピン米軍は降伏する。


    戦争がはじまってまもなく、学校を通じて、大東亜戦果学習絵図なるものが販売された。希望販売であったが、学級のほとんど全員がこれを購入した。これは、北に日本列島が小さく書かれ、あとは主として東南アジアを中心としたものであるが、これに別紙として、小さな日の丸、爆弾、沈没する軍艦がたくさん印刷されており、新聞やラジオで大本営発表の戦果を聞くたびにそれを切り取り、占領した都市のうえには〈日の丸〉を貼り、爆撃した都市の上には〈爆弾〉を貼り、海戦のあった海域には〈沈没した軍艦〉を貼るようになっていた。(山中恒『子どもたちの太平洋戦争』)


    海軍の宣伝班の一員として蘭印作戦に従軍した大木惇夫(東海林太郎の歌った『国境の町』が有名)は、乗船した(佐倉丸)がバンダム湾敵前上陸の際に味方の誤射により沈没し、同行の大宅壮一や横山隆一と共に海に飛び込み漂流するという経験をした。そしてこんな詩を書いた。当時少しでも文学趣味のある青年ならば、ほとんどの者が愛唱しただろう。おそらく佐藤佳夫も愛唱したと思われる。これは戦時中最も有名な詩になったため、大木は戦後詩壇から抹殺された。


    『戦友別盃の歌 -南支邦海の船上にて』

    言ふなかれ、君よ、わかれを
    世の常を、また生き死にを
    海ばらのはるけき果てに
    今やはた何をか言はん
    熱き血を捧ぐる者の
    大いなる胸を叩けよ
    満月を盃にくだきて
    暫し、ただ酔ひて勢へよ
    わが往くはバダビヤの街
    君はよくバンドンを突け
    この夕べ相離るとも
    かがやかし南十字を
    いつの夜か、また共に見ん
    言ふなかれ、君よ、わかれを
    見よ、空と水うつところ
    黙々と雲は行き、雲はゆけるを


    二月一日、味噌・醤油の切符配給制、衣料の点数切符制実施。衣料点数は一人一年分が都市で百点、郡部で八十点。(背広やオーバーは一着五十点、靴下一足二点など)。二月十八日、酒・菓子・小豆・ゴムまりなどが配給となる。日米戦争を開始してまだ二ヶ月である。緒戦の連戦連勝とは裏腹に国民生活は逼迫していく。


    ただちに国民の経済生活が逼迫する。昭和九年と一〇年の平均を一〇〇をした時、食料などの生活必需品の供給量指数は、昭和一七年八四、昭和一八年七七、昭和一九年六七と急激に低下している。(井上寿一『日中戦争』)


    二月十四日、スマトラ島パレンバン油田を落下傘部隊が急襲し、占領は簡単にできた。インドネシア産出石油量の八十五パーセントがこの油田から出ている。このため『空の神兵』(梅木三郎作詞、高木東六作曲)が人気を博した。

    戦争目的通り、石油産出高は十七年、十八年と年間五百万トンに達した。しかしミッドウェー海戦以降、タンカーが次々に沈没し、輸送手段がなくなっていくのは、総力戦研究所のシュミレーション通りだった。苦肉の策として、ゴム袋に原油を詰めて海に流したとも言う。運が良ければ「椰子の実」のように、日本の海岸に漂着するかも知れないとの神頼みであるが、これはもはや戦争ではない。

    三月、秋田県貸切(後、旅客と呼称)自動車運送事業組合設立、弥生は理事長に就任する。小なりと言えども一つの業界のトップに就いたのである。高等小学校を卒業して丁稚奉公から人生を始めた弥生にとっては、一つの到達点であろう。こうした立場になれば何かと便宜が図れるのは常識だから、鵜沼家はそれ程生活に困難は覚えなかったとみて良いだろう。


    三月六日、真珠湾攻撃の特殊潜航艇員九人を二階級特進、軍神とすることが公表された。二人一組の潜航艇で九人なのは何故か、子供心に不審に思ったことは山中恒が証言している。座礁した艇を爆破して海に飛び込み、失神した状態で浜辺に打ち上げられて捕虜になったのは酒巻和男少尉である。

    酒巻と海軍兵学校同期で、後にやはり捕虜として捕らえられた豊田穣は、アメリカ本土の収容所で酒巻と再会した。

    (「酒たまねぎや HP」https://www.tamanegiya.com/blog/2016/04/19/skamakikazuo/より孫引き)


    私たちはその頃すでに酒巻が捕虜となっていることを知っていた。同じ海軍内であるから、どことなく匂ってくるのである。当時、私は海軍少尉で霞ヶ浦航空隊で操縦訓練を受けていたが、血の気の多い同期生の中には、

    「酒巻の奴、自決してくれんかなあ。このまま生きていられては、クラスの恥だ」

    と憤慨する者もいた。(中略)

    酒巻と私は、同分隊でこそなかったが、兵学校四年間、支那語専攻であったので、毎週一回はすぐとなりの席で、「ニー・ハオ」などとやっていた仲である。

    徳島市出身で明るくものにこだわらない人柄であった。だから捕らわれることを知って、今頃ハワイでどうしているのか・・・・と私は暗い気持ちでいた。

    しかし、人間の運命は計り知れぬ。それからほぼ一年後の十八年四月、私はソロモン方面反攻のい号作戦に参加し、乗機を撃墜され、一週間南海を漂流した後、ニュージランドの哨戒艇に捕らえられ、米軍の捕虜収容所に送られた。如何しても自決することが出来ず、ガダルカナルの収容所に着いた時、私はひょっとしたら酒巻に会うかも知れぬ、と思った。

    海に落ちてから一年後に、私はシカゴの北にあるウィスコンシン州のマッコイ収容所で、酒巻にあうことができた。私たちを乗せた列車がスパルタという駅に着くと、

    「豊田はいるか?!」

    と大声で叫んでいるのが酒巻であった。

    その後、二人は収容所のキャンティーン(売店)で、配給の小瓶ビール一本で、クラス会を開いた。戦果の裏に隠れた寂しいクラス会であった。(豊田穣『続江田島教育』)


    この特殊潜航艇が自殺兵器ではないかと疑った山本五十六は、当初この計画を承諾しなかったが、攻撃後必ず回収するとの軍の説得で、何とか生きのびる可能性を信じて(信じた振りをして)最終的に許可したのである。

    カズは四月に秋田高女に入学し、正式に鵜沼の戸籍に入った。十五年(一九四〇)以降、中学校、女学校、実業学校の入試は筆記試験をやめ、内申書、口頭試問、身体検査のみによって行われた。ただカズの記憶ではこのほかに体操もあった。「苦手な体操が不安だったが、無事合格する。」口頭試問にどう対処するか。カズの二歳下になる山中恒の証言を見る。


    一番やかましく仕込まれたのは、口頭試問の際の態度であった。口頭試問は人物考査であるから、きちんとして、はきはき答え、試験官に良い印象を与えること、試験官には絶対に反論してはならないといったことなどがくり返し教え込まれた。(山中恒『子どもたちの太平洋戦争 国民学校の時代』)


    四月には東方社が対外プロパガンダ誌『FRONT』を創刊した。元は名取洋之助の日本工房から、木村伊兵衛、伊奈信男、原弘、岡田桑三等が脱退分離して創設した中央工房が東方社へと名称を変更したもので、つまり写真の専門家による会社である。初代理事長は岡田桑三(元松竹俳優「山内光」・映画プロデューサー)、二代理事長が林達夫である。その他理事には岡正雄(民族学・弟子に山口昌男がいる)、岩村忍(東洋史)、小幡操(国際政治学)が就いた。

    帝国陸軍の参謀本部第二部第五課(ソ連方面を担当)から岡田桑三に対し、日本の対外宣伝グラフ誌刊行計画が打診され、それを受けてグラフィック雑誌『FRONT』が作られた。つまり参謀本部が出資した雑誌である。

    日本国外の地域や民族に対して、日本の国威・軍事力・思想等を誇示する狙いから最大十五か国語で翻訳され、陸海軍と政府の全面協力および、その豊富な資金力により極めて上質な体裁で刊行された。レイアウト、紙質、印刷などグラフ誌としてのクオリティも極めて高かった。中島健蔵は林に誘われて東方社に入社した。


    ・・・・また林達夫からの電話で、東方社の仕事を手伝ってくれと頼まれた。東方社は、参謀本部と連絡があり、対外宣伝のぜいたくなグラフ雑誌を発行しているという。神がかりのばかばかしい国内宣伝とはちがって、ほんものの文化をぶつけるのだという。・・・・東方社は、たしかに参謀本部と連絡があったにはちがいないが、実は憎まれていたのであった。再組織しないかぎり、仕事は続けられない状態だとわかった時には、もう遅かった。しかし、わたくしは、たちまち深入りしていった。ひとつには、謀叛気のある連中が集まっていたのにひかれたのであった。(中島健蔵『昭和時代』)


    これは山口昌男『「挫折」の昭和史』から孫引きしたものだが、新劇の旧左翼人山川幸世(長谷川泰子に子を産ませ、中原中也が「茂樹」と命名した)等が東方社で働いていることや、満映が大森ギャング事件の大塚有章を引取ったことも例に挙げ、山口はこうも言っている。


    満鉄調査部、満映、上海電影社、民族研究所とならんで、東方社は戦時下の、警察・情報局の手が伸びない一種の知と芸術の隠れ里のようなものであった。(中略)

    ・・・・林の演じていた役割を整理してみると、林は日本工房の顧問として戦後の平凡社の基礎を創ることになる知的集団を、東方社を介してつくりあげると共に、この集団には加わらなかった名取を岩波に引き合わせて、名取と岩波書店の協力関係を可能にするという離れ業をやってのけたということになる。(山口昌男『「挫折」の昭和史』)


    これについて林達夫は直接には発言していないが、弟の三郎が参謀本部大佐だったことも関係している筈だ。ヒントは以下の文章にある。ポリティークは「戦術」というほどの意味である。コンフォルミスムは順応主義であるが、デカルトやソクラテスの場合、それは戦術的に必要な「仮装」であると、林は考えるのだ。


    奇妙な話だが、デカルトという科学者は、いつも書きたいものが書けず、むしろ書きたくないものを、その書きたいもののいわば代用品として書いてきた人間なのである。彼がいちばん最初に発表したかったもの、そして一生を通じてそれにいちばん執着していたものは、世界変革の武器である自然の全面的研究と全体的説明--つまり「宇宙論」であった。しかしそれにはスコラ的旧学問の陣営からの反撃と思想警察的機関からの圧迫と言うものを当然予期してかからなければならなかった。(林達夫「デカルトのポリティーク」『文学界』昭和十四年十一月号)


    注意すべきは、いつの時代にも、哲学者と言えども、世界とか自然とか社会とか人間について彼らの自由に考えたことを自由に書いて来たわけではないのです。いわんや「命令の言葉」で統制されようとしている社会や国家においては、彼らが自らの把握し信ずる真理の顕揚のために、あらゆるタクティク、かけひきに苦慮したのであります。いま申上げたソクラテスや、ことにデカルトの場合、コンフォルミスムそのものが実は苦肉の戦略だったのであります。(中略)

    ・・・・・戦争の中に押しやられて、しかも戦争を克服する方法は、戦争に対して単純に「否」を叫ぶことではなく、その戦争の頭脳を、軍国主義の神経中枢をじっと冷厳に見つめることであった。・・・・

    私は自分の場合は語りたくありません。ただ言い得るのは、いつの場合にも私にとっては反語が私の思想と行動との法則であり、同時に正対だったということです。(林達夫「反語的精神」『新潮』昭和二十一年六月号)


    渡邊一民は、『FRONT』がたとえ「日本国内ではほとんど流布され」ず、「その刊行に軍がかならずしも協力的」でなく、「本格的で芸術性の高い作品によって編集されて」いたとしても、「それが戦争遂行のための有効な手段の一つだった」事実に対してどう責任を取るのかと、問いかける。しかしその上で、これも林のポリティークとして承認するのである。


    ・・・・思想のポリティックにはたんなるポリティックに堕する危険性がつねにつきまとうものなのである。ともあれ林達夫はみずから選択したポリィティックによって、みずからの砦を死守し、たとえ装われたものにせよ奴隷の言葉をいっさい語ることなく、戦時下のきびしい時代をみごとにくぐり抜けたのであった。(渡邊一民『林達夫とその時代』)


    四月十八日、米軍十六機が日本本土を初めて空襲した。空襲されたのは東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸等である。指揮官のジミー・ドーリットル中佐に因み、ドーリットル空襲と称す。死者八十七名、重傷者百五十一名(うち後日死亡一名)、軽傷者三百十一名以上、家屋全壊・全焼百十二棟(百八十戸)以上、半壊・半焼五十三棟(百六戸)。


    その時、つまり四月十八日、アメリカの空母ホーネットから飛びたった米軍機が東京をはじめ日本各地を空襲したとき、私はまだ中学校にいました。当時の十二中、いまの千歳高校の校舎は、京王線の千歳烏山駅から南へ一キロあまり、いった所にあります。

    掃除当番で、掃除がすんで、みんながガヤガヤやっているとき、突如として大きな爆音がきこえました。窓にとんでいってみると、灰色をした大きな双発機が、校舎を南北に横切るように、かなりの低空でとびさってゆきました。これが米軍機だったのです。(石山昭男)


    中学二年生の石山昭男はこの時米軍機を見た。被害以上に、米軍の爆撃機が日本上空を襲ったという事実に日本人は驚愕したのである。そして軍はミッドウェー作戦計画に着手せざるを得なくなった。

    四月三十日の第二十一回総選挙は第一回の翼賛選挙であった。翼賛政治体制協議会推薦が三八一人、非推薦が八五人当選した。推薦候補者には軍部から選挙資金が出た。推薦候補四百六十一人中、当選者は三百八十一人(八二・六パーセント)、非推薦候補六百十三人中当選は八十五名人(一三・八パーセント)であった。「反軍演説」で議員を除名された斎藤隆夫は兵庫県五区から非推薦で立候補し、選挙妨害を受けながら最高点で当選した。

    非推薦者が選挙活動をどう戦ったか、あるいはどう妨害を受けたか。青木理が二階堂進(後自民党幹事長、自民党副総裁)の回想を引用している。


    〈選挙運動はスタートから大苦戦だった。立候補届は無視され、新聞には名前が出ていない。米国帰りの危険思想の持ち主として、立候補前から当局にチェックされていたらしい。翼賛協議会の推薦候補に対して、わたしのような非推薦候補は自由候補と呼ばれた。(略)(『西日本新聞』一九九七年七月五日朝刊)

    演説会場の最前列には警察や特高警察の面々が陣取り、二階堂が「アメリカは大きな国で・・・・」と言いかけると特高警官らが「弁士中尉!」と叱責する。「彼我の国力の差を考え、増産に励まなければ勝つことは難しい」と訴えていると「弁士中止!」と演説の中止が命じられる。それでも何とか演説を終えると、今度は翼賛青年団の若者たちが壇上に駆け上がり、こう言い放って二階堂を攻撃したのだと言う。

    「いましゃべった二階堂は、アメリカ帰りのスパイ、アカだ!」「一億一心火の玉で戦っているときに、こんな奴に投票する非国民には、米や砂糖の配給券はやれんぞ!」(青木理『安倍三代』)


    二階堂進は落選したが、結核による脊椎カリエスを病みながら出馬した安倍寛が非推薦で二期連続当選を果たした。安倍寛の盟友だった三木武夫の夫人睦子の回想もある。


    (寛さんの)演説会では何かっていうと「弁士注意!」なんて、大きな声をお巡りさんがあげるんですね。そんなことをかまっちゃいないで、一生懸命、一生懸命、大衆に向かって、いま日本はどうあるべきかということを説いていらした安倍寛さんという人の姿を思い浮かべます。・・・・

    寛さんは真夜中に特高警察の目をかいくぐり、三木家にやってきた。「腹が減った」と言う寛さんに睦子さんは握り飯を用意した。武夫さんとは戦争をさけるためにはどうしたらいいのかについて意見を交わし、また闇の中に消えて行った。・・・・

    今の私たちに、戦争も知らない、本当に平和な時代をつくってくださったのは、安倍寛さんたちだったと思うのです。・・・・


    安倍寛は、晋太郎の父、晋三の祖父であるが、安倍晋三はこの祖父についてほとんど言及したことがない。戦争の早期終結、東条内閣打倒を試みたが、病身を押しての政治活動で無理がたたり、寛は昭和二十一年に死んだ。政治信条や姿勢に於いて真逆だった岸信介が、安倍寛の息子なら間違いないだろうと、娘の洋子を晋太郎に嫁がせた。

    非推薦当選者には他に三木武夫、犬養健、鳩山一郎、三木武吉、河野一郎、川島正次郎、中野正剛、北玲吉、尾崎行雄、芦田均、西尾末広、水谷長二郎等がいる。全てリベラルであったわけではない。前科者には推薦が与えられなかったから、大日本国粋大衆党の笹川良一、大日本愛国党の赤尾敏は非推薦で当選している。


    六月五日、ミッドウェー海戦。連合艦隊が立案した計画では、ミッドウェー島攻撃を成功させたうえで、十月を目途にハワイを攻略する予定であった。しかし日本海軍は大敗北を喫し、制空権を失った。米軍の行動も完全だったわけではない、互いに錯誤を繰り返したが、日本の失敗のほうが相対的に多かった。

    そもそも戦闘の目的が、ミッドウェー島の攻略にあるのか、米艦隊の撃滅にあるのか、認識が共有されていなかった。指示命令が曖昧なのである。更に山本五十六司令長官の計画は実に緻密で繊細であった。その計画を実現するためには、広い海洋上に展開する船団の間の情報システムが最も重要であるにも関わらず、通信障害が頻発してコミュニケーションが取れなかった。

    作戦発起の時点では日本海軍の戦力が比較的優勢だったから、勝利の可能性はあったのである。しかし日本の損失は、航空母艦四隻と搭載機二八五機、重巡洋艦二隻、戦死者三〇五七名。これに対してアメリカは空母一隻飛行機一五〇機、戦死者三六二名である。しかしこの事実は公表されず、あたかも日本軍の勝利であるかのように発表した。陸軍内部でも正確な情報を知らされたのは少数だった。

    このミッドウェーにおける海軍の敗北と、ガダルカナルでの陸軍の敗北とが、この戦争の大きな分岐点となった。


    六月三十日、病床で高射砲の音を聞いていた利器が七十四歳で死んだ。当時としては長寿であろう。利穎没後、毎年のように親戚知人を訪ねて寂しさを紛らわせていたが、前年の利雄三回忌、利頴十三回忌のための秋田旅行を最後に、この年になると病の床に就いていた。カズが母タツミや姉妹弟と再会したのは、利器の葬儀の時だったと思われる。


    母リキは本来、積極的な性格である。夫が家庭を離れて遠く北海道に別居していた六年余りのあいだ、留守宅を預かってかなり奔放な行事をしている。たとえば毎年正月萬歳師を招き歌舞を行なう。師匠は、子らの中等学校進学の靴を求めるため、懇意になった製靴業の人である。二人で組みになって面白おかしく新年の祝を舞い、リキはこれを我家で独占せず、隣り近所に呼びかけて希望者に観覧させることにした。近所への奉仕だった。

    家例としての祭り行事は、決して欠かさなかった。先祖と同じようにはいかないけれど、供物をそなえ、神主を招び、一応型通りの行事を続けた。また、子らに関係ある人達には、よく接待をして、費用を惜しまなかった。


    七月、座談会「近代の超克」が二日間で行われた(『文学界』九月、十月号掲載)。参加者は西谷啓治(京都帝国大学助教授、哲学)、諸井三郎(東洋音楽学校・東京高等音楽院講師)、鈴木成高(京都帝大助教授、西洋史)、菊池正士(大阪帝国大学教授・物理学)、下村寅太郎(東京文理科大学教授、科学史)、吉満義彦(東京帝国大学講師、カトリック神学)、小林秀雄、亀井勝一郎、林房雄、三好達治、津村秀夫、中村光夫、河上徹太郎。小林以下は文学界同人で、それに京都学派を加えた座談会であった。

    京都学派はこの時期、思想界に大きな影響を持っていた。彼らは日中戦争が解決しないのは、中国の伝統を理解せず、搾取するだけの日本の姿勢にあると考えていた。


    それでは日本はどうすべきか。

    「支那を真に日本についてこさせるには日本の国内改革が必要」と東洋史研究の泰斗、宮崎市定は指摘する。西谷(啓治)も同様に、アジアのナショナリズムが日本を尊重するようになるためには、「日本の国内問題が根本的に関連する」と述べている。西谷の発言を受けて高山(岩男)も、「結局は国内問題と対外政策は不可分であり、故にこれ迄のような単に日本的日本人を造る思想では駄目であって、世界的日本人を造る原理の確立が緊急となる」と問題を提起している。

    「日本」の否定のうえに、「世界」を肯定し、「世界的日本人」の創造を目指す京都学派の思想的立場は、たとえばつぎのように「国体」概念が他の概念に超越することを否定する。何故日本が盟主であるかという事は歴史から出てくるので会って天下り的に国体から定っているのではない。その日本の世界史的必然性よりする歴史的使命を明確に意識し、それを理論的に把握して歴史哲学を確立する事が我々の重要な課題でなければならぬ。」これは鈴木(成高)以下、一同の一致した意見だった。(井上寿一『日中戦争』)


    しかしこれでは軍部に受け入れられるはずがない。三木清の「新日本の思想原理」の一部を先に引用したが、要するに西洋近代を否定して東亜新秩序を確立するためには何が必要か、というのが問題の発端である。しかし「近代」は日本では明治以来の文明開化の別名であった。それを簡単に「超克」できる筈がない。「近代の超克ってなんだい」と馬鹿にしていた大岡昇平は、「スタンダールと啓蒙主義」で生きていた。この座談会は何物をも生み出さなかったが、ただ一度しか発言しなかった中村光夫が評価された。


    そうね、あの時に、近代の超克ラインに入らないのには、意思の力が必要ですよ。頑張ってるな、と思ってました。彼のあの態度は評判がよくてね。中村光夫だけ違うっていうんで、・・・・あそこで発言しなかったってのは、中村光夫にとっては、大変なプラスですね。だから彼の戦後派批判だって生きてくるわけなんだ。(大岡昇平『わが文学生活』)


    金属回収令により、寺院の仏具、梵鐘などが強制供出された。小学校から二宮金次郎像も消えていく。

    八月、女学校で英語科目が随意科目となった。これは卒業単位に加算されないということである。中学校では翌年一月に同じ措置が取られることになる。英語が禁止された訳ではない。しかし京都府では女学校から外国語を追放し、教員は他の教科に従事することを通達している。

    八月七日、米海兵一個師団が、ガダルカナルに上陸した。ガダルカナルはそもそも海軍が、アメリカとオーストラリアを分断し、ソロモン海域の制空権を確立することを目的として航空基地を建設しようと考えたのが発端である。


    ・・・・日本本土防衛のためには、サイパン島、テニアン島、グアム島のマリアナ諸島を守らねばならない。それにはさらに先のトラック初頭を中心とするカロリン諸島を、それにはさらにコンパスで円を描いたその先、零戦の十分な航続距離の範囲にあるラバウルを守らねば、・・・・

    ところがそのラバウルを守るには、さらにその先の南の島に飛行場をつくる必要があるというのでまた円を描きました。するとちょうどその千キロ先にガダルカナル島があったのです。(半藤一利『昭和史』


    陸軍には詳細が知らされなかった。そもそも大本営陸軍部に、その地名を知る者はいなかった。そこに米軍がやって来たのである。米軍は反攻の第一段として一万三千の兵力をもって上陸したが、陸軍は、これは米軍の一種の偵察作戦か飛行場の破壊工作のためのもので、戦力は非常に少ないと楽観的に判断した。アジア太平洋戦争を通して、この種の根拠のない楽観論が陸軍内部の抜きがたい病巣であった。

    これが兵力の逐次投入という最悪の戦術に結びつく。最初に投入されたのは一木支隊二千であった。それも先遣隊九百は後続の上陸を待たずに攻撃を始めてしまった。全て敵兵力を侮った結果である。ミッドウェー敗北以来、制空、制海権は連合国側優勢となり、補給が非常に厳しくなっている。

    八月八日、第一次ソロモン海戦は日本軍の大勝に終わったが、肝心の目的である米軍上陸船団への攻撃は行われず、まだ揚陸されていなかった米軍の重装備なども無傷のまま残った。未熟なパイロットの誤認もあって戦果は誇張されて報告された。二十四日、第二次ソロモン海戦は痛み分けと言えるかもしれないが、日本軍は輸送船団を撃退され貴重な空母一隻を失った。十一月十二日、第三次ソロモン海戦。ガダルカナルへの米軍の補給を断つという最大の目的は、結局実現できないのである。そしてガダルカナルで飢えに瀕している日本軍将兵への補給の道が途絶えた。

    これからおよそ五か月、米軍の圧倒的機械力に対し、日本軍はバンザイ突撃しか対抗手段がなかった。逐次投入された兵力三万四千人の内、戦死八千二百人、戦病死(ほとんどがマラリアと餓死)一万一千人という無残な結果をもたらし、「餓島」と呼ばれた。


    汝が兄はここを墓とし定れば
    はろばろと離れたる国なれど
    妹よ、遠しとは汝は思ふまじ。
    さらば告げむ、この島は海の果て
    極むれば燃ゆべき花も無し
    山青くよみの色、海青くよみの色。
    火を噴けど、しかすがに青褪めし、
    ここにして秘められし憤り。
    のちの世に掘り出なば、汝は知らん、
    あざやかに紅の血のいろを。
    妹よ、汝が兄の胸の血のいろを。(吉田嘉七「妹に告ぐ」『ガダルカナル戦詩集』)


    吉田嘉七曹長は幸運にも無事帰国したので、戦後この詩を発表することができた。

    一方、独ソ戦は八月二十二日に独軍がスターリングラード攻撃を開始したことで新たな局面に入った。この頃からヒトラーの命令は軍事的合理性とは全く逆の、殲滅を目的とするものに変わっていった。ほとんど廃墟と化したスターリングラードを占領する意味は殆どないにも関わらず、それに固執した結果、ソ連軍はドイツの猛攻に堪えることができた。ヒトラーの拙劣な戦術のお蔭であった。やがて十一月には反転攻勢を開始する。

    十一月二十七日、朝日、東京日日、読売の三大新聞に、大政翼賛会及び各紙主催、情報局後援「大東亜戦争一周年/国民決意の標語」入選作十点が掲載された。そのうち最も有名になったのが、「欲しがりません勝つまでは」であった。作者は国民学校五年生の三宅阿幾子とされたが、戦後になって、父親が娘の名前で応募した事実が本人の口から暴露された。

    ミッドウェーの大敗北、ガダルカナルの大苦戦を知らされていない国内では、東条の人気は衰えていない。東条は人心掌握の為、頻繁に市中を視察し、たまたま目撃した警官や役人の国民に対する態度を糾弾するなどしていた。


    十二月八日、陸軍に感謝する会が木挽町の歌舞伎座であって、超満員だった。(中略)

    東条首相は朝から晩まで演説、訪問、街頭慰問をして五、六人分の仕事をしている。その結果、非常に評判がいい。総理大臣の最高任務として、そういうことを国民が要求している証拠だ。(清沢冽『暗黒日記』)


    この頃、山田風太郎(二十二歳)は医専受験を目指しながら、五反田の三畳間のアパートに住み、沖電気で働いていた。沖電気に就職したのは自分の希望ではない。役所に申請すると割り振られるのであり、一度就職すれば勝手に辞めることもできなかった。家賃は十円、沖電気の月給は四十五円だった。真珠湾攻撃から一年、国民の生活は更に逼迫している。配給制度は無責任な官僚制によって全く機能していない。


    十二月十九日

    〇炭がまだ配給にならないので、辛抱できないほど寒い。風邪気味でしきりに咳と洟水が出る。

    物資が不足なのだから、配給制になることは文句は云わない。しかし国家が統制し、切符を発行し、ひと冬に何俵(一人当り二俵)と定めて配給する以上は、この切符を持ってゆくと直ちに配給するくらいの在庫品を有し、その手続きをとらないで、いまの日本の役人の責任が全うされたと言えるであろうか。風邪をひいた余憤ではないが、そんな不服もいいたくなる。もっとも自分が切符を提出したのは十一月下旬であるが、きくところによると、十月分の炭がまだ配給にならぬところもあるそうだ。(山田風太郎『戦中派虫けら日記』)


    十二月三十一日、大本営はガダルカナル撤退を決定する。遅すぎた決定であるが、決定しないより遥かにましであった。日本海軍は、艦艇二十四隻(十二万六千二百四十トン)、飛行機八百九十三機(搭乗員二千三百六十二人)を失った。これで熟練パイロットの大半がなくなったのである。米軍も艦艇二十四隻(十二万六千二百四十トン)を失ったから、双方全力の闘いだったと言って良い。但し日本軍の戦死、戦病死合わせておよそ二万に対し、米軍の戦死者は千五百九十八人、戦病死ゼロと桁が違っていた。飢餓が原因である。

    そして餓死には精神神経症との関連もあった。


    つまり、食糧などの給養の不足、戦闘による心身の疲労など、戦場の過酷さに起因する者ではあるが、ストレスや不安、緊張、恐怖などによって、ホメオスタシスと呼ばれる体内環境の調節機能が変調をきたし、食欲機能が失われて摂食障害を起こすということだろう。最近では、精神科医の野田正彰が、戦争栄養失調症について、「実は兵士は拒食症になっていたのである。食べたものを吐き、さらに下してしまう。壮健でなければならない戦場で、身体が生きることを拒否していた」と・・・・・指摘している。(吉田裕『日本軍兵士』)


    冨田常雄『姿三四郎』、丹羽文雄『海戦』、中野重治『斎藤茂吉ノオト』、ヒトラー『我が闘争』。

    山本嘉次郎監督・円谷英二特撮『ハワイ・マレー沖海戦』、小津安二郎監督『父ありき』、五所平之助監督『新雪』。

    鳴海信輔・四家文子『空の神兵』(梅木三郎作詞、高木東六作曲)、小唄勝太郎『明日はお立ちか』(佐伯孝夫作詞、佐々木俊一作曲)、灰田勝彦『新雪』(佐伯孝夫作詞、佐々木俊一作曲)、高峰三枝子『南の花嫁さん』(藤浦洸作詞、任光作曲)、三原純子『南から南から』(藤浦洸作詞、加賀谷信作曲)。

    高峰秀子『森の水車』(清水みのる作詞、米山正夫作曲)は発売四日で発売禁止になった。「曲調が敵性音楽的」と指摘されたというが、「コトコトコットン、コトコトコットン、ファミレドシドレミファ」が忌避されたのであろう。無学な軍人は、ドレミがイタリア語であることを知らなかったのだと思われる。

    高峰三枝子『南の花嫁さん』と三原純子『南から南から』は南方共栄圏のプロパガンダであるが、一方この時代でも『新雪』の抒情がまだ生きのびている。映画は「大映初のヒット作」と評されたという。


    紫けむる 新雪の
    峰ふり仰ぐ このこころ
    ふもとの丘の 小草をしけば
    草の青さが 身にしみる

    けがれを知らぬ 新雪の
    素肌へ匂う 朝の陽よ
    わかい人生に 幸あれかしと
    祈る瞼に 湧くなみだ

    大地を踏んで がっちりと
    未来に続く 尾根づたい
    新雪光る あの峰こえて
    ゆこうよ元気で 若人よ